やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇
鬼火へ


中島敦 昭和十一(一九三六)年 手帳 附やぶちゃん注

[やぶちゃん注:底本は筑摩書房昭和五七(一九八二)年増補版「中島敦全集」を使用した。解題の書き方から察するに太字ゴシックの日付(解題では「項」と呼んでいる。使用について解題には何も記されていない)は印刷されたものであるかのように思われる。邦文の場合は、底本では改行後の二行目以降は総て一字下げとなっている。右傍線は下線とした。踊り字「〱」は正字化した。取消線は抹消を示す。後半のメモ・ページの編者の附した改頁記号類は総て省略したが、それぞれのページの間は三行空けとした(但し、『〔11-18〕』のように改頁を示していない連続して載せてある部分はそのままである)。各パートの後に私の注を附した。人名や固有名詞の内、全く不詳の人物や記載については特に思いついた可能性や必要性があると思われる箇所以外では「不詳」注を附していないので悪しからず。当時、中島敦は満二十七歳、横浜高等女学校奉職三年目であった。本テクストは昨日の私のブログの五一〇〇〇〇アクセス突破記念として公開した「やぶちゃん版中島敦短歌全集 附やぶちゃん注」と密接に関わるものである。併せてお読み戴ければ幸いである。藪野直史【二〇一三年一〇月十五日】]

昭和十一年

一月二日(木)發作アリ、/注射、
一月五日(日)午后一時、野澤や、能、寶生重英、寶生新、/小鍛冶、胡蝶、安宅。
[やぶちゃん注:「寶生重英」宝生九郎重英(しげふさ 明治三二(一九〇〇)年~昭和四九(一九七四)年)はシテ方宝生流能楽師。十七世宗家。多くの実力ある門人を育てた。当時は未だ三十六歳であるが、既に宗家であった。
「寶生新」(あらた/しん 明治三(一八七〇)年~昭和一九(一九四四)年)はワキ方宝生流能楽師。ワキ方宝生流十世宗家。本名は宝生朝太郎。明治・大正・昭和期に活躍した名人で夏目漱石に謡を教えたことでも知られる。]
一月二十三日(木)ジャンクリストフヲ讀始ム
一月二十四日(金)風邪發熱
一月二十五日(土)缺、
[やぶちゃん注:「缺」は学校欠勤(因みに現在では「欠勤」は減給対象である無届無許可の謂いであるので要注意)の意。]
一月二十六日(日)桓ヲツレテ丸善へ行ク
[やぶちゃん注:「桓」昭和八(一九三三)年四月二十八日生まれの長男桓(たけし)。この時、満二歳と九ヶ月。]
一月二十七日(月)明方發作アリ、/缺席
一月二十八日(火)ヒルカラ出校
二月六日(木)
7.30 p.m./Chaliapin
 1. Minstrel (Areusky)/2. Trepak (Moussorgsky)/3. The Old Corporal/4. Midnight Review (Glinka)/5. Barber of Seville (Rossini)/1"An Old Song (Grieg)/2"When the King went forth to War.
 1. Don Juan (Mozart)/2. Persian Song (Rubinstein)/3. Elegie (Massenet)/4. Volga Boatman/5. Song of Flee (Moussorgsky)/1"Prophet (Rimsky-Korsakov)

[やぶちゃん注:「歌稿」(私の「やぶちゃん版中島敦短歌全集」に全掲載)の「
Mes Virtuoses (My Virtuosi)」の「シャリアピンを聴く」十八首及び私の注を参照のこと。]
二月二十六日(水)
軍隊ノ一部、齋藤内府、高橋藏相、渡邊教育總監岡田首相ヲ殺ストイフ。
[やぶちゃん注:二・二六事件である。]
二月二十七日(木)イマダ詳報ナシ、/非常ナショック、
三月二日(月)昨日上出が死ンダヨシ、朝パンヲタべテヰルトソノ知ラセアリ、泣ケテ仕方ガナイ、
[やぶちゃん注:「上出」敦の友人か教え子のようだが不詳(書簡の受信者・来信者にも見当たらない)。「が」の平仮名はママ。]
三月三日(火)上出ノ葬式ニ行ク、
[やぶちゃん注:底本年譜によれば、この『三月初め』頃に『横濱市中区本郷町三ノ二四七に一家を構へる』(本底本は解説も総て正字正仮名表記であるのに何故か「区」はママ)とある。]
三月十四日(土)釘本、氷上來ル、/金陵、/氷上泊ル、
[やぶちゃん注:「氷上」氷上英廣ひがみひでひろ(明治四四(一九一一)年~昭和六一(一九八六)年)は後のドイツ文学者。東京大学名誉教授。特にニイチェの研究家として知られた。東京生。昭和八(一九三三)年に東京帝国大学文学部卒業。ちょうどこの昭和一一(一九三六)年に旧制甲南高等学校の教授となっている。戦後の昭和二一(一九四六)年に一高の教授を経て、昭和二五(一九五〇)年には新制の東京大学教養学部助教授に就任、昭和三二(一九五七)年に教授となった。『一高時代は文芸部委員となって中島敦らと親交があり、中島からカフカを教えられたという。お互いに作品を校友会雑誌に作品を発表しあっていた』とある。本底本である筑摩書房版旧全集の編集委員はまさに中村光夫と彼である。底本解題(郡司勝義氏筆)によれば、氷上氏は『著者の生涯通じて許しあつた唯一の友人といへる』とある。
「釘本」釘本久春くぎもとひさはる(明治四一(一九〇八)年~昭和四三(一九六八)年)は国語国文学者。東京生。昭和四(一九二九)年東京帝国大学国文科卒、中央大学教授から文部省国語課長。戦後の国語改革や国立国語研究所の創設に参与、昭和三五(一九六〇)年に東京外国語大学教授。敦の一高時代の一年先輩で友人。敦の作家としての資質を生前から高く評価し、その紹介に陰に陽に努め、敦の死後には書簡整理も行っている。参照した解題には彼の書簡と前の氷上の書簡を比較し、『好一對をなすものである』と述べている。
「金陵」中華料理屋の屋号か?]
三月十五日(日)氷上ノ伯母サン死ヌ、間ニアハズ、/東京へ行ク、
三月十六日(月)又上京、洗足ニ泊ル、
[やぶちゃん注:底本年譜を見ると、中島敦の伯父に当たる父中島田人(たびと)のすぐ上の兄開蔵は目黒区洗足に家を持っているが(昭和五(一九三〇)年時点)、ここか?]
三月十七日(火)氷上ノウチノ告別式、
三月二十二日(日)夕方、東京行、氷上ノ所ニヨリ、十時過杉本ノ所(泊)
[やぶちゃん注:「杉本」解題にある杉本長重と思われる。敦の遠縁に当り、本郷菊坂に住んでいた。一高・東京帝大国文科を通じて一年先輩で、とは特に一高時代に親しかったらしい。敦川柳研究の大家で、敦の同級生で昭和十年頃までは親しかった文学者吉田精一の友人でもあった。]
三月二十三日(月)五時起牀床/靈岸島七時出帆、雪フラントス、下田過ギル頃ヨリ晴、四時沼津、六時淸水寄港
[やぶちゃん注:この日から二十八日までの六日間、小笠原旅行。「歌稿」(私の「やぶちゃん版中島敦短歌全集」に全掲載)の「小笠原紀行」はその折りの歌群。]
三月二十四日(火)朝五時八丈。→靑ケ島、/海豚、信天翁、
[やぶちゃん注:「靑ケ島」は「靑ヶ島を望む 六首 中島敦 (「小笠原紀行」より)」の私の注を参照されたい。]
三月二十五日(水)八時五十分、二見入港、大村上陸、農業試驗場、奧村歸化人部落、夜八時荷船
[やぶちゃん注:この辺りの地名その他は「歌稿」(私の「やぶちゃん版中島敦短歌全集」に全掲載)の「小笠原紀行」の私の各注を参照されたい。]
三月二十六日(木)未明出帆、低氣壓襲來
三月二十七日(金)午后三時八丈上陸/大賀郷ヨリ三根村マデ歩ク、/八丈フジ良シ、/八時出帆、
[やぶちゃん注:「八丈富士」現在の東京都八丈町の八丈島にある標高八五四メートルの山。別名、八丈富士と呼ばれる。景観はグーグル画像検索「八丈富士」で。]
三月二十八日(土)朝九時沼津上陸、/午過、横濱ニカヘル/ジャン・クリストフ讀了、
[やぶちゃん注:一月二十三日に読み始めた記載があったから、凡そ二ヶ月かけて読んでいる。かなりの精読と言える。そして――八丈には「ジャン・クリストフ」がよく似合う――んだね、中島君?]
三月二十九日(日)澄子來ル、
[やぶちゃん注:敦の異母妹(大正一二(一九二三)年生まれであるからこの時、満十三歳。二人目の継母カツの一人娘)の澄子かと思われる。]
三月三十一日(火)氷上、神戸へ立ツ、
四月一日(水)
m.
四月六日(月)
m.
[やぶちゃん注:この「
m.」は不詳であるが、一つの可能性は“medicine”の略か? 喘息の処方を受けたことを記した可能性である。]
四月十五日(水)
W. Kempff,/Beethoven’s Concerto 3. 5.
[やぶちゃん注:ケンプの演奏会については、「歌稿」(私の「やぶちゃん版中島敦短歌全集」に全掲載)の
Mes Virtuoses (My Virtuosi) ケムプを聽く」の七首と私の注を参照のこと。]
四月二十一日(火)
Goldberg, Klaus/Beethoven’s Sonata 4,5,2,10
[やぶちゃん注:「歌稿」(私の「やぶちゃん版中島敦短歌全集」に全掲載)の
Mes Virtuoses (My Virtuosi) ケムプを聽く」の私の「ケムプ」の注にこのヴァイオリニストのシモン・ゴールドベルクとピアニストのリリー・クラウスのデュオの演奏会の詳細を記してあるので参照されたい。]
[やぶちゃん注:この間の四月二十五日に第三母であるコウが死去している。]
五月三日(日)鷗外 
1,3,4,5,7,8,9,10,12,25
[やぶちゃん注:何かの既読メモランダのようには見えるが、この数字の意味は不詳である。識者の御教授を乞う。]
五月四日(月)
Hearn. 2,4,9,11
[やぶちゃん注:「
Hearn」は小泉八雲、Lafcadio Hearn のことであろうが、やはり数字は不詳。識者の御教授を乞う。]
五月十二日(火)
W.Kempff/Beethoven Concerto 1 & 5/Mozart Concerto in improvisation
[やぶちゃん注:この二度目のケンプの公演も「歌稿」(私の「やぶちゃん版中島敦短歌全集」に全掲載)の
Mes Virtuoses (My Virtuosi) ケムプを聽く」を参照のこと。]
五月二十九日(金)
Jacques Thibaud/Symphonie Espagnole
[やぶちゃん注:下線はママ。ティボーの演奏会については、「歌稿」(私の「やぶちゃん版中島敦短歌全集」に全掲載)の
Mes Virtuoses (My Virtuosi) ティボオを聽く」の歌と私の注を参照されたい。]

[やぶちゃん注:ここに底本の全集編者によって、
(以下ハ六月六日(土)カラ二十四日(水)ノ部分ニ記サレテヰル――校訂者註)
という注記が入っている。中国旅行の訪問先のメモランダである。但し、旅行は、
 八月八日から同月三十一日
までであるので注意されたい。]

蘇州(城内、閶門外、居留地)/盤門大街/瑞光寺塔、/孔子廟(苑仲淹)/玄妙觀ノ露店/報恩寺大塔(孫權)/寒山寺(文徴明)/東南4K寶帶橋(後漢武帝、王仲舒)/南20K靈巖山寺/天平山白雲寺、/◎南京(南門、水西門内、下關)/中山陵/明故宮/方孝孺、血蹟亭、/明孝陵(明太祖、馬皇后)/通濟門、秦准(桃葉渡、利渉橋)/南門大街の東/貢院、/雨花臺、報恩寺、/朝天宮、天子廟、大磁塔/城西、水西門/莫愁湖/淸涼山(弘法)/玄武湖、◎雞鳴寺/下關(滯)(20K)/○楊州(江北大運河20K)/江都、甘泉/城北三四K、平山堂(歐陽修)/九曲池/五亭橋(乾隆)/◎杭州
[やぶちゃん注:「東南4K寶帶」は底本では右傍線。「K」は訪問先のある基準起点からの距離(キロ数)を指しているか? 現在の蘇州駅から宝帯橋は確かに直線で東南に4キロ強である。但し、他がピンとこない。なお、以下にも示したが、蘇州のこれらの名勝は芥川龍之介の「江南游記」の中で多くを巧みに描出している。敦も龍之介の同書を格好の案内の一つとしていたと考えてよいと思われ、是非、リンク先の私の注釈附電子テクストと併せてお読みになられることを切に望むものである。以下の注も一部は同テクストの注から転載した箇所がある。
「閶門外」蘇州城西の閶門しょうもんの内外は商業の中心地で、蘇州四大名園の一つ、留園があることでも知られる。「居留地」というのはここから二・二キロメートルほど離れた位置にあった日本租界のことを指す。
「盤門」紀元前五一四年に呉王の命を受けた伍子胥が蘇州城を守るために造った八つの水門の一つ。現在残るものは一三〇〇年代に再建されたもので陸門と水門に分かれ、敵の侵入に対する工夫が施された古代の戦略を知る上で格好の場所とされる。ここと瑞光塔(北宋初期の八角七層からなる宝塔。高さ四三・二メートル)と呉門橋は盤門三景と呼ばれる。
「孔子廟(苑仲淹)」「苑」は「范」の誤記(若しくは全集編者の誤読)。芥川龍之介の「江南游記 十五 蘇州城内(下)」に『此處は明治七年に再建さいこんされたとは云ふものの、宋の名臣范仲淹はんちゆうえんはじめた、江南第一の文廟である』とある。
「玄妙觀」旧市街の中心繁華街観前街にある道教寺院。西晋年間(二七六年)に創建された、度重なる戦火によって多くの建築物が消失したが、正山門・三清殿・観音殿・文昌殿などの宋元明清各代の道教建築と文物が残る。これらは長江以南で現存する最大の建築群で、現代中国でも全国重点文物に指定されている。
「報恩寺大塔(孫權)」蘇州で最も古い仏教寺院報恩寺の北寺塔。三国時代の呉の赤烏年間(二四七~二五〇年)に孫権が母の恩に報いるために前身の通玄寺を建立した。塔自体は後の梁(五〇二~五五七年)の頃の創建と伝えられ、造立当時は十一層の宝塔であったという。その後たびたび破壊されたが北宋年間に九層の塔として再建された。現存する塔は一層から六層までの塔身が南宋期、七層以上が明代、廂と欄干は清時代に再建補修されたもの。高さ七十六メートル、八角七層の塔は各階に回廊も作られ、九階からは蘇州を一望出来る。芥川龍之介「江南游記 十三 蘇州城内(上)」を参照。
「寒山寺(文徴明)」寒山寺の古い碑文は明代中期の画家で呉中三大家と呼ばれた名書家文徴明(一四七〇~一五五九)の筆になる。芥川龍之介「江南游記 十九 寒山寺と虎邱と」を参照。
「寶帶橋」蘇州市東南の蘇州と杭州を結ぶ大運河の支流である玳玳河たいたいがに架かる橋。橋長三一七メートルで中国最長の石橋である。幅四メートル、全部で五十三基のきょう(アーチ)を有する。橋そのものの起源は漢の武帝の頃まで遡れると言われるが(敦の記載はそれを指す)、現在の橋の原型の架橋起工は唐の八一九年で、蘇州刺史(地方長官)であった王仲舒(七六一年~八二二年)が水運の発展を企図して建設を始めたが、その壮大な計画ゆえに資金が不足し、募金を募った。仲舒自らも家伝の宝帯(珠玉で飾った腰帯)を売り、それに感じた富豪たちの寄附で三年後の八二二年に完成、橋名はこれに由来する(現存するものは明の一四四二年に再建されて清代に大規模な補修を施したものである)。芥川龍之介は「江南游記 十九 寒山寺と虎邱と」で『唯長い石橋さ。ちよいとあの不忍の池の觀月橋と云ふ感じだね。尤もあれ程俗な氣はしない。春風春水春草堤――道具立てはちやんと揃つてゐる』と評している。
「下關」は南京市西北部の揚子江に面した波止場。後に南京大虐殺の現場の一つとなった。
「中山陵」南京市東部の紫金山にある孫中山(孫文)の陵墓。一九二六年から一九二九年にかけて建設された。
「方孝孺」(ほうこうじゅ 一三五七年~一四〇二年)明初の学者。代々官僚の家に生まれ、十歳で当代の碩学宋濂そうれんに学び、濂門の第一人者と謳われた。初め、洪武帝に召されたが、建文帝の即位とともに翰林院侍講次いで侍講学士に進んで国政の中枢を担った。燕王(後の永楽帝)が挙兵して靖難の変が起こると、帝の側近として輔佐したものの戦いに敗れて建文帝は没し,彼自身も捕らえられた(ここまでは平凡社「世界大百科事典」に拠る)。永楽帝は彼を助命する代わりに即位の詔を書くように命じたが、孝孺は永楽帝即位を「燕賊簒位」と大書、怒り心頭に発した永楽帝は一族八百余名全てを彼の眼前で処刑した後、孝孺を凌遅処死の刑(生きたまま肉を少しずつ切り落としながら長時間の苦痛を与えつつ死に至らしめる中国史上最も残酷な処刑法)に処したという(この虐殺は「滅十族」と称された。ここはウィキの「方孝孺」他を参考にした)。この「血蹟亭」というのは確認出来ないが、魯迅の「雑憶」という随筆の中に、その処刑されたと思しい場所に血の跡の附いた血跡石があってそこにちんがあった、という記載がある。彼の墓は現在、江蘇省南京市中華門の南にある革命烈士の陵園雨花台(うかだい。本文にも出る)にある。
「明孝陵(明太祖、馬皇后)」中山陵の近く、紫金山の南麓に位置する明の太祖洪武帝朱元璋と后妃の陵墓。方城の北にある宝頂(宝城)の地下には朱元璋と馬皇后が眠る地下宮殿玄宮がある。因みに近くの梅花山には孫権の墓がある。
「秦准」金陵古代文化の発祥地である秦淮河。江蘇省南西部から南京市街の西を流れ、長江に通ずる長江下流右岸支流で約五キロメートルの運河の名。南京の名勝地で、両岸には料理屋や遊郭が殷賑を極めていた。
「桃葉渡」青渓と秦淮河が合流する地点にある古来有名な渡し場。東晋の書家王献之が寵愛した妾桃葉を迎えた所なので桃葉渡と名づけられたという伝承がある。
「利渉橋」秦淮河に掛かる橋で橋畔に著名な酒家があった。芥川龍之介「南京の基督」で、金花が目の前に現われた外国人のことを『この間肥つた奧さんと一しよに、畫舫ぐわぼうに乘つてゐた人かしら。いやいや、あの人は髮の色が、もつとずつと赤かつた。では秦淮の孔子樣の廟へ、寫眞機を向けてゐた人かも知れない。しかしあの人はこの御客より、年をとつてゐたやうな心もちがする。さうさう、何時か利渉橋りせふけうの側の飯館の前に、人だかりがしてゐると思つたら、丁度この御客によく似た人が、太い籐の杖を振り上げて、人力車夫の背中を打つてゐたつけ。事によると、――が、どうもあの人の眼は、もつと瞳が靑かつたやうだ。……』と思うシーンに登場する。
「貢院」は科挙試のための一方開放式ボックスの試験室が長屋状になったもの。私も復元されたものに受験生気分で座って写真を撮ったことがある(因みに私の妻はかつて一年間南京大学日本語科日本語教師として赴任していた)。極めて狭い。ここで二泊三日自炊で試験を受けた。筆記試験実施中にここから出た者は即座に失格となった。江南貢院は清末に科挙の廃止に伴い、順次取り壊されてしまったが、試験官の詰め所であった明遠楼は、現在も保存されている。
「雨花臺」南京中華門外南にある低く平坦な丘陵。土中に美しい瑪瑙質の石を含有する。名は六朝の頃に僧侶の読経に感じた天が雨の如く花を降らしたことに由来するが、南京攻防の要地として古来幾度も血生臭い戦場となった。
「報恩寺」正確には寺院跡。三世紀に一四〇個以上もの燈籠がつり下げられた、高さ約八〇メートルの九層からなる陶器製の大報恩寺瑠璃塔があったが、一八五〇年の太平天国の乱で破壊され、現在では寺諸共に跡形もなくなっている。
「朝天宮」「ちょうてんきゅう」と読む。明代に文武百官が朝廷での礼儀を学んだ建物で江南地方に現存する明清代の古建築では最大規模のもの。現在は南京市博物館となっている。
「天子廟」これは恐らく夫子廟ふうしびょうの誤りと思われる。現在の南京市内の秦淮河北岸の貢院街にあって孔子を祭っている場所であるが、一般的には現在、李香君故居・江南貢院・王導謝安紀念館などの秦淮河周辺から建康路周辺の地域全体を夫子廟フーズーミアオと呼称しており、南京有数の歓楽街である。なお、以下は芥川龍之介の「江南游記」の「夫子廟」の私の注に附したものであるが、私はここでもやはり個人的なある忘れ難い体験をどうしても記しておきたい。
   *
 私は二〇〇〇年、中国派遣日本語教師として南京大学日本語学科で日本語を教えていた妻を訪ねた際、この夫子廟で晩餐をとった。その時、妻と、当時、同学科で日本語や経済政策等を教えておられた福田茂老師(「先生」という呼称では足りない。妻の一年間の中国生活を支えて下さり、妻から伝え聞いたそのアップ・トゥ・デイトな鋭い教授内容は素晴らしいもので、数回の談話で私は魅了された)、そうして老師の知人の文部科学省からの若い派遣員二人と一緒であった。食後、夫子廟の繁華街を抜けて行った折りのこと、鰻の寝床のような酒桟(“
jiŭzhàn”チィォウチァン)の前を通り過ぎた。日本のションベン横丁の立ち飲みみたような店を想像してもらえればよい。朦々たる煙草の煙に裸電球が煌き、労働者たちが声高に言い合う声とともに、盛んに酒盃を挙げていたのが見えた。外には小さな椅子を並べてこれまた、ままごとに使えそうな小さな卓子テエブルにグラスを置いて二人の老人が静かに酒を飲んでいた。その時、老師は誰に言うともなく「こういうところでコンイーチーは飲んでいたんだねえ……」と呟かれた。妻や文科省の役人二人は黙っていた。私は「魯迅ですね――しかし、僕はコンイーチーが好きです――ああした前時代の滅んでゆくべき彼や阿Qような人物を、魯迅は優しい視線で愛情を持って描いていますね。」と答えた。老師は「そう、そうなんだよ!」と如何にもという風情で相槌を打たれた。文科省の役人は――知っていて黙っていたのかどうか、知らない――少なくとも私の妻は「コンイーチー」が何者であるか知らなかった――「孔乙己」“kŏngyĭjĭ”(クゥォンイチ)は魯迅の同名小説の主人公の名である。私は「薬」や「故郷」と並んで好きな作品の一つなのである――私はこの一瞬、この日初めて逢ったばかりの、この福田老師を、心から尊敬した。その何気ない視線と感懐に、この老師が心底「中国」を愛しておられるということを知ったからであった――後日、私は妻から福田老師は少年の頃、満州からの引揚者であったと聞いた(そこから老師の御年を推測されたい)。その時、何か師の琴線に触れるものがあったのでは、などと私は不遜にも想像したりしたけれど、師はその後もご自身の経験については、特にお話にはならなかった――福田茂老師は今も、矍鑠として中国にあって、日中何れに対しても歯に物着せぬ勘所を得た批評をされ、中国の若者たちに教鞭をとっておられるのである――
   *
「大磁塔」先に注した大報恩寺瑠璃塔(略して大報恩寺塔とも)のことであるが、「報恩寺」と別に記されているのはやや不審。
「莫愁湖」南京にある周囲五キロメートルほどの湖。南斉年間に洛陽に莫愁という女性がおり、家が貧しく父の死後に身を売って葬儀を行った。ちょうど建業より洛陽を訪れたある富豪が莫愁の美しさに引かれ莫愁を身請けしたが、莫愁は故郷を懐かしむあまり、この湖に入水したという伝説に基づく名とされる。明代には朱元璋と中山王徐達がこの地で碁を打ったという伝説も残る。現在は公園となっている(以上はウィキの「莫愁湖公園」に拠った)。
「淸涼山(弘法)」石頭山とも。渡来した弘法大師が修行をしたとされる清凉寺がある。南京城西に位置する清涼門の東にある丘で六朝の昔からの名勝で、古くは皇帝の避暑地でもあった。
「玄武湖」南京市内の北東、南京駅の前に広がる周囲約十五キロメートルの湖。南朝年間に湖中から黒龍が現れたという伝説が残り、宋・斉の王朝や呉の孫権がここで水軍訓練を行った。六朝以前に於いては帝王大臣たちの園林であった。明代になって宮廷の禁苑となり、全国の戸籍簿を蔵する黄冊庫が置かれた。中国歴代の文人である郭璞・李煜・杜牧・劉禹錫・李商隠・李白・欧陽脩・王安石・曹雪芹といった錚々たる面々がこの湖で詩を詠んでいる。玄武湖の水源は東に位置する紫金山を水源としており、その水は玄武湖から鶏鳴寺の付近より南京城内の秦淮河へ流れ込み、さらに長江へと流れ込む。湖には五つの島が浮かぶ。中華民国の時代は五州公園と称された(以上はウィキの「玄武湖公園」に拠った)。
「雞鳴寺」東晋の永康元(西暦三〇〇)年に創建された寺。南朝梁の大通元(西暦五二七)年に同泰寺と命名され、僧俗五万人余を招いて四部無遮大会しぶむしゃだいえ(貴賤・僧俗・上下・男女の区別なくだれにでも財施・法施を行う法会。無遮施むしゃせ)が設けられたという。また翌年、武帝は当寺で捨身を行ったが、皇太子と百官が銭一億万びんを供して武帝の身を贖い、こうした捨身がその後も三度も行なわれている。更に仏教教理に通じた武帝はここで諸経典を自ら講経してもいる。明の洪武二〇(西暦一三八七)年に鶏鳴寺と改名、実に千年以上の歴史を持つ南京有数の古刹(以上はウィキの「鶏鳴寺」に拠った)。
「江都」現在の江都市(江都区)。中国江蘇省揚州市の東北に位置する市轄区。
「甘泉」現在の揚州市の北、邗江かんこう区甘泉鎮。
「平山堂(歐陽修)」揚州の痩西湖最北端の眺めの良い高台蜀岡にある南北朝の南朝宋孝武帝大明年間(四五七年~四六四年)に創建された大明寺の一画にある堂。唐の七四三年、当時のこの寺の住持を務めていた鑑真和上が遣唐僧の懇請を受けて苦難の末に来日した、日中仏教文化の所縁の地でもある。平山堂は、北宋の一〇四八年に欧陽脩が揚州知府に任ぜられた際に建てた文人墨客を招くためのサロン。揚州大明寺日本語版公式サイトの「文人墨客区」によれば(既に消失した模様)、『平山堂から遠くの江南地域の山並みを眺めたら、山の高さはちょうど平山堂の高さと同じように見えた』ことから名づけたとある。
「九曲池」楊州広陵の池。歴代の詩人たちに詠まれた名勝。
「五亭橋(乾隆)」揚州の痩西湖のシンボルと言える極めて異形の建造物。乾隆二二(一七五七)年、この年の乾隆帝二度目の江南巡幸に合わせて、莫大な財産を恣にした地元の塩商人と塩役人(塩は国の専売であり、価格や流通量などは国家統制されていた)らが出資して架橋した橋で、橋上には二重の急激に反り返った廂を有した主亭を中心に、四つ角で接した同じ傾斜角を持った単廂の方亭が囲むように四つ配されている。橋脚には大小異なる遂道が通り、最大の中央のものは水面から七・一三メートル、複雑な形状が四季折々の変化に飛んだ景色を楽しめるよう工夫されている。]

八月八日(土)夜行、出發
八月九日(日)朝、氷上ノ所、泊
八月十日(月)泊/腹ヲコハス
八月十一日(火)
八月十二日(水)阪急會館/臺灣へ電報、/夜發、シンダイナシ、
[やぶちゃん注:「阪急會館」現在の兵庫県神戸市中央区にある阪急三宮駅と一体になった商業施設神戸阪急ビル東館のかつての通称。
「臺灣へ電報」不詳。台湾に知人か親族がおり、大陸で落ち合う連絡かなにかをしたか? 高い可能性は八月十七日の項で上海で落ち合っている友人三好四郎であるが、確定出来ない。他には本手帳の末尾に載る数人の住所録の中に「臺北市佐久間町三ノ九 下川履信」という人物もいる。]
八月十三日(木)福岡下車/(吉塚)九州ニハヤブニラミ多シ/東公園長崎泊㊎
[やぶちゃん注:「㊎」不詳。何とも気になる記号である。為替催促か金メダルか……それとも……♪ふふふ♪……]
八月十四日(金)天主教、崇福寺/一時上海丸出帆大混雜
[やぶちゃん注:「崇福寺」長崎県長崎市にある黄檗宗の寺院。大雄宝殿と第一峰門は国宝建築で興福寺・福済寺とともに長崎三福寺に数えられる名刹。芥川龍之介の発句に、

  再び長崎に遊ぶ
唐寺からでらの玉卷芭蕉肥りけり

があり、岩波の旧芥川龍之介全集では、この句の注記として大正十三(一九二四)年九月刊の『百艸』に所収する「長崎日録」の大正十一(一九二二)年五月二十一日の条参照とある。該当部分の句の前文のみ、以下に引用する。

五月二十一日
 古袷の尻破れたれば、やむを得ずセルの着物をつくる。再び唐寺に詣る。
       唐寺の玉卷芭蕉肥りけり

唐寺は唐四箇寺とも呼ばれ、中国様式建築の顕著な崇福寺・興福寺・福済寺・聖福寺の四寺があるが、これはその中で最も古いとされる崇福寺と考えてよい。芥川龍之介所縁の寺として敦が訪ねた可能性が高いと私は考えている。]
八月十五日(土)午後四時上海着/オリンピック水上/
200m. Breast ハムロ1500 m. F.S. 寺田
[やぶちゃん注:「ハムロ」は底本では右傍線。このメモランダはこの時行われていたベルリン・オリンピック(一九三六年八月一日から八月十六日)の水泳の金メダル記録を記したもので、それぞれ競泳男子二〇〇メートル平泳ぎ(この“
breast”は“breaststroke”、ブレストストローク、平泳ぎのこと)。で金メダルをとった葉室鐵夫、競泳男子一五〇〇メートル自由形で金メダルをとった寺田登のことである。ただ、これ以外に競泳では男子八〇〇メートル自由形リレー(遊佐正憲・杉浦重雄・田口正治・新井茂雄)及びかの女子二〇〇メートル平泳ぎの前畑秀子も金メダルをとっているのに(前畑のそれは八月十一日のことであるから敦が知らなかったはずはない)それが記されていないのは何故だろう。二人の金がたまたまこの日であったのか、識者の御教授を乞うものである。]
八月十六日(日)午後郊外ドライヴ/廟江鎭、市政府
[やぶちゃん注:「廟江鎭」(びょうこうちん)は第一次上海事変の爆弾三勇士で知られた直近の戦跡。日本陸軍独立工兵第十八大隊(久留米)の三名の兵士が、蔡廷鍇(さいていかい)率いる国民革命軍十九路軍が上海郊外(現在の上海市宝山区)の廟行鎮に築いた陣地の鉄条網に対して一九三二年(昭和七年)二月二十二日に突撃路を築くために点火した破壊筒を持って敵陣に突入爆破、自らも爆死した場所である。]
八月十七日(月)午後四時三好(白山丸)ヲ迎ヘニ行ク、
[やぶちゃん注:「三好」三好四郎。解題で編者郡司勝義氏は、『三好四郎氏は、ある意味では著者中島の文學が今日あることにとつて、缺かすことの出來ない案内役である』と述べ、『著者が一高の先輩であり既に作家として世にある深田』久彌『氏に近附きになれたのは、三好氏のはからひによる所が多かつた』とし、『三好氏は戰時中は中國本土の農村研究に携り、戰後引揚げて來て、昭和四十六年まで愛知大學教授を務めた』とある。
「白山丸」日本郵船が保有した貨客船。欧州航路向けの優秀船として大正一二(一九二三)年に竣工した豪華船。デザインは大正時代の船らしい古典的な姿で中央に高い一本煙突、前後の甲板に一本ずつマストが立つ。ヨーロッパ各国の客船に比べると小型ではあったが、日本を代表するという立場から内装には豪華な設備が施されていた。竣工後は命令航路である横浜~ロンドン航路(スエズ運河経由)に就航、途中寄港地は神戸港・上海・香港・シンガポール・コロンボ・ポートサイド・マルセイユなどとなっている。後、昭和一五(一九四〇)年に日本海軍に徴用されて佐世保鎮守府所管特設港務艦となり、危険な任務に従事、二度の大きな損傷に耐えながら戦争後半まで残存したが、昭和一九(一九四四)年六月、サイパン島から疎開する民間人多数を乗せての航海中に米海軍潜水艦によって撃沈された。]
八月十九日(水)三好ノヲヂサンノアパアト、
Metoropolitan Apartment./みやげ物産
八月二十日(木)午後/杭州、新々旅館、/燈ヲケストホタルガガ二匹。
[やぶちゃん注:芥川龍之介「江南游記 三 杭州の一夜(上)」及び「江南游記 四 杭州の一夜(中)」の本文及び私の新新旅館の注などを是非、参照されたい。まさに芥川龍之介が見た光景がそのままに敦の眼に映写されていることに気づくであろう。]
八月二十一日(金)夜、遲ク、杭州ヨリカヘル/上海ノ燈ヲ見ルト家ヘカエツタヤウナ氣ガスルノモヘンナモノナリ
八月二十四日(月)
Canidrome
[やぶちゃん注:これは中国名「逸園跑狗場」、英語名“
Canidrome”(カニドローム)で、当時上海一のドッグ・レース場のこと。一九二八年にフランス人投資家スピルマンらが英人モリスの土地を買収して建設した大規模なドッグ・レース賭博場で、先行して開場されていた二つのレース場を圧倒してフランス租界当局に莫大な税収を齎した。電気仕掛けの兎を追って、六色のゼッケンをつけた六頭の犬がゴールを競い合ったが、日本軍進駐によって営業を停止、新中国成立後は「文化広場」となっている(「上海歴史地図」にあるこの記事を参照した)。]
八月二十五日(火)蘇州、張サン
[やぶちゃん注:「張サン」は底本では右傍線。通訳の名か。]
八月二十六日(水)切符カヒ、ハイアライ
Scotch Bakery./成都ニテ日本新聞記者殺サル
[やぶちゃん注:「ハイアライ」不詳。店舗の名か? 中国音をそのまま記したものか? 識者の御教授を乞うものである。後の「
Scotch Bakery」は日本租界と並んあった外国公共租界にあったパン屋か? 次の記載のチョコレート屋も同所の店か?]
八月二十七日(木)
Grand ‘Under Two Flags’ chocolate shop
八月二十八日(金)夜、船(
P. Cleaveland ニノリウム)
[やぶちゃん注:「
Cleaveland」の綴りはママ(普通は“Claveland”)。ニノリウムは恐らく船室の床がリノリウム張りになっていて静かな(恐らく豪華な)ことを指しているものと思われる。]
八月二十九日(土)未明、出航、眼ガサメルト揚子江の濁流、/タッペロー・タッペー、
[やぶちゃん注:「の」の平仮名表記はママ。「タッペロー・タッペー」不詳。識者の御教授を乞う。]
八月三十日(日)ヒドイ飯ナリ。太郎芋。/猛烈二ニ太ツタロシヤ女。/ホクロ。ヒゲ、
[やぶちゃん注:「太郎芋」単子葉植物綱オモダカ亜綱オモダカ目サトイモ科サトイモ属タロイモ
Colocasia esculenta のことか?]
八月三十一日(月)朝神戸着、三好ハ京都へ行ク、/氷上ノ所へ行ク、午後カヘル。/四時出帆ノ筈ガ夜ノ十一時頃トナル。/神戸ノ古本屋ヲノゾク、フランス案内記ノトビラ淡茶靑色ノ繪、/
It was September./It was Province.
九月一日(火)夜八時過、横濱着、
[やぶちゃん注:解題に、残されてあった八月八日以降の上海―杭州―蘇州旅行について、実際とは別の予定表(案)が三種類掲げられているので、以下に示しておく(記号と表示法をかなり変えた。ただ、この船に付随している数字は何だか私には分からない。識者の御教授を乞う)。

横濱
神戸發(八月)  七日
         ↓  瑞穗丸(16・00)
基隆着      十日
  發     十六日
         ↓  白山丸(20・80)
上海着     十七日
  發    二十五日
         ↓  筥崎丸(36・80)
香港着    二十八日
  發(九月)  二日
         ↓  淺間丸(39・20)
横濱着      九日
 ――――――――――――――――――――
横濱發(八月) 十四日
         ↓  淺間丸(29・60)
上海着     十八日
上海發    二十五日
         ↓  筥崎丸(36・00)
香港着    二十八日
  發(九月)  二日
         ↓  淺間丸(39・20)
横濱着      九日
 ――――――――――――――――――――
神戸發      六日
↓  伏見丸(29・80)
上海着      十日]



〇Pensées (Pascal) E. L. 874.
〇Orthodoxy/G. K. Chesterton (Dodd. Mead & Co. )
〇The Waters of Africa/A. A. Horn (Life and Letters series)/Jonathan Cape
〇The Eighteen Nineties/Holbrook Jackson (〃)

[やぶちゃん注:“
Orthodoxy”は推理小説で知られる作家チェスタートン(Gilbert Keith Chesterton)の文芸評論「正統とは何か」(一九〇九年刊)。
The Waters of Africa/A. A. Horn”は不詳。識者の御教授を乞う。
Jonathan Cape」は人名ではなくジョナサン・ケープ(Jonathan Cape Ltd)でイギリスの出版社。一九〇九年にハーバート・ジョナサン・ケープ(Herbert Jonathan Cape)がロンドンで創業したページ・アンド・カンパニー(Page & Co)を前身とし、一九二一年に社名変更、主に小説や絵本を中心に出版している。代表的な出版物にイアン・フレミングの『007』シリーズ、ヒュー・ロフティングの『ドリトル先生』シリーズ、アーサー・ランサムの『ツバメ号とアマゾン号』シリーズなどがある(ウィキの「ジョナサン・ケープ」に拠る)。この“Life and Letters series”(人生と文学シリーズ)というのもその一つである。
The Eighteen Nineties”は一九八八年刊のイギリスの文芸評論家ホルブルック・ジャクソンの“The eighteen nineties : a review of art and ideas at the close of the nineteenth century”(「一八九〇年代――十九世紀末の藝術と思潮についての批評」といった謂いか)。]



G
enius and Character/E. Ludwig
The Mind of Leonardo da Vinci/Edward McCurdy
Beethoven/J. W. N. Sullivan
〇Strange Necessity/R. West

[やぶちゃん注:“
Genius and Character”はドイツ出身の作家で伝記小説で知られたエーミール・ルートヴィヒ(Emil Ludwig 一八八一年~一九四八年)の一九二七年の作品で、ビスマルク、レーニン、レオナルド・ダ・ヴィンチ、シェイクスピア、レンブラント、ヴォルテール、バイロン、ゲーテ、シラー、バルザックといった歴史上の様々な人物についてのエッセイらしい(英文レビューの斜め読みから)。
The Mind of Leonardo da Vinci”美術史家でレオナルド・ダ・ヴィンチの研究家エドワード・マッカーディの一九二八年の評論。
Strange Necessity”イギリスの女流作家レベッカ・ウェスト(Rebecca West 一八九二年~一九八三年)の一九二八年刊の文芸評論集。モダニズム文学と認知科学についてのエッセイと批評で、ジェイムズ•ジョイスの名著「ユリシーズ」の不評を分析した長いエッセイが含まれると、英語版ウィキの“Rebecca Westには書かれているようである。]



The poet and the lunatics (Tauchnitz E. ) 4606.
Generally Speaking (T. E. 4909)
The Outline of Sanity (4775)
The Return of Don Quixote (4788) or Centaur Library, 5.
Do what you will/Phœnix L. 71./Jesting Pilate/Mortal Coils

[やぶちゃん注:“
Tauchnitz E”というのは“The Tauchnitz edition”で、これは所謂現在のペーパー・バックの最も原型的なものの一つである、タウフニッツ叢書のこと(ドイツのライプツィヒで一八四一年に創刊された)。後のナンバーはその叢書番号であろう。ここに示された頭の四つは総てチェスタートンの作品で、
The Poet and The Lunatics”(一九二九年「詩人と狂人たち」)
Generally Speaking”(一九二八年 書名はただ訳すならば「概して」の意)
The Outline of Sanity”(一九二六年 社会・政治評論集「正気と狂気の間」)
The Return of Don Quixote”(一九二七年 彼の最後の長編小説)
である。
Do what you will”訳せば、あなたがしようと思ったことを成し遂げよ、であるが書名としては不詳。識者の御教授を乞う。
Phœnix L. 71.”不詳。識者の御教授を乞う。
Jesting Pilate”(「ピラトはふざけて」?)同名のイギリスの作家オルダス・レナード・ハックスレー(Aldous Huxley 一八九四年~一九六三年)の旅行記(一九二六年刊)があるが、これであろう。
Mortal Coils”「死の柵」? 元はシェイクスピアの「ハムレット」にある“shuffle off this mortal coil”で、この台詞自体は「この世のわずらわしさをなくす」「死ぬ」の謂いと辞書には載る。ハックスレーの一九二二年の五篇からなる小説集の題名。]



The Gioconda Smile (Huxley) (A. L)
[やぶちゃん注:前に記された小説集“
Mortal Coils”(モータル・コイルズ)の巻頭の一篇。英語版ウィキの“Mortal Coilsによれば、殺人事件を主軸にした社会風刺小品とある。]



フウリンブツソウゲ
アカタコノ木 玉菜
アレカ ルーテセンス(シユロ科)
モクタチバナ
ジャバソテツ
ガジマル
ビイデービイデ
ベンガルボダイジユ
[やぶちゃん注:「フウリンブツソウゲ」アオイ科フヨウ属コーラル・ハイビスカス
Hibiscus schizopetalus。和名を漢字表記すると風鈴仏桑華。西アフリカ原産の常緑低木。樹高二~四メートル。花は花柱が長く、風鈴状で下垂して咲く。花期は夏。画像はグーグル画像検索“Hibiscus schizopetalusを。とても不思議な美しい花である。
「アカタコノ木 玉菜」【二〇一三年三月二十日改注】当初、無批判に「アカタコノ木」=「玉菜」と別名を併記したものと安易に考えてしまい、「アカタコノ木」の注のみを附して「玉菜」を等閑にしていた。実はここは縦に二つを併記しているものの、この二種は異なった種である。これについて二〇一三年三月二十日附でHN“kmat”氏より御指摘を頂戴したので注を改めた。
「アカタコノ木」は、文字通りならば、マダガスカル原産の単子葉植物綱タコノキ目タコノキ科アカタコノキ
Pandanus utilis 、「赤蛸の木」で、別にビヨウタコノキとも呼び、「美容蛸の木」「美葉蛸の木」と漢字表記する。個人ブログ「夢彩人_樹木・草」のこちらのページによれば、幹は高さ二〇メートル程になり、あまり枝を分岐せず、気根も少ない。葉は青緑色で直立し、長さ三〇~九〇センチメートル、幅五~八センチメートル、縁や下面の主脈には鋭い刺がある。観賞用としては三メートル程のものがある。寒さには弱く、原産地では葉でバスケット・カバン・ムシロなどを作る、とある。しかし、問題はここが小笠原で敦が嘱目した特異な植物名を並べているという点に着目するならば実はこれは――アカタコノキ Pandanus utilis ――ではなく――タコノキ(オガサワラタコノキ) Pandanus boninensis ――とすべきであるように思われるのである。タコノキ(オガサワラタコノキ) Pandanus boninensis は常緑高木で雌雄異株。小笠原諸島固有種で海岸付近で生育する。種名“boninensis”は小笠原諸島の英名“Bonin Islands”に由来する。小笠原諸島の海近くに自生し、高さ一〇メートルほどになる。タコノキ科植物全般に見られる特徴として気根が支柱のように幹を取り巻き蛸のように見えることからタコノキ目の基準種となっている。葉は細長く凡そ一メートルに達し、大きく鋭い鋸歯を持つ。初夏に白色の雄花、淡緑色の雌花をつけ、夏に数十個の果実が固まったパイナップル状の集合果をつける。果実は秋にオレンジ色に熟し、茹でて食用としたり、食用油を採取する原料とする。南西諸島に多く生育するタコノキ属アダン Pandanus odoratissimus の近縁種であるが、アダンの葉はタコノキに比して鋸歯が小さい(以上は主にウィキの「タコノキ」に拠った)。また、kmat 氏より更に『小笠原のタコノキはオガサワラタコノキ以外は生えていません。米国から日本に小笠原を返還した時に、都道に植える植物が何がいいのか問題になりました。当時は固有種を増やそうと考え、都の支庁は山道に大量のオガサワラタコノキを植えています。15年前に元支庁長が私にそう話しています』という追加の御指摘を頂戴した。これによって敦の見たタコノキは他のタコノキ科のタコノキ類ではなく、確かにタコノキ Pandanus boninensis であったと同定してよい。
●「玉菜」はビワモドキ亜綱ツバキ目オトギリソウ科テリハボク
Calophyllum inophyllum の小笠原諸島での地方名。太平洋諸島・オーストラリア・東南アジア・インド・マダガスカルなどの海岸近くに分布し、世界の熱帯・亜熱帯地域に於いて広く栽培されている。日本では南西諸島と小笠原諸島に自生するが、これらは移入によるとも考えられている。成長は遅いが、高さは一〇~二〇メートルに達する。葉は対生で、長さ一〇~一五センチメートルほどの楕円形で光沢があり(和名の由来)、裏面の葉脈が目立つ。花は直径二~三センチメートル、一〇個前後が総状花序に開く。花弁は白く四つあり、黄色い多数の雄蕊を持ち、芳香がある。果実は径四センチメートルほどの球形の核果で、赤褐色に熟し、大きい種子を一つ持つ。沖縄では見かけのよく似たオトギリソウ科フクギ Garcinia subelliptica とともに防風林として植えられる。観賞用にも栽培されるほか、材は硬く強いので家屋・舟・道具の材料に用いられる。小笠原諸島では「タマナ」の名称で親しまれ、材を用いてカノー(アウト・リガー・カヌー)を造った。種子からは油が採れ、食用にはならないが外用薬や化粧品原料に用いられ、灯火用にもされる。現在はバイオディーゼル燃料に適するとして注目されている(主にウィキの「テリハボク」に拠った)。安部新氏の「小笠原諸島における日本語の方言接触:方言形成と方言意識」(二〇〇六年南方新社刊)によれば、タマナは他に「メールトマナ」「ヒータマナ」とも呼ばれ、これは実は日本語ではなく、英語の“male”・“he”+ハワイ語“kamani”・古代ポリネシア語“tamanu”の合成語(孰れもテリハボクを指すものと思われる)であるらしい。実は敦の南洋日記には盛んにこの「タマナ」が出現する。とすれば、小笠原の地方名「タマナ」が占領下のパラオで通用していたとすれば、これは呼称の逆輸入であった、ということになる。面白い。
「アレカ ルーテセンス(シユロ科)」シュロ科とあるが、これは単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科ビンロウ
Areca catechu のことを指しているものと思われる。詳細はウィキの「ビンロウ」を。現在園芸植物として知られ、かつて誤ってアレカ属に入れていた和名アレカヤシ(ヤシ科 Dypsis 属アレカヤシ Dypsis lutescens)というのとは全く無縁な植物で、寧ろ、現在の小笠原では侵入植物として注意喚起されているものである。しかし、ここと後の敦の叙述を見ると、もうすでにアレカヤシは当時の小笠原に侵入してしまっていたとも読める。
「モクタチバナ」モクレン綱ビワモドキ亜綱サクラソウ目ヤブコウジ科モクタチバナ 
Ardisia sieboldii。本邦では小笠原・四国南部・九州・南西諸島に自生する常緑低木・小高木であるが大きなものは一〇メートルほどに成長する。花は白色かピンク色で集散状の花序に多数つく。春に開花し秋末に結実して赤熟又は黒熟する。果実は食用になる(以上は茂木紀夫氏のサイト「西表島の自然」の「西表島植物図鑑」の「モクタチバナ」のページに拠った。リンク先では変わった形の花の写真も見られる)。
「ジャバソテツ」これはジャワソテツで裸子植物門ソテツ綱ソテツ目ソテツ科ソテツ属ナンヨウソテツ
Cycas circinalis の謂いであるが、ソテツ Cycas revolute が本邦産の唯一の種という記載がウィキの「ソテツ」で断定している点で Cycas circinalis と同定することは留保したい。但し、以下のガジュマルのように植栽によるものとも考えられる。
「ガジマル」双子葉植物綱イラクサ目クワ科イチジク属ガジュマル
Ficus microcarpa。但し、小笠原のそれはまた小笠原諸島では植栽によるものと思われる。
「ビイデービイデ」底本では長音符ではなく、「―」ダッシュであるが、訂した。後に出て来る「ビイデビイデ」から訂した。マメ目マメ科マメ亜科デイゴ
Erythrina variegate の小笠原での地方名。和名をムニンデイゴとするものもあるが、別種としての和名とは思われない。小笠原諸島は昔、無人島(ぶにんしま)と呼ばれており、「ぶにん」「むにん」が小笠原の特異な動植物(必ずしも固有ではないものに対しても)に「ムニン」と冠した(実際に小笠原には多いらしい)ものとも思われる。
「ベンガルボダイジユ」双子葉植物綱イラクサ目クワ科イチジク属ベンガルボダイジュ
Ficus bengalensis。熱帯アジア原産の常緑高木。典型的な絞め殺し植物で他の樹木に巻きついて枯らしてしまう熱帯性イチジク類の一種。熱帯地方では三〇メートルにも達し、枝が広く横に張り出すことから緑陰樹として栽培される(以上はウィキの「ベンガルボダイジュ」に拠った)。]



●窓の外の今にも降り出しさうな空をボンヤリ眺めてゐると、何かしらチカチカチカと非常に細い蔭のやうなものが硝子の外をすばやくかすめて行く。雨かなと思つてよく見ようとするが、その蔭の正體は却つて見屆けがたく、室内の消え殘りの電燈の白い笠が、うつすら硝子窓に映つて、外の寒々とした棧橋と、ハシケと、倉庫との風景とダブツテ妙な感じであつた。(靈岸島發着所)



○鳥島をすぎる頃から風が變つたらしい。階段から吹上つてくる風が妙になまぬるくなつてきた。丸窓の外を褐色の大きな海鳥が藍靑の波をかすめ、彼の座席の丸窓をかすらんばかりに羽搏いて消えて行つた。何だらう? と、その鳥は再び丸窓からの可視圏に入り、氣負つて兩翼をはつてコを畫いた。翼の異常な長さと、その先端の曲り方が、彼の知つてゐる大陸出版の英文學叢書の商標を思出させた。さう、アルバートロスかな。さうだ。信天翁アルバトロスに違ひない。
[やぶちゃん注:以上の二パートは「彼」という三人称表現から小笠原旅行を素材とした小説の草稿のようである。前の方は一見嘱目を綴ったようも見えるが、「よく見ようとするが」という表現が小説的である(と私は思う)。
「英文學叢書の商標」アルバトロス叢書。正式名を“
The Albatross Modern Continental Library”という。資本はイギリス、編集はパリ、出版・配本はドイツ・ハンブルクに拠点を置くというインターナショナルな出版社で英米作家の小説のリプリントをヨーロッパ大陸内で広く販売することを目的に一九三二年に設立されたもの。先に注で挙げた“Tauchnitz Edition”(タウフニッツ叢書)と並ぶペーパー・バックの古株。『読み古し「紙表紙本」の倉庫的Blog』のこちらに詳しい解説とそのアホウドリのマークの入った叢書画像が見られる。]



●靑ケ島、只突兀として海上ニツキ出タ岩山、
 岩にブツカツテ煙ヲタテル波。
 周圍は斷崖の赤褐色の褶襞。
[やぶちゃん注:「突兀」は「とつこつ(とっこつ)」と読み、高く突き出ているさま、高く聳えるさま。
「褶襞」は「しうへき/しふへき(しゅうへき)」と読み、山襞(やまひだ)のこと。]



 三月廿五日。
 六時起床。はじめ薄曇、日の出見えず。
 八時頃より快晴。
 兄島弟島の兀々たる島影見ゆ。九時近く入港。水は猛然と綺麗なり。父島の山の中腹に椰子の、蓬髮の如きが數多船上より見ゆ。船のとばす飛沫に虹。ハシケニテ上陸。すぐに熱帶植物ヲ大通デウツテヰル。二匹ノ(仔)海龜が盥ノ中デ泳イデル。タコ〇〇、谷ワタリ。等。
[やぶちゃん注:「兀々」「こつこつ」「ごつごつ」と読み、一般に物事に専心するさまや絶えず努めるさまの謂いだが、ここではそこから、凝っと動かないさまの意。]



○小笠原支廳ノ門ノ所ニビイデビイデナル木アリ。桐ノ如クシテ、鮮紅ノ花ヲツク。警察ニハ椰子。支廳ノウラ。物産館。農業試驗所。の山を上つて行く。(アリゲエタア養殖)種々の熱帶植物、赤タコ殊ニ美事ナリ、アレカ・ルーテセンスモ良シ。ビンロー樹ハ竹の如く、節ヲ盛上ゲ、上ニ、靑キ實ノ群ヲ紐ニテブラサゲタル如シ。
  コレハ大王ヤシニヤ(?)
[やぶちゃん注:「。の山を上つて行く」の句点と平仮名表記はママ。絵は底本では「コレハ大王ヤシニヤ(?)」の同一行直上に縦に配されてある。
「小笠原支廳」ウィキの「小笠原諸島」の「年表」をみると、明治九(一八七六)年に小笠原島の日本統治を各国に通告して日本の領有が確定、小笠原諸島は内務省の管轄となり、同時に日本人三十七名が父島に定住して内務省出張所が設置され、明治十三(一八八〇)年には父島に東京府小笠原出張所が置かれている(この二年後の明治一五(一八八二)年には東京府出張所の行なう行政に協議権をもつ会議所も設置され、議員十五人を公選、この時、欧米系住民が全て日本に帰化している)。その後、明治一九(一八八六)年にこの小笠原出張所が小笠原島庁と改称(この後の大正九(一九二〇)年には陸軍築城部が父島支部設置し、これ以降、先の歌に出た砲台などの陸軍施設が建設されていった)、大正一五(一九二六)年の郡制の廃止と同時に小笠原島庁は東京府小笠原支庁に改称していることが分かる。
「アリゲエタア養殖」当時の小笠原農業試験場(現在の呼称は小笠原亜熱帯農業センター)ではワニ目正鰐亜目アリゲーター科アリゲーター亜科アリゲーター属
Alligator のワニの実験飼育をしていたものらしい。主に皮革利用目的のためかとも思われるが、識者の御教授を乞うものである。
「アレカ・ルーテセンスモ良シ。ビンロー樹ハ竹の如く、節ヲ盛上ゲ、上ニ、靑キ實ノ群ヲ紐ニテブラサゲタル如シ。」ここの記述を見ると、先に注したようにビンロウとアレカ・ルーテセンス(恐らくはアレカヤシ)を完全に区別していることが分かる。
「大王ヤシ」ヤシ目ヤシ科アレカ族ダイオウヤシ
Roystonea regia。高さ二〇メートルに及び、葉も大きく幹の直径も七〇センチメートル前後で勇壮。その雄姿はグーグル画像検索「Roystonea regiaで。]



暑クテタマラヌ。上衣ヲヌイデモマダ暑イ。空ノ靑サ、海遠ク光リ、ミニヨンノ歌ナド思出デラル。見上ゲルヤシノカゲ、ジャバ蘇鐡。ベンガル菩菩樹。モクタチバナ。[やぶちゃん字注:「菩菩樹」はママ。]
 熱帶樹の風の葉ノソヨギノ良サ。影ノウゴキノコマカサ。赤チヤケタ道ニ白イ珊瑚ノ屑ヲ敷ケリ。パパイヤノ匂。スグニモトレサウナリ。
 →要塞司令部へノ白イ道。測候所ノ奇麗ナタテモノ、防風林。小學校。修業式ノ歸リラシ。洋服。半ズボン、紋付。通信簿ヲ人ニカクシツヽ、見ナガラ行ク兒等。[やぶちゃん字注:行頭「→」はママ。]
 海岸ニ沿ヒ、奧村ノ歸化人部落。
(鯨會社ノトテモ堪ラヌ匂。ドウニモ臭イ。)
 ヲヂサン、タコノ實トツテヤラウカ。玉菜ノ木カラオリタ男ノ兒二人。
 ポロワイシャツ、半ズボン。頭髮モ半長。
「英語デキルカ?」
「ウン、ウチデハナス」
「名前ハ」
「エイ坊」(モウ一人ノ兒ハ、タキ子ニソツクリ)
「イクツダ」
(手デ八ツト示ス。)
「學校ハ」「モウスグ。コナイダ胸ヲシラベタヨ」
「山へ行カウヨ、ヲヂサン」
 モウ一人ノ、小學校ノ先生ラシイ(ゴムノ木ヲホシガツテル)男ト二人ヲ山へツレテ行ク。日ハアツイ。跣足ノ少年二人、ヒヨイヒヨイ巉岩ヲノボツテヰク。(コルシカハカクノ如キカ)ヤガテ海見エ、山ノ頂キ見ユルモ、タコノ實ヲトリエズシテカヘル。「向フノ山へ行カウヨ、豚ガヰルヨ。ヲヂサン豚知ツテルカイ」「シツテルサ」「豚殺シハ」「シラナイネ」。結局、山ヲ下リテバナヽ畑。豚アリ。谷渡ノハチヲウラントイフ。彼等トワカレテ、カヘル途中三ツ四ツノ和服ヲキタカアイヽ混血兄、姉二人ト共ニアリ。貝ヲカヘトイフ。側ナルタコノ實ヲトラス。一ツトツテ、アトハ手ガイタクテ(出刀ヲ用フレド)トレズ。サツキノ少年ノ一人、年上ノモノト三ツノタコノ實ヲ持チ來ル。(十錢デカフ)、幼兒ノ名ハ、ロバァト? ペンキヌリノ家。少女二人眼モ髮モ黑ケレド、混血兒ナルコト明カ。
 一度タコノ實ヲ船ニモチカヘル。再上陸。
 ヒトリ防風林ノ外側ノ草原ニマドロム。後、村端レノ墓場ノ所ニノボル。港ハ一望ノモト。クリスチャンノ墓モ多シ。一十字架ニタヾ、昭和十年九月三日生、十一年三月二十三日穀歿トアリ、二十三日トイヘバ一昨日ニアラズヤ。如何ナル兒ナリケント。枯レカヽリシ椰子樹ノ下ヲ、彽徊之ヲ久シウス、
 山ヲ下ル、中途ニ一老農夫ノインギンバタケヲ草切ルアリ。島ノクラシニクサヲ聞ク。八丈ノ男ナルヨシ、南洋ニ出カセギ、カヘリニコノ島ニヨリ、ツヒニ居ツイテ十四五年ニナルトイフ。八丈ノ寒サヲ考へレバカヘル氣ニナラヌ由。タヾシ小笠原ノ物價高ク交際ヒノカサムコトヲ大イニカコツ。(自ラノコトヲ島二十四五年ヲラレマス、トイフ。本ヲヨムヤウナ調子。バナヽヲバラ、バラ、トイフ。宛モコノ老農夫ノ頭上ニ今花瓣チリシバナヽノ  大蛇ノ口ノ如キガ黑ズミテアリ。バラノ感ジナキニシモアラズ)夕食后。玉ナト、ネムノ如キ木ノ密生セル竝木ヲトホリ峠マデ行キテ二見灣ノ向フ側ヲミル。椰子數珠、對岸ノカウカクタル荒山ヲ見下シテ立ツ。サビシゲナリ。農夫、水ヲカツギテ過ギル。[やぶちゃん字注:太字「バラ」は底本では傍点「ヽ」。]
「内地ノ人デスカ。……私ハ小笠原ノ人トイツテモイ、生レハ八丈ダガ、コノ島ニ來テ五十年ニナル。コソナ淋シイ岩バカリノ山ガアルデセウカ、」
 夜、ソバヲクツテヰルト、火事。(雨フリ出ス)素人ガケシタアト、消防ガキテ、又水ヲカケル、ワラヤネ消ル。人出。(小學校前ノ雜貨ヤ)。水ニヌレタ玉菜ノ葉。
 バナヽノ花ハ黑紅色ノビロウドノ如キ大輪(木蓮ノ如シ)ナリ。支廳ノ後庭ニ散リノコリテ、蕚ヲイダキタル一片ノビロウドノ如キ花、サンサンタル陽光ニチリ、午靜カナリ。
 小學校ノ垣ハ「タマナ」ノ竝木、
[やぶちゃん注:「ミニヨンノ歌」ゲーテの詩。以下に高橋健二訳で示す。

 ミニヨン
君や知る、レモン花咲く国
暗き葉かげに黄金こがねのオレンジの輝き
なごやかなる風、青空より吹き
てんにん花は静かに、月桂樹げっけいじゅは高くそびゆ。
君や知る、かしこ。
かなたへ、かなたへ!
君と共に行かまし、あわれ、わがいとしき人よ。

君や知る、かの家。柱ならびに屋根高く、
広間は輝き、居間はほの明かるく、
大理石像はわがおもてを見つむ、
かなしき子よ、いかなるつらきことのあるや、と。
君や知る、かしこ。
かなたへ、かなたへ!
君と共に行かまし、あわれ、わがたよりの君よ。

君や知る、かの山と雲のかけ橋を。
騾馬らばは霧の中に道を求め、
洞穴に住むや古竜の群れ。
岩は崩れ、滝水に洗わる。
君や知る、かしこ。
かなたへ、かなたへ
わが道は行く。あはれ、父上よ、共に行かまし!
          
Mignon, Kennst du das Land, ……

以上は、昭和二六(一九五一)年新潮文庫版「ゲーテ詩集」を底本とした。ゲーテの「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」でマイスターに対する可憐なミニヨンの心持ちを詠った有名な詩で、森鷗外訳の、

君知るや南の國
レモンの木は花咲き くらき林の中に
こがね色したる柑子は枝もたわわに實り
青き晴れたる空より しづやかに風吹き
ミルテの木はしづかに ラウレルの木は高く
雲にそびえて立てる國や 彼方へ
君とともに ゆかまし

でも古くから日本人にも知られた。
「要塞司令部」小笠原父島要塞。父島は日本海軍が日露戦争後に着目し、貯炭場・無線通信所などを設置、海軍からの強い要請で、大正九(一九二〇)年に陸軍築城部父島支部が設置されて測量・砲台設計に着手した。砲台工事は翌年から着工されたが、一九二二年二月のワシントン軍縮会議による太平洋防備制限条約により砲台工事は中止となっていた。しかし、昭和九(一九三四)年十二月に日本が防備制限条約から脱退するに伴って、砲台工事は再開、備砲工事に着手している。本旅行は昭和一一(一九三六)年の春であるから既に相応のものが完成していたものと思われる(ウィキの「父島要塞」を参照した)。「ファーザーのHP」の「小笠原要塞(父島、母島)」及びそこからリンクする詳細探訪ページによれば、父島の要塞は大神山・夜明山及び最高峰の中央山にそれぞれ存在したことが分かる。ここは心情的にはロケーションから中央山ととりたくはなる(ファーザー氏の当該地画像を含むページ)。
「歸化人部落」この小笠原の帰化人についてははウィキの「欧米系島民」に詳しい。この「欧米系島民」とは小笠原諸島に居住していたかつて外国籍(但し、ハワイ人やポリネシア人が含まれていて欧米系白人のみではない)を持っていて日本に帰化した(明治一五(一八八二)年に居住していた二十戸七十二人全員が帰化し日本人となっている)人々とその子孫を指す語である。小笠原への本格的入植は日本からではなく、一八三〇(文政一三)年のイタリア出身のイギリス人と称するマテオ・マザロを団長とするイギリス人二名・アメリカ人二名・デンマーク人一名の五名及びハワイ人男女二十五名(十五人とするものもある)がホノルルから出向、六月二十六日に父島に到着し、入植したのが最初とされ、マテオ・マザロからの報告を受けたサンドイッチ諸島イギリス領事代理は、入植地に原住民はいなかった、と同年の報告書に記しているとある(但し、十九世紀初頭に来島した者の航海日誌や探検報告書によれば小笠原諸島に自ら住みついた白人やカナカ人(色の黒い人)住人がいたことが記されており、一八二七(文政一〇)年には難破した捕鯨船の乗組員が数年居住した事実もウィキに記されてある)。小笠原は一八三〇年の『入植後も各国の捕鯨船が頻繁に寄港しており、物資や手紙のやりとりを託す連絡船として機能していた』が、文久元年十二月十七日(一八六一年十一月十六日)に江戸幕府が列国公使に小笠原の開拓を通告、一八六二年一月(文久元年十二月)には外国奉行水野忠徳の一行が咸臨丸で小笠原に派遣されている。明治九(一八七六)年に明治新政府は小笠原島を内務省所轄とし、日本の統治を各国に通告、それを受けて先に示した全欧米系島民の帰化が明治一五年になされた。『第二次世界大戦中、戦火が間近に迫っていることから小笠原諸島の全住民は、欧米系島民も含め本土へ疎開した』が、『戦後アメリカの統治下に置かれると、小笠原諸島は日本の施政権から切り離される。そして欧米系島民のみが帰島を許された。アメリカ統治時代は英語が公用語とされ、義務教育課程校のラドフォード提督初等学校で英語による教育を受けた』。昭和四三(一九六八)年六月二十六日の日本への『返還後は、戦前からの移住民に加え、新たに本土から移住してくる新島民とともに共存している。アメリカ統治下で英語教育を受けた世代は、日本語に馴染めず、アメリカ本国に移住したものもいる』。なお、『現在、欧米系島民の姓として代表的なものは、セイヴァリー→瀬掘・奥村(アメリカ系)、ワシントン→大平・木村・池田・松澤(アメリカ系)、ウェッブ→上部(アメリカ系)、ギリー→南(アメリカ系)、ゴンザレス→岸・小笠原(ポルトガル系)、ゲーラー→野沢などがあげられる』が、四~六世代目を『迎えた現在、大多数は日本人との混血となっており、外見上は日本人とほとんど変わらない人も少なくない。今でも小笠原の電話帳などでみられる、これらの姓は欧米系島民の入植者の子孫である』とある。『欧米系島民と呼ばれるものの、その出自は出版された航海日誌などで確認できるものとしては、アメリカ合衆国、ハワイ、イギリス、ドイツ、ポルトガル、デンマーク、フランス、ポリネシア原住民など多種多様』であるともある。ここに登場する少年や少女たち――存命ならば八十を越えておられようが――逢ってみたい気がする……]



  はかなしや 空に消え行く
  花火見し 宵のいくとき
  花模樣 君がゆかたに
  うちは風 涼しかりしか
 かの宵の君がまなざし、やはらかきそともれし君が吐息や
 一夏のたゞかりそめと、忘れ得ぬ我やしれ人



  別るゝと かねて知りせば
  なかなかに 逢はざらましを

  なにしかも 君がゆかた
  花模樣 忘れかねつる
  まなかひに 浮ぶよ。びつゝ もとな
  歩みつる 野遽の草花
  そをつみし 君が白き手
  一夏の たゞかりそめを
  かりそめの たゞ一夏を忘れ得ぬ
  得思はぬ われは痴人 吾よしれびと
[やぶちゃん注:「なかなか」の後半は底本では踊り字「〱」。この「はかなしや 空に消え行く」と「別るゝと かねて知りせば」という二篇(若しくは連続した一篇)の恋歌詩篇、私にはすこぶる興味深いものである。
 まず、これは仮想された恋愛詩では決してない――という確信である。
 これは「ゆかた」すがたの「うちわ」を持った「君」とある「夏」に「花火を見た」、その「一夏のたゞかりそめ」の燃え上がった恋、時が経った今以って「忘れ得ぬ」その思い出を詠っているのである。
 そして――その「君」とは結局「別」れなければならない運命にあるということが「かねて知」っていたならば、「逢は」なかったものを――私は何という「しれ」者であったことか――と激しく悔やむ、現にその一人の乙女に今も恋い焦がれている――その「一夏の」「たゞ」「かりそめの」恋を決して「忘れ得ぬ」敦のやるせない熱情にふるえる恋歌なのである。
 これらと全く同一のシチュエーションを詠んだ恋愛悲傷短歌群が翌昭和一二(一九三七)年の手帳の中にも出現する。既に私の「中島敦短歌拾遺」(私の「やぶちゃん版中島敦短歌全集」に全掲載)の採歌途中で「中島敦短歌拾遺(4) 昭和12(1937)年手帳歌稿草稿群より(4) 中島敦の謎めいた恋愛悲傷歌群」として評釈公開しているので、是非お読み戴きたい。
 しかもこれは、どう好意的に考えても現実の妻たかではない。
 彼女は敦の横浜高等女学校での教え子であった小宮山静という女性である。このことについては私のブログ記事「中島敦の禁断の恋の相手である女生徒を発見した」(後に私の「やぶちゃん版中島敦短歌全集」の掉尾注にも同内容で新たに掲載)で明らかにし得たので、お読み戴ければ幸いである。]



神奈川區岡野町八二 本貞
中區霞ケ丘二〇 藤森秀雄
西宮市大井手町一七 氷上英廣
鎌倉町淨明寺五四五 三好四郎
東京府武藏野町吉祥寺八三六(吉祥寺六五七) 竹内端三
麥田町四の一〇七
王子區豐島町一三三八
臺北市佐久間町三ノ九 下川履信
[やぶちゃん注:これを以ってこの「昭和十一年」の「手帳」は終わっている。
「竹内端三」(たけのうちたんぞう 明治二〇(一八八七)年~昭和二〇(一九四五)年)は数学者。東京出身。当時、東京帝国大学理学部数学科主任教授。彼は敦が校務上関わっただけ(東京帝大卒の数学教師を望んだ校長の仲介)の人物である。その斡旋依頼への竹内氏からの返信書簡が二通全集に載っている。
「下川履信」(しもかわりしん 明治二二(一八八九)年~?)この人物は恐らく旧制台北高等学校廃校時の校長であった人物と思われる。但し、このネット上で探し当てた生年が正しいとすると敦より二十歳も年上である。
 ……私はどうもこの宛先なしの住所二つが気になって仕方がない。どうも何か臭うのだ。我々がこんな書き方をするのは、親族などの相手が余程分かり切っていてフルネームを書く必要がないいざという備忘の時のためか、そうでなければ、いざという時に人に見られてもそれが誰の住所であるか分からないようにしておくためである。しかも、後者への防備にはそれらをなるべく無関係な、しかも知人や友人でない滅多に使うことがない(そうすれば自身の誤用やど忘れをも防備出来る)メンバーの住所の中に混入するに若くはない。少なくとも、その条件を前後の住所は満たしていると私は思う(前者ならばこんなところに投げ込まないし、そもそも大の親友である「氷上英廣」の名さえ、ちゃんと記されている)。因みに「麥田町四の一〇七」は現在の横浜市麦田町、「王子區豐島町」は東京都北区豊島である。
 そして――全集書簡によれば、先の注に示した敦の禁断の恋人小宮山静宛の現存する最も古い書簡は昭和十五年二月十一日附(旧全集書簡番号七二)であるが(そこでは『金曜(十六日)頃に、東京へ行くつもりですが、その時は葉書で知らせます。映畫でも(コンドルか何か。)見ませんか』とデートの誘いもしている。因みに「コンドル」とは原題“
Only Angels Have Wings”で一九三九年製作のハワード・ホークス監督の航空サスペンスの恋愛物アメリカ映画である。日本公開はまさにこの昭和十五年二月であった)、その小宮山静の住所は……

東京市王子區豐島町三ノ二一

とあるのである。これ、番地は異なるものの町名まで一致している。彼の他の手帳の住所録も管見したが同町名住所の異人は見つからなかった(尤も昭和十六の手帳末の膨大な住所録の中にはこの「東京市王子區豐島町三ノ二一」の住所と「小宮山靜」の名がはっきりと記されてある)。……私の憶測は果たして――邪推――と言い切れますかね?……]


中島敦 昭和十一(一九三六)年 手帳 附やぶちゃん注 完