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梶井基次郎「檸檬」授業ノート
(本文は新字新仮名に直して用いている。「段落」と称しているのは当該指示「段」の中の形式段落を示す。)

copyright 2006 Yabtyan

 

◆第Ⅰ段

(冒頭~「……これらはみな借金取りの亡靈のやうに私には見えるのだつた。」迄)

 

□第一段落

☆始終「えたいの知れない不吉な塊」に「おさえつけられてい」る私

焦躁[いらだちあせること]や嫌悪[憎みきらうこと。不愉快に思うこと]のようなもの

(「といおうか」~自己分析不明瞭の表明)

を伴う、精神的に「居堪」(いたたま)れない感情。

 

○現象としての現実的説明

(一般に)酒を飲み過ぎると翌日は(不快な)宿酔になる

     ↓

「私」は酒を毎日飲み続けている(酩酊時間が何日に及ぶ)

     ↓

宿酔に相当する(何日にも及ぶ不快な)時期がやって来た=えたいの知れない不吉な塊

     ↓

☆アルコール性抑鬱状態(長期の過飲により絶望・焦燥・悲哀感などの抑鬱感情、思考の集中困難などの思考抑制が見られる状態。時に、罪責などの妄想を伴う。但し、通常は数年から十数年の継続的濫飲のいるアルコール依存症の症状で、この主人公にそれが当てはまるかどうかは疑問ではある。これはしかし、短期の相当量の過飲と後述する心因性の抑鬱状態の重層効果が起こした「アルコール性抑鬱様状態」と言っていいのではないかと私は考えている。)

 

○以下の原因を否定

×結果した(病巣を結んだ)肺尖(肺の上部の尖端部。鈍円形で、鎖骨の上側の凹部に位置する)カタル(肺尖の部分の結核症。肺結核の初期病変)のせいではない

×神経衰弱のせいではない

×背を焼くような(苦しめられる多額の)借金のせいではない

 

☆しかし、本当にそうか? 本当に、これは「えたいの知れない不吉な塊」に「おさえつけられてい」る状況を成因させた原因ではないのか? そもそも何故深酒をするのか? という問に立ち戻って考えてみる必要がある。

     ↓

逆に、ここではこの状態を作り出した従属的副次的理由を暗に表明しているととってよいであろう。

     ↓

「えたいの知れない不吉な塊」〈分析〉

当時、不治の病として恐れられた結核の前駆症状である肺尖カタルの罹患[避けられぬ死の予感]、それに伴う神経衰弱(但しこれは正式な病名として認知するかどうかは実際には留保すべきである)、それらの不安を忘れようとするための過飲による抑鬱状態[これがさらに神経衰弱を増悪させる]といった心身の病気と、多額の借金などに象徴される生活上の乱れ[そのはやはり死の不安を忘れるための逃避的放蕩とも解釈される]といった複合的なものが原因なのだと解釈はできる。

 

しかし、なおかつそれは「私」にとって「えたいの知れない不吉な塊」としか表現できない「何か」なのである点に注意!

 ↓

それが「美しい音楽」「美しい詩」を心静かに鑑賞する心の余裕を「私」から奪った。

 ↓落ち着いていられない

「街から街を放浪」

 ↓

第Ⅱ段冒頭への伏線

 

■第二~六段落(各段の分析の前に包括的把握を行う)

「私」が叙述している内容は過去の出来事であることを明示(「その頃」「覚えている」)

 ↓と言うことは

現在の「私」はこの叙述された時点の精神的肉体的状況とは異なった状況にあることを意味する。

 

 ?

(不吉な塊は和らいだのかもしれないが、逆に後述する「みすぼらしくて美しいもの」にひかれるような気持ちはやや失われてしまったというニュアンスを全体の行間に感じないか?)

 

◎「みすぼらしくて美しいもの」に強くひきつけられた「私」→「不吉な塊」

 

①「壊れかかった街」

②「よそよそしい表通りよりも、どこか親しみのある、

汚い洗濯物が干してあったり、

がらくたが転がしてあったり、

むさくるしい部屋がのぞいていたりする

裏通り」

③「雨や風が蝕んでやがて土にかえってしまう(街)」

④「土塀が崩れていたり家並みが傾きかかっていたり――

勢いのいいのは植物だけ(の街)」

 

☆①~④の属性の整理

・荒廃しつつあるもの。

・洗練されていない、取り澄ましていない、くずれた、下町の平凡な生活の臭いがするもの。

・人間の活力が失われたもの(物品)。

 

⑤「安っぽい絵の具で」「さまざまの縞模様を持った花火の束」

⑥「一つずつ輪になっていて箱に詰めてある」「鼠花火」

⑦「びいどろという色硝子で鯛や花を打ち出してあるおはじき」

⑧「南京玉」

⑨「二銭や三銭のもの――といって贅沢なもの」

 

☆⑤~⑨の属性の整理

・いかにも安物といったもの。

・子供の玩具のような他愛のないもの。

・(実際に)安価で、かつ現実の生活にとって必需品ではない点に於いて「贅沢」と言い得るもの。

    ↓

○①~⑨の属性の総括

「自然私を慰め」てくれる「美しいもの――といって

無気力な私の触角にむしろ媚びてくるもの」

    ↓

☆触角の比喩について

「美しい音楽」や「美しい詩」を享受する人間という高次のレベルをもはや受け入れられない自分を、昆虫のように比喩した表現したともとれるし、全く逆に、自己の病的なまでに研ぎ澄まされてしまった鋭敏な自己の感受性を、最も敏感な昆虫の触角に喩えたともとれる。

☆(私にとって)美しく、かつ

「不吉な塊」によって精神的に打ちのめされ、焦燥や嫌悪や不安に堕ち入っている「落魄れた私」の感受性に、威圧感を与える事なく、優しく訴えかけてくるような、みすぼらしい(見た目は貧しく、貧弱な)もの

    ↓

抑鬱的な自己が対象へ感情転移したもの=彼自身が投影された心象風景

 

 

(*各段落分析に戻る)

□第二段落

☆②「よそよそしい表通り」を避ける心理

洗練され、取り澄ました見られることを意識した京都の表通りは、鬱屈した私にはそぐわない風景であり、前段の美しい音楽や詩と同様に私を居たたまれなくさせるのである。

☆④「土塀が崩れていたり家並みが傾きかかっていたり」する街に、「時とすると吃驚させるような向日葵があったりカンナが咲いていたりする」という植物の効果

地味な、人間の活力が失われた「壊れかかった街」の中にあって、鮮やかな色彩感を放つもの=どぎつく異様なまでに本能的な生命感、活力を持つものとして対照的に描かれている。

    ↓

後文
の檸檬への伏線

 

 

 

□第三段落

☆彼は何故京都から逃げ出したいのか?

この場合の「京都」とは、確かに当時、彼が現実に生活していた場所であるが、それ以上に、不吉な塊によっておさえつけられた現実そのものの象徴である。同様に「仙台」「長崎」も、南北の果ての方に「何百里も離れた」というところに意味があり(梶井の内実に於いてそれぞれの地名に特定的意味があるかどうかは不分明)、私の強い現実逃避感情の現われである。

↓その証左

「がらんとした旅館の一室。……糊のよくきいた浴衣。」~旅情としての描写~旅という非日常

現実から遠く離れた時空に身を置く夢想

 

☆補足

「第一に安静」~これは明らかに心身の病気の治癒願望の積極的意思的表現であることに注意。やはり「私」の中の「不吉な塊」の第一に病気への不安があることが見て取れる。

 

○「想像の絵の具を塗りつけてゆく。」

より詳しく、細部にわたり、想像をふくらませてゆくこと。現実逃避の錯覚をできるだけ錯覚と思えない具体性あるものにしてゆくこと。

 

○「私の錯覚と壊れかかった街との二重写し」

厚塗りした錯覚により、京都から何百里も離れた見知らぬ街に来ているように感じて十分に空想を楽しんでいる。しかも彼は、現実の京都でも、一応、自分のほっとできる、裏通りや荒廃した暗い街を選んで歩いている。その想像と心象的現実の世界のオーバー・ラップの画像にのめり込んで、京都にいることを忘れ、「私自身を見失うのを楽しんだ。」のである。

    ↓想像力によって現実の中に旅情を喚起することで

エトランゼ【étranger】(見知らぬ人。外国からの旅行者。異邦人。外国人。エトランジェ)としての自分を創り出す

 

 

 

□第四段落

○「花火そのものは第二段として」

最も肝心な私の興味をそそる、強い魅力を感じるもの(=第一段)は、花火自体が炸裂した時の形や光の色彩(=「第二段」。普通は花火の第一段=その興味、魅力、価値はこちらである)ではなく、売られている花火という品物の持つ色彩感や模様、名称、箱への詰め方などであるということ。

    ↓

☆〈花火という物品の色彩的形状的なものへの偏愛〉

 

□第五段落

○おはじき・南京玉の形・色

☆「なめてみる」ことによる味覚的偏愛→口唇期的幼児性欲的願望充足としての偏愛〉

・花火・おはじき・南京玉~子供の玩具

・本来無味のものを口の中に入れた時の「幽かな涼しい味」「詩美といったような味覚」が「幼児のあまい記憶」を蘇らせてくれる

 ↓現実逃避願望

平和な苦痛のない幼少期に「落魄れた私」を連れ戻すもの   *母胎回帰願望

 

□第六段落

☆⑨現実的側面として、金のない私にとって、二、三銭のものが、手が出せる贅沢品の限度でもある

    ↓

檸檬を買う伏線

 

□第七段落

☆以前の私(=この時点の私に比すれば相対的に健康的な生活を送っていた頃の私)の好きだった場所としての丸善

洋書と輸入雑貨の専門店=

当時の知識人に最新の知識を供給=

最先端の西洋文化の窓口=

近代化を目指す日本の文化的象徴

    ↓

列挙される輸入雑貨~「みすぼらしく」ない「美しいもの」を見ることで精神的な贅沢を満喫できた

    ↓

希望と夢に満ちあふれていたかつての私の華やかな理想郷

    ↓しかし

☆最早「重苦しい場所にすぎな」い丸善

学校に行かず、学業を怠け[第八段落]、借金に「背を焼く」不良学生にとって、

(学問の象徴としての→)書籍、

(熱心に書籍を読み耽る→)学生、

(金を支払わねばならない→)勘定台

は、自分の現実を皮肉に指し示しているようで、「借金取の亡霊」のように見えたのである。

    ↓

不安神経症の関係妄想的気分に極似

☆ここで注意しなくてはならないのは、「借金取の亡霊」は、直接は『借金に「背を焼」い』ていることと関係がない点である。即ち、「借金取の亡霊」とは、自己に対して脅迫的に波状的に迫ってくる強迫観念の直喩なのである。

 

 

 

 

◆第Ⅱ段

(「ある朝――其頃私は甲の友達から乙の友達へといふ風に……」~「……――なにがさて私は幸福だつたのだ。」迄)

 

□第一段落

・「ある朝」~メイン・ストーリーへの導入

自分の部屋にさえ居たたまれず、エトランゼとして「彷徨」い歩かねばならない。

☆「何か(=不吉な塊)が私を追いたてる」)孤独な「私」という第Ⅰ段設定の再確認。

・駄菓子・乾蝦・棒鱈・湯葉~「みすぼらしくて美しいもの」

    ↓

その極点ともいうべき場所

    

果物屋

 

◎以下、第二段迄、主ストーリーの中断~果物屋の説明(八百卯として現存)

○「立派な店ではない」

    

対照的に立派な店としての丸善が暗示

 

○「何か華やかな美しい音楽の快速調(アツレグロ)の流れが」

    ↓音楽の物質化幻想

「凝り固まった」

 

○「果物屋固有の美しさが最も露骨に感ぜられた」

~「吃驚させるような向日葵があったり、カンナが咲いていたりする」に相当するものであり、どぎつい鮮やかな色彩感を放つものとして「露骨に」と描写されるのである。

 

○その店に並んでいる果物は、華やかな美しいアレグロのメロディラインが石化して、色彩や質感となったかのように見える。

    

その音楽の中の一つとしての檸檬という伏線に注意

聴覚から視覚へ!

不可視の流動体から可視の固体へ!

 

  *ゴルゴン【Gorgon】ギリシア神話で、三人姉妹(ステノ・エウリュアレ・メドゥーサ)。その中のメドゥーサ【Medusa】は、頭髪が蛇、黄金の翼を持ち、その目はこれを見る者を石に化した。ペルセウスに退治され、その頭はアテナに贈られて、その胴から天馬ペガソスが生れたとされる。

 

□第二段落

☆夜の美しさ

・飾窓:ショーウィンドウ。

☆「その店頭の周囲だけが妙に暗い」理由〈極めて微細に亙る分析~神経症的とも言える拘り〉

①果物屋はちょうど角にあり、一方が暗い二条通に面しているから。

②もう一方の寺町通側は、その果物屋の隣りの家が賑やかな寺町通にあるにも拘わらず、暗い印象だったから(その隣家が何故暗い印象だったかは自分でもよく分(からないのだが)。

③果物屋の廂がやけに下がっていたから。

 

☆夜のその果物屋が「私を誘惑」したのは何故か?

「そう周囲が真っ暗なため、店頭につけられた幾つもの電灯が驟雨のように浴びせかける絢爛は、周囲の何者にも奪われることなく、ほしいままにも美しい眺めが照らし出されてい」たから。

 

・驟雨:急に降り出し、間もなく止んでしまう雨。にわかあめ。

・絢爛:きらびやかに輝いて美しいこと。

 

□第三段落(ストーリーに戻る)

◎檸檬が好きな理由

☆色彩(「レモンヱロウの絵の具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色」

    ↓

前出の「何か華やかな美しい音楽の快速調の流れが……あんな色彩やヴォリウムに固まった」と対応している)

☆量感(「あの丈の詰まった紡錘形の恰好」)

 

○檸檬を一つだけ買う私~食うためではなく精神的な贅沢のための「みすぼらしくて美しいもの」として

    ↓劇的変化

◎「逆説的な本当

「あんなにしつこかった憂鬱」が、たかが檸檬一顆という「みすぼらしくて美しいもの」で紛らされ、「非常に幸福」になったということ。

不吉な塊⇔一顆の檸檬

という、感じている自身が驚くほどに突飛で見た目のバランスのとれない拮抗

    ↓

心というものの不可思議さ

 

□第四段落

「私の熱を見せびらかすために……」(死の影を見せびらかす露悪的なデカダンスのポーズ)

  *梶井基次郎の西瓜のエピソード等紹介

 

□第五段落

○「ついぞ胸いっぱいに呼吸したことのなかった私の身体や顔には温かい血のほとぼりが昇ってきてなんだか身内に元気が目覚めてきたのだった。……」

傍線部~現実的な肺尖カタルの症状を示すのみならず、「不吉な塊」によって、精神的に押さえつけられてきた私が「胸いっぱい」に呼吸するような自由な気持ちになれなかった心理をも内包した表現。

 

□第六段落 

○「冷覚や触覚や嗅覚や視覚」

・冷覚・触覚~「握っている掌から身内に浸み透ってゆくようなその冷たさ」(第四段落)

・嗅覚~「ふかぶかと胸いっぱいに匂やかな空気を吸い込めば、ついぞ胸いっぱいに呼吸したことのなかった私の身体や顔には温かい血のほとぼりが昇ってきてなんだか身内に元気が目覚めてきたのだった」(第五段落)

・視覚~「レモンヱロウの絵の具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色も、おそれからあの丈の詰まった紡錘形の恰好」(第三段落)

 

「それがあの頃のことなんだから。」~回想の再提示~今はどうなのか?

    ↓

    ?

(今の生活はあのときほどに自堕落ではないのであろうが、逆にこの時のような鮮烈な感動は失われた、それをちょっぴり懐かしむ寂しさというニュアンスを、その「……なんだから。」という語尾に感じないだろうか?)

 

□第七~八段落

○美的装束をして街を闊歩した詩人~オスカー・ワイルドやシャルル・ボードレールか~破滅型のデカダンな詩人気取り

 

○「――つまりはこの重さなんだな。――」

    ↓

檸檬=絶対的善・美の象徴としての重量

 

☆但し、記述している現在の「私」はそう捕らえた当時の「私」を一応、批判的に捉えている点にも着目すべきである~「思いあがった諧謔心からそんなばかげたことを考えてみたり」

・諧謔:おどけ。洒落。滑稽。ユーモア。

    

しかし、なおかつ「何がさて私は幸福だったのだ。」 という点で、実は、その瞬間の強烈な真実として今も力強く肯定しているという内実に注意。

 

◆第Ⅲ段落

(「何処をどう歩いたのだろう、私が最後に立ったのは丸善の前だった。」~「さてあまりに尋常な周圍を見廻すときのあの變にそぐわない氣持を、私は以前には好んで味つてゐたものであつた。……」迄)

 

□第一段落~第三段落

☆丸善への挑戦

この幸福感が、日ごろ気詰まりな場所であった丸善の中でも失われずに保持出来るかどうかを試みるための挑戦。

    ↓

「私」の気負い「ずかずか」~☆結末の「すたすた」に対応させるための伏線であることに注意!

 ↓しかし

逃げてゆく感情~急激な感情の下降線

    ↓

憂鬱の増大と虚脱感

 

○「呪われたことには」

重い画集を抜き出すのさえ容易ではなく、それを見る気力さえないのに、無意識にさらに次々と画集を引き出してしまう自分を、思いどおりに出来ない存在として持て余し、客体化した卓抜な表現。

    ↓

□第四段落

☆絵画の幻想の中に全く貫入できない呪われた「私」

    ↓

☆実は、ここで以前の「私」も、結局は今の「私」と全く同様に現実逃避を指向していたことが示される。但し、その頃の「私」には、こうした違和感を「好んで味わう」余裕があった。

 

☆アングル~裸体画「グランド・オダリスク」~健康的/肉感的善・美

    ↓

対比される「私」の病身/亢進する性欲の象徴ともとれる

 

 

 

 

◆第Ⅳ段落

(『「あ、そうだそうだ」その時私は袂の中の檸檬を憶ひ出した。』~結末迄)

 

☆ガチャガチャの色の画本の城の頂上に置かれる檸檬

そのガチャガチャした色の諧調(うるさいリズム)

不安定な城

丸善の書籍売り場の憂鬱、ひいては=

えたいの知れない不吉な塊の象徴

をすべて吸収して鎮座している檸檬

    ↓

☆第二のアイディア

誰も考えつかない、不思議な「心」のはたらきによる、突飛な悪戯に子供っぽく胸躍らす

~これは勿論、逆に返らぬ幼少期への限りない哀惜でもあろう

    ↓

紡錘形=手榴弾の連想

    ↓

☆檸檬爆弾~カタストロフ幻想としての小説「檸檬」の存在

現実の象徴めいて指弾してくる丸善を木っ端みじんに粉砕する痛快無比な幻想

 

「檸檬」補説



○そのテーマ(創作のイメージ)は何か?

①予定調和的(不可知な力によって結びつけられた心と檸檬)な一種のファンタジー。

   *予定調和
相互に無縁でおのおの独立の世界をなす各モナド(殊に心身の両者)があたかも交互作用の関係にあるかのような状態を示す理由は、あらかじめ神によって各モナド間に調和が生ずるように定められているからであるとするライプニッツの説。

②自暴自棄的気分を気取った、アンビバレントな感情による、ニヒリスティックな幻想。
  エンディングの活動写真のキッチュさ。
   *キッチュ【Kitschドイツ語】(まがいもの。俗悪なもの)
 キッチュな看板画が彩る歓楽街「京極」へと消えてゆく「私」の後ろ姿の一抹の寂しさ、ニヒルな雰囲気。

    ↓

●しかし、彼はその否定的現実の中の、学業、知性、教養、健全な青春がどこかで未だ気掛かりなのではないか? だとすれば、現実を逃避したファンタジー、虚無的で突き放された、「閉鎖された系」としてのみ捉えることは問題があるかもしれない。

    ↓

*執筆当時の作者のおかれた状況との関連性

 一九二四(大正十三)京都三高(理科~当初エンジニアを志す)を病人を装って「教師回り」をして卒業、東京帝国大学英文科入学。将来の文学活動へレールを絞った。また、同時期に最愛の妹八重(四歳)の死に衝撃を受け、松阪の義兄のもとで療養していた。自ら「狂的時代」と呼んだ作中の三高時代を或程度客観視できる状況であった。即ち彼は、実はこの時、作家としての野心のベクトルを意識し、そのための健康への意志を強く持っていたと考えられる。



○檸檬に暗示される性的象徴性の匂い~志賀直哉の「暗夜行路」が意識されていないか?

*志賀直哉「暗夜行路」前編 大正十(一九二一)年発表

〈祖父と母の不義の子である主人公、時任(ときとう)謙作は、結婚によってそれを克服したかに思えたが、今度は妻が従兄弟との間に過失を犯す。後編の最後で、自棄的になった謙作は大山に登るが、そこで登る朝日を見て、すべてを許す心の平安に至る。志賀直哉唯一の長編作品で、完結は昭和十二(一九三七)年、実に十六年の歳月をかけた、畢生の名作である。〉

*前編のラストシーン、苦悩する謙作が娼婦を買う。[漢字は新字に改めた]

『彼は然し、女のふつくらした重味のある乳房を柔かく握つて見て、云ひやうのない快感を感じた。それは何か値うちのあるものに触れてゐる感じだつた。軽く揺すると、気持のいい重さが掌(てのひら)に感ぜられる。それを何と云ひ現はしていいか分からなかつた。
「豊年だ! 豊年だ!」と云つた。
 さう云ひながら、彼は幾度となくそれを揺振(ゆすぶ)つた。何か知れなかつた。が、兎に角それは彼の空虚を満たして呉れる、何かしら唯一の貴重な物、その象徴として彼には感ぜられるのであつた。』

*梶井基次郎の「檸檬」の発表は大正十四(一九二五)年であった。