やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇
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森鷗外「舞姫」正字正仮名テクストへ
森鷗外「舞姫」やぶちゃん現代語擬訳全篇』へ

 

Homo animalis sapiens から Homo animus sapiens

――太田豊太郎という進化 或いは 茨冠せる巫女エリス――

「舞姫」小攷

copyright 2011 Yabutyan

 

[やぶちゃん注:以下は、高校3年生の「舞姫」の授業の最後に、凡そ十篇の歴代「舞姫」評論のシノプシスを読ませ、その中から自分の気になった一篇を選んで、それを考にしつつ、登場人物・作品構成・表現・主題その他について自由に批評せよ、といった小論文の回答例である(それは自由批評である以上、断じて『解答例』ではなく、ただの一つの『回答例』に過ぎぬ。しかしたかが『回答例』、されど『回答例』である)。読み易くするために、わざと多数の段落に分けてあるが、小論文ならば何時も言う通り、三段から四段構成でゆくべきところである。私の回答例は前田愛氏の出色の都市論的解析「Berlin, 1888」を参考にしたものであるが、高校生向けの小論文例であるから、ありがちな気障な言い回しや如何にもな事大主義的語句使用があるのは御寛恕あられたい。先の森鷗外の「舞姫」の正字正仮名テクスト及び『森鷗外「舞姫」やぶちゃん現代語擬訳全篇』の公開を受けて、私の「舞姫」へのスタンスを表明するために、――そして今年の私の「舞姫」の授業を受けた、いや、過去の総ての私の「舞姫」の授業を受けた教え子諸君のために――本頁を公開する。上記題名は今回新たに附したもので、今回の公開のために数年前に書いた過去の稿に少しばかり手を加えてある。――私は30年前に初めて「舞姫」を教授して以来、今以て、一貫して、断固として大田豊太郎を許さない。――それは私自身の『豊太郎的なるもの』を許さない、という謂いでもある。――「舞姫」――それは作中、あの姿見に映った豊太郎とエリスの面影である。――確かに「舞姫」は私たちの『心を映す鏡』であり、それは同時に漱石の「こゝろ」に通底するものである。――【2010年1月1日】]

 

 豊太郎は常に「獸園」を起点に歩き始める。周囲からの孤立とエリスとの邂逅のシークエンスに於いて。そして名誉回復と帰国の代償としてのエリスの発狂の直前のシークエンス於いて。この二つの重要なコペルニクス的転回点にあって――あたかも人類の進化の二様の分岐点であるかのように――「獸園」なのである。

 実際には我々人類の進化には無数の選択肢があつた。最新の中立説に基づく進化論によれば、現在のHomo  sapiensという種の存在(その自然征服という世界観をも含めて)、否、我々をとりまく地球という環境(人間を頂点とするヒエラルキーの幻想世界=それを別して「エコロジー」などとも呼称する)は、外的及び内的諸要素の複雑な絡み合いの中で、たまたま選択された世界に過ぎないのである。

 すなわち、前田愛の発想を援用するならば、豊太郎は獣=類人猿の起点から――官長のロボットのような、文字通り、ロボトミー(前頭葉切除術)を施したような存在からと言い換えてもよい――女性性(アニマ)に支配される社会の選択肢の一つである母系的巫女的世界へと旅立つたのである。

 何故に巫女的というか。この作品の中で、エリスは常に未来を予言してしまっているから、である。事実、彼女が不吉にも口にした通り、結果として豊太郎はエリスを裏切り、捨て、そして生まれて来る子供には「あだし名をば名のらせ」ることになってしまっているではないか。これは正に巫女としての霊言に外ならぬ。いや、それは既にしてエリスの属性に内包していることに気づく。そもそも舞姫=踊り子とはシャーマンである。本邦を閲しても、天の岩戸の前でストリップを演じてホトを覗かせたアメノウズメノミコト、文字通り、ストリートに立ってひさいだ踊り巫女出雲のお国、主人公の『少年』からの苦い別れを象徴する伊豆の踊り子――と、枚挙に暇がない。エリスの持ったそのシヤーマニックな霊性にとりこまれ、その迷宮(ラビリンス)クロステル巷の湿っぽく窮屈ではあるが、それでいて暖かい屋根裏部屋=子宮=『守らんとする』女性性の中で、豊太郎は至福の夢をむさぼったのである。

 しかし、このようにしてHomo animalis sapiens――アニマ型ホモ・サピエンスとなった豊太郎は、結局、そのアニマ的世界に満足することは出来なかった。人類が、文化の発展とともに権力やエゴイズムといったアニムス的欲望を無限に肥大し続けてきたように、豊太郎は忽ち、子宮のぬくもりと安穏だけでは我慢しきれなくなるのである。

 それを触発するのが、男性性(アニムス)の世界に属する相沢であり、天方伯であり、政治的権力と富貴に満ち満ちたロシア宮廷なのであつた。『越えんとする』=飽くなき欲望=国家権力とは、常に男性性の謂いに他ならない。

 母子家庭に育った豊太郎は、天方伯に自己に欠損している(と感じている)『父なるもの』を見、そこにもう一つの、自己の進化の選択肢があつたことに気づくや、その命令に追従することを未体験であるが故に『快感』と感じたのである。そもそも、はつきりした意志なしに発せられた豊太郎の「承り侍り」とは、何か? それはとりもなおさず、父権的絶対性の前に自己滅却することによって生じる、封建的マゾヒズム、ひいてはそうした心性から生まれたとも解釈出来る同性愛的快感の変形――フロイト的に言い換えれば、『権威たる父』に男根を切除されることを恐怖する男子のエディプス・コンプレクスの反転として見ることさえ可能である。

 豊太郎はかくして、アニムスの世界の新しい人類の奇形的亜種(生物学的にも人類のプロトタイプがイヴである――ヒトの正常個体は♀であり、♂はその奇形である――ことは性染色体が物語る厳然たる科学的真理である)――Homo animus sapiensとなることを選んでしまう。――彼は日本に帰り、社会的に復活し、相応な地位を得て立身出世したことであろう。鷗外のように。

 さて、そこである。権威としてのアカデミズムは、彼のようなインテリゲンチア(知識人)によって日本は近代化し、高度な近代的科学的文化を掌中に入れ、そして今現在の繁栄も、そこに淵源がある、とも言うのであろう。

 しかしながら、彼太田豊太郎が選んだ人生という進化の選択肢が真に正しかったかどうかは、現在の進化論が中立説という偶然から、現在の人類の繁栄(染みた絶滅危機)に至ったのと同じく、全く別問題であると言えるのである。言い換えるなら、その富貴と快楽に満ちていたであろう豊太郎の、否、鷗外の後半生も、エリス=エリーゼを裏切った一点において、致命的に血塗られているのである(実際の鷗外が本当にそうであったかどうかは異論のある向きもあろう。しかし差し当たり、その考証は現在の私の興味の外延からは遠くにある)――鷗外がその遺書で一石見人森林太郎として死ぬことを選んだのも、そうした「オオトリテエ」(権威)や、そうした絶対性を無条件に突きつけて来る非人間的な「国家」のために、「まことの我」を自ら犠牲にしてしまった絶対の「恨み」――スティグマ(聖痕)とも言うべきトラウマ(心傷)故であったのではなかったか?――そしてそれは、また恐ろしいまでに「こゝろ」のKが自死した理由や、先生が抱え続けねばならなかった忌まわしい孤独で荒涼とした、寒々としたあの、心象風景と完全にオーバー・ラップするものである。

 そして、そのトラウマを豊太郎自身が万一、忘れたとしても――もしもそれが真にスティグマであるならば、それは忘れようにも忘れることは出来ぬものである――『私たちが忘れない』のだ!

 舞姫は、未だに教科書に所収され、今も読み継がれている(進学校でこんなものをまともに授業する奴は気が知れない、と吐き捨てるように言い放ったかつての国語教師の同僚がいるが、私は彼を永遠に国語教師として認めない)。それは、「舞姫」を読んで苦悩する明治のインテリゲンチアを理解し、日本の近代化への犠牲的貢献という観点から豊太郎という知識人の有り難い存在を問い直しなさい、君たち知識階級の『豊太郎の内なる相沢的なるもの』を見つめなさい、とでも言うのであろう(実際には『豊太郎の内なる相沢的なるもの』という言辞は私も授業で使ったが、あんな謂いは、やはり豊太郎の、開いた口が塞がらない、吉本新喜劇みたような弁解にならない弁解と同様、如何にもな小手先タネ見え見えの御粗末マジック、安っぽい下劣な授業時間内解決を目指した文学的すり替えでしかなかったことを告白しておく)。

 しかし私は、そんなどこぞの有名予備校が作るような小論文の模範『解答』には、今も昔も組みするつもりは、ない。いや、初めて読んだ19の少年の頃から、私の「恨み」は永遠に変わらないのだ!

 批判されるべきもの――告発されねばならないもの――は、鮮やかにきっぱりと指弾されねばならぬ。――勿論、あの姿見に映った『私』に「あなたにそんなことが言えて?!」と、私の瞳を見つめながら、その瞳をきっと指さす『私』のエリスからの揶揄する声をも『覚悟』の上で――である。

 ケツが青いと言われても、いいじゃないか?!

 「豊太郎、お前は汚いぜ!」という素直な怒りに満ちた高校生=プエル・エテルヌス=永遠の少年(私は過去三十年間、ずっとプエル・エテルヌスを前にしてきたことは、私と言う存在の閉じた時空間に於いて真理命題なのである)の声を聞くとき、私は、まだまだこの世は大丈夫らしい、人類は――少なくともこの澄んだ目を持つ少年少女たちは――無限遠に痙攣する科学技術や人類のエシックスを遙かに超えて膨張し続ける文明という、この忌まわしい悪魔に、まだ魂を売り渡してしまってはいないようだ、と、採点の赤ペンをふと止めては、蔭ながらほっとすること、頻りなのである。

 

Homo animalis sapiens から Homo animus sapiens

――太田豊太郎という進化 或いは 茨冠せる巫女エリス――

「舞姫」小攷 完

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