立ち尽くす少年 ――諸星大二郎「感情のある風景」小論
やぶちゃん(copyright 2005―2010 Yabtyan)
前言
僕は、唐代伝奇の「杜子春傳」を授業で扱う時には、全文を授業した上で、芥川龍之介の「杜子春」を朗読し、その差異を分析、加えて、諸星大二郎のSFコミック「感情のある風景」をも読ませ、これが「杜子春傳」と「杜子春」を換骨奪胎した卓抜な作品であることに気づかせるのを常としている(1984年の初読以来、私はずっと間違いなくそうだと思い込んでいる)。今回、3年生の特別授業で僕が生徒に提示したものを小論として公開する(元は2005年に作製したものを素材として最初の一篇を書き足した)。但し、あくまで高校生向けの小論回答例として書き散らしたものであり、入試対策用のキザな粉飾や、結論の説教染みた凡庸さは寛恕されたい。なお、文中の数字は、解説のために当該作品全コマに僕が打った通し番号である。授業では、1984年集英社刊のジャンプ・コミックス・デラックス「子供の王国」所収の当該作を用いた。【2018年4月21日藪野直史追記:上記前言の李復言「杜子春傳」と芥川龍之介「杜子春」に私の古いオリジナル電子テクストへのリンクを附した。】
序
――李復言「杜子春傳」と芥川龍之介「杜子春」というアンビバレンツ
まず、決定的な点として、原作の仙人に対して、我々が感情移入できないことをあげておくべきであろう。実は道士は、子春が三度も金を使い尽くすエネルギや、試練の中で「喜怒哀懼惡慾」を捨て去る、その際の一種の精神的パワーを利用して、自分の仙薬(恐らくは不老長寿の)を作ろうとしたのではなかったか? 即ち、子春を仙人にすることは二義的なものでしかなく、その仙薬の完成こそが真の目的であった。子春は、そうした仙骨の部分を持っていると見込まれ、この仙人に体(てい)よく使われたのだともいえるのである。
原話の基本的なコンセプトは『仙人に成り損ねた哀れで惨めな、不幸な杜子春の物語』であり、あくまで、その不思議恐怖体験や地獄巡りの面白さが主眼である。最後に子を殺される時に感極まって「噫!」と声を発したことに対しても、作者は同情を微塵も感じてはいないと私は思う。それどころか、「愛」(ちなみにこの「愛」は「肉親への親しみ」といった意味合いである)は、如何に人を呪縛する厄介なものであるか(仏教で言う煩悩の最たるもの)ということを、教訓として語ってさえいるのである(最後の注を参照)。
それに反して、芥川は、原作の仙人に当たる鉄冠子に、黒沢明の映画にままあるような、真の人生に人を導くところの『教える者』の役割を十二分に与えている。子春の「反って嬉しい気がするのです。」という台詞は、読み進んできた我々の期待を決して裏切らない。そして、またそれを受ける鉄冠子の――あの場面で母の思いを知っていながらなおも黙っていたならば、彼の命を絶つつもりであった――という衝撃的な告白は、この試練自体が子春を羽化登仙させるためのものではなく、元々彼の人格的人間的覚醒を期した壮大な『芝居=教育』であったことを示している(そこにはあらゆる人間の根源的な母胎回帰願望が密かに裏打ちされてもいる)。芥川の杜子春は、そのエンディングにおいて明確に人として成長を遂げている。もちろん、本作が童話として創作されたものである以上、こうした結末は当然と言えば当然であろう。しかし、この『仙人に成り損ねるも真人間になることができた、幸せな杜子春の物語』である本作は、あの「母さん」の台詞一つに於いて、そしてその後の結末に於いて、透明な空気の中、読者の年齢に拘わらず、永遠に人生の希望の物語であり続けるのだと私は思うのである。
去って行く鉄冠子の後姿には、なんとさわやかな春風が匂っていることだろう。――私は彼が羨ましい。教師とは、かく生徒の前から飄然と立ち去って行くべきものだと思うからである。――
立ち尽くす少年
――諸星大二郎「感情のある風景」と杜子春の物語についてのメモ
44から49及び55から61コマに表れる少年の体験は、杜子春が受けた如何なる苦痛よりも強い。それは杜子春が、数々の災厄を、試練を受けているという自覚の中で体験しているという事実に比して、少年のそれは、ナチスの収容所を髣髴とさせる場所で現実に、生きながら受けた真実の地獄だからだ。当の芥川が「侏儒の言葉」で述べたように、「人生は地獄よりも地獄的」なのであり、また、アドルノの「アウシュヴィッツの後に詩を書くことは野蛮だ」という語を持ち出すまでもない、現実の、絶対の悲惨、絶対の痛みなのだ。私がこの少年であったとしたら、迷うことなく、グノにあの装置による処置を懇願するに違いない。
しかし、ここで注意しなくてはならないのは、本話の感情を「外化」させるという部分である。杜子春は両作とも自己の感情を抑制し続けた。いや、し過ぎたその結果、その究極のストレスが最後の、母としての愛/母への愛でほとばしり出てしまった/出たのだという解釈も可能である(*やぶちゃん補注)。そしてこの二作品は共に、『現実からの脱出を試みながら、仙人になり損ねた杜子春の物語』であった。
ところが、「感情のある風景」の世界は、あり得べからざる(SFなのだから当然ではある)究極の二元論的構造にあることに気づく。たとえば、88コマの少年はグノによって、「母の死の悲しみ」という自分の失いたくなかった感情をも外化させられてしまい(当然そこから予測され得る、それ以外の大切な感情の喪失の確信も加わって)、グノへ「憎悪」の感情を抱く。ところがその瞬間に、その「憎悪」は「憎悪」の形象として外化されてしまい、少年は心の中に「憎悪」を感じることは遂にできないのである。89コマのグノの「後悔」の場合も、全く同様である。そこで、88から93コマまでの二人の能面のような無表情に着目しなくてはならない。それは感情というブレの生じやすい人間の不完全な属性を、遂に失うことに成功した者たちの顔なのである。
そここそが、この作品が先行する杜子春の二作品と決定的な違いを示している部分なのである。少年に内在する苦痛や憎悪や愛情といった感情は、永遠に鮮やかに外化され続け、その点において、彼の煩悩は、理性の単なる論理的帰結――無味乾燥に説明するだけの記号――へと無化され続けるのである。
少年は、人間の持つ不完全で律することの困難な、厄介なものとしての「感情」を、鮮やかに美しく外化することで、謂わば、羽化登仙することに成功したのである。そもそも仙術とは、元来、感情をも物質化し、幾何学化して仕舞い込んでしまうというような類のものであると、私は理解してもいる。
だが、どうであろう、振り返ってみれば、私達は「悲しみ」や「絶望」を繰り返しながら、そこに「ささやかな」「喜び」や「希望」を見出して、それらを丸抱えで生きてゆくことで、かろうじて『生きている』という実感を得られている存在なのではないのか。103及び104の少年のモノローグがそれを如実に示している。『惨めな生き物としての「人間」』の実感は、皮肉なことに、外界=他者との絶え間ない軋轢によって生まれる『心の痛み』によってしか感じることはできぬものなのかも知れない(これは私の暗い人生的感懐である)。
即ち、この「感情のある風景」とは、実に『現実からの離脱に成功して仙人になるも、その犠牲として絶対の孤独者となってしまう杜子春の物語』なのである。それは最早、幸不幸を云々する状況にさえないと言ってよい。そこでは幸不幸という感情さえもが外化されてしまうから――。
ラストシーン、滑稽と言うには余りに悲惨な、文字通り「悲しみと絶望を背負った」少年は、正に、感情という人間の現実性を逃避したが故に、永遠の孤独地獄の荒野に立ち尽くすしかなかったのである。
[やぶちゃん補注:「杜子春傳」に限っては、そのような解釈の可能性は実際にはないことを付記しておく。「杜子春傳」は実際には、道家思想及び道教と仏教の強い影響下に書かれた作品である。仏教においては「徒然草」の「あだし野の露」を示すまでもなく、母が子を慕い愛する愛欲こそが最も断ち難い煩悩であると考えている。即ち、親子の愛欲を断てない限りは解脱者にも真人(しんじん:道家思想における根源的な「道(タオ)」の体得者を言う)にもなれないのであり、意外に思われるかもしれないが、「杜子春傳」はそういう意味における失敗者、杜子春の非力と不徹底を批判する物語、羽化登仙・解脱的境地の困難さを教えることを主題としているのである。]