やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇
鬼火へ


やぶちゃん版中島敦短歌全集 附やぶちゃん注
                           ☞ 同縦書版へ
[やぶちゃん注:本文テクストの底本は筑摩書房昭和五七(一九八二)年増補版「中島敦全集」を使用した。まず、底本第二巻所収の「歌稿」の総てを電子化、その後にその他の手帳その他や日記・書簡に散見される短歌・和歌及び定型文語詩を「中島敦短歌拾遺」として附した。
 私の各注記では、底本との表示の異同、私が附したいと感じた語句解説及び他の中島敦関連資料の引用等を行った(但し、「朱塔」は字注のみ。近い将来、本格的な注を追加する予定である)。本文テクスト及び中島敦全集の他の資料からの引用英文部分のフォントはセンチュリーにしたが、注での人名・生物学名・音曲名等の英文はいちいちフォントを変えるのが作業上頗る煩瑣であるため、明朝のままにしてある。また、中島敦はしばしば英文に和文のルビを振っているが、私のHP製作ソフトでは英文へのルビ添加が出来ない(ようである)ため、英文の後にポイント落ちのルビが廻り込むという変則的な箇所が散見することとなった。何らかの改善策があるのかも知れないが、私はブラウザの美麗さのためにそこまでタグ記述法を学ぶ意欲を持たない。悪しからず。また、私のサイトの太字テクストを見慣れている方のために一言申し上げておくと、今回に限っては、本文に太字箇所が複数出現するため、全体は太字としなかった。また、縦書版では短歌を鑑賞し易くするために行幅を倍にしてある(結果として注釈を読むには読み難くなっているが、私の注などどうでもよいと言えば、よいのである)。
 なお、掉尾に本テクストを電子化するうちに明らかとなった、「■やぶちゃん掉尾注:中島敦の禁断の恋の相手である女生徒を発見した」を附してある。これはある意味、本テクスト作業の中での瓢箪から駒であったと感じている。その発見も含めて、このテクストは今年の私の電子テクストの中でも忘れ難い仕事となった。
 これらの短歌群の多くは昭和一一(一九三六)年から翌昭和一二年に創作されたものらしい。当時の敦は満二十七~二十八歳で、私立横浜高等女学校教員三~四年目、昭和一一年八月八日から三十一日までは中国各地を旅している(その間に歌稿「朱塔」を書き上げている)。昭和一二年一月十一日に長女正子が生まれるが、三日後の十三日に死亡している(手帳日記による。底本年譜では十三日出生とするが、従わない)。同年十一月から十二月にかけて「和歌五百首」を成したと底本年譜にある(但し、底本歌稿には「和歌五百首」という呼称のものはない。この歌稿のほぼ全体を含むものの謂いか? この問題を含め、底本解題等の語り口が重くはっきりしないのは、実はこれら歌稿や漢詩その他の原本資料が、何と第一次全集刊行以後、行方不明(?!)のままであることに起因しているようだ。今もこれら多量の中島敦詩歌自筆稿が何処か誰かの筐底に忘れられたままにしまい置かれているのである)。
 本頁は私のブログの510000アクセス突破記念として作成した。藪野直史【二〇一三年一〇月一四日】
 「南洋日記」から採り落していた拾遺一首を追加、注記を加えた。【二〇一四年一月四日】]



  
和歌うたでないうた

    遍歷
ある時はヘーゲルが如萬有をわが體系にべんともせし
ある時はアミエルが如つゝましく息をひそめて生きんと思ひし
ある時は若きジイドと諸共に生命に充ちて野をさまよひぬ
ある時はヘルデルリンとはね竝ベギリシャの空を天翔りけり
ある時はフィリップのごとさき町にちひさき人々ひとを愛せむと思ふ
ある時はラムボーと共にアラビヤの熱き砂漠に果てなむ心
ある時はゴッホならねど人の耳を喰ひてちぎりて狂はんとせし
ある時は淵明えんめいが如疑はずかの天命を信ぜんとせし
ある時は觀念イデアの中に永遠を見んと願ひぬプラトンのごと
ある時はノヷーリスのごと石に花に奇しき祕文を讀まむとぞせし
ある時は人を厭ふと石の上にもだもあらまし達磨の如く
ある時は李白の如く醉ひ醉ひて歌ひて世をは終らむと思ふ
ある時は王維をまねびじやくとして幽篁のうちにひとりあらなむ
ある時はスウィフトと共にこの地球ほし
Yahooヤフー共をば憎みさげすむ
ある時はヴェルレエヌの如雨の夜の巷に飮みて涙せりけり
ある時は阮籍げんせきがごと白眼に人を睨みて琴を彈ぜむ
ある時はフロイドに行きもろ人のあやしき心理こころさぐらむとする
ある時はゴーガンの如逞ましき野生なまいのちヽヽヽに觸ればやと思ふ
ある時はバイロンが如人の世のおきて踏躪り呵々と笑はむ
ある時はワイルドが如深き淵に墮ちて嘆きて懺悔せむ心
ある時はヴィヨンの如くあやめ盜み寂しく立ちて風に吹かれなむ
ある時はボードレエルがダンディズム昂然として道行く心
ある時はアナクレオンとピロンのみ語るに足ると思ひたりけり
ある時はパスカルの如心いため弱き蘆をばめ憐れみき
ある時はカザノヷのごとをみな子の肌をさびしくめ行く心
ある時は老子のごとくこれの世の玄のまた玄空しと見つる
ある時はゲエテ仰ぎて吐息しぬ亭々としてあまりに高し
ある時は夕べの鳥と飛び行きて雲のほたてに消えなむ心
ある時はストアの如くわが意志を鍛へんとこそ奮ひ立ちしか
ある時は其角の如く夜の街に小傾城などなぶらん心
ある時は人麿のごと玉藻なすよりにし妹をめぐしと思ふ
ある時はバッハの如く安らけくたゞ藝術に向はむ心
ある時はティチアンのごと百年ももとせの豐けきいのちヽヽヽ生きなむ心
ある時はクライストの如われとわが生命を燃して果てなむ心
ある時は・耳・心みな閉ぢて冬蛇ふゆへびのごと眠らむ心
ある時はバルザックの如コーヒーを飮みて猛然と書きたき心
ある時は巣父の如く俗説を聞きてし耳を洗はむ心
ある時は西行がごと家をすて道を求めてさすらはむ心
ある時は年老い耳もひにけるべートーベンを聞きて泣きけり
ある時は心咎めつゝ我の中のイエスを逐ひぬピラトの如く
ある時はアウグスティンが灼熱の意慾にふれて燒かれむとしき
ある時はパオロにりし神の聲我にもがもとひたに祈りき
ある時は安逸の中ゆ仰ぎ見るカントの「善」のいつくしかりし
ある時は整然として澄みとほるスピノザに來てをみはりしか
ある時はヷレリイ流に使ひたる悟性の身をきずつけし
ある時はモツァルトのごと苦しみゆ明るき藝術ものを生まばやと思ふ
ある時は聰明と愛と諦觀をアナトオル・フランスに學ばんとせし
ある時はスティヴンソンが美しき夢に分け入り醉ひしれしこと
ある時はドオデェと共にプロヷンスの丘の日向ひなた微睡まどろみにけり
ある時は大雅堂を見て陶然と身も世も忘れ立ちつくしけり
ある時は山賊多きコルシカの山をメリメとへめぐる心地
ある時は繩目解かむともがきゐるプロメシュウスと我をあはれむ
ある時はツァラツストラと山に行き眼鋭まなこするどの鷲と遊びき
ある時はファウスト博士が教へける「行爲タートによらで汝は救はれじ」
遍歴へめぐりていづくにか行くわがたまぞはやも三十みそぢに近しといふを

[やぶちゃん注:「ヘルデルリン」詩人ヘルダーリン。
「フィリップ」フランスの小説家シャルル=ルイ・フィリップ(Charles-Louis Philippe 一八七四年~一九〇九年)。死後の一九一〇年に刊行された短編集 “Dans la petite ville” (「小さな町で」)はとみに知られる。
「アナクレオン」(Anacreon, Anakreon, 紀元前五七〇年頃の生れ)は大酒飲みと賛美歌や抒情歌曲の作詞者として知られるギリシャの詩人。
「ピロン」ピュロン(Pyrrho 紀元前三六〇年頃~紀元前二七〇年頃)は古代ギリシャの哲学者。懐疑論や不可知論の濫觴とされる。
「ある時はティチアンのごと百年の豐けきいのち生きなむ心」「ティチアン」は「田園の合奏」や「ウルビーノのヴィーナス」で知られた、長命であったイタリア・ルネサンス期のヴェネツィア派を代表する画家ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(Tiziano Vecellio 一四八八年から一四九〇年頃~一五七六年)のことであろう。
「巣父」「さうほ(そうほ)」と読む。中国古代の伝説上の隠者で樹上に巣を作って住んだことから、かく名指す。「荘子」の「逍遥遊」や「史記」の「燕世家」などにみえる、栄耀を忌み嫌う故事「許由巣父」やそれを画題とした絵で知られるが、中島敦はやや取り違えをしている。許由も同じく伝説的な高士であったが、この許由が聖帝堯から国を譲るとの申し出を受けた際に、「おぞましい話を聴いて耳が汚れた」と言い、自分の耳を水で洗った。それを見た巣父は「そのために川の水が汚れた」と言って牛に水を飲ませずに帰ったという。(……正確を期するなら、
 ある時は許由の如く俗説を聞きてし耳を洗はむ心
 ある時は巣父の如く穢れてし耳洗ふを見牛返す心
とでもするか?……いや、失礼、中島先生……)
ひ」「ふ」は「癈ふ」の当て字。動詞「しふ」(ハ行上二段活用)は身体器官の感覚や機能を失う、の意。
「アウグスティン」アウレリウス・アウグスティヌス(Aurelius Augustinus 三五四年~四三〇年)は古代キリスト教の神学者で、古代キリスト教史に於ける最強の理論家として知られる聖人。日本ハリストス正教会では「福アウグスティン」と呼称する。この「燒かれむとしき」というのは恐らく彼の著作「神の国」の第二章から第十章で語られるところの、肉体は燃える火の中で永遠に存在出来るかという問題の考察を指しているように思われる。
「ある時はヷレリイ流に使ひたる悟性の鋭き刃身をきずつけし」の「刃」は底本では「刅」の右の点を除去した字体である。
「大雅堂」は「たいがだう(たいがどう)」で池大雅の雅号の一つ。
行爲タートによらで汝は救はれじ」「行爲タート」はドイツ語“Tat”。行為・行い・実行・行動の意。ゲーテの「ファウスト」の最も知られたこの“Tat”の出現する箇所は、メフィストーフェレス出現の直前のファウストの独白で、聖書の「初めに言葉ありき」を捩った第一部1240節に現われる、
“Im Anfang war die Tat!”
であろう。以下に諸家の訳を示す。
はじめわざありき。」(森林太郎訳)
「太初にわざありき。」(相良守峯訳)
太初はじめおこないありき。」(高橋義孝訳)
「初めに行為ありき」(池内紀訳)
私はドイツ語が出来ないので、この下句に完全一致する台詞が「ファウスト」にあるかどうかは分からない。識者の御教授を得られれば幸いである。]


    憐れみ讚ふるの歌
ぬばたまの宇宙の闇に一ところ明るきものあり人類の文化
玄々げんげんたる太沖たいちゆうの中に一ところあたたかきものありこの地球ほしの上に
[やぶちゃん注:「太沖」「荘子」内篇「応帝王篇」に「太沖莫勝たいちゅうばくしょう」という語があり、これは価値差別対立闘争の一切無い虚無の相をいう。]
おしなべて暗昧くらきが中に燦然と人類の叡智光るたふとし
この地球ほし人類ひとの文化の明るさよ背後そがひの闇に浮出て美し
たとふれば鑛脈くわうみやくにひそむ琅玕らうかんか愚昧の中に叡智光れる
[やぶちゃん注:「琅玕」暗緑色又は青碧色の半透明の硬玉、上質の琥珀のこと。]
幾萬年人れ繼ぎてきづきてしバベルの塔の崩れむ日はも
人間の夢も愛情なさけも亡びなむこの地球ほし運命さだめかなしと思ふ
學問や藝術たくみ叡智ちゑ戀愛情こひなさけこの美しきもの亡びむあはれ
いつか來む滅亡ほろび知れれば人間ひと生命いのちいや美しく生きむとするか
みづからの運命さだめ知りつゝなほ高くのぼらむとする人間ひとよ切なし
弱き蘆弱きがまゝに美しく伸びんとするを見れば切なしや
人類の滅亡ほろびの前に凝然と懼れはせねど哀しかりけり
しかすがになほ我はこの生を愛す喘息の夜の若しかりとも
[やぶちゃん注:「しかすがに」然すがに。副詞(副詞「しか」+サ変動詞「す」+接続助詞「がに」が元とされる)そうはいうものの。そうではあるが。]
あるがまゝ醜きがまゝに人生を愛せむと思ふほかみちなし
ありのまゝこの人生を愛し行かむこの心よしと頷きにけり
我は知るゲエテ・プラトンしき世に美しき生命いのち生きにけらずや
きつとして霜柱踏みて思ふこと電光影裡でんくわうえいり如何に生きむぞ


    石とならまほしき夜の歌 八首
石となれ石は怖れも苦しみもいかりもなけむはや石となれ
我はもや石とならむず石となりて冷たき海を沈み行かばや
氷雨降り狐火燃えむ冬の夜にわれ石となる黑き小石に
眼瞑めとづれば氷の上を凪が吹く我ほ石となりてまろびて行くを
腐れたるうをまなこヽヽヽは光なし石となる日を待ちて我がゐる
たまきはるいのち寂しく見つめけり冷たき星の上にわれはゐる
あなくらや冷たき風がゆるく吹く我は墮ち行くも隕石のごと
なめくぢか蛭のたぐひかぬばたまの夜の闇處くらどにうごめきわら

    また同じき夜によめる歌 二首
ひたぶるに凝師みつめてあれば卒然そつぜんとして距離の觀念くなりにけり
大小だいせう遠近ゑんきんもなくほうけたり未生みしやうわれや斯くてありけむ

    夢
何者か我に命じぬ割り切れぬ數を無限に割りつゞけよと
無限なる循環小數いでてきぬ割れども盡きず恐しきまで
無限なる空間をちて行きにけり割り切れぬ數の呪を負ひて
我が聾に驚き覺めぬ冬の夜のネルの寢衣ねまきに汗のつめたさ
無限てふことのかしこさ夢さめてなほしまらくを心慄へゐる
この夢は幼き時ゆいくたびかうなされし夢恐しき夢
へば夢の中にてこの夢を馴染なじみの夢と知れりし如し
ニイチェもかゝる夢見て思ひ得しかツァラツストラが永劫囘歸

むかしわれはねをもぎける蟋蟀こほろぎが夢に來りぬ人の言葉くちきゝて

何故なにゆゑか生理にされ叫べどもわめけど呼べど人は來らず
叫べども人は來らず暗闇くらやみに足のかたよりくさり行く夢

    夢さめて再び眠られぬ時よめる歌
何處どこやらに魚族奴等いろくづめらが涙する燻製くんせいにほふ夜半よはかわきて

    放歌
我が歌はつたなかれどもわれの歌ことびとならぬこのわれの歌
我が歌はをかしき歌ぞ人麿も憶良もまだ得まぬ歌ぞ
我が歌は短册に書く歌ならず街を往復きつゝメモに書く歌
わが歌は腹の醜物朝泄しこものあさまるとかはやの窓の下に詠む歌
わが歌は吾がとほおやサモスなるエピクロス師にたてまつる歌
[やぶちゃん注:「サモス」“Samos”サモス島。は、エーゲ海東部のトルコ沿岸にあるギリシャの島。ギリシャ神話の主神ゼウスの正妻ヘーラーの生まれた島とされ、彼女を祀った神殿遺跡が残り、エピクロスやピタゴラスの生地でもある(ウィキの「サモス島」に拠る)。]
わが歌は天子呼べども起きぬてふ長安の酒徒に示さむ歌ぞ
わが歌は冬の夕餐ゆふげのちにして林檎しつゝよみにける歌
わが歌はあした瓦斯ガスにモカとジャヷのコーヒーつゝよみにける歌
わが歌はアダリンきかずいねられぬ小夜更牀さよふけどこによみにける歌
わが歌は呼吸いき迫りきて起きいでしあけの光に書きにける歌
わが歌は麻痺剤強みヅキヅキと痛む頭に浮かびける歌
[やぶちゃん注:「ヅキヅキ」の後半は底本では踊り字「〱」。この「麻痺剤」とは喘息に処方された気管拡張剤と思われる。]
わが歌はわが胸の喘鳴ぜんめいをわれと聞きつゝよみにける歌

身體うつそみの弱きに甘えふやけゐるわれの心を蹴らむとぞ思ふ
あしとみな失ひて硝子箱に生きゐる人もありといはずや
[やぶちゃん注:これは当時の如何なる情報によるものか、ちょっと捜しあぐねている。識者の御教授を乞うものである。]
ゲエテてふをとこ思へばつらにくし口惜くやしけれどもたふとかりけり
ほそつよく太く艷あるの聲の如き心をもたむとぞ思ふ (シャリアーピンを聞きて)
[やぶちゃん注:筑摩書房版全集第三巻の年譜等によれば、中島敦は昭和一一(一九三六)年二月六日にシャリアピンの公演バス独唱会を聴いている(於・比谷公会堂。来日期間は同年一月二十七日から五月十三日)。調べて見たところ驚くべきことに彼は事前に演目を決めず、その日の自分の雰囲気で歌う曲を決めたそうであるが、幸いなことに、同第三巻所収の中島敦の「手帳」の「昭和十一年」の当日の記載に詳細な演目を残し於いて呉れた。以下に示す。
   *
二月六日(木)
7.30 p.m./Chaliapin
 1. Minstrel (Areusky)/2. Trepak (Moussorgsky)/3. The Old Corporal/4. Midnight Review (Glinka)/5. Barber of Seville (Rossini)/1"An Old Song (Grieg)/2"When the King went forth to War.
 1. Don Juan (Mozart)/2. Persian Song (Rubinstein)/3. Elegie (Massenet)/4. Volga Boatman/5. Song of Flee (Moussorgsky)/1"Prophet (Rimsky-Korsakov)

   *
なお、もしかすると、これは非常に貴重な記録なのかも知れない。ネット上でこの来日時の演目記録を捜したが見当たらなかったからである。]
ゴッホの眼モツァルトの耳プラトンの心兼ねてむ人はあらぬか



  河馬

[やぶちゃん注:この「河馬」歌群は動物園での嘱目吟の連作であるが、横浜高等女学校の東京都恩賜上野動物園への社会見学の可能性を私は考えている(但し、昭和一二年以前の中島敦の手帳日記にはそうした事実は今のところ、発見出来ずにいる)。最初の注でも述べたが、底本の解題によればこれに限らず中島敦のこれらの歌稿の大半は、驚くべきことに昭和一二(一九三七)年十一月初旬から同十二月中旬にかけて一気になったもの、とある。因みにこの翌昭和十三年に、上野動物園では日本初のカバの繁殖に成功している。
 なお、本歌稿の嘱目時の情景を小説化したと思われる草稿が、底本全集第三巻の「ノート・斷片」の「ノート 第五」に見出せるので以下に引用しておく。取消線は抹消を示す。
   *
 動物園 象の前にも河馬の前にも、呆氣にとられたまゝ三十分以上立ちつくす、匆々に彼の手を引張つてにげ出した。チンパンジーの前でに立つて、ゲラゲラ笑ひ乍ら出す。チンパンジーは横になつたまゝ、横目で彼の方にぢつと視線を注いでゐる。如何にも賢者らしげな愼重な目付で、ゲラく笑つてゐる異樣な人間を見てゐる、この二つを並べて見てゐる中に何だか變な気がして來た。氣が付くと、檻の前の見物人はどうやら、肝心のチンパンジーよりも、それを見てゐる彼の方を眺めて笑つてゐるやうだ。彼と並んで立つてゐる私も衆人のワラヒの視線にさらされてゐたことは勿論である。
   *
標題の「動物園」の太字はママ。「ゲラゲラ」の後半は底本では踊り字「〱」。なお、解題によると、このノートには「註解東京見聞錄」(「註解」の字は右から左への横書きでポイント落ち)という表題が記されているものの、それらしきものはこの引用部分(底本指示標記で同ノートの『第二十一丁裏』相当部)に『一箇所書き込まれてゐるのみである』とある。]

    河馬の歌
うす紅くおほにひらける河馬の口にキャベツ落ち込み行方知らずも
ぽつかりと水に浮きゐる河馬の顏郷愁ノスタルヂアも知らぬげに見ゆ
この河馬にも機嫌不機嫌ありといへばをかしけれどもなにか笑へず
赤黑きタンクの如く竝びゐる河馬の牝牡めすをすわれは知らずも
水の上に耳と目とのみ覗きゐていぢらしと見つその小さきを

わが前におほき河馬の尻むくつけく泰然として動かざりけり
無禮なめげにも我がの前にひろごれる河馬のゐしきのあなむくむくし
ゐさらひのたゞ中にして三角の尻尾かはゆし油揚のごと
これやこのナイルの河のならはしか我に尻向け河馬はまりする
事終り小さき尻尾がパシヤパシヤと尻を叩きぬ動きこまかに
丘のごと盛上もりあがる尻をかつがつも支へて立てる足の短かさ
三角の尻尾の先端さきゆ濁る水のまだしたたりて河馬は動かず
[やぶちゃん注:「ゐしき」「居敷き」とも書き、①座。座る場所。座席。② しり(無論、ここは尻の意。次の句の「ゐさらひ(いさらい)」(「いざらい」とも)同じく尻の意。
「むくむくし」の後半の「むく」は底本では踊り字「〱」。
「パシヤパシヤ」の後半は底本では踊り字「〱」。
「かつがつ」の後半は底本では踊り字「〲」。「かつがつ」は「且つ且つ」で、少しずつ、ぼつぼつと、の意。]

    狸
春晝しゆんちうの靜けきままにしまらくは狸のつらの泣きをよみ
わらに驚き顏の狸はもショペンハウエルに似たりけらずや
瞞すなどたれがいひけむ隔されて身を嘆きなむ狸のつら

    黑豹
ぬばたまの黑豹の毛もつやつやと春陽はるびしみみに照りてゐにけり
思ひかね徘徊たもとほるらむぬば玉の黑豹いまだ獨りならし
[やぶちゃん注:「つやつや」の後半は底本では踊り字「〱」。「しみみに」は副詞「茂に」で茂り満ちて、いっぱいに、の意。
徘徊たもとほる」は、現代読みでは「たもとおる」で、「た」(語調整調や強意の接頭語)+ラ行四段活用・自動詞「もとほる」(「回る」「廻る」と表記し、巡る・回る・徘徊するの意)で、同じ場所を行ったり来たりして徘徊する、の意。「万葉集」以来の古語。
なお、今更ながらという感じの注であるが、不明な人のために記しておくと、中島敦はこの五年前の昭和七(一九三二)年三月に、たかと結婚している。当時はまだ東京帝国大学国文科三年で満二十二歳であった。翌八年三月に卒業(卒業論文「耽美派の研究」)、四月に同大学院入学(翌九年三月で中退)と同時に横浜高等女学校教諭となっている。翌八(一九三二)年四月には長男たけしが、この昭和一二(一九三七)年一月には長女正子が生まれている(但し、正子は出生から三日後に亡くなった)。]

    マントひゝ
      マント狒は身長三尺餘、毛は長くして白色。
      純白のマントをまとへるが如し。但し面部
      と臀部のみ鮮かなる紅色(桃色に近し)を
      呈す。
銀白の毛はゆたかなれどマントひゝ尻の赤禿包むすべなし
マント狒の尻の赤さに乙女子は見ぬふりヽヽをしてににけるかも

[やぶちゃん注:詞書は底本では下部まで一行が続き、「臀部……」以降が二行目。
「マント狒」哺乳綱獣亜綱霊長目直鼻猿亜目狭鼻下目オナガザル上科オナガザル科オナガザル亜科ヒヒ属マントヒヒ Papio hamadryas。イエメン・エチオピア・サウジアラビア・ジブチ・スーダン西部・ソマリアに分布(古代にはエジプトに棲息したが現在は絶滅)。体長は♂で七〇~八〇、♀で五〇~六〇センチメートル。尾長は四〇~四五センチメートル。体重は♂で二〇、♀で一〇キログラム。メスよりもオスの方が大型になり、顔や臀部には体毛がなく、ピンク色の皮膚が露出している。尻胼胝しりだこが発達する。尾の先端の体毛は房状に伸長。オスの体毛は灰色で、特に側頭部や肩の体毛が著しく伸び、これがマントのように見えることが和名の由来。メスや幼体の体毛は褐色である。草原や岩場に生息する。昼間は一頭のオスと数頭のメスや幼獣からなる小規模な群れで移動しながら摂餌し、夜になると百頭以上にもなる大規模な群れを形成して崖の上などで休む。威嚇やコミュニケーションとして口を大きく開け、犬歯を剥き出しにする行動をとる。食性は雑食で、昆虫類・小型爬虫類・木の葉・果実・種子等を食べる。古代エジプトに於いては神や神の使者として崇められ、神殿の壁やパピルスに記録されたり、聖獣として神殿で飼育され、ミイラも作られた。英名の一つである“Sacred baboon”の“Sacred”(神聖な)も、このことに由来すると思われる(以上はウィキの「マントヒヒ」に拠った)。]

    白熊
あふ向けに手足ひろげて白熊の浮かぶを見ればのどかなりけり
白熊の白きを見ればアムンゼンきてかへらぬむかし思ほゆ

[やぶちゃん注:動物園の白熊にアムンゼンを連想するところが、すこぶる附きのオリジナリティと、作者の強靭な思惟と心身を感じさせるではないか。]

    眠り獅子の歌
何時いつ見ても眠るよりほかにすべもなきライオンの身を憐れみにけり
らちもなきざまにあらずや百獸の王の日向に眠れる見れば
うとうとと眠れる獅子の足裏あなうらに觸れて見たしとふと思ひけり
海越えてエチオピアより來しといふこのライオンも眠りたりけり
うつゝなきの鼻先に尻を向けこれも眠れりめすのライオン
が國の皇帝みかどもすでに蒙塵もうぢんと知らでやもはら獅子眠りゐる
[やぶちゃん注:「うとうと」の後半は底本では踊り字「〱」。
「汝が國の皇帝もすでに蒙塵」本歌稿の成立は昭和一二(一九三七)年年末と推定されているが(底本解題)、前年の一九三六年、エチオピアはイタリアに侵攻され、当時の皇帝ハイレ・セラシエ一世(Haile Selassie I 一八九二年~一九七五年)はイギリスに亡命していた(一九四一年にイギリス軍に解放されて復帰)。]

    仔獅子
獅子の仔も犬の仔のごと母親にふざけかゝるところがされけり
肉もだ締らぬ仔獅子首かしげ相手ほしげに我が顏を見る
親獅子は眠りたりけり春のに屈託げなる仔獅子の顏や

    駱駝
生きものの負はでかなはぬ苦惱くるしみの象徴かもよ駱駝の瘤は
やさし目の駱駝は口に泡ためて首差しのべぬ柵の上より

    孔雀の歌
よく見れば孔雀のまなこ切れ上り猛鳥まうてうさうありありと見ゆ
印度なる葉廣はびろ菩提樹の蔭にしてひろげ誇らむこの孔雀とり羽尾はね
いと憎き矜恃ほこりなりけり孔雀はも餌を拾ふにも尾をいたはりつ
六宮りくきう粉黛ふんたいも色を失はむ孔雀一たび羽尾はねひろげなば
[やぶちゃん注:「ありあり」の後半は底本では踊り字「〱」。]

    縞馬
縞馬の縞鮮かにラグビイのユニフォームなど思ほゆるかも

    ペリカンの歌
ペリカンは水の淺處あさどに凝然と置物のごと立ちてゐるかも
ゆあみして櫛梳くしけづりけむペリカンの濡れたるはね桃色細毛ももいろほそげ
舶來の石鹸のも匂ひなむうす桃色のペリカンの羽毛はね
ペリカンのつぶら赤目を我見るにつひに動かず義眼いれめの如し
長嘴ながはしの下のたるみもしぼみたりふくらむものと我は待ちしに
[やぶちゃん注:最後の一首には「下の」の「下」の右に『*』が附せられ、一首の下部に『*黄なる』と記されている。しかし、これについて底本解題には注記がない。素直に読むならば歌稿自体にこのような中島敦自身の注記記号が附されていることを意味していると読める。即ち、中島敦はこの歌の別案として、

長嘴の黄なる弛みも凋みたりふくらむものと我は待ちしに

を案出していたということになる。]

    禿鷲
プロメトイスさいなみにけむ禿鷲も今日は寒げに肩を張りゐる
アンデスの巖根嶮いはねこゞしき山のの鋭どき目かもコンドルの目は
ジャングルに生ふる羊齒草えびかづらしだくさヽヽヽヽヽ間なくし豹はたちもとほるを
短か布留ふる神杉かんすぎカンガルー春きたれりと人招くがに
春の陽にが短か手を千早ぶるカンガルーは耳を搔かんとするか
去年こぞ見しと同じきすみに石龜は向ふむきたり埃を浴びて
[やぶちゃん注:「プロメトイス」プロメテウス。]

    山椒魚
山椒魚は山椒魚らしき顏をして水につかりゐるたゞ何となく

    鶴
あさりする丹頂の前にしまらくは目守まもりたりけり心すがしく
水淺く端然と立つ鶴瘦せて口紅くちべにほどのとさかヽヽヽあか

    火喰鳥
火くひ鳥火のみか石も木も砂も泥も食はんずつら構へかも
[やぶちゃん注:「火喰鳥」ダチョウ目ヒクイドリ科 Casuarius 属ヒクイドリ Casuarius casuarius 。和名は喉の赤い肉垂が火を食べているかのように見えたことから名づけられたと考えられる。インドネシア・ニューギニア・オーストラリア北東部の熱帯雨林に分布し、ヒクイドリ科の中では最大で、地球上では二番目に体重の重い鳥類であり、最大個体では体重八十五キログラム、全長一九〇センチメートルに達する。以下、参照したウィキの「ヒクイドリ」によれば、『やや前かがみになっていることから体高はエミューに及ばないが、体重は現生鳥類の中ではダチョウに次いで重い。アラビアダチョウ( Struthio camelus syriacus )およびニュージーランドのモアが絶滅して以降はアジア最大の鳥類である。頭に骨質の茶褐色のトサカがあり、藪の中で行動する際にヘルメットの役割を果たすもの、また暑い熱帯雨林で体を冷やす役割がある』と推測されており、『毛髪状の羽毛は黒く、堅くしっかりとしており、翼の羽毛に至っては羽軸しか残存しない。顔と喉は青く、喉から垂れ下がる二本の赤色の肉垂を有し、体色は極端な性的二型は示さないが、メスの方が大きく、長いトサカを持ち、肌の露出している部分は明るい色をしている。幼鳥は茶色の縦縞の模様をした羽毛を持つ』。『他のダチョウ目の鳥類と同様に、大柄な体躯に比して翼は小さく飛べないが、脚力が強く時速』約五〇キロ程度で走ることが可能。三本の指には大きくて丈夫な刃物のように鋭い一二センチメートル程の爪を有し、『大鱗に覆われた頑丈な脚をもつ。性質は用心深く臆病だが意外と気性が荒い一面がある。この刃物のような鉤爪は人や犬を殺す能力もある』とある。]

    ホロホロ鳥
ホロホロとホロホロ鳥が鳴くといふ霜降色の胸ふくらせて
[やぶちゃん注:「ホロホロ鳥」キジ目ホロホロチョウ科ホロホロチョウ Numida meleagris 。アフリカに棲息する。全長約五三センチメートル。胴体は黒い羽毛に覆われ(但し、家畜化されたホロホロチョウの羽色は白・茶色・灰色など様々)、白い斑点が入る。頭部には羽毛がなく、ケラチン質に覆われた骨質の突起がある。また咽頭部には赤や青の肉垂がある。雌雄はよく似ているが、肉垂と頭部の突起は雄の方が大きい。草原や開けた森林等に生息し、昼間は地表にいるが、抱卵中のメスを除き夜間は樹上で眠る。群れを形成して生活し、二〇〇〇羽以上もの大規模な群れが確認されたこともある。横一列になって採食を行ったり、雛を囲んんで天敵から遠ざけるような形態をとることもある。繁殖期になるとオスは縄張りを持ち、群れは離散する。危険を感じると警戒音をあげたり走って逃げるが、短距離であれば飛翔することも可能(一般には飛べない鳥とされる)。和名は鳴き声が「ホロ、ホロ」と聞こえることに由来する(以上はウィキの「ホロホロチョウ」に拠った)。]

    駝鳥
障碍ハードル容易やすく越ゆべし汝が脚の逞しくして長きを見れば
何處やらの骨董店こつとうてんみせさきで見たることあり此奴こやつの顏を
何故なにゆゑの長き首ぞも中ほどをギユウと摑めばギヤアと鳴くらむ

    大蛇
うねうねとくねりからめる錦蛇一匹ひとつにかあらむ二匹ふたつにかあらむ
[やぶちゃん注:「うねうね」の後半は底本では踊り字「〱」。]

    大靑蜥蜴とかげ
口あけば大靑蜥蜴舌ほそく閃々せんせんとして靑焰奔せいえんはし
[やぶちゃん注:「大靑蜥蜴」現在のトカゲ類のうち、どの種を指しているか不詳。当初は有鱗目トカゲ亜目イグアナ下目イグアナ科 Iguanidae の何れかの種を指すものかとも考えたが、ここが上野動物園であることが確実なら調べようもあるのだが。]

    再び山椒魚について
山椒魚は山椒魚としかなしみをもてるが如しよくよく見れば
[やぶちゃん注:「よくよく」の後半は底本では踊り字「〱」。]

    麒麟の歌
黑と黄の縞のネクタイ鮮やけき洒落者みやびをとこと見しは僻目ひがめ
春の夜のシャンゼリゼエをマダム連れムッシュ・ヂラフがそゞろ歩むも
社交界の噂なるらむ麒麟氏が妻をかへりみ何かいふらしき
山高ダービイも持たせまほしき男ぶり麒麟しづしづと歩みたりけり
泥濘ぬかるみけて道行く禮裝の紳士とやいはむ麒麟の歩み
隙もなき伊達男ダンディぶりやワイシャツの汚れもさぞや氣にかゝりなむ
[やぶちゃん注:「しづしづ」の後半は底本では踊り字「〱」。
山高ダービイ」“derby”米語。競馬のダービーと同単語。
「ダンディ」の促音化は前後から私が判断した。]

    ハイエナ(鬣狗)
死にし子の死亡屆を書かせける代書屋に似たりハイエナの顏は
[やぶちゃん注:本歌は、当歌稿群の出来た(昭和一二(一九三七)年十一月から十二月と推定される)年初の、長女正子の死の際の経験を背景とするものと思われる(一月十日出生、三日後に死去。本カテゴリ頭注参照)。]

    カンガルー
力無きばつたヽヽヽごとも春のに跳び跳びてをりカンガルー二つ
柵内さくうちすな乾きゐて春風しゆんぷうにカンガルー跳躍とびのさぶしも
[やぶちゃん注:一首目の「跳び跳び」の後半は底本では踊り字「〱」。]

    熊
立上りゐやする熊が月の輪の白きをでて芋を與へし
熊立てば咽喉の月の輪白たへの蝶ネクタイとわが見つるかも

    象の歌
年老いし灰色の象の前に立ちてものうきまゝに寂しくなりぬ
象の足に太き鎖見つ春の日に心重きはわれのみならず
心はれぬさまに煎餅を拾ひゐる象はジャングルを忘れかねつや
子供一人菓子も投げねば長き鼻をダラリブラリと象徘徊たもとほる
花曇る四月の晝を象の鼻ブラリブラリと搖れてゐたりけり
徘徊たもとほる象の細目ほそめさか諦觀あきらめの色ものうげに見ゆ
この象は老いてあるらし腹よごれ鼻も節立ふしだち牙は切られたり
象の顎に白く見ゆる毛こはげにて口には涎湛よだれたゝへたるらし
[やぶちゃん注:「徘徊たもとほる」既注。現代読みでは「たもとおる」で、「た」(語調整調や強意の接頭語)+ラ行四段活用・自動詞「もとほる」(「回る」「廻る」と表記し、巡る・回る・徘徊するの意)で、同じ場所を行ったり来たりして徘徊する、の意。「万葉集」以来の古語。]

    鰐魚わにの歌
さきつ年アフリカゆ來し鰐怒りを食はずして死ににけりとぞ
ゆゑもなく處移されて知らぬ人の與ふる食を拒みけむかも
飢ゑにし鰐の怒りを我思ふわれのいかりに似ずとはいはじ

    蝙蝠
小笠原の大蝙蝠は終日ひねもすを簑蟲のごとぶら下りたり
晝をさかさ蝙蝠よく見ればずるげなる目をあいてゐにけり
手の骨の細く不氣味けうとき蝙蝠はひねこび顏に何をたくらむ

    穴熊
うつし世をはかなむかあはれ穴熊はをりの奧にべそをかきゐる
穴熊の鼻の黑きに中學の文法の師を思ひいでつも
穴熊の鼻の黑きが氣になりぬ家に歸りていまだ忘れず

    雉
春の陽を豐かに浴びてさつ鳥雉子きぎしもはら砂浴びてゐる
家つ鳥かけの匂を思ひけり野つ鳥きじの小舍の前にして
[やぶちゃん注:「かけ」鶏の呼古名。鳴き声に由来する。]

    梟
何處いづこにかが古頭巾忘れ來し物足らぬなれの頭の
大きなるおどけまなこの中に見えぬとへば哀れなりけり

    猪
藁屑と泥にまみれてぼやきつゝゐのしゝの口うごめきあさる

    カメレオン
日に八度やたび色を變ふとふ熱帶の機會主義者オッポチュニストカメレオンぞこれ
蠅來ればさと繰出くりいだすカメレオンの舌の肉色瞬間に見つ
長く圓き肉色の舌ひらめくやカメレオンの口はたと閉ぢけり
カメレオンが木に縋りゐる細き尾のくるくると卷く卷きのおもしろ
カメレオンの胴の薄さや肋骨もみどりなす腹に浮きいでて見ゆ
[やぶちゃん注:第四首目の「くるくると」の後半は底本では踊り字「〱」。
最初の一首には「下の」の「下」の右に『*』が附せられ、一首の下部に『*靑き魔術師』と記されている。しかし、これについて底本解題には注記がない。素直に読むならば歌稿自体にこのような中島敦自身の注記記号が附されていることを意味していると読める。即ち、中島敦はこの歌の別案として、

日に八度やたび色を變ふとふ熱帶の靑き魔術師カメレオンぞこれ

を案出していたということになる。]

    鵜の歌
      豆州稻取海岸にて
山直ちに海に崩れ入る岩の上に飛沫浴びつゝ鵜は立ちてゐる
我が投げし石はとどかず崖下の氷雨ひさめしぶかふ荒磯の鵜に
たちまちに海黑み來ぬいはの上の鵜の聲風に吹消されつゝ
雨まじり吹く風強み岩の鵜はつばさ收めてこらへてをるも
[やぶちゃん注:昭和一二(一九三七)年の手帳日記の四月四日(日)の条に『夕方、熱海ニ行ク』とあり、翌日帰浜している。位置的にはややずれるが、東伊豆に行った記載は他には同年中にないので一応、掲げておく。]

    鸚鵡の歌
まどろみゐてふと眼をあけし赤羅あから鸚鵡我を見いでて意外氣おもはずげなり
緋衣ひごろも大嘴おほはし鸚鵡我を見てまたものうげに眼をとぢにけり
娼婦たはれめ衣裳きぬを纒へる哲學者鸚鵡眼をとぢもの思ひをる
いにしへの達磨大師に似たりけり緋衣曳きてものを思へば
眼をとぢて日にぬくもれる緋鸚鵡の頰の毛脱けていたいたしげなり
緋に燃ゆる胸毛にくちを挿入れて鸚鵡うつうつ眠りてゐるも
麻の實をついばむ鸚鵡かたへなる我を無視してひたみに
はしと嘴く動きつゝまつ黑の鸚鵡の舌はまるまりて見ゆ
麻の實の殼を猛烈にはじき飛ばす赤羅裳あからも鸚鵡ひたむきなるを
年老いし大赤鸚鵡はねさきの瑠璃色なるが伊達者めきたり

    小蝦の歌
      ――土肥海岸所見――
潮ひきし岩のくぼみの水溜り許多ここだ小蝦の影ひそみゐる
飴色にに透きとほる小蝦らの何か驚きにはかに乱る
幾多ここだくの小蝦隱れし砂煙やがて靜まり水澄みにけり
砂煙の砂の一粒一粒が音なく沈み蝦隱れけり
[やぶちゃん注:昭和一二(一九三七)年の手帳日記によれば、
八月二十九日(日)長濱ヘ行ク/美シキ日ナリ。中濱、諸節、籾山、山路、泳イデ居テ、水底ヲ見ル、自分ノ影ガ映ツテヰル、ダボハゼノ逃ゲテ行クノモ見エル、バス滿員、湘南デカヘル、
とあり、この「長濱」とは西伊豆の静岡県沼津市内浦長浜の可能性が高く、土肥に近い。これらの吟詠ともよく一致する。
諸多ここだ」「幾多ここだく」は「幾多ここだ」に同じ。上代語の副詞で程度や量について甚だしいさまをいう。ここはこんなにも沢山、の謂い。]

    黑鯛の歌
      ――土肥釣堀にて――
巖陰いはかげはさ靑に透り黑鯛の尾鰭白々とあやしくかへ
洞窟に光は入らず黑き水の湧くが如くに黑鯛るる
[やぶちゃん注:前のものと同じ吟詠と推定され、その場合、やはり八月二十九日の可能性が浮上する。]

    仔山羊の歌
      熱川あたがはの浜に
      一匹の仔山羊あり
      海に向ひてしきりに啼く
      その聲あはれなりければ
荒濱に仔山羊が一つ啼きてをりあはれ仔山羊は何をりする
大島も黑雲がくり隱れけり仔山羊は何を見らむとすらむ
曇り日の海に向ひて立ち啼ける仔山羊は未だ角みじかかり
潮風にみじかき髯を吹かせゐる仔山羊の眼ぬち哀しと思ふ
[やぶちゃん注:「河馬」歌群の掉尾。詞書は底本では六字下げで一行に続けて書くが、ブログでは何行にもなってしまうため、恣意的に行分けして示した。昭和十二年に熱川に行った記載は手帳日記にはない。「鵜の歌」の私の注の推定からは、やはり「四月四日(日)」の条に『夕方、熱海ニ行ク』が気になるが、翌日の帰浜であり、一泊二日で熱海から稲取・熱川まで足を延ばしたというのは当時の交通事情から考えると、やや無理があるか。
「ぬち」連語(格助詞「の」+名詞「内(うち)」の付いた「のうち」の音変化)で、~の内、の意。]



  
Miscellany

    理髮店とこやの歌
髭剃あたりつゝ夏場所の噂するらしもなかば睡りてわれは聞きゐる
閉ぢてゐるまぶたの裏に明るき影チラチラとして動くが如し
細目あけて薄刀の光見たりけり白き天井に陽炎の搖れ
うつうつとあたらせゐれば座敷より晝飯ひるの煮芋のにほひ洩れくる
大鏡の緣のプリズムの虹の色角度を變へて幾たびか見る
あめん棒明るき鏡シャボンの香五月はじめの髮床かみどこの晝
[やぶちゃん注:歌群名「Miscellany」は寄せ集めとか雜録の意。
「チラチラ」「うつうつ」の後半は底本では踊り字「〱」。
「あめん棒」理髪店の赤・白・青の捩じれたサインポールのこと。明治初期に導入され、有平あるへい棒と呼ばれた。「アルヘイ」とは安土桃山時代にポルトガルから伝来した糖蜜から作られる茶色の棒状の菓子アルフェロア“alféloa”に形状がよく似ていたことに由来すると言われ(「有平糖」も同語源。例えば「お菓子なみちのく 鶴岡のあろへ菓子(有平糖)」の有平糖の形状と色とで理解出来る)、後にこの「有平棒」が転じて「あめん棒」となったとも言われる。]

    チンドン屋の歌
氷雨降る師走の街にチンドン屋の口上聞けばうら寒しもよ
歳末の大賣出のチンドン屋氷雨に濡れてはなひりにけり
まだらなる白粉の下ゆけはしかる生活の顏をわが見つるかも
俠客と鳥追と竝び口上の聲もさむざむと街はしぐるゝ
[やぶちゃん注:「さむざむ」の後半は底本では踊り字「〱」。]
鳥追のばちもつ右手めて手甲てつかうの雨に濡れつゝ動きゐるあはれ
上州は國定村の親分のくちびる靑く慄へたりけり

    聘珍樓雅懷
冬の夜の聘珍と聞けば大丈夫ますらをと思へる我も心動きつ
國つ仇と懲し伐つとふ國なれどからの料理の憎からなくに
うましもの唐の料理はむらぎもの心のどかに食ふべかりけり
白く濃き唐黍たうきびスウプ湯氣立ちてあら旨げやなうす謄うく
白く漉き唐黍スウプするするとへば心もなごみけらずや
[やぶちゃん注:「するする」の後半は底本では踊り字「〱」。]
家鴨いへがもの若鳥の腿の肉ならむ舌にとけ行くやはらかさはも
大き盤に濛々として湯氣けむり立つ何のタン(スウプ)ぞもいざ味見あぢみせん
[やぶちゃん注:特異な表記法。音数律から湯は「タン」と読ませ、丸括弧本文ポイント表記の「スウプ」は視覚的解説である。]
肉白き蟹の卷揚まきあげかろくうましうましとわがしにけり
[やぶちゃん注:「うましうまし」の後半は底本では踊り字「〱」。]
かの國の大人たいじんのごとおほらけくすべきものぞ紅燒鯉魚ホンシヤウリギヨ
[やぶちゃん注:「紅燒鯉魚」広東料理の定番である鯉の葱と生姜の鯉丸一尾の醤油煮。言わば筒切りにしない鯉濃こいこくであるが、以下の歌でも分るように甘酢餡かけで食べる。]
甘く酸き匂に堪へで箸とりぬ今宵の鯉の大いなるかな
甘酸かけて食ひもて行けば大き鯉はやあらずけり未だかなくに
[やぶちゃん注:「饜」は満腹するの意。]
冬の夜の羊肉ひつじの匂ふとかげば北京のみやこ思ほゆるかも
いさゝかにいやしとはへどなかなかに棄てがたきものか酸豚の味も
みんなみの海に荒ぶる鱶の鰭に逢はで久しく年をへにけり
[やぶちゃん注:「聘珍樓」「へいちんろう」と読む。横浜中華街にある創業明治一七(一八八四)年の日本最古の中国料理屋号を持つ老舗広東料理店。一首目に関わって述べておくと、「聘」は迎えるところの、「珍」は尊ぶところの心の意であるが、別に「聘」には賢者を招いて用いるの意、「珍」には貴重・高貴の謂いがあることから「良き人・素晴らしき人の集まり来たる館」の謂いも含む(ウィキの「聘珍樓」を一部参考にした)。]

    夜と林檎の歌
冬の夜のひとりさびしみくれなゐの林檎さくりヽヽヽとわりにけるかも
新しきナイフ手にとりくれなゐの林檎さくりヽヽヽとわりにけるかも
しろたへの小皿の上にくれなゐの林檎さくりヽヽヽとわりにけるかも
[やぶちゃん注:この一首には、下に冒頭の右上に『*』が傍注され、下に『*雪白の』とある。これは本歌稿には、初句を、

雪白の小皿の上にくれなゐの林檎さくりヽヽヽとわりにけるかも

とする別稿が示されていることを意味する。]
さつくりヽヽヽヽと林檎をわりぬ汁とびぬ我がに入りぬあはれすがしさ
くれなゐの林檎をわれば眞白なりつゆチカチカと雲母きららの如く
[やぶちゃん注:「チカチカ」の後半は底本では踊り字「〱」。]
めづらしと林檎の種子たねを眺めけり今がはじめて見るにあらねど
つくづくと林檎の種子たねを眺めけり林檎の種子たねちひさかりけり
[やぶちゃん注:「つくづく」の後半は底本では踊り字「〲」。]

    眞珠の歌
天鵞絨の黑きしとね白珠しらたまはつぶらくに竝びしづもる
天鵞絨はひだを豐かにかげつくるふかぶかとして沈む白珠
[やぶちゃん注:「ふかぶか」の後半は底本では踊り字「〲」。]
天鵞絨のけばのことごと艷めきて白珠の色盛り上りくる
[やぶちゃん注:「ことごと」の後半は底本では踊り字「〲」。]
白鈍しろにびに光消ちつゝ阿古屋珠黑艷絹あこやだまくろつやぎぬの底にしづもる
白珠の光はうちにこもらふか蟲靑帶むしあをおびし乳霞色ちちがすみいろ
[やぶちゃん注:「蟲靑」「むしあを(むしあお)」という訓から考えると、かさね色目いろめの一名である「虫襖むしあを」のことか。表は青黒、裏は二藍ふたあいまたは薄色であるが、これ自体が玉虫の羽根のような暗い青みの緑色をも指す。古くは「あを」とは空や海の色を表す現在の青色系を指す場合と、草木などの緑色系の色を指す場合とがあり、この場合は真珠の色が孕む後者の雰囲気を指すのであろう。]
かぐろなす艷々絹つやつやぎぬに白珠の五百箇統いほつすばるは見れど飽かぬかも
[やぶちゃん注:「五百箇統」多くの玉を糸に貫いたものを指す上代語。「古事記」に於いて天照大神と建速須佐之男命すさのをの神産み比べのシーンで建速須佐之男命は天照大神が頭髪と腕に巻いていた八坂瓊之五百箇御統やさかにのいほつみすまるを貰い受けて噛み砕き、吹き出した息の霧から五柱の男神を生んでいる。ここは無論、ネックレスのこと。]

    眠られぬ夜の歌
      ――就寢後三時間以内に睡りにつく夜とてなければ、
      この歌は又「夜毎の歌」と稱するも妨げず
睡眠ねむりてふ大き寶を人みなは寶と知らずともしきろかも
[やぶちゃん注:「ろかも」上代語。間投助詞「ろ」+詠嘆の終助詞「かも」で、語調を調え感動の意を添える。]
まどろまむすべも知らねば眼をとぢて新聞將棋思ひいでむず
たまさかに木村八段負けよかしなど思ひつゝ盤面をゑがく
[やぶちゃん注:「木村八段」後の十四世名人(昭和二七(一九五二)年の引退と同時に襲位)で八段であった木村義雄(明治三八(一九〇五)年~昭和六一(一九八六)年)か。参照したウィキの「木村義雄」によれば、大正一五(一九二六)年に八段となり、昭和一三(一九三八)年の第一期名人戦に於いて名人となって以来、最強を誇り、「常勝将軍」と呼ばれ恐れられた、とある。底本解題を見る限り、本歌稿の成立時期は昭和一二(一九三七)年前後である。]
あら不思議何故飛車を打込みて八四ハチヨンの角を素破拔かぬぞ
何すとか金子八段飛車打たぬ手ぬるしと思ふよ素人しろうとわれは
[やぶちゃん注:金子金五郎(明治三五(一九〇二)年~平成二(一九九〇)年)か。参照したウィキの「金子金五郎」によれば、『日本将棋連盟の前身である将棋大成会の幹事長を務め、木村義雄名人を補佐して将棋界の発展に尽くした。また、雑誌「将棋世界」の初代編集長でもある』。『「序盤の金子」と称された理論派で、引退後は観戦記者として大山・升田の名勝負の魅力をファンに伝えた。「定跡とは、歴史です」という名言がある』とある。昭和七(一九三二)年に八段、昭和二五(一九五〇)年に引退し、昭和四八(一九七三)年に九段となっている。]
新聞の將棋終ればラテン語のディクレンションか未だいね難し
[やぶちゃん注:「ディクレンション」“Declension”とは、語形変化の内で名詞などが性・数・格といった文法カテゴリーに対応して変化するものをいう。ラテン語では多く見られ、ラテン語学習では悩まされる部分である。参照したウィキの「ディクレンション」によれば、『語学などでは格変化と訳されることが多いが、格による変化だけをいうのではない。また古典語の文法では曲用という訳語がよく使われる。これは動詞の語形変化である活用と対をなす訳語である』とある。]
マギステル・マギーストルム・マギスーリィぬば玉の夜はけにけらしも
[やぶちゃん注:「マギステル・マギーストルム・マギスーリィ」ラテン語主格単数“Magister”(呼格単数も同じ)のディクレンションの“magisterōrum”(属格複数。“magisterum”なら対格単数)“magisterī”(主格複数・属格単数・呼格複数)で、マスター、親方・主人・校・教師の意。ここは自分の職業である教師の謂いであろう。]
アントニオがクレオパトラを口説きけむラテンことばヽヽヽの煩はしもよ
ラテン語はよくも得せねば佛蘭西のエーメ動詞を變化させてむ
[やぶちゃん注:「エーメ動詞」フランス語の動詞「愛する」“aimer”(エーメ)をディクレンションしても不定形も“aimer”(エーメ)、過去分詞も“aim(e)”(エーメ)である。]
しきやし巴里の乙女がいふならむジュ・ヴー・ゼエームこそ聞かまほしけれ
[やぶちゃん注:「ジュ・ヴー・ゼエーム」“je vous aime”。「私はあなたを愛してる」。]
アンパルフェ容易たやすからねば朦朧とやゝに眠しも今はみなむ
[やぶちゃん注:「アンパルフェ」“Imparfait”。フランス語の過去時制の一つである半過去。「その時〜していた」「その時には〜だった」といった過去において継続された動作・状況・習慣を表わす。以上の十一首は喘息発作のために眠られぬ夜の堪え難い苦悶を敢えて戯画的に詠ったものである。]

    菠薐草スピネツヂの歌
早口のポパイが泣き濁聲だみごゑを土曜の午後に聞けば樂しき
老水夫ポパイが踊るシュトラウスのワルツ阿修羅の如くなりけり
ジャングルにポパイが象の鼻をつかみ麻幹をがらの如く振り𢌞しけり
打ちのめされてやをら取出す菠薐草スピネツヂ俄然ポパイは力ち滿つ
スクリィンの漫畫消えつゝ響くなる‘
I am Popye, the sailor-man.アイ・アム・ポパイ・ザ・セイラア・マン
[やぶちゃん注: ウィキの「ポパイ」によれば、ポパイは一九二九年にアメリカの漫画作家エルジー・クリスラー・シーガー(Elzie Crisler Segar)により、「シンブル・シアター(Thimble Theatre)」というコミック作品の中で生み出されたキャラクターで、初めは主人公のハム・グレイヴィ(Ham Gravy)とその恋人オリーブ・オイル(Olive Oyl)・オリーブの兄カスター・オイル(Castor Oyl)が中心の漫画で、オリーブ達よりも十年遅れて登場したポパイは当初脇役であったが、何をやっても不死身な所から一躍人気キャラクターとなり、ハムの主役の座とその恋人オリーブを瞬く間に奪い去ってしまった。一九三〇年代に入ると、同作の短編アニメ(カートゥーン)映画がフライシャー・スタジオによって次々と制作されるようになった。今日知られるポパイはこのアニメ版といっても過言ではない、とある。本歌稿の成立時期は昭和一二(一九三七)年前後であり、中島が映画館でみたそれは、英語版ウィキの“Popeye the Sailor filmography (Fleischer Studios)”にリストされたどれかであると考えてよい。「シュトラウスのワルツ」「ジャングルにポパイが象の鼻をつか」むが同定のキー・ワードである。]

    赤と白と靑と黄の歌
      ――福島コレクション展觀――
[やぶちゃん注:「福島コレクション」美術評論家で収集家であった福島繁太郎(明治二八(一八九五)年~昭和三五(一九六〇)年)のコレクション。パリに長く定住し、ドラン・ルオー・ピカソ・マティス等の現代絵画の作家たちの優れた作品を蒐集、一時は百点以上に達したが、これを「福島コレクション」と称する。この大部分は日本にもたらされ、日本現代美術史上に大きな影響を与えたとされる(昭和三〇(一九五五)年四月の『みづゑ』臨時増刊「旧福島コレクション」には七十六点が掲載されている)。また彼はパリで評論家ワルドマー・ジョルジュを主幹とした高級美術雑誌『Formes』を昭和三(一九二八)年から数年発行し、新人を発見することに努めた。これは戦後の銀座での「フォルム画廊」の経営で、有望な新人を育成したことに繋がっている(以上は主に東京文化財研究所発行「日本美術年鑑」に拠った)。]
モディリアニの裸婦らふ赤々と寐そべりて六月の午後を狂ほしく迫る
[やぶちゃん注:これは恐らく旧福島コレクションのモディアーニの「髪をほどいた横たわる裸婦」(一九一七年作)である(リンク先は大阪市立近代美術館のギャラリー・ページ。画像有)。]
ユトリロの白をつくづく目守まもりけり病院横の建物の白
ユトリロの心に栖みし白き影人無き街のこの白き影
[やぶちゃん注:これらの作品は同定出来なかったが(私は所持しないが、「旧福島コレクション」(美術出版社一九五五年刊)で同定は可能)、小熊秀雄の「大観とユトリロ」の中に、『福島コレクションでみた展覽会で見たユトリロは、その作品の制作方法の精神的段階が、あまりに日本的であつたので、私は吃驚りしたことがある。しつとりとしたやり方なのである。日本の洋畫家が、投げつけるやうに油繪をぬつたくる方法とは、まるでちがつてゐた。』という評言があるのを見出したので附言しておく。]
ルヲーく靑き道化もキリストもある日の我に似たりと思ふ
[やぶちゃん注:「道化」の方は現在、ブリジストン美術館蔵の「道化」(一九二五年作)である。同美術館には同じルオーの「郊外のキリスト」(一九二〇~一九二四年作)が収蔵されているが、後者はこれか?(リンク先は同美術館公式サイト内のコレクション画像)。]
ふらんすヽヽヽの若き女が黄の縞の衣裳きぬの明るさマティス憎しも
[やぶちゃん注:特徴的な絵のようだが、ネットの画像検索では行き当たらない。本歌群総ての絵画作品について識者の御教授を乞うものである。]

    昔の人の夢の唄
遠空に富士も見ゆるぞ勘平が今おかる連れ道行のふり
[やぶちゃん注:「仮名手本忠臣蔵」四段目「判官切腹」の場と五段目「山崎街道」の場の間に挿入される所作事「道行旅路花聟みちゆきたびじのはなむこ」、通称「お軽勘平」。梗概はウィキの「道行旅路花聟」を参照されたい。]
格子戸の外に立ちたる頰かむり切られの與三が足の白さよ
[やぶちゃん注:世話物の名作「与話情浮名横櫛よわなさけうきなのよこぐし」、通称「切られ与三」「お富与三郎」「源氏店げんやだな」の知られたワン・シーン。梗概はウィキの「与話情浮名横櫛」を参照されたい。]
白魚のかゞり火霞む春の夜をお孃吉三の羽左が振袖
お待ちなせえ駕籠の中より吉右衞門はりまやの聲してお坊吉三いでくる
三人の吉三出合ひてだんまりや春の夜更を刻むの一昔
[やぶちゃん注:この三首は「三人吉三廓初買さんにんきちさくるわのはつがい」。梗概や舞台が日本芸術文化振興会製作になる「歌舞伎への誘い」の「三人吉三廓初買」で見られる。]
直次郎がかさかたむけて覗きゐる雪の入谷の三千歳の寮
千日を逢はぬ心地と三千歳が嘆くなりけり春の夜寒を
宗俊が黑子ほくろくろんぐろ燈にさえて北村大膳未だいで
[やぶちゃん注:この三首は「天衣紛上野初花くもにまごううえのはつはな」。「三千歳」は遊女の名で「みちとせ」と読む。三首目の「くろぐろ」の後半は底本では踊り字「〲」。梗概や写真が日本芸術文化振興会製作になる「歌舞伎への誘い」の「天衣紛上野初花」で見られる。]
格子縞の炬燵によりて思ひ入る鴈次郎のの切れの長さよ
その涙流れて小春汲まんずとあほれおさんが恨み口説くを
紀の國や小春樣まゐるさんヽヽよりとふみの上書讀めば哀しも
[やぶちゃん注:この三首は「心中天網島」。鴈次郎は鴈治郎の誤りか。本作(歌舞伎ではその中から見どころを再編した「河庄かわしょう」と「時雨炬燵しぐれのこたつ」が主に上演されるが、観るなら何より文楽がよい。ウィキの「心中天網島」に解説がある)の主人公紙屋治兵衛は初代中村鴈治郎(安政七(一八六〇)年~昭和一〇(一九三五)年)の当り役であった。]
吉原の春のともし入りにけり禿かむろはしれば鈴の音さやか
赤面あかづらの男之助が見得切りてあゝら不思議とり上りくる
飄々と浮かれ坊主が踊りゐるおどけ哀しくをかしかりけり
大川の遠書割とほかきわりに燈が入れば淸親ゑがくとふと思ひけり
[やぶちゃん注:四首とも「伽蘿先代萩めいぼくせんだいはぎ」であろうか(ウィキの「伽蘿先代萩」に梗概や歌舞伎の見せ場が解説されている)。「淸親」は浮世絵師小林清親きよちか(弘化四(一八四七)年~大正四(一九一五)年)。月岡芳年・豊原国周と共に明治浮世絵の三傑の一人に数えられ、「最後の浮世絵師」「明治の広重」と称された。浮世絵の歴史は清親の死によって終わったともいえる(ウィキの「小林清親」に拠った)。]

    クリスマス・トゥリイ(
X’mas-tree)の歌
クリスマス・ツリーに綿の雪のせつチビと笑へば雪飛びにけり
[やぶちゃん注:昭和八(一九三三)年四月二十八日生まれの長男たけし。本歌稿の成立時期は昭和一二(一九三七)年前後であるから、満三歳か四歳である。]
いざさらばチビはチビとし星を吊れ我はも張らむ銀のモールを
銀紙のハートを栗とチビのいふ心臟傷むねやぶ(ブロークン・ハート)れなばはじけ栗かも
[やぶちゃん注:「心臟傷むねやぶ(ブロークン・ハート)れなば」は底本では、「心臟傷」右に「むねやぶ」、左に「ブロークン・ハート」のルビが振られている。]
チビのみかこの木もいたく伸びにけりチビ背のびすれど未だ及ばず
チクチクと葉がさすならむ顏しかめチビひたすらに鐘吊るしゐる
[やぶちゃん注:「チクチク」の後半は底本では踊り字「〱」。]
金銀の紙の玩具おもちやを吊りにけり吊りて眺めて心りゐる
をさなかる心いまだにせずけり午後ごごを明るくわが感じゐる

    チビの歌
[やぶちゃん注:昭和八(一九三三)年四月二十八日生まれの長男たけし。本歌稿の成立時期は昭和一二(一九三七)年前後であるから、四歳前後である。]
明方をわがとこに來てもそくさヽヽヽヽとチビが這ひ込むくすぐつたさよ
わが父ゆわれの傳へし寢坊ねぼうなればチビも嗣ぎけむ今朝もだ起きず
我はパイプ チビはパチンコ日曜の朝をし行けば海見えきたる
冬の夜の風呂より出でて裸童子叫はだかどうじをらび跳ぬるよきもあへなくに
[やぶちゃん注:「をらび」正しくは「おらび」。「おらぶ」は「哭ぶ」で、悲しみのあまり泣き叫ぶ、どなるの意。この場合は、単に騒ぎ喚くの謂いであろう。]
家内いへぬちを裸童子がはね狂ふ大き林檎を丸嚙じりつゝ
昨日きぞの夜の寢小便しくじりをいへばれゐしがやがて猛然とうちかゝりくる
[やぶちゃん注:上手いルビである。]
子のうたふ軍歌宜しも我が兵は天に代りて釘を打つとよ
叱らでも濟みけるものを後向うしろむきてべそかきをらむチビ助よ許せ
何しかもは叱りけむ今にして親のエゴイズムをしみじみと思ふ
[やぶちゃん注:「しみじみ」の後半は底本では踊り字「〲」。]
オドオドと思ひ惑へるチビ見れば夫廚喧嘩はすまじきものか
[やぶちゃん注:「オドオド」の後半は底本では踊り字「〱」。]
教育の方針なんぞあらねどもヷルガァにだけはならざれと思ふ
[やぶちゃん注:「ヷルガァ」英語の“vulgar”か。これには悪い意味で、えげつない・下等な・下卑た・下劣な・世俗的な・粗野な・俗っぽい・低級な・低俗・卑しい・卑俗な・野卑なという意味がある。発音を敢えて示すと「ヴァルガァ」で近い。もとは同義のラテン語“vulgus”(賤民)→“vulgaris”(卑俗な)由来で、敦はラテン語も学んでいたからラテン語のつもりかも知れない。]
ガリヴァは如何になるらむと案じつゝチビは寢入りぬ仔熊をだきて
枕もとにちらばれるものラムネ玉「コドモノクニ」に赤き熊の仔
わが語るサンタ・クロスの物語信じ難げのチビが眼付や
クリスマス近づきにつゝしかすがにわが二十代逝かまく惜しも
[やぶちゃん注:「しかすがに」然すがに。副詞「しか」+動詞「」+助詞「がに」で、そうは言うものの、の意。万葉以来の上代語。底本では「近づき」の右にアスタリスクが附され、一首の下に『*チビは待ちつゝ』とあるから、この歌には、
クリスマスチビは待ちつゝしかすがにわが二十代逝かまく惜しも
という別案が示されているらしい。]
わが性質さが吾子あこに見出でて心暗し心暗けどいとしかりけり
新しき自動車を見て買へといふ玩具おもちやのでさへも買へぬこの父に
ストーヴの火も燃えいでぬいざ共に「ザムボーと虎」の話を讀まな
[やぶちゃん注:「ザムボーと虎」は昭和六(一九三七)年刊の『コドモノクニ』に載った「ザンボート虎」かと思われる。……私たちには私たちの遠き日の思い出の「ちびくろサンボ」が、必ず、虎のバターの絵と一緒にいる……。悲しい一斉絶版の経緯などはウィキの「ちびくろサンボ」を是非お読み戴きたい。]

    パイの歌
日曜の朝はのどかにパイ食はむかの肉厚きアップル・パイを
ふくろかにひろごる雲を見上げつゝあしたのパイを食へば樂しゑ
日曜のパイを大きみチビの顏クワンクワンだらけになりにけるかも
[やぶちゃん注:日曜の朝にアップル・パイを囲む幸せで長閑な家族の団欒……私はおよそアップル・パイなるものを少年期に食った記憶などない。実に中島敦の短歌群は、まっこと、今までの専ら「山月記」を中心とした小説群によって(少なくとも私の中に)形成されてしまっていた彼のネガティヴなイメージが音を立てて崩れてゆく。――いや、それは一種の驚愕とともに爽快感さえ伴うものなのである。
「クワンクワン」の後半は底本では踊り字「〱」。この「くわんくわん」は「道浦俊彦/とっておきの話」の『ことばの話1902「くわんくわん」』によれば、口の周りに食べ物がべっちゃりと着いていて、食べたのか食べてない(食わん)のか分からないくらいに汚れているという意味らしい(この「食わん」(食べていない)語源説は記載者の説と思しい)とあって、神奈川県高座郡の方言とする。同記事には他にも東京生まれ東京育ちと思われる方の、『主に小さい子供に対して言ったりするのですが、アイスなどを食べた後、口のまわりがべちゃべちゃな状態を「ほおら、お口のまわりが“くわんくわん”よ」なんて言いませんか?私はいつの頃からか何の違和感も無く使っていたのですが、先日、職場で意味の通じない人に遭遇し「へ?」と思い、まわりの席の人にリサーチしたところ半分くらいの人が知らないのです。焦って国語辞典をひいても載っていない。古語辞典にも無い。もしかしてこれは方言なのでしょうか?』という引用、関東地方の人物によるとする、『お坊さんが小僧さんに「ボタモチを食べてはイケナイよ」ときつく言って出掛けました。でも小僧さんはついつい食べてしまいました。「怒られたらどうしよう」と思った小僧さんは、お皿に残ったアンコを仏さまの口の周りになすりつけました。お坊さんが帰って来て「ボタモチを食べたな!」と怒ると、小僧さんは「私ではありません!仏さまがお食べになりました!ほら、口のまわりにアンコが!」と言い逃れました。お坊さんは「それは、いけない仏様だ!」と言って、手に持った杖で仏像の頭を叩きました。すると仏像が「食わん食わん」(擬音語)。これが転じて、口のまわりに食べ物を食べた証拠が歴然としている場合に、擬態語として「くわんくわんだよ」「くわんくわんになってる」などと使う。』という(ややまことしやかな)具体的出典説も示されている。さらに岡島昭浩氏のBBS「ことば会議室」の書き込みからの引用で、『両親が千葉・東京出身で、ご自身東京育ちの方からのメールで「口の周りを汚して食べると『お口、くわんくわんにしちゃ、だめよ』といわれた。しかし、辞書にはない」とのこと。「くわんくわん」は私自身は使いませんが、特にあんこなどを口の周りにつけているときに言うのではないでしょうか。(それは「く餡く餡」かもしれませんが。)「くわんくわん」の話、どこかで読んだか聞いたかしたと思うのですが、忘れてしまいました。くわしいことをご存じの方はいられませんか。』という質問に対する答えとして、Yeemar 氏が「朝日新聞」(二〇〇〇年十一月五日附日曜版五頁)の大森美紀子「気分は大家族」の記事に出てくる「くわんくわん」を紹介しつつ、『「くわんくわん」とは何か?とろろを食べる時、うまく食べられなくて口の周りにとろろが付いてかゆくなってしまう状態のことです。「くわんくわんにならないように気をつけなさい」とか、「あ~、くわんくわんになっちゃった~」とか。なぜか、とろろの時にしか使いません。』と。大森さんは東京のご出身のようです。その後の編集部の補足によれば、「納豆、あんこがついた時」「黄な粉、お汁粉などを食べた後」にも使うとの投書があった由。特に東京出身の方が多かったそうで、「東京の「方言」なのかも知れませんね」とまとめています(2000.11.12)。また、語源についても投書が寄せられ、〈小坊主が、仏像の口の周りに餡こをつけて、ぼたもちの盗み食いを逃れようとしたが、和尚が仏像をたたくと『くわーん、くわーん』と音がした〉という話からではないか、という説が「ほとんど」(2000.11.19)。私もそれを連想したのでした。民間語源?』と述べておられる由、記載がある。私も所持するあらゆる辞書を調べて見たが出て来なかったので、この記載にはまさに目から鱗であった(因みに、同BBS「ことば会議室」の元の当該記事はこちら)。――ブログでのこの公開(二〇一三年八月二〇日)直後に横浜在住の教え子から貰ったメール(改行部に/)――『懐かしいです……。僕は「くわんくわん」を遣います! 正確に言うと、昔、ごく普通に遣っていました。口の周りを食べ物(主に納豆やとろろなどのゲル状のもの)で汚したままにしているとき、「くわんくわんがついてるよ」などと言いました。/母が遣っていたはずです。父が実際に遣ったかどうかは憶えていませんが、間違いなく語彙として持っているはずです。母は横浜で生れて育った人間ですが、家は私の祖父母が若かった頃に博多から出てきました。ふたりとも同じ村の出身です。その関係で母の疎開先は博多の郊外でした。祖父母は博多方言を、話そうと思えば話せました。母も博多方言を聞き取れましたし、少し話せました。/父の家はもともと関西だったようですが、祖父母の代から完全に横浜の人間です。父は完全に横浜言葉です。/僕の両親はどういう経緯でこの語彙を持つに至ったか。おそらく幼い頃からの横浜暮らしが背景にあるのではないかと思いました。/中島敦に思いがけない贈り物を貰ったような気がします。妻は、両親が長野出身で、ごくたまに語彙とアクセントが僕と食い違います。以前、「くわんくわん」を子供に話しかけたら、横から「それって何?」と言われ、何か哀しい思いをしました。それ以来、僕はもう遣う機会がなくなっていたのです。中島敦に手を引いてもらって、昔の横浜に帰ったような気がしてとても嬉しく、思わずメールを書きました。』因みに彼からの追伸で、この「くわんくわん」は「くゎんくゎん」ではなく、あくまで「くわんくわん」である、と述べている。これは拗音ではないとする非常に大事な主張(使用実例)であるので(私はこの中島敦の一首を見ながら、またそれぞれの方の議論を管見する中で、それが一番気になっていたので特に追記しておきたい。]

ひたぶるに詠みけるものか四十日餘よそかまり五首の歌をわがつくれりし

拙なかるわが歌なれど我死なは友はまち元町まち)行き憶ひいでむか

わがいのちみじかしと思ひ街行けばものことごとに美しきかな

[やぶちゃん注:「ことごと」の後半は底本では踊り字「〲」。この時(底本年譜ではこの中島敦の歌群を「和歌五百首」と称しているが、それが成ったのは昭和一二(一九三七)年、中島敦満二十八歳の折りであった。彼の死は五年後の昭和一七(一九四二)年十二月四日のことであった)、中島敦には死の予兆とその諦観的思惟が既にしてあったことが窺われる。]

ほのぼのと人こひそめし心もちて初薄雪の朝を行かばや

[やぶちゃん注:「ほのぼの」の後半は底本では踊り字「〲」。]

人はしも我を得知らず知られむと我も願はず夜の町を行く

何故なにゆゑに我は我なりや」人知らず知らずして生くるをかしかりけり

裸木はだかぎ晝月ひるづきかゝりゐたりけりわれ三十になるといふ冬

[やぶちゃん注:「三十になるといふ冬」言わずもがなであるが数え年。]

あさりヽヽヽするバタヤのうたふ流行歌聞きつゝあればなにか明るし

我が歌はおならヽヽヽの如し腹内はらうちにたまりたまりてふと打出づる

[やぶちゃん注:「たまりたまり」の後半は底本では踊り字「〱」。]

敷島の大和の和歌うたは樂しけどわれのゐるべきところにあらじ

美しき白痴女といひてまし思想をもたぬ和歌うたの美しさ

デカルトの末裔われはなむとす三十一文字を戀しとは思へど

[やぶちゃん注:この最後の二首、私は不思議にひどく惹かれる。]

    伊豆の歌
      ――土肥村所見――
料理屋の裏戸ゆ見ゆる七輪のほのほ色なく夕暮れにけり
[やぶちゃん注:太字「ほのほ」は底本では「ヽ」。先の「河馬」歌群の中の「小蝦の歌――土肥海岸所見――」に注した、昭和一二(一九三七)年の手帳日記によれば、
八月二十九日(日)長濱ヘ行ク/美シキ日ナリ。中濱、諸節、籾山、山路、泳イデ居テ、水底ヲ見ル、自分ノ影ガ映ツテヰル、ダボハゼノ逃ゲテ行クノモ見エル、バス滿員、湘南デカヘル、
とあり、この「長濱」とは西伊豆の静岡県沼津市内浦長浜の可能性が高く、土肥に近い。これもその折りの吟詠であろう。即ち言わずもがなであるが、各歌群内では概ね時系列になっているようには思われるものの(「小笠原紀行」などは最も美しい時系列であろう)、これらの歌稿の歌群自体の順はあくまで部立編成で、巨視的に見ると歌群自体は編年時系列で配されたものではないことが分かる。]

       ――熱川より下田へ――
雨上あめあがり農家の庭の黑土に落ちたる木瓜ぼけの花の新しさ
掛茶庭の赤きたばこの廣告が風に搖れをり街道の晝
下田まで三里と聞きぬ斷崖きりぎしの赤きが下の海沿ひの道
だらだらに海にくだれる薄原すすきはらその果に光る夏蜜柑はも
[やぶちゃん注:太字「たばこ」は底本では「ヽ」。「だらだら」の後半は底本では踊り字「〱」。]

       ――熱川温泉にて――
みんなみの濱の温泉いでゆの裏藪にまろき柑子かうじをわが摘みにけり
靑く酸き匂の指に殘りけり湯あがりにして柑子を摘めば
黑土に夏蜜柑あまた落ちてをりえしにほひヽヽヽの甘さ堪へがたく

    尾瀨の歌
熊の棲む尾瀨をよろしと燵岳ひうちだけ尾瀨沼の上にかんさびせすも
しろじろと白根葵の咲く沼邊岩魚提いはなさげつゝわが歸りけり
[やぶちゃん注:「しろじろ」の後半は底本では踊り字「〲」。底本第三巻の年譜では昭和九(一九三四)年の『八月、同僚と尾瀬、奥日光に遊ぶ』とはある(因みにこの直後の翌九月には『喘息発作のため生命をあやぶまれる』と記されてある)――あるのだが、しかし――しかし私は――いろいろ調べる中で実はこれは――その前年に単独で行った尾瀬での嘱目吟なのだ――とほぼ確信するようになったのである。――それについては「中島敦短歌拾遺」の昭和八(一九三三)年の「手帳」にある、本歌群の草稿の注記を是非、参照されたい
「燧岳」燧ヶ嶽。福島県南西端にある火山。海抜二三五六メートル、南西中腹に尾瀬沼・尾瀬ヶ原が広がっている。
「神さびせすも」「万葉集」から見られる上代表現で、「神さび」は「かみさび」→「かむさび」→「かんさび」で神のように振る舞うこと、そのように神々しいことをいう名詞(「さび」はもと名詞につく接尾語「さぶ」で、そのものらしい様子でいるの意)。「せす」(サ変動詞「す」未然形+上代の尊敬の助動詞(四段型)「す」)で、なさる、の意。「も」は詠嘆の終助詞であろう。
「白根葵」キンポウゲ目キンポウゲ科シラネアオイ Glaucidium palmatum 。日本固有種の高山植物で一属一種。草高は二〇~三〇センチメートルで花期は五~七月、花弁はなく、七センチメートルほどの大きな淡い紫色をした非常に美しい姿の萼片を四枚有する。和名は日光白根山に多いこと、花がタチアオイ(アオイ目アオイ科ビロードアオイ属タチアオイ Althaea rosea )に似ることに由来する(以上はウィキの「シラネオアイ」を参照した)。「しろじろと」が不審であったが、「尾瀬ガイドネット」の「花ナビ」の「シラネアオイ(白根葵)」によれば、『花のサイズが大きくて綺麗で』、『白花から赤花、青花まで色の変化が見られる』とあるので問題ないようである(但し、『尾瀬に多いのは青紫色のシラネアオイ』ともある)。但し、この頁をよく読むと、『シラネアオイは高山に生息し湿原には生息しない』とあり、『綺麗で目立つので採取され移植されていることも』結構あり、『尾瀬の山小屋の前に植えられているのをよく見る』とあるから、中島敦が見たものは実は人為的に植生されたものかとも思われる。『尾瀬の山小屋によく植えられてい』て『綺麗だが、シラネアオイがワサワサ咲いていると、違和感を覚える』と現地ガイドが記すぐらいだから、この花は、狭義の尾瀬沼の本来のイメージには、実は属さない花であると言えるようだ。済みません、野暮を言いました、敦さん。]

      ――三平峠より尾瀨へ――
いつしかに會津境も過ぎにけり山毛欅ぶなの木の間ゆ尾瀨沼靑く
水芭蕉茂れる蔭ゆ褐色の小兎一つ覗きゐしかも
兎追ひ空しく疲れ草にしぬ山百合赤く咲けるが上に
[やぶちゃん注:「三平峠」「さんぺいたうげ(さんぺいとうげ)」は群馬県北東部、利根郡片品村北部にあり、沼田から会津に通じる沼田街道が越える峠で尾瀬峠ともいう。標高一七六二メートル。鳩待峠・富士見峠とともに群馬側からの尾瀬への三つの入口の一つ。眼下に尾瀬沼を見下ろし眺望がよい。
「山百合赤く咲ける」これは思うに単子葉植物綱ユリ亜綱ユリ目ユリ科ユリ属コオニユリ Lilium leichtlinii ではなかろうか。花季は七月から八月で、花弁はオレンジ色や濃褐色で暗紫色の斑点を生じる(濃褐色のタイプは遠望した際、「赤」と表現しておかしくない)。標準種のオニユリ Lilium lancifolium の同属近縁であるが、オニユリが通常の平野や低山性であるのに対し、コオニユリは山地の草原や湿原に生育する。オニユリによく似ているが、全体が一回り小さく、ムカゴを作らず、種子を作る点で異なる(ここまでウィキの「オニユリ」の記載を参考にした)。尾瀬にも植生する。]

        ――大淸水にて――
さらさらと山毛欅ぶなの大木は高原のあしたの風に裏葉かへすも
[やぶちゃん注:「さらさら」の後半は底本では踊り字「〱」。群馬県利根郡片品村戸倉にある尾瀬の群馬側登山口。標高一一八〇メートル。尾瀬探勝では鳩待峠から入り、最後にこの大清水へ下るルートがよく利用される(私も三十一の時一行ったが、その下りで飲んだ清水でA型肝炎に罹患して一ヶ月入院した)。]

    坊主水練のうたヽヽ
       ――元町プウル所見――
墨染のころも脱ぎすて靑坊主海水着を着たり筋骨隆々
墨染の僧衣ころもにあらぬ海水着坊主プウルに飛び込まんとす
クロールもいと鮮かに泳ぎ行く納所なつしよ坊主と人は知らじな
珠數とらむ手に水を切りクロールの飛沫しぶき猛しもこゝな荒法師
泳ぎ厭きまた僧衣ころも着て歸り行く歸れば經を讀まんとすらむ



  
霧・ワルツ・ぎんがみ
    ――秋冷羌笛賦――

[やぶちゃん注:「羌笛」「きやうてき(きょうてき)」と読む。簫の笛のルーツとされる古代中国西方異民族である西羌人の笛及びその音を指す。グーグル画像検索の「羌笛」で独特の形状が、こちらの YouTube 動画で実際の音色を聴くことが出来る。
 以下の序は底本では以下の一行二十四字で下インデントであるが、底本では二行目以降は頭が揃う(鍵括弧が半角。最後の行末の□はソフトの都合上、頭を揃えるために私が打ったもので底本にはない)。]


 鬼神をもあはれと思はすると、いにしへ人の言ひけ
む三十一文字と、な思ひ給ひそ。これはこれ、眼碧き
紅毛人が秋の宵の一ときをハヷナふかしつゝ卓の上に
もてあそぶてふトラムプの、「三十一サーチイワン」。首尾良く字數
が三十一に近づきましたらば、御手拍子、御喝采の程
をと、先づはいさゝか口上めきたれど。     □

[やぶちゃん注:「三十一」トランプ・ゲーム“thirty-one”。カードに点数が与えられ、合計が三十一に近い得点を取った者が勝つというもの。]

    (以下九首 踊り子の歌)
あしびきの山の井の店に踊り子が縞のショールを買ひにけるかも
[やぶちゃん注:単なる思い付きであるが、「山の井」はショール・スカーフを扱う横浜元町辺りの店の名ではあるまいか? ご存知の通り、スカーフ・ショール・ストールは横浜の地場産業で横浜スカーフと言えばかつては世界に通用したトップ・ブランドであった。]
踊り子は縞のショールを買ひてけりあはれ今年も秋ぞぬめる
夕さればルムバよくする踊り子の亞麻色の髮に秋の風吹く
シュトラウスのワルツをどれば踊り子の髮はさ搖れつゆたにたゆたに
眺めつゝ寂しきものか眉描きし霧の夜頃の踊り子の顏
手にとれば薄しつめたし柔かし生毛ほのけき踊り子の耳
亞爾然丁あるぜんちんのタンゴなるらしキャヷレエの窓より洩るゝこの小夜更さよふけに
浮かれ男に我はあらねど小夜ふけてブルウス聞けば心躍るも
挾み消しつ灰皿に置きさて立ちぬその金口に殘る口紅べにはも

    (以下五首 ひげ・いてふの歌)
我も見つ人にも告げむ元街の增德院の二本銀杏ふたもといてふ
ユウゴオが鬚にかも似る冬枯の增德院の二本銀杏
冬來れば二本銀杏鬚めきてそゝけ立ちぬと人に告げこそ
朝づく日今を射しと大銀杏黄金の砂を空に息吹くも
朝日子に黄に燃え烟る銀杏の葉背後そがひの海の靑は眼に沁む
[やぶちゃん注:「增德院」かつて元町一丁目現在の元町プラザの位置にあった真言宗準別格本山増徳院。現在、地図上では「増徳院元町薬師堂」とあるが、これは旧寺地に昭和四七(一九七二)年に再建された薬師堂である。増徳院は九世紀初頭大同年間の創立と伝えられる(記録は残っていない)古くから元町の中心としてあり、元町自身がこの寺の門前町的存在として発展した。震災後、昭和三(一九二八)年に南区平楽に移築再建され、第二次世界大戦の戦災を経て、その殆んどが平楽へ移ってしまった(ここまでは主に初がつお氏のブログ「竹輪の芯」の「増徳院、元町薬師」を参照させて戴いた)。この寺にはどこからでも見える二本の大銀杏があったが、震災で寺全体が壊滅的な被害を受けた際に、この銀杏も深刻なダメージを受けたと郷土史関連の本に書かれてあり(にしてもこれらの中島の歌は明らかに昭和八(一九三三)年(横浜高等女学校奉職の年。なお、彼が本格的に横浜市中区本郷町に一家を構えたのは昭和一一(一九三六)年三月初旬である)から同一二(一九三七)年の間で詠まれたもので、その時には未だ黄葉した葉を茂らせていたことが分かる)、現存もしないようであるから、恐らく中島が本歌を詠んだ後に立ち枯れたか、第二次世界大戦の空襲などによって焼失したものかと考えられる。この「鬚銀杏」(特にその消失)について識者の御教授を更に乞うものである。因みに現在我々が外人墓地として認識している場所は、元来はこの増徳院の境内墓地で、平成の初期までは増徳院による供養が実際に行われていた(ここはウィキの「横浜外国人墓地」による)。]

    (以下三十二首 街頭スケッチ)
冬近み露西亞菓子屋の窓邊なるベゴニアの花散るべくなりぬ
[やぶちゃん注:店を同定しようと思ったが、田舎者の私は横浜に暗く果たせない。識者の御教授を乞う。以下、同じ。]
日耳曼ぜるまんのレストラントに日耳鼻の客も來らず秋聞けにけり
[やぶちゃん注:「日耳曼ぜるまん」ゲルマンでドイツの旧漢訳語。]
山手なる教會の鐘なるなべに紅薔薇散りぬ秋深みかも
[やぶちゃん注:「山手なる教會」現在の横浜市中区山手町にあるカトリック山手教会。英語名“Sacred Heart Cathedral”(聖心大聖堂)。カトリック横浜司教区のカテドラル(大聖堂)で現在の山下町にあった横浜天主堂が移転して明治三九(一九〇六)年に現在地に創建された。大正一二(一九二三)年の関東大震災で倒壊後、ヤン・ヨセフ・スワガーの設計により昭和八(一九三三)年に再建されており、本歌稿の成立時期は昭和一二(一九三七)年前後であるから、再建から三~四年を経た頃である。「なべに」は「なへに」(接続助詞「なへ」+格助詞「に」)が推定で中古以降に濁音化したもの。~するにつれて、~とともに、~と同時に、の意。]
吾が心むすぼほれつゝ街行けば出船の銅鑼の聞えつもとな
[やぶちゃん注:「もとな」副詞で、訳もなく・やたら、若しくは、切に・非常に、の意。両意を含めてよい。]
異人の兄は菓子の銀紙棄て行きぬ秋のあしたの鋪道の上に
[やぶちゃん注:冒頭のロシア菓子とすれば、小麦粉を主原料とした生地で作ったロシアの焼き菓子プリャーニク(пряник)か。]
杖とめてうまごに何か聞くらしきスラブをうなの赤頭巾かな
[やぶちゃん注:「うまご」孫。「むまご」とも表記する。「スラブ」“Slav”はインド―ヨーロッパ語族の中の、スラブ語を使う民族の総称。原住地はカルパチア山脈の北方と推定され、民族大移動の際、東ヨーロッパ一帯に拡散した。東スラブ族(ロシア人・ウクライナ人・白ロシア人など)、西スラブ族(ポーランド人・チェコ人・スロバキア人など)、南スラブ族(セルビア人・クロアチア人・ブルガリア人など)に大別される。人口約二億五〇〇〇万人でヨーロッパ最大の民族(「大辞泉」に拠る)。]
母待つと鋪道に立てる混血兒あひのこぬち哀しも羚羊かもしかに似て
[やぶちゃん注:「ぬち」連語。格助詞「の」+名詞「うち」の付いた「のうち」の音変化。~の内。]
メリケンの水夫ジン飮み鼻歌に歌ひけらくは“
Shall we dance?
[やぶちゃん注:「Shall we dance?」は一九三七年のアメリカ映画「Shall We Dance」(監督マーク・サンドリッチ・主演フレッド・アステア。邦題は「踊らん哉」)のタイトル・ソング。アイラ&ジョージ・ガーシュウィン作曲。戦後の「大様と私」で知られた例の曲とは別物。こちらでアステアの超絶ステップとともに聴ける。]
灰色の午後の鋪道にひさかたの亞米利加びとは口笛吹くも
ヤンキーかはたジョン・ブルか揉上もみあげの長き男がタクシーを呼ぶ
[やぶちゃん注:「ヤンキー」“Yankee”は米国人の俗称。元来は米国南部で北部諸州の住民を軽蔑的に呼んだ語。「ジョン・ブル」“John Bull”は典型的な英国人を指す渾名。十八世紀の英国の作家アーバスノット作の寓話「ジョンブル物語」に由来(孰れも「大辞泉」に拠る)。]
秋風に白きスカーフ靡かせて口笛うそ吹き行くは何國いづくにの兄ぞ
空碧きシシリアびとにこそあらめジョヴィネッツァ歌ひ秋の街行く
[やぶちゃん注:「ジョヴィネッツァ」“Giovinezza”はムッソリーニ率いるイタリア・ファシスト党党歌「ジョヴィネッツァ」で「青春」「若人」といった意。歌詞は一九二四年に附いた。但し、原曲はジュゼッペ・ブラン作曲で一九〇九年に発表された「別れの歌」(Commiato)という学生歌で当初は政治的な意図はなかった(参照させて戴いた辻田真佐憲氏のサイト「西洋軍歌蒐集館」(「イタリア」→「ジョヴィネッツァ(青春)」)に音源と歌詞及び成立経緯などの詳しいデータが載る。必見のサイト!)]
秋の風いたくな吹きそ若き日の聖クララがうけ歩みする (若き尼僧は天主教の黑衣を纏へり)
[やぶちゃん注:「聖クララ」イタリアの聖人アッシジのキアラ(Santa Chiara d'Assisi 一一九四年~一二五三年)。ローマ・カトリック、聖公会、ルーテル教会で崇敬される。英語名のクレア(Clare)またはクララ(Clara)の名前でも知られる。聖フランチェスコに最初に帰依した者の一人でフランチェスコ会の女子修道会クララ会(キアラ会とも)の創始者。目や眼病の守護聖人で象徴とする聖体顕示台・聖体容器箱・ランプを持つ姿で描かれる。祝日は八月十一日。彼女の遺体は永遠に腐敗しないとされ、骨格は完全な状態に保存されてアッシジの教会内に公開されている(ウィキの「アッシジのキアラ」に拠る)。「うけ歩み」この語は、本来、古語で花魁などの道中の際の歩き方、上体を反らしてゆっくりと歩む、あの歩き方を指す語である。敦の確信犯的用法であろう。]
さにづらふ英吉利未通女をとめたまぼこの道角にしてテリア抱ける
[やぶちゃん注:「たまぼこの」「道」の枕詞。「たまぼこ」(古くは清音「たまほこ」)の原義は上代語で「美しい桙(鉾・矛)」の意であるが、「たまほこの」が「矛の」を連想させ、その「み」から「道」の意に転じて、「道」や「里」(道が続く先)の枕詞となった(角川新版「古語辞典」に拠る)。]
カラマゾフの作者に似たる病禿やみはげのエアデル・テリア尿するなる
[やぶちゃん注:「エアデル・テリア」エアデール・テリア(Airedale Terrier)。イギリスのヨークシャーにあるエア渓谷(エアデール)を発祥とするテリア種の犬。参照したウィキの「エアデール・テリア」によれば、『多くのテリアと同様に、エアデール・テリアには皮膚炎になりやすい傾向がある。アレルギーや栄養バランスの悪い食事、甲状腺の生産過剰や不足は、皮膚の健康状態に大きな影響を与える』とある。「尿」は「すばり」と訓じていよう。]
うれたしやしこの痩犬吠立つるわれものふと巷を行けば
赤髭の神父しはぶき過ぎ給ふ異國の秋は風寒からめ
日本語のたどたどしさも宜しけれ赤髯の神父黑パンを買ふ
[やぶちゃん注:「たどたどしさ」の繰り返しの「たど」は底本では踊り字「〱」。]
加特力カトリツクの我は信者にあらねどもかの赤髯をよろしと思ふ
あさもよし喜久屋のネオンともりけり山手は霧とけぶれるらしも
[やぶちゃん注:「喜久屋」元町に現在も営業する洋菓子店。大正十三(一九二四)年創業。初代店主は石橋豊吉(「横浜のれん会」の記載によれば、日本郵船ヨーロッパ航路伏見丸にベーカーとして乗り組んで何度も欧州をまわった人物とある)。公式サイトによれば、『ある日スイス婦人がレシピを持ち込んで、ヨーロッパ仕込みのケーキ職人だつた先代にケーキを焼いて欲しいと頼みました』。『婦人が大変満足する品が出来上がると、そのことが山手で評判になり、次々と各国のケーキレシピが集まってきて、喜久家はどこの店よりも早くヨーロッパのケーキを作ることが出来ました』。『居留地のたくさんの婦人達が教えてくれた洋菓子の味を大切に、喜久家は今日も素敵な味を皆さまにお届けします』とある。公式サイトはこちら。]
元街の燈ともし頃を人待つと秋の狹霧に乙女立濡る
夕されば海ぞらへるとまりする汽船ふねの汽笛のとよもし聞こゆ
[やぶちゃん注:「とよもす」「響もす」(他動詞サ行四活用)は「とよむ」(他動詞マ行下二段活用)に同じ。鳴り響かせる、の意。]
舶來のソオセエヂ屋の窓碍子今朝は曇りぬ冬きたるらし
帽赤き軍艦ビケの水兵が昨日出航きぞたちたりと君は聞きつや
[やぶちゃん注:「軍艦ビケ」不詳。「帽赤き」とあるからソ連の軍艦名か? 識者の御教授を乞う。]
混血兄あひのこが自轉車に乘りバナナ喰ふ聖ジョセフに行くにかあらむ
[やぶちゃん注:「聖ジョセフ」セント・ジョセフ・カレッジ(Saint Joseph College)。かつて神奈川県横浜市に存在したインターナショナル・スクール。明治三四(一九〇一)年にカトリック教会マリア会によって幼稚園から高校までを備えた英語教育主体のインターナショナル・スクールとして横浜市山手町に開校された。平成一二(二〇〇〇)年、経営悪化によって廃校となった(ウィキの「セント・ジョセフ・インターナショナル・カレッジ」に拠った)。]
このゆふべ時雨過ぎつゝ鋪道しきみちに初冬の燈のうつり宜しも
天霧あまぎらし時雨降りと元街のスレート屋根ははやも濡れつゝ
時雨しぐるゝに傘購かさもとめんと寄る店は明治六年店開きける (中坪洋傘店の看板に明治六年創業とあり)
[やぶちゃん注:現存しない(幾つかの記載に「中坪洋傘店跡」とある)。横浜市中区役所公式サイトの「第一五八回 ハイカラな街、元町」(同刊行物『歴史の散歩道』二〇一二年九月号掲載)の画像に傘の看板を出した同店が見える。]
朝毎にヴィヴィアンの店過ぎつれどマダム・ヴィヴィアン未だ見なくに
ヴィヴィアンの店の飾人形マヌカン冬立てはうそ寒しもよ衣裳ころも換へずて
飾人形マヌカンの鼻のわきへのうす埃何か寂しも曇り日の午後は
仄靑き陰翳飾人形かげマヌカンにさす如し雨近き午後の硝子透して
[やぶちゃん注:「ヴィヴィアン」洋品店らしいが不詳。この手の守備範囲外の探索は私の最も苦手とするところである。またしても最後に識者の御教授を乞うものである。]

    (以下三首 相合傘の歌)
猶太ユダヤびと太れる妻と敷島の大和の傘を借りてさすかも
番傘の相合傘は年老いし猶太ゆだや夫婦めをとルパシカ濡るゝ
[やぶちゃん注:「ルパシカ」(Рубашка)は元来はウクライナの農民の民族衣装。ゆったりしたブラウス風の上衣で腰をひもで締めて着る。立ち襟で左寄りに前きがあり、襟や袖口などをロシア風刺繡で飾る。ナチス・ドイツのユダヤ人迫害は知られるが、ロシア・ソヴィエトでもポグロムと称する古くからのユダヤ人迫害の歴史があった。この夫婦もかの地から逃避行をして来た者達ででもあったか。]
豚に似る妻と番傘さしたれど身は濡れにつゝあはれシャイロック

    (以下五首 印度益良雄の歌)
ぬばたまの夜の街角ゆ搖るぎ出づタァバン捲きし印度壯夫ますらを
黑き人何か口籠り指さしぬ果物みせの燈影明るきに
[やぶちゃん注:結句「燈影明るきに」は「ほかげしるきに」と読んでいるか。]
古里ふるさとのかぐはし山を憶ひけむ印度益良雄バナナ買ひけり
包裝かみつゝむひまをすべなみ黑漢子をのこをのこさびすと腕打ちふりつ
[やぶちゃん注:「をのこさびす」「さびす」の「さび」は名詞に附いてそのものらしい態度や状態であることを表わすバ行上二段型動詞を作る接尾語「さぶ」(~らしい様子だ・~らしくなる)の連用形(若しくはその名詞化したもの)にサ変「す」が附いたもので、偉丈夫を誇りかに示すように、の意。]
丈高く黑き漢子をのこはバナナ持ち街のはたてにににけるはや
[やぶちゃん注:「はたて」これは「果たて」で果て、限りの意。万葉以来の古語。]

    (以下四首 印度童女の歌)
阿媽あまつれて代官坂の朝を行く印度童女わらはめあな黑きかも
[やぶちゃん注:「阿媽」アマはポルトガル語の“ama”の漢訳語で、元来は東アジア在住の外国人家庭に雇われていた現地人のメイドを指す。ここでは日本人(若しくは中国人などの黄色系東洋人)の侍女であろう。]
赤き毬を黑き童女どうによかかへつゝ幼稚園へぞ行くといふなる
[やぶちゃん注:「毬」は「まり」。]
下げ髮に黄なるリボンの鮮けきキマトライ氏がおとむすめかも
[やぶちゃん注::「キマトライ氏」不詳。識者の御教授を乞う。
「鮮けき」は「あざらけき」と訓ずる。]
色黑きキマトライ氏が乙むすめ今しむづかり童泣わらべなきする

    (以下五首 於雨裸徂阜ウラゾフ
[やぶちゃん注:ロシア料理か、それとも前の短歌に詠まれたロシア菓子店と同一か。五首目「禹喇象麸の」の短歌の注も参照のこと。]
ハルピンのキタヤスカイにわがでしサモワァル見つこの店にしも
[やぶちゃん注:「ハルピンのキタヤスカイ」不詳。恐らくは昭和十一(一九三六)年八月八日から三十一日までの中国旅行の帰路のハルビンに立ち寄った際のことを言っていると思われるが、「キタヤスカイ」が分からない。地名のようにカタカナ書きであるが、これは何か旅館か店屋(遊廓?)などの屋号のようにも思われるし、またハルビン北方のロシア国境と接する地にかつて「北安省」があったからそれを「北安界」と表記したとも考え得る。識者の御教授を乞う。]
グレゴリイ七世に似る露西亞びと今日も茶を飮みパイプ磨きつ
あんだんてヽヽヽヽヽかんたびれヽヽヽヽヽなど聞かまほしロシア茶を飮みもの思ひつゝ
ピロシキは宜しきものかうつたへに吾が喰ひをれば夜ぞくだちける
[やぶちゃん注:「くだちける」の「くだつ」は日が傾き夕方に近づく、或いは夜半が過ぎて明け方へ向かうという意の「くだつ」(「くたつ」と清音でも読む)である。]
禹喇象麸の店に茶を飮む宵々を吾師エピクロス咎め給はじ
[やぶちゃん注:「禹喇象麸」は詞書とは違った漢字を恐らくは中島敦が勝手に店名の「ウラゾフ」というロシア語(恐らく人名“Власов”ウラソフ由来)に万葉仮名風に宛てたものであろう。]

    (以下十三首 於喜久屋)
[やぶちゃん注::「喜久屋」既注済み。元町に現在も営業する洋菓子店。]
椋欄竹の影に凭れて秋のあさのショコラを啜る佛蘭西びとあはれ
ひとすぢの朝の陽射ひざしにコオヒイの煙はゆれて白く冷えけり
陶器すゑものの白きつめたさ秋の朝のコオヒイの煙たゆたひをるも
朝の日のはつかに射しぬ陶器の卓の上なるコオヒイの碗に
我が飮みしコオヒイの碗に紅毛の海賊船が書かれたりけり
いにしへの黑き帆前の繪を見ればキャプテン・キッド思ほゆるかも
新しき砂糖の壺にわがいきのかゝりて曇る朝は寒しも
びいどろヽヽヽヽの瓶にしたるコスモスの莖いて見ゆ水に漬かりて
しきやし佛蘭西のらショコラ飮む蒙古族モンゴオルわれ獨りパイを
居留地のコンセルなどもが如かこの街にしてパイを食しけむ
Bonjour’‘Give me sugar’‘Ich danke’あなかしましや喜久屋の二階
あなやおぞ大和瞿麥なでしこ茶を飮むとロバァト・テエラァあげつらひをる
料理場ゆポーク・チャップの匂する待てばひもじもランチはや持て
[やぶちゃん注:「椋欄竹」ヤシ目ヤシ科カンノンチク属シュロチク Rhapis humilis 。中国南部から南西部原産。標準種カンノンチク(観音竹) Rhapis excels (高価な古典的園芸植物として多くの品種が作られている)ほどではないが多くの品種がある。葉はシュロに似(但し、棕櫚はヤシ科シュロ属 Trachycarpus )、耐陰性、耐寒性が強く、ディスプレイ用観葉植物として人気がある。
「コンセル」“consul”。領事。
「ロバァト・テエラァ」Robert Taylor(ロバート・テイラー 一九一一年~一九六九年)はアメリカの俳優。本歌稿の成立時期である昭和一二(一九三七)年前後は未だ映画デビュウ直後であったが、ウィキの「ロバート・テイラー」等によれば、一九三六年には早くもマネー・メイキング・スターの第四位にランクされ、その水際立った美男子ぶりからグレタ・ガルボ、ジョーン・クロフォード、バーバラ・スタンウィックなど当時第一線で活躍した女優たちからの希望で彼女たちの相手役をつとめた。中でも一九三七年に“This Is My Affair”(監督ウィリアム・A・サイター)で共演した(厳密には前年の“His Brother's Wife”(邦題「愛怨二重奏」。監督W・S・ヴァン・ダイク)で既に共演し、親密になっていた)スタンウィックとは、その後、恋に落ちて一九三九年に結婚している。この「大和瞿麥」連が「あげつら」っていたのも、案外、この二人のことででもあったのかもしれない。なお、ヴィヴィアン・リーと共演し、彼をハリウッドのドル箱スターにのし上げたメロドラマの名品「哀愁」(原題“Waterloo Bridge”監督マーヴィン・ルロイ)は、この後の一九四〇年の作品であり、しかも本邦での同作の公開は戦後の昭和二一(一九四六)年を待たねばならなかった。]

    ――若き日の歌――
マント着けパイプくはへて雪の夜にふらんそあ・・・・・ゔぃよん購・・・・もとめてしかな
斑雪はだれ降る元街の夜にわがするゔぃよん・・・・うたは哀しきろかも
[やぶちゃん注:「斑雪はだれ」はらはらと降る雪。「ろかも」は、間投助詞「ろ」+終助詞「かも」で(「ろ」は確実性を示す接尾語とする説もあり)。語調を整え感動の意を添える記紀歌謡にも出る上代の連語。]
Oú sont les nriges d’antan?去歳の雪今はいづこ”と誦し行けばわが衣手にはだれ雪降る
[やぶちゃん注:「去歳の雪今はいづこ」は底本では仏文の右に縦書きで附されたルビである。“Oú sont les nriges d’antan?”はフランソワ・ヴィヨン(François Villon)の詩、“Ballade des dames du temps jadis”(古えの美姫へのバラード)の中で、各連のコーダに、“Mais où sont les neiges d'antan!”とリフレインされるもの(原文テキストは仏語版ウィキの“Ballade des dames du temps jadis”で読める)。引用をしようと思ったが、持っているはずの詩集が見つからない。幸い、永嶋哲也氏のサイト「MUNDUS Vocalis Kawasujiensis」の「好事家の物置」に本詩『ヴィヨン「疇昔の美姫の賦(昔日の美女たちのバラード)」』への言及頁があり、そこに鈴木信太郎訳「疇昔の美姫の賦」及び天沢退二郎訳「昔日の美女たちのバラード」が載る。参照されたい。]
毎年としのはゔぃよん・・・・は讀めど雪降れど我は昔の我にあらなく

廛頭みせさきの羅馬字繁み元街は開化の匂まだに失せぬかも
元街は異人往く街吾が愛でてか往きかく往き徘徊たもとほる街
[やぶちゃん注:「徘徊たもとほる」「た」は語調を調え強調する接頭語で「もとほる」は「もとほる」で、巡る・廻る・徘徊するの意の上代語であるから、同じ所を行ったり来たりする、徘徊するの意となる。]
元街は開化のむかし土燒くとムッシュ・ヂェラァル住みにける街
[やぶちゃん注:「ムッシュ・ヂェラァル」アルフレッド・ジェラール(Alfred Gerard 一八三七年~一九一五年)はフランス人で、元治元(一八六四)年、二十代で来日、開港間もない横浜で商売を始めた。当初は横浜港に入港する船舶に食料品などを供給する業務をしていたらしいが、明治初期には山手(現在の元町公園のある高台とその斜面)の湧き水に着目、船舶給水業を営むようになる。この水は非常に良質で、当時の船乗りの間では評判だった伝えられる。次いで彼は西洋瓦と煉瓦の製造工場“A Gerard's Steam Tile and Brick Works”を現在の元町プール(後の歌に登場)付近に設立した(それが本歌の「土燒く」の意)。そこで製造される瓦と煉瓦は「ジェラール瓦」あるいは「フランス瓦」と呼ばれて山手居留地の外国人の家や山下町の商館などの建築に広く用いられた。現在でも横浜の旧外国人居留地を中心にこれらの瓦が発掘されることが多い。その後、給水業と瓦製造業の成功によって財産を築き、明治二四(一八九一)年頃、五十代でフランスに帰国した(以上は M.Ogawa 氏の「発祥の地コレクション」の「西洋瓦発祥の地」に拠った)。「郷土文化財探訪プロジェクト 葉月」の運営になる画像満載の「ジェラールの瓦工場と水屋敷跡」も参照されたい。]
いにしへの逍遙學派ペリパテテイツクわれと來て秋の山手を往きつ語らな
[やぶちゃん注:「逍遙學派ペリパテテイツク」正確には英語で“Peripatetic school”。アリストテレスが紀元前三三五年にアテナイに開いた学校リュケイオン(Lykeion)に学んだ弟子の総称。アリストテレスが学校内の屋根附きの散歩道「ペリパトイ(peripatoi)」を逍遙しながら講義したところからペリパトス学派ともいう。形而上学・文学(詩学)・生物学・動物学・修辞学・政治学・論理学など多岐に亙った博物学的哲学の一派である。]
たまさかの冬の南の風なれば屋根靑き家も窓をけたり
[やぶちゃん注:「傾斜なだり」「雪崩れる」「傾れる」の古語「なだる」の名詞形で斜めに傾いていること、傾斜、傾斜面をいう。「なだれ」とも。]
向つ丘の南傾斜なだりの日溜りに赤き家見ゆ靑き家も見ゆ
冬日照る丘の傾斜なだりに新しき家建ちけらし屋根葺ける見ゆ
この坂の疎ら榛の木葉は落ちて朝を靜かに人のぼり來る
[やぶちゃん注:「榛」ブナ目カバノキ科ハシバミ Corylus heterophylla var. thunbergii 。読みは、ハンノキの古名の「はり」「はん」の二様に考え得るが、ルビを振っていない点では「はん」、中島敦が好んで用いる万葉の言辞とすれば「はり」である。私は後者を採りたい。]
葉の落ちし枝のひろごり木末こぬれなる實はすがれたり桐にかあらむ
[やぶちゃん注:「木末こぬれ」上代語「このうれ」の約。「うれ」は上代語で草木の新しく伸びて行く末端、梢のことであるから、この梢の意味を含める。]
大方の草は黄ばみぬさ丘邊に飛行機あぐる子が小さく見ゆ
美容院ミミの門邊の眞澄まそ鏡われ追行けばわれを映すも
[やぶちゃん注:「美容院ミミ」不詳。旧所在地等ご存知の方はご連絡を乞う。
眞澄まそ鏡」上代語で「真澄みの鏡」の約。よく澄んではっきり映る鏡。一種の神鏡であったが、ここでも何か中島敦自身(「われ」)の「影」を映す辺り(「まそかがみ」は「影」の枕詞でもある)、何かそうした神妙夢幻な雰囲気を作者は含ませているように思われる。]
蔦の葉の赤らみしるきファサァドにスコッチ・テリアかしがほする
ひし煉瓦煙突今朝はしも煙吐きたり霜置きければ
中つ世のシャルマーニュ攻めし城の如フェリスは立つ夕くろぐろと
[やぶちゃん注:「くろぐろ」の後半は底本では踊り字「〲」。
「シャルマーニュ」カール大帝(Karl der Grosse 七四二年~八一四年)。フランク王国の王(在位七六八年~八一四年)にして西ローマ皇帝(在位八〇〇年~八一四年)。フランス語ではシャルルマーニュ(Charlemagne)。カロリング朝のピピン三世の長男で、七六八年の父の死とともに弟カールマン(Karlmann 七五一年?~七七一年)とともにフランク王位を継いで弟の死とともに唯一の王となる(ここまで平凡社「世界大百科事典」に拠る)。日本ではカール大帝の名が世界史の教科書などでも一般的に使用されているが、フランス語のシャルルマーニュもフランスの古典叙事詩や歴史書などからの翻訳でよく知られている。カール大帝の死後のフランク王国分裂後に誕生した神聖ローマ帝国・フランス王国・ベネルクス・アルプスからイタリア半島等の各国史を見るとき、彼は中世以降のキリスト教ヨーロッパの王国の太祖として扱われていることが分かり、特にドイツ史とフランス史にあっては、フランク王国の大きな功績をそのまま継承する国との歴史観が主流で、彼を古代ローマやキリスト教及びゲルマン文化の融合を体現した歴史的人物として評価する傾向が強い。彼の生涯の大半はまさに「攻めし城」と敦が言うように、討伐で占められていた。四十六年の治世の間、実に五十三回もの軍事遠征を行っている(この部分はウィキに「カール大帝」に拠る)。因みに、彼の添名は大きな体軀(身長約一九五センチメートる)に由来し、小肥りで風貌は丸く、無鬚であった(ここは戻って平凡社「世界大百科事典」に拠った)。
「フェリス」現在、横浜市泉区にあるフェリス女学院大学の前身であるフェリス和英女学校。明治三(一八七〇)年にアメリカ改革派教会の宣教師メアリー・E・キダーが、ヘボン施療所で女子を対象に英語の授業を開始、これが女子校として最も古い歴史を持つフェリス女学院の発祥とされる(のちに男子部は明治学院となった)。明治八(一八七五)年にアメリカ改革派教会外国伝道局総主事であったフェリス父子の支援によって横浜・山手一七八番に校舎・寄宿舎が落成、「フェリス・セミナリー」と名づけられ、フェリス女学院中学校・高等学校の基となった(ウィキの「フェリス女学院大学」に拠る)。]
あしびきの山手のプウル水涸れて見る人もなし萩散れれども
[やぶちゃん注:「山手のプウル」元町公園の中段に現存する。このプールは関東大震災からの復興記念及び昭和天皇の即位大典(即位の礼は昭和三(一九二八)年十一月十日)を祝っての公園建設に合わせて横浜市青年団が発案、横浜唯一の公式プールとして昭和五(一九三〇)年に建設されたもので、参照した「横浜ジェントルタウン倶楽部」の「元町公園」に、『水屋敷の名のとおり湧き水で冷たいが、夏には涼を取るに人の声が谷間にこだましている』とあって、ジェラールがここに目をつけた湧水が現在も健在であることも分かる。さらに、先の歌に出たその彼の煉瓦工場の跡地でもあったことから、元町『プールの管理棟には発見された当時の瓦に葺き替えられ、由来板と共に昔の面影に浸ることができる』とある。今度、是非、じっくりと見て歩きたいものである。]
霜月や山手の丘ゆひさ方の空のはたてに柔毛雲にこげぐも見つ
[やぶちゃん注:「柔毛雲」綿雲わたぐも(積雲の別名)のことか。……私は遠い昔、山手のフランス料理店山手十番館のテラスで、これと同じ光景を呆けたように眺めていたことがあったのを……思い出している。……]
たまくしげ箱根の山の遠白くたゝなはる見ゆ山手に立てば
この丘に夕時雨きつ鋪道しきみちをヘッド・ライトのひた走り來る
夕まけて雨はあがりぬしかすがに敷石道の冷えのしるしも
夕まけて雨はあがりぬこの丘のほのに明るき靜けさにをり
[やぶちゃん注:「夕まけて」は歌語の「夕方設ゆふかたまけて」(名詞「夕方」+動詞「く」の連用形「まけ」+接続助詞「て」)の約であろう(但し、各種辞書には載らない。ネット検索をするうちにGLN企画普及室「GLN(GREEN & LUCKY NET)からこんにちは」の『41d 短歌文法「連語」』で辛くも発見出来た)。「く」には、その時期を待ち受ける、待つ、の意がある。夕方を待って、夕方近くなって、の意となろう。]

    (以下三首 於璽甖※瓴邸趾)[やぶちゃん字注:「※」=「雷」+「瓦」。]
そのかみのヂェラァルおきなこゝにして赤き瓦を燒きにけむかも
ヂェラァルが瓦燒きけむこの丘に秋草咲けりその名知らなく
秋草の茂みゆ掘りし赤瓦
Gerard ヂェラァルの G 沿えてありけり
[やぶちゃん注:「璽甖※瓴」「ヂェラァル」Alfred Gerard。既注済み。事蹟は前の歌群の私の注などを参照されたい。煉瓦製造業で成功した彼のオマージュのために日本名(中島敦が勝手に万葉仮名風に選んだものであろう)も瓦がふんだんに用いられている。煉瓦積みの重厚さを感じさせる。よい漢名和名である(外国人が自分で書くには限界を超えていると断ずるが。私の「藪」の字などは海外でサインした際、字として疑われることがしなしばであったから)。]

    (以下四首 秋の最後の雨あがりて)
海の靑空のみどりも眼に沁むよ幾日か降りし雨あがりたり
空霽れぬ冬の港にとまりする石炭船の腹の赤しも
空晴れぬ丘の麓の鋪道しきみちを自動車𢌞りキラリと光る
靑空にはたくと鳴る丘の上の三色旗トリコロールは色褪せにたり

    (以下七首 朝騎あさのり
水莖の岡のあしたの鋪道しきみち外國婦人とつくにをみな馬にり來る
[やぶちゃん注:「水莖」「みづくき(みずくき)」は「岡」の枕詞。]
朝をる英吉利をみな頰の上の丹色にいろしるしも白き息吐く
かの驊騮くわりうの駒か朝日子の射しくるなべに嘶えたりけり
[やぶちゃん注:「驊騮」周のぼく王が天下巡幸に用いた一日千里を走るという駿馬の名。後に転じて名馬のことを指すようになった。]
みはろかす港に朝日さしそめぬ丘行く駒の影は長しも
革衣かはごろも益良雄めけど胸のコスモスの花插しにけらずや
新しき拍車鳴るよとわが聞けばすなはち馬はトロットに移る
[やぶちゃん注:「トロット」“trot”は馬術用語で跑足だくあし早足はやあし・速歩のこと。“walk”(ウォーク・並足)と“canter”(キャンター/カンター・速足・駆歩)との中間の歩調。因みにキャンターの上が全力疾走の“galop”(ギャロップ・早駆け・襲歩)。]
鹿毛駒の尾を振り去りしそきへより鋪道ほだう斜めに朝日さしくる
[やぶちゃん注:「鹿毛」これで「かげ」と読む。茶褐色の最も一般的に見られる馬の毛色。
「そきへ」「退き方」で遠く離れた方。果て。上代語。]

    (以下於外人墓地 十七首)
見まくしくもしるし山手なる外人墓地の秋草の色
秋なれば外國とつくにびとの墓處はかどにも大和白菊供へたりけり
敷島のやまとの國のさ丘べに永久とはにいねむと誰が思ひけめ
愛蘭土あいるらんどシャノンのほとりキャリックにうまれし子かも今こゝに眠る
[やぶちゃん注:「キャリック」キャリック・オン・シャノン(Carrick-on-Shannon)。アイルランド北西部リートリム州の町。シャノン川沿いに位置し、十九世紀、水上交通の要衝として栄えた。現在は釣りの名所として知られ、毎年八月に音楽祭が催される観光地である。]
主の御名みなめられてあれと刻みける石碑いし背後そがひの黄なる秋薔薇
石碑いしぶみの聖書の文字をしゐれば秋の薔薇さうびの花散りにけり
いも死にてやがて二年ふたとせそのつまもあと追ひけりと碑に書きたるを
たらちねの母と眠るよ亞米利加の總領事とふジョーヂ・スィドモア
[やぶちゃん注:「ジョーヂ・スィドモア」ジョージ・ホーソーン・シドモア(George Hawthorne Scidmore 一八五四年~大正一一(一九二二)年)横浜駐在アメリカ領事。生え抜きの外交官として永く横浜領事や長崎領事を勤めた。一九二二年十一月二十七日逝去、享年六十七歳。墓は山手外人墓地一一区三〇にある。]
はゝそはの母を悼むときし墓に子も入りてよりはやも幾年いくとせ
いとさく白き十字架碑を見ればるゝとやがて死にしみどり兒
いとさき墓のほとりに色あかくヂェラニウムの花咲きにけらずや
Sleep on, Beloved. Sleep and take thy rest. いとし見よ眠れ。やすけく息へよ。’と刻みたりけり小さき墓石に
[やぶちゃん注:「いとし見よ眠れ。やすけく息へよ。」は底本では‘’内の英文のルビ。「‘」は底本では下付き。]
何しかも世にはが親の心しぬべば我はも泣かゆ
こぶし小さくありけむきぬも愛しくありけむと我はも泣かゆ
[やぶちゃん注:言わずもがなであるが、以上の五首、敦は直近の昭和一二(一九三七)年一月十三日に生まれて三日後に亡くなった長女正子への思いを重ねて慟哭しているのである。]
印度なるマドラスの人ランガンの墓の芭蕉葉秋寂びにけり
[やぶちゃん注:「ランガン」不詳。ネット記載に横浜居留地で明治二(一八六九)年一月、最初に四両の馬車を使って路線営業を始めた会社として、居留地百二十三番に店を持っていたランガン商会が挙がっている。この所縁の人物か?]
この丘に眠る舶乘マドロス夜來れば海をこほしく雄叫をたけびせむか
[やぶちゃん注:「こほしく」は「こほし」で、「こひし」の上代語。]
朝曇りこの墓原に吾がゐれば汽笛とよもし船行くが見ゆ



  
Mes Virtuoses (My Virtuosi)

[やぶちゃん注:本歌群は、洋楽の愛好家でもあって足繁く来日したビルトゥオーソ(卓抜した技巧を持つ演奏家、名手の意。元はイタリア語“virtuoso”で、英語“Virtuos”(標題の“Virtuosi”はその複数形)は「ヴァーチュオーソ」と外来語表記されることが多い)の音楽会に足を運んでいた中島敦の、その鑑賞に纏わる歌群である。“Mes Virtuoses”はその(「私の名演奏家」の意の)フランス語表記である。]

    シャリアーピンを聽く
北國きたぐにの歌の王者を聽く宵は雪降りいでぬふさはしと思ふ
如月の日比谷の雪を急ぎ行けばティケット・ブロ-カー言ひ寄り來るも
眉白くまなこ鋭どに鼻とがるシャリアーピンは老いしメフィスト
[やぶちゃん注:「シャリアーピン」フィヨドール・イワノヴィッチ・シャリアピン(Fyodor Ivanovich Shalyapin 一八七三年~一九三八年)ロシア出身のバス歌手。当初は教会の聖歌隊や地方の小歌劇団で歌っていたが、次第に名声を高め、ペテルブルグやモスクワの大歌劇場で歌い、やがて世界的な大歌手として活躍した。一九一七年のロシア革命もソビエト政権への同意を示さなかったことから、一九二一年に亡命を余儀なくされ、以後、逝去までパリに住んで世界公演に出向いた。豊かに響く声と劇的表現に独自のものがあり、イタリア・オペラやフランス・オペラでのバスの役柄も得意としていたが、特に高い評価を得て居たのはロシア・オペラでのバス・パートで、その中でも極め付けはソルグスキー「ボリス・ゴドゥノフ」のタイトル・ロールであった。三首目の歌のグノーの「ファウスト」のメフィストフェレス役は彼の当たり役の一つである。来日は昭和一一(一九三六)年で東京・名古屋・大阪で公演した。これは死の二年前であったが公演を重ねるに連れて次第に調子を上げ、クラシック・ファンは勿論のこと、多くの大衆を巻き込んだ一大センセーションを巻き起こしたと言われる(以上は平凡社「世界大百科事典」及びウィキの「フョードル・シャリアピン」を参照した)。
 中島敦のシャリアピン讃歌は既に歌群冒頭の「和歌うたでない和歌うた」の中に、

ほそつよく太く艷あるの聲の如き心をもたむとぞ思ふ (シャリアーピンを聞きて)

を見出せる。そこで附した注も再掲しておきたい。
 筑摩書房版全集第三巻の年譜等によれば、中島敦は昭和一一(一九三六)年二月六日にシャリアピンの公演バス独唱会を聴いている(於・比谷公会堂。来日期間は同年一月二十七日から五月十三日)。調べて見たところ驚くべきことに彼は事前に演目を決めず、その日の自分の雰囲気で歌う曲を決めたそうであるが、幸いなことに、同第三巻所収の中島敦の「手帳」の「昭和十一年」の当日の記載に詳細な演目を残し於いて呉れた。以下に示す。
   *
二月六日(木)
7.30 p.m./Chaliapin
 1. Minstrel (Areusky)/2. Trepak (Moussorgsky)/3. The Old Corporal/4. Midnight Review (Glinka)/5. Barber of Seville (Rossini)/1"An Old Song (Grieg)/2"When the King went forth to War.
 1. Don Juan (Mozart)/2. Persian Song (Rubinstein)/3. Elegie (Massenet)/4. Volga Boatman/5. Song of Flee (Moussorgsky)/1"Prophet (Rimsky-Korsakov)

   *
なお、もしかすると、これは非常に貴重な記録なのかも知れない。ネット上でこの来日時の演目記録を捜したが見当たらなかったからである。また、底本解題には『最近中島家より、若干の資料が新しく見つかつた』として、この「
Mes Virtuoses (My Virtuosi)」歌群についての新たに分かった事実(若しくは推定)記載がある。それによれば『シャリアピン獨唱會は、あらかじめ豫定してゐた彼のレペルトワール』(フランス語“rpertoire”レパートリーのこと)『八十八曲のうちから、當日はこの「手帳」に記されてゐるだけが演ぜられた模樣である』こと、『ピアノ伴奏はジョルジュ・ゴッツィンスキイ』であること、曲のうち、“The Old Corporal”(「老いぼれ伍長」とでも訳すか)は Aleksandr Sergeyevich Dargomizhsky(アレクサンドル・セルゲイヴィチ・ダルゴムイシスキー。但し、氏名の英文綴りは現行のネット上のデータで表示した)、『“When the King Went forth to War”の作者は Koenemann、“Song of the Volga Ooatman”も同人の編曲である』とある。「Koenemann」はウィキの「フョードル・ケーネマン」によれば、モスクワ音楽院教授(一九一二年~一九三二年)でピアニストのフョードル・キョーネマン(Фёдор Фёдорович Кёнеман ; Fyodor Keneman 一八七三年~一九三七年)で、彼は二十四年間に亙ってシャリアピンの伴奏者・編曲者でもあった。なおキョーネマン編曲のこの「ヴォルガの舟歌」は、皮肉なことにシャリアピンがソヴィエトから亡命した後に外国で有名になって、多くの社会主義・共産主義者の愛唱歌となったものである。“When the King Went forth to War”(「王様が戦争に行ったとき」)はシャリアピンの素晴らしい歌声を“Шаляпин поет "Как король шел на войну"”で聴ける。]
      「のみの歌」(ゲーテ詞 ムッソルグスキイ曲)は彼の最も得意とする所
「蚤の歌」のメフィストが笑ふ大き笑ひ會場狹くとゞろき響く
わた水門みと渦卷きたぎち裂け落ちてまたはしり出づる聲かとぞ思ふ
かにかくに樂しかる世と思はずやシャリアーピンの「ドン・ファン」を聞けば
右手めてを伸ばし左手ゆんでを胸にシャリアーピンが今し「ドン・ファン」をうたひ終りぬ
故郷ふるさとのムッソルグスキイを歌ふ時はシャリアーピンもみづからに醉ふか
蜘蛛のの絶えなむとして絶えずまた朗々として滿ち溢れくる聲
見上ぐれば六尺むさかに餘る長身たけながを身ぶりかろがろとシャリアーピンは歌ふ
[やぶちゃん注:「「かろがろ」の後半は底本では踊り字「〲」。「六尺むさか」の読み「さか」は「尺」「しやく(しゃく)」に同じ上代語。約一・八メートル。おおたに氏のサイト「海外オーケストラ来日公演記録抄(本館)」にある詳細を極めた「シャリアピンが来た(一九三六)(昭和十一年)」によれば、『初日、彼が姿を現わすと拍手とどよめきがおきました。シャリアピンのその巨体に驚いた観客が多かったためです。当時の新聞は彼の身長を六尺四寸五分、もしく六尺五分と記していますが』、『彼の背丈がかなりあるということがよくわかると思います。たしかに当時の彼のリサイタルの写真をみると、右手をピアノの上に、そして左手で表情をつけるような仕草をみせている、ぱっと見にはよくある光景なのですが、よーくみると彼の腰がピアノの上あたりにまできているのがみることができます』とあり、これだと一八三~一九五センチメートルとなる(リンク先は当時の様子がこと細かに分かってとても興味深い。必読である)。因みに私は物心ついた頃から家にあった七十八回転のシャリアピンの「蚤の歌」を聴くのが無上の喜びであったのを思い出す。あのシャリアピンの強烈な劇的表現こそが幼児の私をして後に演劇に向かわせる感動の濫觴であったのだと――今気がついた。]
      トレパク(死の舞踏)ムッソルグスキイ
ひそやかにスラヴの森を死の影がよぎりしと思ふ「トレバク」の歌
わたつの潮滿ちくるか澎湃とシャリアーピンの聲の豐けさ
[やぶちゃん注:「トレパク」“Trepak”ウクライナ地方のダンスを由来とする舞曲名。一般的なロシア(風)舞曲をかく呼ぶ。チャイコフスキイの「胡桃割り人形」の第二幕第十二曲“Divertissement”(ディヴェルティスマン・登場人物たちの踊り)の四番目“Trépak”(トレパック・ロシアの踊り)が最も有名。]
      「預言者の歌」(プーシュキン詞 リムスキイ・コルサコフ曲)
天翔あまかけつの翼の熾天使セラフィムが曠野に呼ばふ豫言の歌ぞ
[やぶちゃん注:底本のルビは「セラフイム」であるが、中島敦の外来語の有意な拗音本文表記から考えて元は拗音表記と推定し、かく示した。「バスのための二つのアリオーソ」(一八九七年作)の第二曲「予言者」はサイト「梅丘歌曲会館」の「詩と音楽」の藤井宏行氏訳・解説で同曲の印象及びプーシキンの訳詞が読める。]
天地あめつちの果ゆ大河たいがみなぎりくる王者の撃と聞かざらめやも
舟唄の嫋々でうでうとして未だ消えずボルガの水面みのもを傳ふが如し
[やぶちゃん注:私の幼児期の記憶のもう一つの78回転のシャリアピンは、この歌声の神韻たる深さへの感動の沈潜であったことを告白する。]
歌ひ終りあやする見ればこの人はびとなりき氣づかざりしかど
[やぶちゃん注:当時のシャリアピンは満六十六歳であった。]
花束を捧ぐる童女小どうによちひさければシャリアーピンの腰に及ばず
身を折りて童女どうによの額に kiss すれば童女ぢらひ喝采止まず
[やぶちゃん注:当時のシャリアピンの観客へのサービスの様子は、是非、先に掲げたおおたに氏の「シャリアピンが来た(一九三六)(昭和十一年)」をお読みになられたい。]

     ハイフェッツを聽く
颯爽とさても颯爽と彈くものかな息もつかせずツィゴイネル・ワイゼン
長安の街に白馬はくばおごるとよハイフェッツ聞けばその句思ほゆ
      
MendelssohnConcerto in E minorvivace について
もろ人の彈くこの曲は聞きたれど斯く速きものと未だ知らなく
[やぶちゃん注:「ハイフェッツ」ヤッシャ・ハイフェッツ(Jascha Heifetz 一九〇一年~一九八七年)ロシア出身のアメリカのヴァイオリニスト。三歳でヴァイオリンを始めて神童と呼ばれ、サンクトペテルブルク音楽院を経て、十二歳でアルトゥール・ニキシュに招かれてベルリンデ・ビュー、同年にニキシュ指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と協演、十代のうちにヨーロッパの主要都市を演奏訪問、一九一七年にはカーネギー・ホールでアメリカ・デビューを果たした。同年のロシア革命勃発と同時に亡命、以後はアメリカを本拠として世界的に演奏活動を続け、一九二五年にはアメリカ市民権を取得した。二十世紀前半を代表する巨匠の一人で、超絶技巧家として主情的に過ぎる従来のヴァイオリンの奏法を排し、俊敏で強靱なスタイルを確立、『ハイフェッツ時代』を築いた(以上は平凡社「世界大百科事典」及びウィキの「ヤッシャ・ハイフェッツ」に拠った。以下の引用は後者から)。『ボウイングの特徴として弓速が速いことが挙げられる。しかし弓の返しや先弓での粘りは、非常に丁寧で等速的にゆっくりである。特徴的な音色は、このボウイングに依るところが大き』く、『演奏のテンポは概して速く、晩年になっても遅くなることはほとんどなかった』とある。彼は親日派の巨匠として知られ、演奏家としては(彼は大正五年(一九一七年)初夏のアメリカへの亡命途中に横浜に二週間滞在している)震災後の大正一二(一九二三)年に初来日(中島敦は未だ十二歳で、この時は中学教師であった父の勤務の関係で朝鮮京城市に住んでいた)、二度目は昭和六(一九三一)年であるから、敦が実際に聴いたとすれば、後者しかあり得まい。
「長安の街に白馬が驕る」は盛唐の崔國輔「少年行(長樂少年行)」の承句に基づく。

 少年行
遺卻珊瑚鞭
白馬驕不行
章臺折楊柳
春日路傍情

遺卻ゐきやくす 珊瑚さんごむち
白馬 驕りて行ゆかず
章臺しやうだい 楊柳を折る
春日 路傍の情

・「遺卻」遺却。遺失。置き忘れる。
・「驕不行」嘶いて首を立て、すっかり昻奮していきり立ってしまい、いっかな、前進しようとしない。
・「章臺」漢代の長安の町名で遊廓であった。
・「路傍情」娼家から白馬の貴公子と語らう遊び女の思いを指す。

「Mendelssohn の Concerto in E minor の vivace」「Mendelssohn の Concerto in E minor」はメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ホ短調作品64(Violinkonzert e-moll op.64)。「Vivace」は音楽速度標語「ヴィヴァーチェ」で、アレグロ(allegro)よりも速いことを示すが、ここは同曲の第三楽章「アレグレット・ノン・トロッポ〜アレグロ・モルト・ヴィヴァーチェ」(ホ短調から主部でホ長調へ転調した部分)を指す。“Heifetz plays Mendelssohn Violin Concerto - Third Movement”でまさにそのハイフェッツの超絶演奏を聴くことが出来る(0:40辺り)。]


     シゲッティを聞く
我が好む曲にあらねどこの人のクロイツァ・ソナタ心に沁むよ
この國の花柳作家にあらねどもまごころヽヽヽヽをもてシゲッティは彈くか
髮うすき額の汗をぬぐひゝ禮するシゲッティの顏の眞面目さ
[やぶちゃん注:「シゲティ」ハンガリー出身のヴァイオリニストであるヨゼフ・シゲティ(Joseph Szigeti 一八九二年~一九七三年)。二十世紀を代表するヴァイオリン奏者の一人。参照したウィキの「ヨゼフ・シゲティ」によれば、『歴史的演奏家の中ではハイフェッツらとともに来日歴が多く、日本では親日派の巨匠として知られる』とあり、調べてみると、初来日は昭和六(一九三一)年(中島敦満二十二歳で未だ帝大二年生)、二度目が翌七年で(三度目は戦後)、敦はこの孰れかの公演を実見しており、その記憶に基づく短歌である。
「クロイツァ・ソナタ」ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第9番イ長調作品47。フランスのヴァイオリニストであったロドルフ・クレゼール(Rodolphe Kreutzer ドイツ語読みではロドルフ・クロイツェル)に捧げられたため、『クロイツェル・ソナタ』(Kreutzer Sonata)と呼ばれる。
「この國の花柳作家」と言えば近代なら永井荷風や泉鏡花であろうが、これは特定の花柳小説の作者を指すのではなく、その正統的源流である井原西鶴・近松門左衛門に代表される江戸の浮世草子や浄瑠璃作家から近代の花柳小説作家の、身を売る女の物語或いは身を売った女と男の交情を描くことを節とした花柳情話の作家たちの思い、真心を以って悲劇の男女の情を捉えようとする気構えを指しているように私には思える。大方の御批判を俟つ。]

    シュメーを聽く
女めかぬ音の強さやシュメー今腕をあらはにひた彈きに彈く
美しき腕にはあれどアレグロを彈きゐる見れば逞しと思ふ
日本のヷイオリニストのだらしなさシュメー聞きつゝしみじみと思ふ
盲人めしひびと宮城道雄の手をひきてゐやするシュメーをみななりけり
「春の海」の琴にあはせて彈くシュメーなほ宮城氏をいたはるが如し
いさゝかに益良雄めけど立派なる顏とは見ずやシュメーの顏を
[やぶちゃん注:「シュメー」フランスのヴァイオリニストのルネ・シュメー(Renée Chemet 一八八八年~?)。これは恐らく昭和七(一九三二)年に来日した際のもので、この時、シューメは宮城道雄の「春の海」(昭和五(一九三〇)年歌会始の勅題「海辺の巖」に因み前年に作曲)を聴いて非常に気に入り、一夜でヴァイオリン合奏に編曲、そのSP版を録音している(日本ビクター原盤で後に米・仏でも発売されて世界的な名声を得た)。当時のシュメーの演奏について、小説家野村胡堂(音楽評論家「あらえびす」名義)は『シュメーのヴァイオリンは、そのフランス人らしい豊満な美貌と同じほどに妖艶なものであった。媚態という言葉は不穏当だが、少くともシュメーの演奏に接するものは、なんかしら、むずむずするような、極めて官能的な感銘を受けたものである。(中略)宮城道雄の琴と合奏した『春の海』は宣伝ほどは面白いものでない。この曲はむしろ、宮城道雄の琴に、吉田晴風の尺八で合奏したレコードの方が遥かに面白い。』(あらえびす「名曲決定盤」中央公論社、昭和一四(一九三九)年)と記している(Loree 氏のブログ「酒・女・歌」の「春の海(宮城道雄/シュメー編曲)」より孫引き)。その演奏と録音についてはピアニスト吉田秀晃氏のブログの「宮城道雄(シュメー編):春の海」に詳細を極める。同リンク先でも聞けるが、同氏がアップした最も正統なる同SPの非常にクリアーな全曲を「宮城道雄:春の海 シュメー Chemet」で聴くことが出来る。なお、この来日時にシュメーは四十四歳(因みに宮城道雄(明治二七(一八九四)年~昭和三一(一九五六)年)は三十八歳)であったが、その帰国後の消息は不明とする記事が多く、フランス語でフランスのサイト検索しても纏まった記事が見当たらない(四十四歳で事故死したかのように書かれたものもある)が、吉田氏の記事の中に、戦後の昭和三一(一九五六)年十一月三日附『読売新聞』の作家村松梢風の書いた本記SP録音に纏わる記事の中に昭和二八(一九五三)年に『パリでシュメーと宮城は再会し、懐かしい昔話をした』という記載があると記されてあるという(宮城は同年夏にフランスのビアリッツとスペインのパンプロナで開催された国際民族音楽舞踊祭に日本代表として渡欧している)、これが正しいとすればシュメーは少なくとも六十五歳までは健在であったことが分かる。彼女の写真はアメリカのヴァイオリニスト Emily E. Hogstad 嬢のブログ“Song of the Lark”の“women composers”を。このエミリー嬢のキャプションを見るとシュメーは「フランスのクライスラー」とも称された事実が分かる(なお、私は妻が宮城流の琴を弾く関係上、苦手な邦楽の中でも宮城道雄は例外的な思い入れがあることを述べておきたい。このシュメーの注も、ただのネット検索のパッチ・ワークなんどではなく、そのような確かな興味関心の産物として書いたものと――私は普段の如何なる注でもそのような安易な思いでは注していないという点に於いても――お考え戴きたいということである)。]

    エルマンを聽く
冬の夜の心にしみて侘しきはエルマンが彈く詠嘆調アリアなりけり
エルマンかしはバッハかG線の上に顫へて咽び泣きゐる
潤ほへるの艷けさよエルマンもわれとみづから聞き惚れてゐる
エルマンが光る頭をふり立つるスプリング・ソナタうらぐはしもよ
アダヂオに入るやエルマン眼を細め心しみじみ謠ひいだしぬ
[やぶちゃん注:「しみじみ」の後半は底本では踊り字「〲」。
「エルマン」ウクライナ出身のヴァイオリニスト、ミハイル・「ミッシャ」・サウロヴィチ・・エルマン(Михаил (Ми́ша) Саулович Э́льман Mikhail 'Mischa' Saulovich Elman 一八九一年~一九六七年)。情熱的な演奏スタイルと美音で有名であった。参照したウィキの「ミッシャ・エルマン」によれば、『キエフ地方の寒村タリノエ(あるいはタルノイエ)に生まれる。祖父はクレツマーすなわちユダヤ教徒の音楽のフィドル奏者だった』。『オデッサの官立音楽学校に入学』『後、サラサーテの推薦状を得て、ペテルブルク音楽院』へ入る。1904年の『ベルリン・デビューではセンセーションを巻き起こした。1905年のロンドン・デビューは、グラズノフのヴァイオリン協奏曲の英国初演で飾った。1908年のカーネギー・ホールにおけるアメリカ・デビューにおいても、聴衆を圧倒している。1911年からは単身アメリカ合衆国に移住。ロシア革命後は、ロシアに残った一家をアメリカ合衆国に呼び寄せ、1923年に市民権を得た。1921年に初来日』、『1937年には2度目の来日』、戦後の『1955年には3度目の来日を果たしている』とあることから、昭和一二(一九三七)年の手帳を調べると、

一月二十七日(水)健脚會、岡村天神、/弘明寺、/Elman 7.30 日比谷/encore Ave Maria (S. ) Zigeunerweisen.

とある。「岡村天神」は現在の横浜市磯子区岡村二丁目の岡村天満宮で、これは位置から見ても「健脚會」(マラソン大会)の立ち番位置ではないかと思われる。推測であるが、健脚会は午前で終わり、午後、学校から下った弘明寺でその慰労会が開かれたのではなかろうか。エルマンの演奏会のアンコール曲が記されている。「(S. )」は Schubert の頭文字であろう。“Elman plays AVE MARIA (Schubert)”で実際の、それも一九二九年のエルマンの演奏が聴ける。「Zigeunerweisen」はサラサーテの管弦楽伴奏附ヴァイオリン曲「ツィゴイネルワイゼン」(一八七八年作)である。なお、先にシャリアピンの注で掲げた底本解題の新資料による追記記載によれば、この『獨奏會は、一月二十一、二十二、二十五、二十六、二十七日の五日間ひらかれ、その第五夜の演奏曲目は、Vivaldi;Concerto G-minor,Beethoven;Sonata F-major (Spring), Vieuxtemps;Concerto D-minor, Chopin-Sonate;Nocturne, De Falla;Spanish Dance, Wieniawaski;Souvenir de Moscou の六曲で』あるとあり、演目の中にバッハはない。アンコールのメモにもないものの、二首目に『「G線の上に」とあるのは、おそらく同日アンコール曲に「G線上のアリア」』が含まれていたものであろう、という推測が附されてある。
「スプリング・ソナタ」ベートーヴェンのヴァイオリンソナタ第五番ヘ長調 Op.24 の愛称。]

    ケムプを聽く
大いなる翼ひろげしピアノの前ケムプしづかに心澄ましゐる
      新響とのコンチェルトなりければ
管絃樂オーケストラ今か終らむ第一指をおろさんとするゆゝしき構へ
まなこ閉ぢべートーベンをたんじゐるケムプのひたひ白くして廣き
いくとせもはら彈けばかその顏もべートーベンに似たりけらずや
フォルティスィモ ケムプ朱をそそぎ髮亂れ腕打ちふりて半ば立たむとす
      Mozart の Klavier Konzert, D minor
若き日のモツァルトの夢華やかに珠玉たま相觸れてロマンツァに入る
オーボエとヴィオラのひまを隱れ縫ひピアノ琳々りんりんと鳴りの高しも
[やぶちゃん注:「ケムプ」ドイツのピアニスト・オルガニスト、ヴィルヘルム・ケンプ(Wilhelm Kempff 一八九五年~一九九一年)。ベルリン音楽大学でピアノと作曲を学び(彼は作曲家を自身の本来の仕事と考えていた)、さらにベルリン大学で哲学と音楽史を修めた。一九一七年にはピアノ組曲の作曲によりメンデルスゾーン賞を受賞、一九一八年にニキシュ指揮ベルリン・フィルハーモニーとベートーヴェンのピアノ協奏曲第四番で協演、シュトゥットガルト音楽大学学長を務めた後(一九二四年~一九二九年)、一九三二年、ベルリンのプロイセン芸術協会正会員となってドイツ楽壇の中心的役割を担うようになったが、第二次世界大戦中のナチス協力の経歴から戦後は一時期、活動を自粛したが、再活動後は特にベートーヴェンの演奏録音で知られる。同時代の音楽家アルフレート・ブレンデルやフルトヴェングラーはケンプを非常に高く評価しているが、ドイツ本国でよりも日本に於いての賞讃が格段に高い(かくいう私もファンである)。彼自身、親日家で昭和一一(一九三六)年のドイツ文化使節として初来日して以来、来日は十回に及んだ。バッハ「目覚めよ、と呼ぶ声が聞こえ」のケンプによるピアノ編曲版はよく知られている(私の偏愛する曲である。以上の事蹟は一部ウィキの「ヴィルヘルム・ケンプ」を参考にした)。敦の昭和十一年の手帳を見ると、

四月十五日(水) W. Kempff,/Beethoven’s Concerto 3. 5.

という記載と(この間、次の項の「四月二十一日(火)」には『Goldberg, Klaus/Beethoven’s Sonata 4,5,2,10』とあり、ベートーヴェンへの敦の傾倒ぶりが分かる。因みにこれはヴァイオリニストのシモン・ゴールドベルクとピアニストのリリー・クラウスのデュオである)、

五月十二日(火) W.Kempff/Beethoven Concerto 1 & 5/Mozart Concerto in improvisation

という記載があって、二回に亙ってこの初来日のケンプの演奏会に行っていることが分かる(孰れも日比谷公会堂)。但し、先にシャリアピンの注で掲げた底本解題の新資料による追記記載によれば、一回目の記載は「四月十五日(水)」の項に記載されているが、『その前日の十四日に演奏された方を聽きに行って』いるとあり、また「四月二十一日(火)」の分については、『Lili Kraus のピアノ伴奏による Simon Goldberg の「ベートーヴェン・・ヴァイオリン・ソナタ全十曲連續演奏會」おことで、四月十九日に第三・第六・第七、四月二十日に第一・第九・、四月二十一日に第四・第五・第二・第十番のソナタが演奏された。會場はいづれも日本靑年館であつた』とある。
「新響」は大正一五(一九二六)年に発足した日本最初の本格的な交響楽団である「新交響楽団」で、これは現在の同名の楽団とは別で、現NHK交響楽団の前身である。当時の指揮者はヴァイオリニストでもあった貴志康一(明治四二(一九〇九)年~昭和一二(一九三七)年)で、十四年下の貴志とは深い友情で結ばれた。後、昭和二九(一九五四)年に再来日したケンプは毎日新聞紙上で「私の思い出の中にある悲しみをともなって居ます。この前私が日本を訪問した時、ともにベートーヴェンの曲を演奏した才能ある日本の指揮者貴志康一氏が、余りにも若く死んでしまったからです。彼はたしか大阪の人でした」と語っている(以上は大阪市都島区役所公式サイトの「都島区ゆかりの人物」の貴志康一の「日本での活躍」のページの記載に拠った)。
「Mozart の Klavier Konzert, D minor」モーツァルトが最初に手掛けた短調のピアノ協奏曲第二十番ニ短調 K.466。「ロマンツァ」はその第二楽章「ロマンツェ」変ロ長調のこと。ミロス・フォアマン監督の映画「アマデウス」のエンディングに使われたあの曲である。ケンプとカラヤン指揮のベルリンフィル(一九五六年録音)がここ(陽之大瀬氏のアップ)で聴ける。]

    ズィムバリストを聽きしこと
帝劇の三階にしてこの人のアヴェ・マリア聞きぬ十年ととせ前のこと
其の夜われ切符は買ひしがかななくて夕食ゆふげたうべずひもじかりしよ
アンダンテ・カンタビレのしみじみとすき腹にこたへ今も忘れず
[やぶちゃん注:「ズィムバリスト」はロシア人ヴァイオリニスト、エフレム・ジンバリスト(Efrem Zimbalist ロシア語名エフレム・アレクサンドロヴィチ・アロノヴィチ・ツィンバリスト Ефре́м Алекса́ндрович Аро́нович Цимбали́ст 一八八九年~一九八五年)。指揮者や作編曲も手掛けた。ロシアのロストフ・ナ・ドヌにてユダヤ系音楽家の家庭に生まれ、指揮者であった父親の楽団で八歳になるまでにヴァイオリンを弾き始めた。十二歳でペテルブルク音楽院に入学、卒業後はベルリンでブラームスの協奏曲を弾いてデビュー、一九〇七年にはロンドンで、一九一一年にはボストン交響楽団と共演してアメリカ合衆国でもデビューし、その後はアメリカに定住した。大正一一(一九二二)年初来日して以降、四度に亙って来日している。参照したウィキ「エフレム・ジンバリスト」には、『古い時代の音楽の演奏によって、大いに人気を博した』とある。
 他のサイトの情報で彼の二度目以降の来日は大正一三(一九二四)年・昭和五(一九三〇)年秋・昭和七(一九三二)年・昭和一〇(一九三五)年であることが分かった。一首目で「十年前のこと」とあり、本歌群の完成が昭和一二(一九三七)年であること(有意に八年前の昭和五年の方が自然である)、大正一三年(敦満十五歳)には朝鮮の京城にいたことから、昭和五年の来日公演の嘱目吟と推定する。貧窮の中で公演を聴きに行っている状況は、まさに敦のシュトルム・ウント・ドランクとも言うべきこの、東京帝国大学一年生満二十一歳であった昭和五年の秋の可能性がすこぶる高いように思うからである(昭和七年満二十四歳では五年前で「十年前」とドンブリで言うには無理があることと、この時期の敦が三月にたかと結婚、秋に朝日新聞社の入社試験を受験するも身体検査で不合格になったりと責任ある家庭人社会人の面影が強く、本歌の飢えた青年のイメージとはそぐわないと感じるからでもある)。
 なお、この昭和五年秋の来日の際、満十歳の一人の少女がジンバリストに面会し、メンデルスゾーンの協奏曲を演奏して彼を驚嘆させ、メディアは挙ってこの天才ヴァイオリン少女を喧伝した。この少女こそ昨年亡くなられたヴァーチュオーソ諏訪根自子さんである。
 三首目に詠まれたチャイコフスキーの弦楽四重奏曲第一番ニ長調作品十一の第二楽章「アンダンテ・カンタービレ」(Andante cantabile)はジンバリストの得意としたものらしく、SP音源で本邦で録音されたものも残っている。こちらで彼の演奏が聴ける。この冒頭の旋律は私の物心ついた頃からの子守唄であった懐かしい曲である。
 最後に〆の注。往年の人気テレビドラマ「サンセット77」の主役の探偵スチュアート・ベイリー役や、同じく私もよく見たドラマ「FBI」の主役ルイス・アースキン捜査官役のエフレム・ジンバリスト・ジュニア(Efrem Zimbalist Jr.)という甘いマスクの男優は文字通り、彼の息子である。]

      ティボオを聽く
カデンツァのほそき美しさ聞きゐればジャック・ティボオは佛蘭西の人
心にくき典雅さなれやモツァルトもティボオが彈けばラテンめきたり
喝采にこたへてはゐれどティボオの顏やゝに雲れり鬚押へつゝ
[やぶちゃん注:敦の昭和一一(一九三六)年の手帳に、

五月二十九日(金)  Jacques Thibaud /Symphonie Espagnole

と記されている。下線はママ。先にシャリアピンの注で掲げた底本解題の新資料による追記記載によれば、『五月二十六、二十九、三十日、六月一、二日と五囘の公演のうちの第二夜で、演奏の曲目は Veracini;Sonate, Mozart;Sonate la majeur, Lalo;Symphonie Espagnle, Chausson;Poè,Saint-Saëns;Rondo Capricioso の五曲であつた。ラロの「スペイン交響曲」はピアノの伴奏によつたものらしい』とある。
 以上、見て来たように、この年は二月六日のシャリアピン、(この間、三月二十三~二十八日の小笠原旅行、四月二十五日に三度目の母の死去があった)四月十五日にケンプ、同二十一日にゴールドベルクとクラウスのデュオ、五月十二日には二回目のケンプ、そしてその十七日後にこのティボーの公演に足繁く出向いている。その後、八月八~三十一日には中国旅行を敢行、その旅行中に「朱塔」歌群を完成させ、しかも現存する原稿に記入されている日附によれば十一月十日には「狼疾記」を、年も押し迫った十二月二十六日には「かめれおん日記」を脱稿しているのである。中島敦満二十七歳、この年は彼にとってすこぶる濃密な年であったことがこれらの事実から窺われるのである。(……私は私の二十七当時を今思い出して、その哀しいまでの精神的な貧しさと飲んだくれの日々に、身の凍る思いがしたことを告白しておく……)
「ティボオ」ジャック・ティボー(Jacques Thibaud 一八八〇年~一九五三年)はフランス出身のヴァイオリニストでクライスラーと並び称された。ボルドー市の音楽教師の息子として生まれ、八歳でリサイタル、十三歳からパリ音楽院に学び、一八九六年に首席で卒業、コロンヌ管弦楽団に招かれ、以後たびたび独奏者として活躍して名声を高める。一九〇五年アルフレッド・コルトー・パブロ・カザルスとともにカザルス三重奏団を結成した。大正一二(一九二三)年初来日、昭和一一(一九三六)年に二度目の来日を果たし、この折り、日本ビクター東京吹込所で録音を行ったほか、JOAK放送局からラジオ放送の生演奏を行った。敦の本歌群はこの時の公演である(前注参照)。第二次世界大戦中はフランスに留まって、ドイツでの演奏を拒否した。昭和二八(一九五三)年、三度目の来日途中、乗っていたエール・フランスのロッキード・コンステレーションがニースへのファイナル・アプローチの最中に、バルスロネット近郊のアルプス山脈に衝突、逝去した。彼が愛用していた一七二〇年製ストラディヴァリウスはこの事故で失われた(以上はウィキの「ジャック・ティボー」に拠った)。この最後の歌でティボーの表情に浮ぶ曇りは何だったのだろう。……この時、既にドイツではナチスが政権を掌握し、この年に日本は日独防共協定を締結している。……
「カデンツァ」“cadenza”はイタリア語で楽曲の終結部で独唱者又は独奏者の演奏技巧を発揮させるために挿入される華美な装飾的楽句をいう音楽用語。]



  
朱塔

[やぶちゃん注:この「朱塔」と題する七十四首からなる歌群は、昭和一一(一九三六)年八月八日、横浜を夜行列車で発って長崎に赴き、十四日に長崎から上海丸で出航、翌日、上海に着き、杭州・蘇州を廻って八月三十一日に神戸に帰着した、二十三日間に亙る中国旅行の際に詠まれたものである。当時満二十七歳、横浜女学校に奉職三年目の夏季休暇中であった。中国では上海で前年に知り合って盟友となった三好四郎が同行している。筑摩書房版全集の第三巻の「來簡抄」の解題で編者郡司勝義氏は、『三好四郎氏は、ある意味では著者中島の文學が今日あることにとつて、缺かすことの出來ない案内役である』と述べ、『著者が一高の先輩であり既に作家として世にある深田』久彌『氏に近附きになれたのは、三好氏のはからひによる所が多かつた』とし、『三好氏は戰時中は中國本土の農村研究に携り、戰後引揚げて來て、昭和四十六年まで愛知大學教授を務めた』とある。私は個人的にこの歌群にとめどない不思議な懐旧の念を感じる。それは恐らく私が心血を注いで電子化した芥川龍之介の「支那游記」群(リンク先は私の芥川龍之介「上海游記」。冒頭注のリンクで他の総ての紀行文にもジャンプ出来る)をフラッシュ・バックさせるからでもあろう。なお、この一群については知人のために早急に電子化することを第一とした関係上、注を施していないが、近い将来、追加する予定である。]


    范石湖
南浦春來綠一川
石橋朱塔兩依然


   杭州の歌

杭州の街は夜ながら白壁を許多ここだも見たり車の上ゆ
黄昏の街のはたてを忽然たちまちに湖展うみひらけたり夕べしろじろぐと
さしみの家に燈入りぬ西湖うみの上は暮れて程經しかゞよひ白く
[やぶちゃん字注:「しろじろ」の後半は底本では踊り字「〲」。]

    (於新々旅館)
杭州のホテルの夜を燈を消せばあはれ螢が蚊帳の上に光る
ことさやぐからにも螢はゐたりけり我が蚊帳かやの上に息づきをるも

    ――以下三首 於放鶴亭附近――
こゝにかも龍井茶ロンチンゾオを賞でにけむ梅と鶴とに生きし詩人うたびと
梅見れば梅薰りけむ鶴呼べば鶴も舞ひけむこの水の邊に
林處士のおくつき盛花もなき梅の古枝ふるえに苔かわきたり

    ――以下三首 蘇小小之墓――
西湖なる西冷橋にいにしへの歌姫うたひめの墓まうでけるかも
六朝の金粉今は何處ぞと雕りし柱の丹は褪せにつゝ
いにしへの名妓の墓にあなやおぞ苦力寢たり夏の眞晝を

    ――以下 西湖上スケッチ――
蘇東披がきたりしとふこのどてにべンチ置きたり人は見えなく
無懷氏ぶくわいの民か西湖のはすとると盥にのりて泛べる翁
はちす實の茂みをけて蓮とると翁は手もて盥漕ぎ行く
蓮に手の屆かむとしてとどかざり盥あやふく傾きてゐる
朝曇り西湖のおもて白々と「西施が淡きよそほひ」をする

    若把西湖比西子 淡粧渡抹總相宜 (蘇東坡)
楊柳の下行く轎の柄は長し水なる影も崩れずして走る
楊柳の蔭にふね寄せ謹みにける乾隆帝が石碑いしぶみの文字
湖畔うみばたの劉氏墓道の槐路朝目ゑんじゆみちあさめに白く砂はおちゐる
汀より槐樹ゑんじゆがくれに續きたり劉氏墓道の朝を人無く

    ――以下五首 於汪裕泰茶莊――
石づくり夏をつめたく湖岸うみぎしに茶をるこれの汪裕泰ワンイウタイの店
雷峯の麓西湖の南なる汪裕泰の店の涼しさ
みづうみの風吹き入れて心ぐく飮む菊の茶の薰りよろしも
攻塊まいくわいの茶をこゝろむと湯を注げばすなはち立ちぬ甘き薔薇ばらの香
攻塊は薔薇ばらにしありけり吾家わぎへなるあか薔薇さうびを憶ひ出でつも
    ――於雷峯塔址――
雷峯の塔は跡なく夏草に立ちて乞食の僧がゐやする

    ――於玉泉――
鯉にあらず鮫にあらぬ長髭の怪魚けぎよさやぎ群れ水湧き返る

    ――靈隱山雲林寺に五百羅漢を見る――
金塗の五百羅漢がおのがじし泣ける笑へるものを思へる
打竝ぶ羅漢の中に靈隱の狸幾匹化けてゐるらむ
打竝ぶ五百阿羅漢聲そろへ笑ひはやさむか我まろびなば

    ――五百羅漢の中にマルコ・ポーロの像も交れり如何なる故なるかを知らず――
マルコ・ポーロは佛弟子ならし雲林寺うりんじの五百羅漢にうち交りたり
うす暗きみ堂の中に眼剝まなこむき羅漢と竝ぶマルコ・ポーロはも
碧眼のポーロ尊者は新發意しんぼちか髭をみじかく苦笑してゐる

    於滬杭甬鐡路車上
ドアを開けて憲兵入り來鞣皮くなめしがはと埃のにほひかすかにするも
はすの實をる聲きこゆこの驛は松江スンキヤンならむ夕べ近しも
農夫らの水牛牽きて歸る見ゆはやもゆふげの時となりけらし
野を遙か烟立つ見ゆゆふべなり給仕に命じメニュー持たしめむ
ガイド・ブック讀み厭きにける友とふゆふげのスウプ トマトにせむか
城壁と塔の遠影黑みきぬ蒼々として野はれむとす
嘉興カアシンの塔のシルエットはろかなりトマト・スウプを啜りつゝ見る
匙おきて忽ちあかし汽車のの入りたりけるよ何かうれしき
窓に倚る食後ものうきたまゆらをほつと燈は入りぬかろき驚き
空皿あきざらのスプーン黄なる灯に光り郷愁に似るものの影する


   蘇州の歌

城壁と蔦と運河と歌姫の古き都に我は來にけり
水際の壁に水照みでりはかぎろひて晝をしづけき姑蘇の裏町
橋裡に壁に家内に舫舷ふなばた水照みでりゆらゆらとたゞかぎろへる
水牛は童をのせて行きにけり姑蘇城外川傍かはぞひの道
水牛の背巾を廣みわらはべは横坐りしつ手弱女たをやめのごと
反橋そりはしいたも反りける駿馬の背ゆほとほと我は落ちむとせりき
薄曇る晝のけだるさうさぎ馬も己が影を見る水際みぎは去らずて
童顏の花は泛びて動かずよこの水は流れてゐるにかあらむ
[やぶちゃん字注:「ゆらゆら」「ほとほと」の後半は底本では踊り字「〱」。]

    (以下三首 於虎邱)
呉王闔閭三千の士を屠りけむ虎邱の寺の荒れまく惜しも
草深き石甃道しきいしみちに立ちて仰ぐ虎邱の塔のかししるしも
昔われ水滸傳にて讀みにける魯智深かもよこの大和尚
寒山の古寺を訪ぬとわが來れば石碑は缺けたり鐘も聞こえず
寒山寺彌陀の御手おんてに鏡置き理髮かみかりをるよ鋏ならしつゝ
楓橋の下行く水に婢女がきぬ濯ぎをり二人また三人
楓橋の狹の町の家暗く麻雀牌マーヂャンパイをつくる女あり
麻雀の牌に字を彫る女瘦せ色蒼くしてまなこ血走る
振り切りて人力車くるま走らする背後そがひよりをらび馳せくる乞食こつじきの群
石道を離れず追ひ來る赤ら目の乞丐童きつがいわらべトラホームならし
造り岩のこちたき林泉しまぞ留園の廻り廊下は行けど盡きぬかも
草枕旅にあればか園深く鳴く蟬の聲あはれなりけり
報恩寺の塔ゆ夕べを眺むれば白き壁壁また白き壁
白壁の一つ一つに夕陽照り數さへ知らずまなこ痛しも
目路の限りただ壁白く陽に映えて末は大湖につゞきたるらし
閶門ツアンメンの紙屋にあかき紙竝べ人集ひたり祭近からし
白壁の路地に賭博ばくちを打つ男われしはぶけどかへりみざりき
[やぶちゃん字注:「マーヂャンパイ」の「ャ」は私の判断で促音化した。「一つ一つ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

わが雇ふガイド張氏の日本語のあなたどたどし池を川といふ
粟饅頭われ與ふればかしこみて押しいたゞける張氏をかしも
昨日今日蘇州爆撃と聞くからにあはれ張氏は如何しつらむ
[やぶちゃん字注:「たどたどし」の後半の「たど」は底本では踊り字「〱」。]

    遙かにチビ助を思ふ
ならべてチビをし見ねばチビの顏ふとも見たしと思ひなりぬる
敷島の大和の園にを待たむチビ助あはれ家苞何みやげなににせむ
つぶら眼の張子の虎を買ひ行かはチビ助笑ひくつがへらむか
[やぶちゃん注:昭和八(一九三三)年四月二十八日生まれの長男たけし。旅行当時(昭和一一(一九三六)年三月)は満三歳。]



  小笠原紀行

[やぶちゃん注:中島敦は横浜高等女学校在勤三年目、満二七歳の昭和一一(一九三六)年の春三月二十三日から二十八日までの六日間、小笠原へ旅しており、以下の歌群はその時の吟詠である。本歌群を以って底本の「歌稿」は終了している。]

    二日目の朝八丈を過ぐ
八丈と小島の水門みとの潮はやく靑鯖色にたぎちさやぐも

    靑ヶ島を望む 六首
岩岫いはくきに波たち煙り靑ヶ島風しまく峻嶮こごしくを見ゆ
舟がかりせむすべもなし岩崩いはくえに波捲き返り霧けぶり立つ
八丈の南二十里靑鱶の棲むとふ海の荒き島かも
ひだ深き赭土崖の上にして靑草生えぬ乏しかれども
岩垣の岩片がくれかつがつも道あるが如し人住むといふを
[やぶちゃん注:「かつがつ」の後半は底本では踊り字「〲」。]
くずす荒き島根も人らゐて道をつくると聞けば哀しき
[やぶちゃん注:「靑ヶ島」は伊豆諸島の南部に位置する島嶼で、現在の住所は東京都青ヶ島村。東京から南へ三五八キロメートル、八丈島の南方六五キロメートルにある周囲約九キロメートルの火山島である。青ヶ島は典型的な二重式カルデラ火山で、島の南部に直径一・五キロメートルのカルデラ(池之沢火口)があり、その中に「丸山(別名オフジサマ)」という中央火口丘があるが、島自体はより大きな海中カルデラ全体の高まりの一つであり、青ヶ島と周辺海域は火口・カルデラ地形が幾つも重なっている。島の最高点はこの丸山を取り囲んでいる外輪山の北西部分に当たる「大凸部(おおとんぶ)」で、外輪山の外側斜面は急な崖となって海岸線に続く。このため、海沿いには殆ど平坦地が無く、高さ五〇~二〇〇メートルほどの直立する海食崖になっていて砂浜はない。集落はカルデラの外、島の北部にあって、村役場を中心に「休戸郷やすんどごう」と「西郷にしごう」の二つが存在する。現在、日本国内で最も人口の少ない地方自治体であり、二〇一三年五月一日現在の推計人口は一九三人である(以上はウィキの「青ヶ島」及び「青ヶ島村」に拠った)。]

    朝暾破雲
わだつみの大東おほひんがしの五百重雲あからみて裂けて日は出でむとす
[やぶちゃん注:「朝暾」は「てうとん(ちょうとん)」と読み、朝日のこと。「五百重雲」は「いほへぐも(いおえぐも)」と読む。幾重にも重なっている雲。]
白たへの甲板の上に人集ひうづの朝日子をろがみてゐる
[やぶちゃん注:「朝日子」は「あさひこ」で、「こ」は親愛の意を表す接尾語。朝日。]

    ひたすらに南航
南東風みなみこち吹きくれば海の上の皺立ち千々にきらゝけきかも
久方の空に光はみなぎらひ明るき海を白き汽船ふね行く
みんなみの陽光ひかりうらうらとわたつみのまろく明るく滿ち膨れゐる
[やぶちゃん注:「うらうらと」の「うら」後半は底本では踊り字「〱」。]
目くるめく海の靑さや地獄なる紺靑鬼こんじやうき狂ひ眼内めぬちに躍る
午後三時雲やゝ出でて海の上一ところ白し輕きローリング

    薄暮信天翁あはうどりを見る
夕ぐるゝ南の海のはてにして我が思ふことは寂しかりけり
夕昏ゆふぐるゝ南の海のさびしさを信天翁あはうどりとぶはねの大きさ
信天翁あはうどり大き弧をきとび來りまた飛びて去る夕雲とほく
日を一日ひとひ飛び疲れけむ信天翁あはうどりしまし憩ふと浪に搖れゐる
夕浪に憩ひ搖るゝともだもゐるあはうどりヽヽヽヽヽといふもののかなしさ
阿呆鳥と人いふめれど夕遠く飛ぶをし見ればうらヽヽがなし鳥
汝天を信ぜむとするか信天翁あはうどり思ふことなく飛びゐるとも
汝天を信ぜむとするか信天翁醜あはうどりしこ末世まつせ懐疑者ピロニストわれは
[やぶちゃん注:「懐疑者ピロニスト」“Pyrrhonist”。古代ギリシャの懐疑主義・不可知論の濫觴ピュロンに由来する。なお、ミズナギドリ目アホウドリ科キタアホウドリ属アホウドリ Phoebastria albatrus の和名は、人間への警戒心が弱く、翼が巨大なために飛翔には長距離の助走が必要で容易に飛び立てない上に、その翼のために地表上での歩行バランスが極めて悪く緩慢であることから容易に捕殺されたことに由来する。漢名「信天翁」も空を飛ぶことが苦手(但し、飛翔を開始すれば長距離の飛翔が可能)に見えたため、天から餌が降ってくるのを信じて「翁」(頸部の羽毛)を揃えて口を開け待っているぐうたらな鳥、という俗説に基づく呼称とする。]

    三日目の朝
日や出でし海の濠金綠もやきんりよくにひかり烟らひ動かんとする
兄島をみ行けばちゝのみの父島見えつ朝明あさけの海に
[やぶちゃん注:「榜ぎ」漕ぐの意。当字は櫂や舵の意も持つ。
「囘み」自動詞マ行下二段動詞「たむ」(回む・廻む)で、巡る、周るの意の万葉集以来の古語。]
二日二夜南にぎてココ椰子のさやぐ浦𢌞うらわに船てにけり
[やぶちゃん注:「泊て」自動詞タ行下二段動詞「はつ」舟が停泊するの意の万葉集以来の古語。]
みんなみの浦に汽船泊ふねはて白き船腹はらゆ吐き出す水に小さき虹立つ
うす綠二見の浦の水淸み船底透いて搖れゆがみ見ゆ
群靑と綠こき交ぜ透く水に寄り來し艀舟はしけ搖られてゐるを


小笠原の彌生はトマト赤らみて靑水無月あをみなづきの心地こそすれ
父島にトマトを買へば椰子の葉に包みてくれし音のゆゝしさ
トマト提げてわが行く道は乾きたり測候所の白き屋根も見えくる
この道に白きは珊瑚の屑といふ海傳ひ行き踏めば音する

   今日は小學校の終業式なりけり、校庭の周邊には
   柵を打たずして熱帶植物もて固めり、木の名を問
   へばタマナヽヽヽといふ。如何なる字を宛つるならむ
通信簿人に見せじと爭ひつゝ子ら出できたるタマナヽヽヽの蔭ゆ
[やぶちゃん注:詞書は底本では下まで続いて、「タマナ」以下が二行目。
「タマナ」はツバキ目オトギリソウ科テリハボク Calophyllum inophyllum の小笠原諸島での地方名。太平洋諸島・オーストラリア・東南アジア・インド・マダガスカルなどの海岸近くに分布し、世界の熱帯・亜熱帯地域に於いて広く栽培されている。日本では南西諸島と小笠原諸島に自生するが、これらは移入によるとも考えられている。成長は遅いが、高さは一〇~二〇メートルに達する。葉は対生で、長さ一〇~一五センチメートルほどの楕円形で光沢があり(和名の由来)、裏面の葉脈が目立つ。花は直径二~三センチメートル、一〇個前後が総状花序に開く。花弁は白く四つあり、黄色い多数の雄蕊を持ち、芳香がある。果実は径四センチメートルほどの球形の核果で、赤褐色に熟し、大きい種子を一つ持つ。沖縄では見かけのよく似たオトギリソウ科フクギ Garcinia subelliptica とともに防風林として植えられる。観賞用にも栽培されるほか、材は硬く強いので家屋・舟・道具の材料に用いられる。小笠原諸島では「タマナ」の名称で親しまれ、材を用いてカノー(アウト・リガー・カヌー)を造った。種子からは油が採れ、食用にはならないが外用薬や化粧品原料に用いられ、灯火用にもされる。現在はバイオディーゼル燃料に適するとして注目されている(主にウィキの「テリハボク」に拠った)。なお、「如何なる字を宛つるならむ」と中島敦は言っているが、安部新氏の「小笠原諸島における日本語の方言接触:方言形成と方言意識」(二〇〇六年南方新社刊)によれば、タマナは他に「メールトマナ」「ヒータマナ」とも呼ばれ、これは実は日本語ではなく、英語の“male”・“he”+ハワイ語“kamani”・古代ポリネシア語“tamanu”の合成語(孰れもテリハボクを指すものと思われる)であるらしい。]
今日はしも終業式ぞ紋付の子も打交り白き道行く
紋付も半ズボンもありおのがじし通信簿もち騷ぎ連れ行く

    農業試驗所及びその裏山にて 八首
硝子とほはしみらなり水を鰐魚アリゲーターの仔ら眠りゐる
[やぶちゃん注:「しみらなり」暇なく続いて、終日ひねもす、一日を通じてずっとその場いっぱいに、の意。万葉以来の古語であるが、形容動詞としての使用は極めて異例で、通常は副詞として「しみらに」(若しくは「しめらに」)で使用する。「しみら」はもともと、「茂・繁」を訓じた「しみ」「しみみ」に、状態を示して形容動詞語幹を作る接尾語「ら」の付いたものであるから、形容動詞としての用法には見た目、違和感はない。 「鰐魚アリゲーター」当時の小笠原農業試験場(現在の呼称は小笠原亜熱帯農業センター)ではワニ目正鰐亜目アリゲーター科アリゲーター亜科アリゲーター属 Alligator のワニの実験飼育をしていたものらしい。主に皮革利用目的のためかとも思われるが(食用にもなる)、識者の御教授を乞うものである。]
護謨ゴムの葉にとまる小鳥の名も知らず日のゆたけさに黑光りゐる
空に海に光の微粒粉こなをぶちまけて明るきかもよ丘べに立てば
見かへれば檳榔びらうの葉越しキララキララ海の朝霧はれ行くが見ゆ
[やぶちゃん注:「キララキララ」の後半は底本では踊り字「〱」。「檳榔」は被子植物門単子葉綱ツユクサ類 commelinids に属するヤシ目ヤシ科ビンロウ Areca catechu 。「ビンロウジュ」(檳榔樹)とも言うが、類似音の「ビンロウジ」はこのビンロウの実をいうので注意。実はアルカロイドを含み、ガムのように噛む嗜好品として知られる。]
道の上の崖のにしておほいなる龍舌蘭の葉の厚き見つ
[やぶちゃん注:「龍舌蘭」単子葉植物綱クサスギカズラ目クサスギカズラ科リュウゼツラン亜科リュウゼツラン属 Agave に属する、厚い多肉質の葉からなる大きなロゼット(葉が放射状に地中から直接出ている根出葉(或いはそれに近い状態の葉)でそれが円盤状に並んだ様態)を形成する熱帯性植物。]
肉厚き葉の上に白き粉をふけり龍舌蘭の巨きむらが
赭粘土あかつちの崖のくづれにたかだかと章魚木たこの氣根の根節ふしあらはなり
[やぶちゃん注:「章魚木たこ」単子葉植物綱タコノキ目タコノキ科タコノキ Pandanus boninensis 。「蛸の木」「露兜樹」などと書く。小笠原諸島固有種で雌雄異株。海岸付近に植生する。種名“ boninensis ”は、小笠原諸島の英名“Bonin Islands”に由来する。小笠原諸島の海岸近くに自生し、高さ一〇メートルまで達する。タコノキ科植物全般に見られる特徴であるが、気根が支柱のように幹を取り巻き、それが蛸の足のように見えることから、本種はタコノキ目の基準種となっている。葉は細長く、一メートルほどになり、大きくて鋭い鋸歯を持つ。初夏に白色の雄花・淡緑色の雌花をつけ、夏に数十個の果実が固まったパイナップル状の集合果をつける。果実は秋にオレンジ色に熟し、茹でて食用としたり、食用油を採取する原料とする。『本種は小笠原諸島の固有種であるが、八丈島等に移出されて定着している他、葉の美しさから観葉植物として種苗が販売されている。南西諸島に多く生育するアダンの近縁種であるが、アダンの葉には鋸歯が小さいなどの違いで見分けることができる』(以上、引用を含め、ウィキの「タコノキ」に拠った)。【二〇一三年三月二十日追記】本日、kmat 氏より『小笠原のタコノキはオガサワラタコノキ以外は生えていません。米国から日本に小笠原を返還した時に、都道に植える植物が何がいいのか問題になりました。当時は固有種を増やそうと考え、都の支庁は山道に大量のオガサワラタコノキを植えています。15年前に元支庁長が私にそう話しています』という御指摘を戴いた。これによって敦の見たタコノキは他のタコノキ科のタコノキ類ではなく、確かにタコノキ Pandanus boninensis であったと同定してよい。]
墓地へ行く道のかたへの崩崖くえがけ章魚木たこの根引けどさ搖るぎもせず

    防風林にて 五首
立枯の防風林のヤラボの根根上りしるく歩き難しも
[やぶちゃん注:「ヤラボ」既出の「タマナ」(ツバキ目オトギリソウ科テリハボク Calophyllum inophyllum の小笠原諸島での地方名)の南西諸島での方言名。ヤラボの他、ヤラブ・ヤラブギー・ヤナブ(沖縄広域)、ヤロー(竹富・宮古・多良間)などとも呼称するが、原義は不明。]
しましくを防風林にまどろみぬめておどろく海の蒼さや
目覺むればヤラボの影のだんだらの縞に染められわがい寢てゐし
海の上を靑きほのほが燃えゆれて今し日は午後に移らんとする
顫へ光る蒼さの中を一文字カヌーにかあらむよぎり馳せくる

    奧村に歸化人部落あり、もと捕鯨を業とする亞米利加人なりしといふ
奧村のパパイヤの蔭に歸化人の家靑く塗り甘煮植ゑたり
小匝こばこもち娘いで來ぬブルネット眼も黑けれど長き捷毛や
[やぶちゃん注:「ブルネット」ここは英語“brunet”(男性)の女性形“brunette”で褐色がかった髪のこと。“brunet”はフランス語“brun”(brown)+指小辞“-et”が語源。]
あかき貝茶色のかひと貝つもの吾にくるゝとふ歸化人娘
[やぶちゃん注:「貝つ」の「つ」は格助詞で所属などを示すが、ここは、貝という貝を、という助数詞「つ」(個・箇)のニュアンスを含ませたか。
「歸化人」はウィキの「欧米系島民」に詳しい。この「欧米系島民」とは小笠原諸島に居住していたかつて外国籍(但し、ハワイ人やポリネシア人が含まれていて欧米系白人のみではない)を持っていて日本に帰化した(明治一五(一八八二)年に居住していた二十戸七十二人全員が帰化し日本人となっている)人々とその子孫を指す語である。小笠原への本格的入植は日本からではなく、一八三〇(文政一三)年のイタリア出身のイギリス人と称するマテオ・マザロを団長とするイギリス人二名・アメリカ人二名・デンマーク人一名の五名及びハワイ人男女二十五名(十五人とするものもある)がホノルルから出向、六月二十六日に父島に到着し、入植したのが最初とされ、マテオ・マザロからの報告を受けたサンドイッチ諸島イギリス領事代理は、入植地に原住民はいなかった、と同年の報告書に記しているとある(但し、十九世紀初頭に来島した者の航海日誌や探検報告書によれば小笠原諸島に自ら住みついた白人やカナカ人(色の黒い人)住人がいたことが記されており、一八二七(文政一〇)年には難破した捕鯨船の乗組員が数年居住した事実もウィキに記されてある)。小笠原は一八三〇年の『入植後も各国の捕鯨船が頻繁に寄港しており、物資や手紙のやりとりを託す連絡船として機能していた』が、文久元年十二月十七日(一八六一年十一月十六日)に江戸幕府が列国公使に小笠原の開拓を通告、一八六二年一月(文久元年十二月)には外国奉行水野忠徳の一行が咸臨丸で小笠原に派遣されている。明治九(一八七六)年に明治新政府は小笠原島を内務省所轄とし、日本の統治を各国に通告、それを受けて先に示した全欧米系島民の帰化が明治一五年になされた。『第二次世界大戦中、戦火が間近に迫っていることから小笠原諸島の全住民は、欧米系島民も含め本土へ疎開した』が、『戦後アメリカの統治下に置かれると、小笠原諸島は日本の施政権から切り離される。そして欧米系島民のみが帰島を許された。アメリカ統治時代は英語が公用語とされ、義務教育課程校のラドフォード提督初等学校で英語による教育を受けた』。昭和四三(一九六八)年六月二十六日の日本への『返還後は、戦前からの移住民に加え、新たに本土から移住してくる新島民とともに共存している。アメリカ統治下で英語教育を受けた世代は、日本語に馴染めず、アメリカ本国に移住したものもいる』。なお、『現在、欧米系島民の姓として代表的なものは、セイヴァリー→瀬掘・奥村(アメリカ系)、ワシントン→大平・木村・池田・松澤(アメリカ系)、ウェッブ→上部(アメリカ系)、ギリー→南(アメリカ系)、ゴンザレス→岸・小笠原(ポルトガル系)、ゲーラー→野沢などがあげられる』が、四~六世代目を『迎えた現在、大多数は日本人との混血となっており、外見上は日本人とほとんど変わらない人も少なくない。今でも小笠原の電話帳などでみられる、これらの姓は欧米系島民の入植者の子孫である』とある。『欧米系島民と呼ばれるものの、その出自は出版された航海日誌などで確認できるものとしては、アメリカ合衆国、ハワイ、イギリス、ドイツ、ポルトガル、デンマーク、フランス、ポリネシア原住民など多種多様』であるともある。この褐色の髪と黒き瞳の少女――存命ならば八十歳を越えておられよう――逢ってみたい気がする……]

    更に奧村を行けば十歳ばかりの少年
    馴々しく話しかけわが爲に章魚木の
    實をとらむとて木に攀づ
章魚木たこのきにのぼる童の眼は碧く鳶色肌の生毛うぶげ日に照る
ナイフ光り實は落ちにけり少年もとびおりたれど砂にまろびぬ
根上りし章魚木の東根に背をたせやゝに汗ばむ少年の顏
[やぶちゃん注:前書は一文前が連続であるが、適宜改行した。先に注で示した通り、タコノキは夏に数十個の果実が固まったパイナップル状の集合果をつけ、果実は秋にオレンジ色に熟し、茹でて食用としたり、食用油を採取する原料とする。この記載(ウィキの「タコノキ」に拠る)では季節的に(中島敦の来島は三月下旬)どうかと思ったが、ナオミアさんの三月十六日附(二〇〇九年)の小笠原旅行中のブログに、熟したタコノキの実がそこここにあり、実のなっている画像も示されている。]

  この少年を伴ひて裏山にのぼる
この山の案内あないをせむといふ少年の名を問へばロバァト
灌木分けて巖根いはねを攀ぢ行けば汗流れたりロバァトも我も
上衣脱ぎ手に持ち行けど汗しとゞにじみて來るも三月といふに
メリメ書くコルシカの山も思はるゝ日は豐かなれど岩のこごしさ
[やぶちゃん注:フランスの作家プロスペル・メリメ(Prosper Mérimée 一八〇三年~一八七〇年)は一八三四年にフランス歴史記念物監督官に就任(一八六〇年まで在任)、公務を交えてフランス各地やコルシカ島への考古学的調査を含めた旅をする機会を得、その旅行記(一八三五年~一八四一年)を出版しているが、ここはメリメの、「カルメン」に先行する代表作でコルシカ島を舞台とした女性の仇討小説「コロンバ」(一八三〇年~一八四〇年)を指しているか(ウィキの「プロスペル・メリメ」などを参照した)。]
岩の赤章魚樹あかたこのきの厚葉ごしに大わたつみの靑き膨らみ
岩疊いはだたみのぼりのぼりて要塞の錢條網に行當りたり
[やぶちゃん注:「要塞」小笠原父島要塞。父島は日本海軍が日露戦争後に着目し、貯炭場・無線通信所などを設置、海軍からの強い要請で、大正九(一九二〇)年に陸軍築城部父島支部が設置されて測量・砲台設計に着手した。砲台工事は翌年から着工されたが、一九二二年二月のワシントン軍縮会議による太平洋防備制限条約により砲台工事は中止となっていた。しかし、昭和九(一九三四)年十二月に日本が防備制限条約から脱退するに伴って、砲台工事は再開、備砲工事に着手している。本旅行は昭和一一(一九三六)年の春であるから既に相応のものが完成していたものと思われる(ウィキの「父島要塞」を参照した)。「ファーザーのHP」の「小笠原要塞(父島、母島)」及びそこからリンクする詳細探訪ページによれば、父島の要塞は大神山・夜明山及び最高峰の中央山にそれぞれ存在したことが分かる。ここは心情的にはロケーションから中央山ととりたくはなる(ファーザー氏の当該地画像を含む頁)。]
大き雲過ぎ行くなべに岩山も斜面なだりの椰子もしましかげりつ
[やぶちゃん注:「斜面なだり」「なだり」は「なだれ」(雪崩・傾れ・頽れ)の転訛した語で、斜めに傾くこと、また、そのような地形を指す。近代になって発生した語のようである。]
眞日わたる南國みなみの空に雲なくて見入ればしんしんと深き色かも
山峽やまかひの谷に家あり家裏に豚飼ひにけりバナナも植ゑつ
豚の背に銀蠅あまた唸りゐてバナナ畠に陽はうらゝなり

    以下五首 大村街上所見
[やぶちゃん注:「大村」父島の中心地である北西部の集落名。現在も小笠原諸島を統轄する小笠原村役場が置かれている。]
僧衣著ころもけす僧が竿もて木瓜パパイヤの實をとりにけり立ちてしけり
[やぶちゃん注:「著す」は「着す」とも書く上代語で、サ行四段活用の他動詞。「着る」の尊敬語。
木瓜パパイヤ」双子葉植物綱スミレ目パパイア科パパイア Carica papaya 。ボケと同じ「木瓜」という表記はパパイアの異名和名の一つであるが、これで「モッカ」と読む。他にも「チチウリノキ(乳瓜木)」「マンジュマイ(万寿瓜)」「パウパウ」「ポーポー」「ママオ」「ツリーメロン」などと呼ばれることもある(以上はウィキの「パパイア」に拠る)。]
小笠原支廳の庭に椰子伸びて島の役所の事無げに見ゆ
[やぶちゃん注:「小笠原支廳」ウィキの「小笠原諸島」の「年表」をみると、明治九(一八七六)年に小笠原島の日本統治を各国に通告して日本の領有が確定、小笠原諸島は内務省の管轄となり、同時に日本人三十七名が父島に定住して内務省出張所が設置され、明治十三(一八八〇)年には父島に東京府小笠原出張所が置かれている(この二年後の明治一五(一八八二)年には東京府出張所の行なう行政に協議権をもつ会議所も設置され、議員十五人を公選、この時、欧米系住民が全て日本に帰化している)。その後、明治一九(一八八六)年にこの小笠原出張所が小笠原島庁と改称(この後の大正九(一九二〇)年には陸軍築城部が父島支部設置し、これ以降、先の歌に出た砲台などの陸軍施設が建設されていった)、大正一五(一九二六)年の郡制の廃止と同時に小笠原島庁は東京府小笠原支庁に改称していることが分かる。]
みんなみの島の理髮店とこやの晝永くうつらうつらとひげ剃らせけり
[やぶちゃん注:「うつらうつら」の後半は底本では踊り字「〱」。]
父島の二見細江ほそえの渚べに赤ら目河豚が打ちあがりゐる
[やぶちゃん注:「父島の二見細江の渚べ」父島の北西に、大村を西岸とする西に開いた大きな二見湾があり、この湾の大村を含む北部一帯の貫入部分が、父島の表玄関である二見港である。「細江」とあるのは地名ではないと思われ、細い入り江の謂いであろう。地図で見ると二見港の開口部分は一キロメートル程度、二見港最深部もここから一キロ半程で、「細江」と言ってもおかしくはないと思われる。
「赤ら目河豚」和名では条鰭綱フグ目フグ科トラフグ属アカメフグ Takifugu chrysops がいるが、トラフグ属ヒガンフグ Takifugu pardalis など他の種でも目が赤いフグ類はおり、実際にヒガンフグは地方名でアカメフグとも呼称するのでここでは同定は出来ない。]
午後ひるすぎの石垣の上に尾の切れし石龍子とかげを見たり金綠きんりよくせな

    捕鯨船なりといふが北方に進み行くを見る
いすくはし鯨魚漁くぢらいさると父島の海人あま猛夫たけをら今船出する
[やぶちゃん注:「いすくはし」「くじら(鯨)」の枕詞。「勇細し」で、勇ましくすぐれている意、又は、魚の中でも素晴らしいもの、の意かともいう。上古より用いられた古代語である。]
白浪のかしこき海を鯨船巖くぢらぶねいほ過ぎて漕ぎ行くが見ゆ

    夕の椰子の歌
     薄暮大村より南方に通ずる峠を上る、
     峠を越ゆれば即ち、見はろかす巉岩の
     累積の彼方、昏れ行く太平洋の渺淼た
     るを見る。巉岩の億傾斜のところどこ
     ろ椰子樹佇立して夕風に鳴る、わがか
     たはらにも亦一本あり
夕されば孤島に寄する波の音岩の上にしてひとり聞きたり
岩の上に夕潮騷を聞き立てる一本ひともと椰子の菓ずれ寂しも
潮騷しほざゐのやゝにさかれば荒磯邊ありそべの靑枯椰子も眠りに入るか
荒磯邊ありそべの巖の椰子らおのがじし夕べさびしく眠りに入るも
夕坂ををもつ翁のぼり來て内地の人かと慇懃いんぎんに問ふ
八丈より移りてここに五十年いそとせを乏しき土に生くるとふ翁
五十年いそとせの生きの寂しさしみじみと翁は嘆く椰子のもとにして
[やぶちゃん注:詞書の中の「ところどころ」及び最後の一首の「しみじみ」の後半はいずれも底本では踊り字「〲」。
「渺淼」は「べうべう(びょうびょう)」と読み、水が果てしなく広がっているさま。「渺」の字は「淼」の異体字であるから、「渺渺」に同じい。
「大村より南方に通ずる峠」父島の南方にある峠としては「中山峠」がある(国土地理院地形図閲覧システム 東経142度11分31秒・北緯27度3分28秒)。地図上で見る限り、ロケーションもここに相応しい気はする。こちらの honeycat2201 氏の「父島 中山峠からの眺め」を見ると、その確信が一気に高まる(動画。風切音が大きいので再生に注意)。グーグルのストリート・ビューで見る限りではこの附近、海岸に近づくに従って椰子がかなり茂っていて、今や中島敦の「ところどころ」どころではない感じである。]


      峠を下りて大村に歸り夕餐ゆふげをしたたむ
波の音夕べ淋しき島根にも料理屋ありて女化粧けはひ
ものうげに鯨肉くぢらの刺身運びくる女の潰島田つぶししどけなげなり
[やぶちゃん注:「潰島田つぶし」「つぶししまだ」の略称。女性の髪形の一つで島田まげの根もとを短くしてまげを押しつぶしたように低く結ったもの。特異なものではなく、江戸後期には島田髷といえばこの髷をさすほどに流行した。髷の中央を元結で結んだ箇所が凹んで潰れて見える。]
何處いづくゆか流れ來りし女なる淫らにはげし白粉のあと
この島に誰か夕べを遊ぶらむ二階に入り三味の洩るゝ
濱にゐて夕浪のに立交じる三味の聞けはいよゝさぶしも

   夜に入り空曇る。船にかへり甲板にて釣を見る
暗き夜を橘丸の舷側にアセチリン燃し釣る男あり
[やぶちゃん注:この詞書によって船中泊であったことが分かる。
「橘丸」は、この前年の昭和一〇(一九三五)年六月に商業航海を行ったばかりの東京湾汽船(現在の東海汽船)所属の、「東京湾の女王」と呼ばれた大型貨客船橘丸(一七七二トン/全長八〇・四〇メートル/型幅一二・二〇メートる)か。だとすると、ウィキの「橘丸」にあるように大型船であったがために、当時の下田港(昭和一二(一九三七)年の岸壁の完成まで)や伊豆大島(昭和一五(一九四〇)年の岡田港完成まで)の港湾施設には「橘丸」は接岸が出来なかったとあるから、父島でもそれらの当時の港と同じく橘丸を沖合(恐らく二見湾内)に止めて交通船で往来していたものと考えられる。
 この二代目橘丸(一代目は同じ東京湾汽船が大正時代に建造し運航していた三九二トンの小型貨客船)については――見当違いであろうと脱線であろうと――どうしても語っておきたい(読めば何故かお分かり頂けるであろう。その戦時下の悲惨な運命以外にも、今一つ私好みの理由があるからである)。この橘丸は戦時中、陸軍病院船として徴用されるが、昭和二〇(一九四五)年八月三日、バンダ海を航行中に国際法に違反して部隊・武器輸送していたことが発覚、アメリカ海軍駆逐艦によって拿捕され(橘丸事件)、日本陸軍創設史上最も多い約一五〇〇名が捕虜となっている(この前後はウィキの「橘丸事件」に拠った)。五日後の八日に橘丸はモロタイ島に、敗戦前日の八月十四日にはマニラに入港、乗組員もモンテンルパ収容所に収容された(終戦後に安田喜四郎船長を除く乗組員は無罪として釈放されている)。その後、橘丸はパラオからウェーク島に回航され、ウェーク島からの復員船として復員兵の第一陣となった七〇〇名を乗せて十月二十日に浦賀に帰投した。その後の復員船としての活動は昭和二三(一九四八)年頃に終わり(ここから以下はウィキの「橘丸」に拠る)、病院船としての設備を取り払った上で昭和二五(一九五〇)年二月二十三日付で東海汽船に戻った。大島航路に復帰後の「橘丸」は観光事情の回復とともに、漸く本来の実力を発揮するようになり、伊豆大島との往復の他に納涼船としても使用されたりした(何と! 私の偏愛するあの昭和二九(一九五四)年の「ゴジラ」に登場する東京湾上の船が橘丸なのだ!)、その後も昭和三七(一九六二)年八月二十四日の三宅島噴火では海上自衛隊の護衛艦「わかば」などとともに避難民輸送に従事した。昭和四八(一九七三)年一月、初代「さるびあ丸」(三〇四九トン)の竣工に伴って引退した。就航から引退までの三十八年間に橘丸が運んだ乗客数は凡そ八百万人を数えたとある。その中の一人が中島敦だった(と無理矢理締めくくっておく)。]
アセチリンの光圈くわうけんの中に一本のつり絲垂れて下は夜の海
忽ちに水湧きさやぎ絲張りて手強てごはきが如し引きに引けども
ね狂ひ濡れ光りつゝ船腹を尾もて叩き打ち上りくる魚
とび跳ねて喰ひつかむずる猛きもの虎鮫の仔と聞けば恐しき
[やぶちゃん注:「虎鮫」トラザメという標準和名は現在、軟骨魚綱板鰓亜綱メジロザメ目トラザメ科トラザメ Scyliorhinus torazame を指す(日本固有種で伊豆半島周辺海域にしか見られないイズハナトラザメ Scyliorhinus tokubee ・英名“Izu cat shark”という種もいる。外見はトラザメに似るがトラザメよりも背部の小さな白色の斑点が有意に多い)。成体の体長は五〇 センチメートルで円筒形で鰭は小さい。二基の背鰭が体の後方にあり、体色は全体的に茶褐色を呈し、“Cloudy catshark”という英名が示すように黒褐色の雲状斑紋が幾つかあり、それよりも小さな白斑が多数見られる(この模様は生活場所の岩や石の多い環境に溶け込むための擬態と考えられている)。底生性の夜行性で、日中は岩の間などに身を潜めて凝っとしており、夜になると餌を求めて遊泳する。卵生でトラザメ科ナヌカザメ(七日鮫) Cephaloscyllium umbratile (和名は生命力が強く水から揚げても七日間生きているとされることに由来)などと同様、大きさ五センチメートルほどの、半透明な竪琴状をした卵殻の中に胎仔が入っている『人魚の財布』と呼ばれる特徴的な卵を産む(リンク先画像を参照。外側の袋の端には蔓状の構造物があって、これで海藻などに絡みついて卵を固定しする。サメの胎仔は卵黄の栄養分を使いながら卵の中で約一年かけて成長、五 ~一〇 センチメートルの大きさで孵化する)。性格はおとなしく、人を襲うことはない。丈夫であまり泳ぎ回らず、小型種のため水族館は勿論、一般家庭での飼育にも適している、とウィキの「トラザメ」にある。しかし――この記載を読めば読むほど、私にはどうも違和感が増大してくるのである。――ここで中島敦が「虎鮫」と言い、「忽ちに水湧きさやぎ絲張りて手強」くて、「引きに引けども」なかなか揚がらず、「跳ね狂ひ濡れ光りつゝ船腹を尾もて叩き打ち上りくる魚」――「とび跳ねて喰ひつかむずる猛きもの」――それは「虎鮫の仔」であると船員が言う――それを見「聞けば恐し」く感じ、次歌のような血が飛び散った凄惨図となり果てるのは――本当に――トラザメ Scyliorhinus torazame なんだろうか?――という素朴な疑惑である。するとウィキの記載の最後が眼に入る。『トラザメ類は英語でCatshark (キャットシャーク)であり、Tigershark (タイガーシャーク)ではない。Tigershark と言うと本種とは反対の獰猛な大型種イタチザメになる。このように、サメの名前は日本語を英語に直訳しても通じないばかりか、別のサメを指してしまうことが多い。(例として同じメジロザメ科のツマジロは英語にすれば、Whitetip reef shark だが、海外ではSilvertip shark の事を指す。)』『因みにCatsharkを日本語に直訳すれば「ネコザメ」だが、日本でネコザメといえばまた別種のサメになる。ネコザメの海外名は bullhead shark で、”牛頭鮫”という意味になる』とある。私ははたと手を打った。これは船員がこれを英名で「タイガー・シャーク」と言ったのを、そのまま訳したのではあるまいか? 則ち、この「虎鮫」はトラザメ Scyliorhinus torazame ではなく、『人喰い鮫』の一種で、熱帯地方では最も危険なサメとされているメジロザメ科イタチザメ Galeocerdo cuvier のことを指しているのではあるまいか? 私はこれら一連の短歌はイタチザメであってこそ鮮烈でリアルになると思うのであるが、如何であろう? グーグル画像検索“ Galeocerdo cuvier ”をご覧あれ。こりゃ、虎斑(とらふ)でんがな。]
棍棒もて打ち殺されし鮫の仔の白き腹濡れて淡血うすち流れゐる

    歸航の途次八丈に寄る
      八重根港に上陸、直ちに野天にて牛乳の饗應を受く
大き樽に滿々として牛の乳はや飮みたまへと村の人いふ
どんぶりに乳をすくひて一息に飮みほしにけり雫のごはず

    八丈は小さき島なるよ
西港八重根をあとにのぼりとはやも見えきぬ東の
[やぶちゃん注:八丈島中央の南西側に位置する八重根漁港から東北へ約四・四キロメートルの位置に神湊かみなと港があるが、この東一帯を三根と呼称する。]
白黑のはだれの牛の眼もやさし石垣沿ひの往還にして
[やぶちゃん注:「はだれ」は古語で「はだら」に同じ。まだらの意。]
綠高き家あり屋根の茅葺の茅の厚さをめづらしと見つ
石垣の上につゞくは櫻ならむ蕾ふゝめり春日しみゝに
中納言秀家の墓め行けどもとな知らえず春の日れぬ
[やぶちゃん注:「中納言秀家」所謂、五大老の一人であった宇喜多秀家うきたひでいえ(元亀三(一五七二)年~明暦元(一六五五)年/一説に寛永二(一六二五)年とも)。秀吉に寵遇され、文禄三(一五九四)年権中納言に任ぜられた。慶長五(一六〇〇)年に関ケ原の戦いでは西軍総帥に擁されたが、敗れて島津義弘を頼り薩摩に逃亡、同八年、島津・前田両家の嘆願によって死罪を免れて駿河久能山に幽閉された後、同一一年に八丈島に配流となって同地で没した(ここまでは「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。八丈島では苗字を浮田、号を久福と改め、妻の実家である加賀前田氏宇喜多旧臣であった花房正成らの援助を受けて五十年を過ごし、高貴な身分も相まって他の流人よりも厚遇されていたとも言われるが、偶然に嵐のために八丈島に退避していた福島正則の家臣に酒を恵んでもらったという話や、八丈島の代官におにぎりを馳走してもらった話(飯を二杯所望し、三杯目はお握りにして妻子への土産にしたとも)などが伝承されている。家康の死後に恩赦により刑が解かれたが秀家は八丈島に留まったという説もある。大名としての宇喜多家はそこで滅亡したが、秀家と共に流刑となった長男と次男の子孫が八丈島で血脈を伝えた。明治以後、宇喜多一族は東京本土に移住したが、数年後に八丈島に戻った子孫の家系が現在も墓を守り続けている。秀家が釣りをしていたと伝わる八丈島大賀郷の南原海岸には現在、西(秀家は備前岡山五十七万四千石の大名の最後の当主であった)を臨む秀家と正室豪姫(天正二(一五七四)年~寛永一一(一六三四)年)は前田利家四女で秀吉養女。秀家の八丈島流罪後は兄前田利長の元へ戻され、他家へ嫁ぐことなく金沢西町に移り住んで秀家に物資を送り続けて余生を送ったという)の石像が建てられている。八丈島の墓所は現在の東京都八丈町大賀郷にある稲場墓地である(ここまではウィキの「宇喜多秀家」に拠った)。「岡山市東京事務所」公式サイトの「宇喜多秀家の墓(八丈島)」で地図と墓石の画像が確認出来る。見れなかった中島敦の代わりに見ておこう。
「もとな知らえず」は上代の副詞で、根拠なく・やたらに、また、非常にの意であるから、もう一向にその在り処を知ることが出来ず、の謂いであろう。]
夕暗き椿小道つばきこみちゆのつそりと牛が出てきぬ大き乳牛
春の夜の小學校の庭にして村人の歌ふ八丈の歌
芋酒をくらひ醉へばか太鼓うつ若者の動作いやおどけくる
さくさくと踏めは崩るゝ春の夜の火山灰道を海に下り行く
[やぶちゃん注:「さくさく」の後半は底本では踊り字「〱」。]



中島敦短歌拾遺

[やぶちゃん注:以下は既に電子化注釈を終了した筑摩書房昭和五七(一九八二)年増補版「中島敦全集」第二巻所収の「歌稿」以外に同全集第三巻の「ノート・斷片」「手帳・日記」に見出せる短歌及び歌稿草稿と思しいものを拾い集めたものである。]



見まく欲り來しくもしるく山手なる外人墓地の秋草の色
秋風もいたくな吹きそ若き日の聖クラヽが三人歩める
我も見つ人にも告げん元町の增德院の二本銀杏
あさもよし
元町の
あしびきの山の手の店に踊子は縞のショールを買ひにけるかな
踊子は縞のショールを買ひてけり秋の夕は秋の風吹く
夕されば   踊子の亜麻色の髪に秋の風吹く
眺めつゝ淋しきものか眉描きし霧の夜頃の踊子の顏
あるぜんちんのたんごなるらしキャバレエの窓より洩るゝこの小夜ふけに
うかれ男に我はあらねど小夜ふけてブルース聞けば心躍る
[やぶちゃん注:「ノート・斷片」の「斷片」の、底本編者が「十四」とする短歌草稿群。「夕されば」の後の三字空きはママ。これらは明らかに先に掲げた「歌稿」の「霧・ワルツ・ぎんがみ――秋冷羌笛賦――」の草稿である。以下、煩を厭わず、決定稿と並列させてみる。最初に本稿の歌稿●、次に〔 〕で当該決定稿の所収歌群(前書のテーマ)を示して決定稿◎を示す(添書のあるものはそれも示した)。

●見まく欲り來しくもしるく山手なる外人墓地の秋草の色
〔「於外人墓地」の巻頭〕
◎見まくしくもしるし山手なる外人墓地の秋草の色

●秋風もいたくな吹きそ若き日の聖クラヽが三人歩める
〔「街頭スケッチ」の十二首目〕
◎秋の風いたくな吹きそ若き日の聖クララがうけ歩みする (若き尼僧は天主教の黑衣を纏へり)
[やぶちゃん注:「うけ歩みする」の推敲は画面のエッジ切れるように鋭くなって美事なものである。]

●我も見つ人にも告げん元町の增德院の二本銀杏
〔「ひげ・いてふの歌」巻頭〕
◎我も見つ人にも告げむ元街の增德院の二本銀杏ふたもといてふ

●あさもよし
〔「街頭スケッチ」の十八首目〕
◎(?)あさもよし喜久屋のネオンともりけり山手は霧とけぶれるらしも

●元町の
◎(なし)
[やぶちゃん注:これを初句とする短歌は存在しない。没草稿の一つか。或いは、「歌稿」で「霧・ワルツ・ぎんがみ――秋冷羌笛賦――」に先行する「Miscellany」歌群に含まれる、元町を詠み込んだ(以下の敦の表記法は曾てあった当て字だらけのルビ俳句までは行かないがかなり苦しいものではある)、

拙なかるわが歌なれど我死なは友はまち元町まち)行き憶ひいでむか

に類したものを詠じようとしたものか。因みに元町の詠歌多いが、「元町」を歌の中に詠み込んだものは「歌稿」ではこの一首のみである。]

●あしびきの山の手の店に踊子は縞のショールを買ひにけるかな
〔「踊り子の歌」巻頭〕
◎あしびきの山の手の店に踊子は縞のショールを買ひにけるかな

●夕されば   踊子の亜麻色の髪に秋の風吹く
〔同じく「踊り子の歌」三首目〕
◎夕さればルムバよくする踊り子の亞麻色の髮に秋の風吹く
[やぶちゃん注:二句目の推敲の素晴らしさがよく分かる。]

●眺めつゝ淋しきものか眉描きし霧の夜頃の踊子の顏
〔同じく「踊り子の歌」五首目〕
◎眺めつゝ寂しきものか眉描きし霧の夜頃の踊り子の顏

●あるぜんちんのたんごなるらしキャバレエの窓より洩るゝこの小夜ふけに
〔同じく「踊り子の歌」七首目〕
亞爾然丁あるぜんちんのタンゴなるらしキャヷレエの窓より洩るゝこの小夜更さよふけに

●うかれ男に我はあらねど小夜ふけてブルース聞けば心躍るも
〔同じく「踊り子の歌」七首目〕
◎浮かれ男に我はあらねど小夜ふけてブルウス聞けば心躍るも

以上から分かるように、これに限って見れば、敦の短歌は殆んど天然の形がそのまま決定稿に生きていることが分かる。また、彫琢部分も実に鋭い。歌人としての中島敦を我々は積極的に見直すべきである私は感じている。]



[やぶちゃん前注:以下は、底本の「手帳」の現存する最古の「昭和八年」から。]

 秋近み高原の空は山欅の木の梢を洩れて眼に沁みきたる
[やぶちゃん注:本歌群の詠唱時期は八月と推定される(後注を必ず参照のこと)。
「山欅」は通常は「やまにれ」又は「あきにれ」と読むが、「歌稿」の「Miscellany」歌群に、この草稿の三首目の決定稿が載るが(後注参照)、そこで「山毛欅」と書いて「ぶな」とルビを振っており、明らかに敦はここでは「木欅」と書いて「ぶな」誤訓していることが分かる。ブナ目ブナ科ブナ Fagus crenata である。因みに正しい「山欅」はイラクサ目ニレ科ニレ属アキニレ Ulmus parvifolia の異名で、名は同ニレ属の中で唯一、秋に開花することに由来する。アキニレは「ネバの木」とも呼ばれ、カブトムシやクワガタが好む、とウィキの「アキニレ」にある。従って整理すると、この一首は、
 あきふかみ/たかはら(又はかうげん)のそらは/ぶなのきの/こずゑ(又はこぬれ)をもれて/めにしみきたる
と訓ずるものと思われる。私は「たかはら」で読みたい。]

大淸水にて、
 たまきはるいのち愛しも山深き空の碧を眺めてあれば
[やぶちゃん注:「大淸水」群馬県利根郡片品村戸倉にある尾瀬の群馬側登山口。標高一一八〇メートル。尾瀬探勝では鳩待峠から入り、最後にこの大清水へ下るルートがよく利用される。]

 さらさらと山欅の大木は高原のあしたの風にうら葉かへすも
[やぶちゃん注:「さらさら」の後半は底本では踊り字「〱」。「山欅の大木は」は「ぶなのおほきは」と訓じていると思われる。
 この一首は「Miscellany」歌群の「尾瀨の歌」に「大淸水にて」の前書で一首載るものの草稿であるが、そこでは(踊り字はここと同じ)、
 さらさらと山毛欅ぶなの大木は高原のあしたの風にうら葉かへすも
となっている。さらに「手帳」には二箇所について別案が記されていることが底本注記で分る。それを復元して以下に示す。
 さらさらと山欅の大木の高原のあしたの風にうら葉かへすも
 さらさらと山欅の大木は高原のあしたの風に木の葉かへすも
 さらさらと山欅の大木の高原のあしたの風に木の葉かへすも
本来の句形でよいように(短歌には暗愚であるが)私には思われる。]

 山欅わたる風の冷たさこのあさけ高原は秋となりにけらしも
[やぶちゃん注:「山欅」は前に注した通りで「ぶな」(以下、この読みで通すので注記は略す)。この一首、「冷たさ」を「寒さよ」とする別案が記されていることが底本注記で分る。それを復元して以下に示す。
 山欅わたる風の寒さよこのあさけ高原は秋となりにけらしも
また、「けらしも」には「けり/ける/けらしも」という別案(?)附記があるらしいが、これは音数から見ても「けらしも」を引き出すまでの推敲メモのように思われる。]

水山欅の梢もれくる空の靑草にいねつゝわが仰ぎけり【全抹消】
[やぶちゃん注:本歌は私の【 】注記通り、一首全部が抹消されている(以下、この説明は略す)。「水山欅」は「みづぶな」と訓じているのであろう。この「水」は「瑞」で、瑞々しい・麗しいの謂いである。言わずもがなであるが「空のあをくさにいねつゝ」で切れる。]

尾瀨へ、
 いつしかに會津境もすぎにけり、山欅の木の間ゆ尾瀨沼靑し、
[やぶちゃん注:「Miscellany」歌群の「尾瀨の歌」に「三平峠より尾瀨へ」の前書で載る三首の一首目の草稿であるが、そこでは、
 いつしかに會津境も過ぎにけり山毛欅ぶなの木の間ゆ尾瀨沼靑く
となっている。確かに「靑く」の方が余情を加えてよい。]

 水芭蕉の茂れる蔭ゆかち色の小兎一つ覗きゐしかも
[やぶちゃん注:「Miscellany」歌群の「尾瀨の歌」に「三平峠より尾瀨へ」の前書で載る三首の二首目の草稿であるが、そこでは、
 水芭蕉茂れる蔭ゆ褐色の小兎一つ覗きゐしかも
とある。この草稿の存在によってこれが「かちいろ」と訓じていることが分かる。
 なお「手帳」草稿では「覗きゐしかも」の「ゐる」を「たる」とした「覗きたるかも」とするかと思われる別案が記されていることが底本注記で分る。それを復元して以下に示す。
 水芭蕉の茂れる蔭ゆかち色の小兎一つ覗きたるかも
決定稿が画像がしまっていてよい。]

 兎追ひ空しく疲れ草に伏しぬ山百合赤く咲けるが上に
[やぶちゃん注:「Miscellany」歌群の「尾瀨の歌」に「三平峠より尾瀨へ」の前書で載る三首の掉尾であるが、そこでは、
 兎追ひ空しく疲れ草にしぬ山百合赤く咲けるが上に
とある。]

 白々と白根葵の咲く沼邊、岩魚下げつゝ我が歸りけり。
[やぶちゃん注:「Miscellany」歌群の「尾瀨の歌」の表題直後に掲げられている二首の二首目の草稿であるが、そこでは、
 しろじろと白根葵の咲く沼邊岩魚下いはなさげつゝ我が歸りけり
となっている(「しろじろ」の後半は底本では踊り字「〲」)。
 「白根葵」はそこでも注したが、キンポウゲ目キンポウゲ科シラネアオイ Glaucidium palmatum 。日本固有種の高山植物で一属一種。草高は二〇~三〇センチメートルで花期は五~七月、花弁はなく、七センチメートルほどの大きな淡い紫色をした非常に美しい姿の萼片を四枚有する。和名は日光白根山に多いこと、花がタチアオイ(アオイ目アオイ科ビロードアオイ属タチアオイ Althaea rosea )に似ることに由来する(以上はウィキの「シラネオアイ」を参照した)。「しろじろと」が不審であったが、「尾瀬ガイドネット」の「花ナビ」の「シラネアオイ(白根葵)」によれば、『花のサイズが大きくて綺麗で』、『白花から赤花、青花まで色の変化が見られる』とあるので問題ないようである(但し、『尾瀬に多いのは青紫色のシラネアオイ』ともある)。但し、この頁をよく読むと、『シラネアオイは高山に生息し湿原には生息しない』とあり、『綺麗で目立つので採取され移植されていることも』結構あり、『尾瀬の山小屋の前に植えられているのをよく見る』とあるから、中島敦が見たものは実は人為的に植生されたものかとも思われる。『尾瀬の山小屋によく植えられてい』て『綺麗だが、シラネアオイがワサワサ咲いていると、違和感を覚える』と現地ガイドが記すぐらいだから、この花は、狭義の尾瀬沼の本来のイメージには、実は属さない花であると言えるようだ。済みません、野暮を言いました、敦さん。]

 じゆんさいの浮ぶ沼の面、月に光り、燧の影はゆるぎだにせず、【全抹消】
[やぶちゃん注:「燧」燧ヶ嶽。福島県南西端にある火山。海抜二三五六メートル、南西中腹に尾瀬沼・尾瀬ヶ原が広がっている。]

 熊の棲む會津よろしと、燧山、尾瀨沼の上に神さびせすも
[やぶちゃん注:「神さびせすも」「万葉集」から見られる上代表現で、「神さび」は「かみさび」→「かむさび」→「かんさび」で神のように振る舞うこと、そのように神々しいことをいう名詞(「さび」はもと名詞につく接尾語「さぶ」で、そのものらしい様子でいるの意)。「せす」(サ変動詞「す」未然形+上代の尊敬の助動詞(四段型)「す」)で、なさる、の意。「も」は詠嘆の終助詞であろう。
 「Miscellany」歌群の「尾瀨の歌」の表題直後に掲げられている二首の一首目の草稿であるが、そこでは、
 熊の棲む會津よろしと燧岳ひうちだけ尾瀨沼の上にかんさびせすも
となっている。私は個人的に「ひうち」は「たけ」でないとしっくりこない山屋なので、決定稿がよい。]
[やぶちゃん後注:本歌群が尾瀬で詠まれたものであることは疑いようがないのであるが、現在の底本旧全集版の年譜上の知見では、敦は、横浜高等女学校の同僚と昭和九(一九三四)年の五月に乙女峠、八月に再び尾瀬・奥日光に遊んでいるとあって、この前年の「昭和八年」には年譜にはそうした記載はない。ところが試みに彼の現存する数少ない書簡を繰ってみると、昭和八年の八月十九日附橋本たか宛絵葉書(底本旧全集第三巻「書簡Ⅰ」内番号二七)が現在の群馬県利根郡みなかみ町にある法師温泉から発信されており、そこには(下線やぶちゃん)、

 天幕をかついで、四五日ぶらついて、此處まで來た。こゝは越後と上州の國境、山の中の電燈もない、淋しい温泉場だ、
もうすゝきが奇麗に穗を出してゐる。中々いゝ。
 一寸東京や横濱へは歸る氣がしない。
 そちらへ行くとすれば九月近くになるだらう。
 世田谷(小石川)のが、今度職があつとめたため大連に行つたよ、皆さんによろしく

とあり(取り消し線は抹消を示す。以下、この注を略す)、また続く八月二十九日附橋本たか宛書簡番号二八(封筒欠であるが恐らくは独居先であった横浜市中区山下町一六九同潤会アパートと思われる)では(下線やぶちゃん)、

 山からは一週間程前に歸つて來た。まだ中々あついね。

 今月もやつと、これだけしか送るれない。それに、これだけ送ると、もう、そちらへ行く汽車賃もないんだ。僕は、考へたんだがね。これだけにしろとにかく送るのと、そちらへ僕が行くだけで、何も金を置いてこられないのと、どつちが良いかつて。結局、金を送つた方が(實際的には)何といつても役に立つだらうと、きめたんだ。

 婿姻とゞけは(そちらに判をおしていたゞくために)二三日中に送る。あるひはもう、うちから送つたかもしれない。判を押していたゞいて、それから又、世田ケ谷の家へおくりかへしていたゞくのだ。

 それから、お前にだけ内證にきくのだが。
 新地において貰つて、氣づまりだつたり、辛かつたりすることが多くはないかい?
 それに何時頃まで置いていたゞけるのだい?
 それから、もし、東京へお前とチビとが來て間借でもするとすれば、大體、月いくら位で、あがるだらうね?
 右の返事をきかせてくれ。


                       敦 


 皆さんに殘暑御見舞を申上げておくれ、』
とあるのである(この二八書簡は中島敦の新妻への率直な思いや当時の状況をよく伝えて微笑ましい)。この「橋本たか」とは、文面からお分かりになった通り、敦の「妻」である。年譜では二人の結婚は昭和七(一九三二)年三月の大学在学中であり、しかもこの昭和八年の四月にたかは既に「チビ」、長男たけしを郷里(愛知県碧海へきかい依佐美よさみ村。現在の安城市の一部と刈谷市の一部)で産んでいるのであるが、二人は未だ同居をしておらず、いわば一種の妻問婚状態、単身赴任状態(同年四月の横浜高等女学校奉職以降)にあった。しかも年譜には書かれていないが、二八書簡に見る通り、何とこの時点でも正式な婚姻届は未だ出されていなかった事実も判明するのである(桓君の出生届はどうなっていたのでしょう? 後からわざわざ中島姓に変えたんですかねえ。戸籍にべたべたと追加記載が張られる上に、しかも私ならとても面倒だと思うんですがねえ……つまらないことが気になる、僕の悪い癖!……)。前の書簡の「小石川」は同書簡番号十九・二十に出る(二十には「皐さん」とある)が、これは敦の親戚である中島かうという人物である(大叔父の息子で父田人たびとの甥に当る)が、どうも文面から見るに、彼はたかの橋本家とも相当に親しい関係(婚姻届がここを経由しているように二八書簡で読めるのは何らかの姻族関係が強く疑われる)にあったものらしい。「新池」は依佐美村高棚新池で橋本家実家の地名である。
 補注が長くなった。
 この二つの書簡によって、昭和八年の八月十五日前後から八月二十二日前後までの間(最長八日から九日ほど)に、彼が尾瀬周辺を逍遙していた可能性が非常に高い確率であるということが分かった。寧ろ、翌九年の尾瀬行は、もしかするとこの時に踏破した思い出の場所を同僚たちに彼が勧め、実現した再山行ではなかったろうか? そうしてこの歌稿草稿や「歌稿」の「尾瀨の歌」を見渡すと、高原に佇んでいるのは彼独りであることが見えて来るのである。我々が(少なくともさっきまでの私が)この歌群の映像が年譜上の記載から(実は彼の書簡を読んだの今回が初めてである)昭和九年の同僚たちとのわいわいがやがやの尾瀬行だ、と無批判に思い込んでいたのは大いなる愚であったと思い始めているのである。]



  相模野の大根村ゆ我が友は南南豆を提げて來しかな

  送らうといへば手を振り「いや」といふかつては「ノン」といひてしものを

[やぶちゃん注:底本の「手帳」の部の「昭和十二年」の十一月七日の日録の中に出現する二首。「南南豆」はママ。無論、「南京豆」の誤記。年譜には、まさにこの年のこの『十一月から十二月にかけて「和歌五百首」成る』とあり(「和歌五百首」とは全集第二巻所収の「歌稿」群を指す)、この日よりも前の部分にその雰囲気が伝わってくる記載があるので、この日までを以下に示す。

十一月三日(水)何トナク和歌ガツクリタクナル/作リ出スト20首程タチドコロニデキル
十一月四日(木)又、歌三〇首ほど
十一月五日(金)約三十首
十一月六日(土)約二十首
十一月七日(日)朝天氣ヨシ/吉村氏來、avec 南京豆

として、二首が載る。但し、一首目には「提げて」を「持ちて」とする別案のメモが示されているので別案を復元しておく。

  相模野の大根村ゆ我が友は南南豆を持ちて來しかな

「吉村氏」吉村睦勝。横浜高等女学校の同僚で友人。後に金沢大学教授(物理学)。旧全集には例外的に(友人・知人書簡は極めて少ない中で)彼宛の書簡は十通も掲載されている。書簡番号五五同昭和一二年十一月九日附吉村宛(『横濱市中區本郷町三ノ二四七』発信で宛先は『神奈川縣秦野町乳牛二三九一井上方』)には、

 一昨日は南京豆を難有う、話の巧い羊毛宣傳家は高橋六郎氏、アドレスは京橋區槇町一ノ五城邊ビルディング、日本羊毛普及會内 紙芝居の方も判り次第知らせる
 只今、喘息につての切拔到着、御親切にありがたう
   九日

とある。]



[やぶちゃん注:以下は、底本の「手帳」の部の「昭和十二年」に出現する多量の歌稿草稿。抹消された箇所は取消線で示したが、歌全体が抹消されているものについては読み易さを考え、末尾に【全抹消】という注記を附した(以下、この抹消の注は省く)。底本では短歌は一字下げ(二行に及ぶ場合はの二行目は頭へ)表記であるが無視した。各歌間(私の注を含め)は一行空けとした。底本にある改頁記号は総て省略した。]
       
人間の叡智も愛情なさけも亡びなむこの地球のさだめ悲しと思ふ【全抹消】

人類のほろびの前に凝然と懼れはせねど哀しかりけり【全抹消】

我はなほ人生を愛す冬の夜の喘息の發作苦しかれども【全抹消】

おしなべて愚昧くらきが中に燦然と人間のチエの光るたふとし【全抹消】

あるがまま醜きがままに人生を愛せむと思ふ他にみちなし【全抹消】

[やぶちゃん注:……敦よ、その君が「たふと」いと言ったはずの知恵が、君がかく詠んで直ぐに原子力を作り出すのだ……それは君の最初の二首にフィード・バックして響き合う……人間の叡智も愛情も亡びなむこの地球のさだめ悲しと思ふ……人類のほろびの前に凝然と懼れはせねど哀しかりけり……さ、歩こう、預言者――]

あさなさな車掌室より落つまじとすがりつゝ思ふ汝が尻尾を

[やぶちゃん注:「あさなさな」「あさあさな」の転訛。副詞で、毎朝・朝ごとにの意の上代からある古語。市電に飛び乗っている通勤途上の作者の戯画と思われる。その彼が思う「汝が尻尾」の「汝」(読みは「な」)は一人称「自分」で、そうした滑稽な己れを離れた位置のカメラでカリカチャライズしているものと思われる(「尻尾」は「しりを」と正しく訓じているように思われる)。]

上州は国定村の親分の口上くちびる靑くふるへたりけり

[やぶちゃん注:取消線は抹消を示す(以下、本注を略す)。これ以下、六首はチンドン屋の嘱目吟と思われる。後群ではそれが明白であるが、「くちびる靑く」で明らかに冬の戸外で、二句後の初句の「俠客」は明らかにチンドン屋の定番、この国定忠治(と私は勝手に思っているのだが)である。横浜には今も残る大衆演芸のメッカ三好演芸場があるが、画面は直近であり、舞台とは思われない。]

とりおひのバチもつ右手の手甲の雨にぬれつゝうごきゐるあはれ

俠客と、とりおひと竝ぶ口上のこゑも寒々と雨にぬれゐる街はしぐるゝ

まだらなる白粉の下ゆのぞきゐるけはしかる生活のかほをわが見つるかも

まだらなる白粉の下ゆのぞきゐるこゝだけはしき生活のかほ

[やぶちゃん注:「ここだ」副詞「幾許」で、程度の甚だしいさま。大層。]

歳末の大うり出のチンドンヤ氷雨ニヌレテハナヒリニケリ

シグレヒサメフル師走の町にチンドンヤの口上きけばうらさむしもよ

[やぶちゃん注:「チンドン哀歌」ともいうべき哀傷歌群である。チンドン屋の醸し出す不思議なペーソスを美事に映し得て素晴らしい。僕はチンドン屋という命題の真をかくも素朴に剔抉し得た短歌を、他に知らない。]

緋にもゆる胸毛にくちをさし入れてあうむうつくねむりてゐるも

くびをまげ翼の脇にくちを入れてあうむうつくねむりてゐるも【全抹消】

眼をとぢて目にぬくもれる緋あうむの頰の毛脱けていたいたしげりなり

[やぶちゃん注:「目」には底本にママ注記がある。「日」の字の敦の誤記と思われる。「いたいたしげなり」の後半の「いた」は底本では踊り字「〱」。]

いにしへのだるま大師もなが如く緋衣ひきて物思ひけむ

娼婦たはれめ衣裳きぬをまとへる哲學者あうむは眼をとぢ物を思ふ

緋衣の大嘴鸚鵡我を見て、又ものうげに眼をとぢにけり

[やぶちゃん注:「大嘴鸚鵡」は「おおはしあうむ」と訓じていよう。]

宵々の家になりはひ憎とふ君をし思へば心苦しも

[やぶちゃん注:私はこの歌から「かの宵」での恋歌十一首には、現在知られていない中島敦のある秘密が隠されていると確信する。その秘密とは、宵闇に浮ぶ団欒の燈火を見て連れの男に「憎し」と呟く女はどんな存在の女性かを考えて見れば、お分かり戴けるものと思う。]

心迫りスコップ捨てゝ立ちにけり花を植ゑゐる心にあらず

[やぶちゃん注:庭に本格的に根付かせる花を植えるというのは妻も子もある家庭人である。しかしこの一家の主人は茫然とし、その心はここならぬ彼方へあくがれ出でて呆けているではないか。その魂のあくがれ出でる先は明らかに恋する女の元であることは言を俟たぬ。そしてそれは無論、この庭のある家庭の幸せな妻とは異なる女性であるとしか考えられまい。]

今はたゞあはまほしさにねに泣きて伏してをるてふ言のかなしさ

[やぶちゃん注:これはこの女性が敦に逢うことが出来ない、逢いたいのに逢うことが許されていない、禁じられているということを容易に連想させる。そしてそれを「言のかなしさ」は同時に敦自身もこの女の元へ逢いに行くことは叶わない、逢いたいが逢うことは許されていないからこそ、かなしいのである。]

いたつきに伏すとふ君が手に持てる紙かよこれのふみぞかなしき

[やぶちゃん注:逢えないのは「いたつき」(病い)だからなどと解釈してならない。寧ろ、逢うことが許されていない彼女が、逢いたい一心を以って「いたつき」を口実(無論、その真偽を考証する必要は逆にない)に思いの丈を語った恋文なのである。仮に病いが本当ならば、それを見舞いに行って当然である。しかし、敦は行かない、行けないのである。そのような女性は誰か、どのような女性か、どのような状況下で生じた関係とその結果かを類推することは、それほど難しいことだとは思われない。]

せむすべをしらに富士嶺をろがみつ心極まり涙あふれ來

丘行けば富士ケ嶺見えつする河野の朝を仰ぎて君と見し山

昏のまゆの市場の裏路のまゆの匂もなつかしきかな

[やぶちゃん注:この嗅覚的回想の叙景吟も、実はその匂いと黄昏の繭市場を歩む男女の景と結びつく抒情歌であることは最早、疑う余地がない。ここに無縁な叙景歌を一首だけを敦がここに投げ込む必然性は皆無である。この繭の匂いには何か性愛的な匂いさえ私は感じているくらいである。]

かの宵の松葉花火の火の如く我は沿えなむ今はたへねば

[やぶちゃん注:「かの宵の松葉花火」「松葉花火」は線香花火のことである。中島敦の昭和十一年の手帳の中に、次のような詩の一節が現われる。

  はかなしや 空に消え行く
  花火見し 宵のいくとき
  花模樣 君がゆかたに
  うちは風 涼しかりしか
 かの宵の君がまなざし、やはらかきそともれし君が吐息や
 一夏のたゞかりそめと、忘れ得ぬ我やしれ人

敦は自身を「しれ人」(痴れ人)としている。この恋は紛れもなく「痴人の愛」なのである(因みに中島敦は谷崎潤一郎の愛読者でもあった)。]

するが野の八月の朝はつゆしげみ君がす足はぬれにけるかも

[やぶちゃん注:この素足のクロース・アップの画面のただならぬ妖艶さを見よ。]

君が文人目を繁み公園の藤棚の下によめば悲しも

[やぶちゃん注:「繁み」は「しげみ」は上代の用法で、形容詞「しげし」の語幹に原因理由を示す副詞的用法を持つ接尾語「み」がついたもので、「多いので」「うるさいので」の意である。この恋文は誰にも見られてはならないものなのである。]

かの宵の君が浴衣の花模樣まなかひにしてもとな忘れず忘らへぬかも

[やぶちゃん注:「まなかひ」目の当たり。「もとな」副詞で、切に、の意。やはり、昭和十一年の手帳の中に次のような詩の一節が現われる。

  なにしかも 君がゆかた
  花模樣 忘れかねつる
  まなかひに 浮ぶよ。びつゝ もとな
  歩みつる 野遽の草花
  そをつみし 君が白き手
  一夏の たゞかりそめを
  かりそめの たゞ一夏を忘れ得ぬ
  得思はぬ われは痴人 吾よしれびと

この昭和十一年の手帳のこの詩を再度、全文(抹消部を省略して)を引いて示す。

  はかなしや 空に消え行く
  花火見し 宵のいくとき
  花模樣 君がゆかたに
  うちは風 涼しかりしか
 かの宵の君がまなざし、やはらかき君が吐息や
 一夏のたゞかりそめと、忘れ得ぬ我やしれ人

  別るゝと かねて知りせば
  なかなかに 逢はざらましを

  なにしかも 君がゆかたも
  花模樣 忘れかねつる
  まなかひに 浮びつゝ もとな
  歩みつる 野遽の草花
  そをつみし 君が白き手
  一夏の たゞかりそめを
  かりそめの たゞ一夏を忘れ得ぬ
  得思はぬ われは痴人 吾よしれびと

これらは手帳に書かれたもので、行空きは改頁を示す。中間部(二連目に見えるもの)の二行は、事実は、この女性と敦とが別れた、引き裂かれたことを意味している。
 この十一首の恋愛悲傷歌群とこの相聞歌風のそれはどう考えても仮想された恋愛詩歌などでは決してない。
 これは「ゆかた」すがたの「うちわ」を持った「君」とある「夏」に「花火を見た」「松葉花火」一緒にして眺めた、その「一夏のたゞかりそめ」の燃え上がった恋、時が経った今以って「忘れ得ぬ」その思い出を詠っているのである。
 そして――その「君」とは結局「別」れなければならない運命にあるということが「かねて知」っていたならば、「逢は」なかったものを――私は何という「しれ」者であったことか――と激しく悔やむ、現にその一人の乙女に今も恋い焦がれている――その「一夏の」「たゞ」「かりそめの」恋を決して「忘れ得ぬ」敦のやるせない熱情にふるえる恋歌なのである。
 しかも――それは――どう好意的に考えても――現実の妻たか――ではない――のである。]

夕されば孤島に寄する波の音巖の上にして一人ききゐる

[やぶちゃん注:歌稿「小笠原紀行」歌群の「夕の椰子の歌」の草稿。この手帳には句の別案として、
夕されば孤島に寄する波の音巖の上にして一人ききたり
が示されている。決定稿の歌形はこれを元にしており、
夕されば孤島に寄する波の音岩の上にしてひとり聞きたり
である。]

さしなみのもろこし人の家に行きチビ遊べども事變起らず

[やぶちゃん注:これは次の歌を見るに、山下町や元町の外人の居住地を詠んだものと思しい。「チビ」、長男たけしを詠み込んでいるところからは歌稿「Miscellany」にある「チビの歌」歌群の草稿である可能性が極めて高い。但し、相似歌はない。]

わたつみの碧に浮立つ銀杏の黄朝日さしくと黄金に燃ゆる

[やぶちゃん注:語句別案が二様に示されているので復元する。
わたつみの碧に浮立つ銀杏の黄朝日さしくと黄金に盛上る
わたつみの碧に浮立つ銀杏の黄朝日さしくと黄金にけぶる
「盛上る」は「さかる」と読ませたつもりであろうか。
 この一首は歌稿「霧・ワルツ・ぎんがみ――秋冷羌笛賦――」の「ひげ・いてふの歌」歌群の草稿と考えて間違いない。当該歌群には、

朝づく日今を射しと大銀杏黄金の砂を空に息吹くも

朝日子に黄に燃え烟る銀杏の葉背後そがひの海の靑は眼に沁む
の相似性を持った二首があるからである。後者の草稿は後に出る。]

頸の邊のいとくづとりてやりにけり横向きしくちの気取にくしも

[やぶちゃん注:別案を復元する。
頸の邊のいとくづとりてやりにけり横向きしくちのそりのにくしも
……この歌……妻を詠んだものでは「ない」としたら……とんでもないスキャンダラスな歌ということになるであろう……そうして……私は「妻を詠んだものでない」と確信するのである……何故か? 次の一首と注を読まれるがよかろう……]

中空に戀はすまじと人のいふ中空だにも我はこはなし

[やぶちゃん注:本歌は世阿弥作の「恋重荷」を濫觴とするものであろう。シテである御苑の菊守の老人は山科荘司やましなのしようじが女御(ツレ)に恋をし、廷臣(ワキ)が女御の言葉を伝え、美しい荷を見せ、その荷を持って庭を百度も千度も回ったら、顔を見せてもよいという。老人は荷を懸命に持とうとするが持ち上げられない。荷は岩を錦に包んだもので、絶望のあまり、老人は恨みを抱いて憤死するというストーリーで、そこに後半の女御の台詞、
「戀よ戀 我が中空になすな戀 戀には人の 死なぬものかは 無慙の者の心やな」
とある。「ものかは」は反語で、「恋によって人は死なぬか? いや、死ぬることもある!」という謂いである。
「中空に」は形容動詞「なかぞら」①中途半端だ。②心落ち着かぬさま。上の空。③いいかげんなさま、疎か。の意を持つ。
「こはなし」「こは」は「此は」(指示代名詞「こ」+取り立ての係助詞「は」)で、感動表現で、「これはまあ!」「なんとまあ!」の意であるから、この一首は、まさに(!)自分が「今している恋はいいかげんなものでなどでは、決してない!」と中空へ叫んでいるようなものではないか?!
 そしてこの恋はどう考えても、妻への「戀」なんどではありはしないのである。
 この短歌は昭和十二年の手帳にあるものである。
――敦は昭和七年にたかと結婚し、昭和八年には長男たけしが生まれ、その年の十一月に実家から妻子が上京して目黒区緑ヶ丘に移っている(但し、着目しなければならないのは、この時点では同居はまだ始まっていないという事実、敦は未だに横浜に単身で住んでいる妻問婚状態にあったという事実である)。そうして昭和十一年になって初めて横浜市中区本郷町に一家を構え、妻子との同居が始まっている。しかもこの昭和十二年一月には長女正子も生まれている(但し、正子は出生三日後に死亡している)。
――時に敦、満二十八歳、横浜高等女学校奉職四年目である。
――喘息はどうだったのか?……確かに彼は昭和九年九月に大きな喘息発作に襲われ、命が危ぶまれるという経験をしている。しかし、その後は登山(昭和十年七月白馬岳登頂)や、既に歌でも見てきたように小笠原(昭和十一年三月二十三日~二十八日)や中国旅行(同じく昭和十一年八月八日~八月三十一日)に精力的に出ている。おまけに全集の年譜を見ると、この昭和十二年の項には、『七月には教員同士で野球をするぐらゐ元氣で、週二十三時間の授業を受け持つてゐた。七月、同じ敷地内で間取り(八疊、六疊、四疊半)も同じである隣の借家に移る』とある(因みに私は四十三年間の教師時代を通じて年間通しての最大持ち時間は十九時間を越えて持ったことは一度もない)。
 これらの事実は、この敦の焦がれるような「戀」は妻以外の女性へのスキャンダラスな禁断のそれであることを如実に示していると最早言わざるを得ないのである。
 この禁断の恋の相手が誰であったか……それは本頁の最後で明らかにしたい。]

朝日子に黄に燃えけぶる銀杏の葉そがひの海の靑は眼に沁む

[やぶちゃん注:別案を復元する。
朝日子に黄に燃えけぶる銀杏の葉そがひの海は靑寒々し
「霧・ワルツ・ぎんがみ――秋冷羌笛賦――」の「ひげ・いてふの歌」歌群の草稿。そこでは、
朝日子に黄に燃え烟る銀杏の葉背後そがひの海の靑は眼に沁む
となっている。]

わざをぎの噂するらしをみな子のくちのうすきをたゞに目守りをり

[やぶちゃん注:「わざをぎ」俳優。]

脣のうすきをみなを憎みつゝ朝曇する街を行きにけり

[やぶちゃん注:如何にも元町風景らしい風景とは思われる。]

いつはりと吾は知れりけり吾が知るを知りていつはるをみなにくしも

[やぶちゃん注:別案として、
いつはりと吾は知れりけり吾が知るを知りていつはるをみな淋しも
が提示されている。これ以降もまた、すこぶる「危険がアブナい」歌群と思う。]

人の世のひたむき心哂ふとふをみなにくしもくちうすくして

[やぶちゃん注:「哂ふ」は「わらふ」。]

思ひ詰めし戀ならなくに秋の夜は何か寂しもいく日あはずて

[やぶちゃん注:別案として、
思ひ詰めし戀ならなくに秋の夜は何か寂しも別れ來ぬれば
が提示されている。]

あふもうしあはぬもうたてしかすがにあきの夕はあはむとぞ思ふ

[やぶちゃん注:以下、三箇所の別案が示されているが、「うし」→「よし」と「うたて」→「よかれ」は組と考えて復元しておく。
あふもうしあはぬもうたてしかすがにあきの夕は如何にとぞ思ふ
あふもよしあはぬもよかれしかすがにあきの夕はあはむとぞ思ふ
あふもよしあはぬもよかれしかすがにあきの夕は如何にとぞ思ふ
「しかすがに」然すがに。既注済み。そうはいうものの。]

朝曇心しらじら思ふこと別れむ時にはやもなりしか

[やぶちゃん注:「しらじら」の後半は底本では踊り字「〲」。別案として、
朝曇心さみしく思ふこと別れむ時にはやもなりしか
が提示されている。]

よりそへど心かたみに通はずよはや別れむとおもひなりぬる

わかれむと心さだめて踵高の鋪道ふむ音さみしらにきく

[やぶちゃん注:「踵高」ハイヒールの意であろうが読み不明。「しようたか(しょうたか)」か?]

天鷲絨の上衣の胸の膨らみをじつと見てをり何かひえびえ

[やぶちゃん注:「ひえびえ」の後半は底本では踊り字「〲」。]

いにしへはこひに死なむといひけらし末世の戀のなどあさましき

[やぶちゃん注:別案として、
いにしへはこひて死なむといひけらし末世の戀のなどあさましき
が提示されている。]

いにしへは人をこほしく死にけらし末世の戀のなどあさましき

[やぶちゃん注:前の一首の別稿と思われる。]

公園をいでゝ鋪道のすゞかけの下に別れぬ知らぬ人のごと

[やぶちゃん注:別案として、
公園をいでゝ鋪道のすゞかけの下に別れし知らぬ人のごと
が提示されている。]

別れきてひたに大空仰ぎけり空はうれしも見れど飽かなく

朝ぐもり掘割のへにシュニッツラァのアナトオルなど想ひけるかな

[やぶちゃん注:「シュニッツラァのアナトオル」七つの一幕物からなる戯曲。新妻のいる色男の青年アナトールを狂言役にその場限りの享楽的刹那的な恋愛に身を任す若者たちが描かれる、妖婦や密会がアイテムの芝居。]

七段目のおかるならねどこの道のまことそらごとけじめ知らずも

[やぶちゃん注:「七段目のおかる」「仮名手本忠臣蔵」で塩冶家家臣早野勘平は主君刃傷の日に恋仲の腰元お軽と逢引していたために失態を演じ、おかるの実家に身を寄せていたものの、誤っておかるの父を殺し、結局、切腹する(六段目)。七段目はその後の景で、傷心のおかるは由良助に呼ばれて京都祇園一力茶屋の遊女となっており、芝居を演じている由良助に身受けされることになっている。そこで佞臣九太夫の間諜による仇討ちの露見未遂の一件が演じられ、仇討ちに加わりたい一心から実兄平右衛門の覚悟の切かけを受け、納得づくで自害しかけるが、由良助の計らいで九死に一生を得、亡父亡夫の追善に生きるという設定になっている。おかるの作品内の人格や設定というより、七段目の芝居自体の展開部の内容が「まことそらごと」の「けじめ知らず」の構成ではある。]

あによりもあをなつかしとたまもなすよりにしこゝろかなしとおもふ

[やぶちゃん注:この一首、何か、驚天動地の新しい「危険がアブナい」事実を我々に伝えているのかも知れない。進藤純孝「山月記の叫び」(平成四(一九九二)年六興出版)の一四七頁に実母に二歳で生別し、二人の継母に対して特異な被害感情や生理的嫌悪を持っていた『敦が女好きであったのは』、『褧子という二歳舌の従妹をこよなくかわいがり、「互いに愛情を持つていた」仲であったのも、母性的優しさに対する渇望であったに違い』(この辺りの引用は引用先が不祥。素直に読むなら当人荘島褧子あやこ氏自身の言葉である)ないと述べ、この褧子が『敦のことを「楽しい、心の広い人」と評』していることを引用している。この女性は父田人のすぐ下の弟中島比多吉ひたきの長女である。例えば、ここで中島敦は血の近い(親しかった?)叔父比多吉を「あに」と呼び、その長女である褧子を妹=「あ」(汝)と呼称しているのだと考えてみても、私は強ち誤りではないよう思うのである。但し、この女性は全く別な女性を詠んだものかも知れない。以上は飽くまで私の可能性の推理を述べたまでのことである。]

高橋や國華ホールの前すぎていくよゆきけむ冬のさむよを

[やぶちゃん注:「高橋」東京都中央区八丁堀の亀島川に架かる橋の名。「たかばし」と濁るのが正しい。「中央区郷土史同好会」のこちらの頁に、『亀島川に架かり、鍛治橋通りで八丁堀と新川を結ぶ。地区では古くから記録に残っている橋。江戸城と深川を結ぶ道であったと思われる。船舶の出入りが激しかったので、橋台の高い橋、つまり高橋という。赤穂浪士(堀部安兵衛)が泉岳寺への途で渡ったとも言われて』おり、現在の『名前の由来については、亀島川の河口付近に架けられたため船舶の出入りが頻繁で、橋脚の高い橋を架けたことに由来するといわれている。明治』一五(一八八二)年竣工の『鉄製ホイル・トラス橋は、初めて日本人技術者原口要によって設計されたという国産橋であったが、その後の大正八(一九一九)年に長さ四一・八メートル・幅二一・八メートルのRCアーチ橋に架け替えられた、とある。
「國華ホール」呉服の大店だった中島屋呉服店が現在の中央区八丁堀二丁目に持っていた百貨店ビルの中にあった国華ダンスホールのこと。前注同様、「中央区郷土史同好会」の別の頁によれば、中島呉服店は東京でも一流の呉服店で、大震災後も多くの呉服屋が廃業転業した中、三階建のビルを建てて中島屋百貨店として開店、昭和七(一九三二)年には、国華商事が四階を建て増しし、一階に私設市場(マーケット)十五店舗、四階に国華ダンスホールなどが入った、とある。このホールは盛時、『ディック・ミネなどが出演したり、モボ・モガ』の格好の遊興場として不夜城の活況を呈していたという(なお、リンク先にはそのころの太宰治関連の記載がある)『戦後まもなくは鉄鋼商社の木下商店(産商)ビルになり、その後倒産して撤退』した。現在の東京建物東八重洲ビルの位置に相当する。]

しつとてふことしりそめしかのとしのクリスマスの夜ゆきふりてゐし

なにしかもちかひすてけむとさよなかをいだきてなきぬかなしとにあらず

[やぶちゃん注:別案として、
なにしかもちかひすてけむとをさとこにいだきてなきぬかなしとにあらず
を復元出来るが、「をさとこに」は意味不明。「長常に」で永くずっとの謂いか? 識者の御教授を乞う。]

にんげんよかなしかりけりいやはてのちかひすつべきよはもきたりぬ

あひてあはぬいくよへにけむこのちかひいやかしこしとはだもふれずて

あからひくはだもふれじと誓ひけり吾を信ずとふ言のかなしくて

[やぶちゃん注:別案として、
あからひくはだもふれじと思ひけり吾を信ずとふ言のかなしくて
を復元出来る。]

かぜさむきえちぜんぼりのうらまちにわかれしよはもつねわすらえず

[やぶちゃん注:「えちぜんぼり」越前掘。東京駅から南東に一キロメートルほど行った隅田川左岸、現在の中央区新川一・二丁目辺りの旧名。]

みすゞかるしなののをとめふゆくればゆきをこほしむあはれなりけり

みすゞかるしなののをとめふゆくればゆきこほしむをいとほしと思ふ

なれいまだ女にあらじはしきやしながくちのへにちゝのかぞする

[やぶちゃん注:別案として、
なれいまだ女にあらじはしきやしながくちすへばちゝのかぞする
を復元出来る。]

なれいまだ女ならじよ紅く小さきながくちのへはちゝのかぞする

みすゞかるしなの乙女がほゝのへの紅りんごなしつややけきかも

[やぶちゃん注:別案として、
みすゞかるしなの乙女がほゝのへの紅りんごなしつやつやしもよ
を復元出来る。]

ふみ月のひゞやの午後に小雨ふり一つかさして歩みし日はも

あひあひのかさはづかしくわれひとりぬれて行きけるその雨もこひし

[やぶちゃん注:別案として、
あひあひのかさをおもなみわれひとりぬれて行きけるその雨もこひし
を復元出来るが、意味不明。「をももなみ」は「おもも無み」の仮名遣の誤りではなかろうか?]

きりさめのけぶれる中にさきむれしカンナの色も今わすらえず

ふんすいのもとにしてふと止りけり

[やぶちゃん注:ここの上句で途切れている。]

目をとぢし君がまぶたにうす靑く蛇の目の傘のかげさしてゐし

よりそひてあひいだきけりこともなく一つじやのめの傘の中に

[やぶちゃん注:「しつとてふ」以降、ここまで(その前の二首「あによりも」の全平仮名表記と、「高橋や」のロケーションからはこの二首を含んでもよい)、一連のもので、しかのその内容たるや、続いて「危険がアブナい」、謂わば――妖しの歌群――と私は名づけたい(続く歌群は明らかに書き方が異なる)。]

別るゝと かねて知りせば
なかなかに 遇はざらましを【二行ともに全抹消】

[やぶちゃん注:突然、ここから最後まで分かち書きとなる。本歌は総て抹消されている。「なかなか」の後半は底本では踊り字「〱」。しかもこの抹消歌は以下続く歌を見れば一目瞭然であるが、これは――短歌の未完抹消――ではないこれらは五七五七形式の四句体歌である。しかも以下、少なくとも分かち書きの六首目までは、先行する妖しい秘かなる恋歌十一首の改稿再詠(必ずしも順番に書いている保証はないものの)と考えてよいと思われる。]

駿河野の 八月の朝は
女郎花 房重げなり

[やぶちゃん注:別案として、
駿河野の 八月の朝は
女郎花 房繁かりし
が復元出来る。]

花かざし ふりさけ見れば
富士ケ嶺も 間近かりけり

街道に 未だ人なく
蘭の香の、はつかに洩れつ

[やぶちゃん注:別案として、
街道は 未だ人なく
蘭の香の、はつかに洩れつ
が復元出来る。]

手を曳きて、繭の市場の
裏どほり 歸りきしかな
[やぶちゃん注:別案として、
手を曳きて、繭の市場の
裏道を 歸りきしかな
が復元出来る。本歌は本手帳で先行する、
昏のまゆの市場の裏路のまゆの匂もなつかしきかな
の別稿である。]

かねて知る 別れなれども
すべなしや なみだ流るゝ【二行ともに全抹消】

[やぶちゃん注:あたかも不思議な四句体歌を四首中に挟んで、呪符の如く抹消歌が額縁の如あるかに私には見える。]

  君がつぶらの ひとみ故
  われははるばる 海に來て
  ひねもす君を想ふなり

  君が愛しき なさけ故
  われはケビンに よもすがら
  いねもやらずて 嘆くなり

  誰が賜ひけむ この傷手
  海の息吹も いやしえじ
  汐の香も 何ならむ

  今は面影 偲びつゝ
  沖のみなはと 消えてまし
  君知りまさじ わが想ひ

[やぶちゃん注:これらは表記通り、総て二字下げで一頁の中に書かれており、本歌は和歌ではなく、詩想からも四連からなる七五調定型文語詩一篇の体裁を備えている(が、詩想の強烈な連関性から短歌拾遺に採らずんばならず、と考えた)。なお、第四連は別案として、

  君の面影 偲びつゝ
  沖のみなはと 消えてまし
  君知りまさじ わが想ひ

を復元出来る。
 この一篇、明らかに前の年、昭和十一(一九三六)年三月下旬の小笠原行をそのロケーションとしているとしか読めない。しかも「君がつぶらの ひとみ」をその恋を懐旧する彼の、詩語として散りばめた「はるばる」「ひねもす」「よもすがら」及び、その恋情の苦悶を表わす「いねもやらずて 嘆くなり」「誰が賜ひけむ この傷手」「今は面影 偲びつゝ」、そして何より「いやしえじ」「何ならむ」「消えてまし」、極めつけの追懐たる「君知りまさじ わが想ひ」という絶唱部が意味するものは、この恋が小笠原行の直近の出来事ではなかったことを意味するものと私は断定するものである。則ち――中島敦の秘かなる禁断の恋は――昭和十年よりも前であることを意味する。しかも彼にそうしたアバンチュールを許し得る状況があったのは――たかと結婚(但し、これも前に見たように事実婚で、正式に婚姻届が出されたは書簡から推定するに昭和八年の九月下旬か十月上旬と思しい)した昭和七年三月以降、妻子との完全な同居が始まる昭和十一年三月初め(前にも注で記した通り、昭和八年四月二十八日には長男桓が生まれ、その年の十一月に実家から妻子が上京して目黒区緑ヶ丘に移っているものの、この時点では同居はまだ始まっておらず、敦は未だに横浜に単身で住んで目黒へは妻問婚状態にあった)にやっと横浜市中区本郷町に一家を構えるまでの間と考えるのが最も自然である。凡そ四年の勝手気儘な満二十三から二十六歳までの間――しかもその出逢いの相手が以前に示したように横浜高等女学校の教え子の女生徒であったと仮定するならば――敦が同校に赴任した昭和八年四月以降、昭和十一年三月までの約三年間の間の邂逅と逢瀬であったと考えられる。……なお、この一篇を最後に同手帳には和歌や詩篇の記載はない。……
……さても……禁断の女生徒とは誰であったのか……それは……掉尾の私の注で遂に明らかになるであろう。……]



[やぶちゃん注:以下は、中島敦の残存する唯一の日記(手帳類を正式な日記と見ずに。尚、其の他の日記は焼却されたものと推定されている)である、自昭和十六(一九四一)年九月十日至昭和十七年二月二十一日の「南洋の日記」(全集編者による呼称と思しく、本文にはただ「日記」とある)に載る和歌を採録した。なお、この日記は昭和十六年六月二十八日附で、当時日本の委任統治領であった南洋群島(内南洋)の施政機関支庁でパラオ諸島のコロール島にあった南洋庁(大正一一(一九二二)年に開設され太平洋戦争敗戦時に事実上消滅)に教科書編集掛(国語編集書記三級)として同庁内務部地方課勤務となってからのものである(現地到着は七月六日。因みに南洋庁は文部省の所属ではなく、当時、外地と呼称された日本の植民地の統治事務・監督・海外移民事務を担当した拓務省の監督下にあった)。この日記には全集で四十頁(二段組)に及ぶもので、「人魚の炙肉をくふ」(哺乳綱海牛(カイギュウ)目ジュゴン科ジュゴン Dugong dugon の肉と思われる)など、頗る興味深い内容が含まれる(【二〇一三年一月四日変更追記】これらは現在、ブログ・カテゴリ「中島敦」で「中島敦 南洋日記」として電子化評釈中である)。]

蠍座ゆ銀が流るるひと所黑き影あり椰子の葉の影

さやさやに椰子の葉影のさやぎゐて遠白きかもあめの河原は   (七月)

[やぶちゃん注:以上二首は、同日記巻首に連続して書かれてある。]

なみ音の古き嘆きぞ身には沁むロタのチャモロが奧津城どころ

[やぶちゃん注:以上の一首は、昭和十六(一九四一)年十一月二十四日の条の途中に現われる。視察旅行中のロタ島での嘱目吟である。以下に同日の記載総てを示す(取消線は抹消を示す。日記内の一部の語句については私の「中島敦 南洋日記」の同日の注記を参照されたい)。
   *
        十一月二十四日(月) 晴、一時曇
 朝七時過又、タタッチョに向ふ。八時公學校着、一時間授業見學。直ちにソンソンに歸る。チャモロ部落入口の墓地を覗くに、十字架の群の中央に一基の石碑あり、バルトロメス庄子光延之墓とあり。日本人にして加特力教徒なる者の墓なり。か。裏を見れば、昭和十四年歿、九歳とあり。枯椰子十字架にかけし花輪どもの褐色に枯れしぼみたる。枯椰子の實の海風にはためける。濤聲の千古の嘆を繰返せる。すべて、もの哀しきこと限りなし。
「なみ音の古き嘆きぞ身には沁むロタのチャモロが奧津城どころ」、
 午後、國民學校に行き、校長と語る。郵船に行き漸く切符を購む。四時半乘込。前田氏あり、東京出張の由、清峯君、航空便のたかの手紙を持つて來てくれる。サイパン丸は燈火管制にて暗し。夜、將棋。
   *

「ロタ」島は現在のアメリカ合衆国自治領である北マリアナ諸島の島。北にテニアン島、南にはアメリカ合衆国準州であるグアム島がある。面積は八十五平方キロメートルで、参照したウィキの「ロタ島」によれば、『中央部がくびれた形をしており、それを境に東部は平坦な地形をしている。一方、西部はサバナ高原やタイピンゴット山など起伏に富んで』おり、『スコールが多いため、サバナ高原には地下水が溜まり、水質も良いことから飲料水として利用されている。日本統治時代、清らかな水と湿潤な気候という好条件に恵まれたサバナ高原の麓に醸造所が建設され、日本酒「南の誉」が生産されていた』。『太平洋戦争中、米軍の攻撃をあまり受けなかったため、サイパンやテニアンとは異なり、島全体に原生林が多く残』る、とある。第一次世界大戦中の一九一四年に、『大日本帝国軍が赤道以北のドイツ領南洋諸島を占領したことにより支配権は日本に移り』、大正九(一九二〇)年には『国際連盟の委任統治領となる』。『ロタはサイパン、テニアンに比べ島の開拓が遅れ』、昭和九(一九三四)年当時でも在住する日本人はわずか千人余りであった。それでも翌年十二『に製糖工場が完成し、砂糖の生産が開始された。しかし、砂糖の生産はうまくいかず、製糖工場は3年余りで操業停止してしまう』。『太平洋戦争中は、ロタでは地上戦は行われず、周辺から孤立した状態に置かれた』が、昭和一九(一九四四)年になると『守備隊が増強され、最終的に海軍2000名(第五六警備派遣隊、設営隊、航空隊基地要員)、陸軍950名に至』った。『この阿部大尉が海軍部隊の指揮官となり、ロタは日本本土空襲に向かうB―29爆撃機の機数・方位を無線で警告する役目を担った』 という。『設営隊がいたため、大工、鍛冶屋、理髪、縫製などの専門家に事欠かず、演芸部も編成され、毎日のように空襲を受けながらも比較的平穏な日々が続いた』が、昭和二〇(一九四五)年九月二日、「ミズーリ」上『で行われた日本の降伏調印式より1時間遅れた午前11時、局地降伏調印式が行われ』ている。『戦後は国際連合によるアメリカ合衆国の信託統治領となり、1978年以降はアメリカ合衆国の自治領とな』ったとある。
「チャムロ」チャモロ族(Chamorro:チャムロとも表記するようだ)はミクロネシアのマリアナ諸島の先住民で、チャモロはスペイン語の「刈り上げた」とか「はげ」という意味を表す言葉である。チャモロ以前は外部に対しては彼等は「タオタオ・タノ」(土地の人)と自称していた。本島には紀元前三千年から東南アジア系の移住民が住み着いたと考えられており、その人々が今日の先住民チャモロ人の祖先とされており、そのことを裏付ける遺跡がラッテ・ストーンである(ラッテ・ストーン (Latte stone)はグアム・サイパンなどマリアナ諸島に見られる珊瑚石で出来た石柱群で、九世紀から十七世紀にかけて作られたチャモロ人の古代チャモロ文化の遺跡。古代のマリアナ諸島の王「タガ」にちなみ、タガ・ストーン(Taga stone)と呼ばれることもある。北マリアナ諸島の旗にも描かれている)。スペイン人との接触がある十七世紀以前は四万人から六万人の人口を保持していたが、一七一〇年の人口調査ではグアム島とロタ島の人口は三五三九人に激減していた。人口激減の背景には、スペイン人による殺戮や、天然痘などの疫病があるとされている。労働者確保のためメキシコ人やフィリピン人を移住させる政策を積極的に採ったことにより、彼らとの混血化が進み、純粋なチャモロ族はすでに存在しないと言われているが、チャモロ語については、公用語の英語とともに広く使用されている(以上はウィキの「チャモロ人」及び「ラッテ・ストーン」を参照した)。]

鱶が栖む 南の海の 綠濃き 島山陰ゆ 山菅の やまず、しぬばゆ、あきつ島大和の國に を待たむ 子等がおもかげ。桓はも さきくあらむか 格はも 如何にあらむと あかねさす 晝はしみらに ぬば玉の 夜はすがらに、はしきやし 桓が姿 あからひくさ丹づらふ 格が頰の まなかひに 去らずかかりつ、うまじもの あべ橘の たををなる 枝見るごとに 時じくの かぐの木の實が 黄金なす 實を見るなべに みくだもの 喜びさむ 子等が上、常し思ほゆ、椰子高き 荒磯ありその眞砂 檸檬咲く 丘邊を行けど、ぬばたまの 黑き壯漢をのこが棹させるカヌーに乘れど、沖つ浪 八重の汐路を はろばろに 子等とさかりて 草枕 旅にぬる身は不樂さぶしさの まさり 戀しさの いたもすべなみ にはたづみ 流るゝ涙 とゞめかねつも、
反歌無し、     (於鎌倉丸一四二號船室)

[やぶちゃん注:以上の長歌は昭和十六(一九四一)年十二月十二日(金)のクレジットの日記本文の後に一行空けて記されているものである。底本では全体が一字下げとなっている。取消線は抹消部を示す。
 日附から分かるように、この特異な長歌(敦の正式な長歌形式の和歌は現存するものではこの一首のみと思われる)は、まさに太平洋戦争勃発直後に創られたものである。四日前の真珠湾攻撃当日である十二月八日の日記記事からこの長歌の直前までを以下に示す。

   *


十二月八日(月) 曇、雨、後晴、  

 午前七時半タロホホ行のつもりにて支廳に行き始めて日米開戰のことを知る。朝床の中にて爆音を聞きしは、グワムに向ひしものなるべし。小田電機にて、其後のニュースを聞く。向ひなる陸戰隊本部は既に出動を開始。門前に、少女二人、新聞包の慰問品を持來れるあり。須臾にして、人員、道具類の搬出を終り、公會堂はカラヽヽとなりしものの如し。腕章をつけし新聞記者二人、號外を刷りて持來る。ラヂオの前に人々蝟集、正午前のニュースによれば、すでに、シンガポール、ハワイ、ホンコン等への爆撃をも行へるものの如し。宣戰の大詔、首相の演説等を聞いて歸る。午後、島木健作の清洲紀行を讀む、面白し。蓋し、彼は現代の良心なるか。とこ屋に行く。ゲートルをつけ警防團のいでたちをなせる親方に頭髮を刈つて貰ふ。青年團、消防隊等の行進、モンペ姿の女等。夜の街は、すでに警戒管制に入れることとて、まつくら。


十二月九日(火) 晴  

 正午、はじめて空襲警報を聞く。事無し。三十分ばかりにして解除。午後小田電機にてラヂオを聞く。昨日のハワイ空襲は多大の戰果をあげたるものの如し。マレー半島上陸も大成功なりしと。御用船はパラオに行かず。山城丸も缺航か? 東京にては、さぞ心配せるなるべし。夜、市街闇黑にして、店舖の營業せるものを見ず。餘りに過度の緊張は、却つて、長續せざる所以に非ざるか?


十二月十日(水) 晴  

 午前十時、武德殿にて長官の訓示あり。急に、御用船鎌倉丸便乘と決る。高里氏は後に殘ることとなる。大急ぎで支度。三-スによれば、パラオ港外にて敵潛水艇一隻を撃沈せりと。この航海相當に危險ならんか? 午後四時乘船。流石に巨船なり。乘船後のニュースによれば、シンガポールにて、我が海軍機、敵戰艦二隻を撃沈せりと。又曰く、本日、敵飛行機十臺パラオ空襲、但し全部撃墜さると。
 甲板上に群がる鮮人人夫。女、幼兒、十二月の朝鮮より來りしものとて、皆厚着せり。板の上に死物の如く伸び横たはれる子持の女。


十二月十一日(木) 晴、  

 目さむれば、舶は依然昨日と同じくサイパン沖にあり。朝將棋、デッキ散歩、十一時過漸くテニアンに着く。上陸。西澤氏と街を歩き、ミルクを飮み、ようかんを食し、すしをくひ、落花生を買ふ。ひ薙貨店、食料品店をひやかす。ちなみに西澤ニシザハ氏は水産試驗所の技手にして毒魚の毒素について調査中の人なり。三時四十分歸舶。就寢迄には船未だ動かず、朝鮮人人夫多數下船、


十二月十二日(金) 曇、細雨、後晴  

 今朝未明に出帆せるものの如し。將棋。救命胴衣をつけて避難練習。午睡。三時のラヂオよく聞えず。讀書室のコスモポリタンを讀み、BUNRAKUの寫眞を見る。夜に至る迄潛水艦現れず。
 E
verything is hunky-dory. とは Everything is all right. の意なり。この slang は横濱の本町通が分れば、船に歸る路が判り、即ち all right なりとて、米國水夫の言ひ慣はしより起りしものとぞ。ホンチョウドホリがハンキイ・ドーリにとなりしものなり。
   *
とあって、一行空けで本長歌が記されて同日の日記は終わっている。
 引用日記については、向後の電子化の際に詳細な注を附したいと思っているが、幾つかだけ簡単に補注すると、まず、敦はまさにこの日記の始まる九月十日以降、当時、植民地域となっていたミクロネシアの島々への巡検出張に従事するようになっていた事実を押さえておかなくてはならない。これについて彼は「實にイヤでイヤで堪らぬ官吏生活(蠟を嚙むどころではございませぬ。こんなあぢきない生活は始めてです)の中で唯一の息拔きの出張旅行」と告解する楽しみでもあったからである(引用は底本の旧全集第三巻「書簡Ⅰ」の昭和十六年九月十三日附の実父中島田人宛書簡(同全集書簡番号一一七)より)。このテニアン行もその一環である。
「御用船」というのは戦時に政府や軍が徴発して軍事目的に使用した民間の船舶のことを指し、ここで敦が乗船している「鎌倉丸」はかつてサンフランシスコ航路の客船であったものを海軍が徴用していた日本郵船所属のそれを指すものと思われる(同船はこの二年後の昭和一八(一九四三)年四月十八日に将兵及び民間人多数を乗せてボルネオ島東岸のマッカサル海峡に面したパリクパパンへ向かう途中、米潜水艦からの魚雷攻撃を受けて沈没していることがこちらの頁で確認出来た)。開戦直後であることから、安全を考慮してテニアン行の船便が海軍徴用船鎌倉丸に変更されたものかと思われる。
hunky-dory」はアメリカ口語の形容詞で「すばらしい」「最高の」の意で、この単語自体が“Everything is OK”・“excellent”、則ち総てに於いて申し分がない、すべてついて満足の謂いを持つ。ここで敦が語る語源説は眉唾と思われる方もあろうかと思うが、個人ブログ「Jackと英語の木」の「横浜はOkey-dokeyでHunky-doryだよ。英語になった横浜本町通り。」を読むと、どうして、十分に信じ得る語源説であることが分かる。
 敦はこれらの日記本文では大戦の勃発直後ながら、一見、泰然自若とまではいかないまでも、意識的に平常の生活をしようと心掛けているように思われるが(この十日にはイギリス海軍東洋艦隊に対するマレー沖海戦でも日本海軍は大勝利を収めている)、しかし、この異例の山上憶良ばりの長歌の作歌には、単なる妻子や故国への思慕憧憬以上に、この今始まったばかりの戦争が意味するところの「相當に危險ならんか」という不吉な危惧が通奏低音のように流れているように思われてならない。以下、長歌の語釈を示す。

「山菅の」「やま」と同音で「止まず」にかかる枕詞。
「桓」は「たけし」で敦の長男。当時満八歳。
「格」は「のぼる」で敦の次男。当時未だ満一歳と十ヶ月程。
「しみらに」副詞。一日中断え間なく。絶えずひっきりなしに。
「はしきやし」は「愛しきやし」で形容詞「し」の連体形に間投助詞「やし」がついたもの。愛おしい、懐かしいの意。
「あからひく」は「赤ら引く」明るく照り映える。また、この意から「日」「朝」にかかる枕詞であり、二男の名のぼるのそれ(昇る朝日)に準じさせようとしたものか。
「さ丹づらふ」(「つらふ」は「つら」の動詞化とされる)赤く照り映える意で、通常は「色」「黄葉もみぢ」「君」「妹」などの枕詞であるが、ここはその原義を生かした。
「うまじもの」は「うましもの」の誤り。美味しいものの意から「阿部橘」に掛かる枕詞。「馬じもの」では馬のようなさまをして、となってしまう。
「阿部橘」柑橘類。
「時じくの かぐの木の實」「非時の香の菓」で橘の実のこと。夏から早春まで永く枝にあって香りが消えないことに由来する。
「みくだもの」「実果物」か、果物に美称の接頭語を附したものか。私は後者で採る。
不樂さぶしさ」さぶしさ。心が楽しくなく晴れないこと。「不樂」で「さぶし」と訓ずるのは「万葉集」の上代特殊仮名遣である。
いたもすべなみ」「甚もすべ無み」で「甚も」は上代の副詞(形容詞「いたし」の語幹+係助詞「も」)で甚だしくも、大変の意、「すべなみ」(「なみ」は上代語で形容詞「なし」の語幹+原因理由の意を表す接尾語「み」)は「術無み」で仕方がないので、の意。「思ひあまり甚もすべ無み玉たすき畝傍の山にわれは標結ふ」(「万葉集」巻之七・一三三五番歌・作者不詳)など上代歌謡にしばしば見られる語法。
「にはたづみ」「潦」で原義は雨が降って地上に溜って流れる水。そのさまから「流る」「すまぬ」「行方しらぬ」等に掛かる枕詞となったもの。]



あめつちの大きしづけさやこの眞晝珊瑚礁リーフ干潟に光足らひつ

大き空が干潟の上にひろごれり仰げばしんしんと深き色かも

[やぶちゃん注:「しんしん」の後半は底本では踊り字「〱」。]

蟹むるゝリーフ干潟の上にしてつややけきかもよ蒼穹の靑は

搖れ光る椰子の葉末を行く雲は紗の如き雲鞠の如き雲

○汐招き汐を招くと振りかざす赤羅鋏に陽はしみらなる

○汐招き鋏ひた振り呼ぶめれど汐は來ずけり日は永くして

○人無みと汐招きらがをのがじしさかしらすると見ればをかしゑ

○日を一日いそはき疲れ呆けゐる夕自演の汐招きどち

○汐招き鋏休めつ暫しくを夕汐ざゐに耳澄ましゐるか

○汐招き鋏ふりつゝかにかくに一日は暮れぬ海鳥の聲

○汐招きが赤き鋏の乾く見れば干潟に晝は聞けにけらしも

ひそやかに過ぐる音あり風立ちて砂の乾きて走るにかあらむ

[やぶちゃん注:ここには有意な行空きがある。]

○パラオなるアルコロン路の赤山の許多章魚の木忘らえぬかも
[やぶちゃん注:「アルコロン」現在のパラオ共和国の州名ともなっている地域。パラオの主島であるバベルダオブ島の最北端のくびれて突出した地域に位置する。ここにある古代遺跡バドルルアウには巨石柱(ストーン・モノリス)が辺り一帯に点在し、他にもコンレイの石棺など多くの遺跡が残されている地域である(以上は主にウィキの「アルコロン州」に拠った)。
「許多」「あまた」と訓じていよう。数多。]

○海へゆる赤ら傾斜なだりに章魚の木が根上りて立つ立ちのゆゝしも

禿山のパンたこの木どもがをのがじしたこの實持ちて立てるをかしさ【全抹消】
[やぶちゃん注:「パン」の取り消し線は全抹消に先だって抹消訂正されて「たこ」となっていることを示す。]

○夕坂を海に向ひてたこの木が何やら嗤ひ合唱うたへる如し

○たこの木がたこの木毎に顏つくり、夕べの坂に我を威すはや

たこの木はたこの木らしき面をして夕べの顏風に吹かれてゐるも

○葉は風に枯れ裂けたれど、たこの木も、實をもてりけり、あはれたこの實

○たこの木がたこの木み抱くとをのがじし、たこの木さびて立てるをかしさ

[やぶちゃん注:以上の短歌群は日記の掉尾昭和十七(一九四二)年二月二十一日(土)のクレジットの日記本文の後に一行空けて記されているものである。以下に日記本文を示す(取消線は抹消を示す)。

二月二十一日 (土)
 朝、公學校觀察。生徒の體操行進。佐野氏と落合ふ。波止場迄トロッコに乘つて行く。九時半出帆。何時迄も帽子を振る見送人。直ちにベンタウを喫し、臥して、船の搖るゝを待つ。忽ち船上にてよりカマスを釣れ上ること數尾、午頃、そのカマスを刺身にして喰ふ。旨し。
 チャモロの一家傍にあり。仔豚。米を拾ふ。佐野氏と竝んで臥したるまゝコロールに着く。午後二時半頃なり。

《ここに歌群が入って、最終歌の後に一行空きで以下のメモが入って本日記は終わっている。三つのアスタリスク「***」の部分には大きな「{」が一つ附されて、二単語が孰れもリーフの縁を意味する語であることを示している。この三つの単語の覚書きは恐らくミクロネシアのピジン・イングリッシュのそれかと思われる。》

*Errmolle
*     リーフ緣、
*Aermoole
{Kerekell 淺瀨

 中島敦は、この日記の書かれた翌三月十七日、東京へ出張(参照した底本年譜によれば『おそらくは東京轉勤の意を含めた出張のため』とある)、厳しい寒さの中で肺炎を発症して世田谷の父田人の家で療養し六月に回復するも、八月末に南洋庁へ辞表を提出、九月七日附で官を免ぜられた(この間の七月、妻子を実家に帰している間に多量の手稿・ノート類を焼却している)。十月中旬より喘息の発作が激しくなり、心臓が衰弱、十一月中旬に世田谷の岡田病院に入院、十二月四日午前六時、宿痾の喘息のために同医院にて死去、多磨墓地に葬られた(奇しくも偶然のこと乍ら私藪野直史の遺骨も献体解剖終了後はこの墓地にある慶応大学医学部合葬墓に入ることになっている)。
 最後に。
 最後の二首。
 この歌群は少なくとも現存する中島敦の最後の短歌である。

――葉はすっかり潮風に打たれて枯れて裂けてしまっているけれど
――こんな章魚の木も「実」を持っているではないか!
――ああっ! 「実」よ!

――章魚の木が章魚の「実」を抱いている!
――それを眺めていると自然
――それが「確かな」章魚の木という「実在」として屹立していることが分かるんだ!
――ああっ! この世は面白い!

――たった三十三年を己の思うがままに駆け抜けて行った中島敦という一人の男の爽やかな詠唱の声が聴こえてくるようだ……詠唱? いや?! 基!……それはもしかすると……
――たった三十三年を己れの野心という御者の意のままに操られ狂走し、夜陰を駆け抜けて黒洞々たる闇の中に忽然と姿を消して行方知れずとなった、人間であった頃に中島敦という名を名乗った一匹の虎の、その咆哮が聴こえてくると言うべきででもあろうか?……]



[やぶちゃん注:以下、昭和十四(一九三九)年四月二十六日附山本開藏宛書簡より。この人物(不詳。有名な海軍軍人に同姓同名がいるが違うだろう)宛てのものは一通。何か人(冒頭に『牧野さんのことなどでわざわざ御禮なんか仰有つて頂きましては却つて恐縮に存じます』とある)を介した出来事への先方からの御礼に対する返信(葉書)で、先方からの来信(若しくは同封)に山本氏自身の短歌詠があったものと思われ(三首目の末尾参照)、その礼儀的な返しとして――仕方なく――記したものと思われる。消息文末尾に『御歌拜見致しました とりあへず即席のお返しを迄に、』として以下の歌を並べてある。内容からはさる人物の逝去に関わる追悼歌(若しくはその未知の故人の知人の傷心を汲んだもの)であるが、敦の消息文からは山本なる人物自身の(少なくとも直近に於ける)肉親の死ではないように思われる(山本へのお悔みの文句などが全く見当たらないからである)。実は管見する限り、中島敦の旧全集に載る書簡の中に載る短歌はたったこの三首のみなのである。というよりも現存する書簡類で彼は如何なる自作詩歌もそこに記していない。これはそれまでの例えば芥川龍之介などの文人書簡と比して極めて特異な感じを受ける。彼にとっての和歌は自己の大切な――そしてある時は秘やかな――内なる情念の発露としてあったもののように私には思われるのである。]

老いましてこの寂しさに堪へ給ふ人の涙を見るが悲しき

ちゝのみの父の嘆かす涙なれば、黄泉なる人も應へざらめや

女々しとて何かは嗤はむ俤をしぬびてわれも泣かむとするを(女々しとて云々の御歌に、)



■やぶちゃん掉尾注:中島敦の禁断の恋の相手である女生徒を発見した
 以下は本「中島敦短歌全集」を編集する途次に漸層的に私に明らかになってきた事実をもとに、妻子ある中島敦が恋してしまった教え子の女生徒を同定する試みとして二〇一三年十月六日附の私のブログで表記の題名の元に公開したものをほぼそのままに写したものである。なお、この禁断の事実の暴露が彼の数多の短歌群を証左とする以上、ここに配して本「中島敦短歌全集」の巻末とするには決して場違いではあるまいと私は思っている。
   *
 中島敦の事蹟をいろいろと調べるうちに、何のことはない、中島敦の愛した教え子が分かった。
 それも二十一年も前、平成四(一九九二)年に六興出版から出た進藤純孝氏の「山月記の叫び」の中に記されていた。この本情けないことに、出版された直後に買ったものの、直後に読んだ書評が敦を美化し過ぎているとして必ずしも芳しくなかったこと、文章が私が読むのにすこぶる苦手な敬体で綴られていたことなどから、第一章を読んだっきり、そのままうっちゃらかしていた(それでも押し入れに仕舞い込まずに中島敦全集の上にずっと鎮座させていたから不思議な因縁を感じる)本であった。
 その「第四章 耽美の妙」の中に――彼女は――いた。
 名を――小宮山静――という。
『――やはりな』
と私は思った。先日来、中島敦全集に所収する複数の女生徒宛書簡を読む中で、この小宮山静宛の手紙での敦のもの謂いが、何か妙に引っ掛かって響いてくる人物ででもあったからである。
 同書で敦の妻たかの聞き書き(新有堂 一九八九年刊の田鍋幸信編「中島敦・光と影」所収の「思い出すことなど」で昭和五〇(一九七五)年から昭和五八年にかけて実に三十回に亙って田鍋氏が聴き取ったもの)が引用されているのだが、そこにこの小宮山静について、たかが、
   《引用開始》
主人は特別な気持ちを持っていたと考えます。写真をアルバムに貼り、手紙も大切に持っていました。そのお世話で過ごした御殿場から帰った時は、十日間ほど口をきいてくれませんでした
   《引用終了》
と述べている女性である。
 進藤氏は、小宮山静は
   《引用開始》
『敦の横浜高女で教えた子の一人(昭和十一年卒業)ですが、タカは「最初は田辺ミエ子さんという、良く出来た生徒さんが好きだったようです」とも語っており、敦の好きだった女の子は、まだ幾人も数えられます』
   《引用終了》
とあるから、一見、彼女と即座に断定することは憚られるようにも見えるのであるが、同じ箇所にやはりたかの聞き書きから、以下のように引用されているのが目に止まった。
   《引用開始》
――入院間際の時でしたか、「シズ、シズ」とうわ言を言うのを聞いたこともあります。私には派手な化粧の方のように思われましたが、正子(長女)が生まれてすぐ死亡した(昭和十二年一月)時のこと、尋ねて来られて私が玄関に出たところ、何も言わずに逃げ出すように帰られました。焼いた手紙も多くあったと思います。横浜出港の時(昭和十六年七月の南洋パラオへの赴任)、また葬儀の時も見えられませんでした。
と語り、「十年ほどのお付き合いと思われますが、私も子供さえいなければ別れたいと思ったこともあります」と、妻をないがしろにして、好きな女性とおおっぴらに付き合う敦への怨みを述べています。
   《引用終了》
 この妻たかの述懐は非常に重い。
 後で検証を示すが、この時(昭和十二年一月)、静は満十八歳前後であったと考えられる。
 この静の行動はまさに、

宵々の家になりはひ憎とふ君をし思へば心苦しも

という敦の妖しい短歌の初めの方に、鬼火の如く浮かび上がる、妬心に燃える乙女の映像と美事に一致するではないか?!
 私は先の注で、『――中島敦の秘かなる禁断の恋は――昭和十年よりも前であることを意味する。しかも彼にそうしたアバンチュールを許し得る状況があったのは――たかと結婚(但し、これも前に述べた通りの事実婚)した昭和七年三月以降、妻子との完全な同居が始まる昭和十一年三月初め(前にも注で記した通り、昭和八年には長男桓が生まれ、その年の十一月に実家から妻子が上京して目黒区緑ヶ丘に移っているものの、この時点では同居はまだ始まっておらず、敦は未だに横浜に単身で住んで目黒へは妻問婚状態にあった)にやっと横浜市中区本郷町に一家を構えるまでの間と考えるのが最も自然である。凡そ四年の勝手気儘な満二十三から二十六歳までの間――しかもその出逢いが以前に示したように、その相手が横浜高等女学校の教え子の女生徒であったと仮定するならば――敦が同校に赴任した昭和八年四月以降、昭和十一年三月までの約三年間の間の邂逅と逢瀬であったと考えられる』と述べた。
 この小宮山静の卒業は進藤氏によって昭和一一(一九三六)年に横浜高等女学校を卒業している。
 すると、横浜高女が当時の法令に則った高等女学校であったとすれば終業年限は五年で彼女の入学は昭和六年四月入学となり、中島敦の同校奉職の年である昭和八年当時は高等女学校三年で、順当な入学なら満十四歳であった(卒業時は十七歳で現在の高等学校二年生に相当する)。
 さてそこで、もう一度最初に引用したたかの言葉の中の「そのお世話で過ごした御殿場」に着目して頂きたいのである。これについて、進藤氏は直後で『南洋から帰った昭和十七年の夏過ぎのことかも知れません』と推測なさっておられる。則ち、小宮山静との関係は死のその年まで続いていたことが疑われるのである。
 そもそもこの「御殿場」とは何か?
 これは進藤氏の叙述や敦の書簡記載(後の引用を参照)などを見る限り、小宮山静の実家所縁の貸間か貸家か貸別荘であることが分かる。しかも驚くべきことに中島敦は静が在学中(四年生で十五歳)の昭和十年八月に、恐らくはこの御殿場の家(但し、書簡から見ると一軒ではなく二軒以上複数の貸屋か貸別荘で、小宮山の家が相当に裕福な大家であったことが窺われる)に一ヶ月に渡って滞在していることが判明するのである。
 実は「そのお世話で過ごした御殿場」というのがこの時のことを指すか、それとも進藤氏が推測されているように南洋から帰還した折りの再訪――年譜にはその記載はなく、そうした事実があったかどうかは現在の私には確認出来ないが――の時のことを指すかは判然としない――しないが、しかし私は、中島敦にあれほど私淑する進藤氏がわざわざかく書いているという事実から推して南洋帰還後の御殿場療養――小宮山静もそこには確かにいた――は確かにあったと考えている。それは進藤氏も引用している昭和十七年八月二十七日附の小宮山静宛書簡(旧全集書簡番号一七四。データに『八月二十七日 東京市世田谷區世田谷一の一二四から静岡縣御殿場町上町 小宮山靜宛(繪はがき―土方久功版畫、南洋風景)』とある)が、その事実を容易に類推させるからである(なお、これに先立つ同年七月八日附静宛書簡旧全集書簡番号一六八では渋谷で落ち逢えないかというデートへの誘いが書かれており、また当時の満二十三歳前後になっていたと思われる静が洋裁学校に通っていたことも判明する)。
   《引用開始》
 御手紙拜見、
 御殿場での生活は樂しさうで、羨ましいな、
 何時頃迄そちらにゐるんですか? 東京へ歸つたら、一度ぜひ、ウチへ來て下さい、
 君の今ゐるのは、いつか、僕も一度寄つたことのある、あの活版屋さんの家ですか? いつかの勝又さんの所みたいに長く置いてくれる所があつたら僕も仕事をしに行きたいものですね
   《引用終了》
 この「勝又さんの所」が昭和十年八月に滞在した貸家(印象からは離れのようなコテージ・タイプのものではなかろうか)で、そこも小宮山の家の紹介によって敦が借りたということ、その昭和十年八月の折りにも、小宮山静がそこに敦を訪ねた可能性が極めて高いこと、いや、同じ家でないにしても同じ御殿場の直ぐ近くに彼女も滞在していたことを深く疑わせるのである。
……そして……御殿場……である。……富士である。……駿河である。……

せむすべをしらに富士嶺をろがみつ心極まり涙あふれ來

丘行けば富士ケ嶺見えつする河野の朝を仰ぎて君と見し山

するが野の八月の朝はつゆしげみ君がす足はぬれにけるかも

……そして……八月である。……花火である。……浴衣である。……十六歳の少女である。……

かの宵の松葉花火の火の如く我は沿えなむ今はたへねば

かの宵の君が浴衣の花模樣まなかひにしてもとな忘れず忘らへぬかも

以上は既に掲げた昭和一二(一九三七)年の手帳歌稿草稿群にあった中島敦の謎めいた恋愛悲傷歌群に載るものである。そしてその注でも示したが、この昭和十一年の手帳には次の詩が終わりの方に突如、出現するのである(取消線は抹消を示す)。……

  はかなしや 空に消え行く
  花火見し 宵のいくとき
  花模樣 君がゆかたに
  うちは風 涼しかりしか
 かの宵の君がまなざし、やはらかきそともれし君が吐息や
 一夏のたゞかりそめと、忘れ得ぬ我やしれ人

  別るゝと かねて知りせば
  なかなかに 逢はざらましを

  なにしかも 君がゆかたのも
  花模樣 忘れかねつる
  まなかひに 浮ぶよ。びつゝ もとな
  歩みつる 野遽の草花
  一夏の たゞかりそめを
  かりそめの たゞ一夏を忘れ得ぬ
  得思はぬ われは痴人 吾よしれびと

……さて。
……私は今から二年ほど前、さるアカデミックな筋から次のような情報を聴いた。
   *
――中島敦は当時勤務していた横浜高等女学校の現役の女生徒との間で『ある問題』を起こした――
[やぶちゃん補注:その具体な内容は知らない。それが本当に驚天動地のスキャンダラスなものであったものか、いや寧ろ、今聴けば頭を傾げる程度のものであったものかも不明である。一方的なセクハラまがいのものであったのか、それとも両者の同意のもとにあった出来事であったのかも不明である。但し、ここは現役であることがポイントである。卒業した教え子との場合であったなら、寧ろ当時にあっては現在と違って逆にスキャンダルたり得ない可能性の方が大きいと思われる。]
――が、学校内部でうまく揉み消されてしまった――
[やぶちゃん補注:これは仮にその事実があったとして、私立女学校としての体面や同校の校長が敦の実父田人の教え子であったこと――当校への敦の就職自体もその縁故によるものである――から考えて、寧ろ当時としてはすこぶる自然で当然な処理であったと考えられる。]
――従ってそのことは誰にも知られず、現在の資料や記録にも何も残ってはいない……
[やぶちゃん補注:少なくとも、一般に知られる中島敦の事蹟の中にそのような教え子に対するセクシャル・ハラスメント染みた内容や不倫ゴシップに相当するような記事記載を読んだことはない。]
   *
という――公的な事件や記録としては残っていない――女学校教師中島敦の秘密の事件――としての――如何にも夭折作家の都市伝説として――もってこいの話ではあった。
 しかし私はどうもこれは事実であったように思われてならないのである。
 そしてその当事者、
――禁断の恋の相手こそ――この――小宮山静――という女生徒であったのではなかろうか?

 中島敦の女性癖について、進藤氏は同書で、敦の教え子の女性の言葉として、誰もが『優しかった先生』『お宅にお伺いしてお部屋でいろいろお話したり御馳走になり、帰りに御門の所迄送っていただいた』と述べるのを引き、『なぞという文句に、敦が通り一遍の女学校教師ではなかったことが、滲み出てい』ると、何だかちょいとヘンな言い方をし、また、敦が女学校教諭となったことについて、父と校長との縁を語りながらも、『なによりも女の子が好きだったという事情が、敦にその職を選ばせたのだと思われ』ると、これまた、一見意味深且つヘンな評言をなさっておられる(孰れも同書一五〇頁)。これは母性愛欠損を前提とした謂いではあるが、それでもやはりヘンに意味深である。また、別な箇所ではまさに昭和十一年頃に親しく接するようになった「日本百名山」の登山家にして作家深田久彌の妻北畠八穂が敦を『大変な教養人』であったと評価しながらも、『ただ女性関係でちょっと忠告したことがありました』と敦への追悼文で『その「女性関係」のだらしなさを指差してい』るとも述べている。さらに附言しておくと、敦は就職した当時、自身が結婚していることを生徒はおろか、同僚にも黙っていた事実がある。どこで読んだものか失念して、引用もとを示せないのであるが、死後のことであるが、元同僚の女教師が――彼に奥さんや男の子までいるというのをかなり後になってから聴いて吃驚した、およそそんなふうには見えなかった――といった内容を述懐しているのを読んだことがある。長男の誕生は赴任した四月の二十八日である。この女教師が吃驚しているのを考えると、例えば最低でもその年の末位まで(この十一月に妻子が上京して中区山下町の同潤会アパートでの一人暮らしから目黒区緑ヶ丘での同居に入っている)、敦は周囲に対して未婚を詐称、という語に語弊があるなら――若き独身男性の香気を意識的にぷんぷんさせていた――と考えられるのである(因みに、進藤氏の「山月記の叫び」にはそれ以前の敦の大学時代のパン子――その女性の通称固有名詞である――なる女性との遍歴などがかなり赤裸々に、しかも妻たかの口を通して――『一週間目に』『抱かれました』『私はパン子さんと主人の関係を知ってい』ました、事実二人が『ベッドの上で抱き合っているのを見ていたのです』といった感じで――叙述されている)。
ともかくも
――妻子ある中島敦が愛してしまった女生徒は小宮山静という女生徒であった――
という事実、そしてそれが恐らく私が二年前に聴いた、
――中島敦の幻のゴシップ――揉み消された事件――のその相手も――小宮山静であった――
という可能性がすこぶる高いということを、最後に述べて終わりとしたいと思う。
――なお、これは本当の最後に、だ。
――私はこれで――鬼の首を取ったように恋多き敦を教員不適格者として指弾しているのでは――これ、毛頭ない。
――私は今、逆に激しく中島敦という人間に「共感」しているのだということを――どうしてもここに声を大にして告白せずにはおられないのだということを……述べておきたいのである……]


やぶちゃん版中島敦短歌全集 附やぶちゃん注 完