やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇へ
鬼火へ


佐野花子「芥川龍之介の思い出」(原文のみ)

[やぶちゃん注:佐野花子は明治二八(一八九五)年生まれで、昭和三六(一九六一)年八月二十六日に亡くなっており、没後五十四年が経過しており、パブリック・ドメインである。
 彼女(旧姓は山田)は長野県諏訪郡下諏訪町東山田生まれで、諏訪高等女学校(首席卒業。現在の県立長野県諏訪二葉高等学校)から東京女子高等師範学校文科(現在の御茶の水女子大学)に進んだ。歌人でもあった(以下の底本には「遺詠」と題した歌集パートがある)。女子師範を卒業して一年で佐藤慶造(明治一七(一八八四)年~昭和一二(一九三七)年)と結婚した。夫慶造は、芥川龍之介が東京帝大卒業後、横須賀の海軍機関学校で英語の教官をしていた折の同僚(但し、芥川は明治二五(一八九二)年生まれで慶造よりも八つ年下で、花子より三つ年上であった。龍之介の同校着任は大正五(一九一六)年十二月一日附で、当時は満二十四(龍之介は三月一日生まれ)であった)の物理教官で、同校勤務中の約二年余り(芥川の同校退職は大正八(一九一九)年三月三十一日)、妻花子とともに親しく龍之介と交流した。
 底本は昭和四八(一九七三)年短歌新聞社刊の佐野花子・山田芳子著「芥川龍之介の思い出」(「彩光叢書」第八篇)の内、佐野花子筆になる「芥川龍之介の思い出」(初版)を用いる。なお、山田芳子氏は佐野慶造と佐野花子との娘さんである(因みに、同書には山田芳子氏の「母の著書成りて」及び「母を偲ぶ歌」が併載されている。そのため、共著となっているのである。母花子の遺稿とカップリングで本書は刊行されたものである。なお、私の所持する本書は「潮音」の歌人であった父方の祖母から生前に貰い受けたものである)。
 恐らく、本作をお読みになられると、その内容に驚愕される方が多いかと思われる。
 但し、現在、芥川龍之介研究者の間では、そこに語られた内容は――佐野花子の妄想の類いといった一部の者の辛辣な一言で――まず、まともに顧みられることがないのが現実である。
 私は、佐野花子と芥川龍之介、彼女の書いたこの「芥川龍之介の思い出」の内容と実際の芥川龍之介の事蹟との関係について、身動き出来る範囲内では、いろいろと考察してきたつもりである。それらは私のブログ「Blog鬼火~日々の迷走」のカテゴリ「芥川龍之介」の記事として、古い順に以下のようなものがある。

「月光の女」(二〇〇六年六月十六日の記事)
『芥川龍之介の幻の「佐野さん」についての一考察』(二〇〇七年二月一日の記事)
『芥川龍之介「或阿呆の一生」の「二十八 殺人」のロケ地同定その他についての一考察』(同前二〇〇七年二月一日の記事)
『芥川龍之介 僕の好きな女/佐野花子「芥川龍之介の思い出」の芥川龍之介「僕の最も好きな女性」』(二〇〇七年二月三日の記事)
『芥川龍之介の幻の「佐野さん」についての一考察 最終章』(二〇〇七年五月五日の記事)

そこで推理もしたように、確かに佐野花子の「芥川龍之介の思い出」の叙述の中には、ある思い込みや思い違いに基づくと思われる箇所が実際にあり、そうした誤認を後年の佐野花子が事実として信じ込んでしまっていた、芥川龍之介の遺稿「或阿呆の一生」(リンク先は私の古い電子テクスト)の中に登場する――謎の「月光の女」――を間違いなく自分自身だ、自分でしかあり得ない、と堅く信じてしまった、と考えられる節も、確かにある。
 しかし、私は、それによって本随想が芥川龍之介研究の資料として価値を失っているとは毛頭、思わないのである。実際、本書には、他のどこからも見出すことが出来ない、芥川龍之介の未発見初期俳句六句を見出せるのである(「やぶちゃん版芥川龍之介句集 五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」を参照。私はこれだけでも本作は評価されてよいと信じている)。
 研究家の――妄想の類い――といったような非礼な一言によって葬られてしまった佐野花子と、この「芥川龍之介の思い出」は、今一度、復権すべきであると私は強く感じている。芥川龍之介研究に佐野花子を「アブナい」ものとして埒外おいておくのは、とんでもない誤りであると私は真剣に考えているのである。
 句などは読み易さを考えて、前後を行空けとした。
 私は既にブログ・カテゴリ「芥川龍之介」で、
『佐野花子「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注』
として十二回に亙って詳細なオリジナル注を附して本作を電子化した。しかし、特に後半部では、改行毎に注を附し、それが異様に長くなっているため、本文を単独で味わうことが出来難くなってしまった。そこでこの本文ベタ版を別に作成し、読者の用に供することとした。また、上記のブログ版のワード文書縦書全篇も(私の渾身の注附きである)同時に公開してあるので、そちらもご利用戴けると、恩幸、これに過ぎたるはない。但し、一部、どうしても注しておきたい箇所だけはここでも残してある。本テクストではポイント落ち等は底本を可能な限り、再現してある。【二〇一六年十一月十一日 藪野直史】]


 
芥川龍之介の思い出 佐野花子


       ㈠

 買物に出て、ふと「羅生門」の映画看板を見たのが、思い出のそもそもの発端となりました。めったに映画を見ない私が、珍しく体調のよい日に、町へ出かけ、買物袋を片手に、まだ時間のあるのを幸い映画館にはいってスクリーンに眼を向けましたのも、「羅生門」 の作者が芥川龍之介だったからでございます。
 初版本の「羅生門」の扉に、

 干草に熊手かけたりほととぎす 龍之介

としたためて、自ら持参してくれた彼、龍之介のおもかげと、あの頃の新居、横須賀の海岸、ほのかに血のめぐっていた自分、還らぬ映像を思い起こして耐えられない懐かしさに襲われたのでございました。私は、やはり目まいを覚えながら帰宅し、あけくれ寝たり起きたりの中で、俄かにあせりを感じながら、ノートにたどたどと書きはじめたのです。それは日に日に早くなり、息もつげないような気持ちに私を駆り立てて行きます。疲れると臥したまま、そばにいる娘に語り聞かせていました。私は命のもう長くないのを感じています。人にはどう思われようと、私にとりましては唯一つの淡い光のような追憶でございました。
 まあ、あれから幾星霜を経たというのでしょう。彼は若くして自命を断ち、私の夫、佐野慶造さえも、最早、地下に眠ってしまいました。それからしても十数年は経ています。
 思えば私には二人の男の子もありましたが長男は東京震災のとき、次男は第二次大戦の東京空襲のとき、それぞれに命を落としております。今は一人娘になった芳子と、その婿と二人の孫との生活でございますが、病魔に魅入られ、それなりに思い出を友として走り書きの毎日を送ることになりました。
 私の枕元にある現代日本文学全集二十六
「芥川龍之介全集」筑摩書房刊(昭和二十八年九月二十五日発行)の年譜等を辿ってみますと[やぶちゃん注:太字は底本を再現。「全集」はママであるが、これは「芥川龍之介集」の誤りである。]、
 大正五年、二十五才のとき芥川龍之介は、第一高等学校教授・畔柳都太郎の紹介で、十二月一日から、横須賀の海軍機関学佼嘱託教官となり、そのため十一月下旬から住いを鎌倉に移すとあり、他に詳しくは、大正六年二十六才のとき下宿を鎌倉から横須賀に移したこともございます。このとき私は夫、佐野慶造と共に、この横須賀に住みまして、勤務先は彼と同じ機関学校にて、夫は、物理教官、彼は英語教官として既に文名も高かったのでございますが三人の親交はこの時に結ばれました。大正八年三月、彼が同校を辞し、大阪毎日新聞社員となるまでの期間でございました。夫と彼は畑違いではありましたが、たいへんに親しくしていただきました。それと申しますのも、人の善い夫は、文筆のほまれ高い龍之介を友とすることを喜び、進んで親交を求めたからでもございましょうか。文学に興味を持つ妻としても、私を彼紹介してくれました。
 大正六年四月の或る土曜日でしたが、私たちは新婚旅行に出るため、横須賀駅へまいりました。そのとき丁度、すれ違いに彼と出会ったのが、最初のお見知り合いでございましてまったく遇然ではありましたが、鎌倉までご同乗下さり、そこでにこやかにお見送り下さいました。
 「やあ。佐野君」
 「おお。これは芥川さんでいらっしゃる。これは妻です。お茶の水女高師文科の出で」
 「おお。これは、月の光のような」
と呟やかれました……。鶴のような長身にぴたりと合う紺の背広。右手にステッキ。束の間の出会いではございましたが、

 春寒や竹の中なる銀閣寺  龍之介

としるした美しい絵葉書は、すぐ後に届けられてまいりました。私どもはその筆蹟に見入り、発句に感じ、たいせつに手箱の底へ収めたものでございます。京都からの便りでした。
 新婚旅行も土曜日でございましたが、それからあと、毎土曜日といってよい程、彼を招き、彼に招かれという交際がつづきました。新居にもお招きしましたが、そのころ鎌倉に「小町園」という料亭がございまして、ここの離れ座敷で、招いたり、招かれたりの土曜の夜は本当に三人とも楽しさに心あたたまり「お千代さん」という片えくぼのある女中さんや、「お園さん」という肥った女中さんがもてなしてくれました。彼が主人役のときには、ここに泊って私たちを夜ふけまでもてなし、一高時代の思い出話はカッパ踊りとなって座敷中に笑いを散らしました。私も初めは人見知りをしてろくに口もきけませんでしたが、いつか親しんで彼と意見を交わすほどにまでなって行きました。
 そのころの彼の手紙は次のような文面で書かれていました。
 「昨晩はご馳走さまに相成り有難くお礼申し上げます。実に愉快でした。今日もまだ酔いの醒めぬ思いで少しフラフラしています。駘蕩として授業も甚だいいかげんにやりました。今一度、来週の土曜日に小町園までお出かけ下さいませんか。お礼かたがたお誘いまで。奥さんによろしく」
 こうして土曜日を待つのが習慣になりました。初めの内気な気持ちは弾むようになっていそいそと日が経ち、土曜日はすぐやって来ました。田舎育ちの私は、とくに洗練された東京の文士の前に出るのは、身づくろいにおどおどする思いでした。夫はいろいろと注意してくれ、束髪に結わせ、襟におしろいを刷くことなども言ってくれました。母の心づくしの藤色の小袖や、紫のコートなどを身につけるにも消え入りたい気持ちだったのです。それがしだいに軽く済ませるようになり、心も弾み、話も自然にできるようになったのですが、彼を二人とも尊敬し敬愛したからにほかなりませんでした。
 お千代さんもお園さんも、呼吸をのみこんでしまい、
 「芥川さま。お待ちかねでございます」
と飛んで出てくるようになってしまいまして何とも楽しいあの頃であったと、ため息の出る今の私でございます。……前週には満開をほこっていた桜もチラホラと敷り敷いて、庭は一めんの花のしとねでございました。[やぶちゃん字注:「敷り敷いて」はママ。「散り敷いて」の誤りではあるまいか。]
 男二人はしきりに盃を重ね、私は彼の好意でブドウ酒に頰を染めたりしたようでございます。
 また、新居の六畳の部屋に彼を招いたことが何度ございましたろうか。テーブルに白布を掛け一輪ざしには、何か庭の花を入れ、故郷信濃から送られた山鳥で、山鳥鍋を供しましたときは、ことのほかご気嫌でして、
 「奥さん。ぼく、この山鳥鍋というのにはまったく感心しましたよ。よいことをお教えしましょう。これからお里へ手紙を出されるたびに、山鳥おいしかったと必ず書いてお上げなさい。すると又、きっと送って来て、ぼくはご馳走になれると、こういうことですよ」
 どうですかという様に彼は眼をかがやかせるのです。私はその彼らしい機智をほめ、心から嬉しく思ったものでした。

 麗らかやげに鴛鴦の一つがひ  龍之介

 この一句は上気嫌の彼の唇から洩れたものでした。
 彼は若い卓越した作家であり、会話も軽妙で、皮肉やユーモア、それに可成、辛辣なことばを吐く人でした。人の善い好人物の夫と、鋭い龍之介との会話はまことによい対比をなしていました。しかし、私を交じえていることを彼は決して忘れず、礼を失するようなことはしませんでした。東京育ちの垢ぬけした応待の中には女性を疎外せぬ思いやりがあったと思いますのです。それだけに、お上手やご冗談もたくみで、私はいつもその意味でうまく交わしておりました。
 「佐野君はよい奥さんをお持ちで羨やましい」とか「ぼくは、どうしたらよいのでしょう。一生、独身でいようかしら」などというふうなことばに対して、程のよいご冗談に過ぎぬと流していたのです。が、小町園の離れ座敷である宵のこと、お千代さんに命じて、硯と墨を持って来させ、すらすらと白紙に善かれましたのは、

 かなしみは君が締めたるこの宵の印度更紗の帯よりや来し  龍之介

 「さて、ご説明申し上げましょう。よい奥さんを持たれて羨やましい。心ひかれる女性だ……とこういう意味ですよ」
とのことでありましたが、これとて私は、滑らかな社交辞令と受けとりました。
 「奥さんの眼は美しい」
と、じつと見入られたこともありましたし、
 「ぼくは月のひかりの中にいるような人が好きだ。月光の中にいるような」
ということばも聞いております。それは彼、芥川龍之介の理想の女性像であったのです。何げないふうで言われることばは、私にとも誰にともなく、そして私に聞けというふうでありました。
 勤務の都合から、夫の帰宅の遅い夜、案じていますと、玄関に足音がして、戸がひらかれるや、夫のうしろに彼の顔が重なる帰宅というのもありました。
 こうして交友の間がらは、のどかにつづいて行きました。

       ㈡

 或るとき、彼は青くなって詑びて来たことがございます。
 「あれは、ぼくの、しわざなんです。ひらにご容赦下さい」
というのは、私どもに何の覚えもないのに、或る朝の時事新聞に、私たちの結婚写真が載っていたのです。誰が出したのだろうと私どもは驚きました。まだ私は女学校の教鞭をとっていましたので、学校は生徒の声で大騒ぎ、ここしばらく当惑の日がつづいていたのでした。そこへ、彼はやって来て、実は自分のしたことだと白状したのです。
 「写真を机上に飾って、眺め眺めして喜んでいたぼくでしたがね。罪は、ぼくにあるんですが。時事新聞にいる例の悪友、菊池寛がやって来ましてね。写真を見るや、
 『出すから借せろ』
と言うんですよ。ぼくは、すみやかに思考をめぐらしました。よし。これは善行に非ずとも、決して悪事に非ず。佐野君におかれてはいざ知らず、奥さんにおかれては、喜び給うとも、よし憤激はなさるまじと、結論はこうなんです。よろしい。君、急ぎもって帰って一刻も早く、紙上に掲載し、満天下の紳士淑女を悩殺せしめよ。と、こういったしだいです。ぼくは、空吹く風と、すましているつもりでいました。ところが、当地の善友諸君の間に起こったセンセイションの甚だしさ。驚いたぼくの良心の苛責。実はぼくのしわざですと白状にまいりました。こうして、しおしおとお詫びに上がったしだい、平にご勘弁願います」
 「まあ。あれは芥川さまでしたの?」
と初めて解ったのでした。

 切りなづむ新妻ぶりや春の葱  龍之介

 この一句を贈られて、慶造もなお、彼を歓待すること常の如しでございました。
 彼の曰く、
 「ぼくは佐野君の相手が女教師だと聞いたとき、この温和な佐野君が、こわい女性と結婚して一たいどうなることかと衷心から心配したものですよ。ところが予期に反して、本当に安心しましたね。佐野君と奥さんと、どちらが幸福かなあ、と考えてみたりしましたが、学校の教官諸君は、よい奥さんが来て佐野君はしあわせだと言い、ぼくは、これほど心酔されてしまったところをみると、奥さんの方がより、しあわせかと思いますよ。ああしかし、どちらでもよい。同じことだ。ご両人のために乾杯ですね。この良きご家庭が、いや栄えますように」
 こうして祝杯をあげてもくれたのです。私どもばかりが、何だか、しあわせで、彼にわるいような気がするのはどういうものでしたでしょう。夫は言うのです。
 「龍ちゃん。それは、もう、有難う。だからそんなに人の観察ばかりしてないで、早く自分もいい奥さんをおもらいなさい。幾らもいるでしょうが」
 「さあ。そう言われるとたいへんだ。ぼくはこれで、なかなか難かしいんですよ。美人でなければだめ。そう、だめなんです。顔がいいばかりでもだめ。全体の均整がとれて恰も彫刻を見るが如くにありたいですね。それだけでもだめ。いつも愛の泉に浸っているような、そんなふうな細君でありたいものですよ」
 「だから、東京には幾らもいるでしょう」「いや。いや。東京の令嬢階級なんて大したことない。つまらないものですよ。それより奥さんに天真燭漫、素朴純真な田舎の令嬢をお世話して頂くかな」
というふうに逃げられるのでした。
 横須賀という狭い街の、機関学校などというおきまりのところに勤務するということは味気なく、つまらないものであったろうと思います。それに夫は最も同情し、加えて下宿生活の無味乾燥を、私の家庭の潤いでまぎらしてやろうという心組みが、いつも、あたたかく私に蓼み入り、私もそういうこころで、出来得るかぎり、ねぎらったつもりでございました。そして、話はどうしても彼の結婚をすすめるという方へ向かざるを得ません。早くご良縁をと口癖のように申していました。
 彼は或るとき、こういうことを問いかけてまいりました。
 「奥さん。もしもです。もしも、妻子ある男子が処女に恋するとか、青年の身で人妻に恋するとかいうことになった場合、一たいどうしたらよいと思われますか。ぼくは、このことを一度、奥さん尋ねて見たいと思っていました」
 「そんなこと難かしくて、私どもには、とても解りはいたしませんわ。あなたこそ、その方面のご専門でいらっしやるのですもの。私こそ教えて頂きたいと思いますわ」
 「いえ。そんなに難かしく、奥さんと議論しようと思って申し上げてはいません。ただご意見を伺いたいと言う迄です」
こういう問いかかけでしたけれども、私は女高師時代にも、文楽に出てくる小春のような女性、おさんのような女性についてどう思うか、というような研究質問をもって尾上柴舟先生が生徒らに、答えさせたわけですが、私は、どうも、いつも、順番を飛ばされるほど、そういう問題には無智だったのです。結婚してもなお、こういう問題に答えるすべをしらないものでしたから、しかたなく、
 「それは、あきらめるより仕方がないのではないでしょうか」
というしだいでした。
 「はあ。あきらめる。そうですか。しかし奥さん。それが非常に真剣なものであった場合、なお、どうしたらよいと思いますか」
 「そんなに真剣であったとしても、道徳というものが許しませんでしょう。あきらめるより仕方がありません」
 「あきらめる――あきらめきれるのですか。奥さんは偉いですね」
 「私だって、あきらめきれるかどうかわかりませんのよ。でもやっぱり仕方がないのではないでしょうか。深い仲になってしまえば人にはうしろ指をさされますし、社会からも葬り去られてしまいます。犠牲になる者も出ます。心中しても同じことですわ。二人はそれでよいかも知れませんが、あとに残った者達、親の嘆き、子の思い。夫の憤激。それだけでも大低のことではありません。いっそ、そんな恋などしない方がよろしいのではありませんの?」
 「ぼくは一たいどうしたらよいのでしょう。ぼくは一生独身でいようかしら。奥さんと同じ女性がいない限り、結婚してもつまらないと思うからですよ」
 そしてつけ加えて言うのを私は聞いており、今もひどく気になるのですが、
 「結婚しても、あなたを忘れることはないように思います」
ということばでございました。真実がこめられていたのかも知れません。私はあっさりと流していましたのです。
 夫は、また、はからって、私の和歌を彼に見て貰えとのことで、添削などを依頼したことがございましたが、結局、ことわりの宣告を受けるに至りました。はじめは承諾してくれたのですけれど、途中から、「もう見ることができなくなった」という理由でことわりを言われました。
 「感情上、批判ができなくなるのです。だから悪しからず」
 しかし、
 「ぼくは今まで、歌というもの、例の百人一首にしても、うわの空で読んでいました。ところが実にいいものがあるということを奥さんのお歌を見てから気づくようになったのです。『さしも知らじな燃ゆる思ひを』『昼は消えつつものをこそ思へ』などとね」
 そして、持てあましたように立ち去って行かれたのです。
     ○
 こう思い出を書いていて、読み返して見ては、どうも私のことに引きつけているようで気になりますが、ありのままのことなので、このまま書きつづけて参ります。

       ㈢

 横須賀の波は退屈を重ね繰り返すように、寄せて来ては返し、返しては寄せて、またそのように平凡な変りばえもない街でありましたから、私たちの彼に対する関心は何にもまして張りのある歓喜に冴えたものとなっていました。なんという天与でありましたことか。
 暑熱の海岸を三人が歩いたこともございました。浴衣がけの夫も彼も大きな麦藁帽をかぶり、私は紫の日傘をさし、博多の夏帯を締めていました。彼は一人、泳ぎが得意で抜き手を切って遊泳して見せました。もぐつて、しばらく海面にいないこともありました。海だけがきらきらとかがやいて、もう、どこからも彼は出てこないように思えました。が、突如、浮かび上がって笑顔に白波をあびながら近づいて来るのでした。岩の上には脱ぎ捨てた浴衣と麦藁帽子が風のない日中に灼けつくような形で投げ出されています。水泳の特技を見ることができたのも、私どもには意外なたまものでした。何につけても彼は特別な姿態をもって私たちの眼をよろこばせたのでございます。
 彼は先に立って行動しました。海岸からぐっと手前の藪の中を歩くときも、どんどん歩いて行くのですが、そんな時は完全に独りで私たちから抜け出していました。何を考えているのか横顔も、うしろ姿も独りだったのです。その独りの中では彼自身の悩みや苦痛がのたうっていたのでございましょう。後になって考えれば、私どもの知らないところで結婚話が進んだり滞ったりしていたことになりますし、文筆の上でも内面的な格闘があって意外と気の弱い蒼白な面を見せたときでありました。結婚問題に関することでは、某海軍士官の忘れがたみと云々とかで、それがまだよくまとまらないなどいうのを、仄聞した某京大教授が、
 「それなら、うちの娘に」
というので自身付き添いで見合をしたところ
 「どうも神経が繊細過ぎる」
とそのままになってしまったそうで、夫が申しますには、
 「我々は龍ちゃんのファンだから、龍ちゃんなら誰でも飛びつくだろうと思うのだが。なかなか、そうも行かないのだね」
 「そりゃあ、そうですとも。まあ、私にしましても、夫という場合には、芥川様は怖いみたいに思われますもの。やはり家庭の主人となれば、あなたの方を私は取りますもの」
 「そりや、そうだったろうが」
 「危惧の念が起きますわ。ほんとに怖いみたい。誰でもいいというわけには参りませんでしょう。こちらであたたかく抱擁して上げなければ、うまく行かない方の様に思われてなりませんわ。私の幼稚な感じ方ですけれども」
 文学的の問題では谷崎潤一郎との論争で、
 「ぼく、ヘトヘトに疲れちゃった」
という龍之介を目の前に見ましたし、
 「そこへ持って来て、批評家という奴が、ブツブツ言いますしね。批評家なんて無くもがなと思いますよ。ぼく、あれを読むとイライラしたり憂欝になったりして困るんです。だから、もう、読まぬことにしましたがね」
 それに対して私は、なぐさめとも励ましとも批判ともつかないような言い方で申し上げていました。
 「ヘトヘトになられるなんて少々だらしがないわ。お心持ちが弱いんだわ。実力がおありなんですもの。悠々と構えて大胆にしてらっしゃればいいのに。宅で自信満々と語られるときのようにしてらっしゃればいいのに。それとも本当に谷崎さんは苦手なのかしら。潤一郎々々々って親しそうにおっしゃるし、彼より優越を感じていられる口吻をお洩らしになるときもあるのに。不思議だこと。批評家のいうことなんて尚更だわ。気に喰わなければ一笑に付しておしまいなさい。でも、批評というものに一応、目を通して、とってもって、参考にするだけの雅量がほしいと思う。あまり小心過ぎてお気の毒だこと」
 「お前はなかなか辛辣だね。ぼくは、ひどく芥川君に心酔しているのに」
と夫は申しました。
 「辛辣というのでもありませんわ。大好きですもの。ね、そんなに神経をすりへらされない方がよろしいでしょう。おからだにさわるといけませんものね」
とお慰めしたのでございました。
 「そうだとも。龍ちゃん。人間、呑気にしていないと毒ですよ。そうは言っても、文学の方は世間一般の事と違って、しかも世間一般を相手にするものですから、いろいろ神経にもさわるでしょう。創作なんて突きつめて行くと、悩み無くしては駄目なことでもありますが、ぼくの方はまあ呑気なものですよ」
 すると彼は、
 「本当に、佐野君はいつも、のどかに見えますよ。ぼくも、文学をやめて、天文でも初めようかな。月を見たり、星を研究したりしていたら、呑気なものでしょうな」
 「あら。そう伺えば、私、思い出します。学校の二クラス上の文科生のお話ですのよ。秋の日光修学旅行のおり、夕食後、皆で中禅寺湖畔へ散歩に出かけました。あたりは夕もやに包まれ淡い月かげが照らし、何かしら、ロマンチックな宵でした。某先生は、いつも理科生とご一緒でしたが、ふっとお一人で文科生のところへ来られましてね。静かにお話しになるんですの。ぼくは元来、文学が好きでその方面が得意だったのですよ。それで、文学方面へ進むつもりでしたが、この通り神経質でしょう?これで文学をやったら藤村操の二代目になるかも知れぬと思いましてね。好きな文学をやめて理科へ行きました。しかし、ぼくは文学が好きだな。文学は実にいいなとおっしゃるのですが、食堂に蠅が一匹いてもその日は食事ヌキ。でもね。優しい美しい奥さまが来られてからはお子様もお出来になり、とても穏やかになられたとのことですの。芥川様だって味気ない下宿をお出になってご結婚遊ばしたら、ずっとお気楽になれましてよ」
 すると彼は言うのでした。
 「ええ。ありがとう。本当にそうかもしれませんね。せいぜいお邪魔して家庭のふんいきに浴させていただきましょうか」
 私は彼の神経質を憂えてしみじみ申し上げたのでしたが、彼の答えはちょっと当方をイナしたものでございました。
 又、或る時の話ですが、夫が帰宅して申しますには、
 「今日ね。年度末賞与の辞令が出て皆ざわざわしている時にね、芥川君はぼくのところへ来てさ。『内緒々々』って辞令をスープの中へ放り込んで燃しちまったよ」
 「あら、どうしてそんなこと」
 「ぼくも驚いてね。いろいろ聞いてみると龍ちゃんは養子で、両親は義理の親子。叔母上なる人もなかなか複雑な家庭の人なんだって。それで、こうしとくのが一番いいんだって言うのさ。そうかも知れんなあ。その使途についても親子意見が一致するとは限らんだろうから。辞令などなければ、芥川君の思うように運ばせても万事うまく行くからね。なかなか考えてるじゃないか。龍ちゃんを非難する気には、ぼくは、なれない。むしろ同情するね。実の親子の辞令なら、そんなに気を使うことはないからね」
 「本当ね。そう伺ってみると芥川様なかなかお気苦労なのですね。私、学校で教わった倫理のお話に適ってるんですもの。深作教授のお話でしたのよ。人と屏風は、すぐには立たぬということがある。殊に家庭内のことは余り物ごとをはっきりさせるより、多少理屈はくらます方がいい場合があると説かれましたわ。つまり、今のようなことですね」
 私は、うんと難かしい家庭へ嫁いでそこを円満に収めてみたらさぞ楽しいだろうと、ひそかに思ったこともありました。しかし、実際にはとてもたいへんなことのようです。二人きりの呑気なその頃の生活は、私には、まさに適材適処だったと思います。そして、改めて彼の気苦労に同情いたしました。
 気苦労と言えば又、別の気苦労と申しましょうか、彼は或る時やって来て、こう言われるのです。[やぶちゃん字注:ここには句点がないが、脱字と見て、特異的に附した。]
 「この頃、東京の悪友たちが、ぼくのゴシップを飛ばしてるんですよ。奥さんもご存知の、あの小町園の女中ね」
 「ええ。あの可愛いいお千代さん」
 「そうですよ。ぼくが、奴にぞっこん参ってて、それで、しげしげ行くってね。それが今日、教官室で話題になりましてね。ぼく、善友諸君にすっかり冷かされてしまいましたよ。もちろん、佐野君からもですよ。ゴシップなんてデタラメと解っていても、中には信ずる人もいますからね。濡れ衣も甚だしい。お二方と行く時、あれがちょこちょこ出て来まして……。失礼ですが、つい、ぼくは奥さんと比較して見るんです。いくら、片えくぼがあって可愛くても、教養のない者は駄目だと思うのですよ。月とスッボンだと。これは実際のことで決してお世辞ではありません。真実そう思うのですから、誤解のないように願います」
 すこぶる真面目に彼は言うのでした。新婚生活の、これといって用事もなく、半日女学校に勤めれば、ひまで仕方がなかった私は、このような話を聞かされたり、在学中、不充分だった英語のおさらいを彼に見てもらったり、それが亦、結構たのしいことだったのです。ロングフェローのエバンゼリンなど朗読しても呉れました。
 「お前、嬉しいだろう。天下の芥川君に教えてもらえるんだ。ご無理を願うんだから、また腕にヨリをかけてご馳走するんだね」
と夫も上気嫌でございました。
 「佐野君は何も知らぬ顔してますがね。教官室で外人と話のできるのは佐野君なんですよ」
 「あら、そうですの?そんなだとは存じませんでした。外国へでも行きたい下心があるのでございましょうね」
 「ああ。そうかも知れないねえ。龍ちゃん、ぼくがもし外遊をしたら、君に何かよいものを買って来たいんです。何がいいですか」
 「有難う。ばくはステッキが好きですね」
 「龍ちゃんにふさわしい極めてハイカラなのを求めて来ますよ」
 これは約束になってしまいました。後日、夫は本当に外遊して約束通りのステッキを二本持ち返りましたが、一本は自分が持ち、残る一本は彼の手に渡せぬ間柄になってしまいましたので、長いこと、そのステッキは押し入れの中や、果ては故郷の土蔵などに埋蔵され、ついに蟲ばんで忘れ去られてしまうのですが、スネークウッドの酒落れたものでした。
 それから例の小町園のお千代さんは、これ亦、後日に文士連の口の端にのぼるK夫人となっているようでございます。芥川をめぐって取り沙汰される女性の中にちらちらとあがって来るような存在になろうとは、可愛いいお千代さん時代には想像もつきませんでした。私の方は誰も知る者もない存在で、ずっと家庭を守り通して来たわけでございます。

       ㈣

 機関学校の教官室は芥川龍之介とはやはり関係浅からぬ場所でございました。そして、独身でいるだけに彼の結婚話もやはりその場において重要味を帯びることがありました。
 夫は或るとき帰宅してこう申しました。
 「今日、木崎校長から文官一同へ話があったんだ。芥川君の縁談について、前々から話があったらしいのだが、校長はぼくと兵学校の同期で、日本海々戦で戦死した海軍大佐の未亡人から、娘の縁談について、相談と調査を兼ねての依頼があった。その忘れがたみなる令嬢は跡見高女とかに在学中で、来年三月卒業の予定だとさ」
 「あら。やっぱり、あのお話の方ですね」
 「そうらしいね。更に校長の言われるには、未亡人の話によれば芥川家からは頻りに早くと言つて来る由で、早くきめて式をあげてほしいそうだ。以前から校長もよく知った間柄ではあり、はっきり決めようと思うが如何なものか。なお、現在の芥川君の状況を知らせてくれと頼まれたから、どうか文官の諸君、ありのままに話してくれと言われるので、文官一同が芥川君なら大丈夫ですと太鼓判を押したわけだよ」
 「あら。そうですか。結構でございましたわねえ。あんな難かしいことばかりおっしゃっても、やっぱり、そのお嬢さまのこと気に入ってらしたのですわね。まずまず万々歳ではございませんの?」
 「そこで、なお、校長の言われるにだ。芥川家では大変急いでいて、もし、良いとなったら、今、婚約しておいて、来年早々、令嬢の卒業を待たないで、挙式したいと言ってるそうだよ。また、馬鹿に急ぐもんだな。善は急げというから、それは結構なんだが、お前が龍ちゃんに早く早くと言うものだから、そうなったのではないかねえ。まさか。そりゃ他にいろいろ事情があろうさ。いずれにしてもよかったよ。ねえ。あれほど善良にして気弱な芥川君を、いつまでも一人、下宿に放っておく手はないから」
 「本当ですわ。これで大安心というところですわ」
 こういう話がありましてから、その後またどうなりましたか、私どもには聞こえて参らず、暑中休暇がまいりました。大正六年の夏でございますが、東大文科に公開講演のあることを彼から伝え聞きまして、実は、夫と共にどこか温泉で過ごすつもりでおりましたのを、中止して、この公開講演に出席したいと夫に相談いたしました。一も二もなく承知してくれまして、その手続きは彼に依頼いたしたのでございます。彼は快諾してくれまして私もすっかり出席の気分になっておりましたところ、どうも気分がすぐれなくなり、つわりであることを確認されましたため、聴講の見込みはなく、温泉に行く元気は更になく、家に引き籠ることになり、又、取り消し手続きも彼に依頼するということになりました。大正六年夏と言えば、春に結婚して丁度、つわりになる頃であったわけで、彼の遊泳を見ながら海岸に佇んだ日はこの少し前になるのだと回想いたします。私は暑い夏の毎日を、家にごろごろしておりましたが、彼が次のようなことを話してくれたのを思い出したりしておりました。
 「これは結婚問題とは別なことですがね。横須賀の女学校の、あの、ねずみ色の制服を実は、ぼく、あまり感心しないのですが、あの制服を着て汽車通学しているお嬢さんに素晴らしい方がいますよ。いいなあと思って見ている間に、この程、ぼく、無意識にお辞儀をしてしまったんです。あとでハッとしましたが、もう、取り返しはつきません。大失敗をやっちやった」
 「おや。どこから乗りますの?」
 「逗子からです」
 「どんなふうなお嬢さん?」
 「背五尺とちょっとかな。容姿が実にすんなりしている。あんな木綿縞の制服を着ていて、それで又、実にすばらしいんですから大したものですね。足は恰も、かもしかのようなんです」
 「顔は?」
 「優しい愛嬌顔に眉が美しく、眼も亦、美しい黒眼勝ち。鼻がちよっと上を向いてますけど」
 「ああ。教え子の鈴木たか子ですわ。実科二年で成績もよく温和なお嬢さんですよ。あなたにお辞儀されて光栄と思っているでしょうねえ」
 「どういうところのお嬢さんか、わかってるかい?調べてごらん。汽車通勤も亦楽し、か」
 そうかと思うと、こんなこともありました。
 「ぼく、この程、令嬢中条百合に会いましたよ。よく勉強してるらしいんですが、ぼくと初めて会うというのに、派手な友禅の前掛けをかけてるんです。驚きましたね。これが趣味なんだって。自分で説明してましたが、ちょっと変な感じを受けましたよ」
 「ああ。中条さん。私のお茶の水在学中、付属高女にいまして、文才があると評判でした。私よく存じていますわ」
 「頭がよかったんですか」
 「それがね。国語は満点で、数学はゼロというあんばいで評判でした」
 「世の中は狭いですね。奥さんがご存知だとは思わなかった」
 「龍ちゃん。そういう方面の令嬢と結婚されてはどうです?」
 「さあ。ぼくは、あまり好みませんね」
 彼にもいろいろと気迷いがあったようです。右の二つの例など、判然とした確証あるものでないながら、何となしに迷わしげなようすを示す例になるとも考えました。教官室での先日のはっきりした話で、いずれ定まることであろうと思い、自分の気分すぐれぬ夏の日々を重い心で過ごしておりました。
 そうしているうち公開公演は開催され、彼から三枚も切手を貼った重い封書が届けられました。それには東大における講演のようすが、こまごまと記されてありましたのです。
 何々夫人、何々百合子女史など、多勢の注目を集めているなどと書いてあります。そして末尾に、「これは奥さんに『ああ自分も』という欲望を起こさせようために書いたのだ」と解釈までつけてありました。
次の便りには、
 「どうもこの頃、癇癪が起きて家人を困らせていたが、ようやく収まったから、奥さんも安心してくれ」
などと書いてこられました。そして、まあ、
 「原因は親しらず歯発生のため」
としてあるのです。思わず笑い出してしまいました。
 「いよいよ休みが終わろうとするので、心細くなっています。『航海記』を封入しますが、これは私のスクラップブックに貼る分ですから、お読み済みの上は私までお返し下さい。さて、私はこの手紙を書きながら大いに良心の苛責を感じています。これは特に奥さんに申し上げます。もっと早く書くべき手紙もあれば、もっと早く送るべき『航海記』でもありました。誠に申しわけありません。しかし私が用事で忙しくない時は、遊び回るので忙しいことをお察し下さい。横須賀に善友がいる程それほど、東京には悪友がいまして、私は彼らに誘惑されては無闇に芝居を見たり音曲を聞いたりしていました。それで、生来の筆不精が、ますます不精になってしまったのです。今、悪友のことごとくが帰ったところです。そのあと甚だ静かな夜となりました。私は小さな机と椅子を縁側へ持ち出してこれを書いているのです。
 即興にて 銀漢の瀬音聞ゆる夜もあらん  龍之介
 これで止めます」
 私はどこへも出かけられぬ憂欝な日々に、こういう彼の手紙を貰うことが何より嬉しくて日に幾度となく受信箱を覗きに行きました。
 そうして夏休みは過ぎてしまいました。相変わらず、ぶらぶらしながら、それでもいつか軽くなってゆく、つわりを、やはり持てあましながら、故郷信州を思い浮かべるのです。親の元にいれば、こんなとき、どんなにか気楽であろうと、つい思ったりして、何でも自分でやらねばならない家事を少々いとわしく思うしだいでした。信州の富士が不思議と思い出されました。大気の中に浮かぶ朝な夕なの富士のことを彼にも語った日がありました。
 「奥さんはお国自慢ですね。ぼくのような都会児にとって実際、大都会は墓地です。人間はそこに生活していないという感じで適いません」
と、彼は言うのでした。
 「ぼくも、田舎で生まれ、豪荘な自然を見て荒っぽく育てばよかった。もっと線の太い人間になれたかも知れない」
とも言いました。すると夫は、
 「芥川君。そんなことを言うけれど、ぼくは都会のよさを充分みとめる方ですよ。まあ田舎に行って一日もいてごらんなさい。恐ろしく退屈して来ますよ。不便極まる暮らしですよ」
 三人はそこで笑ったものですが、夫の話すのをなお聞いていますと、かつて、一夏を田舎で勉強する気になったことがありまして、夫は一頭の馬を雇い、書物をどっさり背負わせ運ばせたところ、都育ちのためすぐ都恋しくなり、本は一冊も読むことなく、すぐ又、馬の背に書物を託して帰京したというのでした。彼は、「なる程ね」と、じつと考え込んでしまいました。そして「馬」ということばで思い出したのでしょう。
 「ぼくは、あの馬も哀れなのだが、牛もそうです。牛の鼻に通された鉄の輪を見ると非情な気がしてなりません」
 すると夫は、やはり別でした。
 「しかし、我々人間だって生きて行く苦しみは、なまじ頭脳があるだけ、あれより、たいへんなのですよ。だけど、やっぱり牛に生まれるより、人間に生まれたいものです」
 彼は牛を哀れだと言い、夫は人間の方がよりたいへんだろうが、やはり人間に生まれたいと言っているのでした。私は聞きながらこれが文科と理科の違いかしら。それとも性格の違いかしらと考えていました。そして、彼龍之介の神経の暗く尖鋭なのに戦いたことでした。彼には確かに付きまとう影のようなものがあったと思います。
 そんなことより、彼から書いて貰った俳句の数々を書き並べて見ましょう。

 紫は君が日傘や暮れやすき 龍之介

 これは確かにあの夏の海べの印象になっております。日傘を紫と覚えていてくれた懐かしさ。私にとりましてまことに得がたい一句なのでございます。

 揚州の夢ばかりなるうすものや  龍之介

これも夏の句で、うすものというところに、何か摑みきれないほのかな夢を残してあるように思われます。

 青簾裏畑の花をかすかにす  龍之介

これも真夏の一角を視点としてあります。かすかな花にやはり夢が託されているような味わいです。

 読み足らぬじゃがたら文や明けやすき  龍之介

一夜、読み通して朝になり、まだ読み足らないという感懐でございますが、やっぱり何かが残されている思いでしょう。

 衣更へお半と申し白歯なり  龍之介

やはり、夏へ向う頃の一肌すがしい女の様相で半と名づけてあり、白歯というのはまだ歯を染めてない女…もちろん、江戸時代あたりにさかのぼっての材ですが、おはぐろに染めてない白歯の時代、まだ嫁がない女の清しさを言っているのでしょうが、やはり手触れないものへの哀歓とでも申すような芥川流の好みが出ているように思います。

 天には傘地に砂文字の異草奇花  龍之介

これは彼の中にある異国好みが奇想天外な形で出た奇術のような不思議さを持ったものと思います。キリシタンバテレンの語から傘をひらき、花を咲かせた連想ででもございましょうか。

 花笠の牡丹に見知れ祭びと  龍之介

お祭りの情景から出たものと思います。江戸っ子の彼はこんなところも垣間見て心に残していたと思われます。

 廃刀会出でて種なき黄惟子  龍之介
このことはよく解しかねますが。

 毒だみの花の暑さや総後架  龍之介

夏の句でございますが、結句で、暑さの陰のやや冷やっこさが感じられます。おもしろい視点だと思います。このような句を興に乗って白紙に書いてくれました。おそらくその時に、頭にのぼって来るもの、日ごろ頭にとめていたものが、一度に湧き出して来るときであったのでしょう。
 次に和歌についてですが、私がまだ自作の歌を見せては、何か言って頂いていた頃のことでございます。

 柿の実は赤くつぶらに色づきて君を待ちつつ秋更けてゆく  花子

 「おやおや。柿の実が、ぼくを待っててくれるのですね。これは恐縮至極です」
もちろん、柿の実には私の心が託されてありまして、私が彼の来訪を待つという意味なのです。それを感じとってくれています。

 朝戸出に一本咲けるコスモスの花見てあれば君ぞ恋しき  花子

これは丁度、来訪されたとき、主人は出張中で不在でした。その思いを述べたものでございました。ちょっと寂しくつまらぬところへ、来て下さいまして嬉しかったことを思い出します。夕食は怠けてお寿司をとり、ビールは止してお茶とココア、シュークリームと果物だけで、お話に身を入れました。

 暮れてゆくみ空眺めて佇めば雁なきてゆく父ます方へ  花子

これは信州にいる父を慕って作歌したものでした。

 果てしなきみ空仰ぎて得ることは雲なかりきといふ安らけさ  花子

これは晴れた日の大空に対する感慨であり、同時に悩みなき自己の述懐でもありました。

 大空はいよよ冴えたり仰ぎみる瞳に写る上弦の月  花子

 木犀の花の香りをあぴて立つ朝な夕なの秋のわが庭

 大輪の黄色き菊のいみじさにつとふれし手のつめたきあした

 ほのかにもぱつと漂ふ一輪の菊のかをりぞ朝のよろこび

 わが庭の紅の芙蓉の色ましぬ秋のあしたの雨のめでたさ

 萩のはな月の光に輝きて薄紫に匂ひこぼるる

 悲しみも憂ひも持たぬ身なりぞと思ふ端より物案じする

 かりそめのことに憂へてかりそめのことに心の和みけるかな

 いささ川水のめでたささらさらと底のさざれの数みせてゆく

 いささ川浮びては消ゆるうたかたのそれにも似たる我が思ひかな

 思ひ葉を流して吉と占ひぬ心うれしき朝なりしかな

 何ごともよしとみて皆喜ばむさやけき秋に心安かれ

 針もちて物縫ふ折の安らけさ静けさにただ命死なまし

 誠ある我に生きむと願ひけり君や知りますわれの心を

 というふうにノートに書きつけてある歌をお見せしました。彼はずっと読んでいて、
 「この中で、ぼくは、「針もちて物縫ふ折の安らけさ静けさにただ命死なまし」が一番好きですね。ぼくも、そんな心境を経験しますよ。だが、奥さんのお歌は優しくてきれいですね。全部よく見えてくる。もう、添削なんて止しますよ。拝見するだけで、自然と心が和んで来ますよ。不思議だ。実際不思議だと思うんです。どうか、沢山作っておいてぼくを慰めて下さい。拝見するのが楽しみなだけです。ところで「何ごとも言はじとすれどしかすがにとどめかねたるわが涙哉」これだけはFさんが作られたお歌だそうですね」
 「あら。まじっておりまして。ご存知なのですか。この一首を。まあ」
 「ええ。ええ。ご婚約中、ぼくはあなたのお歌を佐野君から拝見していましたし、ご結婚なさるとき、この一首を、つまり藤原咲平君が詠まれたことは、その後伺ってるんです」
 「まあ。なんでも主人は申しますこと」
 「それはそうですよ。ご婚約中からぼくと佐野君は、どんな奥さんがいいとか何とか、話し合っていましたよ。呑気な佐野君が女房操作法も知らないで大変と心配でもしたんですよ。来られたら、どういう女性か、ぼくが見定めて上げましょうとも約束してあったんです」
 「まあ。そんなに……」
 「大丈夫ですよ。みごとパスですからね。それどころか羨やましい限りになってしまってるんですから」
 結婚前に男同志というものは何を話しているか解らないと思い赤面の至りでございました。
 「その藤原君ですが、あなたが嫁がれる時この歌を詠まれたとは、ただごとじゃない。理学方面では、彼、もはや、権威ですが、文学方面も豊かであられるようですね」
 「ええ。どの方面にも優れた本当によい方でございます」
 「このお歌は、なかなか深刻ではありませんか。佐野君へあなたが嫁がれるときのお歌だというだけに、しみじみとしたものがあり、いい歌ではありませんか」
 どうして、その一首がそこに書きしるされていたのか、私もうかつだったと思います。自作をお見せしているときに、そういう人の一首が記されているとはうかつなことでございました。それを目ざとく見つけられその事情まで知られており、ちゃんと覚えられていたとは驚いたことでございました。
 「ぼくは大体、俳句ならやりますが、和歌もなかなかよいものだと思うようになりました。これは奥さんのおかげですが。いや、和歌は本当にいいものだ。近々、ぼくも、もっと和歌をやってみようと思いますよ」
 「あの私。芥川様にだけはお耳に入れて解って頂きたいと思っていたことがございますのよ」
 「一たい、それは何ですか」
 「覚えていらっしゃいますか。あの春のころでしたけれど。私に下さいました俳句の中で、

 花曇り捨てて悔なき古恋や 龍之介

というのがございました。あれを頂いたときちょっと意味が解らなくて。芥川様ご自身のことかとも思ってみたりしまして」
 「ああ。あれについては、ぼくも、奥さんにお話しして置きたいと思っておりました。
 ぼく、あれを差し上げて、その後、奥さんとお付き合いしているうち、ひょっとして禍誤を犯していたのではないか、奥さんはそういう方ではぜんぜんないのに、これはしまった、と時々、意識に浮かべては気にしていたのですよ」
 「さすがは芥川様でいらっしゃいますわ。根も葉もない噂が飛んでちょっと困りましたけれど、でも、佐野だけ理解してくれましたわ。で、世間のことは構いませんけれども芥川様にだけは解って頂きたいものと、いつも思ってましたの」
 「よく解りました。ばくの罪は万死にも値いしましょう。徒らに風評を信じて、ああいう俳句をお目にかけたとは、軽卒をお許し下さい。深く取り消しますから」
と、深刻な顔して黙ってしまいました。別に彼を詰問したわけではありませんのに、例の一句が、ふとしたことから或る方面へ公になって、いろいろ取り沙汰されたことがあったからです。今、考えますとこの俳句の意味は、「お互いに、ともかく、今までの恋人のことなど忘れてしまう」ということではなかったかと思うのですが、どういうものでございましょう。いまだに判然といたしません。

 秋立って白粉うすし※夫人   龍之介

[やぶちゃん字注:「※」は「郛-(おおざと)+虎」。]

 白粉の水捨てしよりの芙蓉なる  龍之介

これはその折に下さった俳句で、説明をおつけ下さいました。
「土曜日には奥さんが、白粉をつけておいでのそうですね」

 妻振りや襟白粉も夜は寒き  龍之介

とも書いて下さいました。
 私は大体、白粉をつけることが嫌いで、余りお化粧をしなかったものですから、それを材になさったのでございました。それも、夫に注意されて、たまに刷く程度なので、かえって目立ったことになりましょうか。虢夫人とは中国の昔、蛾のような眉をわずかに指で払うのみで君前にまみえた麗人のことを申します。白粉をつけない私の気慨を高くお汲みになったような句と思います。
 こうして俳句をいただいたり、拙歌をお目にかけたり、お話を伺ったりのひとときは又過ぎ去りました。
 残念乍ら、その後、歌をお見せする機会は無くなりました。「もう、見ることができなくなりましたから。あしからず」の、あのおことばによりました。

[やぶちゃん注:佐野花子自身の短歌群(一首他者のものが含まれる)以外の前後行空けは底本のままである。]

       ㈤

 彼を神経質な人と私は申しましたが、その上に影のような暗さが尾を引いていると思うことは、やはり拭い去れない事実でございました。
 「煙草と悪魔」を携えて、或る宵のこと、暗欝な表情で彼はやって参りました。当方からお招きしたのでございましたが、丁度、すぐ、雨になりました。濡れないで来られたこと喜ぶでもなく、窓際へ行ってガラスに顔を押しつけて外を見ていられますが、灯を背にした彼は、ひどく力なく肩を落して、からだ全体で泣いているかのように見えるのでございます。私はなぜか、ドキンと胸を打たれて、それでも牛鍋の用意や燗の仕たくにまぎらしておりました。
 「もう、何でも構わず結婚してしまおうかと思うのですよ」
と彼は座に返って来て言いました。極めて難かしいことをいう彼に、いよいよ理想の婦人が見つかったのであろうと喜ぶには、なんと暗いことば、暗い表情でありましたろう。
 「ぼくは、それに、どうも神経衰弱で」
とも言うのです。
 「それは、早く美しい奥様をお迎えになればよいことなのですわ。お可愛らしいお子様もできてごらん遊ばせ。神経衰弱なんてものは飛んでってしまいますよ。家庭の楽しみというものは、あなたのように孤独な方が思っていらっしゃるより、ずっとあたたかいものでございましてよ」
と、私はお酒をすすめながら申します。夫も同じ考えですから、
 「そうとも。そうとも。ぼくだって三十まで独身でいて、下宿生活をしていたので、それで言えることなんだが、結婚すると、その今までの空虚だった心が薄らいで行くのは妙なものなんですよ」
 すると、彼は力ない中にも元気をしぼるふうで、
 「そら。そこのところですよ。あの頃、ぼく、小町園で申し上げたでしょう?あのことばね。まさに適中ですよ。あなた方のご結婚が非常によいご結婚だったから、このようなよい結果が生まれたんですよ。それは確実ですね。しみじみ佐野君のために喜んでるのです」
 相手のしあわせを祝し、同時に自分の将来を計算して力の出しようのない様子に見えるのを私は案じました。やはり、さきほどのことば通り、進まぬ気持ちで、周囲に押され、とにかく、なんでもいいから結婚してやろうと思っているようでした。その証拠に、次のようなことを彼は申しました。
 「結婚後、自分の理想とまったく相反した状態になったら」
と、口を切って、
 「ああ」
と、ためいきを洩らし、そして一気に言いつづけたのです。
 「あなた方はおしあわせですね。ぼくが、もし、結婚したとして、その婦人がことごとに自分の気に入らなかった場合、実に悲惨ですね。ぼくは果たして恵まれた家庭を持てるのでしょうか」
 「どうしてそういうふうにお考えになりますの?そんなことはありません。あってはいけません。あなたの奥様になりたい人は、一ぱいなのですもの。候補者が山ほどあって、選択にお困りなのでしょう。早くいい奥様をお持ち遊ばせ。そして今度は私ども笑いに羨やましがらせて下さいまし。そして、一そう近しくしていただきたいのが、私どもの願いでございますもの。こちら二人で、芥川様がお一人でいらしては、物足りなくていけせんものね」
 夫もこれに相槌を打って励ましたのですが彼はそれでも沈んでいたのでございます。私は気を引き立てるようにつとめ、
 「お決め遊ばす方、なんというお名前の方でいらっしゃいますの?」
と伺ってみましたが、お答え下さいませんでした。ただ、
 「ぼくは新婚旅行は、あなた方のように箱根へ行きますよ。箱根はいいですね。結婚したら、家内には奥さんから和歌を仕込んでいただきましょう。今からお願いしておきます」
 冗談も、まじめともつかぬ大仰な申し出で、私はびっくりするほどでしたけれど、ようやくこの宵のふんいきは微笑を生み、楽しさを呼んだようでございました。けれどもやはり哀感を伴う影がありまして、お帰りになるうしろ姿も初めのときのように寂しいものでした。
 その後、彼は私ども夫婦の住んでいる海岸の近くに居を転じました。学校も近くなった場所で、その家を探しましたのは私でした。彼のため、よいところをと一心に探し当てました。
 しかし、やがて私は初産も軽く、母となり、彼は彼で、美しい婦人を娶り、新居は更に鎌倉に構えられました。
 新夫人を伴った彼の訪問を受けたのも、まだ私の産褥中でありましたので、夫だけが、にこにことして彼らを迎えましたのです。私の初産のため郷里から出て来た母は、私に代わって何くれとなくもてなしていました。夫と母とは美しい客を送り出してのち、私の枕元へ参りまして、口を揃えて、お似合いのご夫婦だというのです。母などはすっかり感動してしまいまして、
 「まあ。なんてご立派なご夫婦でしょう。信州などではとても見られませんよ。だんな様はお背が高く、すっきりとした瘦せ型。ハイカラというのは、ああいうふうを申すのでしょうね。奥様は、また、ふくよかな本当に美しい方。お似合いですとも」
 私は嬉しいような悲しいような涙ぐましさを覚えました。いよいよ芥川さんも結婚なさったのだわ。そして、自分は母になったと何か一安堵の思いで眼を閉じたのです。

 汲み交はすその盃に千代かけて君がみ幸を寿ぎまつる  花子

 とはそのときの胸中に浮かんだ歌でございました。
 或る日、帰宅した夫は、今度は当方から芥川君の新居をお祝いかたがた訪問することにして来たと申しました。私は子供連れでたいへんだからと、ためらっては見ましたもののやはり夫の意見に従い、出かけることにいたしました。
 新居は松原を背に茂る青葉に包まれた小ぎれいな構えでございました。門辺には大きな芭蕉の葉がそよいでおりました。
彼は私ども一家揃っての訪問を心から待ち受けて呉れておりました。新夫人も初めての挨拶を私に与えられ、都育ちのあでやかさを清楚に整えた初々しさで若紫ということばにも例えたい佳人でいられました。この新妻のもてなし振りに私はすっかり嬉しくなり、しまいには初対面ということも忘れて寛いでおりました。私の田舎育ちの荒さや、女学校時代のスパルタ教育の名残りがどこかに出るようで、注意をしながらもはしゃいでしまうのです。彼の方は今日の訪問客のために髪を洗い、仕立て下ろしの浴衣を着て、すがすがしさを身につけた感じでした。若主人振りを私は心中まことに可愛らしいと思ったのです。
 「実は今日、親友、久米正雄をご紹介しようと思いましてね。もうすぐ来ることになっているんですよ。どうぞ、夕方までおくつろぎ下さい。赤ちゃんは女中さんと海岸へでもおやりになっては如何ですか。うちの女中もお伴させますよ」
と、しきりに引きとめられたのですが、子供連れであり、初めての外出でございましたので、名残り惜しくも、頃よい時に辞去することになりました。
 考えればこのときが、あとにも先にも、私にとっては彼を訪う一度の日だったのです。
 ついでに思い出を書きますと、このとき、彼から贈られた初着は、男の子の柄ですから如何にも、すかっとした、見立てのよいもので、私自身がすっかり気に入り、実は、主人を通して彼の承諾も得てありましたが、私の羽織の裏に使わせていただくことになったのです。
 機関学校では各々に子供誕生の折りには、初着用三丈の布を贈り合うことになっていたのです。彼もその規則にしたがって、彼自身の見立てで贈ってくれたのでございました。
 また、当方からのお返しには、お盆をそれぞれ送りましたが、まだ、独身の彼のみは、お盆でも困るだろうとの話が、うちうちに交わされまして、主人と私で、お誘いかたがた横須賀の町でご馳走し、「さいか屋」という店で財布を買って差し上げ喜ばれました。財布は使って下さった由。羽織裏は長く、色あせるまで使用いたしました…………。
 彼はそれから創作一路に東京へ去って行きました。

 帰らなんいさ草の庵は春の風  龍之介

 墨痕あざやかにしたためられた、彼の愛著<傀儡師>を記念にと私に手渡して行きました。遠く離れる儚なさを私は悲しみましたけれど、彼の前途のため、それは祝うべきことであると思いきめましたのです。
 「啓。その後暫らくごぶさたしました。皆さん。お変わりもございませんか。私は毎日、甚だ閑寂な生活をしています。時々、いろんな人間が遊びに来ては気焰をあげたり、のろけたりして行きます。ところで横須賀の女学校を昨年か一昨年に卒業したのに岩村京子という婦人がおりましょうか。これは奥様に伺うのです。もし、居たとすれば、容貌人物など大体を知りたいのですが、いかがでしょう。手前勝手ながら当方の名前が出ない範囲でお調べ下さればあり難いと存じます。

 この頃や戯作三昧花曇り  龍之介」

という彼の通信に接し、私は真心をもって、調査に当たりました。そして、彼の悠々自適の生活を心から礼讃し祝福した手紙を夫と共にしたためて送ったのでございました。
 この調査の要は何のためであったか、そのままに知らず過ぎてしまいました。が、とにかく、遠く離れても、私どもは彼に寄せる手紙によって、また、彼から来る手紙によって彼との交友の深まりを願い、特別の心情をねがうばかりでした。それゆえ、かえって、この交際は末長くつづくであろうことを確信しておりましたのです。

 心より心に通ふ道ありきこの長月の空の遙けさ 花子

 とは、その当時の私の心境を歌ったものでございます。
 彼が少し健康を害したことがありまして、私どもは案じて見舞状を出したこともございました。
 「お見舞ありがとうございます。煙草をのみ過ぎたことが、わざわいして咽喉を害し甚だ困却しています。しかし、もう大部よろしい方ですから、はばかり乍らご休心下さい。

 病間やいつか春日も庭の松  龍之介」

という返事をもらって胸なでおろす私でもございました。
 その後、彼から男子出生の吉報を得て私どもは、取り敢えず、その町における最上という赤ん坊の帽子と、よだれ掛けを心祝いに贈りました。応えて、あの可憐な夫人より丁重な礼状が届けられましたが、不思議なことにそれきり、まったく、それきり、私どもの寄せる音信にも、なしのつぶての、たった一度の返信さえも来なくなってしまいましたのです。一たい、これは、どうしたことでございましょうか。何か自分たちに落ち度でもあったのではないか、失礼なことでもしたのではないかと、いくら考えて見ても更に解らないのでございました。なんとしても腑に落ちないことでございました。
 突然に音信の絶えたこと、いろいろに考えあぐねて見ますが、夫は、ただ、創作生活一本にはいって、創作に忙しいのだろうと、あっさりしておりますが、私の方は、どうにも収まらない気持ちで一ぱいになるのです。
 つきつめて考えれば、私も彼を好きでたまらないわけでございました。今までの心的交友のあり方が、私の心を高揚した友情に慣れさせ、急に外されると、どうしてよいか解らない気持ちにさせました。こうなって初めて私は友人として彼をどのように好きであったかを知りました。ユーモアと機智に富んだ話し振りや、薄く引き締まった唇。長い睫の奥に輝く漆黒の瞳。時には、じっと見つめる面ざしの、はかり知れぬ深さ、対座していると、どうにも引き入れられずには居られなかったのでした。
 「奥さん」
と声を掛けられると、無口な私も一心になって、身構えして太刀打ちすべく彼に向ったものでした。うっかりしていると、きらりと刺されそうな恐れに対しての身構えでした。
 「奥さんには適いません。インテレクチュアルですから奥さんは」
と勝利の上にいても彼は冷かすように私をほめるのを忘れませんでした。
 私が丸髷に結って見た折り、彼は来訪して来たことがあり、それをたいへんにほめまして、夫にも、
 「佐野君。ぼくなら丸髷に結わせるためにも、女学校の教師などは止めさせますがね」
と言いました。午前中だけ町の女学校に教えに行くのさえ、あまりお気に入らなかったようです。……とにかく音信の絶えたこと……。
 今こそ打ちのめされた思いでした。それから時が流れ年が逝き、夫も外遊をして、約束のステッキは買って来ましたものの、手渡すこともできない間柄になってしまったのを、どうしようもありませんでした。それほど絶えて音信も友交関係も切れてしまいましたのです。境遇が変わったことが、まず第一の条件でもありましょうか。すっかり先方は専門家の生活環境にはいられたのですから。それにしても年賀状一枚来なくなってしまいました。
 或る、それは冬の日のことでした。私は火鉢に寄りながら雑誌をひもといていました。
 ふと、私は一文を読んだのです。そして、再三読み返したのです。繰り返し、繰り返し読みました。そして、流れ出る涙を押えることができなかったのでした。
 私は読みました。あまりにも判然と。そして黙ってしまいました。文の終わりに私は、「この悲しさに涙ながるる」と書きつけました。
 彼の名声の日に日に上がるのを見、彼の業績の年ごとに重くなるのを知り、彼の家庭のいや栄えゆく様を聞いて衷心から喜びに耐えないのですが、この時の文面の悲しさ、憎らしさはどうすることもできませんでした。幾たびか確かめるように読み返し、よみ返してついにその雑誌を焼き捨ててしまったのでございます。私は黙りました。夫にも申しませんでした。

 忘れぬをかく忘るれど忘られずいかさまにしていかさまにせむ

 などいう古歌を口ずさんだりして、夫と共に彼を慕っていた人の好さが哀れに思われるばかりで、私は黙って涙を流したのですが、やはり、とうとう事件が持ち上がってしまいました。或る宵のことですが、夫は浮かぬ顔をして帰宅いたしました。
 「芥川君はね。〝佐野さん〟という題で、ぼくの悪口を書いているのだよ。新潮誌上でね。今日、学校でそれを読んだ。学校当局も問題にしているよ」
 「……………………」
 「お前もその文を読んでごらん。解るだろうこの気持ちが。つまり、物理学なんてやっている人間の非常識な野暮ったい面を突いて強調したような書き方なんだ。ばくも自分のことながら、なるほどなあと思って可笑しくなったくらいだ。芥川君のような文学者から見たら、可笑しく見える要素が多分にあるのだろうな。お前から見たって、ああ見えるかも知れないなあ。こんなことくらい、放って置いてもいいんだけど、海軍機関学校というところも難かしいからね」
 私は新たに涙のあふれ出るのを押えきれませんでした。私は既に読んでおりました。夫を彼一流の眼、彼一流の筆で鋭く嘲笑していたのです。私は既にそれを読み、すでに焼き捨てていたのです。私は、ただ、涙を流していました。そうして黙っていても夫に一向あやしまれるわけはありません。あまりの情けなさに泣くだけなのだと、夫には思われましょう。夫は独りで語りつづけました。
 「しかし、芥川君としては、ちょっと変なことをしたものだ。とは、ぼくも思うな。お前が来ないうちからの交わりで、来てからも、あの通り上乗の交際だったと思うし、彼も良い結婚をして円満のようだし、別に何ごともなかったと思うのだが、不可解な事だ。龍ちゃん、創作に凝り過ぎて少々異常を来たしたかも知れないね。それにしてもあれだけ好意を持ち合って親しくして居ったんだから、どうも変だ。こんな推察をしては悪いけれども、龍ちゃん、ヒヨッとして結婚生活に多少不満でもあるんじゃあないか。考えてみれば、結婚の決意をしたらしい時、そら、うちへ来て、ちょっと不思議なことを言ってたね。結婚した婦人が、ことごとに気に入らなかったら悲惨だとか、一生、恵まれた家庭は作れないとかね。しかし、ぼくにはね。幼な馴じみで嫌いじゃないって言ってたから、別に不満はないだろうがねえ」
 「………………」
 「ヒヨッとすると、お前という人間が龍ちゃんの心に喰い入り過ぎたかも知れないね。ぼくは、うっかりして芥川君を余りうちへ呼び過ぎたかも知れないね。これは、ぼくが龍ちゃんに心酔の余り、やったことで、少しも悪気でしたことではない。悪気どころか、まあ、芥川君に絶大の好意を寄せて下宿生活の単調さを補っても上げたいし、又、お前のためには良い友だちとなってもらえるし、そんなふうに考えたのだよ。芥川君も喜んでよくやって来たねえ。お前も楽しそうに見えた。ぼくも楽しかった。だから、ぼくに疾ましい点は、ちっとも無いんだもの。可笑しいことをしたもんさ。考えてみれば、しかし、いろいろあるよ。約束して、あれほど、待っていたのに結婚写真はつい呉れないし、その果て最近撮した写真だと言って、自分の一人写しのを持って来てさ。それが一番、気に入ったものだそうで『どうぞ永久に記念として、取って置いて下さい』なんて……。お前はあの時、『これも結構ですけど、お揃いのでなくては厭』と頻りに龍ちゃんをやっつけていたが、それでもとうとう呉れなかった。何か闇に迷うという大きなシコリがあったのかも知れない。人間というものは弱いものだからね。お互い気をつけなければいけないよ」
と、思いの丈をと申しますか、ひとりで語りつづけました。私にはその気持ちがよく解りました。私は長いことばの代わりに、長い長い時間、涙を流したのですから。しかし、夫のことばを聞いて私も自分を反省してみました。自分は何か出過ぎたことをしたのでしょうか。けれど、どう考えても、心には一点の曇りも無かった筈に思えます。分を守って間違ったことは何一つして居りません。彼をよい人だと思い、夫の意志に従って真心を尽くして接していただけです。夫は、なおも独りで語りつづけました。
 「芥川君が学校をやめて新聞社に入社しようとした時も、からだを気遣ったぼくは、やはり規則的の仕ごとをしながら、創作に従事する方がよくないかと話して見たけれど、夏目先生もそうされたことだし、ぼくは実を言うと、機関学校へ来たのは徴兵逃れのためだった。もうそれも逃れたからって、帰心、矢の如しさ。学校勤務は別に厭な様子もなかったがね。それはそれでよいけれど、行くゆくからだをこわさねばよいが」
 「本当ですわ。その随筆とかいう「佐野さん」のことだって変ですもの。これが行くゆく、からだをこわす前ぶれというものにならなければよろしいですけれど。女高師出でも一番で通したような人は、卒業と同時に死んだり弱ったりし勝ちですもの。芥川さんの秀才も、ちよっと心配になりますわね」
と、やはり日頃の彼思いに落ちて行く口憎しさ。
 しかし「新潮」のその一文には私も新しい怒りの湧くのを覚えました。それはあの龍之介に対する真実の怒りでありました。唇はピリピリと震え、顔は紅潮し俄かに青ざめて行くのが解りました。あれ程、夫に対して理解のあったと思う彼が、夫のことを、
 「この男が三十を過ぎて漸く結婚できると有頂天になっているのは笑止千万だ。果たしてどんな売れ残りがやって来るのやら」
と結んであるのですが、これは私を見る前の文です。ずい分、前のことを書いたもので、それだけに顔を合わせていた期間の短かくないことを思うと余計腹立たしいのです。題も明らかに「佐野さん」とあるのです。新潮誌上に麗々と本名を使って発表した随筆。あまつさえ夫を見る影もない変な男とし、そして刺し殺すほどの憂き目に合わせていました。夫はよくこれを読んで怒らずにいられたものと思います。理性の優った夫。奥底に道徳的善良さをいつも失わなかった夫。また、常に如何なる情熱が兆そうとも氷のような冷やかさ押え得る彼の性格。その彼にしてなんと不可解な仕打ちであろう。どのような皮肉冗談にも必ず伴う礼儀好意の片鱗さえ影を潜めてしまった文章でありました。誹謗冷笑に満ちた文辞には改めて茫然としてしまうのでした。人の好い夫、善良な夫は、彼のニヒルの笑のかげには愚鈍な間抜けとして描かれて行くのでした。そこには世間と文学との一線が見られました。一たん、その座につくや、彼の眼は既に彼自身の眼になるのです。思い溜めていたことが一度に角度を変えて変貌してしまうのです。夫はよい材料になるわけでした。それは私にもよく理解できます。私とて文学を解する側の人間でした。ただ、理解できないのは、あまりにもムキ出しに書いたことなのです。名前を本名にし、世間の昼の光の中にさらけ出してしまっている。もう少し書きようもあるのではないでしょうか。書かれた方は、その辛さに耐えられないのです。あきらかに彼は夫を憎んでいました。これを第一として、のちに抒情詩の中に、歌の中に夫らしき男が嘲笑され、刺し殺したいばかりの思いで点在しました。しかし、それは、文学の中においてであり、どこまでも、それらしさで終わりました。それでよいのです。それでよいのだと私は理解いたします。それゆえに「佐野さん」なる一文は文学とは言えない世間的の性格を帯びていました。文は拙いとは申しません。題名から判然と「佐野さん」と名を明らかにされ、内容は明らかにこの本人の本名でありますので、佐野個人、そして私、私ども取り巻く知人、読む範囲の知らぬ大衆、それから目玉のかたまりの機関学校、これらを背負って夫の心身は傷だらけになりました。たのしい交際と思われたあの期間において、彼は夫を実はさんざん持て余し、心でどれほど嘲っていたのだったかと、思い知らされました。名前まで指摘して天下の新潮誌上に発表せねばならぬほど、夫は仕方のない存在だと申すのでしょうか。
 それから数日後の夕食どきに夫は声ひくく申しました。
 「今日、芥川君が学校に来た」
 私は驚いてなお語ることばに耳を立てましたのです。
 「例の新潮の随筆の件で謝罪に来たのだ。学校で手を廻したことと見える。芥川君は、学校当局にも、ぼくにも謝罪をしてね、以前のような元気はなく帰って行ったよ。ぼくはちよっと送って出て、是非うちにも寄ってくれ、ぼくは何んとも思ってないし、あれもすっきりすることだろう。一泊してもよいからゆっくり話してやってくれと言ったけれど、奥さんには君からくれぐれもよろしくお詫びしておいてくれと帰って行ってしまった。淋しかったね。うしろ姿も淋しかったよ」
 「そうですか。それではやっぱり以前のようにはしないおつもりですね。あんまりですわ」
 私は又、涙ぐんでしまうのでございます。
 「本当だ。ぼくも一生変わらぬ交際をしていい人だと思っていただけに、それだけ一入、憂欝になるね。しかし、まあこれも成り行きだろう。何を言っても、もう駄目だ。かげながら芥川君の成功を祈るとしょう」
 まことにやるせないその夜の思い出でございます。
 機関学校の校長はじめ一同があの文を読んで憤慨し、芥川を呼びつけて謝罪させたことは、私にとっては、せめてもの慰めでありました。学校では佐野を弁護し、かばってくれたわけですが、夫が信用を受けて居り、捨てておけない人物であったからと思えます。焼き捨ててしまった例の新潮はその後、一冊も眼にふれることなく、また、見たいとは思いませず、終わりのところの文のみ覚えているのでございますが、天下の芥川を庇う文壇ジャアナリストらの方でも、同時に申し合わせたように、あの随筆のみは彼の全集にはおろか、何の小集にも載せることなく消してしまいました。おそらく、あの文を覚えている人、所持している人もないのではございますまいか。あれば解っていただけると思います。
 その後、大正八、九年の何月号でございましたか、淑女画報に左のような文が載りました。

       ㈤

 僕の最も好きな女性    田端居士

 僕は、しんみりとして天真爛漫な女性が好きだ。どちらかと言へば言葉すくなで内に豊かな情趣を湛へ、しかも理智のひらめきがなくてはいけません。二に二を足すと四といふやうな女性は余り好ましく思へないのです。
 かつて或る海岸の小さな町に住んでいたことがありました。そう教育が高いといふのでもなく又さう美人といふでもない一婦人と知り合ひになったことがありました。この婦人に対して坐ってゐると恰も浪々として尽きない愛の泉に浸ってゐる様な気がして恍惚となって来ます。僕はいつか全身に魅力を感じて忘れやうとしても今尚忘れられません。かういふ女性が多ければ多いほど、世界は明るく進歩して男子の天分はいやが上にも増してゆくことでせう。

 右の文において私はふっと自分の胸に思い当たるものを感じます。名前も出さず、或る婦人とか、或る海岸の小さな町とか、ぼかして述べてありますけれど、私には思い当たる節があるのでございます。ははあ私のことだとわかるのでございます。これが文学的な方法でございましょう。これと比べて「佐野さん」という文は何んとムキ出しに夫を刺したものだったかと、今更のごとく比べて思いました。そしてもう一度、あの辛辣な文における彼の仕打ちを思い返して見ました。ひらたく言えば、私は好感を持たれ、夫は嫌われ、憎まれているということになりました。それよりほかにないのだと思います。なぜ夫をそれほど憎んだのか、私はようやく解るのでございます。私は彼に好感を持たれていたのだ、愛されていたのだ、どうしようもないほど愛されていたのだと。彼の口から洩れ出た私への思慕のことばは、別に嘘ではなかったのだと。社交辞令と受け流していたのは私で、本気で言っていたのは彼だったのだと。私は彼のテストで受けていたわけになります。というのは、彼に問いかけられた愛の倫理の中で、至極、道徳的な判断と世間並みの解答しか与えなかった私を突き放し、あの地を去り、そして交際を断ち、夫を憎み、私への思慕を残して一片のハガキすら呉れないのだと。このようなことは、後になってしか解らないのでございました。そう思えば糸のほぐれるように、うっとりとした追想がよみがえってまいります。私には何のまちがいもないし、夫の命に従って、誠心誠意、尽くすだけのことは尽くしたと、正しがっている私そのものに罪があったのだと、身も世もない女身を抱く思いでございます。芥川さんは私を見るたびに深く愛されるようになって行ったのか。正しく振るまえば振るまうほど、愛されたのかと自分で自分を見ることのできない私は、後になってから気がついたのでございます。それだけに夫は憎まれ、嫌われ、随筆にまで書かれたのか、それも私のためだったのだと解りますと、罪の深さに消え入りたいようでございます。
 彼との交際が絶えてから、私の家庭には平穏な月日が流れました。両手に縋る愛児と善良な夫を持った私は、変わらぬ愛情を捧げるのになんの屈託もございませんでした。けれども不思議なことが一つありました。何の文句も言わない、穏やかな夫の中に一つ脱落してしまったもののあるのに気づきました。それは、あれほど、興味を持ち、あれほど真摯であった物理学への研究を、いつのまにか忘れたように、呆けたように放擲してしまったことでございます。なんの変化も受けないように見えながら、その実、夫の最も重要な頭脳の部分、物理学への熱意が、欠け落ちてしまった、そして何ごともなかったように穏やかに笑っている夫の哀れさに気づいたのでございます。こういう形で夫は平静を保ち得たのかと涙をこぼしました。詫びたい思いでございました。それでも夫は幸福そうでございました。私は何も言わず、一そう夫を愛したのでございます。例のステッキも夫は移り住むたびに荷物の一つとして持ち歩きました。その荷作りをする毎に私の顔は翳りましたけれど、夫は例の如く穏やかな微笑を浮かべているだけでした。
 その後、昭和二年七月二十四日の朝刊において「芥川龍之介謎の自殺」を知ったのでございました。仰向けの死顔の写真も掲載されているではありませんか。こういう最後の顔を写真で見ようとは、いいえ、こういう再会をしようとは思っても居りませんでした。物言わぬ再会と思いました。小穴隆一、久米正雄、菊池寛らが死の床を取り巻いている写真も載りました。遺文を読む久米の口があけられたままで紙面には大きな嘆きの影が漂っていました。自殺をしたという女学生もあったと報道されました。世間は芥川の死に心から驚いて居り、文壇の損失であると書き立てられました。この芥川に私の面影は抱かれたままになったと思いました。確かにそういうところがあったと思いました。
 その後、夫も亡くなり、長いあいだ戦後の苦しみを味わい、そして病床に臥すようになって、しみじみと読み返して見たのでございますが、芥川の作品の端々には何かほのかに顕って来る月のひかりがあって、つめたく白いまぼろしが見えるように思えるのです。女性を描くとき口癖のように<昼の光の中でも月光の中にいるやうだった>と述べるのでございます。月光の女は彼の理想像であったこと、つぶさにその口から聞いております。私に絡めた理想像でもあったと申せない私ではございません。全面的でないとしても必ず一面においては私も加わっていると信じられるのでございます。
 「月光の女」については、文壇も非常に問題にしておりまして、「一たい誰なのか」と話し合っております。久米正雄は、
 「月光の女のなかで、芥川が、月光といふ言葉を、意識して、幾度かくりかへして使ったのは死に際して、過去の思ひ出の中に真に美しく感じた女に対し、愛慕の象徴として考へたものに逢ひない」
 と述べて居りますし、宇野浩二も、
 「私は、芥川が、それぞれ、芥川流の見方で、美しく感じた女を、みな、月光の女にしてしまったのではないかと考へるのである」
と述べております。「昭和三十年十月二十日発行。文芸春秋新社。芥川竜之介(上)」
 「月光の女」を最も問題にさせる作品は、芥川の「或阿呆の一生」でございまして、そこに出てくる四人の女性が数えられます。この四人の女性を同一の人物か、又は、四人が四人とも別々な人物か、どちらとも断言できる自信は誰にもございませず、今のうちに現存の関係人、小穴隆一、殖生愛石、大島理一郎、木崎伊作、滝井等を集めて一夕、非公開の座談会でも開いて、決定版を得ておきたいなどという問題にまでなっておりました。
 私は陰のかげの方にいてそれらを読み知り、誰も私の存在に気のついていないのを感じます。横須賀の家には芥川さんの方から、いつもやって来られたのですし、私どもから出かけて行ったり文壇的に知られるという行動はいっさい取っておりませんので、誰にも知られず、期間も短かいことなので解らないのも当然かも知れません。それでも機関学校での謝罪問題があったりして居りますから、少しそこらを押しひろげて行けば、たとえ小さくとも、私どもが存在しておりましたことから、何かは引き出せるのではございますまいか。芥川の恋人と言って、もしくは、芥川の対象になった女性と申しまして俗に名のあがっている人々には、松村みね子、岡本かの子などがあります。松村みね子は軽井沢の万平ホテルで、岡本かの子は鎌倉の雪の下ホテルH屋で会ったと言われて居りますが、こんなことは只の興味に過ぎないと宇野浩二は言っております。噂の女、謎の女は、みね子もかの子も歌人であり、歌人と言えばほんの噂の九条武子、柳原白蓮もみな歌人であるとも述べておりまして、世間的に名が挙げられているから、真のその人ではなかろうということでございましょう。こういうことは何の問題にもならないとも述べております。
 佐藤春夫が編集しました「澄江堂遺珠(
Sois belle, sois triste)」という詩集を私も読んでおります。(“Sois belle, sois triste”)は「美しかれ。悲しかれ」の註をもっております。この詩集は芥川の抒情を問題にしておりまして、一つの連を幾度も直し、又、元に戻したりして、長時間を費やしながら、誰か一人を思いつめているさまを追求しています。

 雪は幽かにつもるなり
 こよひはひともしらじらと
 ひとり小床にいねよかし
 ひとりいねよと祈るかな

 きみとゆかまし山のかひ
 山のかひには日はけむり
 日はけむるへに古草屋
 草屋にきみとゆきてまし

 きみと住みなば    }
            }山の峡
 ひとざととほき(消) }
 山の峡にも日は煙り
 日は煙る□□□□

[やぶちゃん字注:「}」は底本では大きな二行に亙る一つの括弧で、実際には行間下に「山の峡」(「やまのかひ」と読む)は入る。また、最終行の□は底本では細長い長方形一つである。ブラウザ上の不具合から、概ねの字数に合わせて□で示した。以下、□部分は同じ処理をした。以下ではこの□についての注は略す。]

 右の一連について佐藤春夫は、「即ち知る故人はその愛する者とともに世を避けて安住すべき幽篁叢裡の一草堂の秋日を夢想せる数刻ありしことを」。と註しておりまして、宇野浩二も「さうだ、さうなのだ。誠に佐藤の云ふとほり、芥川は、かういふ事を(俗な言葉でいへば、「手鍋さげても……」といふやうな事を)夢想せる数刻があったのであらう」と「夢想せる数刻が」と述べております。芥川にはこのように一人を想いつめる折々があっただろうことは、私にもよくうなずけるのです。夢想のみならず、明らかに面と向って直情を訴えることがありました。私はその経験がございますのでわかります。[やぶちゃん字注:宇野の評言の箇所に違和感を持つ人があるかも知れぬが、ここは実際、『そうだ、そうなのだ、誠に佐藤の云うとおり、芥川は、こういう事を、(俗な言葉でいえば、手鍋さげても……』というような事を、)夢想せる数刻があったのであろう、「夢想せる数刻」が。』と、病後に著しく文体が変容し、奇妙なくどくどしい書き方になった宇野浩二特有の言い回しを、花子が違和感のないように何とか再現しようと試みたことが判る。宇野の原文はここ。]
 そして佐藤春夫はこれらの詩とならべて、
 『戯れに』(1)(2)と題した、[やぶちゃん字注:底本では次の詩篇が行空けなしで続いているが、恣意的に空けた。二篇目に「戯れに⑵」が落ちているのはママ。]

 君と住むべくは下町の
 水どろは青き溝づたひ
 汝が洗湯の往き来には
 昼も泣きづる蚊を聞かむ
            戯れに⑴
 汝と住むべくは下町の
 昼は寂しき露路の奥
 古簾垂れたる窓の上に
 鉢の雁皮も花さかむ

という詩を引いて「と対照する時一段の興味を覚ゆるなるべし。隠栖もとより厭ふところに非ず。ただその他を相して或は人煙遠き田園を択ばんか、はた大隠の寧ろ市井に隠るべきかを迷へるを見よ。然も『汝と住むべくは』の詩の情においては根帯竟に一なり」としております。とにもかくにも、芥川の詩の奥にまで踏み込んで追求しようとする、結局は好奇の心と申しましょうか、まことに熱意あくなき探求心であると言えます。そして芥川の純情きわまりなさ、ロマンティストあることなど、推敲に推敲を重ねた文体から来るひややかさでは、とても想像のつかぬような浪漫心を知ることができます。私に対して言うことばも、純情きわまるものでございました。それはお読み返し下されば、おわかりのことと思います。そして、
 この遺稿は、大学ノートに書かれた腹稿の備忘とも見るべきものが興のままに不用意に記入されているのを、追って推敲して行った変化のあといちじるしく、一字もいやしくしない作者の心血のしたたりが一目歴然でありますのに、折にふれては詩作と表面上なんの関連もなさそうな断片的感想や、筆のすさびの戯画なども記入されてあるよし、作者の心理の推移、感興の程度を窺うに実に珍重至極な資料として、佐藤春夫が「はしがき」に述べている通り、貴重な資料でございます。書いては筆を措き、また、書き変えて見ては、中止し、考え込んでいるあいだの長さを推測できますし、そこで誰か一人の人を確かに思いつめております。人を追いつめるのか、推敲の方法を追いつめるのか、どちらともわからなくなりますけれど、明らかに人を思う詩を創作中なのでございますから、やはり人を思いつめているのだとも申せます。

 幽かに雪のつもる夜は
 ココアの色も澄みやすし
 こよひ□□□□
 こよひは君も冷やかに
 独りねよとぞ祈るなる

 幽かに雪のつもる夜は
 ココアの色も澄みやすし
 今宵はひと●●も冷やかに
 ひとり●●●寝よとぞ祈るなる

 幽かに雪のつもる夜は
 ココアの色も澄みやすし
 こよひはひとも冷やかに
 ひとり寝よとぞ祈るなる
    
右は両章とも××を以て抹殺せり。その後二頁の間は「ひとりねよとぞ祈るなる」は跡を絶ちたる
    
も、こは一時的の中止にて三頁目には再び
 かすかに
(この行――にて抹殺)
 幽かに雪の
   
と記しかけてその後には
   
「思ふはとほきひとの上
   
 昔めきたる竹むらに」
   
とつづきたり。その後の頁には又

[やぶちゃん字注:佐藤の注の最初の開始位置はママ。これは本書の版組の誤りと思われる。]

 幽かに雪のつもる夜は
       
(一行あき)
 かかるゆうべはひややかに
 ひとり寝「ぬべきひとならば」
    
(「」)の中の八字消してその左側に
    
「ねよとぞ思ふなる」と書き改めたり」
    
さてこの七八行のうちには
[やぶちゃん字注:底本では佐藤の注の頭は「(「)」であるが、取り敢えずかく、しておいた。しかし、ここは実は全体が写し誤り(複数箇所)であり、原典は三字下げで、『(「」の中の八字消してその左側に「ねよとぞ思ふなる」と書き改めたり)』/『さてこの七八行後には』が正しい。]
 雪は幽かにきえゆけり
 みれん□□□□

       とありて

 夕づく牧の水明り
 花もつ草はゆらぎつつ
 幽かに雪も消ゆるこそ
 みれんの□□□□

などと、似たような詩句が一転二転して、書きつづられてある後に、

 幽かに雪のつもる夜は
 折り焚く柴もつきやすし
 幽かに●●● いねむきみならば●●●●●●●●
       
(一行あき)
 ひとりいぬべききみならば}
             }
併記して対比推敲せしか
 幽かにきみもいねよかし }
[やぶちゃん字注:「}」は底本では大きな二行に亙る一つの括弧で、実際には行間下に上記の佐藤の註が入る。]

とあって、更に似たような詩句が十句あまりもあって、その書後がつぎのような詩になってゐる。
とあり、


 雪は幽かに つもるなる
 こよひは ひとも しらじらと●●●●●
 ひとり小床にいねよかし
 ひとりいねよと祈るかな●●

     幾度か詩筆は徒らに彷徨して時に
     は「いねよ」に代ふるに「眠れ」
     を以てし或は唐突に「なみだ」
     「ひとづま」等の語を記して消せ
     るものなどに詩想の混乱の跡さへ
     見ゆるも尚筆を捨てず。

と佐藤春夫が右、解説しておりますように、幾度も繰り返しては出直している詩でございます。佐藤春夫の執念にも驚かされます。そして更に次のような詩になっているのを私は見ます。

 ひとり葉巻をすひ居れば
 雪ほかすかにつもるなり
 かなしきひとも●●●●●●●かかる夜は
 幽かにひとりいねよかし

 ひとり胡桃を剝き居れば
 雪は幽かにつもるなり
 ともに胡桃を剝かずとも
 ひとりあるべき人ならば

右の詩に関して宇野浩二は「この最後の小曲の後半の『ともに胡桃を剝かずとも、ひとりあるべき人ならば』といふ二節は、言外に意味ありげな感じがある。しかしその意味は、つぎにうつす詩を読めば、ほぼ悟れる」と述べて次の詩を写しております。

 初夜の鐘の音聞●●ゆれば
 雪は幽かにつもるなり
 初夜の鐘の音消えゆけば
 汝はいまひとと眠るらむ

 ひとり山路を越えゆけば
 月は幽かに照らすなり
 ともに山路を越えずとも
 ひとり寝ぬべき君なれば

写し終わって宇野浩二は述べています。
 「これらの詩を読みつづけながら、私は本音か、絵空事か、と迷ふのであるが、編集者の佐藤は、これらの小曲の書きつづられてある冊子について『かくて第二号冊子の約三分の一はこれがために空費されたり。徒らに空しき努力の跡を示せるに過ぎざるに似たるも亦以て故人が創作上の態度とその生活的機微の一端を併せ窺ふに足るものあるを思ひ敢て煩を厭はずここに抄録する所以なり』と述べております。澄江堂遺珠に苦心した佐藤春夫を追って、また宇野浩二もこれを解するに苦心し、私も亦、これを読んで、彼、芥川の苦作三昧にさ迷いながら、ひとしお、思いみだれる気がいたします。「誰であろうか。或いは私ではないか」と。
 宇野浩二も述べています「これらの、『かなしきひと』『ひとりあるべき人』『汝』『ひとり寝ぬべき君』――などと読まれているのは、いづこいかなる『人』であるか、それは現実の人か、はた、空想(あるひは夢)の人か」と。

 雨にぬれたる草紅葉
 侘しき野路をわが行けば
 片山かげにただふたり
 住まむ藁家ぞ眼に見ゆる
 われら老いなばもろともに
 穂麦もさはに刈り干さむ

 夢むは
 穂麦刈り干す老ふたり
 明るき雨もすぎ行けば
 虹もまうへにかかれかし

 夢むはとほき野のはてに
 穂麦刈り干す老ふたり
 明るき雨のすぎゆかば
 虹もまうへにかか{らじや
         {れとか(消)
         {れとぞ(消)
[やぶちゃん字注:「{」は底本では大きな括弧一つ。]
 ひとり胡桃を剝き居れば
 雪は幽かにつもるなり
 ともに胡桃は剝かずとも
 ひとりあるべき人ならば
    
註(見よ我等はここにまた「或る雪の夜」に接続すべき一端緒を発見せり。宛然八幡の藪知らずな
    
り。)

また、

 雨はけむれる午さがり
 実梅の落つる音きけば
 ひとを忘れむすべをなみ
 老を待たむと思ひしか

 ひとを忘れむすべもがな
 ある日は古き書のなか
 月
(香と書きて消しあるも月にては調子の上にて何とよむべきか不明。)
 月      も消ゆる
 白薔薇の
 ひとを忘れむすべもがな
 ある日は秋の山峡に
   
………中絶して「夫妻敵」と人物の書き出しありて、王と宦者との対話的断片を記しあり………
 忘れはてなむすべもがな
 ある日は□□□□□

 牧の小川も草花も
 夕べとなれば煙るなり
 われらが恋も□□□□

 夕なれば家々も
 畑なか路も煙るなり
 今は忘れぬ□□□□□
 老さり来れば消ゆるらむ
    
註 別にただ一行「今は忘れぬひとの眼も」と記入しあるも「ひとの眼も」のみは抹殺せり。
    
  かくて老の到るを待って熱情の自らなる消解を待たんとの詩想は遂にその完全なる形態を賦与
    
  されずして終りぬ。この詩成らざるは惜しむべし。
    
  然も甚だしく惜むに足らざるに似たり。最も惜むべきは彼がこの詩想を実現せずしてその一命
    
  を壮年にして自ら失へるの一事なりとす。
と宇野は述べているのです。これを読んでいる私の胸中には亦、誰知ることのない鼓動が高鳴って来るのでございました。「夫妻敵」とか「今は忘れぬひとの眼も」などの、胸にどきりと来ることばが、或いはと早鐘を鳴らすからでございます。
 そうして今までの慕情は、もはや、人を憎み、人を殺す情念へと移って行く詩になるのでございます。

 ひとをころせばなほあかぬ
 ねたみごころもいまぞしる
 垣にからめる薔薇の実も
 いくつむしりてすてにけむ
 ひとを殺せどなほあかぬ
 ねたみ心に堪ふる日は

 同じ心を歌って「悪念」と題して次の詩があります。

 松葉牡丹をむしりつつ
 人殺さむと思ひけり
 光まばゆき昼なれど
 女ゆゑにはすべもなや

 夜ごとに君と眠るべき
 男あらずばなぐさまむ

 ここで私は亦、胸を騒がせます。こうも憎んでいるのは、私の夫のことではないのかと。「夫妻敵」と言い、「佐野さん」の、かの文章と言い、あまりにも芥川は女に付き添う男を憎む詩を歌い、そして事実、本名を出して「佐野さん」なる一文を書き、明らかに夫を憎み誹謗した事実がございます。これは、もう、ただごとではないように思われるのでございます。しかもこのノートの中において、
 「夜ごとに君と眠るべき、男あらずばなぐさまむ」
の二行は抹殺しありと宇野は述べておりまして、「蓋しその発想のあまり粗野端的なるを好まざるが故ならんか。しかも、この実感は、これも歌はではやみ難かりしは既に『悪念』に於て我等これを見たり」と付け加えてあります。この上にのしかかって私は亦、読みとりながら、胸の早鐘に、のたうちたい衝動を覚えます。新潮誌上に堂々と、かの一文を載せた彼が、僅か、人も見ぬところで、ノートの上に書き直す詩中に「その発想のあまり粗野端的なるを好まざる故ならんか」と言われるほどの遠慮をしていること、何かじれじれとする感慨にも襲われます。そして、「その発想のあまり粗野端的なるを好まざる故ならんか」と人は庇い、同時に「我等これを見たり」という快哉をも人は挙げるべく声を呑むのです。
 そして又、次の詩には「汝が夫」という言葉が入り込んで来ているのです。

 微風は散らせ柚の花を
 金魚は泳げ水の上を
 汝は弄べ画団扇を
 虎痢ころりは殺せ汝が夫を

 まあ、なんと、すさまじいことでしょう。好きな女性がいるのに、その夫が邪魔でしかたがない、いっそ「虎痢ころりは殺せ汝が夫を」「あなたの夫はコレラにかかって死ぬがよい」という悪念の追い打ちなのでございます。仮りに、私は愛されてまことに嬉しうございましても、あの善良な夫が、私ゆえに、これほどまで憎まれるなら、なんという、哀れなことでございましょうか。ただ、ほろほろと泣きくずれて今は亡き夫を、心から気の毒に思い、私の罪の深さを嘆かずには居られません。このモデルは私なのだと仮りに解ってもなんと悲しい宿命でございましょうか。夫は生前においても、精神的に殺されたように穏やかな笑いを浮かべ、自分の好きな道も忘れてしまいました。その上に、名こそ出さね、詩の中において、このようにまで憎まれ、殺されているのでございましようならば。[やぶちゃん字注:末文の「しよう」はママ。]

 この身は鱶の餌ともなれ
 汝を賭け物に博打たむ
 びるぜんまりあも見そなはせ
 汝に夫あるはたへがたし


 この詩においても明らかに夫は憎悪され、彼は「お前に夫のあるのは堪えきれぬ」と言っているのでございます。思い当たる胸には突き刺さって抜けようもない剣なのでございます。

 ひとをまつまのさびしさは
 時雨かけたるアーク灯
 まだくれはてぬ町ぞらに
 こころはふるふ光かな

 栴檀の木の花ふるふ
 花ふるふ夜の水明り
 水明りにもさしぐめる
 さしぐめる眼は□□□□□

 などには「眼」という語があります。「奥さんの眼はきれいだ」と言ったことばが立ち返ってもまいります。

 ゆふべとなれば海原に
 波は音なく
 君があたりの
 ただほのぼのと見入りたる
 死なんと思ひし

 これには、まあ、横須賀の海が漂っているではございませんか。私には本当にそうとしか思えません。繰り返して読み、彼が、もう、会うまいと決意して、帰って行ったうしろ姿が見えてまいります。
 澄江堂遺珠、芥川龍之介の未定稿の詩は、佐藤春夫を、宇野浩二を、そして、私を悩ませたと思います。とりわけ私の苦悩は夫の分まで引き受け、誰にも知られぬ、打ちあけても信じて覚えぬ、取りつく島もない不安定に揺り動かされました。
 全集第五巻の詩集を見ますと「相聞」という題の詩が三つ出ておりますが、次の詩をよみますと、そくそくとして私には懐かしさがよみがえってまいります。誰が読んでもいい詩なのですが、私の感懐は亦、別なのでございます。

 また立ちかへる水無月の
 歎きを誰にかたるべき
 沙羅のみづ枝に花さけば
 かなしき人の目ぞ見ゆる

 私の横須賀の家の庭には沙羅の木もあったのでした。ただ、その家も今は無く、沙羅の木もどうなったか解らず、私には多く思い出の実感ばかりが残されておりますので、このことを人に語ろうとも、誰も信じはいたしますまい。宇野浩二も、「澄江堂遺珠」の中にある、あの詩の大部分を仮りに相聞詩とすれば、そうして、あの詩を空想の恋を詠んだものとすれば、芥川には空想の恋人があったということになると申しておりまして、「空想の恋人なら何人あっても差し支へないであらう」と言っておりますけれど、その空想の恋人と申すところに、やはり現実上の恋人が根ざして居り、それが翼をひろげ、月の光を呼び、詩の中での恋人、文中の恋人とならないと誰が申せましょうか。作家といえどモデルは周囲から採るのでございます。よく採られ悪く採られても自由なのでございます。ぜんぜん根も葉もない恋人は存在しないのでございましょう。覚えのある私には、こういうことが言えるのでございます。私どもと芥川が交友関係にありましたこと、また、とり分け彼が私に関心を持ちましたことなど、不用意に人に語りましても、人は次のように申して信じないでしょう。
 「芥川の恋人と言えば、既に皆、名前が挙がり、研究され、書き残されているではないか。佐野花子などという者の名は、どこを見ても見当たらない。どこかに何かに残る筈だ。残ってもいないものを信ずるわけには行かない」
 ところが彼は自分の周囲にいる文士連の口を恐れて要心しているのでございました。ちょっと話しても大きくされてしまう、オセッカイな彼らには口を固くしておりまして次のような手紙があります。
「朶雲奉誦
東京へ帰り次第早速意の如くとり計らふべし
  
(四行半除去)
 それから君、久米へ、勢以子(註―ずっと前に鵠沼の東家の事を書いた時に出て来た元谷崎潤一郎夫人の妹)と小生との関係につき怪しからぬ事を申さたれ由、勢以子女史も嫁入前の体、殊に今は縁談もある容子なれば、爾今右様の事一切口外無用に願ひたし、僕大いに弁じたれば、この頃は久米の疑ひも全く解けたるものの如くやっと自他のため喜び居る次第なり、これ冗談の沙汰にあらず真面目に御頼み申す事と思召し下されたし、谷崎潤一郎へでも聞えて見給へ冷汁が出るぜ」というのでして、この手紙を貰ったのは秦豊吉でございます。うっかりすると口の端のうるさい文士連ということを知らされます。私のことも彼は要心して、一切、誰にも洩らさなかったのでございます。別に深い関係もなく誰に遠慮するわけではなくても、要心に越したことは無く、かつ、めんどうを恐れて口外しなかったわけで、誰も私の名など知りませんし、私と横須賀時代に交際があったなど知る由もありません。それに右の手紙を見て宇野浩二も、はじめて、ずっと前から、芥川が、勢以子と近づきであったことを知るのですからなかなか恐ろしいことです。宇野浩二はその著(芥川龍之介(上))の中の一節に右の手紙を挙げ、「そこで芥川が仮りにまだ生きているとすると、私は(私も)芥川に手紙を書き、その最後に『冷汗が出たぜ』と書くであろう。閑話休題」としてございます。まことに小うるさい環境と思います。彼もなかなか忙しかったのでしょう。それが作家の生活と申せましょう。右の手紙は大正八年八月十五日に芥川が金沢から秦豊吉に宛てて出したもので横須賀の私どもとは交際も果てたのちのことでございます。小説を書くための交際がさかんになり、とかくの人の名を挙げさせそれでもなお、「月光の女」は誰であろうかなど幾ら話し合っても解らないこの種の迷路は、有名になった作家に特有の廻り道でありましょう。その迷路がどこへどう抜けていたか、解りかねる部分がありましょう。著名な女性の名が挙がると人はその方へ気を取られます。いわばその人々は一種の目集めのような役をも兼ねないとは申せません。人の眼はそこに集中され、それらを記名し、あとには誰もいないよと済ましてしまいます。
 私は自分でもこういうことに気づきまして病人になりましてから、ノートに覚えていることを書きはじめました。小説の形にしてまず書き残しても見ました。また、文壇で問題にしている「或阿呆の一生」中の四人の女性を私であるとも仮定して断定的な口調で書いても見ました。または、手当たりしだいの紙片に覚え書きを記しました。娘の耳にも語り聞かせました。病いは既に治りそうもなく先も長いとは思えず、書いたものは、ちぐはぐであるようです。私の言いたいことは一貫して頭の中にあるのですが、死後それはどのように語り伝えられて行くのでしょうか。
 もっとも私は私の所持しているこの話題を田中純氏によって小説化されたことがございます。氏は「二本のステッキ」という題で、昭和三十一年二月「小説新潮」誌上に発表され、芥川の「知られざる一面」として興味を呼びました。ついで同誌三月号において、十返肇氏は「文壇クローズアップ」の欄に、「芥川への疑惑」と題して次のように書いています。
 「前月号のこの欄で、芥川の出生問題が、近ごろ話題を呈していることを報告しておいたが、同じ号に掲載されている田中純『二本のステッキ』もまた、芥川の実生活についての一つの興味ある事実を紹介している。本誌の読者は既に読まれたと思うから、ここにあらためて、その梗概を紹介することは省略するが、おそらく、芥川が横須賀海軍機関学校時代に同僚の人妻に、ある程度、感情を動かせたというのは事実であろうと思う。
 この人妻は、芥川が、なぜ、突然、良人を戯画化し、自分たち夫婦に絶交を宣言するようになったかが理解できずに悩んでいるが、この『二本のステッキ』から、それを解く能力は私にもない。
 ただ、ここで感じられることは、芥川が、或いはこの夫に嫉妬をかんじ、それを克服するために、そういう文章を書いたのではなかろうかということである。しかし、事実、それは大した問題ではない。
 ただ、私には、文学に理解もなにもない海軍機関学佼教官たちの前で、その一文ゆえに謝罪しなければならなかった芥川龍之介の痛ましさが、ひしひしと感じられるのである。ここに生活に極端に臆病なために、新進作家となりながら、なお、教官勤めを止めなかった芥川の悲しい姿がある。すまじきものは宮仕え、と芥川もおもったに違いない。
 私は芥川が、新進作家となり、文筆一本で生活しようとすればしえたにもかかわらず、この教官生活をやめなかったという事実に、つねに大きい不満を感じている。この点、谷崎潤一郎の生き方に私はたのもしい強さをいつも感ずる。『二本のステッキ』のなかに、谷崎潤一郎と論争して、芥川がへトヘトになったことが書いてある。そして『谷崎は偉い。僕をこんなにへトヘトにするのだから』と芥川がいうところがあるが、おそらく芥川の本音であろう。
 この論争は、今日読みかえしてみて、その論旨の当否は措くとして、文章の中にみなぎっている気魄において、自己の文学的主張にたいする自信において、芥川の方が完全に敗北しているという印象が強い。芥川は、谷崎との論争で、あんなにも『ヘトヘトになっている』が、おそらく谷崎の方では、そのことで、いささかも疲労を感じてはいなかったであろうことが、はっきりと想像されるのである。
 それにしても、さいきん芥川龍之介について、また芥川家について、つぎつぎに、さまざまな新事実がこのように紹介されるのは、芥川というひとが性格的に、いかに多くの苦しみをただひとりで耐えてきたかを痛感させるのである。芥川はハダカになることを極度に嫌ったひとである。
 その芥川が、死後三十年のちの今日、かくも多くの人々によって、その実生活をあばかれねばならぬとは――私は、なんとも痛ましい気持をおぼえないわけにはゆかない。
 芥川が、どのような私生活をしていようとも、その文学の価値にいかなる関係もない。しかし、芥川の文学を理解するために、その私生活の実相がわかることは望ましい。しかし、それがたんなる好奇心によってなされるのでは、文学理解のためにも多く役立つとはいえない。ただ一篇の読物的興味によって、芥川の私生活を曝露してはならない。曝露する側にも、芥川が、傷ついたと同じように傷つくべきものがあるのでなければ意味は低いものとなるであろう。
 私は、実名小説を全面的に否定するものではない。しかし、実名小説も小説として成立してこそ意義はある。それは作者の側にあえて世に訴えたい問題がある場合にのみ許されることであるまいか」
と結んでおります。右の文の中で私が心をひかれ、そして私が言いたいところは、終わりの方の「作者の側にあえて世に訴えたい」問題があることと、少し前のところの「芥川が傷ついたと同じように傷つくべきものがあるのでなければ」というところにございます。
 私は作家を友人に持った素人の男として、夫がどのように傷ついたかを訴え、そして私がそれによって、淡々しくも、激しくも愛され、いかにおぼおぼとした光の中に、一人立たされるかを書き残せばよいのでございました。天下の芥川を庇う文学者はございましても、善良な夫を庇うのは妻の私よりほかには無いのでございました。
 思えば芥川さんは私の才能については庇い認めて下さったものでした。
 「教官夫人の中で僕と話の合うのは、佐野夫人だけですよ」
という具合に。また、芥川さんが退官され、ご帰京後、「新潮」でしたか「文芸春秋」でしたかに、
 「或る、会社で芥川が初めて会った城夏子という閨秀歌人に、翌日、著書を贈って、「昨夜は楽しかった。あなたが、僕の非常に好む或る女性に似ていられたから」
 という手紙が出ていたそうでした。皆が、それは一たい誰だと騒ぎましたところ、
 「夏目先生の二番目のお嬢さんではないかなあ」
ぐらいで終わったとのことです。真実、それが誰であるのか、芥川さんしかご存知ないわけですが、夫は、
 「芥川君は、どうも、お前のことを、いつまでも忘れられないようだね。それは有難いけれど、そのため心持ちが乱れて、あんな、ひどい文章を書いたりしてさ」
 などと申しておりました。人の好い夫のことを思うにつけて、いろいろと追憶が生まれて参ります。どうしたものでございましょう。とにかく、長々と書きつらね、疲れたように思います。永の眠りも遠からぬことと思います。

  君に語らん術もがな
  涙と過ぎし幾年は
  絵巻となりて浮びくる
  老いて病む身の昨日今日
  悲しき君がまぼろしよ
  空のいづくにおはすやと
  窓辺によりて仰ぎ見ぬ
  此の大空の遙けさや
  命はかなく消えん時
  君に見えんうれしさよ
  若かりし日のつれなさよ
  空のはてにて相逢はむ      (完)