やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇へ
鬼火へ


シング紹介 附未定稿二種   芥川龍之介 附やぶちゃん注釈

 

[やぶちゃん注:大正3(1914)年8月1日発行の第1巻第7号『新思潮』8月号に「柳川隆之介」の署名(目次は「柳川龍之助」)で掲載された「シング紹介」は1998年岩波版新全集第二十四巻に参考篇として掲載されるまで、過去、如何なる芥川龍之介全集・作品集にも収録されたことはなく、芥川龍之介の研究書にも私はその原文を見たことはない。

 このインターネット時代にあってもネット上の電子テクストとしても見当たらない。

 これは私にとって一つの「怪談」であった。

 あの「鼻」の載った超弩級に有名な『新思潮』に載った芥川龍之介の幻の「シング紹介」……。

 これについて、旧全集の1978年7月クレジットの第十二巻に挟まれた「芥川龍之介 月報12」の「編集室より」に次の記載がある。

『大正三年八月発行の『新思潮』第一巻第七号に「シング紹介」の一文が掲載されています。署名は「柳川隆之介」。「柳川隆之介」が芥川のペンネームである事は周知のことですが、いかなる事情か元版全集以降、右の一文は各全集に収められていません。元版全集の『内容見本』には全集「別冊」に「シング紹介」と収録の予告がありながら、実際の本文からははずされています。掲載誌も『新思潮』であり、全集編集同人の方々の見落としとも考えられません。今日となっては、その間の事情を詳らかにする事ができませんが、編集の過程で、何等かの事情で外されたものかと思われます。本全集でも従来の全集に倣い「シング紹介」を収録しませんでした。』

……旧全集第一巻……「春の心臟」の次の……幻の第八番目の作品……妖しげな「何等かの事情」……誰もが口を噤むその理由……それは……芥川龍之介を自殺に追い込んだ「呪いの評論」か!?……如何にも芥川龍之介都市伝説(アーバン・レジェンド)にもってこいではないか?

 それにしても、この説明では不掲載の理由として納得出来ないと感じるのは私だけではるまい。考えられる秘された理由として勘ぐるならば、当時の別の邦人作家の書かれたものの盗作又は内外の英文評論のほぼ和訳に過ぎないものであり、実際に盗作された原本又は英文原本が編集同人の誰かの手によって確認された可能性が一つ、更に全集編集当時生きていた『新思潮』時代の同雑誌同人若しくはその関係者の誰かが、これは何等かの理由により本評論が書けず締切りに間に合わなかった芥川のために『実は私(或いは○○君)が「柳川隆之介」名義で芥川の代わりに代筆した作品である。』と編集者の誰かに漏らし、その人物本人(或いは指摘した人物)が全集からの排除を望んだか、それを聞いた堀辰雄を中心とした元版全集編集同人全員が不掲載を内密の合議で決断したかである。

 例えばそうした疑いの眼で見るならば、同作掲載誌の前々号の『新思潮』第1巻第5号(6月号・大正3(1914)年6月1日発行)には、あの芥川の盟友井川恭(後の恒藤恭)がシングの「海への騎者」を訳している(これはよく知られた事実である。断っておくが私はこれによって芥川にとって人生無二の親友であった井川を「シング紹介」の代筆者であったなどと言って物議を醸したいのでは全くない。そのような下種の勘繰りをさえさせてしまうような事態を引きこしている故旧編集同人諸氏の沈黙を如何にも残念に思うのである)。

 ともかくもその不掲載の経緯と理由は書き残されるべきであった。そうして、それを知り得ない以上、新全集編者は柳川隆之介「シング紹介」を正しく新全集本文に芥川龍之介作品として掲載すべきであったと思う(勿論、以上のような旧全集編集経緯についての詳細な後記を附してである)。私は大いに不満である――

 ――と、ここまで書いてきて、遅まきながら「幻」の「確認」のために、試みにネット検索をかけてみた――ところが――眼から鱗の記事が眼に飛び込んで突き刺さったのである。昨年2008年5月15日発行の日本近代文学会『日本近代文学』第78集に所収する大阪大学専任助教鈴木暁世氏という研究者の『芥川龍之介「シング紹介」論――「愛蘭土文学研究会」との関わりについて』という論考である。その梗概を執筆者御自身が記されたものが以下の頁に掲載されている。以下、引用させて頂く。

『本稿は、第三次『新思潮』(一九一四・八)の巻頭に掲載された「柳川隆之介」名義の「シング紹介」が、芥川龍之介の旧蔵書に残存しているMaurice Bourgeois, John Millington Synge and the Irish Theatre (London, Constable, 1913)からの翻訳と捉えてもいい程の全面的な引き写しであることを明らかにし、第三者による代筆が疑われてきた本作が、芥川自身が執筆したものであることを指摘するものである。特に、『原本』と「シング紹介」の異同を比較することにより、本作の主題、芥川におけるアイルランド文学受容の根拠及び芥川の文学における本作の位置づけ等を検討したい。そして、芥川龍之介、西條八十、日夏耿之介らが参加した「愛蘭土文学研究会」の活動と、『新思潮』『假面』『帝国文学』等における言説の検討を通し、芥川龍之介とアイルランド文学との関わり、大正期日本におけるアイルランド文学受容の一側面を浮き彫りとすることを目的としている。(200811月5日 鈴木暁世)』

――これで、私は何かほっとした気がした。――いつかこの方の評論も読まさせて頂こうと思う。

 前口上が長くなった。

 以下は、1998年岩波版に参考篇として所収する「シング紹介」を私のポリシーに則り、恣意的に正字に直したものである。但し、

冒頭は底本では邦文にして4字分下げ

文中に現れる英文部分及び末尾の追記は邦文にして2字分下げ

となっているが、ブラウザの関係上、無視した(詩のみ底本通りとした)。読み易さを考え、英文文字列の邦文への挿入の前後には原則として半角スペースを挿入した。漢文風の物謂いに現れる「こ」を続けて潰したような踊り字は「々」に直した。なお、追記部分の参考文献中、(3)Synge and the Ireland of his time (B. yeats)の“yeats”はママであるが、“William Butler Yeats”のことであるから、小文字になっているのは芥川の誤植かと思われる。

 ――残念ながら、そう言われて見ると、その主要部分は、一読、『芥川龍之介らしさ』に欠けるという印象を受ける。逆プラシーボ効果もあろうが、表現が生硬でぞんざい、やたらに多い指示語は如何にも翻訳文にありがちな属性を感じさせはする。――

 また、その後ろに附したのは、その「シング紹介」の未定稿(若しくは本篇の続篇のものかも知れない)と思われるもので、岩波書店1997年刊「芥川龍之介全集」第二十二巻『未定稿』に所収する自筆原稿版をまず提示した(但し私のポリシーに則り後掲の「芥川龍之介未定稿集」版と比較しつつ、正字に直した。また、それに先行する岩波書店1968年刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」に所収する同原稿又は同種異稿由来と思われるものは、これだけの短文ながら、ご覧の通り、激しい異同が認められるため、その後ろに掲載して比較対象出来るようにした。後者には一切の解説がない(新全集後記でもこの「未定稿集」版についての言及は一切なく、完全に無視されている。私が都市伝説みたようなという一つの所以である)。大きな部分の異文例からは全くの別原稿である可能性も考え得るし、逆に極めて相似する全体からの印象では、失礼乍ら編者葛巻氏か誰かが同一物に手を加えた可能性も捨て切れない。なお、後者には本文末尾が『と云ふ事である。・・・』となり、改行して行末インデントで『(大正三年)』のクレジットが入るが、これらは何れも編者による該当書「芥川龍之介未定稿集」全体の未定稿末尾スタイルであるため、削除した。

 ――最後に一言申し上げておきたいことがある。芥川の初期のものには翻訳が多く見られる。編年体全集という極めて特異な岩波の新旧芥川龍之介全集に慣れてしまった私には、これが「春の心臟」の後に配されて、何らの違和感もない。後記で鈴木暁世氏の解説を附して示せばこと足りる。原稿が間に合わず翻訳を創作評論と欺って投稿掲載したと今更指弾されて、それで芥川龍之介の名誉が汚されるものとも、私には思われぬ。将来の芥川龍之介全集では、「シング紹介」の、この鬼っ子のような扱いは最早止めるべきである。またぞろ、おぞましく胡散臭い恐怖の都市伝説みたような馬鹿話を出現させないためにも、である――。【2009年3月14日】本文に私のオリジナルな語注を途中(各段落末)に附し、一部の読みにくい漢字の読みを〔 〕で挿入した。なお、文中の詩篇部分については現在、知人のアイルランド人に邦訳を依頼中である。【2010年8月18日】]

 

シング紹介 芥川龍之介

 

In all the English drama, from Sheridan and Goldsmith to Mr. Shaw, there is only one name that will go up amongst the greatest, and that is the name of another Irish man, J.M. Synge.

――P. P. Howe――

[やぶちゃん注:芥川龍之介の和文脈に合わせて正字歴史的仮名遣で試みに訳してみると、
シェリダンとゴールドスミスからショーに至る、総ての英國戲曲の中(うち)、其の素晴らしい作家達の中(なか)にあつて唯一の名が擧げられる――其れは別なアイルランド人の劇作家J.M.シング其の人の名である。   
――P.P.ハウ――
といった感じか。シェリダンは Richard Brinsley Sheridan(1751~1816)劇作家。ダブリン生。18世紀にシェイクスピア劇と人気を二分した喜劇作家である。代表作に「悪口学校」(1777)や「批評家」(1779)等。1780年に下院議員となって以降、外務次官・大蔵大臣・海軍財務官及び枢密顧問官を歴任した政治家でもあった。ゴールドスミスは Oliver Goldsmith(1728~1774)詩人・小説家・戯曲家。アイルランドの牧師の子として生まれ、苦学して聖職者や医師を目指したが挫折、各地を放浪の果て、三十代半ばでやっと作家としてデビューした。小説「ウェークフィールドの牧師」(1766)、戯曲に喜劇「お人好し」(1768)や「負けるが勝ち」(1773)等。ショーは言わずもがなのバーナード・ショー George Bernard Shaw(1856~1950)でダブリン出身の劇作家にして社会主義者。引用元は芥川龍之介が最後に参考文献として掲げている(1)であるが、これは恐らく Percival Presland Howe(1886~1944)が1912年に刊行した“J. M. Synge; a critical study”からと思われる。]

 

        Ⅰ 青年

 

 Edmund, John Millington Synge は、一八七一年、四月十六日、ダブリンの南、約四哩を距て Newtown Little の村に生まれた、家族は父母を除いて八人で、其中の三人(John William, Kathleen, and Basil)は若くて死に、一人の姉と三人の兄とが、シングの歿後迄殘つてゐた、兄弟の中ではシングが、一番末の生れだつたのである。
[やぶちゃん注:「哩」は「マイル」と読む。

 父の John Hatch Synge は、辨護士で、おとなしい、分別のある人であつた、生まれたのは一八二四年で、Bar にはいつたのが一八四七年、それから九年經つた一八五六年の一月に Kathleen Trail と結婚の式を擧げた、之がシングを始め八人の子の母である、父の John Hatch Synge の家が代々、愛蘭土教會の教職に就いてゐた如く(勿論全く職業を持つてゐない者もあつたが)母の Kathleen Trail も亦、僧家の生れで父は Flavius Josephus の飜譯で名高い Rev. Robert Trail であつた(神學博士で且 Royal Irish Academy の委員であつたと云ふ)此夫婦の生活は極めて幸福なものであつたらしく、小供たちは皆嚴正な新教の教育を施されてゐたと云ふ事である。
[やぶちゃん注:「
Bar」は弁護士業の意。「Rev.」 は“Reverend”の略。「~師」の意で、聖職者に対する尊称。]

 シング家は Wicklow 州の、人に知られた、大きな家族の一であるが、純粹な愛蘭土出ではなく Millingtons of Millington Hall から出たと傳へられてゐる。Synge と云ふ姓は本來、一種の渾名(あだな)なので、傳説によると、王立會堂の唱首(Precentor)をしてゐた John Millington と云ふ男が、あまりいゝ聲だつたので、エドワアド八世がこれに Sing Synge と云ふ名を與へたと云ふ事である(滑稽な事には、此シング家にも、小供の知つてゐる歌さへ碌に唄へないのが大勢ゐるさうである。之はシングの從兄弟の Arthur Synge Owen がさう云つてゐる)此話は餘り、宛にならないが。兎に角 Synge を、佛蘭西讀にしたり、シンヂ(Singe)(「燒く」と云ふ動詞)と同じやうに發音するのは、誤りである、Synge をシングと發音する事の正しい證據は、シング自身の詩を見るのが一番確であらう、

Lord, this judgement quickly bring, And I’m your servant, J. M. Synge

                   The Curse

此韻脚を見ると SyngeSing と同じく發音されなければならない、加之、シングが始めて R. I. Best と近づきになつた時にも Synge――not Singe と云つてゐる、最後に、僧正(ビシヨツプ)エドワアド、シングの説教を諷した An excellent new song to an old tune と云ふ Satire を見ると、“I synge of a sermon, a sermon of worth.”と云ふ行で始まってゐる、さうすると Synge はどうしてもSing と發音すべき語としか思はれない(附記、猶シングの家系を詳しく知る爲には Maurice BourgeoisJ. M. S. and Irish Theatre1913Constable)の中の系圖を參照するのが一番よい)。
[やぶちゃん注:「
唱首(Precentor」は教会に付属の唱歌隊の指揮者。「An excellent new song to an old tune 」は『古い曲に合わせた秀抜な歌』の意。「Satire」は風刺詩・諷喩詩の意。「I synge of a sermon, a sermon of worth.」は『私シングは説教を誦える――一文の値打ちもない説教を。』と言った意味であろう。“synge”という名前に“sing”(歌う・説教を誦える)の意を利かせている。]

 兎に角、シングが、純粹な愛蘭土種でないと云ふは、一面に於て愛蘭土に對するシングの稍〔やや〕、偏狹な、寧、同情のない、透徹した看方を首肯せしむると同時に、他面に於ては、シングの戲曲が屢々愛蘭土の批評家たちの非難攻撃の的となるにも關らず、英克蘭(スコツトランド)の人士が比較的之に對して、寛大な好意を示して呉れるのも無理はないと云ふ事を感じさせる。

 シングの父は一八七二年、四月十三日に病歿した、母は其時から、一哩ほどダブリンに近い Orwell Park に移つて、つゝましい暮しを立ててゐたが、當時の幼いシングに就いては殆、何事も知られてゐない(The Playboy of the Western World の序文に、一行ばかり、極とりとめのない事が書いてあるだけだから仕方がない)稍長じてからダブリンの學校へ通つたり、又、Bray と云ふ海岸の區にある學校へ通つたりしたが、體が弱いので仕方が無く退學し、大學へはいる迄、家庭教師を置いて靜に勉強する事になつた、之がシングの十四才頃の話である。

 少年時代のシングは、非常に内氣で寧ある程度までは小供らしくない小供であつた、彼は同年の少年の遊戲をするよりも、好んで其愛するダブリンの山間を、獨り淋しく逍遙するのを常とした。後年、彼がわびしい放浪の生活に、ボヘミアの農人と語りイタリアの海客と交つて、木と星と海とに限りない愛情を捧げたのも、其萌芽は既に此處に求める事が出來るのである。

 當年のシングが最、興味を持つたものは博物學であつた。彼は早くから Dublin Naturalists’ Field Club の會員になつて、植物學と鑛物學との研究に沒頭した、メーズフィルドの書いたシングの memoir の中にあげてあるシングの姉の手紙によると、彼は「常に獨り、遠足をして生物の状態や習慣を研究するのに、非常な興味を持つてゐた」と云ふ事である、其外にまだ蛾と甲蟲との標本を澤山集めたり、栗鼠を飼つて見たりした事もあるさうだが、最、著しいのは其鳥類の研究で、前に擧げたメーズフィルドによると、彼は、あらゆる鳥の聲と毛色とそれが何時何處にゐると云ふ事とを、悉知つてゐたさうである、就中、面白いのは彼が動物と話しをする事が出來た事で、或時などは甥たちを喜ばせる爲に、鶯を自轉車の上へのせて歩いたり、小猫に話しかけると其猫が喉をごろごろ云はせたりした事があると云ふ。あの名高い In Glencullen の詩をよむと、シングも少年時代には鳥の巣を盜む惡戲をしたのがわかるから面白い、

 

  You great-great-grandchidren

  Of birds I’ve listened to

  I think I robbed your ancestors

  When I was as young as you

 

 シングが、其孤獨な青年時代の暑中休暇を費したのは實に Wicklow にある Tom Riland House であつた。如何に彼が此山間の自然と生活とを愛したか、霧の夜と月と羊齒と薔薇と小鳥とが如何に幽鬱な此「谷の影」の詩人を動かしたか、それを知らうとする者は彼自身が Prelude の中に歌つてゐるのを聞かなければならない、

 

  Still south I went and west and south again,

  Through Wicklow from the morning till the night,

  And far from cities, and the sites men,

  Lived with the sun-shine and the moon’s delight

 

  I knew the stars, the flowers, and the birds,

  The grey and wintry sides of many glens,

  And did but half remember human words,

  In converse with the mountains, moors, and fens.

 

 彼が其「西方の遊兒」の序に於て「予が「谷の影」を書ける時、如何なる學殖よりも、予を扶くる事多かりしは、予をして庖(くりや)なるはした女の語るを聞かしめし Wicklow の古屋が床の上なる罅隙(かげき)なりき」と書いたのは、實にこの Tom Riland House を指すのである、彼は此常春藤(きづた)に掩はれた、古家の一室に起臥しながら森と水との間に低徊して其愛する逍遙を續けてゐた、傳ふる如くんば、彼は、あらゆる艸木の名と色と功用とを熟知してゐたと云ふ事である、否、此山間に散在する、無數の泉の味さへも悉く識別し得たと云ふ事である。
[やぶちゃん注:「谷の影」は“In the Shadow of the Glen”(1903)。シングのデビュー作である戯曲。一般には「谷間の影」と訳される。アラン島の島民から聴き取った話を素材とした一幕物。死んだ振りをして、羊飼の青年マイケルと若妻ノラの不貞を暴かんとする老夫ダン、それにからむ浮浪者の物語である。不貞発覚から夫による三行半――そして浮浪者の慰めの言葉と共に家を出て行くノラ。このエンディングは頗る印象的である。しかし上演当時、このノラの造形に対して、アイルランド女性への謂われなき誹謗中傷であるという激しい批判や上演妨害が巻き起こり、毀誉褒貶甚だしかった作品として知られる問題作でもある。「西方の遊兒」は“The Pleyboy of the Western Wold”(1907)。やはりアラン島での見聞による三幕物の喜劇。アイルランドの西北の漁村の怪しげな居酒屋の一人娘のペギーンの前に、父殺しを犯したという青年クリスティが現われ、ペギーンのみならず村人たちまでもが、こぞってこの魅力的な反社会的伊達男に惹かれてゆく――ところが、そこに大傷を負った父親マフォンが息子を探しにやって来てしまう――一般に「西の人気者」とか「西部の伊達男」と言った邦題で知られる。“The Well of the Saints”「聖者の泉」(1905)と並ぶシングの代表作の一つ(リンク先は私の片山廣子訳「聖者の泉」全文電子テクスト)。「罅隙」は隙間の意。「常春藤」は木蔦で、双子葉植物綱セリ目ウコギ科キヅタ
Hedera rhombea。蔓性植物で冬でも葉が枯れないことからこう名付ける。]

 若し、彼の此自然の愛を、其著しい第一の特質に數へるなら、第二に來るものは、彼の音樂に對する嗜好である、彼は自ら笛を吹く事を學んだ。Aran 島にゐた時には呼笛を吹いて、農民を喜ばせた、Theodore Werner と云ふ和蘭〔オランダ〕の音樂家に就いてヴァイオンを學んだ、ダブリンの Trinity の大學では Sir Robert Prescott Stewart の指導の下に、音樂の研究をした、彼が後に、一時音樂を以て立たうと決心した事は、彼の之に對する興味と自信とが如何に大きかつたかを示してゐる、此傾向は、彼が此決心を飜した後にも、猶其用語と戲曲中の技巧との上に、著しい影響を殘してゐる如く思はれる。

 最後に數へらる可き特質は、シングの語學に於ける天賦の才能である、彼は愛蘭土語を話す事が出來た、トリニティー在學中には、大陸の國語を數ケ國に亙つて習得した、しかも一八九二年には、愛蘭土語と希伯來(ヘブライ)語との成績がよいので、賞を授けられた、彼の文體が、殆(ほとんど)聖書の壘〔るい〕を摩〔ま〕するばかりに、簡素な壯大な趣致を帶びてゐるのも、評家の言に從へば、此希伯來語研究の結果だと云はれてゐる。
[やぶちゃん注:「壘を摩する」は匹敵するの意。]

 シングがトリニティーの大學にはいつたのは一八八八年の六月で、學位を得たのは一八九二年である。そして其學生生活の完つた翌々年、一八九四年の春には、彼は既に、止み難い性情の促すまゝに、半生に亙るべき放浪の旅に上つてゐたのである、誠に彼の心には、何物も覊束〔きそく〕す可らざる永久の憧憬があつた、恰もイエーツが「虚無の郷」の主人公 Paul Ruttledge をして云はしめた如く(同戲曲、序幕參照)大空の下に限り無く續いてゐる路を見る毎に彼のたましひは、直に無窮を思慕するの情に動かされずにはゐられなかつた、彼の此 wanderlust は同じ“Nostalgia for the Nowhere or the Anywhere”に苦められた George Borrow の生涯を連想せしめる。そして果然シングが熱心な Borrovian であつたのは元より怪しむに足りないが、獨り此放浪を愛する點のみでなく、Borrow のヂブシイに對する興味とシングの鑄屋(チンカ)に對する同情とは、著しく類似した點がある、けれども彼の此放浪を愛する性情は Borrow を除いても猶他に一人、恐らくは彼よりも更に大なる詩人を連想せしめる、それは外でもない、不二山と歌麿との國に其飄浪〔へうらう〕の晩年を過した Lafcadio Hearn 其人である、そしてシングは又ハーンの所謂“fiery prose style”の、最、誠實なる賞贊者の一人であつたと云はれてゐる。殊に彼の激賞したのはハーンの Of Moon-desire の一節であるが、之に止らず彼は常に彼自身、ハーンと親戚關係のあるのを誇つてゐた、併しそれは、血族上の關係があると云ふ譯ではなく、ハーンの父の Charles Hearn がシングの姉(Annie Isabella Synge)の養母に當る Stephens 夫人の兄だか弟だかになると云ふのに過ぎない。
[やぶちゃん注:「覊束」は縛り繋ぐこと、束縛し拘束することの意。「虚無の郷」はダブリン生まれの詩人にして作家 William Butler Yeats ウィリアム・バトラー・イェイツ(1865~1939)が1894年に書いた戯曲“The Land of Heart's Desire”。1894年初演の戯曲。「心願の国」等と訳される。私はこの芝居を読んだことも見たこともないので、如何とも言いがたいが、新妻が妖精に誘拐されるアイルランド民話を素材とするらしい(これは嘗て私の電子テクスト芥川龍之介『Gaity座の「サロメ」』に附した私の注から一部を引用したものである)。「
wanderlust」とは「ワンダラスト」と発音するギリシャ語由来の英語で「旅心」「旅行熱」「放浪癖」「漂泊の思い」という意を現わす語である。「Nostalgia for the Nowhere or the Anywhere」は『どこにもない場所への、或いはあらゆる場所への死に至る郷愁――ノスタルジア』の意か。「George Borrow」 George Henry Borrow (1803~1881)は19世紀に生きたイギリスはノーフォーク出身の作家。ヨーロッパ各地を旅しながら、その経験を作品化した。特に差別されたロマ族(ジプシー)の人々と親しく交わった。「Borrovian」は言わずもがなであろうが、単にジョージ・ボロウの愛読者・心酔者という意味ではなく、一種の芥川の造語的用法で、「ボロウビアン――ボロウ同様の漂泊を愛する者」の謂いであろう。「鑄屋(チンカ)」漢字表記は通常なら「いかけや」と読む。鋳掛屋とは鍋や釜など金物の壊れた部分をハンダなど用いて修理する職人のことで、英語で“tinker”と言う。「飄浪」放浪に同じ。「fiery prose style”」は熱情的散文体の意。小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の文体を評するにこんなに素晴らしい評言は又とない気がする。「Of Moon-desire」は明治31(1898)年に八雲が出版した“Exotic and Retrospectives”(「異国風物と回想」)の中の「月が欲しい」という一篇。小さな息子が「お月さまがほしい」とせがむシーンに始まり、時空間を超越した霊的な宇宙との合一性を持つ日本人に思い至る八雲の哲学的エッセイである。最後には半可通な知人が登場し、人間は水に映る月を捕えようとする猿に過ぎぬと言う――それに八雲は猿は猿でも神の猿、日輪を摑むことの出来るラーマヤーナの神聖な猿である――と閉じる名篇である。]

 元より彼の放浪は其特異な性情に動かされたものではあるが、其外にもまだ或不思議な戀愛關係が、彼を促して其故郷を去らしめたやうである、此事に關しては下に引く Under Ether の一節より外に何事も知られてゐない。[やぶちゃん注:「Under Ether」はシングが1897年に書いたエッセイ。「青天の下」の意か、それとも文字通り、霊気=エーテルの意か(迷うのはそのエッセイそのものを読んだことがないことと、実は前掲の八雲の「月が欲しい」に「エーテル」が登場するからでもある)。以下の引用は、空行までが引用部(但し、底本には前後の空行はない)。また底本では引用部分全体が一字下げ。]

 

 予は、予が數年前相知れる婦人と語りつゝありしを感じぬ、而して恐怖は突如にして予を描へ、予をして、予が生涯の祕密を悉(ことごとく)、語らしめむとしたり……彼等の去れる時、予は、茫然として、予の許に持來されたる書籍を繰りひろげつ、此時、予は、予が心緒の俄に亂れたるを覺りぬ、それは悲愁の暗示か、或は胸中の傷事か、予が眼は其爲に一滴の露を宿したればなり……

 

 かくしてシングは、飄零〔へうれい〕の旅程に上つた、其郷國愛蘭土を去つた作家は彼のみではない、オスカア・ワイルドもそれである、バアナアド・ショウもそれである、ジオルヂ・ムーアもそれである、バトラア・イエエツもそれである、ツルゲネフは屢「我等なくしては、露西亞は何物も爲し得ない、併し我等も亦、露西亞なくしては何事も爲し得ない」と云つたが、愛蘭土に於ては、正に其の反對である、愛蘭土人は愛蘭土に居る限り何事も爲し得ない、もし何等かの成功を博さうとするならば、彼等は先、一歩を祖國の外に投じなければならないのである。愛蘭土の地主が倫敦に居を定めるのも、農民が亞米利加合衆國に移住するのも、藝術家が其郷土の外にカナアンの樂土を望むのも、皆同じ理由にすぎない、シングも亦實に其一人であつた。
[やぶちゃん注:「飄零」は落魄の意。「ジオルヂ・ムーア」 George Augustus Moore(1852~1933)はアイルランド出身の小説家。イェイツの友人。但し、彼はゾラの自然主義を取り入れた小説“Esther Waters”「エスター・ウォーターズ」/1894)を書いて一躍名声を得て、アイルランドに帰国している。「カナアンの樂土」は聖書の“Canaan”のことで、現在、一般には「カナンの地」と訳す。神が約束した楽土。]

 唯、多くの人々は名譽を、愛蘭土以外の地に求めて之を得たが、シングは再、故郷の土を踏んだ時に、初めて漸之を得る事が出來たのである。 (未完)

[やぶちゃん注:以下、追記(底本に空行はない)。底本では全体が二字下げのポイント落ちである。]

 

 これは研究などと云ふほどの物ではありません、あまりまだ此人の事が知られずにゐる樣ですから、ざつとした紹介のつもりで書いたのです、シングに關した本は可成澤山あつて、僕の見たのはその中の極僅にすぎませんが、之を書くのに參考したは下の通りです、(1)J. M. Synge (P. P. Howe) (2)J. M. Synge and the Irish Theatre (M. Bourgeois) (3)Synge and the Ireland of his time (B. yeats) (4)J. M. Synge (Francis Bickley) (5)Our Irish Theatre(Lady Gregory)

 

 

「シング紹介」未定稿《岩波書店新全集所収版(やぶちゃん改正字版)》

 

       Ⅱ

 シングの放浪生活に關して 知られてゐるのは 極 僅な事實だけである 第一 シング自身が其間の事情について 殆 一言も話した事がないのだから仕方がない メーズフイルドの書いたものにも「彼は歐羅巴を 大分放浪した が、其事については全く沈默を守つてゐた」とある(Contemporary Review:一九一一年四月號) ジヤツク・イエーツの“Wish Synge in Connemara”にも「シングは伊太利 獨乙 佛蘭西等を遍歴した事がある けれども其國々の話をするのは 極めて稀であつた」と書いてある(イエーツの「シングと彼の時代に於ける愛蘭土」)Howeの書いたシング研究には 又こんな話が出てゐる それはある老人がウイツクロウの路上でシングの經歴を尋ねた所が 彼は無造作にかう答へたと云ふのである 「生れたのはダブリンですが それから方々旅をしてあるきました 巴里にも羅馬にもゐた事があります 法王のレオ十三世にあひました」

 兎に角 シングは 音樂家になる目的で先 獨乙へ行つたのである 始はダルムシユタツトとコブレンツに止つて 胡弓(ヴアイオリン)の研究をつゞけたが 後にはマイン河畔のウユルテンブルグに居を移した 彼が調和(ハアモニイ)に關する技術上の知識を修得したのも此處である 屢々 大寺院の圓頂閣(ドーム)の下に 讚歌の樂聲を聞いたのも此處である そして蕭條たる僧院に ワルテル・フォン・フォーゲルワイデの墓を尋ねたのも此處である

 けれども一方又 滯獨十三ケ月の歳月は 彼をして其目的を轉ぜしめた 彼の甥イー・エイチ・シングの語る所によると シングは作曲上到底獨乙人の右に出ない事と公衆の前で演奏するには餘りに神經質である事とを嘆じたと云ふ事である

 

 

「シング紹介」未定稿《岩波書店1968年刊「芥川龍之介未定稿集」所収版》

 

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 シングの放浪生活に關して知られてゐるのは極、僅な事實だけである。第一、シング自身が、其間の事情については殆、一言も親戚故知にも物語つた事がないのだから仕方がない。 同時代評論(コンテンポラリイ・レビユウ)(一九一一年四月號)に出ているメーズフイルドの書いたものにも「彼は歐羅巴を大分放浪した。が其事については全く沈默を守つてゐた」とある。ジヤック・イエーツも「シングは伊太利、獨乙、佛蘭西等を遍歴した事がある。けれども其國々の話をするのは、極めて稀であつた。」と書いてある。ウイツクロウの路上でシングの經歴を尋ねると、彼は唯、「私はダブリンで生まれたが、それから方々旅をして歩いた。巴里や羅馬にもゐた事もある。法王のレオ十三世に逢つた事もある。」と答へたと云ふ話である。

 兎に角、シングは音樂家になる目的で先、獨乙へ行つたのである。始はダルムシュタットとコブレンツに止つて、胡弓(ヴアイオリン)の研究をつゞけたが、後にはマイン河畔のウュルツブルグに居を移した。彼が調和(ハアモニイ)に關する技術上の知識を修得したのも此處である。屢、大寺院の圓頂閣(ドーム)の下に、讚歌の樂聲を聞いたのも此處である。そして又、蕭條たる僧院に、ワルテル・フォン・フォーゲルワイデの墓を尋ねたのも此處である。

 けれども一方又、滯獨十三ケ月の歳月は、彼をして其目的を轉ぜしめた。彼の甥イー・エッチ・シングの語る所によると、シングは作曲上到底獨乙人の右に出ない事を、公衆の前で演奏するには餘りに神經質である事を嘆じたと云ふ事である。