やぶちゃんの電子テクスト:小説・随筆篇へ

鬼火へ


讃州雨鐘の事   章花堂


[やぶちゃん注:正体不明の章花堂なる著者の元禄
171704)年版行になる「金玉ねぢぶくさ」巻一より(この作者名も書名も、何れもなかなか意味深長ではある)。底本は国書刊行会1994年刊「叢書江戸文庫34 浮世草子怪談集」を用いたが、読みについては音読で振れるもの、難読と判断されるものに限った。その際、私が「雨月物語」の「青頭巾」を教授した高校生が読むことを考え、原著者自身の歴史的仮名遣の誤りを勝手に正した箇所がある。但し、本文そのものはいじっていない。逆に底本にルビがなくても私が以上のように判断した部分については歴史的仮名遣で私の読みを加えてある。踊り字「/\」の濁音は正字に直した。また単純平面画像をただ複写したものには著作権は生じないという文化庁見解に従い、底本より挿絵をスキャンし、私が最も相応しいと判断した箇所に挿入した。

 次に私の語注及び私の勝手自在な現代語訳を附した。翻案と呼ぶ方が相応しいと感じられる箇所もあろうが、私自身はあくまで原文を尊重し、大きく食い違っている箇所についていは、語注にそのような訳に至った批判的解析を示したつもりである。但し、段落はシチュエーションごとに増やし、場合によっては時間的経緯や場面転換を意図して空行を設けてある。なお、本作が既に1992年河出書房新社高田衛編になる「日本怪談集 江戸編」中にある(該当訳者は鈴木千恵子氏)ことをご存知の方も多いと思われる。私も確かにこれを所持しており、また読んでもいる。しかし、比較して戴ければ一目瞭然であるが、こちらは全く参考にさせて戴いてはいない。但し、当該の訳文に対して特に批判的なわけではないし、この訳本が江戸期の怪談を人口に膾炙させた功績も高く評価するものである。ただ、原文と合わせて最近、この訳文を再読して『この話なら、是非、私なりのオリジナルに訳してみたい』という欲求を強く感じたのである。勿論、読んでいる以上、同じ原文を用いている以上(と思われるが該当訳では最後の辺りが違う。単に訳を省略しただけなのかも知れない)、近似する箇所はあるとは思われるが、ともかくも私自身は当該訳から一切の引き写しを行っていないことを表明しておく。以上により、注と現代語訳には私の著作権を主張するものである。

 なお、お読みになれば、これが後の寛保2(1742)年版行になる三坂春編(はるよし)の「老媼茶話」の「入定の執念」へ、そして安永5(1776)年の上田秋成雨月物語の「青頭巾」、同人の「春雨物語」の「二世の縁」へとインスパイアされてゆくことがお分かり戴けるであろう。私が本話を訳したかったもう一つの理由も、そこにある。]

 

   讃州雨鐘(あまがね)の事

 

 讃州高松の城下より五里さつて、西南の方に室崎(むろさき)といふ所あり。後(うしろ)は山に便(たよつ)て峰峙(そばだ)ち、まへは海に続(つゞい)て浦ちかし。昼は樵歌牧笛(ぼくてき)の声風に和してきこへ、夜は漁歌(ぎよか)の声岸うつ浪の音に夢をさまして、誠におもしろき風景、矢手(めて)に金平(こんぴら)、ゆんでに矢嶋だんの浦、やくりがだけ、相引の塩、西海(さいかい)の多景(たけい)を居ながら両眼の内に尽せり。

 さんぬる天和のころ、高松の御家中に、一国名取の男色植木梅之介とて、いまだ二七の花の盛、兄分といひかはせし人、聊(いさゝか)過(あやまち)の事あつて、御仕置に親疎(しんそ)なければ、ぜひなく切腹おふせ付られ、梅の助へ書置一通残し、則御ぼだい寺において、いさぎよく武士の本望成(なる)死をとげ侍りぬ。梅の介其節は病気にて此事をしらず。少し快気のおりふし、久しく対面せねば、床(ゆか)しく思ひ、「長々の病中終(つい)に一度もとひたまはぬ」なんど恨(うらみ)て、文こまごまとしたゝめ、「是をとゞけよ。」と下人に渡しければ、親達かゝる病中に右のおもむきをしらせなば、病気のうへに愁嘆をかさね、いよ/\病ひさかんになるべし。此返事いかゞとあんじ煩ひ、やう/\一つの謀(はかりごと)をもうけて、「さんぬる比、上(うへ)より御使しや役おふせ付られ、既に江戸へ発足(ほつそく)の砌(みぎり)、御身へいとまごひの為、これへも来られ候へども、その節は御身病気、十死一生の折節なれば、対面させ申事かなひ難く、我/\曖(あいさつ)のみにて帰したる」との物語。梅の介残ねんなる顔つき、「さてはそれなれば、長/\音づれなきも理(ことわ)り。しかし病ひ本ぶくのおりふし見よとて、一筆の文にても残しおかれぬ所、曲もなし」とて、~ならぬ身の、且は恨み、または恋しく、江戸にての隙入(すきいり)、道中上下の日限、ゆびをおつてかぞへ、「もはや御帰りも程近し」と、男色の情(なさけ)の道に、露と消(きへ)し人をまつもはかなし。

 其後、病気次第に本復(ぶく)して、けふは温(あたゝか)なればとて、さかやきをそり、身をCめ、食(しよく)ごなしの為、杖をさゝへ、病中たび/\見まひに預りし少年中間(なかま)への礼ついでながら、彼人の屋しきなつかしく、まはりて其門ぜんを通れば、ふしぎや屋舗がへありしと見へて、門に我友達の宿(やど)ふだ、内をのぞけば、おりふしあるじ立出、梅の介を見付、「さても永/\の大病御本ぶく、けふは初立(うひだち)と見たてまつりぬ。まづ少し是へ御入あれ」とて、ぜひにざしきへともなひ、四方山(よもやま)の物がたり。見れば書院のかゝり庭の木立、ありしにかはらぬ体(てい)。梅の助何ともふしんはれず、「さても是はきれいなる所へ御屋舗がへ、いつより是へ御うつり候や」と問(とへ)ば、あるじの返答に、「まへの屋しき主、切ぷくの以後、早速此屋舗拝領いたし候へども、忌中五十日遠慮、先月よりこれへうつり、長屋のはしばしまでいづれも普請ねん入れおかれ、われ/\に過たる大屋しきなれども、当分しゆふくの世話もなくあんど致したる」との物がたり。

 梅の介はつとおどろき、くはしくしさいを問(とは)まほしけれど、爰(ここ)にてとふもはしたなき事におもひ、心をおさめ、あるじへいとまをこひ、彼屋しきを立出、道すがらともの下部をせめて、くはしくやうすをとへば、ありし次第を語るにぞ、梅の助いとゞ胸ふさがり、覚悟を極(きはめ)、我屋しきへ帰りて、「扨(さて)も藤介殿事、不慮成(なる)死を致され、かねて死(しな)ば一処と申(まうし)かはせし中を、我等病気ゆへ其節たいめんをだにとげず。さぞやさいごの砌、われら恋しくおぼしつらん。しかれどもしらざる事はぜひもなし。延引ながら今かく聞付て独(ひとり)跡にながらふる時は、衆道(しゆうだう)の一分(いちぶん)立難し。不孝のだんは御めんを蒙(かうふ)り、我も彼霊前において自害をとげ、同じ苔の底に形をうづんで、生ては人に恥る事なく、死しては彼人へ男色のいき路(ぢ)を立、二世のちぎりを結びたき」よし。父母おどろきいろ/\なだめ、「愁歎のあまり、さ程におもふは理りなれども、死して何の益かあらん。もはや日数も程経ぬれば、追付(おひつく)事もかないがたし。親のなげきを義理にかへて、かならずおもひとゞまれ」と、達(たつ)て教訓もだし難く、竊(ひそか)に屋舗をぬけ出、彼(かの)ぼだい寺に行、一堆(いつたい)の塚のまへにて、はかまの上(かみ)おしくつろげ、既に自害に及びし所に、をりふし和尚物かげより此体(てい)をほのかに見付、刀をうばひ、やうすをだん/\せんさくのうへ、「尤(もつとも)一通りは義理にて、それは血気の勇(ゆう)のみなり。仁義の道にはかなひ難し。主(しう)の追(おひ)ばら切、親のかたき、兄分の助太刀を討(うつ)は、武士たる人のつねの道なり。たゞ今これにて自害したまふは、忠にもあらず、孝(けう)にもあらず。心中の誠もたゝず。たゞ親へ不孝君(きみ)へ不忠となるのみにて、無益(むやく)の事に命をすつれば、おもふ人の為にもならず。誠其人の事を大切に思ひ給はゞ、命をながらへ、修行の功をつんで跡をとひ、ついぜんをなしたまはざる」と、義を説(とき)、道を立、理非分明(ぶんみやう)に教化(けうげ)ありしかば、梅の介たちまち悟道発明(ごだうはつめい)して、「さて/\あり難き御しめし、我身無学麁昧(そまい)の小人(せうじん)、ぐちの闇に迷ひ、仁義にあらぬ死をとれり。此上は師弟のちぎりを結び、長く教へをたれたまへ」と、父母一門にもいとまごひして、直(すぐ)に此寺にとぢこもり、蛍雪讃仰(さんがう)の功をつんで、翌年三五(じふご)の月の形を機散(きさん)の春の落花とともに、終に翠柳の髪を剃落(そりおと)して、おしきかなや、紅顔の男色、すみ染の袖にちり果ぬ。

 然るに此寺も大樹のぼだい寺なれば、家中よりのさんけいしげく、いにしへの友をさくべき隠室(いんしつ)にあらずと、彼(かの)室崎に来り、一宇を結んで、昼は遠浦(ゑんほ)の帰帆に目を悦ばしめ、夜は松ふく風の音に心をすまして、親族の縁(ゑん)を切、世のまじはりを断(たて)ば、おのづから人もとい来(こ)ず、よくもなく怒(いかり)もおこらず、偏(ひとへ)に後生(ごしやう)ぼだいのみを心にかけて、道心けんごに行ひすましぬ。

 然るに此所に雨鐘とて、奇代(きだい)の事あつて、雨ふればいづくともなく鐘の音かすかにきこへて、念仏の声はなし。さだめて迷ひ変化のわざなるべしとて、所の者もおそれあへり。

 此道心、ふしぎのあまり、「かやうの事を見とゞけてこそ後世(ごぜ)の疑(うたがひ)もはれ、修行の種(たね)ともなるべけれ」と、終夜(よもすがら)心をつくして、終に鐘の鳴(なる)元を見届け、其所に印(しるし)をさして立帰り、翌日村のものどもあまたやとひ、彼(かの)所をほらせければ、土より四尺程下に楠(くすのき)の板一枚あり。はねおこしてその下を見れば、歳の程四十ばかりのほうし、鼠色の大衣(だいゑ)をちやくし、せうすいとやせおとろへ、まへに鐘鼓(しようご)をひかへ、手に鐘木(しゆもく)をさゝへ、西むきにけつかふざせり。

 人々おどろき、鋤くわをすて逃ちりぬ。然れども此道心すこしもさはがず、「抑(そも/\)御身はいか成(なる)人ぞ」ととへば、彼ほうし、「我はさんぬるころ此土中へ入定(にふぢやう)せしものなり。その節一国の人民(にんみん)、我に結縁(けちゑん)のため、貴賎くん集(じゆ)して歩(あゆみ)をはこぶ中に、よはひ二八(じふろく)ばかりの娘一人(ひとり)、夭桃(えうたう)の露をふくみ、芙蓉の水を出(いで)しすがたにて、母親ともに我前へむかひ、一蓮詫生(いちれんたくしやう)と手を合てさりぬ。我三界を出離(しゆつり)して愛着(あいぢやく)の念なし。諸論既につきて此(この)定(じやう)へ入ぬ。しかれどもさいごの砌、あゝうつくしと、彼娘のあだなる像(かたち)をたゞ一念よそながら思ひしより、見濁(けんぢよく)の業(ごふ)に引れ、五薀(ごうん)のかたちいまだ破れず。されば其娘つゝがなく世にありや」ととふ。道心いよ/\不審晴ず、「そも/\御身の入定、世にしれる者なし。年号はいづれの歳、時代はいつの時にあたれる」。彼ほうしこたへて謂(いふ)やう、「かまくらの将ぐん義詮(よしのり)公の御代、年号はこれにしるしぬ」とて、彼せうごをさし出す。「さては光陰遙に隔り、三百七十余年を経たり。其娘はとく死せり。今は子孫も世になし」といへば、入定のほうし、是をきゝ、「鳴呼/\」といふて目をふさぎ、見て居(ゐ)る内に、肉身(にくしん)くちて霜のきゆるごとく、四大分散して、たゞ一連の白骨(はくこつ)となる。衣を取あげて見れば、灰のごとくはら/\と消(きえ)うせぬ。誠に一念五百生けねん無量劫(むりやうごふ)、おそるべく慎べきは愛着なり。

 それより此所に一宇を建(たて)て、彼のせうごを什物(じふもつ)とし、雨鐘と号(なづけ)て今にあり。

 

 

 

●やぶちゃん語注(copyright 2009 Yabtyan

 

・室崎:現在はこのような地名は香川県内に見出せない。但し、高松城下から西南方向、右手に「金平」=琴平山(金刀比羅宮)を配すとなると、一つの候補地としては三重県三豊市詫間町箱字室浜が挙げられるか(但し、ここは高松からは直線距離でも凡そ35qはある)。室浜は庄内半島の先端部、備後灘に面しており、現在も本文で語られるような清閑景勝の地ではある(但し、屋島・檀ノ浦・八栗ヶ岳・相引川等は、室浜から東南の方角を見て琴平山が右手として、相対的には左手の位置には当るが、ここからこれら約40qも離れた屋島周辺を大平山を挟んで眺めることは地図上からも不可能と思われる)。なお、興味深いことに、この箱は浦島伝説の地であり(箱とはこれまた象徴的な地名である)、浦島親子の墓と伝えられる五輪塔三基の他、龍宮から帰った浦島が釣りに通った(面白い謂いではないか!)という不老の浜なる場所もある。本話後半のシチュエーションと不思議にかぶってくるのは偶然のなす技か。

・檀ノ浦:これは平家滅亡の赤間関の「壇ノ浦」ではなく、現在の香川県高松市屋島の東岸一帯の地名として名を残している場所を指す(那須与一の扇の的のエピソードはここである)。「壇ノ浦」ではなく「檀ノ浦」が正しいとする記載を見かけるが、国土地理院の地図上に見出せる地名は「壇ノ浦」であるので、訳でも特に表記を変えていない。

・八栗ヶ岳:香川県木田郡牟礼町牟にある五剣山のこと。山上に四国八十八ヵ所第八十五番札所である八栗寺がある。

・相引の塩:相引川の潮の干満のことと思われる。相引川は屋島と本土を隔てる全長約5qの東西に流れる人工河川の名。両端は瀬戸内海に開く(現在、東側が上記壇ノ浦と繋がっている)。屋島と本土の間は本来は海であったが、江戸時代以降の埋立によって川と呼称されるまでに狭隘化したものである。原文の「塩」は「汐」=「潮の干満」のことで、川の両端が海に繋がっているため、干潮の際には川の水が東西両方向に向かって引いていく現象が見られると言われる。これが河川の名の由来とする説の他、屋島の戦いの際に、この海域で源平双方が互いに譲らず引き分けた(相引いた)ことによるという説もある(以上の主な部分はウィキペディアの「相引川」の記載を参考にした)。

・天和:16811684。「てんな」とも読む。幕府将軍は徳川綱吉(但し、この時期は「天和の治」と呼ばれた綱吉の善政時代であった)。当時の讃岐高松藩は第二代藩主松平頼常(水戸光圀長男であったが松平家養子となった)の治世であった。

・我友:これは先の「少年中間」(仲間)とは別人である。

・初立:病気・謹慎などで家から出なかった期間が長かった後、初めて外に出ることを言う。

・蛍雪讃仰:老師の威徳を仰ぎ貴びながら、苦労を厭わず勉学に励むこと。

・鐘鼓:念仏に用いる楽器。皿に似た青銅製の鉦。丁字型の撞木で打ち鳴らす。

・大衣:三衣(さんえ/さんね:僧が着る袈裟の種類を言い、正装たる僧伽梨(そうぎゃり)=大衣=九条・普段着に相当する鬱多羅僧(うったらそう)=上衣=七条・作業服に相当する安陀会(あんだえ)=中衣=五条の三種)九条、古くは二十五条を持つ袈裟(この条とは襞ではなく、小さな布を縦に繋いだものを横に何本繋いだかを示す語で、御覧の通り、多い方がより正式・高位を示す)。

・結跏趺坐:蓮華坐とも。「跏」は足の裏、「趺」は足の甲の意で、仏教の坐法の一つ。両足の甲をそれぞれ反対の大腿の上に乗せて押さえる形。右足を曲げて次に左足を乗せる、正面から見て左足が前になるものを降魔坐(ごうまざ)、その逆を吉祥坐と言う。禅定修行の者の座り方である。

・見濁の業:仏教用語の五濁(ごじょく:現世の五つの穢れの相。天災・疫病・戦争の発生たる劫濁(こうじょく)、見濁、多くの衆生が長生きできなくなる命濁(みょうじょく)、煩悩により邪悪なものがはびこる煩悩濁、衆生の持っている資質や因縁果報が生来的に下劣不善なものとなる衆生濁を指す)の一。広義には邪悪な思想や誤った見解が蔓延することを言うが、ここでは極めて具体的に娘の美しさを垣間見たことによる穢れ、そこから生じた愛着の悪業を指している。

・五薀:「蘊」は梵語“skandha”の漢訳で「積み重なり集まったもの」の意。仏教で現世の人間存在を構成する五つの要素のことを言う。色蘊(しきうん:肉体)・受蘊(感覚)・想蘊(表象・想像)・行蘊(ぎょううん:意志・欲求)・識蘊(識別・判断)。五陰(ごおん)とも言う。

・鎌倉の将軍義詮:原文はここに「義詮(よしのり)」のルビがあるが誤り。「よしあきら」が正しい。しかし、足利義詮(13301367)は室町幕府第二代将軍として正平13・延文3(1358)年に征夷大将軍の宣下を受けているものの、「鎌倉の将軍」と呼称するような地位にあったこと等はない。ただ、父足利尊氏が鎌倉幕府に反旗を翻した際、彼(幼名千寿王)は人質として鎌倉にあったが、尊氏の家臣らの手引で脱出し、新田義貞に奉じられて鎌倉攻めに参加している。この際彼は、三歳ながら父の名代として追討軍の将軍に相当する格付けであったことから、当初、現代語訳では「鎌倉攻めの将軍」と意訳することを考えた。ところが、本文の後半に「三百七十有余年」前という。作中時間である天和年間からほぼ確実な逆算出来る数値が示されており、これがそれとは大きく齟齬することが最大の疑義であった。即ち、この逆算をすると足利義詮は生れてもいないのである。「三百七十有余年」という謂いを371378年と一先ず置くと、天和年間からでは最も遡って16813781303年となり、最も下っても16843711313年なのである。即ち、この1303から1313年の期間内(誤差を最大に広げても13001315年の開区間内と規定出来る)にこの法師は入定したということになる。するとこれは鎌倉時代末期、北条の得宗政治の頃で、「鎌倉の将軍」と表現可能な人物は、久明親王(在位12891308)若しくは守邦親王(在位13081333)の何れかしかいない。該当期間はどちらも前後6年で悩ましいのであるが、こじつけると、前者の久明親王の名は「ひさあき」とも「ひさあきら」とも訓ずる。本文の「義詮」の正しい読みが「よしあきら」であるから、ここで後ろの読みが一致してくる。以上から、現代語訳では年代上の整合性を考えて、敢えて原文を無視して「鎌倉の将軍久明公の御代」という訳とした。私は怪談を書くが、怪談だからこそ、事実に合わない記載、歴史的に在り得ない設定は極力避けるべきであるという立場をとる。事実に裏打ちされてこそ怪異は怪異として『事実めいたリアルな恐怖』を与えられるという立場をとるからである。章花堂氏も御容赦下さるものと信ずる。この私の考え方を非学問的で噴飯ものと鼻で笑う方は、ここから去られるに若くはない。最早、訳文をお読み戴く必要はない。

・五百生けねん無量劫:現代語訳は、全ての文字から私が連想させた自在勝手な訳であり、なんらの根拠もないことを断わっておく。

 

 

 

○やぶちゃんの現代語訳(copyright 2009 Yabtyan

 

   讃岐の雨鐘のこと

 

 讃岐は高松の城下より西南の方へ五里程下った先に室崎というところがある。背後は迫った山に連なって峰が険しく聳え、前は海の方(かた)に続いて浦が近い。昼のうちは木樵の歌う声や牧童が鳴らす笛の音(ね)が風に和して聞こえ、夜ともなれば、いさな取る漁夫の歌声と岸に打ち寄せる波の音(おと)の面白さに、思わずまどろんで見ていた楽しいはずの夢も醒める程の、誠に風雅に富んだ景観で、右手(めて)には金平、左手(ゆんで)には牟礼の屋島と檀ノ浦、八栗(やくり)ヶ岳、相引川の干満の様と、西海(さいかい)のあらゆる美しい景色を居ながらにして両眼のうちに見尽すことが出来る名所である。

 

 さても過ぎる天和年間のこと、高松の御家中に、国中に知られた若衆植木梅之介という、未だ十四の花の盛りなる若武者があった。梅之介には兄分と言い交わした藤介という武者があったのだが、その藤介にちょっとした過ちがあって――お上からは相応な覚えを受けておられた方ではあったのだが――お仕置にその深さは甲斐なく、是非無く切腹仰せ付けられ、梅之介へは書置一通を残して、直ちに御自身の菩提寺に於いて、潔く武士の本望として自刃を遂げられたと思しめせ……。ところがその折、梅之介は重い病いに臥しており、このことをつゆも知らなかった。

 さて、暫くして梅之介の様態が少し快方に向った頃、永く藤介殿にお目見えしていないので、殊の外、逢いたくて堪らず、

『永の患いの間、藤介殿は終に一度も私をお尋ね下さらなかった……。』

なんどといささかの恨みを持ちながらも、細やかな情を込めて手紙を認(したた)め、

「これを届けよ。」

と下男に渡した。命じられた下男は困って主(あるじ)に相談したところ、父母は、

「幾分快気したとは申せ、未だ本復とは言えぬ病中に、右の顛末を知らせては、この病いに更に愁嘆を重ねることとなり、再び病状が重くなるに違いない。さりとて、この手紙への返事はどうしたらよいものか?」

とひどく悩んだ。そうして、ようやっと一つの謀りごとを思いついて本人に伝えたことには、

「藤介殿は、お前様が病いに倒れた丁度その折、お上より御使者役を仰せ付けられ、正に江戸へ出立という間際、お前様へ暇乞いのために、こちらへも挨拶に来られたけれど、その節、お前様の病いは十死に一生という重き折にて、面会させ申し上げることもかなひ難く、我らへの挨拶のみにてお帰し申した。」

との物語。

 梅之介はそれを聞くと、如何も残念な面持ちとなり、

『さてもそれなればこそ、永の訪れがないも理(ことわり)――されど「病気本復の折に見よ」との一筆の手紙も残し置いては下さらなかったとは、如何にもすげなきこと……。』

とて、~ならねば、江戸なる兄のもとへと飛び行くことも適わぬ身を、或いは恨み、はたまた恋焦がれ、江戸にての御使者としての定めの日数(ひかず)に加え、仮に役向きに手間取ったとしての前後数日と、国許からの参上下向の道中の日数を足して、指折り数え、

『最早、藤介殿のお帰りもほど近い。』

と思う衆道の深情け、露と消えし人を待つことの何と儚いことか――。

 その後(のち)、病いは漸く本復、今日は暖かな日和なればとて、伸びた月代(さかやき)を綺麗に剃り上げ、身を清め、しっかりと食事を摂った後(のち)は、腹ごなしのためと、杖を突いて、病中度々見舞に来てくれた仲のよい少年への御礼ついでのそぞろ歩きに出かける。その途中、かの人の屋敷が懐かしく、寄り道をし、その門前を通る。ところが、不思議や、屋敷替えがあったと見えて、門には我が知れる友の名を記しし表札。内を覗いたところ、折から主(あるじ)の友が奥向きより立ち出(い)で、梅之介を見つけると、

「さても永々の大病御本復、今日はまた、嬉しき初立(うひだち)と見申し上げる。まずはゆるりとこちらへお入りあれ。」

と強引に座敷に伴い、四方山話の段。

 見れば書院の造りも庭の木立も、かつて藤介殿の屋敷の風情とまるで変わらぬ。梅之介は何とも不審が晴れず、

「さても、これはまた、綺麗なる所へ御屋敷替え、いつよりここへお移りになられた?」

と訊ねたところ、主の答えは、

「前の屋敷主が切腹の後(のち)、早速この屋敷を拝領致しましたが、忌中五十日は遠慮、先月より此方へ移りまして御座る。下人の住まう長屋の端々に至るまで、どこも皆、念の入った普請がなされておりまして、我らには過たる大屋敷で御座るが、当分修繕の面倒もなければ、安堵致しておりまする。」

との物語。

 梅之介は内心、はっと驚き、詳しく仔細を尋ねたい気持ちは山々なれど、ここであからさまに問いかけするは如何にもはしたないことと思い、凝っと我慢の末、ようよう主に別れを告げて、この屋敷を出る。出でるやいなや、道すがら俄に伴の下僕を厳しく責め立てて、詳しい様子を詰問に及ぶ。下僕は最早これまでと恐る恐る真実あった次第を語るにつれ、梅之助の胸はひどく塞がり、かくなる上はとて一思いに覚悟を極め、自身の屋敷へ立ち帰ると、

「さても藤介殿儀は、不慮なる死を遂げられた――かねて死なば諸共と申し交わした仲であるものを、私は病いゆえにその最期に対面(たいめ)することも適わず――さぞや、最期の砌、私をば恋しく思われたことであろう――されど、それを知らなかったことは、今や是非もない――遅きに失し乍ら、今このように聞き知った上は、この後(ご)に存(ながら)えたとならば、衆道の一分(いちぶん)が立たぬ――父上様、母上様、不孝の段は御免蒙り、私めもかの霊前に於いて潔く自害を遂げ、同じ苔生(む)す墓石(ぼせき)の下にこの姿を埋(うず)め、二七(にひち)の短き生涯を、生きては人に恥ずることなく、死してはかの人への衆道の意気地を立てるが己が生き路(じ)――己が絶望の活路(かつろ)――死出の旅路――その衆道本懐の路(みち)へと立ち出でて、二世の契りを結びとう存ずる。」

と語る覚悟。

 父母は驚き、いろいろと宥めすかした後(あと)、

「愁歎のあまり、さほどに思うは尤もなことではあるが、死んで何の益があろう? 最早、藤介殿、御自害されて日数(ひかず)もとうに過ぎた。後追いするにしても藤介殿の魂に追ひつくことは今や叶うまい。我ら親の嘆きを子としての義理に思い代えて、必ずや思い止めよ!」

ときつく言い渡す。その説諭禁足を無視する訳にもいかず、数日を経たが、ある日のこと、梅之介は密かに屋敷を抜け出し、かの藤介の菩提寺に走って、一築(つき)の藤介の塚の前で、袴の上おし広げ、速やかに自害に及ばんとしたところ、折から、その寺の和尚が物陰よりこの様子を見つけ、からくも梅之介の手から刀を奪い取る。和尚は、かくなった顛末を梅之介に順々に問い質し、十分に詮索した上、

「一見、義理が通った話に見えて、その実、悉くが血気の勇にだけ裏打ちされたもの。全く以って仁義の道には適い難し。主(しゅ)の追ばらを切り、親の仇、兄分の助太刀を討つは、武士たる者の常道。されど只今ここにて自害されるは、忠にもあらず、孝にもあらず、心のうちの誠(まこと)も立たず、ただ親には不孝、君主には不忠となるのみにて、かくの如く無益(むやく)の事に命を捨つるとなれば、その思い人のためにもならず。まこと、かの人のことを大事と思ひなさるのであれば、何故(なにゆえ)、命を永らえ、修行の功を積んで菩提を弔い、追善しようとはなさらぬのか!」

と、義を説き、道を立て、道理に外れた非を明らかにした。その教化(けうげ)を受けて、梅の介は忽ち悟達発心し、

「さてもさても、あり難き御(み)教え、我身は無知蒙昧の小人(しょうじん)にして、暗愚の闇に迷い、仁義に外れた死を選び取ろうと致しておりました。この上はどうか、上人様と師弟の契りを結び、長く教へをお授け下され。」

と懺悔するや、即座に家に立ち返り、父母や屋敷一門の者にも暇乞いして、とって返してこの寺に参籠、蛍雪讃仰(さんぎょう)の功を積んで、翌年、十五になったその年に、切れ上がった月代(さかやき)の形を――散るに相応しき春の落花とともに――終に翠(みどり)なす黒髪を――剃り落して、ああ、惜しいかな、紅顔美花の若衆は墨染めの袖に散り果てたのであった。

 

 然るにこの寺も高松では大きな菩提寺なので、家中よりの参詣も重(しげ)く、修行には旧知の友人らの眼を避けられる隠居所ではないと感じ、冒頭に記したかの室崎にやって来て一宇を結んだ。昼は昼で遠き浦の漁から帰る小舟の帆に目を悦ばせ、夜は夜で松を吹く風の音(ね)に心を澄まして、親族の縁をも切り、あらゆる世俗との交わりをも断ってしまったので、自然、人も訪ね来たることもなく、勿論、欲もなく、怒りも起こさず、ひたすら自身の後生の菩提のみを心に懸け、道心堅固に修業に勤(いそ)しんでいたのであった――。

 

 ところで、この室崎には「雨鐘(あまがね)」という世にも稀なる妖しいことがあった――

――雨が降れば、何処からともなく鐘鼓(しょうご)の音(ね)が幽かに聴こえて来るのであるが――しかし、それに伴うはずの念仏の声は――ない――

――きっと迷った霊か変化(へんげ)のものの仕業に違いないと言って、所の者どもも互いに恐れ合っていたのであった――

 この道心となった梅之介は、その雨鐘の音(ね)を実際に聴き、そのあまりの不思議さに、

「このようなことの正体を見届けてこそ、人々に不審や恐れを懐かせている後世(ごぜ)への疑いもすっきりと晴れ渡り、また我が身の修行の種(たね)とするのにも相応しいであろう。」

と、夜もすがら心を尽して海浜山中を巡り、遂に鐘鼓の鳴っている場所を見届け、そこに目印を刺して立ち帰った。

 翌日、村の者どもを沢山雇い、その場所を掘らせてみると、土の中、四尺ほど下に、楠の木の一枚板が出てきた。更に撥ね起してその下を見てみたところ、歳の頃、四十ばかりの法師が、鼠色の立派な大衣(だいえ)を着て、憔悴し、痩せ衰え、前に鐘鼓を据え、手に撞木(しゅもく)を支えて、西向きに結跏趺坐していた。

 人々はこれを見て驚き、鋤鍬を捨てて、蜘蛛の子を散らすように逃げてしまった。しかし、この梅之介道心は少しも騒がず、

「そもそも御身は如何なる人か?」

と問うたところ、かの法師は、

「……私は先頃、この土中へ入定(にゅうじょう)した者である……その入場の砌、国中の民人(たみびと)が、私に有り難い結縁(けちえん)を求めんがために、貴賤群集して私の前に歩みを運ぶ……その中に……歳の頃、十六ばかりの娘が一人(ひとり)……初々しい桃の花が露を含み、蓮の花が泥水を出でたかのような姿で……母親とともに我が前へ向かって『一蓮托生』と手を合わせて……去って行った……いや、その時まで私は三界を出離(しゅつり)して愛着(あいじゃく)の念もなく、諸々の宗論も既に学び尽してこの入定へと入ったのであった……そのはずであった……が、しかし、この最期の砌に……『ああ、美しい』と……かの娘の婀娜なる面影を見てしより……ただその娘への一念を……それとなく思い込んでしまってからというもの……見濁(けんじょく)の業(ごう)に引かれ……この通り、いつまでも五薀(ごうん)の形も破れずにおる……はて……時に……その娘は……恙なくこの世に生きておるか?……」

と逆に問う。梅之介道心、いよいよ不審が晴れず、

「そもそも貴僧の入定については、今の世に知っておる者が御座らぬ。年号はいづれの年、時代はいつの時に当れるのか?」

と訊ねた。かの法師が答えて言うには、

「……鎌倉の将軍久明(ひさあきら)公の御代……年号は……これに、記しある……」

と、かの鐘鼓をさし出す。

「何と、それは!――光陰遙かに隔たって、既に三百七十有余年を経ておる。その娘は、遙か昔に死んでおる。今は子孫も世には、ない――。」

と梅之介道心が答えると、入定の法師はこれを聞き、

「……ああっ、ああっ……」

と喚き、両の目を塞いだかと思うと、見る見る身も肉も腐り果て、霜が消ゆる如くにばらばらと散り失せて、ただ一連の白骨となってしまった。梅之介道心が大衣を取り上げて見たところが、それも灰の如くはらはらと消え失せてしまった。誠に愛欲の一念は五百遍の転生にも消えず、懸恋(けんれん)の一念は無量にして永劫に続くもの、恐るべき慎しむべきは愛着である――。

 それより此処に一宇を建てて、かの鐘鼓を什物(じゅうもつ)とし、雨鐘と名づけて今にある。