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生物學講話 丘淺次郎 藪野直史注釈附 目次頁へ戻る
生物學講話 丘淺次郎 はしがき 附藪野直史冒頭注を読む
第八章 團體生活
第八章 團體生活
一 群集
二 社會
三 分業と進歩
四 協力と束縛
五 制裁と良心
第八章 團體生活
同種類の生物個體が多數相集まつて居ることは、餌を捕へるに當つても敵を防ぐに當つても頗る都合のよいことが多い。一疋づつでは到底かなはぬ相手に對しても、多數集まれば容易に勝つことが出來る。また非常に強い敵に攻められて惨々な目に遇うたとしても、多數に集まつて居ればその中の幾分かは必ず難を免れて生存し、後繼者を遺すことが出來る。特に生殖の目的に對しては、同種族のものが同處に多數集まつて居ることは極めて有利であつて、一疋づつが遠く相離れて居るのとは違ひ、すべてのものが殘らず手近い處に配偶者を見出して、盛に子を産むことが出來る。されば事情の許す限り、同種類の生物は同じ處に集まつて生活して居る方が、食ふにも産むにも遙に好都合であるに違ない。
抑々生物は親なしには決して生まれぬもの故、一生涯絶對に單獨といふものは一種たりともあるべからざる理窟で、少くとも親から生まれたときと、子を産んだときとは、同種類の生物が何疋か同じ處に接近して居るに違ない。特に多數の生物では、同時に生まれる子の數が相應に多いから、これらがそのまゝ留まつて生活すれば、已に一つの群集がそこに生ずる。そして相集まつて生活して居れば、上に述べた如き利益がある。かやうな次第で、同種類の生物が一處に集まつて生存することは自然の結果であるやうに思はれる。しかるに單獨の生活を送る生物も決して少くないのはなぜかといふと、これは生活難のために一家離散したのであつて、生存の必要上群集生活を思ひ切るやうに餘儀なくせられたものに限る。例へば陸上の食肉獸類には群棲するものは殆どない。これは獅子〔ライオン〕・虎などの如きものが一箇處に多數集まつて生活し、多數の牛や鹿を殺して食つたならば忽ち食物の缺乏を生じ、皆揃つて餓死せねばならぬからである。これに反し、草食獸類の方は餌が澤山にあるから、大群をなして生活して居ても、急に食物が皆無になる心配はない。昆蟲類などでも木の葉を食ふ毛蟲は枝一面に群集して居ることがあるが、蟲を捕へて食とする「かまきり」や「くも」類などは、一疋づつ離れて餌を求めて居る。尤も肉食するものでも、餌となる動物が多量に存する場合には、群棲しても差支はない。「をつとせい」・「あざらし」の類は肉食獸であるが、その餌となる魚類は極めて多量に産し、恰も陸上の牧草の如くであるから、數千も數萬も同一箇處を根據地に定めて生活して居る。詰まる所、生物が群棲するか單獨に暮らすかは、食物供給の量と關聯したことで、群棲しては到底食物を得られぬ種類の動物だけが、親子兄弟離れ離れになつて世を渡つて居るのである。
同じ種類の生物個體が、たゞ相集まつて居るだけでも生活に種々都合のよいことがあるが、もしも多數のものが同一の目的を達するために力を協せて相助けたならば、その效力は實に偉大なもので、大概の敵は恐れるに足らぬやうになる。各個體が食ふにも産むにも死ぬにも、すべて自己の屬する團體の維持生存を目的としたならば、その集まつた團體は、生存競爭に當つて、個體よりも一段上の單位となるから、攻めるにも防ぐにも勝つ見込みが頗る多い。かやうな團體を社會と名づける。實際動物界を見渡すと昆蟲類の中でも、蜂や蟻などの如き社會を造つて生活する種類は到る處に
一 群集
ある種類の動物が、一箇處に澤山集まつて居ることのあるは、誰にも氣のつく著しい事實である。例ヘば春から夏にかけて、暖な時節になると、毛蟲が澤山に出て來るが、中には樹の膚が見えぬ程に幹にも枝も一杯に居ることがある。また「ばら」・菊・「はぎ」その他の草花類の新しい芽の處に、「ありまき」が壓し合ふ程に一面に集まつて居ることがある。田畝の流れに「めだか」が游いで居るのを見ても、禁獵地の池に鴨の浮んで居るのを見ても、皆必ず群をなして居て、單獨に離れて居るものは殆どない。かく多數に集まる原因は場合によつて必ずしも一樣ではないが、相集まつて居る以上は、とにかく群集に基づく利益を得て居ることは慥である。
生物の中には風に吹かれ浪に流されて、同じ處に無數に集まるものがある。「夜光蟲」などはその一例で、海岸へ吹き寄せられた處を見ると水が一面に桃色になる程で、幾億疋居るか幾兆疋居るかその數は到底想像も出來ぬ。「數の子」の一粒にも及ばぬ小さな蟲が、殆ど水を交へぬ程に密集して、數十粁に亙る沿岸の波打ち際に打ち寄せられて居ることが屢々あるが、僅二三十疋づつ硝子瓶に入れて、五十錢にも賣つて居る標本商の定價表に從つたならば、世界中の富を悉く集めてもその一小部より外は買へぬであらう。但しこれは潮流の關係で芥が寄るのと同じく單に機械的に集まるのであるから、自身から求めてわざわざ集まる他の生物の群集とは素より趣が違ふ。ときどき海水を腐らせて水産業者に大害を與へる赤潮の微生物も、略々これと同じやうな具合で、突然無數に寄つて來ることがあるかと思ふと、その翌日はまるで一疋も見えぬこともある。尤も絶えず蕃殖するから、その增加するのは單に他から集まるのみではない。同じ方角の風が吹き續くと、沖の方から「かつをのゑぼし」が無數に濱へ寄つて來て、幾萬となく打ち上げられたものが腐敗して臭氣を放つので、その邊の者が大に迷惑するやうなこともときどきある。
[「かげらふ」の群集]
[やぶちゃん注:本図は底本では省略されているため、国立国会図書館蔵の大正一五(一九二六)年版の図を同ホームページより挿絵のみトリミングして転載した。国立国会図書館使用許諾済(許諾通知番号国図電1301044-1-5702号)。]
動物にはそれぞれ生活に必要な條件があるが、かやうな條件の具はつてある處には、これに適する動物が集まつて來る。日光を好むものは日向に集まり、日光を嫌ふものは日陰に集まる。掃溜を掘つて「やすで」の塊を見出すのはそれ故である。食物が多量にある處へは無論これを食ふものが集まつて來る。毛蟲や芋蟲が大群をなして居る場合は即ちかゝる原因による。また「ありまき」の如きものは、運動の遲いために遠くへは行かず皆生まれた處の近邊に留まるので、大群を生ずることがある。「かげろふ」といふ「とんぼ」に似た蟲の幼蟲は長い間水中に生活して居るが、それが孵化するときは幾萬となく、同時に水から飛び出すから、暫時大群が生じ通行人の顏や手に留まつて、うるさくて堪へられぬ。「いなご」が非常な大群をなして移動し、到る處で綠色の植物を殘らず食ひ盡すことは昔から有名な事實であるが、これも恐らく同じ時に卵が揃つ孵化した結果であらう。
[やぶちゃん注:「かげろう」昆虫綱蜉蝣(カゲロウ)目 Ephemeroptera に属する昆虫の総称。昆虫の中で最初に翅を獲得したグループの一つであると考えられている。幼虫はすべて水生。不完全変態であるが、幼虫→亜成虫→成虫という半変態と呼ばれる特殊な変態を行い、成虫は軟弱で長い尾を持ち、寿命が短いことでよく知られる。参照したウィキの「カゲロウ」によれば(この記載は優れて博物学的である)、目の学名はギリシャ語でカゲロウを指す“ephemera”と、翅を指す“pteron”からなるが、この“ephemera”の原義は
“epi”(on)+“hemera”(day:その日一日)で、カゲロウの寿命の短さに由来する(ギリシャ語で“ephemera”(エフェメラ)は、チラシやパンフレットのような一時的な筆記物及び印刷物で、長期的に使われたり保存されることを意図していないものを指す語としても用いられるが、これも、やはりその日だけの一時的なものであることによる)。和名の「カゲロウ」については、『空気が揺らめいてぼんやりと見える「
『例えば新井白石による物名語源事典『東雅』(二十・蟲豸)には、「蜻蛉 カゲロウ。古にはアキツといひ後にはカゲロウといふ。即今俗にトンボウといひて東国の方言には今もヱンバといひ、また赤卒をばイナゲンザともいふ也」とあり、カゲロウをトンボの異称としている風である。一方、平安時代に書かれた藤原道綱母の『蜻蛉日記』の題名は、「なほものはかなきを思へば、あるかなきかの心ちするかげろふの日記といふべし」という中の一文より採られているが、この場合の「蜻蛉」ははかなさの象徴であることから、カゲロウ目の昆虫を指しているように考えられる』。『クサカゲロウやウスバカゲロウも、羽根が薄くて広く、弱々しく見えるところからカゲロウの名がつけられているが、これらは完全変態をする昆虫で、カゲロウ目とは縁遠いアミメカゲロウ目に属する』とある。最後の部分は補注すると、クサカゲロウは、
有翅昆虫亜綱内翅上目脈翅(アミメカゲロウ)目脈翅亜(アミメカゲロウ)亜目クサカゲロウ科 Chrysopidae
に属し、ウスバカゲロウも、
脈翅(アミメカゲロウ)目ウスバカゲロウ上科ウスバカゲロウ科 Myrmeleontidae
に属する。形状は似ているものの、全く異なった種である。]
[「いなご」の大群]
[黑雲の如くに日光を遮る。我が國の内地へはかやうの大群の渡り來ることがないけれどもアジヤ、ヨーロッパ等の大陸地方では往々これに襲はれ瞬く間に作物を悉く食ひ盡されることがある。]
[やぶちゃん注:本図は底本では省略されているため、国立国会図書館蔵の大正一五(一九二六)年版の図を同ホームページより挿絵のみトリミングして転載した。国立国会図書館使用許諾済(許諾通知番号国図電1301044-1-5702号)。]
右の如きものの外に、動物には自ら同種相求めてわざわざ群集を造つて生活するものが少くない。淺い處に住む海産魚類の中に、形が「なまづ」に似て、口の周圍に幾本かの鬚を有する「ごんずゐ」と名づける魚があるが、これなどは特に群集を好むもので、水族館に飼つてあるものを見ても、常に多數相集まつて、殆ど球形の密集團を造つて居る。二―三糎にも足らぬ幼魚でも明にこの性質を現し、球形の塊りになつて游ぎ廻るから、漁夫の子供らはこれを「ごんずゐ玉」と呼んで居る。試に竹竿を以てかやうな「ごんずゐ玉」を縱横にかき亂すと、一時は多少散亂するが、竹竿を退けるや否や、直に舊の通りの球形に復する。「ごんずゐ」は小さな球形の群集を造るから、特に眼に立つが、見渡し切れぬ程の大群集を造る魚類も少くない。「いはし」「にしん」などはその例で、大きな地曳き網を引き上げる所を見物すると、實に無盡藏の如くに思はれるが、その盛に密集して居る處では、魚が互に押し合ふために、海の表面から上へ現れ出る位であるといふ。その他、鰹でも「さば」でも「たら」でも一定の處に非常に澤山に寄つて來るので、漁獲の量も頗る多く、隨つて水産物中の重要なものと見做されるのである。
[ごんずゐ]
[やぶちゃん注:本図は底本の刷りが非常に薄いため、国立国会図書館蔵の大正一五(一九二六)年版の図を同ホームページより挿絵のみトリミングして転載した。国立国会図書館使用許諾済(許諾通知番号国図電1301044-1-5702号)。]
[やぶちゃん注:「ごんずゐ」硬骨魚綱ナマズ目ゴンズイ科ゴンズイ Plotosus japonicus。和名は権瑞と書く。ウィキの「ゴンズイ」によれば、体長一〇~二〇センチメートルに達するナマズ目の海水魚で、『茶褐色の体に頭部から尾部にかけて二本の黄色い線がある。集団で行動する習性があり、特に幼魚の時代に著しい。幼魚の群れは巨大な団子状になるため、「ごんずい玉」とも呼ばれる。この行動は集合行動を引き起こすフェロモンによって制御されていることが知られている』。『背びれと胸びれの第一棘条には毒があり、これに刺されると激痛に襲われる。なお、この毒は死んでも失われず、死んだゴンズイを知らずに踏んで激痛を招いてしまうことが多いため、十分な注意が必要である』とあり、また、『地方によっては味噌汁や天ぷらなどで食されることがあ』るとあるが、残念なことに私はまだ食したことがない。因みに和名の由来は牛頭人身の地獄の鬼卒の牛頭に頭部が似ていることから牛頭魚(ゴズイオ)と呼ばれたものが訛ったという説がある。確かにゴンズイの頭部は牛に似ていないとは言えず、鰭の毒腺によっても悪しき印象なればこそ、しっくりくる説明ではある。他にも中部地方で雑魚のことを「ゴズ」または「ゴンズリ」と称することからから、それが訛ったという説もある。なお、植物でバラ亜綱ムクロジ目ミツバウツギ科に、同様の和名を持つゴンズイ属
Euscaphis があるが、これは薪以外に使い道がなく役に立たないところから、同様に役に立たない魚である「ゴンズイ」に擬えた命名と言われる(植物の方のゴンズイは漢字表記では「権萃」)。
――なお、ここでどうしても述べておきたいのだが、私はこうした危険動植物の例記載に際しては、生物学者なればこそ、それがたとえ本論と大きく外れる場合であっても、必ずその危険注記を附すべきである、と私は考えている。例えば、ここで丘先生は漁夫の小どもの遊びの例(遊びとはおっしゃっていないが遊びとしか読めない)を示しておられるが、都会の子がこの叙述だけを読んで、誤って「ごんずい玉」に手足を差し入れた時のことを、私は科学者たる生物学者だからこそ、注意書きしなてはならない、と思うのである。これは丘先生一人への批難ではない。私は幼少の頃から、各種の生物図鑑で、本来、その扱いに注意が必要な危険生物について、しばしばそうした不記載があることに強い不満を感じ続けてきたからである。
――私は「科学的」であるということは、何よりも興味深く面白いことを喚起しながら、同時に時として個人の身体や生命、いや、人類の生存さえ危険が及ぶこともあることを必ず謂い添えて学ばせることが「科学的」であることの本質と理解しているのである。科学は原子力の似非安全性や非科学的な経済効果に奉仕するためにあってはならないのである。池内了氏が主張なさっているように(私が教師時代後期に新聞記事で教授したように)、今も昔も、真の――科学者たるものは社会のカナリアにならねばならぬ――と切に思うからでもある。]
[「あはうどり」の群集]
[やぶちゃん注:本図は底本の刷りが非常に薄いため、国立国会図書館蔵の大正一五(一九二六)年版の図を同ホームページより挿絵のみトリミングして転載した。国立国会図書館使用許諾済(許諾通知番号国図電1301044-1-5702号)。]
鳥類や獸類にも群居するものは甚だ多い。その中でも特に著しいのは海鳥や海獸の類で、遠洋の無人島に於ける海鳥群集の有樣は、實地を見たことのない人には到底想像も出來ぬ。南鳥島とか東鳥島とかいふ名も、島中が鳥で一杯になつて居る所から附けたのであらう。海鳥は魚類を常食とするから糞の中に多量の燐が含まれてある。それ故海鳥の糞は肥料としては甚だ有功なもので、價も相應に高い。海鳥の群集して居る島にはこの貴重な糞が何百年分も堆積しているから、これを掘り取ると一角の富源なる。無人島に居る海鳥の中で主なるものは「あはうどり」で、翼を擴げると一米半もある大鳥であるが、人が來ても逃げることを知らず、ただ魚の消化した臭い汁を吐き掛けるだけで、棒で打ち殺すことは何でもない。南極近くに居る「ペンギン鳥」も、殆ど無數に群がつて居る處があるが、これらの鳥はたゞ集まつて居るといふだけで、互に相助けるといふ如きことは決してせず、恰も電車の乘合客のやうに、相罵りながら押し合つて居る。「ペリカン」なども、動物園や見世物で一、二疋を見ると頗る珍しい鳥の如くに思はれるが、その集まつて居る處には殆ど無限に居る。
[やぶちゃん注:「南鳥島」一つは本州から一八〇〇 キロメートル離れた日本最東端として知られる小笠原諸島の南鳥島がある(東京都小笠原村に属すが、海上自衛隊硫黄島航空基地隊の南鳥島航空派遣隊や気象庁南鳥島気象観測所、関東地方整備局南鳥島港湾保全管理所の職員が交代で常駐するのみ)。他にも小笠原諸島の
「東鳥島」という島名は不詳。識者の御教授を乞う。
「あはうどり」ミズナギドリ目アホウドリ科キタアホウドリ属アホウドリ Phoebastria albatrus。漢字表記は「阿呆鳥」「阿房鳥」「信天翁」で最後は「しんてんおう」とも読む。和名は人間が接近しても地表上では動きが緩慢で本文にある通り、捕殺が容易だったことに由来する。北太平洋に分布し、夏季はベーリング海やアラスカ湾・アリューシャン列島周辺に渡り、冬季になると繁殖のために日本近海へ南下する。現在、本文中に示された鳥島や尖閣諸島北小島及び南小島でのみ繁殖が確認されている。かつての羽毛目的の乱獲により生息数は激減した。一九三九年には残存していた繁殖地である鳥島が噴火し、一九四九年の調査でも発見されなかったため、鳥島では絶滅したと考えられていたが、一九五一年で繁殖している個体が再発見され、保護活動が行われている。特別天然記念物。二〇一〇年に於ける調査では鳥島のアホウドリ集団の総個体数は二五七〇羽と推定されている(以上はウィキの「アホウドリ」に拠った)。]
[「をつとせい」の群集]
[やぶちゃん注:本図は底本の刷りが非常に薄いため、国立国会図書館蔵の大正一五(一九二六)年版の図を同ホームページより挿絵のみトリミングして転載した。国立国会図書館使用許諾済(許諾通知番号国図電1301044-1-5702号)。]
「あざらし」・「をつとせい」の如き海獸は皆大群をなして生活する。「いるか」なども、何十疋か揃つて汽船と競爭して泳いで行くのを見掛けることがある。陸上の動物でも羊・山羊・鹿・「かもしか」などを始め兎・鼠に至るまで、植物を食ふ獸類には群棲するものが甚だ多い。これらは皆單獨の生活を恐れ、なるべく群集から離れぬやうに注意し、萬一少しく離れることがあつても、直に群集の方へ歸つて來る。しかし群集の中では互に相助けることはなく、食物を奪ひ合つて喧嘩をするものも絶えぬ。或る書物に、人間の社會を冬期に於ける「はりねずみ」の群集に譬へて、全く相離れては寒くて堪らず、また密接し過ぎては痛くて困る。その中間に當る適度の距離が、所謂禮儀・遠慮であると書いてあつたが、普通の動物の群集も多くはこれに似たものであらう。但し一疋が危險を見附けて逃げ出せば、他はこれに雷同して全部殘らず逃げ去るといふ便宜はある。
[やぶちゃん注:『或る書物に、人間の社會を冬期に於ける「はりねずみ」の群集に譬へて、全く相離れては寒くて堪らず、また密接し過ぎては痛くて困る。その中間に當る適度の距離が、所謂禮儀・遠慮であると書いてあつた』とあるのは哲学者ショーペンハウアーの随筆集「余禄と補遺」(パレルガ・ウント・パラリポメナ)第二巻に載る寓話を指す。但し、正確にはこれを精神分析学者フロイトが「ヤマアラシのジレンマ」と呼んだことで、広く知られるようになったもので、「ハリネズミ」は誤りである(ヤマアラシとハリネズミの違いについては後述する)。以下、その訳をヤフー知恵袋の「ショーペンハウアーのヤマアラシのジレンマはどの本に載っていますか?」の答えにある秋山英夫氏訳になる「ショーペンハウアー 随想録」(白水社一九九八年復刊とある)から孫引きさせて頂く(カンマを読点に変更した)。
《引用開始》
やまあらしの一群が、冷たい冬のある日、おたがいの体温で凍えることをふせぐために、ぴったりくっつきあった。
だが、まもなくおたがいに刺の痛いのが感じられて、また分かれた。
温まる必要からまた寄りそうと、第二の禍がくりかえされるのだった。
こうして彼らは二つの難儀のあいだに、あちらへ投げられこちらへ投げられしているうちに、ついにほどほどの感覚を置くことを工夫したのであって、これでいちばんうまくやっていけるようになったのである。
――こうして、自分自身の内面の空虚と単調から発した社交の要求は、人びとをたがいに近づけるが、そのいやらしい多くの特性と耐えがたい欠陥は、彼らをふたたび突きはなすのである。彼らがついにあみだした中ぐらいの距離、そして共同生活がそれで成り立ちうるほどのへだたりというのが、礼節であり、上品な風習というわけだ。(中略)
しかし心のなかにたくさんの量の温か味をもっている人は、めんどうをかけたりかけられたりしたくないために、むしろ社交界から遠ざかっているのである。
《引用終了》
即ち、「ヤマアラシのジレンマ」とは、人間社会に於ける自己自立の欲求と、他者との一体感希求という相反する二つの欲求のアンビバレンツによるジレンマのことを指す。但し、ウィキの「ヤマアラシ」の解説にもあるように、心理学的には以上のような二律背反的な否定的意味以外に、『「紆余曲折の末、両者にとってちょうど良い距離に気付く」という肯定的な意味として使われることもあり、両義的な用例が許されている点』で注意が必要である。
さて、同ウィキのよればヤマアラシは、
哺乳綱齧歯(ネズミ)目ヤマアラシ上科のヤマアラシ科 Hystricidae 及びアメリカヤマアラシ科 Erethizontidae
に属する草食性齧歯類の総称で、体の背面と側面の一部に鋭い針毛を持ち、『通常、針をもつ哺乳類は外敵から身を守るために針を用いるが、ヤマアラシは、むしろ積極的に外敵に攻撃をしかける攻撃的な性質をもつ。肉食獣などに出会うと、尾を振り、後ろ足を踏み鳴らすことで相手を威嚇する。そして背中の針を逆立て、後ろ向きに突進する。針毛は硬く、ゴム製の長靴程度のものなら貫く強度がある』と記す。なお、ヤマアラシの棘は長く、外に向かって開くようにして逆立ち、対象に刺さると自切して抜ける点が特徴的である。
対する「ハリネズミ」はヤマアラシとは全く異なる生物種で、
哺乳綱ハリネズミ目ハリネズミ科ハリネズミ亜科 Erinaceinae
に属する、ミミズなどを採餌する雑食性の哺乳動物である。針状の棘は体毛の一本一本が纏まって硬化したもので、ヤマアラシのそれとは異なり、対象に刺さっても棘は抜けず、逆立てる場合も、内向きに重なり合うようする(以上は主にウィキの「ハリネズミ」などを参考にした)。同ウィキにも『ハリネズミはハリモグラやヤマアラシと混同されやすいが、ハリモグラは単孔目(カモノハシ目)、ヤマアラシは齧歯目(ネズミ目)であり、いずれも系統分類的にはハリネズミとは無関係である』とある。なお、ウィキの「ヤマアラシ」によれば、『実際のヤマアラシは針のない頭部を寄せ合って体温を保ったり、睡眠をとったりしている』とあって、しっかり身を寄せ合うことが出来ることも言い添えておきたい。]
野牛の群れが虎などに襲はれた場合には、強い牡牛は前面に竝んで敵に向ひ、弱い牝や子供はなるべく奧へ入れて保護するが、かやうな團體は「あはうどり」や「ペンギン鳥」の群集とは幾分か違ひ、若干の個體が共同の目的のために協力して働くのであるから、多少社會を形造る方向に進んだものと見做せる。また狼なども多數相集まつて、牛の如き大きな獸を攻めることがあるが、これもそのときだけは一つの社會を組み立てて居るといへる。但し元來互に相助ける性質のないものが、たゞ餌を食ひたいばかりに合同して居るのであるから、敵を倒してしまへば、利益分配に就いて説が一致せず、忽ち互に相戰はざるを得ぬやうになる。これらの例を見てもわかる通り、簡單な群集から複雜な社會までの間には種々異なつた階段があつて、臨時の社會、不完全な社會などを順々に竝べて見ると、その間に判然たる境界のないことが明に知れる。
二 社會
[珊瑚の群體]
水中に生活する動物には芽生によつて蕃殖するものが幾らもあるが、これらの動物は多くは親と子との身體が一生涯離れず相續いたままで居るから、段々大きな群體が出來る。例へば「珊瑚」の蟲なども、初め卵から生ずるときは一疋であるが、次第に芽生して終に樹枝狀の群體となり終る。その有樣を人間に比べて見たならば、恰も一人が椅子に腰を掛けて居ると、その人の腰の邊から横に芽が生じ、それが少しづつ大きくなり、終に完全な成人となつて、隣の椅子に腰を掛け、またその人の腰の邊から横に芽が生えて、三人、四人と次第に人數が增加して行く如くである。かやうにして生じた群體では一個一個の身體は互に連續して居て、同じ血液が全部に循環し、同じ滋養物が全部に分配せられるから、生活上には全部が恰も一疋の動物の如くに働き、各個體が互に相爭ふことはない。假に甲乙一個體の中間の處へ餌になる物が流れ寄つたとしても、甲か乙か近い方が靜にこれを捕へ食ふだけで、引張り合つて爭ふ如きことは決してせぬ。但し甲が食つても乙が食つても、その消化した滋養分は隣から隣へと流れて順々に分配せられるから、互に相爭つて食ふ必要はない。このやうな動物では生存競爭に於ける單位は一疋づつ相離れた個體ではなく、多數の個體である。隨つて生存のために相戰ふに當つては必ず群體と群體とが對抗し、各個體は、たゞ自分の屬する群體の戰鬪力を增すために同僚と力を協せて必死に働くだけで、隣の者と相爭ふ如きことは絶對にない。海産の固著動物にはかやうな例が澤山にあるが、淡水池や沼に住む苔蟲類なども、生活の狀態は全くこの通りで、實に理想的の團體生活を營んで居るといふことが出來る。
[淡水苔蟲]
[やぶちゃん注:本図は底本の刷りが非常に薄いため、国立国会図書館蔵の大正一五(一九二六)年版の図を同ホームページより挿絵のみトリミングして転載した。国立国会図書館使用許諾済(許諾通知番号国図電1301044-1-5702号)。]
[やぶちゃん注:「苔蟲類」広義には
空個虫:個虫本体は退化し、個虫の部屋のみが残ったもの。群体の支持を担う。
鳥頭体:個室の入り口がくちばし状になって突出したもの。外敵の防衛や群体の清掃。
振鞭体:長い鞭状の突起が生じたもの。同じく外敵の防衛や群体の清掃。
卵室:卵を保持。
群体内の個虫はすべて無性生殖によって増えたもののため、遺伝的に同一である。そのため、自ら繁殖しない個虫も、他の個虫の繁殖を助けることによって、次世代に遺伝子を残すことができると考えられる。すなわち、個虫の機能分化は、社会性昆虫のカースト分化などと同様に、血縁淘汰によって説明することができる』。その生殖と発生は、『一部の例外を除いて外肛動物の個虫は雌雄同体である。外肛動物は無性生殖も有性生殖も行う。有性生殖ではキフォナウテス幼生などの幼生を生じる。無性生殖では新しい個虫を出芽によって形成することにより、群体が大きく成長する。群体の一部が壊れることにより、それぞれの破片が成長して新しい群体となる場合もある。このようにしてできた群体は、群体内の個虫同様にクローンで』、『掩喉綱では、無性生殖により休芽が形成される。これは二枚のキチン質の殻に包まれたもので、耐久性があり、冬をこれで乗り切るほか、水鳥の足などにくっついて分布を拡大するにも役立っているとされる』。『なお、幼生が変態したり休芽が発芽して生じた最初の個虫のことは、初虫(ancestrula)と呼ばれる』とある。生態は先に述べた通り、『ほとんどの外肛動物は海に生息するが、淡水中に生息する種類も七〇種ほど知られている。水中では、砂地、岩地、貝殻や木、海草の上などどのような場所にも存在する。しかしある種は固い基質の上では育てず、堆積物上で生活する。また、八二〇〇メートルもの深海で生息する種もいるが、多くは浅い場所で生活する。多くの外肛動物は固着性で自分では動けないが、一部の種は砂地を這うことができ、単独で動き回りながら生活する種もある。また南極海を漂いながら生きる種もいる』。『外肛動物の群体は数百万匹もの個体が集まってできることもある。個体の大きさはミリメートル以下だが、群体の大きさは数ミリメートルから時には数メートルにも達する。一部では、群体を構成する各個虫に機能分化がみられる。餌を集める通常の個体に対して、群体を支持・強化する個虫や、掃除をする個虫もいる。一方、外肛動物自体はウニや魚の餌となっている。淡水産の掩喉綱には特殊な寄生虫として軟胞子虫の
Buddenbrockia が知られている』。フサコケムシ Bugula neritina やホンダワラコケムシ Zoobotryon verticillatum 『など、多くの種類が人工的な基盤上によく繁殖する。生簀に繁殖すると網目を詰まらせ、あるいは船底に付着して船足を止めるので嫌われる』とあり、先般、利尻島に私が旅した際、コンブ類に虫が附着して外見が悪くなって商品価値が落ちると漁民が町役場の役人と一緒に歎いている現場に行き遇ったことがある(この時、私がそれを見て「これはコケムシですね。かなりひどいやられようだ。」と言ったら、彼らが「あんたは学者か?」と驚かれたのが忘れられない)。『淡水産のオオマリコケムシ』
Pectinatella magnifica 『は巨大なゼラチン質の群体となって水中に浮遊し、人を驚かせることがあり、また水質悪化を招く場合もあ』り(ウィキの「オオマリコケムシ」で巨大な群体を見られる)、『一部の種は毒性を持ち、漁夫の皮膚病の原因となる。フサコケムシ Bugula neritina は、抗がん剤になりうる細胞毒性を持つブリオスタチンという化合物を生成するとして、注目を集めている』。歴史的には、『この類は古くはサンゴなどとともに植虫(Zoophyta)などと呼ばれたが、その内部構造などが明らかになると、間違いなく動物であり、しかもサンゴなどよりはるかに複雑な構造であることが判明したことから独立に扱われるようになり』、一八三一年、Ehrenberg
によって『コケムシ類(bryozoa)とされた。当初はスズコケムシ類もこれに含めたが、両者の違いがはっきり理解されるに従い、それぞれ独立した群と見なされるようになった。外肛動物の名は、スズコケムシ類との関連で、コケムシ類の場合は肛門が触手冠の外にあるのに対して、スズコケムシ類ではその内側にあるため、この類を内肛動物と呼んだのに対比させたものである』とある。]
[蟻の巣]
身體の互に連續して居る動物の群體では、上に述べた如き團體的生活が完全に行はれるのが當り前のやうに思はれるが、個體が一個一個相離れて居る動物にも理想的の團體生活を營んで居るものがある。昆蟲の中の蜜蜂・蟻・白蟻などはその著しい例であるが、これらに於いても、各個體がたゞ自己の屬する團體の維持と繁榮とのためにのみ力を盡す點は、身體の連續した群體に比しても少しも相違はない。かやうな個體の集まりを社會又は國と名づける。蜜蜂でも蟻でも白蟻でも、數千數萬もしくは數十萬の個體が、力を協せて共同の巣を造り、餌を集めるにも敵を防ぐにも常に一致して活動する。外へ出て餌を求めるものは朝から晩まで出歩いて熱心に勉強し、獲られるだけは集めて來るが、これは無論自身一個のためではない。また巣の内に留まつて、子を育てるものは、或は幼蟲に餌を食はせたり、蛹を温い處へ移したりして一刻も休んでは居ない。蜂や蟻の卵から出た幼蟲は小さな蛆のやうなもので、足もなく眼も見えず捨てて置いては到底獨で生活は出來ぬから、
[やぶちゃん注:「趨いて」「おもむいて」と読む。]
[鳥類の共同の巣]
[やぶちゃん注:本図は底本の刷りが非常に薄いため、国立国会図書館蔵の大正一五(一九二六)年版の図を同ホームページより挿絵のみトリミングして転載した。国立国会図書館使用許諾済(許諾通知番号国図電1301044-1-5702号)。]
動物の中には澤山の個體が集まつて多少共同の生活を營みながら、蟻や蜂程に完結した社會を造るには至らぬものが幾らもある。アフリカの或る地方に産する鳥類の一種に、八百疋乃至千疋も集まつて樹木の上に共同の屋根を造り、その下に一組づつで巣を拵へるものがある。但しこれは風雨に對して巣を守るために力を協せるだけで、一疋が危險に遇うた場合に他のものがこれを助けるといふまでには至らぬ。されば、「共和政治鳥」といふ俗稱が附けてはあるが、大統領を選擧して政治を委ねるらしい形跡は見えぬ。また前に例に擧げた「あざらし」などは、多數集まつて働いて居るときには、必ず番をする役のものがあつて、危險の虞があれば、直に扁たい尾で水面を打つて相圖をすると、その響を聞いて皆殘らず水中へ飛び込んでしまふ。かやうな團體は已に多少の組織が具はつて、事實互に相助けて居るから、最早社會といふ名を冠らせても宜しからう。「をつとせい」や「あしか」などが、多數岸に上つて眠る場合にもこれと同樣のことをする。野牛の團體に就いては前にも述べたが、象の如きも群れをなして森の中を進むときには、必ず強い牡が周圍を警護し、牝や子供は中央の安全な處を歩かせる。猿の類には猩々〔オランウータン〕などの如く、夫婦と子供とで一家族を造つて生活して居るものもあるが、また多數集まつて群居して居る場合には、無論或る程度までは協力一致して働くが、個體の間には必ずしも爭鬪がないわけではなく、かしこでもこゝでも小さな爭は絶えず行はれて居る。猿の群では、その中で最も力の強く最も牙の大きな牡が大將となつて總勢を指揮し、強制的に全部を一致させて居るが、猿の程度の群集には生活上この仕組みが却つて目的に適うて居るやうに思はれる。
[「ひひ」が石を投げる]
[「ひひ」の類は口吻が突出ゐるので横から見れば顏の形やや犬に似てゐて鋭い牙がる。常に岩石等の上に群居し盛に石を投げて敵を防ぐがから容易に近づかれない。圖に示すのはアフリカ産の一種である。]
[やぶちゃん注:本図は底本の刷りが非常に薄いため、国立国会図書館蔵の大正一五(一九二六)年版の図を同ホームページより挿絵のみトリミングして転載した。国立国会図書館使用許諾済(許諾通知番号国図電1301044-1-5702号)。]
[やぶちゃん注:「共和政治鳥」とはスズメ目スズメ亜目スズメ小目スズメ上科スズメ科スズメハタオリ亜科 Philetairus(フィレタイルス)属シャカイハタオリ
Philetairus socius(英名“Sociable Weaver”)を指している。英名の「社会性のある織工」や、その訳語の和名は、草などを編んで巨大な傘のような共同巣を集団で営巣することに由来する。ボツワナ・ナミビア・南アフリカに分布し、全長約一四センチメートル、体重約二五グラム。昆虫や種子を餌とする。背面と翼は黒っぽい色をしており、尻は淡黄色、背面と頸や翼には鱗のような模様があって尾羽は黒色。下面は淡黄色がかった白色、冠羽は薄い茶色、顎は黒い。顔は仮面をつけたような模様があり、嘴は青みがかった灰色。眼は暗褐色。脚と足は青灰色である(♀♂は外見が似、幼鳥は成鳥と比べて色がくすんで顔は黒くなく嘴は薄い茶色)。群居性が強い種で、繁殖においては独特の数百羽にも及ぶ驚くべきコロニーを形成する。♀は二~六個の卵を産卵して二週間ほど抱卵、雛は雌雄両方で世話をする。孵化後、幼鳥は十六日間程度で羽毛が生えそろう(以上の記載は主に「鳥類動画図鑑」(但し、本種の動画はない)の「シャカイハタオリ」に拠った。巨大な共同巣と本種の動画は“Birds Build Huge Communal Nests in Desert”をご覧あれ)。なお、似たような造巣をし、名も酷似するスズメ上科ハタオリドリ科 Ploceidae に属する一群(実際に伝統的な旧分類では Philetairus 属もこちらに入っていた)は、主にサハラ砂漠以南のアフリカに棲息する(一部南アジアや東南アジア棲息し、南北アメリカにも外来種として棲息)ので、丘先生のイメージの範疇にはこれらも含まれていたはずである。荒俣宏氏の「世界大博物図鑑4 鳥類」(平凡社一九八七年刊)の「ハタオリドリ」の項には、シャカイハタオリの
Philetairus という属名は、ギリシア語で“Philos”(愛すべき)+“etairos”(仲間)の意とあり、二百~三百もの『つがいが一緒になって巨大な共同巣をつくる習性に由来する』とする。その巣は『小さな木に一見巨大な傘を思わせる共同巣をつくる』が、この巣、下側に設けられた入口は、ちゃんとつがい毎に別々となっているとあり、それは先に示した動画でも確認出来る。
『「あざらし」などは、多數集まつて働いて居るときには、必ず番をする役のものがあつて……』の部分は講談社学術文庫版では「あざらし」は『海狸(ビーバー)』とある。「あざらし」でもおかしくはないが、「多數集まつて働いて居るとき」「扁たい尾で水面を打つ」「その響を聞いて皆殘らず水中へ飛び込んでしまふ」というシークエンスの叙述からは、ビーバーの方が確かにしっくりくるように思われ、ここは初版の誤りがずっと踏襲された可能性が高いように感じられるのである。そもそも後文で『「をつとせい」や「あしか」などが、多數岸に上つて眠る場合にもこれと同樣のことをする』というのは、ここが「あざらし」では、屋上屋の感が拭えないからでもある。同等ではなく、より古形的な齧歯(ネズミ)目のビーバーを挙げてこそ意味があると考えるからでもある。
「圖に示すのはアフリカ産の一種である」〈図のキャプション〉これは図から見ても霊長目直鼻猿亜目狭鼻下目オナガザル上科オナガザル科オナガザル亜科ヒヒ属マントヒヒ
Papio hamadryas であろう。それにしても、丘先生の挿絵の選び方は、後代のヴィジュアル・クレーターの先駆者であった大伴昌司も真っ青ではないか! この絵は「少年マガジン」の図解の一齣と偽っても、皆、信ずること、請け合い!]
以上二、三の例でもわかる通り、動物の社會にもさまざまの程度のものがあるが、蜂や蟻で見る如き完全な社會は如何にして生じたかと考へるに、比較的小さな群集が數多く相 竝んで存在して絶えず劇しく競爭したと假定すると、その結果として必ずかやうな完結した社會が出來上がるべき筈である。群集と群集とが相戰ふときには、協力一致する性質の少しでも優つた方が勝つ見込みが多く、特に味方のためには命も惜しまぬものの集まりと、危難に遇へば友を捨てて逃げ去るものの集まりとが相對する場合には、前者の勝つべきは勿論であるから、これらの性質の優れた群集が常に勝つて生存し、その弱つた群集は絶えず敗けて滅亡し、年月の重なる間には益々これらの性質が進歩して、終に今日の蜂や蟻の社會に見る如き程度まで發達したのであらう。されば蟻の勉強も蜂の勇氣も共に生存に必要なる性質として、自然淘汰の結果、次第次第に進み來つたもので、一個體を標準として見ると損になる場合が屢々あるが、その屬する團體を標準として見ると、無論極めて有功である。即ち蟻の擧國一致も、蜂の義勇奉公も、實は團體が食つて産んで死ぬために必要なことで、種族生存の目的からいへば「山荒し」が棘を立て、「スカンク」が臭氣を放つのと同じ役に立つて居る。たゞ同一の目的を達するために、それぞれ異なった手段を採つて居るといふに過ぎぬ。
三 分業と進歩
[珊瑚類の分業。群體中の個體八疋だけを示す]
[左から一番目と八番目との個體は群體の防禦を引き受けるもの
二番目、五番目、六番目の個體は餌を食ふことを専門とするもの
三番目、四番目、七番目の個體は生殖を司どるもの]
社會が完結すると同時に生ずることは分業である。身體の連續した動物の群體を見るに、個體の形狀も働きも全部一樣のものもあるが、個體間に分業が行はれ、分擔の仕事が各々專門に定まつて、體の形狀もこれに應じて幾通りか區別の出來るやうになつた種類が頗る多い。淡水に産する苔蟲では一群體内の個體は形がたゞ一通りよりなく、珊瑚などで表面から見える個體は皆形が相同じであるが、珊瑚に似た動物で、「やどかり」の殼の外面に附著した群體を造るものには個體に三種類の別があつて、一種は食物を捕へて食ふことを司どり、一種はたゞ生殖のみを役目とし、他の一種は敵に對して群體を防禦することのみを己が務として居る。この動物の構造は「ヒドラ」を多數集めて、尻の處で互に連絡させ、これを芝の如くに一平面の上に擴げたと想像すれば、大概の見當は附くが、その「ヒドラ」の如き形の個體を調べて見ると、觸手も長く口も發達して、餌を食ふに適すると思はれる形のものが多數を占めて居る間に交つて、形が稍々細く觸手も短いものが幾つもある。そしてこれらのものには、必ず體の中央から恰も柿の木の枝に柿の實が生つて居る如くに、小さな丸い實の如きものが突出して居るが、これが即ち生殖の器官で、成熟すればその中から子が游ぎ出すのである。一群體の内個體は、悉く身體が互に連絡して滋養分はいづれにも行き渡るから、食物を捕へて食ふ役目の個體がよく勉強してくれさへすれば、生殖を司る方の個體は四方から十分に滋養分を得て、盛に子を産み續けることが出來る。
[やぶちゃん注:『珊瑚に似た動物で、「やどかり」の殼の外面に附著した群體を造るもの』これは刺胞動物門ヒドロ虫綱花水母目ウミヒドラ科ウミヒドラ属キタカイウミヒドラ
Hydractinia uchidai を指していると考えられる。キタカイウミヒドラ Hydractinia uchidai は北海道に分布し、ヤドカリ類の入った巻貝の殻上に群体を形成する。マット状のヒドロ根上には、最高七〇本糸状触手を持つ栄養ポリプ、六~十二本の糸状触手を持つ小型の生殖ポリプ、鞭状の指状ポリプ、及び刺が見られ、各生殖ポリプには一本当たり最高で五個の子嚢が形成される。なお、同科のイガグリガイウミヒドラ Hydrissa sodalis (本種はウミヒドラ属に入れる場合もある)は、日本各地に分布するが、巻貝の殻の破片に憑りつき、それ自体が巻貝の介殻に酷似した骨格をそこから形成し、ヤドカリ類がこれを貝殻と同様に棲管として入り込んで棲むという点で特異である。形成する骨格には長さ一〇ミリメートルほどの樹枝状の突起が散在し、各突起はさらに小刺を具備する。更に骨格の殻口付近には指状ポリプが分化して密生し、これは最高二〇個の瘤状をした刺胞塊を持っている。栄養ポリプや生殖ポリプはキタカイウミヒドラに同じい(以上は「原色検索日本海岸動物図鑑[Ⅰ]」(保育社平成四(一九九二)年刊)」の記載を参照した)。]
[くだくらげ]
(イ)浮子の役を務める個體
(ロ)運動を司どる固體[やぶちゃん注:「固」はママ。]
(ハ)食物を食ふ個體
(ニ)群體の中軸
(ホ、ヘ)保護する固體の蔭に隱れた食物を食ふ個體[やぶちゃん注:「固體」はママ。]
(ト)生殖を司どる個體
(チ)保護する個體
(リ)食物を食ふ個體
(ヌ)保護する個體の蔭に物を食ふ個體の隱れた所
(ル)保護する個體
(ヲ)食物を食ふ個體
(ワ)觸手の絲
群體内で個體の間に分業の行はれて居る最も著しい例は、恐らく「くだくらげ」と名づける動物であろう。これもその構造は、あたかも數多くの「ヒドラ」を束にした如きものであるが、分業の結果各個體の形狀に著しい相違が生じ、すべてが相集まつて初めて一疋の動物を成せるかの如くに見える。すべて「くだくらげ」の類は群體を成したまゝで海面に浮んで居るが、その中軸として一本の伸縮自在の絲を具へ、これに、「ヒドラ」の如き構造の個體が列をなして附著して居るものが多い。そしてこの數多い個體の間には殆ど極度までに分業が行はれ、各個體は自身の分擔する職務のみを專門に務め、そのため各々特殊の形狀を呈して、中にはその一個體なることがわからぬ程に變形して居るものさへある。まづ中軸なる絲の上端の處には、内に瓦斯を含んだ嚢があつて浮子の役を務めて居るが、丁寧に調べて見ると、これも一疋の個體であつて全群體を浮かすことだけを自分の職務とし、それに應じた形狀を具へて他の作用は一切務めぬ。次に透明な硝子の鐘の如きものが數個竝んで居るが、生きて居るときはこの鐘が皆「くらげ」の傘の如くに伸縮して水を噴き、その反動によつて全群體を游がせる。尤も一定の方向に進行せしめるわけではなく、單に同じ處に止まらぬといふだけであるが、浮游性の餌を求めるには、これだけでも大いに效能がある。それから下の部には、木の葉の如き形のものが處々に見えるが、これは他の個體を自分の蔭に蔽ひ隱して保護することを專門の務とする。前の鐘形の物と同じく、これも各々が一個體であつて、その發生を調べると、始め「ヒドラ」と同じ形のものが、次第に變形して終にかやうになつたのである。木の葉の形の物の蔭から延び出て居るのは、食物を食ふことを專門とする個體で、形狀はまづ「ヒドラ」と同じく圓筒形で、その一端に口を具へて居る。但し「ヒドラ」とは違つて口の周圍に觸手がない。さすが食ふことを專門とするだけあつて、極めて大きく口を開くことが出來て、時とすると恰も朝顏の花の開いた如き形にもなる。またこれに交つて指のやうな形で口のない個體があるが、これは物に觸れて感ずることを務める。その傍からは一本長い絲が垂れて居るが、これは即ち伸縮自在の觸手であつて、その先には敵を刺すための微細な武器が塊になつて附いて居る。「くだくらげ」に烈しく刺すものの多いのはそのためである。この類は水中で觸手を長く伸し、浮游して居る動物に觸れると、この武器を用ゐて麻醉粘著せしめ、觸手を縮めて物を食ふ個體の口の處まで近づけてやるのである。その外、別に生殖のみを司どる個體が處々に塊つて居るが、これは大小の粒の集まりで、恰も葡萄の房の如くに見える。「くだくらげ」の一群體はかやうに種々雜多に變形した個體の集まりで、各種の個體は生活作用の一部づつを分擔し、餌を捕へる者はたゞ捕へるのみで、これを食ふ者に渡し、食ふ者はたゞ食ふだけで、餌が口の傍に達するまで待つて居る。浮く者は浮くだけ游ぐ者は游ぐだけの役目を引き受けて、他の仕事は何もせず、木の葉の形した個體の如きは、單に他のものに隱れ場所を與へるだけで、殆ど何らの生活作用をもなさぬ。各個體の構造が皆一方にのみ偏して居る有樣は、これを人間に移したならば、恰も口と消化器のみ發達して、手も足もない者、手だけが大きくて他の體部の悉く小さな者、眼だけが無暗に大きな者、生殖器のみが發達して胴も頭も小さな者といふ如き畸形者ばかりを紐で珠數繫ぎにした如くであるが、これが全部力を協せると何の不自由もなしに都合よく生活が出來るのである。
[やぶちゃん注:「くだくらげ」ここで丘先生が挙げている種は刺胞動物門ヒドロ虫綱クダクラゲ目 Siphonophora の中でも、気胞体・泳鐘・保護葉を総て持っている点から、胞泳(ヨウラククラゲ)亜目
Physonectae に属する種を指している。胞泳亜目 Physonectae にはヨウラククラゲ科 Agalmidae やバレンクラゲ科
Phrysophoridae など数科に別れるが、中でもここで示された図の形状からみるとヨウラククラゲ科のシダレザクラクラゲ Nanomia bijuga(もしくはその近縁種)を示したもののように推測される。ウィキの「ヨウラククラゲ」(これは内容的には科レベルでの記載と読んだ)には、『その体は複数の個虫が役割を分担するポリプの群体から成り、カツオノエボシの様な管クラゲである。「ヨウラク」の由来は仏壇の飾りの「瓔珞」に似ている事からという説と、揺れて落ちることを意味する「揺落」からの二説ある』とあり、日本の太平洋岸に分布する暖海性外洋性の『透明な棒状の形のクラゲである。長さは一三センチメートル、幅三センチメートルを越えるものも。頂端に小気泡体のある橙黄色の幹から泳鐘が左右二列で数十個連なり、十二角柱型。伸びると、側枝には刺胞叢と八~九回巻いた赤色の刺胞帯がある触手が外に長く垂れる。体はとても脆く、手で触れると泳鐘は簡単にバラバラになる』(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)とあり、私が拘る『しかし、体は脆いとはいえ、カツオノエボシに匹敵する刺胞毒が強い種もいるので、本来は触るべきでない』危険動物指示がしっかりと示されているのが何より嬉しい。なお、代表的なヨウラククラゲ
Agalma okenii に同定しなかった理由は、例えばTBSブリタニカ二〇〇〇年刊の並河洋著「クラゲ ガイドブック」のヨウラククラゲの記載によれば、Agalma okenii の泳鐘部と栄養部の大きさはほぼ同じ長さ(栄養部がやや太い)で、泳鐘部は二列に並んだ十個の泳鐘が互いに重なり合って十二角柱となっているとあり、その付属写真をみても図の形状とはかなり異なるからである。対するシダレザクラクラゲ
Nanomia bijuga の写真は、その群体が頗る細長い。更に同記載には二列の泳鐘が十個以上見られ、その下には泳鐘部の数倍の長さになる栄養部が枝垂桜の枝のような姿形で続いている、とあって本図ともよく一致するからである(同種の分布は本州中部以南沿岸とある)。]
[同一の種類に屬ししかも形狀を異にする働蟻四種]
個體が一個一個に離れながら社會を造つて生活する動物にも分業の行はれて居るものが多い。蜜蜂の如きものでも、生殖を司どる雌蜂・雄蜂の外に、巣の内外のすべての仕事を一手に引き受けて働く働蜂といふものがあつて、個體の形狀が三種類になつて居るが、蟻の類では更に分業が進んで、個體の形狀にも種類の數が殖えて居る。雌蟻・雄蟻の外に働蟻のあることは蜂と同じであるが、働蟻の中にはさまざまの分擔が行はれ形狀の異なつたものが幾種類もある。地面に少し砂糖を散して多數の蟻の集まつて來た所を見ると、顎が非常に大きく、隨つて頭の著しく大きなものが普通の働蟻に交つて處々に居るが、これらは兵蟻というて、特に敵に對して自分の團體を守ることを專門とする働蟻である。また普通の仕事をする働蟻の中に猫と鼠程に大いさの違ふ二組を區別することの出來る種類もある。これらはどこの國でも見かけることであるが、北アメリカのメキシコ國に産する蟻の一種では、働蟻の中の若干のものは、たゞ蜜を嚥み込んで腹の中に貯へることだけを專門の役目とし、生きながら砂糖壺の代りを務める。他の働蟻の集めて來た蜜を幾らでも引き受けて嚥み込むから、身體の形狀もこれに準じて變化し、頭と胸とは普通の蟻と餘り違はぬが、腹だけは何層倍にも大きく膨れて恰もゴム球の如くになつて居る。そして活潑に運動することは勿論出來ぬから、たゞ足で巣の壁に引き掛つて靜止して居るが、その幾疋も竝んで居る所を見ると、棚の上に壺が竝べてあるのと少しも違はぬ。蜜の入用が生ずると、他の働蟻がこの壷蟻の處へ來て、その口から一滴づつ蜜を受け取つて行くのであるから、働に於ても棚の砂糖壺と全く同じである。前に述べた「くだくらげ」の瓦斯袋でもこの壺蟻でも各々一疋の個體でありながら、單に物を容れる器としてのみ用ゐられて居るのであるから、個體を標準として考へると何のために生きて居るのか、殆どその生存の意義がない如くに見える。しかし團體を標準として考へると、かやうな自我を沒却した個體の存在することは、その團體の生活には有利であつて、かやうなものが加はつて居るので全團體が都合よく食つて産んで生存し續け得るのである。團體と團體とが競爭する場合には一歩でも分業の進んだものの方が勝つ見込が多いから、長い年月の間には次第に分業の程度が進んで、終に浮子の代り壺の代りなどを專門に務める個體までが出來たのであらう。
[壺蟻]
[やぶちゃん注:「北アメリカのメキシコ國に産する蟻の一種」は後掲されるその中の分業化した「壺蟻」の形態から、ミツツボアリ(蜜壺蟻)という和名を持つハチ目ハチ亜目有剣下目スズメバチ上科アリ科ヤマアリ亜科ミツツボアリ属
Myrmecocystus の一種を指しているものと思われる。ウィキの「アリ」には、『オーストラリアに分布。名の通り花の蜜を採集し、巣の中に待機する働きアリをタンクにして蓄える。タンク役のアリは腹を大きく膨らませて巣の天井にぶらさがり、仲間のために蜜を貯め続ける。蜜を貯めたものはアボリジニの間食用にされる』とオーストラリアに限定的に分布するような記載があるが、私の好きな番組であるNHKの「あにまるワンだ~」の公式サイト内の当該属の解説には、全長一二ミリメートルで、『オーストラリア、メキシコ北部などの乾燥地に住む。巣に、仲間が集めた花の蜜をお腹に貯めこむアリがいる。仲間は、食べ物が少なくなると、この貯蔵アリから蜜をもらう』とあるから間違いない。属名“Myrmecocystus”の“Myrmeco-”はギリシア語の「蟻」を意味する接頭辞で、“cystus”は植物のマメ目マメ科エニシダ属と同じ綴りであるから、私の推測であるが、まさにこの「壺」担当の蟻のぶら下った姿を、エニシダの総状花序で多数の花を附けているさまに擬えた命名ではなかろうか。グーグル検索の「ミツツボアリ」の画像検索はこちらを……ハデスの美しき宮殿である……
「浮子」は「うき」と読む。]
四 協力と束縛
單獨に生活する動物では成功すれば自身だけが利益を得、失敗すれば自身だけが損害を蒙るのであるから、笑ひたいときに笑ひ、泣きたいときに泣くのも勝手であるが、多數相集まつて力を協せ敵に當る場合には大に趣が違ひ、常に全團體の利害を考へて、各自の擧動を加減しなければならぬ。笑ひたいときにも、もし自分の笑ふことが團體に取つて不利益ならば、笑はずに怺へて居なければならず、泣きたいときにも、若し自分の泣くことが團體のために不利益ならば、泣かずに忍ばねばならぬ。これが即ち所謂義務であつて、義務のために自由の一部を制限せられることは、團體生活を營む動物の免れぬ所である。しかし團體生活によつて生ずる生活上の利益は、この損失を償つてなほ餘りがあるから、種族全體の利害からいへば、個體の自由の制限せられることは頗る有望な方面に進み行くものと見做すことが出來る。「自由を與へよ。しからざれば死を與へよ。」との叫びは如何にも壯快に聞えるが、絶對の自由は團體生活をする動物には禁物であつて、もしこれを許したならば、團體は即座に分解して、敵なる團體と競爭することが出來なくなる。團體内の一部の者が暴威を振つて殘りの者を壓制するために、個體間に反抗の精神が盛になり、自分の屬する團體をも呪ふ如き者の生ずることは、その團體の生存上大に不利益であるから、かゝる場合に壓制者に對して自由を叫ぶもののあるのは當然であるが、團體生活をなす以上は、條件附の自由より外に許すことの出來ぬは論を待たぬ。
[やぶちゃん注:「怺へて」は「こらへて」と読む。
「自由を與へよ。しからざれば死を與へよ。」“Give me liverty or give me death.”はアメリカ合衆国の政治家パトリック・ヘンリー(Patrick
Henry 一七三六年~一七九九年)の名文句。イギリスとの開戦を強く主張しこの名言を以ってイギリスに対する抵抗運動を扇動、アメリカに独立をもたらした人物。]
群體を造つて生活する動物でも、個體間にまだ分業の行はれぬ種類ならば、一疋づつに離しても生存が出來ぬこともないが、幾分でも分業が進んで、個體間に形狀や作用の相異なつたものの生じた場合には、これを別々に離しては到底完全な生活を營むことは出來ぬ。假に大工と仕立屋と百姓とが一箇所に住んで居ると考へれば、大工は三人分の家を建て、仕立屋は三人分の衣服を縫ひ、百姓は三人分の田を耕して、三人ともに安樂に暮せるが、これを一人づつに離したならば、大工も縫針を持たねばならず、仕立屋も肥桶を擔がねばならず、極めて不得手なことをも務めねばならぬであらうから、衣食住ともに頗る不自由なるを免れぬ。個体間に分業が行はれて居る動物を一疋づつに離したならば、いつでもこれと同樣な不便が生ずる。人間ならば誰も身體の形狀が同じであるから、大工が縫針を持ち、仕立屋が肥桶を擔ぐことも出來るが、群體を造る動物では、各個體の形狀・構造がその受け持ちの役目に應じて變化して居るものが多いから、一疋づつ離しては到底一日も生活が出來ぬであらう。例へば、「くだくらげ」の群體をばらばらに離したと假定すると、鐘形の個體は泳ぐだけで餓死し、葉形の個體は蔭に隱れるものがないから何の役にも立たず、物を食ふ個體は口を大きく開いて居ても餌をくれるものがなく、觸手は餌を捕へて收縮してもこれを持つて行く先がない。かやうな動物では種々の個體が集まつて、初めて完全な生活が出來るのであるから、個體は互に離れることが出來ぬ。そして他と離れることが出出來ぬといふことは既に大なる束縛である。
蜜蜂や蟻の社會では個體の身體は相離れて居るが、各自分擔が定まつて皆揃はねば完全な生活が出來ぬといふ點では、「くだくらげ」と同樣である。雌蜂・雄蜂だけでは卵を産むだけは出來ても、これを保護する巣も造れず、卵から孵化した幼蟲を養育することも出來ぬ。また働蜂だけでは子が生まれぬから一代限りで種族が斷絶する。働蟻の方でももこれと同樣であるが、メキシコ産の壺蟻の如きに至つては、一疋づつに離しては全く生存の意義がなくなる。されば蜂でも蟻でも、たゞ自己の屬する團體のためにのみ力を盡すやうに束縛せられて居るのである。但し、「くだくらげ」でも、蜂・蟻でも各個體は事實上かやうに束縛せられては居るが、これを人間社會で用ゐる普通の意味の束縛と名づくべきか否かは頗る疑はしい。なぜといふに、束縛といへば必ずその反對に自由のあることを豫想する。自由に動きたがるものに、制限を定めることが即ち束縛であるが、束縛せずともそれ以外のことを爲さぬものに對しては束縛といふ文字は當て嵌まらぬ。「くだくらげ」でも蜂・蟻でも長い年月の團體的競爭を經て、自然淘汰の結果今日の有樣までに達したのであるから、各個體の神經系は、たゞ團體のためにのみ力を盡す本能が現れるやうに發達して、生まれながらに團體に有利なことのみを行ふのである。蟻が終日働くのは怠けたい所を努めて働くのではなく、働かずに居られぬ性質を持つて生まれたから働くのである。蜂が敵を刺すのは、自己の屬する團體の危險を知り、大切な命をも捨てて掛るわけではなく、敵が來ればこれを刺さずには居られぬ性質を生まれながら具へて居るからである。かやうな次第で、各個體は自身の役目だけを務める天性を持つて生まれ、相集つて團體を造つて居るのであるから、その務以外のことは特に禁ぜずとも行ふことはない。隨つて禁ぜられても少しも束縛とは感ぜぬ。恰も胃が呼吸を禁ぜられ肺が消化を禁ぜられても束縛とは名づけられぬのと同樣である。
かやうに論じて見ると、團體生活のために個體の行動を束縛せられるのは、たゞ同一の目的のために力を協せて働く群集、もしくは低度の社會だけである。單獨生活を營む動物は何の束縛をも受けぬ。尤も魚が水より出られぬとか、蛙が海を渡れぬとかいふ如き、天然の束縛は無論あるが、その他の束縛は少しもない。珊瑚や苔蟲の如き群體をなす動物では個體の身體が皆互に連絡し、全群體が恰も一疋の如くに生活して、各個體はたゞその一部分として働くから、これまた特に束縛と名づくべきことは起らぬ。また蟻や蜂の社會では、各個體の神經系がたゞ團體生活にのみ適するやうに發達し、身體は相離れて居ても生活上には各社會が全く完結して、恰も一個體の如くに働くから、大なる束縛が行はれて居ながら、何らの束縛ともならぬ。たゞ多くの鳥類・獸類の群集の如き場合には、各個體には個體を標準とした生存競爭に勝つべき性質が發達し、これが相集まつて力を協せんと務めて居るのであるから、各個體には自分を中心とした慾があり、他と力を協すには多少この慾を抑へねばならぬ。團體をなして生活するために各個體が行動を束縛せられるのはこのやうな類に限ることである。
五 制裁と良心
[「からす」の巣]
束縛のないところでは束縛を破るものもなく、隨つて制裁を加へる必要も起こらぬが、鳥類・獸類の如き、各自勝手の慾情を具へたものが群集を造つて共同の生活をして居る處で、もし一匹のものが、自分一個の慾情のために全團體に不利益な行爲をした場合には、これに制裁を加へねばならぬ。團體生活をなす動物が全團體の利害を標準として自分一個の自由の一部を犧牲とするのはその個體の義務であるが、團體の一員として、團體生活より生ずる利益に與り得ることは、これに對する權利である。されば義務を盡さぬ者には制裁として、その權利を剝奪すれば宜しいのであるが、團體をなす動物では、自己の屬する團體以外のものは皆敵であるから、團體の一員たる權利を奪はれたものは、殘餘のものから敵として取扱はれ、衆寡敵せずして到底殺され終るを免れぬ。但し二個以上の團體が相對立して競爭している場合には、各團體ともにその内の員數の減ることは、戰鬪力を減少し大に忌むべきことであるから、單に折檻を加へて將來を誡めるだけで殺さずに置くことも常である。猿類には團體生活を營む種類が澤山あるが、各團體には力の強い經驗に富んだ雄が大將となつて全體を指揮し、常に一致の行動を取るやうになつて居る。大將の命に背いた者は嚴しく罰せられ、暫時はこれに懲りて全く温良な臣民となる。但し日數を經る間には、また前の刑罰を忘れて、大將の命に從はぬやうなことも生ずる。「からす」なども近處に巣を造るものの中に、隣から巣の材料を盜み來つたもののあることが知れると、多數集まつてその一疋の「からす」を責め、交る交る啄いて終に殺してしまふ。これはたゞ一例に過ぎぬが、共同の目的のために協力して働く動物の群集には、必ず何かこれに類することがある。鳥類・獸類ともにかゝる習性を有するものは頗る多いが、多數の個體が集まつて組合を造る場合には、その秩序安寧を保つためには何かの規約が行はれなければならず、隨つてこれを破るものは組合から制裁を受けねばならぬ。そして制裁の程度には輕重があり、殺されてしまふものもあれば、半殺し位で赦されるものもある。
以上述べた所から考へて見るに、大部の道德書や複雜な法典を所持して居るものは、人間以外の動物には無論一種もないが、義務・權利・規約・制裁などの芽生えの如きものは種々の動物の郡集で既に見る所である。また善とか惡とか良心とか同情とかいふ言葉も、かやうな程度の社會には多少當て嵌らぬこともない。これらの關係は人間の如き大きな複雜な團體では種々の事情のために判然せぬやうになつて居るが、比較的小さな團體が幾つも相對して劇しく競爭している場合を想像すると最も明瞭に知れる。團體の一員である以上は、各團體は或は戰線に立つか或は後方勤務に從事するかいづれかに於て奮鬪し、團體の不利益になることは決してせぬやうに愼まねばならぬが、人間の社會で善と名づけることは、これを小さな團體で實行すれば皆戰鬪力を增すことのみである。また惡と名づけて居ることは皆戰鬪力を滅ずることばかりである。例へば同僚を殺すことは惡といふが、これは戰鬪力を減ずる。同僚の危險を救ふことは善といふが、これは戰鬪力を增す。虛言は惡といふが、これは同僚を誤らせて戰鬪力を減ずる。正直は善といふがこれは同僚互に信じて戰鬪力を增す。一個體が命を捨てたために全團體が助ればこれは最上の善であり、一個體が誤つたために全團體が亡びればこれは極度の惡である。大きな團體では、自殺は各個體の勝手のやうに思はれるが、百疋からなる小團體では一疋が自殺すれば戰鬪力が明に百分の一だけ減ずるから、惡と名づけねばならぬであらう。小さな團體では各個體の行爲が全團體のために有利であつたか、有害であつたかが直に明に見えるから、善の賞められ惡の罰せられる理由も極めて明瞭に知られ、善の賞められずして隱れ、惡の罰せられずして免れる如きことは決してない。そして惡の必ず罰せられることを日頃知つて居れば、自分が偶々惡を犯したときには、罰の免るべからざることを恐れてなかなか平氣では居られぬ。これが即ち良心ともいふべきものであらう。小團體同志の間に生育競爭が劇しく行はれ、善を行ふ個體から成る團體は常に生存し、惡を行ふ個體から成る團體は亡び失せれば、終には各個體が生まれながらに善のみを行ふ團體が生じ、今日の蟻・蜜蜂の如くに善もなく惡もなく良心もなく制裁もなしに、すべての個體がたゞ自分の屬する團體のためのみに働くものとなるであらう。これに反して各團體が益々大きくなり、團體間の競爭よりも團體内の個體間の競爭の方が劇しくなれば、善は必ずしも賞せられず、惡も必ずしも罰せられず、規約は破られ良心は萎靡して、單獨生活を營む動物の狀態に幾分か近づく免れぬであらう。
[やぶちゃん注:「萎靡」は「ゐび(いび)」と読み、なえてしおれること。衰えて活力を失い、衰退することを言う。]
生物の生涯は食つて産んで死ぬのであるが、食つて産んで死なうとすれば絶えず敵と戰はねばならぬ。そして團體を形造ることは敵と戰ふに當つて、攻めるにも防ぐにも頗る有功な方法である。身體の互に連絡して居る群體では、全部が恰も單獨生活を營む一個體の如くに働くが、若干の離れた個體が一處に集まつて幾分か力を協せ不完全な社會を造り、共同の敵と戰ひながら食つて産んで死なうとすれば、そこに義務と權利とが生じ、是非と善惡との區別が出來、同情も良心も初めて現はれる。小團體の間に劇しい競爭の行はれることが長く續けば、各團體は益々團體生活に適する方向に進歩し、その内の各個體の神經系も次第に變化して、生れながらに義務と善と同情とを行はずには居られぬものとなるであらうが、人間などの如くに團體が大きくなつて、その間の勝負が急に片附かなくなると、この方向の進歩は無論止まつてしまひ、一旦發達し掛つた同情愛他の心は、再び個體各自の生存に必要な自己中心の慾情のために壓倒せられるやうにならざるを得ない。しかも意識に現はれる所は神經系の働の一小部分であつて、その根抵はすべて無意識の範圍内に隱れて居るから、今日の人間の所業には善もあれば惡もあり、同情もすれば殘酷なこともして、自分にも不思議に思はれる程に相矛盾したことが含まれるであらう。人類に於ける道德觀念は如何にして起り、如何なる經路を經て今日の狀態までに達したかは、素より大問題であつて、そのためには隨分大部な書物も出來て居る位であるから、無論本書の中に傍ら説き盡せるわけのものではない。それ故こゝには生物全體に就いて以上簡單に述べただけに止めて置く。