やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇
鬼火へ

(無題〔教室の窓かけが、新しくなつた。――〕) 芥川龍之介
                     
附やぶちゃん注

[やぶちゃん注:岩波版旧全集第十二巻の「雜纂」に「〔第未定〕」として載る。底本後記には、これを先行掲載する小型版全集によれば「少年」(大正一三(一九二四)年四・五月『中央公論』に発表)の草稿である、とする。「少年」には当該場面は現れないが、確かに「少年」のコンセプトの一エピソードとしてはおかしくはない。但し、これを「少年」草稿と指摘するならば、それよりも先行する「文藝雜話 饒舌」(大正八(一九一九)年五月『新小説』に発表)の最終章の原素材と指示すべきものである(リンク先は何れも私のテクスト)。最後に簡単な私の注を附した。漢文様の繰り返し記号「〻」は「々」に代えた。最後に簡単な注を附した。山梨県立文学館発行の「芥川龍之介資料集」写真版の自筆原稿を底本とする新全集第二十二巻未定稿(仮題「教室の窓掛け」)所収のものが最も原型に近いが、新字採用の上に、読点部分の多くが空白で非常に読み難いため、注での校合に留めた。表題は種々勘案して以上のように私が表記した。本作は現在、ネット上に存在しない。【二〇一二年九月二十四日 藪野直史】]

〔教室の窓かけが、新しくなつた。――〕

 教室の窓かけが、新しくなつた。――今までは、埃で鼠色になつたやつが、だらりと、ペンキのはげた窓枠の兩側にぶら下つてゐたが、今日からは、それがまつ白な、糊のまだ落ちない位、新しい金巾に變つたのである。
 前の窓かけを見ては、自分はよく、古い旗の事を思つた。その頃、少年世界に、「プレプナの喊聲」と云ふのが出てゐて、それが露土戰爭の次第を小供にわかる程度で、可成詳しく、紹介してゐる。自分はその中で、オスマンパシヤが、とうとう、露西亞の攻圍軍に降服するくだりを、何度となく愛讀した。降服の通知を發すると共に、土耳古の將軍は、部下に命じて、要塞の上の軍旗を下させる。軍旗は、煙硝の煙にまみれたまま、空から力なく下りて來る。――古ぼけた窓かけは、自分に、屢々このプレプナの半月旗を思ひ出させた。オスマンパシヤは、實に、當時の自分にとつて、クルーゲルと共に、誰よりも「えらい人」だつたのである。
 自分の席は、丁度その窓の前にあつた。教室にならんでゐる机の順から云へば、教壇に最も遠い、一番、後の列である。机は、二人づつ並んで腰かけるやうな構造で、自分たちは、これを「御座おざ」と呼ぶ習慣があつた。御座は、一つの教室に、三つづつ横にならべて、十列位あつたかと思ふ。
 自分と同じ御座には、丹阿彌保之助と云ふ、古風な名前の人が坐つてゐた。苗字通り、漆屋の息子で、色のくろい、大がらな、それでゐて、どこか敏捷な、如何にも下町で育つたらしい人である。自分は丹阿彌の事を、よくなまつて、「たんがみ」さんと云つた。さうして、中央新聞の日曜附錄か何かの講談にある、觀阿彌と云ふ、人の好い茶坊主を、單に發音上の聯想から、この人の名前とむすびつけて、覺えてゐた。
 窓かけのうしろは、運動場で、乾いた赤土が、學校と囘向院との境にある、黑塀の所までつづいてゐる。囘向院に、相撲の小屋がけが出來ると、その黑塀の後で、始終、やかましい群集の聲がした。大砲が横綱を張つて、常陸山と梅ケ谷とが、東西の大關だつた頃である。――自分と丹阿彌とは、その聲が一しきり高くなる度に、そつと後を見た。後には、新しい窓かけが、丁度聲にゆすられたやうに、日の光の中を、鷹揚に動いてゐる。……
 その頃、學校には、掃除番と云ふものがあつた。一つの御座にゐる二人が、遊歩時間に教室へのこつてゐて、黑板を拭つたり、御座へはたきをかけたりするのである。
 或日、自分と丹阿彌とが、その掃除番になつた。十分の遊歩時間は、教室にのこつてゐる者には、可成長い。自分は御座の腰かけの上へのつて、丹阿彌と二人で、オスマンパシヤが、要塞の上にひるがへる半月旗を下す眞似をした。
 並んでゐる幾つもの御座は、皆、味方の要塞や敵の保壘である。窓の外には、運動場が、黑海の水面を、眩しく日にかがやかせてゐる。黑板と地圖との山々も、敵の砲列が撃ち出す煙で、もう姿を隱さうとしてゐるらしい。副將の丹阿彌は、窓かけの一方のすみを握りながら、自分の命令を待つてゐる。オスマンパシヤは――自分は、手を額にかざして、敵味方の陣地を見渡した。敵の兵力は、味方に十倍してゐる。しかも、味方は既に、糧食も彈藥も、つきてしまつた。もう降服の外に道はない。
 「軍旗を下せ。」
 自分は、窓かけの他のすみをつかんで、かう云つた。さうして二人とも、力を合せて左右へ窓かけを引張つた。
 その拍子に、窓かけは、びりりと音を立てて、二つに裂けた。
 オスマンパシヤと副將とは、あつけにとられて、顏を見合せた。もう要塞も保壘もない。一切の空想は、瞬刻に跡を拂つて、二人の前には、唯、新しい窓かけが、裂けたまま、風に動いてゐる。……
 二人は、當感した。が、オスマンパシヤは幸に、まだヒロイズムを忘れなかつた。
 「僕が先生にさう云つてくる。君は默つてゐ給へ。」
 自分は、教員室へ行つて、擔任の小林先生の前に立つた。
 「先生、僕は窓かけをやぶきました。一人で。」
 十何年かを隔てた今日になつても、自分はこの得々とした一語を思出す度に、不快な氣がしない事はない。さうして、こんなこましやくれた小供だつた自分を、情無く思はない事はない。
(大正五年)



□やぶちゃん注(新全集の読点の代わりの空白部は煩瑣なので校合していない。)
《第一段落》
・「金巾」「かなきん/かねきん」と読む。綿布の一種で、固くった糸で目を細かく織った薄地の広幅の綿布。これを糊づけし、つや出ししたものをキャラコという。本文の叙述からは、キャラコに近いか。

《第二段落》
・「煙硝」新全集では「石硝」。
・「――古ぼけた窓かけは、自分に、屢々このプレプナの半月旗を思ひ出させた。」ここは新全集では、新全集の指示する原稿「Ⅰ」が「自分」の直後で改稿されており、原稿「Ⅱ」は以下のように始まっている。
(前略)――古ぼけた窓かけは、自分
に想像 屢々 このプレプナの半月旗を思ひ出させた。(以下略)
「に想像」(させた)と書きかけて改めたが、消し忘れたものと思われる。「屢々」の後の空白はママ。
・「少年世界」巌谷小波を主筆として博文館が明治二八(一八九五)年に創刊した少年向総合雑誌。昭和八(一九三三)年頃まで続いた。
・「プレプナ」現在のブルガリアのプレヴェン州プレヴェン。以下の露土戦争のバルカン半島の激戦地で、トルコ軍のプレヴェン要塞があった。トルコ語での呼称はプレヴネ(Plevne)であるが、歴史的に英語ではプレヴナ(Plevna)と呼ばれる。
・「露土戰爭」(ろとせんそう 一八七七年~一八七八年)はロシア帝国とオスマン帝国(トルコ)の間で起こった戦争の一つバルカン半島に在住するオスマン帝国領下のスラヴ系諸民族がトルコ人の支配に対して反乱し、それを支援するかたちでバルカン半島南下を画策したロシアが介入して勃発、ロシアが勝利し、一八七八年三月三日の講和条約サン・ステファノ条約によって、トルコは多額の賠償金とともに領土割譲などを余儀なくされた。
・「オスマンパシヤ」オスマン•ヌリ•パシャ(Osman Nuri Pasha 一八三二年~一九〇〇年)はオスマン帝国軍の元帥。プレヴェン要塞のロシア軍包囲戦を五ヶ月の間、死守し続けた名将。敗戦復帰直後、彼はトルコ国民の賞讃を受け、その栄誉を称えて“Gazi”(ガジ。トルコ語で「常に勝つ者」=英雄)の称号を授けられた。後、二十年に亙って軍担当大臣を務めた。
・「半月旗」オスマン帝国旗で、現在のトルコ国旗と同じ。赤地に白の三日月と五芒星を配す。
・「クルーゲル」ポール・クリューガー(Stephanus Johannes Paulus Kruger 一八二五年~一九〇四年)。トランスヴァール共和国(現・南アフリカ共和国)初代大統領。南アフリカ独立の英雄。

《第三段落》
・「後」新全集では「うしろ」とルビを振る。

《第四段落》
・「中央新聞」明治一六(一八八三)年に発行された『絵入朝野新聞』(明治二二(一八八九)年に『江戸新聞』と改名)が明治二三(一八九〇)年に買収されて『東京中新聞』となり、更に翌年『中央新聞』となったもの。立憲政友会などの機関紙的性質を持っていた。
・「觀阿彌」能を大成した観阿弥(世阿弥の父)のことか。

《第五段落》
・「大砲が横綱を張つて」「大砲」は大砲万右エ門おおづつまんえもん(明治二(一八六九)年~大正七(一九一八)年)のこと。角田県刈田郡大鷹沢村(現在の宮城県白石市)出身。本名、角張萬次かくばりまんじ。明治三四(一九〇一)年第十八代横綱となり、明治四一(一九〇八)年一月場所限りで引退した。当時、一九六センチメートルの最長身の力士であった。
・「常陸山と梅ケ谷とが、東西の大關だつた頃」「常陸山」は常陸山谷右エ門ひたちやまたにえもん(明治七(一八七四)年~大正一一(一九二二)年)のこと。茨城県東茨城郡(現在の茨城県水戸市)出身。本名、市毛谷右衛門いちげたにえもん。明治三四(一九〇一)年に大関昇進、明治三六(一九〇三)年に第十九代横綱に昇進した。「梅ケ谷」は梅ヶ谷藤太郎うめがたにとうたろう(明治一一(一八七八)年~昭和二(一九二七)年)は、石川県上新川郡水橋町(現在の富山県富山市。維新当初、旧富山藩は石川県に併合されていた)出身。本名は押田音次郎おしだおとじろう。明治三三(一九〇〇)年に大関昇進、げる。明治三六(一九〇三)年五月場所で常陸山との全勝対決で敗れたが、横綱免許授与が決まった常陸山から「出来れば梅ヶ谷関と一緒にお願いします。」という申し出によって、梅ヶ谷も横綱免許を授与された。因みに、この時、梅ヶ谷は横綱土俵入りで雲龍型を選択、現在まで受け継がれている「雲龍型の土俵入りの開祖」とされている。以上(それぞれウィキの当該力士の記載を参照した)から、
大砲横綱在位  明治三四(一九〇一)年~明治四一(一九〇八)年一月
常陸山大関在位 明治三四(一九〇一)年~明治三六(一九〇三)年五月
梅ヶ谷大関在位 明治三三(一九〇〇)年~明治三六(一九〇三)年五月
となるから、芥川の言う「大砲が横綱を張つて、常陸山と梅ケ谷とが、東西の大關だつた頃」とは、
        明治三四(一九〇一)年~明治三六(一九〇三)年五月
の間となる。芥川龍之介はこの時、
        明治三四(一九〇一)年四月 江東小学校四年進級
        明治三五(一九〇二)年四月 江東小学校高等科一年進級
        明治三六(一九〇三)年五月 江東小学校高等科二年在籍
であった。龍之介、満九歳から十一歳(龍之介は三月一日生まれ)の折りのエピソードである(印象からは江東小学校高等科になってからか)。

《掉尾》
・「(大正五年)」新全集にはこのクレジットはない。従って、本稿を大正五(一九一六)年のものとする根拠はないとも言える。暫く、私の目次は当該年の最後に配しておく。



(無題〔教室の窓かけが、新しくなつた。――〕) 完