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「心朽窩新館」

尾形龜之助第三詩集「障子のある家」

               恣意的正字化版(附 初出稿復元)

[やぶちゃん注:底本は一九九九年思潮社刊の秋元潔編「尾形亀之助全集 増補改訂版」を用いたが、上記の通り、恣意的に漢字を概ね正字化した。それが少なくとも戦前の刊行物の場合、より詩人の書いた原型に近い物ものとなると信ずるからである。
 本詩集の内、九篇(「後記」を含む)は初出(再録・再々録を含む)と相違が認められ、それが底本では「異稿対照表」として掲げられている。本電子化では、当該決定稿の後に、それらを復元して示すこととする。新字のものは実は既に七年前にブログで「尾形亀之助詩集『障子のある家』所収の詩の初出形9篇」として電子化している。そこでの注はまた、自ずと現在の私とはことなる感覚があるように思われるので、そちらも参照されたい。ブログ・カテゴリ「尾形亀之助」もどうぞ。
 以上の二点に於いて、本電子テクストはネット上に現存する如何なる「雨になる朝」とも異なるものとなる。【二〇一六年十一月十六日 藪野直史】
【二〇二二年十二月二十八追記 藪野直史】「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で、尾形龜之助の第三詩集「障子のある家」(限定版。但し、昭和二三(一九四八)年再版本。初版は昭和五(一九三〇)年九月発行の私家版で限定七十部の非売品)の画像を全篇見ることが出来るようになったことから、それを視認して再版本を視認して、新たに、『尾形龜之助詩集「障子のある家」原本(昭和二三(一九四八)年再版本)準拠正規表現版・藪野直史作製・注附き』(1.82MB)を公開した。そちらが私の決定版となる。但し、自身の作業の変遷過程として、横書の本ページは残し(原本とは異なる正字の相違はそのまま敢えて残した)、一部の誤字を訂し、私の推理の一部の誤り(一部は私の推理通りであったことを言い添えておく)を取消線で示し、このページを残すこととする。]
 
 
 
障子のある家
 
 
 
 
    
自序
 
 何らの自己の、地上の權利を持たぬ私は第一に全くの住所不定へ。それからその次へ。
 私がこゝに最近二ケ年間の作品を隨處に加筆し又二三は改題をしたりしてまとめたのは、作品として讀んでもらうためにではない。私の二人の子がもし君の父はと問はれて、それに答へなければならないことしか知らない場合、それは如何にも氣の毒なことであるから、その時の參考に。同じ意味で父と母へ。もう一つに、色々と友情を示して吳れた友人へ、しやうのない奴だと思つてもらつてしもうために。

  
尚、表紙の綠色のつや紙は間もなく變色しやぶけたりして、この面はゆい一册の本を古ぼけたことにするせう。

[やぶちゃん注:「もらう」「しもう」や「古ぼけたこと」の「こと」はママ。
 私はこのエピグラム、

何らの自己の、地上の權利を持たぬ私は第一に全くの住所不定へ。それからその次へ。

及び本詩集奥付の書名の左脇に小さく記された、
 
あるひは(つまづく石でもあれば私はそこでころびたい)
 
を偏愛する、惨めな「生」を享けた人間と自認している。]
 
 
 
    
三月の日
 
 晝頃寢床を出ると、空のいつものところに太陽が出てゐた。何んといふわけもなく氣やすい氣持になつて、私は顏を洗らはずにしまつた。
 陽あたりのわるい庭の隅の椿が二三日前から咲いてゐる。
 机のひき出しには白銅が一枚殘つてゐる。
 障子に陽ざしが斜になる頃は、この家では便所が一番に明るい。
  
 [やぶちゃん注:初出は昭和四(一九二九)年十二月刊の「学校詩集」(学校詩集刊行所刊)で、翌昭和五年一月刊の「新興詩人選集」(文芸社)にも再録されたが、そこでは以下の通り(と推定。対照表表記が不全であるため)。
   *
 
    
三月の日
 
 晝頃寢床を出ると、空のいつものところに太陽が出てゐた。何んといふわけもなく氣やすい氣持ちになつて、私は顏を洗らはずにしまつた。
 陽あたりのわるい庭の隅の椿が二三日前から咲いてゐる。
 ひき出しには白銅が一枚殘つてゐる。

 切り張りの澤山ある障子に陽ざしが斜めになる頃は、この家では便所が一番明るい。

   *]
 
 
 
    
五月
 
 鳴いてゐるのは雞だし、吹いてゐるのは風なのだ。部屋のまん前までまはつた陽が雨戶のふし穴からさし込んでゐる。
 私は、飯などもなるつたけは十二時に晝飯といふことであれば申分がないのだと思つたり、もういつ起き出ても外が暗いやうなことはないと思つたりしてゐた。昨夜は犬が馬ほどの大きさになつて荷車を引かされてゐる夢を見た。そして、自分の思ひ通りになつたのをひどく滿足してゐるところであつた。
 
 から瓶につまつてゐるやうな空氣が光りをふくんで、隣家の屋根のかげに櫻が咲いてゐる。雨戶を開けてしまふと、外も家の中もたいした異ひがなくなつた。
 筍を煮てゐると、靑いエナメルの「押賣お斷り」といふかけ札を賣りに來た男が妙な顏をして玄關に入つてゐた。そして、出て行つた私に默つて札をつき出した。煮てゐる筍の匂ひが玄關までしてきてゐた。斷つて臺所へ歸ると、今度は綿屋が何んとか言つて臺所を開けた。半ずぼんに中折なんかをかぶつてゐるのだつた。後ろ向きのまゝいゝかげんの返事をしてゐたら、綿の化けものは戶を開けたまゝ行つてしまつた。
 
[やぶちゃん注:「雞」は「にわとり」で底本の用字である。本作は昭和四(一九二九)年四月発行の『学校』第五号を初出とし、そこでは題名が「題はない」であり、その後、同年十二月刊の「学校詩集」及び同月文書堂刊の「全日本詩集」(東亜学芸協会編)にそれぞれ再録されている。後者の二冊では孰れも題名は決定稿と同じ「五月」となっている。以下に初出形として「題はない」で示す。秋元氏の対照表には不審な箇所があり(詩篇本文全体を表示しておらず、空行が本当に初出形の空行なのかどうかが、不分明であったりする)、果たして決定稿の空行が初出にあるのかどうかやや不審なのであるが、総合的に判断して空けておいた。
   *
 
    
題はない
 
 鳴いてゐるのは雞だし、吹いてゐるのは風なのだ。部屋のまん前までまはつた陽が雨戶のふし穴からさし込んでゐる。
 私は、飯などもなるつたけは十二時に晝飯といふことであれば申分がないのだと思つたり、もういつ起き出ても外が暗いやうなことはないと思つたりしてゐた。昨夜は犬が馬ほどの大きさになつて荷車を引かされてゐる夢を見た。そして、自分の思ひ通りになつたのをひどく滿足してゐるところであつた。
 今朝も、長い物指のようなもので寢てゐて緣側の雨戶を開けたいと思つた。もしそんなことで雨戶が開くのなら、さつきからがまんしてゐる便所へも行かずにすむような氣がしてゐたが、床の中で力んだところで、もともと雨戶が開くはずもなく結極はこらひきれなくなつた。

 から瓶につまつてゐるやうな空氣が光りをふくんで、隣家の屋根のかげに櫻が咲いてゐる。雨戶を開けてしまふと、外も家の中もたいした異ひがなくなつた。
 筍を煮てゐると、靑いエナメル塗りの「押賣お斷り」といふかけ札を賣りに來た男が顏の感じの失せた顏をして玄關に入つてゐた。そして、出て行つた私にだまつて札をつき出した。煮てゐる筍の匂ひが玄關にもしてきてゐた。――私は筍のことしか考へてゐないのに、今度は綿屋が何んとか言つて臺所を開けた。半ずぼんヽヽヽヽに中折れなんかかぶつてゐるのは綿の化けものなのだからだらう。いいかげんの返事をしてゐたら、綿の化けものは戶をあけたまま行つてしまつた。

   *
「長い物指のようなもので」「行かずにすむような氣がしてゐたが」の二箇所の「ような」はママ、「結極」も「こらひきれなくなつた」もママである。老婆心乍ら、詩人は「長い物指のようなもの」を使って「寢」たままで「緣側の雨戶を開けたいと思つた」のである。「異ひ」は「ちがひ」。
 本作は一読、寺山修司にでも映像化させてみたくなるような、すべて事実なのかも知れぬが、何とも言えない一種、サイケデリックな映像で、大いに好きである。]
 
 
 
    
秋冷
 
 寢床は敷いたまゝ雨戶も一日中一枚しか開けずにゐるやうな日がまた何時からとなくつゞいて、紙屑やパンのかけらの散らばつた暗い部屋に、めつたなことに私は顏も洗らはずにゐるのだつた。
 なんといふわけもなく痛くなつてくる頭や、鋏で髯を一本づゝつむことや、火鉢の中を二時間もかゝつて一つ一つごみを拾ひ取つてゐるときのみじめな氣持に、夏の終りを降りつゞいた雨があがると庭も風もよそよそしい姿になつてゐた。私は、よく晴れて淸水のたまりのやうに澄んだ空を厠の窓に見て朝の小便をするのがつらくなつた。
 
[やぶちゃん注:本作は昭和四(一九二九)年十一月発行の『門』第六号を初出とし、その後、同年十二月刊の「学校詩集」及び翌昭和五年四月金星堂刊の「日本現代詩選」にそれぞれ再録されている。初出形は以下の通り。
   *
 
    
秋冷
 
 寢床は敷いたまゝ雨戶も一日中一枚しか開けずにゐる紙屑やパンのかけらの散らばつた暗い部屋に、めつたなことに私は顏も洗らはずにゐるのだつた。
 なんといふわけもなく痛くなつてくる頭や、鋏で髯を一本づゝつむことや、火鉢の中を二時間もかゝつて一つ一つごみを拾ひ取つてゐるときのみじめな氣持に、夏の終りを降りつゞいた雨があがると庭も風もよそよそしい姿になつてゐた。私は、よく晴れて淸水のたまりのやうに澄んだ明るい空を厠の窓に見て朝の小便をするのがつらくなつた。

   *
「寢床は敷いたまゝ雨戶も一日中一枚しか開けずにゐる紙屑やパンのかけらの散らばつた暗い部屋に」の「ゐる紙屑」の連続はママ。後段は「空」の前に「明るい」が入っている点で異なる。
 本篇の上手さは、最後の「私は、よく晴れて淸水のたまりのやうに澄んだ明るい空を厠の窓に見て朝の小便をするのがつらくなつた。」の一文の「つらくなつた」という感懐収斂に極まる。私は優れた漢詩の結句の感懐表現を示す一字を読み終えた瞬間の戦慄のようなものをこの一篇に感ずるのである。]
 
 
 
    
ひよつとこ面
 
 納豆と豆腐の味噌汁の朝飯を食べ、いくど張りかへてもやぶけてゐる障子に圍まれた部屋の中に一日机に寄りかゝつたまゝ、自分が間もなく三十一にもなることが何のことなのかわからなくなつてしまひながら「俺の樂隊は何處へ行つた」とは、俺は何を思ひ出したのだらう。此頃は何一つとまとまつたことも考へず、空腹でもないのに飯を食べ、今朝などは親父をなぐつた夢を見て床を出た。雨が降つてゐた。そして、醉つてもぎ取つて來て鴨居につるしてゐた門くゞりのリンに頭をぶつけた。勿論リンは鳴るのであつた。このリンには、そこへつるした日からうつかりしては二度位ひづつ頭をぶつつけてゐるのだ。火鉢、湯沸し、坐ぶとん。疊のやけこげ。少しかけてはゐるが急須と茶わんが茶ぶ臺にのつてゐる。しぶきが吹きこんで一日中緣側は濕つけ、時折り雨の中に電車の走つてゐるのが聞えた。夕暮近くには、自分が日本人であるのがいやになつたやうな氣持になつて坐つてゐた。そして、火鉢に炭をついでは吹いてゐるのであつた。
 
[やぶちゃん注:本篇は昭和五(一九三〇)年二月発行の『文芸月刊』第一巻一号を初出とし、その後、同年年四月金星堂刊の「日本現代詩選」に再録されている。初出形は以下の通りで、題名が異様に長い。これも対照表に疑義がある。秋元潔氏のそれは、あたかも詩集決定稿とは別の詩集用草稿があるかのようにもとれる書き方をされておられるからであるが、それを問題にし出すと、校合が出来なくなるので、対照表の「詩集稿」は詩集決定稿と読み換えざるを得ず、向後はこの疑問は記さないこととする(正直、過去、私は「色ガラスの街」をヴァーチャルに復元した際に、底本の編者である秋元氏の校訂には驚くべきミスが多数あることが判明しているのである)。なお、この初出本篇は新字で既に「尾形龜之助拾遺詩集 附やぶちゃん注」に公開してある。
   *
 
    
障子のある家 (假題)――自叙轉落する一九二九年のヘボ詩人・其七
 
 納豆と豆腐の味噌汁の朝飯を食べ、いくど張りかへてもやぶけてゐる障子に圍まれた部屋の中に半日も机に寄りかゝつたまゝ、自分が間もなく三十一にもなることが何のことなのかわからなくなつてしまひながら「俺の樂隊は何處へ行つた」とは、俺は何を思ひ出したのだらう。此頃は何一つとまとまつたことも考へず、空腹でもないのに飯を食べ、今朝などは親父をなぐつた夢を見て床を出た。雨が降つてゐた。そして、醉つてもぎ取つて來て鴨居につるしてゐた門くゞりのリンに頭をぶつけた。勿論リンは鳴るのであつた。このリンには、そこへつるした日からうつかりしては二度位ひづつ頭をぶつつけてゐるのだ。火鉢、湯沸し、坐ぶとん。疊のやけこげ。少しかけてはゐるが急須と茶わんが茶ぶ臺にのつてゐる。しぶきが吹きこんで一日中緣側は濕つけ、時折り雨の中に電車の走つてゐるのが聞えた。夕暮近くには、自分が日本人であるのがいやになつたやうな氣持になつて坐つてゐた。わけもなく火鉢に炭をついでゐるのであつた。
 
   *
「自叙」は底本のままとしたが、「自敍」かもしれない。「其七」の他の六篇が何を指すか不詳であるが、少なくとも次の「詩人の骨」の初出題名「詩人の骨(假題)轉落する一九二九年ヘボ詩人の一部」というのはその詩群に属する一篇と推測してよかろう。]
  
 
 
    
詩人の骨
 
 幾度考へこんでみても、自分が三十一になるといふことは困つたことにはこれといつて私にとつては意味がなさそうなことだ。他の人から私が三十一だと思つてゐてもらうほかはないのだ。親父の手紙に「お前はもう三十一になるのだ」とあつたが、私が三十一になるといふことは自分以外の人達が私をしかるときなどに使ふことなのだらう。又、今年と去年との間が丁度一ケ年あつたなどいふことも、私にはどうでもよいことがらなのだから少しも不思議とは思はない。几帳面な隣家のおばさんが每日一枚づつ丁寧にカレンダーをへいで、間違へずに殘らずむしり取つた日を祝つてその日を大晦日と稱び、新らしく柱にかけかへられたカレンダーは落丁に十分の注意をもつて綴られたゝめ、又何年の一月一日とめでたくも始まつてゐるのだと覺えこんでゐたつていゝのだ。私は來年六つになるんだと言つても誰もほんとうにはしまいが、殊に隣家のおばさんはてんで考へてみやうともせずに暗算で私の三十一といふ年を數へ出してしまうだらう。
 だが、私が曾て地球上にゐたといふことは、幾萬年かの後にその頃の學者などにうつかり發掘されないものでもないし、大變珍らしがられて、骨の重さを測られたり料金を拂らはなければ見られないことになつたりするかも知れないのだ。そして、彼等の中の或者はひよつとしたら如何にも感に堪へぬといふ樣子で言ふだらう「これは大昔にゐた詩人の骨だ」と。
 
[やぶちゃん注:「意味がなさそうなことだ」の「なさそう」、「思つてゐてもらう」の「もらう」、「誰もほんとうにはしまいが」の「ほんとう」、「數へ出してしまうだらう」の「しまう」は総てママ。「稱び」は「よび」と訓じていよう。なお、『そして、彼等の中の或者はひよつとしたら如何にも感に堪へぬといふ樣子で言ふだらう「これは大昔にゐた詩人の骨だ」と』の「だらう」の後に句読点等はない。
 本篇は昭和五(一九三〇)年一月発行の『詩と散文』第一号を初出とし、前の一篇と同様、題名が異様に長い。
   *
 
    
詩人の骨 (假題)轉落する一九二九年ヘボ詩人の一部
 
 自分が三十一になるといふことを俺にはどうもはつきり言ひあらはせない。困つたことには三十一といふことはこれといつて俺にとつては意味がなささうなことなのだ。他の人から「私が三十一だ」と言つてもらうほかはないのだ。
 今年と去年との間が丁度一ケ年あつたなどいふことも、俺にはどうでもよいことがらなのだから不思議だとは思はない。隣家で、カレンダーを一枚殘らずむしり取つて新らしく柱にかけたのに一九三〇年一月×日とあつたといふにすぎない。つまり「俺は來年六ツになるのだ」と言つても、誰も(殊に隣家のおばさんは)ほんとうにしないのと同じことなのだ。
 だが、俺が曾て地球上にゐたといふことが、どんなことで名譽あることにならぬとは限るまい。幾萬年かの後に、その頃の學者などにうつかり發掘されないものでもないし、大變珍らしがられるかもしれないのだ。そして、彼等はひよつとすると言ふだらう「これは大昔にゐた詩人の骨だ」と。
   *
ここでも第一段落の「もらう」、第二段落の「ほんとう」はママである。
 なお、今回は、校異表の以上の初出稿の末尾にある『(以上、全篇)』を、編者秋元潔氏による注記で、以上は対照表にあるものが欠落のない全文の意であると判断して、かく電子化した。但し、同初出の各段落の行頭一字空けはないが、これは、他の対照表の記載でも同様の処理がなされてあるので、一字空けがあると見做したことを述べておく。]
 
 
 
    
年越酒
 
 庭には二三本の立樹がありそれに雀が來てとまつてゐても、住んでゐる家に屋根のあることも、そんなことは誰れにしてみてもありふれたことだ。冬は寒いなどといふことは如何にもそれだけはきまりきつてゐる。俺が詩人だといふことも、他には何の役にもたゝぬ人間の屑だといふ意味を充分にふくんでゐるのだが、しかも不幸なまはり合せにはくだらぬ詩ばかりを書いてゐるので、だんだんには詩を書かうとは思へなくなつた。「ツェッペリン」が飛んで來たといふことでのわけのわからぬいさましさも、「戰爭」とかいふ映畫的な奇蹟も、片足が途中で昇天したとかいふ「すばらしい散步」――などの、そんなことさへも困つたことには俺の中には見あたらぬ。
 今日は今年の十二月の末だ。俺は三十一といふ年になるのだ。人間といふものが惰性に存在してゐることを案外つまらぬことに考へてゐるのだ。そして、林檎だとか手だとか骨だとかを眼でないところとかでみつめることのためや、月や花の中に戀しい人などを見出し得るといふ手腕でや、飯が思ふやうに口に入らぬといふ條件つきなどで今日「詩人」といふものがあることよりも、いつそのこと太古に「詩人」といふものがゐたなどと傳說めいたことになつてゐる方がどんなにいゝではないかと、俺は思ふのだ。しかし、それも所詮かなはぬことであるなれば、せめて「詩人」とは書く人ではなくそれを讀む人を言ふといふことになつてはみぬか。
 三十一日の夜の街では「去年の大晦日にも出會つた」と俺に挨拶した男があつた。俺は去年も人ごみの中からその男に見つけ出されたのだ。俺は驚いて「あゝ」とその男に答へたが、實際俺はその人ごみの中に自分の知つてゐる者が交つてゐるなどといふことに少しも氣づかずにゐたのだ。これはいけないといふ氣がしたが、何がいけないのか危險なのか、兎に角その人ごみが一つの同じ目的をもつた群集であつてみたところが、その中に知つてゐる顏などを考へることは全く不必要なことではないか。人間一人々々の顏形の相異は何時からのことなのか、そんなことからの比較に生ずることのすべてはない方がいゝのだ。一つの型から出來た無數のビスケツトの如く、一個の顏は無數の顏となり「友人」なることの見わけもつかぬことにはならぬものか。そして、友情による人と人の差別も、戀愛などといふしみつたれた感情もあり得ぬことゝなつてしまふのがよいのだ。
 
[やぶちゃん注:第二段落末尾近くの「それも所詮かなわぬことであるなれば」はママであるが、必ずしも文法的に破格でもない。ここを順接の仮定条件ではなく、「それも所詮はかなわぬということなのであってみれば」という意味でとるならば(そのニュアンスの方がむしろ強い気がするくらいである)、古語の已然形接続の接続助詞「ば」の順接の確定条件の用法として、おかしくはないからである。
 本篇は昭和五(一九三〇)年二月発行の『門』第七号を初出とし、翌三月発行の『詩文学』第一巻第六号、及び翌昭和六(一九三一)年六月詩文学社刊の「現代新詩集」に再録されているがそれらでは題名が異なり、それは以下に示す通り、本詩集冒頭のエピグラムとほぼ相同な副題を持つ「標」(「しるべ」と訓じておく)である。これも私は既に「尾形龜之助拾遺詩集 附やぶちゃん注」に新字で公開し、そこで詩篇の内容についても注も附しているが、今回は恣意的に正字に直した形で初出を示し、そこでの注も再掲しておく。
   *
 
     
――(躓く石でもあれば、俺はそこでころびたい)――
 
 庭には二三本の立樹がありそれに雀が來てとまつてゐても、住んでゐる家に屋根のあることも、そんなことは誰れにしてみてもありふれたことだ。冬は寒いなどといふことは如何にもそれだけはきまりきつてゐる。俺が詩人だといふことも、他には何の役にもたゝぬ人間の屑だといふ意味を充分にふくんでゐるのだが、しかも不幸なまはり合せにはくだらぬ詩ばかりを書いてゐるので、だんだんには詩を書かうとは思へなくなつた。「ツェッペリン」が飛んで來たといふことでのわけのわからぬいさましさも、「戰爭」とかいふ映畫的な奇蹟も、片足が昇天したとかいふ「すばらしい散步」――などの、そんなことさへも困つたことには俺の中には見あたらぬ。
 今日は今年の十二月の末だ。俺は三十一といふ年になるのだ。人間というものが惰性に存在してゐることを案外つまらぬことに考へてゐるのだ。そして、林檎だとか手だとか骨だとかを眼でないところとかでみつめることのためや、月や花の中に戀しい人などを見出し得るといふ手腕でや、飯が思ふやうに口に入らぬといふ條件つきなどで今日「詩人」といふものがあることよりも、いつそのこと太古に「詩人」といふものがゐたなどと傳說めいたことになつてゐる方がどんなにいゝではないかと、俺は思ふのだ。しかし、それも所詮かなはぬことであるなれば、せめて「詩人」とは書く人ではなくそれを讀む人を言ふといふことになつてはみぬか。
 三十一日の夜の街では「去年の大晦日にも出會つた」と俺に挨拶した男があつた。俺は去年も人ごみの中からその男に見つけ出されたのだ。俺は驚いて「あゝ」とその男に答へたが、實際俺はその人ごみの中に自分の知つてゐる者が交つてゐるなどといふことに少しも氣づかずにゐたのだ。これはいけないといふ氣がしたが、何がいけないのか危險なのか、兎に角その人ごみが一つの群集であつてみたところが、その中に知つてゐる顏などを考へることは全く不必要なことではないか。人間一人々々の顏形の相異は何時からのことなのか、そんなことからの比較に生ずることのすべてはない方がいゝのだ。一つの型から出來た無數のビスケツトの如く、人一個の顏は數萬の顏となり更に幾萬かの倍加に「友人」なることの見わけもつかぬことにはならぬものか。そして、「友人」などといふ友情に依る人と人の差別も、戀愛などといふしみつたれた感情もあり得ぬことになつてしまはぬものか。
 
   *
 さて、本詩の『「戦争」とかいふ映画的な奇蹟も、片足が途中で昇天したとかいふ「すばらしい散步」』という私にとって永く不明であった箇所について、美事な解釈(「未詳」「当てずっぽう」と謙遜されているが)が二〇〇七年河出書房新社刊の正津勉「小説 尾形亀之助」でなされている。なお、正津氏は句読点用法が独特である。私のタイプ・ミスではないので一言断わっておく)。
   《引用開始》
 前者は、北川冬彦詩集『戦争』(昭和四年三月刊)では。ここで「映画的な奇蹟」とある、これはときに北川が標榜した前衛詩運動なる代物しろもの「シネ・ポエム」への嘲笑ではないか(じつはこのころ全章でみたように北川と亀之助のあいだで『雨になる朝』をめぐり意見の対立をみている)。
 後者は、あやふやなのだがこれは安西冬衛のことをさすのでは。これは「片足が途中で昇天した」うんぬんから、なんとなれば安西が隻脚であること。やはりこの三月、詩集『軍艦茉莉』が刊行されている。前章でもみたが亀之助はこれを絶賛している。「『軍艦茉莉』安西冬衛はすばらしい詩集を出した」と。だとすると「すばらしい散歩」とは散歩もままならない安西への声援となろうか。ほかに懇切な書評「詩集 軍艦茉莉」(『詩神』昭和五年八月)もある。
   《引用終了》
やや、最後の「安西への声援」という謂いには微妙に留保をしたい気がするが、正津氏の解釈はこの詩の最も難解な部分を確かに明快に解いてくれている。前章云々の話は、是非、本書を購入してお読みあれ。なお、同書によれば、チェッペリン飛行船
Zeppelin が日本に飛来したのは、昭和四年八月で『新聞各誌には「けふ全市を挙げてツエペリン・デーと化す/三百万の瞳が大空を仰いで/待ちこがれる雄姿!」などと熱く見出しが躍った』とする。
 しかし、私がこの詩を愛するのは、第二段の末尾の、『いつそのこと太古に「詩人」といふものがゐたなどと伝說めいたことになつてゐる方がどんなにいゝではないかと、俺は思ふのだ。しかし、それも所詮かなわぬことであるなれば、せめて「詩人」とは書く人ではなくそれを讀む人を言ふといふことになつてはみぬか』という詩と詩人を巡る存在論の鋭さ故である。そうして第三段末尾の、『人間一人々々の顏形の相異は何時からのことなのか、そんなことからの比較に生ずることのすべてはない方がいゝのだ。一つの型から出來た無數のビスケツトの如く、一個の顏は無數の顏となり「友人」なることの見わけもつかぬことにはならぬものか。そして、友情による人と人の差別も、戀愛などといふしみつたれた感情もあり得ぬことゝなつてしまふのがよいのだ』という、思い切った「ノン!」の拒絶の小気味よさ故である――しかしそれはまさに「全くの住所不定へ。さらにその次へ」(「詩集「障子のある家」の自序より)という強烈な覚悟の中にある凄絶な小気味よさであることを忘れてはならないのだが――。
 最後に、本篇の原題が実は「障子のある家」「あるひは(つまづく石でもあれば私はそこでころびたい)」(本ページ最後を参照)であることは、本詩がこの「詩集」に持つ重要な位置を再検討すべきことを示唆している。]
 
 
 
    

 
 屋根につもつた五寸の雪が、陽あたりがわるく、三日もかゝつて音をたてゝ桶をつたつてとけた。庭の椿の枝にくゝりつけて置いた造花の椿が、雪で糊がへげて落ちてゐた。雪が降ると街中を飮み步きたがる習癖を、今年は錢がちつともないといふ理由で、障子の穴などをつくろつて、火鉢の炭團をつゝいて坐つてゐたのだ。私がたつた一人で一日部屋の中にゐたのだから、誰も私に話かけてゐたのではない。それなのになんといふ迂濶なことだ。私は、何かといふとすぐ新聞などに馬車になんか乘つたりした幅の廣い寫眞などの出る人を、ほんとうはこの私である筈なのがどうしたことかで取り違へられてしまつてゐるのでは、なかなか容易ならぬことだと氣がついて、自分でそんなことがあり得ないとは言へきれなくなつて、どうすればよいのかと色々思案をしたり、そんなことが事實であれば自分といふものが何處にもゐないことになつてしまつたりするので、困惑しきつて何かしきりにひとりごとを言つてみたりしてゐたのだつた。
 水鼻がたれ少し風邪きみだといふことはさして大事ないが、何か約束があつて生れて、是非といふことで三十一にもなつてゐるのなら、たとへそれが來年か明後年かのことに就てゞあつても、机の上の時計位ひはわざわざネジを卷くまでもなく私が止れといふまでは動いてゐてもよいではないのか。人間の發明などといふものは全くかうした不備な、ほんとうはあまり人間とかゝはりのないものなのだらう。――だが、今日も何時ものやうに俺がゐてもゐなくとも何のかはりない、自分にも自分が不用な日であつた。私はつまらなくなつてゐた。氣がつくと、私は尾形といふ印を兩方の掌に押してゐた。ちり紙を舐めてこすると、そこは赤くなつた。

[やぶちゃん注:「ほんとう」(二箇所)、「言へきれなくなつて」の「言へ」、「位ひ」の「ひ」、「ネジ」(歴史的仮名遣では「ネヂ」)は総てママ。「今日も何時ものやうに俺がゐてもゐなくとも何のかはりない」の「俺」(ここだけの一人称。他は「私」)はママ。
 本篇は昭和五(一九三〇)年五月発行の『旗魚』第六号を初出とし、そこでは題名も異なる。以下に取り敢えず、底本「異稿対照表」の指示にのみ基づいて復元してみる。
   *
 
    
俺は自分の顏が見られなくなつた
 
 屋根につもつた五寸の雪が、陽あたりがわるく、三日もかゝつて音をたてゝ桶をつたつてとけた。庭の椿の枝にくゝりつけて置いた造花の椿が、雪で糊がへげて落ちてゐた。雪が降ると街中を飮み步きたがる習癖を、今年は錢がちつともないといふ理由で、障子の穴などをつくろつて、火鉢の炭團をつゝいて坐つてゐたのだ。私がたつた一人で一日部屋の中にゐたのだから、誰も俺に話かけてゐたのではなかつたのか。それなのになんといふ迂濶なことだ。私は、何かといふとすぐ新聞などに馬車になんか乘つたりした幅の廣い寫眞などの出る人を、ほんとうはこの私である筈なのがどうしたことかで取り違へられてしまつてゐるのでは、なかなか容易ならぬことだと氣がついたのだ、そして、自分でそんなことがあり得ないとは言へきれなくなつて、どうすればよいのかと色々思案をしたり、そんなことが事實であれば自分といふものが何處にもゐないことになつてしまつたりするので、困惑しきつて何かしきりにひとりごとを言つてみたりしてゐたのだつた。
 水鼻がたれ少し風邪きみだといふことはさして大事ないが、何か約束があつて生れて、是非といふことで三十一にもなつてゐるのなら、たとへそれが來年か明後年かのことに就いてゞあつても、机の上の時計ぐらひはネヂをわざわざ卷くまでもなく俺がとまれといふまでは動いてゐてもよいではないのか。人間の發明などといふものは全くかうした不備な、ほんとうはあまり人間とかゝはりのないものなのだらう。――だが、今日も新聞には俺のことを何も書いてはゐない、そして、何が「――これならば」なのか、俺は尾形といふ印を兩方の掌に押してゐたのだつた。
 
   *
しかしながら、この異稿表には大きな疑問がある。まず、最初の異同箇所、第一段落の「誰も俺に話かけてゐたのではなかつたか。」の箇所であるが、ここを秋元氏は(下線はやぶちゃん)、
 
(初出稿)誰も俺に話かけてゐたのではなかつたか
(詩集稿)誰も私に話かけたゐたのではない
 
としているのであるが、最初に掲げた通り、詩集本文は「誰も私に話かけてゐたのではない」である点である。次に
 
第二段落の「ネジ」が初出稿も詩集稿も孰れも表では「ネヂ」と正しく表記されている
 
点、さらに言うなら、ご覧の通り、
 
初出稿でも一人称の「俺」の中に「私」(第一段落内に三箇所)も混在している
 
点である。
 尾形龜之助の旧全集は草野心平と秋元潔共編で底本と同じ思潮社から一九七〇年に出ている(私は所持しない)が、それを底本とした思潮社の現代詩文庫1005「尾形亀之助詩集」と、現行通用している秋元氏の「尾形龜之助全集 増補改訂版」とを比較してみると、後者ではママ注記が激しく減らされているだけでなく(これは底本「あとがき」でそれを減らした旨の記載はある。あるが、ただ振らなかったのか、そこを正字法に敢然と訂したのかは説明されていない。思うに、秋元氏は秋元氏の独断でそれらを使い分け、読者にはそれがブラック・ボックス化していると推定している)、一部は原典の脱字や誤記が注記なしに訂されているのではないかと深く疑われる箇所が全体に存在するのである。
 こうした不審を敷衍すると、この校異表が本当に正確なのかどうかが、疑われてくることは明白である。
 そうして以上から推察し得ることは、まず、
 
本篇の現行全集の本文の「ネジ」は正規表現の「ネヂ」で詩集「障子のある家」には記載されているのではないか?
 
という深い猜疑(但し、現代詩文庫版は「ネジ」である)と、初出復元しても残る三つの「私」も実は「俺」なのではないか? という不審があるということである。「障子のある家」をお持ちの方は是非、この私の疑義にお答え戴けると、恩幸、これに過ぎたるはないのだが……。
 
 
 
    
第一課 貧乏
 
 太陽は斜に、桐の木の枝のところにそこらをぼやかして光つてゐた。檜葉の陽かげに羽蟲が飛んで晴れた空には雲一つない。見てゐれば、どうして空が靑いのかも不思議なことになつた。緣側に出て何をするのだつたか、緣側に出てみると忘れてゐた。そして、私は二時間も緣側に干した蒲團の上にそのまゝ寢そべつてゐたのだ。
 私が寢そべつてゐる間に隣家に四人も人が訪づねて來た。何か土產物をもらつて禮を言ふのも聞えた。私は空の高さが立樹や家屋とはくらべものにならないのを知つてゐたのに、風の大部分が何もない空を吹き過ぎるのを見て何かひどく驚いたやうであつた。
 雀がたいへん得意になつて鳴いてゐる。どこかで遠くの方で雞も鳴いてゐる。誰がきめたのか、二月は二十八日きりなのを思ひ出してお可笑しくなつた。
 
[やぶちゃん注:「雞」は「にはとり」で尾形龜之助の好きな用字であり、ここは底本でも本字を用いている。本詩集刊行(九月刊)の昭和五(一九三〇)年は閏年ではなく、これ以前の閏年は昭和三年であるから、本詩篇初出時制(同年五月)から考えて、当年、この昭和五年の二月がシチュエーションと考えてよい。
 本篇は昭和五(一九三〇)年五月発行の『詩神』第一巻第五号を初出とし、そこでは題名も異なる。以下に示す。
   *
 
    
貧乏第一課
 
 太陽は斜に、桐の木の枝のところにそこらをぼやかして光つてゐた。檜葉の陽かげに羽蟲が飛んで晴れた空には雲一つない。見てゐれば、どうして空が靑いのかも不思議なことになつた。緣側に出て何をするのだつたか、緣側に出てみると忘れてゐた。そして、私は二時間も緣側に干した蒲團の上にそのまゝ寢そべつてゐたのだ。
 私が寢そべつてゐる間に隣家に四人も人が訪づねて來た。何か土產物をもらつて禮を言ふのも聞えた。私は空の高さが立樹や家屋とはくらべものにならないのを知つてゐたのに、風の大部分が何もない空を吹き過ぎるのを見て何かひどく驚いたやうであつた。
 雀がたいへん得意になつて鳴いてゐる。どこかで遠くの方で雞も鳴いてゐる。誰がきめたのか二月は二十八日きりなのを思ひ出してお可笑しくなつた。私は月拂いを今月も出來ぬのだ。
 
   *
削除された末尾の「月拂い」の「い」はママ。]
 
 
 
    
へんな季節

 次の日は雨。その次の日は雪。その次の日右の眼ぶたにものもらひが出來た。
 午後、部屋の中で錢が紛失した、そして、雨まじりの雪になつて二月の晦日が暮れた。
 少しでも拂らはふと思つてゐた肉屋と酒屋はへんに默つて歸つて行つた。
 私は坐つてゐれないのでしばらく立つてゐた。ないものはないのであつた。盜つたことも失くなつたことも、つまりは時間的なことでしかないやうだ。
 天井に雨漏りがしかけてきて、雨がやんだ。
 
 次の日いくぶん眼ぶたの腫がひいてゐた。
 朝のうちに陽が一寸出てすぐ曇つた。
 庭の椿が咲きかけてゐた。
 湯屋へ行くと、自分と似たやうな頭をした男が先に來て入つてゐるのだつた。晝の風呂は湯の音がするだけで、いつかうに湯げが立たない。そしてつゝぬけに明るい。誰かゞ入つて行つたまゝの乾いた桶やところどころしかぬれてゐないたゝきが、その男とたつた二人だけなので私の步くのにじやまになつて困つた。私よりも若いのに白く太つてゐるので、湯ぶねを出ると桃色に赤くなつたりするのだつた。
 湯屋を出ると、いつものやうに私のわきを自轉車が通つた。
 緣側に出て頸にはみ出してゐる髮をつんでゐると、友達が訪づねて來た。そして、金のない話から何か發明する話になんかなつた。
 友達が歸ると、又友達がやつて來た。十二時過ぎて何日目かで風呂に入るつもりで出かけて來たのが遲くなつたと言つて、歸りに手拭と石鹼をふところから出して見せた。
 あくびが出て、糊でねばしたやうに頭の後の方が一日中なんとなく痛かつた。一日が、ながい一時間であつたやうな日であつた。
 どしや降りになる雨を床の中で聞いてゐると、小學校にゐた頃の雨の日の控室や、ひとかたまりになつて押されて二階から馳け降りる階段の跫音が浮かんだ。寢てゐる足が重く、いくども寢がへりをして眠つた。
 風が吹いて、波頭が白くくづれてゐる海に、黑い服などを着た人達が乘つてゐるのに少しも吃水のない、片側にだけ自轉車用車輪をつけてゐる船が、いそがしく砂地になつてゐる波打際へ着いたり沖の方へ出て行つたりしてゐるのを見てゐると、水平線の黑い雲がひどい勢ひでおほいかぶさつてくるのであつた。私はその入江になつた海岸の土堤で、誰か四五人女の人なども一緖に蒲團をかぶつて風を避けてゐた。そしてしばらくして、暗かつた蒲團の中から顏を出すと、もうそこには海も船もなくなつてゐて、土堤にそつて一列に蒲團が列らんでゐるのであつた。
 明け方、小いさな地震が通つて行つた。
 雨はまだ朝まで降りつゞけてゐた。櫻草の鉢をゆうべ庭へ出し忘れてゐた。
 朝の郵便は家賃のさひそくの葉書を投げこんで行つた。
 もうひと頃ほど寒くはなくなつた。
 新聞は、雨の街を人力車などの走つてゐる寫眞をのせてゐた。
 夕飯にしやうかどうしやうかと思つてゐると、――暖かいには暖かいが、と隣家のふたをあけたまゝのラヂオが三味線をひいた後天氣豫報をやり出した。
 私は便所に立つて、小降りのうちに水をくんだ。そして、鹽鮭と白菜の漬物を茶ぶ臺に揃へて、その前にきちんと坐つた。
(暖かいには暖たかいが、さて連日はつきりしない、北の風が吹いて雨が降りつのる。この天候は日本の東から南の海へ橫たはつてゐる氣壓の低い谷を、低氣壓がじゆずヽヽヽのやうに連らなつて進んでゐるためで、まだ一兩日はこのまゝつゞく)――と、ラヂオは昨日と同じことを言ふのであつた。
 
[やぶちゃん注:「拂らはふ」「糊でねばしたやうに」(「のばす」の方言か?)「おほい」「ゆうべ」「さひそく」「夕飯にしやうかどうしやうか」(二箇所の「しやう」)「暖かいには暖たかいが」(後者の送り仮名)は総てママ。
なお、現代文庫版(旧全集準拠版)では、「緣側に出て頸にはみ出してゐる髭をつんでゐると」の「髭」は「髪」(正字は「髮」)となっている。底本新全集の秋元氏による恣意的補正と思われるが、果たしてこの補正は本当に正しいのだろうか? 私にはやや疑問が残る。]
 
 
 
    
學識
 
 自分の眼の前で雨が降つてゐることも、雨の中に立ちはだかつて草箒をふり廻して、たしかに降つてゐることをたしかめてゐるうちにずぶぬれになつてしまふことも、降つてゐる雨には何のかゝはりもないことだ。
 私はいくぶん悲しい氣持になつて、わざわざ庭へ出てぬれた自分を考へた。そして、雨の中でぬれてゐた自分の形がもう庭にはなく、自分と一緖に緣側からあがつて部屋の中まで來てゐるのに氣がつくと、私は妙にいそがしい氣持になつて着物をぬいでふんどし一本の裸になつた。
 (何といふことだ)裸になると、うつかり私はも一度雨の中へ出てみるつもりになつてゐた。何がこれなればなのか、私は何か研究するつもりであつたらしい。だが、「裸なら着物はぬれない――」といふ結論は、誰かによつて試めされてゐることだらうと思ふと、私は恥かしくなつた。
 私はあまり口數をきかずに二日も三日も降りつゞく雨を見て考へこんだ。そして、雨は水なのだといふこと、雨が降れば家が傘になつてゐるやうなものだといふことに考へついた。
 しかし、あまりきまりきつたことなので、私はそれで十分な滿足はしなかつた。
 
[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「何がこれなればなのか」の「これなれば」とは――こうして褌一丁の裸であるのであるからして――の意で、ここは詩人が、『何ということだろう! これなれば、則ち、――裸なら着物はぬれない――ではないか!』という事実をことさらに始めて発見し、『そいつを一つ、実地に研究してやろう』と「するつもりであつたらしい」ということを意味している。]
 
 
 
    

 
 夕暮になつてさしかけたうす陽が消え、次第に暗くなつて、何時ものやうに西風が出ると露路に電燈がついてゐた。そして、夜になつた。私は雨戸を閉めるときから雨戸の内側にゐたのだ。外側から閉めて、何處かへ歸つて行つたのではないのだ。
 毎月の家賃を拂ふといふので、貸してもらつてゐる家を自分の家ときめてゐる心安さは、便所はどこかと聞かずにもすみ、壁にかゝつてゐるしわくちやの洋服や帽子が自分の背丈や頭のインチに合ひずぼんの膝のおでんのしみもたいして苦にはならぬが、二人の食事に二人前の箸茶碗だけしかをそろへず、箸をとつては尚のこと自分のことだけに終始して胃の腑に食物をつめ込むことを、私は何か後めたいことに感じながらゐるのだ。まだ大人になりきらない犬が魚の骨を食ひに來る他は、夜になると天井のねずみが野菜を食ひに出てくる位ひのもので、臺所はいつも小さくごみつぽく、水などがはねて、米櫃のわきにから瓶などが列らんでゐる。又、一山十錢の蕗の薹を何故食べぬうちにひからびさしてしまつたかとは、すてるときに一ツが芥箱の外へころがり出る感情なのであらうか。
 夜の飯がすんで、後は寢るばかりだといふたあいなさでもないが、私は結局寢床に入いつて、夜中に二度目をさまして二度目に眠れないで煙草をのんでゐたりするのだ。ときには天井の雨漏りが寢てゐる顏にも落ちてくるのだが、朝は、誰も戸を開けに來るのではなくいつも内側から開けてゐるのだ。眼やになどをつけたとぼけた顏に火のついた煙草などをくはへて、もつともらしく内側から自分の家のふたを開けるのだ。
 
[やぶちゃん注:「位ひ」はママ。底本の対照表にはないが、「編註」で秋元氏は、初出を『ニヒル一ノ三』(昭和五(一九三〇)年五月発行)及び同年同月の『旗魚』『詩神』と記した後に、『異文あり』と明記する。やはり、実はこの「異稿対照表」なるものは完全なものでないことが判明するのである。]
 
 
 
    
おまけ 滑稽無聲映畫「形のない國」の梗槪

 形のない國がありました。飛行機のやうなものに乘つて國の端を見つけに行つても、途中から歸つて來た人達が歸つて來るだけで、何處までも行つた人達は永久に歸つては來ないのでした。勿論この國にも大勢の博士がゐましたから、どの方向を見ても見えないところまで廣いのだからこの國は圓形だと主張する一派や、その反對派がありました。反對派の博士達は三角形であると言ふのでしたが、なんだか無理のありさうな三角說よりも圓形說の方がいくぶん常識的でもあり「どつちを見ても見えないところまで云云……」などといふ證明法などがあるので、どつちかといふと圓形だといふ方が一般からは重くみられてゐました。圓にしても三角にしても面積をあらはさうとしてはゐるのですが、確かな測量をしたのではないのですからあてにはなりませんでした。或る時、この二つの派のどちらにもふくまれてゐない博士の一人が、突然氣球に乘つて出來るだけ高く登つて下の方を寫眞に寫して降りて來てずいぶん大きなセンセイシヨンを起しましたが、間もなく、その寫眞に寫つた馬のやうな形は國ではなく、雲が寫つたのではないかといふ疑問が起りました。そこでひきつゞいて圓形派の博士達に依つて同じ方法で試めされましたが、今度は尾の方が體よりも大きい狐の襟卷のやうなものが寫つてゐました。三角派だつてじつとはしてはゐませんでした。やはり同じ方法で寫眞を寫して降りて來たのですが、寫つてゐる棒のやうなものが寫眞の乾板の兩端からはみ出してゐたので、どうにもなりませんでした。
 又、これも失敗に終つたのでしたが、大砲の彈丸に目もりをした長い長いこれ位ひ長ければ國の端にとゞいても餘るだらうと誰もが思つたほど長いテイプを結びつけて打つた博士がありました。が、まだいくらでもテイプが殘つていたのに大砲の彈丸は八里ばかり先の原つぱに落ちてゐたのでした。これはあまり馬鹿げているといふので、新聞の漫畫になつて出たりしたので、眞面目なその博士は「これからです」と訪問した新聞記者に一言して、靑い顏をして第一囘の距離をノートに書きとめて更にそのところから第二囘の彈丸を打ちました。この博士は同じことをくりかへして進んで行つてしまつたのです。始めのうちは通信などもあつたのですが、次第にはその消息さへ絕えてしまつて、博士が第一囘の發砲をしてから五年も經過した頃は、街の人達は未だにその博士が發砲をつゞけながら前進してゐることを忘れてしまひました。氣の毒なのはこの博士ばかりではないのですが、出發が出發なだけに困つた氣持になつてしまひます。[やぶちゃん字注:「位ひ」はママ。]
 又、かうした現實派の他に無限大などと言ふ神祕主義の博士達のゐたことも事實でした。この博士達は時間などは度外視してゐたのでせう。雜誌や新聞の紙面に線なんかを引いたりして、測り知れないほどの面積であつても決して無限ではないとかあるとか、實に盛んな論爭を幾百年つゞけてきたことであらう。又、一ケ年の小麥の總收穫から割り出して國の廣さを測り出さうとしたアマチアもありましたが、計算の途中で麥畑でない地面もあるのに氣がついて中止しました。勿論汽車などもすでにあつたのですが、創設以來しきりなしに先へ先へと敷設してゐても、その先がどの位ひあるのかは博士達のそれと同じやうに全くはてしないばかりではなく、最初に出て行つたその汽車は今では何處へ行つても見られないやうな舊式な機關車なので、未だにそれが先へ先へと進んでゐることを思ふと、どう判斷していゝのかわからなくなるのです。それに、レールの幅が昔の三倍にもなつてしまつてゐるのですから、もし最初の人達がひきかへして來ることになつて又幾百年かかるのはいゝとしても、何處かでレールの幅が合はなくなつてゐるにきまつてゐることが心配です。[やぶちゃん字注:「幾百年つゞけてきたことであらう」の末尾の常体表現はママ。「しきりなしに」(「ひつきりなしに」の意であろう。「仕切り」とは読めない)及び「位ひ」はママ。]
 そこには海もありしたがつて港もあるのですが、海は陸よりもゝつとたよりない成績しかあがりませんでした。どうしてこんな國が出來てしまつたかは大昔にさかのぼらなければなりません。大昔といつてもただの大昔ではなく一番の大昔なのです。千年以上も前なのか二萬年も以前のことなのかわからないのです。その大昔に、何處か或る所に一人の王樣がゐて、だんだんに年寄になつて、三人か四人の王子達もすつかり大人になつてゐたのです。そこで、一日王樣は王子達を集めてそのうちから誰かを一人の世嗣に定めることになりました。背の高さをはかつてみたり、足の大きさを較らべてみたりしてみましたが、それでは誰にきめてよいのか王樣にはわかりませんでした。で、一人々々に「お前はどんな王國が欲しいか」と問ひますと、百までしか數を知つてゐなかつた王子は「百里の百倍ある國が欲しい」その次の王子は「百里の百倍ある國の千倍欲しい」などと答へたのですが、豆ほどの小いさな圓を床に畫いて「この外側全部欲しい」と答へた王子とはとても匹敵しませんでした。王樣もその答へにはすつかり感心してしまつて、すぐ世嗣はその王子と決定したのです。その頃は貯金などといふものが流行して、圓そのものに一日いくら月幾分などと錢が少しづつ子を生むやうに利子がついたものです。で、その利子の殖えるのをうれしがつて錢を舐めてみたり利子が異數に加算される方法を發明したり、大勢の人達の貯金を上手に利用したりする社會があつたのです。その王子が最もよくばつてゐたといふので世嗣に選ばれたことは言ふまでもないことです。全く、錢のない人達こそいゝ面の皮だつたのです。いくら働らいても、働らけば働くほどもらつた賃金では足らぬほど腹が空くやうな仕掛に、うまく仕組まれてゐたのですからたまりません。それとは知らずに働らけば暮らしが樂になると思ひこんでゐた人達が大部分だつたのです。そんなわけですから、何も仕事をしないものは「なまけもの」と言はれて輕べつされたり、錢がなければ食へないなどという規則みたいなものさへあつたのです。
 新らしい王樣が位についたときは勿論大變なさわぎだつたのです。旗も立てたしアーチなども作つてその下を通るやうにし、花火もたくさんあげたのです。「正しい數千年の歷史」なのですから、實にたくさんの祭日や記念日があり老王の退位の日もちやんと旗を立てゝ、來年からも同じ日に旗をたてることになつたことは勿論です。王樣は、盜られてはいけないといふので立派な鐵砲や劍をもたした兵隊を國境へ守備に出しましたが、何處まで行つても國境がないのですから、これが如何に大變なことであつたかは、先に述べた博士達のことででもわかる筈です。しかし、新しい王樣が少しでも國を減らさうなどとは思ひもよらなかつたことだけは、それから幾千年かの後そのまゝの廣さの國を博士達が測量しやうとしたことででもわかるのです。後から後からとひつきりなしに國境へ送られた兵隊達は二度と再び歸つては來ませんでした。何處で暮らすのも一生と考へ、かへつてせいせいしていゝと思つた兵隊も中にはゐたのでせうが、住みなれた街から再び歸らぬ旅に出るのですから、別れにくい心殘りもあつたことはあつたのでせう。
 時間が經つてその王樣も死に、その次の王樣も死にました。そして、その次の王樣も死んでしまつたことはあたりまへのことです。百年も千年もの間には次々の何人もの王樣が死んだし、王樣でない人達だつて死んだり生れたりしたのです。初めの頃はほんの二三人の大臣が王樣のそばにゐたのでしたが、だんだんにその數が多くなつて「時計大臣」「紙屑大臣」などといふものまであるやうになつてしまつたので、數百人といふ大臣が王樣の仕事の補佐をするやうになつたのです。
 時計大臣といふのは、自分の時計とちがつた時計を持つてゐる者から見つけ次第に罰金を取つたり時計をたくさん持つてゐるものに勳章を吳れたり、屆けをしないで時計を止めてゐるものを罰したり、街の時計を正確に直して步いたりするのが役目なのです。時には、金の時計は胸ポケツト銀のは胴ポケツト銅のはずぼんポケツト、それから鐵のは足首へなどといふ法律を定めたりもするのでした。又時計の定價をそれぞれ大きさや金屬によつてきめなければならない重要な役もあるのですから時計會社の重い役にも就いてゐなければなりませんでした。紙屑大臣といふのは、主として紙屑やさんの取締りが役目なのです。が自分で屑拾ひに出ることもあるのです。このほかに「鼻糞大臣」これは鼻糞を亂棒に取つては衞生的でないといふので出來た大臣ですが、このほか色々の大臣がゐるのでした。つまらない大臣もあつたもんだと思ふでせうが、「紙屑大臣」だつて「鼻糞大臣」だつて高い位であるばかりではなく、金があつてもつてがなければなれないし、つてだけあつても金がなければどうにもならないのですから、なりたいと思ひながらなれずにゐるうちに死んでしまふ人達だつてたくさんにゐたわけです。こんな風にして、王樣自身ですることがなくなつてしまひましたが、王樣がなければ大臣もないわけなのですからそこはぬけ目のない人達は、よつてたかつて王樣は人ではなく、神樣だといふことにしてしまひました。大臣達は、自分の思ふまゝの世の中をつくり上げると、今度はそれを保護しなければならない立場になりました。そこで色々な特種な法律をたくさんつくつて、足らなければその時に應じて又いくらでもつくることにしました。又、大臣の世襲といふことも問題になつたのでしたが、あまりよくない大臣はもつとよい大臣になつてからそれをきめた方が都合がよいと思つてゐたのでまとまらずにしまひました。
 それから、又、永い時間が經つて、さうした世の中が絕頂にゆきつくと、そこから又變な世の中の方へ動きかけました。「働らかなければ食へない」といふ男の前で「それはこのことなのか」と、餓死自殺をしてしまつてみせるのがゐるかと思ふと、「大臣」の間に黨派が出來て別々に異つた名稱をつけてゐたり、一部の人達が過飮過食を思想的にも避けるやうになると、たちまちそれが流行になつてしまつたり、さうかと思ふと本を讀むほど馬鹿げたことはない、今までは金を出して本を買はされるばかりではなくその内容まで讀まされてゐたのだが、これは向ふで讀者へ讀んでもらうつぐなひとして渡す金高をわれわれが今まで仕拂つてゐたあの「定價」といふところへ刷られてゐなければ噓だ。そのほかに四五日分の日當さへ出してもらはなければならないものにさへ、われわれはうつかりして自分の方から金を出して買つてゐたのだ――といふことがすばらしい人氣を呼んで本が一册も賣れなくなつたり、電車の行つたり來たりするのを見てゐた二人の子供の一人が「朝の一番最始の電車はどつちから先に來るんだ」と言つたことに端を發して、朝に就ては世の學者誰一人として何も知らなかつたことを暴露してしまつたり、最低價額の下宿住ひの或る男が、そこの賄ひだけで死なずに十分生きてゆける筈なのに、時折りカフエーなどに出入してビールやトンカツを食ふといふことが、どういふわけのことであるのかといふことになつて、結局は熱心な學者に依つて生きたまゝ解剖されて腦と胃袋がアルコール漬の標本になつてしまつた等々々――のさうした狀態もそのまゝずいぶん永くつゞくだけはつゞいたのです。[やぶちゃん注:「讀んでもらう」の「もらう」はママ。]
 そして、何時の間にか電車の數が住居者の人口より多くなつてゐたり、警官の數が警官でない者の五倍にもなつてゐるのにびつくりして、最善の方法としてそのまゝに二つのものゝ位置をとりかへたりするやうなことを幾度かくりかへした頃には、人達はてんでに疲れてしまつたのです。そして、あの大砲を打ちながら消息を絕つてしまつたりした博士達のゐた頃からでさへすでに數へきれないほどの時間が經過してしまつてゐるのに、まだこれから來る時間が無限だと聞かされた人達は何がなんだかまるでわからなくなりました。
 一方、何時の頃からか國の形も次第にわかり廣さもわかつて彩色した立派な地圖も出來、その國のほかにもまだたくさんの異つた國のあることを知ると、王樣や大臣達は自分の國がさう廣いやうには思はれなくなりましたが、その綺麗な地圖の中に何一つ自分のものを持つてゐない人達はそれに何らの興味もないばかりではなく、地圖の中の一里四方といふ面積が何を標準にしてきめた廣さなのか更にけんとうもつかないのでありました。王樣や大臣達は彼らが面積とは何であるか知らないのに驚きました。[やぶちゃん字注:「けんとう」はママ。]
 
[やぶちゃん注:本詩篇を以って詩集「障子のある家」の詩篇本文は終わる。なお、尾形龜之助の詩には別に「無形国へ」という一篇がある(リンク先は私の八年前のブログでの電子テクスト「尾形龜之助拾遺詩集 附やぶちゃん注」にも採録してある。但し、孰れも本底本を用いた新字版である)。]
 
 
 
    
後記
 
        
泉ちやんと獵坊へ
 
 元氣ですか。元氣でないなら私のまねをしてゐなくなつて欲しいやうな氣がする。だが、お前達は元氣でゐるのだらう。元氣ならお前達はひとりで大きくなるのだ。私のゐるゐないは、どんなに私の頰の兩側にお前達の頰ぺたをくつつけてゐたつて同じことなのだ。お前達の一人々々があつて私があることにしかならないのだ。
 泉ちやんは女の大人になるだらうし、獵坊は男の大人になるのだ。それは、お前達にとつてかなり面白い試みにちがひない。それだけでよいのだ。私はお前達二人が姉弟だなどといふことを教へてゐるのではない。――先頭に、お祖父さんが步いてゐる。と、それから一二年ほど後を、お祖母さんが步いてゐる。それから二十幾年の後を父が、その後二三年のところを母が、それから二十幾年のところを私が、その後二十幾年のところを泉ちやんが、それから三年後を獵坊がといふ風に步いてゐる。これは縱だ。お互の距離がずいぶん遠い。とても手などを握り合つては事實步けはしないのだ。お前達と私とは話さへ通じないわけのものでなければならないのに、親が子の犧牲になるとか子が親のそれになるとかは何時から始つたことなのか、これは明らかに錯誤だ。幾つかの無責任な假說がかさなりあつて出來た悲劇だ。
 ――考へてもみるがよい。時間といふものを「日」一つの單位にして考へてみれば、次のやうなことも言ひ得やうではないか。それは、「日」といふものには少しも經過がない――と。例へば、二三日前まで咲いてゐなかつた庭の椿が今日咲いた――といふことは、「時間」が映畫に於けるフヰルムの如くに「日」であるところのスクリンに映寫されてゐるのだといふことなのだ。雨も風も、無數の春夏秋冬も、太陽も戰爭も、飛行船も、ただわれわれの一人々々がそれぞれ眼の前に一枚のスクリンを持つてゐるが如くに「日」があるのだ。そして、時間が映されてゐるのだ。と。――
 又、さきに泉ちやんは女の大人獵坊は男の大人になると私は言つた。が、泉ちやんが男の大人に、獵坊が女の大人にといふやうに自分でなりたければなれるやうになるかも知れない。そんなことがあるやうになれば私はどんなにうれしいかわからない。「親」といふものが、女の兒を生んだのが男になつたり男が女になつてしまつたりすることはたしかに面白い。親子の關係がかうした風にだんだんなくなることはよいことだ。夫婦關係、戀愛、亦々同じ。そのいづれもが腐緣の飾稱みたいなもの、相手がいやになつたら注射一本かなんかで相手と同性になればそれまでのこと、お前達は自由に女にも男にもなれるのだ。
  
        
父と母へ
 
 さよなら。なんとなくお氣の毒です。親であるあなたも、その子である私にも、生んだり生まれたりしたことに就てたいして自信がないのです。
 人間に人間の子供が生れてくるといふ習慣は、あまり古いのでいますぐといつてはどうにもならないことなのでせう。又、人間の子は人間だといふ理屈にあてはめられてゐて、人間になるより外ないのならそれもしかたがないのですが、それならば人間の子とはいつたい何なのでせう。何をしに生れて來るのか、唯親達のまねをしにわざわざ出かけてくるのならそんな必要もないではないでせうか。しかもおどけたことには、その顏形や背丈がよく似るといふことは、人間には顏形がこれ以上あまりないとでもいふ意味なのか、それとも、親の古帽子などがその子供にもかぶれる爲にとでもいふことなのでせうか。だが、たぶんこんなことを考へた私がわるいのでせう。又、「親子」といふものが、あまり特種關係に置かれてゐることもわるいのでせう。――私はやがて自分の滿足する位置にゐて仕事が出來るやうにと考へ決して出來ないことではないと信じてゐました。そのことを私は偉くなると言葉であなたに言つて來たのですが、私はそれらのことを三四年前から考へないやうになり最近は完全に捨てゝしまひました。私の言葉をそのまゝでないまでもいくらかはさうなるのかも知れないと思はせたことは詫びて許していたゞかなければなりません。
 
[やぶちゃん注:この遺書そのものとも言うべき「後記」とともに第三詩集「障子のある家」は終わっている。本私家版詩集出版は昭和五(一九二九)年九月であるが(この春頃から尾形龜之助は餓死自殺を口にするようになっていた)、その後凡そ十二年後の昭和一七(一九四二)年十二月二日午後六時十分、五歳の時に発症した宿痾の『喘息と長年の無頼な生活からくる全身衰弱のため、だれにもみとられず永眠』している(引用は思潮社版現代詩文庫の年譜の記載から。私の非常に好きな悲惨で哀しいフレーズである)。
「泉ちやん」尾形龜之助と最初の妻タケとの間にもうけた長女尾形泉(「いづみ」か)。大正一三(一九二四)年四月十六日生まれ。尾形龜之助が孤独のうちに亡った時は満十八歳であった。
「獵坊」同じく龜之助と妻タケとの間にもうけた長男尾形猟(本文は正字化した。各種資料ではルビないので「りょう」と読んでおく)。大正一五(一九二六)年十二月二十二日生まれ。龜之助死亡時は満十五歳。泉と猟は死の前年に龜之助の妹夫婦の家でここに出る龜之助の祖母や父母と暮らすようになり、当時、尾形は二度目の妻優とその間にもうけた三人の子(次男茜彦あかひこ・三男おう・次女けい)とも別居して独りで住んでいた。
「お祖父さん」尾形安平あんぺい(安政五(一八五八)年~昭和一三(一九三八)年)。本姓は高山で、幼名は龜之助。実父は奥羽街道大河原宿(現在の宮城県の仙南地方の中央に位置する大河原町おおがわらまち)で旅籠を営んでいた。次注のもととともに、藩政時代(伊達藩)から大河原で酒蔵を営んでいた初代尾形安平の夫婦養子となり、明治三〇(一八九七)年に家督を継ぐや、順調に経営されていた醸造業を廃して仙台へ移住、実業には就かず、後は概ね、先代の資産を蚕食して生きた。
「お祖母さん」尾形もと(安政五年~昭和一八(一九四三)年)。旧姓平井。大河原出身。「一二年ほど後を、お祖母さんが步いてゐる」と龜之助は述べているが、これは生年を指しているから、事実とは合わない。ご覧の通り、彼女は夫と同年生まれで、誕生日も八月十日で夫安平より五日早いからである。恐らく、祖母は孫尾形龜之助に自身の年齢をサバを読んで伝えてあったのであろう。
「父」尾形十代之助とよのすけ(明治一一(一八七八)年~昭和二一(一九四六)年)は二代目安平の長男。『ホトトギス』の虚子選句にしばしば登場していたという趣味人でもあった。父同様、旧家尾形家の家産を食い潰して生きたようである。
「母」尾形ひさ(明治一三(一八八〇)年~昭和四一(一九六六)年)は旧姓武田。父は宮城県南部の阿武隈川の河口に位置する亘理町わたりちょうの酒造家。安平以下、ここまでのデータは一九七九年冬樹社刊の秋元潔「評伝 尾形龜之助」に拠った)。
「飾稱」「しよくしよう(しょくしょう)」或いは「かざりしよう(かざりしょう)」と読むか。有名無実の指し示すための名ばかりのもので中身のない名・呼称の謂いであろう。
 
 本「後記」の二篇は、
 
    
父と母と、二人の子供へおくる手紙
 
を原題として、昭和五(一九三〇)年四月発行の『桐の花』第九号に初出している。底本の対照表によれば、後半の父と母へ送る「後記」が敬体ではなく常体で書かれており、表現も有意に異なり、相当にきつい言い方になっている。ここではその後半の父と母へ送る「後記」部分の初出形のみを示す。
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 人間に人間の子供が生れてくるといふ習慣は、あまりに古いのでいますぐといつてどうにもならないことらしい。人間の子は人間だといふ理屈にあてはめられてゐて、人間になるよりほかないのならそれもしかたがないが、人間の子とはいつたい何なのだらう。何をしに生れて來るのか。親達のまねをしにならばわざわざ出かけて來る必要もないだらうではないか。しかもおどけたことには、その顏形や背丈がよく似るといふは、人間には顏形がこれ以上あまりないとでもいふ意味なのか。それとも、親父の古帽子などがその子供にもかぶれる爲にとでもいふことなのか。全く、顏が似てゐるからの、「親子」でもあるまいではないか。又、人間がその文化を進めるために次々に生れて來るのなら、今こそそのうけつぎをしている俺達は人間の何なのだ。遺傳とは何のことなのだ。物を食つてそれがうまいなどといふことも、やがては死んでしまふことにきまつてゐるといふ人間のために何になることだ。俺達に興奮があるなどとは、人間といふものが何かにたぶらかされてゐるのではなくてなんだ。俺達は先づ「帽子」だなどといふ、眼に見えて何んにもならない感情を馬鹿げたこととして捨ててしまはふではないか。
 
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「今こそそのうけつぎをしている俺達は」の「いる」、末尾の「捨ててしまはふではないか」の「しまはふ」はママ。]




あるひは(つまづく石でもあれば私はそこでころびたい)

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以上は、底本書誌によれば、『奥書』にあるとある。]