檸檬に関わる「瀨山の話」の草稿断片(やぶちゃん版)
[やぶちゃん注:底本には筑摩版旧全集第二巻の「日記 草稿 第三帖」を用いた。丸善M4大学ノート、総ページ数96枚192ページ。表紙に、――「生活斷片。/大正十一年十二月十三日。/京都よりの荷の中にありし新しきNote」とインク横書。記載は大正十一(1922)年から大正十二年秋に亙るとある。「瀨山の話」草稿や断片は他にも存在するが、以下に示す檸檬に関わる「瀨山の話」の草稿と思われるものは、編者の仮ノンブルで91から163に及ぶ部分であり、「檸檬」成立の過程を知るに貴重なものである。
〔 〕は脱字と思われる文字を編者が補つたものを、( )は編者による誤字訂正を、[ ]は抹消部分を、< >は抹消された字句の右左の行間に書き改められた字句、あるいは欄外に書き入れられた字句であることを示す。抹消部分の記号については、読みやすさと、原稿の雰囲気を出すために、底本とは変えてある。底本の以上の注記や脚注は、私の判断で適宜、本文に挿入したり、[やぶちゃん注]として付けたりした。但し、底本脚注以外の私の語注等もそこには含まれている。なお、読み難くなるので、底本にある仮ノンブルや「ママ」注記は原則として省略した。逆に草稿の雰囲気を出すために、改ページ部分には「☜改頁」という記号を入れた。「☜改頁☞☜改頁☞」は1ページ分の空白を示す(かなりある)。本文には、句読点のない一字空きが多数存在する。底本の改ページの前ページ文末に時にある一行空きや、改ページ直前の一字空欄等は、編者の意図によるものや否や判然としないが、一応、そのままとして、注記した。]
檸檬に関わる「瀨山の話」の草稿断片(やぶちゃん版)
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[起きたのが十二時半だつた。飯を食てしまつて]
私はやうやく晝過ぎに床を起き出た。今日も相變らず曇つてゐて
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私はやうやく晝過ぎに床を起き出た。[昨夜堅く凍りついてゐた手洗の水も時刻が時刻でもう解けてはゐた。然し空は今日も]雪曇りの空には今日も變りがなかつた。風はなかつた。微かな雪片が天降るとでも云ひ度い樣な[やぶちゃん注:底本では、次は一行空き。]
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私はやうやく晝過ぎに床を起出た。<その前>夜堅く凍りついてゐた手洗の氷はもう解けてはゐたがその日も相も變らず雪曇りのしてゐた空からは微かな雪片が植え詰つた樹々の間を落ちて凍て手水鉢の水面に載つては消え載つては消えしてゐた。
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飯を食て煙草を吹かしながらその日も憂鬱な日であつた。
變に沈んで喜ばないものが、空を毎日覆つてゐる雪雲の樣にやはりその日も心の底に擴てゐた。<とはいへ>いつもの樣に狂暴に導く憂鬱ではなかつた、なにか甘い涙でも流せば淸々しくなる樣な氣持だつた。[やぶちゃん注:底本では、次は一行空き。]
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飯を食つて煙草を吹かしながら其の日も心の底に變に沈んで喜ばないものが<空を被てゐる>雪雲の樣に擴てゐるのを感じた。然しそれはいつもの樣に私を狂暴に導く憂鬱ではなかつた、おちつきがあつて一度甘い涙を流して見れば淸々しそうな憂鬱だつた。[やぶちゃん注:底本では、次は一行空き。]
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自然を樂しむといふ樣な落付きになりえなかつた、最近の生活。唯繁華な街と
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それに氣がつくと私の心は俄に身構えした。その日頃決して私を訪つたことのない新鮮な感じを今日こそは萬が一得られぬとも限らない。[やぶちゃん注:底本脚注によると、この文は「一つ前の節に続く」とある。]
生活に立ち向ふ平明な微笑を私は貪らん(婪)に欲してゐた。そして私は岡崎にある私の下宿から黑谷の山内、そこから眞如堂を拔けて東山の麓の若王子へゆく道々を胸に浮べた。これまで幾度胸に擬しても宜なはなかつたこの散歩にその日は少し心が傾いたのだつた。今日なればこそだと私は思つた、思ふ下からその欲望は段々大きくなつて來て、私はとりあへず外出の仕度をした。
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雪は相變らずちらほら降つてゐた。風のない日だつたが足が凍る程冷えの強いことをさとつた私は氣管支のこと[を思つて躊躇]も氣遣はねばならなかつた。
然し私は足並を遅らすこともせず ひたひたと黑谷の方へ歩いて行つた。道々私は[もし下宿にゐたら借金を催促にその前夜]その日借金の催促が來ることをその前夜朧ろに豫期してゐたことを思ひ出した。そしてその借金取りが若しか私のうなだれた心を立て直して呉れやしないかと思つてゐたことを思つた。然しそれもどうでもよかつた。[やぶちゃん注:「私は足並……せず」に並んで右の行間に「足は躊躇も見せず」と併記している。]
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黑谷の門を入つて石畳の上を私より二三間先に七つ八つの學校皈りの女の子が歩いてゐた。赤い毛糸の頭巾にやはり赤い毛糸の上衣を着け<その下に短い>紺の袴をはいて黑い沓下が小きざみに動いてゐるその樣な姿は いつでも私[の誘惑を感]を楽しませて呉れ、私は時として話しかけて見たりすることによつて可愛い喜びを感じるのだつたが、私の沈んだ心からはどんな作り笑顏もこぼれ出て呉れそうにもなかつた。それでゐて私はやはり誘惑を感じた、見返つた彼女の顏は混血兒であつた。それがまた私の誘惑をおさへつけた。彼女の短く剪つた髪の毛
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に淡い雪片が留つては留つては銀の小さな水玉になつて搖いでゐる、私は先きに石段を上つてその子を見下してゐるとその子は手にもつたゴムマリを[一人で 一人で]下の石甃の上でついたりしてゐる、一人で淋しがりもせず道々マリをつくのに立留つてゐる彼女の幼な心に私は浦山しさを感じた、私は彼女がそこを廻り築地の陰に見えなくなるまで見送るともなしに雪の中に立つてゐた。
私は歩きながら、去年のやはり今頃、今よりはもつとひどいこれと同じ樣な状態に置かれてゐた私を思ひ出した。
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それは泥醉の翌日だつた。私は思ひ出す、その頃も私には友をうとむ心が募つてゐた。それは私の僻みからであつたかもしれないが私の生活に友達がみな愛想づかしをしてゐる樣に思へたからであつた。私はそんな孤獨の中に益々自分自身を毒した。[やぶちゃん注:「友達」に並んで右の行間に「彼等」と併記している。]
或日私は一人の親しい友人に故意に狂氣染みた遺書のやうなものを送つた、それも繪葉書四枚にかき漬し、かき終つて私はベンを壁に突〔き〕さしたまゝ投凾へ急いだ。[やぶちゃん注:「投凾]には「ポスト」のルビあり。]
そんな馬鹿なことをしてから私の状態は益々惡くなつた。私は私の狂氣を正常化する材料を求めてはその焰の中へ
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投じてゐた。私は捨鉢だつた、その狂氣の煩が消えるのが一番怖ろしかつた。私は日に夜に泥醉し狂態を演じ、自ら自分の行爲に醉つてゐた。私は年少時代の戀愛を引〔き〕ずり出して來た。私はその失戀にもだえてゐる自分を空想してその空想を振舞つた。そしてその思ひ出もその時限り全く汚れたものになつてしまつた。私の思ひ出したのはそれらの日のある挿話なのであつた。先きに云つた樣にその日は泥醉の翌日で、[私の感情は]私の頭は私の胃腑同樣まるで變調だつた。[やぶちゃん注::「のある挿話なのであつた。」に並んで右の行間に「が近ずかうとしてゐたある日の」と併記している。]
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何が食ひ度いのかわからないのに何かに對する食欲が喘ぐ樣に湧いたり、私の感情も五彩に色を變じる石鹼玉の樣に、泣き出し度くなるかと思へば 何かをやつつけ[てしまひ]度くなり、滑稽たくなつたり 何かに額〔づ〕き度くなつたり とりとめもなくそれからそれへ目まぐるしく變るのだつた。私は街に出て、とある果物店へ入つた。そして何も買はずに唯一顆の檬檸を買つた。そしてそれがその日の私の心を慰める悲しい玩具になつたのだつた。[やぶちゃん注:「滑稽」は「おどけ」と読む。「檬檸」は原文のママ。]
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レモンヱロウの繪具を固めた樣なその色の固りが私には快かつた。[やぶちゃん注:「その色の固まり」以下は初め「その固まりの色が私には快かつた。」とあつて消していない。]私はそれをタオルに包んで見たり學行(校)マントの上にのせて見たり 色々にその色合の配合を變へてはよろこんだ。またその冷たさを頰におし當て、また爪の痕を入れてしみじみその香を嗅いだりした。私は大輪の向日葵を胸にさして街を濶歩した詩人の樣にそのレモンを捧げながら<歩きつ>祕密な喜びにひたつてゐた。どんな美しい詩句も音樂も私[を樂し]には居耐ま[らない]らず苦しい思ひをしか起させないその午後の氣
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持を たゞその<一顆のレモンが五官に反響する>單純な感覺のみが紊れからまつた[心の]焦燥[から]の唯一の鎭靜劑になつたのだつた。私は心が傲り驕ぶしつて來るのをさへ感じた。そしてその末丸善へ入つた。[然しそれもあまりに複雑な]
その日は常に私を樂しませて呉れたオードウコロンの赤い壜も薄緑をした香水の壜も その洒落た切硝子のスタイルも私を喜ばさなかつた。私はいつも見る古くからあるアングルの分厚の本の寫眞版を見やうとしたがそれも手にした瞬間開くのが臆劫になつてしまつた。
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そして私は心に變なたくらみを抱いた。私はその棚から種々[色々の]な色の表紙の本を手當り次第拔き出して色の配合を考へながら雜然と積み重ねた、そして今まで手に持つてゐたレモンをその上にのせた。その黄色の固りは雜多な色の諧調をひつそりと一つにまとめ その頂點に位してゐた。私はそれにこの上ない滿足を感じた、そして二三歩退つて あかずそれに眺め入つた。ほこりの多い騷然とした書店の中にそのレモンのあたりの空氣のみは變に緊張して [やぶちゃん注:ここは一字空欄。]
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レモンはその中心に冴かに澄み渡つてゐるのである。私はこれでよしと思つた。そしてそのまゝ後も見ずに丸善を出た。そしてその日一日 そのレモンがどうなつたことかと思ひ囘らしては[樂し]微笑んでゐた。
「何と悲しい遊戲だつたのだらう。」私はその頃の私自身をいたはり度い樣な氣になりつもその馬鹿氣た狂氣をはかなく思つた。雪は少し大きくなり そしてもう止みまなく降つてゐた。日(見)上げると [やぶちゃん注:ここは一字空欄。]
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奧底の知れない灰色の空からあとからあとから姿を現はす雪片は私の鼻へも唇へも舞ひ降りて凍ては水玉となつて[滑り]その斜面を滑つた。私は時計を出して時間を見たが針の進みがいつもよりずつと遲く感ぜられた。沈み切つた心は雪の<奧>に姿を消しかけてゐる比叡の、白く光る肌を見ても、またいつもよりは急に高くなつた樣に見える東山を見てもちつとも嬉しくはならなかつた。[やぶちゃん注:「雪の<奧>」部分は、更に「雪の[深に]」と書いて消していない。]
足袋がぢめぢめして足の先のしびれかゝつてゐるのが情ない氣を起すばかりだつた。然し私は引返そうとは
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せずに日吉神社の前から御稜(陵)の方 それから若王寺(子)の方へ歩いて行つた。
借金と學校の缺席とから來る壓迫、それから毎夜の酒のために荒廢し盡した私の神經とが釀し出す悲慘な状態こそは私といふ無知な熊がいつも擒へられる陷穽であつた。私は七度擒へられ八度そこへ落ち込むのだつた。私はその度毎にぐるりを見廻し、いつもの奴だと氣がつ[くのであつた]くのに極つてゐた。そうすると慌て、慌てゝは勇猛精進、自暴自棄、後悔、祈禱、そればかりではない[「人生とはなんぞや。」] [やぶちゃん注:ここは一字空欄。「擒」は、「とら(ふ)」と読む。]
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自殺、超人、「人生論。」「宗教論。」の戸毎へまでも慌しく助けまわり、懷疑的になり憂鬱になり、そして顯著な神經衰弱になつてしまふのが常であつた。時々夢ぢやないかしら などゝ思つて見る、そして父と云ひ母といひ、義務と云ひ、涅槃といひ<そんなものはみな>狸が入(人)をばかす樣になにかゞ[自分を]人間をだましてゐるのではないかと考へる。最初に信用のおけるものは何だらうなどゝ私は苦しまぎれの認識論に頭を惱ますのがお極りであつた。
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そしてこの日私は<數日來の>その地獄が近〔づ〕いて來る豫感に恐怖を感じてゐたのだつた。
いつも紅葉の眞紅の縞が出來る、如(若)王寺に當る東山の谷間は この數日降りみ降らずみの雪に白い縞で彩られてゐた。道々は泥濘てゐて雪はその上に消えてゆくばかりで泥濘みをひどくするばかりだつた。私は腹の底にカを入れて、ゆるりゆるりと[「唯心よ]歩まうと努めた。[やぶちゃん注:「泥濘」は最初が「ぬかつ(て)」、後が「ぬかる(み)」と読む。]
「たゞ心よ。一歩一歩踏みしめてカ強く生活に踏み出すこの調子を思ひ出して呉れ。」
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然し私の足は力なく、心はたゞ浮んでは消える捕促(捉)し難い想ひの端くれを彷徨するばかりだつた。
「せめて心よ。この雪景色になにか新しい戰慄を感じて呉れ。それ大きい雪片が泥の上へのつて 減りこむ樣に消えてゆくではないか、<古人は>雪を六花とか何とか云つたそうぢやないか、それをちよつと思ひ出して御らん。」[やぶちゃん注:「六花」は「りつか」「ろつか」と読み、雪の別名。]
然し私の心は頑なに浮び上らなかつた。明かに疲勞と倦怠を感じてゐた。そして私はまた道々去年の今頃の
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ことを思ひ出しはぢめた。
私はとぼとぼ下宿への道をたどつてゐた、惱ましい思ひ出が私をせめて私の足を鈍くした。
星の降る樣な晩だつた、その晩は、どんな荘麗[榮華を]を極めた殿堂の圓天井も氷りつく樣に冴えた星を鏤めてゐるその夜の天蓋には及びもつかない程だつた。その莊麗な天蓋の下を私は此の世の汚れに滿ちて歩いてゐたのだつた。[やぶちゃん注:「圓天井も[その夜の澄み切つた天の]星」。]
私の伴侶の口笛さへ鳴つては呉れなかつた。それは路傍に捨てられた壞れた笛の
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歌口の樣にたゞ寒い風が吹き拔けるばかりだつた。
私は幾日も留守にした下宿へ歸るのが心苦しかつた。亭主ももうかまひつけなくなつた私の部屋は私が見棄てた時のその儘にちがひなかつた。[やぶちゃん注:「その儘[になつてゐるだらう。]」の左右に、「であるのだろう。」と「にちがひなかつた。」と記す。]
寐靜つた下宿の戸を夜盜の樣にこぢあけて、埃と煙草の灰[にみちた]が散亂し、本やノートが足のおきばもなく投出されてゐる寒い部屋の中へ歸つて見る私を想像したり、恐らくまだ敷つ放しになつてゐるに達ひない、固い冷い温(蒲)團を想
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像したりしてゐると、そうでなくてさへ不眠症になつてゐる私がその一夜をどうして温い眠りに就き得るなどゝ思へやう。私には私自身の寂しい本心をそんな不眠の夜に見つめなければならなくなるのが眞實怖ろしかつた。丁度私は例へて見れば誰も救け起して呉れるものもないのに往來に、轉げながら駄々をこねてゐる子供であつた。
そんなことを思つて見れば 私の足はどうしても[下宿]はかばかしく進まなかつた。
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然し私もその晩こそは下宿へ歸らなければ汽車の待合室〔へ〕でもゆかなければならなかつたのである。
私は病み且つ疲れてゐた。私は息をせいたり、<空>咳をしたりしながら泳ぎつく樣に歩いてゐた。そのうちに不圖私〔に〕は自分の聲が一體どんなに響くものだか此の靜かな夜に一度きいて見度いといふ欲望が起つた。これこそは最も悲しい戲れであつた。そして私は自分ながらいとほしく思へてならなかつた私自身の名前を、極くかすかに呼んで見た。
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「浦山。」なんといふ皺枯れた聲をしてるのだらう。
「瀬山。」私はもう少し大きい聲でもう一度呼んで見た、その聲は直ぐ空へ消えて行つてしまつたが、私はそこに殘つた、變に私自身の顏を鏡でつくづく眺める時の氣持にもにも(た)後味をしみじみ味はつた。
「瀬山。」なんてお前は可哀そうな奴なんだらう。
「瀬山、」「瀬山。」
私は段々馨を大きくして しまひには
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泣聲ともシカメ面ともしれない顏の皺を頰の上に感じながら歩いてゐた。
私はいつか私の下宿の近所まで歩いて來てゐた。私は[入つたものか]入らうかどうかまだ極めずにゐた。その時私の泣笑ひの戲れ心はまた變なことを思ひついた。
「瀬山。」「瀬山。」「瀬山君はゐませんか。」私は作り聲をして下宿を起しはぢめた。友達に愛想盡しをされて誰一人尋ねて呉れる[友達も]人もなくなつた、瀬山極のために私は聲を勵まして叫んだ。そして今來た道を走つて
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後もどりをした。
「馬鹿〔げ〕た遊戲だ。」私はひとりで獨語いた。時を侈(移)さず私の[想像]追憶は自然にその夜のそれからの出來事を手繰つて行つた。
京都に泊る所とてなくなつた私はその夜財布[にぎりぎ]のあまりの大部分をはたいて、大阪の少し西にある西[香櫨園まで]〔ノ〕宮までの切符を買つた。そこの南郷山といふ小丘の懷の日だまりに私の[友達のKといふのが]知つてゐるKといふ人が病氣保養のために老婢を一人おいて
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家を借りて暮してゐたのだつた。[そのひとの役目はいつも]私は心の慰まないときなどその人を訪ねさへすれば話をしなくても心が輕く<なる>のが常だつた。互に敬語を使つて話し合ふ間柄だつた[けれども]が、私が平常毎日交際つてゐる友達の間でも、話が切れると問の惡い沈默を感じてしまつたりするのに反して、その人と向き相つては話がなくても私はいつも寛いだ氣持になれた。といふのはその人は何事にも拘泥したり堅くなつたりするふりを見せなかつたからで、その平然とした態度の前に[私が何の拘泥ふ必要もなかつた。]は私<の心も樂に打ち解けてしまふのだつた。>[やぶちゃん注:抹消されている香櫨園駅(こうろえん)は、兵庫県西宮市にある阪神電気鉄道本線の旧駅名。「老婢を一人おいて」の「おいて」の部分は、「つけて」を消し忘れている。]
然し私は心のだらけ切つたときなどはどうしてもその人の前へはゆくが氣しなかつた。そしてその人の前では私の樣[な汚れた者]<にだらけ切つた者>でも本心から眞面目に確實な目的を以て行動[出來る]することの可能なことが信じられた。
私は汽車の中で喘ぐ樣にその人との久し振りの會合をあこがれてゐた。
あの人が私の身近くにゐたならば私はあの人を失望させる樣な悖德の中へ、私
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自身を沈めなかつたとは保證が出來ない。然し幸にもあの人は遠くにゐて もとのまゝの關係で交際ふことが出來る、私ほ決してこの關係を汚す樣なことをするまい。
<汽車の中では>その樣なことを私は幾度となく私自身に説ききかせてゐた。
西の宮の驛から南郷山までは可成りの距離があつた。それでも私は希望を以てその道を歩いた。京都で晴れてゐた空は こゝでは曇つて星影は一つも見えなかつた、全くの曙の野路を南郷
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山の蹲距(蹲踞)つてゐる黑い影を目あてにあるいて行つた。私ほ時々マツチを磨つて道を求めた、そのマつチも心細いことには決して充分ではなかつたのだつた。[やぶちゃん注:「蹲距(蹲踞)」は「うづくま(つて)」。]
寒い晩だつた、[その晩は、南郷]
蜘蛛の巣にからまつたり、水たまりに足を踏込んで足袋をぬらしたりしながら、それでも南郷山の最初の電燈の下に出た時は嬉しかつた。然し私は直ぐ大きな失望を味はなければならなかつた。近所の番犬の吠えたてるなかを、私は幾度も名を呼び戸を叩
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いた、決(然)し家の中は眞暗で人氣がなさそうだつた。終には私の聲が我ながら情なくなつて來た。
私は然しまだ一縷の望みをつないでその隣家の人を起した、そして恐る恐るK氏の家のことを尋ねた、然しその返事はもう決定的の失望を私に宣告してしまつた。
「Kさんは一昨日お國へ歸られました。」
「あゝそうですか。」と私は[なに]さりげなく迷惑を詑びてもと來た道へひきかへした。然し私の足は動かなく
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なつて「しまつた。」[餘す金もなくて]ゐた、[やぶちゃん注:この「しまつた。」は脚注にあるが、鍵括弧が本当についているのだろうか。恐らく、「しまつた。」という記載がされてあり、消さずに残されているか、抹消されているかであろうが、この通常の鍵括弧の用法の編者注記はないので、疑問であるが、そのまま転載する。]
私の財布は空にも等しかつた。すべての望を托して來たこの最後の逃避がこの樣に終るとは私は夢思つてゐなかつたのだつた。[二三日逗留して氣持][やぶちゃん注:底本では「托」の字についての脚注があり、「| と宅とを合す」とある。(|+宅)の合字ということであろうか。「|」の後のスペースがよく分からない。]
二三日の[逗留と]平靜と休養――それから私のゆくべき路の自覺、第一、私の現在の位置を平かな心でまともに眺めて見たかつた。どんなに苦しくても、今までおしおしして來た[生活の]私の弱鮎[ざんげ]の暴露とそれの點檢をしなければならなかつた。私の今からの方針をたけ(て)る
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のはそれからだつた。とにかくどちらへ轉んでも私はもう一度起き立つてその南郷山を去る積りでゐた。
然しその當ても外れてしまつた。
私は道の眞中に立ちすくんでしまつた。どちらを向いても眞暗闇だつた、暗といふ小さな惡鬼が、どの隅にもどの葉陰にもくまなく潛んでゐて私を待伏せてゐる樣に思へた。もう暗はだゞつぴろく擴つてしまつてゐた。
その冷たさは私を凍らせた。足の先は感覺を失ひかけてゐた。手は懷の奧
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深く突つ込〔ま〕れてゐたけれども、肩先きや背などは肌着の冷えて來るのを防ぎ切れなくなつてゐた。身體に着いてゐる所はどこもふうわりと當らなかつた、肌と離れ離れの樣な感じがした、そして冷い空氣がその中へ入り込んで、垢じみた肌衣を冷くしてゐる樣な感じだつた。
マツチもなかつた。空には星もなく、[電燈の光]全くの暗だつた。その暗の中に私ほともすれば死に度くなる私自身を支へてゐなければならなかつた。
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希望は裏切られた、電車にのるにも金はなくなつてゐる、夜は段々深くなつてゆく。心の中も心の外もどこもかしこも眞暗だつた。私はそのまゝそこにたちすくんだまゝ一歩も足が踏み出せなかつた。丁度ゴルゴンの鬼面を見せられて石に化けた人々の樣に私は立ち盡した。
頭はまるでぼやけてしまつた。私の感じは變になつてしまつた。私はどこにどうしてゐるのやら、一體何が私なのやら、これが惡夢の全體なんだらうか、感じが變だつた。
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もう今日の出來事すら、今K氏の留守宅を訪問したといふことすら薄ぼんやりしてしまつた、私は恐る恐る身體の中をなでまわして見た。足で足を蹴つて見た。わつと叫び度くなつた。頭がまるでブランクだつた。印象に連絡がなかつたし、頭が何を考へてゐるのかそれもわからなかつた。たゞ死ぬ程寒かつた。何分程私がそこに立つてゐたか、不意にがやがやがやといふ音がきこえはじめた、と思ふ間もなく私の目の前を光の長いうねりが走つた。
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汽かん車、客車、食堂車、どの窓も燦サンとした光にかゞやいてゐた、煙は火に映じて、火の粉が空に散る、とても筆には盡し難い程快い、ガラガラガラといふ車輪のひびき、
それは下關ゆきの急行列車らしかつた、それは私の目の前の土を高くした、阪道の鐵道をガーと走つてゐた、温イステ〔イ〕―ム、樂しい觀(歡)語がその中に[あつた]ある、[やぶちゃん注:「温イ」は「温い」の誤記であろう。]
氣がついた時私は異樣な聲をあげてその汽車を目がけて田も畑もアゼも
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かまわず蹂み躝りながら兩手をあげて走つてゐる私自身を見出した。[やぶちゃん注:「蹂み躝り」の「躝」は、越えるの意味であるが、読みは「ふみにじり」であろう。以下、8ページ分空白。纏まった、檸檬に関わる「瀨山の話」の草稿はここで切れている。]
檸檬に関わる「瀨山の話」の草稿断片(やぶちゃん版) 了