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Смерть
   Иван Сергеевич Тургенев

 

   ――イワン・ツルゲーネフ原作 中山省三郎譯

 

[やぶちゃん注:これは

Иван Сергеевич ТургеневIvan Sergeyevich Turgenev

Записки охотника”(Zapiski okhotnika

イワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフ(18181883)の「猟人日記」18471851年に雑誌『同時代人』に発表後、一篇を加えて二十二篇が1852年に刊行されたが、後の70年代に更に三篇が追加され、1880年に決定版として全二十五篇となった)の中の

Смерть”(Smert’

の全訳である(1848年『同時代人』初出)。底本は昭和311956)年角川書店刊の角川文庫のツルゲーネフ中山省三郎譯「獵人日記」の上巻の、平成2(1991)年再版本を用いた。傍点「ヽ」は下線に代え、巻末にある訳者注を作品末に示し(但し、文中にある注記号「*」はうるさいので省略した)、一部の私に気になった語についてのオリジナルな注も混在させた(記号で明確に区別した)。なお、「Mein Gott! Mein Gott!(まあまあ)」と表記した部分について述べておく。底本では、この「まあまあ」はルビ位置ではなく、『Mein Gott! Mein Gott! 』の文字列(表記のように底本では一字分のスペースを空けてある)の後に、割注のように「まあ」の文字が左右に縦に並んでいる(丸括弧等は附いていないが、これは実際、訳者の割注であろうと思われる――他の作品では中山氏は( )を附して割注を入れているが、ネット上のロシア語原文を見てもツルゲーネフがここにロシア語で「まあまあ」と注記しているのではない)が、ルビのように表記させてもらった。また、最後の逸話に現れる友アヴェニールの死を伝えるクルビャニコフ氏からの所信部分は、底本が表記のように一字下げ(一行字数は本文の他行と同じ)になっており、ブラウザ上での文字列の変形を危惧し、私のテクストでは一行字数を有意に減らして改行した。なお、訳者である故中山省三郎先生への私のオードは、「生神樣」の冒頭注を参照されたい。【2008年7月12日】

 

   

 

 私の近所に獵の好きな若い地主がゐる。よく晴れた七月の或る朝、私は一緒に松鷄(えぞやまどり)を撃ちに行かうと思つて、彼のところへ乘りつけた。彼は承知をした。「しかし」と彼はいつた、「うちの柴山(しばやま)を通つてズーシャの方へ行かうぢやありませんか。さうすると、私はついでにチャプルィギノの方も見て來ますから、御存じでせうか、うちの槲の木山を? 今、あそこを伐らしてゐるんです」「ではお伴をいたしませう」彼は馬に鞍を置かせ、野猪(のじし)の頭を浮き出しにした靑銅の釦のついた綠いろの上衣を着、毛絲で縫ひとりをした獵袋と銀の水筒をぶらさげ、肩には新型の佛蘭西銃をかついで、いかにも滿足さうに鏡に向つてからエスペランスといふ犬を呼んだ。この犬は、まことに氣のいい、しかしながら今は一本の髮の毛もない老孃(オールド・ミス)の從姉から贈られたものであつた。私たちは出かける。私の隣人は村の監督をしてゐるアルヒープといふ四角い顏をして、不釣合ひに頰骨の高い、肥つた背の小さい百姓と、ついこの頃バルチック沿岸の地方から雇はれて來た管理人のゴットリーフ・フォン・デル・コックといふ、瘠せて、髮の毛のきれいな、眼つきの鈍い、撫で肩で頸の長い、年は十九ばかりの若者とを連れて出た。私の隣人は近ごろ初めてその土地を手に入れたのである。五等文官夫人でカルドン・カターエワといふ叔母さんからの遺産として彼の手に入つたのである。その叔母さんといふのは恐ろしく肥え太つてゐるので、床に横たはつてゐる時でさへも、絶えず悲しさうに唸つてゐた。私たちは『柴山(しばやま)』へやつて來た。「お前たちはここの空地(あきち)で待つててくれ」とアルダリオン・ミハイルィチ(私の隣人)は連れの者に向つていつた。獨逸人はお辭儀をして、馬を下り、ポケットから本を取り出して――どうやらヨハンナ・ショーペンハウエルの小説らしい――藪かげに坐り込んだ。アルヒープは日向にじつとしてゐて、一時間のあひだ身じろぎだにもしなかつた。私たちは藪から藪を廻つたが、雛鳥ひとつ見つからなかつた。アルダリオン・ミハイルィチは森の方へ行くつもりだと言ひ出した。私も何だかその日はうまい獲物にありつけさうにも思へなかつたので、彼の後からぶらぶら跟(つ)いて行つた。私たちは空地へ引き返した。獨逸人は讀みさしの頁にしるしをつけて、立ちあがつて、本をポケットにしまひ込み、やつとのことで尾の短い、仕樣のない牝馬にまたがつた。この馬と來たら一寸さはつただけでも嘶いて、蹴り立てるといふ厄介な代物(しろもの)。アルヒープが身ぶるひして、兩方の手綱を一緒にぐいと引き絞り、足をゆすぶると、驚いて、暫し茫然としてゐた馬も力なく、しやうことなしに、たうとう歩き出した。私たちはそこを發(た)つた。

 アルダリオン・ミハイルィチの有つてゐる森は自分も子供の頃からよく知つてゐた。佛蘭西人の家庭教師デジレ・フルーリイ氏(m-r Désiré-Fleury)という至つて氣だてのよい人(尤も先生は毎晩わたしにレルア水藥(すゐ)を飮ませたので、生涯わたしは身體(からだ)を惡くした)につれられて私はよくチャプルィギノへ行つたものだ。森全體が凡そ二三百木の巨きな槲の木と秦皮(とねりこ)の木とから成り立つてゐた。形のよい、堂々たる幹は胡桃や清涼茶(ななかまど)の金色に透きとほるばかりの綠葉(みどりば)のうへに、うるはしく、一きは黑く、高く聳えて、晴れ渡つた空に整然と美しい線を描き、そこに蔽ひかぶさるやうな、少しく節くれだつた樹枝を天幕のやうに張りひろげてゐた。兀鷹(はげたか)や小鷹(はちくま)、野鷹(ちやうげんぼ)など、さゆらぎだもしない梢のかげを、啼きながら飛んでゐる。縞啄木鳥(しまげり)は厚い木の皮をこつこつとはげしく叩き、よく徹る黑鶫の聲音(こはね)は、不意に繁(し)み葉のなかに高麗うぐひすのやうな啼きごゑにつづいて聞こえてくる。下の藪には鶺鴒や鶸や田鳧が歌を歌つたり、囀つたり。小徑に沿うて忙しげに金絲茨鵲(あとり)が趨(はし)つて行く。白兎が用心深く『跛をひきながら』森の緣(へり)を忍び足して通つたり、落葉色の栗鼠が樹から樹へと面白さうに跳びうつり、樹のうへに尾をのせて、不意に足をとめたりする。刻んだやうに美しい蕨の微かな葉かげ、高い蟻塚のほとりの草のなかには董や鈴蘭の花が咲いて、靑蕈、粟蕈、平蕈、楯茸、赤い蠅取茸などが生えてゐる。廣い藪の間の芝生には白花蛇苺(しろはなのへびいちご)が赤らんでゐる……。それにしてもあの森の中の、あの樹蔭はどうであつたか! 晝の日中(ひなか)の暑いさかりに、まぎれもない夜があつた。あの靜寂、あの香り、あの涼しさ……。チャプルィギノで私は樂しい時を過ごした、だからこそ今、正直にいへば、こんなにもよく知りぬいてゐる森の中へ入つて何となく物悲しい氣特になるのである。思へば、一八四〇年の、あの呪ふべき、雪のない冬は私の古い友達――槲や秦皮をも容赦はしなかつた。これらの樹々は今は枯れはてて、裸にされて、ところどころ肺病やみのやうに賴りない病葉(わくらば)に包まれながら、哀れにも、『昔の面影を忍ぶよすがはなくとも、そのかはりとなつた』若木(わかぎ)の林のうへに聳えてゐる。

 中には下の方に葉を繁らせて、天を怨み、絶望に沈むかのやうに、生氣のない折れた枝を高く擧げてゐるのもあれば、豐かな、滿ちあふれるやうな昔の面影はないまでも、なほこんもりと繁つた葉の間から、太い乾からびた枯枝を出してゐるのもある。また皮がすつかり落ちてしまつたのや、遂に倒れて、死骸のやうに地べたに腐つてゐるのもある。その昔、かういふことにならうとは誰が夢にも思つたらう。樹蔭はチャプルィギノには今どこを見わたしても見られなくなつた! 『ああ、どんなにお前たちは恥かしく、心悲しいことだらう?』と私は枯れかかつてゐる樹を眺めながら考へた……。ゆくりなくもコリツォフの詩が思ひ出される。

   高き話ごゑ

   誇りかなる力、

   王者の剛毅、

   今やいづこにかくれたる?

   かのみどり葉の

   生氣や 今いづこ?

 「どういふわけでせうね、アルダリオン・ミハイルィチ」と私は口を切つた、「どうしてこの木を直ぐ翌る年に伐らさなかつたんでせうか? これぢや、元値の一割にもならんぢやありませんか」

 彼はただ肩をすくめるばかりであつた。

 「そんなことは叔母に訊いたらいいでせう――商人(あきうど)が金を持つて來て、うるさく附きまとつたんですよ」

 「
Mein Gott! Mein Gott!(まあまあ)」とフォン・デル・コックは一足ごとに叫んだ、


 「惡戲(イタヅラ)にも程(ホト)がある! 程(ホト)がある!」


 「何が惡戲(いたづら)だね?」と隣人は微笑みながら言つた。

 「つまりその、あんまり傷(イタ)はしと、言(イ)たかつたんです」

 地べたに横たはつてゐる木を見て特に彼は傷はしいと思つたのである。いかにも粉屋ででもあつたら臼にするために高い金を拂つて買つたことであらう。しかし監督のアルヒープは平然と落ちつき拂つて、一向に悲しがりもせず却つて、さも、滿足さうに、倒れた木を飛び越えながら、鞭でぴしぴし叩いたりしてゐた。

 私たちが樹を伐つてゐる所へ來たとき、不意に樹の倒れる音がしたかと思ふと、つづいて叫びごゑと騒ぐこゑが聞こえて來た。と思ふ間もなく、藪かげから蒼ざめて髮をみだした若い百姓がこちらの眼の前へ跳び出して來た。

 「何だ? どこへ行く?」と、アルダリオン・ミハイルィチが聲をかけた。

 百姓は直ぐに立ち止まつた。

 「ああ、アルダリオン・ミハイルィチ樣、大變なことで!」

 「どうしたんだ?」

 「マクシムが、あんた、樹で怪我して」

 「どういふ風に? ……請負師(おやかた)のマクシムがか?」

 「さうですよ、あんた。わし等、秦皮(とねりこ)の樹を伐つてて、親方はそれを立つて見てたんです……。しばらく、まあ、立つて見てたんですが、水飮みに井戸の方さ少し歩き出すと、きつと水を飮みたくなつたんでせうが、さうすると、いきなり秦皮(とねりこ)がみしみしいひ出して、親方の頭上へ倒れてくる。わし等あ、逃げろ、逃げろ、逃げろ! つて、呶鳴つたんですけんど、……傍へ避(よ)けりやよかつたのに、前の方へ眞直ぐに駈け出しつちやつたんで、……全く怖ぢ氣づいたんでせう。たうとう秦皮(とねりこ)の梢(うら)つぺの枝がおつ覆さつちやつて。どうしてこんなに早く倒れたんだか、――さつぱり譯がわかんねえ……、きつと心(しん)が腐つてたんでせう」

 「それで、マクシムは殺(や)られたんだね?」

 「へえ、さうで」

 「死んぢやつたか?」

 「いんえ、あんた、まだ息はあります、けんど仕樣がありません、手も足ももぎれちやつて。わしは醫者どんのセリヴェーストィチさんを呼びに行くところで」

 アルダリオン・ミハイルィチは監督にも一走り、村へセリヴェールストィチを迎へに行くやうにといひつけて、自分は大急ぎで開墾地(あらく)の方へ馬を走らせた。……私は後につづいて行つた。

 行つて見ると、哀れにもマクシムは地べたに横たはつてゐた。十人ばかりの百姓が彼を取卷いて立つてゐる。私たちは馬を下りた。彼は蟲の息で唸つてゐた。時をり眼を大きく見開いて、びつくりしたやうに、あたりを見まはし、蒼ざめた唇を嚙んで……。顎はがたがたふるへ、髮の毛は額にひつつき、胸は不規則な動悸を打つてゐる、彼は死にかかつてゐるのだ。若い菩提樹の淡い影が靜かに彼の顏を滑(ぬめ)つてゐた。

 私たちは屈んで覗きこんだ。すると彼はアルダリオン・ミハイルィチの顏を見わけた。

 「どうか、旦那」と聞きとれないやうな聲で彼は言ひ出した、「お坊さんを……むかへに……やって下さい……、神樣の……罰で……足も、手も、みんな粉微塵(こなみじん)にされちやつて……今日は……日曜だのに……、それに……ああ、わしは……若(わけ)え衆(し)らに、暇をやんなかつたんで」

 彼は默つてしまつた。息がつまつたのである。

 「それから、わしの金は……嬶に……嬶にやつておくんなせえ……、誰に……いくら借りがあるか……、ここにゐるオニーシムが知つてますから……、それを差引(さつぴ)いて……」

 「マクシム、醫者をいま迎へにやつたからね、きつとまだ死にやしないよ」

 彼は眼を開けようとして、無理に眉と瞼を上げた。

 「いんえ、助かりません。それ、もう死神(しにがみ)が寄つてくる……、あれ、あれ……、若(わけ)え衆(し)たち、惡い事あつたら、許してくれよ……」

 「神樣は許して下さるよ、マクシム・アンドレーヰッチ」と百姓たちは、ぼんやりと聲を揃へて言つた、そして帽子をとつて、「わしらを許しておくんなせえ」

 彼は忽ち絶望したやうに頭を振り、痛々しげに胸をつき出したが、又もや、ぐつたりしてしまつた。

 「けれど、ここへかうして置いて、死なしちやならん」とアルダリオン・ミハイルィチが叫んだ、「おい、若い衆、あそこの馬車から筵をもつて來てくれ、そして病院へ連れてつて」

 男が二人、馬車の方へまつしぐらに駈けて行つた。

 「わたしは、スィチョーフカのエフィームから……」と死にかかつてゐる男が呟き出した、「……昨日、馬を買ひました、……手附けは遣つてある……、だからあの馬は私のだ……、あれも……嬶に……」

 百姓たちは筵の上に移しはじめた……。彼は傷手(いたで)を負つた鳥のやうに全身をふるはせて、身體をまつすぐに伸ばした。

 「死んぢやつた」と百姓たちは口ごもつた。

 私たちは、言葉もなく馬につて、そこを發つた。

 哀れなマクシムの死は深く私を物思ひに沈ませた。露西亞の百姓は實に驚くべき死方(しにかた)する! 臨終の心境は、決して無頓着だの魯頓だのとは言ひ得ない。彼らはあたかも儀式を行ふかのやうに死んでゆく、冷然と、又あつさりと。

 數年前のこと、村のもう一人の隣人のところにゐた百姓が乾場(かんば)で酷い火傷(やけど)をした。(若しあの時、通りがかりの町の者が半死半生の彼を引き出してやらなかつたら、乾場でそのまま黑焦げになつてゐたかも知れぬ。町の人は水の入つてゐる桶に浸つて、まつしぐらに突き進み、燃えてゐる檐の下の戸を打ち破つたのである)私は彼を見舞ひにその小舍を訪れた。小舍のなかは暗く、燻(いぶ)つて、むせかへるやうであつた。「病人はどこにゐるかね?」と私は訊いた。すると「あそこに、はい、臥煖爐(ペーチカ)のうへに」と顏を手に埋めてゐた女房が、長く引つぱつて答へた。近づいて見ると、毛外套(トウルウプ)をかぶつて、百姓は苦しさうに息をしながら寢てゐる。「どうだね、鹽梅は?」病人は爐に倚つて、起き上らうとする。けれど體ぢゆうに火傷を負つて、死に頻してゐるのである。「まあ、まあ、そのまま、寢てゐなさい。……さあ、どうだね……鹽梅は?」「どうも、惡くて」と彼はいふ。「痛むかえ?」默つてゐる。「何か欲しいものはないかえ?」それでも默つてゐる。「茶でも屆けようか、え?」「結構です」私は側を離れて、腰掛に腰をおろした。十五分、三十分と坐つてゐる。小舍のなかは墓場のやうに閴(げき)としてゐる。隅の聖像の下の卓子のかげに五つばかりの女の子がかくれて麵麭をたべてゐる。母親が時をり威しつける。表の部屋には人が出たり入つたり、扉(ドア)をたたいたり、言葉を交はしたりしてゐる。兄嫁は甘藍(キヤベツ)を切つてゐる。「これ、アクシーニャ!」と遂に病人が言ひ出した。「なあに?」「クワスをくれ」アクシーニャは病人にクワスをやつた。またもや、しんと靜まりかへる。私は低い聲で訊いてみる、「聖餐はいただいたのかい?」「はい」先づ、そんなら何もかもが滯りなく濟んだのだ。今はただ死を待つばかりである。私はたまらなくなつて、彼の許を辭した……

 また思ひ出すが、或るときのこと、私はクラスノゴリェ村の病院に、かねて知合ひの熱心な遊獵家で、代診をやつていゐるカピトンを訪れたことがあつた。

 この病院は、元はお邸の傍屋(フリーゲル)であつた。それを地主の奧方が病院にしたので、いひかへると、入口の扉の上に白い文字で『クラスノゴリェ病院』と書いた靑い板を打ちつけさせ、患者の名前を記入するアルバムを、カピトンに親(みづ)から手渡ししただけのことでである。このアルバムの一枚目には情深い奥方の食客で、お世辭のうまい或る男が次のような文句を書きつけてゐた。

   うるはしき快樂(けらく)の園に

   美(よ)きひとぞ、この殿堂(いへ)を建てたまふ、

   汝が主のやさしき心たたへよ、

   クラスノゴリェの善き人たち!

 そして、も一人の紳士はその下の方へかう書いた、

   われもまたこの自然を愛す!

               ジァン・コピリャトニコフ

 代診は自分から金を出して、寢臺を六つも買ひ、神の子なる人々を癒してやらうといふ殊勝な心がけを以て仕事にとりかかつた。彼のほかに病院には更に二人の役員がゐた、氣違ひじみた彫刻師(ほりものし)のパーウェルと、料理番の役を勤めるメリキトリーサといふ、手の自由の利かない百姓女と。この二人は藥を調合したり藥草を乾かしたり、水に浸したりもすれば、また癇癪を起こす病人を鎭めもした。氣遣ひの彫刻師は澁い顏をして、めつたに物をいはない。毎晩のやうに、『うるはしきヴェネレの歌』を歌つて、道ゆく人さへ見れば近づいて行つて、疾うの昔に死んでゐるマラーニヤとかいふ娘と夫婦(いつしよ)にしてくれとせがむのである。手の不自由な百姓女は彼をやりこめて、七面島の番をさせる。さて、或る日、私は代診のカピトンのところにゐた。私たちは、この間の獵の話をやり出してゐた。すると突然、粉屋ででもなければもつてゐないやうな、非常に肥つた葦毛の馬に曳かせた小馬車が中庭へ乘り込んで來た。小馬車の中には新しい上衣(アルミヤク)を身につけた、ごま鹽髯の、がつしりした百姓が坐つてゐた。「やあ、ワシーリイ・ドミトリッチ、さあ、どうぞ……」と、窓からカピトンが叫んで、「リュボフシノの粉屋です」と私にささやいた。百姓は唸りながら馬車を出て代診の部屋へ入つて來たが、眼を見はつて聖像をさがすと、十字を切つた。「さあ、どうです、ワシーリイ・ドミトリッチ、何か變つたことでもありますか?……おや、工合が惡いんでせう、きつと。お顏の色がよくありませんね」「ええ、カピトン・チモフェーヰッチ、何だか調子が惡くて」「どうなすつたんです?」「なあに、まあ、かういふ譯でして、カピトン・チモフェーヰッチ。つい先だつて、町で挽臼を買ひましてね、家へ持つて來まして、馬車から下ろしかかつたんです。そのとき、無理に力を出したせゐか、腹ん中が何だか、ちぎれるように、ぐらついて……それからといふもの、どうも本當ぢやないんですよ。今日はまた痛みがひどいもんですから」「ふむ」とカピトンはいつて、嗅煙草を嗅いだ、「それあ、ヘルニヤ病ですよ、きつと。だが、そんなになつたのは大分前のことですか?」「ええ、もう今日で十日目になるんです」「十日?」(代診は齒の間から息を吸ひこんで、頭を振つた)「まあ、診てあげませう」やがて遂に、「さあ、ワシーリイ・ドミトリッチ」と口を切つた、「大へんお氣の毒なことですが、好くありませんな。あなたの病氣は大分むづかしい。まあ、私んところへ滯(と)まるんですわ。私としては出來るだけのことをして見ませう、尤もお請け合ひは出來ませんけど」「そんなに惡いんですか?」と粉屋は驚いて譫言のやうにいふ。「ええ、惡いですね、ワシーリイ・ドミトリッチ、二日も早くおいでになつたら良かつたのに、さうすりや文句はない、直ぐに癒せたんですがね。今は炎症をおこしてゐる。だから何ですね、丹毒にならなけりやいいが」「だつて、そんな筈ありませんよ、カピトン・チモフェーヰッチ」「いや、今申した通りで」「だつて、どうしてそんなことが?」(代診は肩をすくめた)「これ式のつまらんことで死なにやならんのでせうか?」「そんなことは言へませんが……、ことへ滯まることですね」百姓は深く深く考へこんで、 床(ゆか)を見つめてゐたが、やがて私たちの方をちらりと見て、頭を掻いて帽子をつかんだ。「どこへいらつしやる、ワシーリイ・ドミトリッチ?」「どこへつて? そりや、決まつてまさね、そんなに惡いんなら、家へ歸らにやなりません。苦しさうだと、後の始末もして置かなきや」「しかし、それやあ、自分で惡くするやうなもんですよ、ワシーリイ・ドミトリッチ、とんでもない。私はどうしてここまで貴方が來られたのか不思議に思つてるくらゐなんですからね。是非お滯まんなさい」「いや、あんた、カピトン・チモフェーヰッチ、どうせ死ねんなら、家で死にたい。何でここで死ぬことがあるもんですか、――家があるのに。それで死んぢまつたら、そりやもう天命ですよ」「まだ死ぬと極まつた譯でもないし、ね、ワシーリイ・ドミトリッチ……むろん、危いことは實に危い、ほんとに……。しかし、だからこそ、ここにゐなくちやいけないんです」(百姓は頭を振つた)「いや、カピトン・チモフェーヰッチ、私は歸ります、……が、處方は書いて下さるでせうね」「藥だけぢや駄目ですよ」「いや、もう歸るといふのに」「そんなら、まあ好きなやうに……後で咎めるんぢやありませんよ!」

 代診は帳簿から一枚の紙を切りとつて、處方を書いて、それ以上なすべきことをよく注意してやつた。百姓は處方箋を受けとり、カピトンに五十哥の銀貨を渡し、部屋を出て、馬車に乘り込んだ。「ぢや、さやうなら、カピトン・チモフェーヰッチ、どうか惡く思はねえで下せえ、萬一のことがあつたら、後の子供らのことは賴みますよ……」「おうい、ワシーリイ、滯(と)まんなさいよ!」百姓はただ頭を振つて、手綱で馬をたたいて、庭を出て行つた。私は通りに出て、後を見送つた。道はぬかつて、でこぼこしてゐた。粉屋は氣を配つて、ゆつくりと巧みに馬を御して、會ふ人ごとに挨拶をしながら乘つて行つた……。四日目に彼は世を去つたのである。

 大體、露西亞人は驚くべき死方(しにかた)をする。今は亡き多くの人々が、私の胸にうかんで來る。私は君を思ひ出す、むかしの友達、大學の業なかばにして退いたアヴェニール・ソロコウーモフ君、あのきれいな、實に氣高い人! 今も見る、肺を病む綠がかつた顏、あの淡い亞麻色の髮、あのやさしい微笑み、あの夢見るやうな眸、あの長い手足、今も聽く、あの弱々しいやさしい聲。君は大露西亞の地主グール・クルビャニコフの邸に住んで、そこの子供のフォーファとジョージャに露西亞語の讀み事きや地理や歴史を教へ、主人グールのわけのわからぬ駄洒落にも、家令の有難迷惑な親切にも、意地のわるい腕白どもの俗惡な惡戲(いたづら)にもよく耐へ忍んで、微苦笑を浮かべながら、しかも不平もいはず、退屈してゐる奧方の移り氣な乞ひをも快よく受け容れてゐた。そのかはり、日が暮れて、夕餐のすんだ後、どんなに君はほつとしたことであらう。幸福に浸つたことであらう。そのときは、あらゆる務めや仕事から解き放されて、窓ぎはに坐る。物思はしげに煙草をくゆらす。或ひはまた貪るやうに、手擦れのした脂じみた厚い雜誌の頁をめくる。それは君と同じやうな哀れな宿なしの測量師が町から持つて來てくれたものだ。そのとき、詩といふ詩、小説といふ小説が、どんなに君を悦ばしたことか、どんなにたやすく涙が君の眼に浮かんだことか、どんなに滿足さうに笑つたことか! 人に對する如何ばかりの純情、あらゆる善なるものに對する如何ばかり氣高い同情の念が、若々しい、けがれなき魂に滲み渡つてゐたことか! 正直にいへば、君は決して人並すぐれて才氣の鋭い人ではなかつた。生まれつき人にすぐれた記憶力もなく、勤勉といふのでもなかつた。大學にゐた頃はかなりの劣等生と見倣されてゐた。講義の時には眠つてゐた、試驗の時には尤もらしく默つてゐた。しかも友達の進歩や成功に對して、喜びの眼を輝かしたのは、息をはずませたのは誰であつたか? 他ならぬアヴェニールであつたのだ……また自分の友達の榮達を盲目的に信じてゐたのは、誇りかに友を讚へ、奮然として友を擁護したのは誰であつたか? 羨やむことをも、己れをよしとすることをも知らず、一身を顧みず己れを犠牲にし、何の役にもたたぬ者にまで、いさぎよく從つてゐたのは誰であつたか? それはみな、それはみな君だつたのだ、わがよき友よ、アヴェニール! 忘れもしない、君が家庭教師として、田舍へ行くとき、斷ちきられるやうな思ひをして、私たちと別れたことを。惡い豫感が君を苦しめてゐたのであらう……。さうして實際に田舍へ行くと、いけないことになつたのだ。村には恭しく耳を傾けるほどの人もなく、驚くべき人も、愛すべき人もなかつた……。村びとも教養のある地主たちも、ひとしく君をありふれた教師として、或る者は無躾に、或る者は粗略に遇してゐた。おまけに君は風采で人を引きつけるといふやうな人でもなかつた。怖ぢ氣づいて、顏を赧らめたり、汗をかいたり、吃つたり……。そのうへに、田舍の空氣は身體のためにはならなかつた。君は蠟燭のやうに瘠せ衰へた、ああ、可哀さうに! なるほど、君の部屋は庭に面してゐた。花は蝦夷櫻(えぞうはみつ)、林檎、菩提樹など、君の卓子や、インク壺や本の上に、かろい花びらを撒き散らして。壁には別れる時に、美しい捲毛の碧い眼の家庭教師、あの人のよい、情に脆い獨逸人の女の人から贈られた靑絹の時計入れがかかつてゐた。時には昔の友達がモスクワから訪ねて來て、他人(ひと)の詩や、或ひは自作の詩まで持ち出して、いたく君を歡ばした。けれど、孤獨は、教師の身の堪へがたい奴隷のやうな境涯は、自由になるあてもない果敢なさは、かぎりも知れぬ秋また冬、あの執拗な永わづらひは! ああ、哀れなるアヴェニール!

 私はソロコウーモフが死ぬ少し前に訪ねて行つた。彼はもう殆んど歩けなかつた。地主のグール・クルビャニコフは強ひて追ひ出しもしなかつたが、給料は呉れなくなつてゐた、ジョージャには別の教師が雇はれた。……フォーファは陸軍幼年學校に入れられた。アヴェニールは窓際の古いヴォルテール型の安樂椅子に腰をおろしてゐた。天氣の珍しく好い日であつた。葉の落ちた菩提樹が濃い鳶色の列をなしてゐるうへに、明るい秋の空はかがやかしい靑みをたたへ、そこここに取り殘された黄金いろにかがやく葉が搖れたり、囁いたりしてゐた。霜に蔽はれた大地は陽ざしをうけて、濕りをもち、ゆるんで來る。斜めにさしてくる太陽の紅(あけ)の光線(ひかり)は蒼白い草に微かにあたる。空には輕く、物の爆ぜるやうなひびきがただよひ、庭の中には仕事をしてゐる人たちの聲が、はつきりと澄んで聞こえる。アヴェニールはすり切れた麻屑織(ブハーラ)の寛服(どてら)を着てゐた。綠いろの頸卷は、ひどく瘠せ衰へた顏に死人のやうな感じをあたへてゐた。彼は私に會つたことをひどく喜んで、手をさしのべて話し出したが、また咳こむのでのであつた。私は彼を落ちつかせ、その側に坐つた……。アヴェニールの膝の下には、念入りに寫したコリツォフの詩のノートがあつた。彼は微笑みながら、輕くそれを叩いた。「これは、たしかに詩人だ」と、むせび出る咳をやうやく抑へて、ぼんやりいつた。そしてやうやく聽きとれるくらゐの聲で朗讀しはじめた。

   鷹は翼を

   縛(いまし)められしか?

   鷹は行く手を悉く

   さへぎられしか?

 私は彼を押しとめた。醫者は人と話をすることを禁じてゐたのである。私はどうしたら彼を喜ばすことが出來るか、よく識つてゐた。ソロコウーモフは、學術といふものに所謂『追從(ついしよう)』は一度たりともして行かなかつた。しかし世の偉大なる學者たちが、どういふところまで到り着いたかかを知りたがつてゐた。どこかの隅で友達をつかまへると、質問をはじめる。耳を傾け、驚歎し、相手の言葉を信じ、後で鸚鵡がへしにそれ繰り返したりした。彼は獨逸の哲學には非常な興味をもつてゐた。私がヘーゲルの話をはじめると(勿論、これは遠い昔のことである)アヴェニールは頭を縱に振つて、眉を上げて、微笑み、「なるほど、なるほど! ……ああ! すてきだ、すてきだ!……」とささやくのであつた。死にかかつてゐて、宿るべき家もなく、獨りぼつちの哀れな男のいぢらしい好奇心に、私は涙を忍びえぬほど動かされた。言ひ添へて置かなければならないが、アヴェニールは世の肺を病む人々とちがつて、自分の病氣に迷ひはなかつた。しかし、それが何であらう? 彼は歎息も洩らさず、ただの一度りとも自分の境涯について、愚痴がましいことはおくびにも出さなかつた……。

 だんだん元氣を快復して來るにつれて、彼はモスクワのこと、友達のこと、プーシキンのことや劇場のこと、露西亞文學のことを話しだした。彼は昔のささやかな宴會のこと、私たちの仲間の熱烈な論爭のことを思ひ出して、痛惜の色をうかべて、二三の今は亡き友の名な口にした……

 「ダーシャを覺えてるかね?」と遂には附け足した、「あの、可愛い、可愛いひと! あの清らかな心! どんなにあの女(ひと)は僕を愛してくれたらう! 今はどうしてゐるかしら? きつと、瘠せただらう、やつれただらう、可愛さうにね?」

 病人に私は幻滅を感じさせるに忍びなかつた。實際のところ、當のダーシャが横肥りに肥つて、商人のコンダチコフ兄弟と交はり、白粉をつけ、臙脂(べに)をつけて、金切り聲を出したり惡態をついたりしてゐると、どうして知らせる必要があつたらうか。

 『それにしても』と私は疲憊した彼の顏を見ながら考へた、『ここから彼を連れ出すことは出來ないものかしら? おそらく、彼を癒してやる可能性はまだまだある筈だ……』けれどアヴェニールは私の申し出をいひ終らせはしなかつた。

 「いや、君ありがたう」と彼はいつた、「どこで死ぬのも同じことさ。僕は冬までは生きないんぢやないか……、それだのに、人にわざわざ無駄な心配をかけてどうするのさ? 僕はこの家に住み馴れたんだ。なるほど、ここのお方は……」

 「意地惡なのかい、え?」と私は口を挾んだ。

 「いや、意地惡ぢやないよ、まあ、木偶(でく)の坊さ。けど、まあ、あの人たちの苦情はいへないよ。近所にもいろんな人がゐて、カサトキンといふ地主には娘があつて、それがなかなか教養がもあるし、親切で、氣立てのいい娘(こ)で……、高ぶつてもゐないし……」

 「僕はもう何も願ふことはない」と彼は一息ついてから言葉を繼いだ、「煙草さへ一服喫まして貰つたら……、なあに、死にはしないよ、僕は一服やる!」と彼は惡鬼に憑かれたかのやうに眼くばせして、附け足した、「やれやれ! もう僕は散々いい目をしたんだ、立派な人とも附合つたし……」

 「ところで、親身の者にくらゐは手紙を出しといたら」と私は口を插んだ。

 「何だつて親類なんぞへ? 何のたよりに――何のたよりになるぢやなし。死んだら、死んだくらゐは分かるだらうよ。けど、そんなこといつたつて始まらない、……まあ、それより外國で見て來たことでも話してくれないかな?」

 私は話し出した。彼はひどく乘り氣になつた。日の暮れぎはに私はそこを立つた。それから十日ほどして、クルビャニコフ氏から私は次のやうな手紙を受け取つた。

 『謹啓、陳者、兼ねて拙者宅に罷り在り候貴殿の御親友たる
 大學生アヴェニール・ソロコウーモフ氏は、一昨々日午後二
 時逝去仕り侯。埋葬の儀は本日、小生の出費にて當教區内の
 教會に於て相營み申し候。別封の書物及び手帖は故人より送
 附依賴ありたるものに御座候。故人の所持金は二十五留五十
 哥有之候へ共、他の遺品と共に當然親類の方に御屆け申すべ
 く候。御友人は臨終の際まで全く意識明瞭にて、敢へて申せ
 ば殆んど平然として、拙者共家族一同にて最後のお別れを申
 せし時にすら、何等心殘りの氣色もなく御逝去なされしに御
 座候。猶ほ愚妻クレオパトラ・アレクサンドロヴナよりも貴
 下へ宜敷と申し候。御友人の御逝去には、勿論、愚妻も痛惜
 いたし居り候。末筆乍ら、拙者は御蔭樣にて恙なく罷り在り
 候間憚りながら御休神なし下され度候。敬具
             辱知 G・クルビャニコフ』

 かういふ例はまだまだたくさん私の腦裡に浮かんで來るが、全部が全部、いひ盡せるものでない。ただもう一つだけ話すことにしよう。

 私の居合はせたところで或る年老いた女地主が息を引き取らうとしてゐた。僧侶はこの婦人に最後の祈禱を讀み始めた。すると急に全く息絶えさうに見えたので、彼女に大急ぎで十字架を渡した。女地主は不興げに傍を向いてしまつた。「何をそんなにお急ぎなさる、あなた」と彼女は舌もつれしながら言ひ出した、「間に合ひますよ」……彼女は十字架に接吻して、枕の下に手をやつて、最後の息を引きとつた。枕の下には一留の銀貨があつた。彼女は自分の臨終の祈禱をしてくれたお坊さんにお布施を上げようとしたのである……。

 いや實に、露西亞人は驚くべき死方をする!

 

 

 

■訳者中山省三郎氏による「註」(注記ページ表記を外し、私のテクスト注記に準じた表示法をとった)及びやぶちゃん注(私の注は新字・現代仮名遣とし、冒頭に「◎」を附して全体を〔 〕で括った)

 

〔◎エスペランス:ロシア語原文を見ると“Эсперанс”とあるが、これはフランス語の「希望」という語にロシア文字を宛てたものである。〕

・ヨハンナ・ショーペンハウエル:有名な哲学者の母。その作品はロマンチツクなものが多い(一七六六-一八三八)。

・一八四〇年の:「一八四〇年にはひどい寒さに見舞はれながらも、十二月の末まで少しの雪も降らなかつたので、靑いものは何もかも凍つてしまひ、多くの美しい槲の木も無慈悲な冬に滅び去つた。もはや取りかへしはむづかしく、土地の生産力も眼に見えて衰へてゐる。『禁制林』(聖體行列が通り過ぎたところ)などにも、昔のような神々しい木立の影はなく、今は白樺や泥楊が勝手に伸びてゐる。それ以外に、わが國では植林の方法を知らないのである。」(作者の註)

・コリツオフ:ロシアの有名な國民詩人(一八〇八-四二)。

〔◎「惡戲(イタヅラ)にも程(ホト)がある! 程(ホト)がある!」:ここについて昭和33(1958)年岩波書店刊の佐々木彰訳の割注では、『ロシヤ語の「ジャーロスチ」(あわれ)を「シャーロスチ」(いたずら)と、ドイツ語訛で発音したため、言葉の意味がまるで変わってしまったのである。』とある。〕

〔◎乾場:ロシア語原文を見ると“овине”とあり、これは脱穀前の穀物の乾燥場のことを言う。〕

〔◎臥煖爐:中山氏はこれに「ペーチカ」とルビを振っているが、原文は“
лежанке”(lezhanke:レジャーンカ)で、暖炉の上の寝床を言う語。〕

〔◎うるはしき快樂(けらく)の園に……:この詩は原文では以下のようなフランス語表記である。

  Dans ces beaux lieux, où règne l'allégresse,
  Ce temple fut ouvert par la Beauté;
  De vos seigneurs admirez la tendresse,
  Bons habitants de Krasnogorié!

 同様に、ジァン・コピリャトニコフなる御仁の附けたりである「われもまたこの自然を愛す!」も署名共に

  Et moi aussi J'aime ia nature!
  Jean Kobyliatnikoff.  

 とフランス語表記である。〕


〔◎『うるはしきヴェネレの歌』:ロシア語原文を見ると“"о прекрасной Венере"”とあり、“Венере”とは“Venus”ヴィーナスのこと。昭和26(1951)年新潮社刊の米川正夫訳は『美しきヴィナスの歌』、佐々木訳は『美わしきヴィーナス』と訳すも、誰のどのような歌曲かは不明である。〕

・麻屑織(ブハーラ):モスクワやカザンにゐた韃靼系のロシヤ人が麻や亜麻の屑の三等品を織つて作つてゐた特殊の織物で、彼らはこれをもつてロシヤ中を行商して歩いた。

〔◎煙草さへ一服喫まして貰つたら……:「喫(の)まして」と読む。〕

・十字架:臨終に際して、十字架に接吻させるのである。