尾形亀之助 詩集 色ガラスの街 〈初版本バーチャル復刻版〉
[やぶちゃん注:以下は惠風館大正14(1925)年11月1日刊行の尾形亀之助詩集『色ガラスの街』の復刻テクストである。底本は昭和45(1970)年日本名著刊行会刊の稀覯詩集復刻叢書の復刻版を用いた。
この初版詩集は169p・18㎝・上製・ノンブルなし・目次なし・本文木炭紙・黄布表紙(表紙には中央の赤一色を用いた未来派風の絵の上に『街のスラガ色 集詩』と左から右のタイトルが同じ赤押し、背表紙には『詩集 色ガラスの街』のみで作者名なし)。表紙及び見開き表題の同じく未来派風の構成の貼り絵(紙を切り張りした構成画の写真に文字を印刷したものと思われる)であるが、表紙の絵は尾形のものではなく、ドイツ表現主義の画家ハインリヒ・カンペンドンク(Heinrich Campendonk 1889年~1957年)作の木版「室内―ストーブの前の女」である。
本テクストでは、底本と一行字数を一致させ、一頁行数も本文活字11行分にほぼ一致させた(以下に記すような、標題の後の有意に広い行空き分や左右の印刷の激しいブレがあるため、一頁行数については厳密なものではない。見開き改ページ部分が行空きであるかないかは最も判断に苦しんだ部分で、1999年思潮社増補改訂版尾形亀之助全集のテクストを参考にはしたが、以下に記す通り、私はこの全集の『色ガラスの街』の校訂については大きな疑義を持っているため、詩としての内容や印刷位置を総合して、私の推定で空行とした部分があることをお断りしておく)。字配りや行空きも、なるべく原本とほぼ同じ雰囲気になるよう設定した(ルビが綺麗に打てない等の私のホームページ作成ソフトの限界があるため、一部は私自身にとっても不本意な箇所がある)。但し、各詩の標題の後はもっと(ほぼ詩本文の2行分)空いている。私にはそれがちょっと間延びしたように見え、テクスト作成でもブラウザの印象上及び鑑賞上、そこだけ行幅を広げることが躊躇されたため、一行空けにしてある。これが唯一、私が本頁で尾形亀之助に抗った我儘な部分であることを告白しておく。
原本でめくる必要のある改頁部分には、左右100%の横罫
を、見開きでの左頁への改頁部分には中央50%の横罫
を、それぞれ該当箇所にあしらってみた。それぞれのブラウザの文字サイズを「最小」に設定するなどの変更をし、全画面表示で、中央50%の横罫をブラウザ中央に持ってくると、大体の見開きの詩については全文が読めるはずである。これで多少、見開きの原本の雰囲気を味わって戴けるものとは思う
冒頭に表紙(復刻本の地の布はもっと強烈に鮮やかな黄土色であるが、絵を主体に見られるよう、意識的にコントラストを上げ、地は古書風に劣化した布製の雰囲気となるように手を加えた)・背表紙(これが実際の底本の地と文字色に最も近い)・見開き表題頁(下にテクスト化したものも表示した)、「序」の後の表題頁(下にテクスト化したものも表示した)を、更に掉尾に奥附(下にテクスト化したものも表示した)を画像で配した。底本の雰囲気を少しでも味わって戴けたならば幸いである。
なお、本作業によって、現在、一般に知られているところの『色ガラスの街』のテクストには、極めて重大な誤りが多数存在することが判明した。そこには決定版であるはずの1999年思潮社増補改訂版尾形亀之助全集自体の致命的な誤りさえ含まれている(例えば「雨 雨」の詩の第2連冒頭一行「TI ______ TATATA ___ TA」の脱落!)。それについては、私のブログ・カテゴリ「尾形亀之助」でその疑義の多くを記載した(「多く」であって、「総て」ではない。まだ、ある。総てを記載しなかったのは、私の今回の目的はあくまで本頁『色ガラスの街』初版本バーチャル復刻版の作成にあったからである。また、再校訂は自ずと、それを目的として別に正式になされるべきである、ねばならないと考えるからである)。そちらも併せてご覧戴きたい。とは言うものの、恐らく現時点(これを公開した2009年9月17日現在)にあっては、不肖、この私の、この電子テクストが、尾形亀之助の『色ガラスの街』の最も信頼出来るテクストの数少ない一つである、と言い得るものと自負はしている。
更に、本底本初版本自体の杜撰な部分も散見される。活字の濃淡のバラつきやスレ等の印刷不具合(特に右頁の左右の大きなブレは多少の差はあるものの殆んどの頁に及んでいる)は言うに及ばず、組の錯誤の大きなところを挙げるなら、掉尾の長詩「毎夜月が出た」の
2-B の5行目「たを這つてゐた」以下、丸々5頁分、3-B の「針金のやうに細く 靑く 水のやうに孤獨な人格をもつた自分を ――」の行までは、全体が一字下げになってしまっている点である。本来は、2-B の5行目「たを這つてゐた」は、前頁の最後の行から繰り上がって続いているのであるから、この行のみは一字上がっていなくてはならず、また、該当パートの4頁目の最後の方の「と――
祭りのやうなうたごゑが次第にたかまつてきて 娘の耳にも聞きとれさうであるが それは靜かな雨の夜にポツンと雨の一しづくがとよをうつやうな わけもなく淋みしい音色を引いてゐた」の長い一文も、組の上では「聞きとれさうであるが……」以下の2行分が一字上がっていなくてはならないのである。他にも、明白な漢字や送り仮名の誤り(冒頭「序の一」の「× アルコポンはナルコポン(魔醉藥)の間違ひです」の後ろのルビ「●」位置のズレ、「掘」を「堀」とする誤字、頻繁に現れる「夜る」「美くしく」等)もあるが、勿論、初版本バーチャル復刻版の意図に従い、一切、手を加えず、そのままとしたことをお断りしておく。【2009年9月9日夜プレ限定個人公開 2009年9月17日公式公開】
尾形亀之助忌に私に贈られた友の切り画師の一枚を冒頭に掲げた。【2009年12月2日】
私は本誌集所収の「十一月の晴れた十一時頃」の最終行「室に」は「空に」の誤植ではないかと疑っている。現行のテクストは総てが「室に」であるが、どうもそれでは本詩のイメージと合わないのである。また、ここで検索して戴ければ分かるが、尾形龜之助は本誌集では「へや」はここ以外、総て「部屋」と表記しており、「室」の字を用いているのはこの一篇だけなのである。細かな考証については、私のブログの『尾形龜之助「十一月の晴れた十一時頃」心朽窩主人・矢口七十七中文訳』の最後の私(心朽窩主人名義)の補説をお読み戴ければ幸いである。大方の御批判を俟つものである。【2014年11月24日:心朽窩主人藪野直史・附記】
表紙絵の作者が判明したので、上記の一部を改稿した。【2019年3月3日】]
一九二五年十一月
東京 惠風舘版
色ガラスの街
尾 形 龜 之 助
詩 集
序 の 一
りんてん機 と アルコポン
× りんてん機は印刷機械です
● ●
× アルコポンはナルコポン(魔醉藥)の間違ひです
私はこの夏頃から詩集を出版したいと思つてゐました そして 十月の始めに
は出來上るやうにと思つてゐたので 逢ふ人毎に「秋には詩集を出す」と言つ
てゐました
十月になつてしまつたと思つてゐるうちに十二月が近くなりました それでも
私はまだ 雜誌の形ででもよいと思つてゐるのです
×
そして そんなことを思つて三年も過ぎてしまつたのです
ヽヽヽヽ
で 今私はここで小學生の頃 まはれ右 を間違へたときのことを再び思ひ出
します
一千九百二十五年 十一月
序 の 二
煙草は私の旅びとである
朝早くから雨が降つてゐた
そして 暗い日暮れに風が吹いて流れ 雨にとけこむ日暮れを泥ぶかい沼の底
の魚のやうに 私と私の妻が居る
私は二階の書齋に 妻は臺所にゐる
これは人のゐない街だ
一人の人もゐない 犬も通らない丁度ま夜中の街をそのままもつて來たやうな
氣味のわるい街です
街路樹も綠色ではなく 敷石も古るぼけて霧のやうなものにさへぎられてゐ
る どことなく顏のやうな街です
風も雨も陽も ひよつとすると空もない平らな腐れた花の匂ひのする街です
何時頃から人が居なくなつたのか 何故居なくなつたのか 少しもわからない
街です
* *
* *
それは
「こんにちは」とも言はずに私の前を通つてゆく
私の旅びとである
そして
私の退屈を淋しがらせるのです
色ガラスの街
―――――――――
尾 形 亀 之 助 著
一九二二 ―― 一九二五
八 角 時 計
私は
交番所のきたない八角時計の止つてゐるのを見たことがない
もちろん ――
私はことさらに交番をのぞくことを好まない
×
八角時計は 何年か以前の記憶かも知れない
明 る い 夜
一人 一人がまつたく造花のようで
手は柔らかく ふくらんでゐて
しなやかに夜氣が蒸れる
煙草と
あついお茶と
これは ――
カステーラのように
明るい夜だ
散 歩
とつぴな
そして空想家な育ちの私の心は
女に挨拶をしてしまつた
たしかに二人は何處かで愛しあつたことがあつた筈だ と言ふのですが
そのつれの男と言ふのが口髭などをはやして
子供だと思つて油斷をしてゐたカフエーのボーイにそつくりなのです
音のしない晝の風景
工場の煙突と それから
もう一本遠くの方に煙突を見つけて
そこまで引いていつた線は
啞が 街で
啞の友達に逢つたような
十二月の無題詩
十二月のダンダラ
―― DANDARA
それは
少女の黄色い腰をつつむ
ヽヽ
一ぺんのネルである
×
穴のあいたような
十二月の晝の曇天に
私はうつかり相手に笑ひかける
春
(春になって私は心よくなまけてゐる)
私は自分を愛してゐる
かぎりなく愛してゐる
このよく晴れた
春 ――
私は空ほどに大きく眼を開いてみたい
そして
書齋は私の爪ほどの大きさもなく
掌に春をのせて
驢馬に乘つて街へ出かけて行きたい
題 の な い 詩
話はありませんか
―― やせた女の ‥…………‥
で
やせた女は慰めもなく
肌も寂しく襟をつくろひます
ありませんか ――
ありませんか ――
靜かに
夕方ににじむやせた女の
―― 話は
夜の庭へ墜ちた煙草の吸ひがら
夜る
少し風があつたので
私はうつかり二階の窓からすてた煙草の吸ひがらが氣がかりになりました
――――――――
ねづみの糞を庭に埋づめたら豆が生え
そして
のびのび のびあがつて雲の上で花が咲いて實がなつた
そして
實がはじけて地べたにころがり落ちた
―――――――
それが
今――
私の捨てた火のついた煙草の吸ひがらだつたのです
晝 の 部 屋
女は 私に白粉の匂ひをかがさうとしてゐるらしい
―― 女・女
(スプーンがちよつと鉛臭いことがありますが それとはちがひますか)
午後の陽は ガラス戸越に部屋に溜つて
そとは明るい晝なのです
夜半 私は眼さめてゐる
さびた庖丁で 犬の吠え聲を切りに
月夜の庭に立ちすくむ ――
×
×
これは きつと病氣だ
あの女の顏が靑かつた
キツスから うつつたのだ
×
夜半 私はそのことで眼を醒ましました
煙 草
私が煙草をすつてゐると
ヽヽヽ
少女は けむいと云ひます
晝ちよつと前です
すてきな陽氣です
×
マツチの箱はからで
五月頃の空氣がいつぱいつまつてゐる
このうすつぺらな
晝やすみちよつと前の體操場はひつそりして きれいに掃除がしてある
秋
圓い山の上に旗が立つてゐる
空はよく晴れわたつて
子供等の歌が聞えてくる
もみぢ
紅葉を折つて歸る人は
乾いた路を歩いてくる
秋は 綺麗にみがいたガラスの中です
病 氣
ヤサシイ娘ニイダカレテヰル トコロカラ私ノ病氣ガ始マリマシタ
私ハ バイキンノカタマリニナツテ
娘ノ頰ノトコロニ飛ビツキマシタ
娘ハ私ヲ ホクロトマチガヘテ
丁度ヨイトコロニヰル私ヲ中心ニシテ化粧ヲシマス
寂しすぎる
雨は私に降る ――
私の胸の白い手の上に降る
×
私は薔薇を見かけて微笑する暗示をもつてゐない
正しい迷信もない
そして 寢床の中でうまい話ばかり考へてゐる
猫 の 眼 月
嵐がやんで
大きくくぼんだ空に
低く 猫の眼のような月が出てゐる
私の靜物をぬすんでいつたのはお前にちがひない ――
嵐のあとを
お前がいくら猫の眼に化けても
お前に眼鏡をとられるようなことのないやうにさつきから用心してゐる
隣の死にそうな老人
隣りに死にそうな老人がゐる
どうにも私は
その老人が氣になつてたまらない
力のない足音をさせたり
こそこそ戸をあけて這入つていつて
そのまま音が消えてしまつたりする
逢ふまいと思つてゐるのに不思議によく出あふ
そして
うつかりすると私の家に這入つてきそうになる
ある來訪者への接待
どてどてとてたてててたてた
たてとて
てれてれたとことこと
ららんぴぴぴぴ ぴ
とつてんととのぷ
ん
んんんん ん
てつれとぽんととぽれ
みみみ
ららら
らからからから
ごんとろとろろ
ぺろぺんとたるるて
一本の桔梗を見る
かはいそうな囚人が逃げた
一直線に逃げた
×
雨の中の細路のかたはら
草むらに一本だけ桔梗が咲いてゐる
晝 の 雨
土手も 草もびつしよりぬれて
ほそぼそと遠くまで降つてゐる雨
雨によどんだ灰色の空
松林の中では
祭りでもありそうだ
曇 天
遠くの停車場では
靑いシルクハツトを被つた人達でいつぱいだ
晴れてはゐてもそのために
どこかしらごみごみしく
無口な人達ではあるがさはがしく
うす暗い停車場は
いつそう暗い
美くしい人達は
顏を見合せてゐるらしい
月が落ちてゆく
赤や靑やの燈のともつた
低い街の暗らがりのなかに
倒しまになつたまま落ちてしまひそうになつてゐる三日月は
いそいでゆけば拾ひそうだ
三日月の落ちる近くを私の愛人が歩いてゐる
でも きつと三日月の落ちかかつてゐるのに氣がついてゐないから
私が月を見てゐるのを知らずにゐます
彼は待つてゐる
彼は今日私を待つてゐる
今日は來る と思つてゐるのだが
私は今日彼のところへ行かれない
彼はコツプに砂糖を入れて
それに湯をさしてニユームのしやじでガジヤガジヤとかきまぜながら
細い眼にしはをよせて
コツプの中の薄く濁つた液體を透して空を見るのだ
新しい時計が二時半
彼の時計も二時半
彼と私は
そのうちに逢ふのです
おけ ら
螻蛄が這入つて來た
秋になつた ――
螻蛄がこそこそ這入つて來た
くだのようなからだを引きずつて這入つて來た
遠慮でもしてゐるように
頭のところにばかりついてゐる足を動かして
近路をしに部屋に這入つて來たように
氣がねそうに歩いて
春
私は椅子に坐つてゐる
足は重くたれて
淋びしくゐる
私は こうした私に反抗しない
私はよく晴れた春を窓から見てゐるのです
天國は高い
高い建物の上は夕陽をあびて
そこばかりが天國のつながりのように
金色に光つてゐる
街は夕暮だ
妻よ ――
私は滿員電車のなかに居る
私 私はそのとき朝の紅茶を飮んでゐた
私の心は山を登る
そして
私の心は少しの重みをもつて私について來る
×
十一月の晴れわたつた朝
私は新らしい洋服にそでをとほしてゐる
×
ヽヽヽ
髮につけた明るいりぼんに
私の心は輕るい
私は待つ時間の中に這入つてゐる
ひつそりした電車の中です
未だ 私だけしか乘つてはゐません
赤い停車場の窓はみなとざされてゐて
丁度 ――
これから逢ひにゆく友が
部屋のなかに本を讀んでゐるのですが
煙草を吸ふことを忘れてゐるので何か退屈そうにしてゐます
春の街の飾窓
顏をかくしてゐるのは誰です
私の知つてゐる人ではないと思ふのですが
その人は私を知つてゐさうです
―――――
犬の影が私の心に寫つてゐる
ヽヽ
明るいけれども 暮れ方のやうなもののただよつてゐる一本のたての路 ――
柳などが細々とうなだれて 遠くの空は蒼ざめたがらすのやうにさびしく
白い犬が一匹立ちすくんでゐる
おゝ これは砂糖のかたまりがぬるま湯の中でとけるやうに涙ぐましい
×
私は 雲の多い月夜の空をあはれなさけび聲を
あげて通る犬の群の影を見たことがある
五月の花婿
靑い五月の空に風が吹いてゐる
陽ざしのよい山のみねを
ヽヽヽヽ
歩いてゐる ガラスのきやしやな人は
金魚のやうにはなやかで
新らしい時計のように美くしい
ヽヽヽヽ
ガラスのきやしやな人は
五月の氣侯の中を歩いてゐる
無 題 詩
ある詩の話では
毛を一本手のひらに落してみたといふのです
そして
手のひらの感想をたたいてみたら
手のひらは知らないふりをしてゐたと云ふのですと
十二月の路
のつぺりと私をたいらにする影はいつたい何です
蝶のかげでせうか
それとも 少女の微笑なのかしら
晴れた十二月の路に
私のかげは潰されたよりずつと平らです
五 月
或る夕暮
なまぬるい風が吹いて來た
そして
部屋の中へまでなまぬるい風が流れこんできた
太陽が ―― 馬鹿のような太陽が
遠くの煙突の所に沈みかけてゐた
無 題 詩
から壜の中は
曇天のやうな陽氣でいつぱいだ
ま晝の原を堀る男のあくびだ
昔 ――
空びんの中に祭りがあつたのだ
美しい娘の白齒
うつかり
話もしかけられない
氣むずかしやの白い美しい齒なみは
まつたく憎らしい
今日は針の氣げんがわるい
今日は針の氣げんがわるい
三度も指をつついてしまつたし
なかなか 糸もとほらなかつた
プツツ プツツ プツツ プツツ ――
針は布をくぐつては氣げんのわるい顏を出しました
「お婆さん お茶にしませう」と針が
だが
お婆さんは耳が遠いので聞えません
女の顏は大きい
私は馬車の中で
妻を盜まれた男から話をしかけられてゐる
だんだん話を聞いてゐるうちに
妻を盜まれたのはどうも私であるらしい
で ――
それはほんのちよつと前のことだとその男が云ふのでした
×
私は いつのまに馬車を降りたのか
妻の顏を恥かしそうに見てゐました
とぎれた夢の前に立ちどまる
月あかりの靜かな夜る ――
私は
とぎれた夢の前に立ちどまつてゐる
×
闇は唇のやうにひらけ
白い大きな花が私から少し離れて咲いてゐる
私の立つてゐるところは極く小さい島のもり上つた土の上らしい
×
私は鉛のやうに重もたい
×
死んだやうに靜かすぎる
私は
消えてしまいさうな氣がする
×
たくさんの ――
烏だ
たくさんのねずみだ
一本の煙突だ
一人の馬鹿者だ
夢がとぎれてゐる
二人の詩
薄氷のはつてゐるやうな
二人
二人は淋みしい
二人の手は冷めたい
二人は月を見てゐる
顏 が
私は机の上で顏に出逢ひます
顏は
いつも眠むさうな喰べすぎを思はせる
太つた顏です
―― で
それに就いて ゆつたり煙草をのむにはよい そして
ほのぼのと夕陽の多い日などは暮れる
×
夜る
燈を消して床に這入つて眼をつぶると
ちよつとの間その顏が少し大きくなつて私の顏のそばに來てゐます
或 る 話
(辭書を引く男が疲れてゐる)
「サ」 の字が澤山列らんでゐた
サ・サ・サ・サ・サ・・・・・・ と
そこへ
黄色の服を着た男が
路を尋ねに來たのです
でも
どの「サ」も知つてゐません
黄色の服はいつまでも立つてゐました
ああ ――
どうしたことか
黄色い服には一つもボタンがついてゐないのです
雨 降 り
地平線をたどつて
一列の樂隊が ぐずぐず してゐた
そのために
三日もつづいて雨降りだ
秋の日は靜か
私は夕方になると自分の顏を感じる
顏のまん中に鼻を感じる
噴水の前のベンチに腰をかけて
私は自分の運命をいろいろ考へた
夕暮に立つ二人の幼い女の子の話を聞く
夕暮れの街に
幼い女の子が二人話をしてゐます
ヽヽヽヽヽヽ
「私 オチンチン嫌いよ」と醜い方の女の子が云つてゐます
「………………」もう一人の女の子が何んと云つたか
私はそこを通り過ぎてしまひました
きつと ――
この醜い方の女の子はちよつと前まで遊んでゐた男の子にあまり好かれなかつ
たのだ
そして
ヽヽヽヽヽヽ
「私オチンチン嫌いよ」と云はれてゐるもう一人の女の子は男の子に好かれた
ヽヽヽヽヽヽ
ために當然オチンチン好きなことになつてしまつてその返事のしように困つて
ゐたのにちがひない
寒むい風に吹かれて
明るい糸屋の店先きに立つて話してゐる幼い女の子達よ
返事に困つてゐる女の子に返事を強ひないで呉れ給へ
一 日
君は何か用が出來て來なかつたのか
俺は一日中待つてゐた
そして
夕方になつたが
それでも 暗くなつても來るかも知れないと思つて待つてゐた
待つてゐても
とうとう君は來なかつた
君と一緒に話しながら食はふと思つた葡萄や梨は
妻と二人で君のことを話しながら食べてしまつた
白 い 手
うとうと と
眠りに落ちそうな
晝 ――
私のネクタイピンを
そつとぬかうとするのはどなたの手です
どうしたことかすつかり疲れてしまつて
首があがらないほどです
ね
レモンの汁を少し部屋にはじいて下さい
十一月の晴れた十一時頃
じつと
私をみつめた眼を見ました
いつか路を曲がらうとしたとき
突きあたりさうになつた少女の
ちよつとだけではあつたが
私の眼をのぞきこんだ眼です
私は 今日も眼を求めてゐた
十一月の晴れわたつた十一時頃の
室に
風
風は
いつぺんに十人の女に戀することが出來る
男はとても風にはかなはない
夕方 ――
やはらかいシヨールに埋づめた彼女の頰を風がなでてゐた
そして 生垣の路を彼女はつつましく歩いていつた
そして 又
路を曲ると風が何か彼女にささやいた
ああ 俺はそこに彼女のにつこり微笑したのを見たのだ
風は
彼女の化粧するまを白粉をこぼしたり
耳に垂れたほつれ毛をくはへたりする
風は
彼女の手袋の織目から美しい手をのぞきこんだりする
そして 風は
私の書齋の窓をたたいて笑つたりするのです
ある男の日記
妻をめとればおとなしくなる ――
私は きげんのよい蠅にとりまかれて
晝飯の最中です
晝 床にゐる
今日は少し熱があります
ちよつと風邪きみなのでせう
明るい二階に
晝すぎまで寢て居りました
少女の頰のぬくみは
この床のぬくみに似てゐるのかしら
私は やはらかいぬくみの中に體をよこたへて
魚のように夢を見てゐました
「化粧には松の花粉がよい
ヽヽヽ
百合の花の をしべを少し唇にぬつてごらんなさい」 と
そして
私はちかく坐る少女を夢みてぼんやりしてゐる
ぬるい晝の部屋は窓から明りをすすつて
私のかるい頭痛は靜かに額に手をのせる
無 題 詩
夜になると訪ねてくるものがある
氣づいて見ると
なるほど毎夜訪ねてくる變んなものがある
それは ごく細い髮の毛か
さもなければ遠くの方で土を堀りかへす指だ
さびしいのだ
さびしいから訪ねて來るのだ
訪ねて來てもそのまま消えてしまつて
いつも私の部屋にゐる私一人だ
四月の原に私は來てゐる
過去は首のない立像だ
或る年
ていねいに
戀は 靑草ののびた土手に埋められた
それからは
毎年そこへ萠へ出づる毒草があるのです
靑い四月の空の下に
南風がそこの土手を通るときゆらゆらゆれながら
人を食ふやうな形をして咲いてゐる花がそれなのです
馬
三十になれば ――
そんなことを思ひつづけて暮らしてしまつた
一日
ずつと年下の弟にわけもなくうらぎられて
あとは 口ひとつきかずに白靴を赤く染めかへるのに半日もかかつて
何を考へるではなしいつしんに靴をみがいてゐたんだ
そして夜は雨降りだ
日向の男
男のひたいに蠅がとまつてゐます
陽あたりのよい窓にもたれて
男は
今 ちよつと無念無想です
私は 男のそばの湯のみと
男とをくらべて見たいやうな ――
うかうかと長閑なものに引入れられやうとするのです
晝の部屋
テーブルの上の皿に
りんごとみかんとばなな ―― と
晝の
部屋の中は
ガラス窓の中にゼリーのやうにかたまつてゐる
一人 ―― 部屋の隅に
人がゐる
月を見て坂を登る
はやり眼のやうな
月が
ぼんやりと街の上に登りかけた
若い娘をそとへ出しては
みにくくなります
今夜は「靑い夜」です
ハンカチから卵を出します
私は魔術を見てゐた
魔術師は
赤と靑の大きいだんだらの服を着てゐた
そして
魔術師は何かごまかさうとしてゐたが
とうとう
又 ハンカチの中から卵を一つ出してしまつた
商に就いての答
あきなひ
もしも私が商をするとすれば
午前中は下駄屋をやります
そして
美しい娘に卵形の下駄に赤い緒をたててやります
午後の甘まつたるい退屈な時間を
夕方まで化粧店を開きます
そして
ねんいりに美しい顏に化粧をしてやります
うまいところにほくろを入れて 紅もさします
それでも夕方までにはしあげをして
あとは腕をくんで一時間か二時間を一緒に散歩に出かけます
夜は
花や星で飾つた戀文の夜店を出して
戀をする美しい女に高く賣りつけます
晝
晝は雨
ちんたいした部屋
天井が低い
おれは
ねころんでゐて蠅をつかまへた
無 題 詩
懶い手は
六月の草原だ
もの怯えした ― 人の形をした草原だ
×
寂びしげに連なつた五本の指 ―― は
魂を賣つてゐた
無 題 詩
昨夜 私はなかなか眠れなかつた
そして
濕つた蚊帳の中に雨の匂ひをかいでゐた
夜はラシヤのやうに厚く
私は自分の寢てゐるのを見てゐた
それからよほど夜るおそくなつてから
夢で さびしい男に追はれてゐた
黄色の夢の話
私の前に立つてゐる人はいつたい誰でせう
ヽヽヽヽ ヽヽヽ
チヨツキに黄色のぼたんをつけてゐるからあなたの友人でせうか
それとも
ヽヽヽヽ
何年か前の私のチヨツキを着てゐる人でせうか
それが
影ばかりになつて佇んでゐるのですが
七 月
ヽヽヽ
「蜻蛉のしつぽはきたない」
なんのことか
おれはそんなことを考へてゐた
そして
ときどき思ひ出した
七月
うす曇る日
私は今日は
私のそばを通る人にはそつと氣もちだけのおじぎをします
丁度その人が通りすぎるとき
その人の踵のところを見るやうに
靜かに
本のページを握つたままかるく眼をつぶつて
首をたれます
うす曇る日は
私は早く窓をしめてしまひます
十一月の私の眼
赤い花を胸につけた
丈の低いがつしりした男が
私の眼をよこぎらうとしてゐます
十一月の白らんだ私の眼を近くまで歩みよつたのです
少 女
少女の帶は赤くつて
ずゐぶんながい
くるくると
どんな風にしてしめるのか
少女は美くしい
彼の居ない部屋
部屋には洋服がかかつてゐた
右肩をさげて
ぼたんをはづして
壁によりかかつてゐた
それは
行列の中の一人のやうなさびしさがあつた
そして
壁の中にとけこんでゆきさうな不安が隱れてゐた
私は いつも
彼のかけてゐる椅子に坐つてお化けにとりまかれた
旅に出たい
夜る
靑いりんごが一つ
テーブルの上にのつてゐる
はつきりとしたかげとならんで
利口な啞のやうに默りこんでゐる
そして
この靑いりんごは私の大きい足の前に
二十五位のやせた未婚の女のやうにやさしい
雨
四日も雨だ ――
それでも松の葉はとんがり
虫
何處かで逢つたことのある
トゲのやうにやせた
氣むづかしやの異人の婆さんが
眞面目くさつて疊の間から這ひ出て來た
「コンニチハ 氣むづかしやのお婆さん
あなたの鼻に何時鍵をかけませう」
美くしい街
私は美しい少女と街をゆく
ぴつたりと私に寄りそつてゐる少女のかすかな息と
私の靴のつまさきと
少しばかり乾いた砂と
すつかり私にたよつてしまつてゐる少女の微笑
私は
街に醉ふ美しい少女の手の温くみを感じて心ひそかに ―― 熱心に
少女に愛を求めてゐる
×
私はいつも街の美しい看板を思ふ
そして 遠く街に憧れて空を見てゐる
無 題 詩
私の愛してゐる少女は
今日も一人で散歩に出かけます
彼女は賑やかな街を通りぬけて原へ出かけます
そして
彼女はきまつて短かく刈りこんだ土手の草の上に坐つて花を摘んでゐるのです
私は
彼女が土手の草の上に坐つて花を摘んでゐることを想ひます
そして
彼女が水のやうな風に吹かれて立ちあがるのを待つてゐるのです
たひらな壁
たひらな壁のかげに
路があるらしい ――
そして
その路は
すましこんだねずみか
さもなければ極く小さい人達が
電車に乘つたり子供をつれたりして通る西洋風の繁華な街だ
たひらな壁のかげは
山の上から見える遠くの方の街だ
或る少女に
あなたは
暗い夜の庭に立ちすくんでゐる
何か愉快ではなささうです
もしも そんなときに
私があなたを呼びかけて
あなたが私の方へ歩いてくる足どりが
私は好きでたまらないにちがひない
七月の 朝の
あまりよく晴れてゐない
七月の 朝の
ぼんやりとした負け惜みが
ひとしきり私の書齋を通つて行きました
―― 後
先の尖がつた鉛筆のシンが
私をつかまへて離さなかつた
(電話)
「モシモシ ―― あなたは尾形亀之助さんですか」
「いいえ ちがひます」
小石川の風景詩
空
電柱と
尖つた屋根と
灰色の家
路
ヽヽヽヽ
新らしいむぎわら帽子と
石の上に座る乞食
たそがれどきの
赤い火事
あいさつ
夕方になつてきて
太陽が西の方へ入いらうとするとき
きまつて太陽が笑ひ顏をする
ねんじう 俺達の世の中を見て
「さようなら」のかはりに苦笑する
そこで 俺も醉つぱらひの一人として
「ね 太陽さん俺も君もおんなじぢあないか ―― あんたもご苦勞に」と言つ
てやらなければなるまいに
風のない日です
女さえ見れば色慾を起す男は
或る日とうとう女に飛びついた
―― が
塔のスレートを二三枚わつただけですみました
女が眠ってゐる
明るい電車の中に
ヽヽ
靑いうらと
ヽヽ
赤いうらと
ヽヽ
白いすねを少し出して窓にもたれて眠つてゐる 女
乘客はみな退屈してゐます
晝のコツクさん
白いコツクさん
コロツケが 一つ
床に水をまきすぎた
コツクさん
エプロンかけて
街は雨あがり
床屋の鏡のコツクさん
晝ちよつと前だ
コツクさん
夏
空のまん中で太陽が焦げた
八月は空のお祭りだ
何んと澄しこんだ風と窓だ
三色菫だ
無 題 詩
ある眠つた若い女のよこ顏は
白い色の花の一つが丁度咲き初めた頃
私が その垣のそばを通りかかつて見あげた空が
夕方家へ歸つて見たときに黄ばんでゐたことです
夕暮れに温くむ心
夕暮れは
窓から部屋に這入つてきます
このごろ私は
少女の黑い瞳をまぶたに感じて
少しばかりの温くみを心に傳へてゐるものです
夕暮れにうずくまつて
そつと手をあげて少女の愛を求めてゐる奇妙な姿が
私の魂を借りにくる
風邪きみです
誰もゐない應接間を
そつとのぞくのです
ちかごろ 唯の一人も訪ねて來るものもない
榮養不良の部屋を
そつと 部屋にけどられないやうにして
壁のすきから息をひそめてのぞくのです
×
か ぜ
風邪がはやります
私も風邪をひいたやうです
白 い 路
(或る久しく病める女のために私はうつむきに歩いてゐる)
兩側を埃だらけの雜草に挾まれて
むくむくと白い頭をさびしさうにあげて
原つぱの中に潜ぐるやうになくなつてゐる路
今 お前のものとして殘つてゐるのは
よほど永く病んだ女が
遠くの方で窓から首を出してゐる
不幸な夢
「空が海になる
私達の上の方に空がそのまま海になる
日 ―― 」
そんな日が來たら
そんな日が來たら笹の舟を澤山つくつて
仰向けに寢ころんで流してみたい
しの のめ
東 雲
(これからしののめの大きい瞳がはじけます)
しののめだ
太陽に燈がついた
遠くの方で
機關車の掃除が始まつてゐる
そして 石炭がしつとり濕つてゐるので何か火夫がぶつぶつ言つてゐるのが聞
えるやうな氣がする
そして
電柱や煙突はまだよくのびきつてはゐないだろう
ある晝の話
疲れた心は何を聞くのもいやだ と云ふのです
勿論 どうすればよいのかもわからないのです
で兎に角 ――
私は三箱も煙草を吸ひました
かすかに水の流れる音のするあたりは
ライン河のほとりなのか ――
×
どうしてこんなだらう と友人に手紙を書いて
私は外出した
夜の花をもつ少女と私
眠い ――
夜の花の香りに私はすつかり疲れてしまつた
××
これから夢です
もうとうに舞臺も出來てゐる
役者もそろつてゐる
あとはベルさえなれば直ぐにも初まるのです
べルをならすのは誰れです
××
夜の花をもつ少女の登場で
私は山高をかるくかぶつて相手役です
少女は靜かに私に歩み寄ります
そして
そつと私の肩に手をかける少女と共に
私は眠り ―― かけるのです
そして次第に夜の花の數がましてくる
九月の詩
晝寢
かうばしい本のにほひ
おばけが鏡をのぞいてゐた
黄色の袋の中
闇みを
小いさい黄色の袋の中に畜つた
そして
よく親しんでみると
かすかな温くみをためてひつそりとしてゐます
この不透明なくろい生きものは
小いさい黄色の袋の中に腰をかけて
煙りをいつぱいにして
煙草をのんでゐることがあるのです
雨 雨
DORADORADO ______
TI ______ TATATA ___ TA
TI ______ TOTOTO ___ TO
DORADORADO
TI ______ TATATA ___ TA
TI ______ TOTOTO ___ TO
DORADORADO ______
雨は
ガラスの花
雨は
いちんち眼鏡をかけて
年のくれの街
街は夕方ちかかつた
風もないのに
寒むさは服の上からしみこんでくる
何んとまあ ―― 澤山の奧さん方は
お買物ですか
まるでねずみのやうに集つて
左側を通つて下さい
左側を ――
左側を通らない人にはチヨウクでしるしをつけます
情 慾
何んでも 私がすばらしく大きい立派な橋を渡りかけてゐました ら ――
向ふ側から猫が渡つて來ました
私は ここで猫に出逢つてはと思ふと
さう思つたことが橋のきげんをそこねて
するすると一本橋のやうに細くなつてしまひました
そして
氣がつくと私はその一本橋の上で
びつしよりぬれた猫に何か話しかけられてゐました
そして猫には
すきをみては私の足にまきつこうとするそぶりがあるのです
毎夜月が出た
1-
月が出て 夜が靑く光つてゐる
はつきり生きてゐるとは云へないが 肉色のものが 數へきれないほど
奇妙な形をして動いてゐる
何か惱やんででもゐるやうに そしてどこかしらに性のちがひを示して
極く接してゐるものもある
しかし このときも天性は愉快な夢を見てゐた そして何かわからぬが
苦が笑ひをしてゐた
寢不足をしてゐるのかもしれない
夢の中に おかしいことがあつてこらへきれずに 笑ひを口もとに浮べ
てしまつたのかも知れない
でも 胸は靜かに息をしてゐた
廣廣した中に胸だけが大きく息をしてゐるのが見えた
2-A
月の匂ひの寂びしげな中に しつとりと春がとけこんで 淋びしい者は
自分の名を呼ぶ笛のやうな響をかすかに心に聞いた ――
淋みしい 淋みしい ――
春
何處かに一人ぐらゐは自分を愛してゐる者があるだらう ―― 靑年は
山に登つて遠くを見つめてゐる
空と 地べたに埋もれてゐるのは
と 靑年は自分の大きな手をひろげてつくづくと見入る
そして靑年の言葉は彼の指さきから離れて 遠く高い煙突などにまぎれ
て極まりなく飛んで行つてしまふ
まもなく靑年は彼の部屋に 寢台の上に弱々しく埋づまつてゐる
靑年の夢は昨日からつづいてゐる
とぎれた心と心がむすびつかふとする まつ白な夢だ
夜半 靑年は夢に疲れて寢言を云つた
彼のさし伸べた手の近くにすすけたランプと 山で別れた言葉が幽靈の
やうに立つてゐた
すすけたランプの古臭い微笑が さし伸べた彼の指さきに吸ひ込まれた
やうに消えると部屋は再びうす暗くなつて
いま 彼はひとり部屋の中に眠つてゐる
2-B
或る所に
月が出るやうになると 女が男のもとへ通つた
そして 夜の靑じろい月を女は指した
黑い男と女の影のやうなものが 男と女の足もとのところから出て地べ
たを這つてゐた
紙のやうに薄い 白い女の顏が男の顏へ擁ひかぶさると ――
月はそれを靑く染め變へた
3-A
ゆらゆらと月が出た
月が空に鏡をはりつめた
高いのと遠いので虫のやうに小いさく人が寫つてゐた
家家では窓をしめて燈をともした
娘は 安樂椅子に腰かけて歌をうたつた
この わるい幻想の季節の娘について 親達は心を痛めてゐたが
娘はその手招きを見てゐた
そして 少しづつかたむいてゆく心に何かしら望みをかけてゐた
娘は白粉をつけていたが靑く見えた
娘はうつむいて 死んだ目白のことを思つてゐた
あわれでならなかつた
月にてらされて地べたに淺く埋づまつてゐることを思つた
娘は庭へ出た
そして 娘は月に照らされた
娘は 月夜のかなしい思慕に美しい顏を月にむけて
そこには梅の木や松の木の不思議にのびた平らな黑い影があつた
そして その上に月が出てゐた
娘はかなしい歌をうたつた
そして瞳はぬれて 靜かに歩るいてゐた
娘は欝蒼と茂つた森林に這入つた
そして そこで娘は彼女のやさしい心にささやいた
「美しい月夜」
立木は眠つてゐた 彼女は失なつたものをやさしい彼女の心にたづねた
娘は 蒼白な月につつまれてにつこりともしない
そして娘はそつと部屋に這入つた
月の光りは部屋の中に明るい海のやうに漂つてゐた
窓近く娘は椅子をひき寄せた
十八になつた 娘はかなしい
月が遠い
娘は顏を掩つた
と ―― 祭りのやうなうたごゑが次第にたかまつてきて 娘の耳にも
聞きとれさうであるが それは靜かな雨の夜にポツンと雨の一しづくが
とよをうつやうな わけもなく淋みしい音色を引いてゐた
娘の心の底から湧いてくるやうに でもあつた
娘は眠つてゐるやうに動かない
娘の影が少しづつずれて そして彼女から離れてしまつた
そして 月の光りの中に娘の影は笛のやうに細く浮んでゐた
3-B
娘が窓から月を見てゐた
はなやかな月夜の夕暮れである
「ああ 消えてゆきさうな ―― 」と娘は身をかばうやうに窓を閉めた
明るく照らされた窓を 月が見てゐた
そして 娘の見た幻想の中に 自分を見つけた
針金のやうに細く 靑く 水のやうに孤獨な人格をもつた自分を ――
月が娘の窓近く降りて來ると 部屋の中に力なくすすり泣く娘のなげき
を聞いた
「戀人よ ――
戀人よ ――
今宵は月までが泣いてゐる」
娘は泣きぬれて顏をあげた
月は窓を離れた そしてさりげなく月は笛のやうにせまく細く靑い 娘
の幻想をよこぎつて通つた
月は天に歸るまで娘の鳴咽を聞いた
月の忍びの足音は消された
あたりはしんとした
空に靑い月が出てゐた
4―
靑い月夜の夕暮がつゞいてゐた
人人は 娘の泣く不思議な感情になやまされた
老人の一人娘も その隣りの娘も
美しいばかりに 冷めたい顏をして泣きくれてゐた
娘はみな泣いてゐた
泣きごゑがふるへて風に吹かれた
そして空の方へ消えていつた
人人は空を見あげた
娘らの泣くこゑの消える はるか空のかなたを見た
猫がゐる ―― 人人は空のひととこを指さした
黑い猫がゐる ―― 人人が集まつた そして月を指さした
娘らの泣くこゑはさびしく響いた
やさしい娘らの泣くこゑがなまめかしい衣裳につつまれて 夜鳥のやう
に吹かれて消えていつた
色ガラスの街 九十七篇
此 の 一 卷 を 父 と 母 と に 捧 ぐ
大正十四年十月二十五日印刷
大正十四年十一月 一 日発行
(尾形)
色ガラスの街 奥附 一圓五十錢
著 者 尾 形 亀 之 助
發 行 者 鈴 木 惠 一
東 京 芝 區 白 金 三 光 町 五
印 刷 所 山 川 印 刷 所
東 京 神 田 三 崎 町 一 ノ 三
發 行 所 惠 風 舘
東京芝區白金三光町五●振替東京六七四二四