やぶちゃんの電子テクスト集:小說・戯曲・評論・随筆・短歌篇
鬼火へ


芥川龍之介の人と作   室生犀星

[やぶちゃん注:昭和二(一九二七)年六月号の『新潮』に掲載され、後に作品集「天馬の脚」(昭和四(一九二九)年)及び「芥川龍之介氏の人と作」(昭和一八(一九四三)年)に所収された(但し、再録に際してはかなりの手が入れられている)。
 卽ち、本作は同年五月に書かれ、そうして、死の直前の芥川龍之介自身が読んだ、彼の盟友の芥川龍之介論だったのである。
 底本は昭和四六(一九七一)年筑摩書房刊全集類聚版芥川龍之介全集別巻の巻頭(「第一部 人と芸術」)に掲載された初出のものを用いた。但し、底本は新字旧仮名であることから、私のポリシーに則り、原型により近くすることを目的として恣意的に正字化してある。一箇所だけ、「五」の最終段落の「盗んだゝけ」の「ゝ」は「ゞ」に変えた。芥川龍之介の作品で改行して独立した引用文部分は全体が字下げになっているので、ブラウザ上の不具合を考えて底本の一行字数と揃えてある。引用のポイント落ちは底本のママである。
 この評論は一風変わった印象があり、論理的な批評というよりも、室生独特の詩語を交えた(それが幾分、難解な印象を与える箇所もある)、謂わば、詩想的評論である。語彙の一部に注を加えることも考えたが、自死を目前に控えた芥川龍之介がこれをどう読んだかを考える時、軽々に辞書的注記を附すことは厳に慎むべきであると考え、不審な箇所・誤植或いは誤字と判断した箇所意外には注は付さなかった。なお、私は後に手を加えられた後の再録も持っているが、これは今言った難解な印象を与える箇所が、かなり読み易く整理省略されてはいる。しかし、私はやはり、室生が『生前の芥川との最後の会見の際に感想を聞いたら、「その時殆聞えるか聞えないか位の独り言のような低い声で、ああいうものを書かなくてもよいのにと云つた」』(昭和一〇(一九三五)年発表の室生犀星「憶(おもふ)芥川龍之介君」。但し、引用は二〇一二年講談社文芸文庫版「深夜の人 結婚者の手記」の高瀨真理子氏の解說からの孫引きを含む引用)この原形を大切にしたいと思うのである。

 但し、一点だけ、述べておきたいことがある。それは、第二章「文人」の中の、
   *
彼のねらふ漂渺は彼の凝りすぎる證據には「尻立てゝ這ふ子思ふや雉子ぐるま」の卽吟を彼は隨筆集に訂塗再考して「ひたすらに這ふ子おもふや笹ちまき」としてゐる。彼は三日後には原句を動かして持つて付け、付けては動かしてゐる。
   *
に現われる芥川龍之介の発句である。この、
   *
  尻立てゝ這ふ子思ふや雉子ぐるま
   *
は、実は私の渉猟した「やぶちゃん版芥川龍之介俳句全集」(リンク先は第一巻の「発句」)にはない。ということは、実は芥川龍之介の俳句として現在までに公刊された一切の芥川龍之介関連書に(この室生の評論以外には)示されていない句である、ということでもある。
 極めて酷似したものは、「やぶちゃん版芥川龍之介句集 五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」の、芥川龍之介の旧全集「手帳(八)」に出現する発句を新全集「手帳(8)」で補正したものを電子化した際に、抹消句(旧全集は抹消であることを示していない)の中に発見出来る。それは、
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  尻立てて這ふてゐるかや雉子車
   *
 である。また、これと近似したものは、『改造』大正十四年九月発表の「鄰の笛――大正九年より同十四年に至る年代順――」の中の(「やぶちゃん版芥川龍之介俳句全集 発句拾遺」参照)、
   *
    
寄内

  臀立てて這ふ子おもふや笹ちまき
   *
と載るものだが、下五が大きく異なる。そして龍之介はこれを、大正一五(一九二六)年十二月二十五日新潮社刊の作品集『梅・馬・鶯』の「發句」には、
   *
    
寄内

  ひと向きに這ふ子おもふや笹ちまき
   *
と、していて、何と室生が引く、
   *
  ひたすらに這ふ子おもふや笹ちまき
   *
という句形は、少なくとも現在の知見では、芥川龍之介没後の昭和二(一九二七)年九月自家版として刊行された「澄江堂句集」で初めて我々の目に触れた句形なのである。
 このことはまず、我々はここで、室生の引用に間違いがないとすれば、
   *
  尻立てゝ這ふ子思ふや雉子ぐるま
   *
という新発見句に出逢ったことになる。この評論は芥川龍之介が実見し、上記の通り、その後に室生は龍之介と本作について話しており、万一、句が誤りであれば、龍之介がそこを指摘した可能性は高いから、本句が新発見句である可能性は頗る高いものと私は判断する(従って、本電子テクスト公開に先だって「やぶちゃん版芥川龍之介句集五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」に本句を、先日、追加した)。
 これは、芥川龍之介は、生前には公開されていなかった、本句の決定稿である、
  ひたすらに這ふ子おもふや笹ちまき
をどこかで室生に見せており、それを室生は『梅・馬・鶯』に載った句と勘違いしている、という推理が成り立つと言える。

 なお、本テクストは私のブログ430000アクセス突破記念として作成したものである。藪野直史【二〇一三年一月十二日】
 誤字(私自身の気持ちの悪い(九年も放置していたことがおぞましい)それがかなりあった)及び一部の正字不全を修正し、注を少し追加した。【二〇二二年三月三十日】]

    
一 彼、人

 芥川龍之介か佐藤春夫の孰方どちらかの碎けた評論めいた人物印象を大部のものに書いて貰へないだらうか、左ういふ中村武雄夫氏からの依賴を聞いて、自分は佐藤春夫は萬年靑年であるし今鳥渡ちよつと書く氣がしないし適當とは思へない、芥川龍之介はまだ料理したことのないしやちのやうなもので、自分の爼に乘るかどうかは疑はしい、自分はむしろ秋聲先生に爼の上に乘つて戴かうと思ふのであるが、中村武雄夫は是非芥川龍之介論の方をと言ひ、自分もその氣になり引受けたのである。
 一體芥川龍之介論とは何の事だらう。自分は不意に演說を指摘されたやうにまごつく、 ――芥川龍之介といふ小說家を君は知つてゐるかね、田端にゐるんだが會つたら面白いかも知れんよ、左う云うたのは今から十年前の萩原朔太郞であつた。此間詩集を送つたら手紙を吳れたが今度歸京したら會つて見たらどうかと、彼の故鄕前橋で私の最も親懇な萩原の口から、印刷にならない芥川龍之介といふ名前を初めて聞いたのである。倂し私は彼の前に當時の意氣軒昂の槪を示し鳥渡ちよつと胸を反らし乍ら云つたものであつた。「小說家に態々わざわざこちらから訪ねて行くのも不見識ではないか、我々は左ういふことまでして交際をする必要がない。」萩原は當時既に谷崎潤一郞を知つてゐたし、何かのまぎれにもく此の谷崎潤一郞といふ拓本のやうな名前の感じを、私の前に話してゐた矢先で少々私は胸くそもので小癪に障らしてゐた。私はといへば交友に有名な男がなく其意味で萩原は既に一家の交詢的な周圍を有つて些か私に當つたものであつた。「一體小說家といふものは氣に食はん。」私はともすると議論めいて來る彼の鋒先を避け乍ら、小說家といふものを目の敵にしてゐたので、芥川龍之介なぞに會ふもんかと思ふのであつた。それから後に中央公論や改造の廣告が出るたびに、此の芥川龍之介なる二號活字に屢々惱まされ勝ちであつた。小說を讀んで見ても一向面白くなかつた。「或日の大石内藏之助」や「枯野抄」や「きりしたん」物なぞも、何處にいいところがあるのか、何が文章がよいのか、私にはほとんど興味もなくすこしも感銘しなかつた。「文章にどこにいいところがあるのだ。」これが私には可成な問題であつた。一行や二行の描寫で何が描けるものかといふ大摑みの最初から彼を理解しようといふ氣がなかつた。簡勁や壓搾や洗練や重厚や漂渺なぞの描出の細緻は、私の文章上の信仰では頭から問題ではなかつた。私の信用する文章は橫縱から隈無くていねいに描寫することだつた。さういふ私の信仰に彼の文章が何の昂奮をも與へなかったのは當然であつた。今から思ふと彼の睨むところの壓搾的な美が解らう筈がなかつた。それほど私は天眞爛漫の文學的好箇の靑年であつた。
 それにしても芥川龍之介なる名前は私を惱ますことは依然として煩雜だつた。同じ郊外に住んでゐることに原因してゐるのだらうが、何かと云へば芥川龍之介の御近所ですかとか、芥川さんも交際つきあつてゐられますかとか、お宅を搜し步いて山の上へ出てひよいと見ると芥川龍之介の前へ出たのですと要らざらんことを云ふ訪問客もあつた。兎も角芥川龍之介の名前を聞かぬ日は日で新聞に廣告が出てゐて鬱陶しかつた。さういふ氣持の折り疊みは私をして何となく芥川龍之介といへば、不思議な陰鬱と何とない厭うた氣にならせた。けふも芥川を聞き明日も芥川を耳にしたのであつた。或日私は番地をあてに彼の家の前へまで行き、門の表札を打眺めて芥川龍之介は此處だなと思うた。何の因緣でこの男の名前に惱されるのかと、私は庭の椎の繁りなどを見ながら、自ら長屋住みとは事ちがうた彼の屋敷を後にして歸るのだつた。それほど彼は彼の知らない以前に自分を惱ました。
 自分が初めて芥川に會つたのは日夏秋之介の詩集の出版紀念會であつた。圓卓の向ふに自分は紹介された芥川の顏を見ると、直ぐ此種の端正な顏貌に好意よりもむしろ容貌自身から來る引身を、逆に何か苦手な氣の合はない人間のやうな氣がした。自分は一體に容貌の端正典雅な人物やそれに近い人間に打むかふ時には、故なく本能的に先づ一と通り反感をもつ性癖があつた。自分が熊の如き粗野な容貌を有つてゐるからであらうが、芥川と顏を見合せた時はすぐ此の苦手な自分の持たないものから支配されるのであつた。が其歸り途に一緖に步き乍ら色々話をすると、樂な親しみやすい打解けたところのある、寧ろ碎けた人のやうに思はれた。その翌々日だつたか彼の書齋を背景にしてゐる彼を見て、處狹いまでの書物の堆積や談論の自在な彼を打眺めて、戲談まじりの話をしながらも却つて歸途はそれにも拘らずひどく陰鬱な氣もちであつた。今から思ふと自分は彼に抵抗する精神的武器がなかつたらしく、それが自分にあれば彼麼あんなに陰鬱に考へ込まなかつたであらう、何を言つても自分はまだ市井破垣を結ぶの一詩人であつた。しかも一詩人の威力を打通すだけのものが自分の胴中を貫いてゐなかつた。それに辛か不幸か芥川は餘りにらくに自分の前であけすけに話をしてくれたのが、一際自分を陰氣にしたのだらうと思うてゐる。人間は時に屢々自分以下のものには樂にくだけることを愉快におもふものだが、彼のくだけ方はその氣もちの上で種類が違つてゐるやうだつた。對手を窮屈がらせない一種の座談に慣れることに據つて、爲されたそれヽヽのやうにも思はれた。當時の世間知らずであり文壇めくらであつた私が、彼と對坐しただけで遺憾ながら彼を自分以上のものであると云ふ、心からの承認では無かつたとは云へ、おもむろにその朧氣なものを感じたことは拒めなかつた。昔の劍術つかひの竹刀の冴えを見たやうで聞きしに勝る者ぢやと思うたのは止むを得ないことだつた。自分は春夫が最初谷崎を嫉視した氣もちを今から思へば多分にまじへてゐたのである。有名に對抗する故なき嫉視と憤怒に似たものを白面一介の彼に感じたことは、私のこれまでの生涯に於て北原白秋と同樣のものであつた。北原白秋に會つた最初は二十二歳だつただけに羽根が立たぬやうな自分でもあつたからいいとしても、彼の場合には自分はう二十九にもなつてゐたから、刺戟や壓迫などと云ふ生優なまやさしいものではなかつた。自らを鞭打つ激情に似たものを彼から感じたのだつた。自分は三四囘目に會つた時は「幼年時代」といふ小說をひそかに家にゐて書いてゐて、彼にその話をして見てくれるかどうかといふ意味を、恰もお世辭に似た心からでない曖昧な氣もちで彼に述べたが、彼は一寸慌てたやうにいや僕のごときは何とか言ひ、すぐその話は素早くよそに逸れてしまつた。その時自分に應酬する彼が談偶々小說に及んだことで、彼の面にかすかな迷惑らしいものが掠めたことを自分は感じた。(後に考へると彼の當惑らしい表情はだしぬけに云つた自分に感じたのは當然であつたが、その當惑の戶を敲きこはすことのできない自分だつたことにも氣がついてゐた。人間は時に屢々自分を叩き上げるために射手の當惑の戶を叩きこはさなければならぬものだ。自分はあの時この友の當惑を絞め上げて置いたら、彼とは別な意味で種々のものを攝取とりいれできたらうと思うた。)
 その後自分は彼をたづねたが最初に受けた印象はかはらなかつた。その日の都合でいい加減なことを云ふ男でないことが判つた。唯、彼の物の云ひ方に或高びしやがあり、それが彼の場合非常に自然に受取れるのが不思議である。おもに批評的になる話題にそれがあつた。――ずつと後、震災後金澤へ來た時に或老俳人の前で、彼は北枝[やぶちゃん注:底本は『北抜』。再録二本で確認して訂した。]の句のことなぞを土地柄であるとは云へ話し出したりした。後で私の畏敬する老俳人は芥川といふ人物に感心して、金澤へ度々人も來たが、あれほど若くてしつかりしてゐる男は初めてだと感服してゐた。自分はその時も紹介甲斐のある點で、彼の人物を釋明する必要がなかつた。しかも老俳人はまだ彼の一作をも讀破してゐなかつたのである。
 最近では芥川龍之介と遊び乍らゐて夜を忘れることに於て、時々芥川龍之介を感じることがあつた。自分に彼を紹介した萩原朔太郞が上京して田端に住むころには、却つて芥川に萩原を紹介するやうな顚倒した位置と役目に私はゐた。萩原は芥川に會へば議論もするらしいが、私と萩原と趣味が一致しないやうに、芥川と私との生活振りは全然違つたものだつた。一緖に旅行してゐても私は晩は九時から十時に寢に就き、彼は夜中の二時三時といふのに煙草のけむりの中に起き上り何か書いてゐる。厠へ立つ時も音を忍んで氣をつかうてゐる。私が朝の散步から戾つて來て仕事に取りかかる頃は、彼はつとむづむづと床から起きるのであつた。彼は少く軟かい物を食ひ、私は多く固いものが好きだつた。彼は手當り次第に讀み私はきらひな物は一切讀まなかつた。彼は滅多に人見知りを露骨に色に現さない東京人であるのに、私はがりがりしたあらはな田舍人の粗暴と人見知りを持つてゐた。彼は話好きで夜更しを平氣で遣り私はその反對の方の人間であつた。彼は芭蕉を五年もさきに讀み上げ一と通り卒業してゐたが、私はやつと此二三年身を入れて讀み出す位だつた。唯一つ陶器だけは一步先きなくらゐで何事も私のよくつかふ文字であるが殘念乍ら先きに步いてゐた。全く殘念乍ら! 人は芥川龍之介の有名に反感はもつとしても、彼の人物にはさういふものを持つことはできぬであらうと今でも思うてゐる。

    
二 文  人

 佐藤春夫は幾十篇かの詩をその文學的少年時代に有つてゐる。この頃では音調を帶びてゐて春夫自身も意識しながらその古き調べの中に折々文筆の塵や埃を避けてゐる。龍之介も又春夫の場合と同じく數十句の發句をひそかに筐底に祕藏してゐる。龍之介の自ら元祿の古詞にならうてゐる所以のものは、單に古きしらべにいてゐるのではなく、巍然たる元祿の流れを汲んでゐるのである。碧梧桐以後に幾度となく波瀾重疊した俳壇の諸公から見れば、彼の發句は一見陳套の嘲を買ふかも知れない、今更ら蕉風に低迷しなくともよいではないかと、彼らの内の精英は言ふかも知れぬ。倂し乍ら龍之介のねらひは元祿諸家の音調や丈艸去來のさびしをりを學んでゐる譯ではない。ただ叮嚀に蕉風のねらひを今人の彼が心に宿してゐるだけである。彼は元祿人が引いた弓づるをその的をつと强く引いてゐるに過ぎない。
 今の文壇に文人の風格を持つてゐるものは永井荷風を別格としたら先づ漱石以來では芥川龍之介や志賀直哉であらう、そして又佐藤春夫もその俤を有つてゐる。倂し芥川龍之介は何と言つても極めて自然な、ひとりでに文人の風格を築き上げてゐると言つてよい。彼が發句を詠み書畫骨董の鑑識を有つてゐると言ふだけで文人だといふのではない、心から文人の好みを持つてゐるからである。氣質が既に漂渺や古實や詩情を交ぜて宿してゐることだ。佐藤の文人的なものには新しさからあと戾りした氣もちがあるとすれば、芥川はその古さの中に新しさを搜る鋭い爪を有つてゐると言つた方が適切であらう。芥川の爪は時に閑暇を得るときに木の肌や人事の漂茫の中に搔き立てられてゐる、鷲や鷹の爪ではなく、黒鷹のやうな精悍と鋭どさを有ち合つてゐるやうである。
 佐藤の詩が無用の長物だといふ詩壇の新鋭があるとしたら、龍之介の發句もまた無用の長物であるといふ俳壇の古武士があるだらう。彼らを思ふときは此の無用の長物をも倂せ思はねばならぬとしたら、また彼らが均しく藝術の士として後世の筆端を煩すとしたら、先づ此の無用の長物をも見適さないであらう、或は最も彼らを見る上に之等の詩や發句は有益の文字であることを後世の輩は感じるかも知れない。
 夏目漱石は完全な渾一された好箇の文人であつた。あらゆる意味での文人の心意氣や典型を有つてゐた。漱石を文人の外のものとして考へたくない程の、彼をあげつらふ上の必要の文人だつた。だが泡鳴を文人だといふことはできない、詩をも書いた彼を文人として曲指するに躊躇するのは、がらヽヽと質とに何か叛いた文人以外の氣もちが混つてゐるからであつた。漱石の文人的なるものの感化はまだ金釦を胸に飾つてゐたころの芥川にあつたのは當然のことである。又或は進んで漱石の感化裡に飛び込んでゐたかも知れない、倂し彼はそのままでは決して頂戴はしなかつた。彼は彼らしく修正し捕捉したにちがひない、――その證據にはあれほどの大文人であつた漱石の發句は、折々光つたものを見せてはゐるものの全幅に枯寂の俤を缺いてゐるばかりではなく、のこさなくともよい程の拙い句を殘してゐることを考へると、漱石は惡い句も棄てなかつたらしく思はれる。或は句集編纂者がでたらめに蒐集したのかも知れないが、ともあれ彼れほどの大家の發句として殘さずともよい句が可成に多數に上つてゐるのは、漱石が棄てなかつたことに原因してゐる。あらゆる發句は棄てなければならない、心殘りなく棄てなければならない、――その意味で我が龍之介は棄てることの名人であつた。或は彼は發句を棄てることに於てより多く名人であつたかも知れなかつた。彼の潔癖ときずものを厭ふ氣もちが左うさせたことは勿論であるが、何よりも彼は棄てることに於て元祿の芭蕉を學んだのかも知れぬ。
 紅葉の句の拙いことは鏡花にまで影響してゐることは、彼らには巍然たる山脈の光茫を握つてゐないからであつた。漱石は子規時代の何人も其樣であつた如く天明の豪邁な調子に乘り合うてゐた。天明が日本俳壇の元祿のそれとともに二大柱石であつたことは事實ではあるが、子規が蕪村を出られず漱石が子規の間を彷徨してゐたことも爲方のないことであつた。何故彼らが一足飛びに元祿の豐饒な畑に種子を拾ひ得なかつたかと言へば、彼らの時勢が天明調以外に芭蕉の光輝すら幽かに漏れる夜半の明りほどにも、賴りない仄かなものであるらしかつた。その時勢は芭蕉すらも月並といふ言葉の中にあしらはれてゐた時勢だからである。
  
梅もどき零して通る座敷かな  紅葉
  
一人酌んで頻りに寂し壁の秋  同
  
秋暑し癒えなんとして胃の病  漱石
  
初冬や竹伐る山の鉈の音    同
 彼が何よりも元祿に心を向け其調べに從うたのは、古きに新しきを汲む心があつたためであらう、漱石に於ける蕪村を芭蕉に捕捉してゐる彼は、その潔癖と苦澁と洗練の砦の中ではるかに元祿の城を打眺めてゐた。それがいかにも彼らしい好みで又それ以外に彼の心が向ふとは想像もされないことである。彼の謂ふところの發句もまた全幅の藝術上の精髓だといふのも、彼の苦澁があつた後に始めて言ひ得る言葉であらう。
 倂し乍ら自分は全然彼の發句に異議なしに贊成するものではない、彼の好んでつかふ靑銅は時に發句に皮かぶりの古さをつけないことも無いではない、別離の句に、「霜のふる夜を菅笠のゆくへ哉」の如き離愁は一應その氣もちは分りながらも菅笠の如きは餘りに古きにき過ぎ倣ひ過ぎるやうである。「しぐるゝや堀江の茶屋に客ひとり」の情景にしても、そのまゝ取入れられるにしても這入り過ぎてゐる調子ではないか、彼のねらふ漂渺は彼の凝りすぎる證據には「尻立てゝ這ふ子思ふや雉子ぐるま」の卽吟を彼は隨筆集に訂塗再考して「ひたすらに這ふ子おもふや笹ちまき」としてゐる。彼は三日後には原句を動かして持つて付け、付けては動かしてゐる。彼のいはゆるボードレルの一行を認める所以は、彼の中では是認されなければならぬ一行でもあるのだ。倂し乍ら「尻立てゝ」の卽情卽景が「ひたすらに……」の後の句に添削され、原句の卽情の境を離れてゐることは彼と雖も首肯するであらう。
  
朧梅や枝まばらなる時雨ぞら
  
白梅や莟うるめる枝の反り
  
茶畠に入日しづもる在所かな
  
松風をうつつに聞くよ夏帽子
 彼は一槪に風流人でも俳人でもない、爐を去れば世上の嘆や文壇諸公との應酬にいとまなき忽忙こつばうの男である。文壇の垢や埃の中に或時は好んでお餞舌しやべりをする男である。さういふ意味の文人臭を拔け上つた生の味の文人であらう、この意味で志賀直哉はつと風流人であり文人の骨格をもつてゐるかも知れぬ。志賀の淸澹は環境自身が補うてゐることも、ほゞ芥川と似てゐる。芥川が好んで曇天の美しさを見、枯れ葉の靜かさをむところの境憶致は、又彼が小說の中にある「或夕暮」「或薄曇り……」のと好んで書くのといづれもかはらない。
 彼が一句の發句にも藝術の大事を稱ふることは、細微なるものは最大のものを意味する點でロダンの說と一致してゐる。彼が此處に心を止めることは詩情を解する所以を表してゐる。すくなくとも芭蕉の詩情を慕ふ彼は自ら好んで古調の沈潛の中にゐるのは、彼の彼らしく又動かない彼自身を知つてゐるものであらう。

    
三 流行とは

 自分は流行を輕蔑してゐるものだが、流行せぬことを決して尊敬してもゐない、人氣といふものは不思議なちからでそれ自身がその作家をよくはしても惡くはしないものらしい。人氣でわるくなるのは人氣の前から既に質がわるくなつてゐるものだ。宮地嘉六や室生犀星は人氣のない作家かも知れない、倂し乍ら彼らに一層の人氣があればつとよくなつても惡くなる作家ではなからう。同樣に人氣がなくとも年月とともによくなる作家である。彼らは人氣がなければないでいゝものを書かなければならぬ。原稿を依賴されなければ堂々とこちらから提げて行かなければならぬ。若し原稿を持ち込むやうなことがありそれに據つて白眼視するものがあれば汝ら自身に恥あれ!  芥川龍之介は不斷の流行を負うてゐることは佐藤春夫と同樣である。彼はい加減なものを書いてよいときにさへ(若しう云ふ言葉があれば、又假りに彼にさういふ機會があつたとしても)曾てその手綱を弛めたことがない、焦らずゆつくりと作家としての峠にゐる彼である。世に出たときにさへ谷崎潤一郞のやうな烈しい喝采を拍した譯ではない、少しづつの讀者を年々に堅めつけ年とともに數を殖してゆくやうな彼である。浮薄な讀者の間に忘られてゆくそれではなく、彼を讀むものはそのまゝ彼のまはりに何時までも群れ留つてゐる。「芋粥」から「玄鶴山房」まで餘り讀者はかはらないやうである。かういふ作家といふものは稀れにしか無い、これは彼の人德ではなく彼の堅め付け方が信じられてゐるからである。昨日の讀者は今日の讀者ではなく、讀者は作家の二倍くらゐの速力で進みもし先きにもゐるものだ。それを彼は知らん顏で踏まへ留めてゐることは、地味な加之しかかはらない不斷の流行を擔うてゐる所以であらう。すくなくとも讀者の心に信じられてゐるからだ。
 佐藤春夫や里見弴の人氣には能く觀ればまだ浮いた人氣がないでもない、彼らは明るくて常に一種の「華美」な雰圍氣の中にゐるからである。倂し乍ら志賀直哉や芥川龍之介や宮地嘉六や德田秋聲には浮いた人氣は消熄してゐる、それは人氣以上のもので人氣と名づけられない單にいゝ作家とだけ稱ふべきものかも知れぬ。――彼、芥川龍之介の場合はいゝ加減な作を作らない所以、彼の苦澁が彼を何時までも搖がない、强ひて言へば小憎らしい不斷の流行を負ふに原因してゐるかも知れぬ。自分の如きは求められるままに濫亂の作を市に抛つに急であつた爲めに、今日の「我」をして悲しみを大ならしめた所以だが、人は志を更めるに恥を知るものではない、彼、龍之介の今日あるは又自分の大に學ばねばならぬものだと思うてゐる。語を換へれば彼ばかりの場合でなく一國一城の各作家の弓矢や質や兵法や築城やには、それぞれに學びそれぞれに敎はらねばならぬものゝ多くを自分は感じてゐる。分けても彼の氣鋭は「羅生門」「芋粥」の時代から何時も同じい芥川龍之介の地盤を固めてゐる。未定稿のまゝの「大導寺信輔」を書いた頃から作を絕つてゐたものゝ却つて今年になつてからぐつと伸び上つてゐる。何時も燃えるやうな拍手喝采のそれではなく、何時も何か彼は讀者との間に信じられてゐるやうである。

    
四 詩的精神

 詩のある文章や小說といふものに冷笑を感じてゐることは、久しい間の自分の偏屈な倂も誠實な習慣であつた。詩のある小說とは美しくだらだらとい加減の文章の綾や折曲を綴り合うたものだとしたら、又世の批評家諸公の謂ふところのものでもあつたら、自分は彼らに根本的に詩を說明してかゝらなければならない手數と厄介さを感じるだけである。佐藤春夫が詩のある小說家だといふのは、彼の文章や文章のつやであつたとしたら、佐藤もその詩のある文章といふ贋物の冠を返上するであらう。彼があゝいふ文章を書く一呼吸手前のものが、賢明なる批評家諸公には見出されなくて、肝心の詩を指摘されないで了つたのである。
 詩的なるものとは文章の表面ではなく、行と行の間字と字の間に、たなびく漂渺たる作者の呼吸いきづかひや氣魄や逼迫的なものを言ふのだ。芥川の文章の中にいつも此の漂渺たる何物かゞあるのは、諸君の悉知せらるるところであろう。志賀直哉は實にきわどいところまで行くが、いつも淸らかで美しい、「暗夜行路」や「紅い帶」其他女中を書いたものにそれがある。倂し乍ら芥川の脈々たる漂渺が無い。芥川はいつも何か靑い煙を感じる程度の、彼自身の文章のやうな氣魄や肉體を有つてゐる。「枯野抄」の漂茫は今から彼自身が見ても、枯寂な一個の魂に對する詠嘆としか思はれないであらう、彼は十分な漂渺や枯寂を「枯野抄」では表し得なかつたと言つてよい、去來丈艸の諸門弟を一々描いただけで、それだけの彼のねらひが餘りに「その空氣」を表はすに道具立が多かつたと言つても過言では無からう。倂し乍ら大正四年代に悠々として「羅生門」を書き、越えて七年に「枯寂」な「枯野抄」を描かうとした彼の用意は並一と通りのものではない。彼は實に樂しみながら古實から新鮮を掘り當ててゐる。或は彼は彼自身樂しく書いてゐないと言ふかも知れぬ。何人も作者は苦吟するが故にたのしんでゐないと言ふのが眞實かも知れぬが、倂し苦吟し乍ら愉しんでゐないとは言へない、「藪の中」にすら彼自身愉しみ乍ら運命のはらわたを搔きさぐつてゐる。彼の作の凡てがさうのやうに此の作も橫縱から油斷のない手法で矢繼早やに固めてゐる。然も此の中の女の美しさは異常なまでに感じられるのは、あながち物語の稍々ややうがち過ぎたためでは無からう。「杉の梢に一すぢの夕日が」透してゐることを忘れない彼は、それだけで此の日の光景の荒涼な有態を描いてゐる。彼は折々に短い旅行に或る光景をゑがくに成果を得てゐるのは、見遁さぬ彼の視野の完璧を意味してゐる。
 何よりも彼は前人未到的な物語風なものに凝つたのも、彼の唯一の好みばかりでなく彼の聽明な文學的發足點であつたのであらう。そして此種の物語風な作品は不思議に今から思ふと、大正文壇の記錄的な作品の種類に這入つてゐる。再びあゝいふ種類の作品は我々に必要のない程度までの、それ程肝心な一小說體を爲してゐることは特記してよい。自然主義以來藝術的な物語風の小說としては、彼の諸作品は重きを爲すことは當然である。倂し自分は「南京の基督」の哀憐節々たる姿には掬しても足りない思ひはするが、何故作者があそこまで抉つたかに就て私的に何か抗議に似たものを發したいと思うてゐる。それは道德的といふ目安を以つて言ふのではない、可憐を背景づくるに何故活動寫眞的な人生の多難が必要だつたかといふ事である。
 彼は最近物語風なものから脱けようとするほど、彼は彼の文學的過去に於て物語の作家であつた。どういふ作品も物語の範圍は出てゐない、それ故何時讀んでも退屈を感じない文字通りの小說的の效果を讀者は受け味ふことができるのだ。彼が可成高踏的な作家でありながらも、なほ通俗的な所以のものは一つには此の物語風の姿を有つてゐることであり、話と筋とが透つてゐるためであらう。そして此の種の作品が後世の識者を問ふとしたら好箇の「記錄的な作品」として評價されるに違ひない。
 今の文壇で漱石鷗外のあとを繼ぐもの、彼ら以外の大家として殘るものは何人であるか分らない、倂し我々の頭を去來するものは殘念乍ら芥川か志賀かその孰方どちらかであらう、決して谷崎潤一郞ではない、谷崎は國寶的作家であらうが、漱石鷗外と倂稱さるべきものではない、國家は稀れに取止めもない建築や器物に國寶の冠を與へると一般なものを、我々は谷崎潤一郞に感じることも無いでもない、しかも今は何となく大谷崎の大の字を與へられる作家は、芥川や志賀ではなく、實に大谷崎潤一郞である。倂しながら漱石鷗外の後繼的氣分を我々の文學的爐邊にしばしば語られ釀すところのものは、龍之介と直哉でなければならぬ。――とう言ふやうな論文めいたことになると、私は不得手で甚だ勝手が違つて來て相當に考へてゐる筈のものも一寸書けないやうな氣がするが、一應これらの意味が會得されるとしたら、大谷崎潤一郞は實に百年の古木のごときものであれば、我が龍之介は十年の竹のごとき蒼生の綠で後世へ持ちこたへるものかも知れぬ。

    
五 自分と彼

 谷崎潤一郞論の中で佐藤春夫は彼から文學的才能を蘇生させられ、培養させられたことを囘顧と感激とをもつて云ってゐる。自分も又芥川龍之介から得たものも意味は違つてゐても同樣のものであることを否めない。自分と彼とは僅か七八年くらゐの交際に過ぎない。しかも其間に自分は彼から種々なものを盜み又攝り入れたことは實際である。彼は殘念乍ら一步づゝ一先きに步いてゐるからである、或は一步どころではなく十步くらゐ先方を步いてゐたかも知れぬ。或は田舍生れの自分は田舍の辨で用途を滿してゐる牴牾もどかしさを、東京に生れた彼が東京辨で用を辨じてゐる速力の相違であつたかも知れぬ。
 萩原朔太郞が此間室生犀星論を三十枚ばかり書いて久濶を敍する意味で自分に示してくれた。自分の市井生活の荒唐無稽を露骨なまでに曝き、「この頃の取り澄した」自分を粉碎し又理解した文章であつた。その中に私と芥川とを批評してういふ意味のことを言つてゐる。「彼が芥川龍之介と知り合ひ彼らが均しく慇懃であるのは、兼て室生が欲してゐたところの敎養あり、典雅な人物に彼が行き會ふたからである。彼自身の中に潛んでゐる當然典雅なるべき彼を築き上げたい夢想を、次第に彼は芥川を知つてから實顯し出したやうである。少くとも當然彼の中で睡つてゐて起きないものまでをも、芥川龍之介なる人物に刺戟されて搖り起されたと言つても過言ではなからう。」と云つてゐる。彼の言葉をりれば敎養ある高雅の人物を私は永い間望んでゐた、そしてその人物に邂逅したことは彼の氣質からなる風雅なるものを、一層建て直したと言つてよいといふ論旨であつた。自分は萩原の言ふところに不贊成ではない、寧ろ彼は離れてゐる間にも彼の友である私を遠く注意深く睨んでゐることは、彼の唯一の友であるが故に賴母たのもしい氣がしたくらゐである。
 菊池寬の言葉をりれば芥川龍之介は人がいいさうである。彼に逢つたどういふ人も彼を惡く言ふことを聞いた事がない、會はない前から見れば會つてよかつたといふ懷しさを感じさせるらしい、そこが彼の人のいゝ、隱し立をしない人がらであるかも知れぬ。彼の上機嫌は彼を長廣舌にさせる事は暫らく擱いても、彼は妙な人見知りや氣取りや故意わざとらしい氣障からとくに卒業してゐることは實際である。人間ができ上ることは人見知りや氣取りの必要のないことであらう、しかも彼は皮肉でなく正直に言つてゐる、「僕は誰とでも或る程度までは交際つきあへるが、その或程度までゞ[やぶちゃん注:底本は「ゝ」。使用慣例に合わせた。]又引歸して來る。」と彼らしい氣持の手固さを見せてゐる。かういふところは人が善いのだか惡いのだか分らない、或は或意味で菊池寬の方がよほど彼よりも人がいいのかも知れぬ。
 彼は短氣なのか氣が永いのか分らない、彼の怒つたことは見たことがないが、彼が可成な大量をもつてゐることは知つてゐる。一昨々年の夏輕井澤の旅舍で萩原とその妹と僕と彼とが、夜遲くまで旅のつれづれに花札を翫んでゐた。ふとしたことから私は野蠻に怒り出して花札を卓上に叩きつけて其部屋を去つたのであつた。その時萩原の妹らがゐなかつたら其那そんな亂暴をしなかつたらうが、妙な氣もちで私は怒り出したのであつた。あとで聞くと彼は其後でそれらの花札をきれいに集めて默つて一同に札を切り、平然と花を續けて打つてゐたさうである。彼がさうしてくれなかつたら其場は變なものであつたに違ひない。恰も私がさういふ性質を有つてゐることを昔から知つてゐるやうに平氣だつたさうである。翌朝自分は萩原の妹たち[やぶちゃん注:底本は「だち」。]に謝罪し芥川や萩原には昨夜は失敬したと言つたきりで、別に取立て昨夜のことは云はなかつた。其晩の彼には全く無縫の大量も感じてゐる。今から思ふと彼の氣持ちが自分より餘程上にあつたものか、それとも其儘花を打抛うつちやらなかつた事が彼自身の不快をも補うてゐたのかも知れぬ。兎もあれ彼が自分と一朝一夕の友であつたらうあれきりで吾々は氣拙くなつてゐたであらう、それにも拘らず彼は昨夜はよく睡れたかと微笑ほほゑみ乍ら言ふのであつた。あゝいふ不體裁をしたので鬱屈してよく睡れなかつたと自分は正直にさう言つた。萩原の妹らまで却つて自分を慰さめるやうだつたので、自分は非常に後悔もし恐縮するのであつた。彼の隱れた友情の一端は彼の迷惑とするところかも知れないが、さういふ泰然たる彼も彼の眞實であることは疑へない。
 一槪に萩原の所謂「典雅なる人物」との邂逅に依つて、自分の全幅が影響されてゐると言ふのや、彼に依つて初めて自分が搖り起された譯ではない、彼に據つてほんの少しづゝ自分は彼のものを盜んだゞけである。彼の中にあるもので自分に取つて解らなかつたものが解るやうになつたことは、或意味で重大なことかも知れない。とにかく彼は却却なかなかの苦勞人である。しかも彼の苦勞人の所以のものは妙に垢じみた薄暗いそれではなく、明るい冬の朝のやうなそれである。彼は學問や經驗の上からも、自分とは全然反對であるが、しかも彼は經驗せずして經驗する程度のものを直覺する男である。彼は或る意味で世間的に云へば恐るべき早熟だとも云へるのである。或は彼があれだけの才能を不良性のまゝ繰り立てゝゐたら、どうにもならぬ人間になつたらうと思へる程である。危ういふことは禮を失するかも知れぬが、彼が不良の徒だとしたら才氣喚發で一世を震駭させるかも知れない、

    
六 「玄鶴山房」の内容

 彼は最近「彼」第一第二「點鬼簿」「河童」「玄鶴山房」等を次つぎに發表した。そして批評家諸公の謂ふ神經衰弱でへとへとになつた彼を見直さした。今では神經衰弱もまた彼の一轉期だつた風に云ふかも知れない、――獨逸人は病氣をしない人間は莫迦だと云ふさうである。又古く長與善郞は餘りに健康で肥つた人間も莫迦だと言つたやうに覺えてゐる。
「玄鶴山房」には最近の彼が懷いてゐる氣魂がチユウプ[やぶちゃん注:意味不明。]のやうに泌み出てゐる。「玄鶴山房」には壓搾の美がある。出來得るだけ纏めつけた上に彼の好んで恍惚する壓搾の美しさを彫つてゐる。木彫の美であるかも知れない。そして又甲野は種々な家庭から家庭へ渡り步く看護婦としての天職に苛酷なほど忠實であることが時折その眼を上げて、おもむろに觀察の微妙をその女性らしい心に落してゐる。
 
「甲野さん、あなたのおかげさまで人間並みに手が洗へます。」
 
 お鳥は手を合せて淚をこぼした。甲野はお鳥の喜びには少し
 
も心を動かさなかつた。しかしそれ以來三度に一度は水を持つ
 
て行かなければならぬお鈴を見ることは愉快だつた。從つてか
 
う云ふ彼女には子供たちの喧嘩も不快ではなかつた。彼女は玄
 
鶴にはお芳親子に同情のあるらしい素振りを示した。同時に又
 
お鳥にはお芳親子に惡意のあるらしい素振りを示した。それは
 
たとひ徐ろにせよ、確實に效果を與へるものだつた。
 甲野の意地惡くまで見える聽明さの中に、彼の職業的觀察の眼が網を張つてゐる、網を張つてゐるのではなく自然にさうさせられるのであらう、「いえ、わたくしは起きてをります、これがわたくしの勤めでございますから」と云ふ彼女は、折々その情操の端々が女らしさへ引もどされ乍らも、自分の天職を忘れる女ではない。片頑かたいぢなまで手强く素氣ない、それでゐて妙に優秀な女であつた。玄鶴が疊の上に往生をしたのも此の甲野の眼が行亙つてゐたためであらう。自分は作者が何者よりも此の甲野に這入り込んでゐることを感じた。玄鶴の場合には作者は唯の一老人の描出に至つたまでとしか思へぬほどの、甲野への心の働きが彼の手に入りもし效果もあることを感じた。「上總の漁師町に住む」お芳親子の末端の數行に或哀れを含んだものが韻を引いてゐる。
 これらは一人生の出來事である。在來の彼の物語であるよりも一層物語のさねヽヽに障つてゐるところの、彼の鋭い爪に據られ[やぶちゃん注:適切な読みが浮ばない。私はここは「抉られ」とあるべきところかと思うのだが。]彫られたしごとヽヽヽの一つである。自分はこれらの人生に各々一人づつの人間に美を感じた。玄鶴には玄鶴の美、甲野には甲野の美、お芳にはお芳の美、其他の人間にも美を會得した。これを「秋」と較べると幽かな新派哀愁とも云ふべきものが、う重疊された憂鬱をたたんで「玄鶴」に聳立してゐる。しかも色で云へば「玄鶴」は澁好みであると云つてよい、讀み終へて舌ざはりに殘るものは彼の澁好みであらう。それにしても初めの第一章はあつても無くとも私にはよいやうに思はれる。ゴオルデン・バツトの煙が一すぢ路上に棄てられてある數行の文章は、彼が時時にこゝろみる惡いしやれでなければ、不用の文字ではなからうか、彼ほどの人物が何故これに氣が附かないのか?――彼に注意するとおれは左うは思はないと云つてゐる。おれはさう思つてゐない彼もう一度讀み返す必要があらう。
 小說は落筆前の材料で一度作者を苦しめるものであることは事實であるが、彼の場合時折息苦しい折疊をこころみてゐる時に、いつでも何か美がある。赤松月船もまた彼の論文の中にチラチラ光るものを感じると言つてゐるが、それは彼の文章の構成や結構が折りた一む氣魂の一種ではないか、これは又彼から見過してはならないものだ。此のチラチラ光るものは要するに彼の質の冴えのやうなもので、永年彼が知らず識らずの間に磨き上げたものだと思ふ。遺憾乍ら「河童」の中にチラチラ光るものがあれば、アートぺエバアを捌くやうなそれであり、「玄鶴」の中にある冴鋭ごえいなるチラチラではない、「羅生門」の丹の剥げた柱にきりぎりすを點出した彼は、「秋」の宵口に電燈の球に止つてゐる蒼蠅を按配した。これは決してチラチラの中のものではない、彼はついに「玄鶴」に甲野さんを按配するのはほとんど當然のことであつたらう。
 或批評家は「河童」を彼の智識的なる產物として批評した。また或月評家はこれを童話として品隲ひんしつした。また或批評家は彼でなければ書けぬものだと所斷した。いづれも當りいづれも當らないやうであつた。自分に言はすれば「河童」は彼のおもちや箱を彼が整理して見たまでのものであるやうな氣がする。或はさうでないかも知れぬ。倂し乍ら彼のおもちや箱は何時もああいふふうの品々に滿ち、ああいふふうのおもちやが一杯に詰つてゐることは噓ではない。――彼はさまざまな河童をならべ其等に迷ひ子札を一々克明に提げた。

    
七 描寫に就いて

 彼の文章に壓搾の美のあることは既に述べた。同時に材料もともに壓搾されてゐることも見遁されぬ。志賀は生のまゝの文章で行くが彼の漂渺の趣を缺いてゐることも述べたとほりである。しかも里見のうがちはなく谷崎の壯大は窺へないかも知れないが、脈々として糸吐く蠶の漂渺を含んでゐる。又凝り上ると峻嚴な、練るほどつやを吐く糸のやうである。樹で云へば常磐木の美であるかも知れぬ。隨筆集「點心」の中に彼は文藝上の作品では簡潔なる文體が長持ちのする所以を述べてゐる。彼は文章の荒糸だけを丹念に拔いて、それを統べたり編んだりしてゐる。
「……大阪商人の寢起の眼を、遠い瓦屋根の向うに誘つたが、幸、葉をふるつた柳の梢を、煙らせる程の雨もなく、やがて曇りながらもうす明い、もの靜かな晝になつた。」(「枯野抄」)
 此の描出には大正七年代の彼の簡潔と洗練はありながらも、何か辿々しげな[やぶちゃん注:「たどたどしげな」。]大事を取りすぎてゐる懸念がある。一つには材料の古實に據つた心の佶屈きつくつが自ら滲み出たせゐでもあらう。倂し大正十一年作の「トロッコ」には手固い寫實的な、あつさりした手法を用ゐて效果を得てゐる。
 
 或夕方、――それは二月の初旬だつた。良平は二つ下の弟や、
 
弟と同じ年の隣の子供と、トロツコの置いてある村外れへ行つ
 
た。トロツコは泥だらけになつた儘、薄明るい中に並んでゐ
 
る。が、その外は何處を見ても工夫たちの姿は見えなかつた。
 
二人の子供は恐る恐る、一番端にあるトロツコを押した。トロ
 
ツコは三人の力が揃ふと、突然ごろりと車輪をまはした。良平
 
はこの音にひやりとした。しかし二度目の車輪の音は、もう彼
 
を驚かさなかつた。……(「トロツコ」)
 此の描寫の中に無駄は一字もない、或意味で寫實の奧を搔きさぐつてゐるやうなところがある。自分は世にいふ名文といふものは知らないが、恐らく名文といふものには此種の文章が名づけられてもいいものであらうと思つてゐる。此の中に壯麗も見榮も氣取りもない、あつさりと餘裕のある、まだ幾らでも書ける筆勢が見えるやうである。愛すべき小品「蜜柑」の中の「しかし汽車はその時分には、もう安々と隧道を、辷りぬけて、枯草の山と山との間に挾まれた、或貧しい町はづれの踏切りに通りかゝつてゐた。踏切りの近くには、いづれも見すぼらしい藁屋根や瓦屋根がごみごみと狹苦しく建てこんで、……」の數行は、その布置が穉氣ちきの見えるまでに正直な、その上或る憂鬱のある景色を描いてゐる。「トロツコ」の人生は活潑な人生である。「蜜柑」も同樣に子供をあつかひ乍らも、人生の風雪は著早いちはやく「蜜柑」の少女を傷めてゐる。行文に一味の陰鬱が窺はれるのもその爲めであらう。倂し乍ら「蜜柑」は大正八年の作であり或意味で「トロツコ」の淸澄簡潔には及ばない。
「子供の病氣」は彼の生活的な日錄のやうなものであるが、時に妙に思ひ上つた樣なところのある「保吉」物よりも私の愛讀するものである。これは彼の所謂素直物の一つであるかも知れない。彼の散文詩めいた物の中にも素直物が折々にある。
「仕事は不相變捗どらなかつた。が、それは必しも子供の病氣のせゐばかりではなかつた。その中に、庭木を鳴らしながら、蒸暑い雨が降り出したヽヽヽヽヽヽヽヽヽ ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ。」夏の雨らしい大粒な景色が描かれてゐる、これは彼が發句に丹念してゐるために締め付けられた文章と見るのは當を得てゐない、――自分は彼の大作よりも何故か寧ろ小品に近い物ばかり擧げてゐるやうであるが、これは自分の趣味ばかりではなく彼の小品めいたものを愛讀するからである。
 彼を理智の冷徹な作家とすることも一評的であらうが、寧ろ人生には愛情のある作家であることは特記して置きたい。彼といふ人物や生活には人懷こいものがあるやうに、存外冷徹な理智者の彼に自分はその愛情の匂ひを嗅いでゐる。「お時儀」の中の人生は誰でも屢々經驗するところのものであるが、汽車から降り立つ何時もく逢ふ女の人に、思はずひよいとお時儀をする彼は全く彼らしい人の善い氣輕な氣持を有つてゐる。それにこの作の中に愛情を有つ彼が愉快げに佇んでゐるのが行間に泌み出てゐる。
「――お孃さんは今目の前に立つた。保吉は頭を擡げたまま、まともにお孃さんの顏を眺めた。お孃さんもぢつと彼の顏へ落着いた目を注いでゐる。二人は顏を見合せたなり、何ごともなしに行き違はうとした。」「丁度その刹那だつた。彼はお孃さんの目に何か動搖に似たものを感じた。同時に又殆ど體中にお時儀をしたい衝動を感じた。」彼の謂ふところの簡潔と壓搾とが遺憾なく表現され、その折の氣もちが鮮鋭に透つてゐる。彼は此のお孃さんを可成高びしやな、上から見卸すやうにしてゐながら、遂にお時儀をしたい衝動を感じてゐるところに、彼らしい氣もちが出てゐる。これだけに絞つて書くことは却々なかなか容易なことではない。
 彼の文章に型のあることはあらゆる作家に型のあると又同樣である。倂し乍ら彼の型は彼を苦しめはすれ樂にはさせてゐない、大槪の作家は樂々と型に這入つて行くが、彼はいつも身煩みもだえをしてその型の中へ這入つて行く。しかも「玄鶴山房」あたりには、型の角がとれてゐた。内側から型にふくらみを付けたことは實際である。内容が文章の上へ出てゐる、――文章が下地になつてきらきらしてゐることに氣がつく、誰でもかうなるとは決つてゐない。
「彼等は竃に封印した後、薄汚い馬車に乘つて火葬場の門を出ようとした。すると意外にもお芳が一人、煉瓦塀の前に佇んだまゝ、彼等の馬車に目禮してゐた。重吉はちよつと狼狽し、彼の帽を上げようとした。しかし彼等を乘せた馬車はその時にはもう傾きながら、ポプラの枯れた道を走つてゐた。」又甲野といふ看護婦を描くのに、彼は刺し徹すやうな數行を四の末端で結んでゐる。彼の簡潔の中に並々ならぬ深い用意のあることを感じる。「お鈴の聲は「離れ」に近い緣側から響いて來るらしかつた。甲野はこの聲を聞いた時、澄み渡つた鏡に向つたまゝ、始めてにやりと冷笑を洩らした。それからさも驚いたやうに「はい唯今」と返事をした。」彼の諸種の作品の内でこの數行の如き透徹と冷嚴のうまみは、容易に見出せるものではない、殊に第二聯の逆手を打つた逆描の冴えは、他人は知らず自分の推賞したいところである。全く歷々と目に見えるまでに描いてゐる。かういふ彼の中にあまさヽヽヽは微塵もなくぎりぎりに詰めてゐる。
 彼の描く人生の量や幅や深淺の程度は、いつも文章と喰ひちがひなく嵌り込み、食み出してゐるところは少しもない。「點鬼簿」は「點鬼簿」以外のものではなく、さながらの過去帳であり點鬼簿である。そのまま四六判の書物になり小穴隆一の裝幀を思ふほど、四六判へ、辷つて行く作がらである。彼のどの作も金緣の額へではなく好ましい額ぶちへはまり込んでゐる。
 彼のどの作にも同じい種類の人生、同じい生活の再出は見られぬ。一作ごとに何等かの變化を全然異つた人生を表はすことに苦心してゐる。樂なものを後方に左うでない難しいものへ進んでゆくことは特記に價する。絕えず毛色の違つたものへの進展は、樂々と書けさうなものを後囘しにさせてゐる。しかも彼は彼の自敍傳らしいものにほとんど手をつけてゐない。作家の最初に手を付けるものを彼は最後に囘してゐるのも、奧床しくないことはない。「就中恐る可きものは停滯だ、いや藝術の境に停滯といふことはない。進步しなければ必ず退步だ。藝術家が退步する時、常に一種の自動作用が始まる。と云ふ意味は、同じやうな作品ばかりを書く事だ。」彼はさうも言ひ停滯の危險なことを警戒してゐる。藝術家の死に瀕してゐるものは同じ事ばかりを書く事であることを言つてゐる。
 彼のどの作も彼自身に取り又私だけの見方としては、何時も試みらしい作のやうに思へてならなかつた。絕えず材料の轉換に悶えてゐる彼には、作を透してさへ其等の氣持がぢかに感じられてゐた。あらゆる作家の内で彼ほど描かれた小說の事がら以外に、彼の「藝術」を感じられる作家は殆稀れなやうである。何か彼らしいものを(これは一種の文章がもつ人格的なものかも知れない。)自分はその小說以外に感じられてならなかつた。これは志賀の場合にも感じられる氣魂的な文章のもつ靈魂みたいなものである。決して亡靈ではない。(文章の靈魂とは變な言葉であるが、さういふものは存在してゐるやうな氣がするのだ。他の何者にもそれがなくとも文章にはその靈魂がこもつてゐるやうに思ふ。)恐らく彼の文章は次第に「玄鶴山房」に見るがやうに、殆内容を盛るだけの用を爲すに停まり、在來の文章そのものの肉を避けて行くやうになるであらう。文章のすぢばかりを彼一流の氣魂で練り上げて行くやうになるに違ひない。
 彼の名文家でないことは述べたが、しかも彼は大正時代に於て文章が單なる文章の肉を必要としないところの、淸瘠せいせきの一文態を築き上げたこと、その一文態は在來の描寫が有つ病的なほど過剩された文字の堆積から、完全に隔れた一新樣式を練り上げたことは認めてよいことである。あれだけの文章はただ簡勁だといふに片づけてはならぬ。あれだけのものを今日に於て築き上げたことは誰も氣付いてゐないやうである。しかも其等の文章は第三期新進諸君(同人雜誌)のために、最もよき踏臺となつてゐることを自分は注意して見てゐるものである。あらゆる文章の進んでゆく速度は恐らく十年目くらゐに或變化を與へてゐる。硯友社時代と獨步時代、そして大正時代との間に徴しても明らかである。今後十年近くの間に變化が起るとすればわが龍之介の壓搾の美も、彼らには可成な健實な踏臺となるに違ひない。あらゆる藝術的なるものは次の時代の足つぎになることに存在するからである。
 此の小論を書くにあたり諸家の高名を禍したことは、作者の至らざるところであり、作者の至らざるところは文章の至らざるところである。豫めお詫びして置く。


やぶちゃん版 室生犀星「芥川龍之介の人と作」 了