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「槍ヶ岳紀行 芥川龍之介」
(芥川龍之介満十七歳の明治四二(一九〇九)年八月の槍ヶ岳山行記録)


[やぶちゃん注:芥川龍之介は、東京府立第三中学校(現在の都立両国高等学校)五年(満十七歳)の夏、明治四二(一九〇九)年八月八日、級友市村友三郎・中塚癸巳男・中原安太郎・山口貞亮の五人で(この全メンバーは鷺只雄氏の「年表作家読本 芥川龍之介」(一九九二年河出書房新社刊)に拠る)槍ヶ岳登攀の山行に出た。山頂登攀は新全集の宮坂覺氏の年譜に拠れば、八月十日と推定され、鷺氏によれば、帰京は同月十二・十三日頃とされる。今でこそ、人気の山であるが(私も四度登頂している)、近代登山史では、公式の日本人初登頂記録は小島烏水の明治三五(一九〇二)年で、鷺氏のコラム記載によれば、『その名著『日本山水論』』(明治三十八年六月刊)『を愛読していた芥川が四二年に登頂したというのは異例の早さということになる』とある。但し、私は諸資料から見て、芥川龍之介が確かに槍の穂先への登攀に成功したかどうかは疑問であった。ところが、今回、サイト「穂高健一ワールド」の「芥川龍之介の槍ヶ岳登山=上村信太郎」に、『芥川龍之介、市村友三郎、中原安太郎、中塚癸巳男の』四『人が槍ヶ岳の頂に立ったのは、晴天の』八月十二日『午前だった』。『このことが判明したのは、同行していた中塚が後に、旧制一高(東大の前身)旅行部縦の会発行の『失いし山仲間』(限定』三百『部非売品)に登頂の事実を書き、また』、『日本山岳会々員に証言していたからである』とあるのを見出した。ただ、ここでは一行を四人としていて、鷺氏の揚げる山口貞亮がいないのは気になる。本記録を見て戴けば判るが、「山口」なる友人は確かに同行しているからである(高度障害によって彼だけ登頂を断念した可能性はある)。さらに、以下に記す、本体験を元にした二つの芥川龍之介の後続作品を見ても、登頂のシークエンスが全く描かれていないのは、私にはあの先端に立った経験者として、頗る解せない不審な点なのである(或いは芥川龍之介は登攀途中から高度障害に罹り、登頂はしたものの、思い出したくもない、或いは、思い出せない病態に陥っていた可能性がなかったとは言えない。私も一度だけ、友人と二人で十一月の雪の前穂高・穂高・西穂高岳を登攀した際、一時的に高度障害を起したことがあるが、一歩足を上げるのさえ困難で、甚だ難渋したのを思い出す)。
 底本は葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」(一九六八年岩波書店刊)を用いた。その解説によれば、本篇は『稍』『縦長のノオト』で、芥川龍之介『自ら薄鼠色のラシャ紙で装幀し、その表紙には、遠くアルプスの山々の見えるカットを配し、「槍ヶ岳紀行 芥川龍之介」と題し、小冊子に仕立直』されたもの、とある。
 底本は連続しているが、読み易くするために日が変わる所にアスタリスクを入れた。〔 〕で表記されているものは編者による推定補足である。拗音或いは「ヶ」等の小文字表記は右寄りであるが、一部を除いて通常の下方表記の小文字とした。踊り字「〱」「〲」は正字化した。オリジナルな注を各段落末にポイント落ちで挿入した。底本には本文内に葛巻氏の割注が入るが、幾つかは芥川龍之介研究に於いて相応に価値ある情報で、あってよいものであるから、一部は葛巻氏のそれをベースとしつつ、葛巻氏の著作権を侵害しないように、補足等を行って附した。但し、地名その他は、私にとって不明であったり、知ってはいるものの位置確認を改めてしたいと思った場合にのみ、附した。例えば、私のよく知っている山や諸地名等は注していないので、悪しからず。
 なお、芥川龍之介には、他に、未定稿「槍ケ岳に登つた記」(「青空文庫」のこちらで読めるが、新字新仮名である)もあるが、これは二年後の明治四四(一九一一)年頃(第一高等学校一・二年次)に書かれたもので、この時の経験に基づく回想文である(葛巻氏によれば『半紙に墨で書かれたもの』とある)。さらに、大正九(一九二〇)年七月の『改造』に発表した「槍ケ嶽紀行」があるが(これも「青空文庫」のこちらで読める(やはり新字新仮名))、研究者や登山家の間には、芥川がこの大正九(一九二〇)年の直近に槍ヶ岳に登山していると思い込んでいる方もいるのであるが(そう書かれた学術論文やエッセイが実際にある)、そのような事実は年譜的事実からも認められず、実は十一年も前の、この時の経験をインスパイアした、確信犯の偽作紀行文なのである。
 なお、本テクストは私のサイトの開設十三周年を記念して公開するものである。【二〇一八年六月二十六日:藪野直史】]


槍ヶ岳紀行   芥川龍之介


 八月八日 晴
 四時半に起こされる。
 蚊帳の外へはひ出すと柹の若葉の間から晴れた朝の空が見えて、そのが丁度焚きつけはじめた所だ。荷物を一通りしらべて顏を洗つて 朝飯をすまして、草鞋をはかうとすると 中塚がくる。和服で雜囊をぶらさげて、大きな包をもつて 茣座を七八分まいて金剛杖を持つたのが、いつか芝居で見た熊坂の子分に似てゐる。玄關へ緣臺を出して、中塚と話しながら 中原のくるのをまつ。中塚は昨夜ふいに醉つぱらひが家の中へはいつて來たので驚いたと云ふ。それからどうしたいと云ふとウ
とつきとばしてやつたら ごろりところがつて寐はじめたのにやァよわつた、仕方がないから無理に外へ押し出してやつた さうしたら誰かに抛りこまれたと見えて、どぶの中へ落つこちて泥だらけになつたよ と答へた。二人で笑ひながら むすびを食つたり茶をのんだりして待つたが、中原がこない。その中に六時をうつてしまつたので、そろそろ出かける事にする。電車で新宿の停車場へ行く。
[やぶちゃん注:「その」葛巻氏の割注によれば、芥川家の『女中の名』とする。
 中原はもうこつちへ來てゐて 停車場入口でおいでおいでをしてゐた。山口も市村ももう切符を買つてしまつてゐた。唯、惜しい事には六時五十六分の汽車が今出たばかりだと云ふ。仕方がないから兄貴の家へ行つて 次の汽車の時刻の來るのをまつ。サイダーをのんで マシマローをくつてゐると、姊が「一寸」と云つてよぶ。何かと思つて行つたら 御小遣ひにと云つて一圓くれた。
[やぶちゃん注:「兄貴の家」芥川龍之介の姉ヒサと夫(義兄で「兄貴」)葛巻義定(底本編者葛巻義敏の両親)の家。芥川龍之介の実母敏三の経営する、新宿にあった「耕牧舎」牛乳搾取場脇にあった。実は、この槍ヶ岳行から芥川龍之介帰った直後の八月二十一日に義敏は生まれている。しかし、この翌明治四三(一九〇九)年九月にヒサと義定は離婚してしまい、この家は空き家になるが、そこに入れ違うように、龍之介の養家である芥川家が同年十月に転居し、田端の家が出来る大正三年秋まで、ここに住んだ。更に、義敏は父母の離婚によって八歳まで龍之介の実家新原家に預けられて育ち、その後、ヒサが西川豊と再婚したことから、大正一二(一九二三)年一月からは、彼を可愛がっていた龍之介が田端の芥川家に迎えて、そこで生活するようになる。]
 八時五十四分のに間にあつて、皆汽車へのる。富士へ上るらしい一行と同じ車室にのり合せた。菅笠や草鞋やらを澤山つみこんで 鼻の大きなあばたのある奴や、禿頭の眼がねをかけた奴や、髯だらけの燒いたら後から蕨のはえさうな奴が、勝手な事を云つて騷いでゐる。うるさいけれども 仕方がない。
 子規句集をよむ中に、汽車が淺川でとまる。車掌が「どうか一寸御下りなすつて。」と云ふ。こゝで、車輌の數をへらすのださうだ。プラットフォームに立つてゐると 丁度高尾山の開帳なので 下りる奴も下りる奴も、小さな手拭の旗やおもちやのメダルの樣なものをもつてゐる。中でも、兜巾をつけた坊主が綿の鈴かけをかけて、麻の衣をきて、大きな珠數をもつて 高い足駄をはいてゐたのが、一番ふるつてゐた。
[やぶちゃん注:「淺川」「あさかは(あさかわ)」は現在の東京都八王子市にある「高尾」駅のこと。駅開業当時の所在地である東京府南多摩郡浅川村に由来し、駅名の改称は戦後の昭和三六(一九六一)年である。
「兜巾」「ときん」。修験者が額に付ける頭の尖った円型の被り物。]

 車輛をへらすのもすむと、又汽車でゆく。南側の山が、漸く眉近くせまると思ふと 直に小佛の隧道トンネルになる。
 まつくらな中を 汽車がごーっと走る。暗い坂をさか落しに、地の底迄もくだるのかと思はれる。天井の石油燈が時々さびしさうにまたゝいて、人の顏〔が〕うすぐらい中にうすじろく浮いて見える。トンネルは二十幾つかあつた。汽車が其中に、上野原でとまる。三十分停車である。桂川がすぐそばに見えて 大きな岩が氣まへよくわれた間を澄んだ水が靜な所は靑い飴の樣に とろりとよどんで 急な所はやけに米の汁をぶちまけた樣ににえくりかへつて景氣よく流れてゆく。この河原を檜木笠をかぶつて、白い衣をきた男が長い竿をもつて あるいてゐる。大方鮎でもゐるのだらう。
 殊に 停車場の僅かばかり手前に 葦津葺の立場茶屋があつて、大きな槐の樹が三本すくすく その軒についてそびへたのに 黑地に白く字でぬいた腹がけの馬が二三匹つないであつたのは さながらに畫になるながめであつた。
[やぶちゃん注:「葦津葺」「よしづぶき」で「葭簀葺き」のこと。
「槐」「ゑんじゆ(えんじゅ)」。マメ目マメ科マメ亜科エンジュ属エンジュ
Styphnolobium japonicum。]
 猿橋は居ねむりをしてゐる中に 通つてしまつた。こゝで やつとかつた 辨當をくふ。まづい玉子燒に 豆腐の煑たのより外にくへるものはない。
 汽車が大月へつくと、富士へのぼる連中が皆 下りる。やつと のうのうする。富士は近く車窓にせまつて 幾すぢかのきえのこつた雪をびきながら、腰は白雲にまとはれて 山々の上に 高くそびえてゐる。この近くに桂川水電がある。太い鐡管が 線路に沿つた崖にならんで その中で水の落ちる音がどうどうとする。
[やぶちゃん注:「のうのう」は副詞で「心配などがなくなって、ゆったりとした気分でいるさま。のびのび。
「桂川水電」山梨県大月市駒橋に現存する、明治四〇(一九〇七)年操業開始の現在の東京電力の水力発電所である駒橋発電所。サイト「水力ドットコム」のここに詳しく、この発電所は川茂発電所・桂川・菅野川・朝日川から取水し、八ツ沢発電所・桂川に放水している。また、この発電所は芥川龍之介が瞠目して詳細に記すのも尤もなものなのであって、実はこの発電所は「東京送電水力発祥の地」なのだそうである。リンク先に『東京電力(株)の全身である東京電燈(株)は、東京に水力の電気を送電しようと甲府桂川の駒橋に』一万五千二百キロワットの『発電所を建設し』、六十キロメートル『の送電線』及び『早稲田に変電所を建設するという』、『画期的な長距離送電水力発電を計画し』、『明治三十九年』に『着工し、工事関係者の精力的な努力により』、『工事は順調に進み』、『明治四十年十二月二十日午後四時、待望の水力電気が』五万五千ボルトの『送電電圧により』、『麻布、麹町一体に歴史に残る灯をつけ』たとあり、『これが我が国、初の水力発電長距離送電の草分けとな』ったとあるのである。ここ(グーグル・マップ・データ)。猿橋駅から約一キロメートル地点の車窓右(北)側、笹子川(「桂川」は笹子川下流域の川名(及びその支流)でその下流では相模川となる)右岸である。操業開始から僅か一年半後であり、まさに科学技術の最先端の壮大な施設に若き芥川龍之介が興味津々で見入っている様子がよく判る。]

 見ると、崖の上の方で 水が勢よく 瀧の樣に落ちる所がある。水煙が白く 霧の樣に上つてゐる。その反對のがはが 水電の會社で、煉瓦づくりの建物が三つ四つ 山の底の方に かたまつて見える。
 やがて、汽車が甲府へつく。甲府へつく少し手前が 躑躅ケ岡の故城跡ださうな。山口がさう云ふから、さうにしておく。
[やぶちゃん注:「躑躅ケ岡の故城跡」山梨県甲府市古府中(甲斐国山梨郡古府中)にあった武田氏の領国経営における中心地である「躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた跡」のこと。ここ(グーグル・マップ・データ)。]
 汽車が甲府をはなれると 再び上りになる。窓から首を出して眺めると、草の間に女郞花の弱々しいのや 撫子のうす紅なのや 桔梗の紫なのやらが 所々にさいてゐる。その間に稻田が靑々と風にそよいで 畑には農夫がせつせと 勞働につとめてゐる。
 黑土のいきれと 陽炎との間に 芋畑や玉蜀黍畑が ずーっと向ふ迄つゞいて その上にかやたけの一帶の山々が けむりながら高く聳える。遠くきこえる鷄の聲、農夫の歌、……その中を 山家づくりの汽車が あへぎながら走る。乘客は農夫が多い。
[やぶちゃん注:「茅ケ岳」山梨県北杜市と甲斐市に跨る、奥秩父山地の南西部にある茅ヶ岳。標高千七百四 メートル。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「山家づくり」「やまがづくり」と読んでいよう。如何にも田舎風、旧式の蒸気機関車なのである。]

 日野春ひのはるの停車場をすぎると、高原性の景色が 眼の前にひらかれる。稻田は もう何處にも見えない。草の茂つた荒地に 落葉松と、栗とがかたまつて生えたのに 合歡の花のちりのこつたのが、そここゝに、紅に眺められる。其間々に この頃やつと開かれたらしい甘藷畑がちらばつて、石ころだらけの川が それをぬつて流れてゐる。
[やぶちゃん注:「日野春」現在の山梨県北杜市長坂町富岡にある駅。標高は六百十五メートル。駅名は開業当時の旧村名山梨県北巨摩郡日野春村に由来する。ここ(グーグル・マップ・データ)。]
 右は 八ヶ嶽の傾斜、――長い裾野には 黑い森が見え 低い農家が見え、どうかすると、竹藪のかげに 瀧の白くひかるのが見える。市村は 雜囊を枕にして 寐てしまつた。山口は、乘合せた農夫と 山の話をしてゐる。中塚は 地図〔と〕磁石とをながめて 豫定を考へてゐるらしい。私と中原は 窓によつて、高原のさびしい景色を眺める。左は 駒ヶ岳が 近く望まれた。日を後にしたので 靑くけむつて見えるが 其中に禿げた所が きは立つて白く、雪が殘つてゐるのかに 思はせる。靑黑い杉の林が 其腰をうづめて、炭やきらしい煙〔が〕其上に動いてゐる。高原の冷な大氣中に 黃色い百合のさいてゐるのも 佗しい。高原がつきると、桑の畑になる。桑〔畑〕の末に 諏訪湖の靑白く ふるえる
[やぶちゃん注:ママ。]のが見〔え〕る頃は、もう夕方であつた。湖をめぐつた山々の上に 紺紫の雲が ちぎれちぎれにういて それが皆 金の笹べりを とつてゐる。雲は 燃えるやうになつて 今し方沈だ日の餘光が その中に 樺色に輝いてゐる。山々は もう靑い黃昏の影に 半ば掩はれて 上諏訪をすぎると 夕もやの中に 富士山が うすくうすく 夢の樣にながめられた。湖に 靜〔な〕夕の光をうかべて 舟が一つ 岸にそうて 漕いでゆくのも 何となく ものさびしい。舟歌でもきこえるかと思つて 耳をすましたが 何もきこえぬ。
 汽車は 下諏訪もすぎた。あたりは もうくらくなつた。やみの中に 町が紅く見え出した。畑では 虫のすだく聲がする。私は「豆花深處 草虫鳴」と〔云ふ〕句を思ひ出して 窓によつて 空を見た。星が一面に 嚴な基に輝いて、天の河が 長く白く 煙の樣に 流れてゐた。
[やぶちゃん注:「豆花深處 草虫鳴」南宋の詩人張良臣の「曉行げうかう」の結句。「千山萬山星斗落 一聲兩聲鐘磬淸 路入小橋和夢過 豆花深處草蟲鳴」(千山萬山 星斗 落ち/一聲兩聲 鐘磬しようけい 淸し/道は小橋せうけうに入りて 夢とともに過ぎ/豆花とうくわ深き處 草蟲 鳴く)。思うに、或いは、芥川龍之介は江戸後期の漢詩人柏木如亭(宝暦一三(一七六三)年~文政二(一八一九)年)の「訳注聯珠詩格」で知っていたのではないかとも思われる(私の好きな一冊であり、私はそれでこの詩を知っている)。岩波文庫版で柏木の訳を示すと(漢字は恣意的に正字化したルビにすると、却って読み難いので読みは丸括弧で添えた)、――千山万山星斗落(よものやまやまあけちかく)/遠寺の鐘磬(かね)の一聲兩聲(こへごへ)も淸(すみわた)りたり/小橋(こばし)へかゝる路(みち)までは和夢過(ゆめでとほつ)たが/やうやうあかるくなつてみれば/豆の花の深處(たんとあるとこ)の草のなかに蟲が鳴てゐる――]
 九時五分に 松本につく。
 巡査の世話で 養老館と云ふのに とまる。明日は晴らしい。
[やぶちゃん注:「養老館」大正一一(一九二二)年に廃業して現存しないが、現在の上高地にある「五千尺ホテル」は元養老館の上高地支店を引き継いだものである。]
   *
 八月九日 晴
 朝四時に起きる。
 起きて見ると 戶が明いてゐる。二枚とも しまつてゐない。
 道理こそ 昨夜は 寒いと思つた。松本の町は まだ灰色の靄の底にある。昨夜は 門附の三味の音をきいた。按摩の笛もきこえた。今朝〔は〕 唯 汽車の汽笛がきこえる。
 さうかうする中に 女中が飯をもつて來る。まづい佃煑に まづい汁であつた 直に旅裝をとゝのへて 出發する。平な道を どこ迄もゆく。諸と云ふ村や 鳥立と云ふ村を通る。どこ〔も〕 木槿の花がさいて 背戶の南瓜が、さき遲れた 黃色い大きな花ぶさをつけてゐた。村と村との間は 平な 白い道で 路の南側は 靑田である。
[やぶちゃん注:「諸」これは葛巻氏の原稿の判読の誤りで「渚」であろう。現在の長野県松本市渚(なぎさ)で、ここ(グーグル・マップ・データ)である。松本駅西直近。
「鳥立」これも「島立」の誤り(葛巻氏の誤判読)であろう。現在の長野県松本市島立(しまだち)で、ここ(グーグル・マップ・データ)。前の渚の西に接した地区。]

その末に、山が見える。午前のうらゝかな日の光をうけて皆 褐色にけむつてゐた。黑澤や大明神の山々には白い雲が頂にかゝつて 長い雲のかげが 山腹までも這つてゐる。
[やぶちゃん注:「黑澤山」長野県安曇野市三郷小倉にある山。標高二千十三メートル。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「大明神」黒沢山の南、長野県松本市梓川上野にある大明神やま。標高千六百四十二メートル。黒沢山の真南直線で五キロメートル地点。前注リンク先の地図を参照されたい。前穂高岳の南直近に明神岳があるが、それではないので注意。]

 その間を 私たちは話をしたり 笑つたりしながら ゆく。
 島々村迄は 五里あまりと云ふことだ。
 二里半もゆくと=丁度 途中の半ばに=松林へ出た。長い長い松林である。靑い松の葉が重なりあつた中で 蟬がやかましく鳴いてゐる。
[やぶちゃん注:二箇所の「=」は挿入記号と思しい。]
 松林の奧に 神社がある。何の神樣をまつゝたのかわからない。路からは唯 社の板ばりの苔むしたのが、太い松の幹の間から 見えてゐるばかりである。
[やぶちゃん注:地図上ではそれらしい神社は見つけたが、私はこの辺りを歩いたことはないので、軽々には示せない。この神社がどこか明確にお判りになられる方は、是非、御教授願いたい。]
 夕張月の話をしながら 松林をぬけると、梓川の岸へ出る。路は梓川を右にして、左は、桑畑のところどころに 農家のちらばつた 山の裾である。梓川は そこにもこゝにも、白い河磧をのこして、うつくしい藍を流した水が 快く流れてゆく。河の向ふは しだれ柳が 疎にならむで 名もしらない山が すぐそれについて そびえてゐる。
[やぶちゃん注:「夕張月」不詳。或いは「弓張月」の葛巻氏の誤読では? 芥川龍之介の好きな滝沢馬琴の、怪作小説「椿説弓張月」のことなら、さもありなん、という気がするからである。
「河磧」はこの二字で「かはら(かわら)」と読ませていよう。]

 長い間、この路をゆくと 新しく出來た橋へ出る。橋をわたると 路は河の左岸にそつて すゝむ。上赤淵と云ふのが、これだ。農家は今 養蠶に忙しい最中だ。どこの家にも うすぐらい中に 繭棚が白く見えて、そこいらの桑畑には 桃色のたすきや 白い手拭がながめられる。垣に 大きな紅の葵の花がさきこぼれたのも、畑と畑との間に 唐黍をうゑたのも しみじみ信州はやさしい國だと思はせる。河磧にも どうかすると、月見草のさいたのがある。夕方に うすい月が水と花とを やはらかな光で うるほすのかと思ふと 何となくゆかしい。
[やぶちゃん注:「橋」不詳。但し、これが梓川に架かるものであれば、後の「河の左岸」という謂いは腑に落ちることになる(葛巻氏はこの「左岸」を不審に思ったらしく、ママ注記があるのであるが)。
「上赤淵」不詳。現在の新島々駅のすぐ先に「赤松」という地名が、その先へ少し行くと、「前渕」という地名を確認は出来る。]

 安曇村をすぎる頃から、岸が 漸く高くなつて 梓川は 目の下を流れる。
 白い河原の間を 水が 靑や白のリボンをひきみだしたやうに 下るのが 柳や、櫟のしげつた間から見える。山口が、車をひいて通つた農夫に問ふと 島々村迄は二三町だと云ふ。少しゆくと 靑葉の中に 黑い屋根や 白土藏の壁が見え出した。「どうも島々らしい」と 私が云ふと、市村が「まだまだ あれは何とか村だ」と云ふ。其時は ちやんと、市村も 村の名前を云つたが、今は一寸わすれてしまつた。私は どうしても島々村だと思つたが、皆が何とか村だらうと云ふから 何とか村にして置いた。
 路が だらだらと降りになつて、又橋を一つわたると、橋のたもとに 〔鑵〕づめ屋がある。標札を見ると、島々村だ。皆 「思つたより近かつた」と云つた。私は 思つた通りだつたから、格別近いとも思はなかつた。
[やぶちゃん注:「島々村」現在の安曇村役場が置かれている附近を中心にした集落。ここ(グーグル・マップ・データ)。この頃から北アルプス登山口として「島々宿」と呼ばれ栄えたが、現在、登山者は通過するだけの地となってしまった。]
 松本の宿屋を出る時に、「中屋」と云ふ宿屋で 晝飯を召上つてと云ふことだつた。鑵詰屋から 二三軒通りこすと、果して「中屋」があつた。今戶燒の 布袋和尚のやうな主人が「いらつしやァい」と云ふ。庇髮の 色の白い娘が、蒲團を出してくれる。宿の前には、ガタ馬車(松本通ひ)が一臺とまつて 背に簾をかけた瘦馬が 尾をふりふり、蠅を追つてゐた。黑い法衣を着た 駁者が「どうですい、うまく出來ましたらう」と 主人に 竹笛を見せてゐる。自分でこしらへた
ださうだ。獨りで首をまげて、不景氣な音を出しては 牛若丸だつて 得意になつてゐた。辨當は、松本からぶらさげて來た 大きなむすびと 牛肉の鑵づめですました。主人に 案内者の事をきくと、生憎誰もゐないと云ふ。兼ねて聞いてゐた 日本アルプスのオーソリチー、老獵夫嘉門治君もゐないさうだ。何ぼ何でも 案内者なしで 槍ケ嶽を踏破する、勇氣はない。それに 此度から胃病で 弱つてるだ。
[やぶちゃん注:最後の一文の「此度」の箇所には「此間」の誤字と判断した葛巻氏の傍注がある。
「嘉門治」上條嘉門次(かみじょうかもんじ 弘化四(一八四七)年~大正六(一九一七)年或いは翌年)は上高地で木樵(そま)・山見廻り人夫や猟師をしていた人物で山案内人として知られた。ウィキの「上條嘉門次」によれば、『信濃国安曇郡稲核村に、有馬又八の次男として生まれた』。十二『歳のとき、杣見習いとして上高地へ入り』、十六歳~十八『歳のとき、松本藩の藩有林の見廻り人夫とな』った。明治二(一八六九)年、二十三『歳で杣職としてほぼ一人前になり、島々村の上條家に婿入りし、翌年』、『長男嘉代吉をもうけた』。三十『歳を越えるころ』、『明神池畔に小屋を建て、猟を生活の中心に据えた。夏にイワナ、冬にカモシカ、クマなどを獲って生活した』。『外からやってきた人に山案内を請われれば案内をした』。『当時、当地の公式な地図はなかった』『が、経験と勘で山を案内し、滑落した人を背負って麓まで下りた』りもした。四十五、六歳の時に、イギリス人宣教師で登山家でもあったウォルター・ウェストン(
Walter Weston 一八六一年~一九四〇年)『夫妻を北アルプスへ案内した話で有名になった』。『生活の姿としては、中心にあったのは猟師生活で』、『ガイドのプロとして山を案内したグループは生涯で』二十『組に満たないという』。『明神池の畔に建てた小屋は、のちに嘉門次小屋と呼ばれることにな』り、今もある。『安曇村島々で亡くなった』。『前述のように本格的な活動はしなかったが』、『小林喜作、内野常次郎といった山岳ガイドより畏敬される人物であった。ウェストンは嘉門次を「老練なる山岳人」と評した』。『口癖は「山はネコのように歩け、石一つ落とすな」だったという』。『また、参謀本部陸地測量部に徴発され、館潔彦らの測量の仕事に協力しており』、『前穂高岳の初登頂などに同行して登山史に名を連ねることとなった』。『嘉門次小屋の山小屋としての営業開始は』、大正一四(一九二五)年、『息子嘉代吉の妻により、本格的な営業は』、昭和四〇(一九六六)年から四代目の『輝夫の代から、という』。三『代目の孫人は、山岳ガイドとして活動した』とある。]
 一その事やめにして 木曾でもまはらうかと思ふと、主人が「事によると 嘉門治さんの息子さんが行つてくれるかもしれません。今 人をやつてありますから。」と云ふ。駁者は笛を腰にさして「あの人にたのみやァ 上等だ、やまの事なら 緣の下のごみでもしつてるから」と云ひながら、丁度 宿の前を通つた 若い、萬金丹賣りをつかまへて 松本までのつといでなさい、をやり始めた。其中に、人のよささうな 三十恰好の人がやつて來る。「今日は」と笑ひながら、店へ上つて 主人と向ひ合つて、あぐらをかく。「此人がさうで」と 主人が云ふ。「あなたがたですか、岳へのぼ
なさるのは。惡い時に來なすつたな、丁度あきごで」 小嘉門治君は、勢よく話しかける。桑の出來ば〔え〕 天氣模樣など 主人と話したかと思ふと、又此方をむいて「どうでせう。一人前五十錢づゝ、一日に下さる事出來ますまいか」と 來る。五十錢は安い、五人で五十錢をわりふれば十錢だ。二十錢出せば、もう一人 荷持ちの人夫がやとへる、早速 賴む事にする。
[やぶちゃん注:「あきご」「秋蠶」。七月下旬以降に飼育される蚕。前の描写にも、その忙わしいさまが描写されていた。
「五十錢」明治四二(一九〇九)年当時だと、ネットで調べると、一円は七千五百円ほどの価値はあったとあるから、一人三千七百五十円。北アルプス登山黎明期の当時を考えれば、私は決して高くはないと思うが、学生なんだから、もう少し安くしてやってもいいかな、とは思う。]

「ぢや のち程 又」と云つて、小嘉門治君はかへつて行つた。今日はこゝで、泊つた方がよからうと云ふので、草鞋をぬいで 二階へ上る。
「少し高いね 五十錢ぢやァね。」と、山口が云ふ。
「高い? 一人前 十錢の割だぜ、君。」
「十錢? 馬鹿ァ云つてらあ。一人前五十錢だァね。五人で 二圓五十錢さ、一日。」市村まで くちを出す。
「だつて君。一人五十錢て云つたぜ。」
「僕は案内者一人で五十錢かと思つた、僕等一人につき五十錢つて意味かなァ。」
「さうさ。單價がちがふ
だよ、君。」
 中原と中塚が笑ひ出した。「少し高かつたかな、まあそれも旅の一興だ。」 皆も笑はずには居られなかつた。
 案内料の廉不廉問題がすむと、まだ二時である。それから夜まで何かして時間を費さなければならない、市村と中原は碁盤をひつぱり出して 五目ならべを始めた。中塚と山口とは、スケッチブックをもつて寫生に出かけた。私は寐ころんで、信濃の新聞をよむ。長い夏の日はかんかん南むきの緣をてらしてゐる。新聞も見あきて、緣側に出る。狹い石だらけの路には人が〔大〕勢たかつてゐた。宿の土藏の白壁には輪になつて立ち止つた人々の長い黑い影が さして 鷄が二羽 ココククとなきながら餌をあさつてゐる。人だかりの中には 短い單衣を着たはだしの小兒こどもが多かつた。宿の女中も出て 眺めてゐた。其帶がきは立つて赤く見える。其まん中に 麥稈帽子をあみだにかぶつた男が、正宗のあき瓶を持つてしやがんでゐる。其前には二尺ばかりの蛇がゐる。靑い光のある肌が白っちやけた埃にまみれて、力なささうにぐつたりと橫はつ〔てゐる〕。麥稈帽子は竹きれで時々蛇の頭をたゝいてゐたが、やがて尾をつまむと、ずるりとさかさまにさげて 瓶を頭にあてがふと、其儘 ずるずると瓶の中へ入れて仕舞ふ。がやがや騷いでゐた小供が、爭つて 麥稈帽子のまはりへよつて、瓶の中の蛇を見ようとする「どうだい、手前たちに 此眞似出來め」 麥稈帽子は 得意になつて 笑を赫ら顏にたたへてゐた。さうして、宿の前を 西へ行つた、小供たちは わいわい云ひながら 其跡に ついて行く、往來は 暫く 人通りがなくなつた。私は眠くなつたので、雜囊を 枕にして 壁にむかつて うとうと やり始めた。
 目がさめると、日が西に傾いて 寫生に行つた二人は もう歸つて 居た。
「日が長いなァ。」と 私が云ふと、
「よく寐たぜ、君は。」と、山口が笑ふ。
「だから、日が長いつて
だ、あんなによくねても、まだ 日がくれない。」
 皆で 話したり笑つたりしてゐるところへ、小さな女の子が、盆を持つて 上つて來た。さうして、一寸 御じぎをして、下りて 仕舞ふ。
 所々はげた 黑ぬりの盆の上には、御ふだの樣なものが 五枚ならべてある、氣をつけて見ると、赤く 松の湯と云ふ印が、押してあつた。湯札だ。湯ずきの山口が、先、手拭と 石鹼とを持つて とび出す。
 つゞいて四人、タオルやら 手拭やらを 肩にかけて、宿を出る。
「湯は。」ときくと、今戶燒の布袋が「唯今、御案内をさせます。」と 云ふ。
 湯札を持つて來た 小さな女の兒が、大きな下駄をひきずつて、先に 立つ。少し上つて、右へ 狹い農家の裏を、だらだらと 下ると、湯屋だ。
 湯屋と云つても、ほんの男湯と女湯とをわかつたゞけで、薄暗い風呂の中には 湯氣が濛々上つて、濡れた流れが うす靑く光つて見える。浴衣をぬいで、ざるの中へ入れて、湯へはいる。山口が、越中褌をしめてゐたのは 滑稽だつた。湯はぬるい。
 上つて、浴衣をきながら すゞむと、着物をぬぐ所の壁が 古い錦繪で 張つてあつた。黑くすすびた中に、花魁のしかけが 紫に かすかに見える。湯屋の前には、狹い庭に 南瓜の花が 黃に大きく 開いてゐる。其上に、德本とくがうにつゞく 山々が、くれてゆく 夏の空に 高く聳える。蒼い山の中腹に 火が見える。樺色のほのほが 白い煙の中に 動いてゐる。
[やぶちゃん注:「花魁のしかけ」時代劇で見る花魁おいらん道中で帯をした小袖の上に羽織った煌びやかな打掛けは、別して「仕掛しかけ」と呼ばれた。]
「山火事かしら。」と云ふと 「炭やきだ。」と中原が 答へる。
 宿へかへつて、晚の飯をくふ。こゝも とても甘つたるい 佃煮であつた。兎角 佃煮が ついてまはる。夜になつて、小嘉門治君が來た。さうして、不用の物は宿屋へ置いて いるものだけを 五人分一緖にして 大きな 毛布のつゝみをこしらへた。これを 一人でしよつて、上るのださうだ。へえと 感心する。夜は又 熟睡した。
   *
 八月十日 晴

 南安曇郡安曇村六十二 上條嘉代吉

 凌霄や長者のあとのやれ築土
 藁屋根に百合の花さく小家かな
 海鳴るや秋の夕日の黍畑
 セセッションの書棚買はむと思ひけりへりおとろぷに小雨ふる朝
 硝子戶の靑みの外に小雨ふる書齋にひとり本をきるとき
 うす黃なる支那の陶器をもらひけり吾

[やぶちゃん注:底本では三句の後に葛巻氏の編者註が入る。やや長いが、ここは特異的にそのまま引用させて貰う。『以上の發句もそうだが、次の三首の歌になると、どうしても、この「槍ヶ岳紀行」と関係あるとは思われない。しかし、右の「八月十日 晴」と小嘉門治君の住所の間に入っているので、ひとまず――此処に揭げて置く。何かのつれづれに書きつけたにしても、その「推測」は、どうも妥当とは思われないが。――只、この自分で装幀をした一冊分のノオトとして、その元のすがたそのままを、ここにのこしておくためだけにである。なお又、三首目の歌は「吾」までで、後は絶たれている。これらの歌から考えると、この「紀行」よりは一、二年後のものであろうかと思われる』とある。私もそう思う。
 なお、この俳句三句は、私は既に「やぶちゃん版芥川龍之介句集 五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」の中で芥川龍之介の俳句として採録しているが、そこで私はこの『「槍ヶ岳紀行」の執筆時ならば』、平成三(一九九一)年永田書房刊の村山古郷編『「我鬼全句」がクレジットするように大正九(一九二〇)年の作、葛巻氏の説をとるならば』、『大正十、十一年頃の作となる』と注し、さらに『なお、一句目の「凌霄」は「のうぜん」と読み、双子葉植物綱ゴマノハグサ目ノウゼンカズラ科ノウゼンカズラ属ノウゼンカズラ
Campsis grandiflora。和名凌霄花のうぜんかずらのこと。オレンジ色の派手な花を咲かせる』とし、『三句目は加藤郁乎編「芥川竜之介句集」』(二〇一〇年岩波文庫刊)『の自筆資料表記では、「海なるや秋の夕日の黍畑」である』と注しておいた。この岩波の『自筆資料』とは本「槍ヶ岳紀行」の原稿のこととしか思えないから、或いは「鳴る」は葛巻氏の改表記かも知れない。彼はそうしたいらぬいじくりを、芥川龍之介の翻刻に際してしばしば行なったからである。なお、「やれ築土」は「破(や)れ築地(ついぢ(ついじ))」(「築地」は「つきひじ(築泥)」の転訛で、柱を立てて、板を芯とし、両側を土で塗り固め、屋根を瓦で葺いた塀のこと。古くは土だけをつき固めた)である。
 また、完全作である二首の短歌も、既に私の「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注」で採録し、「セセッションの」は『「セセッション風の」という意味で、“
Wiener Secession”ウィーン分離派風の造形を施した書棚という意味と思われる。ウィーン分離派は一八九七年(本邦では明治三十年)にウィーンでグスタフ・クリムトを中心に結成された新しい造形表現を目指した芸術家グループの呼称で、アール・ヌーヴォー等の影響下、世紀末的な官能退廃を孕みながら、モダン・デザインの新たな境地を開拓した。「へりおとろぷ」は“heliotrope”(ヘリオトロープ)で、ムラサキ科キダチルリソウ』(木立瑠璃草)『Heliotropium peruvianum の英名。和名の漢字表記は「木立瑠璃草」。南アメリカ原産の小低木であるが、明治中期には本邦に移植されていた。高さは五十センチから二メートル程度、葉は楕円形で軟らかい毛に被われており』、『互生する。「ヘリオトロープ」はギリシャ語の「太陽に向かう」に由来し、フランスでは「恋の草」と呼ばれる。花言葉も「献身的な愛」「熱望」である』と注しておいた。]


「槍ヶ岳紀行 芥川龍之介」
(芥川龍之介満十七歳の明治四二(一九〇九)年八月の槍ヶ岳山行記録) 完