心朽窩へ

鬼火へ


尾形亀之助作品集『短編集』


 (未公刊作品集推定復元版 全22篇) 附やぶちゃん注

 

[やぶちゃん注:本ページは尾形亀之助が生前出版を企図してながらついに実現し得なかった作品集である『短編集』の推定復元版である。冬樹社1979年刊の秋元潔「評伝 尾形亀之助」によれば、尾形亀之助は当初、現在知られる第三番目にして最後の詩集である『障子のある家』(昭和5(1930)年8月私家版)のような本を作るつもりはなかったと記す(以下、同書より引用)。

   《引用開始》

『雨になる朝』のつぎに考えていたのは、『短編集』である。『短編集』は、昭和四年九月刊行のはずだった。(亀之助は『雨になる朝』刊行案内の文章の中で、「自分としては、九月に出版する短編集のために読んでおいて欲しいと思ふ」(「さびしい人生興奮」『詩と詩論』第四冊・昭和四年六月)と書いている。)

『短編集』の刊行は実現しなかった。『電燈装飾』という表題まで用意して、昭和二~三年頃刊行するつもりでいた第二詩集の場合と同じである。それは『雨になる朝』になった。今度は『短編集』が『障子のある家』になった。『雨になる朝』と『障子のある家』が、亀之助の一つの顔ならば、未刊の『電燈装飾』と『短編集』はもうひとつの顔である。[やぶちゃん注:中略。]

これらの作品[やぶちゃん注:『短編集』に所収された可能性のある作品群を指す。]『障子のある家』の散文詩とは異質である。は、『短編集』が刊行されていたら、亀之助の詩人像、作品評価は今と変わっていたろう。『短編集』に収められるはずの作品は、ロマンチックな雰囲気につつまれ、明るく、才能のひらめきを感じさせる。

   《引用終了》

上記引用部の中略部分には秋元氏が推定する『短編集』の作品群が、初出掲載誌順に細かく掲げられている。私は、この秋元氏の『『短編集』が刊行されていたら、亀之助の詩人像、作品評価は今と変わっていたろう。』という言葉に深く惹かれたのである――であれば私たちは、今からそうしたスリリングなパラレル・ワールドの、もう一人の尾形亀之助に逢いに行こうではないか――。

 ついては秋元氏がこれら21篇を厳密に(勿論、氏は「など」と留保はされている)選び出せた根拠はつまびらかにしないが(例えば拾遺詩の中の何篇かがここに組み入れられていたとしても全くおかしくはないし、二篇だけを秋元氏が挙げる「A Corner Shop」の作品群の他の篇を、何故、氏は採らないのかといった疑問等を私は抱いている)、既に秋元氏は昨年春、鬼籍に入られ、確認すべくもない。ただ思い至ることは、同じ秋元潔氏の編になる思潮社1999年刊の増補改訂版「尾形亀之助全集」で、やや不審なジャンル分けを氏がしていたのは、実はその『物語(夢譚・無声映画シナリオ・戯曲・小品)1926-1930』でこの『短編集』の復元を試みられたのであったということである(A Corner Shop」の二篇をその前の『評論(映画評・詩集評・詩評/雑感・エッセイ)1922-1939』から持ち出し、『物語』の最後の「カルルス煎餅」を除去すれば、ここに美事な秋元潔推定版『短編集』となるのである)終生、尾形亀之助に拘ってこられた詩人秋元潔氏への敬意をも込めて、ここに同氏の推定に基づいた復元をほぼ忠実に行うこととする。

 但し、「評伝 尾形亀之助」以後に発見されたとおぼしい、秋元氏が本作品集に所収された作品と同時期に書かれた小説一篇「北海道の旅」を「毒薬」の後に挿入させて、全22篇とした。気持ちとしてはこれに加えて、全ての最後に、あの佳品「カルルス煎餅」を加えたい、かきむしるような欲求に駆られるが、あれはまだ書かれてはいないのである――

 すべての底本は秋元潔編思潮社1999年刊の増補改訂版「尾形亀之助全集」を用いたが、元号の後には底本にない西暦を附した。作品の順序は「北海道の旅」を除き、「評伝 尾形亀之助」の355pの発表順記載に基づくが、作品タイプが異なり、同頁で秋元氏もリストの最後に纏めておられる戯曲・シナリオ三篇(「彼等の喧嘩」・「電車の中で」・「口笛の結婚マーチ」)は末尾に組んだ。

 なお、亀之助は歴史的仮名遣に破格が多く、いちいちママ注記をするとうるさくなるので許容出来るものは特に注記していない。但し、「朝馬鹿」は破調・誤用が目立って多く、例外的に三種類のテクストを用意した。傍点「ヽ」は下線に代え、冒頭に私の書斎で百日を経過した黄色いカナリアナスの実をOCRで強姦的に読み込んだ画像処理の一枚を架空の挿絵として手向け、更に目次を配して、一部に私の注を附した。――52歳の私の誕生日の朝――【2009年2月15日】







       目次



   白い昼の狐

   影を

   朝馬鹿

   悪い夢 或ひは「初夏の憂欝」

   青狐の夢

   毒薬

   北海道の旅

   犬のばけもの、躑躅、雀、燕

   窓

   話

   不思議な喫煙者

   美少女

   アラン酒

   こけし人形

   月と手紙

   B

   硝子戸に虻がとまつてゐた

   R氏のノート

   地球はいたつて平べつたいのでした

    * * *

   彼等の喧嘩   (戯曲)

   電車の中で   (シナリオ)

   口笛の結婚マーチ(シナリオ)

 

 

 

    白い昼の狐

 

 「何時だつたかしら、三年ほど前に私が初めてお宅へあがつたときに奥さんがまるまげに結つておいででしたね。そして、その時、ろうそくをもつて玄関に出て来なさいましたよ」

 

    ×

 

 ねが正直な男なのだから嘘を云ふわけはないし、又そんな風な作り事で相手を変な気もちにおとし入れて面白がるといふやうなわるさを楽しむ種類の男でもないので、「妻がまるまげに結つてろうそくをもつて………」と云ひかけられて私はびつくりした。そしてあまり不意だつたのでほんとうにそんなことがあつたのかどうかを自分に問ひただすのにあはてたぐらいだった。

 私は、まるまげとろうそくなどの組み合せが気恥かしいやうな気持になつて、「さあそんなことがありましたかね、あなた、見違ひではありませんか……」と簡単に口がきけなくつて、そこに居るうちはうつかり顔があはされない気がした。で、心もち眼をふせるやうに背を曲げて動かないでゐた。そして妻がまるまげに結つた事があつたらうか――ろうそくなんかもつて、とそれをたしかめるのに懸命になつてゐた。

 それに、「そんなことはなかつた」と云ひ切るのには少し私には弱みがある。妻はまるまげを二度ほど結つたことがあつた、がそれは郷里にゐる頃で東京へ来てからはたしかに覚えがなかつた。私が気づかずにゐる間に妻がこつそりまるまげに結つてゐやう筈がない。あのつよい油の匂ひを嗅ぎのがすわけはないし、私がうまくごまかされて初めて訪ねて来た男が、その晩停電してゐる玄関に入いつて来てろうそくを持って出た妻のまるまげを見つけたといふやうなことがあらうか。

 それに、私はこの男が三年前に私の家へ訪ねて来たといふことを聞くのが初めてであつた。

 

 私はかすかにまるまげにつける油の匂ひがしたやうな気がした。

 ちよつと相手の肩でもたたいて「何か聞違ひだよ、そんなことは一ぺんもないんだから」と云ふより他はないと思つたが、かうしばらく黙つてゐた後で又妻のまるまげのことを云ひ出すのは、いかにもこだはつて考へてゐたやうに思はれるのがいやだつた。

 その男は、とぬすみ見ると、すまして何か本を読んでゐるのです。日向の黄色い大きい花を三つもさしこんだ花びんのそばに腰をかけて――、そして私がその男の方へ視線を向けてゐるのを感じると、本から顔をあげてちよつと私に笑ひかけて又本に眼を落してしまつた。

 静かな部屋の中で三時が鳴つた。

 さつと立ちあがつて部屋を出て行かふと思つてゐても思ひのままにならなかつた。

 そして煙草を吸ふ手つきなどもひどくぶきようになつて、額の皮がこはばつてしまつて私は平手でなでたりもんだりした。

 時計が三時をうつてからもしばらく経つて、私はやつとのことで立ちあがつた、そして、その男に近よらないやうにして部屋を歩いてみてから部屋のそとへころげ出た。

 私は書斎に帰つて机に肘をついて煙草をのんでゐた。肩がはつてゐた。そして日向の花のわきで静かに本を読んでゐる男の態を想つてゐた。

 妻がまるまげに結つてゐたといふ話を私にしたのはその男かしら、――三年も前に訪ねて来て、妻がろうそくをもつて玄関に出て行つた。――と私のうつかりしてゐるところを夢のやうな話をして驚かして置いて、自分はすまして本を読んでゐるとは……。

 

    ×

 

 だが、私はしばらくして、白い狐が私の書斎に来たのに気がついた。

 (白い私の客は細いやさしい眼をして肩のあたりの優雅な美くしい線をうねらして書斎の中を歩いてゐたのだ そして沈んだ調子で私に話しかける顔がなんとも云へない寂びしさを想はせ、銀紙をはりつけた額、薄い唇、絹のやうに細い足――。私は少し白すぎはしまいかと思った………まるで透きとほつて見えないやうにさへなつてしまふのだから。

(月曜第一巻第一号 大正151926)年1月発行)

 

[やぶちゃん注:最終段落の「書斎の中を歩いてゐたのだ」の直後の空欄はママ。また同じく最終段落の丸括弧(『(白い私の客は……』)の閉じる方は脱落している。というより、ここは以下全文が丸括弧で閉じるを設けず、余韻を持たせたと考えてよい。亀之助は昭和3(1928)年、この妻タケと離婚するが、彼女は亀之助が同年1月に結成した「全詩人聯合」の最大の協力者にして詩友であった大鹿卓(金子光晴実弟、後に小説家に転身)の元へと走っている。年譜を見ると、この大正151926)年9月には大鹿卓詩集「兵隊」の出版記念会に出席している。この「白い昼の狐」が大鹿卓であったら、どきっとするところだが、大鹿とは草野心平の紹介で逢っており、心平と亀之助の邂逅は前年の十一月十日の「色ガラスの街」出版記念会でのことで、「三年ほど前に私が初めてお宅へあがつたときに」からも、残念ながら「事実」としてはありえない。ありえないのだが……。]

 

 

 

    影を

 

 風ひとつない庭を静かに犬が通つて行つた。

 誰か、名を呼ばれても返事をしないでゐるのではあるまいか………深く曇つた空はとうとう雨になつて彼は窓近くぼんやり椅子に腰かけてゐる。

 

 今はもうないのだが、幻想の中に訪れて来る或る女性がゐた。そして、薔薇色の明るい夕暮などには窓の下に来てゐるやうにさへ思つた。窓から首を出せばそこらに立つてゐはしないかと。遠くかすんだ大きい木の下を歩いてゐるやうにも思へたし又、丁度いま、彼女は彼にあてた手紙を胸をはづませながらポストに入れて美しい花などで飾つた部屋に帰つて、赤い唇で彼の家の見える窓に接吻したな、と思つたりしたのだが。

 

    ×

 

 夜が更けて、幾度か耳をすましても彼には彼女のやはらかな寝息が聞えなくなつてしまつた。

 それからといふものは、繰りかへし繰りかへし来る毎日を彼はほとんど手から煙草をはなさなくなつた。そして、夜も昼も眠つたふりをしてゐるやうにながかつた。三時間ばかりのうちに二度も飯を喰べたりした。昨日の今頃――一昨日の今頃――その前の今頃も、その前の日のも一月も二月も前の、明日あさつての、その次の日の――と何時も彼はらつきよ臭い息を吹きかけられてでもゐるやうに顔をそむけた。全く同じやうに、彼にはほんのわづかの違ひも見ひ出せなかつた。そしておちついて本を読むことも、散歩に出かけることも彼はしなくなつた。

 此頃、夜になると蛙が啼いた。

 雨の降りそうな晩など彼は仰向けに寝ころんでゐて、電燈のあたりから彼の目ぶたへたれてくる睡蓮の花に手をさしのべたりした。

 彼にはどうにも出来なかつた。痛みこそないがたしかに春が頭をなぐつたのだ、とそう思つた。そして肩のはるやうな重い心持になつて部屋を出て、便所へなど行つて勢のない小便をした。

 しん・かんと蛙は啼いてゐた。彼は煙草をいくほんものんでゐた。彼の心の中までが暗く雨が降つてゐるやうであつた。

 蛙が、――彼は部屋の中にも蛙がゐるやうな気がした。ひつそりと自分と列らんで………何処かの宮殿の階段に、右と左に蛙と自分が大理石の上にちやんとブロンズか何かになつて乗つてゐて、蛙も大変とりすましてゐるし自分も顔がやせて見えるほど真面目な。――と、彼は椅子にかけたままかたくなつた。出来るだけ顔をまつすぐ向けて、丁寧に両手をひざの上に揃へて、息をとめた。

 ――そのあと、彼はつくづくそのまま漠を鏡に写して見た。

 彼は、どうにも顔の中に自分といふものが居ないといふやうなことに気がついた。顔は、実際は、煙草をのんだり鏡に写つたりしてゐるのだがほとんど全部が不審な形であつた。

 これは俺ではなく、いつも自分につきまとつてゐる少しぐらいは魔法を心得てゐる怪しいものなのだ、ほんの一部分だけが自分で、それもはつきりとはしてゐずにたいていは影のやうで、ことさらに手や顔には恐怖や幻想を感じてゐるほどだ、と。

 彼は詳細に鼻の穴の奇妙などを考へた。そして鼻からは口、歯、耳と見てゐるうちに気もちがわるくなつてしまつた。舌、はぐきはまるで犬と同じものであつた。いそいで寝てしまはふかと思つたが、床に入つてから眠るまでの苦労を思ふとそれも出来なかつた。

 

 窓もあつた。遠く大きい木も立つてゐたが、もう何処にも彼女の影を思ふことは出来なかつた。

 例とへ魔法の杖の先から出た憧れであつた、としても、今は淋びしい夕暮であつた。彼はやがて彼女に逢へるものとばかり思つてゐたのだ。今日はだめでも明日は――といふやうにして、突然自分が立つてゐるやうな寂びしさで待ちつづけてゐたのだ。彼女から来る手紙は、とうに彼女がポストに入れてしまつた。ポストの底まで落ちてゐなくても、手紙をポストに投げ入れて、はつとした。もも色の顔をたもとにつつんで家の中に馳けこむのを、わざと見ないふりをしさへしてゐたのだ。そして、通りかかる郵便配達をさへ見ないふりをしてゐたのだ。が、今度の郵便では彼女の手紙がとどくと思つてゐたのだ。「郵便やさん、どうせ又忘れて来たんだね」つて、郵便配達が路をまがつて来るのを二階から見てゐて、そう云ひかけて居たんだ。そしてしまひには郵便配達が彼女の手紙をとつてしまつたのではないかしらと怪しむやうになつて、あの顔が――と、配達がおこつてゐるやうな顔をしてゐるが何かわけがあつて、彼女から来る手紙をぬき取るためにあんな顔をしてゐるのかも知れない。これはひよつとすると決闘ぐらひはしなければなるまいものを、と、そして或時には、ちやんと郵便配達の黒い鞄の中に入つてゐたのに――、今日こそは呼びとめて鞄の中を探して見たい、きつとあるのにと焦燥した。――「どうだ。これ、これは、この桃色の梅の花の模様のは。何処へもつて行かうと云ふのだ。見給へ、一年も前の日附を、そら、スタンプだつてこんなにはつきりと一年の前なのだ。俺はとうから君があやしいと思つてゐたのだ、とうから君のその鞄の中にあるのを知つてゐたんだ。ちやんと知つてゐたんだ。彼女がこれをポストに入れたときのことを――息のねがとまりそうになつたほどしんけんな恥かしさを。倒れそうにさへなつたんだぜ。何んと云つて君は申しわけをするんだ。君の命はもらつた。――さあ、一緒に彼女のところへ行くんだ。」

 と、力いつぱい配達の鼻を引つぱつて彼女のところへ昇非行きたいと思つた。

 彼は又、こんな夢ばかり毎夜のやうに見たのだ。――彼の神経のどこかがポストになつて立つてゐると、彼女が彼にあてた綺麗な封筒を入れて行つたので彼は集配人がポストを開けにくるのを大変待ちこがれてゐた。が、いくら待つてゐても集配人がポストを開けに来ないので、彼はすつかりあせつてしまつて丁度、胸のやうにせはしく息をしてゐた………。

 

 彼はまだ椅子に腰かけたままだ。青い毛糸のシャツを着てゐる人を遠くで見るやうな頼りなさだ。彼は何時までもそうしてゐなければならないだらう。

 しかし、おお、彼は不意の思ひつきをうれしそうにしばらく爪を鋏んだ。

(月曜第一巻第二号 大正152月発行)

 

[やぶちゃん注:私には最後の「爪を鋏んだ」が不審であった。これは「爪を鋏(はさ)んだ」としか読めず、爪切りを持ち出して爪を鋏んで切り始めた、というのでは如何にもたるんで言葉足らずとしか思われない。これは「爪を嚙んだ」の誤りではなかろうかなどと考えていたのだが、「不意の思ひつきをうれしそうに」という心情で「爪を嚙む」のでは、これはなおのこと、おかしい。はたと気づいた。何のことはない、やはりこれは悠々と爪を切っているである。我々は不満足な苛立ちの中で敢えて普通は爪は切るまい。どこかで爪を切れるのは、そこに会心の安堵の余裕があったからだったとすれば、納得が行く。これは多分、爪を摘む、「爪を鋏(つ)んだ」と読んでいるのであろう。さても、この永遠に配達されない恋文の相手は既に吉行あぐりであろうか?]

 

 

 

    朝馬鹿〔①底本準拠版〕

 

 夏の夜があけて、一時間ばかり経つた頃だつた。羊吉はひとりでに眼が覚めてしまつた。

 羊吉はもうひと眠りしなければならなかつた。ので、しぶい眼をそつとつむつて顔を埋めてゐたが、何か思ひ出すことでもあるやうに腹這に起きなほつて、眼の前にたるんだ蚊帳に二三べん煙草のけむを吹きかけてみたりしてそれから初めてしんとした蚊帳の中を見まはした。

 一晩寝みだれた姿がそのままぐつたり疲れてゐた。そして朝の薄い光の中に蚊帳いつぱいに、彼の肩のところにはこの春やつと誕生を一つ過したばかりの赤子の足が来て居れば、少し離れて、ことごとく身についてゐる心といふものをさらけ出して、妻のおこうが眠つてゐた。

 彼は前の晩、友達とビールを飲みに出かけておそく家に帰つて来たことを頭のどこからともなく思ひ出した。羊吉は体を伏せたまま頭を蒲団につけて眠つてゐる妻を重い眼でぼんやり見てゐた。そして少し眠くなつた。

 ………にわとりが鳴いてゐる………羊吉は火の消えてしまつた煙草を灰皿に落した。そして、静かに眼をつぶつてにわとりの頓狂な鳴き声を聞いてゐて、これは何んといふおかしな田舎者だらうと思つた。「こけこつこうーオ」「こけ、こ、こう――」奇妙なふしまはし………。羊吉は見直すやうにそつと妻のあらはな寝姿を見た。

 そして、まるでにわとりの鳴き声を馬鹿にしきつて――軽蔑しきつたかつこうまで思ひうかべながら床をぬけてだらしのない前はだかりで赤子を跨いだ。蒲団がおかしいほどやはらかかつた。羊吉は、眠つてゐるほどけたやうな妻の体に×××××。

 

    ×

 

 にぎやかなにわとりの鳴き声が、盛んに遠くにしてゐた。

 

 おこうは不気嫌であつた。

 羊吉が妻の手をふり離して蚊帳を出るとおこうも彼を捕へるやうにして続いて蚊帳から出た。そして、羊吉がとぼけたふりをして煙草をくはいて便所へ行かふとする後から、いやといふほど力を入れておこうは彼の頭をなぐつた。羊吉は不意をなぐられた。ので、ちよつとよろめいたが、むやみにおかしいのがこみあげて来て、落した煙草を拾ひあげると後ろも見ないでいそいで便所に入つてしまつた。

 そしてはつとして、羊吉は息と一緒にこらいてきた、喉につかいてゐたおかしさをはきだすと、妻になぐられたことがやつとびつくりしたやうな気持になつた。が、なぐられた頭をなでてゐるうちに、ゆつくりとおちついた気持にひたつていつた。そして、松の茂つたわづかばかりの空を見たり遠くのもの音に耳をかたむけたりして何んとはなく重苦しい心持を憩めた。おこうがどんな顔をしてゐるだらう――と思ふと、羊吉は又ひとりでに喉がなるほどおかしくなつた。今日も暑いんだな海へ行たいなんて云つて居たが、おこうも中々楽くではない。………と、そんなことを考へたりして羊吉は便所の中にゐた。

 

 おこうは、しんそこから腹が立つてしまつた。

 ちよつとしたはづみからなのはよくおこうにわかつてゐたが、考へてみると今のことばかりではなかつた。結婚して五年もの間に何ひとつ慰さめられたことはなかつた。何時も羊吉は不気嫌で、意地がわるくつて、自分を愛してゐるやうな言葉をちよつともかけては呉れない。――と思ふと知らずに涙がこぼれてきて頰をつたつた。

 今、羊吉の頭を力いつぱいなぐりつけたことはまるで夢のやうであつた。ほんとうになぐつたのかどうだつたのか判断がつかないほどで、力いつぱいなぐらうと心で思つただけで、実際はそんなことをしなかつたのだ。といふのがそれらしく思へた。だから、うまくやつたといふくわい心のほほゑみもちよつとやりすぎたといふ後悔もなかつた。そして、もうそんなことは頭からぬけてしまつて、羊吉の便所から出て来そうなけはひに、おこうは涙をふいた。

 

 羊吉は便所を出て戸をしめるとき、大きな音をたててしまつた。あ、やつたと思ふひまもなく、妻の舌うちがして赤子が泣き出してしまつた。彼は何時もこれで、生焼けの魚を食はされるやうな小言を聞かなければならなかつた。

 羊吉はわるい時に――と思つたが、しかし出来るだけ平気に、足音をたてないやうにして蚊帳に入ると、妻の方に背をむけて寝たつきり、もう眠つたやうに動かなかつた。おこうは羊吉が戸をがたがたさせて、赤子を起したのをいかにもよい証拠にして、蒲団から眼ばかりを出して見てゐたのに、羊吉は何事もなかつたやうな顔をして脊を向けて寝てしまつたので、物足りない欝憤が胸いつぱいつまつた。どこまでも羊吉がにくかつた。たしかにそれを眼で見たといふやうな気がした。

 そして、こんな男と五年も一緒に暮してゐたといふことが、無ふんべつな愚な女だつた。何故今まで気がつかなかつたのだらう――こうしてゐれば何時までだつて同じことなのだ。婦人雑誌の色々な告白文などが一緒になつて頭に浮んで来てゐた。――夫を捨てて家出………おこうは自分がそうしたことを考へてゐるのに、知らずに眠つてゐる羊吉を見ると、これで今までのながい間の復讐が出来るのか、と思ふと深い思慮もなく、「さあ――いよいよ………」、こんなことを口に浮べて、おこうは赤子を抱きあげた。

 だが、羊吉がどんな顔をして眠つてゐるか見たいと思つた。あんな顔をして眠つてゐるところを私は出て来たのだ――と自分が家出したときの羊吉の眠つてゐた顔を見覚えてゐる方が、好都合だと思つた。又、そのまま蚊帳を出て行つてしまふのも物足りない気がした。

 おこうは後向きになつてゐる羊吉の頭のところまで這つて行つて、顔をのぞいた。口でもあいて眠つてゐて呉れればよいのに、眠つてまでなんてむづかしい顔をしてゐるのだらう――こんな顔ならわざわざ見なくもよかつたと思つた。もしここで、おこうのために不気嫌といふ言葉を創つてやれば、おこうはあきらかに羊吉の寝顔を見て不気嫌になつた。すつかりいやな気持になつてしまつたが、彼女が蚊帳を出て墨汁と筆を持つて来て、羊吉の顔に「馬鹿」と大きく書き終つたとき、全てがもとにもどつてゐた。

 おこうはやつと安心したやうに、ほつとした。何も考へるやうなものは残つてゐなかつた。そしてむきになつて腹を立てたのがおかしくなつてしまつた。

 

 羊吉はそのまま眠つてゐた。

 おこうは今になつて、ただもう気が弱くなつてしまつた。ここ一時間や二時間ながく眠つてゐるとしても、今日一日中眠つてゐるのではなし、どうかしたかげんで一日中寝通しても、明日は起るにきまつてゐる。おこうは途方に暮れて、腰の浮いたままももをつねつて自分をせめてみたが、さてどうにもならなかつた。涙こそ流してゐたが考へてみれば本気になつて家出するつもりは少しもなかつたのに、他のことなら兎に角「あなたの顔に馬鹿と書きました」とは、とても喉を通つて出て来そうもなかつた。間違つて、ちよつとしたはづみで、のぼせてしまつて――と、こんなことを前につけたつて、すらすら云ひよくはならない。「あなたの顔に馬鹿と書かなければ、私はもう家出してしまつてゐるのです。馬鹿と書いておかしくなつてしまつて……」…と、こんなことも云ひまいし、家出しやうとしたなどといふことは今更何にもならないし、そんなことを云へば羊吉に意地のわるい口をきかれるにきまつてゐた。

 又、洗面所に鏡をつるして置くのさへ自分が家の中にゐては出来そうもなかつた。今にも起きさうな羊吉を前にして、おこうは眼をふせて考へこんでしまつた。

 

 羊吉が床を出たのは、おこうが羊吉に置手紙して、羊吉の親しくしてゐる近所のKのところへ出かけて行つて間もなかつた。

 今朝は蚊帳もはづしてなければ、寝床も取りちらされたままになつてゐた。羊吉は、おこうが腹を立ててそのままにして何処かへ出かけて出つたのだらう。と、少しおかしなりながら何時ものやうに書斎に入るとすぐ、電灯の傘からぶらさがつてゐる奇妙な手紙を見つけたが、誰れから来たのかいくら考へても、わからないやうな気がした。

 封を切つて見ると、「あなたのお顔に馬鹿と書いてあります」と初めの一枚にはそれだけしか書いてないので、羊吉は又これは誰かのいたづらだなと思つた。こいつは安心して読まなければ後でとんでもない謀りごとにかけるつもりなのだなと、気がついたので、煙草をゆつくり吸ひながら誰れだかわからない手紙の書き主に、――仲々面白くなりそうな企てをそろそろ拝見してゐる。退屈な朝などにはもつて来いといふやうな、ずいぶんねうちのある。――と、こんなやうな挨拶をして充分罠にかからないまじないをすませて、それから二枚目を見ると、「私はKさんのところに行つて居ります」と書いて「こう」と妻の名がしるしてあるので、羊吉はこれはちよつと変んだ何かの間違ひではないかと思つたが、起きたときもおこうが居なかつたし、未だ帰つて来たやうなけはいがない。――で、いそいで三枚目を開くと、鏡といふ字が一つ書いてあつて、少し離れて「どうぞ許して下さい………おねがひです」と小いさく書きくはいてあつた。

 「あなたのお顔に馬鹿と書いてあります――私はKさんのところへ行つて居ます――こう――鏡」まではよいとしても「どうぞ許して下さい………おねがひです」がどうしてもわからない。

 「お前の寝ぼけた顔はなかなか見ものだ。俺はKのところへ行つてゐるから――(こう)これは妻の名をしやれて来ないかの意で――やつて来ないか。冷めたい水で寝ぼけた顔をよく洗つて………」と、きつと誰かが妻のゐないところへ来て、自分の眠つてゐる顔をのぞいて見て行つたのではないか、と思へるが「どうぞ許して下さい………お願ひです」がどうにもげせない。

 ひよつとすると、おこうの奴が腹立ちまぎれに俺の顔に馬鹿と書いてしまつて、後でどうにもしまつがつかなくなつて、Kのところへ行つたのかも知れない。いや、きつとそれにちがひない。やつたな! と思つたが、羊吉は鏡を見る前にしばらく眼をつぶつて、ほんとうに自分の顔に馬鹿と書いてあるかどうかを考へてゐた。

 もし、顔に馬鹿と書いてあるのなら鏡を見るのはいやだつた、鏡を見るのはいかにも間がぬけてゐるやうな気がした。おこうに消させやう――そして自分は少しも気づかなかつたふりをしてしまはふ。羊吉はそれがいいと思つたので、又寝床に入つた。菓子器から一握りして来たビスケツトを喰べながら、Kのところでおこうがどんな話をしたらう――いいかげんの出駄らめを自分でもくすぐつたい思ひをして話してゐるんだらう。そして、Kと一緒に帰つて来るかも知れないが、Kが来たらほんとの話をしてやらう。それもいいな――と、そのうちにうとうとしてしまつた。

 もう蝉がさかんに啼いてゐた。

 それから三十分ばかりして(羊吉はそう思つた)羊吉が眼をさますと、もう蚊帳を何時の間にかはづして、部屋は綺麗にかたづけてあつた。台所の方に妻がゐるらしい音がしてゐた。

 何時もと少しもかはりがなかつた。おこうは彼に洗面の湯をくんで呉れた。羊吉は顔の馬鹿はどうなつたかと思つたので、それとなく妻の鏡台の前を通つて見たが、顔には何も書いてなかつた。だが、何時のまに消したのだらう――そして妻は何て上手に白つぱくれてゐるのだらう。きつと書斎のあの手紙もうまくしまつしてしまつただらうと思つて、行つて見ると、手紙は勿論さつきの煙草の吸ひがらもなかつた。

 羊吉は、もう一度妻の顔をさぐつて見やうと思つて書斎を出ると、それをじやまするやうにKが今入つて来たばかりの様子で立つてゐた。

(一九二五・九・――)

(月曜第一巻第四号 大正151926)年4月発行)

   *   *   *

 

    朝馬鹿〔②誤記誤用補注版〕

 

 夏の夜があけて、一時間ばかり経つた頃だつた。羊吉はひとりでに眼が覚めてしまつた。

 羊吉はもうひと眠りしなければならなかつた。ので、しぶい眼をそつとつむつて顔を埋めてゐたが、何か思ひ出すことでもあるやうに腹這に起きなほつて、眼の前にたるんだ蚊帳に二三べん煙草のけむを吹きかけてみたりしてそれから初めてしんとした蚊帳の中を見まはした。

 一晩寝みだれた姿がそのままぐつたり疲れてゐた。そして朝の薄い光の中に蚊帳いつぱいに、彼の肩のところにはこの春やつと誕生を一つ過したばかりの赤子の足が来て居れば、少し離れて、ことごとく身についてゐる心といふものをさらけ出して、妻のおこうが眠つてゐた。

 彼は前の晩、友達とビールを飲みに出かけておそく家に帰つて来たことを頭のどこからともなく思ひ出した。羊吉は体を伏せたまま頭を蒲団につけて眠つてゐる妻を重い眼でぼんやり見てゐた。そして少し眠くなつた。

 ………にわとり〔→にはとり〕が鳴いてゐる………羊吉は火の消えてしまつた煙草を灰皿に落した。そして、静かに眼をつぶつてにわとり〔→にはとり〕の頓狂な鳴き声を聞いてゐて、これは何んといふおかしな〔→をかしな〕田舎者だらうと思つた。「こけこつこうーオ」「こけ、こ、こう――」奇妙なふしまはし………。羊吉は見直すやうにそつと妻のあらはな寝姿を見た。

 そして、まるでにわとりの鳴き声を馬鹿にしきつて――軽蔑しきつたかつこう〔→かつかう〕まで思ひうかべながら床をぬけてだらしのない前はだかり〔→はだけ(り)〕で赤子を跨いだ。蒲団がおかしい〔→をかしい〕ほどやはらかかつた。羊吉は、眠つてゐるほどけたやうな妻の体に×××××。

 

    ×

 

 にぎやかなにわとり〔→にはとり〕の鳴き声が、盛んに遠くにしてゐた。

 

 おこうは不気嫌であつた。

 羊吉が妻の手をふり離して蚊帳を出るとおこうも彼を捕へるやうにして続いて蚊帳から出た。そして、羊吉がとぼけたふりをして煙草をくはい〔→くはへ〕て便所へ行かふ〔→行かう〕とする後から、いやといふほど力を入れておこうは彼の頭をなぐつた。羊吉は不意をなぐられた。ので、ちよつとよろめいたが、むやみにおかしい〔→をかしい〕のがこみあげて来て、落した煙草を拾ひあげると後ろも見ないでいそいで便所に入つてしまつた。

 そしてはつとして、羊吉は息と一緒にこらい〔→これへ〕てきた、喉につかいて〔→つかへて〕ゐたおかしさ〔→をかしさ〕をはきだすと、妻になぐられたことがやつとびつくりしたやうな気持になつた。が、なぐられた頭をなでてゐるうちに、ゆつくりとおちついた気持にひたつていつた。そして、松の茂つたわづかばかりの空を見たり遠くのもの音に耳をかたむけたりして何んとはなく重苦しい心持を憩《やす》めた。おこう〔→おこう〕がどんな顔をしてゐるだらう――と思ふと、羊吉は又ひとりでに喉がなるほどおかしく〔→をかしく〕なつた。今日も暑いんだな海へ行[き]たいなんて云つて居たが、おこうも中々楽く〔→「く」削除〕ではない。………と、そんなことを考へたりして羊吉は便所の中にゐた。

 

 おこうは、しんそこから腹が立つてしまつた。

 ちよつとしたはづみからなのはよくおこうにわかつてゐたが、考へてみると今のことばかりではなかつた。結婚して五年もの間に何ひとつ慰さめられたことはなかつた。何時も羊吉は不気嫌で、意地がわるくつて、自分を愛してゐるやうな言葉をちよつともかけては呉れない。――と思ふと知らずに涙がこぼれてきて頰をつたつた。

 今、羊吉の頭を力いつぱいなぐりつけたことはまるで夢のやうであつた。ほんとう〔→ほんたう〕になぐつたのかどうだつたのか判断がつかないほどで、力いつぱいなぐらうと心で思つただけで、実際はそんなことをしなかつたのだ。といふのがそれらしく思へた。だから、うまくやつたといふくわい〔→会〕心のほほゑみもちよつとやりすぎたといふ後悔もなかつた。そして、もうそんなことは頭からぬけてしまつて、羊吉の便所から出て来そうなけはひに、おこうは涙をふいた。

 

 羊吉は便所を出て戸をしめるとき、大きな音をたててしまつた。あ、やつたと思ふひまもなく、妻の舌うちがして赤子が泣き出してしまつた。彼は何時もこれで、生焼けの魚を食はされるやうな小言を聞かなければならなかつた。

 羊吉はわるい時に――と思つたが、しかし出来るだけ平気に、足音をたてないやうにして蚊帳に入ると、妻の方に背をむけて寝たつきり、もう眠つたやうに動かなかつた。おこうは羊吉が戸をがたがたさせて、赤子を起したのをいかにもよい証拠にして、蒲団から眼ばかりを出して見てゐたのに、羊吉は何事もなかつたやうな顔をして脊を向けて寝てしまつたので、物足りない欝憤が胸いつぱいつまつた。どこまでも羊吉がにくかつた。たしかにそれを眼で見たといふやうな気がした。

 そして、こんな男と五年も一緒に暮してゐたといふことが、無ふんべつな愚な女だつた。何故今まで気がつかなかつたのだらう――こうしてゐれば何時までだつて同じことなのだ。婦人雑誌の色々な告白文などが一緒になつて頭に浮んで来てゐた。――夫を捨てて家出………おこうは自分がそうしたことを考へてゐるのに、知らずに眠つてゐる羊吉を見ると、これで今までのながい間の復讐が出来るのか、と思ふと深い思慮もなく、「さあ――いよいよ………」、こんなことを口に浮べて、おこうは赤子を抱きあげた。

 だが、羊吉がどんな顔をして眠つてゐるか見たいと思つた。あんな顔をして眠つてゐるところを私は出て来たのだ――と自分が家出したときの羊吉の眠つてゐた顔を見覚えてゐる方が、好都合だと思つた。又、そのまま蚊帳を出て行つてしまふのも物足りない気がした。

 おこうは後向きになつてゐる羊吉の頭のところまで這つて行つて、顔をのぞいた。口でもあいて眠つてゐて呉れればよいのに、眠つてまでなんてむづかしい顔をしてゐるのだらう――こんな顔ならわざわざ見なくもよかつたと思つた。もしここで、おこう〔→おこう〕のために不気嫌といふ言葉を創つてやれば、おこうはあきらかに羊吉の寝顔を見て不気嫌になつた。すつかりいやな気持になつてしまつたが、彼女が蚊帳を出て墨汁と筆を持つて来て、羊吉の顔に「馬鹿」と大きく書き終つたとき、全てがもとにもどつてゐた。

 おこうはやつと安心したやうに、ほつとした。何も考へるやうなものは残つてゐなかつた。そしてむきになつて腹を立てたのがおかしく〔→をかしく〕なつてしまつた。

 

 羊吉はそのまま眠つてゐた。

 おこうは今になつて、ただもう気が弱くなつてしまつた。ここ一時間や二時間ながく眠つてゐるとしても、今日一日中眠つてゐるのではなし、どうかしたかげんで一日中寝通しても、明日は起るにきまつてゐる。おこうは途方に暮れて、腰の浮いたままももをつねつて自分をせめてみたが、さてどうにもならなかつた。涙こそ流してゐたが考へてみれば本気になつて家出するつもりは少しもなかつたのに、他のことなら兎に角「あなたの顔に馬鹿と書きました」とは、とても喉を通つて出て来そうもなかつた。間違つて、ちよつとしたはづみで、のぼせてしまつて――と、こんなことを前につけたつて、すらすら云ひよくはならない。「あなたの顔に馬鹿と書かなければ、私はもう家出してしまつてゐるのです。馬鹿と書いておかしく〔→をかしく〕なつてしまつて……」…と、こんなことも云ひ〔→云ふ〕まいし、家出しやうとしたなどといふことは今更何にもならないし、そんなことを云へば羊吉に意地のわるい口をきかれるにきまつてゐた。

 又、洗面所に鏡をつるして置くのさへ自分が家の中にゐては出来そう〔→さう〕もなかつた。今にも起きさうな羊吉を前にして、おこうは眼をふせて考へこんでしまつた。

 

 羊吉が床を出たのは、おこうが羊吉に置手紙して、羊吉の親しくしてゐる近所のKのところへ出かけて行つて間もなかつた。

 今朝は蚊帳もはづしてなければ、寝床も取りちらされたままになつてゐた。羊吉は、おこうが腹を立ててそのままにして何処かへ出かけて出〔→行〕つたのだらう。と、少しおかしく〔→をかしく〕なりながら何時ものやうに書斎に入るとすぐ、電灯の傘からぶらさがつてゐる奇妙な手紙を見つけたが、誰れから来たのかいくら考へても、わからないやうな気がした。

 封を切つて見ると、「あなたのお顔に馬鹿と書いてあります」と初めの一枚にはそれだけしか書いてないので、羊吉は又これは誰かのいたづらだなと思つた。こいつは安心して読まなければ後でとんでもない謀りごとにかけるつもりなのだなと、気がついたので、煙草をゆつくり吸ひながら誰れだかわからない手紙の書き主に、――仲々面白くなりそうな〔→さうな〕企てをそろそろ拝見してゐる。退屈な朝などにはもつて来いといふやうな、ずいぶんねうちのある。――と、こんなやうな挨拶をして充分罠にかからないまじない〔→まじなひ〕をすませて、それから二枚目を見ると、「私はKさんのところに行つて居ります」と書いて「こう」と妻の名がしるしてあるので、羊吉はこれはちよつと変んだ何かの間違ひではないかと思つたが、起きたときもおこうが居なかつたし、未だ帰つて来たやうなけはいがない。――で、いそいで三枚目を開くと、鏡といふ字が一つ書いてあつて、少し離れて「どうぞ許して下さい………おねがひです」と小いさく書きくはい〔→くはへ〕てあつた。

 「あなたのお顔に馬鹿と書いてあります――私はKさんのところへ行つて居ます――こう――鏡」まではよいとしても「どうぞ許して下さい………おねがひです」がどうしてもわからない。

 「お前の寝ぼけた顔はなかなか見ものだ。俺はKのところへ行つてゐるから――(こう)これは妻の名をしやれて来ないかの意で――やつて来ないか。冷めたい水で寝ぼけた顔をよく洗つて………」と、きつと誰かが妻のゐないところへ来て、自分の眠つてゐる顔をのぞいて見て行つたのではないか、と思へるが「どうぞ許して下さい………お願ひです」がどうにもげせない。

 ひよつとすると、おこうの奴が腹立ちまぎれに俺の顔に馬鹿と書いてしまつて、後でどうにもしまつがつかなくなつて、Kのところへ行つたのかも知れない。いや、きつとそれにちがひない。やつたな! と思つたが、羊吉は鏡を見る前にしばらく眼をつぶつて、ほんとう〔→ほんたう〕に自分の顔に馬鹿と書いてあるかどうかを考へてゐた。

 もし、顔に馬鹿と書いてあるのなら鏡を見るのはいやだつた、鏡を見るのはいかにも間がぬけてゐるやうな気がした。おこうに消させやう――そして自分は少しも気づかなかつたふりをしてしまはふ〔→しまはう〕。羊吉はそれがいいと思つたので、又寝床に入つた。菓子器から一握りして来たビスケツトを喰べながら、Kのところでおこうがどんな話をしたらう――いいかげんの出駄らめ〔→出鱈目〕を自分でもくすぐつたい思ひをして話してゐるんだらう。そして、Kと一緒に帰つて来るかも知れないが、Kが来たらほんとの話をしてやらう。それもいいな――と、そのうちにうとうとしてしまつた。

 もう蝉がさかんに啼いてゐた。

 それから三十分ばかりして(羊吉はそう思つた)羊吉が眼をさますと、もう蚊帳を何時の間にかはづして、部屋は綺麗にかたづけてあつた。台所の方に妻がゐるらしい音がしてゐた。

 何時もと少しもかはりがなかつた。おこうは彼に洗面の湯をくんで呉れた。羊吉は顔の馬鹿はどうなつたかと思つたので、それとなく妻の鏡台の前を通つて見たが、顔には何も書いてなかつた。だが、何時のまに消したのだらう――そして妻は何て上手に白つぱくれてゐるのだらう。きつと書斎のあの手紙もうまくしまつしてしまつただらうと思つて、行つて見ると、手紙は勿論さつきの煙草の吸ひがらもなかつた。

 羊吉は、もう一度妻の顔をさぐつて見やうと思つて書斎を出ると、それをじやまするやうにKが今入つて来たばかりの様子で立つてゐた。

(一九二五・九・――)

(月曜第一巻第四号 大正151926)年4月発行)

 

   *   *   *

 

    朝馬鹿〔③補正修正版〕

 

 夏の夜があけて、一時間ばかり経つた頃だつた。羊吉はひとりでに眼が覚めてしまつた。

 羊吉はもうひと眠りしなければならなかつた。ので、しぶい眼をそつとつむつて顔を埋めてゐたが、何か思ひ出すことでもあるやうに腹這に起きなほつて、眼の前にたるんだ蚊帳に二三べん煙草のけむを吹きかけてみたりしてそれから初めてしんとした蚊帳の中を見まはした。

 一晩寝みだれた姿がそのままぐつたり疲れてゐた。そして朝の薄い光の中に蚊帳いつぱいに、彼の肩のところにはこの春やつと誕生を一つ過したばかりの赤子の足が来て居れば、少し離れて、ことごとく身についてゐる心といふものをさらけ出して、妻のおこうが眠つてゐた。

 彼は前の晩、友達とビールを飲みに出かけておそく家に帰つて来たことを頭のどこからともなく思ひ出した。羊吉は体を伏せたまま頭を蒲団につけて眠つてゐる妻を重い眼でぼんやり見てゐた。そして少し眠くなつた。

 ………にわとりが鳴いてゐる………羊吉は火の消えてしまつた煙草を灰皿に落した。そして、静かに眼をつぶつてにはとりの頓狂な鳴き声を聞いてゐて、これは何んといふをかしな田舎者だらうと思つた。「こけこつこうーオ」「こけ、こ、こう――」奇妙なふしまはし………。羊吉は見直すやうにそつと妻のあらはな寝姿を見た。

 そして、まるでにはとりの鳴き声を馬鹿にしきつて――軽蔑しきつたかつかうまで思ひうかべながら床をぬけてだらしのない前はだけで赤子を跨いだ。蒲団がをかしいほどやはらかかつた。羊吉は、眠つてゐるほどけたやうな妻の体に×××××。

 

    ×

 

 にぎやかなにはとりの鳴き声が、盛んに遠くにしてゐた。

 

 おこうは不気嫌であつた。

 羊吉が妻の手をふり離して蚊帳を出るとおこうも彼を捕へるやうにして続いて蚊帳から出た。そして、羊吉がとぼけたふりをして煙草をくはへて便所へ行かうとする後から、いやといふほど力を入れておこうは彼の頭をなぐつた。羊吉は不意をなぐられた。ので、ちよつとよろめいたが、むやみにをかしいのがこみあげて来て、落した煙草を拾ひあげると後ろも見ないでいそいで便所に入つてしまつた。

 そしてはつとして、羊吉は息と一緒にこれへてきた、喉につかへてゐたをかしさをはきだすと、妻になぐられたことがやつとびつくりしたやうな気持になつた。が、なぐられた頭をなでてゐるうちに、ゆつくりとおちついた気持にひたつていつた。そして、松の茂つたわづかばかりの空を見たり遠くのもの音に耳をかたむけたりして何んとはなく重苦しい心持を憩《やす》めた。おこうがどんな顔をしてゐるだらう――と思ふと、羊吉は又ひとりでに喉がなるほどをかしくなつた。今日も暑いんだな海へ行きたいなんて云つて居たが、おこうも中々楽ではない。………と、そんなことを考へたりして羊吉は便所の中にゐた。

 

 おこうは、しんそこから腹が立つてしまつた。

 ちよつとしたはづみからなのはよくおこうにわかつてゐたが、考へてみると今のことばかりではなかつた。結婚して五年もの間に何ひとつ慰さめられたことはなかつた。何時も羊吉は不気嫌で、意地がわるくつて、自分を愛してゐるやうな言葉をちよつともかけては呉れない。――と思ふと知らずに涙がこぼれてきて頰をつたつた。

 今、羊吉の頭を力いつぱいなぐりつけたことはまるで夢のやうであつた。ほんたうになぐつたのかどうだつたのか判断がつかないほどで、力いつぱいなぐらうと心で思つただけで、実際はそんなことをしなかつたのだ。といふのがそれらしく思へた。だから、うまくやつたといふ会心のほほゑみもちよつとやりすぎたといふ後悔もなかつた。そして、もうそんなことは頭からぬけてしまつて、羊吉の便所から出て来そうなけはひに、おこうは涙をふいた。

 

 羊吉は便所を出て戸をしめるとき、大きな音をたててしまつた。あ、やつたと思ふひまもなく、妻の舌うちがして赤子が泣き出してしまつた。彼は何時もこれで、生焼けの魚を食はされるやうな小言を聞かなければならなかつた。

 羊吉はわるい時に――と思つたが、しかし出来るだけ平気に、足音をたてないやうにして蚊帳に入ると、妻の方に背をむけて寝たつきり、もう眠つたやうに動かなかつた。おこうは羊吉が戸をがたがたさせて、赤子を起したのをいかにもよい証拠にして、蒲団から眼ばかりを出して見てゐたのに、羊吉は何事もなかつたやうな顔をして脊を向けて寝てしまつたので、物足りない欝憤が胸いつぱいつまつた。どこまでも羊吉がにくかつた。たしかにそれを眼で見たといふやうな気がした。

 そして、こんな男と五年も一緒に暮してゐたといふことが、無ふんべつな愚な女だつた。何故今まで気がつかなかつたのだらう――こうしてゐれば何時までだつて同じことなのだ。婦人雑誌の色々な告白文などが一緒になつて頭に浮んで来てゐた。――夫を捨てて家出………おこうは自分がそうしたことを考へてゐるのに、知らずに眠つてゐる羊吉を見ると、これで今までのながい間の復讐が出来るのか、と思ふと深い思慮もなく、「さあ――いよいよ………」、こんなことを口に浮べて、おこうは赤子を抱きあげた。

 だが、羊吉がどんな顔をして眠つてゐるか見たいと思つた。あんな顔をして眠つてゐるところを私は出て来たのだ――と自分が家出したときの羊吉の眠つてゐた顔を見覚えてゐる方が、好都合だと思つた。又、そのまま蚊帳を出て行つてしまふのも物足りない気がした。

 おこうは後向きになつてゐる羊吉の頭のところまで這つて行つて、顔をのぞいた。口でもあいて眠つてゐて呉れればよいのに、眠つてまでなんてむづかしい顔をしてゐるのだらう――こんな顔ならわざわざ見なくもよかつたと思つた。もしここで、おこうのために不気嫌といふ言葉を創つてやれば、おこうはあきらかに羊吉の寝顔を見て不気嫌になつた。すつかりいやな気持になつてしまつたが、彼女が蚊帳を出て墨汁と筆を持つて来て、羊吉の顔に「馬鹿」と大きく書き終つたとき、全てがもとにもどつてゐた。

 おこうはやつと安心したやうに、ほつとした。何も考へるやうなものは残つてゐなかつた。そしてむきになつて腹を立てたのがをかしくなつてしまつた。

 

 羊吉はそのまま眠つてゐた。

 おこうは今になつて、ただもう気が弱くなつてしまつた。ここ一時間や二時間ながく眠つてゐるとしても、今日一日中眠つてゐるのではなし、どうかしたかげんで一日中寝通しても、明日は起るにきまつてゐる。おこうは途方に暮れて、腰の浮いたままももをつねつて自分をせめてみたが、さてどうにもならなかつた。涙こそ流してゐたが考へてみれば本気になつて家出するつもりは少しもなかつたのに、他のことなら兎に角「あなたの顔に馬鹿と書きました」とは、とても喉を通つて出て来そうもなかつた。間違つて、ちよつとしたはづみで、のぼせてしまつて――と、こんなことを前につけたつて、すらすら云ひよくはならない。「あなたの顔に馬鹿と書かなければ、私はもう家出してしまつてゐるのです。馬鹿と書いてをかしくなつてしまつて……」…と、こんなことも云ふまいし、家出しやうとしたなどといふことは今更何にもならないし、そんなことを云へば羊吉に意地のわるい口をきかれるにきまつてゐた。

 又、洗面所に鏡をつるして置くのさへ自分が家の中にゐては出来さうもなかつた。今にも起きさうな羊吉を前にして、おこうは眼をふせて考へこんでしまつた。

 

 羊吉が床を出たのは、おこうが羊吉に置手紙して、羊吉の親しくしてゐる近所のKのところへ出かけて行つて間もなかつた。

 今朝は蚊帳もはづしてなければ、寝床も取りちらされたままになつてゐた。羊吉は、おこうが腹を立ててそのままにして何処かへ出かけて出〔→行〕つたのだらう。と、少しをかしくなりながら何時ものやうに書斎に入るとすぐ、電灯の傘からぶらさがつてゐる奇妙な手紙を見つけたが、誰れから来たのかいくら考へても、わからないやうな気がした。

 封を切つて見ると、「あなたのお顔に馬鹿と書いてあります」と初めの一枚にはそれだけしか書いてないので、羊吉は又これは誰かのいたづらだなと思つた。こいつは安心して読まなければ後でとんでもない謀りごとにかけるつもりなのだなと、気がついたので、煙草をゆつくり吸ひながら誰れだかわからない手紙の書き主に、――仲々面白くなりさうな企てをそろそろ拝見してゐる。退屈な朝などにはもつて来いといふやうな、ずいぶんねうちのある。――と、こんなやうな挨拶をして充分罠にかからないまじなひをすませて、それから二枚目を見ると、「私はKさんのところに行つて居ります」と書いて「こう」と妻の名がしるしてあるので、羊吉はこれはちよつと変んだ何かの間違ひではないかと思つたが、起きたときもおこうが居なかつたし、未だ帰つて来たやうなけはいがない。――で、いそいで三枚目を開くと、鏡といふ字が一つ書いてあつて、少し離れて「どうぞ許して下さい………おねがひです」と小いさく書きくはへてあつた。

 「あなたのお顔に馬鹿と書いてあります――私はKさんのところへ行つて居ます――こう――鏡」まではよいとしても「どうぞ許して下さい………おねがひです」がどうしてもわからない。

 「お前の寝ぼけた顔はなかなか見ものだ。俺はKのところへ行つてゐるから――(こう)これは妻の名をしやれて来ないかの意で――やつて来ないか。冷めたい水で寝ぼけた顔をよく洗つて………」と、きつと誰かが妻のゐないところへ来て、自分の眠つてゐる顔をのぞいて見て行つたのではないか、と思へるが「どうぞ許して下さい………お願ひです」がどうにもげせない。

 ひよつとすると、おこうの奴が腹立ちまぎれに俺の顔に馬鹿と書いてしまつて、後でどうにもしまつがつかなくなつて、Kのところへ行つたのかも知れない。いや、きつとそれにちがひない。やつたな! と思つたが、羊吉は鏡を見る前にしばらく眼をつぶつて、ほんたうに自分の顔に馬鹿と書いてあるかどうかを考へてゐた。

 もし、顔に馬鹿と書いてあるのなら鏡を見るのはいやだつた、鏡を見るのはいかにも間がぬけてゐるやうな気がした。おこうに消させやう――そして自分は少しも気づかなかつたふりをしてしまはう。羊吉はそれがいいと思つたので、又寝床に入つた。菓子器から一握りして来たビスケツトを喰べながら、Kのところでおこうがどんな話をしたらう――いいかげんの出鱈目を自分でもくすぐつたい思ひをして話してゐるんだらう。そして、Kと一緒に帰つて来るかも知れないが、Kが来たらほんとの話をしてやらう。それもいいな――と、そのうちにうとうとしてしまつた。

 もう蝉がさかんに啼いてゐた。

 それから三十分ばかりして(羊吉はそう思つた)羊吉が眼をさますと、もう蚊帳を何時の間にかはづして、部屋は綺麗にかたづけてあつた。台所の方に妻がゐるらしい音がしてゐた。

 何時もと少しもかはりがなかつた。おこうは彼に洗面の湯をくんで呉れた。羊吉は顔の馬鹿はどうなつたかと思つたので、それとなく妻の鏡台の前を通つて見たが、顔には何も書いてなかつた。だが、何時のまに消したのだらう――そして妻は何て上手に白つぱくれてゐるのだらう。きつと書斎のあの手紙もうまくしまつしてしまつただらうと思つて、行つて見ると、手紙は勿論さつきの煙草の吸ひがらもなかつた。

 羊吉は、もう一度妻の顔をさぐつて見やうと思つて書斎を出ると、それをじやまするやうにKが今入つて来たばかりの様子で立つてゐた。

(一九二五・九・――)

(月曜第一巻第四号 大正151926)年4月発行)

 

[やぶちゃん注:表記・表現の誤用と思われるものが本篇に限っては異常に多いので、三種のテクストを用意した。①底本準拠版、次に②誤記誤用補注版を配し、以下の記号を用いて文中で補正を指示した。本篇にはルビがないので《 》は私のつけたルビであることを示す。〔→ 〕内は直前の字の書き直し又は補正した字及び文字列を指す。脱字と思われるものは[ ]で補った。最後に③補正修正版を参考に附した。但し、これは私なりに正しい、詠み易いと考える読み・補正であって、尾形亀之助の表記は方言の要素も多分に加わっており、勿論、絶対の補正というわけでは毛頭ない。そのつもりでお読みになりたいものでお読み頂きたい。さて、この「おこう」はタケである。繰返しになるが、亀之助は昭和3(1928)年、この妻タケと離婚するが、彼女は亀之助が同年1月に結成した「全詩人聯合」の最大の協力者にして詩友であった大鹿卓(金子光晴実弟、後に小説家に転身)の元へと走っている。年譜を見ると、この大正151926)年9月には大鹿卓詩集「兵隊」の出版記念会に出席している。さすれば、この「K」はどう見ても「大鹿卓」である可能性が高くなってくるように思われるが、これも繰返しになるが、大鹿とは草野心平の紹介で逢っており、心平と亀之助の邂逅は前年の十一月十日の「色ガラスの街」出版記念会でのことなので、それほど短期間に、急速にタケと大鹿が接近したというのも不自然には思われる。思われるのではあるが……。]

 

 

 

   悪い夢 或ひは「初夏の憂欝」

 

 私はあなたを愛してゐる。私のすべてはあなたに捧げてゐます。

 と、私はほとんど泣きかけて女の袖に追ひすがつたが、女はじやけんにふりちぎつて行つてしまつた。

 

 「かまきりよ。お前は情け知らずですましてゐればいいのならいいけれども、それにつけても私はさみしい」

 と、私は女に書き送つた。

 すると、女からこんな返事が来た。

 「私はあなたのあの手紙を見るとたゞもうをかしくつてふき出してしまつた。私を愛するあなたの心に大に同情する。世はあわれである。」

 私は涙をのんだ。

 なまじ泣いたつて笑はれるばかりであつた。それからは、私は昼を恥じて夜はなるのを待つてこつそり泣いてゐた。

 

 私は青くやせた。

 待つともなく待たれてならない女を待つて、私は幾度か窓ガラスを嚙みくだこうとさへした。血に染めた口をゆがめて

 「フフフフフ、あいつ奴未だ来ぬわい」と、やりたい発作を幾度かあやうくさけた。

 

 夏が来た。

 私はこと更に好ましいかの女の夏の姿を思ひ慕つた。そして一夜こんな夢を見た。

 ――ふと、私を捨てたかの女の後姿をみかけてすぐ追ひつこうとしたが、そんなことをしてはわるいと思つて立ちどまると、女は街の中にまぎれ込んでしまふのであつた。

 

    ×

 

 朝になつて、かの女の後姿を茫然と見てゐた夢を見た自分が不愉快であつた。

 起きたあとで枕を見るのはいやだ。

(〈亜〉24号 大正151926)年10月発行)

 

[やぶちゃん注:「なまじ泣いたつて笑はれるばかりであつた。それからは、私は昼を恥じて夜はなるのを待つてこつそり泣いてゐた。」の「夜はなる」は「夜離る」や「夜放る」では意味が通らない。「夜になる」の単純な誤植と見たい。この女は誰か? それは「かまきり」ではある。――しかし、この笑い、私には、「評伝 尾形亀之助」の中で、著者秋元潔が、吉本あぐりに亀之助とのことを直撃インタビューした際の、『含み笑い』と美事にダブる――。]

 

 

 

    青狐の夢

 

 ぼんやりとした月が出て、動物園の中はひつそり静寂につゝまれてゐた。

 しかし、彼は秋晴れの美しい空に三日月の銀箔を見、そよ風に眼をほそくして自動車に乗るところであつた。彼は水色の軍服を着た青年士官になつてゐるので、心もち反身になつて小脇に細いステツキを抱へ煙草に火をつけてゐた。

 そして、彼の瀟洒な散歩は事もなく捗どつて、自動車が門を走り出ると彼はほつとした。ほつとして狐にかへつてゐるのであつた。

 又、或るときは街のペーブメントを歩いてゐて、あまり小さすぎる靴をはいてゐるのに気がついて姿をかくさなければならなかつた。

 

 彼は青年士官になり紳士にもなつて、幾度となく催した企てが何時も煙のやうにふき消された。動物園の昼の雑踏に、彼は首をたれ眼をつむつてゐた。青い空が眼にしみた。さみしかつた。

 あるとき彼の檻の前に立つてラツパを吹きならす子供があつた。そのとき彼は頭にふる草鞋を載せる芸当を思ひ出して苦しい笑ひを浮べた。人間になりたい希望はもはや見はてぬ夢となつて、彼の親も死ぬまでその希望をすてなかつた。彼もその禁断の血をひいてゐるのであつた。

 日暮れになつて、今までどよめいてゐた園内がひつそりすると、彼はぽつねんとした。そしてつむってゐた眼をあけた。夕やみの奥から鶴の啼き声などが聞えてくる。外燈の瓦斯が蒼白に燃え初める。彼はペタペタと冷めたい水を嘗めると背筋まで冷めたくしみるので藁床に入つて尾に包まれるのだつた。眠らうとしても眠れない。あはれな記憶が浮ぶ。呼ぶ。悪血が彼の尾を二倍も大きくするだらう。彼はふらふらと立ちあがる。

 「女に化けやう――」

 そして、彼は喰ひ残りの雞の骨を頭に載せる。

(青きつね二の巻 卯のとし睦月一日 昭和2(1927)年1月発行)

 

[やぶちゃん注:「青きつね」は、底本編注に『編集人天江富弥、仙台郷土趣味の会』とあり、この天江富弥は郷土史研究家と思われ、特に伝統こけし研究では先駆者とされ、秋元潔「評伝 尾形亀之助」には『亀之助の友人』(同書77p)という記載がある(後掲する尾形亀之助の「こけし人形」の注も参照)。]

 

 

    毒薬

 

 私は毒薬の夢を見たことがある。覚えてゐるのは小さな罎に入つてゐる毒薬を握つてゐるうちになくして、すつかり困つてしまつたのだつた。

 手にめりこんでしまつたのではないかといふ心配で、青くなつてゐるのであつたらしい。

  ×

 私は毒薬は見たことがない。(これは飲んだことがないといふ意味かも知れない)食卓の茶わんの底に水が拭きのこされてゐるのを、毒薬のやうな気味のわるさを感じる。

(〈亜〉27号 昭和2(1927)年1月発行)

 

[やぶちゃん注:本篇は既に私の「尾形龜之助拾遺詩集」で公開している。本篇は、雑誌『亜』の「体温表」という競作欄に掲載されたもので、題詠と考えてよい。北川冬彦氏と同題二作(もう一つは前の「羽子板」)の競作であった。以下にその底本を引用する(但し、冬樹社1979年刊秋元潔「評伝 尾形龜之助」からの孫引き)。

 

    毒藥           北川冬彦

 何とかして手に入れたいものだ。

 

    毒藥           尾形龜之助

 私は毒藥の夢を見たことがある。覺えてゐるのは小さな罎に入つてゐる毒藥を握つてゐるうちになくして、すつかり困つてしまつたのだつた。

 手にめりこんでしまつたのではないかといふ心配で、青くなつてゐるのであつたらしい。

  ×

 私は毒藥は見たことがない。(これは飲んだことがないといふ意味かも知れない)食卓の茶わんの底に水が拭きのこされてゐるのを、毒藥のやうな氣味のわるさを感じる。

 

本件については、秋元氏の解明のキーとなった梶井基次郎書簡と共にブログに記載をした。なお、秋元氏はこれを『作品集』推定復元リストの中に掲げているのであるが、題詠である点から、私は微妙に留保したくはある作品である。]

 

 

 

     北海道の旅

 

 夜の汽車の中は、つづけさまに走つてゐるだるい音がこもつてゐる。それは永い間つづいて来てゐるやうなさみしさ――眠つてゐる人達がそんな顔をしてゐる。

 汽車の匂ひが眼にまでしみてくる。

 退屈なのでそう思ふのか。乗つてゐる人が皆よく見かけた人に似た人ばかりだ。

 

 朝になると、私の前に和尚が座つてゐた。

 和尚のゐる方の窓から陽が登りかけてゐる。

 何時の間にか汽車が逆に走つてゐる。そう思はれてならない。

 太陽が登りきらないうちに曇つてしまつた。

 ×

 八時に青森に着く。

 雨あがりの小砂利のぬれた並木路と低い電柱。

 停車場の二階の食堂の窓からは地べたに吸ひ付いてゐるやうな街がわづかばかり見える。

 船。

 船は空へ穴をあけるやうな汽笛で動き初める。

 すべるやうに走り出す。沖へ沖へと出る。

 

 黒く濁つた海――。

 陸は細いし、とげとげしてゐる。

 まつたく平らな風景で私の眼はいつぱいになつてしまつてそれがもり上つてくるやうにさへ見える。

 

 時折雨が降りそうになる。

 潮をきつて走るのが忙がしい。

 追れてゐる。

 一生懸命逃げてゐる。

 

 うす陽がさすと海が飴のやうになる。

 

 私のそばへ出て来て何か食べてばかりゐる男がゐる。こんなとき、そばでカステーラなんか食べてゐられるのは困る。海を見ながら食べつゞけてゐる。

 でも、後でその男が啞であつたことがわかつた。啞なら私はいやな顔をしなければよかつた。走つてゐる船のデツキで、啞が私のそばへ来てカステーラを食べてゐる――そんな気もちは私は大変好きだ。

 船に若い美しい娘が一人乗つてゐるのを見つけた。後になつてから私のゐる反対の舷に出て来たのを見つけた。

 

 風が出て、海がうすあさぎ色になつた。

 

 私はトランクに腰かけて何時の間か眠つてゐた。

 眼がさめるとデツキが乾いてゐた。

 腹が空いてゐる。何か大きい怪物に捕ひられてゐるやうな気がする。

 息をしてゐるやうに船がゆれる。

 ×

 函館の港は美しい。

 

 奇形な並木。

 太い電柱のうしろに雨あがりの港。

 黒い船。赤さびの船。

 

 三日も前から降つてゐた雨が今やんだと聞く。

 板の上に赤いポストがある。

 

 屋根の上に旗がなびいてゐる。

 

 この街には黒い陽傘がよくにやふ。

 窓から下を見てゐると。

 窓の下では夫婦の荷車引が坂を登りきつてひと休みするところだ。並木の下のわづかばかりの草むらに腰をおろして、汗になつた夫婦はかはるがはる口づけに水道の水を飲んだ。

 

 白と黒のぶち犬が路のまん中にねてゐる。

 

 赤帽が外人の後から荷物を引て来た。

 

 からすがトタン屋根にとまつた。

 

 二重の虹がでた。

 湾から街にまたがつた大きい虹。

 街が煙のやうにやはらかになつてゐる。

 ×

 散歩に出てみたがすぐ帰つて来た。

 

 夕暮だ。

 

 青く塗つた教会が見える。

 

 船着場の向ふの赤煉瓦の倉庫に夕陽がいつぱいさしてゐる。

 日没――。

 月が出て路の水たまりが白く光る。

 海の上の黒いものは船。

 

 私は疲れた。ホテルの二階に眠る。

 ×

 五稜廓は――

 馬ごやしの花、こすもすの花、葵の花、おいらん草、はい取り草。

 

 十二時。

 

 ぬかるみが乾いた。野菊が一本ひよろひよろのび出てゐて野中の路は晴れてる。

 

 風が吹いてゐる。

 鳥が啼いてゐる。

 ×

 又曇つた。

 

 港は。

 船、船、船、船船船。

 今日も同じやうに黒い陽傘が通る。

 

 ホテルにゐるロシヤ人が昨日の晩女郎を買ひに行つて、二人で一人の料金にまけろと云つてどうしてもきかなかつたそうだ――とホテルのボーイが私に話した。今日は大きい西瓜を二人で一つづゝかゝいて外から帰つて来た。

 このホテルにはロシヤの何処かの国の大臣もゐる。小いさい部屋に大勢の家族で泊つてゐるロシヤ人もゐる。細君は寝台に男はその下へ寝てゐるといふ。国を逃れて来た人達でホテルはいつぱいになつてゐる。

 食堂などは大変さみしい。パンとスープと自分達で買つて来た西瓜ですませてゐる人が多い。

 夕方になると、向ひ側に新築してゐる家の屋根の上にゐた職人が帰つてしまつた。

 

 曇つてゐるので、今夜はま暗だ。

 海も何も見えない。

  ×

 朝起ると雨だ。

 

 昼飯を食べに食堂へゆくと、今日もパンと茶と西瓜の連中が部屋の隅に二組ゐるばかりであつた。蓄音器もレコードもちりにまみれてゐた。天井には万国旗とモールがはつてある。

 

 雨がやんでゐたので、大沼公園へ出かけた。

 若い宿引がしっこく付いてくる。(狐のやうな顔をして)

 ボートに乗つても面白くなかつた。

 頰白が啼いてゐた。

 つまらなくなつて停車場へ帰ると、一時間も待たなければならなかつた。ベンチにかけてゐると、前のベンチに三人の娘が来て腰をおろした。……右端の娘さん――。

 ×

 函館のホテルへ帰る。

 今夜は月が出ない。

 

 夜の汽車に乗つて函館を立つた。

 暑い。

 洗面所へ顔を洗ひにゆくと、黒塗の立派な箱の中にコツプが入れてあるので、私は半分いたづらな気もあつて口をそゝごうとして箱のふたを引きぬくと、いきなり板つペラがバネにはね飛ばされて出た。

 びつくり箱から飛び出したのは紙コツプを押してゐるバネ板だつたけれども、私は始めは汽車に乗つてゐて退屈した人をなぐさめるためにわざとそんな仕掛けをしてゐるのだと思つた。

 私のやうに、うつかりガラスのコツプが入つてゐるのだと思つてふたをあければ、びつくりするにちがひない。

 ×

 部屋から海が見えない。

 きたない屋根のかさなつたかげに、だらだら山がつゞいてゐる。

 

 女中が感じがいゝので嬉しい。

 それに、小樽はまだ梅の実が青い。

 

 アメリカの軍艦が二つも入つてゐるので街はにぎやかだ。

 

 顔をそつて、昼前の汽車に乗つてしまつた。

 ×

 札幌の停車場でパイプを折つた。

 

 日中なのでなかなか暑い。

 二里ばかり馬車に乗つて遊びに出かけた。

 

 帰りは月がよかつた。

 

 宿の部屋が玄関のわきだつたので、女中ではなく番頭が来て私の用をした。それで女中は一つぺんも顔を見せない。

 ×

 原つぱに寝そべつて画をかいた。

 

 猫がないて通つた。

 変電所の低いうなりが地に響けて聞えて来る。

 

 三人ばかりの子供が野いちごを食べながら私の画の囲りに立つてゐるので、私も探しに行つて取つて来て食べた。

 

 寝ころんでゐる原の景色は実にいい。

 ×

 旅に出てゐる気もちがはつきりして来ると、帰らずにはゐられないやうな気がさかんに起る。

 

 夕食後、私は停車場へ遊びに行つた。

 そして、待合室をゆつくりと散歩した後で開札を待つて列んでゐる人達の顔を順々に見まわして、プラツトホームに眼をうつすと、きれいに水をまいたばかりのコンクリートのたたきがいちめん灰色の花になつて咲いてゐた。

(一九二三年の夏)

   (太平洋詩人第二巻第三号 昭和21927)年3月発行)

 

[やぶちゃん注:本篇は底本の本文ではなく、「補遺」の部分に二段組で所収されている。前回の思潮社版全集(1970年刊)以後に発見された小説である。私の判断でこの『作品集』に挿入した。それは秋元氏が『短編集』に収められるはずであった『作品は、ロマンチックな雰囲気につつまれ、明るく、才能のひらめきを感じさせる』ものであったと語っている、その幻の『短編集』に、最もマッチする軽快なものを、私はこの回想紀行的詩篇(底本には題名の下に秋元氏によるものと思われる『(小説)』のクレジットが入っているが、私はこれを小説と表現するのに強い違和感を感じるので排除した)に感じるからである。

 第2連「×」よりも後半の「動き初める」、第8連冒頭「私はトランクに腰かけて何時の間か眠つてゐた。」の「間か」(「間にか」の脱字であろう)と同三行目の「捕ひられてゐる」、第12連冒頭「この街には黒い陽傘がよくにやふ」の「にやふ」、第24連(ホテルのロシヤ人の最初のエピソードの連)の「かゝいて」、第28連(離函小樽行の洗面所の紙コップのエピソードの連)の「口をそゝごう」、最後から4連前の「地に響けて」は全てママである。

 なお現在、私の知る尾形亀之助の年譜の中に、大正121923)年に北海道への旅行が記載されているものはないが、例えば底本の年譜を見ると、7月28日~8月3日のマヴォ一回展の運営にこの前後に当たっており、直後の8月28日には二科展落選画歓迎移動展に参加しているが、この後、十月のANTISM展出品までの記載が全くない。このことから、この亀之助の北海道行は同年8月の中旬か、二科展落選画歓迎移動展直後の9月の頭であったかと思われる。

 また作中、ロシア人の描写が見られるが、これは勿論、1917年の二月革命から本作品の前年1922年のソヴィエト社会主義共和国連邦の成立によって、亡命を図った人々の群れである。亀之助の作品に社会的現実の中の人物がリアルに登場するのは珍しい。]

 

 

 

    犬の化けもの、躑躅、雀、燕

 

 世田ケ谷へ引越して来てからは、訪ねて来る友人も少くなり手紙なども来なくなつて、毎日風ばかり吹いてゐる。引越して来たと言つても、私が二週間ばかりの旅をしてゐる間に家族のものだけで先に引越して来てゐたので、私は旅から帰つて来た夜、かなり遅くなつてから友人に案内してもらつて、藪の中のま暗な細い路を通りぬけたり畑の中を通つたりして、門の脇に赤い躑躅の咲いてゐる家の前へ来た。部屋へ入ると自分の机やベツドや本が置いてあつたので淋しい気がした。暗くつてよく解らないが、私の部屋は月山の上のやうな所にあるのであつた。

 旅から帰つて毎日私は月山の上のやうな所にある部屋で暮してゐる。飛行機が来ると、今までうるさいほど騒いでゐた雀が這ふやうに低い松の木の枝にすれすれに飛んだりするのを見てゐた。それから、青い葉のかげに梅の実のなつてゐるのを見つけた。近所に白い猫がゐて時々庭を通つてゆく。風が吹けばアンテナも欅の林も揺れる。松の花粉が飛ぶ。写真を写すときのやうな恰好をして燕が電線にとまつてゐる。向ひ隣りの家の犬はよく吠えるが鎖でしばつてある。湯屋の煙突から煙が出る。家の前が八幡宮の森なので風は少しもあたらない。椽の下に大きい蛇が二匹ゐるといふ話は誰かに聞かされたのか、それとも聞かされたやうな気がするだけなのか。庭から森へ入れるやうに垣が破れて路がついてゐる。八ツ手の若葉に陽があたつてゐる。昼近くなる頃から家には陽があたらなくなるが、それでも庭へは日没まで陽がさしてゐて、昼は赤や肉色や紫や白の躑躅が美しい。時には郵便配達夫が寄つてゆくのだが、転居の知らせを見た――といふやうな葉書を一枚か二枚投げ込んでゆくだけで、それも二枚来た日の次の日は休みになる。郵便配達夫が素通りしてゆくのを見かけると、いくらぼんやり青い空の雲の動きを見てゐたり煙草が苦くなつてゐるときでも、行き過ぎて隣りへ寄つてから来るのではあるまいかと思はずにはゐられないし、郵便配達夫がうつむいてゐたり、私の家を見やうとしないでまつすぐ前の方を見てゐたりするときは淋しい予感がある。わけもなく郵便配達夫を憎いものに思はれる。私のところへ寄るのを忘れてゐるのではないかといふ気がする。郵便は、朝九時頃と午後は三時頃と二度来るのを私は二三日して知つた。郵便配達夫の姿を見かけても、家の前を通つて近所へ一二軒寄つて路を曲つてしまふほんの一分間位ひの間のことであるが、私はその後二三時間は失望してあはれな気持になつてゐる。私には、十日余も待つてゐる女の人からの手紙が一ぽんあるのだ。

 私は旅行から帰つて来て二週間余にはなるだらう。が、まだ一度も風呂に入らないでゐる。朝起きて、窓に机を持ち出して坐るとそのまゝ夜になるのだから、入るひまがないと言ふのが当つてゐると思ふ。昼寝をして首のない犬をつれて散歩をしてゐる夢を見たりするのだが、風呂に入る機会がなかつた。旅先が温泉場であつたから、一年分入つて来たなと言訳してゐた。時に風呂に入らうと思つてゐることがあつても「ご飯を先にしますか……風呂を先にしますか」と言はれると、着物をぬいだりするよりは「風呂は入らない」と言ふより他はしかたがない。近所にゐる友人が来て、鏡を見ながら頤髯がのびたと言つて撫でてゐるので私の方がのびてゐると言ふと、何時すつたと言ふから何時だつたらう私が下駄を買つた日だと言ふと、その友人は、俺が下駄を買つた二三日後だつたね、と言つた。そしてわりあひにあんたはのびないと言つた。友人が帰つてから私は何時間もかゝつて丹念に鋏で頤髯を摘んだ。

 夜になると蛙が鳴く。月が出る。毎日暑くも寒くもない日がつゞいてゐる。ぼんやりしてゐると、知らないうちに頭が痛くなつてゐたりする。かはいさうな妻は、体が方々痛むといつてひどく痩せて眼がくぼんでしまつた。ま顔になつてヒステリーかも知れないと、飯の給仕をしながら言つたりするので、私はもう少し喰べやうと思つてゐてもいそいで箸を置てしまう。この頃妻にそばへ寄られるのが気味がわるくなつてしまつた。妻には大変すまないと思つてゐるので、大きい声をたてたり子供を叱つたりするのを注意してゐるが、妻以外の人を愛してゐる罪はなかなか許されないことを私は悲しんでゐる。そんなことで旅へ出たのであつた。夏になればお宮の森では蝉が鳴くだらう。妻が骨と皮ばかりに痩せてしまふ日も近いのだ……と、私は真面目に考へてゐる。私は何かの瓦斯体に包まれてゐるやうに庭や隣りのアンテナを見てゐる。が、骨と皮ばかりになりさうになつてゐる妻のことを思ふと、心を痛めずにはゐれない。ぼんやりしてゐるが、あくびはちつともやらない。そして頭の髪をむしるやうなくせがついた。夕方になると何処からか木魚を叩く音が聞えて来る。蓄音器の安来節やマンドリンも遠くの方でやつてゐる。隣りの子供がうちの子供と同じやうな泣き方をする。庭の植込が暗くなる。世の中がさう面白くないわけではないと思はふとしたり心をこめて月を見たりするやうなことは、躑躅の花の上で喧嘩をしてゐる蜂と蜂が、見てゐるうちにどつちがどつちだかわからなくなつてしまふやうに果敢ない。毎日天気つゞきだ。忘れものをして引き返して来た向ひの細君へ隣りの細君が「私は不精だから忘れものがあつても知らないふりをして行つてしまふんですよ」と言つた。木の枝が少しゆれたり、部屋に蠅が静かに飛んでゐる昼は森の中が青い。一日窓にもたれてゐると、ちらちら光る若葉や通りの角まで来る広告屋の馬鹿囃子や黒い蝶にも何時までも心をひかれてゐる。毎日のやうに午後になると風が出る。近くの野砲隊で大砲をさかんに打つやうな昼は、私の灰皿はのみさしの煙草でいつぱいになる。驚ろいて飛び上つた雀が燕と列らんで電線にとまつた。

 夕陽がかげると黒ガラスの幕が降りる。部屋に電燈をつける頃は、もうすつかり煙草に厭きてしまつてゐる。三時過ぎの昼飯であつたが、私は夕飯をいそぐのだ。

(一九二七・五・一二……未完のまゝ稿を止む)

(文学祭六月号 昭和21927)年6月発行)

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和2(1927)年4月の信州上諏訪への傷心旅行(吉行あぐりと思われる女性への一方的な恋慕と失恋)後のシチュエーションをかなり忠実にモデルとしていると思われる。ここで描かれる世田谷の家は亀之助のこの旅行中に家族(タケ・長女泉・長男猟)が新宿区上落合702番地から転居した世田谷太子堂169番地の家である。同年4月末に亀之助は上諏訪からこの太子堂の家に帰還している。]

 

 

 

    窓

 

 繁華なる街の裏通、いつもこゝは疎らな人通りしかなく、白らけた木煉瓦の歩道が美しい街路樹で仕切られてゐる。表通を平行に――橋のある堀端につきあたるまでの五丁ほどある両側は大底は事務所といつた構で、その間に三四軒煙草を売る小さな雑貨店と三四軒の自動車屋と、辻車の溜りと、その横に駄菓子屋、その隣りに自転車屋が列らんでゐて、そこから五六軒離れて床屋がある。この床屋が丁度この通りのまん中ごろになつてゐる。たべ物屋はそば屋が一軒あるだけで、あとはPといふ有名なカフエーがあるだけである。表通から二十間ほどしか隔つてゐないが、電車の音は注意しなければ聞えないほどで、昼飯どきなどほんの一瞬であるけれども、人一人通つてゐないことさえあるのであつた。

 床屋は二階建の二軒長屋で、二階は暗緑色のペンキで塗られて路に添つて二つの窓がある。

 その下の、床屋の店は戸も長押も白く、椅子二台と三面の鏡、洗面所、寄せつけの造りつけの細長いべンチ、帽子掛け、丸テーブル、花瓶、待つている客などはめつたになく、丈の低い四十ほどの親方と十五六の小僧と二人で働らいている。床屋の隣りは間口が床屋の倍もあるが表には入口がない。鉄の格子の中もくもりガラスの戸がある。そして全部が褐色に塗つてある。床屋の店の中をよく見ると四方が壁になつてゐて一間きりのものであるし、反射で暗く見える二階の窓の中にはチエヤーや小綺麗なテーブルがある。床屋が二階を使つてゐるのではたしかにないし、それかと言つて事務所らしくもない窓に白レースのカアテンが降りてゐて、ベコニヤの鉢が置いてある。

 この窓が、彼の部屋から街路樹と街路樹の間に見える。床屋のま向ふにSという×国のコンクリート建の商館があつて、その路に面した二階の部屋を借りて彼はこの五月以来(五月に彼は恋を失くした)郊外を引き払つて来て住んでゐる。夜になると、街燈の間が遠いのと表通が明るすぎるのと、それに街路樹がよく茂つてゐるのでこの裏通は暗い。で、この床屋が一番明るく、遠くから店の前の路が電燈に白く照らされてゐるのが見える。

 彼が「窓」といふ題を原稿に書いてからそのままにもう三月もたつてゐる。彼は「窓」という主人公のない――強ひて主人公をつくれば、或る一つの窓を主人公にして長篇ものを書くと言つてゐた。

 床屋の店先に犬がよくねそべつてゐる。

(詩文学第二巻第五号 昭和21927)年10月発行)

 

 

 

    不思議な喫煙者

 

 煙草をもつてゐる手つきや、煙草から煙りの出てゐるのを見てゐて、自分の子供のくせにませた恰好をして煙草をのんでゐると思つてしまつた。夜遅く床の上に足をなげ出してゐて、体ばかりが大人で、かくれて煙草をのんでゐた頃の顔が首についてゐるやうな気がしてしまつた。

 煙草を手にもつてゐる間は、幾度やり直してもその不思議が消えなかつた。

 

[やぶちゃん注:本篇は雑誌『A CORNER SHOP』第一輯 昭和21927)年111日発行に所収されたものの一篇である。全篇は「尾形龜之助拾遺詩集」の「A Corner Shop」を参照のこと。「自分の子供のくせに」の「自分の」の「の」は主格を示す格助詞であろうか(この喫煙者は尾形亀之助自身である。当時、尾形亀之助27歳)。なお、本篇と次の「美少女」のみが『短編集』に所収される予定であったという根拠については秋元潔氏は何も述べていない。]

 

 

 

    美少女

 

 昨夜、突然私は飛行機に乗つてゐて、Yといふ美少女と接吻をした。SとKがそれを見てゐた。SとKは男で私の友達だ。Yといふ美少女は「また皆んなが何んとか云ふわ」といふと、はたして飛行機を降りてからSとKが接吻したと云ひふらすのであつた。私は彼等を避けて高い塀をのり越ゑやうとするところで次の場面へ変つてしまつた。……(夢)。

私の夢に現れてくる主要な人物は何時も女の人だ。お宮のやうなところに、饅頭が沢山列らべてあるのを取つて食ふやうな夢もあるが、歯が痛かつたり楽しくないことを思ひ出したりして、つまらなくなつてゐる昼よりも、夢の方に重きを置いてしまひたいと私はつくづく思ふことがある。

この頃は森で啼く蝉も一匹か二匹しかゐなくなつた。そして、昼からこほろぎが啼いてゐる。雨ばかり降つてゐる。子供がカマキリをつかんで来たので、私は子供が泣いてもむりに捨てさせた。カマキリの腹には針金虫がゐるのだし、カマキリの交尾の話どうにも気味がわるい。妻は「おとなしく遊んでゐるのを泣かさなくともいいのに」といふ顔をした。

 

[やぶちゃん注:本篇は前の「不思議な喫煙者」と連続で雑誌『A CORNER SHOP』第一輯 昭和21927)年111日発行に所収されたものの一篇である。全篇は「尾形龜之助拾遺詩集」の「A Corner Shop」を参照のこと。形式段落2段落目と3段落目は表記通り、一字下げがない。「のり越ゑやうと」はママ。文中、カマキリの腹腔内に類線形動物門NematomorphaNectonematoida綱及びGordioidea綱の属するハリガネムシ類が有意に寄生しているという生物学的知見は極めて正しい。また、カマキリは先の『悪い夢 或ひは「初夏の憂欝」』にもある女の渾名として登場している。なお、この時期、未だ吉本優とは出逢っていないと思われる。本篇と前の「不思議な喫煙者」のみが『短編集』に所収される予定であったという根拠については秋元潔氏は何も述べていない。]

 

 

 

    話 (小説)

     ――或ひは「小さな運動場」――

 

「ね、――」

「…………」

「眠つていらつしやるの」

「さうだ」

「まあ――」

「………」

「眠つてゝ口をきいてゐなさるの」

「眠つてゐて口をきいてゐるんだ」

「ね、――」

「何んだ」

「ほんとに眠つてゐらつしやるの」

「眠つてゐる」

「眠つてゐても返事をして下さる」

「してやる」

「聞えて」

「…………」

「ね、聞えない」

「…………」

「耳だけ眠つてるの」

「耳もおきてる」

「どうしてこれが聞えないの」

「――少しうるさくなつた」

「まあ、聞えなくつてもうるさいの」

「聞えなくともどこかゞうるさい」

「どこがうるさいの――」

「俺の後ろの方がうるさい」

「あなたの後ろなら私なの」

「見えないからわからない」

「こつちを向いて下さらない」

「いやだ」

「ちよつとだけでいゝの――」

「いやだ」

「私、指でシイツに手紙を書いてゐるの」

「シイツに――」

「だつて、あなたへあげる手紙なの」

「ありがと――」

「何んて書いたか知つてる」

「知らない、けれどもありがと」

「ご返事は」

「返事はいらないだらう」

せなかに書かしてね」

「いやだ」

「わかるやうに書くわ」

「せなかは手紙を書くところではない」

「ぢや何処へ書くの」

「――夢で俺に手紙を書け」

「あなたの夢の中へとゞくかしら」

「お前が寄こせばとゞくだらう」

「だつて、あなただけの夢ぢやないの、私の手紙を何処から入れるの」

「枕の下から入れるんだ」

 

    ×

 

「ね、――」

「何んだ」

「あなたあの方が好きなんでせう」

「好きだ」

「私よりも」

「あの方つて誰れだ」

「ふざけないで、真面目なのだから」

「真面目なのか」

「えゝ」

「いゝね」

「ごまかさないで、ね、ほんとのこと返事して」

「はい」

「はい――なんておつしやるけど、私泣き出すかも知れないの、後ろを見ればわかるわ」

「後ろは見たくない」

「私がゐるからなの」

「たぶんそうだ」

「あなたS子さんを嫌いだと言つて下さらない」

「誰れにだ」

「私に――」

「言つた方がいゝのか」

「言つて下すつた方がいゝわ」

「ぢあ嫌ひだ」

「ぢあ――つてどういふわけなの」

「それでは――といふ意味だ」

「ぢあ、S子さんのどこがお嫌ひなの」

「眼と鼻と口と手と足と首と声と肩が嫌ひだ」

「好きなところはあとの残りが全部なの」

「後、何が残つてゐるんだ」

「髪も残つてゐるし、胸も頰も額も残つてゐますわ」

「ずい分残つてゐるんだな」

「まだ心臓も胃もあるわ」

「心臓や胃も言ふのか」

「見えないところは言はないの」

「言つてもいゝさ」

「言つてちようだい」

「お前が今言つたのと脳と腸と――腸はまだゞつたな」

「えゝ」

「腸と、それから何んだらう」

「――もういゝわ」

「…………」

「どうしたの」

「――もう用がないのだらう」

「あなたはご本を読みながら私と話してゐらつしやるんでしよ」

「さうだ」

「今読んでなさるところに何が書いてあるの」

「エリナといふ女が結婚したところだ」

「…………」

「…………」

「私とあなたは結婚したんでせう――」

「さうだ」

「私、したやうな覚えがないやうな気がするの――」

「で、どうしたんだ」

「あなたはどうなの」

「俺はぼんやりしてゐる」

「ね、――」

「何んだ」

「どうしてぼんやりしてゐなさるの――」

「あてゝ呉れ」

「あなたはS子さんへ手紙をあげたんでしよ、遊びに来るやうにつて――」

「空想か、ほんとのことなのか」

「ね、私とS子さんをあなたはどんな風にくらべるの――」

「くらべるつて、どうするんだ」

「ね、私の眼とS子さんの眼とどつちがお好きなの」

「女に眼がないと可笑しいか」

「どうして、そんなことおつしやるの」

「なければ、お前の眼とS子さんの眼をくらべなくともいゝからだ」

「それぢや鼻は」

「鼻も同じことだ」

「あなたは、私とS子さんに眼と鼻がなくともいゝとおつしやるの」

「さあ、――」

「私に相談なんかなさらずにご自分でお考へなさい――」

「お前のいいやうにしやう」

「ね、――」

「何んだ」

「私この頃自分が何時死ぬかわからないやうな気がするの――」

「それで――」

「私死にたくないわ、だから死ぬやうなことがあつても何処へも行かないつもりなの」

「死ぬやうなことがあつても、何処へも行かないつもりつて何んのことなんだ」

「――あなたの書斎に来てゐたいと思つてゐるの」

「――書斎に来てどうするんだ」

「あなたを見てゐるの」

「俺を見てゐるのか」

「いや――」

「俺からはお前が見えないんだろ」

「時々見えるやうにするわ」

「それで、お前と俺は話でもするのか」

「えゝ、話もしてみるわ」

「でも、そのときはお前は幽霊なのだな」

「怖い――」

「さあ――」

「幽霊になるのはいやね――」

「お前、自分で怖いんだろ」

「あなたが怖がつて、逃げたりなさると困るわ」

「可笑しいな」

「だつて、幽霊つてほんとにあるんでしよ」

「お前に幽霊になる自信があるんだろ」

「でも見た人がゐるわ」

「お前はないのか」

「祖母さんが死んだとき見たやうな気がするわ」

「見たやうな気つてどんなことだ」

「障子のかげのところへ何か、来たの――」

「…………」

「祖母さんは私を一番可愛がつて呉れたのよ。今だつて眼をつぶると、祖母さんの笑つてゐる顔が見えるわ」

「それが幽霊なのか」

「ね、――」

「何んだ」

「ひやかさないで」

「ひやかしたか」

「知らないわ、眠つていゝ」

「いゝよ」

 

    ×

 

「ね、――」

「何んだ」

「何時も、私とあなたとゞちらが先に眠るのかしら」

「お前が先に眠るよ」

「あなたと私と、ね、あなたと私とは夫婦つていふんでしよ」

「…………」

「私、夫婦つていふ言葉嫌ひなの、私が夫婦のうちの一人だといふのが嫌なの」

「それで、何が好きなんだ」

「妻と夫といふのがいゝわ」

「…………」

「ね、――」

「何んだ」

「電燈を明るくしていゝ」

「どうするんだ」

「明るくしたくなつたの」

「…………」

「ね、――」

「何んだ」

「まぶしくない」

「まぶしいよ」

「あなた眼をつぶつてゐるの」

「あいたりつぶつたりしてゐる」

「ね、――こつちを向いて呉れない」

「どうするんだ」

「顔が見たいの」

「顔が見たいのか」

「眼なんかつぶらないで私の顔も見て――」

「お前眠くないのか」

「眠くないわ」

「先に眠つてもいゝかい」

「いゝわ、眠るのを見てあげるわ」

「ぢや、さよなら――」

「ね、――」

「何んだ」

「もう少し眠らないで、そして一緒に眠りたいわ」

「…………」

「ね、――」

「…………」

「ね、モシモシ――モシモシ――電話よ、ベルのかはりに耳をひつぱるわよ」

「…………」

「モシモシ――モシモシ」

「お話中だ」

「誰れとなの――」

「S子さんと――」

「まあ、モシモシ――モシモシ、ね、モシモシ、まだお話中なの」

「まだ、――」

「ね、そんなことを言ふと、あなた今晩S子さんの夢を見るわ」

「いゝな」

「よくないわ――あなたは何時かお話になつたやうに、夢で接吻なんかするんでしよ」

「誰れと――」

「誰れとでもなさるんでしよ――」

「夢だもの――」

「だつて、心に思つてゐなさるから……」

「どうしたんだ、泣きさうにならなくたつていゝよ」

「泣きさうになんかなつてゐませんわ」

「…………」

「…………」

「ね、眠らないで」

「ぢや、顔を見てやらう」

「いや、顔を見ないで――」

「…………」

「電燈をま暗に消して――」

「…………」

「あなた――」

「何んだ――」

「うそでしよ」

「何が――」

「……今の話がみんな」

「うそだ」

「ほんとうにうそだわね」

「ほんとうにうそだ」

「ね、うそでなかつたら私どうすればいゝの」

「…………」

「あなたは」

「俺かい、俺はどうにもならない」

「私だけがどうにかなるの――」

「…………」

「ね、あなたはほんとうに私を好きなんでしよ」

「…………」

「また眠つてしまつたの――」

「眠つた」

「耳をひつぱつてもいゝ」

「又、電話か」

「私と電話をして、ね」

「お前と――」

「えゝ、してみたいわ」

「…………」

「ね、私からかけるわ、モシモシ――」

(詩神第三巻第十二号 昭和21927)年12月発行)

 

 

 

    アラン酒(短篇)

 

 アランといふのは、何かの小説に出てくる女の名であつたかも知れない。もしさうであつたら、それからこんな名がこの酒についたのだらう。

 アラン酒をこつぷについだときに、私は何んとも言ひやうのない甘い匂ひを嗅いだ。女は、アラン洒の匂ひは何時嗅いでもいゝといふやうなことを言つた。

 女は売笑婦であつた。

(〈亜〉35号〈終刊号〉昭和21927)年12月)

 

[やぶちゃん注:底本本文のクレジットは、本篇が再録された『(ファンタジア第一輯 昭和46月発行)』となっているが、編注にある初出誌のクレジットに改めた。なぜ秋元氏が初出クレジットでの本文位置にしなかったのかは不明である。編注には記載がないが、初出と再録では異同がある(若しくは初出に致命的な誤植や脱漏がある)可能性も否定できない。]

 

 

 

    こけし人形

 

 雨が降ると温泉宿は暗い。霧がこもる。そして木ぼこの匂ひがする。唇の紅と、びんのところに一筆塗つてある青と、白い木肌の匂ひである。木ぼこのあの丸い大きな頭から匂ひがしみ出るのだらう。つるつるとした顔は子供のやうにも大人のやうにも見える。御神体のやうでもある。――彼女は東洋人である。

 どうかした拍子で、私は木ぼこで頭をこつんとやられたことがあつた。そんなことがあつた。(木ぼこの頭は重い)

 木ぼこ木のこにも似ている。

(こけし這子の話 昭和31928)年1月発行)

 

[やぶちゃん注:底本編注に『「こけし人形」(こけし這子の話・昭和3年1月、著者発行人天江富弥、仙台郷土趣味の会。同書はこけし研究書の嚆矢。巻末付録「こけしに関する詩文」に武井武雄、白鳥省吾、石川善助、尾形亀之助が寄稿している。)』とある。]

 

 

 

    月と手紙

     ――花嫁へ――

 

    A

 

 私はあなたと月の中に住みたいと思つてゐる。でも、雲の多い日は夕方のうちに街に降りて噴水の沢山ある公園を散歩しよう。

 夕飯は何処かのホテルで、肉のものを少しと野菜と丸パン一ツと少し濃いコーヒーとネーブルを、薔薇を飾つた食卓で静かに食べよう。スープはほんの一口すゝつただけにしてフライには手をつけまい。

 夜の散歩は露が降るから十分位にして、あなたさへ眠くなければ……少し眠ければ私に寄りかゝつて私の作つたお伽噺をしよう。

 そして、ぬるい風呂にかはるがはる入つて私達はちよつと風邪きみのやうな気持になつてゐよう。暗くなつた窓の外を黒い壁と思ひながら、三四日このまゝホテルにゐようといふ話をしたり、こんなときは白い猫が一匹ゐるといゝと話しあつたり、淋しくなつて一緒に列らんで腰をかけたりしよう。

 私がテーブルにもたれて首を少しまげて、煙草を右手に持つてゐると……あなたは疲れたやうに恰好を崩して私の煙草の煙がサンデリヤまで昇つては消えてしまふのを見てゐる。――そんな風にして二分間も話がきれてゐる。と、どっちかが「さ、寝よう」と言へば、返事をするかはりに元気よく直ぐ立ちあがつて床に就く仕度にとりかゝるにちがひない。でも、二人ともそんなことを言ふ言葉を惜んでゐる。で、もしもこのときにドアーの鍵の穴から私達の部屋を覗いて見る人があつたなら、私達が今日一日何も話をせずにゐたのではないかと思ふだらう。そして、私が煙草を灰皿に入れてお前のそばへ行く前に、鍵の穴から眼を離して足音を忍んで、私達の部屋の前から行つて仕舞へば、その人は何で私達が喧嘩をしたのかと色々想像してみたりするだらう。そしてその人が色々考へたあげく、も一度覗きに来るかも知れない。私達は夜になつたら鍵穴は香水をうんとふりかけたハンカチか何かでふさぐことにしよう。

 

    B

 

 何故あなたがゆうべ泣いたのか私は知つてゐる。でも、私は何も知らないふりをしてあなたが悲しさうに泣くのを宥めてゐた。もしあなたがあのとき急に顔をあげて私の顔を見たなら、あつ! といふ間に私はにこにこしながらうれしさうにあなたの肩をなでてゐたのを見つけられたでせう。

 私はあなたが泣くのを初めて見たのです。

 夕飯を食べ過ぎてゐたので、そんなことから妙に悲しくなつてゐるところへ「あなたはいくつだつたかしら」と言つたりしたのがわるかつたのです。それにしても、私がさう言つてから三十分もしてから急に泣き出したので、私はどうしたのかと思つたのでした。

 そして、どうかしたのですかと聞くと頭をふる。何処か痛むのですかと聞くと頭をふる。悲しいことがあつたらお話なさいと言ふと頭をふる。ソフアーに腰かけてゐる私の胸のところに顔をあてゝゐるので、あなたが頭をふる度に私もゆれるのでした。だから、私は散歩へ出たいのですか……何か食べたいのですか……ブドウ酒を飲んでみませんか……明日活動へ行きませんか……眠いのですか……、……、……、……、と言つて幾度もあなたに頭をふらした。

 あなたを泣かして喜こんでゐるといふと、大変わるいのだけれども、私はあなたを軽く抱へて陶酔してしまつたのです。時間の過つのさへ忘れてゐると、あなたは「私がわるかつたの……」と言つて、ぬれてゐる顔を私の顔へすりつけた。

 あなたの泣き方が好き(?)でたまらなかつた。あなたが笑ふのが好きで、つまらないことを言つてはあなたを笑はせてゐたけれども、あなたの泣き方があんなにいゝとは気がつかないでゐたのです。泣くといふことが悲しいことでないなら(言ひ廻しがをかしいけれどもしかたがない)ときどきあなたの泣くのを見たい。

 昨日は火曜日であつたから、私達は毎週火曜日の夕飯を食べ過ぎることにしませんか。

 今日の月は丸い。雲が一つもない。

 

    C

 

 私は手紙の中へ月を入れてあなたへ贈つたのに、手紙の中に月がなかつたとあなたから知らせがあつた。

 あの晩、私が床に就いてどの位過ぎたのか、眼がさめてみるとガラス窓に月の光りがさしてゐたのです。

 あんなに曇つてゐたのに何時の間にか晴れて。

 

    D

 

 あまり遅く窓をあけてゐたので、私は風邪をひいてしまつた。尖つた三日月の端が胸に刺つたのです。先月だつたかその前の月だつたか、あなたと夕方散歩へ出てそのまゝRの海岸へ行つた晩も三日月が出てゐましたね。私は今胸の中にゐる風邪を着物の上からそつとおさへてゐます。

 あなたが、この前私から月を贈られたお礼だと言つて、今度は私から月を封じこんで贈ります。と、いふ手紙の中には月がどこにも入つてゐなかつた。もうだめだから月を手紙の中へ入れるのはよしませう。

 蛙が啼いてゐる。月は屋根の上へ行つてしまつた。風邪をひくといけないから早く窓をおしめなさい。アスピリンを一個封します。

 

    E

 

 望遠鏡を一つ買ふことにしました。

 明日天気だつたら一緒に買ひに行つてみませんか。

 

    F

 

 梟が鳴いてゐる。

 兵隊がラツパを吹いてゐる。

 あなたと別れて来て、まだ三十分しかたたない。

 (電報)

 カゞミニツキヲウツセ

 

    G

 

 いくら待つてゐても月が出ない…と、いふあなたの手紙を見ていそいでこの手紙を書いてゐます。

(文芸第六巻第三号 昭和31928)年3月発行)

 

[やぶちゃん注:Bパートの「時間の過つ」は「過(た)つ」と読ませるのであろう。Fパートの「カゞミ」はママ(カタカナの繰り返し記号なら「ヾ」である)。]

 

 

 

 

    B

 

B・私のやうな男

A・言葉

R・若くつて美しい女性

    ×

AはBが退屈しないやうに話の相手をします。

BはRといふ女を見たことも聞いたこともありません。私はBとAの話の中にうまくRを入れてみやうと思つてゐる、つまらないことを私は時々考へるのです。

Bはカフエーでお茶を飲んでゐる。

A「綺麗な人だね」

B「僕もさつきから見てゐるんだ」

A「あまりじろじろ見ない方がいゝよ、出てゆだかれてはつまらなくなるから――、まあ、そつとお茶を飲んでゐやう」

 

A「あなたはほんとうに綺麗だ」

B「世の中で一番綺麗な人だと僕は思ふ」

R「しかたがないわ、それに自分でも綺麗なことを幸福だと思つてゐるのですもの――、あなた方だつてお綺麗だわ」

 

A「彼女が帰りかけてゐる」

B「先に出やう――」

R「まあ、私、だつてすぐお愛し申すことは出来ないわ、おこつていらつしやるのかしら」

 

外へ出ると、Bはすぐカフエーをふりかへつて見ました。そして、無口になりました。

B「この頃ちつとも煙草がうまくないね」

A「…………」

B「おや、さつきの人が電車に乗つた――」

A「…………」

B「たしかに僕達の方をふりかへつて見てゐた、笑つてた」

R「まあ、私が電車に乗るのを御覧なすつたのですつて、そして私が微笑してあなたの方にお別れしたのですつて、私、電車なんかに乗らなかつたわ、Bさん――あなた赤い色の着物さへ着てゐればどなたでもお好きなのでしよ」

B「あなたではなかつたのですか、――私は眼が近いのです。それに眼鏡をかけてゐないのですからごめんなさい」

R「…………」

 

A「川の方へ散歩に行かふ」

B「寒いからいやだ」

A「…………」

B「ひよつとして、いつかの人が僕達の散歩を遠くで見てゐるかも知れない、行かふ――」

Rはこのとき、Bを遠くから見てゐました。

そして、もしも自分がBと一緒に川べりを歩いてゐれば、Bとすぐ仲よくなりたい気持になれるかも知れないと思ひました。

R「あの方が帰りかけた、街へいらつしやると言つてゐなすつた、それも私に逢へるかも知れないといふので、――、私は街へ行つてあげなければならないわ、私がゐなければきつとあの方は淋しがるわ、そして、私はあの方よりも先に街へ行つてあげやう、遅れて行つて息を切つてゐるところなどをお見せしては大変だわ、まだ愛してゐるときまつてゐないのに」

 

A「大変な人ごみだ、どうだ逢へるやうな気がするか」

B「……僕にそんなことを聞くよりもあの人に聞いた方がよささうだ――」

R「まあ、あんなことを話しながらいらしつたわ、逢へるかどうか私に聞く方がよささうだなんておつしやつて、私を嬉しがらせるおつもりかしら、困るわ」

 

A「あのカフエーへ行くか」

B「…………」

R「何故ご返事なさらないのだらう、私がこゝにゐるのがおわかりにならないのかしら、それともおわかりになつてゐなさるからかしら――」

A「そんなにうつむきになつて歩いては見つからないぜ。僕が見つけても教へないよ――」

B「…………」

A「黙りこんでしまつたね、泣いてるんじあないだらう、さあ来たよ、寄つてみないか」

B「寄つたつてゐないんだからつまらない、来なければよかつた」

A「のぞいて見やう」

R「私、お待ちしてゐるのに、お入りにならないのかしら、ドアーを押せばすぐ私をごらんになれるのに――」

A「おい、ネクタイを直して、ぼたんをかけろ、さあ――お待ちかねだ」

B「ほんとか」

R「ネクタイを直して、ぼたんをかけてすましてゐらしつたわ、そんなにおすましになつては私お話なんか出来さうもないわ」

 

R「あんなに私を見つめていらつしやる、私、後が向けないわ――」

B「私はあなたを愛してゐる、それなのに私は一度もあなたの声を聞いたことがない」

R「…………」

B「あなたの着物は今日もうつくしい」

R「あなたが何か一言おつしやつらなければ困るわ、私、顔が赤くなつてるのかしら――」

B「ね、君、あの人を私のテーブルへ呼んで呉れないか、お茶を一緒に飲みたい」

A「そんなことをしてもいゝのか」

B「君はどう思ふ」

 

A「もし、あのBがあなたとご一緒にお茶をいたゞきたいと申して居ります」

R「…………」

A「…………うつむいてあそこにBが居ります」

 

B「こゝのお茶はおいしいですね」

R「私もときどき参りますの、あなたは毎日お出ですか」

B「水曜日と土曜日と――」

R「私は金曜日に参つて居りますの」

B「私も金曜日に来ることにしませう――でも、金曜日にはどなたかお連れがあるのですか」

R「いゝえ、何時も一人ですわ――」

B「今、私はあなたに私よりも好きな人があるかどうかといふことが一番気がかりです、こんなことを思ふのをあなたに笑はれはしまいかと思ふのですけれども」

R「そんなことお聞きになつてはいやですわ、それにあなたが私の■になつてしまふのかどうかわからないのですもの、あなただつてご返事が出来ないと思ふわ」

[やぶちゃん注:この台詞の「■」で表示した部分には、底本では編者によるものと思われる『(1字欠落)』という語が入っている。]

B「いゝえ、出来ます」

R「そんなことおつしやつては困りますわ、そんなことはもつと後のことだと思ふわ、そして、今は唯さう思つてゐればいゝのだと思ふわ」

B「――毎日お逢ひ出来ませうか」

R「毎日こゝでお逢ひするんですの――」

B「こゝでなくつてもいゝんです」

 

R「そして、私の名なんかお聞きにならない方がいゝわ」

B「暗くなりました」

R「えゝ、今夜はいゝ月ですわ、ちよつとお歩きになりません――」

B「えゝ……」

R「さつきの方は――」

B「Aですか、もう帰りました」

R「いゝ月ですわね」

B「…………」

R「月の中に住みたいわ」

B「…………」

R「まあ、どうなすつたの――」

(文芸ビルデング第三巻第四号 昭和41929)年4月発行)

 

[やぶちゃん注:底本では台詞が二行に亙る場合、一字下げになっているが、ブラウザの関係上、無視した。但し、敬体で書かれるト書き相当部分は底本通り、行頭から記載した。第5番目のパートのAとBの台詞に現れる「行かふ」、第8番目のパートのRの台詞の「おつしやつらなければ」はママ。]

 

 

 

    硝子戸に虻がとまつてゐた

 

    ×

 

 春のま昼に軟らかい風が吹いて、街では旗をたてゝ楽隊が通つてゐた。

 春になつてりぼんをかけずに歩いてゐるやうな者は一人もゐなかつた。

 

    ×

 

 楽隊はさかんにラッパを吹きならした。

 笑ひ薬をのまされた娘は足のうらがかゆくなつた。そして楽隊が心ぼそいほど低く聞えたり。踊つてゐてふらふら眠りかけたりした。

 娘は惰いほど花の匂ひや蜜のやうな甘さにとざされた。しつとりねばみをふくんだ空気は沼のやうにそこによどんだ。娘の鼻のさきや耳たぶにもいろいろと花が咲き初めた。

 

    ×

 

 夢のやうに春の日がながい。

 昔の恋人は笑つて帰つて来た。そして、娘のやうに走りまはつた。

 虹も出てゐたし、見たこともないやうなお菓子もあつた。

 

    ×

 

 ゆらゆら煙草の煙が指に纏はりついてのぼつてゐた。

 娘らは街を歩くのをうれしがつた。

 雲雀は何か美しい衣裳をつけて空高く飛んだ。

 

    ×

 

 花火は絶えまなくあげられて、まるい空が花簪をさしたやうになつた。

 いろいろに仕組まれた花火の中には長い尾をひらひらなびかせてそのまゝ天へ昇つてしまふのもあつた。

 

    ×

 

 硝子にとまつてゐる虻はときどき羽ばたいた。硝子戸から庭が透いて見えてゐる。

 虻は僕の顔を見ない。縁側の下だけが土が白く乾いてゐる。

(文芸レビュー第一巻第三号 昭和41929)年5月発行)

 

[やぶちゃん注:第二連三段落目の「惰いほど」は「惰(けうと)いほど」又は「惰(だる)いほど」と訓じているか。「ねばみ」は「粘味」である。]

 

 

 

    R氏のノート

 

R氏のノートの中に、R氏が自分で書いた覚えの少しもない記事を見つけたといつて、その切り取つた部分を同封して面白いから読んでみるやうにと言つてきたが、自分で書いて置きながら数年後にどうしても自分で書いたものでないとしか考へられないことが私自身にもあるのだから、R氏のノートもたぶんさうなのではなからうかと思つた。切り取つたノートの部分を読んで、新らしく愛人を得たのでR氏はそのノートに貼りつけてゐるかなしく別れた愛人の写真(ノートに書いてあるのをみると、それはほんとの写真ではなく雑誌の口絵からとつた彼女によく似た写真で、それをノートに貼つてゐたのだらうと私は想像する)を見つけた時のノートを私に送つて、それとなく暗示してよこしたのかも知れないと思つた。

R氏が愛人を得たとすれば、R氏の楽しい生涯を私も大変うれしく思ふ。

 

 ○月○日

 晴れて、暑い昼であつた。私は古雑誌の口絵のブールヴアールの中に彼女を見つけた。そして、それが彼女に似ているか似てゐないかを丁寧に考へた。

 彼女は正面を向いて椅子にかけてゐる。青いだぶだぶの帽子をかぶつて、白いオバーに濃い藍色の服を着てゐるもう一人の羽根のついた帽子をかぶつて横を向いてる婦人と、山高をかぶつて褐色の顔を手でさゝいてゐる黒い服の男との間に、赤い明るい唇を閉じてゐる。円いテーブルにぶどう色の飲物がのつてゐる。左手に、赤いテントをはつてさかんにはやしたてゝゐるサーカスの前に人だかりがしてゐる。シルクハツトの楽隊が一列に四人ならんでゐるそのわきに、ピエロとさるまた一つの大男と桃色の踊子が二人立つてゐる。黄色のピエロはふざけてでもゐるのか片手をあげて肩をひねつてゐる。小いさい太鼓をたゝいてゐるそばに猿と鹿のやうなものがゐるが、遠景なので版がはつきりしては木戸番であるのかも知れない。赤いずぼんに水色の外套を着た赤い帽子の軍人が立つてゐる。むぎわらに白ずぼんの男や、帽子も服もピンクの婦人や、なつぱ服に鳥打の職工も立つて見てゐる。それから赤と黄と黒の帽子をかぶつた三人の老婦人が歩いて来る。半分かくれてゐるシルクハツトの人もゐる。髯のある山高が傘を持つて静かにそこを横ぎつてゐると、その後から高いカラーをした海老茶の外套を着たのがすまして歩いてゐる。支那風に飾つた円テントの前にも大勢の人がゐる。赤や緑の提灯をさげてゐる。絵の正面は、路に面して白い建物がある。茂つた立樹がある。

 

 ○月○日

 私は「集ひ」といふ××××の口絵の中に又彼女を見つけた。彼女はそこに窓にもたれてゐた。

 私はブールヴアールのとくらべた。

 

 ○月○日

 私はこの頃眠れない。眠ると夢を見る。昨日の夢で、私は彼女と何処かへ逃げて行く旅費を中学の頃の友人から借りた。

(文芸ビルデング第三巻第七号 昭和41929)年7月発行)

 

[やぶちゃん注:底本では「R氏のノートの中に……」で始まり、「……私も大変うれしく思ふ。」で終わる前書き部分は全体が半角下げのポイント落ちである。「ブールヴアール」“Boulevard”はフランス語で「並木のある大通り」のことを言う。「さゝいてゐる」とそのすぐ後の「ぶどう色」はママ。「版がはつきりしては」は「版がはつきりしていれば」又は「版がはつきりすれば」といった意味合いか。次の「地球はいたつて平べつたいのでした」の詩に現れる『男は古雑誌の中から女に似た口絵を見つけて切りぬいたりした。』という句を持ち出すまでもなく、R氏とは尾形亀之助自身である。]

 

 

 

    地球はいたつて平べつたいのでした

 

 その夜何故女と別れなけれはならなかつたのか、女が帰つてしまつた後、私は泥酔してしばらく旅へ出ると女に言つたことを思ひ出して泣いた。汽車に乗る頃から又雨が降り出してゐた。黒い大きな花弁の中を運ばれてゐるやうな、このまま自分にはもう汽車を降りる機会がないやうな気がして次第に遠くなる停車場の間を窓から見てゐると、も一度降りてみなければならない急がしい気持になつた。そして東京を七里ほど離れた一時過ぎのま暗な町で動き出してゐる汽車から飛び降りてしまつた。だが次の日の朝、私は雨のやんだその小さな町の停車場から青い顔をして発つた。電柱のわきに太陽が昇りかけて、遠くを飛行機が飛んでゐるのだつた。夜とはちがつて、白らけきつたあたりの様子はもう東京とは少しのつながりもなくなつてゐた。尾の切れた蜻蛉のやうな、明るい昼の汽車の中がずゐぶんながかつた。はねあがつたずぼんのどろが乾いてしまつてゐた。

 △△の町に着いて、私が何のためにそこへ来たのか、まるで無関心な人達を見た。改札は私から切符を受け取つたゞけであつた。駅の前の広場でも私を見てゐる人は一人もゐなかつた。私は宿をとつて風呂に入つた。雀が鳴いて、梅のつぼみが咲くばかりにふくらんでゐた。炬燵に足を入れてゐると眼が鉛のやうに重く、窓の湖の青が幽霊のやうに映つた。風呂に浸つてゐても、體がちつともぬれてゐないやうな気がしてならないので頭に水をかけた。山の上の空が紫色になつて日が暮れていつた。

 午後風が出て、枯葉のやうに湖が鳴つてゐる。私は歩きたくもない山の下の路を歩いて帰つた。山も空も晴れて、湖は濁つて遠くの方だけが浅黄色の波をたてゝゐた。そして、出かけたときと何の変てつもない部屋の中へ帰つた。――二時を打つ音が聞えたり、宿の子供がピアノで何かやつてゐたり、ピアノが蓄音器に変つたりしてゐるのを聴いてゐると、自分がたわいもない置物のやうなものに思われた。

 「昨夜も眠れなかつた。お前が劔のやうな形になつてゐる夢を見て幾度も眼をさました。私はもつとすまして暮らしてゐたのだつた。それなのに、昨日から何も食べてゐない。昨日のやうに山の上が紫色になつて、だんだん山が見えなくなる。客が着いたり、女中が馳けて通つたりして、風が吹いてゐる」

 

 東京を発つ前の日の晩、女が×××へ帰つて来るとすぐ私は裏の暗いところへ呼んだので、あとからついて来た●が女の顔を四つばかりなぐつた。どうしてあんなことをしたのか、酔つてはゐたのだが、裏へ出て女と何を話したのかも覚えてゐない。裏へ出るとき私はころんでコンクリートのたゝきにこめかみを打ちつけた。女が顔を抑へて二階へかけあがつた後、どんなことを言つて●と別れたのか家へ帰つて障子を二枚目茶目茶に毀してしまつた。とうに十二時を過ぎてゐたのに、妻や子供は女中と一緒に何処かへ出て行つて家の中にはゐなくなつてしまつた。

 カアテンをしめ忘れてゐるので暗い庭が見える。飯の度に箸の中から辻うらが出る。一人でかうしてゐるとずゐぶん淋しくなる、風がやんで湖が消えてしまつたやうになつてゐる。

 一時を過ぎて、大きな声で歌を唄つて四五人の客が私の上の部屋へ入つた。そして、又歌を唄つて風呂に降りて行つた。煙草がなくなつた。雞が鳴いてゐる。私は東京からこゝへ来てゐる。明日は出来ることなら東京でドンが鳴つて、女がそれを聞くちよつきり十二時に床から飛び起きよう。そんなことだつて何んにもならないことはあるまい。

 

 遅くなつてから眠つたのに今朝は又早くから眼がさめてしまつた。

 立樹の茂つた墓場の入口を通りかゝると、数百匹の猫が入り乱れて斗つてゐるのであつた。私が立ちどまつて見てゐると、突然一匹の黄色の小猫が私の顔へ飛びかゝつてきたので、はつとして蒲団から手を出しながら眼をさました。今日も亦昼になつた。雀が隣り宿の高い二階の庇に頭を湖に向けて小いさくとまつてゐる。窓に陽がいつぱいにあたつてゐる。私は女の胸ヘピストルを打ちこまうとしてさつきから幾度も引がねを引いた。

 湖が光る。囲りの山をどけて東京が見たくなつた。どういふものか、ピアノが聞えてくる度に東京を離れてゐることがはつきりする。夜になると宿の若主人はクラリオネツトの練習を始める。鋏をかりて髯をつんだ。女は心に浮ぶ船なのだ。

 日暮と夜と昼とがどんな恰好をして通り過ぎるのか、こんなはつきりしないことを私は考へまいと思つた。日暮も夜も昼もたゞの景色でしかないとすれば、ことさらに何も考へる必要はないのだし、昨日があつて今日があるのだと思つてゐても、それが結局なんのことなのかわからなくなるのであつた。今日は風がなく、庭がごみを散らばしたやうにきたない。近所の山へ登つてみようと思つたが、登らなかつた。

 「今朝早くからビールを飲んだ。そして、どうして東京がこんなに遠いのかと思つた。今朝、お前と最初に口をきいた人はお前になんと言つたのだらう。今日も一日風がなかつた。夕方ボートに乗つた。少しづつ日がながくなつた。この町に今日火事が二つあつた」

 私は部屋の後ろから出る月を見た。こゝへ来て、夜になると白い月が低く出てゐるのを少しも気がつかなかつた。月はボール紙であつても、切りぬきであつても、舞台の背景の月でもかまはない。女は自身だけしか好いてはゐないのだ。つゝましやかと言つていゝのなら、女のつゝましやかはそれなのだ。湖につき出てゐる公園で柳の若葉を見て、女がそれを好きだと言つたのを思ひ出した。ボートの帰りに遊廓の入口の射的場でタバコを打つた。

 又、昼から酒なんかを飲んで、すぐまづくなつてしまつた。こんなことは自分でがつかりするより他はなかつた。こゝは山の中の温泉町なのだけれども、私のゐる部屋の前は湖を埋めたてた石ころばかりの庭なのだ。私は酒の膳を寝そべつてゐる足で押しのけた。陽ざしがカアテンをふくらましてゐた。頭に角が生えかけてゐるやうな気持になつた。

 

 「又お前の夢を見た。お前を訪づねて行くと、二階にゐるといふので階段の処で行つて恥かしくなつてゐると、お前の友達は大きな声でお前を呼んで私の来たのを知らせた。お前は、明日お部屋へお帰りですつてね――と言つた。よく考へてみれば何のことなのかわかりさうな気がした。そこでお前と別れてしまつたのだらう。ちよつと眼をさましたのかも知れないが、気がつくとお前は友達と家へ帰るところであつた。たしかにそのうちの一人はお前なのだが二人とも黒いベールのついた帽子をかぶつたり、黒の靴下に同じやうに黒い靴をはいてゐるので、後ろから見たのではどつちがさうなのかわからないのだ。それなのに、そのうちの一人がその辺のホテルへ帰つてしまふ話がよく聞えたり、あなたも寄つてゆけと言つてゐたりするので、夢の中だつたけれどもひどく気をもんでしまつた。だが、お前がふりかへつて私を見たのでホテルへ帰るのがお前でないことがわかつた。それからお前は私と腕をくんでゐた。私が●にすまないと言ふと、お前はそんなでもないと言ふのだつた。そして、何で眼がさめたのか眼がさめてしまつた」

 

 朝から雨が降つてゐる。十時過ぎに床を出るとま白な空であつた。昨日の晩遅く停車場へ行つて東京へ行く最終の汽車を見た。停車場の時計は張り紙がしてとまつてゐた。巡査が立つてゐた。そして、私の見てゐる前で汽車はホームだけを残して行つてしまつた。

 私のゐる部屋に窓が四つある。右端の窓からは湖とその向ふの山が見える。その次のは、隣り宿との境界の生垣と松とせの高い檜葉と山のつゞきとが見える。そして、高い屋根の庇が少しばかりつき出てゐる。三つ目の窓は、屋根と便所から出てゐる煙突と、そこのとこの白い壁と屋根の上の空が見える。四つ目のはいつもカアテンを降ろしてゐる。雨にぬれて雀が鳴いてゐる。突然、昼からクラリオネツトが聞え出した。たまに吹きのばされると、遠くの方で番頭や女中や女将さんが笑ひ出すのが聞える。何んだか、私もつりこまれて可笑しくなるのだつた。

 「雨が二三日やまないかも知れない。今日は山が見えない。湖がひどく濁つてゐる。四時がなつてから風呂に行つた。そして、湯をぬるめて頭まで沈んだ。昨日の夢は、私達の歩いてゐる側に夜店が出てゐた。片手で體を浮かしてみたりして風呂を出た。夕方になつて寒くなつた。坐つてゐたので足がしびれた。飽きて、ぬれ手拭をさげて風呂へゆくと手もつけられないやうな熱湯が湯ぶねからあふれて流れてゐるのだつた。もう外は暗くなつてしまつた」

 湖が鳴る。湖は水母のやうに生きてゐる。部屋の中は炭火のさける小さな音がしてゐる。雲が桃色になつた。湖も桃色だ。私には夜が暗くつて美しいといふ気持にはなれない。昼も桃色も消えて、自分が部屋の中にゐることだけしか考へられない。湖は音だけで見えなくなつた。山の上だけが山よりも少し明るい。

 床に入つても眠れないので、今頃女はどうしてゐるのかと、そんなことばかり思はれてならない。何時までも眠れないと床の中にもぐつて息をつかないでゐたりして、床から顔を出してぐつたりするのだ。手を出して動かしてみたりするのだ。今夜も上の部屋に四五人の客がゐる。天井がみしみしして、サンデリヤがゆれてカラカラ音をたてる。ときどきどしんといふのは何をする音なのか。私は又煙草をみなすつてしまつた。

 「明け方●の夢を見た。●がクラブのやうなところで大きな椅子に腰かけてにやにや笑つてゐるのを、私はそのそばにゐて見てゐるのであつた。●は未だこゝにゐるんだ――といふ意味のことを言つた。私は一人でゐるお前のことを思つてゐた。それからどの位ゐ過ぎてからなのか、●と二人でお前が日本髪に結つて一人で編物をしてゐるところへ帰つて行つた。何故か、お前の片々のびんがこはれてもう一方のびんが大きな波うつてゐた。そして、顔が私の妻に似てゐるのだつた。●が何かお前と話してゐるので、私はお前と何も話さなかつた」

 夢はいつの間にか野外劇のやうなことになつてゐた。広い川などが流れてゐたりして私はそこを泳いで渡つた。そして、外人街のやうなところで路を迷つてゐると、不意に後ろから刀をぬいた男が追つて来たりするのだつた。

 曇つてゐるのが晴れて、山の上が青く部屋の中はどうかしたのではないかと思はれるほど明るくなつた。小石の多い地面が乾いて、窓の下の芭蕉が芽を出してゐた。横になつてゐると寒くなつた。考へることゝいつて何もないといふ気がして、便所に入つてゐると何処か近くで掘抜きを掘つてゐるのが聞えてゐた。熱い茶を飲んで湖のふちまで出て行つた。

 今日も朝からぼんやりしてゐた。窓から見える湖に寝ころんでみたくなつた。坐つてゐると、私はいつまでも坐つてゐる。髯を鋏んでゐるうちに曇つてしまつた。時計が三時を打つた。私もどこかに時計を持つてゐるやうな気がした。

 夕方は雀がさわがしくなる。そして、私は風呂に入つてみたりするのだつた。よく風呂に入るので、足の裏が手のひらよりも綺麗になつてゐた。足の裏があまり綺麗なので、自分の體が何時の間にかたいへん大きくなつてゐるやうな、何かたわけたことになつてしまつてゐるやうな気がするのだつた。

 陽が低くなると湖が一面に光る。坐つてゐるまゝ仰向に寝ると床の間が丁度よい枕になる。窓は空ばかりになる。陽ざしがのびて床の間の壁まで這つた。どう見ても部屋には自分一人しかゐない。それも寝そべつてゐるせゐか頭ばかりでしかないのだつた。さつき廊下の窓の下がにぎやかなので出てみると、小いさな女の子が十四五人も砂を掘つて遊んでゐた。皆んな赤い色の着物を着て、てんでに手を動かしたり頭をふつたり歩いたりしてゐるのだつた。

起きあがると風が出てゐた。遅い昼飯を食ベた。

 「雲がかゝつてゐるので早くから日が暮れた。見てゐるときりのない夕暮だ。何を思ひ出したのか、顔をふせてゐると涙が流れてきた。何のことかわからないまゝでしばらく泣いてゐた。昔、太陽の登るのを見て、学校へ行く路で涙がとまらなかつたことがあつた。毎日私は湖を見てゐる。風のない日は一日中湖がお前に似てゐる」

 

 窓が光つてまぶしい。風がないので湖の上をボートがよくすべる。蝶が飛んでゐる。

 どうして花見なんかへ行く気になつたのか、私は宿酔で今日は朝から寝てゐた。一日窓に陽があたつてゐた。陽がかげると、電燈がついた。今日はピアノがならない。そして、雨蛙が啼いてゐる。五月になつてこゝでは桜の花が咲く。

 私は久しぶりで靴をはいた。そして、汽車に乗つてしまつた。思索をしたのであつたが何のやくにもたゝなかつた。

 笹子のトンネルはながかつた。八王子の辺は日が暮れてゐた。電燈のついた停車場は人の影が黒く、弁当などを食べてゐる人もゐた。私はちよつと立ちあがつてみたりした。シグナルやポイントがどうなつてゐやうと、そんなことはどうでもいゝやうに汽車は走る。私にしても、夜になつて外が暗いのだし汽車のゆれるやうに體がゆれてゐるのだから、汽車を怖いとは思つてゐない。棚の網にあげて置いた牛乳が漏つて、横になつてゐる私の襟をぬらしてゐるのさへ知らずにゐたのだつた。

 電燈が暗く、汽車の中が夢のやうになると、汽車の少しつつ沈んでゆくやうな音に耳をすまして皆一様に眼を据ゑてゐる。私は何時のまにか頭痛がしてゐた。私は汽車に乗つてゐるけれども急いでゐるのではなかつた。窓をのぞくと自分の顔が映つた。東京の郊外へ入ると、汽車は坂にでもなつてゐるやうに走つた。「新宿」へ着いて電車に乗りかへると一鉢づつ花をもつた老人夫婦が私をはさんで坐つた。

 暗い路で自動車を降りると、ポケットの銭がきみのわるい音をたてた。私は帰つて来たのだつた。竹藪の中の路を畑へ出て、家の前へ来て門燈に照らされてゐる庭の赤い躑躅の花を見た。私はせまい玄関で力を入れて靴をぬいだ。部屋にはしばらく見なかつた机や本があつた。

 朝の電車なのだらうか、私の頭にかすれた線を引いて走つてゐた。仰向いて寝てゐると足が棒のやうになつてゐる。そして、胸の辺に頭がきて、頭が枕になつてゐる。何処からか燈がさして窓が明るい。蛙がさかんに啼いてゐて、未だ汽車に乗つてゐるやうな眠りかけてゐるやうな気持になつてゐると夜が明けかけた。私はそれからしばらく便所に入つて出ずにゐた。

 春から夏になつた。男の妻や子供は田舎の海へ行つてしまつた。自分の他には誰も家の中にゐないことや、明けはなしたガラス窓の外に陽ざしのよい庭があることや、森の中に話声がしたりきまつた時間に豆腐屋が通つたりするのが、ぼんやりしてゐる男を退屈にした。そして、うす暗くなる庭から眼をそらして電燈をつけた。夕方、毎日のやうに前の森へ来て流行歌を唄ふ二人連の一人は、ハーモニカかヴアイオリンを持つて来てもう一人の唄に合せるのだつた。月のよい晩などは「金色夜叉」の声色をかはるがはるにやつては、二人一緒に大変な声で悲鳴をあげたりするのだつた。又或る時には、救世軍が家の前までタンバリンや太鼓をたゝいて来るのであつた。

 かなかな蝉が一斉に森で啼くやうになると、雨あがりの夕暮などは蝉の声が澄んで空へ響いた。男は少しつつ街へ出かけるやうになつた。毎日蝉が啼いた。男は古雑誌の中から女に似た口絵を見つけて切りぬいたりした。見てゐるうちに消えてしまふ雲もあつた。

 夏の昼は大きな象のやうな動物に似てゐた。床を出て顔を洗つてしまふと、男にはもう何もすることがなかつたりするのだつた。日がながかつた。明るいまゝで日が暮れるのであつた。

 隣家の百日紅は赤かつた。昼近い頃が一番赤いのであつた。毎晩のやうに月の出がおそくなつた。そして十二時過ぎて月が出るのであつた。窓にのしかゝつて、鼻をつまらせて、何んといふ暗さだ――といふのが男の夜の感想になつた。夜が更けて、まだ走つてゐる電車には自分の知つてゐる人が乗つてはゐまいと思つたり、どこまで夜が暗いのか棹のやうなものでつきさしてみたいと思つたりした。又、近所で門を閉めたり鍵をおろしたりした後は、何か暗示のやうなものが人間へ覆ひかぶさつてゐるやうな気がするのだつた。不安になつていつでも窓を開けてゐれなくなるのだつたが、そんな誇張した感情はながくはつゞかなく、とうに寝たと思つてゐた隣家に話声がしたりするのだつた。

 ながい日が過ぎて行つたやうな、乗つてゐる汽車が停車場に近づいて急に窓の外の景色が重たくなるときのやうな日がつゞいた。そして、秋になつた。朝窓を開けると、手のとどくやうな松にも霧がからんでゐた。男は何かゞすぐ眼の前にあるのに、その名が言へないでゐるやうな気がするのだつた。

 その頃になつて、男は思ひ出したやうに又女の夢を見た。妻や子供が田舎から帰つて来ると、男の家は「××ケ谷」の方へ越して行つた。

(文芸月刊第一巻第二号 昭和51930)年3月発行)

 

[やぶちゃん注:後半中間部の人物「●」の現れる夢の叙述中の『片々の』は『片方の』の誤植ではなかろうか。本篇は昭和2(1927)年4月の信州上諏訪への傷心旅行(吉行あぐりと思われる女性への一方的な恋慕と失恋)をモデルとしていると思われる(湖は諏訪湖)。従ってこの作中の「妻」は執筆字時の実質的な内縁の妻芳本優ではなく、タケである。旅からの帰宅シーンには潤色があり、ここでは古くからの馴染みの自宅に戻るかのように描かれているが、実際には亀之助の旅行中に家族(タケ・長女泉・長男猟)が新宿区上落合702番地から世田谷太子堂169番地に転居しており、同年4月末、亀之助は上諏訪からこの新しい転居先の太子堂の家に帰還している。また、末尾に記されるのは同年12月の同じ世田谷の山崎1414番地への再転居のことである。]

 

 

 

    彼等の喧嘩(二幕)

 

  若い夫

  若い妻

  犬

  郊外

  中春の夕方

 

    ×

 

舞台は客間と居間が唐紙で仕切られてある。客間は客間らしく、居間はたんす!火鉢其の他よろしくその辺に置いてある。庭には青葉の桜二三本、つゝじなども咲いてゐる。桜は枝ぶりのわるい方が面白い。

 

幕あくと、客間の床の間の上の蓄音器にテノールか何かのレコードがかゝつてゐる。(爽かな気分)客間と居間との間の唐紙が一枚だけ開いてある。食べるばかりになつてゐる食卓が居間の中央に置いてあつて、夫がその前に坐つて新聞を見てゐる。

雞のすねを焼いた骨つきを二皿両手に持つて妻が居間へ入つて来て、大きい肉片の入つてゐる方を夫の前へ小いさい肉の方を自分のとこへ置いて、客間へ行つてレコードを止めて来て夫に向ひあつて坐る。

妻「あなた。さあ食べませう」

夫「うん――(新聞を下へ置いて)雞のすねか。胡椒……」

妻「あなたの前に出てゐますわ」(飯をよそう)

夫「そうか」(胡椒や塩をかけて肉を切る)

妻(自分の茶碗にも飯をよそつて食べ始める)

夫(肉の大きそうなのを一口食べてみて、意外といふ表情)――「不味い」

妻「――あら、私のはおいしいわ」

夫「お前は何んでもうまいんだ」

妻「まあ……私のを食べてごらんなさいな」

夫(それもどうせ不味いといふ顔)

妻「だつて、何時かあなたがおつしやつたやうにして焼いたのですもの」

夫(妻の言葉を聞いてゐないやうに他のものをわざと食べてゐる)

妻「……でも、こつちのを食べてみて下さらなければ困るわ」(自分の皿を夫の方へ押し出す)

夫(妻をにらむやうにして、その皿から一きれつまんで食べる)

妻「どう……不味い?」

夫「いや……甘い」(こんどは自分の皿から肉をつまんで食べてみて)「不味い。おかしいな、ちよつとこつちを食べてごらん」(妻の方へ自分の皿を心もち押してやる)

妻(それを一きれ食べてよく味はふ様子。首などをまげる)「まあ、不味いわ――雞がちがうのでせうか?」

夫「……」(だまつて妻の皿から肉をとつて食ふ)

妻(夫の顔を見てゐる)

夫「こつちは甘い」

妻「……おかしいわね。こんなに味がちがふんですもの、おんなじ雞のすねじあないんだわね。きつと」

夫「跛の雞なのかも知れない……」(彼はそう云つて、すぐそんな思ひつきを後悔したやうにのみ込んでしまつた肉を今更吐き出せない――といふやうな気もちのわるさうな顔をする)

妻「いやな雞屋、明日来たら聞いてみるわ。跛の雞なんかもつて来て」

夫「馬鹿な……」(もつてゐた茶碗と箸を置く)

妻「……」(涙ぐんだらしく、夫の気もちをさぐるやうに夫の顔を上眼でちよつとのぞく)

夫「……」(もうそのまゝ飯をよすらしい)

妻「もうおよしになるの……」(茶碗を置いてしよげる。ぼんやり握つてゐる箸でなべをつゝいてゐる)

夫「…………」

妻「ごめんなさいね――」

夫「…………」(座を立つて部屋を出る)――退場

妻(その後姿を見送る。間……そして、かなしげに立ちあがつて客間へ入つてゆくとなにげなくさつきのレコードをかける。ぼんやりした様子)

夫「うるさいな――」(と、大きな声でかげでどなる)

妻(びつくりしてレコードをとめる)

夫(つか/\と部屋へ入つて来て、そこに立つてゐる妻を押しのけるやうにして、乱棒にホツクストロツトをかけてでたらめに踊り出す)

妻(ぼうぜんと見とれてゐる)

夫(だんだん調子づいて踊つてゐると、すべつてころぶ)

妻「あぶない――」(と、思はず夫のそばへ寄る)

夫(妻がそばへ寄つて来ると、いきなり足をからんでころがす)

妻「まあ、ひどい」(ころんだまゝ)

夫「まあ、ひどい」(妻の口まねをする。やはりころんだまゝ)

 間――二人がころんだまゝで

 ……犬が一匹庭を横切る。

 ……そして、静かに幕がする/\降る。

    ×    ×

どうでもよいことだけれども、ホツクストロツトを夫がかける時、夫はたゞかけるまねだけしてべつに舞台裏でかけて、夫がころぶと同時に止めてしまふのも面白いと思ふ。その方が、彼等がころんだまゝでゆつくり芝居が出来る。足をからまれて妻がころぶときなども、しなをつくらないでいきなりドシン――ところばなければちつとも面白味がないことになる。

足をからんで細君をころがして、彼はすつかり気嫌を直してゐるのにそこで細君がメソ/\泣き出してしまふものならこの芝居はぶちこはしだ。彼は家を飛び出して私のとこへでも訪ねて来れば、カフエーへ行つて一ぱい飲むことになる。すると自然に一ぱいが二はいになつて、彼はおそく家へ帰る。酔つてゐるから細君をぶつやうなことになるかも知れない。それでは私の作意に大変そむく、こゝはやつぱり「まああんたはひどい人」と細君は彼の顔のとこへはつて行つて、彼の頰をかるくつねる。彼も心得て、細君の鼻をかるくつまむ。すると細君も彼の鼻をつまむ。――そうなれば私も安心して筆を置く(一九二六、九――)

(九軒一の巻 大正151926)年11月発行)

 

[やぶちゃん注:底本では台詞が二行に亙る場合は一字下げとなっているが、ブラウザの関係上、無視した。冒頭ト書きの「!」は「・」の誤植であろう。同じト書き中に現れる『その他よろしく』は戯曲やシナリオとしてはよく使われる常套句である。の妻の台詞「妻「……おかしいわね。こんなに味がちがふんですもの、おんなじ鷄のすねじあないんだわね。きつと」の「すねじあない」はママ。「ホツクストロツト」は“Foxtrot”フォックストロットで、社交ダンスの一つの型。ラグタイムに合わせて男女で踊るテンポの早いもの。最後の解説は底本では全体が半角下げのポイント落ちである。「九軒」なる雑誌は不詳。底本の編注にも記載がない。ない、本篇は表題に『二幕』とあるが、この前後に別なシークエンスがあるようには思えない。いや、本篇は最後の解説によってレーゼ・ドラマであることがはっきりするのであって見れば、「二幕」という表記に拘る必然性は全くないように思われるのである。]

 

 

 

    電車の中で

     ――喜劇風のシナリオ――

 

  若き詩人

  美しき婦人

  花を持てる老年の男

  ――其他。午後三時頃の閑散なる電車の乗客。車掌。(若き詩人の

  友人五六人。カフエーの人々)

 

    ×

 

 走つてゐる電車の内部。

 窓の外は明るい昼である。美しき婦人の斜向ひに若き詩人がゐる。詩人から一人分の空席を隔てて、花束を膝の上に置いてゐる老年の男がゐる。

 美しき婦人の背後の窓から綿のやうな雪が見える。話をしてゐる乗客は一人もゐない。

 

 電車は間もなく駅に停車する。二三人の乗降が静かに行なはれて、又電車は静かに走り出す。(電車が駅に停車をしてもわずかにそれとうかゞはれる程度で、カメラの位置及び状態は1のままである)

 詩人は大変幸福さうである。

 

 花と美しき婦人と詩人(タイトル)

 

 大変幸福さうな詩人の大写。

 

 花と老年の男の膝や胸のへんの大写。

 

 何も考へてゐないやうな無心な美しき婦人の大写。

 

 (溶暗)

 

 すれちがふ電車。さかんに走り過ぎる窓の景色。

 ぼんやりゆられてゐる電車の中。

 電車は又静かに停車場へ着く。降りる人も乗る人もなく車掌は開けて行つた戸を閉めてゆく。――

 そして、又静かに電車は動き初めてゐる。

 (カメラの位置は1と同じ、戸口は斜にわずかに見えるだけで、乗客の視線でそれと知ることが出来るだけでよい。)

 気をひかれるやうに老年の男の膝の花束を見る詩人。花から美しき婦人へ瞳を移して、そして詩人は自然の位置(態度)にかへる。――ゆつくりしたテンポ。

 

 大変幸福さうな詩人の大写。(7からダブル)

 詩人が微笑しかけさうになる。と、老年の男の膝の上にあつた花が彼の鼻を擽る。

 

 詩人はくすぐつたさうに鼻をこする。

 花を持つ老年の男は、顔にとまりにくる蠅をうるささうに追つてゐる。と、その拍子に花が床にころげ落ちる。

 一斉に(しかし、そこにゐる乗客の全部ではない)花と老年の男に視線を向ける。瞬間、詩人は当惑した顔をする。美しき婦人と詩人の眼が会ふ。(溶暗)

 

10

 座席から立ちあがる詩人。

 戸口の方へ行く詩人を追ふ美しき婦人の瞳。

 (そして、ここでカメラは美しき婦人の眼の位置になる。)

 電車が止ると、詩人は彼と一緒に降りようとしてゐる花を持つた老年の男に気がつく。

 詩人は巧みに花を持つ老年の男を先に電車より降して、ゆつくりとその後につゞく。

 

11

 詩人の背後を走り去る電車。

 詩人はちよつとふりかへつて電車を見送る。

 

12

 電車を降りた人々、階段。

 歩いてゐる花を持つ老年の男。

 (カメラはそれ等の人々を追ひ越して改札口の方へ急ぐ。)

 ――と、改札を出る詩人は花を持つた老年の男よりも遙に先になつてゐる。

 

 

13

 終り(タイトル)

 

 

14

 カフエーに入る詩人。

 

15

 カフエーの中には彼の詩人と全く同じ服装同じ顔をしてゐる彼の友人が五六人ゐて、彼の詩人はその中にまぎれこんでしまふ。そして、誰が彼であつたのかわからなくなつてしまふ。

 

16

 酒を飲む者、詩作をしてゐる者、其他色々――。(ひとゝほりカフエーの中を写した後は、かの詩人のまぎれ込んでゐるか彼の詩人の友人達のみを写してゐること)

 

17

 やがてカメラは、その中で一人だけぼんやりしてゐる男を見つける。彼がそれなのである。

 

註。13の「終り」(END)といふタイトルをそのまゝ入れて置いて、14から17までを加へるのです。

(映画往来第三巻第十一号 昭和2(1927)年11月発行)

 

[やぶちゃん注:底本では副題『――喜劇風のシナリオ――』がポイント落ち。また、本文では、シーン・ナンバーの後、一字空けでト書きが書かれ、ナンバー内で改行された場合は二字下げ、行が二行に亙る場合は、一字下げが用いられているが、ブラウザの関係上、シーン・ナンバーで改行、以下も上記のような通常の表記とした。なお、このためにシーンの記述の独立性が損なわれるのを恐れ、ベタで繋がっている底本を改め、シーン・ナンバー毎に空行を入れた。但し、シーン13の前後の有意の空行は底本にあるものである。なお、全体を通じて、最後の「註」等でも底本の本文の文字は特に変化(ポイント落ち等)していない。7の「初めてゐる」はママ、また16の「かの詩人のまぎれ込んでゐるか彼の詩人の友人達のみを写してゐること」の「か彼の」の「か」は衍字である可能性が高い。]

 

 

 

    口笛の結婚マーチ (シナリオ)

     ――「人生興奮」その三として――

 

[やぶちゃん注:底本では「(シナリオ)」及び副題の「――「人生興奮」その三として――」はポイント落ちである。]

 

 彼 ・二十六の男(彼女の恋人)

 彼女・二十一の女(彼の恋人)

 A子・彼等の友達(やがて彼の恋人になる女)

 B ・同じ   (やがて彼女の恋人になる男)

 其他 C。D。E。F子。G子。H子。街の人々――

    × × ×

 「口笛の結婚マーチ」の内容(演技をもふくむ)は喜劇ではない。しかし、われわれはここに軽い喜劇風のものとして見ることが出来る。

 彼等は唯若い男若い女であつて、学生又はゼントルマン(?)又は淑女であることが主意ではない。象徴されてゐる若い男女である。

 主たる演技者の体軀や顔などが、男は男、女は女で見間違ふほど似てゐてもよいし、又全くまちまちであつてもよい。たゞ、背の高い者と低い者、痩せた者と肥つた者が対象的に存在してゐない。同じやうに悧巧な者と馬鹿な者が対象的に存在してゐない。

 このシナリオの演技者が皆裸体であることが一番面白いかも知れない。だが実際には不幸(?)にもそれは望めない。で、せめて演技者は裸でやつてゐる心持を忘れないで欲しい。

 不自然な動作は一際禁ずる。(こゝでは、大胆な動作は決して不自然をともなはない)例へば、眼鏡をだてにかけてゐるときはいかにもだてにかけてゐることになればよいのである。又キザであるものはキザであつて、一つの役をつとめてゐるし、又不幸(?)にして全部の演技者がキザであつても、このシナリオの目的は達せられてゐる。

 唯、演技者はこのシナリオが全部を通じてのユーモア(例へば)を主としてゐるために、部分的個人的に自発的に滑稽なそぶりなどをしても、たいして効果がないことを知つてゐなければならない。

[やぶちゃん注:ト書き冒頭の「しかし、われわれはここに軽い喜劇風のものとして見ることが出来る」の部分は文章の呼応がおかしいがママである。また、「一際」及び一箇所「キザ」の傍点脱落もママである。]

 

  ――以上の或部分は、役割のない登場人物だけのタイトルの後に補助

  タイトルとなり、この後に役割のついたタイトルがもう一度出る。

[やぶちゃん注:上記ダッシュ以下の二行は、底本ではポイント落ち。ブラウザの不具合を考えて、私が適当な部分で改行した。]

 

    × ×

 

  *伴奏曲は口笛の如き楽器を主とせる低調の「結婚マーチ」。伴奏は

   終るまで休みなくつづく。

  *光線は、注意あるとき以外はあまり明る過ぎないこと。外景なども

   明るい曇天といつた調子でありたい。

  *テンポはゆつくり。タイトルは活字体。

[やぶちゃん注:上記「*」附きの注意書き三項目は、底本ではポイント落ち。底本では二行に亙っていないが、ブラウザの不具合を考えて、私が適当な部分で改行した。]

 

    ×

 

[やぶちゃん注:以下、底本では各シークエンスの▲のトップの下にト書きが続き、それが二行以上に及ぶ場合、すべて一字下げとなっているが、ブラウザの関係上、▲の直後に改行し、一字下げは行わなかった。また、底本では▲と▲の間は連続しているが、読み易さを考え、一行空けとしてある。他にも、シークエンスの変換箇所(囲み文字)の前後及び独立性の強いト書き(以下に述べる※部分)は原則、一行空けを行った。また、ト書きの一部(※:だいたいダッシュで前後を挟まれた撮影指示等の部分)はポイント落ちになっているが、そもそもこのシナリオはシナリオ本文とそうした補助説明部分が判然と書き分けられているとは言えないので無視して同ポイントとした。]

 

立樹、林、畑などのある野の朝。

人物は一人もゐない。明るいが輝やかしくない。――この風景は枝にとまつてゐる四五匹の雀になる。そして次第にうすれて次の場面と二重写しになり、次の場面次第にはつきりとする。

 

 彼 女 

 

彼女は化粧台(洋式)の前から立ちあがるところである。彼女の部屋は離れのやうな日本間。部屋の前の庭は、大きい庭の一隅であるらしい。壁には外国女優の写真が二三枚ピンでとめてある。美しい窓がけ、床の間の盛り花、椽近くテー・テーブル、椅子、長いソフアー等。しかしあつさりしてゐる。

[やぶちゃん注:テー・テーブルは「ティー・テーブル」のこと。]

化粧台の上にもむやみに化粧品がのつてゐない。化粧台の上に壁に若きゲエテの写真版が額になつてゐる。小いさな電灯スタンド。天井から部屋のまん中に電灯の花がさ。

 

彼女は立ちあがりかけてちよつとゲエテの額に見とれる。そして、すばやく眼の下へ(自分の)黒子を画き入れる。間。その下へつゞけてもう二つ黒子を入れる。そして、自分でも少し可笑しくなる。

彼女はその朝かくして「泣き出しそうな顔」を発明(?)した。

 

彼女化粧台の引出しから綺麗な画帖やうのものを取り出す。それには「私の化粧日記」と書かれてある。

 

彼女は新しい頁を開いて、

No.37. ……泣き出しさうな顔……(但し自分一人のときの退屈なとき。勿論室内専用)――と書き込む。そして、顔を画き眼の下へ三つま直ぐに黒子を画く。(画は丸の中に簡単に眼鼻を画くだけのこと)その頁大写になる。

 

彼女画帖を持つてテー・テーブルのところへ行き、置いてあつた紅茶をついで飲みながら画帖を開く。

No.21. ……緑の黒子……(洋服、ダンス専用)エメラルドのやゝ大きい黒子を額のまん中に入れる。口紅は黄味をおびた海老茶。耳たぶうす青く、靴は濃青色ビロード。

No.17. ……接吻……(小いさな夜会用)黒の細い線で唇へ渦巻く。

No.11. …………

 

彼女画帖を間じる。

庭に蝶が二匹飛んでゐる。(レンズ蝶を追ふ)蝶花にとまる。

[やぶちゃん注:「間」はママ。「閉」の誤植であろう。]

 

彼女ふと黒子に気がついて化粧台へ行つていそいで消す 画帖をしまふ。

[やぶちゃん注:「消す」の後の空欄はママ。]

 

 彼 

 

彼の書斎兼寝室(部屋は大きくない。そして潚洒ではない)

[やぶちゃん注:「潚」は「瀟洒」の「瀟」と同義字で誤りとは言えない。]

 

彼は寝台に寝てゐる。

枕もとの小いさいテーブルの灰皿から煙草の煙りがのぼつてゐる。新聞がひろげられて床のすそに落ちてゐる。彼はもう眼がさめてゐるが、床の中に埋づまつてゐる。

 

彼そろそろ床の上に半身を起す。簡単な寝巻を着てゐる。髪はくしやくしやになつてゐる。

 

窓のところに机、机の上に花と本。本箱の上に泥人形の猿。部屋の中央の円いテーブルに一通の手紙(封が切つてある。もう一度彼が見たものである)があり、大きな電灯スタンドが置いてある。

 

庭に面した窓にカーテンが引いてある。が、窓が開いてゐるので、カーテンが少しばかりゆれたり、ふくらんだりする。

 

彼はぼんやりとカーテンを見てゐる。

カーテンが女のスカアトのすそになる。そして、すぐ又もとのカーテンにかへる。彼変んな顔をする。

[やぶちゃん注:「変んな」はママ。]

 

彼煙草をくはへて床から降りる。彼の寝巻のずぼんは長くだぶだぶしてゐる。

彼カーテンをあけると、二十坪ほどの少しばかり文化的の庭が現れる。

 

彼まるいテーブルから手紙を取つて、窓の椅子(木製の安楽椅子がよい)にかける。彼手紙を見る。

 

 

私は消えてなくなります

私への感情をお捨て下さい

           彼女より

   彼 へ

 

 

彼はその手紙を持つたまゝベツトに入る。そして、頭から蒲団をかぶる。(溶暗)

 

――この際彼は淋しい顔はする。しかし、映画的な表情はしない――

 

 彼の見た夢 

 

ま暗(ま黒)の中に彼だけがはつきり浮き出してゐる。彼は正面を向いて静止してゐる。

 

――と突然A子が彼の右に現れて彼の手を握つてゐる。

 

A子は彼の唇を求める。(A子の顔に表情がない)

 

彼はA子の方へ体を向けて唇をあたへやうとするが、彼は彼の背後を気にする。ふりむいて見ても後ろには何もゐない。が、彼が見てゐるうちにぼんやりと彼女が少しづつはつきりと現れる。

 

――同時にA子次第にうすれて消えて、そこはもとどほりま暗(ま黒)になる。

 

彼は彼女の方へ顔を向けたまゝ、手は無意識にA子の手を探す。彼のその手には何時の間にか一輪の薔薇が握らされてゐる。

 

彼女静かに微笑する。

 

彼と彼女の真面目な接吻。

 

――以上六つのシーンは非常にゆつくりしたテンポ――

 

接吻をしてゐる問に背景が彼の部屋になり、彼と彼女は彼の部屋の前の庭に立つて窓にもたれてゐる。

 

庭に花が咲いてゐる。

 

彼と彼女は無言のまゝ動きもしないでゐる。

 

蝶。

蝶が左手より右ヘスクリンを横切つて飛ぶ。

 

――以上は全く無言のうちに終る。そして、芝居の引幕のやうに蝶を追つて次のシーンが左手より現れる。

[やぶちゃん注:所謂、ワイプのことを言っている。]

 

彼と彼女は街を散歩してゐる。

 

――が、シヨーウヰンドーのガラスにうつる影は、彼ではなくBと彼女である。

 

やがて、彼はそれに気がつく。と、Bだけを残して彼女の影が消え、Bは彼に変る。

 

彼何か言はふとしてふりむくと、今まで彼と一緒にゐた彼女はゐなくなつてゐる。

[やぶちゃん注:「言はふ」はママ。]

 

彼とぼとぼとカフエーに入る。

 

カフエーの中には、B、C、D、E、彼女、A子、F子、G子、H子がゐて、にぎやかにさわいでゐる。

 

それを見て彼ほつとする。

 

A子は彼の入つて来たのを見つけると、いきなり走り寄つて彼に接吻する。

彼驚く。

 

彼等喝采する。

その中に一緒になつて彼女が喝采してゐる。

 

彼はそれを彼女になじる。

彼女は彼の言ふことに相手にならずに、尚も平然と一緒になつて彼をからかふ。

 

外の客もふりむいて喝采してゐる。そして、その中の一人はテーブルの花をぬいていやに儀式的に彼に捧げる。彼は花を握らされる。

 

彼等は乾盃などをしてゐる。

 

――騒然たるうちに溶解。そして次へダブル――

[やぶちゃん注:「溶解」は「溶暗」又は「溶明」のことであろうが、これは次の「ダブル」という指示と連動して、このシーンと次のシーンのディゾルブ(オーバー・ラップ)のことを言っているものと思われる。]

 

彼一人カフエーのテーブルに凭れて洋酒を飲んでゐる。

 

――彼の全身とテーブル全部の大写し。他に何もないこと――

 

女給が何か食物を彼のテーブルへ持つて来る。そして、エプロンを取つて彼のわきにかける。

よく見ると、その女給はA子である。だが彼はおやと思つたゞけであつて、ひどくびつくりはしない。

 

A子しきりに彼に媚る。

 

――カメラ後退する。と――

 

彼のテーブルの隣りにBがゐる。

彼と同じやうにB洋酒を飲んでゐると、何か食物を運んで来た彼女がエプロンを取つてBのわきにかける。そしてBにしきりに媚びてゐる。

 

彼はそれを見てゐて実に無かん心の態である。

まるでBとは友達でも何んでもないやうに、そして彼女は見知らぬ女でゝもあるかのやうに――

[やぶちゃん注:「無かん心」はママ。この二行目のダッシュは、このシナリオ内では、きわめて異例の用法である。]

 

彼の眼がそこを離れる。

 

――と、同時にカメラ前進して以前の位置にかへる――

 

A子彼の体に寄りかゝつてゐる。

 

彼眼をつむつてA子に接吻する。

 

A子テーブルの花を折つて彼の胸にさす。

 

彼煙草に火をつけやうとしてマッチをテーブルの下へ落す。

彼マッチを拾はふとしてこゞんだ拍子に、彼はダブツて一匹の犬になる。

[やぶちゃん注:「拾はふ」はママ。]

 

犬になつた彼はそのまゝうなだれてカフエーを出て行く。(犬はあまり立派な犬でないこと)

 

――彼が犬になつた後はA子やBや彼女を写さずに、カメラはカフエーを出て行く犬を追つて客の足もとやテーブル椅子の下部のみを写す。

 

うす暗くなつたまゝ(溶暗を途中で止めてゐる)犬の出て行つた後のカフエーの入口から見た街路。――(間)――ひきかへして来て、カフエーの前を通る犬。(溶暗)

 

 

 Bの部屋では 

 ――(前の「彼の夢」と混同せぬこと)――

 

Bはアパートメントに住んでゐる。

犬を一匹飼つてゐる。(この犬は、犬になつた彼の犬を使つてよい)

窓は電車通りに面して街がいつぱいに見える。窓近く一輪さしに花一本。花のそばにステツキが立てかけてある其他、蓄音器、本少々、ベルモツト一瓶とコツプ。寝台椅子、小テーブル等。

 

Bは地のうすい部屋着のコートを着て、頭が三分の一も入らない変てこな帽子をかぶつて、煙草をのみながら手紙のやうなものを書いてゐる。

 

Cが帽子をかぶつたまゝドアーの鏡でネクタイを結んでゐる。

 

時計五時を指してゐる。

しかし、街は昼である。

 

――カメラ後退すると――それは壁にはりつけた外国の時計会社のポスターである。

 

部屋の中しばし安閑。

 

突然、DとF子がドアーをあけて部屋に入つて来る。

Cあやうくドアーにぶつかりさうになる。

 

F子部屋に入つてちよつと頭を下げたゞけ、そして、Bの後からBの頭をつゝいて窓のところへ行つて街を見る。

 

Dは先づ犬と握手。それからCと握手。それからBのところへ行つてのぞく。

 

Bはこのとき初めて顔を上げる。そして書いたものを封筒に入れてポケツトに入れる。

 

DはCのところへ行く。そして、お互にどうしたいといふ顔をする。

 

BはF子の後から頭をおさへて、窓ガラスへF子の顔を押しつけるまねなどをする。

 

(――と、) ペーブメントを歩いて来るA子。(ダブツて全身の大写)

 

F子とBは窓からA子を見つける。

 

D蓄音器をかけて、足で拍子をとりながらCの蝶結が中々うまく出来ないのを見て何か言つてゐる。

 

A子はBのゐるアパートメントでない方へ曲らうとする(B、F子の背後よりペーブメントのA子)

[やぶちゃん注:このト書きはB及びF子の背後から彼らをなめて、窓のずっと彼方のA子が、Bのアパートメントとは違った方向へ曲がるシーンをワン・ショットで撮るという指定であろうが、所謂、後のヨーカン・レフのカメラででもない限り、こんなシーンは当時、綺麗に撮れなかったと思われる。]

 

犬がCの足へお手をしてゐる。

Cうるさがる。D面白がる。

 

Dふと、BとF子が窓から何か見てゐるのを見て、蓄音器を止めてBとFのそばへ行く。

 

DがBの背後に着くと同時に、Bくるりとむきかへりその拍子をとるやうにDの胸をこぶしで軽く突く。F子Dの様子を見て笑ふ。

Bそのまゝいそいでドアーへ行き、ドアーを開けるついでにCのネクタイを引つぱつてほどく。

犬、Bにつゞく。

 

Dけゞんさうな顔をして、F子と一緒にCを見て笑ふ。

DはF子に窓から何を見てゐたのか、何故Bが急いで出て行つたかを聞いてゐるらしく、Cもネクタイのほどけたまゝ窓のところへ行く。

 

F子風見の風車を指さすと、DとCは何んのことかわからずに指さゝれたところから何か見つけようとしてゐる。

 

F子の指はガラスについたまゝそこから出たらめに徐々に動く。

 

――カメラはF子の指先を追つて、指さされたもののみを写す。

 

F子の指跡はガラスにうすく「A」の字を書いてゐる。DとCはそれに気が付かない。

 

DとCは何が何んだかわからないまゝに、何だつまらないといふ顔をして、Cは鏡のところへ――。

Dは頭をかゝひて寝台へ半身仰向に寝ころがる。

[やぶちゃん注:「かゝひて」はママ。]

 

Cは又ネクタイを結びかけてゐる。と、ドアーの外に何か来てゐるらしい。Cドアーを開けると、犬が入つて来る。

C廊下へ首を出してみてひつこめる。そして、誰も来ないらしくドアーを閉る。

 

F子笑ひながらCにネクタイを結んでやる。

Cほつとする。

 

C疲れたやうにDのわきに腰かける。

 

D起きあがる。

 

CとD列らんで放心の態。それが又、F子には可笑しい犬はCとDに向ひ合つて腰を降ろしてゐる。

[やぶちゃん注:「可笑しい」の後に句点が脱落していると思われる。]

 

F子又窓から外を見る。が、A子とBは見えず。

窓ガラスの「A」を見る。瞬間淋しい面ざし。

 

A子とBゆつくり話しながら部屋に入つて来る、(A子がBの部屋に入ると同時に明るい感じになる)

A子は、今日はとてもよい天気だわ――といふやうな挨拶をする。

 

CとD立ちあがる。

そして、F子に覚えてゐろ――といふやうな顔をする。

 

F子それに答へず。A子へ手をさしのべて表情たつぷりの握手をする。

 

――(間)――

 

が、部屋の中には何も面白いことがなかつた。彼等つまらなくなる。そして、ぼんやりと白らける。それにひきかへて外はよい天気である。

 

A子は何か思ひついたやうにF子にさゝやいて、部屋を出る。

 

A子はアパートメントの電話室で微笑しながら電話で話してゐる。

 

彼女電話でそれに答へて微笑してゐる。

 

――相互にくりかへして写さず。簡単に一度だけづつのこと。

 

B外出の仕度をしてゐる。

 

ぼんやりしてゐたCはブランデーの瓶のところへ行つて飲まふとしてゐるところへ、それを見てDも飲まふとして行く。が、コツプが一つしかない。

 

――Dが勢よくブランデーのところへ行つたのに、コツプが一つしかなかつたこと。Cはそんなことにかまはずゆつくり飲んだことなどが、この短い間に軽いユーモアーを作る。[やぶちゃん注:「飲まふ」及び「ユーモアー」はママ。]

 

Bその間に仕度すむ。

 

F子顔を直してゐる。

 

電話室の外の廊下へ(アパートメントの玄関につづく)

F子、C、Dがぞろぞろ来かゝる。

 

Bは部屋のドアーに鍵をしたりして後れて彼等につゞく。

 

A子電話室より出て彼等と一緒になる。

 

Bの部屋に犬が残されてゐる。

 

彼等アパートメントを出る。

 

 

 街 

 

デパートメントストアーのシヨーウヰンドー。

(a)……人物を入れないこと。

 

同じく(b)……同上。

 

同じく(c)……同上。

 

帽子の大写し(スクリンいつぱいに)

 

靴………………同上。

[やぶちゃん注:ここの「同上]は直前の『(スクリンいつぱいに)』を指すものと思われる。]

 

宝石……………同上。

 

街路の全景。

 

――銀座などではなく、外国のにぎやかなる街。一シーンだけ――(溶暗)

 

自動車と電車。――同上。

[やぶちゃん注:ここの「同上]は直前の『銀座などではなく、外国のにぎやかなる街。一シーンだけ!(溶暗)』を指すものと思われる。]

 

――「街路の全景」「自動車と電車」は、幻灯式に「街路の全景」はこんざつせるままに停止してゐること、「自動車と電車」はその一部分として同様走つてゐるままに停止してゐる。[やぶちゃん注:「こんざつ」はママ。]

 

はなやかなる紳士。(西洋人)

 

はなやかなる淑女。(同上)(溶暗)

 

――は、多少滑稽味のある絵はがきの如きもの。同様幻灯式である。

 

映写されて、ちよいとの間をおいてそのわきに小いさく「はなやかなる紳士」「はなやかなる淑女」のタイトルが出る。この二つには簡単な飾りわくがつく――。

 

――華やかなる結婚マーチの中に――

 

 END 

 

(映画往来第三巻第四十号 昭和31928)年4月発行)

 

[やぶちゃん注:尾形亀之助がこのエピグラフとしている『「人生興奮」その三として』とは、これ以前に書いた映画評論二篇(この二篇はシナリオではなく、完全な映画評論である点に注意)を指している。最初の一篇は昭和3(1928)年1月の同じ『映画往来』に執筆した「人生興奮(その一)」であり、二番目は同雑誌の同年2月発行分に掲載した「人生興奮(その二)」である。どちらも当時公開された映画作品(大半はアメリカ映画)の批評及びそれらに登場した映画俳優への批評である。それら二作は私のブログで示した。]