[やぶちゃん注:大正十五(1926)年一月発行の雑誌『文章往來』に掲載された。底本は岩波版旧全集を用いた。芥川龍之介の「奉教人の死」は私の電子テクスト版へ。]
風變りな作品二點に就て 芥川龍之介
『貴君の作品の中で、愛着を持つてゐらつしやるものか、好きなものはありませんか』と云はれると、一寸困る。さういふ條件の小説を特別に選り出す事は出來ないし又特別に取扱はなくてはならない小説があるとも思へない。第一、自分の小説といふものを考へた時に、その澤山な小説の行列の中から、特に、私が小説で御座ると名乘つて飛び出して來るものも見當らない。かう云ひ切つて了ふと、折角の御尋ねに對する御返事にはならないから、さう大袈裟な問題として取扱はないで、僕の書いた小説の中で、一寸風變りなものを二つ拔き出して見ることにする。
自分の小説は大部分、現代普通に用ひられてゐる言葉で書いたものである。例外として、『奉教人の死』と『きりしとほろ上人傳』とがその中に這入る。兩方とも、文祿慶長の頃、天草や長崎で出た日本耶蘇會出版の諸書の文體に倣つて創作したものである。
『奉教人の死』の方は、其宗徒の手になつた常時の口語譯平家物語にならつたものであり、『きりしとほろ上人傳』の方は、伊曾保(イソツプ)物語に倣つたものである。倣つたといつても、原文のやうに甘くは書けなかつた。あの簡古素朴な氣持が出なかつた。
『奉教人の死』の方は、日本の聖教徒の逸事を仕組んだものであるが、全然自分の想像の作品である。『きりしとほろ上人傳』の方は、セント・クリストフの傳記を材料に取入れて作つたものである。
書き上げてから、讀み返して見て、出來不出來から云へば、『きりしとほろ上人傳』の方が、いいと思ふ。
『奉教人の死』を發表した時には面白い話があつた。あれを發表したところ、隨分いろ/\な批評をかいた手紙が舞ひ込んで來た。中には、その種本にした、切支丹宗徒の手になつた、ほんものゝ原本を藏してゐると感違ひをした人が、五百圓の手附金を送つて、買入れ方を申込んだ人があつた。氣毒でもあつたが可笑しくもあつた。
その後、長崎の浦上の天主教會のラゲといふ僧侶に出合つたことがあつた。その際、ラゲさんと『きりしとほろ上人傳』の話を交した。ラゲさんは、自分の生國が、クリストフが嘗て居住してゐた土地であるといふ話し等が出たので、一寸因縁をつけて考へたものであつた。
將來どんな作品を出すかといふ事に對しては、恐らく、誰でも確かな答へを與へることは出來ないだらうと思ふ。小説などといふものは、他の事業とは違つて、プログラムを作つて、取りかゝる譯にはゆかない。併し、僕は今後、ます/\自分の博學ぶりを、或は才人ぶりを充分に發揮して、本格小説、私小説、歴史小説、花柳小説、俳句、詩、和歌等、等と、その外知つてるものを教へてくれゝば、なんでもかきたいと思つてゐる。
壷や皿や古畫等を愛玩して時間が餘れば、昔の文學者や畫家の評論も試みたいし、盛んに他の人と論戰もやつて見たいと思つてゐる。
斯くの如く、僕の前途は遙かに渺茫たるものであり、大いに將來有望である。