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尾形龜之助拾遺詩集 附やぶちゃん注

[やぶちゃん注:底本は思潮社1999年刊「尾形亀之助全集 増補改訂版」を用いた。傍点「ヽ」は下線に代え、初出の年号には底本にはない西暦を附した。一部に私の注を附してある。注でしばしば引用している正津勉氏の「小説尾形亀之助――窮死詩人伝」は、2007年河出書房新社刊。本テクストは底本通り新字であるが、表題の「龜」の字のみ、こだわりで正字としてある。本テクストを本日パソコンを死地より辛くも救助してくれた我が友AB氏に捧げる。【2008年12月23日記】
 「夏の午後を映してゐる或一つの平面的な詩篇」一篇を追加、「煙草と十二月の昼」の注に改稿を付記。【2009年1月17日】
 底本の末尾にある「異稿対照表」により、詩集「雨になる朝」及び「障子のある家」所載の詩の内、の初出形の分かる詩篇17篇を復元、該当時期の位置に追加した。【2009年1月18日】
 「羽子板」「毒薬」に注を追加した。【2009年1月27日】

 

 

 

 拾遺詩 初期19191924

 

 

 

    POWER

 

日向葵草

お前の黄色の花びらは散つた

それからは

お前は首をうなだれた

 

さびしいのか

お前が持つてゐるよ

黒くなりかけたお前の種に

 

いまにわかる

花びらばかりでなく

お前も……

…………

(FUMIE〈踏絵〉第二輯 大正8(1919)年3月発行)

 

[やぶちゃん注:『FUMIE〈踏絵〉』は同年二月に在学していた私立東北学院中学の学友らと創刊した短歌雑誌である。時に尾形亀之助十八歳、これは現存する彼の最初期の詩作品ということになる。但し、秋元潔1979年冬樹社刊の「評伝 尾形亀之助」によれば、底本でのこの詩の作者は「ジイノオブ」とあり、このペンネームが尾形亀之助のものであるという実証は成されていないが、『たぶん亀之助の筆名なのだろう』とされている(最初の同定者としては藤一也・村主さだ子氏両名の名を掲げている)。それに続いて、氏は同誌掲載の短歌三首を掲載し、その中に「しのぶ優たろ」なる歌人がいるが、『しのぶの濁音はじのぶ、少し訛るとじぃのぉぶ=ジイノオブである』として、ジイノオブとしのぶ優たろは同一人物ではないか、なれば、『ジイノオブが尾形亀之助ならば、しのぶ優たろは尾形亀之助になる』と記されている。参考までにその短歌三首を以下に掲げる。
ああ戀の惡人のいとしき物語り戀の惡人の悲しき物語り
我が戀ふと君は知らずともああ我は君を慕ひて泣かまし泣かまし
ほこりもすてて從順に君が前にわがやるせない戀をひざまづかん
以下、この「しのぶ優たろ」のペンネームは、この人物が関係を持った当時の仙台の娼妓の源氏名であろうとし、実在のモデル候補五人をマニアックに追跡されてもいる。ただ、この恋の歌の直情性は亀之助らしからぬ、しかしこういう歌を彼が作らなかったとも言えぬと続け、『しのぶ優たろは亀之助でないのかもしれない』、この二つのペンネームのことは『踏絵をめぐる謎として留保しておく』とあるのである。しかし、秋元氏は底本全集の一人編者でもあるのであるが、ご覧のように詩「POWER」は本文に掲げながら、この短歌三首は全集に所載していない(拾遺や解説にも記載なし)。私は秋元氏の興味深い推理を面白く思うし、この短歌の作者が亀之助である可能性を大いに感ずる者でもあるので、暫く注として掲げておきたい。「日向葵」はママ。

 

 

 

    若いふたりもの

 

私達は

  ×

二人が

夫婦であることをたまらないほどうれしく思つてゐる

  ×

妻は私が大切で

私は妻が大切で

二人は

いつまでもいつまでも仲が良い

  ×

私はいつもへたな画をかくが

私も妻も

近い中に良い画がかけると思つてゐる

私達の仕事は楽しい

  ×

二人は

まだ若いからなかなか死なない

  ×

その中に

可愛いい子が生れる

  ×

私達二人は

良い父と

良い母とになる

(玄土第三巻第四号 大正111922)年4月発行)

 

[やぶちゃん注:尾形亀之助はこの前年、大正101921)年5月に福島県伊達郡保原町の開業医の長女森タケ(18歳)と結婚している。この大正111922)年1月には仙台からタケを伴い上京し本郷白山上に転居。日本未来派美術協会会員となり(前年十月の第二回未来派美術協会展で既に会友とはなっていた)、同協会の第三回展の準備運営に当っていた。本詩以降の三篇はそうした密月の最後の名残のように思われる(特にこれと次の詩篇は亀之助らしからぬ優良児的健康さを帯びている)。しかし、この詩の発表直後の五月に早くもタケと不和となり、家出するように旅に出ている。長女泉は大正131924)年4月の、長男猟は大正151926)年12月の誕生であり、その間、吉行あぐりへの恋慕といった女性関係が生じ、タケとは昭和3(1928)年3月別居、同年5月に協議離婚している。僅か7年の結婚生活であった。そして7箇月後の同年十二月には11歳年下の芳本優(17歳)と同棲を始めている。]

 

 

 

    春のある日

 

久久で

妻を病院に見舞つた

妻は笑つてゐた

先よりも少しふとつてきれいになつてゐた

私はうれしく思つた

自分の来たことを妻はよろこんでゐるのだが

  ×

病室は

薬くさくも

病人臭くもなく

あけた窓からさし込んでいる陽が

室も人も

みな消毒してしまつたように

さつぱりとおちつてゐた

(玄土第三巻第四号 大正111922)年4月発行)

 

[やぶちゃん注:「みな消毒してしまつたように」の「ように」はママ。]

 

 

 

    死

 

午前二時

私は眼が覚めた

 

戸を開けて病院の方を見た

 

私に飛びかゝりそうないやな暗みだ

 

雨が降つてゐる

 

今夜中そばにゐて下れと云つた

 

 

妻が死にかゝつてゐるようである

 

私の前のふすまを開けて妻が入つて来そうだ

 

そんなことがあれば妻は死んでゐるのだ

(玄土第三巻第五号 大正111922)年5月発行)

 

[注:初連を除く行の有意な行空けはママ(底本とした全集では、この初連の二行の間は実は改頁であるが、版組を見る限り、繋がっているとしか思われない。次に示す「題のない詩」では五連の内、最初の四連が一行で最終連が詰まった二行となっている)。「飛びかゝりそうな」・「暗み」(くらやみ)・「下れ」(くれ)・「ようである」・「来そうだ」も総てママ。]

 

 

 

題のない詩

 

私は詩をさがしに出かける

 

乳色の大きいくぼみ

 

7―

 

暗がふくれた

 

影が少しづれて

私は立ちどまつた

(玄土第三巻第八号 大正111022)年8月発行)

 

 

 

    一本のやぐるま草

 

ガラスびんに

細い、よわい、ながい、

青いくき

うすい色の花

 

赤ん坊のような

一本のやぐるま草

(玄土第三巻第八号 大正111922)年8月発行)

 

 

 

    無題

 

 

電柱と

尖つた屋根

 

灰色の家

 

 

新しいむぎわら帽子と

石の上に座るこじき

 

たそがれ時の

赤い火事

 

大きい眼で

私はそこから詩をぬすんだ

(玄土第三巻第八号 大正111922)年8月発行)    

 

[やぶちゃん注:底本には標題の下に『〔「小石川の風景詩」異稿〕』とある。これは大正141925)年11月発行の第一詩集『色ガラスの街』の「小石川風景詩」を指す。そこでは

 

      小石川の風景詩

  空

 

  電柱と

  尖つた屋根と

 

  灰色の家

 

  路

 

  新しいむぎわら帽子と

  石の上に座る乞食

 

  たそがれどきの

  赤い火事

 

となり、表記以外に最終連が完全に削除されるという大胆な変更が加えられている。]

 

 

 

   昼

 

 

ちんたいした

ひるの部屋

 

天井が低い

 

おれは

ねころんで

蠅を捕まいた

(玄土第三巻第九号 大正111922)年9月発行)

 

[やぶちゃん注:「捕まいた」は「捕(つら)まいた」と読むのであろう。

 底本には標題の下に『〔「昼」異稿〕』とある。これは大正141925)年11月発行の第一詩集『色ガラスの街』の「昼」を指す。そこでは

 

      昼

 

  昼の雨

 

  ちんたいした部屋

  天井が低い

 

  おれは

  ねころんで蠅をつかまへた

 

とある。内在律とシークエンス数が無駄なく切り詰められている。]

 

 

 

    さびしい路

 

白い路

 

お前は

両側を短いほこりだらけの雑草狹さまれ

むくむくと

白い頭を寂しそうにもち上げてゐる

 

お前は

だらだらとただせばまつてゆくばかりだ

 

そして

雑草の原つぱの中に

潜つてゆくようになくなつてしもふ

 

お前のものとしてあるのは

よほど永く病んだ女が

遠くの方で

窓から首を出してゐる。

(玄土第三巻第十号 大正111922)年10月発行)

 

[やぶちゃん注:「狹さまれ」は「挟さまれ」の誤字である(以下「白い路」参照)。「寂しそうに」「潜つてゆくように」「しもふ」はママ。

 底本には標題の下に『〔「白い路」異稿〕』とある。これは大正141925)年11月発行の第一詩集『色ガラスの街』の「白い路」を指す。そこでは

 

      白い路

          (或る久しく病める女のために私はうつむきに歩いてゐる)

 

  両側を埃だらけの雑草に挟さまれて

  むくむくと白い頭をさびしさうにあげて

  原つぱに潜ぐるやうになくなつてゐる路

 

  今 お前のものとして残つてゐるのは

  よほど永く病んだ女が

  遠くの方で窓から首を出してゐる

 

とある。前篇以上に、内在律とシークエンス数が極限にまで切り詰められている印象が強烈である。白い路と女の異様に白く細い首が美事にクロース・アップしてくるのである。]

 

 

 

    初秋

 

昼が少し労れたような

黄ばんだ午後

 

わづかばかり見える

隣の屋根の上を

斜めに電線が通つてゐる

 

ぐつたり垂れしぼんだ

ほうせんくわの横から

 

むりに入りこんだような陽が

手水鉢を半分に破つてゐる             (一九二二、九、三)

(玄土第三巻第十号 大正111922)年10月発行)

 

[やぶちゃん注:二箇所の「ような」はママ。]

 

 

 

    カフエーの一ところ

 

カフエーのすみに

何時も忘れられてゐるような白いテーブルと椅子がある

 

どんなに人がこんでも

そのテーブルはいつも空いてゐた

 

今度いつたらそこに座つてみようと思ひながら

ついぞ座つたことがない

淋しい みたされることのないようなテーブルだ

 

久しく人のけに接しない

全たく人と交渉のない

影のようなテーブルだ

 

白い しかしそこばかりは

うす暗い壁について

いつも黙りこんでゐる。

(玄土第三巻第十号 大正111922)年10月発行)

 

[やぶちゃん注:二箇所の「ような」はママ。]

 

 

 

    嵐のおばさん

 

ま黒に曇つた空から

嵐のおばさんがすたすた息を切らして

このまちに入つて来た

 

黒い短い腰巻が

びつしよりぬれてひらひらと風に吹かれ

男のようなばあさんのももにからまりついてゐる

赤髪をぼさぼさたばねた

やせ顔の気狂ひばあさんだ

 

あごを突き出し斜に空を見ながら

少しばかり腰をまげて

とりとめもないことを口走る

 

すぐ

あとからのひつそりとした

お寺臭いたそがれに押されて

そそくさと行つてしもふ

けもののようなばあさんだ

 

嵐のあとだ

(一九二二、八)

(玄土第三巻第十二号 大正111922)年12月発行)

 

[やぶちゃん注:「ような」「しもふ」はママ。]

 

 

 

    手

 

俺に二本の足がはえ

ずるずるのびた

頭が大きくふくらんだ

俺はだんだんおとなになつた

 

二本の手は

顔をなでたり頭をかいたり

眼をこすつたりする

 

のみたくもない煙草を口にもつてゆくのも

この手だ

 

よく考へると

実際うるさい手だ

ぶきみにわかれた

五本の指

 

よく見ると

俺の手はきびがわるい

(詩人四月号 大正121923)年4月発行)

 

 

 

    颶風の日

 

或る一日

なまぬるい颶風が吹いて来た

とぼけたやうき

 

がたがた

吹き込んだ風が

ずいぶんたくさんあるすき間から

部屋の中へ流れ込む

 

がたがた

朝から吹きどほしだ

 

夕暮

夕暮

 

遠くの細い煙突の所に

馬鹿のやうな太陽が沈もうとしている

(詩人四月号 大正121923)年4月発行) 

 

[やぶちゃん注:「颶風」は音読みすると「グフウ」で、大きなつむじ風以外に台風、更に気象用語として最大級の暴風の旧称でもあった。ここで尾形がどう読んでいるかは確定が難しいが、「ぐふう」は如何にも生硬である。「たいふう」では時機はずれである。「つむじかぜ」だと第一連の「なまぬるい颶風」や次行の「とぼけた」陽気だという表現と微妙に齟齬を感じる。第一、音律がとぼけてしまう気がする。「つむじ風」は別に「はやて」とも言う。私は「颶風(はやて)」と読んでみたいが、或る私の友人は「グフウ」がいいという。さてあなたは、如何?

 「している」はママ。

 底本には標題の下に『〔「五月」異稿〕』とある。これは大正141925)年11月発行の第一詩集『色ガラスの街』の「五月」を指す。そこでは

 

      五月

 

  或る夕暮

  なまぬるい風が吹いて来た

 

  そして

  部屋の中へまでなまぬるい風が流れこんできた

 

  太陽が ―― 馬鹿のような太陽が流れこんできた

  遠くの煙突の所に沈みかけてゐた

 

とある。説明的な総天然色の異稿に対して、定稿は高速度撮影によるモノクロのシャープなイマージュとなっている。]

 

 

 

    酒場から

 

四角の

せまい白い天井から垂れ下がつた燈の下で

ポケツトのほころびにまで

酒の香をしみこませ

皆んなは酔つてゐるのだ

 

そして

そこが自分の家庭であるかのように

テーブル、椅子、カツプや

しやじにまでなつかしみを感じ

 

黄色の服の男がぼやけ

体の中の血球がふくれ上つても

時計が労れて動けなくなつてゐる

たやすくは立ちあがらうともしない

 

すべてが密閉された部屋の中で

やさいや魚と一緒に腐つてしまつた

ダイ/\色の酔つぱらいだつた。

(上州新報 大正131924)年1月1日発行)

 

[やぶちゃん注:何故、ここで「上州新報」への寄稿なのかは不学にして不明。]

 

 

 

    俺

 

俺は長い間ちつとも晴ればれしい気もちになつたことがない

 

そうじのされない押入れのすみのように

心はごみやほこりにまみれてゐる

 

いかによく晴れわたつた朝でも

墓場のように湿け

古新聞のようにふるぼけてゐる

(詩集左翼戦線 大正十二年版 大正131924)年6月発行)

 

[やぶちゃん注:この前年7月、亀之助は村山知義・柳瀬正夢(やなせまさむ)・大浦周蔵・ワルワーラ・ブブノワВарвара Дъмитриевна БубноваVarvara Dmitrievna Bubnova:ロシア人女流画家)という錚々たる面々と共に未来派の集団「マヴォ MAVO」を結成している。「MAVO」とは川路柳虹「現代日本の美術界14」(大正14(1925)年5月発行『中央美術』)によれば『マヴォ(MAVO)といふ名は会員の頭文字を描きとつて作つた偶然の名前である差于だが……Vの字があるのは露西亜人ヴヴノヴァが加はつたためださうである』(正津勉「小説尾形亀之助」より孫引き)とする(一説にはMは村山のMAは柳瀬正夢の母音、Oは大浦と尾形を指すとする)。しかし、この虚無感は何だ。正津氏はそれを、まさにこの錚々たる才人たちの中にあって早くも自己の画才を見限っていたのではないかとするのだが……実際、思潮社版全集の年譜によれば既にこの大正13年1月の欄には『マヴォと疎遠になり、絵画活動を休止。』とあるのだが……やはり正津によれば、画家としての彼の、現存する油彩は大正12(1923)年作「化粧」(宮城県近代美術館に寄託)たった一枚しかないという――。

 この詩の載る「詩集左翼戦線」という、穏やかならざるプロ文詩集風のものは、当時の詩壇の中心集団であった『詩話会』から出版された「日本詩集」に対抗して、尾形が秋山登らと結成した新進詩人グループ集団『日本詩人協会』が刊行したアンソロジーである。尾形亀之助自身、共編者である。]

 

 

 

    酒場

 

俺は酔つてゐて

盃のふちのまはりを踊り狂ふ

やせた黒いかげを見てゐる

 

黒いかげは

いくつもいくつも

俺のこはばつた顏にねばりつき

たわいもない俺の顏を見てゐる

 

部屋の隅ずみは暗く

大きな時計を思ひつめ

夜明けのカフエーに一人ゐてさびしい

(詩集左翼戦線 大正十二年版 大正131924)年6月発行)

 

 

 

    無題

 

枯草は赤く枯れて

上はくろずんでゐた

 

俺は心細いさむさを感じてゐた

 

夕方は地べたが空の上へ上つてゆくのだ

 

暗くなつて燈がともれば

俺のこころにも細々した燈がともり

やみの中にめ入つてゆく

 

なまぬるい酒を口にふくんで

眼をつぶる

 

ああ

何処かしら遠いところで

俺のこころは温められてゐる

(詩集左翼戦線 大正十二年版 大正131924)年6月発行)

 

 

 

 拾遺詩 中期19261928

 

 

 

    春

 

何のれん想であつたのか

朝になつてみると

「卵のやうな宝石」といふことだけが残つてゐて――

あとは思ひ出せなかつた

 

起きそびれて

一日寝床で過ごすやうなことの多い

この頃

私は昼眠つてゐることがある

 

  春になつた 私は春に深い友情を感ずる。

  いつの頃からとなく春になると私は心よくなまけてゐる。

                         一九二六・三

(近代詩歌第二巻第五号 大正151926)年5月発行)

 

[やぶちゃん注:「れん想」はママ。]

 

 

 

    七月

 

赤い日傘が近づくと

空いつぱいになつてしまつた

 

おくさん!

それをくるくるまわして見せてくれないか

(銅鑼7月号 大正151926)年8月発行)

 

[やぶちゃん注:尾形亀之助は、これと次の「蛙が鳴くので月の出がおそい」の二作品の発表をもって「銅鑼」同人となった。詩誌「銅鑼」は、中国広東省広州嶺南大学留学中の草野心平(当時21歳、同大学4年)が大正141925)年4月に学友の黄瀛(こうえい:本邦でも知られ、後に中国でも著名な詩人となった)ら5名で発刊した同人雑誌(但し、同年6月には現地の排日運動激化により心平は帰国している)。その後、国内で本格的な詩誌として再始動、高橋新吉・宮沢賢治・八木重吉・三好十郎等、錚々たるメンバーを擁した。本7号では尾形の他に土方定一・小野十三郎らが参加している。昭和31928)年6月の16号で終刊。]

 

 

    蛙が鳴くので月の出がおそい

 

泉(い)子ちやんはもうねんねなの

小ちやい手だな

 

蛙がやかましく鳴いてゐる

 

    ×

 

窓を閉めて

カーテンをおろしてゐて

月の出を待つてゐると言へないが

さびしく

煙草に火をつけて座つてゐる

(銅鑼7号 大正151926)年8月発行)

 

[やぶちゃん注:「泉(い)子ちやん」は妻タケとの間に出来た尾形亀之助の第一子である長女、泉。大正131924)年4月16日生。]

 

 

 

    愚かしき月日

 

夕方になつてみても

自分は一度飯に立つたきりでそのまゝ机によりかゝつて煙草をのんでゐたのだ。

 

そして 今

机の下の蚊やりにうつかり足を触れて

しんから腹を立てて夜飯を食べずに寝床に入つてしまつた

 

何もそんない腹を立てるわけもないのに

こらえられない腹立しさはどうだ

まだ暮れきらない外のうす明りを睨んで

ごはんです――と妻がよぶのにも返事をしないでむつとして自分を投げ出してゐる態は……

俺は

「この男がいやになつた」と云つて自分から離れてしまいたい

(太平洋詩人第一巻第三号 大正151926)年9月発行)

 

 

 

    馬鹿息子

 

私に顔がない

 

   ×

 

「鉛筆を探してゐるのなら、それはあなたの耳にはさまつてゐます」といふやうなことを言はれるのはいやだ。「私に顔がないが――」と言ってやりたい。

(〈亜〉24号 大正151926)年10月発行)

 

 

 

    愚かな秋

 

秋空が晴れ

今日は何か――といふ気もゆるんで

縁側に寝そべつてゐる

 

眼を細くしてゐると

空に顔が写る

「おい、起ろよ」

空は見えなくなるまで高くなつちまへ!

(〈亜〉24号 大正151926)年10月発行)

 

[やぶちゃん注:本篇は、後の昭和4(1929)年5月誠志堂書店刊の第二詩集「雨になる朝」に所収される際、「愚かな秋」と改題した上、以下のように改稿されている。

    愚かなる秋

秋空が晴れて

縁側に寝そべつてゐる

 

眼を細くしてゐる

 

空は見えなくなるまで高くなつてしまへ

尾形亀之助の詩には、自身の子供たちという例外以外、肉身の他者が不在の、単独者である。従ってそこでは呼びかけとしての直接話法は原則的に馴染まない。この初稿の『「おい、起ろよ」』は空の移った顔の台詞とも、詩人自身のモノローグととることも可能であるが、それは如何にも解読的で空しく異質である。「空に顔が写る」という詩的イメージ自体は私は嫌いではないが、分からないから説明せよと言われると私も困るような表現と言ってもいいか。全体に初稿は弛んでしまって、且つ、それがパート・パートで歪んで不定形な固まりになってしまい、詩想の流れが淀んでしまっているように感じられる。]

 

 

 

    西風

 

西風が吹いて窓をたたくので

書斎はさんざんにやられてゐる

 

私は冷めたい足をふところに入れて温めたくなつた

(〈亜〉25号 大正151926)年11月発行)

 

 

 

    さびしい夕焼の饗応

 

僕は君に何の饗応もないのですつかり困つてゐる

 

僕がさつきから口をつむつてしまつたのはそのためだ

部屋にこもつた煙草の煙を君が嚙んでゐるやうに見える

 

夕陽が落ちるのを待つて僕達は其処へ出かけやう

そうすれば君も煙草ばかり吸つて黙り込んでゐるのをやめて

 

「大変なご馳走だ――」と君は驚きながらそれを喰べるだらう

 

僕は君の喰べるのを見てゐるだけでいい

(〈亜〉25号 大正151926)年11月発行)

 

[やぶちゃん注:「そうすれば君も」の「そう」はママ。この詩からはやや分かりにくいが正津勉氏の「小説尾形亀之助――窮死詩人伝」によれば、この饗応の相手とは吉行エイスケ夫人あぐりで、この舞台はエイスケの経営する東中野のバーでのイメージであるとする。確かに言われてみると、このオーギイを貪る相手は女であり、尾形のそれは肉欲の視線である。]

 

 

 

    出してみたい手紙(1)

 

あ…な…た…の…な…ま…け…も…の

あ…な…た…と…私…の…な…ま…け…も…の

あなたは今日私へ手紙を出して呉れましたか

(〈亜〉25号 大正151926)年11月発行)

 

[やぶちゃん注:妻子持ちでありながら、止み難い思いに囚われた尾形亀之助、その愁人――この「恋愛」の相手は、正津勉の「小説尾形亀之助」によれば、――当時親交のあった作家吉行エイスケの経営するバー「あざみ」で知り合い、耽溺して行った女――何とエイスケの妻、吉行あぐり、であったとする。]

 

 

 

    出してみたい手紙(2) (雨の日の風呂の中の鼻歌)

 

君は僕と馬車の乗つて旅行に出てみやうと思はないか。

君さへその気なら僕は黒塗りの馬車と馬を買はふ。

パンのかけらや半熟卵のからで馬車の中が散らかつてゐるのを

僕達は笑つてお互の顔をのぞいてゐると馬車が急に速くなつたりするのさ。

 

そして

君はうすでのわりに短いスカートに毛の靴下をはいて

 

ねずみの天鵞絨の上着には金茶の絹レースで士官の服のやうなぬいをしてゐる。

僕は粗まつな服を着てゐやう。

夜は眠つたり眼がさめたりランプのやうな燈りでりんごを食べたりしやう。

街へ入つたら半分だけカアテンを下して馬をゆつくり歩かせて

こいコーヒを飲ます店を探したり手まねでチヨコレートを買つたりしやう。

君さへその気なら僕は君のケライになつて出かけやう。

君はうすでのわりに短いスカートに毛の靴下をはいて。

(〈亜〉25号 大正151926)年11月発行)

 

[やぶちゃん注:前注参照。]

 

 

 

    九月の半日

 

半日がながい

 

すつかり煙草にたよりきつてゐるやうな自分に気がつくと

私はさみしくなつてくわいてゐた煙草を捨てた

        ×    ×    ×

五つも六つも手ごろの石をポケツトに入れてゐて

思い出しては嚙みくだき口にふくんで青やうす肉色の味をすゝりたい

 

電車に轢きくづされた小石が美しい色をして葡萄のやうにこぼれてゐる

――それを急いで一口にすゝつて其処を立ち去れば私は決してこう不幸ではない 不幸ではない

(太平洋詩人第一巻第四号 大正151926)年12月発行)

 

[やぶちゃん注:「くわいてゐた」はママ。]

 

 

 

    顔がない

 

 なでてみたときはたしかに無かつた。といふやうなことが不意にありさうな気がする。

 夜、部屋を出るときなど電燈をパチンと消したときに、瞬間自分に顔のなくなつてゐる感じをうける。

 この頃私は昼さうした自分の顔が無くなる予感をしばしばうける。いゝことではないと思つてゐながらそんなとき私は息をころしてそれを待つてゐる。

(銅鑼8号 大正151926)年月不明)

 

 

 

    大人さへ子供じみる

 

正十二時の食卓に坐るのは子供に限る

大人はちよつと後にして下さい

(銅鑼8号 大正151926)年月不明)

 

 

 

    初秋

 

馬はさみしい

 

 

馬が大きいからだをしてゐるだけに私の眼についてしかたがない

それには犬を大きくして馬に換へるのが一番よいのではなからうか

 

(銅鑼8号 大正151926)年月不明)

 

 

 

    夜店

 

ぱつと電燈を一つつるして一軒の店がある

 

電燈を一つづつつるして店がいくつも列んでゐる

 

どの店にもたつた一つの窓もない

(銅鑼8号 大正151926)年月不明)

 

 

 

    PAPAとその娘

 

娘が蠟シンコを達磨の白いせと型につめてはピンでぬいて遊んでゐる

「PA・PA ちゆめて」

PA・PA は白いのをせと型にぎつしりつめて娘に渡した。

「PA・PA 白いから取れない」

PA・PA は白の上の白を取れないと言つた娘に、

この娘が生れて初めての敬意を表した。

娘よ! PA・PA はお前をためしたのではない。

偶然であつたのだ。

(銅鑼8号 大正151926)年月不明)

 

[やぶちゃん注:「白いせと型」は白色の瀬戸物で出来た抜き型のことを言っているのであろう。] 

 

 

 

    火鉢のある部屋

 

毛布に膝をつつんで

天井から部屋のまん中に垂れさがつてゐる電燈の前に坐つてゐるので

 

夜が部屋にすれすれ凝つてゐるやうな気がする

 

煙草の煙はゆらゆらしてゐる

私の膝はやはらかい

大きな声さへ出さなければ何時まで起きてゐても誰も叱りはしないだらう

(〈亜〉26号 大正151926)年12月発行)

 

[やぶちゃん注:「凝つてゐるやうな」は「凝(こほ)つてゐるやうな」と読むものと思われる。]

 

 

 

    雨降る夜

 

一日降りとほしの夜だ

 

火鉢の粉炭のイルミネーシヨンが美しくともつてゐる

(〈亜〉26号 大正151926)年12月発行)

 

 

 

    蜜柑

 

美しい少年の頭の上へうまさうな蜜柑を一つのせて部屋の中を歩かせろ。

そして、少年の頭の蜜柑の香のしみたところを力いつぱい指で弾け。

少年がぶつとおこつて部屋を出てゆけばそれでいいのだ。

畳にころげてる蜜柑を拾つてきれいにむいて夕刊を見ながら喰べるのだ。

(〈亜〉26号 大正151926)年12月発行)

 

 

 

    青柿の秋

 

        隣りから来てゐる枝から青柿一つ盗む秋晴れ。

        柿渋く空青く、下駄をかなぐり捨てて縁にのぼる。

 

飲んだ払ひが月末にこんなになつてゐた

175円」

私は子供の頃

999999………」と書きならべて「円」をつけた

ことを覚えてゐる そして

9999……」に「一」をたすと「10000……」となる異様な変化に驚きもし何んとも言へない不足さへ感じて

989898」とした苦心はどうだ

 

この「1・2・3」の組合せ玩具奴

そんなことは嘘だろ

(詩文学創刊号 大正151926)年12月発行)

 

[やぶちゃん注:題名の後のエピグラフは底本では、改行をせず、連続して書かれていて全体が八字下げであるが、ブラウザの関係上、改行して二行とした。]

 

 

 

    幼年

 

夜あけに床の中でハモニカを吹きだした

子よ

可愛いさうにそんなに夜がながかつたか

ブーブー ハモニカを吹くがよい

お前のお菓子のやうな一日がもうそこまで来てゐるのだ

(銅鑼9号 大正151926)年12月発行)

 

 

 

    泣いてゐる秋

 

蒲団のほしてある縁側に寝ころんでゐる秋晴れ

あくびをして部屋に入つたのを誰も見てはゐなかつたか

俺は空を見てゐてかつてに空が晴れてゐると思つたのだ

まつたく何のことだか知れたものではない三十年といふ年月よ

(銅鑼9号 大正151926)年12月発行)

 

 

 

    街風

 

雨の夜はいつもながら明るく賑ひ

僕も交つて歩いてゐる

(銅鑼9号 大正151926)年12月発行)

 

 

 

    月夜の電車

 

私が電車を待つ間

プラツトホームで三日月を見てゐると

急にすべり込んで来た電車は

月から帰りの客を降して行つた

(銅鑼9号 大正151926)年12月発行)

 

 

 

    煙突と十二月の昼

 

演習帰りの飛行船が低くかつたが

 

風呂屋の煙突は捕ひやうともしないで立つてゐた

(〈亜〉27号 昭和2(1927)年1月発行)

 

[やぶちゃん注:「捕ひやうともしないで」の「捕ひ」はママ。読みは「つらまひ」か「つかまひ」はたまた「とらひ」か? 本篇は後の昭和4(1929)年5月誠志堂書店刊の第二詩集「雨になる朝」に所収される際、以下のように改稿されている。

    十二月の昼

飛行船が低い

湯屋の煙突は動かない

ここで「飛行船」は飛行機ではなく、文字通りの飛行船であると考えたい。第一次大戦後、飛行機の急速な実用化に伴い、軍用飛行船の利用価値は著しく低下したが、日本でも一部は陸軍で運用されていた。何よりここは映像として飛行船でないと風呂屋の煙突が捕捉するというシチュエーションとしくりこないように私には思われるのである。]

 

 

 

    蜜柑

 

蜜柑がすつぱいので

蒲団の中へ手を入れてしまつた

 

あごをうづめて体をかたくすると寒い

 

眼をあけておとなしくしてゐると

あまやかしさいつぱいになった

 

(手を出すと冷めたいぞ)

泣くと蒲団の掛ゑりがしよつぱくなるのだ

 

蒲団の中で 私は

何時までも親父に叱られてゐる子供になつてゐた

(〈亜〉27号 昭和2(1927)年1月発行)

 

[やぶちゃん注:「あまやかしさいつぱいになった」の「あまやかしさ」及び「なった」の拗音はママ。]

 

 

 

    美しい街

 

街よ

私はお前が好きなのだ

お前と口ひとつきかなかつたやうなもの足りなさを感じて帰るのは実にいやなのだ

妙に街に居にくくなつていそいで電車に飛び乗るやうなことは堪へられなくさびしい

街よ

私はお前の電燈の花が一つ欲しい

(〈亜〉27号 昭和2(1927)年1月発行)

 

 

 

    眠つてゐるうちに夜になつた

 

夕陽は眠つたまま盗まれて行つた

山は黒く霞んでしまひ雲は犬のはんてんとなつて

暗い空には忘れてゐるやうに灯がともらない

 

(〈亜〉27号 昭和2(1927)年1月号)

 

 

 

    羽子板

 

 黒足袋の男の子が新しい下駄をはいて女の子と追ひ羽子をしてゐる。

(〈亜〉27号 昭和2(1927)年1月発行)

 

[やぶちゃん注:本篇は、雑誌『亜』の「体温表」という競作欄のに掲載されたもので、題詠と考えてよい。北川冬彦氏と同題二作(もう一つは次の「毒薬」)の競作であった。以下にその底本を引用する(但し、冬樹社1979年刊秋元潔「評伝 尾形龜之助」からの孫引き)。

●體温表3

    羽子板          北川冬彦

 少年よ。
 天鵞絨のあの柄のところを舐めるときが復きたね。

    羽子板          尾形龜之助

 黑足袋の男の子が新しい下駄をはいて女の子と追ひ羽子をしていゐる。

本件については、秋元氏の解明のキーとなった梶井基次郎書簡と共にブログに記載をした。]

 

 

 

    毒薬

 

 私は毒薬の夢を見たことがある。覚えてゐるのは小さな罎に入つてゐる毒薬を握つてゐるうちになくして、すつかり困つてしまつたのだつた。

 手にめりこんでしまつたのではないかといふ心配で、青くなつてゐるのであつたらしい。

  ×

 私は毒薬は見たことがない。(これは飲んだことがないといふ意味かも知れない)食卓の茶わんの底に水が拭きのこされてゐるのを、毒薬のやうな気味のわるさを感じる。

(〈亜〉27号 昭和2(1927)年1月発行)

 

[やぶちゃん注:本篇は、雑誌『亜』の「体温表」という競作欄に掲載されたもので、題詠と考えてよい。北川冬彦氏と同題二作(もう一つは前の「羽子板」)の競作であった。以下にその底本を引用する(但し、冬樹社1979年刊秋元潔「評伝 尾形龜之助」からの孫引き)。

    毒藥           北川冬彦

 何とかして手に入れたいものだ。

    毒藥           尾形龜之助

 私は毒藥の夢を見たことがある。覺えてゐるのは小さな罎に入つてゐる毒藥を握つてゐるうちになくして、すつかり困つてしまつたのだつた。
 手にめりこんでしまつたのではないかといふ心配で、青くなつてゐるのであつたらしい。
  ×
 私は毒藥は見たことがない。(これは飲んだことがないといふ意味かも知れない)食卓の茶わんの底に水が拭きのこされてゐるのを、毒藥のやうな氣味のわるさを感じる。

本件については、秋元氏の解明のキーとなった梶井基次郎書簡と共にブログに記載をした。

 

 

 

    ガラス窓の部屋

 

夢を見てゐるやうあな一日だ

 

朝から部屋に陽がさしこんでゐた

雲もないし風の音も聞かなかつた

茫つとして夕方になつた

 

夕方になつて

私は部屋の中に魚を泳がしてみたくなつてしまつた

一日中しめきつてゐた埃ぽいガラス窓の外は

くるくる落日が大きいたんぽぽを咲かせてゐる

(詩神第三巻第一号 昭和2(1927)年1月発行)

 

 

 

    十二月

 

寒くなるとたくあんが塩からくなる

 

夢のやうな昨日の食卓に

たくあんが塩からくなつてゐる

(詩神第三巻第一号 昭和2(1927)年1月発行)

 

 

 

    昼は街が大きすぎる

 

私は足を見た

自分の足が靴をはいて歩いてゐるのを見た

そして これは足が小さすぎると思つた

電車位に大きくなければ醜いやうな気がした

(詩神 昭和2(1927)年1月発行)

 

[やぶちゃん注:本篇は、後の昭和4(1929)年5月誠志堂書店刊の第二詩集「雨になる朝」に所収される際、「昼の街は大きすぎる」と改題した上、以下のように改稿されている。

    昼の街は大きすぎる

私は歩いてゐる自分の足の小さすぎるのに気がついた

電車位の大きさがなければ醜いのであつた

初稿では、如何にも説明的な言辞選択と表現を繋げてしまった結果、地上から視線が殆んど上がらずに、電車位の巨大な足を持った巨人を見上げていない。]

 

 

 

    夜がさみしい

 

眠れないので夜が更ける

私は電燈をつけたまま赤い毛布をかけた

仰向けになつて寝床に入つてゐる

 

電車の音が遠くから聞えてくると

急に夜が糸のやうに細長くなつてその端を

電車にゆはへつけてゐるやうな気がする

(詩神 昭和2(1927)年1月発行)

 

[やぶちゃん注:本篇は、後の昭和4(1929)年5月誠志堂書店刊の第二詩集「雨になる朝」に所収される際、以下のように改稿されている。

    夜がさみしい

眠れないので夜が更ける

 

私は電燈をつけたまゝ仰向けになつて寝床に入つてゐる

電車の音が遠くから聞えてくると急に夜が糸のやうに細長くなつて

その端に電車がゆはへついてゐる

決定稿の終行の「ゆはへ」はママ。糸のように細くなった夜を主体的に描く時、その螺旋しつつ生き物のように伸びてゆく夜、その端に電車は結び付けられていなくてはならない。それが「その端を」という格助詞「を」では、端を電車に結び付けている逆ベクトルのイメージとなって連続性が失われることに気づいた亀之助が、書き直した際に歴史的仮名遣いを誤ったか。ちなみに「異稿対照表」では更に「ゆはへついている」とあるのである。]

 

 

 

    花 (仮題)

 

電灯が花になる空想は

一生私から消えないだらう

(近代風景一月号 昭和2(1927)年1月発行)

 

 

 

    曇天の停車場

 

停車場のホームに

赤い帽子の駅長さんが

ちやんと歩いてゐる

 

天気が悪いから

今日は汽車の速力を五哩ぐらひにして

旅客にゆつくり窓の景色を見てもらはふと

駅長サンは考へてゐる

(近代風景一月号 昭和2(1927)年1月発行)

 

[やぶちゃん注:「五哩(マイル)」と読む。一マイルは約1.6㎞で、ここは時速であろうから、大変な鈍足である。]

 

 

 

    十一月の午後

 

窓をあけたので

部屋の中に風が吹き初めた

私は窓に花と鳥を飾らう

 

そして

やはらかい寝椅子を買つて来てパインアツプルの鑵を切らうよ

 

きらきらする陽も窓から入れて

私は青い空を見て一人で午後を部屋の中にゐる

 

[やぶちゃん注:本篇は底本の「補遺」という項に所収されており、底本クレジットもない。底本(1999年版)の元版である思潮社の1970年版「尾形亀之助全集」以降に発見された作品。次に記されている「昼の花」と同じであれば詩誌『京都詩人』(第二巻第一号・昭和2(1927)年1月発行)に所収するものとなるが、解説もなく不明。暫くそのように判断して、ここに置いておく。]

 

 

 

    昼の花

 

子供の眠つてゐる静かな昼だ

 

天気がいゝので

ガラス戸がすつかり大きくなつてゐる

(京都詩人第二巻第一号 昭和2(1927)年1月発行)

 

[やぶちゃん注:本篇は底本の「補遺」という項に所収されている。底本(1999年版)の元版である思潮社の1970年版「尾形亀之助全集」以降に発見された作品。]

 

 

 

    冬日

 

冬になつて

私達は白い空にまるい小さい太陽のあるのを見た

 

(太陽はシヨーウヰンドウの中に飾られた)

(太平洋詩人第二巻第一号 昭和2(1927)年1月発行)

 

[やぶちゃん注:本篇は底本の「補遺」という項に所収されている。底本(1999年版)の元版である思潮社の1970年版「尾形亀之助全集」以降に発見された作品。]

 

 

 

    夜は凍える

 

近所の家や路や立樹やトタン屋根を

風呂敷に包んで枕もとに置いてゐる

 

枕に耳をあてゝゐる

 

今夜

夜啼きの雞と犬の吠え声が暗やみの地べたに凍りついて

外は一面の原となつてゐやう

(太平洋詩人第二巻第二号 昭和2(1927)年2月発行)

 

 

 

    風

 

庭へ来てぴいーぴい笛をならしてゐる人は

今日は来てゐない

 

冬陽がガラス戸に溜まつて

霜どけの庭は庇の下だけが白く乾いてゐる

(太平洋詩人第二巻第二号 昭和2(1927)年2月発行)

 

 

 

    平らな街

 

風は旗をひるがへしてゐる

砂利の乾いた路は遠くでまがつてゐる

 

私は門に立つて

犬のそばを通つて行く友人の後姿を見送つた

(太平洋詩人第二巻第二号 昭和2(1927)年2月発行)

 

 

 

    寝床と冬

 

寒むがりが

蒲団から顔と指を出して煙草をのんでゐる

 

ならんで寝てゐて

だまつて見てゐると

いつまでもしーーんとしてゐる

 

私も煙草に火を点けた

(銅鑼10号 昭和2(1927)年2月発行)

 

 

 

    冬日

 

冬になつて私は太陽を見る寂しいくせがついた

そして ガラスのやうな花粉をあびて眼を細くした

 

雪どけのする街は

一ところに売り出しの旗を立ててきたならしい花を咲かしてゐる

(銅鑼10号 昭和2(1927)年2月発行)

 

 

 

    落日

 

ぽつねんとテーブルにもたれて煙草をのんでゐると

客はごく静かにそつと帰つてしまつて

私はさよならもしなかつたやうな気がする

 

部屋のすみに菊の黄色が浮んでゐる

 

粛々となごりををしむ落日が眼に溜つてまぶしい

(銅鑼10号 昭和2(1927)年2月発行)

  

[やぶちゃん注:本篇は、後の昭和4(1929)年5月誠志堂書店刊の第二詩集「雨になる朝」に所収される際、以下のように改稿されている。

    落日

ぽつねんとテーブルにもたれて煙草をのんでゐる

 

部屋のすみに菊の黄色が浮んでゐる

第一連の如何にも意味あり気な演劇的シークエンスを思い切って圧縮して、題名と第二連との等価的モンタージュに仕上げているが、俳諧的な観念的連合としても陳腐で、詩想の膨らみはないように思われる。]
 

 

 

    夜が重い

    (笑つたやうな顔をして来る朝陽に袋をかぶせる)

 

私は夜の眠り方を忘れてゐる

 

ぱつとした電燈の下で

指をくはへるやうな馬鹿をして

風に耳をかしげ足を縮めて床の中に眠れないでゐる

 

乾いた口に煙草を嚙んで

熟した柿のやうな頸を枕におしつけてゐる

 

眼に穴があいてゐる

(〈亜〉28号 昭和2(1927)年3月発行)

 

 

 

    越年

 

大晦日の夜は

銀座で酒を飲んでゐた

 

提灯に燈を入れて十二月が帰つて行つてしまつた

(〈亜〉28号 昭和2(1927)年3月発行)

 

 

 

    二月失題

 

    Ⅰ

 

風が吹いて寒い夜である

 

夕飯に塩煎餅のやうな肉を喰べた

床の中で牛乳を飲んだ

電燈に煙草けむりがからまる

 

柴戸に風が鳴つて

眠れずに子供が泣いてゐる

 

    Ⅱ

 

風の中のポンプのモーターの軋りが私の人生であるのなら

私は頭まで蒲団にもぐつて寝やう

電燈をま暗に消さう

 

天井の鼠と床を列らべて

私も蕪青を一口齧つて眼をつむらう

 

停車場のプラツトホームに草花の種を蒔いて

電車の電燈をすつかり消してしまつて乗つてゐやう

 

    Ⅲ

 

表の通りを自動車が通つて行つた

夜は黒く むりに眼をつむれば淋しい

 

私ら四人の家族は笑ひ顔一つせずに一日を暮らしてしまつてゐる

 

    ×

 

私は寒いので便所へ行かずにゐる

そして 床の中でおならを一つした

(詩神第三巻第三号 昭和2(1927)年3月発行)

 

[やぶちゃん注:「蕪青」は「かぶ」もしくは「かぶら」と読む。前年大正151926)年1222日に長男猟(りょう)が誕生して、二ヶ月目。]

 

 

    受胎

 

三晩もつゞいて

『ねずみが蒲団にのつてゐて重い』といふので

私は何もゐない妻の蒲団の上をシイシイと追つた

 

それで妻は安心して眠るのだ

受胎して

妻はま夜中にねずみの夢を見てゐるのだ

(若草第三巻第三号 昭和2(1927)年3月発行)

 

[やぶちゃん注:「受胎して」という表現から、この詩のイメージは前年大正151926)年1222日の長男猟誕生より前のことと思われる。]

 

 

 

    十一月

 

犬を探して私は山の上の路へ出た

 

何処かで太陽がてつてゐるやうな日であつた

美しい立樹の肌が

白い空にまじつて光つてゐた

(若草第三巻第三号 昭和2(1927)年3月発行)

 

 

 

    夜の部屋

 

夜になると床の間の水仙が消えさうになる

 

静寂した部屋で

私は寝床に入つた

(文藝第五号第四号 昭和2(1927)年4月発行)

 

 

 

    冬無題

 

雀が鳴いてゐる

雀が一月の白らけた空に古代模様の壁紙を貼つてゐる

 

静かに窓を見てゐる

頭の中にゴムの匂ひがする

(文藝第五巻第四号 昭和2(1927)年4月発行)

 

 

 

    暗がりの中

 

    Ⅰ

 

僕の部屋の天井に鼠が一匹住んでゐる

 

昼は

僕も彼女も寝てゐる

 

    Ⅱ

 

夜は電燈の花を咲かせ

部屋は気球のやうに暗やみの中に浮いてゐる

 

彼女は何処からか新聞紙をひきずつて天井に帰つて来る

 

彼女の寝床はカサカサと鳴る

さびしければ

僕はさびしくなつてくる

僕は毛布に膝をつゝんで座つてゐる

 

    ×

 

彼女が台所へ来るのを僕は知つてゐる

 

彼女は正月になつて餅を天井裏へ運んだ

 

    Ⅲ

 

夜あけに寝床に入ると

もう彼女も寝床に入つてゐるのであらう

耳をすましても彼女は音をたてない

 

電燈を消すと

障子が白らんで静かに朝が来てゐる

(詩壇消息第四号第一巻 昭和2(1927)年4月発行)

 

 

 

    春が来る

 

(服と帽子が欲しい)

私は酒ばかり飲んでゐたので

このひと月は何もしないでしまつた

二月は二十八日でお終ひになつてゐた

(太平洋詩人第二巻第四巻 昭和2(1927)年4月発行)

 

[やぶちゃん注:昭和2(1927)年は通常年で、翌昭和3(1928)年が閏年であった。推定であるが、この二月前後に吉行あぐりへの一方的な恋愛感情の高揚があったものと思われる(本作発表の4月には底本年譜によれば『ある女性への思慕やみがたく、信州上諏訪に約二週間の傷心旅行』とある。

 編者による初出の「太平洋詩人第二巻第四巻」というはママ。「第四号」の誤植でなければ、号数表記が巻表記に変更され、二段階の巻数表記になったものか。]

 

 

    曇天の三月

 

三月の空は葛湯のやうに白つぽい

 

庭を見てゐて

ステイシヨンを思ひ出してゐる

 

ぶるきの旗のやうな平らかさに

顔をおしあてゝゐる

(文章倶楽部 昭和2(1927)年4月発行)

 

[やぶちゃん注:「ぶるき」は「ブリキ」(オランダ語“blik”)か。]

 

 

 

    親と子

 

太鼓は空をゴム鞠にする

でんでん と太鼓の音が路からあふれてくる

空気がはじけて

眠つてゐる子をおこしてしまつた

 

飴売は

「今日はよい天気」とふれてゐる

 

私は

「あの飴はにがい」と子供におしへた

 

太鼓をたゝかれて

私は立ツてゐられないほど心がはずむのであつたが

眼をさました子供が可愛いさうなので

一緒に縁側に出て列らんだ

 

二月の空が光る

子供の心が光る

 

梅の花の匂ひがする

 

私は遠のいた太鼓から離れて

キクの枯れた庭に昼の陽影を見た

子供は私の袖につかまつてゐた

(文芸倶楽部 昭和2(1927)年4月発行)

 

[やぶちゃん注:本篇は、後の昭和4(1929)年5月誠志堂書店刊の第二詩集「雨になる朝」に所収される際、以下のように改稿されている。

    親と子

太鼓は空をゴム鞠にする

でんでん と太鼓の音が路からあふれてきて眠つてゐた子をおこしてしまつた

 

飴売は

「今日はよい天気」とふれてゐる

私は

「あの飴はにがい」と子供におしへた

 

太鼓をたゝかれて

私は立つてゐられないほど心がはずむのであつたが

眼をさました子供が可哀いさうなので一緒に縁側に出て列らんだ

 

菊の枯れた庭に二月の空が光る

 

子供は私の袖につかまつてゐる

 

底本の「本文」は以上の表記であるが、「異稿対照表」では、第一連の二行目が「でんでん と太鼓の音が路からあふれてきて眠つて ゐた子をおこしてしまつた」という不自然な一字空けが存在し、第四連の「可哀いさう」が「可愛いさう」となっている。後者の齟齬は初出も「可哀いさう」であった可能性を示唆するようにも思われるが、原本を確認出来ない以上、このままとした。説明的な時間経過と詐術的弁解に誤解されそうな詩語を気持ちよく削ぎ落として俳諧的。これで「遠のいた太鼓」の音ではなく、「遠のく」太鼓の音が読むものの心に逆に確かに響くはずである。]

 

 

 

    街へ行く電車

 

機械を取つてしまつて

ワルツで電車を走らさう

音楽が止んで街を下の方に見ながら停つてゐたり

客の中の口笛で少しづつ走り出したり

夕飯はそのまゝ食堂になつてゐる電車の中でゆつくり食べやう

そして 街へ着いてももう降りるのはよさう

(詩神第三巻第十号 昭和2(1927)年10月発行)

 

 

 

    蚊帳の中

 

蚊帳のたるみを見てゐる

 

蚊帳の中では朝と夜の区別がない

蚊帳の中には何時も風がない

蚊帳は青入道に化けてゐる

(詩神第三巻第十号 昭和2(1927)年10月発行)

 

 

 

    ビスケツト

 

幾つ位の頃であつたか

よその家へ遊びに行つてゐて

「ビスケツトお好きですか」と聞かれたことがあつた

今日子供が紙につゝんでもらつて来たのがビスケツトであつた

 

    ×

 

私の石になりかけたビスケツトを

子供の掌から一つ撮んだ

(詩神第三巻第十号 昭和2(1927)年10月発行)

 

[やぶちゃん注:「撮んだ」は「撮(つま)んだ」と読む。]

 

 

 

    秋 電燈

 

電燈のともされた部屋に夜が来る

部屋の中に

私の影が来てゐる

 

明るい机の上に蝦夷菊が咲いてゐる。

 

部屋の中には一枚のスクリンに映つってゐる夜である。

(北方詩人第一巻第三号 昭和2(1927)年11月発行)

 

 

 

    森の中・女・夏草

 

森の中にハンモツクを吊つて寝てゐる男がゐた

(ハンモツクは静にゆれてゐた)

 

寝てゐる男は

私が近づくと上を向いたまゝ眼をつむつてしまつた

 

瘠せた脛のほそい男であつた

 

森を通るときにふりかえると

起き直つてハンモツクに腰かけてゐるのがやさしい女のやうに見えた

夏草の原いつぱいに茂つた白い路へ私は飛び降りた

(A CORNER SHOP第一輯 昭和2(1927)年11月1日発行)

 

 

 

    松の木の憂鬱

 

いつせいに簪のやうに花をつけてゐた松の木

 

いつか花が落ちて

そして 依然として茂つてゐる

松の木

青葉ばかりの庭に雨が降る

(都会思想第一巻第一号 昭和3(1928)年1月発行)

 

 

 

    夜店

 

電燈を一つづゝ吊るして店が幾つも列らんでゐる

そこは

商品とペーブメントを歩く人との区別もなくなつてゐる

(日本詩選集 一九二八年版 昭和3(1928)年1月発行)

 

 

 

    恋愛後記

 

午後からの雨であつた

そして冷え冷えと暮れてゆく

 

夢のやうな夏はもうそこにはない

空は遠く帰つて行つてしまつてとり残されたやうな庭があるばかりである

(日本詩選集 一九二八年版 昭和3(1928)年1月発行)

 

[やぶちゃん注:これは吉行あぐりとの恋の終わりのレクイエムの予兆か。]

 

 

 

    春は窓いつぱい

 

春は窓いつぱいにあふれてゐる

私は昨日から寝てゐる

 

頭から蒲団をかぶつて

 

こんど床を出るまでに彼女との愛をすてなければならない と

私は床の中で自分の不幸を考へてゐる

 

(何時の間にか私は蒲団から頭を出してゐる)

かなしい春である

(日本詩選集 一九二八年版 昭和3(1928)年1月発行) 

 

[やぶちゃん注:前詩「恋愛後記」に記したように、この吉行あぐりへの恋情は一方的で、無論、失恋に終わる。それだけではなく、この昭和3年、尾形亀之助は3月に妻タケと別居し、5月には協議離婚している(二人の子は尾形が引き取って、長男猟は実家に預け、長女泉は同居した)。ちなみに、この時、タケは、亀之助が同年1月に結成した「全詩人聯合」の最大の協力者にして詩友であった大鹿卓(金子光晴実弟、後に小説家に転身)の元へと走っている(その辺りの経緯は正津勉「小説尾形亀之助」に詳しい)。]

 

 

 

    煙草と花

 

夕暮

一人部屋の中にゐる

 

朝から街を歩いてゐる幻影を見て

一日中窓を離れなかつた

 

机の上の枯れた花を今日も捨てずにゐた

(北方詩人第二巻第一号 昭和3(1928)年1月発行)

 

 

 

    菊

 

大家が新しい借家を建てゝゐた

私はその家を借りやうと思つた

大工が屋根をこはしてゐる

 

半分つぶされた菊畑に夕陽のさしてゐるのを私は見てゐた

(詩神第四巻第二号 昭和3(1928)年2月発行)

 

 

 

    白(仮題)

あまり夜が更けると

私は電燈を消しそびれてしまふ

たまたま机の上に水仙をさして置くことがある

床に入つて水仙を見てゐることがある

(何時までも眠らずにゐると朝の電車が通つてゐる)

(詩神 昭和3(1928)年2月発行)

 

 

 

    白(仮題)

 

夜が更けると

私は電燈を消しそびれてしまふ

 

そして机の上の花を見てゐるとことがある

(詩と詩論 昭和3(1928)年12月発行)

 

[やぶちゃん注:御覧の通り、以上の2篇は同一作品の改稿による投稿である。更に、本篇は、後の昭和4(1929)年5月誠志堂書店刊の第二詩集「雨になる朝」に所収される際、再々度、以下のように改稿されている。

    白(仮題)

あまり夜が更けると

私は電燈を消しそびれてしまふ

そして 机の上の水仙を見てゐることがある

彼が殊更に推敲で追求したのは、如何にその最も無駄のないミニマムの時空間を切り出すということであった、ということがこの三案によって美事に浮かび上がって来るように思われる。詩語の選択も疎かにしていない。「あまり」は必ず「そびれてしまふ」感情を引き出すのに不可欠であり、「あまり」に更けた夜であればこそ「水仙」は妖艶な白さで詩人を、我々を射る。]

 

 

 

    風の中

 

部屋の燈をともして

風の吹く暗い夜を過ごさうとしてゐる

 

さしてから十日にもなつて

机の上の水仙が怖くなつた

(北方詩人第六輯 昭和3(1928)年3月発行)

 

 

 

    梅雨の中

 

雨の日は早くから部屋に電燈がついて

うす暗くなつた立樹の上に白けた空が窓のやうに残つた

 

電燈を見てゐると電燈の中にも雨が降つてゐる

 

とき折り梅の実が落ちる

 

何故私はぼんやりしてゐるのか

外が暗くなりきると夜になつてしまつた

そして

一日中傘をさしてゐたやうな気もちになつてゐた

(詩神第四巻第九号 昭和3(1928)年9月発行)

 

 

 

    白(仮題)

 

松林の中には魚の骨が落ちてゐた

あまり白かつたからだらうか私は拾はふとしたのだつた

(詩と試論二冊 昭和3(1928)年12月発行)

 

[やぶちゃん注:「拾はふ」はママ。本篇は、後の昭和4(1929)年5月誠志堂書店刊の第二詩集「雨になる朝」に所収される際、「白に就て」と改題した上、以下のように改稿されている。

    白に就て

松林の中には魚の骨が落ちてゐる

(私はそれを三度も見たことがある)

現在形への変更は、鮮烈なワン・ショットにブラッシュ・アップされ、括弧の効果的な使用と「三度も」の神経症的な畳み掛けは不気味な白さをクロース・アップして、比類ない。]

 

 

 

 拾遺詩 後期19291942

 

 

 

五百七十九番地

 

 あけ方に見た馬の夢を思ひ出したり、雨戸のふし穴から入つてくる光りを見てゐたりして寝床の中で昼近くまでぼんやりしてゐると、早くから眼をさましてゐた子供は腹を空かしてしまつてゐる。

 今日の陽はどつちから出たんだ――床を出て小便にゆくといつちやんもだといふ。そして、子供が勢のいい小便をするのを僕はうらやましく思ふのだ。

 北側の雨戸は風が入るので締つきりにしてゐる。南側もこの頃は半分しか開かない。床もたいがいは敷きつぱなしにしてすましてゐる。ご飯を一日に三度喰べる時間が何時もなくなつてゐる。

 自分に子供がある。この嘘のやうな事実は何だ。家の中で一番よい部屋に机を置いて、ちよつとでもうるさいと子供をしかつたりする。自分の仕事は、何時になればなるほどこんな立派な仕事をするにはそのくらひはあたりまいだといふことになるのだらう。私が手をついて子供にあやまれは、子供も泣くだらう。

 炭をおこせは、すぐ飯はたける。朝ごはんは何処へ行つたの――と子供に言はれても、眼の前に茶碗に盛られてある飯を見てゐれば、僕は少しもかなしくはない。

 畳や坐布団がきたないのは電燈がついたばかりなのだからだ。もう一つには洗はないからだ。

(学校2号 昭和1929)年2月発行)

 

 

 

    貧乏第一課

 

 太陽は斜に、桐の木の枝のところにそこらをぼやかして光つてゐた。檜葉の陽かげに羽虫が飛んで晴れた空には雲一つない。見てゐれば、どうして空が青いのかも不思議なことになつた。縁側に出て何をするのだつたか、縁側に出てみると忘れてゐた。そして、私は二時間も縁側に干した蒲団の上にそのまゝ寝そべつてゐたのだ。

 私が寝そべつてゐる間に隣家に四人も人が訪づねて来た。何か土産物をもらつて礼を言ふのも聞えた。私は空の高さが立樹や家屋とはくらべものにならないのを知つてゐたのに、風の大部分が何もない空を吹き過ぎるのを見て何かひどく驚いたやうであつた。

 雀がたいへん得意になつて鳴いてゐる。どこかで遠くの方で雞も鳴いてゐる。誰がきめたのか、二月は二十八日きりなのを思ひ出してお可笑しくなつた。私は月末の仕払いを今月も出来ぬのだ。

(詩神一巻五号 昭和4(1929)年5月発行)

 

[やぶちゃん注:「お可笑しくなつた」はママ。本篇は、後の昭和5(1930)年8月に完成した第三詩集私家版「障子のある家」に所収される際、「第一課 貧乏」と改題されて、以下のように改稿されている。

    第一課 貧乏

 太陽は斜に、桐の木の枝のところにそこらをぼやかして光つてゐた。檜葉の陽かげに羽虫が飛んで晴れた空には雲一つない。見てゐれば、どうして空が青いのかも不思議なことになつた。縁側に出て何をするのだつたか、縁側に出てみると忘れてゐた。そして、私は二時間も縁側に干した蒲団の上にそのまゝ寝そべつてゐたのだ。

 私が寝そべつてゐる間に隣家に四人も人が訪づねて来た。何か土産物をもらつて礼を言ふのも聞えた。私は空の高さが立樹や家屋とはくらべものにならないのを知つてゐたのに、風の大部分が何もない空を吹き過ぎるのを見て何かひどく驚いたやうであつた。

 雀がたいへん得意になつて鳴いてゐる。どこかで遠くの方で雞も鳴いてゐる。誰がきめたのか、二月は二十八日きりなのを思ひ出してお可笑しくなつた。

改題以外は最終一文の削除のみである。]

 

 

 

    暗夜行進

 

 自分があてもなく夜の路を歩いてゐるのであつてみれば、街がどんなに広くともどうにもしかたがなかつた。力を入れてゐるのは歩いてゐる足なのかそれとも心のどこかであつたのか、いつの間にか「自分がかうして歩いてゐて踏切のやうなところへ出てそこで死んでしまふ」ことになつてゐるのだつた。

 自分がもう小便をやりたくないのはどこかでしてしまつたのだつたらうか。どうしてこんなことになつたのか、とき折り立ちどまつてはみるものゝ、家の近くまで帰つてきて小便をしに入つた露地から何処までもきりもなくつゞいてゐるのだつた。

 

(門第6輯 昭和4(1929)年11月発行)

 

 

 

    秋冷

 

 寝床は敷いたまま雨戸も一日中一枚しか開けずにゐる紙屑やパンのかけらの散らばつた暗い部屋に、めつたなことに私は顔も洗らはずにゐるのだつた。

 なんといふわけもなく痛くなつてくる頭や、鋏で髯を一本づゝつむことや、火鉢の中を二時間もかゝつて一つ一つごみを拾い取つてゐるときのみじめな気持に、夏の終りを降りつゞいた雨があがると庭も風もよそよそしい姿になつてゐた。私は、よく晴れて清水のたまりのやうに澄んだ明るい空を厠の窓に見て朝の小便をするのがつらくなつた。

(門6号 昭和4(1929)年11月発行)

(学校詩集 昭和4(1929)年12月発行)

(日本現代詩選 昭和5(1930)年4月発行)

 

[やぶちゃん注:初出は、以上の二つのアンソロジーに所載するらしいが、どちらも初出と全く同じ稿であるということらしい。本篇は、後の昭和5(1930)年8月に完成した第三詩集私家版「障子のある家」に所収される際、以下のように改稿されている。

    秋冷

 寝床は敷いたまゝ雨戸も一日中一枚しか開けずにゐるやうな日がまた何時からとなくつゞいて、紙屑やパンかけの散らばつた暗い部屋に、めつたなことに私は顔も洗らはずにゐるのだつた。

 なんといふわけもなく痛くなつてくる頭や、鋏で髯を一本づゝつむことや、火鉢の中を二時間もかゝつて一つ一つごみを拾い取つてゐるときのみじめな気持に、夏の終りを降りつゞいた雨があがると庭も風もよそよそしい姿になつてゐた。私は、よく晴れて清水のたまりのやうに澄んだ空を厠の窓に見て朝の小便をするのがつらくなつた。

亀之助にしては珍しく、第一段落を増補している。第二段落の「明るい」は朗読してみると分かるが、停滞を起こさせて確かにいらない。]

 

 

 

    三月の日

 

 昼頃寝床を出ると、空のいつものところに太陽が出てゐた。何んといふわけもなく気やすい気持ちになつて、私は顔を洗らはずにしまつた。

 陽あたりのわるい庭の隅の椿が二三日前から咲いてゐる。

 ひき出しの中には白銅が一枚残つてゐる。

 切り張りの沢山ある障子に陽ざしが斜になる頃は、この家では便所が一番に明るい。

(学校詩集 昭和4(1929)年12月発行)

(新興詩人選集 昭和5(1930)年1月発行)

 

[やぶちゃん注:上記2誌に所載するらしいが、この2誌が全く同じ稿であるということらしい。本篇は、後の昭和5(1930)年8月に完成した第三詩集私家版「障子のある家」に所収される際、以下のように改稿されている。

    三月の日

 昼頃寝床を出ると、空のいつものところに太陽が出てゐた。何んといふわけもなく気やすい気持ちになつて、私は顔を洗らはずにしまつた。

 陽あたりのわるい庭の隅の椿が二三日前から咲いてゐる。

 机のひき出しには白銅が一枚残つてゐる。

 障子に陽ざしが斜になる頃は、この家では便所が一番に明るい。

本来なら、部分校異で示して終わりにするところであろうが、尾形亀之助の場合のように、校異を示せるものが少ない(詩集所載の詩は書き下ろしか未発表のものが多い)ケースは煩瑣を厭わず、こうする方がより正しいと私は考える。]

 

 

 

    詩人の骨(仮題)転落する一九二九年のヘボ詩人の一部

 

 自分が三十一になるといふことを俺にはどうもはつきり言ひあらはせない。困つたことには、三十一といふことはこれといつて俺にとつては意味がなささうなことなのだ。他の人から「君は三十一だ」と言ってもらうほかはないのだ。

 今年と去年との間が丁度一ヶ年あつたといふことも、俺にはどうでもよいことがらなのだから不思議だとは思はない。隣家で、カレンダーを一枚残らずむしり取つて新らしく柱に掛けたのに一九三〇年一月×日とあつたといふにすぎない。つまり「俺は来年六ツになるのだ」と言つても、誰も(殊に隣家のおばさんは)ほんとうにしないのと同じことなのだ。

 だが、俺が曾て地球の上にゐたといふことが、どんなことで名誉あることにならぬとは限るまい。幾万年かの後に、その頃の学者などにうつかり発掘されないものでもないし、大変珍らしがられるかもしれないのだ。そして、彼等はひよつとすると言ふだらう「これは大昔にゐた詩人の骨だ」と。

(詩と散文1号 昭和5(1930)年1月発行)

 

[やぶちゃん注:第一段落『「君は三十一だ」と言ってもらう』の「もらう」、第二段落「ほんとう」はママ。また、「対照表」初稿の冒頭には一字空けがないが、前後の表現から補った。本篇は、後の昭和5(1930)年8月に完成した第三詩集私家版「障子のある家」に所収される際、「詩人の骨」と改題され、以下のように改稿されている。

    詩人の骨

 幾度考へこんでみても、自分が三十一になるといふことは困つたことにはこれといつて私にとつては意味がなさそうなことだ。他の人から私が三十一だと思つてゐてもらうほかはないのだ。親父の手紙に「お前はもう三十一になるのだ」とあつたが、私が三十一になるといふことは自分以外の人達が私をしかるときなどに使ふことなのだらう。又、今年と去年との間が丁度一ケ年あつたなどいふことも、私にはどうでもよいことがらなのだから少しも不思議とは思はない。几帳面な隣家のおばさんが毎日一枚づつ丁寧にカレンダーをへいで、間違へずに残らずむしり取つた日を祝つてその日を大晦日と称び、新らしく柱にかけかへられたカレンダーは落丁に十分の注意をもつて綴られたゝめ、又何年の一月一日とめでたくも始まつてゐるのだと覚えこんでゐたつていゝのだ。私は来年六つになるんだと言つても誰もほんとうにはしまいが、殊に隣家のおばさんはてんで考へてみやうともせずに暗算で私の三十一といふ年を数へ出してしまうだらう。

 だが、私が曾て地球上にゐたといふことは、幾万年かの後にその頃の学者などにうつかり発掘されないものでもないし、大変珍らしがられて、骨の重さを測られたり料金を払らはなければ見られないことになつたりするかも知れないのだ。そして、彼等の中の或者はひよつとしたら如何にも感に堪へぬといふ様子で言ふだらう「これは大昔にゐた詩人の骨だ」と。

第一段落「てんで考へてみやうとも」及び「数へ出してしまう」はママ。]

 

 

 

    障子のある家(仮題)――自叙転落する一九二九年のヘボ詩人・其七

 

 納豆と豆腐の味噌汁の朝食を食べ、いくど張りかへてもやぶけてゐる障子に囲まれた部屋の中に半日机に寄りかゝつたまゝ、自分が間もなく三十一にもなることが何のことなのかわからなくなつてしまひながら「俺の楽隊は何処へ行つた」とは、俺は何を思ひ出したのだらう。此頃は何一つとまとまつたことも考へず、空腹でもないのに飯を食べ、今朝などは親父をなぐつた夢を見て床を出た。雨が降つてゐた。そして、酔つてもぎ取つて来て鴨居につるしてゐた門くゞりのリンに頭をぶつけた。勿論リンは鳴るのであつた。このリンには、そこへつるした日からうつかりしては二度位ひづつ頭をぶつつけてゐるのだ。火鉢、湯沸し、坐ぶとん、畳のやけこげ。少しかけてはゐるが急須と茶わんが茶ぶ台にのつてゐる。しぶきが吹きこんで一日中縁側は湿つけ、時折り雨の中に電車の走つてゐるのが聞えた。夕暮近くには、自分が日本人であるのがいやになつたやうな気持になつて坐つてゐた。わけもなく火鉢に炭をついでゐるのであつた。

(文芸月刊一巻一号 昭和5(1930)年2月発行)

(日本現代詩選 昭和5(1930)年4月発行)

 

[やぶちゃん注:「二度位ひづつ」はママ。初出は、上記アンソロジーに所載するらしいが、全く同じ稿であるということらしい。本篇は、後の昭和5(1930)年8月に完成した第三詩集私家版「障子のある家」に所収される際、「ひよつとこ面」と改題され、以下のように改稿されている。

    ひよつとこ面

 納豆と豆腐の味噌汁の朝食を食べ、いくど張りかへてもやぶけてゐる障子に囲まれた部屋の中に一日机に寄りかゝつたまゝ、自分が間もなく三十一にもなることが何のことなのかわからなくなつてしまひながら「俺の楽隊は何処へ行つた」とは、俺は何を思ひ出したのだらう。此頃は何一つとまとまつたことも考へず、空腹でもないのに飯を食べ、今朝などは親父をなぐつた夢を見て床を出た。雨が降つてゐた。そして、酔つてもぎ取つて来て鴨居につるしてゐた門くゞりのリンに頭をぶつけた。勿論リンは鳴るのであつた。このリンには、そこへつるした日からうつかりしては二度位ひづつ頭をぶつつけてゐるのだ。火鉢、湯沸し、坐ぶとん、畳のやけこげ。少しかけてはゐるが急須と茶わんが茶ぶ台にのつてゐる。しぶきが吹きこんで一日中縁側は湿つけ、時折り雨の中に電車の走つてゐるのが聞えた。夕暮近くには、自分が日本人であるのがいやになつたやうな気持になつて坐つてゐた。そして、火鉢に炭をついでは吹いてゐるのであつた。

本篇の原題が、詩集の総題であるということは、本詩が詩集「障子のある家」で持つところの重要な役割を感じ取る必要がある。その副題に自叙としての「転落する一九二九年のヘボ詩人」とあるのは哀しい。ある識者は、このリンに痛快無比な諧謔味を読むべきであるとする。しかし私は微妙にそれを留保したい。私は、この詩を何度読んでも、愉快になるどころか、当時の尾形を考えると、如何にも哀しいのである。この軽快な表の顔は「ひょっとこ」のお面に過ぎないのだと、私は思う。]

 

 

 

    標――(躓く石でもあれば、俺はそこでころびたい)――

 

 庭には二三本の立樹がありそれに雀が来てとまつてゐても、住んでゐる家に屋根のあることも、そんなことは誰れにしてみてもありふれたことだ。冬は寒いなどといふことは如何にもそれだけはきまりきつてゐる。俺が詩人だといふことも、他には何の役にもたゝぬ人間の屑だといふ意味を充分にふくんでゐるのだが、しかも不幸なまはり合せにはくだらぬ詩ばかりを書いてゐるので、だんだんには詩を書かうとは思へなくなつた。「ツェッペリン」が飛んで来たといふことでのわけのわからぬいさましさも、「戦争」とかいふ映画的な奇蹟も、片足が昇天したとかいふ「すばらしい散歩」――などの、そんなことさへも困つたことには俺の中には見あたらぬ。

 今日は今年の十二月の末だ。俺は三十一といふ年になるのだ。人間というものが惰性に存在してゐることを案外つまらぬことに考へてゐるのだ。そして、林檎だとか手だとか骨だとかを眼でないところとかでみつめることのためや、月や花の中に恋しい人などを見出し得るといふ手腕でや、飯が思ふやうに口に入らぬといふ条件つきなどで今日「詩人」といふものがあることよりも、いつそのこと太古に「詩人」といふものがゐたなどと伝説めいたことになつてゐる方がどんなにいゝではないかと、俺は思ふのだ。しかし、それも所詮かなわぬことであるなれば、せめて「詩人」とは書く人ではなくそれを読む人を言ふといふことになつてはみぬか。

 三十一日の夜の街では「去年の大晦日にも出会つた」と俺に挨拶した男があつた。俺は去年も人ごみの中からその男に見つけ出されたのだ。俺は驚いて「あゝ」とその男に答へたが、実際俺はその人ごみの中に自分の知つてゐる者が交つてゐるなどといふことに少しも気づかずにゐたのだ。これはいけないといふ気がしたが、何がいけないのか危険なのか、兎に角その人ごみが一つの群集であつてみたところが、その中に知つている顔などを考へることは全く不必要なことではないか。人間一人々々の顔形の相異は何時からのことなのか、そんなことからの比較に生ずることのすべてはない方がいゝのだ。一つの型から出来た無数のビスケツトの如く、人一個の顔は数万の顔となり更に幾万かの倍加に「友人」なることの見わけもつかぬことにはならぬものか。そして、「友人」などといふ友情に依る人と人の差別も、恋愛などといふしみつたれた感情もあり得ぬことになつてしまはぬものか。

(門7号 昭和5(1930)年2月発行)

(詩文学一巻六号 昭和5(1930)年3月発行)

(現代新詩集 昭和6(1931)年6月発行)

 

[やぶちゃん注:初出以下、二つの刊行物に所載するらしいが、どちらも初出と全く同じ稿であるということらしい。本篇は、後の昭和5(1930)年8月に完成した第三詩集私家版「障子のある家」に所収される際、「年越酒」と改題されて、以下のように改稿されている。

    年越酒

 庭には二三本の立樹がありそれに雀が来てとまつてゐても、住んでゐる家に屋根のあることも、そんなことは誰れにしてみてもありふれたことだ。冬は寒いなどといふことは如何にもそれだけはきまりきつてゐる。俺が詩人だといふことも、他には何の役にもたゝぬ人間の屑だといふ意味を充分にふくんでゐるのだが、しかも不幸なまはり合せにはくだらぬ詩ばかりを書いてゐるので、だんだんには詩を書かうとは思へなくなつた。「ツェッペリン」が飛んで来たといふことでのわけのわからぬいさましさも、「戦争」とかいふ映画的な奇蹟も、片足が途中で昇天したとかいふ「すばらしい散歩」――などの、そんなことさへも困つたことには俺の中には見あたらぬ。

 今日は今年の十二月の末だ。俺は三十一といふ年になるのだ。人間というものが惰性に存在してゐることを案外つまらぬことに考へてゐるのだ。そして、林檎だとか手だとか骨だとかを眼でないところとかでみつめることのためや、月や花の中に恋しい人などを見出し得るといふ手腕でや、飯が思ふやうに口に入らぬといふ条件つきなどで今日「詩人」といふものがあることよりも、いつそのこと太古に「詩人」といふものがゐたなどと伝説めいたことになつてゐる方がどんなにいゝではないかと、俺は思ふのだ。しかし、それも所詮かなわぬことであるなれば、せめて「詩人」とは書く人ではなくそれを読む人を言ふといふことになつてはみぬか。

 三十一日の夜の街では「去年の大晦日にも出会つた」と俺に挨拶した男があつた。俺は去年も人ごみの中からその男に見つけ出されたのだ。俺は驚いて「あゝ」とその男に答へたが、実際俺はその人ごみの中に自分の知つてゐる者が交つてゐるなどといふことに少しも気づかずにゐたのだ。これはいけないといふ気がしたが、何がいけないのか危険なのか、兎に角その人ごみが一つの同じ目的をもつた群集であつてみたところが、その中に知つている顔などを考へることは全く不必要なことではないか。人間一人々々の顔形の相異は何時からのことなのか、そんなことからの比較に生ずることのすべてはない方がいゝのだ。一つの型から出来た無数のビスケツトの如く、一個の顔は無数の顔となり「友人」なることの見わけもつかぬことにはならぬものか。そして、友情による人と人の差別も、恋愛などといふしみつたれた感情もあり得ぬことゝなつてしまふのがよいのだ。

底本にしている思潮社版の「障子のある家」本文には、この篇以外でも途中に有意に不審な字間(3/4字分程)が複数個所存在するが、一応、底本の組版の齟齬ととって無視した。

 さて、本詩の『「戦争」とかいふ映画的な奇蹟も、片足が途中で昇天したとかいふ「すばらしい散歩」』という僕にとって永く不明であった箇所について、美事な解釈(「未詳」「当てずっぽう」と謙遜されているが)が2007年河出書房新社刊の正津勉「小説 尾形亀之助」でなされている。以下に引用する。

   《引用開始》

『前者は、北川冬詩集『戦争』(昭和四年三月刊)では。ここで「映画的な奇蹟」とある、これはときに北川が標榜した前衛詩運動なる代物(しろもの)「シネ・ポエム」への嘲笑ではないか(じつはこのころ全章でみたように北川と亀之助のあいだで『雨になる朝』をめぐり意見の対立をみている)』。[やぶちゃん注:ここで改行。]『後者は、あやふやななのだがこれは安西冬衛のことをさすのでは。これは「片足が途中で昇天した」うんぬんから、なんとなれば安西が隻脚であること。やはりこの三月、詩集『軍艦茉莉』が刊行されている。前章でもみたが亀之助はこれを絶賛している。「『軍艦茉莉』安西冬衛はすばらしい詩集を出した」と。だとすると「すばらしい散歩」とは散歩もままならない安西への声援となろうか。ほかに懇切な書評「詩集 軍艦茉莉」(『詩神』昭和五年八月)もある。』

   《引用終了》

やや、最後の「安西への声援」という謂いには微妙に留保をしたい気がするが、正津氏の解釈はこの詩の最も難解な部分を確かに明快に解いてくれている。著作権の侵害にならぬよう、宣伝しておこう。前章云々の話は、是非、本書を購入してお読みあれ。なお、同書によれば、チェッペリン飛行船Zeppelinが日本に飛来したのは、昭和四年八月で『新聞各誌には「けふ全市を挙げてツエペリン・デーと化す/三百万の瞳が大空を仰いで/待ちこがれる雄姿!」などと熱く見出しが躍った。』とする。

 しかし、僕がこの詩を愛するのは、第二段の末尾の、『いつそのこと太古に「詩人」といふものがゐたなどと伝説めいたことになつてゐる方がどんなにいゝではないかと、俺は思ふのだ。しかし、それも所詮かなわぬことであるなれば、せめて「詩人」とは書く人ではなくそれを読む人を言ふといふことになつてはみぬか』という詩と詩人を巡る存在論の鋭さ故である。そうして第三段末尾の、『人間一人々々の顔形の相異は何時からのことなのか、そんなことからの比較に生ずることのすべてはない方がいゝのだ。一つの型から出来た無数のビスケツトの如く、一個の顔は無数の顔となり「友人」なることの見わけもつかぬことにはならぬものか。そして、友情による人と人の差別も、恋愛などといふしみつたれた感情もあり得ぬことゝなつてしまふのがよいのだ』という、思い切った「ノン!」の拒絶の小気味よさ故である――しかしそれはまさに「全くの住所不定へ。さらにその次へ。」(「詩集「障子のある家」の「自序」より)という強烈な覚悟の中にある凄絶な小気味よさであることを忘れてはならないのだが――。

 最後に、本篇の原題が「障子のある家」のエピグラム的巻頭の一行「あるひは(つまづく石でもあれば私はそこでころびたい)」であることは、本詩がこの「詩集」に持つ重要な位置を再検討すべきことを示唆している。]

 

 

 

    夏の午後を映してゐる或一つの平面的な詩篇

 

 曇りかけた午後陽がいくぶん斜になつて庭へおちてゐた。庭には物干が立つてゐた。私の訪づねて行つた男は昼寝をしてゐるのであつた。昼寝をしてゐるのを見たのは幾年以前であつたのか、何をしてゐることなのか思ひ出せないやうな気もちで畳にころがつてゐる男を見た。

 考へるまでもなく、眼のさめるまでは私のゐるのを知らずにゐる眠つてゐる男は、起されなければ何時まで眠つてゐるのかわからないのであつた。

(現代文芸七ノ三 昭和5(1930)年3月発行)

 

[やぶちゃん注:本篇は、底本の本文及び補遺には所収せず、「編注」の中の、「物語」の「地球はいたつて平べつたいのでした」の注の中で、この散文の持っている『平面感覚は散文詩「辻は天狗となり 善助は堀へ墜ちて死んだ 私は汽車に乗つて郷里の家へ帰つてゐる」や、つぎの詩に通じる。』として掲げているものである。どこをひっくり返しても、この詩篇はここにしか所収していないのであるが、これはもう、編者秋元潔氏がまさに『つぎの詩』と呼称している以上、尾形亀之助の拾遺詩に間違いないわけで、どうしてこのような配置がなされているのか、不審である。私としては「拾遺詩」の該当時期にこれを配することとする。]

 

 

 

    父と母と、二人の子供へおくる手紙

 

 人間に人間の子供が生れてくるといふ習慣は、あまり古いのでいますぐといつてはどうにもならないことらしい。又、人間の子は人間だといふ理屈にあてはめられてゐて、人間になるよりほかないのならそれもしかたがないが、人間の子とはいつたい何なのでだらう。何をしに生れて来るのか。親達のまねをしにならばわざわざ出かけて来る必要もないではないだらうではないか。しかもおどけたことには、その顔形や背丈がよく似るといふは、人間には顔形がこれ以上あまりないとでもいふ意味なのか。それとも、親の古帽子などがその子供にもかぶれる為にとでもいふことなのか。全く、顔が似てゐるからの、「親子」でもあるまいではないか。又、人間が、その文化を進めるために次々に生れて来るのなら、今こそそのうけつぎをしている俺達は人間の何なのだ。遺伝とは何のことなのだ。物を食つてそれがうまいなどといふことも、やがては死んでしまふことにきまつてゐるといふ人間のために何になることだ。俺達に興奮があるなどとは、人間といふものが何かにたぶらかされてゐるのではなくてなんだ。俺達は先づ「帽子」だなどといふ、眼に見えて何にもならない感情を馬鹿げたこととして捨ててしまはふではないか。

(桐の花9号 昭和5(1930)年4月発行)

 

[やぶちゃん注:末尾「捨ててしまはふ」はママ。本篇は、後の昭和5(1930)年8月に完成した第三詩集私家版「障子のある家」には末尾に「後記」があり、そこには「泉ちゃんと猟坊へ」という文章に続いて「父と母へ」という標題の文章が続く。その前半は以下のように本篇とかなり一致するが、後半は大きく異なる。なお、断っておくが、以上は「父と母と、二人の子供へおくる手紙」標題の詩の全篇である点に注意したい。

    父と母へ

 さよなら。なんとなくお気の毒です。親であるあなたも、その子である私にも、生んだり生まれたりしたことに就てたいして自信がないのです。

 人間に人間の子供が生れてくるといふ習慣は、あまり古いのでいますぐといつてはどうにもならないことなのでせう。又、人間の子は人間だといふ理屈にあてはめられてゐて、人間になるより外ないのならそれもしかたがないのですが、それならば人間の子とはいつたい何なのでせう。何をしに生れて来るのか、唯親達のまねをしにわざわざ出かけてくるのならそんな必要もないではないでせうか。しかもおどけたことには、その顔形や背丈がよく似るといふことは、人間には顔形がこれ以上あまりないとでもいふ意味なのか、それとも、親の古帽子などがその子供にもかぶれる為にとでもいふことなのでせうか。だが、たぶんこんなことを考へた私がわるいのでせう。又、「親子」といふものが、あまり特種関係に置かれてゐることもわるいのでせう。――私はやがて自分の満足する位置にゐて仕事が出来るやうにと考へ決して出来ないことではないと信じてゐました。そのことを私は偉くなると言葉であなたに言つて来たのですが、私はそれらのことを三四年前から考へないやうになり最近は完全に捨てゝしまひました。私の言葉をそのまゝでないまでもいくらかはさうなるのかも知れないと思はせたことは詫びて許していたゞかなければなりません。

「父と母と、二人の子供へおくる手紙」は詩としての技巧を残しているが、障子のある家」版は最早、遺書として書き直されて、その本質は他者の批評の埒外にあると言ってよい。そしてその一語一語の透明さと平静な魂――消極的自死へ向けての意志――に私は驚愕する。]





    無形国へ

 

 降りつゞいた雨があがると、晴れるよりは他にはしかたがないので晴れました。春らしい風が吹いて、明るい陽ざしが一日中縁側にあたつた。私は不飲不食に依る自殺の正しさ、餓死に就て考へこんでしまつてゐた。

 (最も小額の費用で生活して、それ以上に労役せぬこと――。このことは、正しくないと君の言ふ現在の社会は、君が余分に費ひやした労力がそのまゝ君達から彼等と称ばれる者のためになることにもあてはまる筈だ。日給を二三円も取つてゐる独身者が、三度の飯がやつとだなどと思ひこまぬがいい。そのためには過飲過食を思想的にも避けることだ。そして、だんだんには一日二食以下ですませ得れば、この方法のため働く人のないための人不足などからの賃銀高は一週二三日の労役で一週間の出費に十分にさへなるだらう。世の中の景気だつて、むだをする人が多いからの景気、さうでないからの不景気などは笑つてやるがいゝのだ。君がむだのある出費をするために景気がよい方がいゝなどと思ふことは、その足もとから彼等に利用されることだけでしかないではないか。働かなければ食へないなどとそんなことばかり言つてゐる石頭があつたら、その男の前で「それはこのことか」と餓死をしてしまつてみせることもよいではないか。又、絹糸が安くて百姓が困るといつても、なければないですむ絹糸などにかゝり合ふからなのだ。第三者の需要に左右されるやうなことから手を離すがいい、勿論、賃銀の増加などで何時ものやうにだまされて「円満解決」などのやうなことはせぬことだ。貯金などのある人は皆全部返してもらつて、あるうちは寝食ひときめこむことだ。金利などといふことにひつかゝらぬことだ。「××世界」や「××之友」などのやうに「三十円収入」に病気や不時のための貯金は全く不用だ。細かいことは書きゝれぬが、やがて諸君は国勢減退などといふことを耳にして、きつと何んだかお可笑しくなつて苦笑するだらう。くどくどとなつたが、私の考へこんでゐたのは餓死に就てなのだ。餓死自殺を少しでも早くすることではなく出来得ることなのだ。

(詩神第六巻第五号 昭和5(1930)年5月発行)

 

 

 

    俺は自分の顔が見られなくなつた

 

 屋根につもつた五寸の雪が、陽あたりがわるく、三日もかゝつて音をたてゝ桶をつたつてとけた。庭の椿の枝にくゝりつけて置いた造花の椿が、雪で糊がへげて落ちてゐた。雪が降ると街中を飲み歩きたがる習癖を、今年は銭がちつともないといふ理由で、障子の穴などをつくろつて、火鉢の炭団をつゝいて坐つてゐたのだ。私がたつた一人で一日部屋の中にゐたのだから、誰も俺に話かけてゐたのではないかつたか。それなのになんといふ迂濶なことだ。私は、何かといふとすぐ新聞などに馬車になんか乗つたりした幅の広い写真などの出る人を、ほんとうはこの私である筈なのがどうしたことかで取り違へられてしまつてゐるのでは、なかなか容易ならぬことだと気がついたのだ、そして、自分にそんなことがあり得ないとは言へきれなくなつて、どうすればよいのかと色々思案をしたり、そんなことが事実であれば自分といふものが何処にもゐないことになつてしまつたりするので、困惑しきつて何かしきりにひとりごとを言つてみたりしてゐたのだつた。

 水鼻がたれ少し風邪きみだといふことはさして大事ないが、何か約束があつて生れて、是非といふことで三十一にもなつてゐるのなら、たとへそれが来年か明後年かのことに就いてゞあつても、机の上の時計ぐらひはわざわざネヂを巻くまでもなく俺がとまれといふまでは動いてゐてもよいではないのか。人間の発明などといふものは全くかうした不備な、ほんとうはあまり人間とかゝはりのないものなのだらう。――だが、今日も新聞には俺のことを何も書いてはゐない。そして、何が「これならば」なのか、俺は尾形という印を両方の掌に押してゐたのだつた。

(旗魚6号 昭和5(1930)年5月発行)

 

[やぶちゃん注:二箇所の「ほんとう」「言へきれなくなつて」「位ひは」はママ。「舌めて」は「舐(な)めて」と読ませるつもりであろう。本篇は、後の昭和5(1930)年8月に完成した第三詩集私家版「障子のある家」に所収される際、「印」と改題されて、以下のように改稿されている。

    印

 屋根につもつた五寸の雪が、陽あたりがわるく、三日もかゝつて音をたてゝ桶をつたつてとけた。庭の椿の枝にくゝりつけて置いた造花の椿が、雪で糊がへげて落ちてゐた。雪が降ると街中を飲み歩きたがる習癖を、今年は銭がちつともないといふ理由で、障子の穴などをつくろつて、火鉢の炭団をつゝいて坐つてゐたのだ。私がたつた一人で一日部屋の中にゐたのだから、誰も私に話かけてゐたのではない。それなのになんといふ迂濶なことだ。私は、何かといふとすぐ新聞などに馬車になんか乗つたりした幅の広い写真などの出る人を、ほんとうはこの私である筈なのがどうしたことかで取り違へられてしまつてゐるのでは、なかなか容易ならぬことだと気がついて、自分でそんなことがあり得ないとは言へきれなくなつて、どうすればよいのかと色々思案をしたり、そんなことが事実であれば自分といふものが何処にもゐないことになつてしまつたりするので、困惑しきつて何かしきりにひとりごとを言つてみたりしてゐたのだつた。

 水鼻がたれ少し風邪きみだといふことはさして大事ないが、何か約束があつて生れて、是非といふことで三十一にもなつてゐるのなら、たとへそれが来年か明後年かのことに就いてゞあつても、机の上の時計位ひはわざわざネヂを巻くまでもなく私が止れといふまでは動いてゐてもよいではないのか。人間の発明などといふものは全くかうした不備な、ほんとうはあまり人間とかゝはりのないものなのだらう。――だが、今日も何時ものやうに俺がゐてもゐなくとも何のかはりない、自分にも自分が不用な日であつた。私はつまらなくなつてゐた。気がつくと、私は尾形といふ印を両方の掌に押してゐた。ちり紙を舐めてこすると、そこは赤くなつた。

この篇、尾形亀之助を人口に膾炙させた1975年刊の思潮社現代詩文庫版「尾形亀之助詩集」を見ると、「ネジ」となっていたり、「ちり紙を舌めて」で「舌」の右にママ表記があったりと、有意な相当な相違点が認められる。現代詩文庫版は旧尾形亀之助全集を元にしていると思われるが、とりあえず私は現新全集を信じておく。]

 

 

 

    因果の序

 

 如何にも昨日が何かの記念日であつたやうに、昨日旗をたてかけてあつた隣家の門には今日は旗がない。これは、今日ではなく昨日がその日であつたといふことを示すことなのだが、幾年前が幾千年前であらうと、無数の記念日祭日をもつ国民に幸あれとばかりに、幾年か前の昨日幾年か前の明日を人達はていねいにくりかへしては祝ふのだ。

 「×年前の今日――」と、俺は小学校のときから聞かされたことだが、×年前の今日が未だに解せない。ものすごいことには、数千年前の今日といふのがあるが、これこそ無意味とルビをつけたナンセンスといふところだ。近い話が、昨年の今日といふより昨日の今日といふ方がずっと時間的な正確ささへあるのに――「数千年の××」しかもあまりにもその正しさは遂に「××××」とは、この俺といふものは、ただ時間のふさぎにといふので時計の化けものででもあるのか。

(詩神第六巻第八号 昭和5(1930)年8月発行)

 

 

 

    辻は天狗となり 善助は堀へ墜ちて死んだ 私は汽車に乗つて郷里の家へ帰つてゐる

 

 この夏は何に連いて来たのかと、ふんどし一本の昼寝の、眠りかけの白ぽくかすんだ中に、焦げつくやうな蝉の啼きごゑを聞き、前々ずつと夏ばかりの世の中ではなかつたかと思うふのであつた。なんでそれを思案さうに考へつゞけなければならないことなのであるのか、私はすぐには眠らなかつたやうであつた。六月の月始めから七月の月末へかけて、晴れた日と、曇つても雨の降らずにしまつた日が三四日あつたゞけで、あとは雨はかりが降つてゐたのだから、八月の前が七月、七月の前が六月と一つ一つとたぐつてゆけば、六月は五月に五月は四月にとまさしく一二三四の配列になるのであるが、その四月や五月のどこに私がゐたのだつたことやら、自分の後姿のやうなものさへいつかうにそこには見あたらぬ。暦の正しさは、昨年も亦一二三四と月が列らび、六月の次には七月にもなつたのであつたが、根津裏のゑはがき屋の二階にゐて、下を通る物売りの声に、又かまぼこやが通ると思つたりしてゐたのだ。そして、汗をながして、二三度は冷した西瓜を食つたりしたのだつたがと思ひ出してみたところが、丁度その頃は大きな船に乗つて外国へ行つてゐたとか、アフリカの原野にヘルメツトをかぶつて群象にとり因れて鉄砲をうつてゐたとかといふのとくらべて、人はねうちのないつまらぬことを思ひ出すものだと私を思ふだらう。西瓜を食つたといふだけの材料で、すばらしい、あつと言はせるやうな思ひ出とするには、この場合西瓜といふ果物が味や形は兎に角として、仮にパンのやうにもさもさと喉につまるやうなものであるとしても、ひどく珍らしい、三十年に一個とか半世紀に一個とか位ひだけしか世には現れぬものでなければならぬのであらう。それにしてもあまり骨が折れることだつたり、苦心や冒険や自分でも二度と後にはそんなに早くは走れぬはど早く走つて、又とない記録を残したといふやうな感激などを必要な条件として、思ひ出とか記念写真とかといふものがあるのであれば、たとへさうしたものを一つももたないために恥かしい思ひをし、人に顔むけが出来ぬといふのであつても、そのときは上手な作り話の嘘を談つてもなんとかまにはあはふし、思ひ出ほど愚かなことはないと断然口をつぐんでしまふのも一法ではないかと、私はたぶん眼を開けたまゝ、くどくどと考へたり声を出さずに物を言つたりしてゐたのだつた。そして、庭のひまはりがひよろひよろと一丈近くものびて花をならべてならんでゐるかげの隣りの赤い屋根と、その横のトタン屋根とがかさなつてゐる上の空が、どうしたかげんか斜面に見えるので、軀の畳についてゐる方の側が畳なりに平らになつてゐるのだから動かずにゐればどこへも転がり落ちるやうなことはないのだとじつとしてゐたのだ。だが、それにしても、何のための昼寝で、寝そびれたからといつてどんな風に損なのか、煙草でものまふかと後をふりかへると、子供に乳をふくませて女房が座つてゐた。一月遅れの七夕は夕方から雨になつた。

(新詩論第一冊 昭和7(1932)年10月発行)

 

[やぶちゃん注:この風変わりな題名は説明が必要であるが、私はこの個々人の事蹟に暗い。長くなるが亀之助の優しさを伝える忘れ難い話であるので、正津勉「小説尾形亀之助」より該当部分(同書221p~222p)を引用する。三十二歳の尾形亀之助が尾羽打ち枯らして東京から故郷仙台へ帰った昭和7(1932)年三月末のこと、親交のあった詩人にしてダダイスト辻潤が発狂したという報道に接する。『「うわばみのお清」こと愛人小島きよの目の前で「とうとう天狗になったぞ、天狗に、羽が生えてきだしたぞ」と叫んで二階から飛び降りたというのだ。亀之助は衝撃を受けた。わなわなと身体が震えやまなかった。』。そして『六月のある深夜、詩友の石川善助が泥酔して東京は大森八幡坂付近で線路ぞいの側溝に墜ち、不慮の死をとげているのだ。じつは石川は跛足だった。享年三十三歳。石川は明治三十四年仙台市に生まれ、亀之助の一歳下。昭和三年、二十七歳で上京して浮浪、そののち草野[やぶちゃん注:草野心平。]屋台の焼鳥屋で働いていて、亀之助と同郷のよしみもありよく酒席をともにしていた。突然のその訃報。亀之助は石川善助遺稿集『鴉射亭随筆』(昭和八年七月)に「石川善助に」と題して追悼している。』(改行)『「何の会であつたか、例によつてといふので、彼はゑびコとかんじかコの踊り[やぶちゃん注:不明。東北地方の民謡舞踏であろうか。【2023年5月17日追記】Facebookの知人で尾形亀之助にお詳しいYumiko Suzukiさんから、先ほど『佐々木喜善と同様、宮沢賢治と深く繋がる石川善助についてですが、尾形亀之助が鴉射亭随筆に書いた「ゑびコとかんじかコ」の踊りは、「庄内おばこ」と判明✩.*˚ 海老と蛙が相撲をとって、投げ飛ばされた海老の腰が曲がったという民謡でした。亀之助は、脚の不自由な善助が踊っている姿を痛々しく思ったのですね。』という御情報を頂戴したので、ここに挙げておく。心から御礼申し上げるものである。]をやつた。私はいやな感じがしたので、帰途に『今度からあんな風に踊を所望されたら会費を返してもらふんだね』と言つたら、彼は『はあ――』と言つたきりで黙つてしまつた」』(改行)『これはどういうことか。会合などで石川に「踊を所望」してその跛足の所作に大笑いする馬鹿がいる。そんなゲスどもを絶対に相手にするなという、心底からの忠告なのだ。これぞまことに亀之助らしい追悼であるのだろう。』(改行)『――善助よ、せめてあの世ではそんなバカなまねはするんでねぇぞ。「意志は梵(ブラフマン)に向かつて飛ぶ、」(「候鳥通過」)と歌つた、善助よ……。』(改行)『この二ふたつの出来事は亀之助をゆさぶった。それがあったことでまた詩を書きはじめるのである。そうして帰郷後最初の一篇「辻は天狗となり 善助は堀へ墜ちて死んだ 私は汽車に乗つて郷里の家へ帰つてゐる」を発表している。この題名ながら、辻の発狂、善助の死、について一言もない。でなくてただもう郷里の家へ帰った「私」の脱力の日々が綴られているだけ。これもまた亀之助らしいのだ。』。

 この正津氏の文章の中に現われる「意志は梵(ブラフマン)に向かつて飛ぶ、」(「候鳥通過」)は以下の善助の詩の一節である。「馬込文学マラソン」「石川善助」の頁より孫引きする(石川善助没後4年の昭和111936)年原尚進堂(島根県大社町)から発行された草野心平編・序高村光太郎になる詩集「亜寒帯」の「北太平洋詩篇」からの引用と思われる。該当頁の一部記号を省略した)。

 

候鳥通過

 

夕暮の黄に明滅し、

おびただしい候鳥のむれむれが、

かをかを啼いて島を過り、

微塵のやうに地平線(おき)へ墜ちる。

 

季節の流すあれら散點、

永劫の空に現はれ消える

時間のなかの悲しい擦過。

 

意志は梵(ブラフマン)に向つて飛ぶ、

あけくれ啼いて鳥と飛ぶ、

疲れた肋體(にく)の内面に

黒い點描をのこしてゆく。

 

 尾形亀之助には別に石川への追悼文がある。「石川善助に」を参照されたい(私のブログ掲載分)。

 本詩の掲載された『新詩論』は吉田一穂編集になる。尾形亀之助は昭和171942)年12月2日、餓死自殺の希望を叶えるように孤独に死んだが、二人の後れた辻潤も二年後の昭和191944)年1124日、東京都淀橋区上落合のアパートの一室で虱にまみれて餓死した。60歳であった。]

 

 

 

    足のない馬

 

 それは見たところ、けだものといふよりは魚類の何かに似ているのだ。足のあるあたりは、なでてみたいやうな腹部からの丸味がのびてそのまゝ背につゞいてゐるので、水の上なら首のつけねの辺のところをはげしくうづつかせて泳ぐのではあるまいかと思はれるが、地面の上ではいつたいどんな風にして歩くのであるか。考へてみれば、腹を地面につけてゞは、子供のぎつこんばつたんのやうにしかならぬであらうし、何かでこぼこしたものに咬みついて首を締めてみたところがそれで十分前進するものとは思はれぬ第一それでは腹の皮がすり切れるだらうし痛いではないか後になつて、つり上げられてゐたのでもないのに、不思議に腹のところは何にも触れてゐなかつたやうなおぼろげな記憶は、腹の下に赤いふとんか何かを敷いてゐたのではなく、又たいして腰をかゞめずに腹を見たのだから、馬は、腹を上にして寝かされてゐたのだつたらう。さすがにそれは翼などが生えてはゐなかつたのだ。

    (獣帯2号 昭和8(1933)年1月発行)

 

 

 

    迎春失題

 

 今日も、昼前のうす陽のさす軒先にちらちら雪が降り初め、冷えた昼の飯は塩鮭の匂ひがする。箸からなのか、それとも冷えてたよりなくなつた飯に、どこかで焼いてゐる塩鮭の匂ひが来てつくのであるか。つゝましく座つて、茶をかけて口に流しこめば、茶にうるけた飯はいくど目かの茶をかけても茶わんの底には残る。ただ寒いばかりの冬。ほんに来年は俺にはどんな年なのであるか。天罰といふものがあり、暦に嘘があつて、気づかずに自分が幾年も同じ年月をくりかへしてゐるのであれば、俺は面白がつてわれとわが身に抱きつくこともしよう。

 低い陽は早くから暮れ、街の上の雲はそのまゝ動かずに消える。そして、どうして又俺は火鉢のそばにばかり寄りたがるのか。隣家の明るく電燈のつく窓は、黄色や赤や紫色の恥しいやうな模様の着物を着た人達がラヂオや蓄音機にあはせて立つたり歩いたりしてゐるやうな、壁なども綿のやうなもので出来てゐて、鶴のやうな鳥などが三々五々人達の間に交つてゐるのではあるまいか、とふとそんな風に思ひ、そしてなぜ隣家はにぎやかなのかと不思議になるのだ。やがて、俺は鼻緒のゆるんだ下駄を履き、寒むい手をふところに入れて、風に吹かれて街へ出て、熱いそばにむせつて涙をにじませながら食ひ、食つてしまへばあとは帰るばかりなのだから又来た路をひきかへすのだが、暗いなと思ひながら家に入り、それでもいくぶん安心した気持になつて床に入れば、何時の間にかは眠つてしまふのだ。

(新詩論第二冊 昭和8(1933)年2月発行)

 

 

 

    庭園設計図案 (或る忘備帖)

 

 三人の若い男達はてんでにこゝへ梅の木そこへポプラどこへ何の木といふ風に庭を造るので樹を植えてゐました。さう広くはない庭なので、そこのとこへは楓にしやうと思つてゐたのに松を植えられてしまつたとか、こゝに噴水を造つて三角の花壇を置くことにするとか、それではばらを植える所がないからも少しそつちにやれとかやらぬとか、それから、一年に四度花の咲くがいゝとか、それでは池が糸屑のやうな形になつてしまふではないかとか、それなら池は庭の上に釣るして置くがいゝとかいふやうなそんなことになつて、樹や池や山林風の小山などの大部分は垣根の外側へはみ出し、子供のためには是非と言はれたぶらんこは四五軒先のよその家の庭に丁度よいぐあひに置けてしまつたりしてしまひました。又、亭(あづまや)はこんなところに造つて置くよりは四五丁離れた駅前の安カフェーの中に置くことにした方がよからうと男達の意見が一致して、彼等は朝から赤い顔をしてゐるのでした。私は実は、其処へは庭を作る以前からちよいちよい行つてゐたのだし、庭を造る下相談に男達を連れて一ぱい飲みに行つたのもその駅前のカフェーなのであつたのだからそれはいづれ又何んとか遣り直すにしても、垣から庭がはみ出してしまつたのには困つてしまひました。垣の外は路で、朝は早くから牛乳屋や新聞配達や豆腐鼻が通るし小学校へ行く近路でもあるし、後の原つぱがなくなれは袋露地の入口にもなるのだし、自分の家の門をどこへつけたらよいのか、ぶらんこが四五軒先の家の庭へ行つてしまつたことや池は場所がないから庭の上に釣り下げるといふ説明を聞かされた妻は腹を立てゝ私には口をきかない。植える木がなくなつたのか男達の姿が見えないところをみると例の亭へ引きあげて又ビールを飲んで酔つてゐるのだらうか。私はよい智恵もなく、困つたと言へばなるほど困つたことだが、しかしつくづく庭を見れば、三人の男達がかつてかつてに植えこんだ木々や小山の凸凹も新しい味があつて大変面白く垣からはみ出してゐる桜や欅の並木にも愉快になり「すばらしい出来だ、君達にたのんでよいことをしたよ、僕にもーぱい呉れ給へ」と、自分も亭(あづまや)へ出かけずには居れなくなつてくるのであつた。「ぶらんこが四軒目の家の庭へ行つてゐるのなんざあ何んといつても秀逸だ」と、一人々々に握手をして肩を組んで踊つてもみたくなるのだつた。が、「あきれた人だ」と妻に言はれたことを思ひ出し庭の上に釣り下がつた池などを想へば、どうしたものかと思案に粉煙草をふかし火鉢をつゝいて泣いてすむことならばと、そんなことも思つてみたが、自分の家にぶらんこがなく他の家にあるといふことも不思議なことではないし垣の外に桜や欅の並木のあることもさしつかひのないことだつた。庭の上に池を釣るすといふのも未だ仕事にかゝつてゐないからよくはわからぬが金魚鉢でも釣るさうといふのではなからうか。さうだとすれば全くなんのこともないし、庭のまん中ごろに、松、竹、梅と列びその後に梨、粟、李、柿と果のなる木が一列になつてゐるのなどもありふれた風流などでは思ひ付かぬところではないか。私はぽんと膝をたゝいて妻を呼んだ。妻はさつき見たときと同じやうな悲惨な顔をして子供をひとり抱へて、もう二度と詐(だま)しにはかゝらぬといふのであらう、ながながとした説明をてんで聞いてはゐないので私は幾度か垣の外に桜や欅の並木があつたつておかしくはないことぶらんこなども隣家にあつて自分の家にはなかつたこともあつたではないかと、くどくどと説いてやつとなつとくしてもらつたが、あの三人の若い男達を相当の月給で雇ひ入れて「新案庭園設計社」の看板をあげることには頑として聴き入れぬのであつた。そこで、私は尚も言葉をつくして自分の家の庭にはこれ以上彼等が手を入れぬこと桜や欅の並木は垣の外でもよいがぶらんこは自分の庭にないと不便だといふ彼女の申出に賛成するといふ条件付で、亭(あづまや)から彼等を呼寄せる使ひの老を出したが、私は忘れないうちに路々自分の抱負を語るためにいそいで家を出た。

(歴程1号 昭和101935)年5月発行)

 

 

    又は三角形の歴史――クレオパトラ

 

歴史(れきし)はナイルのやうに濁(にご)つて流れる。クレオパトラの鼻(はな)がよしやもー分低くも、むろん歴史は変つてはゐない。

歴史家を思案(しあん)さすほど美人(びじん)故、もろくもシイザー老は染毛(そめげ)をし、アントニウスも現(うつつ)をぬかした。

アラアの造物は尖(とが)つてピラミツドとなれば、彼女(かのじょ)の鼻もビラミツドとなり、恋(こひ)もあやしき三角(さんかく)のピラミツドとなる。

「ブルータス、汝もか!」と、五十三のシイザーは名科白(めいせりふ)をのこし、身に二十三の創(きず)をうけて死(し)んだ。アントニウスは四十三が最後。誠(まこと)、恋(こひ)に死なぬ老やはある。無情、彼女は三角形の無花果の葉より三角な毒蛇(どくじや)の頭をつまみとり、その三角形(さんかくけい)の乳房を嚙ました。

紀元前(きげんぜん)三十年。三十八の彼女の死(し)は、これらのお噺(はなし)を終りにする。

挨及の月(つき)は三角(さんかく)、そして、ナイルのデルタも三角。ビラミツドも三角であつた。歴史(れきし)、伝説(でんせつ)に「三」の字(じ)が多いとか、これも亦(また)その例にもれざることこそめでたし。

(〈むらさき〉昭和1212月号 昭和12(1937)年12月発行)

 

 

 

    風邪

 

いつかの夢で見たのかな

それとも噺にあつたのか

不思議となんでもおんなじに

風邪で寝てゐたことがある

丁度このやうに寝かされて

おんなじやうにそのときも

ガラスのくもりも陽のかげも

薬も盆も水飲も

シイツのぬれた形から二時をうつてる時計まで

何から何までそつくりとおんなじことがもう一度

あつたやうだと眼をつむり思ひ出せずにゐたのです

(暦程7号 昭和141939)年7月)

 

 

 

    浅冬

            ――こんな言葉はあつたらうか――

        しやぶつてゐる飴玉を落し、そのまゝ口に入れることは偉い。

        又、泥をぬぐつて口中にもどすことも偉いことだ。たゞその

        まゝすてゝしまふ子は悲しい。

 

 急に寒むい日が二、三日つゞくと、あとは冷い雨になり、朝は暗いうちに六時が過ぎてゐたりするのだつた。

 ぶどうの葉も欅の葉もかさかさになつて落ち、雑草の叢は枯れて透き、板べいのもぎ取れた穴が方方に口をあけ、紙屑は庭いつぱいに散らばつてゐる。火鉢は煙草の吸殻で埋づまりこの冬は炭をたくとも思はれず、幾日も掃除をしない部屋の中の寒々しい子供等を思ふと、如何にも寂びしく暗い。昨日もー人の子はずぼんがひどくよごれたとかやぶけてゐるとか言つて三日も学校へ行かずにゐることがわかり、私は腹を立てゝ胸をすつぱくした。私は寒むくなることが怖くなつた。妻が去つて半年が過ぎたのだ。


 靴底に泥を吸はせ、ぬれた靴下のはき心地わるく、もう燈のともつた街に役所を退けて、私は消残る夕焼の山の頂に眼をすえて歩いてゐるのだ。

 子供等は、足を冷めたがり寝床に入つて私の帰りを待つてゐるだらう。私は小さい掌に饅頭などを一つゞつ渡し、うつかり眠つてしまつてゐる子の額を撫でてゆり起さなければならぬのだ。そして、夕飯を食べるのだ。

(歴程詩集 紀元二千六百年版 昭和161941)年2月発行)

 

 

 

    雨ニヌレタ黄色

 

 花デハナイ。モミクチヤノ紙デハナカラウカ、

 景色ハ、ソノアスフアルトノ路ノ上ノ黄色イモノニ染マルコトモナク、イツサイガナントナク澄ンデヰル。

 自分ハ、ソレヲナガク見テヰタノカ、変ニ疲レタ気持サヘシテ、ナンダカ服ノ中ノ体ガ寒ムクナツタ。

 ト、突然私の眼ニアフレテ一群ノ兵隊ガ通ルト、モウ黄色イモノハナク、燈ノ消ユタヤウニソコラガ白々シイ薄暮ノ雨ノ路トナツタ。

(歴程16号 昭和161941)年9月発行)

[やぶちゃん注:「私の眼」の「の」はママ。]

 

 

 

    大キナ戦 (1 蠅と角笛)

 

 五月に入つて雨やあらしの寒むい日が続き、日曜日は一日寝床の中で過した。顔も洗らはず、古新聞を読みかへし昨日のお茶を土瓶の口から飲み、やがて日がかげつて電燈のつく頃となれば、襟も膝もうそ寒く何か影のうすいものを感じ、又小便をもよふすのであつたが、立ち上がることのものぐさか何時まで床の上に座つてゐた。便所の蠅(大きな戦争がぼつ発してゐることは便所の蠅のやうなものでも知つてゐる)にとがめられるわけもないが、一日寝てゐたことの面はゆく、私は庭に出て用を達した。

 青葉の庭は西空が明るく透き、蜂のやうなものは未だそこらに飛んでゐるらしく、たんぽぽの花はくさむらに浮かんでゐた。「角笛を吹け」いまこそ角笛は明るく透いた西空のかなたから響いて来なければならぬのだ。が、胸を張つて佇む私のために角笛は鳴らず、帯もしめないでゐる私には羽の生えた馬の迎ひは来ぬのであった。

(歴程19号 昭和171942)年9月発行)