やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇
鬼火へ


芭蕉私見(昭和一〇(一九三五)年十一月号『コギト』掲載初出形)
      附やぶちゃん注


[やぶちゃん注:『コギト』第四十二号・昭和一〇(一九三五)年十一月号に掲載された「芭蕉私見」を、筑摩版「萩原朔太郎全集」第七巻(昭和五一(一九七六)年刊)の本文及び校異を参照しながら、復元したものである。本作は後に大幅に改稿されて、「郷愁の詩人與謝蕪村」(昭和一一(一九三六)年第一書房刊)の巻末に「附錄 芭蕉私見」として配された。明らかな漢字の誤りなどもママである。
 但し、読解が甚だしく困難になると思われる、若しくは一般的知識として深刻な誤解を生ずると判断した以下の二箇所(評釈は除く。評釈では各個注でこうした類いのものは示した)は補訂してある。
・形式段落五段落目の「(侘びしおり)」の後の丸括弧は初出にはない。単純な植字ミスであるので「郷愁の詩人 與謝蕪村」の表記に基づいて補った。
・形式段落七段落目冒頭の「芭蕉の佳句は百に二、三。蕪村の駄句は百に二、三、」は初出では「芭蕉の佳句は百に二、三。蕪村の駄句は十に二、三、」である。「百」は「十」の引用の誤りであるので「郷愁の詩人 與謝蕪村」の表記に基づいて訂した。
 一部に私の注を附した。注は当該内容を含む段落の直後(評釈の場合は、当該評釈の終わった直後とした、各評釈の行空けについては評釈前の私の注記を参照のこと)に配した。
 なお、青空文庫版の新字新仮名遣「郷愁の詩人与謝蕪村」の中の「附録 芭蕉私見」(底本「郷愁の詩人 与謝蕪村」(岩波書店岩波文庫昭和六三(一九八八)年刊・入力:門田裕志氏・校正:川山隆氏)を一部、加工用テキスト・ベースとして使用させて頂いた。特にこのデータでは筑摩版校訂本文で「詠」に一括変換されてしまっている「咏」の字を復元することが出来た。ここに謝意を表する。本テクストは私のブログの五十万アクセス突破記念として公開した。藪野直史【二〇一三年九月四日】]

 芭蕉私見

 僕は少し以前まで、芭蕉の俳句が嫌ひであつた。ただ不思議なことに、蕪村だけは昔から好きであつた。蕪村以外には、一般に俳句といふものを毛嫌ひして居た。その理由は、おそらく俳句の詩情してゐる東洋的の枯淡趣味や低徊趣味やが、僕の氣質的な性情と反潑するためであつたのだらう。蕪村だけが好きだつたのも、つまり蕪村の詩情に、萬葉風なロマンチシズムや靑春性があり、その點で他と異つて居た爲なのだらう。友人の室生犀星君や芥川龍之介君は、僕とちがつて俳句が好きで、且つ自分でも常に句作をし、逢へば芭蕉論などをして居たけれども、僕には全く興味がなく、俳句の話になるといつも横を向いて欠呻をして居た。
[やぶちゃん注:「反潑」「欠呻」はママ。「郷愁の詩人與謝蕪村」の「附錄 芭蕉私見」では以下のように最初の一文を除いて総てが抹消され、本来の二段落目がそのまま続いている。

 僕は少し以前まで、芭蕉の俳句が嫌ひであつた。芭蕉に限らず、一體に俳句といふものが嫌ひであつた。しかし僕も、[やぶちゃん注:以下略。]

『友人の室生犀星君や芥川龍之介君は、僕とちがつて俳句が好きで、且つ自分でも常に句作をし、逢へば芭蕉論などをして居たけれども、僕には全く興味がなく、俳句の話になるといつも横を向いて欠呻をして居た』という本初出と、『昔は芥川君と芭蕉論を鬪はし、一も二もなくやツつけてしまつた』という朔太郎の高慢な物謂いの間には、同じシークエンスを描写したとは思えない強い違和感がある。真実は初出である。気儘我儘で嫌いなために碌な知識もなく欠伸さえこいていた朔太郎が、芭蕉をキリスト・レベルまでディグし得た(と私は真面目に思っている)龍之介『と芭蕉論を鬪はし、一も二もなくやツつけてしまつた』などというシチュエーションは到底あり得ないと断言出来る。せいぜい『いつも横を向いて欠呻をして居た』というのが三年朔太郎の真実であったと私は言い切って憚らない。朔太郎は四十九になっても、どこかで万年少年自己肥大を起こしているのである(かく言う私も自己肥大に関してはこんな朔太郎なんどはものの数ではないことも自白しておく)。]
 芭蕉に限らず、一體に俳句といふものが嫌ひであつた。しかし僕も、最近漸く五十歳近くになつてから、東洋風の枯淡趣味といふものが解つて來た。或は少しく解りかけて來たやうに思はれる。そして同時に、芭蕉などの特殊な妙味も解つて來た。昔は芥川君と芭蕉論を鬪はし、一も二もなくやツつけてしまつたのだが、今では僕も芭蕉フアンの一人であり、或る點で蕪村よりも好きである。年齡と共に、今後の僕は、益〻芭蕉に深くひき込まれて來るような感じがする。日本に生れて、米の飯を五十年も長く食つて居たら、自然にさうなつて來るのが本當なのだらう。僕としては何だか寂しいやう、悲しいような、やるせなく捨鉢になつたやうな思ひがする。
[やぶちゃん注:「寂しいやう、」はママ。「附錄 芭蕉私見」では「寂しいやうな、」となる。]

 芭蕉の俳句には、本質的の意味のリリシズムが精神して居る。むろんそのリリシズムは、蕪村にも一茶にも共通して居るのであるが(俳句が抒情詩の一種である以上、それは當然のことである。)芭蕉の場合に限つて、特にそれが純一に主調されて居るのである。

     衰へや齒に食ひあてし海苔のりの砂
     この秋は何で年よる雲に鳥
     蝙蝠も出でよ浮世の花に鳥
     秋近き心の寄や四疊半

 かうした句の詩情してゐるものは、實に純粹のリリシズムであり、心の泌々とした咏嘆である。西行は純一のリリシズムを持つた「咏嘆の詩人」であつたが、芭蕉もまた同じやうな「咏嘆の詩人」である。したがつて彼の句は常に主觀的である。彼は自然風物の外景を敍す場合にも、常に主觀の想念する咏嘆の情操が先に立つている。これ芭蕉の句が、一般に觀念的と言はれる理由で、この點蕪村の印象的、客觀的の句風に對してコントラストを示してゐる。蕪村は決して、子規しき一派の解した如き淺薄な寫生主義者ではないけれども、對象に對して常に即物的客觀描寫の手法を取り、主觀の想念やリリツクやを、直接句の表面に出して咏嘆することをしなかつた。蕪村の場合で言へば、リリツクは詩の背後に隱されて居るのである。
[やぶちゃん注:「泌々とした」はママ。「附錄 芭蕉私見」では「沁々とした」となる。]
 芭蕉と蕪村に於けるこの相違は、兩者の表現に於ける樣式の相違となり、言葉の韻律に於て最もよく現はれて居る。芭蕉の俳句に於ては、言葉がそれ自身「咏嘆の調べ」を持ち、「歌ふための俳句」として作られて居る。たとへば上例の諸句にしても、「この道や行く人なしに秋の暮」等の句にしても、言葉それ自身に節奏の抑揚があり、その言葉の節付けする抑揚が、おのづからまた内容の沁々とした心の咏嘆(侘びしおり)を表出している。「この秋は何で年よる雲に鳥」といふ句は、「何で年よる」といふ言葉の味氣なく重たい調子。「雲に鳥」といふ言葉の輕く果敢ない音律によつて構成され、そしてこの「調べ」の構成が、それ自ら句の詩情するリリシズムを構成して居るのである。故に芭蕉も弟子に教へて、常に「俳句は調べを旨とすべし」と言つて居たといふ。「調べ」とは西洋の詩學で言ふ「韻律」のことであり、言葉の抑揚節奏する音樂のことである。そして芭蕉の場合に於て、その音樂は咏嘆のリリシズムを意味して居たのだ。
[やぶちゃん注:「重たい調子。」の句点はママ。「附錄 芭蕉私見」では「重たい調子、」と読点となる。]
 蕪村の俳句に於ては、この點で表現の樣式がちがつて居る。蕪村は主觀的咏嘆派の詩人でなく、客觀的即物主義の詩人であつた。したがつて彼の俳句には、咏嘆的リリカルな音樂や節奏やを、芭蕉のやうに深く必要としなかつた。印象的イマヂストであつた蕪村は、その表現にもまた印象的イマヂスチツクな工風を用ゐた。即ち蕪村の技巧は、リリカルの音樂を出すことよりも、むしろ印象のイメーヂを的確にする爲の音象效果にあつた。例へば

    鶯のあちこちとするや小家がち   蕪村
    春の海ひねもすのたりのたり哉かな 蕪村

 の如く、「あちこちとするや」の語韻から、鶯のチヨコチヨコとする動作を音象し、「のたりのたり」の音調から春の海の悠々とした印象を現はして居るのである。蕪村が「繪畫的詩人」と言はれるのはこの爲であり、それは正しく芭蕉の音樂的詩人と對照される。つまり蕪村の場合では、言葉の聽覺的な音韻要素も、對象をイマヂスチツクに描寫する爲の手段として、繪畫的用途に使用されて居るのであつて、本質上の意味でのリリシズムとして――即ち音樂として――使用されて居るのではない。この點に於て見れば、芭蕉はたしかに蕪村に比して、眞の本質的のリリツクを持つたところの、眞の本質的な純一の詩人であつた。
[やぶちゃん注:「工風を用ゐた」はママ。「附錄 芭蕉私見」では「工夫を用いた」となるが、正しくは「工夫を用ゐた」である(全集校訂本文はそうなっている)。
「芭蕉の音樂的詩人」はママ。「附錄 芭蕉私見」では『芭蕉の「音樂的詩人」』と前の『蕪村が「繪畫的詩人」と言はれる』に対応して鉤括弧が附される。]

 蕪村の俳句に音樂が無いといふことは、勿論芭蕪との比較で言ふのである。單獨の批判で見れば、蕪村の句と雖も勿論韻文としての音律要素を具備してゐる。近頃三好達治君が、日本の俳句に音樂性が無いといふ説を立てられたので、誤解を避ける爲に附記しておく。
[やぶちゃん注:「芭蕪との比較」の「蕪」はママ。私はこのままでもおかしいとは思わない(全集編者は誤字記号を右に附している)。この一段は「附錄 芭蕉私見」はカットされ、この間は有意な一行空きとなっている。]

 芭蕉の佳句は十に二、三。蕪村の駄句は十に二、三、と正岡子規が評した。僕も昔は同感だつたが、今の考で見れば、子規の蕪村ビイキが公平を失して居るやうに思はれる。芭蕉俳句のモチーヴは、元來非常に單純なものなのである。芭蕉の歌つてることは、常に同じ一つの咏嘆、同じ一つのリリシズムでしかない。故にそのリリシズムを理解しない限りに於て、百千の句は悉く皆凡句であり、それを理解する限りに於て、彼のすべての句は皆佳いのである。例へば小督局の廢跡を訪うて咏よんだといふ句、

     うきふしや竹の子となる人の果はて

 の如きも、理解のない鑑賞で見る限りは、單なる觀念的の俳句であつて、子規の所謂月竝臭の駄句にしか感じられない。しかしかうした俳句の中にも、芭蕉の詩情するリリシズムの咏嘆がよく現はれて居る。そしてこのリリシズムは、解説的にくどくどと説明するよりは、かうした句の嘆息してゐる言葉の音樂(聲調の呼吸する抑揚感)によく現はれて居る。つまり言へば、芭蕉俳句のポエヂイは、全くその聲調の節付けてる音樂の中に存して居るのである。そこで「芭蕉が解る」といふことは、芭蕉の音樂が解る(音樂に魅力を感ずる)といふことにさへ同じになる。芭蕉が常に「調べ」を俳句の第一義とし、「聲のしをり」と「心のしをり」を不離の關係に説いたのも當然である。然るに正岡子規といふ俳人は、詩の音樂に對して耳を持たない人であつた。彼が古今集や新古今集の歌を排し、ひとへに萬葉集ばかりを推賞したのも、つまり古今や新古今やの歌風が生命してゐる音樂第一主義について、子規が理解の耳を持たなかつた爲なのである。(子規の作った萬葉ばりの歌といふのが、全然音樂美のないゴチゴチした散文的のものであつた。今のアララギ派の歌人がその惡い傳統をすつかり受けてる。)
 子規は本來眞の抒情詩人ではなかつたのだ。彼はそのヒイキにした蕪村でさへも、單なる寫生主義の名人としか解さなかつた。彼には蕪村の詩情してゐる本質のリリツクが解らなかつた。況や一層純一な抒情詩人であるところの、芭蕉を理解できなかつたのは當然である。
 以下芭蕉の句の中から僕の愛吟するもの若干を評釋しよう。
[やぶちゃん注:「附錄 芭蕉私見」では、この最終段落が以下の、長い二段落に変容し、

 芭蕉は蕪村とちがつて、具體的な哲學觀念を持つた詩人であつた。蕪村の場合では、そのリリシズムと同じやうに、哲學が句の背後に隱れて居り、表面上の一通りな鑑賞では、容易に發見できないのである。これ蕪村が、從來誤つて單なる繪畫的寫生詩人と評され、淺薄に價値づけられた所以であつた。然るに芭蕉の句では、或る一つの主題をもつた人生觀や宇宙觀やが、直接に觀念(思想)として歌われて居る。これ芭蕉が、蕪村に比して理知的な頭腦をもち、哲人としての風貌を具へなえて居たことの實證である。實際にも芭蕉は、句作以外にも多くの俳論や散文を書き、俳人と詩論家の兩面を具へて居た。一方で蕪村は、單なる日常書簡集の外、全く詩論らしいものを書いて居ない。蕪村は感覺の人であり、思想といふものを持たなかつた。この點に於て見れば、芭蕉の方が西洋の人生的詩人に近いのである。
 芭蕉のイデアした哲學は、多分に佛教や老莊の思想を受けてる。「古池や蛙とびこむ水の音」の句境の如く、彼は靜の中にある動、寂の中にある生を見つめて、自然と人生に於ける本質的實在を探らうとした。そこで「實在」をリアルと譯する意味で、芭蕉は眞のリアリズムの詩人であつた。しかし彼のリアリズムは、決して單なる知性的冷靜の觀照主義ではなかつた。反對に彼は、人間性の普遍な悲しみを體驗して、本質に宗教的なモラルを持つたところの、眞のヒユーマニストの詩人であった。以下讀者と共に、芭蕉俳句に於けるこの人間性の悲哀と、ヒユーマニズムの詩情するところを見よう。

となっている。ここ、朔太郎が秘かに自らを芭蕉に比してさえいることが、分かる。
 以下、各句評釈となるが、これは「附錄 芭蕉私見」のそれでは順列も評釈内容も極めて異なったものとなっている。それぞれの私の注では、「附錄 芭蕉私見」版に当該句が評釈されている場合はそれを提示して相違を示した(本評釈にあって「附錄 芭蕉私見」に載らないものもあり、後掲するように、その逆にこの初出に載らない評釈も「附錄 芭蕉私見」には一つある)。底本では各評の間は一行空きと思われるが、本テクストでは読み易さや評釈の独立性を顕著に示すため、この注の後と各注との間を三行空けとした。
 因みに参考までに、この初出に出ずに「附錄 芭蕉私見」版で評釈が加えられている「から鮭も空也の瘠も寒の内」の評釈をここに掲げておく(筑摩版第七巻の校訂本文を用いた)。

   
から鮭も空也の瘠も寒の内

 雲水に似た旅人芭蕉も、時には一定の住所に庵を構へて、冬の圍炉裏を圍みながら、侘わびしく暮して居たこともある。さうした時、彼は外界の自然を見る代りに、じつと自己の心を見つめ、内界の去來する影を眺めた。
 冬の凍りついた家の中で、芭蕉は瞑想に耽りながら、骨のやうに唯一人で坐つて居る。その背後の壁には乾鮭がさがり、戸外には空也念佛の聲が通る。そして彼の孤獨な影は、疊の上に長く寂しく曳ひいてるのである。

本句は芭蕉四十八歳、元禄三(一六九〇)年十二月京都での作である。この「空也」は空也僧のこと。本来は念仏宗の優婆塞(在家男性信者)によって私的に組織された仏教集団で、空也堂(現在の京都市中京区蛸薬師通りにある天台宗極楽院光勝寺の通称)を本拠として遊行した。彼等は十一月十三日の空也忌から四十八日間の寒中修業に入り、未明に腰に瓢箪を巻きつけて出、鉢を叩きながら踊りつつ、念仏や和讃を唱えては市中を練り歩いた。後に大道芸の「鉢叩はちたたき」に零落した。]



 寂しさや華のあたりのあすならふ

「あすは檜の木とかや、谷の老木のいへることあり。きのふは夢と過てあすは未だ來たらず。生前一樽の樂しみの外、明日は明日と言ひ暮して、終に賢者のそしりを受けぬ。」といふ前書がついてる。芭蕉俳句の一風情である幽玄體の侘しをりが、新古今體の抒情味で床しく歌はれて居る。
[やぶちゃん注:「附錄 芭蕉私見」版評釈は、

「あすは檜の木とかや、谷の老木のいへることあり。きのふは夢と過ぎてあすは未だ來きたらず。生前一樽の樂しみの外、明日は明日はと言ひ暮して、終に賢者のそしりを受けぬ。」という前書がついてる。初春の空に淡く咲くてふ、白夢のような侘しい花。それは目的もなく歸趨もない、人生の虛無と果敢なさを表象して居るものではないか。しかも季節は春であり、空には小鳥が鳴いてるのである。
 新古今集の和歌は、亡び行く公卿階級の悲哀と、その虛無的厭世感の底で歔欷してゐるところの、艷に妖しく媚めかしいエロチシズムとを、暮春の空に匂ふ霞のように、不思議なデカダンスの交響樂で匂はせてゐる。即ち史家の所謂「幽玄體」なるものであるが、芭蕉は新古今集を深く學んで、巧みにこの幽玄體を自家に取り入れ、彼の俳句における特殊なリリシズムを創造した。前の「山吹や」の句も、同樣にその芭蕉幽玄體の一つである。

と如何にも事大主義的に評している。文中の『前の「山吹や」の句』というのは、「附錄 芭蕉私見」版で先行して評釈されている「山吹や笠にさすべき枝の形」の句を指している。本テクストでは後の評釈に出る。
 「笈日記」の句形。「笈の小文」に載るものは、

   日は花に暮れてさびしやあすならう

である。因みに老婆心ながら、芭蕉の表記した「あすなろふ」という表記は、正しい仮名遣としては「笈の小文」の方の「あすならう」である。]



 山吹や笠にさすべき枝のなり

 芥川君の愛誦して居た句であり、同君の詩の一行にも歌はれて居る。前の「寂しさや」の句と同巧同趣のもので、仄かに漂泊とした旅愁にあはれさを感じさせる佳句である。蕪村が主として萬葉集から學んで居るに反し、芭蕉のかうした句が、新古今の幽玄體から學んでることに注意すべきである。

[やぶちゃん注:「同巧同趣」の「巧」はママ。『前の「寂しさや」の句』とは、この直前で鑑賞している「寂しさや華のあたりのあすならふ」を指す。
 「芥川君の愛誦して居た句であり、同君の詩の一行にも歌はれて居る」とは、

   山吹
あはれ、あはれ、旅びとは
いつかはこころやすらはん。
垣ほを見れば「山吹や
笠にさすべき枝のなり。」

を指す。この詩はこの詩は、龍之介自死の直後の昭和二(一九二七)年八月発行の『文藝春秋』に掲載された(結果的に遺稿の発表となったが元々からこの号への掲載予定原稿であった)「東北・北海道・新潟」に以下のように現われ、萩原朔太郎が見たのは、恐らくはこの時であろうと思われる。

 羽越線の汽車ちゆう――「改造社の宣傳班とわかる。………」
  あはれ、あはれ、旅びとは
  いつかはこころやすらはん。
  垣ほを見れば「山吹や
  笠にさすべき枝のなり。」

ただ、この詩自体は大正一一(一九二二)年五月に書かれたものとする情報がある(私の「芥川龍之介詩集」の当該詩の注を参照)。
 「附錄 芭蕉私見」版評釈では、龍之介云々のパートは完全に抹消されてしまい、

 ひとり行く旅の路傍に、床しくも可憐に咲いてる山吹の花。それは漂泊の芭蕉の心に、或る純情な、涙ぐましい、幽玄な「あはれ」を感じさせた。この山吹は少女の象徴であるかも知れない。あるいは実景であるかも知れない。もし實景であるとすれば、少女の心情に似た優美の可憐さを、イマヂスチツクに心象しているのである。蕭條とした山野の中を、孤獨に寂しく漂泊して居た旅人芭蕉が、あはれ深く優美に咲いた野花を見て、「笠に挿すべき枝のなり」といとほしんだ心こそ、リリシズムの最も純粹な表現である。

となっている。評釈はより評釈らしい形態になってはいるものの、龍之介へのオマージュが消えたことに加えて、私に言わせれば、言わずもがなな、『この山吹は少女の象徴であるかも知れない。あるいは実景であるかも知れない。もし實景であるとすれば、少女の心情に似た優美の可憐さを、イマヂスチツクに心象しているのである』という部分など、語るに落ちたと言いたくなるような、今どきの凡百の鑑賞書にありがちな、「評釈のための評釈」という気がして、すこぶる退屈な感を拭えない。
 本句は元禄四(一六九一)年、芭蕉四十四歳。江戸赤坂の庵での吟。]



 笠島はいづこ五月さつきのぬかり道

 梅雨の降りつづく空の下で、泥濘の道をたどりながら、遠國の旅を漂泊してゐる心境の寂しさがよく歌はれてゐる。

[やぶちゃん注:「附錄 芭蕉私見」版評釈。

 芭蕉の行く旅の空には、いつも長雨が降りつづき、道は泥濘にぬかつて居た。前途は遠く永遠であり、日は空に薄曇つて居た。

 本句は「奥の細道」に所収する。「笠島」は宮城県名取郡笠島村。現在の名取市愛島(めでじま)。藤中将実方ゆかり地。本句の背景については「芭蕉会議」の根本文子氏の評釈がコンパクトによく纏められてある。]



 髮はえて容顏蒼し五月さつき

 植込の深い庭奥、梅雨時の曇暗な一間の中で、獨り閉ぢこめて居る詩人の顏が、いかにも蒼然と浮き出して居る。

[やぶちゃん注:「附錄 芭蕉私見」には載らない。この句は貞亨四(一六八七)年、芭蕉数え四十四の時の作。]



 五月雨や蠶わづらふ桑畑

 暗膽とした空の下で、蠶が病んで居るのである。空氣は梅雨で重たくしめり、地上は一面の桑畑である。この句には或る象徴的な、沈痛な深い意味を持つた暗示がある。「古池や」の句などより、むしろかうした句の方が哲學的で、芭蕉の象徴的な詩境を代表するものだと思ふ。
[やぶちゃん注:「暗膽」はママ。「附錄 芭蕉私見」版評釈。

 暗澹とした空の下で、蚕が病んで居るのである。空氣は梅雨で重たくしめり、地上は一面の桑畑である。この句には或る象徴的な、沈痛で暗い宿命的の意味を持つた暗示がある。

初出の末尾の主張をこそ、私は残して貰いたかったと感ずるものである。元禄七(一六九四)年、芭蕉五十一歳の時の句。]



 日の道や葵かたむく五月雨

 三木露風氏はかつてこの句を推賞して、芭蕉象徴詩の例題とした。曇暗の雲にかくれて、太陽の光も見えない夏の晝に、向日葵はやはり日の道を追ひながら、雨にしほれて傾いて居るのである。或る時間的なイメーヂを伴つてゐるところの、沈痛な魂の冥想が感じられ、象徴味の深い俳句である。
[やぶちゃん注:初出では「向日葵」は「日向蔡」。これは読めないので訂した。「附錄 芭蕉私見」版評釈。

 曇暗の雲にかくれて、太陽の光も見えない夏の晝に、向日葵はやはり日の道を追ひながら、雨にしをれて傾いて居るのである。或る時間的なイメーヂを持つてゐるところの、沈痛な魂の瞑想が感じられ、象徴味の深い俳句である。

となっている。他者の推賞を削る辺り、如何にもさもしい、という気が私にはする。句は元禄三(一六九〇)年、芭蕉四十七歳の時のもの。なお、朔太郎は「向日葵」(キク目キク科キク亜科ヒマワリ属 Helianthus annuus と断じているが、これは蜀葵(アオイ目アオイ科ビロードアオイ属タチアオイ Althaea rosea)の可能性も有意に高い(タチアオイなどに顕著であるが、アオイ科の植物には葉や花に相応の向日性がある。そもそも「葵(あおい)」は「仰(あふ)ぐ日(ひ)」の意味なのである)。私はタチアオイで採りたい口である。]



 こがらしに匂ひやつけし歸り花

 冬の北風が吹きすさんで庭の隅に、佗しい枯木の枝に嘆いてる歸り花を見て、心のよるべない果敢なさと寂しさとを、しみじみ哀傷深く感じたのである。
[やぶちゃん注:「附錄 芭蕉私見」版評釈とは一字一句に至るまで相同。句は元禄四(一六九一)年冬の大垣でのもの。「奥の細道」を終えた後の、長かった落柿舎・近江などでの上方滞在を済ませ、最後の東下に向かった途次の嘱目吟。「歸り花」は狂い咲きの花のこと。]



 この秋は何で年よる雲に鳥

 室生君が推賞して、芭蕉句中絶唱とするものである。「雲に鳥」といふイメーヂは、前の言葉から聯絡がなく、實に奇想天外の着想であり、しかもよく漂渺幽玄の詩想を構成して居る。まことに名人の神品といふ感じである。
[やぶちゃん注:「附錄 芭蕉私見」では掉尾に配されたが、その評釈は全く異なる。

 老の近づくことは悲しみである。だが老年にはまた、老年の幽玄な心境がある。老いて宇宙の神韻と化し、縹渺の詩境に遊ぶこともまた樂しみである。空には白い雲が浮び、鳥は高く飛んでるけれども、時間は流れて人を待たず、自分は次第に老いるばかりになつてしまつたといふ咏嘆である。「何で年よる」といふ言葉の響に、如何にも力なく投げ出してしまつたやうな嘆息があり、老を悲しむ情が切々と迫つて居る。それを受けて「雲に鳥」は、前のフレーズと聯絡がなく、唐突にして奇想天外の着想であるが、そのため氣分が一轉して、詩情が實感的陰鬱でなく、よく詩美の幽玄なハーモニイを構成して居る。かうした複雑で深遠な感情を、僅か十七文字で表現し得る文學は、世界にただ日本の俳句しかない。これは飜譯することも不可能だし、説明することも不可能である。ただ僕らの日本人が、日本の文字で直接に讀み、日本語の発音で朗吟し、日本の傳統で味覺する外に仕方がないのだ。

「漂渺幽玄」の「漂」はママ。本句は元禄七(一六九四)年九月二十六日、芭蕉五十一歳。下五「雲に鳥」は「寸々の腸をさかれ」ながら導き出したと伝えられる、芭蕉最晩年の最高傑作と言ってよい。知られた、
  この道を行く人なしに秋の暮
  松風や軒をめぐって秋暮れぬ
も同日の作とされている。]



 秋深き隣は何をする人ぞ

 芭蕉の心境詩として、行き盡した究極の名句と言はれて居る。
[やぶちゃん注:次の「秋さびし手毎にむけや瓜茄子」の評釈注を参照。芭蕉五十一歳、元禄七(一六九四)年九月二十八日の芭蕉最後の俳席での作。芭蕉が横臥する直前の作物で、翌日に臥せった芭蕉は二度と起き上がることなく、翌十月十二日に亡くなった。芭蕉最後の絶唱の一つ。]



 秋さびし手毎にむけや瓜茄子

 友人の家に招ばれて、果實など馳走になつた時の句である。何でもない即興句のやうであつて、しかも秋の寂しさと孤獨にたえてる、人間共の佗しい生活とその人情の戀しさとが、泌々と嘆息深く歌はれてる。前の「秋深き隣は何をする人ぞ」と、同じやうな一つのリリシズムの心境である。
[やぶちゃん注:「たえてる」「泌々」はママ。但し、これは「奥の細道」に載る「秋涼し手毎にむけや瓜茄子」という句の誤認である。この句は犀川畔の門人一泉の松幻庵での句会の発句で、その折りに出た料理へ感謝する挨拶句である。
 この評釈は「附錄 芭蕉私見」では前の「秋深き隣は何をする人ぞ」とカップリングしてある。以下に句も含めて示す。

   秋ふかき隣となりは何をする人ぞ
   秋さびし手毎にむけや瓜茄子


 芭蕉の心が傷んだものは、大宇宙の中に生存して孤獨に弱々しく震へながら、葦のやうに生活している人間の果敢さと悲しさだつた。一つの小さな家の中で、手毎に瓜の皮をむいてる人々は、一人一人に自己の悲しみを持つてるのである。そしてこの悲しみこそ、無限の時空の中に生きて、有限の果敢ない生活をするところの、孤獨な寂しい人間共の悲しみである。それは動物の本能的な悲哀のやうに、語るすべもなく訴へるすべもない。ただ寄り集つて手を握り、互に人の悲しみを感じながら、憐れに沈默する外はないのである。見よ。秋深き自然の下に、見も知らぬ隣人が生活して居る。そしてこの隣人の悲しみこそ、それ自ら人類一般の悲しみであり、倂せてまた芭蕉自身の悲哀なのだ。

見当違いの誤認が含まれてはいるものの、カップリングによって評釈には非常におもいつめた鋭い冴えが生じている。これは萩原朔太郎の持っている病的な思い込みの構築した、朔太郎だけの芭蕉という幻影の城なのである。そしてお分かりの通り、実は最早、それは現実の芭蕉の心象世界を逸脱して、書いている朔太郎自身の孤独な心象の表現となっているのである。]


 故郷や臍の緒に泣く歳の暮

 芭蕉がその故郷に歸り、亡くなつた父母の慈愛のことを考へ、昔の有りし日の慈愛を思ひ出して作つた句である。「臍の緒に泣く」といふ言葉の中に、幼時の懷かしい思ひ出や、父母の慈愛の追懷やが忍ばれて、そぞろに悲しみをそそる俳句である。
[やぶちゃん注:「附錄 芭蕉私見」版評釈。

 生涯を旅に暮した芭蕉も、やはり故郷のことを考へ、懷かしく追懷して居たのである。或る寒い年の暮に、彼は到頭その生れた故郷に歸つて來た。そして亡き父母の慈愛を思ひ、そぞろに感慨深くこの句を作つた。「臍の緒に泣く」といふ言葉は奇警であつて、しかも幼時の懷かしい思ひ出や、父母の慈愛深い追懷やが、切々と心情から慟哭的に歌はれて居る。

批評家然として句との距離を置き、事大主義的に「追懷」を二度繰り返し、「奇警」「切々と心情から慟哭的に」などといった如何にもな言辞を粉飾したこれよりも、初出の方が遙かに初読印象の直感的感銘を素直に伝えていると私は思う。句は貞亨四年十月から翌五年四月二十三日にまで及んだ「笈の小文」(芭蕉四十四~五歳)に載るもので、久しぶりに生家へ戻って亡き母が大切にして呉れていた芭蕉自身の臍の緒を見た折りの絶吟である。]



 何にこの師走の町へ行く鴉

 年暮れて冬寒く、群鴉何の行く所ぞ。この句をよむ毎に、自分はニチエの有名な抒情詩を思ひ出す。

 鴉等は泣き叫び
 翼を切りて町へ飛び行く。
 やがては雪も降り來らむ
 今なほ家郷あるものは幸ひなるかな。

ニイチエと同じやうに、魂の家郷を持たなかつた芭蕉。永遠の漂泊者であつた芭蕉の悲しみは、實にこの俳句によく表されてる。
[やぶちゃん注:「附錄 芭蕉私見」版評釈。

 年暮れて冬寒く、群鴉何の行く所ぞ! 魂の家郷を持たない芭蕉。永遠の漂泊者である芭蕉が、雪近い冬の空を、鳴き叫んで飛び交いながら、町を指して羽はばたき行く鴉を見て、心に思つたことは、一つの「絶叫」に似た悲哀であつたらう。芭蕉と同じく、魂の家郷を持たなかつた永遠の漂泊者。悲しい獨逸の詩人ニイチエは歌つてゐる。

     鴉等は鳴き叫び
     翼を切りて町へ飛び行く。
     やがては雪も降り來らむ――
     今尚、家郷あるものは幸ひなる哉。

 東も西も、畢竟詩人の嘆くところは一つであり、抒情詩の盡きるテーマは同じである。

「羽はばたき」「漂泊者。」はママ。但し、この句は「花摘」に、

 何に此師走このしはすいちにゆくからす

で初出し、朔太郎の引用に最も近い「生駒堂」所収のものでも、

 何に此師走の市へゆく

で総て「市」であって「町」ではない。元禄二(一六八九)年暮、芭蕉四十六歳の作とされているので、この「市」の実景は京か膳所辺りと思われる。]



 雪かなしいつ大佛の瓦葺

 天を摩する巨像のやうな大佛殿。その屋根にちらちら雪が降つてゐるのである。このイメーヂは妙に悲しく、果敢なく佗しい思ひを感じさせる。芭煮俳句の中で、最もイマヂスチツクな特色をもつた句である。
[やぶちゃん注:「附錄 芭蕉私見」版評釈。ルビが配されているので句も示す。

   雪かなしいつ大佛の瓦ぶき

 夢のやうに唐突であり、巨象のやうに大きな大佛殿。その建築の家屋の上に、雪がちらちら降つてるのである。この一つの景象は、芭蕉のイメーヂの中に彷徨してゐるところの、果敢なく寂しい人生觀や宿命觀やを、或る象徴的なリリシズムで表象して居る。人工の建築物が偉大であるほど、逆に益〻人間生活の果敢なさと悲しさを感ずるのである。

これも「附錄 芭蕉私見」版の方が感性に迫ってくる。ただ朔太郎には大いなる誤認がある。この雪が散っているのは実は大仏殿ではなく、露座となっていた大仏そのものである。本句は元禄二(一六八九)年十二月の吟で、東大寺大仏殿は存在しなかったからである(永禄一〇(一五六七)年の松永久秀と三好三人衆の戦闘によって炎上、芭蕉が訪れたこの時期にはその再興の計画はあったものの手付かずの状態であった)。大仏殿の再興は宝永二(一七〇五)年を待たねばならなかった。この句は故にこその「いつ」であり「雪かなし」なのである。別稿に、

    南都にまかりしに、大佛殿造營の遙けき事を思ひて
  初雪やいつ大仏の柱立

がある(「柱立」は「はしらだて」と読み、家屋の建築で初めて柱を立てる、その祝いの儀式を指す。以上の本句のデータは私の芭蕉関連のテクストでは大変お世話になっている伊藤洋氏の壮大な芭蕉サイト「芭蕉DB」「初雪やいつ大仏の柱立」を参考にさせて戴いた)。]



 大風のあしたも赤し唐辛子

 暴風雨の朝。畠の作物も吹き荒され、萬目荒寥として亂れた中に、唐辛子の實だけが赤々として、昨日に變らず色づいて居るのである。廢跡に殘る一つの印象。變化と荒廢との中に殘る一つの實在。それが赤く鮮明に印象されてることは、心の奧深い空虛の影に、悲壯に似た敗北の痛みを感じさせずには居ないであらう。(昔の月並俳人等が、この句を道德的教訓の意に解したのは滑稽である。)
[やぶちゃん注:最初に述べておくが、これは現在、芭蕉の作としては認定されていない、存疑の部に入る句である。岩波文庫一九七〇年刊中村俊定校注「芭蕉句集」によれば、「もとの水」(重厚編・天明七(一七八七)年跋)・「芭蕉新巻あらまき」(寛政五年)・「袖日記」(元禄三(一六九〇)年)・「一葉」(貞享・元禄年中)などに載るが、諸家は多く芭蕉の真作とは採っていない。萩原朔太郎は「詩歌の鑑賞と解釋 講演」(昭和一二(一九三七)年白水社刊「無からの抗争」の「韻律の薄暮」の章の巻頭)でもこれを芭蕉の句として引用、

……一體江戸末期の人たちは、俳句やその他の詩歌を、無理に道學的、教訓的に解釋したがる癖がありました。例へば芭蕉の俳句に

  大風のあしたも赤し唐辛子

といふのがありますが、これも江戸末期の宗匠たちは、道學的に解釋しまして、つまりどんな激しい環境の變化や、不慮の災難に逢つても、眞實を守る人は、依然として貞操を代へない、といふ意味の教訓の句として、一般に解釋して居ました。かうした解釋の良ろしくないといふことを、大に強く力説しまして、俳句の新しい解釋の方法、即ち純粹な印象主義的な方法を、始めて日本の俳壇に敦教へたのは、實に、明治の俳人、正岡子規でありました。子規の解釋によりますと、この句は、單にかうした風景の純粋の印象、即ち、暴風雨の吹き荒らした翌朝の實景を、そのまま寫生したのであつて、その外に何の寓意もない、純粹に寫生の句であるといふことになります。かうした別々のちがつた解繹について、何れが果して正しいかといふ事は、後に尚、時間があつたら申しあげます。

と述べている。実は類型句なら「深川夜遊」と題した、
 靑くてもあるべきものを唐辛子
があるが、これは膳所の若き門人洒堂を芭蕉庵に迎えた際の句で、この句の場合は寧ろ、「道學的」諷喩とそれを捻った洒堂への挨拶句としてのオードは顕在的であるとさえ言える。萩原朔太郎の例の病的な思い込みがこの絶賛には感じられる。にしても「大風の」は遙かに陳腐極まりない(と私は思う)。
 ともかくも「附錄 芭蕉私見」版評釈を見ておこう。

 暴風雨の朝、畠はたけの作物も吹き荒され、萬目荒寥として枯れた中に、ひとり唐辛子の實だけが赤々として、昨日に變らず色づいて居るのである。廢跡に殘る一つの印象、變化と荒廢の中に殘る一つの生命。それが血のやうに赤く鮮明に印象されることは、心の傷ついた空虛の影に、悔恨の痛みを抱きながらも、悲壯な敗北の意氣を感じさせずに居なかつたらう。

載道的解釈の部分は評釈としては十分条件ではあるが、必要条件ではない。ただ最後の一文は改変によって生命を得ているとは言える。]


 早稻わせの香や入分右は有磯海

 港に近い早稻田道。右は有磯海の道標が立つて居るのである。旅中のスケツチであり、單なる寫生句ではあるけれども、風物の印象と氣分がよく現はされてる。

[やぶちゃん注:「附錄 芭蕉私見」版評釈では本句を挙げていない。因みに、「奥の細道」に載る本句は私にとってすこぶる懐かしいものである。何故なら、恐らく芭蕉がこの句を詠んだであろう(そうでなかったとしても最もそのロケーションに相応しい)場所が、私が出た高校のすぐ近く、私の大好きだった富山県高岡市伏木国分の浜であるからである。]



 塚も動け我が泣く聲は秋の風

 友人の追悼句ではあるけれども、實には芭蕉の魂が、宇宙の孤獨と寂寥に對して泣いてるのである。まことに芭蕉の悲哀は大宇宙に住むコスモポリタンの悲哀であつた。それ故に「塚も動け」といふ大きな皷張が切實な情想として表象されて來るのである。
[やぶちゃん注:「皷張」はママ。「附錄 芭蕉私見」版では掉尾に配されたが、その評釈は全く異なる。

 芭蕉の悲哀は、宇宙の無限大なコスモスに通じて居る。蕭條たる秋風の音は、それ自ら芭蕉の心靈の聲であり、よるべもなく救いもない、虛無の寂しさを引き裂くところの叫である。釋迦はその同じ虛無の寂しさから、森林に入って出家し、遂に人類救濟の悟道に入つた。芭蕉もまた佛陀と共に、隣人の悲しみを我身に悲しみ、友人の死を宇宙に絶叫して悲しみ嘆いた。しかし詩人であるところの芭蕉は、救世主として世に立つ代りに、萬人の悲しみを心にはぐくみ、悲しみの中に詩美を求めて、無限の寂しい旅を漂泊し續けた。

これは書き直しびよって遙かによくなっている。私はこれについては「附錄 芭蕉私見」版の評釈がすこぶる附きで好きである。そもそも本句が「奥の細道」の名句、いや、芭蕉生涯の名句の一つとして私には真っ先に浮かぶものでもあるからなのである。]



 赤々と日はつれなくも秋の風

「赤々」といふ言葉によつて、如何にも旅に疲れて憔悴し切つた、漂泊者の寂しい影を思はせる。その疲れはてた旅人の心身へ、落日の秋の夕陽が、赤々と灼きつくやうに照つてるのである。

[やぶちゃん注:「附錄 芭蕉私見」版評釈では本句を挙げていない。「奥の細道」の、金沢―小松間での吟詠とされるが異説もある。]



 衰へや齒に喰あてし海苔の砂

 老年を自覺する悲哀が、人生の味氣なさと共に、泌々と寂しげに嘆息されてる。「齒に食ひあてし」といふ言葉が、如何にも味氣なく恨めしさうである。
[やぶちゃん注:「泌々」はママ。「附錄 芭蕉私見」版評釈。

 獨居する芭蕉の心に、次第に老が近づくのを感じて来た。さらでだに寂しい悔恨の人生である。その上にまた老年が迫つて來ては、心の孤獨のやり場所もないであらう。「齒に喰ひあてし」といふ言葉の響に、如何にも砂を嚙むやうな味氣なさと、忌々しさの口惜しい情感が現はれてゐる。

 この評釈を以って初出版「芭蕉私見」は終わっている。エンディングに配する評釈としては如何にもしょぼいと言わざるを得ない。この部分だけを見ても、萩原朔太郎が全面改稿を企図したのも故なしとしないという気はする。]


芭蕉私見(初出形) 附やぶちゃん注 完