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生物學講話 丘淺次郎 藪野直史注釈附 目次頁へ戻る
生物學講話 丘淺次郎 はしがき 附藪野直史冒頭注を読む


生物學講話 第一章 生物の生涯
第一章 生物の生涯
 一 食うて産んで死ぬ

 二 食はぬ生物
 三 産まぬ生物
 四 死なぬ生物

 五 生物とは何か

生物學講話

       理学博士 丘 淺次郎 著
     第一章 生物の生涯
[やぶちゃん注:本冒頭にはハンセン病患者に対する、現在では到底、容認出来ない『頽れ果てた手足と眼鼻も分らぬ顏とを看板にして、道行く人の情に縋りながら尚生きんと欲する癩病の躄もある』という表現が現われる。我々は当時の最高学府を出た、博士号を持った学術的権威、真摯なる教育改革者さえも、こうした異常なる偏見と差別を持っていたことを熟知すべきであり、向後も現れるであろう時代的限界に基づく差別表現に対しては、常に批判的視点を忘れずに読み進めて戴くことを切望する。こうした差別表現に対しては、逐次、注記することが望ましい。でなければ、差別であることが認識されずに過ぎ、文字通り差別表現として、読者に悪影響を及ぼすからである。それが面倒なら、そもそも出版やテクスト化をせぬがよいというのが私の考えである。但し、言っておくなら、差別感覚派時秒刻みで変化する。大袈裟に言えば、昨日の普通は今日の差別表記として伏字化せねばならぬこととなる。いや、我々の「表現行為」とは区別化と差別化の行程を経て文字化されるものであってみれば、差別表現を絶滅させることは我々から識字能力を喪失させない限り、無理であるというのも私の持論である。更に私は、過去の差別表現をなかったものとするような「隠す」ための「改善」は、寧ろ、臭いものに蓋式の「改悪」であると考える人間である。また、漠然とした差別注記を巻末に記してお茶を濁す、免罪符とする輩も唾棄すべき存在として敵視する者でもある。従って、世間の出版物で行なわれているような、一括差別注記や文章の勝手な改変は一切しないことをここに表明しておく。その代わり、この部分のような「私が許し難い差別表現」に対しては、敢然と注記を施すことを敢えて言明しておく。謂わばこれは、私の感性の他者の文章への「差別表現」ででもあると言えよう。まさしくこうした私の『所行はいづれも當人等の相異なつた人生觀に基づくことで、甲の爲すことは乙不思議に思われ、一方の決心覺悟は他方からは全く馬鹿馬鹿しく見える』ということでもあろう。なお、当該部の「頽れ」は「くずおれ」と読む。「躄」は「ゐざり」と読み、現在は差別用語として用いるべきではない。]

 長い浮世に短い命、いつそ太く暮さうと考へる男もあれば、如何に細くともたゞ長く長く生きながらへたいと思ふ老爺もある。戀人と添はれぬ位ならば寧ろ死んだ方がましと、若い身體を汽車に轢かせる娘もあれば、頽れ果てた手足と眼鼻も分らぬ顏とを看板にして、道行く人の情に縋りながら尚生きんと欲する癩病の躄もある。十人十色に相異なる所行はいづれも當人等の相異なつた人生觀に基づくことで、甲の爲すことは乙不思議に思はれ、一方の決心覺悟は他方からは全く馬鹿馬鹿しく見える。著者は嘗てある有名な漢學の老先生が、眼も鈍り、耳も聞こえず、教場へ出て前列の生徒にさへ講義が分らぬほどに耄碌しながら、他人に長壽の祕法を尋ねられて、自分は毎晩床についてから手と足と腹と腿とを百遍づゝ靜かに撫でると、得意げに答へて居るのを側から聞いて、問ふ者をも、答へる者をも愍然に思はざるをえなかつたが、これもやはり人生觀の相異なつた故であらう。かやうに人々によつて人生觀の著しく異なるのは、素より先祖からの遺傳により、當人の性質にもより、過去の經歷にもより、現在の境遇にもよることであらうが、その人の有する知識の如何も大に與つて力あることは疑がない。而して、その知識といふ中にも、生物學上の知識の有る無しは人生觀の上に頗る著しい影響を及ぼすものであることは、著者の固く信ずる所である。
[やぶちゃん注:「愍然に」は「びんぜん」と読み、憐れむべきさまを言う。
「與つて」「あづかつて(あずかって)」。]
 抑々生物學とは動物學と植物學との總稱であるから、生物學講話といふ表題を見て、讀者は或は學校で用ゐる教科書を敷衍した如きものかと思はれるかも知れぬが、本書は決して、さやうな性質のものではない。本書は寧ろ生物學の範圍内から専ら人生觀に相觸れると考へられる事項を選み出し、之を通俗的に述べて生物學を修めぬ一般の讀者の參考に供するのが目的である。それ故これと關係の稍々少ない方面は全く省略しておいた。例えばこの種類の蟲の翅には斑點が一つよりないが、かの種類の蟲の翅には斑點が二つあると述べる如き記載的の分類學、こゝの山にはこのやうな獸が居る、あそこの海にはあのやうな魚が居るといふ如き生物の地理分布學、甲の動物の筋肉繊維には横紋があるが、乙の動物の筋肉繊維には横紋がないと論ずる如き比較組織學等は、一切略して述べない。されば本書は決して生物學の總べての方面を平等に殘りなく講述するものではないことを、先づ最初に斷つて置かねばならぬ。
 さて、人間も一種の生物であるから、生物學を修めた者から見ると人間の生活中に現れる各種の作業は、皆それぞれ生物界に之に類似すること、または之と匹敵することが必ずある。人間が産まれ死ぬ如くに他の生物も産まれて死ぬ。人間が戀する如くに他の生物も戀する。人間に苦と樂とがある如くに他の生物にも苦と樂とがある。人間社會に戰爭や同盟がある通りに生物界に戰爭や同盟がある。而して人生を觀るに當つてこれ等と比較して考へるのと、人間だけを別に離して他と比較せずに考へるのとでは、結論の大に異なるべきは言を待たぬ。芝居で同じ役者が同じ役を務めても、背景が違へば見物人の感じも大に異なるのと同じ理窟で、人生を觀るに當つても、何を背景とするかによつて、結論も著しく異なるを免れぬ。本書に於て今より説かうとする所は、即ち斯かる背景として役に立つべき事項を生物學の中から選み出して列べたものである。願はくば讀者は本書の内容を背景と見立てて、人間なるものを舞臺の上に連れ來つて日々の狂言を演ぜしめ、自分は棧敷から眺めて居る心持になつて虛心平氣に人生を評價することを試みられたい。遊興の場、愁歎の場、仇討の幕、情死の幕などが、それぞれ適當な生物學的の背景の前で演ぜられるときは、見物人に如何に異なった感じを與へるであろうか。若し斯くすることによつて幾分かなりとも、人生の眞意義をよく解したる如き感じが讀者に起つたならば、著者は本書を著した目的が達せられたこととして誠に滿足に思ふ次第である。

     一 食うて産んで死ぬ

 人間と普通の生物とを比較して見ると、些細な點では素より無數の相違があるが、その生涯の要點を摘まんで見ると、全く一致して居るといふことが出來る。少なくとも生まれて食うて産んで死ぬといふことだけは、人間でも他の生物でも毫も相違はない。動物の方は人間と相似て居る點が多いから、この事も明であるが、人間とは大いに異なる如くに見える植物でも、理窟はやはり同樣である。先づ親木に實が生じ、種が落ちて一本の若木が生ずるのは、木が生まれたのである。それからその木が空中に枝葉を擴げて炭酸ガスを吸ひ、地中に根を延ばして水と灰分とを取るのは、即ち食うて居るのである。斯くて段々成長して、花を咲かせ、實を生じ、種子を散らせて、多くの子を産み、壽命が來れば終に死んでしまふのであるから、これまた生まれて食うて産んで死ぬに外ならぬ。
 而して一疋の動物一本の植物を取つて言へば、その生涯の中に生まれる時と産む時とが別にあるが、數代を續けて考へると、生まれると産むとは同じであつて、單に同一の事件を親の方からは産むといひ、子の方からは生まれるというて居るに過ぎぬ。それ故これを一つとして數へると、生物の生涯なるものは、食うて産んで死ぬといふ三箇條で總括することが出來る。
[やぶちゃん注:「灰分」は「かいぶん」と読み、カルシウム・鉄・ナトリウム・カリウム・リンなど無機物を多く含んだもの。ミネラル。]
 斯くの如く、たゞ食うて産んで死ぬといふことだけは、どの生物でも相一致するが、然らば、如何に食ふか如何に産むか、如何に死ぬかと尋ねると、これは實は種々樣々であって、そこに生物學の面白味が存するのである。例へば食うといふても、進んで食物を求めるものもあれば、留まつて食物の來るのを待つものもある。武力で相手に打勝つものもあれば、騙して之を陷れるものもある。同じ餌を多數のものが求める場合には競爭の起るは勿論であるが、競爭に當つては、或は筋肉の強いものが勝ち、或は感覺の鋭いものが勝ち、或は知力の優れたものが勝つ。中には他の生物の食ひ殘しを求めて生活して居るものもある。また食ふ方にのみ熱中して居ると、自身が他に食はれる虞があるから、安全に食ふためには、一方に防禦を怠ることは出來ぬ。而して防禦するに當つても、主として筋肉を用ゐるもの、感覺によるもの、知力を賴むものなど、各々種類に隨うて相違がある。餌を攻めるにも、身を守るにも、多數力を協せることは頗る有利であるが、斯く集まつて出來た團體中には、敵を亡ぼし終わるや否や直に獲物の分配について劇しい爭の起る如き一時的の集團もあり、またいつまでも眞に協力一致を續ける永久的の社會もある。次に産むといふ方について見ても、單に卵を産み放すだけで、更に後を構はぬものもあれば、産んでからこれを大切に保護するものもある。卵を長く胎内に留めて幼兒の形の十分に具つた後に産むものもあれば、産んだ後更に之を教育して競爭場裡に生活の出來るまでに仕立てるものもある。特に雌をして卵を産ましめる前の雌雄の間の關係に至つては實に種々樣々で、中には奇想天外より落つるとでもいふべき思ひ掛けぬ習性を有するものも少なくない。また同じく死ぬというても、その仕方は色々あって、全身一時に死ぬものもあれば、一部だけが死んで餘は生き殘るものもあり、瞬間に死ぬものもあれば、極めて緩慢に死ぬものもある。親の死骸が子の食糧となるものもあれば、兄が死なねば弟が助からぬものもある。また同じ種類の個體が次第に悉く死んでしまうて、種族が全く絶滅することもある。かやうに數へて見ると、生物の食ひやう、産みやう、死にやうには、實に千變萬化の相違があつて、人間の食ひよやう、産みやう、死にやうは、たゞその中の一種に過ぎぬ。何事でもその本性を知らうとするには、他物と比較することが必要で、之を怠ると到底正しい解釋を得られぬことが多い。例へば地球は何かといふ問題に對して、たゞ地球のみを調べたのでは、いつまで過ぎても適當な答は出來ぬ。之に反して、他の遊星を調べ、その運動を支配する理法を探り求め、之に照し合せて地球を檢査して見ると、始めてその太陽系に屬する一小遊星であることが明に知れる。人間の生死に關する問題の如きも恐らく之と同樣で、たゞ人間のみに就いて考へて居たのでは、いつまでも眞の意味を解し得べき望みが少いではなからうか。
[やぶちゃん注:当たり前のことを丘先生は書いているのであるが……また科学の人間中心主義をも批判されておられるのであるが……逆に、これ、読んでいるうちに……何やらん、人間やその社会の、さまざまな破廉恥な様態を、皮肉めいて書いておられるように見えてくるから、実に、不思議!]

     二 食はぬ生物

 普通に人の知つて居る生物は、必ず物を食うて生きて居る。何を食ふか、如何に食ふか、何時食ふかは、それぞれ異なるが、とにかく食ふことは食ふ。小鳥類の如くに、一日でも餌を與へることを忘れると忽ち死んでしまふほどに、絶えず食物を要求するものもあれば、蛇類の如くに、一度十分に物を食へば、その後は數箇月も食はずに平氣で居るものもある。蛭の如きは一囘血を吸ひ溜めると、約二年は生きて居る。併しその後はやはり食物を要する。然らば、生まれてから死ぬまで少しも物を食はぬ生物はないかといふと、そのやうなものも全くないことはない。例へば輪蟲類の雄などはその一である。


[輪蟲 雌(左) 雄(右)]

 輪蟲というのは、顯微鏡を用ゐねば見えぬほどの極めて小さな蟲であるため、一向世間の人に知られては居ないが、池や沼の水草の間、檐の樋の中などに、どこにも澤山居る普通なものである。その形は圖に示した通りで、體の前端に稍々圓盤狀の部分があり、その周邊に粗い毛が並んで生え、常に之を振り動かして水中に小さな渦卷を起し、微細な食物を口ヘ流し入れる。之を顯微鏡で見ると恰も車輪が囘轉して居る如くであるから、學名も、通俗名も、みな「車輪を有する蟲」といふ意味に名づけてある。所が不思議なことには池からこの蟲を採集して見ると、いづれも雌ばかりで雄は殆ど一匹もいない。それ故昔はこの蟲の雄は學者の間にも知られなかつた。併しよく注意して調べると、雄も時々發見せられる。而して雄と雌とを比較して見ると、體の大きさも内部の構造も著しく違ひ、雄の方は遙に小さく、且口もなければ胃も腸もなく、體の内部は殆ど生殖器だけというて宜しい程で、卵から孵つて出ると、直に忙しく水中を泳ぎ囘つて、雌を探し求め、これに出遇へば忽ち交尾して暫時の後には死に失せるのである。即ち輪蟲の雄の壽命は生まれてから僅に數日に過ぎぬが、その間に物を食ふといふことは決してない。條蟲などは口も腸胃もないが、他の動物の腸内に住んで常に溶けた滋養物に漬かつて居ること故、體の表面から食物が浸み込んで來るが、輪蟲の雄は之と異なり、自由に水中を游いで居るのであるから、眞に一生涯中に少しも物を食はぬ生物である。
 然しながらよく考へて見ると、輪蟲の雄自身は一生涯なにも食はずに生活するが、斯く食物なしに活動し得るのは、生まれながら身體内に一定の滋養分を貯へて居るからである。輪蟲の卵は比較的に大きなものであつて、中に比較的に多量の滋養分を含んで居るから、卵の内で雄の身體が出來るに當つて、その身體の内には初から若干の滋養分がある。輪蟲の雄は、恰も滿腹の狀態で卵から孵り、その續く間だけ生存して、然る後に死に去るのであるから、これは全く食物を體内に含ませて親が産んでくれた御蔭といはねばならぬが、卵の内の滋養分は嘗て親の食うた食物の中から濾し取られたもの故、子が一生涯食はずに生きて居られるのは、實は親が子の分までも食うて置いた結果に過ぎぬ。されば食はずに生活の出來るということは、親が前以て子に代つて食うて置いた場合に限ることであつて、一種類の生物が絶對に食物なしに生活し得るといふことのないのは明である。
[やぶちゃん注:「輪蟲」扁形動物上門輪形動物門 Rotifera に属するワムシ類と総称される凡そ三〇〇〇種を数える動物群。参照したウィキの「輪形動物」によれば、『単為生殖をする種が多く、雄が常時出現する例は少ない。雄が全く見られない群もある。なお、雄は雌よりはるかに小さく、形態も単純で消化管等も持たない』とあり、周年生活環(ライフ・サイクル)の部分でも『多くの種が単為生殖をする。それらは条件のいい間は夏卵と言われる殻の薄い卵を産み、この卵はすぐに孵化して雌となり、これを繰り返す。条件が悪化するなどの場合には減数分裂が行われて雄が生まれ、受精によって生じた卵は休眠卵となる。休眠卵は乾燥にも耐え、条件がよくなれば孵化する。なお、ヒルガタワムシ類では雄は全く知られていない。他方、ウミヒルガタワムシでは雄が常時存在することが知られる』とある。なお、綱名の“Rotator”はラテン語で回転させる者、という意味で、“rota”は車輪の意である。見たことがない方のために、写真や分かり易い解説のある、どろおいみじんこ氏の「淡水プランクトンのページ」「ワムシ」をリンクさせておく。
「條蟲」扁形動物門条虫綱 Cestoda の単節条虫亜綱 Cestodaria 及び真正条虫亜綱 Eucestoda に属する、所謂、サナダムシ(真田虫)類の総称。長いものは十メートルを越える個体も存在する。]

     三 産まぬ生物


[蜜蜂の雄  蜜蜂の雌  働蜂]

[雄蟻  雌蟻  働蟻]
[やぶちゃん注:この図像を見ると、「雌蟻」とキャプションのある個体は頭部が有意に小さい。これは一般には雄蟻の特徴である。このキャプションは「雌蟻」と「雄蟻」とが誤っているのではあるまいか? 識者の御教授を乞うものである。]

 次に子を産まぬ生物はないかと考へると、これにも普通の例が幾らかある。世人も知る通り、蜜蜂や蟻の類には雄と雌との外に働蜂とか働蟻とか名づけるのがあるが、これらは一生涯他の産んだ子供を養ひ育てるだけで、自身に子を産むといふことは決してない。蜜蜂でも蟻でも多數集まつて社會を造る昆蟲であるが、その社會の大部分を成すものは右の働蜂または働蟻であつて、雄と雌とはいづれも實に少數にすぎず、蜜蜂に於ては子を産む雌はたゞ女王と稱するもの一疋より外にはない。而してこの少數の雌雄は子を産むことを專門の仕事とし、全社會のために生殖の働を引き受けて居る。隨つて食物を集めること、敵の攻撃を防ぐこと、巣を造ること、子を育てることなどは、總べて働蜂または働蟻の役目となり、朝から晩まで非常に忙しく働いて居る故、通常人の眼に觸れる蜂や蟻は、皆働蜂・働蟻のみである。然らば働蜂・働蟻なるものは雌雄兩性の外に一種特別の性を有するかといふと、決して左樣ではない。何故かといふに、解剖によつて體の内部の構造を調べて見ると、小さいながら卵巣も輸卵管も明に具へて居るから、慥に雌と見做すべきものである。たゞこれらの生殖器官はみな甚だ小さくて實際その働きをなすに適せぬといふに過ぎぬ。言を換へれば、働蜂・働蟻は、生殖器官の退化した雌である。これから考へて見ると、蜜蜂や蟻の雌は、分業の結果二種類の形に分れ、一は生殖器官が特に発達して、全社會のために生殖の働を引き受けるに適するものとなり、他は生殖器官が退化して生殖の働が出來なくなり、その代わりに他の體部の働が進んで、食物を集めること、子を育てることなどは、十分に出來るやうになつたものと見做さねばならぬ。
 右の外にもなほ、一度も子を産まずに生涯を終る生物は、人の見慣れぬやうな海産の下等動物には澤山に例があるが、いづれも團體を造つて生存する種類で、その中の個體の間に分業が行はれ、榮養を司どるものと、生殖の働きをするものとの別が生じたものである。斯くの如く一個體を取つて見ると、子を産まずに一生涯を終はるものは敢て珍しくはないが、種族全體として子を産まなかつたならば、その種族は無論一代限りで種切れとなるに定まつて居るから、そのやうなものは實際には決してない。生物でありながら、子を産まぬものは、必ず子を産む役を同僚に讓つて、自分はその他の仕事を引き受けて居る個體に限ることである。

      四 死なぬ生物


[アメーバ]

 「生あるものは必ず死あり」とは昔から人の言ふ所であるが、實際生物界に死なぬ生物はないかと尋ねると、「死」といふ言葉の意味の取りやうによつては、死なぬ生物が慥にある。長壽は何人も望む所で、死は何人も恐れる所であると見えて、不老不死の仙藥の話はいつの世にも絶えぬが、斯やうな藥を用ゐずとも、元來死ぬことのない生物があると聞いたら之を羨ましがる人が澤山あるかも知らぬ。先づ如何なるものが「死なぬ生物」と名づけられて居るかを述べて見やう。
 動物でも植物でも顯微鏡で見なければ分らぬやうな微細なものは、多くは全身がたゞ一個の細胞から成つて居る。尤も前に述べた輪蟲などは例外として稍々高等のものであるが、かかるものを除けば、他は大抵構造の頗る簡單なもので、その最も簡單なものに至つては、恰も一滴の油か、一粒の飯の如くで、手足もなければ、臟腑もない。屢々書物で引き合ひに出される「アメーバ」といふ蟲などもその一例であるが、その一例であるが、その他に尚「ざうりむし」、「つりがねむし」、「みどりむし」、「バクテリヤ」などは皆この類に屬する。夜海水を光らせる夜光蟲は、稍々形が大きくて、肉眼でも「數の子」の粒の如くに見え、風の都合で海岸へ多數に吹き寄せられると、水が全體に桃色に見えるほどになるが、これも一疋の體はたゞ一個の細胞から成つて居る。死なぬ生物と稱へられるのは斯やうな單細胞の生物である。


[夜光蟲]

 この類の生物は、生殖の方法が極めて簡單で、親の身體が二つに割れて二疋の子となるのであるから、何代經ても死骸といふものがない。煮るとか、干すとか、又は毒藥を注ぐとかして、態々殺せば無論死骸が殘るが、自然にまかせて置いたのでは、老耄の結果死んで遺骸を殘すといふ如きことはないから、若しも死骸となることを「死ぬ」と名づけるならば、これらの生物は慥に死なぬものである。普通の生物では死ぬといふことと、死骸を殘すといふこととは常に同一であるから、死ねば必ず死骸が殘るものの如くに思ふが、死ぬとは個體としての生存の消滅することとも考へられる故、この意味からいふと、甲の蟲が二分して乙と丙とになつた時には、甲の蟲は已に死んだといへぬこともない。一例として「アメーバ」類の生活狀態を述べて見ると、この蟲は淡水・海水又は濕地の中に住み、身體は柔かくて恰も一滴の油の如く、常に定まつた形はなく流れるが如くに徐々と匐ひ歩き、微細な食物を求めて身體のどこからでも之を食ひ入れ、滋養分を消化した後は、かすを置き去りにして他處へ匐つて行く。斯くして少しづゝ生長し、一定の大きさに達すると體の中程に縊れた所が生じ、初めは先づ瓢箪の如き形と成り、次には縊れが段々細くなつて、終に柔かい餅を引きちぎるやうに切れて二疋となつてしまふ。これはもと一疋のものが殖えて二疋となるのであるから、慥に一種の生殖には違ひないが、世人が常に見慣れて居る生殖とは異なり、産んだ親の身體と生まれた子の身體との區別がないから、何代經ても親が老いて死ぬといふ如きことが起らず、隨つて死骸が生ずるといふことは決してない。されば若しも死骸となることを死ぬと名づけるならば「アメーバ」は慥に死なぬ生物である。然らば「アメーバ」は昔から今日まで同一の一個體が生存し續けて居るかといへば、勿論決してさやうではない。一疋が分れて二疋となる毎に、前の一疋の生存は終つて新な二疋の生存が始まるのであるから、一個體としての生存の期限は、親が分れて自身が生じたときから、自身が分れて子となるまでの僅に數十時間に過ぎぬ。


[「アメーバ」の分裂]

 さて斯やうなものを捕へて、これは死ぬ生物であるとか、死なぬ生物であるとか論ずるのは畢竟言葉の戲で、その原因は人間の言葉の不十分なことに存する。元來、人間の言葉は日常の生活の用を辨ずるために出來たもので、世が進み經驗が増すに隨つて次第に發達し來たつたが、「死」といふ言葉の如きも、もと人間や犬・猫の死をいひ現すために出來たもの故、これと異なつた死にやうをする生物にはその儘には當て嵌まらぬ。世の中には死なぬ生物があるといへば、素人には不思議に聞こえ、隨つて世の注意を引いて評判が高くなるが、實際を見るとたゞ死にやうが違ふといふだけである。從來の不完全な言葉を用ゐて、生物を死ぬものと死なぬものとに分ち、「アメーバ」の如きものを、そのいづれに屬するかと議論することは、殆ど時間を浪費するに過ぎぬかとも思はれるが、凡そ生殖によって個體の數の増加し行く生物ならば、各個體には必ず生存に一定の期限があつて、同一の個體が無限に生存するといふ如きことのないのは慥である。
[やぶちゃん注:「死なぬ生物」そもそも生物学で言う「生物」の定義がここではっきりさせておく必要がある。丘先生は前段でそれを「食うて産んで死ぬ」という明快にして素晴らしい言葉で表現されているが、例えば平凡社の「世界大百科事典」の規定はどうか。『生きもの、つまりいわゆる生命現象を示すものを広く生物というが、何を生物固有の性質と考えるかについては、昔からさまざまな議論があった。例えば、成長こそ生物の本質だといわれる。確かにほとんどすべての生物は成長するが、しかし、明らかに無生物と考えられる鉱物の結晶も成長する。物質代謝が生物の最も主要な性質だとされたこともあった。生物は物質エネルギーを外界からとりこみ,それを自己に同化して成長するとともに,不要となった構成成分を分解して捨てる。これが物質代謝であって、このような活動は無生物にはみられないからである。また物質代謝の結果として,生物は繁殖する。すなわち、自己と同じものを作って増殖していく。そして個体としては傷ついた部分を修復し,また増殖をとおして種を存続させていくなど,自己保存の機能をもっている。これもまた生物に固有の性質である。このような考察から、今日、生物はエネルギー転換を行い、自己増殖し、かつ自己保存の能力をもつ複雑な物質系であると定義されている。もし地球以外の天体にもこのような性質をもつものが見つかったら、それは生物と呼ばれるだろう。』とある(カンマを読点に代えた)。ということはまず、自己保存を志向する能力という規定から、
①自己と外界を区別し、何らかの形で「自己個体」を「個体」として認識する能力を持っていること。
を揚げることが出来よう。同時にそれは、
②エネルギー交換を行って、自己若しくは自己を含む群体を維持するための代謝能力を持っていること。
をも示す。この場合の「代謝」とは、緩歩動物門 Tardigrada のクマムシの如き、数十年単位の恐るべき長期間に亙ると考えられているアンハイドロバイオシス(anhydrobiosis:乾眠)のようなクリプトビオシス(cryptobiosis :隠された生命の活動)のように緩慢なものも含む。そして丘先生の言う「産む」、
③自己を複製する能力を持っていること。
の三つで示されると思われる。丘先生の「食う」は②、「産む」は③であり、「死ぬ」というのは正に「自分が死ぬ」という認識なしには生じない概念であるから自他認識としての①に相当すると私は思う。従って「死ぬ」ことは生物の生物たる由縁でなくてはならぬ。なお現在、「死なぬ生物」として話題に上るものとしては、性的な成熟個体(有性生殖可能な個体)がポリプ期へと退行可能という特異的な周年生活環を持つことで知られる刺胞動物門ヒドロ虫綱花クラゲ目クラバ科ベニクラゲ Turritopsis nutricula が挙げられる(クラゲ好きの私はその専門書を数冊持っているが)。ウィキの「ベニクラゲ」によれば、『世界中の温帯から熱帯にかけての海域に分布』し、直径四~五ミリの小型のクラゲで、『透けて見える消化器が赤色であるためこう名付けられた。ベニクラゲの形状はベル型で、傘の直径と高さはほぼ等しい。外傘や中膠は均一で薄い。胃は明るい赤色で大きく、横断面は十字型である。若い個体は外縁に沿って』八本程の触手を持つが、成熟個体は八十から九十本の多数の触手を備える。『触手の内側に眼点があり、これも鮮やかな赤』色を示す。通常のライフ・サイクルにあっては『受精卵は胃および外傘の中で発生し、プラヌラ幼生となる。幼生は基物に着生して群体性のポリプを形成する。ポリプは基質上にヒドロ根を広げ、まばらにヒドロ茎を立てる。その先端にはヒドロ花がつく。ヒドロ花は円筒形で、その側面にまばらに触手が出』、ポリプの形成後二日ほどで幼クラゲが個体として離脱、数週間で成熟する。ところがこのベニクラゲの成熟個体はこれとは別に『触手の収縮や外傘の反転、サイズの縮小などを経て再び基物に付着、ポリプとなる』ことが出来、実際に頻繁にそうした現象を見せる。『生活環を逆回転させるこの能力は動物界では稀であり、これによりベニクラゲは個体としての死を免れている。ただし、個々のベニクラゲは、食物連鎖において常に捕食される可能性があり、本種の全ての個体が死を免れている(永遠に生き続ける)ということを意味するものではない』。『有性生殖能を獲得するまでに発生が進んだ個体が未成熟の状態に戻る例は、後生動物としては本種と軟クラゲ目のヤワラクラゲ(Laodicea undulata)で』報告されているだけで、極めて稀な現象で、『動物におけるこのような細胞の再分化は分化転換』トランスデファレンシエイション(transdifferentiation)『と呼ばれる。論理的にはこの過程に制限はなく、これらのクラゲは通常の発生と分化転換を繰り返すことで個体が無限の寿命を持ち得ると予想されている。従って「不老不死(のクラゲ)」と称される場合もある。ただしこれは、老化現象が起こらないわけではなく若い状態に戻るだけなので、より厳密にいえば若返りである』。『この現象は地中海産のベニクラゲで発見され、一九九一年に学会発表されてセンセーションを起こした。その後各地で追試されたが、地中海産のものでしかこの現象は見られなかった。しかし、鹿児島湾で採集された個体も同様の能力を持つことが二〇〇一年にかごしま水族館で確認され』ている(アラビア数字を漢数字に変更した)と、ある。ただ、引用でも示されているように、これは「若返り」の能力を持っているだけで、真に不死、「死なぬ生物」とは言えない。そもそもが最近流行りの生物のDNAヴィークル説に則れば、あらゆる生物は遺伝的に不死だという馬鹿げた理屈にもなろう。やはり「死なぬ生物」はいないのである。「死ぬ」から生物であり、「死なない」生物は「生物」ではないのである。
「アメーバ」肉質虫綱アメーバ目 Amoebida に属する原生動物の総称。淡水・海水・湿土の中、苔類や動物の消化管などに寄生する。単細胞生物で、外側はプラスマレンマ(plasma lemma)という薄膜によって覆われている。原形質は等質で、透明な外質及び顆粒と流動性に富む内質とから成る。内質は核・収縮胞・食胞・ミトコンドリアなどを含む。仮足を出して運動するが、その際は、体の後方にある外質のゲルがゾル化して内質流となり、体の前方に向かって流動、先端部のプラスマレンマが前方に膨らみ、そこで左右に分かれた内質流が膜のすぐ下でゲル化して外質化する形で代謝が起こる。前方へ流出した内質は後端部分のゲルがゾル化して補われるようになっている。こうした原形質流動によって細胞全体を前方に移動させ、仮足を用いて細菌・原生動物・藻類等を採餌している。共生細菌や藻類を体内に共生させている種もある。生殖は通常はここに示されたような二分裂や多分裂で増殖するが、有性生殖をする種も存在する(主に平凡社「世界大百科事典」とウィキペディアに拠る。以下の注も同様)。
「ざうりむし」クロムアルベオラータ界アルベオラータ亜界繊毛虫門貧膜口綱(梁口綱)ゾウリムシ(ミズケムシ)目ペニクルス亜目ゾウリムシ科ゾウリムシ Paramecium caudatum 及び同目に属する種の総称。英名 slipper animacule は体型がスリッパに似ていることに由来し、和名はその訳である。池沼・水溜まりなどに普通に見られ、体は紡錘形で、長さ一七〇~二九〇マイクロメートル。前端は丸く、後端は円錘形状に尖る。全面に繊毛が密生し、体の後端のものは長く、束のように見える。腹面には体長の約半分ほどの口溝があり、採餌物はここを通って細胞咽頭から体内に摂取される。移動には繊毛の運動で体を回転させながら盛んに泳ぐ。生殖には二つの方法があり、一つは体が横分裂で二個体になる無性生殖、今一つは二個体が接合し、分裂によって二つになった小核の一個を相手と交換する有性生殖である。互いに交換した二個の小核は後に癒合して一個の合核になる。その後、小核は何回かの分裂を行い、遺伝的な性質が変えられ、結果、細胞が若返る。           
「つりがねむし」アルベオラータ界繊毛虫門貧膜口綱周毛亜綱ツリガネムシ目ツリガネムシ科ツリガネムシ Vorticella nebulifera 及び同目に属する種の総称。池沼・水溜まりなどの木・石・ウキクサの根などに着棲する(海産もいる)。ツリガネムシ Vorticella nebulifera は池沼などに棲息し、体長一〇〇~二〇〇マイクロメートルの逆釣鐘形で、下端から体長の四、五倍の柄を生やして他の物に付着している。多数個体が付着した際には灰白色の塊になって視認出来る。体の前端には繊毛が環状に並んでおり、これでプランクトンを採餌する。生殖はゾウリムシと同様。
「みどりむし」エクスカバータ界ユーグレノゾア亜界ユーグレナ植物門(ミドリムシ植物門)ユーグレナ藻(ミドリムシ)綱ユーグレナ(ミドリムシ)目ユーグレナ(ミドリムシ)科ミドリムシ Euglena Ehrenberg 及び同門の属する種の総称。有機物の多い池沼・水溜まりなどに棲息し、時に大繁殖して水の華を形成、水を緑色に変色させることがある。ミドリムシ属は種数が多く、一六七四年のレーウェンフックによる発見以来、現在、一五〇余種、本邦では約二〇種が知られる。多くは体が紡錘形を成す。前端の口部に短い咽頭があり、それが貯胞という内臓器となっており、また、その底部(身体後部)からは一本の長い運動性のある鞭毛が生えていて、これを用いて泳ぐ。体内には一個の赤い眼点のほか、多くの種が葉緑体を持つ(Peranema 属のように葉緑体を持たず捕食生活を行う生物群もある)。鞭毛運動という動物的性質を持ちながら、同時に植物として葉緑体による光合成を行うため、かつてはしばしば動物と植物の中間型生物として挙げられたが、これはミドリムシ植物門が原生動物と緑色藻類との真核共生により成立した生物群であることに拠る。葉緑体は円盤状・帯状・板状・円筒状といった色々な形態をとるが、何れも主要な光合成色素としてのクロロフィル a とクロロフィル b を含み、光合成を行なって白色結晶状のパラミロンと呼ぶ炭水化物を生産する。ミドリムシ類の増殖は体が縦に二分裂する無性生殖で、有性生殖は知られていない。
「バクテリヤ」Bacteria(バクテリア)。真正細菌(放線菌・粘液細菌・スピロヘータなどの分裂菌類を含む場合もある)。単に細菌とも呼ぶ。語源はギリシャ語の「小さな杖」に由来。sn-グリセロール-3-リン酸の脂肪酸エステルから成る細胞膜を持つ原核生物。分類学上のドメインの一つで、古細菌ドメイン、真核生物ドメインとともに全生物界を三分する。真核生物と比較した場合、構造は非常に単純であるが、遙かに多様な代謝系や栄養要求性を示し、生息環境も生物圏と考えられる全ての環境に亙り、その生物量は天文学的である。腸内細菌・発酵細菌・病原細菌と、ヒトとの関わりも深い生物群である。
「夜光蟲」渦鞭毛植物門ヤコウチュウ綱ヤコウチュウ目ヤコウチュウ科ヤコウチュウ Noctiluca scintillans(ラテン語の「夜」“noctis”+「光る」“lucens”)。暖海の沿岸に普通に見られるプランクトンで浮遊生活をする直径一、二ミリの球形海産単細胞生物。波の動きなどの刺激によってはルシフェリン―ルシフェラーゼ反応による発光をする。体の中心に原形質が集まっており、そこから網目状に原形質糸が周囲に向かって伸びる。体には深く窪んだ溝状の部分があって、その後端から一本の触手を生やす(他に二本の鞭毛を持つが目立たない)。体の中央付近に口部が開く。触手を反復させてプランクトンを採餌する。生体は淡い桃色を呈し、春から初夏に大繁殖して赤潮の元となったりする。体が縦に二分裂する無性生殖と、体内での連続的な核分裂による二五六個の雌雄配偶子が生まれて接合を行う特異な有性生殖も行う。色素体がなく動物的生活をする点で、動物学的には原生動物渦鞭毛虫門(古くは植物性鞭毛虫綱渦鞭毛虫目)に分類されたが、最近では核の構造や配偶子など遊走細胞の形態の類似から植物学的に渦鞭毛植物類に分類される。一般的な渦鞭毛藻類とは異なり、葉緑体を持たず専ら他の生物を捕食する従属栄養性生物であること、細胞核が普通の真核であること、通常細胞では核相が 2n の複相であること等、極めて特異的な種と言える。
「滓(かす)」は珍しく底本のルビ。]

     五 生物とはなにか

 前に述べた通り、生物の生涯は食うて産んで死ぬといふ三箇條に約めて觀ることが出來るが、これだけは先づ總べての生物に通じたことで、生物以外には見られぬ。食わぬ生物、産まぬ生物、死なぬ生物など、一見しては例外の如くに思はれるものがないでもないが、これらもよく調べて見ると、決して眞に食はず産まず死なぬわけではなく、たゞ親が澤山に食うて置いてくれた故に、子は食ふに及ばぬとか、姉が餘分に産んでくれる故に、妹は産むに及ばぬとかいふ如き分業の結果に過ぎぬ。また死ぬ死なぬは、單に言葉の爭で、個體の生存に一定の期限のあることは、死なぬと稱せられる生物でも他に比して少しも變りはない。されば、生物とは何かといふ問に對しては、森羅萬象の中で、食うて産んで死ぬものを斯く名づけると答へて大抵差支へはなからう。
 然らば所謂無生物には之に類することは全くないかといふと、その返答は少々困難である。普通の石や金が食いもせず産みもせぬことは明瞭であるが、鑛物の結晶が次第に大きくなるのは、外から同質の分子を取つて自分の身體を増すのであるから、幾分か物を食うて成長するのに似て居る。又一個の結晶が破れて二片となつた後に、各片の傷が癒えて二個の完全な結晶となる場合の如きは、如何にもある種類の生殖法に似て居る。然しながらこれらの例ではいづれも初めから同質の分子が表面に附着するだけで、前からあつた部分は舊のまゝで少しも變化せぬから、素より生物が物を食ひ子を産むのとは大に違ふ。生物が物を食ふのは、自分と違つたものを食うて自分と同じものとする。例へば、牛に食はれた草は變じて牛の身體となり、鯉に食はれた蚯蚓は變じて鯉の身體となるが、斯かることは無生物では容易に見出せない。それ故一寸考へると、この事の有無を以て明に生物と無生物との區別が出來るやうであるが、よく調べて見ると、無機化合物の中にも多少之に類することを行ふものがあるから、結局生物と無生物の間には判然たる境は定められぬことになる。また一方理屈から考へて見ても判然たる境のないのが當然である。
 元來、生物の身體は如何なる物質から成つて居るかと分析して見ると、植物でも動物でも皆炭素・水素・酸素・窒素などといふ極めて普通にありふれた元素のみから出來て居て、決して生物のみにあつて無生物には見出されぬといふ如き特殊の成分はない。これらの元素は水や空氣や土の中に殆ど無限に存在するもので、これが植物に吸はれて暫時植物の體となり、次に動物に食はれて暫時動物の體となり、動物が死ねば更に分解して舊の水・空氣・土に歸つて再び植物に吸はれる。されば今假に炭素か窒素かの一分子の行衞を追うて進むとすれば、或時は生物となり、或時は無生物となつて常に循環する。而して生物から無生物になるときにも、無生物から生物になるときにも、決して突然變化するわけではなく、無數の細かい階段を經て漸々一歩づゝ變化するのであるから、到底こゝまでが無生物でこゝから先が生物であるといふ如き判然した境のある筈がない。これらに就ては次の章と終の章とで更に述べる故、ここには略するが、自然界に於ける生物と無生物との間には決して線をもって區劃することの出來るやうな明な境はなく、恰も夜が明けて晝となり、日が暮れて夜となる如くに移り行くもの故、生命の定義なるものを考へ出さうとすると必ず失敗に終わる。スペンサーの著した『生物學の原理』といふ書物の中には、哲學者流の論法で「生活の現象とは内的の關係が外的の關係に絶えず適應して行くことである」との定義が掲げてあるが、これは樣々に考えた末に出來上がった定義が、生物に當て嵌まる外に、空にある雲にも當て嵌まるので、更に雲を除外するように訂正して得た所の最後の定義である。その詳しい説明は暗記しても居らず、又こゝに掲げる必要もないから略するが、著者の如き哲學者にあらざる者から見ると、斯かる定義は單に言葉の遣ひ分けの巧なる見本として面白いのみで、眞の知識としては何の價値もないやうに思はれた。本書に於ては、生物とは何ぞやといふ問に對して、生命の定義を以て答へる如きことをせず、ただ生物は食うて産んで死ぬといふ事實だけを認めて、今よりこれに就て少しく詳細に述べて見やう。これだけの事實は生物の九割九分以上には適し、無生物の九割九分以上には適せぬから、所謂、定義なるものよりは餘程確である。
[やぶちゃん注:「スペンサー」の部分は表記通りの傍線。ハーバート・スペンサー(Herbert Spencer, 一八二〇年~一九〇三年)はイギリスの哲学者・社会学者。一八五二年に“The Developmental Hypothesis”(発達仮説) を、一八五五年に“Principles of Psychology,”(心理学原理)を出版後、「社会学原理」「倫理学原理」を含む“A Systemof Synthetic Philosophy”(『総合哲学体系』一八六二年から一八九六年までの三十五年をかけて完成させるなど、多くの著作をものした。これらの著作はかれの“evolution”「進化」という着想に貫かれており、現在のダーウィニズムの「進化」という概念や、我々がダーウィンの言葉と誤解している“survival of the fittest”「適者生存」という言葉は、実はダーウィンの進化論発表の直前に示された彼スペンサーによる概念及び造語である。丘先生が若かりし日の一八八〇年から九〇年代の明治期日本では、スペンサーの著作が数多く翻訳され、『スペンサーの時代』と呼ばれるほどで、一八六〇年に出版された“Education”(教育論)は、尺振八の訳で一八八〇年に「斯氏教育論」と題して刊行され、『スペンサーの教育論』として人口に膾炙した。また、その社会進化論に裏打ちされたスペンサーの自由放任主義や社会有機体説は、当時の日本における自由民権運動の思想的支柱としても迎えられ、数多くの訳書が読まれた(以上は主にウィキの「ハーバート・スペンサー」に拠った)。
『生物學の原理』“Principles of Biology” は一八六四年の刊行。但し、ここに示されている生物の定義は一八八三年の“First Principle”(第一原理)によるもののようである(挾本佳代氏の以下のページを参照)。挾本氏よれば、スペンサーの「生物」概念の定義は、
①「個体を群体から切り離すことは出来ない。」
②「個体数概念は、必然的に食糧概念を要求する。」
③「生命とは、内的関係と外的関係との持続的な調整である。」
という三命題によって構成されている、とある。――が――生物学者である丘先生の、それへの『著者の如き哲學者にあらざる者から見ると、斯かる定義は單に言葉の遣ひ分けの巧なる見本として面白いのみで、眞の知識としては何の價値もないやうに思はれ』るという言は痛烈にして痛快である。]