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芥川龍之介作品集『傀儡師』やぶちゃん版(バーチャル・ウェブ版)へ

開化の殺人   
芥川龍之介
[やぶちゃん注:『大阪毎日新聞』夕刊に大正7(
1918)年7月発行の雑誌『中央公論』(「秘密と解放」号)に掲載された。後に単行本『傀儡師』『戯作三昧』『沙羅の花』『報恩記』『芥川龍之介集』に所収された。底本は昭和551980)年ほるぷ社『特選 名著復刻全集 近代文学館』で復刻された大正8(1919)年新潮社刊の『傀儡師』を用いた。岩波版旧全集本文との相違箇所及びオリジナルな注を別ページで作成した。別ウィンドウで開いておいて読み進められることをお勧めする。

■芥川龍之介「開化の殺人」やぶちゃん注へ

なお、ユニコードで表示が出来なかったのは次の一字のみで、

※=(へん)「木」+(つくり)「龍」

文中では「※」で示した。]

 

開化の殺人 大正七年七月

        芥川龍之介

 

 下に掲げるのは、最近予が本多子爵(假名)から借覽する事を得た、故ドクトル・北畠義一郎(假名)の遺書である。北畠ドクトルは、よし實名を明にした所で、もう今は知つてゐる人もあるまい。予自身も、本多子爵に親炙して、明治初期の逸事瑣談を聞かせて貰ふやうになつてから、初めてこのドクトルの名を耳にする機會を得た。彼の人物性行は、下の遺書によつても幾分の説明を得るに相違ないが、猶二三、予が仄聞(そくぶん)した事實をつけ加へて置けば、ドクトルは當時内科の專門醫として有名だつたと共に、演劇改良に關しても或急進的意見を持つてゐた、一種の劇通だつたと云ふ。現に後者に關しては、ドクトル自身の手になつた戯曲さへあつて、それはヴオルテエルの Candid の一部を、德川時代の出來事として脚色した、二幕物の喜劇だつたさうである。

 北庭筑波が撮影した寫眞を見ると、北畠ドクトルは英吉利風の頰髯を蓄へた、容貌魁偉な紳士である。本多子爵によれば、體格も西洋人を凌ぐばかりで、少年時代から何をするのでも、精力拔群を以て知られてゐたと云ふ。さう云へば遺書の文字さへ、鄭板橋風の奔放な字で、その淋漓たる墨痕の中にも、彼の風貌が看取されない事もない。

 勿論予はこの遺書を公にするに當つて、幾多の改竄を施した。譬へば當時まだ授爵の制がなかつたにも關らず、後年の稱に從つて本多子爵及夫人等の名を用ひた如きものである。唯、その文章の調子に至つては、殆原文の調子をそつくりその儘、ひき寫したと云つても差支へない。

        ―――――――――――――――――

 本多子爵閣下、並に夫人、

 予は予が最期に際し、既往三年來、常に予が胸底に蟠れる、呪ふ可き祕密を告白し、以て卿等の前に予が醜惡なる心事を曝露せんとす。卿等にして若しこの遺書を讀むの後、猶卿等の故人たる予の記憶に對し、一片憐憫の情を動す事ありとせんか、そは素より予にとりて、望外の大幸なり。されど又予を目して、萬死の狂徒と做し、當に屍に鞭打つて後已む可しとするも、予に於ては毫も遺憾とする所なし。唯、予が告白せんとする事實の、餘りに意想外なるの故を以て、妄に予を誣ふるに、神經病患者の名を藉る事勿れ。予は最近數ヶ月に亘りて、不眠症の爲に苦しみつゝありと雖も、予が意識は明白にして、且極めて鋭敏なり。若し卿等にして、予が二十年來の相識たるを想起せんか。(予は敢て友人とは稱せざる可し)請ふ、予が精神的健康を疑ふ事勿れ。然らずんば、予が一生の汚辱を披瀝(ひれき)せんとする此遺書の如きも、結局無用の故紙たると何の選ぶ所か是あらん。

 閣下、並に夫人、予は過去に於て殺人罪を犯したると共に、將來に於ても亦同一罪惡を犯さんとしたる卑む可き危險人物なり。しかもその犯罪が卿等に最も親近なる人物に對して、企畫せられたるのみならず、又企畫せられんとしたりと云ふに至りては、卿等にとりて正に意外中の意外たる可し。予は是に於て、予が警告を再するの、必要なる所以を感ぜざる能はず。予は全然正氣にして、予が告白は徹頭徹尾事實なり。卿等幸にそを信ぜよ。而して予が生涯の唯一の記念たる、この數枚の遺書をして、空しく狂人の囈語たらしむる事勿れ。

 予はこれ以上予の健全を喋々すべき餘裕なし。予が生存すべき僅少なる時間は、直下(ぢきげ)に予を驅りて、予が殺人の動機と實行とを敍し、更に進んで予が殺人後の奇怪なる心境に言及せしめずんば、已まざらんとす。されど、嗚呼されど、予は硯に呵(か)し紙に臨んで、猶惶々として自ら安からざるものあるを覺ゆ。惟ふに予が過去を點檢し記載するは、予にとりて再過去の生活を營むと、畢竟何の差違かあらん。予は殺人の計畫を再し、その實行を再し、更に最近一年間の恐る可き苦悶を再せざる可らず。是果して善く予の堪へ得可き所なりや否や。予は今にして、予が數年來失却したる我耶蘇基督に祈る。願くば予に力を與へ給へ。

 予は少時より予が從妹たる今の本多子爵夫人(三人稱を以て、呼ぶ事を許せ)往年の甘露寺明子を愛したり。予の記憶に溯りて、予が明子と偕(とも)にしたる幸福なる時間を列記せんか。そは恐らく卿等が卒讀の煩に堪へざる所ならん。されど予はその例證として、今日も猶予が胸底に歴々たる一場の光景を語らざるを得ず。予は當時十六歳の少年にして、明子は未十歳の少女なりき。五月某日予等は明子が家の芝生なる藤棚(ふじだな)の下に嬉戯せしが、明子は予に對して、隻脚にて善く久しく立つを得るやと問ひぬ。而して予が否と答ふるや、彼女は左手を垂れて左の趾(あしゆび)を握り、右手を擧げて均衡(きんかう)を保ちつつ、隻脚にて立つ事、是を久うしたりき。頭上の紫藤は春日の光りを搖りて垂れ、藤下の明子は凝然として彫塑の如く佇めり。予はこの畫の如き數分の彼女を、今に至つて忘るる能はず。私に自ら省みて、予が心既に深く彼女を愛せるに驚きしも、實にその藤棚の下に於て然りしなり。爾來予の明子に對する愛は益烈しきを加へ、念々に彼女を想ひて、殆學を廢するに至りしも、予の小心なる、遂に一語の予が衷心を吐露す可きものを出さず。陰晴定りなき感情の悲天の下に、或は泣き、或は笑ひて、茫々數年の年月を閲せしが、予の二十一歳に達するや、予が父は突然予に命じて、遠く家業たる醫學を英京龍動(ロンドン)に學ばしめぬ。予は訣別に際して、明子に語るに予が愛を以てせんとせしも、嚴肅なる予等が家庭は、斯る機會を與ふるに吝(やぶさか)なりしと共に、儒教主義の教育を受けたる予も、亦桑間濮上の譏を惧れたるを以て、無限の離愁を抱きつつ、孤笈飄然として英京に去れり。

 英吉利留學の三年間、予がハイド・パアクの芝生に立ちて、如何に故園の紫藤花下なる明子を懷ひしか、或は又予がパルマルの街頭を歩して、如何に天涯の遊子たる予自身を憫みしか、そは茲に敍説するの要なかる可し。予は唯、龍動に在るの日、予が所謂薔薇色の未來の中に、來る可き予等の結婚生活を夢想し、以て僅に悶々の情を排せしを語れば足る。然り而して予の英吉利より歸朝するや、予は明子の既に嫁して第×銀行頭取滿村恭平の妻となりしを知りぬ。予は即座に自殺を決心したれども、予が性來の怯懦と、留學中歸依したる基督教の信仰とは、不幸にして予が手を麻痺(まひ)せしめしを如何。卿等にして若し當時の予が、如何に傷心したるかを知らんとせば、予が歸朝後旬日にして、再英京に去らんとし、爲に予が父の激怒を招きたるの一事を想起せよ。當時の予が心境を以てすれば、實に明子なきの日本は、故國に似て故國にあらず、この故國ならざる故國に止つて、徒に精神的敗殘者たるの生涯を送らんよりは、寧チヤイルド・ハロルドの一卷を抱いて、遠く萬里の孤客となり、骨を異域の土に埋むるの遙に慰む可きものあるを信ぜしなり。されど予が身邊の事情は遂に予をして渡英の計畫を抛棄せしめ、加之(しかのみならず)予が父の病院内に、一個新歸朝のドクトルとして、多數患者の診療に忙殺さる可き、退屈なる椅子に倚らしめ了りぬ。

 是に於て予は予の失戀の慰藉を神に求めたり。當時築地に在住したる英吉利宣教師ヘンリイ・タウンゼンド氏は、この間に於ける予の忘れ難き友人にして、予の明子に對する愛が、幾多の惡戰苦鬪の後、漸次熱烈にしてしかも靜平なる肉親的感情に變化したるは、一に同氏が予の爲に釋義したる聖書の數章の結果なりき。予は屢、同氏と神を論じ、神の愛を論じ、更に人間の愛を論じたるの後、半夜行人稀なる築地居留地を歩して、獨り予が家に歸りしを記憶す。若し卿等にして予が兒女の情あるを哂(わら)はずんば、予は居留地の空なる半輪の月を仰ぎて、私に從妹明子の幸福を神に祈り、感極つて歔欷せしを語るも善し。

 予が愛の新なる轉向を得しは、所謂「あきらめ」の心理を以て、説明す可きものなりや否や、予は之を詳にする勇氣と餘裕とに乏しけれど、予がこの肉親的愛情によりて、始めて予が心の創痍を醫し得たるの一事は疑ふ可らず。是を以て歸朝以來、明子夫妻の消息を耳にするを蛇蝎の如く恐れたる予は、今や予がこの肉親的愛情に依賴し、進んで彼等に接近せん事を希望したり。こは予にして若し彼等に幸福なる夫妻を見出さんか、予の慰安の益大にして、念頭些の苦悶なきに至る可しと、早計にも信じたるが故のみ。

 予はこの信念に動かされし結果、遂に明治十一年八月三日兩國橋畔の大煙火に際し、知人の紹介を機會として、折から校書十數輩と共に柳橋萬八の水樓に在りし、明子の夫滿村恭平と、始めて一夕の歡を倶にしたり。歡か、歡か、予はその苦と云ふの、遙に勝れる所以を思はざる能はず。予は日記に書して曰、「予は明子にして、かの滿村某の如き、濫淫の賤貨に妻たるを思へば、殆一肚皮の憤怨何の處に向つてか吐かんとするを知らず。神は予に明子を見る事、妹の如くなる可きを教へ給へり。然り而して予が妹を、斯る禽獸の手に委せしめ給ひしは、何ぞや。予は最早、この殘酷にして奸譎なる神の惡戯に堪ふる能はず。誰か善くその妻と妹とを強人の爲に凌辱せられ、しかも猶天を仰いで神の御名を稱ふ可きものあらむ。予は今後斷じて神に依らず、予自身の手を以て、予が妹明子をこの色鬼の手より救助す可し。」

 予はこの遺書を認むるに臨み、再當時の呪ふ可き光景の、眼前に彷彿するを禁ずる能はず。かの蒼然たる水靄と、かの萬點の紅燈と、而してかの隊々相銜んで、盡くる所を知らざる畫舫の列と――嗚呼、予は終生その夜、その半空に仰ぎたる煙火の明滅を記憶すると共に、右に大妓を擁し、左に雛妓を從へ、猥褻聞くに堪へざるの俚歌を高吟しつつ、傲然として涼棚の上に酣醉したる、かの肥大豕の如き滿村恭平をも記憶す可し。否、否、彼の黒絽の羽織に抱明姜の三つ紋ありしさへ、今に至つて予は忘却する能はざるなり。予は信ず。予が彼を殺害せんとするの意志を抱きしは、實にこの水樓煙火を見しの夕に始る事を。又信ず。予が殺人の動機なるものは、その發生の當初より、斷じて單なる嫉妬の情にあらずして、寧不義を懲し不正を除かんとする道德的憤激に存せし事を。

 爾來予は心を潛めて、滿村恭平の行状に注目し、その果して予が一夕の觀察に悖らざる痴漢なりや否やを檢査したり。幸にして予が知人中、新聞記者を業とするもの、啻に二三子に止らざりしを以て、彼が淫虐無道の行跡の如きも、その予が視聽に入らざるものは絶無なりしと云ふも妨げざる可し。予が先輩にして且知人たる成島柳北先生より、彼が西京祇園の妓樓に、雛妓の未春を懷(いだ)かざるものを梳※して、以て死に到らしめしを仄聞(そくぶん)せしも、實に此間の事に屬す。しかもこの無賴の夫にして、夙に温良貞淑の稱ある夫人明子を遇するや、奴婢と一般なりと云ふに至つては、誰か善く彼を目して、人間の疫癘と做さざるを得んや。既に彼を存するの風を頽し俗を濫(みだる)る所以なるを知り、彼を除くの老を扶け幼を憐む所以なるを知る。是に於て予が殺害の意志たりしものは、徐に殺害の計畫と變化し來れり。

 然れども若し是に止らんか、予は恐らく予が殺人の計畫を實行するに、猶幾多の逡巡なきを得ざりしならん。幸か、抑亦不幸か、運命はこの危險なる時期に際して、予を予が年少の友たる本多子爵と、一夜墨上の旗亭柏屋に會せしめ、以て酒間その口より一場の哀話を語らしめたり。予はこの時に至つて、始めて本多子爵と明子とが、既に許嫁の約ありしにも關らず、彼、滿村恭平が黄金の威に壓せられて、遂に破約の已む無きに至りしを知りぬ。予が心、豈憤を加へざらんや。かの酒燈一穗、畫樓簾裡に黯淡たるの處、本多子爵と予とが杯を含んで、滿村を痛罵せし當時を思へば、予は今に至つて自ら肉動くの感なきを得ず。されど同時に又、當夜人力車に乘じて、柏屋より歸るの途、本多子爵と明子との舊契を思ひて、一種名状す可らざる悲哀を感ぜしも、予は猶明に記憶する所なり。請ふ。再び予が日記を引用するを許せ。「予は今夕本多子爵と會してより、愈旬日の間に滿村恭平を殺害す可しと決心したり。子爵の口吻より察するに、彼と明子とは、獨り許嫁の約ありしのみならず、又實に相愛の情を抱きたるものの如し。(予は今日にして、子爵の獨身生活の理由を發見し得たるを覺ゆ)若し予にして滿村を殺害せんか、子爵と明子とが伉儷(かうれい)を完うせんは、必しも難事にあらず。偶明子の滿村に嫁して、未一兒を擧げざるは、恰も天意亦予が計畫を扶くるに似たるの觀あり。予はかの獸心の巨紳を殺害するの結果、予の親愛なる子爵と明子とが、早晩幸福なる生活に入らんとするを思ひ、自ら口邊の微笑を禁ずる事能はず。」

 今や予が殺人の計畫は、一轉して殺人の實行に移らんとす。予は幾度か周密なる思慮に思慮を重ねたるの後、漸くにして滿村を殺害す可き適當なる場所と手段とを選定したり。その何處にして何なりしかは、敢て詳細なる敍述を試みるの要なかる可し。卿等にして猶明治十二年六月十二日、獨逸皇孫殿下が新富座に於て日本劇を見給ひしの夜、彼、滿村恭平が同戯場よりその自邸に歸らんとするの途次、馬車中に於て突如病死したる事實を記憶せんか、予は新富座に於て滿村の血色宜しからざる由を説き、これに所持の丸藥の服用を勸誘したる、一個壯年のドクトルありしを語れば足る。嗚呼、卿等請ふ、そのドクトルの面を想像せよ。彼は纍々たる紅球燈の光を浴びて、新富座の木戸口に佇みつつ、霖雨の中に奔馳し去る滿村の馬車を目送するや、昨日の憤怨、今日の歡喜、均しく胸中に蝟集し來り、笑聲嗚咽共に唇頭に溢れんとして、殆處の何處たる、時の何時たるを忘却したりき。しかもその彼が且泣き且笑ひつつ、蕭雨を犯し泥濘を踏んで、狂せる如く歸途に就きしの時、彼の呟いて止めざりしものは明子の名なりしをも忘るる事勿れ。――「予は終夜眠らずして、予が書齋を徘徊したり。歡喜か、悲哀か、予はそを明にする能はず。唯、或云ひ難き強烈なる感情は、予の全身を支配して、一霎時たりと雖も、予をして安坐せざらしむるを如何。予が卓上には三鞭酒あり。薔薇の花あり。而して又かの丸藥の箱あり。予は殆、天使と惡魔とを左右にして、奇怪なる饗宴を開きしが如くなりき……。」

 予は爾來數ヶ月の如く、幸福なる日子を閲せし事あらず。滿村の死因は警察醫によりて、予の予想と寸分の相違もなく、腦出血の病名を與へられ、即刻地下六尺の暗黒に、腐肉を蟲蛆の食としたるが如し。既に然り、誰か又予を目して、殺人犯の嫌疑ありと做すものあらん。しかも仄聞する所によれば、明子はその良人の死に依りて、始めて蘇色ありと云ふにあらずや。予は滿面の喜色を以て予の患者を診察し、閑あれば即本多子爵と共に、好んで劇を新富座に見たり。是全く予にとりては、予が最後の勝利を博せし、光榮ある戰場として、屢その花瓦斯とその掛毛氈とを眺めんとする、不思議なる欲望を感ぜしが爲のみ。

 然れどもこは眞に、數ヶ月の間なりき。この幸福なる數ヶ月の經過すると共に、予は漸次予が生涯中最も憎む可き誘惑と鬪ふ可き運命に接近しぬ。その鬪の如何に酷烈を極めたるか、如何に歩々予を死地に驅逐したるか。予は到底茲に敍説するの勇氣なし。否、この遺書を認めつつある現在さへも、予は猶この水蛇(ハイドラ)の如き誘惑と、死を以て鬪はざる可らず。卿等にして若し、予が煩悶の蹟を見んと欲せば、請ふ、以下に抄録せんとする予が日記を一瞥せよ。

「十月×日、明子、子なきの故を以て滿村家を去る由、予は近日本多子爵と共に、六年ぶりにて彼女と會見す可し。歸朝以來、始予は彼女を見るの己の爲に忍びず、後は彼女を見るの彼女の爲に忍びずして、遂に荏苒今日に及べり。明子の明眸、猶六年以前の如くなる可きや否や。

「十月×日、予は今日本多子爵を訪れ、始めて共に明子の家に赴かんとしぬ。然るに豈計らんや、子爵は予に先立ちで、既に彼女を見る事兩三度なりと云はんには。子爵の予を疎外する、何ぞ斯くの如く甚しきや。予は甚しく不快を感じたるを以て、辭を患者の診察に託し、匇惶として子爵の家を辭したり。子爵は恐らく予の去りし後、單身明子を訪れしならんか。

「十一月×日、予は本多子爵と共に、明子を訪ひぬ。明子は容色の幾分を減却したれども、猶紫藤花下に立ちし當年の少女を髣髴するは、未必しも難事にあらず。嗚呼予は既に明子を見たり。而して予が胸中、反つて止む可らざる悲哀を感ずるは何ぞ。予はその理由を知らざるに苦む。

「十二月×日、子爵は明子と結婚する意志あるものの如し。斯くして予が明子の夫を殺害したる目的は、始めて完成の域に達するを得ん。されど――されど、予は予が再明子を失ひつつあるが如き、異樣なる苦痛を免るる事能はず。

「三月×日、子爵と明子との結婚式は、今年年末を期して、擧行せらるべしと云ふ。予はその一日も速ならん事を祈る。現状に於ては、予は永久にこの止み難き苦痛を脱離する能はざる可し。

「六月十二日、予は獨り新富座に赴けり。去年今月今日、予が手に仆れたる犧牲を思へば、予は觀劇中も自ら會心の微笑を禁ぜざりき。されど同座より歸途、予がふと予の殺人の動機に想到するや、予は殆歸趣を失ひたるかの感に打たれたり。嗚呼、予は誰の爲に滿村恭平を殺せしか。本多子爵の爲か、明子の爲か、抑も亦予自身の爲か。こは予も亦答ふる能はざるを如何。

「七月×日、予は子爵と明子と共に、今夕馬車を驅つて、隅田川の流燈會を見物せり。馬車の窓より洩るる燈光に、明子の明眸の更に美しかりしは、殆予をして傍に子爵あるを忘れしめぬ。されどそは予が語らんとする所にあらず。予は馬車中子爵の胃痛を訴ふるや、手にポケツトを搜りて、丸藥の凾を得たり。而してその「かの丸藥」なるに一驚したり。予は何が故に今宵この丸藥を携へたるか。偶然か、予は切にその偶然ならん事を庶幾(こひねが)ふ。されどそは必しも偶然にはあらざりしものゝ如し。

「八月×日、予は子爵と明子と共に、予が家に晩餐を共にしたり。しかも予は終始、予がポケツトの底なるかの丸藥を忘るゝ事能はず。予の心は、殆予自身にとりても、不可解なる怪物を藏するに似たり。

「十一月×日、子爵は遂に明子と結婚式を擧げたり。予は予自身に對して、名状し難き憤怒を感ぜざるを得ず。その憤怒たるや、恰も一度遁走せし兵士が、自己の怯懦に對して感ずる羞恥の情に似たるが如し。

「十二月×日、予は子爵の請に應じて、之をその病床に見たり、明子亦傍にありて、夜來發熱甚しと云ふ。予は診察の後、その感冐に過ぎざるを云ひて、直に家に歸り、子爵の爲に自ら調劑しぬ。その間約二時間、「かの丸藥」の凾は終始予に恐る可き誘惑を持續したり。

「十二月×日、予は昨夜子爵を殺害せる惡夢に脅(おびやか)されたり。終日胸中の不快を排し難し。

「二月×日、嗚呼予は今にして始めて知る、予が子爵を殺害せざらんが爲には、予自身を殺害せざる可らざるを。されど明子は如何。」

 子爵閣下、並に夫人、こは予が日記の大略なり。大略なりと雖も、予が連日連夜の苦悶は、卿等必ずや善く了解せん。予は本多子爵を殺さざらんが爲には、予自身を殺さざる可らず。されど予にして若し予自身を救はんが爲に、本多子爵を殺さんか、予は予が滿村恭平を屠りし理由を如何の地にか求む可けん。若し又彼を毒殺したる理由にして、予の自覺せざる利己主義に伏在したるものと做さんか、予の人格、予の良心、予の道德、予の主張は、すべて地を拂つて消滅す可し。是素より予の善く忍び得る所にあらず。予は寧、予自身を殺すの、遙に予が精神的破産に勝れるを信ずるものなり。故に予は予が人格を樹立せんが爲に、今宵「かの丸藥」の函によりて、嘗て予が手に僵れたる犧牲と、同一運命を擔はんとす。

 本多子爵閣下、並に夫人、予は如上の理由の下に、卿等がこの遺書を手にするの時、既に死體となりて、予が寢臺に横はらん。唯、死に際して、縷々予が呪ふ可き半生の祕密を告白したるは、亦以て卿等の爲に聊自ら潔せんと欲するが爲のみ。卿等にして若し憎む可くんば、即ち憎み、憐む可くんば、即ち憐め。予は――自ら憎み、自ら憐める予は、悦んで卿等の憎惡と憐憫とを蒙る可し。さらば予は筆を擱いて、予が馬車を命じ、直に新富座に赴かん。而して半日の觀劇を終りたるの後、予は「かの丸藥」の幾粒を口に啣みて、再予が馬車に投ぜん。節物は素より異れども、紛々たる細雨は、予をして幸に黄梅雨の天を彷彿せしむ。斯くして予はかの肥大豕に似たる滿村恭平の如く、車窓の外に往來する燈火の光を見、車蓋の上に蕭々たる夜雨の音を聞きつつ、新富座を去る事甚遠からずして、必予が最期の息を呼吸す可し。卿等亦明日の新聞を飜すの時、恐らくは予が遺書を得るに先立つて、ドクトル北畠義一郎が腦出血病を以て、觀劇の歸途、馬車内に頓死せしの一項を讀まんか。終に臨んで予は切に卿等が幸福と健在とを祈る。卿等に常に忠實なる僕、北畠義一郎拜。

 

       この小説を中央公論で發表した當時、自分に手紙をよこして、 Pall Mall  はペ
       ルメルと發音すべきだと注意してくれた人がゐる。が、自分はやはり外にPell
          Mell と云ふ語がある以上、これはパルマルとした方がよからうと思ふ。又この
       小説を見た人が自分はPall Mall の發音も知らないのかと思つて、再度手紙など
       を貰ふと厄介だから、一言書き加へる事にした。




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