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Стихотворение в прозе
Иван Сергеевич Тургенев
――ツルゲーネフ 散文詩 中山省三郎譯 (全83篇)
[やぶちゃん注:この
Иван Сергеевич Тургенев(Ivan Sergeyevich Turgenev)
“Стихотворение в прозе”(Stikhotvoryeniye v proeye)
は、イワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフ(1818~1883)が1882年12月に雑誌“Вестник Европы”(Vestnik Evropy『ヨーロッパ報知』)に
“SENILIA”
という標題で発表した50篇
(“SENILIA”はラテン語由来と思わる。ラテン語の“senilis”は形容詞で「老年の、年寄りの、古い」、名詞で「老人」の意で、本訳者の中山省三郎氏は「老いらく」、米川・池田氏は「老人の言葉」と訳している。私は前者の方がよいと思う)と、
その発表の際に政治的理由から作者が削除した1篇(「閾」)
と(ここまでがテクスト前半の「セニリア」。ちなみに初出“SENILIA”では削除した「閾」の代わりに「處生訓」が挿入されている)、ツルゲーネフの死後、パリのヴィアルドー家(評論家にしてイタリア座の劇場総支配人ルイ・ヴィアルドーLouis Viardot。ツルゲーネフの二十代からの旧友にしてロシア文学の紹介者。夫人ルイーズHéritte-Viardot, Louise Pauline Marieは著名なオペラ歌手。実は彼女はツルゲーネフの「思い人」であり、彼のパリ移住も彼女を追ってのことであった)の書庫でコレージュ・ド・フランスCollège de France(フランスの国立の最高学府)のアンドレ・マゾンAndre Mazon教授が発見・校訂、1930年5月に、
“Nouveaux poémes en Prose”
「新散文詩」と題してロシア語原文とシャルル・サロモンCharles Salomonの仏訳を添えてパリで出版された31篇
に加え、巻末の中山氏の「解說」中に現われる個人的な『お笑い草』のものとして、
発表原稿に入れなかった1篇(「誰と議論すべきか」)
(これがテクスト後半の「拾遺」に相当)を含む、全83篇の全訳に、訳者中山省三郎(明治37(1904)年~昭和22(1947)年:詩人でロシア文学翻訳家。茨城県生まれ。同郷の詩人・横瀬夜雨の薫陶を受けて詩作を始め、田畑修一郎の勧めで早稲田大学露文科に進み、原久一郎に学ぶ。火野葦平・田畑とともに同人誌を発行した。ロシア文学の翻訳や研究を主とし、他に詩を書き、長塚節の研究なども残る。持病の喘息の発作により四十三歳で亡くなった)氏の解説を附したものである。
初版は昭和26(1951)年第一書房刊であるが、底本は昭和26(1951)年角川書店刊のツルゲーネフ作・中山省三郎譯「散文詩」を用いた。挿絵については底本には作者が明記されていないが、これは後の1958年岩波書店刊の神西清・池田健太郎訳でも同じものが用いられていることから、原著もしくは当時の外地での刊行版に挿画された版画と判断され、既に著作権は消滅している考えられるため、スキャン画像を取り込んだ。挿絵位置は各表題の直下に統一した。なお、私の所持する底本の角川文庫版は、印刷自体が粗悪な上に著しく酸化が進んでおり、頁の黄変が甚だしいため、大幅に画像の補正と修正(加筆を含む)を加えてある。原画の一部の点タッチか、それとも汚損かの判断、原画自体のカスレか、印刷時のカスレかが判断出来ない部分を、或いは残し、或いは消去したりしている可能性があることを申し添えておく。
各々の詩の表題は開始位置がばらばらなので、原則、一字下げで統一した(底本はややポイントが大きく、字間を空けている場合もあるがすべて本文と同ポイント、字間は空けなかった)。最後の執筆年と月は、底本では原則、最終行の行末揃えとなっているが、ブラウザでの表示の不具合を考え、改行して右揃えで表記した。漢文に用いられる繰返し記号の「こ」の字を潰したようなものは、「々」に、傍点「ヽ」は下線に代えた。中山氏の後注があるものは、それぞれの詩の末尾に『■訳者中山省三郎氏による「註」』という標題で移した(記載方法は次の私の注表記に準じた)。更に私の注については、中山氏の注がないものには[やぶちゃん注:]で対応したものと『□やぶちゃん注』で対応したものの二種があり、中山氏の注がある場合は、中山氏の後に『□やぶちゃん注』とし項目の頭を『◎』にして中山氏の「註」と明確に分けた(その際の私の注は新字現代仮名遣を用いた)。
全文公開に先立ち、私の友イヴァーナ・コルジセプヴァ女史が、自身の所持する本底本に先行する昭和21(1946)年八雲書店版(但し、これは完全な同一稿ではなく、表記に微妙な違いがある)によって全文の誤植確認及び校異をして呉れた。本テクストが私のHP中にあった極めて精度の高い、価値あるものとなったとすれば、それは彼女の功績である。ここに感謝の意を表する。
それでもなお且つ、私はロシア語にもロシア文学にも暗いのである。とんでもない語注ならぬ誤注を施している可能性があることを御理解頂き、また、本文及び注の誤りを発見された際には、是非とも御一報頂きたい。なお、訳者である故中山省三郎先生への私のオードは私の電子テクスト「獵人日記」の中の中山省三郎譯「生神樣」の冒頭注を参照されたい。【2008年11月29日:全公開。】【2008年12月6日:「乞食」に注を追加。】【2009年1月3日:全挿絵挿入終了。】【2017年10月1日:行間追加・詩題ポイント変更。底本にない「閾」の挿絵を一九五八年岩波書店刊の神西清・池田健太郎版で追加。】【2017年10月2日:「いかばかり美はしく、鮮やかなりしか、薔薇の花は……」の注のイヴァン・セルゲーヴィチ・ミャトリョフの解説部と原文詩篇の表記を変更。底本にない「……に」の挿絵を一九五八年岩波書店刊の神西清・池田健太郎版で追加。】【2017年10月9日:「おとづれ」の「玉笏草」の種が判明したので、注の一部を削除して、追加した。】【2017年10月14日:底本にない「ニンフ」の挿絵を一九五八年岩波書店刊の神西清・池田健太郎版で追加。】【2017年10月25日:「私は高い山々の間を行くのであつた」の連の間の行間が空けられていなかったのを補正し、新字の一部を正字化した。】【2017年10月29日:底本にない「鷓鴣(しやこ)」「車の轢かれて」及びエンディングの挿絵(下にКОНЕЦ:ロシア語で「終り」の文字が見える。これは詩篇本文の終りに挿入した)を一九五八年岩波書店刊の神西清・池田健太郎版で追加。】]
目 次
セニリア
田舍
會話
老婆
犬
競爭相手
乞食
「耳傾けよ、愚かしき者の審判(さばき)に……」
滿足してゐる人
處生訓
この世の終末 〈夢〉
マーシャ
馬鹿者
東方傳奇
二つの四行詩
雀
髑髏
雜役夫と白い手の人 〈會話〉
薔薇
最後の會見
閾 〈夢〉
おとづれ
NECESSITAS,VIS,LIBERTAS 〈淺浮彫〉
施物
蟲
きゃべつ汁
瑠璃色の國
二人の富豪
老人
通信員
二兄弟
ユー・ぺー・ヴレーフスカヤを偲びて
エゴイスト
神の饗宴
スフィンクス
ニンフ
敵と友と
キリスト
巖
鳩
明日こそは!明日こそは!
自然
絞罪にせい!
私は何を考へることであらう?……
「いかばかり美はしく、鮮やかなりしか、薔薇の花は……」
航海
N・N・
留れ!
高僧
我等はなほも鬪はう!
祈り
ロシヤ語
拾遺
奇遇 〈夢〉
私はあはれむ
呪詛
雙生兒
黑鶫
黑鶫 また
塒もなく
杯
誰の罪
處生訓
爬蟲
作家と批評家
「ああ、わが靑春よ! ああ、わが生氣よ!」
……に
私は高い山々の間を行くのであつた
私がこの世を去つたなら
砂時計
夜半に眼ざめて
ひとりでゐると…… 〈分身〉
愛への道
巧言
質朴
婆羅門教徒
御身は泣きたまふ……
愛
眞理と眞實
鷓鴣
NESSUN MAGGIOR DOLORE
車に轢かれて
幼な兒の泣くこゑ
私の樹
誰と議論をすべきか
解說
[やぶちゃん注:「目次」は底本では上下二段組。意味のないページ数と各篇末に移動した「註」の項は省略した。底本の「目次」には副題はないが、検索の便を考え、標題の下に一字空けで〈 〉で補った。また、詩『「耳傾けよ、愚かしき者の審判(さばき)に……」』については、上記のように目次にのみ「さばき」のルビが附されており、本文の標題には附されていない。さらに、「御身は泣きたまふ……」は本文では12点リーダーであるが目次では上記の通り、6点リーダーである。更に、最後に掲げた「誰と議論すべきか」は底本の「目次」にはない。末尾解説中の一篇の標題を、他の詩と対等に掲げたものである。]
セニリア
田舍
時は七月、終わりの日、このあたり一千露里(ヰルスタ)、ロシヤ國、わが郷土(ふるさと)。涯(かぎ)り知られぬ暗藍色(あゐゐろ)に濡れたる空、ただひときれの離れ雲、浮ぶともなく、消ゆるともなく。日は暖かに、風もなく、……空氣はしぼりたての牛乳(ミルク)のやうだ!
雲雀は空高く囀り、鳩はくくと鳴き、聲もなく燕(つばくろ)翔(わた)る。馬は鼻鳴らしては、ものを嚙み、犬は吠えもせず、しづかに尾を振りながら佇(た)つてゐる。
煙の香ひ、草の匂ひ、あるかなきかの煙脂(タール)の匂ひ、ほのかににほふ獸皮の匂ひ。大麻は今を盛りと、重苦しくも、快よい香ひを放つてゐる。
深くはあるが、なだらかに下りてゐる谿、兩側には、頭の大きな、根元に近く幹の裂けた楊柳(はこやなぎ)、幾列かに立ちならんで。谿間には、せせらぎが趨つてゐる。底には耀く漣(なみ)を透いて、小石がふるへてゐるやうに見える。はるかに遠く、天と地のきはまるところ、大河(おほかは)の靑い川筋。
この谿に沿うて、一方には綺麗な納屋や、しつかりと戶を閉ざした物置があり、また一方には松丸太づくりの板葺の小舍、五つ六つ。屋根ごとに椋鳥の巢箱をつけた長い棹を高く立てて、どの戶口にも鐵製(かなもの)の、剛い鬣(たてがみ)の馬の雛型がかかつてゐる。凹凸のはげしい窓硝子、虹いろに光る。鎧戶には花束をさした花瓶が筆拙く描かれてゐる。
どの小舍の前にも、一つづつきちんと、出來のよい、小さな腰掛が置いてあつて、家のまはりの土堡(もりつち)の上には、透きとほるやうな耳をそばだてて、猫が背を丸めてゐる。高い敷居のむかうには、涼しげにかげる外房(へや)がある。
私はいま、馬衣(かけぬの)を擴げて、谿の眞際(まぎは)に橫たはる。あたりには刈りたての、疲れるばかりに香ひのよい干草(ほしぐさ)が山と積まれてゐる。拔目のない主人(あるじ)は、小舍の前に干草を撒き散らしたが、いましばらく日向に乾かし、それから納屋に收めたらよいであらう! さうすれば、きつとよく眠れることであらう、あの上に!
どの草堆(つか)の中からも、縮れ毛の童子(こども)の頭が覗いて見える。冠毛(かむりげ)のある鷄(とり)は乾草をかきわけて、ちひさな薊馬(はへ)や甲蟲をあさり、鼻面(はなづら)の白い仔犬は、もつれた草の中をころげまはる。
亞麻色の縮れた髮をした若者たちは、さつぱりした襯衣のうへに、帶を低くしめ、緣取(ふちとり)のついた重たい長靴をはいて、馬具をとり外した車にもたれ、ざれ言(ごと)を交はしては、白い齒竝を見せてゐる。
窓からは丸顏の若い女が覗いて、若者の話や積草の中を童子(こども)らがはねまはるのに笑つてゐる。
もう一人の若い女は逞しい腕に、濡れた大釣瓶(つるべ)を井戶から汲みあげてゐる……。釣瓶は繩について、長く火のやうにかがやく雫をおとしながら、しきりに搖れる。
私の前には新しい格子縞の袴(スカート)をつけ、新しい靴をはいた年老いた家婦(ひと)が立つてゐる。
日に焦けた瘠せた頸には、大きな空洞(うつろ)の玉を三重(みへ)に卷きつけ、赤い斑點(ほし)を散らした黃色な頭巾に白髮をつつみ、頭巾をぼんやりと曇つた眼のうへに垂れてゐる。
けれど、年老いた眼(まなこ)は、人なつこげに笑ひを浮べ、すつかり皺のよつた顏にも笑ひが浮んでゐる。おそらく、このお婆さんは七十の坂にも間もないであらう……しかも、若かりし日にはきつと器量よしであつたらうと、その面影が今もなほ忍ばれる。
右の手の日に焦けた指をおしひろげて、お婆さんは今の今、地窖(あなぐら)から出して來たばかりの、冷えた、鮮(あたら)しい生乳(ミルク)の入つた壺を持ち、壺のまはりは眞珠のやうな乳の滴におほはれてゐる。左の手の掌にまだ溫かい麺麭の大きな片(きれ)をのせて差し出してゐる。
「旅のお方、ようこそ、さあ、どうぞ、おあがり!」とでもいふのであらう。
俄かに雄鷄がときをつくつて、忙しさうに羽ばたきすれば、小舍に閉ぢこめられてゐた仔牛はゆつたりと、それに應へる。
「あつ、こりやすばらしい燕麥!」私の馭者のこゑが聞える……。
ああ、ロシヤの、遮るものもない田舍の滿足よ、平穩よ、豊饒よ! ああ、靜寂と天の惠みよ!
私にはかういふことが考へられる、コンスタンチノープルなる聖ソフィア寺院(てら)の圓頂閣(まるやね)に十字架を樹てようとか、私たち都市(まち)の者がかうもむきになつて徹(もと)めてゐる、ありとあらゆることどもが、ここで一體、私たちに何の價値(ねうち)があるものかと。
一八七八年二月
■訳者中山省三郎氏による「註」
・コンスタンチノープルなる聖ソフィア寺院:クリミヤ(一八五三―五六)、更に露土戰爭(一八七七―七八)の誘因となつた近東問題を諷したもの。頃はトルコの隷屬と、黑海および地中海を結ぶ海峽の占領、すなわちコンスタンチノープルの占領が絕えず企圖され、問題になつてゐた時代である。[やぶちゃん補注:この「聖ソフィア寺院」とは、正教会で「アギア・ソフィア大聖堂」と呼ばれた東ローマ帝国時代の建造になるトルコのイスタンブールにあった教会堂のことを指す。古くは正教会の旧総本山であったが、現在はアヤソフィア(トルコ語Ayasofya)と呼ばれ、ビザンティン建築の最高傑作として博物館となっている。オスマン帝国の時代には最高位のモスクに転用されていた。本来の名称である「アギア・ソフィア」とはギリシア語で「聖なる叡智」の意味。ちなみに、古記録によれば創建当時のドーム内部には巨大な十字架が画かれていたという。]
□やぶちゃん注
◎底本では第一段落冒頭は一字下げとなっていないが、これは第一行行末に句点が来たため、版組み上不可能になったためと思われるので、一字空けとした。
◎一千露里:「露里」はメートル法以前のロシアの長さの単位、ヴィルスター“верста”の訳語。約1.07キロメートル。実は底本は「一露里」となっている。しかし、本底本に先行する昭和21(1946)年八雲書店版では「一千露里」で、原文では“Последний день июня месяца; на тысячу верст кругом Россия — родной край.”で、“тысячу”、「1000」の意であることが明白であるから、ここは脱字であるから補正した。そもそも凡そ1㎞四方では、如何にもロシアの大地が、しょぼいではないか!
◎煙脂(タール):これは単に染み出した天然の瀝青油(石油)か、天然アスファルト、又は自然状態で野火等によって熱分解で発生した、植物や石炭の乾留物質であるタール様物質の匂いを指すか。ロシアの原野の様相は不学のためよく分からない。
◎大麻:双子葉植物綱イラクサ目アサ科アサ属Cannabis。雌雄異株で高さは2~3m(品種や環境によっては更に高く成長する)。ヒマラヤ山脈北西部山岳地帯が原産とされる。マリファナの原料として忌避され危険視されるが、熱帯から寒帯域に至る広範な地域に分布しており、本邦でも北海道等で時に自生株が見つかって処理されたという報道を聞く。
◎楊柳(はこやなぎ):ヤナギ科ヤマナラシ属ハコヤナギPopulus sieboldii。15mから20mに成長する北方系の落葉高木。我々が一般にポプラと呼称するのはこのヤマナラシ属Populusの仲間であるが、それは概ねセイヨウハコヤナギPopulus nigra var. italicaを指している。属名“Populus”は、ラテン語“populo”の「荒らす・破壊する・略奪する」や「民衆・群衆」を意味する“populus”に由来し、微風でもザワザワと葉を鳴らすことから 。
◎趨つてゐる:「趨(はし)つてゐる」と読む。
◎ちひさな薊馬(はへ):「薊馬」とはアザミウマで、ウィキの記載によれば、昆虫綱アザミウマ目(旧称:総翅目)Thysanopteraに属する昆虫の総称である。通常は体長1㎜以下、細い桿状体型、翅も棒状で全体に微細な毛が密生する。近年は農業害虫として悪名が高いが、この和名は、体躯がスマートなところから馬を連想させることと、「馬出よ」などと言いながらアザミの花を振り、本属の中でも花粉食のアザミウマを振り出す昔の子供の遊びに由来する、とする。但し、原文では“букашек”で、これは単に小さな昆虫を指す複数形であるから、「ちひさな薊馬(はへ)や甲蟲」という訳語及びルビは翻案に近い。ここにはもしかすると中山氏の幼少期のアザミウマへの思い入れがあるのかも知れない。
◎襯衣:「シャツ」と読む。
◎焦けた:これは「焦げた」の誤植ではなく「やけた」と読む。
◎樹てようとか:「樹(た)てよう」と読む。
會話
ユングブラウもフィンステラールホルンも
未だ嘗て人跡をしるせしことなし!
アルプスの高嶺(たかね)……ただうち續く峨々たる嶮崖……。山脈(やまなみ)のまつただ中。
山々の上にひろがる淺綠の、明るい、物いはぬ空。身に沁みわたる嚴しい寒氣。さんらんたる堅雪(かたゆき)。雪をつきぬけて聳える、氷にとざされ、風に吹きさらされた磊々たる岩塊。
地平線の両端にそば立つ二つの大山塊、二人の巨人、ユングフラウとフィンーステラールホルンと。
ユングフラウは隣人に向つていふ、「何か新しいことでもあつて? あなたには、わたしよりはよく見えるでせうね。あの、麓には何がありませう?」
幾千年は過ぎる、瞬く間(ひま)に。すると答へるフィンステラールホルンの轟き、
「叢雲(くも)が地を蔽うてゐる……。しばらく待て!」
また幾千年は過ぎる、ただ一瞬にして。
「さあ、今夜は?」ユングフラウが訊ねる。
「今度は見える。下の方はまだ、もとのままだ、まばらに、こまごまに、水は靑み、森は黑み、累々たる岩石は灰色に。それらの周圍には今もなほ、てんたうむしがうごめいてゐる。ほら、あの未だ、君や僕を穢すことのできなかつた二足動物がさ。」
「それは人間のことなの?」
「うん、人間だ。」
何千年かは過ぎてゆく、たちまちにして。
「さあ、今度は?」ユングフラウが訊ねる。
「てんたうむしは前より少ししか見えないやうだ。」
フィンステラールホルンは轟く、「下の下は、はつきりして來た、水はひいて、森はまばらになつた。」
更にまた何千年かは打ち過ぎる。霎(しば)しの間(ひま)に。
「あなた、何が見えますの?」ユングフラウがいふ。
「僕たちの身のまはりは綺麗になつたやうだ。」フィンステラールホルンが答へる、「けれどあの遠く谿間にはやはり斑點(しみ)がある、そして何だか動いてゐるよ。」
「さあ、今度は?」と、また幾千年かがたちまちにして過ぎ去ると、ユングフラウが訊ねる。
「今度はいいぞ、」フィンステラールホルンが答へる、「どこもかしこも、さつぱりして來た、どこを見ても眞白だ……、ここもかしこもこの雪だ、一面に、それにこの氷だ……何もかも凍つてしまつた、今はいい、ひつそりしてゐて。」
「いいわね、」ユングフラウがいひ出した、「ところで、おぢいさん、あんたとずゐぶんお喋りをしましたね。もう一寢入りする時分です。」
「さうぢやな。」
大きな山々は眠つてゐる、綠いろの、澄みわたつた空も、永遠におし默つた大地のうへに眠つてゐる。
一八七八年二月
□やぶちゃん注
◎ユングフラウ:スイスのベルン州ベルナー・オーバーラント地方にあるアルプス山脈の高峰(ユングフラウ山地の最高峰)。4,158m。ドイツ語“Jungfrau”は、 「乙女」「処女」の意である。初登頂は1811年に成されている。
◎フィンステラールホルン:Finsteraarhornはユングフラウと同じくスイスのベルン州ベルナー・オーバーラント地方の最高峰。4,274m。アルプス山脈で3番目のピーク。公式な初登頂記録は1829年。ドイツ語の“Finster”は、「暗黒の」「不機嫌な」「不気味な・はっきりしない」という意。詩冒頭のエピグラフはそれ以前の誰かの謂いであるか、若しくはどちらもたかだか67~50年程前までは未踏峰であった事実を踏まえての、この詩全体が太古の時間を幻視しているツルゲーネフ自身の思いの現われであることの表明なのかもしれない。
◎嶮崖:「けんがい」と読むが、中山氏は単に「がけ」と読ませたいのかも知れない。険しく切り立った崖(がけ)のこと。
◎さんらん:「燦爛」。鮮やかに輝くさま。
◎磊々たる:「磊々(らいらい)たる」と読む。多くの石ころが積み重なっているさま。
◎「今度は見える。下の方はまだ、もとのままだ、まばらに、こまごまに、水は靑み、森は黑み、累々たる岩石は灰色に。……」:この部分、先行する昭和21(1946)年八雲書店版では「今度は見える。下の方はまだ、もとのままだ、まばらに、こまごまと。水は靑み、森は黑み、累々たる岩石は灰色に。……」となっている。私は同格で並列される語句のバランス及び和文脈の自然さから見て、ここは先行する「こまごまと。」で句点で終止するのがよいと思う。
老婆
私はただひとり曠い野原を步いてゐた。
すると、ふと私のうしろに輕やかな、愼ましやかな、跫音(あしおと)が聞えるのであつた……誰かが私のあとを跟(つ)いて來たのだ。
ふりかへつて見ると、灰色の襤褸を着た、小さな、腰のまがつた老婆であつた。襤褸の中から老婆の顏ばかりが見えてゐた。
黃いろな、皴だらけの、鼻の尖つた、齒のない顏。
私はそばへ近づいた……老婆は立ちどまつた。
「お前さんは誰だね? 何が欲しいの? お前さん、乞食? 施與(ほどこし)を待つてるの?」
老婆は答へなかつた。私は老婆の方に身をかがめて見て、眼が兩方とも半透明の白ちやけた薄皮か、或る種の鳥に見られるやうな膜に蔽はれてゐるのに氣がついた。鳥はさうした膜によつて極めて明るい光から眼を庇護(まも)つてゐるのである。けれど、この老婆にあつては、この膜は動かずに、瞳を蔽つてゐるばかりであつた……、そこで、私は彼女が要するに盲目(めくら)なのだと考へた。施與(ほどこし)が欲しいのかね?」と私はもう一度訊いて見た、「お前さん、どうしてあとを跟(つ)いて來るの?」老婆はやはり返事をしなかつた。ただわづかに身を縮めるばかりであつた。
私は身を返して、さつさと步き出した。
するとまた例の輕やかな、規則正しい、忍び足ともいふべき跫音(あしおと)が聞える。
「またこの死女郎(しめらう)が!」と私は考へた、「何だつて、おれにつきまとひやがるんだ!」しかし、そこでまた私は心の中にすぐに附け加へた、「たぶん眼が見えないので、道に迷ひ、一しよに人里へ出ようと思つて、私の跫音をたよりに、かうして步いているんだらう、さうだ、てつきりさうだ。」
けれど妙に不安な氣持が私の心をだんだんと捉へてしまふのであつた。この老婆は、私に跟いて來るばかりでなく、私を指圖し、右に左におしやつて、私は知らず識らずのうちに彼女に従つてゐるのだと考へ出した。
それでもなほ私は步きつづける……。しかも、見よ、私の行く手には、何かが黑くひろがつてゐる……穴のやうなものが……。「墓!」といふ言葉が私の頭にひらめいた、「たしかにおれをあそこへ追ひやらうといふのだな!」
私はさつと振りかへつた。老婆はまたも私とむき合つた。しかも今は眼が見えるのである! 老婆は、大きな、殘忍な、忌まはしい眼で、……鷙鳥(とり)の眼で、私を見てゐる……。私は彼女の顏を、彼女の眼をきつと見た……。するとまた例の曇つた膜、例の盲目(めくら)の、魯鈍な顏つき……。「ああ」と私は考へる、「この老婆は……おれの運命だ。人間には遁れられない運命なんだ!」
「遁れられない! 遁れられない! 何といふ狂氣の沙汰だ……。それにしても、試してみなければならぬ!」そこで私は、わきの、違つた方へ進んで行つた。
大いそぎに私は步いて行く……。けれど私のあとに、近く、近く、またあの輕い跫音がかさかさと聞える……。前にはまた穴が黑く。
私はまた方向(むき)を變へる……。後にはまた、あの跫音がかさかさと。前には同じ怖ろしい點(ほし)が。追ひつめられてゐる兎のやうに、どんなにもがいても……、やはり同じことだ! 同じことだ。
「待てよ」と私は考へる、「ひとつ誑(だまか)してやらう! どこへも行くまい!」私はすぐ地べたに坐つてしまふ。
老婆は私から二步ほどうしろに立つてゐる。……もうけ跫音は聞えないが、そこに老婆のゐることを感ずる。
ふと見ると遠くの方に黑く見えてゐた點(ほし)が漂ひながら、私の方へ這つてくる。
ああ! 私はふりかへる、老婆はじつと私を見てゐる……。齒のない口は、微笑に歪んでゐる。
「遁れられないんだ!」
一八七八年二月
■訳者中山省三郎氏による「註」
・老婆[やぶちゃん注:題名に注記号。]:親友であったピッチは、ツルゲーネフが絕えずこのやうな夢に惱まされたこと、この「老婆」の内容を或る年の夏ベルリンで語つてくれた由を傳へてゐる。[やぶちゃん補注:人物といい、恐怖対象といい、精神医学の教科書に出てくるような典型的な追跡妄想のパターンである。]
□やぶちゃん注
◎黃いろな、皴だらけの、鼻の尖つた、齒のない顏。:この行、冒頭の一字空けがないが、明らかに改行しているので、補った。
◎死女郎:正しくは「しにめろう」と読むようである。女を罵って言う差別語である。
◎「たしかにおれをあそこへ追ひやらうといふのだな!」:底本は「あすこ」。本底本に先行する昭和21(1946)年八雲書店版で補正した。
◎鷙鳥:音読みは「しちょう」で、ワシタカ類等の肉食性の猛禽類や性質の荒い鳥を指す語。
犬
部屋のなかには私たち、ふたり、いとしい犬と私と……。戶外(そと)には凄まじい嵐が咆えてゐる。
犬は私の前にすわり――私の眼をまともに見まもつてゐる。
私もまた犬の眼を見てゐる。
犬は何か私に言ひたげに見える。犬はものを言はない、犬には言葉がない、犬には自分自身がわからない――しかも私は犬をよく識つてゐる。
私には、この瞬間(ひととき)に、犬にも私にもーつの同じい感情が流れてゐて、私たちの間には何らのへだたりもないことを識る。私たちは同じものである、お互ひの中には同じやうな、ふるへる火焰(ほのほ)が燃え耀いてゐるのだ。
死は飛びおりて來る、冷たい廣い翼をはばたく……。かくて最後である。
やがて私たちふたりのうちに燃えてゐた焰がどんなものであつたかを誰が識別しうるであらう。
否、互ひに眼を見交はすふたりは動物でもなく、人間でもないのだ。
互ひに見交はす眼は同じ眼の二對なのだ! この對(つい)のいづれにも、動物にも、人間にも、一つの同じい生命が、おづおづと互ひに寄り添つてゐるのである!
一八七八年二月
競爭相手
私には友だちの競爭相手があつた。別に、仕事や職務(つとめ)や戀の上での相手ではなかつたが、何ごとによらず二人の見解は一致せず、會へば必ず二人の間には、はてしもない議論が起るのであつた。
二人は事ごとに言ひ爭つた、藝術や、宗教や、科學ついて、現世(このよ)や、來世(あのよ)の生活について、わけても來世(あのよ)の生活について。
彼は信心家で、熱情家であつた。あるとき、彼は私にかういつた、「君は何から何まであざ笑ふけれど、若しも君より僕が先に死んだら、きつと僕はあの世から、君のところへやつて來るよ……その時に君が嗤ふかどうか知りたいものだ。」
果せるかな、彼は私よりも先に、未だ若い身空で死んで行つた。けれど、いく歲(とせ)か過ぎて、私は彼の約束を――彼の威嚇を忘れはててしまつてゐた。
或る夜のこと、私は床に就いたが、眠れなかつた。もつとも、眠りたくもなかつたのである。部屋の中は暗くも、明るくもなかつた。私は灰色の薄ら闇を見つめ始めた。
すると不意に、二つの窓の間に、私の競爭相手が佇つてゐて、しづかに、悲しさうに顏を上に下に振つてゐるやうに見えるのである。
私は怖れはしなかつた、驚きもしなかつた……。けれど、そつと起き上つて、肘をついて、不意にあらはれて來た幻影(まぼろし)を一層氣をつけて見つめはじめた。
幻影(まぼろし)は頭を振りつづけてゐた。
「何だといふんだ。」私はつひに口を切つた。「君は勝ち誇つてゐるのか、嘆いてゐるのか、どうなんだ、おれを警戒するのか、責めるのか。それとも君が間違つてゐたとか、二人とも間違つてゐたと識らしたいのか。君は何を經験してゐるんだ、地獄の苦患(くるしみ)か、天國の法悅(よろこび)か。せめてただ一言(ひとこと)でも言つてくれ!」
しかし競爭相手はただ一言(ひとこと)も發せず……相變らず悲しげに、素直に、頭を上下に振つてゐるばかりであつた。
私は笑ひ出した……。彼は消えてしまつた。
一八七八年二月
乞食
私は街を通つてゐた……。老いぼれた乞食がひきとめた。
血走つて、淚ぐんだ眼、蒼ざめた脣、ひどい襤褸、きたならしい傷……。ああ、この不幸な人間は、貧窮がかくも醜く喰ひまくつたのだ。
彼は紅い、むくんだ、穢い手を私にさしのべた。
彼は呻くやうに、唸るやうに、助けてくれといふのであつた。
私は衣嚢(かくし)を殘らず搜しはじめた……。財布もない、時計もない、ハンカチすらもない……。何一つ持ち合はしては來なかつたのだ。
けれど、乞食はまだ待つてゐる……。さしのべた手は弱々しげにふるへ、をののいてゐる。
すつかり困つてしまつて、いらいらした私は、このきたない、ふるへる手をしつかりと握つた……。「ねえ、君、堪忍してくれ、僕は何も持ち合はしてゐないんだよ。」
乞食は私に血走つた眼をむけ、蒼い脣に笑(ゑ)みを含んで、彼の方でもぎゆつと私の冷えてゐる指を握りしめた。
「まあ、そんなことを、」彼は囁いた、「勿體ねいでさ、これもまた、有難い頂戴物でございますだ。」
私もまたこの兄弟から施しを享けたことを悟つたのである。
一八七八年二月
[やぶちゃん注:1943年に治安維持法違反で逮捕され1945年に九州で獄死した朝鮮の詩人윤동주(ユン・ドンジュ 尹東柱 1917~1945)には、本作をインスパイアした「ツルゲーネフの丘」という詩がある。以下、私の古い教え子であるI君が原語から訳してくれたものを掲げておく。
ツルゲーネフの丘 尹東柱
私は坂道を越えようとしていた…その時、三人の少年の乞食が私を通り過ぎて行った。
一番目の子は背中に籠を背負い、籠の中にはサイダー瓶、缶詰の缶、鉄くず、破れた靴下の片割れ等の廃物が一杯だった。
二番目の子もそうであった。
三番目の子もそうであった。
ぼうぼうの髮の毛、真っ黒い顔に涙の溜まった充血した眼、血色無く青ざめた唇、ぼろぼろの着物、ところどころひび割れた素足。
あぁ、どれほどの恐ろしい貧しさがこの年若い少年達を呑み込んでいるというのか。
私の中の惻隠の心が動いた。
私はポケットを探った。分厚い財布、時計、ハンカチ…あるべきものは全てあった。
しかし訳もなくこれらのものを差し出す勇気はなかった。手でこねくりまわすだけであった。
優しい言葉でもかけてやろうと「お前達」と呼んでみた。
一番目の子が充血した眼でじろりと振り返っただけであった。
二番目の子も同じであった。
三番目の子も同じであった。
そして、お前は関係無いとでもいうかのように、自分たちだけでひそひそと話ながら峠を越えていった。
丘の上には誰もいなかった。
深まる黄昏が押し寄せるだけ…
なお、本注を附すに至った仔細は私のブログに記載してあるので、是非、参照されたい。]
「耳傾けよ、愚かしき者の審判に……」
プーシキン
御身はつねに眞實を語つた。ああ、偉大なるわが詩人(うたびと)よ、御身はいまもまた眞實を語つた。
「愚しき者の審判と、衆人(もろびと)の嗤ひに」……誰か、この二つを經驗しなかつた者があらう。
これらはみな人の堪へ得ることであり……、また堪へなければならないことである。敢へて軽蔑するがよいのだ。
しかし一層いたいたしく胸をうつ打擊があるのだ……。或る人はでき得る限りのことをした、懸命に心を打ちこんで忠實に働いた……、すると實直な人たちは厭はしげに顏をそむけ、實直な者の顏は、彼の名を聞くと憤怒に燃えあがる。「退け! 向うへ行け!」實直な若者の聲は彼に向つて叫ぶのである、「お前に俺たちは用がない、お前の仕事にも用がない、お前は俺たちの住處(すみか)を汚す……、お前は俺たちを識らない、俺たちを理解しない、お前は俺たちの敵だ!」
かかる時に、この人はどうしたらよいのであらう。仕事をつづけるがよい、自己を辯明しようとしないがよい……ましてや、より公平な評價を豫期することなどはしないがよい。
嘗て農夫たちは、麺麭の代用品であり、貧しい者の常食物である馬鈴薯を齎らした旅の者を呪つた……。彼らは、彼らにさしのべた手から、貴い贈物をたたき落し、泥の中に投げ込み、足で蹈みにじつた。
いま彼らはそれを食べて暮してゐる。しかも恩惠を與へてくれた者の名を知りもしない。
それでよいのだ。彼らにとつて彼の名が何であらう。彼はたとひ名はあらはれずとも、彼らを饑ゑから救つてゐるのである。
われわれは、われわれの齎らすものが、眞に有用な食物であるようにと、ただそれだけを心がけて行かう。
愛する人たちの脣(くち)にのぼる不當な非難は悲しい……。しかし、それもまた堪へられる。
「俺を打て! しかし、心をとめて最後まで聽いてくれ!」アテネの將はスパルタ人に向つていつた。
「俺を打て! しかし、健かに、満腹してゐるがいい!」とわれわれはいはなければならない。
一八七八年二月
■訳者中山省三郎氏による「註」
・「耳傾けよ、愚かしき者の審判に……」[やぶちゃん注:題名に注記号が附いていたものと思われる。私の底本では確認できない。]:プーシキンの詩「詩人(うたびと)に」(一八三〇年作)の一節である。この詩の中で、プーシキンは、詩人たるものは多くの人に愛を思ふべからず、却つて愚しき者の審判と多くの者の冷やかな嗤ひに耳を傾け、しかも毅然たるべく、ひとり己れのみ帝王として生きよとの痛々しい言葉を述べたのであつた。
□やぶちゃん注
◎敢へて軽蔑するがよいのだ。:本底本に先行する昭和21(1946)年八雲書店版ではこの部分、前に以下のような句が挿入されている。「軽蔑することのできる者は、敢へて軽蔑するがよいのだ。」。日本語ではこの方が分かりはいいように思われる。
◎蹈みにじつた:「蹈」は「踏」の書きかえ字。
◎眞に有用な食物であるようにと:「ように」はママ。
滿足してゐる人
一人のまだうら若い男が都の街を跳ねるやうに疾(はし)つてゆく。彼の動作は喜びに充ち、いきいきして、眼は輝き、脣は微笑み、昂奮した顏はここちよく紅らんでゐる……。彼は渾身これ滿足と喜悅に充ちあふれてゐるのだ。
彼の身の上に何が起つたのか。遺産が手に入つたのか。陞進したのか。あひびきに急いでゐるのか。それともただ――うまい朝飯を食べて――健康の感じ、滿腹の感じが、からだ中に、たのしく沸き返つてゐたのか。彼の頸に、早くも御身の美しい八稜十字章でもかけられてゐたのか、ポーランドの王、スタニスラフよ。
否、彼は知合に對して讒言を捏造し、それを一所懸命にひろめ步き、その同じ讒言を他の知合から聽いて……今度は彼自身もそれを信じてしまつたのである。
ああ、この愛すべき前途多望の靑年は、この瞬間において、いかばかり滿足し、いかばかり善良ですらもあつたらう!
一八七八年二月
■訳者中山省三郎氏による「註」
・ポーランドの王、スタニスラフよ:その頃の最も低い文官勳章であつたスタニスラフ勳章と、ポーランドの王スタニスラフとをかけた洒落。
□やぶちゃん注
◎陞進:「しょうしん」と読む。「昇進」に同じ。
處生訓
「若し君が敵手(あひて)をひどく困らせ、傷つけてやらうとでも思ふなら」と或る古狸が私にいつた、「君は自分で有(も)つてゐると思ふ缺點だとか、惡癖を數へあげて、敵手(あひて)を非難してやるがいいよ、大いに憤慨して、非難するんだ。
まづ、さうすれば、君はその惡癖を有つてないと相手の奴に思はせるだらう。
次には、君の憤慨が本物にもなるし、君は自分の良心の呵責を利用することもできる。
若しも、君が、たとへば假に變節者であつたとしたら、相手に信念がないといつて非難してやり給へ。
また若し、奴隷根性をもつてゐたら、口をきはめて、そいつを奴隷だ……文明の、ヨーロッパの、社會主義の奴隷だといつて、けなしてやり給へ。」
「反奴隷主義の奴隷だ、ともいへるでせうね。」と私は氣を引いてみた。
「さうもいへるね。」と古狸は私の言葉を引き取つた。
一八七九年二月
[やぶちゃん注:本詩は当初は“SENILIA”に所収される予定ではなかったが、ツルゲーネフの「閾」の削除要請(後述)に添えられた差し替え作品として入ったとする。]
この世の終末(をはり)
夢
私はロシヤの、どこか、人里遠く離れたところにある、簡素な田舍家にゐるやうに思はれた。
部屋は大きく、天井が低く、窓が三つついてゐて、壁は白く塗られ、家具ひとつなかつた。家の前には荒涼たる平原があり、次第に勾配がゆるやかになつて、遠くの方へ續いてゐた。灰色の、單調な空が、その上に寢帳(たれぬの)のやうに垂れ下つてゐた。
私はひとりではない、部屋の中にはなほ十人ほどゐるのであつた。みな、あたりまへの人たちで、素樸な身なりをしてゐた。口をつぐみ、拔足をしてゐるかのやうに、しづかに行きつ戻りつしてゐる。互ひに避け合つてはゐるが、――みな一樣に絕えず不安げな眸を見交はしてゐる。
誰ひとりとして、どうしてこの家へ來たのか、一緒にゐる人がどんな人たちなのか知らずにゐる。顏にはみな不安と喪心の色が見える、……誰もがつぎつぎに窓のところへ近づいては、外から來る何ものかを待ちうけてゐるらしく、注意ぶかく、あたりを見廻してゐる。
やがて又ぶらぶらと行きつ戻りつしはじめる。その間を背の大きくない男の子がぐるぐるとへめぐつてゐる。絕えず、この男の子は細い、一本調子な聲で、「お父ちやん、怖(こは)いよう、」といつてゐる。この細い聲に私の胸もむかついて來る――私もまた怖ろしくなつて來る、……何が怖ろしいのか、自分もわからない。ただ大きな、大きな禍難(わざはひ)が、次第次第に近づいて來ることを感ずるだけである。
男の子は、やめたかと思ふと、またなけ喚き出す。ああ、どうかして、ここから逃げ出したい。何て、息苦しいんだらう。何て、懶いことだらう。何て重苦しいことだらう……、けれど、どうしても逃げ出すことができないのだ。
この空はまるで經帷子(きやうかたびら)のやうだ。それに風もないし、……空氣は息絕えてしまつたのか、どうしたのか。
急に男の子は窓に馳け寄り、例の哀れげな聲で叫んだ、「あれ、あれ、地面が陷つこちた。」
「え? 陥ちたつて?」たしかに、今までは、家の前に平原があつた筈なのに、いま、家は怖ろしい山の頂に立つてゐるのだ。地平線は落ちこみ、低く降(さが)つて、家のすぐそばから殆んど垂直な、まるで切りとつたやうな、黑い險岨になつてゐる。
私たちはみんな窓のところに押し寄せた……。恐怖のあまり心臓は凍つてしまふ。
「ほら、あれよ……あれよ、」と私のわきにゐた者が囁く。
見れば、はるか遠い地極に沿うて、何ものかが動き出した。何かしら、小さな、圓味をおびた丘のやうなものが、起伏しはじめたのである。
「これは――海だ。」と私たちには同時に考へられた。「すぐにわれわれを呑んでしまふだらう……。しかし、どうしてこんなに高く、わき騰つて來られるものか。こんな險岨の上にまで。」
しかも海はいよいよ氾濫する、氾濫する……。今は、遠くにきれぎれの丘が起伏してゐるのではないのだ……。連りつづく、恐るべき一脈の波が、見渡す限りの地平線をすつかり抱きこんでゐるのだ。
波は私たち目がけて奔騰する。奔騰する。波は凍(し)みつくばかりに寒い颶風に乘つてやつて來る。波は地獄の闇のやうに渦卷く。周圍のあらゆるものは慄へ出した――この襲ひよる怒濤のうちには轟聲(とどろき)がある。雷鳴がある。幾千の咽喉(のど)から洩れる鐵のやうな號叫がある……。
ああ、何といふ吼號、慟哭であらう。これは大地そのものが恐怖のあまり遂に悲鳴をあげたのだ……。
大地の終末! 一切の終末!
男の子はもう一度、泣き聲を出した……。私は仲間のものにすがりつかうとしてゐた、――けれど、私たちはみな、墨汁(すみ)のやうに眞黑い、氷に充ちた、轟く波に壓し潰され、葬られ、取りさらはれてゐるのであつた。
暗黑(やみ)! 永遠の暗黑(やみ)!
呼吸(いき)もたえだえに、私は眼を覺ました。
一八七八年三月
[やぶちゃん注:「何て、懶いことだらう。」は「懶(ものう)い」と読む。本誌はサブタイトルを持つが、複数の他篇が「この世の終末(をはり)」のタイトルのもとに存在した可能性を窺わせる。]
マーシャ
幾年も前のことである。ペテルブルグに住んでゐた時分、馬橇を雇ふやうなことがあると、きつとその馭者と話をしたものであつた。わけても近郷の貧しい百姓で、自分の暮しをつけたり、旦那への年貢を稼ぐつもりで、枯草色に塗つた橇と、やくざな駄馬をひつさげて、都(まち)へ出てゐる夜の馭者たちと話をするのが好きであつた。
さて、或る時のこと、私はさうした馬橇を雇つた。馭者は二十歲(はたち)くらゐの若者で、背の高い、頑丈な、いい若い衆であつた。碧い眼と、紅い頰と、亞麻いろの髮は、目深にかぶつたつぎはぎの帽子の下から小さな渦を巻いて、はみ出してゐた。こんなにがつしりした肩に、よくもこんなぼろぼろの百姓外套を引つかけたものである。
しかも、髯のない、きれいな顏は物悲しく、陰氣さうに見うけられた。
私は彼と話をした。彼の聲にも哀愁がこもつてゐた。
「君、どうしたんだい。」と私は訊いた、「どうして鬱(ふさ)いでるんだ。何か不仕合せなことでもあるのか。」
若者はすぐには答へなかつた。
「あるんでがす、旦那、あるんでがす。」と彼はやうやく呟いた、「いつそ死んだ方がましな位(くらゐ)なことなんでさ。女房が死んぢまひやして。」
「可愛がつてたんだらうねえ……、そのお内儀さんを。」
若者は私の方を向かなかつた。ただ心もち頭を下げたばかりであつた。
「可愛がりましたとも、旦那、九箇月目にもなりますが……、どうにも忘れらんねえんで。しよつちゆう、かきむしられるやうな思ひでさ、全く。何だつて、また死ぬやうなことになつたんだか、若い身空で! 丈夫だつたのに。たつた一日で。コレラにやられちめえやがつて。」
「いいお内儀さんだつたんだらうね。」
「それはもう、旦那!」と哀れな男は深く溜息をついた、「一緒に、どんなに二人は仲よく暮しましたか。それに、わしのゐねえ留守に逝(い)つちまつたんでさ。わしは此處で女房(あれ)がもう埋められたつて聞くと、ぢきに村へ駈けつけました。家に着いたときはもう眞夜中過ぎでした。小舎へ入つて部屋の眞中へ立ちどまつて、そうつと、『マーシャ、おい、マーシャ……』つて呼んで見ましたが、ただ蟋蟀が鳴いてるばかり……、そこで、わしは泣き出して、土間にべつたり坐りこんで、掌で地べたを叩いたんでがす!『この胴慾な土め! てめえは女房を貪食(くれ)ひやがつたな、さあ、俺も食つてくれ!』つて。ああ、マーシャ!」
「マーシャ!」と彼は急に沈んだ聲で附け加へた。そして荒繩の手綱を持つたなり、手袋で眼から出る淚をおし拭ひ、淚をふるつて、肩をゆすぶり、そのままもう何もいはなかつた。
橇から下りる時、私は酒手に十五錢玉を一つやつた。彼は兩手で帽子をつかんで、丁寧にお辭儀をし、一月のひどい寒さに、灰色の霧のかかつた、人氣(ひとけ)もない街路(とほり)の、白い卓布のやうに降りつもつた雪の上をとぼとぼと步いて行つた。
一八七八年二月
□やぶちゃん注
◎胴慾:胴欲。①欲が深いこと。②むごいこと。人情のないこと。両義を込めての訳語と考えてよい。本熟語は国字である。
◎貪食(くれ)ひやがつたな:ルビはママ。中山氏は粗野な百姓言葉を荒っぽい江戸言葉風にして訳出している。
◎卓布:朗読時は「テーブル・クロス」と読みたい。
馬鹿者
馬鹿者があつた。
永い間、彼は何不足なく暮らしてゐた。ところが、追々、彼の耳に、自分が到るところで馬鹿者だといふ評判の立つてゐることが傳はつて來はじめた。
馬鹿者は、どぎまぎして、どうしたらこの面白くない噂を絕やしてしまへるだらうかと思案し出した。
遂に彼の鈍い頭腦(あたま)に、ふとした思ひつきが浮んだ……。そこで躊躇せずに、早速それを實行して見た。
街で一人の知合が彼に出逢つて、さる有名な畫家を賞めてかかつた……。「冗談ぢやない!」と馬鹿者は叫んだ、「その畫家(えかき)はもう疾うにすたりものになつてるんだ……。君はそれを知らんのかい? まさか、君がさうだとは思はなかつたよ……、君は時勢おくれな人間だな。」
知合はびつくりして、直ぐに馬鹿者に同意してしまつた。
「今日は僕はとてもすばらしい本を讀んだよ!」と別の知合が彼にいつた。
「冗談ぢやない、」と馬鹿者は叫んだ、「君はそれで、よく恥かしくないねえ。あの本はなんの役にも立たないもんだよ。誰も彼ももう投げちやつたもんなんだ、君はそれを知らんのかい? 君は時勢おくれだなあ。」
この知合も驚いて――馬鹿者に同意してしまつた。
「僕の友達の□□は何て素晴らしい人間なんだらう、」と三人目の知合が馬鹿者にいつた、「いや實際、氣品のある男だよ!」
「馬鹿な!」と馬鹿者は叫んだ、「あの□□は有名な破廉恥漢だよ。あいつは、親類といふ親類から捲き上げたんだ。それを知らん者は一人だつてないんだ。君は、時勢おくれだね!」
三番目の知合もまた驚いて、馬鹿者に同意して、その友達から離れてしまつた。
かうして馬鹿者の前で、誰であらうと何事であらうと賞めた場合には、悉く例のやうに應酬するのであつた。おまけに時によると罵倒して、かう附け加へるのだつた、「ぢやあ、君はまだ權威といふものを信じてるのかい?」
「たちの惡い奴だ! 苦々しい奴だ!」と彼の知合たちは、馬鹿者のことを語るやうになつた、「しかし何ていふ頭腦だらう!」
「それに何ていふ口巧者(くちがうしや)だらう!」と他(ほか)の者は附け加へるのであつた、「さうだ、たしかに天才だ!」
しまひには、或る大雜誌の發行者が彼に批評欄を引き受けてくれと申し出た。
やがて、馬鹿者は、例の態度、例の表白を少しも變へないで、あらゆること、あらゆる人を批評するやうになつた。
今や、嘗ては權威に對して抗辯した彼が、自ら權威となつたのである……。靑年たちは彼を崇拜し、彼を畏れてゐる。
哀れな靑年たちには、さうすること以外に、何をすることができるであらう? 抑々人は何人をも崇拜してはならぬものである……しかし、この場合には、若し崇拜しないとなれば、時勢おくれになつてしまふのだ!
臆病者の間には馬鹿者がのさばつてゐるのである。
一八七八年四月
■訳者中山省三郎氏による「註」
・或る大雜誌:嘗ての刊本には「或る新聞」となつてゐた。これは或る種の人々や「祖國時報」など左翼の雜誌の文藝批評論に對する當こすりが目立つものとして、校正の時に置きかへられた文字が永い間その儘に放置せられてゐたのである。而も發表の頃、既に物議を釀した。
□やぶちゃん注
◎本詩を理解する一助になろうかと思われる事蹟を、サイト「ロシア文学」の「ツルゲーネフの伝記」から引用する。本詩の十年程前の『67年には小説「煙」を発表、ロシアにおける全てのスラヴ主義者と、あらゆる保守的な宗教思想を攻撃した。ロシアの多くの人々は、彼がヨーロッパに身売りし祖国との接触を失ったとして非難し、同年彼を訪れたドストエフスキーも、彼を母国の中傷家として攻撃し』た。また本詩の書かれた前年、1877年には『7年間の準備の末に成った小説「処女地」が発表された。これはツルゲーネフの最長の作品であり、数多い世代研究の1つである。今度は70年代のナロードニキ運動が扱われ、父親たちの無益な饒舌と空虚な理想主義に飽いた若い彼らが行動を決意するのである。』(改行)『この作品はヨーロッパではベストセラーになったものの、ロシアでは全ての派から断罪された。この不評に起因する落胆と厭世的気分は、78年に執筆した「セニリア」(のち「散文詩」(Стихотворение в прозе, 1882)の題名が付けられた)という小編に反映している。』。本詩が正にそうした詩の一篇であることは疑いない。
◎□□:原文は“N. N.”である。ロシア語で匿名氏、何某を示すのか? しかし、そもそもキリル文字には“N”はない。識者の御教授を乞う。なお、中山氏にしては珍しく、次の「馬鹿者」の台詞の中で用いられている原文の“—N. N. —”の前後のダッシュは省略されている。ちなみに、底本に先行する昭和21(1946)年八雲書店版では、「*」が用いられている。【二〇一九年五月十五日追記:現在、ブログで進行中の生田春月訳の生田の註釈で解明した。これはラテン語「Nomen nescio」の略で、「ノーメン・ネスキオー」と発音し、「Nomen」はラテン語で「名」、「nescio」は「知らない・認識しない」の意。匿名にした「何某(なにがし)」的謂いである。】
東方傳奇
誰かバグダッドに宇宙の太陽、偉大なるジャッファルを知らない者があらうか?
何十年もの昔のことである。或る時、未だ靑年のジャッファルはバグダッドの郊外をぶらついてゐた。
ふと嗄れた呼聲が耳について來た。誰かが必死になつて救ひを求めてゐたのである。
ジャッファルは同年輩のものの間でも、優れて思慮分別の備はつてゐる男であつたが、彼はまた慈悲心に富んで――自らその膂力を恃んでゐた。
彼が聲する方へと駈けつけて行つて見ると、老耄(おいぼ)れた老人が、二人の追剥に市(まち)の城壁に壓しつけられて持物を奪はれてゐるのであつた。ジャッファルは佩劍(サーベル)を拔いて、惡漢に攻め寄り、一人を殺し、一人を追ひ拂つた。
かうして難を免れた老人は救ひ出してくれた人の足もとに跪いて、その着物の裾に接吻(くちづけ)して叫んだ、「勇ましい若い衆、あんたのお志はきつとお報い致しますぞ。見かけこそ儂は見すぼらしい乞食ぢやが、それは見かけだけのこと。儂はただの人間ぢやない。明日の朝早く、中央市場へお出でなさい。噴水(ふきあげ)のところで待つてませう。ゆめゆめ儂のいふことを疑ひなさるな。」
ジャッファルは考へた、「この人は成程、見かけは乞食だ。然しいろんなことがあるものだ。やつて見ないことには、始まらぬ。」そこで彼は答へた、「畏りました、お年寄、參りませう。」
老人は彼の顏をじつと見た。そして遠ざかつて行つた。
翌る朝、ジャッファルは明るくなるかならないうちに、市場を指して出かけて行つた。老人は早くも噴水(ふきあげ)の大理石の水盤に肘をついて、彼を待ちうけてゐた。
彼は口を噤んだまま、ジャッファルの手を取つて、高い壁を繞らした小さな庭園(には)の中へと連れて行つた。
庭園(には)のちやうど眞中の綠の芝生の上には、一本(ひともと)の奇妙な樹が生えてゐた。
それは絲杉に似通つてゐた。ただその葉だけは瑠璃いろをしてゐた。
三つの果實(み)――三つの林檎が、上の方へ曲つてゐる細い枝に垂れさがつてゐた。一つは中位の大きさで、小判形に長く、乳白色をしてゐた。次のは大きく、圓く、鮮紅色であつた。三つ目のは小さく、皺ばんで、黃色味がかつてゐた。
風もないのに、樹は力なげにそよいでゐるばかりであつた。まるで硝子ででもつくつたもののやうに鋭く、悲しげに鳴つてゐた。それは、ジャッファルの近づいて來たのを感じてゐるかのやうに思はれた。
「お若いの!」と老人は言つた、「この林檎のうち、どれか好きなのを採りなされ。さうぢや、若し白いのを採つて食べれば、あんたは人間中で誰よりも賢くなれる。紅いのを採つて食べれば、ユダヤ人ロスチャイルドのやうに金持になれる。また、黃色いろいのを採つて食べれば、お婆さん方(かた)に好かれるといふものぢや。さあ、決めなされ!……ぐづぐづしないがいい。一時間すれば、林檎は凋んで、ひとりでにこの樹も、聲もない地の底に沈んでしまふのぢや。」
ジャッファルは項垂れて――考へ込んだ。「さて、どうしたものだらう?」と彼は自分自身に諮(はか)るかのやうに、低い聲で言つた、「餘り賢くなると、きつと生きてゐるのが厭になるだらう。人一倍、金持になれば、人は皆そねむことだらう。一そのこと三つ目の皺ばんだ林檎を採つて食べた方がましだ!」
そこで彼は、その通りにした。
すると老人は齒の無い口で笑ひだしてかう言ふのであつた、「利發な若い衆だ! あんたは良いやつを選んだぞ! あんたに白い林檎が何の役に立つものか? 見ての通り、あんたはソロモンよりも賢いのだ。それに紅い林檎だつて用はあるまい……。それが無くつたつて、金持にはなれるのだ。尤もあんたの富だけを嫉むやつもあるまいに。」
「お年寄、聞かして下さい。」とジャッファルは激しく身ぶるひしながら言つた、「祝福せられたる我らが回教主の尊き御母君(おんははぎみ)は、何處にいらつしやるのでございませう。」
老人は恭しく禮をして、若者に道を教へてやつた。
誰かバグダッドに宇宙の太陽、偉大なる、有名なるジャッファルを知らない者があらう?
一八七八年四月
□やぶちゃん注
◎原題は“Восточная легенда”で、“легенда”(legenda)は英語の“legend”で「東方伝説」の謂いである。
◎膂力:「りょりょく」と読む。本来は背骨の力、そこから全身の筋骨の力の意となる。
◎ジャッファル:原文は“Джиаффара”で、ラテン文字表記に直すと“Dzhiaffara”である。この詩のエピソードは「アラビアン・ナイト」第19話にある「三つの林檎の物語」に想を得ているものと思われ(話は全く異なり三つの林檎の役割も違うが、リンゴが葛藤のシンボルとして登場する点では共通する)、「ジャッファル」が、その主人公由来であるならば、同じ「アラビアン・ナイト」第994夜~第998夜「ジャアファルとバルマク家の最後」にその悲劇的な最期も描かれているところの、実在したヤフヤー・イブン=ジャアファルibn Yahya Ja'far(766年?~803年)である。アッバース朝の宰相ヤフヤー・イブン=ハーリドの次男。父ヤフヤー・兄ファドルと共に、アッバース朝第5代カリフであったハールーン・アッ=ラシードに仕えた人物である。
◎儂:「わし」と読む。
◎繞らした:「繞(めぐ)らした」と読む。
◎ユダヤ人ロスチャイルド:Rothschildはユダヤ系金融業者の一族。イギリス最大の富豪。始祖マイヤー・アムシェル・ロートシルト(ロスチャイルドのドイツ語読み)Meyer Amschel Rothschild(1744~1812)は当初、フランクフルトの古物商であったが、当時は未だコレクションの対象でなかった古銭に着目して、珍品コインを収集、それに纏わる逸話集を添えて好事家の貴族に売り捌いて成功、その後、それを元手に金融業を起こして財産の基礎を形成した。その子の代でイギリス・フランス・イタリア・ドイツ・オーストリア等ヨーロッパ各国にロスチャイルド財団を形成した(イギリスでは孫の代に貴族に列している)。フランスではマイヤーの息子ジェームスが鉄道事業に着目して、パリ~ブリュッセル間の北東鉄道を中心に事業を拡大し、本詩が書かれた数年前(1870年)には、ロスチャイルド銀行による財政難のバチカンへの資金援助が行われる等、金融支配を固めた。ロシアへは日露戦争前後に於ける石油開発の投資でも知られ、一族はヨーロッパ各地での金融業の他、現在も石油・鉱業・マスコミ・軍産共同体・製薬等の企業を多く傘下に置きつつ、主にロンドンとパリに本拠地を置いて、世界経済に対して隠然たる権力を有しているとされる。勿論、ここでこの老人が時代の合わないロスチャイルドを引き合いに出すこと自体、本話がツルゲーネフによる全くの作り事、パロディであることの証左である。標題の“легенда”という単語には、つくり話、ありそうもないことという意味もある。また、「ユダヤ人」とわざわざ断ったところには(原文“еврей”)、ツルゲーネフの中に当時一般的であったユダヤ人への差別感覚が窺われるところでもある。なお、同じくロスチャイルドを詩中に挙げる後掲の「二人の富豪」も参照。
◎また、黃色いろいのを食べれば:底本は「まつた、黃色いろいのを食べれば」であるが、衍字と判断し、「つ」を排除した。友人が本底本に先行する昭和21(1946)年八雲書店版(但し、これは完全な同一稿ではなく、表記に微妙な違いはある)で確認をしてくれ、やはり「つ」は衍字であることが判明した。
◎項垂れて:「項垂(うなだ)れて」と読む。
◎ソロモン:旧約聖書「列王記」に記される古代イスラエル王国第3代の王(在位B.C.965年頃~B.C.925年頃)。父はダビデ。ユダヤの伝承では神から知恵の指輪を授かり、多くの天使や悪魔を使役したとも言われる。イスラム教でも預言者の一人として認められており、アラビア語でスライマーンと呼ばれる。ユダヤ教徒と同様、偉大なる知恵者とし、精霊ジンを操つることが出来たとする。
二つの四行詩
嘗て一つの町があつた、そこの住人たちは詩を熱愛するのあまり、何週間も新しい美しい詩が現れないで過ぎると、かやうな詩の不作を、世の災禍(わざはひ)と見倣したほどであつた。
かやうな時には、彼らは最も醜い着物を着て頭に灰をふりかけ、群(むれ)をなして廣場に集まり、淚を流して、彼らを見すてた詩神(ミユーズ)に酷く苦情を竝べるのであつた。
或る、かうした不幸な日に、若い詩人のユニウスは、悲嘆に暮れた群集の押し合ひへし合ひしてゐる廣場へやつて來た。
彼は急ぎ足で特に設られた高壇(アンボン)に登り、詩を朗讀したいとの合圖をした。
係の者は直ちに笏杖を振りだした、「しつ! 謹聽!」と彼らは聲高く叫んだ。群集は片唾を呑んで靜まりかへつた。
「友よ! 同志よ!」とユニウスは高い、しかも、あまりしつかりしない聲で始めた。
友よ! 同志よ 詩を愛する者よ!
階調あるもの、美しきもの、すべてを崇むる者よ!
しまらくも暗き憂愁に心を惱まさるることのなからむことを!
待ちあぐみたる時の來りて、……光は闇を逐ひやらむ。
ユニウスは口を噤んだ、……すると彼に應へて、廣場の四方八方から、ざわめきや、口笛や哄笑がわきあがつた。
彼に對(むか)つた顏といふ顏は、憤怒に燃え、眼といふ眼は憤怒にかがやき、手といふ手は擧げられて、威嚇の拳を握つてゐた。
「こんな詩でおどかさうつてつもりなのか!」と憤怒の聲が怒號した、「高壇(アンボン)からあのくだらないへぼ詩人を引きずり下せ! 馬鹿者を引つこませろ! このたはけ者を腐れ林檎と腐れ玉子でやつつけろ! おうい、石を取つてくれ! 石をこつちへ!」
ユニウスは獨樂のやうにすばやく高壇を滑り落ちて行つた……。けれど自分の家へまだ辿り着かないうちに、熱狂した拍手喝釆や讚美の聲や、叫びごゑを耳にした。
疑惑の念にみたされて、ユニウスは、人に氣づかれないやうに氣をつけて(荒れ狂つた獸を怒らすのは危險なので)廣場へと引きかへして來た。
さて、彼は何を見たであらう?
群集の頭上高く、彼らの肩の上に、黃金の平たい楯に乘つて、紫袍をまとひ、うちなびく髮に月桂冠をいただいて立つてゐたのは、まぎれもない彼の競爭者、若い詩人ユリウスであつたのだ……。周圍の群集は叫び立てた、「萬歲! 萬歲! 不滅のユリウス萬歲! 彼こそわれわれの悲しみを、われわれの大いなる苦惱をやはらげてくれたのだ! 彼は蜜よりも甘く、鐃鈸(ねうばち)よりも響よく、薔薇(うばら)の花より香はしく、蒼穹(あをぞら)よりも淸らかな詩を與へてくれたのだ! 彼を華々しく連れて行つて、秀靈な頭に香(かう)のやはらかな波を注ぎかけ、棕櫚の小枝でしづかに彼の額を煽ぎ、足もとにはアラビヤのあらゆる沒藥(もつやく)の香りをふり撒いてやるがいい! 萬歲!」
ユニウスは讚美の聲をあげてゐる一人の方へ近づいて行つた。「おお、ここな市民のお方、私に聞かして下さい! ユリウスは一體、どんな詩であなた方を喜ばしたのでせう! 残念ながら詩を讀んだ時、私は廣場に居合はさなかつたのです。覺えておいででしたら、もう一度、聞かして下さい、どうぞお願ひです。」
「あんな詩が、どうして忘られるもんですか?」と訊ねられた男は力んで答へた、「僕をどんな人間だと思つてるんです? まあ聞いて、喜びなさい、僕らと一緒に!
『詩を愛する者よ』と神のやうなユリウスは始めたのです……
詩を愛する者よ、同志よ。友よ
階調あり、調べ妙なる、優雅なるもの、すべてを崇むる者よ!
しまらくの重き悲嘆(なげき)に心を惱まさるることのなからむことを!
待ちあぐみたる時の來りて、晝は夜をば逐ひやらむ!
どうです?」
「冗談ぢやない」とユニウスは叫んだ、「それは僕の詩ぢやないか! きつとユリウスは僕が詩を讀んだ時、群集の中に居つたに違ひない。奴はそれを聽いてゐて、もう勿論、よくはならないが、言ひまはしを少しばかり變へて、繰り返したんだ!」
「ははあ、それで君の正體がわかつた……君はユニウスだな!」と彼が呼びとめた市民は眉を顰めて言つた、「嫉妬深い奴だな、でなきや大馬鹿だ!……さもしい奴、まあ、ちよいと考へて見ろ! ユリウスの方がどんなに高尚にいつたか、『晝は夜をば逐ひやらむ!』君の方は何てえたは言だ、『光は闇を逐ひやらむ』だなんて!? どんな光がだ!? どんな闇をだ!?」
「けど、それは全く同じぢやありませんか?」とユニウスは言ひかけた……
「さあ、もう一言(こと)ぬかして見ろ、」と市民は遮つた、「俺はみんな呼ぶぞ! さうしたら、手前を八つ裂にしちやふだらう!」
ユニウスは賢明にも默つてしまつた。すると彼の話を聽いてゐた白髮の老人が、哀れな詩人のところへやつて來て、彼の肩に手を置いて、口をひらいた。
「ユニウス! 君は自分自身のものを歌つた。けれど時機に合はなかつた。彼(あれ)は自分自身のものを歌つたわけではない。――しかも時機に合つてゐた。だから彼(あれ)はよかつたのだ! 君には、その代りに自分自身の良心の慰安(なぐさめ)が殘つてゐる筈だ。」
然し、良心が全力を傾けて、――實をいへば、極めて覺束なかつたが――わきへ押しのけられてゐるユニウスを慰めてゐる時に――はるか遠く、狂喜の拍手喝釆を浴びて誇りかな太陽の金粉(きん)のやうな光に包まれ、紫金に輝き、ゆたかな香のにほひの漂ふ中を月桂冠に面を翳らし、玉位に登る皇帝のやうに、重々しげに、しづしづと、誇らしげに身を正したユニウスの姿は動いて行つた……。棕櫚の長い枝は、つぎつぎに彼の前に傾けられた。恰も彼に魅了されてゐる市民の心を充し、絕えず新しくわきあがつて來る讚仰の情(こころ)を、靜かにあげられ、愼ましやかに下される棕櫚の枝があらはしてでもゐるかのやうに!
一八七八年四月
□やぶちゃん注
◎挿入されるユニウスとユリウスの詩は底本では全体が三字下げのポイント落ちであるが、ポイントはそのままとした。
◎ユニウス:原文“Юний”。これはラテン語の“Junius”で、これは恐らく実在した古代ローマの風刺詩人・弁護士であったデキムス・ユニウス・ユウェナリスDecimus Junius Juvenalis(50年?~130年?)がモデルであろう。暴虐であったローマ帝国第11代皇帝ティトゥス・フラウィウス・ドミティアヌスTitus Flavius Domitianus(51年~ 96年)治下の荒廃した世相を痛烈に揶揄した詩を書き、「健全なる精神は健全なる身体に宿る」の格言で有名な詩人である(但し、この格言は誤解されており、ユウェナリス自身の謂いは腐敗した政治の中で堕落した生活を貪る不健全な人(=肉体)に対して健全な魂と批判精神を望むものであったことは、あまり知られていない)。ちなみに彼は「資本論」にも言及されている。
◎高壇(アンボン):原文“амвона”であるが私の露和辞典には所収せず、ラテン語辞典を調べても類似した単語は見当たらなかったが、ネットの機械英訳にかけると“pulpit”と訳され、これは(教会の)説教壇の言いである。そこで英語の辞書を見ると、“ambo”という単語があり、初期キリスト教会等の説教壇、アンボ、朗読台と言った訳が見出せた。英語の場合、発音から言えば、「アンボウ」か「アンボ」と表記するのが正しい。
◎しまらくも暗き憂愁に心を惱まさるることのなからむことを!:友人が本底本に先行する昭和21(1946)年八雲書店版(但し、これは完全な同一稿ではなく、表記に微妙な違いはある)で確認をしてくれたところ、この「憂愁」には「憂愁(うれひ)」というルビが振られている。これは後のユリウスの詩の「悲嘆(なげき)」に美事に対応するものであり、ルビがある方がよいと思われる。なお、「しまらく」は「暫く」の上代語である。
◎ユリウス:原文“Юлий”これはラテン語の“Julius”で、ローマ人にはありがち名であり、私は特定人物ではなく、「ユニウス」の詩の剽窃をする者としての剽窃された名と捉えている。
◎残念ながら詩を讀んだ時、私は廣場に居合はさなかつたのです。:底本では「私は廣場に居合はさかつたのです。」とあるが、友人が本底本に先行する昭和21(1946)年八雲書店版(但し、これは完全な同一稿ではなく、表記に微妙な違いはある)で確認をしてくれ、「な」があることを確認したので、脱字と考え補った。
◎彼は自分自身のものを歌つたわけではない。――しかも時機に合つてゐた。だから彼はよかつたのだ!:この「しかも」という接続詞は意味深長である。「しかも」という接続詞は順接にも逆接にも用いるので、私はこれを誤りだと言っているのではない、よく考えると、この「漁父之辞」の老荘的思想の持ち主を髣髴とさせる老人は「ユリウスは時機に合った、自分の詩ではない他人の詩を歌ったからこそよかったのだ!」という謂いで解いているのではなかろうかということなのである。真実の自分の心の叫びでは「時機に合う」ことは実は不可能なのだ、という深遠な真理を語りかけているようにも見えはしないか?
◎愼ましやかに下される棕櫚の枝があらはしてでもゐるかのやうに!:私の底本では、最後の句点は見えない(紙を透かしたりして検鏡して見たが、印字が擦れた跡も見られない)。原文では“то непрестанно возобновлявшееся обожание, которое переполняло сердца
очарованных им сограждан! ”で、感嘆符がある。従って、もともと句点がなかったとも、句点または感嘆符があったが植字で脱落したともとれる。原文に忠実な中山氏の習慣から言えば「!」の脱落と普通には考えられる。句点を打たない断ち切れたような感じもユニウスの絶望の表現として捨て難いが、中山氏は「散文詩」の他でそのような手法を取ってはいない。友人が本底本に先行する昭和21(1946)年八雲書店版(但し、これは完全な同一稿ではなく、表記に微妙な違いはある)で確認をしてくれ、「!」があることを確認したので、ここは中山氏の原文忠実主義を尊重し、底本にない「!」を附した。
雀
私は獵から歸つて、庭園(には)の竝木道を步いてゐた。すると、私の前を犬が騙けて行つた。
ふと、犬は刻み足になつて、恰も野禽(とり)を嗅ぎつけたかのやうに忍び足し始めるのであつた。
私は竝木道づたひに、ずつと眼を配つて見た。そして、まだ嘴のあたりの黃いろい、頭に絨毛(ふふげ)の生えた一羽の仔雀を見つけた。仔雀は巢から落ちて(風はひどく竝木道の白樺をゆすぶつてゐた)やつと生え出したばかりの翼を、たよりなげに擴げたまま、じつとしてゐた。
犬は静かに仔雀に近づいて行つた、急に近くの樹から、すばやく胸の黑い親雀が、飛礫(つぶて)のやうに犬の鼻先へ飛び下りて來た。絕望の餘り、全身、羽毛を逆立ててしどけなく、哀れげに啼きさけびながら、犬の大きな齒を覗かせて、開いた口に二度ほども飛びかかつた。
親雀は仔雀を助けようと、身をもつて庇ふのであつた、けれど小さな全身が恐怖にわななき、聲は亂れ、嗄れて、たうとう氣絕してしまつた。彼は身を犠牲(いけにへ)にしたのである。
彼の眼には、犬がどんなにか大きな怪物に見えたにちがひない! しかもなほ彼は安らかな枝の上に止まつてゐることができなかつたのである……。意思よりも强い愛の力が枝から飛び下りさせたのであつた。
私のトレゾル(犬の名)はじつと立ちどまつて、後退りした。……犬もまたこの力を認めたものと見える。
私は急いで、うろたへてゐる犬を呼び戻し、敬虔の念にうたれながら立ち去つた。さうだ。笑つてはいけない。私はあの小さな悲壯な小鳥に對して、小鳥の愛の衝動に對して、尊敬の念を懷いたのである。
私は考へた、愛は死よりも、死の恐怖よりも强いと。それによつてのみ、愛によつてのみ、生活は保たれ、おし進められて行くものであると。
一八七八年四月
髑髏
豪華な、燦爛たる廣間。紳士淑女、大勢。
顏といふ顏は生氣にあふれ談話(はなし)ははずんでゐる……。ある有名な歌姫のことが賑やかな話題に上つてゐる。彼らは神のやうな女、不朽の女だと讚へてゐる……。ああ、昨日は何てすばらしく、最後の顫音(トレモロ)をやつてのけたことであらう!
すると、不意に――魔法使の笏杖(つゑ)の指圖によるかのやうに――誰もの頭から、誰もの顏から、薄い皮膚が滑り落ちて、――忽ちにして蒼白い髑髏があらはれ、あらはになつた歯齦(はぐき)や顴骨(ほほぼね)が靑味を帶びた錫のやうにきらめいた。
恐怖の念を懷きながら、私は歯齦(はぐき)や顴骨(ほほぼね)の動くのを見た、――洋燈や蠟燭の光に、節くれだつた骨の球が、かがやきながらぐるぐる廻るのを、またその球のなかに別の一そう小さな球の――譯のわからない眼球の廻るのを見た。
私は敢へて自分の顏に觸れまいとし、鏡の中に自分の姿を覗くまいとしてゐた。
しかも、髑髏は、やはりぐるぐる廻つてゐた……。そして前のやうな騒ぎをし、剥き出された歯の間から、紅い端布(はしぎれ)のやうに、舌をちらちらと覗かせて、早口に、ぼんやりと、あの不朽の……さうだ、あの不朽の歌姫はなんてすばらしく、なんて及びもつかぬばかりに最後の顫音(トレモロ)をやつてのけたのだらうと語つてゐるのであつた。
一八七八年四月
雜役夫と白い手の人
會話
雜役夫 何だつて手前(てめえ)は俺(おい)らんとこへ出しやばりやがるんだ。何の用があるんだ。お前(めえ)は俺らの仲間ぢやねえんだ……あつちへ行け!
白い手の人 兄弟、俺あ、君らの仲間なんだよ。
雜役夫 とんでもねえ! 仲間だつて! 何をぬかすんだ! まあ、俺の手を見ろ、どうだ、穢ねえだらう。肥料(こえ)の匂ひだの、煙脂(タール)の匂ひがすらあね――ところが、お前(めえ)の手は眞白だ。一體、何の匂ひがする?
白い手の人 (手を差し出して) 嗅いで見てくれ。
雜役夫 (その手を嗅いで)こりや何事だ? 鐵みてえな匂ひがする。
白い手の人 うん、鐵なんだ。俺はまる六年といふもの、手錠嵌めてたんだ。
雜役夫 そりやまたどうして?
白い手の人 なあに、君らの幸福を案じたのさ、君たち、當り前(めえ)の、なんにも知らねえ人間を自由にしてやりたいと思つて、君たちを壓迫してゐる奴らに逆つて、謀反をしたんだ、……すると奴ども、俺をぶち込みやがつたのさ。
雜役夫 ぶち込みやがつたつて? またよくも臆面もなく、謀反ができたもんだな!
(二年の後)
同じ雜役夫 (別の雜役夫に向つて)おうい、ピョートル、一昨年(をととし)の夏、手前(てめえ)と話をした生白い手の奴を覺えてゐるかい?
別の雜役夫 覺えてるよ、それがどうした?
第一の雜役夫 あのなあ、あの野郎が今日、首を絞められるつてことよ。さういふお布令だ。
第二の雜役夫 やつぱり謀反をしたんだな?
第一の雜役夫 謀反をしたんだ、やつぱり。
第二の雜役夫 成程……ところで、おい、ミイ公、野郎を絞める繩の切れつ端は取れめえかな? 何でもそいつを持つてると、家(うち)へどえれい福が舞ひこむつていふぜ。
第一の雜役夫 そりやあ、全くだ。ひとつやつて見なくちやなんねえ、なあ、ピョートル。
一八七八年四月
[やぶちゃん注:人物見出しは底本ではすべてややポイント落ちである。なお、終局で、絞首刑の繩の話が出てくるが、之は勿論、古い民俗的な迷信を皮肉に用いたのであって、私は本作を読むと自然、処刑される革命家の人肉饅頭を食べさせられる肺病病みの少年を描いた魯迅の「薬」が思い出されてならない。本誌はサブタイトルを持つが、複数の他篇が「雜役夫と白い手の人」のタイトルのもとに存在した可能性を窺わせる。]
薔薇
八月の末つ方、……秋はもう近づいてゐた。太陽は沈んだ。はげしい夕立が、雷鳴も電光(いなびかり)も伴はず、この曠野を今しも過ぎて行つたばかりである。
家の前の庭園(には)は、空をも焦す夕映えの光と、あふれるやうな雨水にすつかり浸されて、燃えかがやき、うち煙つてゐた。
女は客間の卓子(つくゑ)に向ひ、深い思ひに耽りながら、半ば開かれたドア越しに庭園(には)の方を眺めてゐた。
私はその時、女の心に思つてゐることをよく知つてゐた。女が辛くはあつたが、暫しの間の苦鬪ののち、いまこの刹那に、最早たうてい制御することのできない或る感情に身を任せてゐることをよく知つてゐたのである。
ふと、女は立ち上つて、足早に、庭園(には)に出て行つて、見えなくなつてしまつた。
一時間たち、……また一時間たつた。女は歸つて來なかつた。
そこで、私は立ち上つて、戶外(おもて)に出て、女が通つて行つた――私がたしかにさうだと考へてゐた――竝木道を進んで行つた。
あたりは、すつか暗くなつて、もう夜になつてゐた。けれど道の濕つた砂の上には、ひろがる夕靄の中にさへも、くつきりと紅らむ、圓味を帶びたものが見うけられた。
私は身を屈めた。それは咲き立ての、生(い)き生(い)きした薔薇の花であつた。まぎれもない二時間まへに、女の胸に見たあの薔薇の花であつた。私はそつと泥濘(ぬかるみ)に落ちてゐた花を拾ひ上げて、客間に引き返し、それを女の椅子の前の卓子(つくゑ)のうへに置いた。
すると、たうとう女も歸つて來た。輕い足どりで部屋をぐるりとめぐつて、卓子(つくゑ)に向つて腰をおろした。
女の顏は一そう蒼く、また一そう生き生きしてゐた。嬉しさにどぎまぎして、伏目がちに、いくらか前より小さく見える眼は、さつとあたりに注がれた。
女は薔薇の花を見ると取り上げて、揉みくしやになつて、汚れた花びらを眺め、私を眺めるのであつた。その眼は急にじつと据わり、淚に輝いた。
「何をあなたは泣くのです?」と私は訊いた。
「あの、……この薔薇をごらんなさいな、こんなになつてしまひましたわ。」
そこで私は深刻なことを言はうと考へた。
「あなたの淚は、その泥を洗ひませう。」と私は意味ありげな言ひまはしで言つた。
「淚は洗ひはしませんわ、淚は燒いちまひますわ。」と女はかう答へて、煖爐の方をふり向くと、消えかかつてゐる焰の中に薔薇の花を投げこんだ。
「火は淚よりもよく燒いちまひますわね。」と彼女はきつぱりと叫んだ。まだ淚に輝いてゐる美しい眼は、憚ることなく、幸福さうに笑ふのであつた。
私は女もまた、すつかり燒き滅ぼされてゐたのだといふことを悟つたのである。
一八七人年四月
最後の會見
嘗て私たちは極めて親しい、隔てのない友達であつた……。けれど面白くないことがあつて、私たちは怨敵(かたき)同志となつて別れてしまつた。
幾年かは過ぎた。或る時、彼の住んでゐる町へ來て、私は彼が病篤(あつ)く私に會ひたがつてゐるといふことを耳にした。
私は彼の許を訪れて、彼の部屋に通つた……。二人の視線は落ち合つた。
私はやつと彼の顏がわかつたのであつた。ああ! 病氣のために見る影もなくなつてゐるのだ!
黃色く、やせ衰へ、頭はすつかり禿げてしまひ、白い髯を細々とのばした彼は、一枚の特に仕立てた襯衣(したぎ)を着て坐つてゐた。彼は極めて輕い着物の重味にすらも堪へられなかつたのである。彼は嚙み減らされたやうにひどく瘦せた手を劇しく私に差しのべて、辛うじて二言(こと)三言(こと)、わけのわからぬことを呟いた、――それは挨拶であつたのか、それとも非難であつたのか――誰が知らう。疲憊した胸は波うち――血走つた眼の、縮んだ瞳は、二しづくの、ほんのしるしばかりの痛々しい淚がこぼれてゐた。私の心は沈んだ……。私は傍の椅子に腰をかけて、怖ろしい、見苦しい姿を前にして、心ならずも眼を落しながら、同じやうに手を差し出した。
二人の間には背の高い、物ごしの静かな、白い女が坐つてゐるやうに思はれた。長い覆布(おほひ)が彼女の頭の先から爪先まで纏(つつ)んでゐる。その深い蒼ざめた眼はどこを見てゐるともなく、蒼白い引き締つた脣は一言(こと)も物をいはない……。
この女が私たち二人の手を繋いだのである……。この女が私たち二人を永遠に和解させたのである。
さうだ……。死が私たち二人を和解させたのだ。
一八七八年四月
■訳者中山省三郎氏による「註」
・最後の會見:ここで「嘗ての友達」といつてゐるのは、有名な民衆詩人ネクラーソフ(一八二一-七七)のことであつて、彼はツルゲーネフの長年の發表機關であつた雜誌「現代人」の主幹で、一八五〇年代に同誌の編輯に參加したチェルヌィシェフキイに對するツルゲーネフの反感、同じくドブロリューボフとの反目、一八六〇年同誌に掲げられた「その前夜」についてのドブロリューボフの批評に對する忿懣、さては一八六二年、長篇「父と子」を「現代人」ならぬ「ロシヤ報知」に發表したこと、この小説によってまき起された事件等によつて、二人は絶交したのであつた。然るに、この頃から、十年、十五年の月日が經つて、一八七七年の五月下旬、パリからペテルブルグに歸つたツルゲーネフは雙方の友人の斡旋によつて、病篤きネクラーソフを見舞つたのであつた。そのときの情景をネクラーソフ未亡人は次のやうに記してゐる。
「死ぬまへ幾許もない時に、二人はめぐり會ふ運命にあつたのです。ツルゲーネフは二人の共通の知人から、良人が不治の病床にあると聞いて、良人に會つて、和解をしようと希望されました。しかし、良人はあまりにも衰弱してゐましたから、うまくお膳立てをしてからでないと、お通し申すことが出來ません。ツルゲーネフは宅へいらして、もうまへの控室にお待ちでした。で、私が良人にむかつて『ツルゲーネフさんがあなたにお會ひしたいさうですよ』と申しましたら、良人は悲痛な笑ひ方をして『やつて來て、おれがどんな風になつたか見て貰はう』と答へました。そこで私が寢卷を着せて、もう自分では步けませんでしたから――肩を貸して、寢室から食堂に連れ出しました。良人はテーブルについて、ビフテキの汁をすすりました、――その頃はもう固形物はとれなかつたのです。良人はやせて、血の氣もなく、衰へて、――見るも怖ろしいほどでした。私は窓の外を覗いて丁度そこへツルゲーネフが見えたかのやうな振りをして申しました、『さあ、ツルゲーネフさんがいらつしやいましたよ』と。それから暫くすると、背が高くて、風采の立派なツルゲーネフはシルクハットを手にして、控室に隣つてゐる食堂の戶口にあらはれました。が、良人の顏を覗いたかと思ふと、さすがに驚いた樣子をして、固くなつてしまひました。一方、良人はと見ると、その顏は苦しさうな痙攣が通り過ぎて、いひ知れぬ心の激動と鬪ふ力もなくなつたやうに見えました……。彼はやせ細つた手をあげて、ツルゲーネフの方に別れの身振りをしましたが、良人はツルゲーネフに對して、どうしても話をする元氣がないと言ひたさうな樣子でした……。ツルゲーネフの顏もやはり興奮に歪んで居りましたが、彼は良人の方へ祝福の十字を切つて、そのまま戶口の方へ消えて行きました。この會見のあひだ、ひと言も二人の口にのぼりませんでしたが、二人ともその胸中はどんなであつたでせう。」
この場合ネクラーソフが手をあげたのは、生理的にもはや話など出來ぬといふことを示すのか、或は不可能といふのではなく、「話したくない」の意味か……と或るジャーナリストがネクラーソフ未亡人に向つて愚かしい質問を投げたとき、暫く默想の後、やはり衰弱の極に達してゐたので、ああいふ仕草によつて別れの言葉を述べたのです、と未亡人が嚴然と答へたのは三十數年後の一九一四年であつた(エヴゲーニェフ・マクシモフの「ネクラーソフと同時代人」による)。[やぶちゃん補注:文中、底本では「その頃はもう固形物はとれなかたのです」「彼はやせ細つて手をあげて」「エヴゲーニュフ」とあるが、先行する昭和21(1946)年八雲書店版との対比によって誤植と判断されるので、それぞれ「その頃はもう固形物はとれなかつたのです」「彼はやせ細つた手をあげて」「エヴゲーニェフ」と訂正した。]
閾
夢
私は巨きな建物を見る。
前の壁には、狹い扉が開け放してある。なかには陰氣な靄がこめてゐる。高い閾の前には娘が立つてゐる……。ロシヤの娘。
さきも見えぬ靄は嚴しい寒さを感じさせ、凍みつくやうな寒い空氣の流れとともに、建物の奥からは、ゆるやかな、幽かなこゑが聞えて來る。
「ああ、おまへ、どうしてこの閾を跨がうとしてゐるの、何がおまへを待ちうけてゐるか、知つてゐるのかい?」
「知つてますよ。」と娘は答へる。
「寒さ、饑ゑ、憎しみ、嘲笑(あざわら)ひ、嫌惡、辱しめ、牢獄、病患(わづらひ)、死そのもの?」
「知つてますよ。」
「遠離、全くの孤獨が?」
「よく知つてますの。心を決めてゐますの。わたしはどんな打擊もみんな忍びますわ。」
「敵からばかりでなく、肉身からも、友だちからも離れる?」
「ええ、みんなから。」
「よろしい。犠牲にならうとしてゐるんだね。」
「さうです。」
「何の名もない犠牲にか? おまへは滅びるんだよ、――滅んだら最後、誰一人として、何者の記念として崇めたらよいのか知りもしないだらう。」
「私に感謝だの、憐れみだのつて要りませんわ、私には名も要らないんです。」
「おまへは罪を犯さうとしてゐるのかね?」
娘はうなづいた、――「罪をも覺悟してゐますの。」
もう彼の聲は直ぐに新しい問ひを發することができなかつた。
「おまへは知つてるのかね、」と彼はたうとう言ひ出した、「いま信じてゐるものを、信じないやうになる時があること、おまへが瞞されて、若い日をつまらなく過ごしてしまつたことを悟れる時の來ることを。」
「それは知つてますの、わたしはそれでもやつぱり入りたいんです。」
「入るがいい。」
娘は閾を跨いで行つた、――すると後から重たい幕が下りた。
「腑抜け奴(め)!」と誰かが後で齒ぎしりした。
「聖女だ!」どこからか應答(こたへ)が聞えて來た。
一八七八年五月
■訳者中山省三郎氏による「註」
・閾:この詩は多くの刊本に加へられなかつた。この詩には直接にはヴェーラ・ザスーリッチの訴訟事件、間接には一八七七年に起つたさまざまな政治犯事件に、女性がかなり活潑な役割を演じた事などがモチーフをなしてゐるのである。この詩は作者によつて一八八二年の夏、「ヨーロッパ報知」の編輯者たるスタシュレーヰッチに送られたが、後に作者の再三の要請によつて、省略されたのであつた。然るに、ツルゲーネフの死後いくばくもない一八八三年九月二十五日に急進黨たる「人民の意志」派によつて、宣言書と共に秘密に出版され、翌々二十八日、彼の埋葬の日に撒布された。やがて、ロシヤにおいて合法的に發表されたのは一九〇五年のことであつた。
□やぶちゃん注
◎1958年岩波文庫刊の神西清・池田 健太郎訳「散文詩」の当該詩の注が、この詩の数奇な運命をより細かに伝えていた。但し、私は当該書を友人に贈与してしまっており、現在所持していない。幸い、以下(http://d.hatena.ne.jp/flagburner/20080718)の個人の方のブログに要約(引用風に囲み罫線があるが、「で、『しきい』の発表過程は、岩波文庫版 P.196 の注によるとこんな感じ。」という枕、記号や「元ネタママ」の用語から見ても引用ではない)があるので、この方のものをそのまま孫引きする(正しくは当該書をお読み頂きたい。なお改行は省略した)。『この一編のモチーフとしては、直接にはいわゆる『ヴェーラ・ザスーリチ事件』(彼女は一八五一年生まれの女革命家で、警視総監トレホフがある政治犯に咎刑を加えたのを憤って一八七八年一月、彼を射撃負傷せしめ、同三月の陪審裁判の結果、無罪となった--)、間接には七七年に起こった種々の政治犯事件に女性の参加が顕著であった事実などであろうと推定される。したがってこの一編が公に発表されるまでには長い曲折の歴史がある。一八八二年夏ツルゲーネフが、『ヨーロッパ報知』の編集者あてに発送した原稿の中には加わっていたのだが、そののち校正の際に彼は自発的に撤回しようとし、スタシュレーヴィチに向ってたびたび撤回方を要請した末、発表された五十編は、これを除き新たに『処生訓(元ネタママ)』を加えたものであった。超えて八三年九月、すなわち彼の死の直後に、当時の急進派であった『民衆の意思党』は、この詩に宣言書を付して秘密出版し、彼の埋葬の日にペテルブルグに撤布した。この詩がようやく合法的に日の目を見たのは一九〇五年である。なおこの一遍は久しく一八八一年前年の諸作と誤認されていたもので、在来の刊本はいずれもこれをのちの『祈り』の前においている。また上述の数奇な運命を經る前に、これは少なからぬヴァリアントを生じたが、アカデミア版の編者の言葉を借りれば、この訳のテキストとした形が、作者の最後の意思に叶うものと思われる。』なお、この解説が言うところの「誤認」による誤った配置は中山氏版では補正されている。但し、最後の「この訳のテキストとした形」が中山氏が底本としたものと同一であるかどうかは不明であるので、該当書を必ず参照されたい。また、本誌はサブタイトルを持つが、もしかすると複数の他篇が「閾」のタイトルのもとに存在した可能性を窺わせる。
おとづれ
私は開け放した窓のほとりに坐つてゐた……。朝、五月一日の朝まだきである。
曙の光は未だあらはれてはゐなかつた、けれど、もう、暗い、溫かな夜は白んでうそ寒くなつてゐた。
霧はあがらず、そよとの風も吹かず、あらゆるものは、ただ一樣に靜まりかへつてゐた……しかも、やがて眼覺めて來ることが感じられた。稀薄な空氣に、はげしい露じめりの匂ひがしてゐた。
ふと、開(あ)け放(はな)つた窓から、大きな鳥が輕い羽音をたてて、私の部屋に飛び込んで來た。
私は身ぶるひして、じつと眼をこらした、……それは鳥ではなかつた。身にぴつたりついた、長い、裾に行くにしたがつて波のやうにやはらかな着物を着た、翼のある小さな女であつた。
彼女はすつかり灰色で、眞珠のやうな色をしてゐた。ただ翼の内側ばかりが、咲きそめた薔薇の葩(はな)のやはらかな紅を帶てゐた。鈴蘭の花冕(かむり)は、圓い顏の、うち亂れた捲毛をおし包んでゐた。蝶の觸角のやうに、二つの孔雀の羽根が、美しい隆顙(ひたひ)の上に、たのしげに搖れてゐた。
彼女は天井の下を二度ほど飛びまはつた。極めて小さな顏は笑つてゐた。大きな黑い明るい眼も笑つてゐた。
氣儘に飛んで、戲れるので、彼女の眼は金剛石のやうに輝いた。
彼女は曠野の花の長い莖を手にしてゐた。ロシヤの人たちが、玉笏草と呼ぶもので、たしかに笏杖に似通つてゐた。
すばやく私の上を飛びながら、彼女はその花で私の頭に觸つた。
私は彼女の方へ身を寄せた……が、彼女はもう窓から飛び出して、また翔んで行つてしまつた。
庭園(には)の紫丁香花(むらさきはしどい)の花の繁みの中では、數珠掛鳩が、一日のはじめの鳴聲をたてて、彼女を迎へてゐた……。彼女の消えたあたりに、乳白色の空は、しづかに紅らみはじめてゐた。
私は御身を知つてゐる、空想(フアンターヂー)の女神よ! 御身はゆくりなくも私を訪れてくれた。御身は若い詩人たちのもとへ飛び去つて行つた。
ああ、詩よ! 靑春よ! 女性の、純潔の美よ! 御身たちは、ただひととき私の前に、――早春の朝まだきに輝くだけである。
一八七八年五月
□やぶちゃん注
◎花冕:「冕」は音「ベン」で、本来は中国の天子から大夫迄の上位の高官の用いる、板と旒(りゅう:垂れ下げた飾り玉)からなる礼装用の冠を言う語。
◎玉笏草:「ぎょくしゃくそう」と読んでいるのであろう。原文は“царским жезлом”で、“царским”は「ツアーリの」の原義から「豪勢な」の謂いで、“жезл”は権力や職権を表わす笏杖のことである。これは先行する神西清訳の「散文詩」の注で Verbascum thapus であることが明らかにされている。これはシソ目ゴマノハグサ科モウズイカ(毛蕋花)属ビロードモウズイカの学名である。名称はこの植物の毛深さに由来する(以下のリンク先の写真を参照)。ウィキの「ビロードモウズイカ」によれば、『ヨーロッパおよび北アフリカとアジアに原産するゴマノハグサ科モウズイカ属の植物である。アメリカとオーストラリア、日本にも帰化している』とあり、本種を杖に譬えた各国の名称は枚挙に遑がないとある。
◎紫丁香花:ムラサキハシドイはモクセイ目モクセイ科ハシドイ属ライラックSyringa vulgarisの標準和名。花言葉には青春の思い出・純潔・初恋等があり、確信犯の描写であろう。
◎數珠掛鳩:ハト目ハト科ジュズカケバトStreptopelia roseogrisea var. domestica。白色のものは手品等でお馴染みである。
NECESSITAS,VIS,LIBERTAS
淺浮彫
鐵のやうな顏をして、じつと鈍い眼つきをした、背の高い、骨ばつた老媼(おうな)が、大股に步いて、枯枝のやうにやせがれた腕で、一人の女を自分の前に押し出してゐる。
この女は――かなり大きな身體(からだ)をして、力が强く、肥つてゐて、ヘラクレスのやうな筋肉(にくづき)をして、牡牛のやうな頸に、小ちやい頭が載つてゐて、――眼は見えず、――やはり、小さい瘦せた女の兒を押し出してゐる。
この女の兒だけは眼が見える。彼女は突張つて、うしろを振り返り、かぼそい綺麗な手をふりあげてゐる。その生き生きとした顏は、性急さと大膽さとをあらはしてゐる……。彼女は從ふまいとしてゐる。彼女は押しやられる方へ行くまいとしてゐる……。しかもなほ、彼女は行かなければならぬ。
NECESSITAS,VIS,LIBERTAS
氣の向く方(かた)は――譯してみたまへ。
一八七八年五月
■訳者中山省三郎氏による「註」
・NECESSITAS,VIS,LIBERTAS:「必要、力、自由」
□やぶちゃん注
◎NECESSITAS,VIS,LIBERTAS:中山氏はシンプルに上記のように記しているが、この三つの単語には以下のような多様な意味を含んでいる。ツルゲーネフが最後にわざわざ「氣の向く方は――譯してみたまへ。」と言う時、こうしたラテン語の様々な意味を念頭に置いて、そこに多様な網の目のような思索を期待したのではないかと私は思うのである。
“necessitas”①必然(的なこと)、②強制・圧迫、③境遇・立場、④危急・急迫・苦境、⑤繋がり・関係付ける力・情。
“vis”①力・権力・勢力、②活動力・実行力・勇気・精力、③敵意としての武力・攻撃、④暴力・暴行・圧制・圧迫、⑤影響・効果、⑥内容・意義・本質・本性、⑦多量・充満
“libertas”①自由・解放、②自主・独立、③自由の精神・自立心、④公明正大・率直、⑤放縦・自由奔放・拘束のないこと。⑥無賃乗車券。
◎残念ながらこの挿絵は、私の底本では左手の女兒の画像が頗る見え難くなっている。両足は判別できるが、胴から上、特に頭部が不分明である。
施物
或る大きな町の近くの、廣い車道(みち)を病みほうけた老人が步いてゐた。
彼は步きながらよろめくのであつた。彼の瘦せ衰へた足は、絡んだり、引きずつたり、躓いたりしながら、他人(ひと)の足ででもあるかのやうに、重たげに、弱々しげに步いて行くのであつた。着てゐた着物はぼろぼろになつてぶら下り、むき出しの頭は胸のうへに垂れてゐた、……彼は困憊し切つてゐたのである。
彼は、やがて路傍の石に腰をかけて、前かがみになつて、肘をついて、兩手で顏を蔽つた。すると、曲げた指のあひだから淚がこぼれて、乾いた灰色の埃のうへにしたたり落ちるのであつた。……。
彼は思ひ出した……。
嘗て、自分が健康で、裕福であつたこと、また自分が健康を害(そこな)ひ、富を他人(ひと)のために、友達のために、また敵のために頒ち與へてしまつたことを思ひ出したのである……。今は麺麭の一きれさへも持たなかつた。人といふ人は彼を見棄ててしまつてゐた。友達は敵よりさきに見棄ててしまつてゐた……。果して彼は施しを乞ふまでに落魄しなければならないのでらうか? 彼の心の中は辛く、慚かしかつた。
淚はあふれあふれて、灰色の埃を點々と濡らすのであつた。
ふと、誰かが彼の名を呼んでゐるのを耳にした。彼は疲れきつた頭を擧げて、前に見知らぬ人のゐるのを見た。
その顏は落ちついて、どつしりしてゐたが、嚴しくはなかつた。眼は輝いてゐるといふよりは、はつきりした眼であつた。この眼つきは彼を見拔くやうではあつたが、意地の惡いものではなかつた。
「君は財産をすつかり人に頒けてやつてしまつたんだね。」といつたのは抑揚のない聲であつた、「しかし、君は善いことをしたのを、まさか、情(なさけ)ながつてゐるんぢやあるまいね?」
「ゐやしませんよ。」と老人は溜息まじりに答へた、「ただ御覧の通り私はいま死にかかつてゐます。」
「若し世の中に、君に向つて手をのべる乞食がゐなかつたら、」と見知らぬ人は言ひ續けた、「君は誰にも慈悲の心を示してやれなかつただらうよ、慈悲の心を修業することができなかつた譯だね?」
老人はそれに答へず、じつと考へ込んだ。
「まあ、爺さん、だから今はそんなに高ぶらないがいいよ。」と見知らぬ人はまたいひ出した、「行つて手を出し給へ、君も世の中の氣だてのいい人たちに、みんなが善人だつていふことを實際によくあらはす機會を與へるんだね。」
老人は身ぶるひして、眼をあげた……。もう見知らぬ人は消え去つてゐた、――道の遠くの方から、通りがかりの人が見えて來た。
老人はその人の傍へ近づいて、手をさしのべた。この通りがかりの人は、いやな顏をして外(そ)れて行つて、何一つくれはしなかつた。
しかしまた後から一人やつて來た、――その人は老人にほんのわづかばかりの施しをして行つた。
かうして老人は貰つた錢で自分の麺麭を買つた、――乞ひ求めて得た、いささかの食べ物が彼には身、に沁みて美味(うま)く思はれた。そして心に何ひとつ恥づるところもなかつた。むしろ、反つて靜かな歡喜(よろこび)が神の祝福(めぐみ)のやうに、彼の心に浮ぶのであつた。
一八七八年五月
□やぶちゃん注
◎「若し世の中に、君に向つて手をのべる乞食がゐなかつたら、」と見知らぬ人は言ひ續けた、:底本ではこの段落、鍵括弧の上には一字空けがないが、誤植と考えて正した。恐らくはこの行末が「、」で終って版の外に出ており、ここより少し後の部分(次注参照)にも同じ現象が起きており、その句読点の共通性から、ここを一字空けにするとこの読点を更に版の外に出すことが不可能(次行冒頭に読点が行ってしまう)であったからと推測される。
◎「まあ、爺さん、だから今はそんなに高ぶらないいよ。」と見知らぬ人はまたいひ出した、:底本ではこの段落、鍵括弧の上には一字空けがないが、誤植と考えて正した。前注参照。
蟲
私たち二十人ばかりの者が、窓を開け放した大きな部屋に坐つてゐる夢を見た。
中には女も子供も年寄もゐた……。誰もがかなりに評判な或る事柄について談(はな)してゐる……。騒がしく、聞きとれぬやうに談してゐる。
ふつと、はげしいうなりを立てて、長さ三寸ばかりの大きな蟲が部屋へ飛び込んで來た……。飛び込んで來て、くるくると旋(まは)つたかと思ふと、壁にはたととまつた。
それは蠅や胡蜂(きばち)によく似通つてゐた。胴は土灰(つち)色で、平たい硬い翅も同じ色であつた。擴げた毛の生えた脚や、角ばつた大きな頭は蜻蛉などに見られるものであつた。それにこの頭も脚も血に染まつたやうに鮮紅色(まつか)であつた。
この奇しげな蟲は絕えず頭を上に下に、右に左に振つて、脚を動かしてゐた……。やがて、ふつと壁から飛び立ち、うなりをたてて、部屋を飛びめぐり、またとまると、再びその場を離れずに、またもや氣味わるく、いやらしくうごめいてゐた。
それは私たち誰にも、嫌惡や恐怖、あまつさへ戰慄の念をすらも起させるのであつた……。誰一人として私たちの中に、こんなものを見たものはなかつた、みな一齊に大聲をあげた、「この怪物を逐ひ出せ!」そして遠くの方からハンカチを振つてゐた……。一人として敢へて近づいて行かうとするものはなかつた……。蟲が飛び揚ると、みな思はず後ずさりした。
一座のうちでただ一人のまだ若い、蒼い顏した男が、訝しげに私たち一同を見廻した。彼は肩をゆすぶつて、微笑んだ。
彼には、私たちに何ごとが起つたか、どうしてこんなに騒いでゐるのかが、はつきりと呑み込めなかつたのである。彼自身は少しも蟲を見なかつたし、その翼(はね)の不氣味なうなりも聞かなかつた。
不意に、蟲は若者を見据ゑたらしく、飛びあがつて、彼の頭上に身をかがめて、額の、眼のあたりを刺した、……若者は力なく呻いて死んでしまつた。
怖ろしい蠅はすぐに飛び去つて行つた……、私たちはその時はじめて、私たちを訪れたものが何であつたかを悟つたのである。
一八七八年五月
[やぶちゃん注:これは所謂、旧約聖書「列王紀」や新約聖書でイエスを批判する者たちが口にするところの悪魔Beelzebubベルゼブブ、ヘブライ語で「ハエの王」であろう。]
きゃべつ汁
百姓の孀(やもめ)の一人息子で、二十歲になる、村一番の働き手が死んでしまつた。
その村の女地主である奥樣が、百姓女の不幸を聞きつけて、丁度、葬式の日に見舞に行つた。
行つて見ると彼女は家にゐた。
小舍の眞中の食卓の前に立つて、彼女は、ゆつくりと、右手を絕えず同じやうに動かしながら(手は鞭繩のやうに力なく垂れてゐた)、煤けた壺の中から實も入つてゐないきゃべつ汁をすくつては、一匙一匙と呑み込んでゐた。
百姓女の顏は瘦せこけて、黑ずんでゐた。眼は紅く腫れあがつてゐた……。しかも、教會にでもゐる時のやうに、きちんと身じまひを正して、いささかも取りみだしたところがなかつた。
「ああ!」と奥樣は考へた、「あの女は、よくこんな時に物が食べられること。この手合は何てがさつな心を持つてるんだらう!」
そこで奥樣は、自分が數年前に生れて九箇月になる娘を失くした時、悲しみの餘り、ペテルブルグの近くにある立派な別莊を借りることもことわつて、ひと夏を市内で暮したことを思ひ出した! 百姓女は相變らずきゃべつ汁を啜りつづけてゐた。
奥樣はたうとうこらへ切れなくなつた。「タチヤーナ!」と彼女はいつた、「まあ、呆れたもんだねえ! お前は自分の息子が可愛くはなかつたのかい? どうしてお前、物を食べる氣なんかがあるんだらう? きゃべつ汁なんか、どうして食べられるんだらう!」
「うちのワーシャは死んぢまひました、」と百姓女はしづかに語るのやあつた、新たに痛々しい淚が落ち窪んだ頰を傳はつて流れて來た、「ですから、もう私はおしまひなんでございます。もう生きてる空もなくなつてしまひました。けど、スープを無駄にしとく譯には參りませんわ、これにはお鹽が入つとりますから。」
奥樣は、ただ肩をすくめたばかりで、それなり出て行つてしまつた。彼女には鹽など廉く手に入つたからである。
一八七八年五月
■訳者中山省三郎氏による「註」
・鹽:昔のロシヤの大衆の間では、鹽を用ひることが容易でなく、贅澤とされてゐた。[やぶちゃん補注:「用ひる」はママ。]
[やぶちゃん注:本詩は題名のみならず詩中にあっても平仮名書きの「きゃべつ汁」の「きゃべつ」ははっきりすべて拗音表記となっている。中山氏は本文のカタカナの外来語には拗音を用いるので、平仮名表記にしながらも、これを外来語としてそのように表記しているのであろう。恐るべき厳密な仕儀である。なお、「きゃべつ汁なんか、どうして食べられるんだらう!」は底本では「きゃべつ汁なんか、どうして食べられんだらう!」となっているが、脱字と判断して補正した。]
瑠璃色の國
ああ、瑠璃色の國よ! 瑠璃色と光明と、靑春と幸福の國よ! 私はおまへを夢に見た。
私たちは幾人(いくたり)か、美しい飾りをつけた小舟に乘つてゐた。風にたのしく翻(ひるがへ)る旒(はた)のもとに、白帆は白鳥の胸のやうにふくらんでゐた。
仲間が誰であるかは知らない。けれど、彼らが私たちと同じやうに、若い、快活な、惠まれた人たちだとは心の底から感じられた!
それにしても、私は彼らには眼もくれなかつた。ただあたりの金の鱗の漣につつまれた涯(はて)知れぬ瑠璃色の海を眺めるだけであつた。頭上(うへ)にはまたきはまりない瑠璃色の海があつて、その間を誇りかに、笑つてゐるかのやうに、優しい太陽がめぐつてゐた。
私たちの間には時折、神々の笑ひのやうに、よく透る、喜ばしげな笑ひ聲が起つてゐた!
やがて急に、誰かの口から話聲が、不思議な美しさと感激の力にあふれた歌ごゑがわき起つた……。天(そら)も應へてひびき合ひ、……周りの海も心を寄せてふるへたかのやうに思はれた……。しかしまた、そこには泰(やす)らかな靜寂がかへつて來た。
柔らかな波に輕く浮びながら私たちの早舟(はやぶね)は走つて行つた。舟は風に進んで行くのではなく、私たち自身の遊びたはむれる心に導かれてゆくのであつた。舟は私たちの思ふ方へと、まるで生きてでもゐるかのやうに從順(すなほ)に走つて行く。
私たちは島々にやつて來た。靑玉や綠柱石など、寶石の光りかがやく半透明の、不思議な島々であつた。周圍の海邊からは、心を軒醉はすやうな馨(かぐ)はしいにほひがおしよせて來る。或る島は薔薇や鈴蘭の雨を私たちにふりかけ、また或る島々からは不意に虹彩(にじいろ)の長い翼の鳥が舞ひあがつた。
鳥のむれは私たちのうへを飛びめぐり、鈴蘭や薔薇の花は、滑らかな舷を滑る眞珠のやうな泡抹(あわ)の中に解けて行つた。
花の芬香(にほひ)や鳥の歌聲とともに、蜜のやうに甘い、甘い調べが聞えて來た……。中には女の聲も聞える、……あたりのものは、何もかも――空も海も、高くゆらぐ帆も、艫(とも)のあたりにざわめき立つ水の流れも――すべてが戀を語り、めぐまれた戀を語つてゐた。
私たち誰もが戀してゐた女(ひと)も――その女(ひと)もまた、其處に……眼には見えず、間近にゐたのだ。いまひと時――いまひと時すれば、彼女の眼は輝き、彼女の頰は花のやうに微笑にかがやくことであらう……。彼女の手はお前の手をとり、お前はとこしへに花咲き誇る天國へと導いて行くことであらう!
ああ、瑠璃色の國よ、私はおまへを夢に見た。
一八七八年六月
[やぶちゃん注:「滑らかな舷を滑る」は「滑らかな舷(ふなばた)を滑る」と読みたい。]
二人の富豪
莫大な收入の中から兒童の教育、病者の治療、老人の保護のために巨萬の金を頒かつてゐる富豪ロスチャイルドのことを、私の傍で、人が賞めそやす時、私もまた讚歎し、感動する。
しかし、讚歎し、感動しながらも、私は孤兒(みなしご)の姪を、零落したあばらやに引き取つた、或る貧しい百姓一家のことを想ひ起さないわけには行かない。
「若しもカーチカを引き取つたら、」と婆さんはいつた、「私たちは彼女(あれ)のために一文無しになつて、鹽を手に入れる代もなくなるでせう、お汁(つゆ)に鹽味(あぢ)をつけることだつてできなくなることでせうし……」
「でも、あの娘(こ)を、……いいやな、鹽味(あぢ)なんざつけなくたつて。」と亭主の百姓は答へた。
ロスチャイルドも遠くこの百姓には及ばない!
一八七八年六月
□やぶちゃん注
◎頒かつてゐる:「頒(わ)かつてゐる」と読む。分け与えるの意。
◎富豪ロスチャイルド:Rothschildはユダヤ系金融業者の一族。イギリス最大の富豪。始祖マイヤー・アムシェル・ロートシルト(ロスチャイルドのドイツ語読み)Meyer Amschel Rothschild(1744~1812)がフランクフルトで金融業によって財産の基礎を形成し、その子の代でイギリス・フランス・イタリア・ドイツ・オーストリア等ヨーロッパ各国にロスチャイルド財団を形成した(イギリスでは孫の代に貴族に列している)。フランスではマイヤーの息子ジェームスが鉄道事業に着目して、パリ~ブリュッセル間の北東鉄道を中心に事業を拡大し、本詩が書かれた数年前(1870年)には、ロスチャイルド銀行による財政難のバチカンへの資金援助が行われる等、金融支配を固めた。ロシアへは日露戦争前後に於ける石油開発の投資でも知られ、一族はヨーロッパ各地での金融業の他、現在も石油・鉱業・マスコミ・軍産共同体・製薬等の企業を多く傘下に置きつつ、主にロンドンとパリに本拠地を置いて、世界経済に対して隠然たる権力を有しているとされる。ちなみに私の好きなボルドーの「シャトー・ムルトン・ロートシルト」はマイヤーの息子ネイサン・ロスチャイルドの三男ナサニエルが1853年に購入し(「ローシルト」が「ロスチャイルド」のドイツ語読みとは知らなかったのである)、更にやはり気に入っているカリフォルニア・ワインの「オーパス・ワン」もナサニエルの曾孫のものと知るに及んで、何とも複雑な気持ちではある。
老人
暗鬱な重苦しい日はやつて來た……
その身の疾患(わづらひ)、愛する者の病弱(やまひ)、老いの冷たさ、暗さ。御身(おんみ)が愛したものは、御身(おんみ)が何ひとつ心おきなく身を任せたものは、みなひとしく、凋落しては碎け散つてしまふ。道はもう下り坂であつた。
さて、どうしたらよいのであらう? 嘆くべきか? 悲しむべきか? たとひ、さうしたところで、御身(おんみ)は自分をも他人(ひと)をも救ひはしないであらう……。
枯れかかつて、まがりくねつた木に、葉は、いよいよ小さく、いよいよ少い、……しかもその綠の色には變りはない。
御身(おんみ)も縮むがよいのだ。さうして御身(おんみ)自身のうちに、御身(おんみ)が回想(おもひで)のうちへと遁れるがよいのだ。さうしたならば、深く深く、ひたむきな心の奥底(おく)に、御身(おんみ)の昔の生活、御身(おんみ)にのみ理解し得る生活が、御身(おんみ)の前に、そのかぐはしい、今もなほ鮮かな綠の色と、春の愛撫と力とをもつて、輝き出ることであらう。
しかし、氣をつけるがよい……。ああ、哀れなる老人よ、さらさらに前途を望むことなかれ!
一八七八年六月
通信員
二人の友達がテーブルに凭(よ)つて茶を飲んでゐる。
街に、ふとざわめきが起つた。もの哀しげな呻きごゑや、烈しい罵りごゑや、意地の惡い笑ひごゑが聞える。
「誰かを擲つてるぞ!」と友達の一人が窓から覗きながら注進に及んだ。
「犯人をか? 人殺しをか?」と他の一人が訊いた、「それは誰でもかまはんが、無鐵砲に擲らせちや置けない。さあ行つて庇つてやらう。」
「人殺しを擲つてんぢやないよ。」
「人殺しぢやないつて? ぢや、泥坊かえ? どつちだつていいや。行つて、奴らの手から救ひ出してやらう。」
「泥坊でもないよ。」
「泥坊でもないつて? ぢや、會計係か、鐵道員か、陸軍の御用商人か、ロシヤ文藝の保護者(パトロン)か、辯護士か、お人よしの編輯人か、社會奉仕家か? とにかく、まあ、行つて助けてやらう。」
「いいや、通信員が擲られてるんだよ。」
「通信員? ああ、さうか、そんなら先づお茶を一杯、喫(の)んでからにしようよ。」
一八七九年六月
[やぶちゃん注:「擲」を「打擲」の意から「擲(なぐ)る」と訓読している。]
二兄弟
それは幻影(まぼろし)であつた。
私の前に二人の天使、……二人の守護神(まもりがみ)があらはれた。
私はいふ、天使……守護神(まもりがみ)と。二人は裸の軀(からだ)に何ひとつまとはず、二人の肩には二つのしつかりした、長い翼が生えてゐたからである。
二人とも若者であつた。一人はいくらか肥つてゐて、滑らかな肌をして、黑い捲髮(まきげ)をしてゐた。鳶色の眼は力なく、濃い睫毛をしてゐた。眼付は人なつこげに、晴々として、貪るやうであつた。顏は魅力に富んで、人を迷はすやうな顏で、わづかに厚かましいところと、わづかに意地惡さうなところとがあつた。紅い、いくらか腫れあがつた脣は輕くふるへてゐた。若者は力ある者のやうに――自ら恃むところありげに、氣うとさうに微笑んだ。つやつやしい髮には華やかな花環がしづかに、殆んど天鵞絨のやうな眉毛に觸れんばかりにかかつてゐた。金の矢にとめられてゐる斑な豹の皮は、まるい肩からすんなりした腰へふんはりと垂れてゐた。翼の羽毛(はね)は薔薇色にかがやき、その端(はし)は生々しい鮮血(ち)に浸されたやうに眞紅である。時としてさわやかな銀(しろがね)のひびき、春雨の音を立ててせはしく慄へてゐた。
もう一人は瘠せてゐて、軀は黃ばんでゐた。呼吸(いき)をするたびに肋骨(あばら)がかすかに見うけられた。光澤(つや)のある、細く、直々(すぐすぐ)しい髮、大きく、まるい薄鼠色の眼、不安げに、異樣にかがやく眼眸(まなざし)……。あくまでとげとげしい顏の線。魚のやうな齒をもつた、小さな半ば開かれた口、引きしまつた鷲の鼻、白つぽい和毛(にこげ)につつまれて突出した顎、この乾いた脣は、未だ曾て一度として微笑んだこともないのであつた。
それはよく整つた、おそろしい、冷酷な顏であつた!(尤もさきの美しい方の顏も、愛らしく、快よい顏ではあつたが、見たところやはり情味を缺いてゐた)この靑年の頭には、いくらかの乾枯びてちぎれた穗が、色あせた草の葉で卷きつけられてゐた。腰には粗い灰色の織布(ぬの)をまとひ、背には光澤(つや)のない藍鼠(あゐねず)の翼が、しづかに脅かすやうに動いてゐた。
この二人の若者は離れることのできない友達らしかつた。
二人は互ひに肩をもたせかけてゐた。一人はやはらかな手を葡萄の房のやうに相手の瘠せた頸に巻きつけてゐた。長く、かぼそい指をした相手の瘠せた手首は蛇のやうに、女のやうな、さきの若ものの胸のあたりに伸びて行つた。
私に聲がきこえる。その聲は、かういふのであつた。「お前の前にゐるのは戀と飢だ――二人の血兄弟だ、生きとし生けるものの二つの礎(いしずゑ)だ。
「生とし生けるものは――食はんがために動き、世嗣(よつぎ)を生まんがために食つてゐるのだ。」
「戀と飢と――その目的は一つである。自身の生命(いのち)、他人(ひと)の生命(いのち)、等しくこの世のありと凡ゆるものの生命(いのち)を絕やさせまいとするのである。」
一八七八年八月
□やぶちゃん注
◎天鵞絨:底本では「鵞」が「鳶」に似た奇妙な活字になっているが、正字に直した。
◎白つぽい和毛につつまれて突出した顎:この「突出した」は、底本に先行する昭和21(1946)年八雲書店版は、「突き出した顎」という送り仮名があることから、訓読みすることが知られる。
◎お前の前にゐるのは戀と飢だ――二人の血兄弟だ、:底本では「人の血兄弟だ」とある。底本に先行する昭和21(1946)年八雲書店版は、「二人の血兄弟だ」とあり、後の「生きとし生けるものの二つの礎だ」という文との続き具合からも、こちらが正しいと思われるので、補正した。
◎等しくこの世のありと凡ゆるものの生命(いのち)を絕やさせまいとするのである。:底本に先行する昭和21(1946)年八雲書店版は、「等しくこの世のありと凡ゆるものの生命(いのち)を絕やさせまいとするものである。」とある。こちらが表現としては自然な気がするが、「も」がなくても不自然ではない。中山氏が敢えて外した可能性も排除出来ないので、暫く底本のままとする。
ユー・ぺー・ヴレーフスカヤを偲びて
荒癈に歸したブルガリヤの小村(こむら)。急に野戰病院にされた朽ちはてた納屋の檐の下、惡臭を放つ濕つた藁のうへに、三週間餘りといふもの、彼女は窒扶斯で死にかかつてゐた。
彼女は意識不明であつた。一人の醫師も彼女を見舞ひはしなかつた。まだ彼女が立ちまはりのできる間に、看護してやつた病兵たちが、こはれた土瓶の破片(かけら)に入れた水のいく滴(しづく)かを乾いた彼女の脣(くち)にすすめようとして、毒氣の染みついた臥所(ふしど)から代る代る起き上るのであつた。
彼女は若く、美しかつた。上流社會に知られて、貴顯紳士にすらも喧傳されてゐた。婦人(をんな)たちは彼女をそねみ、男子(をとこ)たちは媚び諂つてゐた……二三人のものは、ひそかに深く彼女を戀してゐた。人生(このよ)は彼女に微笑みかけてゐた、けれど淚よりも惨めな微笑があるのである。
優しい、素直な心、……このやうな心、このやうな犠牲心! 助けを必要とするものを助けること、……彼女はこれ以外に幸福といふものを知らなかつた、知りもしなかつたし、味はひもしなかつたのである。あらゆるその他(ほか)の幸福は彼女の前を素通りして行つた。しかも疾くから、かうしたことに馴れ從ひ、かき消すことのできない信仰の熱に燃えて、隣人のために身を獻げたのであつた。
いかなる祕寶が、彼女の胸深く、彼女の奥底(おくそこ)に藏(かく)されてあつたか、誰一人として絕えて知るものがなかつた。今も、もとより誰一人知るものはないであらう。
さて、それが何になるであらう? 犠牲(いけにへ)は獻げられ、……事業(しごと)は完うされたのやある。
とはいへ、彼女の死骸(なきがら)にさへも誰一人、感謝の言葉を捧げなかつたことを思へば、傷ましい思ひがする。彼女自身はあらゆる感謝の言葉に恥ぢらひもし、斥けてゐたのではあつたが。
希はくは、私が敢へて墓の上に置くおくればせの花をば、うるはしき幽魂(たましひ)の咎めざらむことを!
一八七八年九月
■訳者中山省三郎氏による「註」
・ユー・ぺー・ヴレーフスカヤを偲びて:最初の原稿にも發表の際にも「ユー・ぺー・ヴェを偲びて」とあつただけであるが、後にヴレーフスカヤの名が明らかにされた。男爵未亡人ユリヤ・ペトローヴナ・ヴレーフスカヤ(一八四一-七八)はツルゲーネフとは昵懇の間柄であつた。ツルゲーネフの郷里スパッスコエを訪れたり、互ひに文學を語つたりするほどであつた。一八七七年の夏露土戰爭に際して、彼女は特志看護婦として、戰地に赴き、翌七八年一月(舊露月)にブルガリヤで病死した。
□やぶちゃん注
◎ユー・ぺー・ヴレーフスカヤ:綴りはЮлия Петровна Вревская。なお、この背景である中山氏が言及する「露土戰爭」は、まさにそのブルガリア戦線を舞台にした私の電子テクストであるガルシンの「四日間」に詳しいので、是非、お読み頂きたい。
◎檐:「のき」と読む。
◎窒扶斯:「チフス」又は「チブス」と読む。
◎諂つてゐた:「諂(へつら)つてゐた」と読む。
エゴイスト
彼には、その家族を鞭責するあらゆる資質がそなはつてゐた。彼は生れて健康であり、裕福であつた。また永い生涯を裕福に、健康に暮しつづけて、何一つ罪も犯さず、いささかの過誤(あやまち)もしたこともなく、また一度として言葉の誤りをも、遣りそこなひをもしたことがなかつた。
彼は一點の非の打ちどころもない誠實な人間であつた、……そしてその誠實なことを己惚れて、それによつて身内(みうち)のものであらうが、友達であらうが、知人であらうがあらゆる人々を抑へつけてゐた。
誠實そのものが彼の資本であつた、……彼はこの資本から過分の高利を收めてゐたのである。
誠實そのものが彼に無慈悲なものとなり、また命ぜられない善事は決してしないといふ權利を與へてゐた、そこでは彼は無慈悲であつた……、決して善事をしなかつた…、何故かといふのに、命令されてする善事といふものは、決して善事ではないからである。
彼は自身の――かくも模範的な個我(われ)以外には、何人に對しても心を煩はざず、しかも若し他人が同じやうに彼自身のことを熱心に彼の個我(われ)に對して心を煩はさなかつた場合には、心から怒るのであつた!
と同時に、自分のことをエゴイストだとは思つてゐないのであつた。そしてエゴイストやエゴイズムを非難攻擊することは人一倍甚しかつた、それもその筈! 他人のエゴイズムは彼自身のエゴイズムを妨げたからである。
彼は自分にはいささかの弱點も認めず、他人の弱點はまるで理解もしなければ、假借もしなかつた。彼は全く、何人をも何物をも理解しなかつたのである。といふのも彼が四方八方、あらゆる方面から全く自分自身といふものばかりに取りかこまれてゐたからであつた。
彼は恕(ゆる)すといふことがどんな意味なのか、理解すらもしなかつたのである。彼は自分自身を恕さなければならない羽目には立ち到らなかつた……、それにどうして他人を恕すやうな理由(いはれ)があつたであらう。
自身の良心の審判(さばき)の前に、彼自身の神の前に、彼は、この怪物は、この善行の出來そこなひは、眼を空に向けて、しつかりと、はつきりした聲でいふのであつた、「さうだ、おれは立派な、道義にかなつた人間だ!」
彼はこの言葉を臨終の床で繰り返すことであらう……。さうして、その時ですらも、この石のやうな心には――この汚點(しみ)も罅隙(すき)もない心には、何らの動搖をも來たさないであらう。
ああ、自己滿足の、頑强な、安價に購はれた善行の醜惡よ。汝は露骨な不德の醜惡よりも更に醜惡なものではなかつたのか!
一八七八年十二月
□やぶちゃん注
◎これは全くの感触でしかないのだが、この苛烈な断罪を加えている相手はかつての盟友であり、オブローモフ主義で知られる作家ゴンチャローフГончаров, Иван Александрович(1812~1891)ではなかろうか(オブローモフは1960年に刊行された彼の小説「オブローモフ」の主人公の名。一種のスポイルされた高等遊民的存在)。この詩のクレジットの遥か18年前、1860年ことになるが、彼とは「その前夜」盗作論争で致命的な決裂をしている。サイト「ロシア文学」の「ツルゲーネフの伝記」から引用する。『当時ゴンチャローフは多年にわたって執筆中の労作「断崖」(1869)についてツルゲーネフとしばしば議論していたが、「その前夜」の趣向には、「断崖」からの剽窃がいくつかあるとツルゲーネフを非難したのである。3人の作家を判事役として非公式の法廷が開かれ、ツルゲーネフの潔白は証明されたが、激怒した彼はゴンチャローフ(彼のパラノイアはやがて病的なものとなった)に絶交を宣言し、以後2人の親密な関係が回復することはなかった。』。同じサイトの「ゴンチャーロフの伝記」を見ると、裕福なロシアの地方領主の族長的雰囲気の中での成長、モスクワ大学卒業後、官吏となり、『多年にわたって、これといった功績がないまま辛抱強く勤め上げた』点等、本詩の人物を彷彿とさせる。1847年35歳の時、処女作「平凡物語」を発表して、ベリンスキーに激賞されるが、この作品は若い田舎の理想主義者が、世俗的現実的な若者へと変貌する半自伝的小説であるともある。純真にして人生を生きることに下手なオブローモフといい、如何にも私には「エゴイスト」=ゴンチャーロフという気がしてならないのである。識者の御教授を願う。
神の饗宴
ある時のこと、神が瑠璃色の宮殿に大饗宴を催さむものと思し召された。
あらゆる美德が客として招ぜられた。ただ女性の美德ばかりであつた……。男性の方は招かれなかつた……。ただ婦人ばかりであつた。
大きな德、小さな德――かなり多くの德が寄り集まつた。小さな德は、大きな德よりも一しほ快よく、いとほしかつた。けれど、誰もが滿足げであつた――互ひに身寄りか知り合ででもあるかのやうに打ちとけて語り合つてゐた。
ところが神樣は、お互ひに全く知合つてゐないらしい美しい二人の婦人にお目どまりあらせられた。
主人(あるじ)は一人の婦人の手をとつて、もう一人の婦人の方へと引きよせた。
「恩惠!」と最初の婦人を指して、主(あるじ)は申された。
「感謝!」とやがて次の婦人を指して、附け加へられた。
二人の美德はいひやうもないほどに驚いた。開闢以來、すでに久しいことではあるが、――この二人はここに初めて出會つたのであつた。
一八七八年十二月
スフィンクス
黃ばんだ灰色の、上の方は脆く、底の方は硬く軌む砂、……見わたす限り涯(はてし)のない砂だ!
この砂漠の上、この死灰の海の上には、エジプトのスフィンクスの巨きな頭が聳えてゐる。
大きな突き出たこの脣、静かに擴がつて、仰向いてゐる鼻孔、……この二つの眼、二つの弧弓(ゆみ)のやうに見える高い眉の下に、半ば睡り、半ば醒めてゐるかのやうなこの眼は何を言はうとしてゐるのか?
それらのものは何ごとかを言はうとしてゐる。すでに今、語つてすらもゐる、――しかもその謎を解き、無言の言葉を解し得るものはただエジプスだけである。
ああ! 私はかうした面影を識つてゐる……。それはいささかもエジプト風なところのない、白く、低い額、突き出した顴骨(ほほぼね)、短い眞直な鼻、美しい白い齒の口、やはらかな口髭、ちぢれた顎髭、廣く間を置いてはなれてゐる二つの小さな眼(まなこ)……頭にいただいて居る分けた髮の毛、……ああ、これは爾(おんみ)カルプである、シードルである、セミョンである、ヤロスラーフのリャザンの小百姓、わが同胞、まぎれもないロシヤ人! すでに爾(おんみ)もまたゆくりなくもスフィンクスの仲間になつてゐたのか?
爾(おんみ)もまた何かを言はうとしてゐるのか? さうだ、爾(おんみ)もまたスフィンクスである。
爾(おんみ)の眼(まなこ)――光彩(つや)のない、しかも奥深いその眼もまた語つてゐるのだ……、さうしてその言葉は暗默のうちに謎めいてゐる。
それにしても爾(おんみ)のエジプスはどこにゐるのか。
哀しいかな! 爾(おんみ)のエジプスとなるためには、ああ、全ロシヤのスフィンクスよ、百姓帽子をかぶつただけでは十分ではないのである!
一八七八年十二月
■訳者中山省三郎氏による「註」
・百姓帽子:國粹一點ばりのスラヴ主義者たちを諷したもの。
□やぶちゃん注
◎カルプである、シードルである、セミョン:原文“Карп, Сидор, Семен,”。ロシアの一般的な庶民的名前なのであろう。
◎ヤロスラーフのリャザン:リャザンРязаньは現在のロシア連邦リャザン州の州都。ロシア古代・中世史では馴染み深い地名で(但しそれらに登場するリャザンは現在「スターラヤ・リャザン」(古リャザン)と呼ばれる、現リャザンの南東に位置する別な場所であった)、オカ川(ヴォルガ川最大の支流)の右岸に位置する重要な河港でもある。ヤロスラーフЯрославは、かつてここに首都機能を置いたリャザン公国がヤロスラーフ賢公(Ярославль(978~1054)キエフ大公。キエフ公国にキリスト教を布教し、法典編纂・文藝振興を行ったことから「ムードリ」(賢公)と呼称された)の血を受け継いでいるのでこのように呼んだか。なお、1904年にはこのリャザンにロシア最初の社会民主主義グループが誕生していることは、この詩の注として明記しておいてよいであろう。
◎本詩を理解する一助になろうかと思われる事蹟を、サイト「ロシア文学」の「ツルゲーネフの伝記」から引用する。『67年には小説「煙」を発表、ロシアにおける全てのスラヴ主義者と、あらゆる保守的な宗教思想を攻撃した。ロシアの多くの人々は、彼がヨーロッパに身売りし祖国との接触を失ったとして非難し、同年彼を訪れたドストエフスキーも、彼を母国の中傷家として攻撃している。』『1877年、7年間の準備の末に成った小説「処女地」が発表された。これはツルゲーネフの最長の作品であり、数多い世代研究の1つである。今度は70年代のナロードニキ運動が扱われ、父親たちの無益な饒舌と空虚な理想主義に飽いた若い彼らが行動を決意するのである。』(改行)『この作品はヨーロッパではベストセラーになったものの、ロシアでは全ての派から断罪された。この不評に起因する落胆と厭世的気分は、78年に執筆した「セニリア」(のち「散文詩」(Стихотворение в прозе, 1882)の題名が付けられた)という小編に反映している。』。本詩が正にそうした詩の一篇であることは疑いない。
◎老婆心ながら言っておくと、この訳詩を読んでいると、「エジプト」と「エジプス」が恰も同語源であるかのような錯覚を起こすが、全くの偶然である。エジプトEgyptは現地では通称国名としてMisr「ミスル」又は「マスル」が用いられ、我々の使用する「エジプト」は英語表記由来。古代ギリシア語の「暗い」の意、Aigyptos(アイギュプトス:ギリシャ語表記Αιγυπτος)に由来するという。対するOedipus(「エジプス」・エディプス・オイディプース・オイディプス:ギリシャ語表記Οἰδίπους)は、赤子の彼が山中に捨てられる際、ブローチで刺された踵が腫れ上がっていたことから、羊飼いの養父母がオイディプス(腫れた足)と名づけたことに由来する。ギリシャ語・ラテン語表記の違いから一目瞭然である。
ニンフ
私は半圓形をなしてひろがる美しい山脈(やまなみ)の前に佇(た)つてゐた。若々しい綠の森が、頂から麓まで蔽つてゐた。
山々の上には南國の空が透明に靑みわたつてゐた。太陽(ひ)は山の頂から光を投げかけて、たはむれ、麓には半ば草にかくれて、小さな早瀨がさざめいてゐた。
私には基督降誕後最初の世紀(ころ)に、ギリシヤの船が多島海を渡つてゐたといふ古い物語が思ひ起された。
時は眞晝、……靜かなな陽氣であつた。ふつと楫取(かんどり)の頭上高く、聲あつて、はつきりと呼ばはるのであつた。「御身(おんみ)、かの島に行かば、聲高く呼ばはれよ、(偉大(おほい)なる神、パンは死せり)と!」
楫取(かんどり)は驚いた……。畏れをなした。けれど、船がその島にさしかかると、彼は命(めい)に從つて、呼ばはつた、「偉大(おほい)なる神、パンは死せり!」と。
すると、直ちにこの叫びごゑに應じて、海邊のつづく限り(その島は無人島ではあつたが)高い歔欷(すすりなき)、呻吟(うめき)の聲、長くひいた哀※の聲がひびきわたつた、「死せり、偉大(おほい)なる神、パンは死せり」と。[やぶちゃん字注:※=「嗷」の(へん)の「口」を「日」に代える。]
私はこの物語を思ひ出した、……すると不思議な考へが私の胸に浮んで來た。
「私が若し大聲で觸れまはつたら、どうであらうか?」
それにしても、あたりのものの喜ばしげなのを眺めては、死について考へることはできなつた、――そこで私は力のおよぶかぎり叫んだのである、「蘇れり! 偉大(おほい)なる神、パンは蘇れり!」
すると直ちに、ああ、何たる奇蹟であらう! 私の叫びごゑに應じて、廣い、半圓形の、綠の山々のうちとけた笑ひのどよめきがひびきわたり、喜ばしげな話聲や拍手の音が起つて來た。「彼(ひと)は蘇れり! パンは蘇れり!」と若々しい聲がどよめきわたつた。眼の前にある、ありとあらゆるものは忽ち笑ひ出した、空高い太陽(ひ)よりも輝かしく、草葉のかげの小川のせせらぎよりも樂しげに。輕い足どりをせはしげに蹈むのが聞え、綠の、密林(はやし)の間には、大理石のやうに眞白く、ふんはりとした下衣(したぎ)がちらつき、生き生きと紅らむ露(あらは)な軀(からだ)がちらちらした、……それはさまざまなニンフたち、――森のニンフや樹のニンフ、バッカスの巫女たちが高いところから野邊をさして走り寄つて來るのであつた……。
彼女たちは、忽ちに森の緣(へり)といふ緣(へり)にあらはれた。毛房は神々しい頭にまつはり、しなやかな手は花環や鐃鈸を捧げてゐる、――笑ひごゑは、晴れやかなオリムピアの神々の笑ひごゑは彼女たちの足どりにつれて流れて來る。
一人の女神が先頭に立つて疾(はし)つて來る。彼女はとりわけて背が高く、美しい。肩には箙(えびら)、手には弓、波うつ捲髮(まきげ)には月の銀いろの鎌をもつて……。
「ディアーナ! おまへがディアーナなのか?」
けれど女神はふと立ちどまつた……。忽ち後にしたがつてゐたニンフたちもみな立ちどまつた。ひびきわたる笑ひごゑもやんでしまふ。私は口を噤んだ女神の顏が、忽ちにして、死人のやうに蒼ざめ果てたのを見た。いひ知れぬ恐怖に、彼女の脣は開き、眠が遠くを見つめて、大きく見開かれたのを見た……。彼女は何を見たのであらう? どこを見つめてゐたのであらう。
私は彼女の見つめてゐる方を向いた……。
遙か遠い地平線上に、野原のなだらかに盡きてゐるあたりに、キリスト教寺院の白い鐘樓に、一點の火のやうに金の十字架がきらめいてゐた……。この十字架を女神は眼にとめたのであつた。
うしろの方で、切れた絃(いと)のふるへるやうな長い嘆息(ためいき)が聞える、――ふり向いて見ると、ニンフたちはあとかたもなく消え失せてゐた……。廣い森は以前(まへ)のやうに靑々しく、ところどころに、こまやかな網のやうに繁り合つた樹枝(えだ)の間に何か白いものばかりが見えかくれしてゐる。それはニンフの白衣でであつたか、谿の底からあがつて來た靄であつたか、……それは知らない。
しかし、消え失せた女神たちを思つて、私はどんなに悲しんだことであらう!
一八七八年十二月
□やぶちゃん注
◎楫取(かんどり):「舵取(かぢと)り」の転訛。古語。
◎哀※:このような漢字は私は不学にして知らない(「大漢和辭典」は未検索)。近似する熟語も和語としては見当たらないが、「哀嗷」で少数の中文サイトにヒットはする。「廣漢和辭典」の「嗷」の項を見ると、「設文解字」に「哀鳴嗷嗷」という語が見出せる(但し「嗷」の字は「口」が下部に付く字体)。それぞれの漢字の意味から構成するならば、多くの人々が哀しみ憂える叫び声、と解釈は出来る。翻って、原文は“жалостные”とあり、これはロシア語で①思いやりのある、慈悲深い。②訴えるような、悲しげな、哀れな、という意味である。ここでは②であろうから、「哀嗷」という熟語でぴったりくると思われる。私はとりあえず「哀嗷」(あいごう・歴史的仮名遣ならば「あいがう」)の誤植と判断しておく。
◎バッカスの巫女:バッカスBacchusはローマ神話の酒(ワイン)の神。ギリシア神話のディオニソスDionysosに相当する。各地を遍歴して人々に葡萄の栽培を教えたが、そこから生み出される葡萄酒の酔いに象徴されるような熱狂的ディオニソス信者が現われ、特にその女性の狂信的信仰者をマイナス(Maenad、複数形はマイナデス、ギリシャ語のわめきたてる者、の意)と呼び、一種のトランス状態の中で踊るその崇拝者集団を「バッカスの巫女」と呼んだ。
◎輕い足どりをせはしげに蹈むのが聞え:「蹈」は「踏」の書き換え字。
◎鐃鈸:「どうはつ」(歴史的仮名遣ならば「だうはつ」)と読む。①鈴。②銅製の銅鑼。シンバル。であるが、原文は“тимпаны”で、これは英語の“timbrels”=“tabourine”、タンバリンである。鈴のついたタンバリンはニンフの持ち物に相応しく、ここでの音響的にもぴったり来る楽器である。
◎オリンピア:狭義にはペロポネソス半島西部にあった古代ギリシアの都市を指す。オリンピック発祥の地であり、ゼウス神殿等、多くの遺跡がある。但し、ここでは伝説時代のギリシア世界という漠然とした意味で用いられている。
◎ディアーナ:ラテン語で“Diāna”、ローマ神話の女神。ギリシア神話のアルテミスArtemisに相当する。本詩の雰囲気にあるように、元来は樹木や森を司る神であったと思われ、特に農民に信仰され、後に多産の神となった。狩りをするダィアナがニンフたちを従えているモチーフは、ドメニキーノ・フェルメール・ブーシェ等、多くの画家の作品に描かれている。
敵と友と
終身禁錮に處せられた囚人が牢を破つて、一目散に逃げ出した……。彼の後には追跡隊が踵を接して跡を跟けてゐた。
彼は一所懸命に逃げて行つた……。追手はおくれはじめた。
然るに、見よ、彼のゆく手には斷崖絕壁をなした、狹い、――しかも深い河があるのである……。それに彼は游ぐことができないのである。
一方の岸から一方の岸に、薄い朽ちた板が投げ渡されてゐた。逃げ手は早くもその板に片足をかけた……。すると、偶々川のへりには彼の最も良い親友と、最もひどい怨敵(かたき)が立つてゐた。
怨敵(かたき)はものをもいはず、ただ腕を拱いてゐるばかりであつた。友はと見れば、聲をかぎりに叫び出した、「おうい? 何をするんだい? 氣でも違つたのか、しつかりしろ! 板がすつかり腐つてるのが分らないのか? 乘つたら最後、身體(からだ)の重みで折れちまふんだ、――そしてきつと死んぢまふぞ!」
「だつて外に渡りやうがないぢやないか! 追手の來るのが聞えないのか!」
哀れな男は絕望的な呻きごゑをあげて、板を蹈んだ。
「斷じて、いけない! ああ、君の死ぬのを見てはゐられない!」と熱心な友達は叫んで、逃亡者の足もとから板をひつたくつた。男は忽ちにして逆卷く波に墜ちて、溺れてしまつた。
怨敵(かたき)は滿足さうに笑ひ出した、――そうして、行つてしまつた。けれど親友は岸にどつかり腰をおろして、彼の哀れな……哀れな友人を思ひ、悲しげに泣きはじめた。
尤も、彼は友を死に到らしめたことについて、自分自身を責めようなどとは……ただの一瞬間も……思はなかつたのである。
「おれの言ふことを聽かなかつたからだ! 聽かなかつたからだ!」と彼はがつかりして呟いた。
「しかし、」彼はやがて言ふのであつた、「どうせ奴は一生涯、怖ろしい牢屋で苦しまなけりやならなかつたんだ! 少くとも今は苦しまなくて濟むんだ! 今はもう樂になつたんだ! かうなるのも因果だつたんだらう! しかし、とにかく人情としては、いかにも可哀さうな話だ!」
この親切者は運の惡い友達を思つて、やるせなく、すすり泣くばかりであつた。
一八七八年十二月
□やぶちゃん注
◎彼は游ぐことができないのである:「游(およ)ぐ」と読む。「遊」の本字で、「泳ぐ」が水中を潜っておよぐのに対し、「游ぐ」が水面をおよぐ、の意である。
◎跡を跟けてゐた:「跡を跟(つ)けてゐた」と読む。
◎板を蹈んだ:「蹈」は「踏」の書きかえ字。
キリスト
私は靑年の、といふよりもまだ少年の自分が、村里の、天井の低い禮拜堂のうちにゐる夢を見た。微かな蠟燭のあかりは、赤く點々と、古びた聖像の前に燃えてゐた。
虹のやうな光の環が、ひとつびとつの小さな焰を繞つてゐた。會堂の中は冥く、ぼんやりとしてゐた。……けれど私の前には人々が群をなしてゐるのであつた。
どれもこれも亞麻色の髮をした農夫の頭であつた。夏の風が波のやうに、そよそよと吹きわたる時の垂穗のやうに、時々搖れうごいたり、垂れたり、また昂(あが)つたりしてゐた。
ふと、見も知らぬ人がうしろからやつて來て、私の隣に坐つた。
私はふりかへりもしなかつた。が、忽ちにこの仁(ひと)こそ、まぎれもないキリストであると感じたのである。
感動、好奇心、恐怖が立ちどころに私の心を捉へてしまふ。
無理に私は心をひきたてて、この隣人に見入るのであつた。
ありとあらゆる人間の面輪(おもわ)――すべての人間の相形(さうぎやう)にまがふかたなき顏。眼は注意深げに、靜かに稍々上の方を向いてゐた。脣は緘ぢられてはゐたが、決して結んでゐるのではなかつた。ただ、上脣が下脣のうへに休んでゐるに過ぎなかつた。僅かな髯は、左右にわかれてゐた。手は組合はせられたまま、微動だにもしない。しかも着物は、ありふれたものであつた。
「何といふキリストであらう!」私は考へた、「こんな平凡な、平凡な人間が! さういふわけがあるものか!」
私が顏をそむけた。しかし、やはりこの平凡な人間から眼をそらすことができなかつた。すると、また自分の傍に立つてゐるのは、本當のキリストだといふ氣がして來たのである。
私は再び、再び自分を引き立てようとつとめた……かくて、世のあらゆる人々の顏に似た顏、見ず知らずではあるが、そこにもここにも見受けられるやうな面持(おももち)をした顏を、重ねて見るのであつた。
そのうちに、急にぞくぞくして、眼が覺めた。――この時はじめて、かうした顏、すべての人間の顏によく似たこの顏こそ、正(まさ)しくキリストの顏であると悟つたのである。
一八七八年十二月
□やぶちゃん注
◎焰を繞つてゐた:「焰を繞(めぐ)つてゐた」と読む。光の環がそれぞれの炎の周囲を囲んでいるのである。
◎靜かに稍々上の方を向いてゐた:「稍々」音読みすれば「しょうしょう」(「やや」の意)であるが、ここはやはり「やや」と二字で訓じておきたい。
◎脣は緘ぢられてはゐたが:「脣は緘(と)ぢられてはゐたが」と読む。
巖
あなたたちは、うららかな春の日の滿潮時(しほどき)に、海邊の年經た灰色の巖に、荒浪が四方八方からうちつけ――うちつけ、戲れ、撫でさすつて――苔むした巖の頭上(うへ)に、こまごまな眞珠を撒き散らすやうに、かがやく泡沫(あわ)を撒き散らすのを見たことがあらうか?
巖はいつも變らぬ巖ではあるが、――暗灰色のおもてには鮮やかな色彩(いろ)があらはれて來る。
その色彩(いろ)は溶けてゐた花崗岩(みかげ)がやうやく凝(かた)まりかけたばかりで、紅焰(ほのほ)の色に燃えてゐたあの遠い太古(むかし)を物語る。
かやうに、私のこの頃の老いた心にも、若い女の心の波があたりからおしよせて來て、そのやはらかな愛撫の手に、私の心はすでに久しく褪せてゐた色彩(いろ)、むかしの火の名殘を浮べて、赤らみかけたのであつた。
浪は遠ざかつた、……けれど、その色彩(いろ)はまだ褪せなかつた、――烈しい骨を刺すやうな風に乾かされてはゐるにしても。
一八七九年五月
鳩
私は傾斜(なぞへ)をなした丘陵(おか)の頂に佇つてゐた。眼の前には熟れた裸麥が金か銀の海のやうに延び擴がつて斑になつてゐた。
けれど、この海には漣ひとつ起らず、息づまりさうな大氣はじつと靜まりかへつてゐた。大雷雨がまさに來ようとしてゐるのである。
あたりには陽ざしがなほ暑く、どんよりと輝いてゐたが、裸麥のむかうの、程遠くもないところには藍鼠(あゐねず)の雨雲が重苦しい塊をなして、地平線の半ばをすつかり蔽つてしまつてゐた。
あらゆるものが影をひそめ、……あらゆるものが太陽の最後の光の不氣味な輝きのもとに萎れてゐた。一羽の鳥のこゑも聞えず、かげも見えず、雀までがかくれてしまつてゐた。ただ何處か近いあたりで馬蕗(うまぶき)の一つの大きな葉が、たえずばさばさ囁いてゐた。
地境(ちざかひ)の苦蓬は何といふ强い香りを放つてゐるのであらう! 私はあの碧い塊を見やつた……すると何とはなしに不安の念が私を襲ふのであつた。「さあ、早く、早く!」と私は考へた。「閃け、金の蛇よ、鳴れ、雷よ! 動け、急げ、篠つく雨となれ、意地惡の雨雲よ、このなやましい懈怠(けたい)を早く切り上げてくれ!」
しかし雨雲はじつとして動かなかつた。雨雲はひそまりかへつた大地を壓しつけて……一層ふくらみ、一層暗くなつてゆくややうに思はれた。
やがて一色(いろ)の靑雲(あをぐも)のうへに、何かしら白いハンカチか、雪の塊のやうに、すうつとかろく、ちらついたものがあつた。それは村の方から白い鳩が飛んで來たのであつた。
鳩は飛んだ、眞直に飛んだ、……そして森のなかにかくれて行つた。しばらく經(た)つた、やはり氣味わるいほど、ひつそりしてゐる。しかも見よ! 今は二つのハンカチが閃いてゐる、二つの塊が引き返しで行く。二羽の白鳩が相竝んで、家路をさして歸つて行くのである。
つひに嵐は來た。私はやつと家へ駈けつけた。――風は吼える。狂氣のごとく狂ひまはる。人蔘色の、低い、ちりぢりに引きちぎられたやうな雲は走る。何もかも渦卷き亂れる。雨は篠つく雨となつて、地をうち、立木をゆるがし、稻妻は靑光りして眼を眩まし、雷鳴は砲聲のやうに轟き渡り、あたりには硫黃の匂ひがする……。
しかも屋根の庇のかげの明り窓のへりに、二羽の白い鳩は互ひに寄りそつてとまつてゐる。それは仲間をたづねて飛んで行つた鳩と、つれて歸つて來た、恐らくは救つてやつた鳩とであつた。
二羽の鳩は身をふくらせて、互ひに翼の觸れ合ふものを感じてゐる。
彼らはどんなに樂しいであらう! 私も彼らをながめるのは樂しい……。私はただひとり、……いつものやうにただひとりの身ではあるが。
一八七九年五月
□やぶちゃん注
◎傾斜(なぞへ):斜め。はすかい。斜面。
◎馬蕗:双子葉植物綱キク目キク科のゴボウArctium lappa。葉が同じキク科のフキPetasites
japonicusに似ており、馬が好んで食べた事に由来する。
明日こそは! 明日こそは!
過ぎてゆく日は、いかばかり空虚(むなし)く、味氣なく、果敢ないもののみであつたらう! それは、いかばかり僅かな痕跡をとどめることであらう! 次から次へと、時はいかばかり無意味に魯(おろ)かしく過ぎ去つて行つたことであらう!
とはいへ、人はなほ生きようとする。人は生(いのち)に執着し、人は生(いのち)に、おのが身に來るべきものに望みをかける……ああ、人はいかなる幸福を未來に期待するのであらう!
しかもまた次に來るべき日もまた、今しがた過ぎて來た日と異らぬとは、どうして考へないのであらう。
人はそれを想ひやつても見ない。およそ考へることを欲しないのである、……それはいいことである。
「明日こそは! 明月こそは」と人は自らを慰める、しかもこの「明日こそは」が墓場へ陷(おと)し入れる。
さて――一たび墓に入つてしまへば――否應なしに考へることをやめてしまふのであらう。
一八七九年五月
[やぶちゃん注:本文中の「明日こそは! 明月こそは」の末尾には、底本は以上のようにエクスクラメンション・マークはない。原文は、“«Вот завтра, завтра!»”。中山氏はまさに、エクスクラメンション・マーク「一つ」にもこだわっているのである。]
自然
私は高い穹窿のついた大きな地下の部屋に入つた夢を見た。そこはどこかしら地の下らしい、おだやかな光にみたされてゐた。
その部屋の眞中には、綠いろのやはらかな衣服をつけた威嚴のある女が坐つてゐた。頭を手で支へて、深い思ひに耽つてゐるかのやうであつた。
私はすぐにこの女が「自然」そのものであると悟つた。すると忽ち私の魂(こころ)に畏怖の念が沁みわたつて急に寒氣して來た。
私は坐つてゐる女のところにちかづいて、恭しく一禮し、「ああ、私たち、すベてのものの母よ!」と叫んだ、「あなたは何をお考へになつてゐるのでせう? 人類の未來の運命についてではございませんか? それとも人類が、どうしたら至高の完璧や幸福に達し得られるかといふことでせうか?」
女は黑い、きつい眼をおもむろに私に向けた。脣は動いて、鐵のひびきのやうによく徹る聲が聞えて來た。
「私はね、蚤が一層たやすく敵から逃げられるやうに、その足の筋肉にどうしたら大きな力を與へられるか、考へてゐるのです。攻擊と防禦の均衡が破れてしまつた……、それをまた元のやうに直さなくてはならないのです。」
「何ですつて?」と私はぼんやり答へた、「あなたは何を考へてらつしやるんです。わたしたち人間は、あなたの寵兒ではございませんか。」
女はかすかに眉を顰めた、「あらゆる生活は私の子供です、」と彼女はいつた、「だから同じやうにみんなのことを氣づかひ、――また同じやうに亡ぼすのです。」
「けど、善は……理性は……正義は……」と私はまた口ごもつた。
「それは人間のいふ言葉ですよ、」と鐵のやうな聲が響き渡つた、「私は善をも惡をも知らない、……理性なんて私の法則ぢやありませんよ、……それに、正義つてどんなものかしら? 私はおまへに生命(いのち)をやつた、――私はそれをお前からとれば、またほかのものに、蟲けらにでも人間にでもやる、……わたくしはどつちだつてかまやしない……だからお前も自分をもつて、私の邪魔などしないがいいよ。」
私は逆はうとしてゐた、……けれど地面はあたりに鈍い呻きごゑを發して震へ出した、――そこで私は眼が覺めた。
一八七九年八月
[やぶちゃん注:「穹窿」は「きゅうりゅう」と読む。原文は“сводами”で、これはアーチ型の丸天井を意味するロシア語。 英語の“vault”ヴォールトである。広義のヴォールトは、アーチを平行に押し出した蒲鉾のような形を特徴とする天井様式や建築構造を言う。]
絞罪にせい!
「千八百三年のことぢやつたが、」と私の年老いた知合が話し出した、「アウステルリッツ役の少し前ぢやつたよ、儂が士官として勤めてゐた聯隊は、モラヴィヤに宿營してゐた。
儂らは土地の人たちに迷惑をかけた苦しめたりしないやうにと嚴命されてゐた。味方といふことになつてゐたのだが、彼らは儂たちをおそろしく猜疑の眼をもつて見てゐたからだ。
儂のところには、もと母の奴隷だつたエゴールと呼ぶ從卒が居つた、あれは律儀な、おとなしい男だつた。儂は子供の時分から、あれを知つてゐて、友達扱ひにしてゐた。
ところで、ある時儂の暮してゐた家で、罵り叫ぶこゑや、痛哭(なげ)くこゑが聞え出した。主婦(おかみ)は牝鷄を二羽盗まれて、その罪を儂の從卒になすりつけたんだ。あれは自分でも言ひわけし、儂をも證人に呼んだ……『何だつて、このエゴール・アフターモノフが盗みをするなんて!』儂は主婦(おかみ)にエゴールが正直なことを言ひ聞かしてやつた。けれど、儂のいふことなんかてんで馬耳東風だつた。
すると、ふと街路(まち)の方へ足竝揃へてゆく馬の蹄の音が聞える。司令長官が幕僚を率ゐて來たんだ。
長官は竝足で駆(か)つてゐた、でつぷりした人で、うつむいて、胸には肩章の總が垂れかかつてゐた。
主婦(おかみ)は長官を見ると、まつしぐらに馬のところへ驅け寄つて、ひざまづいて、髮をふり亂し、あられもない姿で、大きい聲で儂の從卒のことを訴へはじめ、奴を指さした。
『將軍樣』と主婦(おかみ)は喚くのさ、『お殿樣、どうかお審(さば)き下さい、お助け下さい! お救い下さいまし! この兵隊が妾のものをひつたくつたんです!』
エゴールはと見れば、帽子を手にして、家の戶口にすつくと立つてゐる。まるで番兵みたに胸を張つて、おまけに足をひきつけてさ、――さうしてたつた一言(ひとこと)も口がきけねえのさ! 街の真中に立ちどまつてた將軍の一行がすつかり奴をどぎまぎさしたものか、それとも身にふりかかつてゐた災難を怖れて硬くなつたものか――可哀さうに、エゴールは、突立つて、眼をぱちくりさして、粘土みたいに血(ち)の氣をなくしてゐるばかりなんだ。
司令長官は落ちつかない、氣味のわるい一瞥をくれて、怒つをたやうに『さうか』といつた、――エゴールは、彫像のやうに突立つたまま、齒をむき出してゐた。傍(はた)から見たら、まるで笑つてでもゐるやうに見えただらう。
すると長官は、『奴を絞罪(かうざい)にせい!』と言ひ放つて、馬に拍車をあててどんどん步き出した、はじめは竝足で、それから跪(だく)で。一行はあとについて驅けて行つた。ただ一人の副官が鞍の上から振り向いてエゴールをちらと見た。
いふことを聽かないわけには行かない、……エゴールはぢきにつかまへられて處刑(おしおき)に引き立てられた。
あれは、もう人心地もなくなつた、……ただ二度ほどからうじて言ふだけだつた、『ああ、神樣! 神樣!』それから低い聲で、『神樣こそ御存じだ、私ぢやないんだ!』
それはそれは悲しさうに、他に別れなを告げながら奴は泣き出しちやつた。儂はすつかり絕望してゐた。『エゴール! エゴール!』と儂は叫んだ、『何だつてお前は將軍に何とも言はなかつたんだ!』
『神樣が御存じです、私ぢやないんです!』と可哀さうに、しくしく泣きながら繰り返すのだつた。
主婦(おかみ)は自分でも怖ろしくなつて來た。こんな怖ろしい處刑(おしおき)は思ひもよらなかつたのだ。そして今度は自分でも大聲で泣き出した! 誰も彼もに赦しを乞ひはじめ、牝鷄が見つかつたことや、自分が事のいきさつを說明しようとしていることを說きまはるのだつた……
無論、何の足しにもならなかつた、何しろ、君、戰時の行きがかりだ! 軍紀だからね! さて、主婦(おかみ)はますます大聲で泣くのだつた。
エゴールは坊さんに最後の祈禱(いのり)をして貰ふと、儂の方をふり向いた。
『旦那さま、主婦さんに悲しまないやうにつて、言つてやつて下さい、……私はもう惡く思つちや居ませんから。』
私の知合は彼の從卒のこの最後の言葉を繰り返して、かう呟くのであつた、「エゴールシカ、可哀さうな奴、義理がたい奴」といつたかと思ふと、淚は彼の年老いた頰を傳はるのであつた。
一八七九年八月
□やぶちゃん注
◎アウステルリッツ役:ドイツ語表記Austerlitz、チェコ語でスラフコフ・ウ・ブルナSlavkov u Brnaは、現在のチェコ共和国モラビア地方の中心都市ブルノ市の東方にある小都市である。一般に言われる「アウステルリッツの戦い」は、1805年にオーストリアがロシア・イギリス等と第三次対仏大同盟を結成、バイエルンへ侵攻したことに端を発する戦争。当時オーストリア領(現チェコ領)であったスラフコフ・ウ・ブルナ(アウステルリッツ)郊外に於いて同年12月2日にナポレオン率いるフランス軍がオーストリア・ロシア連合軍を破った戦いを言う。
◎モラヴィア:Moravia(チェコ語Morava)は広義には現在のチェコ共和国の東部の呼称である。この地方のチェコ語方言を話す人々はモラヴィア人と呼ばれ、チェコ人の中でも下位民族とされて差別されてきた歴史がある。この「主婦」もそうした一人として見るべきであろう。アウステルリッツの戦いのあった1805年の戦役では、ウルムの戦いでフランス軍がオーストリア部隊を降伏させて、11月13日ウィーン入城を果たしたため、敗走したオーストリア皇帝フランツ2世がここモラヴィアへ後退、ロシア皇帝アレクサンドル1世率いるロシア軍と合流している。オーストリア領内であるが、この記述から早々と友好国であるロシアがモラヴィアに駐屯していたことが知られる。
◎跪(だく):一般には「跑足」「諾足」と書く。馬が前脚を高く上げてやや速く歩くこと。並足(なみあし)と駆足(かけあし)の中間の速度又はその足並みを言う。
◎『ああ、神樣! 神樣!』:この前の「神樣!」の後に、は底本では一字空けがないが、補った。
◎自分が事のいきさつを說明しようとしている:「いる」はママ。
私は何を考へることであらう?
私が死ななければならない時に、若しそのときに考へることができたとしたならば、私は何を考へることであらう?
一生を徒(あだ)に過ごしてしまつたこと、寝て暮してしまつたこと、まどろみ通したこと、人生の賜物を翫昧し得なかつたことなどを考へるであらうか?
「どうしたといふんだ? もう死ななければならないのか? こんなに早く? さういふ譯(わけ)があるものか? おれには未だ何一つ爲し遂げられなかつたぢやないか……おれは、やつと何かしようと目論んだばかりなんだ!」
私は過ぎ去つたことを思ひ起すであらうか? 自分の過ごして來た、僅かばかりの耀かしい刹那を、貴い面影や面貌(かほだち)を思ひ浮べるであらうか?
自分の惡行を憶ひかへすであらうか、――さうしてあまりにも遅い後悔の念の燃えるやうな苦しみが私の胸におし寄せて來るであらうか?
あの世で私を待ちうけてゐるものについて考へるであらうか、……さうして事實、何ものかが其處で待つて居るのであらうか?
いや、……私は考へまいとするであらう、――行く手を暗くしてゐる怖ろしい闇から自分自身の注意を外らしたいばかりに、强いひて何らかの取りとめのないことに專念することであらう、……さういふ氣がする。
私の眼の前で、曾て或る瀕死の男は乾胡桃(ほしぐるみ)を嚙ましてくれないといつて、泣言をいつてゐた、……しかもそこには、彼の陰つた眼の底には、傷ついて將に死なうとしてゐる鳥のちぎれた翼のやうに、何ものかが苦しげに慄へてゐるばかりであつた。
一八七九牛八月
「いかばかり美はしく、鮮やかなりしか、薔薇の花は……」
どこかで、いつか、かなり前に、私は一つの詩を讀んだ。それはすぐに忘れてしまつてゐた、……けれど最初の一行は、はつきりと私の記憶にとどまつてゐた。
「いかばかり美はしく、鮮やかなりしか、薔薇(さうび)の花は……」
今は冬、霜は窓硝子を蔽ひ、暗い部屋には一つの蠟燭が灯(とも)つてゐる。私は部屋の隅にひつそりと坐つてゐる、すると腦裡には絕えず、
「いかばかり美はしく、鮮やかなりしか、薔薇(さうび)の花は……」
といふ句がひびくのである。
ゆくりなくも、ロシヤの郊外の家の、低い窓に向つてゐる自分の姿が胸にうかぶ。夏の夕べは靜かに暮れて、夜に移る。暖い空氣の木犀草(レセダ)や菩提樹の花の香りがする。窓邊にはさしのべた手に軀をもたせ、頭を肩によせかけて、一人の少女が坐つてゐる、――物をもいはず、瞬きもせずに、最初の星の現れるのを待つかのやうに、空を見つめてゐる。物思はしげな眸は何といふ素直な感激にあふれてゐるのであらう。開いた脣、何か訊ねたさうな脣は何といふ、人を動かすやうな無邪氣さをもつてゐるのであらう。まだ花の全く咲ききらない、まだ何ものにも掻きみだされたことのない胸は、何といふおだやかな息づかひをしてゐることであらう。初々(うひうひ)しい面ざしは何といふ淸らかな優しいものであらう! 私は敢へて彼女と話をしようとはしない、――しかも彼女は私にとつていかばかり愛(いと)しい女なのであらう、またどんなに私の胸はときめいてゐることであらう。
「いかばかり美はしく、鮮やかなりしか、薔薇の花は……」
しかも部屋の中はいよいよ暗くなつてゆくばかりである、……燃え盡きかかる蠟燭はぱちぱちと音を立てる。低い天井には蒼白い影が搖れる。霜は部屋の外に軋めき、荒立つ、――もの悲しい老人の呟きが忍ばれる……
「いかばかり美はしく、鮮やかなりしか、薔薇の花は……」
またちがつた面影が私の前に現れる、……田舍の生活の樂しげなどよめきが聞こえる。二つの亞麻色の頭が互ひにもたれ合ひながら、まともに私を見てゐる。薔薇色の頰は笑ひを抑へて顫へ、手はなつかしげにもつれ合ひ、若々しい、善良な聲は入りみだれて聞こえる。また少し向うの、小ぢんまりした部屋の奥では、別の同じやうに若々しい手が指をまごつかせながら、古いピアノの鍵盤の上を走つてゐる。ランネルのワルツの曲は大長老めいたサモワルの煮えたぎる音を消すことができぬ……
「いかばかり美はしく、鮮やかなりしか、薔薇の花は……」
蠟燭の火はちらちらして消えかかる、……誰かしら、あんなに嗄れた聲で、微かに咳嗽(せき)をしてゐるのは? 私の足もとには、私のただひとりの伴侶(とも)の老いた牡犬(ペス)がうづくまり、寄り添つて身振ひしいてゐる、……私は寒い、……私は凍える、……ああ、みんな死んでしまつた……死んでしまつた、……
「いかばかり美はしく、鮮やかなりしか、薔薇の花は……」
一八七九年九月
■訳者中山省三郎氏による「註」
・「いかばかり美はしく、鮮やかなりしか、薔薇の花は……」:イ・ミヤトリョフ(一七九六-一八四四)の詩「薔薇」の一節。
[やぶちゃん補注:これはプーシキンと同時代の諷刺詩人イヴァン・セルゲーヴィチ・ミャトリョフ(Иван Петрович Мятлев 一七九六年~一八四四年)の一八三五年作の“Розы” (薔薇)の詩の冒頭連(以下、ロシア語版ウィキペディア「Розы」より引用)。
Розы
Как хороши, как свежи были розы
В моём саду! Как взор прельщали
мой!
Как я молил весенние морозы
Не трогать их холодною рукой!
Как я берёг, как я лелеял
младость
Моих цветов заветных, дорогих;
Казалось мне, в них расцветала
радость,
Казалось мне, любовь дышала в
них.
Но в мире мне явилась дева рая,
Прелестная, как ангел красоты,
Венка из роз искала молодая,
И я сорвал заветные цветы.
И мне в венке цветы ещё казались
На радостном челе красивее,
свежей,
Как хорошо, как мило соплетались
С душистою волной каштановых
кудрей!
И заодно они цвели с девицей!
Среди подруг, средь плясок и
пиров,
В венке из роз она была царицей,
Вокруг её вились и радость и
любовь.
В её очах — веселье, жизни
пламень;
Ей счастье долгое сулил,
казалось, рок.
И где ж она?.. В погосте белый
камень,
На камне — роз моих завянувший
венок.
ロシア語の出来る知己の協力を得て、以下に最初の一連だけを文語和訳してみた。
ああ、かくは美しき、鮮やかなりし、
わが庭の薔薇の花よ! わが眼差し惹きつけてやまざりし!……
ああ、かくも花冷えに祈りし、
そが冷たき手をな触れそ! と……
この詩人についての邦文記載はネット上に見受けられない。出来れば、原詩を全文訳してみたい(この知己とはもうじき別れねばならぬので無理強いは出来ぬのだ)。どうか識者の御教授を願うものである。]
・ランネル:墺太利の作曲者(一八〇一-四三)。
[やぶちゃん補注:Josef Lannerヨーゼフ・ランナー。オーストリアのヴァイオリン奏者にして作曲家。ダンス音楽団の団長としてシュトラウス一族に先行してウィンナー・ワルツを確立し、「ワルツの始祖」と呼ばれる。]
□やぶちゃん注
◎薔薇(さうび):以上のルビは、表記の通り、引用の二回目まで振られている。
◎木犀草(レセダ):双子葉植物綱フウチョウソウ目モクセイソウ科Resedaceaeに属す草本類。ヨーロッパ・西アジア・アフリカ北部及び南部、北アメリカ西部の温帯・亜熱帯に分布し、日本には本来は自生しない。但し、モクセイソウReseda odorataやホザキモクセイソウReseda luteolaなどが園芸種として栽培されて野生化している。和名はその花の香が双子葉植物綱モクセイ目モクセイ科モクセイ属 Osmanthusの香と似るからであるが、お馴染みのこちらは常緑小高木で形状も種も全く異なる。
◎善良な聲は入りみだれて聞こえる:底本では「善良な聲は入れみだれて聞こえる」とあるが、本底本に先行する昭和22(1947)年八雲書店版では普通に「入りみだれて」である。誤植と判断し、正した。
◎牡犬(ペス):つい、犬の名前かと思ってしまうが、原文は“пес”【p’ós】で、ロシア語で「犬」「雄犬」という立派な普通名詞である(罵って「やくざ」「ならず者」という有難くない意味もある)。
航海
私は小さな汽船に乘つて、ハンブルグからロンドンへ航海した。乘客は私たちふたりであつた。私と小さな猿と。猿はウィスチッチ種の牝で、ハンブルグの或る商人が、イギリスの同業者に贈物として遣るものであつた。
猿は細い鎖で、甲板の椅子の一つに繋がれて、もがいたり、鳥のやうに哀れな聲で啼いたりしてゐた。
私が傍を通るたびに、猿は黑い冷たい手を差しのべて、悲しげな、まるで人間のやうな眼で私を覗くのであつた。私が猿の手をとると、猿は啼いたり、もがいたりはしなくなつた。
この上もない凪であつた。海は鉛色の、さゆらぎだもしない卓布(ぬの)のやうに、あたりに擴がつてゐた。海は小さく思はれた。濃霧は海の上にかかつて、マストの尖端(さき)をも覆ひかくし、やはらかな靄に眼は眩み、疲れるばかりであつた。太陽は、この靄の中に、どんよりとした赤い斑點(てん)のやうに懸つてゐた。それが暮れる前には不思議に奇妙に燃えついて赤らむのであつた。
重たい絹織物の褶のやうな、長い、眞直な褶は、次から次へと舳を遠ざかつて、絕えず圓を描き、皺をよせては、また圓を描き、つひには皺をのばして、ゆらゆらと搖れて消えて行つた。けうとくめぐる車輪(くるま)にかきみだされた水の泡は卷きあがり、ミルクのやうに白くなり、微かにシューシューと音を立てながら、蛇のやうにうねうねした波をつくつて砕け、やがてまた融け合ひ、靄に呑まれ、また消えて行つた。
猿の啼きごゑのやうに絕えず、もの哀れげに艫のあたりで小さな鐘が鳴つてゐた。
時として海豹が浮びあがつた、――だしぬけにもんどり打つて、かき乱されたとも見えぬ平らかな水の面にかくれて行つた。
船長といふのは、日に焦けた陰氣な顏をした、默りがちな男で、短いパイプを燻らしては、腹立たしげに、澱みかかつた海の上に唾を吐いてゐた。
私が何を訊いても、きれぎれに、ぶつぶつ答へるばかりであつた。仕方なしに、私はただひとり道づれである猿の方を向かなければならなかつた。
私は猿の傍に坐つた。猿は啼きやんで、また私の方へ手をさしのべた。
じつと動かない霧は、眠氣を催しさうな濕りを私達ふたりに浴せかける。同じやうにぼんやりした氣持になつてゐた私たちは互ひに肉親のやうに近く寄り添つて暮してゐた。
いま私は微笑んでゐる、――しかし、あの時の私には、ちがつた氣持があつた。
私たちはみな同じ母の子である。――そして私には哀れな小さな獸が、あんなに私をたよつて、おとなしくなり、肉親のやうに私に憑りかかつてくれるのが嬉しかつたのである。
一八七九牛十一月
□やぶちゃん注
◎ウィスチッチ種:原文は“уистити”で、この単語での確認は取れないのであるが、恐らくは霊長(サル)目直鼻猿亜目真猿下目広鼻小目マーモセット(キヌザル)科マーモセット(キヌザル)亜科マーモセット(キヌザル)属Callithrixの仲間、特に英名Common Marmosetコモンマーモセット Callithrix (Callithrix) jacchusではないかと思われる。体長約16~21㎝・尾長30㎝強、ブラジル東部に棲息、耳の周辺の白い飾りのような毛と首を傾げる仕草が特徴である。ヨーロッパでは古くからペットとして飼われており、現在も猿の仲間のペットとしては一番人気だそうである。
◎褶:「ひだ」と読む。
◎舳:「へさき」と読む。
◎艫:「とも」と読む。船の後方部分。船尾。「舳」の反対語。
◎海豹:「アザラシ」と読む。哺乳綱ネコ(食肉)目アシカ(鰭脚)亜目アザラシ科Phocidaeに属する鰭脚海棲哺乳類の総称。
◎焦けた:「焦(や)けた」と読む。
◎燻らしては:「燻(くゆ)らしては」と読む。
N・N・
しとやかに、しづかに、泣くこともなく、微笑むこともなく、何事にも冷やかな心の眼を向けて、煩はされることもなく、御身は人生(このよ)の行路(みち)を辿る。
御身は氣だてよく聰明に、……しかも、あらゆるものは御身にゆかりなく、――御身は何人をも必要とはしない。
御身は美しい、――御身がその美しさを重んじてゐるかゐないかは、誰ひとりいふことができないであらう。……御身自らは人に冷やかである、……そしてまた人の憐れみを求めはしない。
御身の眸は深い、――けれども物思はしげなものではない。その明るい深味のなかは空虚(うつろ)である。
かうしてシャンゼリゼェの通りをグルックの重々しい調べにつれて、――悲しむこともなもなく喜ぶこともなく、しとやかな影は過ぎてゆく。
一八七九年十一月
[やぶちゃん注:これは私の勝手な想像であるが、「N・N・」(原文は“H. H.”である。ロシア語で匿名氏、何某を示すのか? 「馬鹿者」の注でも提示したが、識者の御教授を乞う【二〇一九年五月十五日追記:現在、ブログで進行中の生田春月訳の生田の註釈で解明した。これはラテン語「Nomen nescio」の略で、「ノーメン・ネスキオー」と発音し、「Nomen」はラテン語で「名」、「nescio」は「知らない・認識しない」の意。匿名にした「何某(なにがし)」的謂いである。】)なる人物は、冒頭注で述べたツルゲーネフのパトロンであった、評論家にしてイタリア座の劇場総支配人ルイ・ヴィアルドーLouis Viardotの妻、著名なオペラ歌手であった、そうしてツルゲーネフの「思い人」ヘンリッテ=ヴィアルドー・ルイーズ・ポーリーヌ・マリーHéritte-Viardot, Louise Pauline Marieではあるまいか。「グルック」は、クリストフ・ヴィリバルト・フォン・グルックChristoph Willibald (von) Gluck(1714~1787)であろう。オーストリア及びフランスを活動拠点として、主にオペラを手がけた音楽家である。代表作は歌劇“Orfeo ed Euridice”「オルフェオとエウリディーチェ」(特にその間奏曲「精霊たちの踊り」が著名)。]
留れ!
留れ! いま私が御身を見るままに、永久に私の記憶にとどまるがよい。
脣から最後の感激の聲は離れ去つた、――眼は耀きもせず、閃きもしない、――眼は幸福の重荷、あの御身が表はすことのできた美しさ、御身の勝ち誇つた手、疲れはてれた手を、その方へ差しのべてゐるかとも思はれたその美しさに惠まれた意識の重荷を負はされて陰(くも)つてゐる!
何といふ光が、太陽の光よりも淡く、淸らかに、御身のからだの隅々に、御身の着物の極めて小さな襞にまで注がれてゐたのであらう。
いかなる神がおまへの亂れた捲髮に、愛撫の息を吹きかけて、なびかせたことであらう?
神の接吻(くちづけ)は御身の大理石(なめいし)のやうに蒼ざめはてた額に今も燃えてゐる!
これこそ、――暴かれたる祕密、詩歌の、人生の、戀愛の祕密である! これが、これが即ち不死そのものである! これを外にして不死なるものはあり得ない、またあるを要しない。この瞬間において、御身は不死のものである。
この瞬間は過ぎて行くであらう、――さうして御身はまた一塊(くれ)の灰、一人の女性(をんな)、一人の子供となつてしまふ、――しかも、それが御身にとつて何であらう!――この瞬間に御身は一切を超越したのである、あらゆる流轉するもの、無常なるものを離れてしまつたのである――この御身の瞬間は永遠にきはまりないであらう。
留れ! さうして私をも御身の不死にあづからしめよ、私の魂のうちに御身の永遠そのものの反射をおとしてくれ!
一八七九年十一月
高僧
私は隠者あり、聖徒である一人の僧を知つてゐた。彼はただ祈りをのみ愉しみにして暮してゐた、――祈りに專念して、實に久しい間、教會堂の冷たい床(ゆか)の上に佇ちつづけてゐたので、足が膝から下が腫れて、柱かと思はれるほどになつてゐた。彼はそれをも感じないで、佇つたまま、――祈禱しづけてゐた。
私は彼の心をよく識つてゐた。おそらくは彼を羨んでゐたであらう。それはそれとして、彼もまた私の心を識つて、私を非難などせぬがよいのだ、彼の法悅にはな及びがたい私ではあるけれど。
彼は努力によつて彼自身を、自身の恨むべき「自我」を減却することを得たのである。尤も私もまたさうではあつたが、私は自尊心からではなしに、祈りといふものを全くしないのである。
私の「自我」は、私にとつて、おそらく彼が自身の「自我」に對する以上に、重苦しく、忌まはしいものなのである。
彼は自分自身を忘れる方法を見出した、……私もまた見出してほはゐる、……不斷にといふ彼わけではないけれど。
彼はいつはりを言ひはしない、……尤も、私もまたいつはりを言ひはしない。
一八七九年十一月
我等はなほも鬪はう!
採るにも足らないやうな瑣細なことが、人一人をまるで變へてしまふことがあるものである。或る時、私は深い思ひに沈みながら大きな道を步いてゐた。
重苦しい豫感が胸を壓しつけて、私は憂鬱な氣持にとりつかれてゐた。
私はふと頭をもたげた、……私の前には高い白楊(ポプラ)が兩側に竝んだ間を矢のやうに遠く道が走つてゐる。
それを橫ぎつて、その道を橫ぎつて、私から十步ほどむかうのところを、明るい夏の日ざしに金色にかがやきながら、雀の一家族が列をつくつて跳ねてゐた、いかにも元氣よく、面白さうに、時を得顏に!
わけても、中の一羽は、胸をふくらませて、何ものをも怖れないかのやうに誇りかに、あたりかまははず囀りながら、傍へ傍へと跳ねていつた。ああ、征服者だ――全く!
この時、空高く一羽の大鷹が輪を描いて飛んでゐた、おそらく、大鷹は征服者を貪り食ふやうに運命づけられてゐたのであらう。
私はこの有樣を眺めて、笑ひ出し、軀(からだ)をゆすぶつた――すると憂鬱な考へは、忽ち消しとんでしまつた。同時に私は勇氣、剛膽、生への欲求を感じたのである。
私の上にも輪を描いて飛ばば飛べ、ああ、わが大鷹……
我らはなほも鬪はう、何のその!
一八七九年十一月
祈り
人は何を祈らうとも、つまりは奇蹟を祈るのである。いかなる祈りも次の言葉に歸してしまふ、「偉大なる神よ、二二が四たることなからしめ給へ」
ただかうした祈りのみが人から人への祈りなのである。全世界の靈に祈り、天の神に祈り、カントの、ヘーゲルの、純粹なる形なき神に祈ることは不可能なことであつて、考へられもしない。
しかも、人格のある、生ける、形のある神ですらもが、二二が四たることのないやうに爲しうるものであらうか?
すべての信者は「得る」と答へなければならぬ、またこのことを自らに信じさせなければならぬ。
とはいへ、理性が彼をして、かかる荒唐無稽に反抗せしめたとしたら?
その時にはシェークスピアが助けに來るであらう、「この世の中はな、さまざまなことがあるものだ、なあ、ホレーシォ……」等々。
けれども若し眞理にを楯にして彼が反駁されたとしたら――かの有名な問ひを繰り返すべきである、「眞理とは何ぞや?」と。
さらば、飲み且つ樂しみ――祈らうではないか。
一八八一年六月
■訳者中山省三郎氏による「註」
・「この世の中はな、さまざまなことがあるものだ、なあ、ホレーシォ……」:ハムレットの有名な句。第一幕、第五場にいづ。
□やぶちゃん注
◎本篇の挿絵は明らかに左部分が殆んど擦れて印刷されていない。数字を用いた面白いデザインであるだけに、残念である。
ロシヤ語
疑ひ惑ふ日にも、祖國の運命を思ひ惱む日にも、御身のみがわが杖であり柱であつた。ああ、偉大にして、力强き、眞實にして自由なるロシヤ語よ! 御身がなかつたならば、今、わが國に行はるるあらゆる事どもに面して、どうして絕望に陷らずに居られようか? 然しながら、かかる言葉が偉大なる國民に與へられたものでないとは、到底信じえられぬことである。
一八八二年六月
拾 遺
奇遇
夢
私は夢を見てゐた。暗く低い空のもとに、大きなごつごつした巖の散在した荒寞たる草原を私は步いてゐた。
巖の間には小さな徑が通つてゐた、……私はどこへ何のために行くのかもわからずに小徑を辿つて行くのであつた……
ふと、小徑のむかうの方に、淡い雲のやうなものが現れた、……私ははたと眼をつけ始めた。小さな雲はやがて、すんなりした背の高い白い服を著て、細い薄色(うすいろ)の帶をしめた女の姿となつた、女はいそぎ足に、私からどんどん遠ざかつて行く。
私は女の顏を見なかつた、髮の毛すらも見なかつた、それは波のやうなやはらかな布につつまれてゐた。けれど私の心は女のあとを追つてゐた、女は美しく、あてやかな、なつかしいひとと思はれた、……私は切に追ひつかうとし、女の顏を……女の眼を……一目なりとものぞいてやらうと考へた……。私は女の眼をよく見たかつた。よく見ななければならなかつた……。
しかも、どんなに私があせつても、女はいよいよ足早に進んでゆくのである。どうしても 追ひつくことができぬ。
するうちに、小徑にあたつて、平たい、大きな石があらはれて、……女の行く手を遮つてゐた。女は石の前に蹈みとどまつた……、私は喜びと心待ちにふるへながら騙け寄つて行つ た。心のなかには、かすかな恐怖の念を覺えながら。
私は一言(ひとこと)も、ものを言はなかつた、……が、女はしづかに私の方をふりむいた。
私は未だに眼を見なかつた。眼は瞑ぢられてゐた。
顏は白く、……身にまとふ物のやうに眞白であつた。あらはなな手はじつと垂れてゐた。まるで、すつかり石のやうになつてゐた。軀(からだ)といひ、顏だちといひ、全く大理石のやうであつた。
女はいささかも肢體をまげずに、徐ろにうしろにさがつて、平たい石のうへに身をよせた。もう私も墓のうへの彫像のやうに身をのばして、女と竝んで、巖かに兩手を胸におしあて、仰向けに橫たはつてゐるのである。私もまた石のやうになつてゐる自分を感じた。
暫く經つた、……女はふと起きあがつて私のもとを離れていつた。
私は女にとびつかうとした。.けれど少しも動けず、組みあはせた兩手を擴げることも出來なかつた。ただいひ知れぬ悲しみにみたされて、後を見送るばかりであつた。
すると女はひよいと振りむいた。私は活々として、表情に富んだ顏に、明るい射るやうな 眸を見た。女は私に眸を向けて、口もとに微かな微笑をうかべてゐた……ひつそりと……。「起きてきて、こちらへおいでなさい。」
けれど私はなほ身動きができなかつた。
すると女はまた笑つたかと思ふと、愉しげに頭をうち振りながら足早に遠ざかつて行つた。 頭の上には、ふつと小さな紅い薔薇(さうび)の花冠が耀いた。
しかも私は自身の墓石のうへに身じろぎもせず、ものをも言へずに居るばかりであつた。
-八七八年二月
■訳者中山省三郎氏による「註」
・奇遇[やぶちゃん注:主標題に注記号。]:この詩の原稿には「小說に用ひる」と附記されてゐた。これによつてツルゲーネフが散文詩のいくつかを小說の素材として書きつけておいたことが推定される。この一篇は最初、「女」と題されてゐた。
□やぶちゃん注
◎蹈みとどまつた……:「蹈」は「踏」の書きかえ字。
◎顏だちといひ、全く大理石のやうであつた。:本底本に先行する昭和22(1947)年八雲書店版では「顏だちといひ、全く大理石像のやうであつた。」とある。
私はあはれむ
私はあはれむ、自分自身を、他人(ひと)を、あらゆる人々を、獸を、鳥を……生きとし生けるものを。
私はあはれむ、いわけなきものを、年老いしものたちを、幸(さち)うすきものを、惠まれしものを……幸うすきものにもまして、惠まれしものを。
私はあはれむ、勝ち誇れる首領を、偉大なる藝術家を、思想家を、詩人(うたびと)を。
私はあはれむ、人殺しを、その犠牲(いけにへ)を、醜なるもの、美なるもの、抑壓さるるもの、抑壓するものを。
私はどうしてこのあはれみを逃れたらよいのか? あはれみゆゑに私は生きた空もないのだ……。あはれみよ、また更に憂鬱よ。
ああ、憂鬱よ、あはれみをまじへた憂鬱よ! これにまさる苦しみがどこにあらう。
もはや私は羨んだ方がましであらう、たしかに! そこで私は石を羨む。
一八七八年二月
[やぶちゃん注:「いわけなき」は、本底本に先行する昭和22(1947)年八雲書店版では「いはけなき」。ただこの語は歴史的仮名遣では「わ」「は」どちらも存在するので誤記とは言い難い。意味は、子供っぽい・幼い、の意。]
呪詛
私はバイロンの「マンフレッド」を讀んでゐた……。マンフレッドの殺害された女の怨靈があらはれて、彼に奇怪きはまる呪詛の言葉を述べる場面に到つて、私はおのづからなる戰慄を覺えてゐた。
あの、記憶してもおられることであらう、「これから眠れぬ夜々が來ればよい、御身(おんみ)の邪惡な魂が、眼に見えず執拗につきまとふ妾を感じ、魂そのものが御身自身の冥府ともなるやうに」
さて、私には別のことが胸に浮んだのである。……あるとき、ロシヤにゐた時分に、私は父と子、二人の農夫の酷い爭ひを目擊したことがあつた。
つひに息子は父に忍ぶべからざる罵言をあびせかけた。
すると老母が「呪つてやんなさい、ワシリーヰッチ、呪つて、不孝者めを!」と叫んだ。
「まあ、いいさ、ペトローヴナ、」老父がかすかな聲で應へて大きく十字を切つた。
「母親の眼の前で父親の白くなつた髯に唾をかけるやうな息子が、こいつにも出來るんだ!」
この呪ひの言葉は私には「マンフレッド」の呪詛よりも怖ろしかつた。
息子は何か言ひかかつてゐた、が、よろめいて顏を眞蒼にしたかと思ふと、出て行つてしまつた。
一八七八年二月
■訳者中山省三郎氏による「註」
・この詩は最初「マンフレッド」と題されてゐた。[やぶちゃん補注:「マンフレッド」“Manfred”はイギリスのロマン主義詩人バイロンGeorge Gordon Byronが1817年に書いた同名の長大な劇詩の主人公の青年の名。マンフレッドはかつて恋人を死に追いやってしまった罪の記憶を抱えて悩む。神霊と交感する能力を会得している彼は精霊を呼び出し、その記憶の「忘却」を求めるが、精霊は不可能と答える。「会得」は自在であっても「喪失」は思うままにならないことを知った彼は、「喪失」の最上の形態としての「死」に立ち向かうため、アルプスの山中を彷徨い続けた末、遂にその恋人の霊と再会を果たし、許しを乞うと共に自らも息絕えるのであった。なお、後掲する「拾遺」の「幼な兒の泣くこゑ」をも参照されたい。]
□やぶちゃん注
◎記憶してもおられること:ママ。本底本に先行する昭和22(1947)年八雲書店版では「記憶しても居られること」。
雙生兒
私は雙生兒(ふたご)の口論してゐるのを見た。二人は顏の輪郭といひ、東表情といひ、髮の色合といひ、身の丈といひ、軀(からだ)つきといひ、全く瓜二つであつた。彼らは互ひに憎しみあつてゐた。
彼らはひとしく憤怒(ふんぬ)に齒をくひしばつてゐた。間近につき合はした、奇妙なほどよく似た顏はひとしく憤怒に燃えてゐた。
よく似た眼を共にかがやかし、眼にただ事ならぬ樣子を偲ばせてゐた。聲色(こわいろ)の同じ罵言(ののしり)の言葉は、同じようにゆがめた脣から洩れて來た。私は見るに忍びなかつたので、一人の手をとつて鏡の前に連れて行き、かういつてやつた、「もうこの鏡の前で罵倒した方がましなやうだぜ、……君には別に變りはなからうから、……ところが僕はさうなりや氣が樂になるんだ……」
一八七八年二月
[やぶちゃん注:「罵言の言葉は、同じように」はママ。]
黑鶫
私は寢床に橫たはつてゐた。けれど眠れはしなかつた。心の煩ひが、私を責め苛むのである。空合(そらあひ)のさだまらない日に、灰色の丘陵のいただきを絕え間なく、次から次へと這ひめぐつてゆく雨雲のやうに、重苦しい、けうとい思ひが、私の腦裡を徐かに行き過ぎるのであつた。
ああ、年老いて、心は冷え、頭に霜をいただくやうになつてからでなければできないやうな、やるせない傷ましい戀を私はしてゐたのであつた、……この世の苦しみにも触れずして、心は若さを失ひ、……いや、若くある必要もなければ、若かつたところで仕方もないやうな老年の日の戀を……。
私の前には、ほの白い斑(ほし)のやうに窓の幻影があらはれてゐた。部屋のなかのありとあらゆる物象(もの)がおぼろげに眼にうつつてゐた。それらのものは、夏の晨朝(あさ)の灰色の薄ら明りにいよいよ靜まりかへつてゐるやうに思はれた。私は時計を見た。三時に十五分前であつた。家の壁のむかうにも深い靜寂が感ぜられた、……さうして露、はてしない露の海。
この庭の露のなかに、私の窓のすぐ上のあたりには、もう黑鶫がさわがしく聲たかく、誇りかに歌を歌ひ、囀つてゐるのであつた。よく透る聲が、私の部屋に忍び込んで、部屋中に みなぎり、私の耳に、味氣ない不眠と、苦しい心の傷みに悩まされた私の腦裡にみちあふれた。
その聲は永遠なるものを感じさせ、恆に新鮮なるもの、あくまでも冷靜なるもの、永遠なるものの力を感じさせる。自然それ自身の聲が黑鶫の聲に聞かれるのである。いつ始まつたともない、美しい無意識な聲は、決して終りはしないであらう。
黑鶫は歌ひ、黑鶫は口ずさぶ、誇りかにこの黑鶫。かれはいつものやうに、あの變ることのない太陽がぢきに輝き出すことをよく識つてゐる。黑鶫の歌には、自分自身のものとては 何ひとつなかつた。千年の昔にこの太陽を喜び迎へた黑鶫は、やがてまた、ともすれば、い ささかの私の死灰が、風のまにまに眼にもとまらず、あのいきいきした聲をあげる黑鶫のか らだをとりかこむかも知れない幾千年の後にも、あの太陽をよろこび迎へることであらう。
哀れな、魯かしい戀の奴の、ひとりの男、私はお前にいはう、ありがとう、小鳥よ、もの憂い時に、私の窓かげにふと聞えて來たお前の力强い氣ままな歌にお禮をいはう。
小鳥の歌は私をしづめてはくれなかつた。私もまた、やすらひを求めもしなかつた。けれど、私の眼は淚に濡れてゐた。ゆくりなくも、胸にはしづかな死の辛苦(くるしみ)がうごめき、高まりかかつてゐた。ああ、あのひともまた、若々しく、みづみづしくはないのか、愉しい聲のやうに、夜あけの歌うたひよ!
今日といはず、明日の日に私を涯ない大洋に運び去る冷たい波が、あたりからおしよせて來てあふれてゐる時に、自分自身を苦しみ、嘆き、わずらひ、考へるがものがないのではなからうか。
淚は流れてゐた。けれど、いとしい黑鶫は、何ごともなかつたかのやうに、あどけない、幸福な、永遠の歌を歌ひつづけてゐた。
ああ、やうやく現れた太陽の光が、私の頰の何といふ淚を照し出してくれたことであらう。
しかも私は前のやうに微笑んでゐた。
一八七七年七月八日
□やぶちゃん注
◎黑鶫:これが正しく本邦の和名のクロツグミと同一であればスズメ目ツグミ科ツグミ属クロツグミTurdus cardisであるが、原題は“Черный дрозд”これはロシア語のウィキペデイアで検索すると、スズメ目ツグミ科クロウタドリTurdus merula(英名Blackbird)である。クロウタドリは大型のツグミの一種で、生息域は広範で、ヨーロッパ及びアフリカ地中海沿岸から中近東、インド・中央アジア南部・中国東南部・オーストラリア東南部・ニュージーランド等に生息する(オーストラリアとニュージーランドは人為的移入と推定されている)。ヨーロッパ西部では留鳥として通年見られるが、ロシア・中国にあっては夏鳥である(従ってこれはフランスで書かれたともロシアで書かれたとも読めるが、日付から押してフランスでの作と思われる。根拠は次の「黑鶫 また」の中山氏の注を参照)。体長は28cm程度で、雄は黒色に黄色の嘴で、目の周りも黄色を呈する。雌は雄に比して全体に淡色で、嘴や眼の周囲の黄色部分は雄程に目立たない。本邦では迷鳥として稀にしか見られない。クロウタドリの画像と声は以下の“nature rings”というドイツ語のページを参照されたい。クロウタドリの写真の下にある“Gesang des Maennchens”をクリックすると鳴き声が聴ける。
◎魯かしい戀の奴の:「魯(おろ)かしい」と読む。「奴」は「やっこ」と読むか、「やつがれ」と読むかであるが、ここは「恋の虜の」「恋の奴隷の」の意味で用いているので、自己卑称である「やつがれ」ではなく、「下僕」「召使」の意味の「やっこ」で読みたい。
◎ありがとう:ママ。
◎わずらひ:ママ。
黑鶫 また
私はまた床に臥つてゐる……、私はまた眠れない。夏の晨朝(あさ)は今も私を四方からおしつつんでゐる、私の窓の下には今も黑鶫が歌つてゐる、こころのなかには相も變らぬ傷手(いたで)が燃えあがつてゐる。
けれど私のこころは黑鶫の歌にやはらぎもしない、それに私はいま私の傷手(いたで)を思ひもしない。
ほかの數へきれないほどの生々しい傷手(いたで)が私を惱ますのである。傷からは眞紅の滴をなして、いとしい、惜しい血が、あの高い屋根から街の埃や芥のうへに落ちる雨水のやうに、たえ間もなく、味氣なく流れる。
今や幾千の同胞や友だちは、遠いあなたの城塞(しろ)の堅固な墻壁のもとに亡んでゆく、幾千の同胞(はらから)たちは、無能な司令官たちのために、張りひろげられた死の罠に、はかない犠牲(いけにへ)として投げこまれる。
彼らは呟きもせずに亡びる。彼らは惜しげもなく亡ぼされる、彼らは自分自身を悲しみもしない、またその無能な司令官たちとても彼らを悲しみはしない。
そこには正しいものも、罪を犯したものもない。打禾機(うちて)は穗束(ほたば)をたたく、空穗であるか、粒がついてゐるかは、時が經てばわかるであらう。それにしても私の傷手は何なのか。私の苦惱は何を意味するのか。私は敢へて泣かうとはしない。しかも頭は熱し、氣は失ふ。また私は、罪びとのやうに厭はしい枕邊に頭をかくす。
熱い、重々しい滴が私の頰にあつまり、流れる、……脣のうへにも滑り落ちる、……これは何なのか、淚か、……それとも血か?
一八七八年八月
■訳者中山省三郎氏による「註」
・今や幾千の同胞や友だちは、遠いあなたの城塞の堅固な墻壁のもとに亡んでゆく:一八七八年七月下旬、ツルゲーネフはペエテルブルグにおもむき、翌八月にはモスクワを經て故郷スパッスコエに歸り月末にそこを發つてゐる。この散文詩は故郷で書いたものと想像される。このときの歸國は十六年間絕交してゐたトルストイと和解し、彼の家を訪問したことによつて記憶される。時は露土戰爭の終つたばかりで二人は戰爭について長い議論をしたと傳へられる。殊にブルガリヤのプレヴナ等に於て露軍が作戰を誤り、甚大なる損害を蒙つたことなどが話題の中心をなしたものと推察され、それが直ちにこの詩の内容を形づくつたものと考へられる。
□やぶちゃん注
◎黑鶫:(実はクロツグミではなくクロウタドリ)は直前の詩「黑鶫」の私の注を参照のこと。
◎墻壁:「墻」は「牆」と同字で、「牆壁」は垣根・築地(ついじ)・土塀の意。ここではプレヴェン要塞の城壁を言う。
◎中山氏が言及する「露土戰爭」は、まさにそのブルガリア戦線を舞台にした私の電子テクストであるガルシンの「四日間」に詳しいので、是非、お読み頂きたい。
◎中山氏が言う「ブルガリヤのプレヴナ」は、バルカン半島のプレヴェンПлевен(ブルガリア語:アルファベット変換するとPleven)で、現在のブルガリアのプレヴェン州の州都である。1877年から1878年にかけての露土戦争の際には、ここのプレヴェン要塞が最大にして最後の激戦地となった。包囲したロシア軍に対して要塞を死守せんとするオスマン軍のオスマン・パシャの抵抗は凡そ5箇月に及び、ロシア軍は多くの戦死者を出した。
塒もなく
いづこにこの身をかくすべきか? 何を私は目論むべきか? 私ははぐれた鳥のやうによるべない身である。ふふ毛を逆立てながら小鳥は花も葉もない枯木の枝にとまつてゐる。いつまでとまつてゐるのも堪へ難い、……けれど、どこへ飛んで行つたらよいのか?
やがて小鳥は翼をひろげる――おそろしい大鷹に逐ひ立てられた鳩のやうにまつしぐらに、はるか遠くつき進んでゆく。どこかの綠のかくれがに身をかくすことはできないものか? どこかに、たとひ暫くなりと、小さな塒を營むことはできないものであらうか?
小鳥は飛ぶ、飛ぶ、心をくばりながら下を瞰おろす。
下には黃色い荒野がある、こゑもなく靜まりかへつて死んだやうな……
小鳥はいそぐ、荒野をわたる、たえず瞰おろす、心して、ものかなしげに。
下には海が、黃いろな、荒野のやうに死にはてた海が、……海はざわめき動いてはゐるが、はてしない海鳴りに、波の單調なうねりにまた生氣なく、どことして身をかくすやうなところもない。
あはれな小鳥は疲れはてた、……翼をあげる力も弱る。すばやく飛ぶこともできなくなる。空高く舞ひのぼることができたなら、……しかもこの底ひも知れぬ虚空(そら)にはまた巢を營み得ないのではないか?
小鳥はつひに翼をたたむ、……呻きの聲もいよいよ低く、小鳥はつひに海にと墜ちる。
波が小鳥を呑んでしまふ、……相も變らず波は心なげにざわめきながら押してゆくばかりである。
さて私はどこへ身を寄せたらよいのか? もうこの私も海に墜ちるべき時ではないのかな?
一八七八年一月
[やぶちゃん注:「塒」は「ねぐら」である。本詩については、1958年岩波文庫版の神西清・池田健太郎訳「新散文詩」(但し、実は高校生向けに一部表現を恣意的に改竄しているので注意されたい)による訳を私の「アンソロジーの誘惑/奇形学の紋章」に引用しているので、比較されたい。]
杯
私はをかしい……わたしは自分自身に驚く。
私の苦惱は空(そら)ごとではなかつた、私には生きることがまことに苦しく、私の感情は苦しみに滿ち、ただ侘しい。それにも拘らず、私は、感情(こころ)に光彩(ひかり)を與へようと努めているのだ。私は形象を、また對照を求める、私は辭句を整へる、言葉の余韻や諧調をたのしむ。私は彫物師のやうに、貴金屬師のやうに、自身の仰ぐべき毒を盛る杯を熱心に、型どり、刻み、樣々な装飾を施す。
[やぶちゃん注:本詩には末尾の年月のクレジットがない。次の次の「処生訓」と同時に書かれた(とすれば1978年4月)可能性があるが、そのような場合でもほかでは同じクレジットを附しているので不審。「私の感情は苦しみに滿ち、ただ侘しい。」の部分の「感情」も直後の読みに従って「感情(こころ)」と読むべきである。実際、本底本に先行する昭和22(1947)年八雲書店版では、こちらにも「こころ」のルビがある。本詩については、1958年岩波文庫版の神西清・池田健太郎訳「新散文詩」(但し、実は高校生向けに一部表現を恣意的に改竄しているので注意されたい)による訳を私の「アンソロジーの誘惑/奇形学の紋章」に引用しているので、比較されたい。]
誰の罪
女はわたしにしなやかな蒼白い手をさしのべた……、けれど、私はひどく組々(あらあら)しくその手を突きのけた。若い、やさしい顏に當惑の色があらはれた。若々しい、人のよい眼が私をとがめるやうに見つめてゐる。若い、淨らかなこころには私の氣持が呑みこめないのである。
「私に何の科(とが)がありますの?」彼女の脣がつぶやく。
「あんたの科つて? あんたに科がある位なら、とてもまばゆい大空の奥の奥で、とても晴れやかな天使だつて、それより先に科があるだらう。
けど、兎に角、あんたの罪は僕にとつては大きいんだ。あんたはそれが識りたいのか、あんたには分からない重い罪を、僕にはどうしても說明する勇氣のないこの重い罪を?
それはほかでもない、あんたが若いのに、このわしが老いぼれてゐるといふことだよ。」
[やぶちゃん注:本詩には末尾の年月のクレジットがない。次の「処生訓」と同時に書かれた(とすれば1978年4月)可能性があるが、そのような場合でもほかでは同じクレジットを附しているので不審。もし、これが1879年以降のものとすれば、60を越えていたツルゲーネフのロシアでの恋人、若き女優マリヤ・Г・サヴィナであった可能性が高い。恋多きツルゲーネフを考えると、クレジットの消去はそれを隠すためでもあったかも知れない。本詩については、1958年岩波文庫版の神西清・池田健太郎訳「新散文詩」(但し、実は高校生向けに一部表現を恣意的に改竄しているので注意されたい)による訳を私の「アンソロジーの誘惑/奇形学の紋章」に引用しているので、比較されたい。どちらがよいか? 勿論、神西・池田訳の方が如何にも都会的でダンディではある。口ずさんで見れば確信犯的にお洒落である――であるが、しかし、この詩の加齢臭と瑞々しい香の対比という本質は、一体どちらがくっきりと示しているか? このツルゲーネフの散文詩集(但し、実はこの詩は以下の表題の出版にあっては除外されたのであるが)の最初の題名は“SENILIA”――「老いらく」――なのである。]
處生訓
安らかに暮らしたいのか? それなら人々と交はるがよい、けれどもひとりで生きるがよい。何ごとをも企てず、何ものにも未練をもたぬがよい。
幸福に暮らしたいのか? それなら懊惱(くるし)むことをまなぶがよい。
一九七八年四月
[やぶちゃん注:本詩については、1958年岩波文庫版の神西清・池田健太郎訳「新散文詩」(但し、実は高校生向けに一部表現を恣意的に改竄しているので注意されたい)による訳を私の「アンソロジーの誘惑/奇形学の紋章」に引用しているので、比較されたい。]
爬蟲
私は身を斬られた爬蟲を見た。血漿と自身の排泄物の粘液とを浴びて、かれは猶ほ身をくねらせ、わなわなとふるへながら鎌首をもたげては舌を出してゐた、……かれはなほ脅かした、……力なく脅かしてゐた。
私は侮辱された三文文士の雜文を讀んだ。
自身の垂涎に咽び、自身の醜惡な膿汁のなかに抛り出されてゐる彼もまた、身をすくめ、身をくねらせてゐた、……彼は正當防衛をしてみせると言ひ立てた。彼は血鬪によつて、自己の名譽を! 名譽を恢復してみせると申し出たのである。
私はけがらはしい舌を出してゐるあの斬られた爬蟲を思ひ出した。
一八七八年五月
作家と批評家
作家が自分の部屋の仕事机に向つてゐた。そこへ突然、批評家が入つてくる。
「どうしたつていふんだ!」と彼はさけんだ、「君はやつぱり書いたり、作つたりしてるんだね。あんなに僕がやつつけたのに。大論文や覺書や通信のなかで、どう考へたつて君には何らの才能もないことや、もとだつてありはしなかつたこと、君が本國の言葉さへ忘れてしまつたことや、いつも君は無學をさらけ出すので有名だつたのに、今では氣もぬけて、古臭くなつてしまつて、眼もあてられなくなつたことを、二二が四といふやうにはつきりと證明してやつたのに!」
作家は落ちつきはらつて批評家の方を向いた。
「君は僕をやつつける論文や雜文をずゐぶん書いたね、」と彼は答へた、「ところで君は狐と猫の寓話(はなし)を知つてるだらうね? 狐には、かなりずるいところがあつたのに、まんまと罠に落ちこんだ。猫はただ樹に攀ぢのぼるよりほかなかつた。……そして犬も猫には寄りつけなかつた。僕はまあかういつたものさ。僕は君の論文に對する應答(こたへ)として、君のことを或る本の中ですつかり暴露しておいてやつた。君の賢明な頭へ僕は道化の帽子をかぶして置いたよ。だからその帽子をかぶつて子孫の前で威張つたらいいのさ!」
「子孫の前で!」と批評家は哄笑(わら)つた、「さも君の本が子孫のころまで殘りでもするかと思つて! 四十年五十年と經(た)ちや、誰一人讀むものかね。」
「大きに御尤もな話だ、」と作家は答へた、「けど僕はそれでもいいよ、ホメー口スは永遠のテルシテスを書いたけれども、君たちには五十年位が目安なんだから、どうせ君なんか道化にして貰つたつて、長持はないんだから。さよなら、……氏、まあ、僕に本名で君を呼ばせたらどうかね、尤もそれは必要もなからうがね。たとひ僕がゐなくたつて、みんなが名前は呼ぶだらうから。」
一八七八年六月
「ああ、わが靑春よ! ああ、わが生氣よ!」
ああ、わが靑春よ! ああ、わが生氣よ、といつかはわたしも叫んだものであつた。かう叫んだ頃には、私はなほ若く、生氣にあふれてゐた。
私はただその頃には、物悲しい感情によつて、自身を甘やかし、――自身は他人(ひと)の前では悲しみ、心の中ではひそかに愉しまうとしてゐたのである。
いま私は沈默し、失われたものを大聲をあげて歎き悲しまうともしない、……失われたものは絕えず微かな痛みのやうに私をひどく責め苛みはする。
いや! 考へねえ方がましなんでさ! 百姓たちはさういつてゐる。
一八七九年六月
■訳者中山省三郎氏による「註」
・「ああ、わが靑春よ! ああ、わが生氣よ!」:少しく用語は異なるが、ゴーゴリの「死せる魂」第一部第六章第二段の終句を轉用したものと見られる。
□やぶちゃん注
◎本詩については、1958年岩波文庫版の神西清・池田健太郎訳「新散文詩」(但し、実は高校生向けに一部表現を恣意的に改竄しているので注意されたい)による訳を私の「アンソロジーの誘惑/奇形学の紋章」に引用しているので、比較されたい。
……に
それはよく囀る燕でもなく、鋭い强い嘴で、堅い岩を刳(ゑぐ)つて巢をつくつたすばしこい岩燕でもなかつた……
それは無情なよその家族に、少しづつ住みなれて、つひにその家のものとなつたあなただつたのだ。辛抱づよい、聰明な愛(いと)しいひとよ!
一八七八年七月
私は高い山々の間を行くのであつた
私は高い山々の間を、淸らかな河のほとりを
谷から谷へと行くのであつた……
瞳に映るありとあらゆるものは、
ただひとつのことを私に語る。
自分は愛されてゐた、愛されてゐた、この私は!
私はほかのことを忘れはててゐた!
空は高く光り、
葉はそよぎ、鳥は歌ふ……
雲は嬉々としていづくともなしに
つぎつぎに飛びわたり……
あたりのものは何もかもめぐみにあふれ、
しかも心はめぐみに不自由はしなかつたのだ。
波ははこぶ、私をはこぶ、
海の波のやうに寄せてくる波!
こころにはただ靜寂があつた、
喜びや悲しみを越えて……
やうやくにして心に思ふ、
この世はみな私のものであつた! と。
かかる時に私はどうして死ななかつたのか、
さうしてふたり何ゆゑに生きて來たのか、
歲月(としつき)は遠くうつる、……うつろふ月日(つきひ)
さうしてあの愚かしくめぐまれた日にもまして、
何ひとつとして甘美(うるは)しく明るい日を
與へてはくれなかつたのだ!
一八七八年十一月
私がこの世を去つたなら
私がこの世を去つたなら、私と名のつくものがあとかたもなく灰になつて消え失せてしまつたなら、――ああ、わたしのただ一人の友よ、眞實、心の底から深く深く愛してゐたひとよ、生涯わたしのまことをたててくれたひとよ――あなたは私の墓には來ないがよい、……來ても仕方がないのだよ。
わたしを忘れてはくれるなよ、……とはいつても日ごとのわづらひや、足不足(そくふそく)の中に、わたしのことなど想ひ出してはいけないよ、……わたしは生活の邪魔をしたくはないのだから、安らかな時の流れをかきみだしたくはないのだから。尤も獨り居のとき、優しい心の持主にはよくあるやうに、おどおどした、わけのわからない哀愁にとらへられた時には、わたしたちが愛讀してゐた本の一冊を取つて、そこから――ほら、覺えてゐるだらうね?――よく二人が思はず一緒にひそかな甘い淚を流したあの頁を、あの行を、あの言葉をお探しよ。
それを讀んだら、眼をつむつてわたしに手をさしのべるがよい。……居らなくなつてしまつたあなたの友に、あなたの手をさしのべるがよい。
わたしは、このわたしの手で、あなたの手を握ることはできないだらう。わたしの手は地(つち)の下で冷たくなつて居るだらうから。
けれど、きつとあなたは自身の手に輕い接觸を感じてくれるだらうとおもふと、私はほん たうに愉快になれる。
そして私の姿がおまへの前に現れる。あなたの瞑ぢた眼瞼の下から淚がこぼれる。丁度いつかわたしたち二人が、「美」に感激の淚を流した時のやうに。ああ、わたしのただ一人の友よ、ああ、眞實、こころの底から深く深く愛してゐるあなたよ!
一八七八年十二月
[やぶちゃん注:本詩は、中山氏が「解說」に引いている、1879年冬、ツルゲーネフが故郷スパッスコエに戻った際、親交のあった若い女優マリヤ・Г・サヴィナ(当時61歳であったツルゲーネフの恋人であった)一人を書斎に呼んで、ある一つの詩を朗読したというエピソードを想起させる(会話に現われるスタシュレーヴィチСтасюлевич Михаил Матвеевич(M.M.Stasjulevich)は、「散文詩」の発表を促し、自身が編集していた雑誌“Вестник Европы”(Vestnik Evropy『ヨーロッパ報知』)に掲載させた人物である)。
(前略)『これは散文詩です、私はもうこれをスタシュレーヰッチに送りました、ただ一つ永久に發表したくないものを除いて。』『散文詩つて何ですの?』とサヴィナは好奇心に駆られた。/『私はこれを讀んできかせたい、これはねもう散文なんかではないんですよ、……これはほんたうに詩で(彼女に)というふのです。』興奮した聲で彼はこの物哀しい詩を讀んだ(サヴィナは言つてゐる、『私は覺えてゐます。この詩にはそこはかとない愛情、一生涯の長い愛情をえがいてゐたことを。(あなたは私の花をすつかり摘みとり、あなたは私の墓には來ないでせう)と書いてありました。』)朗読が終わると、ツルゲーネフは暫く默りこんでゐた。『この詩はどうなるのでせう?』とサヴィナはいつた。『私は燒いてしまひませう、……發表するわけには行かない、さういふことをしたら非難されます。』(後略)中山氏はこの後に続く解説で、『サヴィナに對していつたやうに、發表すれば非難されるとの心づかひや何かのよつて永遠に消え去つたものもあるであらう。』と述べておられ、この「彼女に」という詩の消失の可能性を語っているようにも見えるのであるが、私はこのサヴィナに詠んで聞かせた詩とは、この「私がこの世を去つたなら」であったのではないかと思っている。サヴィナの以上の談話ノートの内容には後略した箇所でサヴィナの大きな記憶違いが指摘されている(スパッスコエでの朗読エピソードは1881年に同定されるが、「散文詩」の原稿がスタシュレーヰッチの手に渡ったのは翌年1882年のことであり、サヴィナがそのことを知るのはツルゲーネフとの談話では有り得ず、やはり解説中に記されている9月29日附書簡によってである)。更に中山氏はこのサヴィナの談話ノートに対して、『「確かな話とはいひ難い」といはれる』という形容を附しておられるのである。そもそもサヴィナの引用する「あなたは私の花をすつかり摘みとり、あなたは私の墓には來ないでせう」という詩句から「そこはかとない愛情、一生涯の長い愛情」は感じ取れるであろうか? 少なくともこれが、感動的な「そこはかとない愛情、一生涯の長い愛情」の詩を聴いて、その中でも長く印象に残る詩の一節だったとは、どうころんでも言い難いと私は思う。しかしここが「私と名のつくものがあとかたもなく灰になつて消え失せてしまつたら、あなたは私の墓に來ないがよい」であったとしたらどうであろう? いや、もしかすると「彼女に」とツルゲーネフが言ったこの表題は、「あなた、サヴィナに捧げる」という意味のツルゲーネフの示唆であったのかも知れぬし、サヴィナの思い込みによる記憶の変形が加えられたのかも知れぬ。いずれにせよ、私はこの幻の消失したと思われている詩「彼女に」こそ、この「私がこの世を去つたなら」であったのだと信じて疑わないのである。なお、本詩については、1958年岩波文庫版の神西清・池田健太郎訳「新散文詩」(但し、実は高校生向けに一部表現を恣意的に改竄しているので注意されたい)による訳を私の「アンソロジーの誘惑/奇形学の紋章」に引用しているので、比較されたい。最後に、本底本に先行する昭和22(1947)年八雲書店版では詩末が「ああ、わたしのただ一人の友よ、ああ、眞實、こころの底から深く深く愛してゐたあなたよ!」と過去形になっている。私は断然、この現在形の方がよいと思う。]
砂時計
月日は痕跡(あと)をもとどめず、單調に、すみやかに過ぎ去つてゆく。
生くる日はおそろしく疾く過ぎて行つた。丁度、瀑布にかかる川の流れのやうに疾く、音もなく。
また死の神の瘦せおとろへた手に握られた砂時計のやうに、いつも同じやうにさらさらとこぼれ落ちる。
わたしが床に橫たはつてゐると、闇が四方から私を押しつつんでしまふ。その時、私は流れ去る人生(いのち)のあの微かな絕え間ない囁きを感ずる。
わたしは人生(いのち)を惜しみはしない、また更に爲し得るかも知れないことをも哀惜しはしない、……わたしは苦しいのだ。
わたしの枕邊にはあの死の神の不動の姿が佇つてゐるやうな氣がする。片方の手には砂時計を持つて、片方の手は私の心臓のうへに置いて……
胸の奥で私の心臓は顫へ、高鳴つてゐる、まるで大いそぎに最後の鼓動を打たうとでもしてゐるかのやうに。
一八七八年十二月
夜半に眼ざめて
夜半に私は寢床から起き上つた……、誰かが私を呼んだやうな氣がしたのである……、暗い窓のむかうの方で……。
私は窓硝子に顏をおしあてて、耳をすまし、眼を瞠つて――待つてゐた。
けれど窓のむかうには樹々が單調に、しかも雜然と――ざわめいてゐるばかりであつた。濃い、煙のやうな雲は絕えず動き、うつろひながらもいつまでも同じであつた――天(そら)には星かげもなく、地には火影(ほかげ)もない。外はさみしく、もの憂い、……丁度わたしの心の中のやうに。
しかもふと、どこか遠くの方から、悲しげな聲が聞こえて來て、いよいよ高まり、近づいて來て、人間の聲となつた。やがてまた低くなり靜かに消えて行つた。
「さよなら! さよなら!」
聲の消えてゆく時に、わたしはこんな言葉を耳にした。
ああ! わたしの過去のすべては、わたしのあらゆる幸福は、わたしが愛し、いつくしんだありとあらゆるものは、永劫にわたしを去つて、再びここに歸つては來ないのだ!
わたしは飛び去つて行く私の生涯にぬかづき、寢床のうへに橫たはつた……、まるで墓にでも入つたやうに……。
ああ、これがまことの墓ならば!
一八七九年六月
ひとりでゐると……
分身
ひとりでゐると、永いこと全くひとりでゐると、急に誰かもうー人ほかの人間が同じ部屋にゐて、竝んで坐つてゐるやうな、または背後(うしろ)に佇(た)つてゐるやうな氣がして來る。
ふり向いたり、或は不意にゐる氣はひのするあたりへ眼を遣つても誰も眼につかふ筈がない。そこで人が身近にゐるといふ感じは消えてしまふ……、けれどしばらくするとまた還つてくる。
時をり私は兩手で頭を押さへながら、その人間のことを考へて見る。
抑々何人(なんびと)であらう? 何者であらう?……彼はわたしに無緣のものではない、……彼は私を知つてゐる、……私も彼を知つてゐる、……彼は私と血を分けたもののやうである、……しかも兩人(ふたり)の間には深淵が橫たはつて居る。
私は彼から物音や言葉を期待してゐない、……彼は口をきくことも、動くこともできない、……しかもなほ彼はわたしに語る、……何かしらぼんやりした、わけのわからないこと、……わかつてゐることを語る。彼は私の秘密をすつかり知つてゐる。
私は決して怖れはしない、……が、一緒に居るのは不安であり、また私の心の奥まで見拔いて居るやうな人間を有(も)つてゐたくはない、……それにしても私に全く緣のない獨立した存在であるとは考へられない。お前は私の分身ではないか? 私の過去の自我ではないか? たしかにそれに相違ない、私のよく識つてゐる過去の自分と――今の自分との間には、こんな深淵が橫たはつてゐるのか?
彼はわたしの命令によつてやつて來るのではない、自分で勝手にやつて來らしい。
厭はしい獨り居の佗しさに包まれてゐるのは、兄弟よ、お前にも私にも決して愉しいことではない。
しかし、待つてゐるがいい、……私が死んだなら、過去の私よ、今の私よ――私たちは一しよにならう。さうして永遠に歸らぬ幽魂(たましひ)の世界に向つてひたすらに步みを運んで行かう。
一八七九年十一月
[やぶちゃん注:本誌はサブタイトルを持つが、もしかすると複数の他篇が「ひとりでゐると……」のタイトルのもとに存在した可能性を窺わせる。なお、第六段目末尾の「私の過去の自我ではないか?」は、私の底本では「ないか」の部分が「か」の植字からかすれて、以下は句読点も記号も見えない。前後の中山氏の訳の表現法から判断して「?」を配したが、友人が本底本に先行する昭和21(1946)年八雲書店版(但し、これは完全な同一稿ではなく、表記に微妙な違いはある)で確認をしてくれ、やはり「?」はあった。]
愛への道
あらゆる感情は愛に、情熱に歸することができる。嫌惡も、憐憫も、冷情、尊敬の念も、友情も、恐怖も、――また憎惡すらも。さうだ、あらゆる感情が……けれどもただ一つの例外がある。即ち感謝の念である。
感謝は負債(おひめ)である。すべての人は自身の負債(おひめ)を返す、……しかも、愛は――金ではない。
一八八一年六月
巧言
私は巧言(フラーツア)をおそれる。擯(しりぞ)ける。しかも巧言をおそれることもまた――一つの衒氣(プレンジヤ)である。
私たちの複雜な生活は巧言(フラーツア)と衒氣(プレンジヤ)――この二つの外國語の間を浮びただよふ。
一八八一年六月
□やぶちゃん注
◎巧言(フラーツア):原文は“фразы”で、これは単に句・成句、フレーズ・メロディの他に、美辞麗句の意を持つ。
◎擯ける:音は「ヒン」、「擯斥」は排斥と同義で、「擯の義は人をしりぞけることを言う。
◎衒氣(プレンジヤ):原文は“претензия”で、これは法的な権利要求・請求権、商取引上のクレーム・苦情の他に、自負・自惚れの意を持つ。「衒氣」という日本語は、自惚れて自分を偉そうに見せようとする気持ちを言う。
◎この二つの外国語:“фразы”はフランス語や英語の“phrase”で、この語はギリシャ語由来のラテン語“phrasis”(言うこと・語ること)が語源である。また、“претензия”はアルファベットで綴ると“pretenziya”となり、これは英語の“pretender”やフランス語の“prétentieux”と極めて綴りと発音が似ており、衒学者・詐称する者・勿体ぶった奴・気取った奴・誇張した文体等を言う。これは英語由来の語と思われる。
質朴
質朴よ! 質朴よ! 御身(おんみ)をもつて人は神聖なるものといふ。しかも神聖なるものは――人の世のことではないのである。
謙讓――これはそれでもよい。謙讓は驕傲を抑壓し、驕傲を征服する。しかし、忘れてはならぬ。征服感そのもののうちには既に驕傲のこころの潛むを。
一八八七年六月
[やぶちゃん注:「驕傲」は「きょうごう」と読み、驕慢に同じ。驕(おご)り昂ぶること。]
婆羅門教徒
婆羅門教徒は、おのれが臍をうちながめ、「オム」の一語を復誦す。復誦することによりて神に近づく。
けれど人間の軀(み)のうちにあつてこの臍ほど神聖でないものがあるであらうか? この臍ほど、うつそみの果敢なさを、はつきり想ひ起させるものがあるであらうか?
一八八一年六月
□やぶちゃん注
◎表記について:底本は『「オム」の一語を』の鍵括弧後部が『「オムの」一語を』となっているが、誤植と判断し、表記のように直した。
◎「オム」:原文は“«Ом!»”。現在は一般に「オーム」と表記され、アルファベットでは“om”又は“oM”と表記される(実際には“o”と“m”が同化して鼻母音化し「オーン」【õ:】と発音する)。バラモン教のみでなく、広くインドの諸宗教及びそこから派生し世界に広がった仏教諸派の中にあって神聖視される呪的な文句・聖音。バラモン教ではベーダ聖典を誦読する前後及びマントラ(mantra:宗教儀式における賛歌・祭文・呪文を記した文献の総称)を唱えたりや祈りの前に唱えられる聖なる音である。バラモン教の思想的支えとなるウパニシャッド哲学にあっては、この聖音は宇宙の根源=ブラフマン(Brahman:梵)を表すものとして瞑想時に用いられる。後の近世ヒンドゥー教にあっては、「オーム」の発音としての“a”が世界を維持する神ビシュヌを、“u” が破壊神シバを、“m”がブラフマンの人格化された創造神ブラフマーに当てられ、その「オーム」という一組の音によって三神は実は一体であること、トリムールティTrimurtiを意味する秘蹟の語とされる。なお、これは仏教の密教系にも受け継がれて「恩」(おん)として真言陀羅尼の冒頭に配されている。唐の般若訳「守護国界主陀羅尼経」にはヒンドゥー教と同様、仏の本体・属性・顕現を意味する三身を、即ち「ア」が法身(ほっしん)を、「ウ」が報身(ほうじん)を、「ム」が応身(おうじん)を指すとし、三世諸仏はこの聖音を観想ことによって全て成仏すると説かれている。
◎うつそみ:現身。この世に生きる人間又はこの世、人の世の意。「うつせみ」の古形。「現(うつ)し人(おみ)」が「うつそみ」となり、更に「うつせみ」と変化した。「身」の字や「空蝉」は後世の当て字。
御身は泣きたまふ…………
御身はわたしの悲しみに淚を流す。私もまた、私を憫んでくれる御身に心を寄せて淚を流す。
けれど御身は、御身の悲しみにみづから淚を流したのではなかつたか。御身はただその悲しみを――私のうちに見出しただけではなかつたか。
一八八一年六月
[やぶちゃん注:なお、本詩については、1958年岩波文庫版の神西清・池田健太郎訳「新散文詩」(但し、実は高校生向けに一部表現を恣意的に改竄しているので注意されたい)による訳を私の「アンソロジーの誘惑/奇形学の紋章」に引用しているので、比較されたい。]
愛
すべての人はいふ――愛は最も神聖な、最も高邁な感情であると。爾(おんみ)の「自我」のうちに他の「自我」が入りこむ。爾(おんみ)は擴がり、毀(やぶ)れる。爾(おんみ)の肉は今は遠くへ去つてゐる。爾(おんみ)の「自我」は殺されてゐる。しかも、血と肉をもてる人間が、このやうな死にさへも心をかき亂される。復活するのは不滅の神々ばかりである。
一八八一年六月
眞理と眞實
「なぜ、あなたは靈魂不滅といふことをそんなに尊重するんですか。」と私は訊いた。
「何故ですつて? さうすれば、永遠の疑ふべからざる眞理をつかむことができるからです。……それに、私の考へではここに最高の幸福があるといふわけです!」
「眞理を把握するといふことにですか?」
「勿論、さうです」
「失禮ですが、あんたはこんな場面を想像することができますか? 數人の若者たちが集まつて互ひに議論をしてゐる、……そこへふいと一人の仲間が入つて來る、ただごとならぬ眼つきをして、感激のあまり息もつまりさうで、口もきけない位である。『どうしたんだ? どうしたんだ?』『いや、諸君、聞いてくれたまへ、おれはすばらしい眞理を發見したのだ! 投射角は反射角に等しい。それからまだある、二點間の最短距離は直線だ!』『ほんとかい! ああ、何ていふ幸福なこつた!』と若者たちは異口同音に叫ぶ。感激のあまり互ひに抱擁す合ふ! といふやうな場面をです。あなたにさういふ場面は想像できないでせうね。あなたは笑つてらつしやる……だが無理もない話です。たしかに、眞理は幸福を授けることはできない、……與へるのは眞實といふものです。幸運といふものは人間の、この地上のことですからね、……私は眞實のためには死をもいとひません。眞實のうへにこそ全生活が築かれてゐるのです、しかしどうしたら『それを把握する』ことができるのでせうか。それにまだどうしてここに幸福を見出したらいいのでせうか。』
一八八二年六月
鷓鴣
恢復の望みのない、永わづらひに疲れはてた私は、床についてゐて、考へた。これな何の報いなのか? 何の因果で私は、この私は、こんな罪(とがめ)をうけるのか? たしかに間違つてゐる、間違つてゐる!
稚い――二十羽ほどの――鷓鴣の一族が、刈株の茂みのなかに群がつてゐた。彼らは互ひに身を寄せ合ひ、幸福さうに、柔らかい土の中を掻きあさつてゐる。俄かに犬が彼らを驚かす。彼らは一せいに飛び立つ。鐵砲の彈丸(たま)が飛んで來て翼を射たれ、すつかり傷ついた一羽の鷓鴣は堕ちる。苦しいながらも足を曳きずつて、苦蓬(にがよもぎ)のしげみに身をかくす。
犬が探し廻つてゐる間に、この不幸な鷓鴣も、きつとかう思ふであらう、「わたしのやうな鷓鴣が二十羽ゐた、……けれど、なぜこの私だけが、鐵砲に射墜(いおと)されて、死ななければならないのか? 何の報いで、ほかのきやうだいたちの前で、私はこんな憂き目を見るのか? いやいや、間違つてゐる。」
病める者よ、死の手がお前を探し出さないうちは、橫になつてゐるがよい。
一八八二年六月
NESSUN MAGGIOR DOLORE
碧の空、柔毛(にこげ)のやうに輕い雲、花の芬香(にほひ)、若人の妙(たへ)なる聲音(こわね)、偉大なる藝術作品の輝かしい美、麗しい女(をんな)の顏に浮ぶ幸福の微笑と魅するばかりの雙の眸、……何のために、何のためにこれらのものはあるのであらう?
二時間おきに忌まはしい、效能(ききめ)のない藥の一匙――いま要るものは、いま要るものは、ただそれだけだ。
一八八二年六月
■訳者中山省三郎氏による「註」
・NESSUN MAGGIOR DOLORE:「これにまさる惱みはあらじ。」ダンテ「神曲」地獄篇、第五歌一二一行以下、ダンテが地獄の第二圏に至つて、フランチェスカ・ダ・リミエに逢ふ條に出てゐる句。この詩は最初「嗟嘆」(STOSZSEUFZER)と題されてゐた。
□やぶちゃん注
◎NESSUN MAGGIOR DOLORE:この題名は実際には“Nessun maggior dolore che ricordarsi del tempo felice nella miseria.”と続き、イタリア語で「逆境にあって幸せな時代を思い出すこと程つらいことはない。」といった意味である。シチュエーションは次の注を参照されたいが、昭和62(1987)年集英社刊寿岳文章訳「神曲」の訳では、地獄の苦界の只中にいる彼女がダンテの『フランチェスカよ、あなたの苦患(くげん)は、悲しさと憐れみゆえに、私の涙をひき出す。/だがまず語りたまえ。甘美なためいきの折ふし、何より、どんなきっかけで、定かでない胸の思いを恋とは知れる?』という問いに対する答えの冒頭で、『みじめな境遇に在(あ)って、しあわせの時を想いおこすより悲しきは無し。』と訳される。以下、フランチェスカはパオロ・マルテスタとのなれそめを語る。なお、特にこの台詞について寿岳氏は以下の注を附している。『ダンテは多くの古典をふまえてこれらの言葉を書いたと考えられるが、ポエティウス(四八〇-五二四)の『哲学の慰め』二の四、三-六行とのかかわりは最も深い。』。
◎中山氏の註にある「神曲」中の「フランチェスカ・ダ・リミエ」(「エ」はママ。)について、寿岳文章訳「神曲」の脚注を引用しておく。ダンテがヴィルジリオに『つねに離れず、頬よせて、いともかろがろと風を御するかに見える、あの二人とこそ語りたい。』の「二人」に附された注である。『フランチェスカ・ダ・リミニとパオロ・マルテスタ。北イタリアのラヴェンナ城主グイド・ミノーレ・ポレンタの娘フランチェスカは隣国の城主で狂暴かつ醜男ジャンチオット・マラテスタと一二七五年頃政略結婚させられた。初めジャンチオットは結婚の不成立をおそれ、眉目秀麗の弟パオロを身代わりに立てたが、婚後事実を知ったフランチェスカのパオロに対する恋情はいよいよつのり、フランチェスカにはジャンチオットとの間にできた九歳の娘が、そしてパオロにも二人の息子があったにもかかわらず、一二八五年頃のある日、ジャンチオットの不在を見すまして密会していたところ、不意に帰宅したジャンチオットにより、二人は殺された。フランチェスカはダンテがラヴェンナで客となっていたグイド・ノヴェロの伯母なので、特に親近の感が強かったに違いない。(後略)』。
◎中山氏の註にある“STOSZSEUFZER”であるが、これはドイツ語で、正しくはエスツェットを用いて“Stoßseufzer”(シュトース・ゾイフツァ)と綴る。「深いため息」「危急の際の短い祈り」という意味である。
車に轢かれて
「その呻きごゑは何だ?」
「私は苦しんでゐるのだ、ひどく苦しんでゐるのだ。」
「小川の水が石にあたつて立てるざわめきを聞いたことがあるかね?」
「ああ……けどそれが一體どうしたつていふんだ?」
「そのざわめきと君の呻きごゑが、同じ音だからさ、それだけの話さ。違ふところはただ、小川の水のざわめきは人の耳を樂しませることができるだらうけど、君の呻きごゑは何人の憫れみをもうけやしないだらうつていふんだ。君はその呻きを抑へちやあいけないよ。けど覺えておいで、これはみんな單なる音だ、打ち碎かれた樹の軋む音のやうに、……音……音に過ぎないんだ。」
一八八二年六月
幼な兒の泣くこゑ
その頃はスヰスに暮らしてゐた。私は餘りにも若く、餘りにも氣儘に餘りにも孤獨であつた。朝夕は重苦しく、怏々として慰むことなく、何もしないうちから退屈し、やるせない心になつて、いらいらしてゐるばかりであつた。この世のなかのあらゆるものが、何の役にもたたない、はかないものに思はれた、……さうして、若いものにはよくあることながら、私も秘そかに惡意をもつて、一つの考へに執着してゐた……それは自殺をねがふ心であつた。「見てをれ、……復讐をしてやる……」と私は考へた。けれど何を見てをれといふのか、何に復讐するのか? 私にもわからないことであつた。ただ私の軀のうちに、血が、樽に密閉された葡萄酒のさうに沸き立つてゐただけであつた、……この酒は外に出してやらねばならぬ、それを壓へつけてゐる樽をうち割るべき時である……といふ風に考へられた……。バイロンが私の神であつた。マンフレッドが私の英雄であつた。
ある晩のこと、私はマンフレッドのやうに、あの氷河のはるか上の方の、人里遠く離れた山の巓(いただき)に出かけて行かうと決心した。そこには草も木もない、ただ生氣のない巖石が累々としてゐる。物音はすこしも聞えない、瀧の音さへも耳には入らない!
一體そこで何をするつもりだつたのか、……自分にもわからない、……おそらくは息を引き取るつもりででもあつたらう……
私は出かけて行つた……
私は永いこと步いた。初めは大きな道を、次には小徑(こみち)を、いよいよ高く登つて行つた、――最後の小舍や木立が見えなくなつてからもう大分經つた、……あたりはただ石ばかりになつた。間近な雪のはげしい冷氣が吹きよせてくる。けれど雪はまだ見えぬ。――眞黑な塊をなして夜の影がどこからともなしに押し寄せてくる。
つひに私は立ちどまつた。
何といふ怖ろしい靜寂だ!
これが死の王國だ。
此処處では極度の悲哀と幻滅と輕蔑の念をいだいた、生きた人間といへば、私一人だけなのだ……。私は浮世を逃れ、生きてゆくことを欲(ねが)はない、ただ一人の生きた意識のある人間なのだ。不思議な恐怖が私を凍らせてしまつた。けれど、私は自分を偉大な人間のやうに想像して見た!
マンフレッドのやうな――それで充分だ!
一人だ! 私は一人だ! と繰り返した。
死というものに顏をつき合はしてゐるただ一人の人間だ。もはや最後の時ではないのか?
さうだ……最後の時だ。さらば、はかない世界よ。私はおまへを蹴飛ばさう。
すると丁度その瞬間に、急に私の耳に奇しげな、なかなか合點のゆかない、しかも確かに生きた、……人間の聲が忍び込んで來た、……私は驚いて、耳をすました、……その聲は繰返して聞えて來た、……さうだ、……これは……これは子供の聲だ、赤兒の泣きごゑだ、……遠く、太古の昔から、浮世を離れてゐたやうに思はれてゐたこの人里離れた荒涼たる峯の上に子供の泣きごゑ!……
驚愕は俄かに他の感情と入れ替つた。それは息もつまるばかりの歡喜の情であつた! この叫びごゑを、弱々しい哀れな、しかも私に救ひを齎す泣きごゑをたよりに、私は足の趨くままに驀地(まつしぐら)に馳けて行つた!
間もなく私の行手に、ちらちらと小さな灯影が耀き出した。私はなほも足を早めて、――やがてひしやげた小舍を見つけ出した。石を積み重ねて、屋根に板をのせた……このやうな小舍はアルプスの牧人(まきびと)たちの、しばしの身の置きどころとなつてゐる。
私は半ば開いてゐる扉を推して、おづおづと小舍に入つて行つた、まるで死が私の後にのしかかつて來てでもゐるかのやうに。
木椅子(ベンチ)に腰をおろして、若い女が子供に乳をくれてゐた、夫らしい牧人(まきびと)が竝んで坐つてゐた。ふたりはさつと私を見つめる。けれど、私は何ひとつ言ふこともできず、……ただ微笑み、頭えを振つてゐるばかりであつた……。
バイロンよ、マンフレッドよ、自殺の夢よ、私の自衿(ほこり)よ、私の威勢(ちから)よ、おまへたちは何處へ行つてしまつたのか!……
こどもは泣きつづけてゐた、……私はその子を、その母親を、その夫(つま)を祝福した。
ああ、今の今、この世に生れたばかりの人の子の、もえつくやうな泣きごゑよ、おまへは私を救つてくれたのだ! 私を癒(いや)してくれたのだ。
一八八二年十一月
□やぶちゃん注
◎「マンフレッド」“Manfred”はイギリスのロマン主義詩人バイロンGeorge Gordon Byronが1817年に書いた同名の長大な劇詩の主人公の青年の名。マンフレッドはかつて恋人を死に追いやってしまった罪の記憶を抱えて悩む。神霊と交感する能力を会得している彼は精霊を呼び出し、その記憶の「忘却」を求めるが、精霊は不可能と答える。「会得」は自在であっても「喪失」は思うままにならないことを知った彼は、このツルゲーネフの詩のように、「喪失」の最上の形態としての「死」に立ち向かうため、アルプス山中を彷徨い続けた末、遂にその恋人の霊と再会を果たし、許しを乞うと共に自らも息絶えるのであった。なお、「拾遺」の三番目にある「呪詛」は、当初「マンフレッド」という題であった。参照されたい。
◎趨くままに:「趨(おもむ)くままに」と読む。
◎驀地に:正しい読みは「ばくちに」で形容動詞連用形。急に起こるさま、まっしぐらに進むさま、一気に突き進むことを言う。
私の樹
むかしの大學の友達で、今は富裕な地主の貴族である男から手紙が來た。彼は自分の領地に私を招いたのであつた。
私は、彼が永いこと病氣で、失明し、中風に罹つて步くことさへもできないやうになつて居ることを知つてゐた、……私は直ぐに出かけて行つた。
廣い庭園の或る竝木路で私は彼に逢つた。夏だといふのに、毛皮の外套にくるまつて、瘦せこけて、猫背になつた彼は、眼のうへに綠色の光線除(ひかりよ)けをかけて、小さな手押車に乘つてゐた。華やかな仕著(しきせ)を着た二人の召使が車を押してゐた。
「この私の承け繼いだ土地(ところ)、私の何千年を經た樹のかげに、あんたはよく來てくれましたね!」と彼は死人のやうな聲でいふのであつた。
彼のうへには天幕のやうに、幾千年を經た檞の老樹(おいき)が枝をさし擴げてゐた。
そこで私は考へた、「ああ、何千年を經た巨人よ、聴いてゐるかね? おまへの根もとに蠢いてゐる死にかけた蛆蟲は、おまへを私の樹と呼んでゐる!」
するうちに、そよ風が重なり合つた巨人の葉のかげを、音爽(さは)やかに馳けぬけて行つた。年老いた檞の樹が、ものやさしい、靜かな微笑(ほほゑみ)をもつて、私の情懷(こころ)に――そしてまた病めるものの矜誇(ほこり)に應へたかのやうに思はれた。
一八八二年十一月
[やぶちゃん注:「檞」本字は通常「かしわ」と訓読し、「柏」と同義で用いる。その場合、本邦産の双子葉植物綱ブナ目ブナ科コナラ属コナラ亜属カシワQuercus dentata、英名Daimyo Oakを指す。原文は“дуб”で、これは英語のオーク“ork”、樫(かし)や楢(なら)の類を広く言う語である。以下、興味深い記述が現われるので以下にウィキの「オーク」の一部を引用する。『オーク (英:Oak) はブナ科コナラ属 (学名:Quercus) の総称。模式種のヨーロッパナラ(ヨーロッパオーク、イングリッシュオーク、コモンオーク Common Oak、学名:Quercus robur)が代表的。なおアカガシ亜属 Quercus (Cyclobalanopsis) は別属とすることがあるが、オークには含まれる。』『広葉樹で、その多くが落葉樹だが、常緑樹もあり、あわせて数百種以上ある。日本語では落葉樹の種群はナラ(楢)、常緑樹の種群はカシ(樫)と呼ばれる。亜熱帯から亜寒帯まで、北半球に広く分布する。西欧でいうオークには日本ならナラとなる落葉樹が多いが、そのようなものでもしばしば翻訳家が日本語訳で「樫」の訳語を一律に当てていることがあるので、注意を要する。常緑のオークはライヴオーク(live oak)と呼ばれる。』ちなみに、ロシア語口語ではこれは「でくのぼう・とんま・まぬけ」の意味でも用いられるのは、偶然か。]
解說
ツルゲーネフの散文詩は一八七七年から死の前年、一八八二年の十一月に至る六年間に至る折々の感懷を書きとどめたものであつて、われわれはここにツルゲーネフの藝術の多種多樣な要素の反映を見るのである。
彼の散文詩は今日まで、多くの人々によつてペシミストの作品と見做され、時には哀切の詩詞をレーナウに比せられ、或ひはショーペンハウエルの哲學の影響が傳へられて來た。事實、彼の散文詩には、偉大なるものの前の人間の儚なさを語つたものが少くなかつた。しかも、かやうな觀照は「散文詩に至つて初めて現れたものではなく、すでに彼の多くの作品にも散見するものである。[やぶちゃん注:以下の引用文は「誰と議論をすべきか」という詩も含めて、底本ではポイント落ちで全体が二字下げとなっている。以下の文でも同じなので、以下、注を略す。]
「人はよく目をさましたとき、思ひもよらぬ驚きを感じながら、自分はもう三十になるのか……四十……五十になるのか? どうしてこんなに早く人生が過ぎて行つたのか? どうしてかうも近くに死が迫つたのだらう? などと自問することがある。死といふものは漁師のやうなものだ。漁師は網に魚を捕へながら、暫くのあひだ水の中に入れて置く。魚はまだ泳いでゐるが、自分はもう網にかかつてゐるのだ。そして漁師はいつでも氣が向いたときに、――網を引きあげる。」
『その前夜』はかやうな描寫に終つてゐるが、既に抒情的斷片『もう澤山だ』のうちにも、
「秋も更けて膚を刺すやうな寒さの日、すがれた葉の中に、一面に葉の落ちつくした森の中に何もかも生氣を失ひ、物音もなくひそまりかへつてゐる。――ほんの暫しが間、太陽が霧の中からあらはれて、凍みついた地上をおづおづとさし覗く。――すると忽ちのうちに四方から小さな羽蟲が舞ひあがる。この數しれぬ蟲は暖かい日ざしをうけて、あそびたはむれ、上に下に、互ひにまつはりながら飛びめぐる、……太陽がかくれる、――すると蟲の群れは微かな雨のやうに散つてしまふ、――これが彼らの束の間のいのちの果なのだ。」
散文詩のなかの「會話」や「私は何を考へてゐることであらう!」その他にも見られるこのやうな感懷に、彼の知性は溺れてしまひさうになる。しかも彼の感性は絕望の哲学を反撥して、生きた人間の愛や美しさを渇望する。嘗て、『その前夜』のなかで、「自然といふものは何て不思議な感じを與へるものだらう? 自然のなかにああるものは、何から何まで、充實してゐて、明瞭で、自分にいはせれば、全く自分自身で滿ち足りてゐるといひたい。われわれはそのことを理解して、それに見とれてゐるのであるが、同時に自然は、少なくとも僕の胸に、つねに一種の動搖、不安、いや、悲哀をさへよび起すのだ。」とペルセーネフがいつたとき、シューピンは「君がいま言つたのは本當の生活をしないで、ただ眺めて、ぼんやりとしてゐるやうな孤獨の人間の感覺だよ。一體、何を眺めるのさ? 自分で男らしく生きることだ。いくら自然の扉を叩いたつて、こつちに解るやうな言葉で答へてはくれないしね。だつて、自然は啞なんだから。ただ樂器の絃(いと)のやうに響いたり呻(うめ)いたりするだけで、歌を期待するわけには行かないんだよ。ところが生きた魂となると、これは答へてくれる、わけても女性の魂はね……」と答へた。
然るに今は「生きた魂」も遠く去つてゐるのである。寂寥の感じ、孤獨の感じが彼を捉へて、作品に物哀しいニュアンスを添へる。とはいへ、それはただ單にペシミズムといひ去つてしまへるよやうな深い流れを有するものではなく、われわれに救ひがたい苦痛や失望を感じさせるものではない。半ば彼の生立ちにも歸せられるやうなロシヤ的な哀感や、愛を信ずる心の動搖が、時にペシミズムの匂ひを感じさせようとも、決してこれは死の讚歌ではなく、年老いて、魂の危機に面した人の胸にわいて來る郷愁の詩なのである。
彼は生ける人間のあふるるばかりの熱情と力とをもつて見、感じ、且つ考へる。時として、われわれを驚嘆せしめるやうな生への執着に身を委ねる。しかも肉體の力は衰へて、心身の均衡は失はれ、死の近づいた思ひに惱まされる。
作者自身がこの散文詩集を始めて世に發表しようとしたとき,SENILIA(老いらく)といふ標題をつけたといふ事實には、かなりに謙讓の意味が含まれてゐたと解するにしても、これらの散文詩はまぎれもなく悲劇的な老年の詩であつた。
*
ツルゲーネフの散文詩はもともと發表しようとする意志なくして書かれたものであつたが、偶然にも雜誌「ヨーロッパ報知」の編輯者スタシュレーヰッチの懇望によつて、五十篇を選んで一八八二年十二月の同誌に發表されたものであつた。
その年の夏、パリでのことである。
「……彼は書卓の袖の抽斗から紙挾を取つて、いろんな判の、いろんな色の紙に書かれた原稿の大きな束をとり出した。私は驚いて、『それは何ですか』といつた。彼はこれは畫家たちの方では、後で大きな畫を描く時に使ふ、俗に『エスキース』『エチュード』といふものの類だ……といつた。ツルゲーネフは『これはマテリアルだ、若し大きな仕事にとりかかるとすれば、これは役立つだらう。けれどももう何も自分は書いてゐないし、今後も何も書かないといふことを證明するといつた以上は、私はこれに封印をして君に死ぬまで保存して置いて貰はう』といつた。私は「マテリアル」といふのはどういふことかよく呑み込めないと打ちあけて、その原稿のうちのどこかを讀んでくれるようにと賴んだ。そこで彼ははじめには『田舍』を、次に『マーシャ』を讀んだ。彼の巧みな朗讀は遂に私を動かした。彼はなほ二つ三つ詩を讀んだ。『いや、イワン・セルゲーヰッチ』と私はいつた、『私はあなたのお申し出には不贊成です。若しもこの詩の魅力に接しようとすれば、どうしても世間はあなたの死ぬのを待たなければならぬといふなら、結局、一日も早くあなたの亡くなられるのを待たなければならないでせう。その點、私は同意しかねます。そこで全部を私たちは直ぐに發表してしまひませう。』すると彼はこれらのフラグメントのうちには、永久に、また、かなり長い月日を日の目を見てはならないものがある、それらは極めて個人的な、内面的な性質をもつてゐると說明した。彼が發表してもよいと思ふものだけを寫してくれることを承諾したので、私たちの論議は終つた。さて事實、二週間ほどして、いつも原稿を書かれる時はさうであつたが、この時も自分自ら丁寧に寫した五十枚の原稿が送り屆けられた。歸國の際、私が九月五日に立ち寄つた時、ツルゲーネフは特に目立つ一つの詩について疑問を持つことを述べてゐた。が、それは校正の時に省いて別のと取りかへるといふことで話がついたのであつた。」
尤もツルゲーネフのSENILIAは大きい作品を書くときの材料、即ち繪畫におけるエチュード、エスキースといふ風にばかり作者自身は見做してゐなかつたのである。彼はスタシュレーヰッチに會ふ前に、全く完成した作品として友人の誰彼に讀んで聞かせてゐる。一八八一年の夏、スパッスコエ滯在中に彼はポロンスキイとサヴィナに讀んで聞かせた。スタシュレーヰッチが散文詩の原稿をもつてペテルブルグに向けてパリを發つてから間もない九月二十九日附のサヴィナ宛の手紙には「あなたもきつと『ヨーロッパ報知』で五十篇の散文詩をお讀みになるでせう。その中の二つ三つはスパッスコエでお傳へしたものです。今度のはあなたにお傳へしたいものばかりではありません。あれは極めて個人的なものとして全く省いてしまつたのです。これは秘密です。どうぞいはないで下さい。」と書いてある。「特にたしかな話とはいひ難い」といはれるサヴィナの談話のノォトによれば、ツルゲーネフの故郷スパッスコエでの朗讀の時の模樣はかうである。
「それは一八八一年にサヴィナが夏を暫くのあひだお客に行つたスパッスコエ・ルトヴィノヴォのことである。暑い日が暮れて涼しくなると、ツルゲーネフは自分の部屋からバルコンに出て來てお客にかういつた、「さ、どうぞ懺悔して下さい。」
彼等の間には懺悔するといふ言葉があつた。サヴィナは全くこのとき神父の前で懺悔でもするかのやうな風だつた。どうかすると、夜ふけまで懺悔話がつづいた。眼を半ば開けて、絕えずいつものやうに微笑みながらツルゲーネフは、彼の前にゐて、暗い庭から角笛のやうな新月のあらはれたのも知らず、池から靄があがつて來て、もう部屋に音を立ててゐるサモワルのところへ行くべき時の來てゐるのにも氣づかずにゐるロシヤの女優の物語を聴いてゐた。或るとき、かういふ長い打ち明け話のあとで、話に夢中になつてゐたツルゲーネフはふと立ちあがつてサヴィナの手をとつた、「さあ、書齋へ行きませう。私はあなたにまだ誰にも聞かせなかつたものを讀んであげたいから」といつた。
二人は行く。書齋に入つて、ツルゲーネフは卓子から手帖を出して來てサヴィナを椅子に坐らせてかういつた、『これは散文詩です、私はもうこれをスタシュレーヰッチに送りました、ただ一つ永久に發表したくないものを除いて。』『散文詩つて何ですの?』とサヴィナは好奇心に驅られた。
『私はこれを讀んできかせたい、これはね、もう散文なんかではないんですよ、……これはほんたうに詩で(彼女に)といふのです。』興奮した聲で彼はこの物哀しい詩を讀んだ。(サヴィナはいつてゐる、『私は覺えてゐます。この詩には、そこはかとない愛情、一生涯の長い愛情をゑがいてゐたことを。(あなたは私の花をすつかり摘みとり、あなたは私の墓へは來ないでせう)と書いてありました。』)朗讀が終ると、ツルゲーネフは暫く默りこんでゐた。『この詩はどうなるのでせう?』とサヴィナはいつた。「私は燒いてしまひませう、……發表するわけには行かない。さういふことをしたら非難されます。』その後少し經つて、話題は他のことに移つてゐた。サヴィナはまた話をした。ツルゲーネフは話を聴いて微笑した……」云々。(この話のうち、「スタシュレーヰッチに送つた」といふことは辻褄が合はない。スタシュレーヰッチに送つたのは一年後のことであり、サヴィナがこれを知つたのは話によつてではなく、明らかに手紙によつてである。)
種々の配慮ののち、散文詩の發表が決定すると、スタシュレーヰッチは序文の案を作つた。序文にはツルゲーネフ自身が原稿に添へて書いてよこした次のやうな一節が利用された。
「この詩のよき讀者が一いきに讀まれないやうに望む。一いきに讀めば、必ずや退屈を來し、この本は手から落されえるであらう。どうか少しづつ讀んでいただきたい、今日はこれ、明日はあれといつた風に。さうしたならば、この詩の或ものは讀者の心に何ものかを與へることであらう。」
スタシュレーヰッチは散文詩を年代順に編輯して、序文の案と共にこのことを作者に知らしてやつた。すると返事があつて、大體において編輯者の意向に贊成であることを述べ、「どうか私の散文詩が、たとひ僅かなりともあなたの豫言されるやうな成功を収めうるやうにと 望みます」といひ、今なほ、いささかの危惧の念を示すのであつた。
やがて作者と編輯者との間には、校正その他の點についてしばしば手紙が往復された。最初に送つた原稿に入つてゐた「閾」の一篇は他のものと調子が合はないから、後で送つた「處世訓」と取りかへてくれと屢々申しいれた。また屢々「散文詩はいつ出るでせうか?」と少年のやうな口調で繰り返してゐる。十月十四日の手紙には、「もちろん發表するためにではなくお笑ひ草」として次のやうな一つの詩を書き送つた。
誰と議論をすべきか
――君よりも賢い人と議論するがよい。彼は君に打ち克つであらう……しかし君の打擊そのものから君は自分自身の利益を收めることができる。
――智慧の同等の人と議論するがよい。いづれに勝利があらうとも、――君は少くとも鬪ひの愉しさを經驗するであらう。
――智慧の劣つた人と議論するがよい。勝利を望まずに議論をするがよい、しかも君は彼にとつて有益な人間となることができる。
――馬鹿ものとすらも議論をするがよい! 榮譽も利益も得はしないであらう、……けれど時折は氣晴しもよいではないか。
――ただウラヂミル・スターソフとだけは議論をせぬがよい。
一八七八年六月
しかし、この詩は後年、有名な音樂美術の批評家で、ツルゲーネフと交渉の深かつたスターソフ(一八二四-一九〇六)自身によつて發表された。
この詩を加へるならば、いはゆる「拾遺」の三十一篇と共に散文詩は合計八十三篇になるのであるが、サヴィナに對していつたやうに、發表すれば非難されるとの心づかひや何かによつて永遠に消え去つたものもあるであらう。
それにしても散文詩は「詩には大見出しはついてゐない、作者は原稿の帶封にSENILIAと名づけてゐた、しかしわれわれは偶然にも作者によって洩らされた『散文詩』といふ言葉をよしとし、『散文詩』といふ大見出しをつけて置いた。」(編輯者)といふ但しがきをつけ、さきのツルゲーネフの言葉を「手紙の中でイ・エス・ツルゲーネフはかういつて居られる」といつて引用した編輯者の言葉をつけて、十二月の『ヨーロッパ報知』に發表された。さうして多くの人たちを狂喜せしめたのであつたが、作者自身は「極めて小範圍の人たちに愛されるものであつて、どちらかといへば心の中で讀むべきもの」といふ風に考へて、公開の席で讀まれることさへひどく氣づかつてゐたのである。
彼はもはやロシヤに歸ることなく、翌る年の新暦九月二日、パリ郊外はブージワルの水に面した靜な家に逝つたのであつた。
彼が「個人的な、自傳的なもの」として生存中に發表を控へた散文詩は一九三〇年の五月にアンドレ・マゾンの力によつて、フランスで初めて發表された(Tourguenev;Nouveaux poémes en Prose)。これには露文とシャルル・サルモンのフランス譯とが收められてゐた。しかし、この三十一篇は必ずしも「個人的な、自傳的な」とばかりはいへないのである。若しも「個人的な、自傳的な」といふのならば、前者のうちにも、かやうな性質を有するものは見いだしうるのである。
フランス版のこの「新散文詩集」はヴィアルドォの孫娘の所藏にかかるツルゲーネフの手稿のうちにアンドレ・マゾン教授が何年か前に發見した完全な草稿によつて、シッフランのロシヤの古典文學叢書の一冊として公刊された。ロシヤ文學のよき紹介者であつたヴィアルドォとすぐれた歌ひ女であつたその夫人とに對するツルゲーネフの最後の四十年における變らざる友誼、ヴィアルドォ家を通じフランスの作家と交渉をもつに至つた事情等は既によく人の知るところである。
中山省三郎
□やぶちゃん注
◎レーナウ:ニコラウス・レーナウNikolaus Franz Niembsch Edler von Strehlenau(1802-1850)ハンガリー出身のオーストリアの詩人。1831年にドイツ・シュトゥットガルトを拠点としてドイツ語で執筆活動に入る。1832年に処女詩集「葦の歌」を出版、自由を求めて渡米するも、期待を裏切られ失意の内に翌年帰欧、その後はウィーン及び古巣のシュツッツガルトで詩作した。平凡社刊「世界大百科事典」(CD-ROM第二版)によれば『憂愁と絶望を歌う〈世界苦〉の詩人として知られ、「葦の歌」(1832)や「森の歌」(1843)等の自然詩では自然と人間との内的照応をみごとに歌い出した』『また外国支配下のポーランド民衆に同情を寄せる政治詩も書き、〈オーストリアのバイロン〉と呼ばれた。「ファウスト」(1836)、「サボナローラ」(1837)、「アルビゲン派の人々」(1842)では,叙事詩形式で人間と信仰の問題を扱ったが、その思想的立場は虚無主義からキリスト教神秘主義まで大きな振幅で揺れている。』(引用に際して記号の一部を変更した)という風に、或る意味でツルゲーネフと共通する要素を持つていると言える。1844年に精神病を発症、死までの5年余りは病窓に過ごした。
◎「その前夜」:“Накануне”。1960年に発表された小説。53年に勃発したクリミア戦争に下士官として従軍した友人ワシーリー・カラターエフ(出征直後に発疹チフスで死亡している)から託された手記を素材として書かれたカタラーエフの伝記的構成を持った作品であるが、発表後、その登場人物の政治的立場から激しい論争を巻き起こし、本作へのドブロリューボフの批評に関わる齟齬などから、旧友ネクラーソフとの絶交を引き起こしたこと等については、詩「最後の會見」の中山氏註等を参照されたい。
◎雜誌「ヨーロッパ報知」の編輯者スタシュレーヰッチ:スタシュレーヴィチСтасюлевич Михаил Матвеевич(M.M.Stasjulevich)は、ここに見るように「散文詩」の発表を促し、自身が編集していた雑誌“Вестник Европы(Vestnik Evropy『ヨーロッパ報知』)に掲載させた人物である。
◎マテリアル:英語の“material”で、ツルゲーネフの謂いは、新たな創作のための(恐らく小説の、という含みが強いものと思われる)素材・材料の意であろう。
◎フラグメント:英語の“hragment”で、破片・断片・断章・未完の遺稿(このツルゲーネフの謂いには多分にこの「未完の遺稿」のニュアンスが込められていよう)の意。
◎スパスコエ:スパスコエ・リトヴィノヴォСпасское-Лутовиново。イワン・セルゲーエヴィチの生地。ロシア南西部に位置するオリョール州Орловская областьの、オカ川上流にある支流ズーシャ川沿いの都市ムツェンスクМценскの北15㎞にある。モスクワからは凡そ300㎞程の距離。
◎サヴィナ:晩年のツルゲーネフの理解者にして若き恋人であった、ロシアの女優マリヤ・Г・サヴィナを指す。この中山氏の書き方からは、研究者の間では彼女の書き残したツルゲーネフに関係する叙述が一級資料としては支持されていないことが窺える。
◎ウラヂミル・スターソフ:Стасов, Владимир Васильевич(スターソフ,ウラディーミル・ヴァシーリエヴィチ)。当時のロシアにあって最も敬愛された著名な芸術評論家である。当時のロシア民族主義音楽家のバラキレフ・キュイ・ムソルグスキー・ボロディン・リムスキー=コルサコフ五人の有名な呼称、Могучая кучка(モグチャヤ・クーチカ)=「ロシア五人組」(原語は「力強き多数」「強力な群れ」「強大なる集団」と言った意味)はスターソフによるものである。
◎ブージワル:Bougivalはパリ西方約15㎞に位置する村。モネ・ルノワール・シスレー等の印象派の画家達に愛された田舎町である。ここにルイーズ・ポーリン・ヴィアルドー(後注参照)の別荘があった。
◎ヴィアルドォ:冒頭注で記した通り、評論家にしてイタリア座の劇場総支配人ルイ・ヴィアルドーLouis Viardotのこと。ツルゲーネフの二十代からの旧友であったロシア文学の紹介者であったが、彼の夫人にして著名なオペラ歌手ヘンリッテ=ヴィアルドー・ルイーズ・ポーリン・マリーHéritte-Viardot, Louise Pauline Marieは、実はツルゲーネフの「思い人」であり、彼のパリ移住も彼女を追ってのことであった。
◎アンドレ・マゾン:Andre Mazon(1881-1967)。フランス国立の最高学府であるコレージュ・ド・フランスCollège de Franceの教授。
◎シッフラン:プレイヤード叢書(La
Bibliothèque de la Pléiade)で有名なジャーク・シッフランJacques
Schiffrinの興したガリマール出版社(Éditions
Gallimard)のこと。