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鬼火へ

わがひとに與ふる哀歌 伊東靜雄君の詩について

              萩原朔太郎 附やぶちゃん注

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[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年一月号『コギト』(第四十四号)に掲載され、後にエッセイ集「詩人の使命」(第一書房昭和一二(一九三七)年刊)に所収された。底本は筑摩書房刊萩原朔太郎全集第十巻(昭和五〇(一九七五)年刊)の校訂本文を用いたが、検証してみると、伊東靜雄の詩集「わがひとに與ふる哀歌」からの引用の一部にはかなり問題があるため、引用部は総て「定本 伊東靜雄全集」(人文書院昭和五五(一九八〇)年刊)により、正しい原文表記に差し替え、最後に特に『□伊東靜雄の詩集「わがひとに與ふる哀歌」引用の詩の誤りについてのやぶちゃん注』を設けて、それぞれ異同を指示しておいた。ここには底本の「引用詩文異同一覧」では問題として掲げていない(しかしこれは私には大きな問題と映ったところの)踊り字やルビその他の異同も漏らさず指摘しておいた。それは私にとっては誤読や誤釈の虞れの高い重大な欠陥を孕んでいると判断したからである(その理由も明記した)。従って結果的には本テクストは全く独自なテクストとなっていることを予めお断りしておく。禁欲的な語注もその後に附した。

 なお、「わがひとに與ふる哀歌」については、私のオリジナルな初版に基づく電子版「伊東静雄詩集 わがひとに與ふる哀歌 やぶちゃん版」や、他の彼の詩集や拾遺詩についても私の「心朽窩 新館」の「伊東靜雄全詩集」にテクストがあるので、是非、参照されたい。【二〇一四年十一月十五日藪野直史】]

  
わがひとに與ふる哀歌
          伊東靜雄君の詩について

 ひさしく抒情詩が失はれてゐた。これは悲しい事實であつた。
 詩といふものはあつた。それは活字によつて印刷され、植字工によつてメカニカルに配列されたところの、一つの工業圖案的な繪文字だつた。人々は詩を玩具おもちやにした。魂が詩を「歌ふ」のでなく機智ヰツトが詩を「工作する」のであつた。朝、詩の靈魂であるリリシズムが、何處かへ鳥のやうに飛んでしまつた。骸炭コークスのやうな物だけが後に殘つた。火の消えた、黑い、つまらない固形だけが殘つて居た。人々はそれを煙から取り出し、珊瑚礁でも見るやうにして、形態の美學的意匠を論じて居た。實には何の價値もない、ただの骸炭コークスにすぎないものを、滑稽にも美術と誤まり、「詩」といふ言葉で呼び馴らしてゐた。
 詩といふ文學は何處へ行つたか? 或る他の人々は、藝術にさへならない粗野な言葉で、全く實の感性を缺いてるところの、アヂ的政談演說のやうなものを怒鳴つてゐた。人々はそれを「自由詩」と呼び、をこがましくもプロ派、民衆派、人道派等の名を僭稱した。だがそんなイズムを稱し得るほど、藝術する神經はどこにも無かつた。詩は「美しく歌ふ」べきものであつて、暴力團壯士の演說みたいに、粗暴に殺伐に「荒々しく怒鳴る」べきものではない筈である。
 久しい間、日本では「詩」といふ言葉が、かうした非藝術的政談演說を意味して居た。或はまた一方で、工業圖案的な手藝文學を意味して居た。日本で「詩」といふ文學は、酢豆腐者流の氣障なダンヂイズムの遊戲でなければ、院外團壯士の殺伐粗暴な怒號であつた。有明、白秋以後、日本には眞の藝術的精神を持つ詩が現れなかつた。なぜなら有明、白秋以後、日本の詩壇は自然主義に壓迫されて、詩の純な靈魂であるべき筈のリリシズムを、全く喪失してしまつたからである。
 抒情詩を復活せよ! リリシズムを呼び戾せ! これが今日の日本に於て、文學と詩歌(和歌も俳句も共に含めて)の全文壇に、最も强く叫ばれる所の聲である。
 雜誌「コギト」の誌上に於て、伊東靜雄君の詩を初めて見た時、僕はこの「失はれたリリシズム」を發見し、日本に尙一人の詩人があることを知り、胸の躍るやうな强い悅びと希望をおぼえた。これこそ、眞に「心の歌」を持つてるところの、眞の本質的な抒情詩人であつた。
 伊東君の詩を初めて見た時、僕は島崎藤村氏の詩を讀むやうな思ひがした。僕は著者に手紙を送り、「若き日の藤村の詩を、若き靑春の日に讀むやうな思ひがした。」と書いた。それほどこの詩人の詩には、靑春の水々しいリリシズムが溢れて居る。たしかにそれは、昭和の新しい島崎藤村を面影して居る。しかしながらまた再讀して、この一九三〇年代の若い詩人が、一八〇〇年代の末期に生れた若い日の藤村氏に比し、いかに甚だしく詩人的風貌を異にするかを知り、再度また別の驚きを新たにした。藤村氏はその詩集に自ら序して、自分の詩は靑春の歌であると言ひ、春の若草が萌えるやうに、何の煩ひもなくこだはりもなく、靑春の悅びを心任せの自由に歌つたと書いて居る。藤村氏の時代は、實にまたさうした樂しい時代であり、日本の文化の時潮からして、詩が「若草のやうに」萌えあがつた時代であつた。藤村氏一人ではなく、すべての若い人々等が、だれも皆心任せに、自由に胸を張つて「靑春の悅び」を聲限りに歌ひ續けた時代であつた。つまり言へば藤村氏の詩は、かうした時代の感情と社會相とを、自我に反映した一象徴に外ならないのだ。
 所で「わがひとに與ふる哀歌」は、何といふ痛手にみちた歌であらう。伊東君の抒情詩には、もはや靑春の悅びは何處にもない。たしかにそこには、藤村氏を思はせるやうな若さとリリシズムが流れて居る。だがその「若さ」は、春の野に萌える草のうららかな若さではなく、地下に固く蹈みつけられ、ねぢ曲げられ、岩石の間に芽を吹かうとして、痛手に傷つき歪められた若さである。西洋の史家は、十九世紀象徴派の詩を評して「傷ついた浪漫派」と言ひ、ヹルレーヌを評して「歪んだハイネ」と言つて居る。十八世紀の浪漫派は、丁度「詩」が叫ばれてる時代の土壤で、春の若草のやうに萌え出した詩派であつた。ハイネも、キーツも、バイロンも、すべての浪漫派詩人たちは、容貌からして純情の美少年であつた。然るに十九世紀末の象徴派は、自然主義の全盛する實證主義の時代に生れ、文化の懷疑思潮がすべてのリリックを殺してしまつた。しかもかうした時代にすら、尙その魂に「心の歌」を持つてるところの、宿命的な詩人群は歌ひ續けた。だが彼等の歌は悲しく傷つき、その容貌は醜く歪み、魂は酒毒に荒され、浪漫派の純情性と美少年とは、再度もはや彼等の歌に歸らなかつた。それはヹルレーヌの容貌と共に、醜く歪められた浪漫派であつたところの、十九世紀末デカダンスの詩人群であつた。
「わがひとに與ふる哀歌」を讀み、これを島崎藤村氏の詩と反映する時、丁度この浪漫派の詩人に對する、象徴派の詩人をイメーヂする。それは詩の全く失はれた昭和時代、社會そのものが希望を失ひ、文化そのものが目的性を紛失し、すべての人が懷疑と不安の暗黑世相に生活してゐるところの、まさしく昭和一〇年代の現代日本を表象して居る。しかも宿命的な詩人等は、かうしたリリックのない時代にさへも、尙彼等の魂を歌ひ續けねばならなかつた。そこで彼等の歌は悲しく傷つき、リズムは支離に破滅し、聲はしはがれて低く、心は虛無の懷疑に暗く惱み傷ついて居る。
 伊東靜雄君の詩が、正に全くこの通りである。卽ちそのリズムは一行每に破滅して支離に分散し、詩想は暗黑の憂愁に充ち、希望もなく目的もなき、ニヒルの宿命的な長い影が、力のない氷島の極光に向つて、幽靈のやうな鄕愁を訴へてる。これはまさしく「傷ついた浪漫派」の詩であり、「歪められた島崎藤村」の歌である。
「わがひとに與ふる哀歌」は、一つの美しい戀歌である。浪漫派や藤村氏の詩やが、本質的に皆美しい戀歌であつたやうに、伊東靜雄君の詩の歌ふところも、本質的に皆美しい戀歌である。しかしながらこの「美しさ」は、そのエスプリに殘虐な痛手を持つた美しさであり、むしろ冷酷にさへも意地惡く、魂を苛めつけられた人のリリックである。ああしかし! これもまた一つの「美しい戀歌」であらうか?

    冷めたい場所で

  私が愛し
  そのため私につらいひとに
  太陽が幸福にする
  未知の野の彼方を信ぜしめよ
  そして
  眞白い花を私の憩ひに咲かしめよ
  昔のひとの堪へ難く
  望鄕の歌であゆみすぎた
  荒々しい冷めたいこの岩石の
  場所にこそ

 これは殘忍な戀愛歌である。なぜなら彼は、その戀のイメーヂと鄕愁とを、氷の彫刻する岩石の中に氷結させ、いつも冷めたい孤獨の場所で、死の墓のやうに考へこんで居るからである。

  ああ わがひと
  輝くこの日光の中に忍びこんでゐる
  音なき空虛を
  歷然と見わくる目の發明の
  何にならう
  如かない 人氣ない山に上り
  切に希はれた太陽をして
  殆ど死した湖の一面を遍照さするのに
              (わがひとに與ふる哀歌)

 此處には一つの太陽がある。だがその太陽は、生物の住む我等の地球を照らす太陽ではない。それは時間の生れない宇宙の劫初に、神と二つだけ存在した太陽。地上に一つの生物もなく、海水もなく、岩礁ばかりが固體してゐた劫初の地球。「死」の地球を照らすところの太陽である。そこには認識する主體が一つも居ない。故にその太陽は「無」を意味する。それは永劫の空虛の中で、生物のない山の頂を照らして居る。「ああ わがひと!」そこに詩人の美しい戀人は坐つて居るのだ。如かず、むしろ冷めたい大理石の中に、君のそのイメーヂを彫りつけよ。汝の女を眞裸にして殺してしまへ。――こんな殘忍な戀愛詩がどこにあるか。

  自然は限りなく美しく永久に住民は
  貧窮してゐた
  幾度もいくども烈しくくり返し
  岩礁にぶつかつた後に
  波がちり散りに泡沫になつて退きながら
  各自ぶつぶつと呟くのを
  私は海岸で眺めたことがある
  絶えず此所で歸鄕者たちは
  正にその通りであつた
                  (歸鄕者)

 僕はかつて、アランといふ活動寫眞を見たことがある。英國の北方、極地の緯度に近いところに、土地といふものが全くなく、岩礁ばかりの島があるのだ。その島に住んでる住民たちは、食物の野菜を作るために、根氣よく岩を割つては、少許の土くれを見附け出し、岩礁の上に畑を作るのである。空には凍りついた太陽があり、島はいつも浪の飛泡で蓋はれて居る。人間の住む世界で、こんなに寂しく荒寥とした世界は無いのだ。
「わがひとに與ふる哀歌」は、まさしくこのアラン島の哀歌である。この抒情詩の魂は、いつも絶海の孤島の上で、浪の飛泡に濡れながら凍りついてる。地上に靑いものは一つもなく、何處を見ても岩礁ばかりだ。そして極地に近い空には、力のない太陽が侘しく輝やき、岩ばかりの地や洞窟やに、凍りついた人の死骸が、白骨になつて晒されてるのだ。この風景には「時間」がない。それは永劫の寂寥なのだ。或はもつと詳しく言へば、支離滅裂になつた一つの魂、希望のない魂のリリックなのだ。

    私は强ひられる

  私は强ひられる この目が見る野や
  雲や林間に
  昔の戀人を步ますることを
  そして死んだ父よ 空中の何所で
  噴き上げられる泉の水は
  區別された一滴になるのか
  私と一緖に眺めよ
  孤高な思索を私に傳へた人!
  草食獸がするかの樂しさうな食事を

 この詩人とニイチェとに、何の思想的關係があるか僕は知らない。だが不思議なことに伊東君の詩はニイチェとよく相似した氣質的一致がある。ニイチェ――抒情詩人としてのニイチェ――は、いつも岩礁ばかりのある、絶海の孤島を步き𢌞り、草食獸のやうに靑草を探して居た。彼は常に漂泊者であり、樹上の鳥と寂しい哀歌を交して居た。ニイチェの場合で言へば、戀愛はいつも死と墓との形式で歌はれて居た。「わが心の愛人よ! いとしきものよ!」とニイチェは先づ最初に歌ふ。それから次の行に移つて、彼の「いとしきもの」を痛く辛辣にやつつける。ニイチェの詩では、少女のやうな純情の愛と、毒舌家のやうな惜しみとが、不思議の心表交錯でイメーヂされてるやうに思はれる。そしてこれに似た或る思想と心象とが、しばしばまた伊東君の詩に現はれて居る。おそらくその類似は、文學上の類緣でなくして、もつと深い氣質的原因に存するのだらう。

 浪漫派の詩人たちは、たいてい十六歲で詩を作り、二十歲にもならない中に大家になつた。それよりもつと後の時代、卽ち象徴派の詩人たちは、たいてい三十歲で詩を作り、四十歲に近くして大家になつた。そしてまた最近では、ヴァレリイ等が五十歲を越してから名聲を成した。時代と共に、詩人の出發が益〻おくれ、詩人の年齡が益〻遲く老いて來る。何故だらうか? 地球が一年每に冷却し、文化がプロゼックに老いて來るからである。昔は十七歲で詩が作れた。なぜならすべての社會事情が、さうした純情の若々しい芽を、自由に水々しく、大地に發育させたからである。だが今日では、リリシズムの芽が固い土壤で壓迫されてる。今日それを突き破り、現實の地上に芽を出す迄には、地下に於いての充分な潛在力と、現實をはね返す强い意志とを持たねばならぬ。今日の社會では、もはや十六歲の少年には詩が作られない。ハイネやキーツやの美少年は、今日の時代の詩人として、生育しがたく薄弱のものになつてしまつた。今日の詩人は、すくなくとも三十歲を越さねばならぬ。そして三十歲を越すといふことは、現實の世相に處して、人生の苦汁を經驗してゐるといふことである。
 それ故に今日では、詩が純なナイーブの姿を失ひ、現實的慘苦にふれて歪められた變貌の姿をしてゐる。十八世紀末の浪漫派こそは、實に抒情詩の純粹なエスプリだつた。しかし今日以後の社會に、もはや昔の浪漫派は有り得ない。今日以後に有り得べき詩は、リリシズムの純一精神を心に持して、あらゆる現實的世相の地下から、石を破りぬいて出る强い變貌の歪力詩である。卽ち正に有るべきところの善き抒情詩は、伊東靜雄君等によつて表象されてゐるところの、この種の「傷ついた浪漫派」の正統である。


□伊東靜雄の詩集「わがひとに與ふる哀歌」引用の詩の誤りについてのやぶちゃん注

●「冷めたい場所で」異同や誤まりはない。詩集「わがひとに與ふる哀歌」より詩「冷めたい場所で」全詩引用。「冷めたい」は原詩のママ。

●「ああ わがひと……」詩集「わがひとに與ふる哀歌」より詩「わがひとに與ふる哀歌」の後半の部分引用であるが、朔太郎の引用では、

  ああ わがひと
  輝くこの日光の中に忍びこんでゐる
  音なき空虛を
  歷然と見わくる目の發明の
  何にならう
  如かない 人氣ない山に上り
  切に希はれた太陽をして
  殆ど死した湖の一面を遍照さするのに

となっており(以下では〈〇 原詩→× 引用〉の形で示し、誤りを《 》で指示した。以下、本注は略す)、

 〇あゝ わがひと
    ↓
 ×ああ わがひと
《踊り字が正字化。》

 〇如かない 人氣ひとげない山にのぼ
    ↓
 ×如かない 人氣ない山に上り
《「人氣」及び「上り」のルビがない。「人氣」はルビなしでは「ひとげ」とは誰も読めない。》

 〇殆ど死した湖の一面に遍照さするのに
    ↓
 ×殆ど死した湖の一面を遍照さするのに
《「一面に」が「一面を」となっていて致命的である。》

と誤まっている。以下に全詩を示しておく。

   *

  わがひとに與ふる哀歌

太陽は美しく輝き
あるひは 太陽の美しく輝くことを希ひ
手をかたくくみあはせ
しづかに私たちは步いて行つた
かく誘ふものの何であらうとも
私たちの内うちの
誘はるる淸らかさを私は信ずる
無緣のひとはたとへ
鳥々はつねに變らず鳴き
草木の囁きは時をわかたずとするとも
いま私たちは聽く
私たちの意志の姿勢で
それらの無邊な廣大の讚歌を
あゝ わがひと
輝くこの日光の中に忍びこんでゐる
音なき空虛を
歷然と見わくる目の發明の
何にならう
如かない 人氣ひとげない山にのぼ
切に希はれた太陽をして
殆ど死した湖の一面に遍照さするのに

   *

●「自然は限りなく美しく永久に住民は……」は詩集「わがひとに與ふる哀歌」より詩「歸鄕者」の前半の部分引用であるが、朔太郎の引用では、

  自然は限りなく美しく永久に住民は
  貧窮してゐた
  幾度もいくども烈しくくり返し
  岩礁にぶつかつた後に
  波がちり散りに泡沫になつて退きながら
  各自ぶつぶつと呟くのを
  私は海岸で眺めたことがある
  絶えず此所で歸鄕者たちは
  正にその通りであつた

となっており、

〇「岩礁にぶちつかつたのちに」
   ↓
×「岩礁にぶちつかつた後に」
《「ぶちつかつた」が「ぶつかつた」となっており、致命的。「後」にはルビがない。これでは高い確率で「あと」と誤読されてしまう。》

〇「波がちり散りに泡沫になつて退きながら」
   ↓
×「波がちり散りに泡沫になつて退きながら」
《「退きながら」にルビがない。これでは高い確率で「のきながら」と誤読されてしまう。》

〇「絶えず此所で歸鄕者たちは」
   ↓
×「絶えず此處で私が見た歸鄕者たちは」
《「此處」が「此所」。「私が見た」がすっぽり脱落しており、最早、詩の意味が全く変質してしまう。》

〇「まさにその通りであつた」
   ↓
×「正にその通りであつた」
《ルビなし》

と誤まっている。以下に全詩を示しておく。
   *

  歸鄕者

自然は限りなく美しく永久に住民は
貧窮してゐた
幾度もいくども烈しくくり返し
岩礁にぶちつかつたのち
波がちり散りに泡沫になつて退ひきながら
各自ぶつぶつと呟くのを
私は海岸で眺めたことがある
絶えず此處で私が見た歸鄕者たちは
正まさにその通りであつた
その不思議に一樣な獨言は私に同感的でなく
非常に常識的にきこえた
(まつたく!いまは故鄕に美しいものはない)
どうして(いまは)だらう!
美しい故鄕は
それが彼らの實に空しい宿題であることを
無數な古來の詩の讚美が證明する
曾てこの自然の中で
それと同じく美しく住民が生きたと
私は信じ得ない
ただ多くの不平と辛苦ののちに
晏如として彼らの皆が
あそで一基の墓となつてゐるのが
私を慰めいくらか幸福にしたのである
   *
なお、「(まつたく!いまは故鄕に美しいものはない)」の「!」の後のツメはママである)。

●「私は强ひられる」は詩集「わがひとに與ふる哀歌」より詩「私は强ひられる――」の全詩引用であるが、朔太郎の引用では、

    私は强ひられる

  私は强ひられる この目が見る野や
  雲や林間に
  昔の戀人を步ますることを
  そして死んだ父よ 空中の何所で
  噴き上げられる泉の水は
  區別された一滴になるのか
  私と一緖に眺めよ
  孤高な思索を私に傳へた人!
  草食獸がするかの樂しさうな食事を

となっており、まず詩の表題が、

〇「私は强ひられる――」
   ↓
×「私は强ひられる」
《ダッシュ脱落》

と誤まっている。この表題ダッシュの有無は本詩の鑑賞に大きな影響を及ぼす。他にも、

〇「昔の私の戀人を步ますることを」
   ↓
×「昔の戀人を步ますることを」
《「私の」が脱落。本詩の中の数少ない具象性が絶望的に損なわれている。》

〇「そして死んだ父よ 空中の何處で」
   ↓
×「そして死んだ父よ 空中の何所で」
《「何處」が「何所」。》

〇「草食動物がするかの樂しさうな食事を」
   ↓
×「草食獸がするかの樂しさうな食事」
《「草食動物」が「草食獸」となってしまっている。余韻印象が全く異なったものに変形してしまう。》

と誤っている。


■やぶちゃん語注
・「わがひとに與ふる哀歌」昭和一〇(一九三五)年十月五日にコギト発行所から刊行された伊東静雄(明治三九(一九〇六)年~昭和二八(一九五三)年)の処女詩集。伊東静雄は長崎県諫早市生まれで、旧制佐賀高等学校(現在の佐賀大学)を経、京都帝国大学文学部国文科に進み、大阪府立住吉中学校(現在の大阪府立住吉高等学校)国語教諭となった。詩作は大学卒業の頃より始め、昭和七(一九三二)年に同人誌『呂』を創刊、後に『呂』を離れて『コギト』に専念した。詩集刊行時は満二十八歳であった。
・「酢豆腐者」知ったかぶりをする人。半可通。ある人が腐った豆腐を食べながら、「これは酢豆腐という料理だ」と負け惜しみを言うという落語「酢豆腐」(上方では「ちりとてちん」)に由来する。
・「院外團壯士」初出及び「詩人の使命」では「院外壯士團」。院外団とは、第二次世界大戦前の日本政界に於ける議員でない党員たちが組織した議会外政治団体を指す。選挙戦では示威行為や扇動的な演説によって自党の優勢を画策し、時には大衆を扇動して倒閣運動などをも行なった(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。
・「コギト」大阪高等学校同窓生らが昭和七(一九三二)年三月に始めた文芸同人雑誌。編集兼発行人は肥下ひげ恒夫。保田与重郎・田中克己・伊東静雄・小高根おだかね二郎らが主な同人で大阪高校の出身者が主体であったが、『四季』や『日本浪曼派』同人も寄稿した。保田の文芸評論を中心に据えて伊東が主要作品を発表、昭和十年代を通じて日本浪曼派の文学が拠って立つ代表的文藝雑誌として機能した。誌名はデカルトの「コギト・エルゴ・スム」(我思う、故に我在り)に基づき、その高踏的姿勢を宣明している(「関西詩人協会」公式サイト内の記載や各種事典類の記載に拠った)。
・「魂は酒毒に荒され、」「詩人の使命」では「魂は酒に荒毒され、」であるが底本本文は初出に準じている。
・「伊東靜雄君の詩が、正に全くこの通りである。卽ちそのリズムは……」の冒頭は初出及び「詩人の使命」では「伊藤靜雄君」と誤っている。
・「アランといふ活動寫眞」アメリカのロバート・J・フラハティ(
Robert Joseph Flaherty)監督になるドキュメンタリー映画「アラン島」(「Man of Aran」一九三四年作)。この映画については、片山廣子に「アラン島」というエッセイ(昭和二八(一九五三)年暮しの手帖社刊「燈火節」所収)があり(リンク先は私の電子テクスト)、この映画以前、このアラン島を活写したジョン・ミリングトン・シング著「アラン島」(ウィリアム・バトラー・イェイツ挿絵・姉崎正見訳)も私の注つきで電子化しているので是非、参照されたい(リンク先は同第一部)。
・「心表交錯」内面の心と、見かけの表面上の外界への態度や姿勢が一見、相対立して矛盾して見えながら、複雑に交錯して表現され、吐露されていることを言っていよう。
・「プロゼック」“prosaic”。散文(体)の、の意。派生的に、殺風景な・面白くない・活気のない・単調(平凡)なという意味でも用いられる。朔太郎はネガティヴな負のイメージの「散文的」という意味で好んで用い、「詩の原理」でも「プロゼック語」などと表現している。
・「浪漫派の詩人たちは、たいてい十六歲で詩を作り……」ここと、その後の「今日の社會では、もはや十六歲の少年には詩が作られない」という二箇所の「十六歲」は初出では「十八歲」となっている。この補正は萩原朔太郎のマニアックな修正が面白い。
・「歪力」「わいりよく(わいりょく)」と読む。応力のこと。物体が外部から力をが与えられた(作用された)際にそれに対して内部に生ずる反作用の抵抗力。