やぶちゃんの電子テクスト:小説・随筆篇へ
鬼火へ
二世の緣 上田秋成 附やぶちゃん訳注
[やぶちゃん注:上田秋成最後の作品集「春雨物語」(文化5(1808)年に現在の十巻十篇の形に纏められた後、翌年の秋成没までの一年をかけて改稿された)の第四篇。底本は昭和34(1959)年岩波書店刊日本古典文學大系56「上田秋成集」の「春雨物語」を用いたが、一部不審な箇所は小学館1995年刊の新編日本古典文学全集78「英草紙 西山物語 雨月物語 春雨物語」と校合した。底本では編者による補足された文字が( )で示されるが、私のテクストでは読みと混同するので省略した。一部、高校生が音読する際に迷うと思われる漢字に読みを施したり、歴史的仮名遣で現行の送り仮名を送ったりしたが、それらについては特に区別して示していない。踊り字「/\」の濁音は正字に直し、漢文に現れるような「こ」の字型の繰り返し記号は「々」に代えるなど、記号の一部に変更を加えてある。表記できない漢字は【 】で示した。該当の字体は以下の通りである。
【※1】=「口」+「旬」
「佛」と「仏」が混用されているが、これは原文ママである。
また、私のオリジナルな注と現代語訳を附したが、訳は私の勝手自在な訳であり、恣意的に改行を多くし、空行も用いてた(注では底本及び上記小学館版新編日本古典文学全集の頭注を一部参考にした)。一部に話の展開をスムースにさせるための、原文にない私の挿入句もある。従って、以下の注と現代語訳には私の著作権を主張するものである。
なお、この話のルーツとしての章花堂なる人物の元禄17(1704)年版行になる「金玉ねぢぶくさ」巻一の「讚州雨鐘(あまがね)の事」や、更なるインスパイア作である寛保2(1742)年版行になる三坂春編(はるよし)の「老媼茶話」の「入定の執念」、そして上田秋成の先行作品、天明5(1785)年頃版行の「雨月物語」の「青頭巾」も以上の通り、用意してある。御興味のある方はお読み頂きたい。また、この作品を読んで、円谷プロの1973年放映開始の「恐怖劇場アンバランス」の、あのヌーヴェル・ヴァーグ風の第一作「木乃伊(ミイラ)の恋」(原作・円地文子『二世の縁拾遺』/脚本・田中陽造/監督・鈴木清順)を連想される方は、2008年10月19日附の僕のブログ『「入定の執念」と「木乃伊(ミイラ)の恋」』等の呟きなどをも御笑覧下されば幸いである。]
二世(にせ)の緣(えにし)
山城の高槻(たかつき)の樹(き)の葉(は)散りはてゝ、山里いとさむく、いとさうざうし。古曾部と云ふ所に、年を久しく住みふりたる農家あり。山田あまたぬしづきて、年の豐凶にもなげかず、家ゆたかにて、常に文よむ事をつとめ、友をもとめず、夜に窓のともし火かゝげて遊ぶ。母なる人の、「いざ寢よや。鐘はとく鳴りたり。夜中過ぎてふみ見れば、心つかれて、遂には病する由(ゆゑ)に、我が父ののたまへりしを聞き知たり。好みたる事には、みづからは思ひたらぬぞ」と、諫められて、いとかたじけなく、亥(ゐ)過ぎては枕によるを、大事としけり。
雨ふりてよひの間も物の音せず。こよひは御いさめあやまちて、丑(うし)にや成りぬらん。雨止みて風ふかず、月出でて窓あかし。一言(ひとこと)もあらでやと、墨すり、筆とりて、こよひの哀れ、やゝ一二句思ひよりて、打ちかたぶき居るに、虫の音とのみ聞きつるに、時々かねの音、夜毎(よごと)よと、今やう/\思ひなりて、あやし。庭におり、遠近(をちこち)見めぐるに、こゝぞとおもふ所は、常に草も刈りはらはぬ隈(くま)の、石の下にと聞きさだめたり。あした、男ども呼びて、「こゝ掘れ」とて掘らす。三尺ばかり過ぎて、大なる石にあたりて、是をほれば、又石ぶたしたる棺(かん)あり。蓋(ふた)取りやらせて、内を見たれば、物有りて、夫(それ)が手に鉦を時々打つ也と見る。人のやうにもあらず。から鮭と云ふ魚のやうに、猶瘦々(やせ/\)としたり。髮は膝まで生(お)ひ過ぐるを、取り出ださするに、「たゞかろくてきたなげにも思はず」と、男等云ふ。かくとりあつかふ間(あひ)だにも、鉦打つ手ばかりは變らず。「是は佛の教へに禪定(ぜんぢやう)と云ふ事して、後の世たうとからんと思ひ入たる行ひ也。吾こゝにすむ事、凡(およ)そ十代、かれより昔にこそあらめ。魂(こん)は願(ねがひ)のまゝにやどりて、魄のかくてあるか。手動きたるいと執(しふ)ねし。とまれかうまれ、よみぢがへらせてん」とて、内にかき入れさせ、「物の隅に喰ひつかすな」とて、あたゝかに物打ちかづかせ、唇【※1】(くちびる)にときどき湯水すはす。やう/\是を吸ふやう也。爰(ここ)にいたりて、女わらべはおそろしがりて立ちよらず。みづから是を大事とすれば、母刀自(とじ)も水そゝぐ度(たび)に、念佛して怠らず。五十日ばかり在りて、こゝかしこうるほひ、あたゝかにさへ成りたる。「さればよ」とて、いよゝ心とせしに、目を開きたり。されど、物さだ/\とは見えぬ成るべし。飯(いひ)の湯、うすき粥などそゝぎ入るれば、舌吐きて味はふほどに、何の事もあらぬ人也。肌肉(ひにく)とゝのひて、手足はたらき、耳に聞ゆるにや、風さむきにや、赤はだかを患ふと見ゆる。古き綿子(ぬのこ)打きせれられて、手にて戴く。嬉しげ也。物にもくひつきたり。法師なりとて、魚はくはせず。かれは却(かへ)りてほしげにすと見て、あたへつれば、骨まで喰ひ尽す。扨(さて)、よみぢがへりしたれば、事問(こととひ)すれど、「何事も覺へず」と云ふ。「此の土の下に入たるばかりはおぼえつらめ。名は何と云ひし法師ぞ」と問へど、「ふつにしらず」といふ。今はかいなげなる者なれば、庭はかせ、水まかせなどさして養ふに、是はおのがわざとして怠らず。
扨も、仏のをしへはあだ/\しき事のみぞかし。かく土の下に入りて、鉦打ならす事、凡そ百余年なるべし。何のしるしもなくて、骨のみ留まりしは、あさましき有樣也。母刀自はかへりて覺悟あらためて、「年月大事と、子の財寶をぬすみて、三施(さんぜ)怠らじとつとめしは、狐(きつね)狸(たぬき)に道まどはされしよ」とて、子の物しりに問ひて、日がらの墓まうでの外は、野山の遊びして、嫁孫子に手ひかれ、よろこぶ/\。一族の人々にもよく交はり、召し仕ふ者等(ら)に心つけて、物折々あたへつれば、「貴(たふと)しと聞し事を忘れて、心靜かに暮す事の嬉しさ」と、時々人にかたり出でて、うれしげ也。
此のほり出だせし男は、時々腹だゝしく、目怒らせ物いふ。「定(ぢやう)に入たる者ぞ」とて、入定(にふぢやう)の定助(ぢやうすけ)と名呼びて、五とせばかりこゝに在りしが、此里の貧しきやもめ住(ずみ)のかたへ、聟(むこ)に入りて行きし也。齡(よはひ)はいくつとて己しらずても、かゝる交はりはするにぞありける。「扨も/\仏因のまのあたりにしるし見ぬは」とて、一里(ひとさと)又隣の里々にもいひさやめくほどに、法師はいかりて、「いつはり事也」といひあさみて説法すれど、聞く人やう/\少なく成りぬ。
又この里の長(をさ)の母の、八十まで生きて、今は重き病にて死なんずるに、くす師にかたりて云ふ。「やう/\思ひ知りたりしかど、いつ死ぬともしれず。御藥(おんくすり)に今まで生きしのみ也。そこには、年月たのもしくていきかひたまひしが、猶御齡(おんよはひ)のかぎりは、ねもごろにて來たらせよ。我が子六十に近けれど、猶稚(をさな)き心だちにて、いとおぼつかなく侍る。時々意見して、『家衰へさすな』と、示したまへ」と云ふ。子なる長は、「白髮(しらが)づきてかしこくこそあらね、我をさなしとて御心に煩はせたまへる、いとかたじけなく、よく/\家の業(わざ)つとめたらん。念佛して靜かに臨終したまはん事をこそ、ねがひ侍る」といへば、「あれ聞きたまへ。あの如くに愚か也。仏いのりてよき所に生れたらんとも願はず。又、畜生道とかに落ちて、苦しむともいかにせん。思ふに、牛も馬もくるしきのみにはあらで、又たのし嬉しと思ふ事も、打ち見るにありげ也。人とても樂地(らくち)にのみはあらで、世をわたるありさま、牛馬よりもあはたゞし。年くるゝとて衣そめ洗ひ、年の貢(みつぎ)大事とするに、我に納むべき者の來たりてなげき云ふ事、いとうたてし。又目を閉ぢて物いはじ」とて、臨終を告げて死にたりとぞ。
かの入定の定助は、竹輿(かご)かき、荷かつぎて、牛馬(むま)におとらず立ち走りて、猶からき世をわたる。「あさまし。仏ねがひて淨土に到らん事、かたくぞ思ゆ。命(みやう)の中(うち)、よくつとめたらんは、家のわたらひ也」と、是等を見聞し人はかたり合ひて、子にもをしへ聞こゆ。「かの入定の定助も、かくて世にとゞまるは、さだまりし二世の緣をむすびしは」とて、人云ふ。其の妻(め)となりし人は、「何に此のかひがひしからぬ男を、又もたる。落穗(おちぼ)ひろひて、獨(ひとり)住めりにて有りし時戀し。又さきの男、今一たび出でかへりこよ。米麥肌(はだへ)かくす物も乏しからじ」とて、人みればうらみ泣きして居るとなん。いといぶかしき世のさまにこそあれ。
○やぶちゃん注(copyright 2009 Yabtyan)
・高槻:バラ目ニレ科のケヤキZelkova serrataの大木。
・山城の高槻の樹の葉散りはてゝ:「万葉集」巻13の第277番の高市連黒人(たけちのむらじくろひと)の歌に
とく來ても見てましものを山背(やましろ)の高の槻群(つきむら)散りにけるかも
とある。『もっと早くこの里に来て、見ればよかったのに――山城の多賀の社の欅の木々はすっかり葉を落としてしまっていることだ――』。上田秋成は、自身の「万葉集」注釈書「楢の仙」(寛政12(1800)年成立)で「群」は「樹」の誤りととり、
とく來ても見てましものを山背の高槻の樹は散りにけるかも
と訓じて、本作の典拠としている。この場合は、欅の大木の謂いであろう。但し、この歌で詠まれている場所は、現在の京都府綴喜(つづき)郡井手町多賀で、次に示される摂津国の「古曾部」とは異なる。大欅の謂いの高槻から摂津の地名の高槻を引き出すための序詞的導入であろう。
・古曾部:現在の大阪府高槻市古曽部町。先に述べた通り、ここは摂津国である。古曽部は能因法師や伊勢の隠棲の地として知られる。特に「扶桑隠逸伝」の能因伝の末尾には『遂に老を古曽部に終ふ。将に死せんとするとき自ら多年の吟稿を取りて深く土中に埋む』という記載があり、これが本話や秋成自身のプライベートなエピソードと重層するという論考の一端を山口大学助教授飯倉洋一氏の「ひとつの解釈から」という頁で読むことが出来る。
・山田:「詞花和歌集」巻9の能因法師が古曽部に在って詠んだ第334番の和歌に、
津の國に古曾部と云ふ所に篭りて前大納言公任の許へ言ひ遣はしける
ひたぶるに山田もる身となりぬれば我のみ人を驚かす哉
(やぶちゃん訳):ただ一途にこの奥深い山里の山辺の田を守るばかりの隠棲の身となってしまった故、まれまれ逢うた人を驚かすばかりの野人の如き我となってしまったことよ――
がある。
・ぬしづく:「主付く」で、領有・所有する、の意。
・亥:午後十時頃。
・丑:午前二時頃。
・鉦:鐘鼓(しょうご)。念仏に用いる楽器。皿に似た青銅製の鉦。丁字型の撞木で打ち鳴らす。
・禅定:広義には、精神を集中させ、宗教的な三昧の境地に入ることを言うが、ここでは所謂、即身成仏(現世の身体のままで仏となること。一般には真言密教の奥義)を指している。
・凡そ十代:普通に考えると二百から三百年前に相当する。本話の場合は現在時制が示されないので、明確な推定が出来ないが、後に「百余年」ともあり、一先ず、上田秋成の書き上げた文化5(1808)年辺りを基準点に大きく取れば、上限が1500年頃の室町幕府・朝廷権力の衰退期、中程に関が原の戦い(1600年)を挟んで、下限は徳川綱吉没年(1709)年辺りとなる。種本の存在や本作自体の話の性質から、この比定は殆ど無意味ではある。ちなみに、本話と同じ典拠によると思われる三坂春編の「入定の執念」の入定僧は、慶安五・承応元(1652)年の入定、土中からの出現は宝永三(1706)年で、どちらもこの比定内に収まる。知的遊戯としてはこの1700年前後を入定の年と比定すると、『執念の入定僧』の系譜が出来て面白い。
・「物の隅に喰ひつかすな」とて:底本は「物の隅に喰ひつかすなどして」であるが、小学館版で改めた。底本は注で『器物の一すみにしっかりとすがりつかせ。』と訳すが、如何にも苦しい。小学館版では注して『執念を持つ者は、物の隅に食い付くと離さぬという俗信による。』とあって、これは多くの怪異譚でもしばしば見られる現象であり、私もこちらを採る。
・母刀自:「刀自」は一般的な女性の尊称。一説に「戸主」(とぬし)の転訛と言う。
・【※1】(くちびる):【※1】=「口」+「旬」。「※1」は飲むの意であるが、このままでは意味が通じない。底本注に従い、「唇吻」の誤植と判断し、二字で「くちびる」と訓じた。
・布子:木綿で出来た綿入れ。
・日がらの墓まうで:「日がら」はその日の吉凶を占うことであるが、卜占してまで参るのは親の墓参りであることから、先祖の命日を言う。
・かたくぞ思ゆ:文末は本来、」係り結びで「思ゆる」となるべきところ。江戸期には既に係り結びは崩れていた。次の「聞ゆ」等、本文にはいちいち掲げていないが、他にも文法的には破格が多い。
・子にもおしへ聞ゆ:この「聞ゆ」は一見、謙譲の補助動詞に見えるが、文脈上おかしい。本来、そのような用法はないが、言い聞かせるといった意味で用いている。
・落穗ひろひて:底本注に柳田国男著「木綿以前の事」を典拠として『古い村落で後家は落穂を拾って生活を助けることが許されていた』と記す。
・獨住めり:動詞として文を終止させたつもりが、以下「にて」と綴って名詞として続けてしまった誤り、若しくは名詞+動詞を強引に名詞化したものか。
○やぶちゃん現代語訳(copyright 2009 Yabtyan)
二世(にせ)の縁(えにし)
「万葉集」にも歌われた山城の国の方(かた)で有名な高槻(たかつき)の木、それと同ほどのここに生い立つ大きない欅(けやき)の葉もすっかり散り果てて、奥深いその山里は一際寒く、如何にも物寂しい景とはなった。さて、この摂津の国は高槻の古曾部という所に、何代にも亙って永く住み古した農家がある。山の斜面や谷間のそこかしこに沢山の田を持っており、その持分は年々の米の出来不出来を嘆く必要もないほどに多く、暮らし向きは至って豊か、主(あるじ)は山家(やまが)なれども常に勉学に勤(いそ)しみ、煩わしい世俗の友も求めず、夜ともなれば書斎に燈火(ともしび)を掲げて書見をするのを唯一の楽しみとしていた。常々母親には、
「さあ、早う寝なされや。夜半を告げる鐘はとっくに鳴りましたぞ。昔、夜中過ぎてまで本を読むと、心がひどく疲れて、仕舞いには病いを得るとの戒め、私の父がおっしゃられたのを今も、覚えておりまする。好事(こうず)のことには、自ずからここまでと制する気持ちが働かぬものですぞ。」
と諌められること度々、その都度、その母の言葉を有り難く思いつつ、亥の刻を過ぎれば床に就くのを常としていた。
さて、そうしたある雨の静かな宵のことである。今宵は図らずもいつもの母の言葉に背いて、書を読み耽るうち、丑の刻にもなったであろうか。
先前からの雨はやっと降り已(や)み、風も止んだ。折から月も出でて窓辺も明るい夜となった。
こうなってみれば、詩歌の一つもものさずにあるは如何にも無粋と、墨を磨り、筆を執っては、今宵の風趣にほんの一、二句なりと思い浮かべては、思案致していた……
……そんな黙考する主の耳に、何やら少し変わった虫の声(ね)が混じるのう……とばかり思っていた……
……が、時々耳に入るそれを、注意して聴いてみれば……小さくはあるものの、人の打つ鉦(かね)の音に相違ない……
……いやいや、思い返せば、この音(ね)は、それこそ毎晩聴こえておったではないか……
……如何にも妖しいこと――
主は徐(おもむろ)に庭に降りると、あちらこちらと探し巡る。巡る内に、音の出ずるはここぞと見当を付けたは、普段は草刈さえしたこともない葎の生い茂った隅の暗がりで、その石くれの下からと聴き定めたのであった――
翌朝すぐ、そこに下男の者どもを呼び寄せ、
「ここを掘れ。」
と命じて掘らせる。
早や深さ三尺を過ぎた辺りで、大きな石に掘り当たった。その石を掘り返すと、その下にはまた、石で蓋をした柩(ひつぎ)がある――
――その蓋を取り去らせて中を覗く――と――
――何やら得体の知れない「もの」が――そこには在った――
――その「もの」から生えた――手のようなものが――時々、前に置いた鉦を――打っておるように見え――
――その「もの」――強いて言えば、人の形、と言えば人の形――いやいや、人のようでも、ない――言わば――乾鮭(からざけ)という魚の干物のよう――いや、それ以上に干乾びて――がりがりに痩せ枯れ――髪のようなものが膝らしきところまでおどろに伸びている――
その「もの」を下男どもに取り出させたが、
「軽いばかりで、汚ねえという感じはしねえな」
とその「もの」を素手で抱えた彼らが言う――
――しかし、驚くべし! このように地面から引き出さんとする間(あいだ)も、ひっきりなしに、もはやない鉦を打とうとするような「手付き」だけは変わらぬのである!――
主は、
「これは、仏法に説くところの禅定という生きながらに自身を葬る即身成仏の行を成し、後世(ごぜ)、極楽往生を願わんとした修行の様を示しておる。……我が一族がここに住み着いて、凡そ十代……この僧の入定は、我らの先祖がこの地に居着いたそれよりも、遙か昔のことに相違ない。……しかし、この有様は……魂は願い通り極楽往生しながらも、肉体だけがこうして現世に残って在(あ)るということか……いや、それにしては、このように手を動かしておる……これは逆に、実に恐るべくも忌まわしき、この世への深き執念じゃ……ともかくも、試みに蘇らせてみしょうぞ。」
と言って、下男どもに家の内に担ぎ込ませる。
「執念の深いもの故、そこらの器物の隅に喰らいつかせぬように。」
と家内の者に注意を与え、暖めてやろうと、衣や布団を着せかけてやり、刷毛(はけ)を用いて、その「もの」の唇と思しき辺りを湿し、時々湯水を吸わせようとする――と――どうやら、それを吸おうとするかに見える――。
こうなると、家の女子供は恐ろしがって一向に近づこうとしない。それでも、主自らが万事世話をするようになったので、それを見た母御前(ははごぜ)も、息子が湯水で「もの」の唇を湿らす度に、念仏を怠らぬようにはなった。
――五十日程経った頃、その干物の人形(ひとがた)は、あちらこちらが水気(すいき)を帯びて潤い、何と、皮膚に人のような温かみさえ戻ってきた。主は、
「さればこそ、これは蘇生せんか!」
と、いよいよひたすら熱心に世話するうちに――
――遂に目を開いた――
――しかし未だ、物ははっきりとは見えぬらしい――
――それでも、重湯に始めて薄い粥などを口に注ぎ入れてやると、ぺろりと舌を出しては味わう様子――
――しかし、それだけのこと――何のことはない――ただの人でしか、ないのであった――。
――さて、それでも、次第に肌も生気を持ってぷっくらとしてき、身に肉も付いて、手足さえ動くようになり、耳さえも聞こえるらしく、吹き当たる風が寒いのか、赤裸でいることを厭うかにさえ見えるようになる。そこで古い布子(ぬのこ)を着せてやろうと持ってくれば、一人前に手で押し戴く。如何にも嬉しげである――。
――暫くすると、普通の食い物も口にするようになった――
――僧であればこそと、初め、魚は食わせなかったが――
――ところが、「彼」は、既に眼もはっきりと見えるようになったらしく、かえって主が食膳で魚を食うのを見て、如何にももの欲しげな様子さえする――
――主もそれに気付いて、試みに与えてみたところ、貪るようにあっと言う間に骨まで喰らい尽くしてしまった――。
さても、かく蘇ったので、主もいろいろと質(ただ)してはみた。
しかし、彼は
「何事も覚えておらぬ。」
と言うばかり。
「何らかの由緒あって此処の土の下に入ったこと、入定したことは、覚えておろうが? 名は何という僧であった?」
と問えども、
「全く知らぬ。」
と言うばかり。
――何とまあ、嘗ては名僧ともて囃された者でもあったに違いないが、最早、今となっては如何なる甲斐もへったくれもあったものではない。仕方なく、庭を掃かせたり、水撒きなんどをさせて下男として養うことと致した。与えられた仕事には、まめに執着して怠ることはなかった――。
――はてさて、この男の様(ざま)を見れば、仏の教えは出鱈目ばかりである。だいたいが、この男、このように入定と称して土の下に入り、鉦を打ち鳴らすこと、実に百数十年になろう。されど、何の効験もなく、ただ肉身(のくみ)のみ土中に留まっておったとは、浅ましいという外はない――。
さればこそ主の母御前はこれを見、仏法帰依の心をすっかり翻し、
「長年、後世の大事と思うて布施を怠ることなく、子の財貨を無駄遣いしてきたは、全くもって狐か狸に馬鹿されていたようなものよ!」
と、勉学に志して来た息子たる主に相談の上、ご先祖様の命日の墓参り以外の仏事は一切取り止めて、その他の折は、嫁やら孫やらに手を引かれての物見遊山、日々是好日と、享楽三昧すること頻り、一族の人々とも快楽交遊の限りを尽くして、家で召し使う者どもにもよく気を遣い、時には心附けの物をも授けたりした。さすれば、
「かねて後生の安楽を祈るが大事なんどと聞いて、懇ろに勤めては、まっこと、いらぬ気を労して来た! 今はそんな下らぬことをすっかり忘れて、心静かに気楽に暮らせることの、ああ、何と嬉しいことか!」
と、しばしば人に語っては、実際に嬉しそうにしておる。
翻って、この掘り出された当の男はといえば――凡俗と全く変わらず、しばしば腹を立てて、目を怒らせては文句ばかり言うておる。
禅定入定した者の蘇りだということで「入定の定助」と渾名されて、五年ほどは、この主の家にいたが、同じ古曽部の里の貧しい後家(ごけ)の住む方へ、婿に入ったということであった。己れの年の幾つかさえ分からぬ者であっても、あれだけは――『あの男と女の交わり』だけは――する、という訳。されば、
「いやはや、仏法で説く善根功徳の因果なるもの正体見たり!」
と、この古曽部の里ばかりではなく隣の里にあっても格好の噂話の種となったため、近在の寺の僧どもは怒り心頭に発し、「入定の僧の蘇りなど、以ての外の偽りごとじゃ!」と口汚く罵り、件(くだん)の出来事を糾弾して執拗に説教の材ともしたのだが、それに耳を傾ける者は次第に少なくなっていったのであった――。
さて、この「入定の定助」の存在が齎(もたら)したものとは一体、何であったか――では一つ、この里に知られた名主の母親の話を致そう――。
彼女は、八十まで長生きして、重い病で今は死なんとする折、世話をしてくれた医者に語って言った。
「いよいよ寿命が尽きるものと覚悟致しておりましたが、いつ死ぬとも思われませぬ。これも御処方頂いたお薬あればこその命で御座りまする。先生様には、まっこと長年、親身に私めを御世話頂きましたが、私めなき後も、どうか、懇ろにこの家と交わりを絶やさず、ご来駕下され。我が子はもう六十に近いというに、相も変らぬ幼き性質(たち)、とても心もとなく御座りますれば。どうか、時々は意見し、『家督を衰えさすな』と、御鞭撻下さいませ。」
すると、息子の名主が母に向かって、
「私めは白髪の混じる年ごろとなり、それこそしっかりとするのが当たり前なのですが、一向にふがいなく、『私めが幼い』と、このような折にさえ、母上にご心配をお懸け申上げておりますこと、ただただありがたくも情けなく、重々、家業に勤めますれば、母上におかれては、念仏して、心お静かに御臨終なされんことを、切に願い上げ申し上げ奉りまする。」
と言う。ところが、それを聞いた母親は大いに怒り、
「先生、聞かれましたかね! かく、息子は愚か者じゃ!――私は仏に祈って極楽へ生まれ変わろうなんぞとは、さらさら願うてはいぬ!――また、畜生道とやらに落ちて、苦しむとしても、どうということは、ない!――思うに、牛も馬も苦しいばかりではなく、また、楽しい嬉しいと思うておる時も、ちょっと見た感じでは、あるようじゃわいの――逆に人間じゃとて、楽しい時ばかりでは、ない――見るがよい! この世を生きてゆく人々の有様を!――如何にも牛や馬よりも酷く慌しいではないか!――年が暮れる、新年が来ると言うては、衣を染め、洗わねばならぬ――年貢を払わねばならぬのに、それがないと言うては、小作の者どもが泣き言を言うて来るのを聞かねばならぬ――これは、如何にも嫌なことじゃ!――もう私は、目を閉じて、ものを言うまい!」
と、自ずから死期を示す言葉を口にすると、そのまま、あっけなく死んだということである――。
さても最後に――かの「入定の定助」のその後である。
彼は、駕籠かきやら、荷担ぎやらと、まさに牛馬に劣らず、それこそ馬車馬のように働きながら、文字通り数百年に続く、なおなお辛き、この世を生きているのであった――あなたと同じように――
「あさましいことじゃ。仏なんぞに祈願しても極楽浄土に辿り着くなんぞは、とんでもなく難しいことじゃて。さすれば、生きているうちは後生願いなど以ての外! 「勤行する」は――「勤める」に本当によいことは――この世の生業(なりわい)じゃて。」
と、この話を見聞きした人々は語り合って、その子にもこのように教え聞かしている――
また、
「……あの入定の定助がこの世に留まったは……定めし、あの婿入りした今の妻との間に……いや、もう、それはそれはありがたい『二世(にせ)の縁(えにし)』が、結ばれておったからに、相違ないのう……」
と皮肉たっぷりに噂するものもいる――
されど、その妻となった女はといえば、
「どうして、あんな、まるで役立たずの男を、後添えに貰ったのかしら! あたいだって、分かんないわよ! 落穂を拾って独り暮らししてた寡婦(やもめ)の頃がなんぼか懐かしい! ああ! 亡夫(あんた)! もう一度、あたいの元に帰って来ておくれな! そうすれば、こんな、食う米も麦も、身を包むほどの粗末な衣服にもこと欠く貧乏なんぞはするまいに!」
と、人に会うては女々(めめ)しい恨み言を言い、眼を泣き腫らしてなんぞいる、ということである――
――いやはや、何とも奇々怪々、不可思議千万なのは、他でもない、この世の中の姿ではある――