心朽窩新館へ
鬼火へ

山本幡男遺稿抄――やぶちゃん編―― ⇒ 同縦書版へ

[やぶちゃん注:本ページの山本幡男氏のテクストは、辺見じゅん著「収容所ラーゲリから来た遺書」に記載されたものを底本とし、私がほぼ編年形式で、作品中に出現する山本幡男氏の文章や俳句・和歌・現代詩、更には重要と思われる走り書き及び辺見氏によって復元された肉声といった遺稿を推定編年順に纏め、底本の各所の複数の辺見氏の記載(引用部分のみではない)を参照しながら注を附したものである(底本は作品自体はほぼ時間軸に沿って書かれているが、作品等の引用は必ずしも編年順ではない。そのため「やぶちゃん編」とした。既にブログで公開したものの一括版であるが、一部に補正を施してある)。私は二〇一一年八月初旬、隠岐の西ノ島のふるさと館で山本氏のことを初めて知ったが、つくづく展示資料を筆写してこなかったことが悔やまれてならない。向後、出来るかどうか分からないが、氏の遺稿の完全なテクスト化を期し乍ら、取り敢えず公開するもので、そのために「遺稿抄」とした(【二〇一一年十月三日追記:二〇一一年九月二十八日に恐縮乍ら、山本幡男氏御長男山本顕一氏(立教大学名誉教授)より直々に、御手持ちの山本幡男氏資料閲覧の許諾を頂戴した。私は近い将来、山本幡男氏遺稿の電子テクスト化に挑む所存である。】。但し、時代背景を考慮し、恣意的に正字に変えたこと、現代詩や和歌の字空け、行頭の原稿用紙様一字空けの一部等は底本に従わず、僕の判断で挿入・除去してあることをお断りしておく。また、一部の誤読の可能性のないルビは排除した部分があり、山本幡男氏若しくは辺見氏の誤りかは判然としないが、ルビに関しての歴史的仮名遣の誤りは正した。但し、ルビではなく本文中のそれは山本幡男氏本人若しくは暗誦・復元者の誤記・癖と見做して(特に遺書に多く見られる)そのままとした。最後に。私は辺見氏の著作の編集権(遺稿の一部を作品に選び出しておられること)を侵そうという気は毛頭ない(いや、敢えて言うなら寧ろ私は、辺見氏に本書の最後に山本幡男氏の総ての資料を活字化して欲しかったという思いさえ持っている)。本頁を御覧になり、山本幡男氏に興味を持たれた方は、底本とした辺見じゅん著「収容所ラーゲリから来た遺書」をお読みになることを切にお奨めする。私が今までに読んだノンフィクションの中でも白眉であり、その感銘は甚だ大きかった。今、山本幡男氏のあらゆる一句一言が、私の祖父の遺稿と全く同じ重さと強さを以て、私の胸を激しく打つ。【二〇一一年九月四日 祖父藪野種雄遺稿のHP公開の日に合わせて】]

□山本幡男略年譜(年齢は満年齢で示した)

明治四一(一九〇八)年九月十日
島根県隠岐郡西ノ島町生。小学校校長であった父の六人弟妹の長男。

大正十五(一九二六)年四月 十八歳
東京外国語学校(現・東京外語大学)露西亜語科入学。

昭和三(一九二八)年三月十五日 二十歳
共産党員及びシンパ一斉検挙の際、幡男も街頭連絡の途上で逮捕。卒業を目前にした東京外国語学校から退校処分を受く。後、父、病死。石炭商を営んでいた叔父のいる福岡県戸畑に移住していた家族(母と四人の妹)の元に帰り、叔父の商売を手伝う。

昭和八年(一九三三)年一月 二十五歳
隠岐の小学校教師、是津ぜつつモジミと結婚。

昭和十一(一九三六)年三月 二十八歳
満州鉄道入社。

昭和十一(一九三六)年六月
ロシア語の実力を買われて大連の調査部北方調査室に入る(単身赴任、翌年モジミを呼び寄せる)。後に新京調査局第三調査室に転任。

昭和十九(一九四四)年七月八日 三十六歳
二等兵として招集。虎林にて初年兵訓練を受く。

昭和二十(一九四五)年一月 三十五歳
一等兵としてハルビンの関東軍特務機関に配属。

昭和二十(一九四五)年六月
妻モジミ、ハルビンにて幡男と面会。これがモジミと幡男の邂逅の最後となった。

昭和二十(一九四五)年八月
敗戦と同時にソ連軍に抑留。その後九年間に亙って、ソヴィエト各地のラーゲリを転々とする。

昭和二十九(一九五四)年八月二十五日午後一時三十分 四十四歳
咽頭悪性肉腫とその播種による転移により、ハバロフスク収容所第二十一分所内病室にて誰にも看取られずに逝去。享年四十五歳。遺体は解剖後、収容所から一キロ余り離れたロシア人墓地の隅に埋葬された。墓への氏名や死亡年月日の記入は許されず、墓標番号「45」(四十五)と書かれた白樺の墓標が立てられただけであった(瀨崎清は監視兵の目を盗んで氏名と死亡年月日を墓標の根元に鉛筆で書き入れたという)。

――死後――

昭和三十一(一九五六)年十二月二十六日
シベリヤからの最後の引上げ船興安丸、舞鶴に入港。そこには山本の収容所内の友人らによって句読点一つ一つまで『暗誦された遺書』も乗っていた。

昭和三十二(一九五七)年
一月中旬、帰還した山村昌雄によって第一号の記憶された亡き山本幡男氏の遺書が妻子の元へと届けられた。十日後、野本貞夫から記憶から書き起こされた遺書が届く。その後、後藤隆敏・森田市雄から同じく封書で、五番目の遺書は瀨崎清が持参した。それから半年後、新見此助から小包で届いている。

昭和六十二(一九八七)年
日下齢夫から最後の第七番目の遺書がモジミの元に届いた。実に山本幡男の逝去から三十三年目の夏、山本幡男の祥月命日の直前のことであった。

本頁はブログでの個別公開の後、総覧の便を考えて、纏まったものとして新たに作成したものである。【二〇〇一年九月日】]

山本幡男遺稿抄

[やぶちゃん注:昭和二十二(一九四七)年後半。スペルドロフスク収容所にて。酔ったソ連人の運転するトラックから崖に転落して亡くなった清水修造氏の追悼式にて。山本幡男が絶唱した七五調追悼歌二首。]

古里遠く 異國とつくにに 君若くして みまかりぬ
夢に忘れぬ たらちねの 姿を永遠とはに 慕ひつつ

寒風さむかぜ狂ふ 北の涯 君若くして 世を去りぬ
暗きいくさの 犠牲いけにへに 集ひてこゝに弔はん



[やぶちゃん注:昭和二十四(一九四九)年頃。ハバロフスクソ連邦矯正労働収容所第六分所にて。山本が地面に書いた一句。]

地に書いてうなづき合ふや日向ぼこ



[やぶちゃん注:昭和二十六(一九五一)年一月一日元旦、ハバロフスクソ連邦矯正労働収容所第二十一分所にて。収容所内食堂にて開かれた山本幡男が作っていたサークル、アムール句会新年会での一句。北溟子は当時の幡男の俳号。底本の辺見氏の叙述によれば、この『句は、トロンコ、トントンというかけ声もリズミカルに獅子舞が食堂にやってきたときの即吟』とあり、獅子の『胴体は白い敷布に青の絵の具で唐草模様が描かれていた。二人組の獅子舞の呼吸はぴったりだったが、いなせな股引ももひきと白足袋の草履ぞうりの代りに袴下と防寒服カータンカがのぞいているといういかにもラーゲリらしい獅子舞に、みんな大笑いした。それにつられて獅子舞の囃方はやしかたまで笑いだいた様子をよんだもの』とある。]

獅子舞のはやしもつひに笑ひけり 北溟子



[やぶちゃん注:昭和二十五(一九五〇)年か。ハバロフスクソ連邦矯正労働収容所第二十一分所にて。収容所内で山本幡男が作っていたサークルであるアムール句会会員に対し、幡男が俳句についての心構えについて、セメント紙に書いて回覧した、その文章。]

 句について

 高山樗牛は『文は人なり』と言つた。私はこれに倣つて『俳句は人なり』と言ひ度い。俳句を磨かうと思へば先づ人を磨かねばならぬ。自分のつたない俳句を見る度に、私は言ひ知れない淋しさを覺える。樣々な色の繪具を便つてやたら塗りまくつて美しい繪は出來ない。一本の鉛筆で眞に迫つた面白い繪が描けることもある。
 俳句にして同樣である。美辭麗句をもてあまして空しく惱む愚を去つて言葉を縱横に驅使する事を學ばねばならぬ。平凡な何の變哲もない言葉の集りがすばらしい俳句を形づくる事があるではないか。道具美事だが腕は一層大事である。
 良い俳句とは何か。格調のすぐれて整つた面白い俳句、魅力の多い句にある。俳句の面白さは、①内容の深さ、②映像の鮮やかさ、③連想の豐さ、④餘韻の大きさ、⑤思想の高さ等々である。要約、音感的に魅力のあるもの、印象が鮮明で實感に迫るもの、抽象的に言へば美と眞實のこもつたものである。勿論、これは俳句だけに限つた事ではない。
 再び言ふ。良い俳句とは何か。一度口誦み、もう一度口誦みたくなる俳句一讀して忘れがたく記憶に殘る俳句、いつ思ひ起しても樂しめる俳句、後味のすばらしくいい俳句。千句の中のたつた一句でもよいからさういふ俳句を作りたい。
 寫生といふ事を皮相に解釋してなんでもかで見たままの事實を句にして萬事事了れりとする初心者が多い。事實より眞實へ、現象より本質へとゆかねばならぬのである。正しく言へば事實を通じて眞實を、現象を通じて本質であらう。



[やぶちゃん注:昭和二十六(一九五一)年、ハバロフスクソ連邦矯正労働収容所第二十一分所にて。山本幡男には四人の子供がおり、応召時、末娘は未だ一歳であった。]

さきをば子供と思ふ軒氷柱のきつらら



[やぶちゃん注:昭和二十六(一九五一)年。ハバロフスクソ連邦矯正労働収容所第二十一分所にて。山本幡男が収容所内で秘かに始めていた回覧雑誌『文藝』に載った幡男の五七調文語詩。底本で辺見氏は『この詩は、ラーゲリの多くの人びとに愛誦された。「指」を口ずさみながら、みんなは故郷の父母や、兄弟姉妹たちへと思いを馳せたりした』と記す。]

 指

わが指は
節くれだちてしわよりて
老いにけらしな
若き日は
品よく伸びて美しく
埀乳根たらちねの母はも
おのが指に似たりと
で給ひしが
生業なりはひの筆持つ指に
筆胼胝ふでだこ生えし
ニコチンの沁み入る指は
黄色く染まり
この皺にこてかけて延すすべなし
この手もて
親子 姉妹はらから 十人の
生活たつきささへし現世うつしよ
苦を刻みたる皺なれば
うたても またいとほしく
時折は撫でて見つる



[やぶちゃん注:妻山本モジミ宛。消印昭和二十七(一九五二)年七月二十九日。ウラジオストク発俘虜郵便往復はがき。差出人住所ソ同盟ハバロフスク市6125-1(ハバロフスクソ連邦矯正労働収容所第二十一分所の住所である)。配達されたのは十一月末。本文中の「顯一」は山本幡男氏の長男。ちなみに現在も七十六歳で御健在、仏文学が御専門で立教大学名誉教授であられる。山本顕一氏のtwitterによれば、つい先日の二〇一一年八月二十二日に、山本幡男氏の死から五十七年目、初めて父親の墓参にシベリアに向かわれることがツィートされてある。祥月命日八月二十五日に合わせてのことと拝察する。戦後は顕一氏の中でも決して終わってはいない。]

先ヅ私ガ元氣ニ暮シテ居ルコトヲオ知ラセシマス。御安心下サイ。唯心配デナラナイノハ留守ノ家族ヤ親類ノ人々ノ安否、コト顯一ケンイチハジメ子供達ガドウシテ暮ラシテヰルカ、一人前ノ教育ヲ受ケテヰルカ氣ニカカツテナリマセン。母上ヤ貴女ノ御苦勞ハ重々察シマス。明ルイ希望ト確信ヲ以テ生キ拔イテ下サイ。皆樣ニヨロシク。



[やぶちゃん注:昭和二十七(一九五二)年秋、ハバロフスクソ連邦矯正労働収容所第二十一分所風呂場脱衣所にて秘かに開かれたアムール句会で一句。この年の八月の収容所からの日本人脱走事件を契機に、監視体制が強化され、収容所内での如何なる趣味サークルも禁じられていた。]

湯上りの匂ひも混じる夜學かな



[やぶちゃん注:昭和二十七(一九五二)年初冬、満州鉄道北安管理部長として山本の旧知であったアムール句会会員市瀨亮氏(俳号里羊)、逝去。その折り、秘かに開かれたアムール句会での幡男の追悼句。]

里羊忌は冬曇る日と定まりし



[やぶちゃん注:昭和二十七(一九五二)年初冬、市瀨亮氏に続いて元歩兵三七七部隊大佐菅井アムール句会会員須貝良民氏、逝去。その折り、秘かに開かれたアムール句会で幡男の追悼句。]

寒月は滿つれど風のく夜かな



[やぶちゃん注:山本モジミ宛五通目。消印昭和二十七(一九五二)年十月十日筆、ウラジオストク発俘虜郵便往復はがき。ハバロフスクソ連邦矯正労働収容所第二十一分所から。モジミからの返信が幡男の手元に配達されたのは昭和二十八(一九五三)年正月も過ぎてからであった。第一通目の発信から半年後のことであった。本文中の「勉」は養子に行った弟、「新津」は妹ユキノの夫と底本に注されている。これによって底本には総ての幡男来信が所収されているわけではないことが分かる。]

一九五二年十月十日。コレデ第五回目ノ通信デアル。マダ一回モ返事ヲ貰ヘナイノデ、ソチラノ樣子ガ少シモ判ラナイガ、オ母サンヲハジメ、皆元氣ニ暮シテヰルモノ想像スル。僕ハ相變ラズ壯健ニ暮シテヰルカラ先ヅ安心ナサイ。一番氣ニカカルノハ子供タチノ安否、ソノ教育ノコトダ。身體ニ氣ヲツケテ怪我ヤ病氣ヲサセナイヤウニ、才能ニ應ジテ良教育ヲシテヤツテクレ。生活ハ樂デナカラウガ。ツトムヤ新津ヤ、別府ノ叔父ノ援助デヨク一人前ノ立派ナ人間ニナルヤウニ教育シテヤツテクレ。僕モ色々ナコトヲ體驗シ、學ビ、人道トイフモノニ目覺メテヰル。再會ノ日モ遠クアルマイ。皆サンニ山々、ヨロシク傳ヘテ呉レ。



[やぶちゃん注:昭和二十八(一九五三)年二月、収容所内で病床にあった野本貞夫への、幡男の見舞いの缶詰を包んでいたノートのザラ紙に書かれていた一句。辺見氏によれば、二月のシベリアは厳寒の中にも山々がほんのりと青みを帯びて春の到来を告げる頃で、本句は自分たちの抑留の冬もそう長くない、帰国の日も近いという励ましの思いを込めたものと解釈されている。至当と言うべき解釈である。]

如月や嶺々を靑しと見る夕べ 北溟子



[やぶちゃん注:昭和二十八(一九五三)年五月、山本モジミ宛。ウラジオストク発俘虜郵便往復はがき。ハバロフスクソ連邦矯正労働収容所第二十一分所から。当時、松江市内にいたモジミからの小包への返礼。文中、書くことが好きな夫のためにモジミが入れた文房具類を断っているのは、収容所の担当者から受け取る際、目の前で没収されてしまうからである。]

着イタ、着イタ、小包ガ無事ニ着イタ。五月十三日ノ夕刻臺一回ノ小包確カニ受領シタ。萬感胸ニ迫リ、唯々感謝アルノミ。一家ソロツテ撮ツタ冩眞を見テドンナニニ嬉シカツタコトカ! コトニ顯一君ハスツカリ大キクナツテ見違ヘテシマツタヨ。厚生君モ誠之君モソレゾレ成長シタネ。ハルカモ立派ナ小学生ニナツテヰルデハナイカ。オ祖母バアチヤン、カーチヤン皆元氣サウデ安心シタ。心盡シノ靴下、手拭、スエーター、スルメ、ヤウカン、何モカモ有難ウ。シカシ今後ハ決シテ心配イラヌカラ小包ナド送ラヌヤウニオ願ヒスル。殊ニ文房具類ヤ紙、書キ物ハ送ラナイヤウニ。送ツテモ無駄ニナルカラ。臥床中ニ受取ツタセイカ小包ガ實ニ嬉シク有難ク毎日三―四回冩眞ヲ出シテハ見テヰル。幸アル日モイヨイヨ近サウダ。ミンナ丈夫デ生キテクレ。  幡男



[やぶちゃん注:昭和二十八(一九五三)年初冬から翌年正月にかけての来信二通。家族宛。ウラジオストク発俘虜郵便往復はがき。ハバロフスクソ連邦矯正労働収容所第二十一分所から。消息文中で自身の快復をしきりに記しているのは、勿論、家族に心配させないための方便で、幡男の病態は悪化の一途を辿っていた。モジミは大宮に転居、大宮聾学校に勤務して家計を支えていた。]

其ノ後皆サンノ無事ニ暮シテオリマスカ。私モ先ヅ先ヅ元氣デス。身體モ日一日ト良クナツテユキマス。御安心下サイ。オ母サンニモ喜ンデイタダケル日モ遠クナイデセウ。モジミノケナゲナ努力モ報イラレル日ガ來ルデセウ。オ互ニ何ヨリモ健康第一ニ暮シマセウ。子供等ハ大事ナ成長期ニ父ガ居ナクテドレダケ淋シカツタコトカ、想像ニ餘リアル苦勞ヲシタコトト察シテヰマス。シカシ力強ク生キ拔イテユコウ。スベテヲ忘レテ、子供等ヨ、勉強シテ呉レ。必ズ幸福ナ日ガ訪レルコトヲ確信シテヰル。

   ◇

大宮市ノ方ヘ轉勤シタ由デスガ、實現シタカ、ドウカ、ソノ後ノ便リガ無イノデ松江アテニ此ノ葉書ヲ出スコトニシマシタ。イヅレ近日中ニソチラカラノ便リヲ受取ルコトト思ヒマス。
私ハ、健康モボツボツ快復シテユキマスカラ、御安心下サイ。イヨイヨ冬ニナツタガ、顯一君ハ一所懸命ニ勉強シテヰルコトヲ想像シマス。何トイツテモ大學ノ入學試驗ハ競爭ガ激シイカラ、特に語學ノ勉強ニ精ヲ入レテ、必勝ノ信念ヲ以テ受驗準備ヲスルヤウニ。
皆サン、大事ナ時機デスカラ一層健康ニ氣ヲツケテ、元氣ニ暮シテ下サイ。皆サンガ幸福ニナル日ヲ期待シテ、私ハ養生ニ務メテヰマス。デハ明ルイ希望ヲ以テ。サヨナラ。

   ◇

新年オ芽出度ウ。家族一同、元氣デ正月ヲ迎ヘタコトト思ヒマス。希望多イ年ノ始メニ、皆サンノ幸福ト健康ヲ祈リマス。病氣ヲシナイヤウニ、怪我ヲシナイヤウニ。特ニ、顯一君ガ東京大學ノ入学試驗ニ合格スルヤウニ。注意シテオキマス。試驗ノ時ニハ、ナルベク文字ヲ分リ易ク、キレイニ書クヤウニ。ソシテ受驗番号ノ記入ヲ忘レナイヤウニ。ヨク落着イテ、実力ヲ百パーセント出シテ下サイ。松江ノ高校デモ大イニ期待シテヰルトイフカラ、是非合格シテ下サイ。キツト大丈夫ダト思ツテヰル。厚生君ハマダ先ガアルカラ、何科ヘ行クカハ後デ決メマセウ。トニカク大宮ヘ轉任デキテ何ヨリデシタ。皆サン、ゴクラウ、ゴクラウ。私モ元氣ニナラフト一所懸命ニガンバツテヰマス。堀場君ニモヨロシク言ツテ下サイ。サヨナラ。



[やぶちゃん注:昭和二十九(一九五四)年二月下旬、ソ連当局への収容所仲間の請願が認められて山本幡男はハバロフスク中央病院への入院が許可されたが、収容所を出た翌日には再び戻って来た。咽喉癌性肉腫の末期で既に手遅れと匙を投げられたのであった。見舞いに訪れた野本貞夫に、幡男は書いた口語自由詩「海鳴り」を見せた。「小島大乘」は山本幡男のペン・ネームの一つ。故郷隠岐の島嶼と彼の惹かれていた哲学としての大乗仏教に因んだものでと思われる。私はこの詩が好きだ。「ろんろん」というオノマトペイアも、そのシベリアで見る隠岐の映像も、そして「母の乳房を思ふ存分吸つて見度い 海鳴りの音」という一行も、何もかも好きだ。]

 海鳴り   小島大乘

耳を澄まして聽くと海鳴りの音がする
ろんろんと高鳴る風の響き
また波の音
赤ん坊のときからその聲で目を覺まし
物心ついてからもその音に脅えた
海鳴りの響きだ!
闇を叫ぶ聲だ!
日本海から千キロも離れた
シベリアの曠野の眞只中で
深夜――
私は遠い遠い海鳴りの音を聽く
窓打つ木枯こがらしよりも淋しく
亦懷かしいその響き!
海鳴りの夜の圍爐裏ゐろりは樂しい
自在鍵じざいかぎの鍋には
烏賊いかと大根がふつふつと煮え
硝子瓶ガラスびんの二合の酒は火を透いて赤く
一家眷族けんぞくより集まつてはすすり泣きまた笑ひ
幼い子供達には燒餠を配り
大人達はゆる/\と酒を飮み煙草を喫ひ
ふと話の途切れたときの淋しさを海鳴りはろんろんと障子しやうじに響いて來る
母の乳房を思ふ存分吸つて見度い 海鳴りの音
友の手を力一ぱい握つて見度い 海鳴りの音
戀人の胸をかつしりと抱いて見度い 海鳴りの音
胸に溢れる慷慨かうがいをありつたけ吐いて見度い 海鳴りの音

鳴呼ああ 寒夜の病床に獨り目を覺まして
私は ろんろんたる海鳴りの聲を聽いてゐる
遠く追憶を嚙みしめてゐる……



[やぶちゃん注:昭和二十九(一九五四)年初旬か。母マサトから養子にいっていた弟勉の死を知らされて。哀傷歌三首。]

天地に唯一人なる弟の死ぬにもあはで遠くわが病む

禿げ頭もろ手にかかへ髯の男が今日はめそめそ泣きにけるかな

天さかる筑紫の國をいつ訪はむ我が弟のおくつきどころ



[やぶちゃん注:昭和二十九(一九五四)年、ソ連製ノートに記された叙事詩。詩中S画伯というのは満鉄調査部時代の上司で同じ収容所にいた佐藤健雄のこと。絵をよくし、ラーゲリで内で画伯と呼ばれていた。この詩は佐藤に宛てて書かれたものと底本にある。底本では途中、「われ唯おし戴いて反誦するのみ」の後に辺見氏の解説が入っているが、辺見氏の「この一文は、次のようにつづいている」という末尾の言葉を信じて(省略のないものと考えて)接合した。底本によれば、幡男は野本貞夫にも次のように語ったとある。
「野本さん、釋迦はね、世界最大のセンチメンタリストなんだよ。キリストは詩人なんだ。ぼくはね、なんのとりえもない凡人だけど、どんなときでもセンチメンタリストでありつづけたい。結局ね、パトスだけがわれわれ人間にとって最初の審判者であり、また最後の審判者なんだ。そう思えてきたよ」
と。]

春なほ寒き二月晝、宵闇の病床に
忽然として枕頭に夢の如く現れし人あり
半白の髯の滿顏にただよふ微笑は、ああ、これ正しく孔子なり
懷かしさのあまり叫ばむとすればその顏貌はいつしか變化して
われ―先輩S畫伯の温容に對す 二言、三言、談を交し
「これ見よ」と一片の紙をわれに渡し、S畫伯、飄然と去り行きぬ
そのやさしき後姿は正しく孔子に異らず
遺されし一片の紙に讀せしは「友情」の詩篇
果してS画伯の作品なりや、はた孔子の筆跡なりや
われ唯おし戴いて反誦するのみ
恐らくは病床にしばしば四聖を夢みるわれを憐れみし孔子の賜りし詩篇に非ざるか
われ屢々瞑目して四聖を思慕するに聖者の面目は何よりも先づその感情の豐富多彩に在り
見よ、出家成道に悉達多シツタルタ太子釋迦こそは、世界最大のセンチメンタリストなりしを
また野に咲く一本の白百合にもソロモンの榮華を揶揄するクリストは、いともやさしき詩人ならずや
ソクラテスはまた彼のハートもて論理し、一代の哲學を究めたり
而して我が孔子に至りては、その感情百花の如く繚亂多彩、枯渇せる道話學者到底捕捉しがたき大人格なり
例へば孔子の友情を見よ
君子ノ交リハ水ノ如シと述べたる孔子のセンスのいかに淸明なるか
君子ノ交リハ蘭ノ如シと譬へたる孔子の詩情のいかに豐富なるか
またかの 朋有り遠方ヨリ來ル 亦 樂シカラズヤ
に至りては、滿顏に微笑を湛へて珍客を迎ふる孔子の面貌をまのあたりに見る如く、なつかしくもなつかしく、したはしくもしたはしく
ああこの友あらば百萬人と雖もわれ行かむの感激を沸騰せしむるなり
見よ、孔子去つて二千五百年、孔明が三顧の恩に感動して「出師の表」を捧げしを始めとして歴史上いくたの大事業は多く孔子の所謂「知己の恩」を原動力として成就せられしを
 人生意氣ニ感ズ 功名誰カ論ゼン
孔子が教へたる知己の恩は――病苦に呻吟するわれをも奮起せしめたり
われ亦孔子の後輩 誓つて知己の大恩に報ひむと思ふなり



[やぶちゃん注:昭和二十九(一九五四)年三月八日のクレジットを持った一首。アムール句会の一人竹田軍四郎が見舞いに行った際、黙って示された薬包紙に鉛筆で書かれた一首。]

 病床有感

無理しても喉を通せと醫師のいふ味なき飯を今日も食ふべき



[やぶちゃん注:昭和二十九(一九五四)年三月末。二百回目のアムール句会が行われる。最早、病床重篤の山本幡男は参加出来なかった。句会の後に報告と見舞いを兼ねて、夜、森田市雄が訪れた際、森田に句会の間に出来たと言って幡男が示した二首。]

韃靼の野には咲かざる言の葉の花咲かせけりアムール句会

空前のシベリア句集を編むべきは春の大和に編むべかりけり



[やぶちゃん注:昭和二十九(一九五四)年五月十四日。ハバロフスクソ連邦矯正労働収容所第二十一分所から。家族宛。これが最後の自筆葉書となった。]

其ノ後ソチラノ消息ガワカラナイガ、一同、無事ニ暮シテイルココト思フ。顯一ハウマク東京大學ヘ入學シタカドウカト案ジテイル。何ハトモアレ、家族一同、病氣ヲシナイヤウニ、負傷ケガヲシナイヤウニ、特ニ、東京附近ハ交通頻繁デ事故ノ多イ土地ダカラ、注意シテ下サイ。ソシテ氣永ニ着實ニ生活スルヤウニ祈ツテマス。一月出シノオ母サンノ手紙デ勉ノ死ヲ知ツテドンナニ悲シク思ツタカ、想像ニマカセマス。モジミノ年頭ノ手紙ハ非常二明ルクテ喜ビマシタガ、勉ハ何トイツテモ可哀相ダツタ。
皆、幸福ニ仲良ク暮ラシテ下サイ。クレグレモ身體ヲ大切ニ。



[やぶちゃん注:昭和二十九(一九五四)年か。竹田軍四郎に山本幡男が手渡したノートの切れ端に書かれていた一文。もうこの頃から幡男は徐々に会話が困難になってゆく。]

四十過ぎまで青年の氣持でゐた私も死といふ問題にぶつかつて無性に悲觀的になつた。
  多いなるものにひかれゆくわが足どりのたどくしさよ
と此歌をかかれた當時の九條武子の心境をおもんばかると共に、漱石の如きは四十二歳の時、
『小生はこれまで神佛など信じた事は無き之候。唯自分といふのだけを信じて暮して居り候。所が近頃その自分といふものがつくづく當にならぬことに氣がつき申候。この上は何を信ずべく候』
と述べた。後になつて學者の間では『之こそ東洋哲學の道の自覺者だ』と云々した。



[やぶちゃん注:昭和二十九(一九五四)年か。竹田軍四郎に山本幡男が手渡したメモの走り書きにある言葉。以上、辺見氏によれば先に掲げたものと一緒に竹田は『帰還の日まで没収されぬようにとズボンの縫い目にしまい込んだ』とある。]

終局に於いて必ず正しきものが勝つといふ信念だけはあへて人にゆづるものではない



[やぶちゃん注:昭和二十九(一九五四)年冬。病床を見舞った野本貞夫に「ぼくの遺書なんですよ」と言って示したノート表紙には「平民の書」と記されていた。その直後に熱を込めて語ったとする幡男の言葉であり、彼の記した「平民の書」の思想的屹立点を髣髴とさせるものである。貞夫が暗誦し、後に記憶から復元して家族へと送った遺書を含む手紙の中に書かれていたものか。直接話法であり、底本の作者辺見氏の手も加わっているものとは思われるが、僕は飽くまで山本幡男の肉声としてこだわって引用、旧字で示した]。

「ぼくはね、人間が生きるということはどういうことなのか、シベリアにきてようやく分かってきた氣がするんだ。ぼくは、共産主義者でも、もとより右翼主義者でもない。野本さん、時代はね、ぼくたちがこうしているあいだにも、日々、確實に移っているんだよ。いまのぼくの考えを強いて命名すると、第三の思想と呼ぶのがふさわしかもしれない。右でも左でもない第三の思想、全體主義にあらず、個人主義にあらず、東洋でも西洋でもないんだ。おそらくそれは、いずれきたるべきものであり、創造されるべきものなのだと思う。僕はね、これを第三の思想と呼ぶ以外にいまは名付ようがないのですよ」



[やぶちゃん注:昭和二十九(一九五四)年冬。病床にあった山本幡男は、それでも収容所内に「日本文化研究会」というサークルを組織していた。以下、底本では会に参加していた野本貞夫の視点から、幡男がその会のある日の終わりに、話し疲れ、荒い息をしながらも、幡男が微笑を浮かべながら、
「ぼくの病室の窓から一本の裸木が見えましてね、その大木を見ていたら、こんな詩ができたんですよ」
と言って、次の「裸木はだかぎ」という詩を朗読した、とある。なお、連内での文字配りを整序するために、僕の判断で一部の平仮名表記を漢字に変えた。これが口誦されたものである以上、僕の仕儀は不当とは言われないと思う。これはまるで漢詩を訓読したような重厚にして孤高な詩である。]

 裸木

アムール遠く濁るところ
黑雲 空をとざして險惡
朔風は枯野をかけめぐり
萬鳥 巣にかへつて肅然

雄々しくも孤獨なるかな 裸木
堅忍の大志 瘦軀にあふれ
梢は勇ましくも 千手を伸ばし
いと遙かなる虚空を撫する

夕映 雲を破つてあか
黄昏たそがれ 將に曠野を覆はんとする
風も 寂寥に脅えて 吠ゆるを
雄々しきかな 裸木 沈默しじまに聳え立つ

極まるところ 空の茜 緑と化し
日輪はいま連脈の頂きに沒したり
萬象すべて 闇に沈む韃靼の野に
あゝ 裸木ひとり 大空を撫する



[やぶちゃん注:山本幡男遺書冒頭。これらの遺書の執筆動機は山本幡男の自律的な要請によるものではない。幡男は頭部よりも大きく腫れ上がった首の、その潰れた患部からの膿の死の臭いの中にあっても、幡男は固く帰国を信じていたからである。しかし、見舞った団本部初代団長瀨島隆三からの提案を受けて、昭和二十九(一九五四)年七月一日、佐藤健雄が「万が一、万が一を考えて、奥さんやお子さんたちへいい残すことがあれば書いておいてほしい」と断腸の思いで懇請した結果であった。この冒頭に七月二日のクレジットがあり、最後の「子供等へ」の遺書の末尾のクレジットも同じ七月二日である。山本幡男は激痛と衰弱と腐臭の中で、この凡そ四千五百字に及ぶ遺書を一日で書き上げたのであった。以下、これから示す遺書の全文を今、我々が読むことが出来るのは、この山本幡男の遺志を文字通り、心の文字として堅固に刻み込んで守った、仲間たちの存在あればこそなのである。彼らの超人的な暗誦力と復誦の努力、また、一部については秘かに暗誦者が書き記したものを着衣等の中に巧妙に細工して隠すといった懸命の努力によって、日本の家族の元へと、確かにもたらされたものなのであった。]

山本幡男 謹白

 敬愛する佐藤健雄先輩をはじめ、この收容所において親しき交りを得たる良き人々よ! この遺書はひま有る毎に暗誦、復誦されて、一字、一句も漏らさざるやう貴下の心肝に銘じ給へ。心ある人々よ、必ずこの遺書を私の家庭に傳へ給へ。七月二日



[やぶちゃん注:山本幡男遺書のその一。遺書の総体は、先に示した冒頭に続く、「本文」と書かれた一通、「お母さま!」「妻よ!」「子供等へ」への三通から成る。]

 本文

 山本幡男の遺家族のもの達よ!
 到頭ハバロフスクの病院の一隅で遺書を書かねばならなくなった。鉛筆をとるのも涙。どうしてまともにこの書が綴れよう!
 病床生活永くして一年三ヵ月にわたり、衰弱甚だしきを以て、意の如く筆も運ばず、思ったことの何分の一も書き表せないのが何よりも殘念。
 皆さんに對する私のこの限り無い、無量の愛情とあはれみのこころを一體どうして筆で現すことができようか。唯、無言の涙、抱擁、握手によって辛うじてその一部を表し得るに過ぎないであらうが、ここは日本を去る數千粁、どうしてそれが出來ようぞ。
 唯一つ、何よりもあなた方にお願ひしたいのは、私の死によって決して悲觀することなく、落膽することなく意氣ますます旺盛に振起して、
  病氣せざるやう
  怪我をしないやう
 細心の注意を健康に拂って、丈夫に生き永らへて貰ひたい、といふことである。
 健康第一。私は身を以てしみじみとこの事を感じました。決して無理をしてはいけない。少しでもおかしいと思ったら、身體の具合を豫め病氣を防止すること。
歸國して皆さんを幾分でも幸福にさせたいと、そればかりを念願に十年の歳月を辛抱して來たが、それが實現できないのは殘念、無念。この上は唯皆さんの健康と幸福とをお祈りしながら寂光淨土へ行くより他に仕方が無い。私の希みは唯一つ、子供たちが立派に成長して、社會のためにもなり、文化の進展にも役立ち、そして一家の生活を少しつつでも幸福にしてゆくといふこと。どうか皆さん幸福に暮して下さい。これこそが、私の最大の重要な遺言です。



[やぶちゃん注:山本幡男遺書のその二。母親宛。私は、これを読む都度、今年三月十九日に天に召された母が、宣告された自身の筋萎縮性側索硬化症を「私の業」と呼んだことを思い出す。]

 お母さま!
 何といふ私は親不孝だったでせう。あれだけ小さい時からお母さんに(やはりお母さんと呼びませう)御苦勞をかけながら、お母さんの期待には何一つ副ふことなく、一家の生活がかつかつやっとといふ所で何時もお母さんに心配をかけ、親不孝を重ねて來たこの私は何といふ罰當りでせう。お母さんどうぞ存分この私を怒って叱り飛ばして下さい。
 この度の私の重病も、私はむしろ親不孝の罰だ、業の報いだとさへ思ってゐる位です。誰も恨むべきすべもありません。皆自分の罪を自分で償ふだけなんです。だから、お母さん、私はここで死ぬることをさほど悲しくは思ひませぬ。唯一つ、晩年のお母さんにせめてわづかでも本當に親孝行したいと思ひ、樂しんでゐた私の希望が空しくなったことを殘念、無念に思ってゐるだけです。
 お母さんがどれだけこの私を待って、待ってゐなさることか。來る手紙毎にそのやさしいお心もちがひしひしと胸に沁みこんで、居ても立ってもをれないほどの悲しみを胸に覺えたものです。唯の一目でもいいから、お母さんに會って死にたかった。お母さんと一言、二言交すだけで、どれだけ私は滿足したことでせう。十年の永い月日を私と會ふ日を唯一の樂しみに生きてこられたお母さんに、先立って逝く私の不孝を、どうかお母さん許して下さい。
 お父さんと弟の勉と、妹のキサ子と四人で、あの世に會ふ日が來れば、お母さんの事を話し合ひ、お母さんが安らかな成佛を遂げられる日を共に待つことに致しませう。あの世では、お母さんにきっと樂に生きていただかうと思ってゐます。
 しかし、お母さん、私が亡くなっても決して悲觀せず、決して涙に溺れることなく、雄々しく生きて下さい。だって貴女は別れて以來十年間あらゆる辛苦と鬪って來たのです。その勇氣を以て、どうか孫たちの成長のためにもう十年間鬪っていただきたいのです。その後は少し樂にもなりませう。私がこの幡男が本當に可愛いと思はれるなら、どうか私の子供等の、即ちお母さんの孫たちの成人のために倍舊の努力を以て生きて戴きたいのです。
 やさしい、不運な、かあいさうなお母さん、さやうなら。どれだけお母さんに逢ひたかったことか! しかし、感傷はもう禁物。強く強く、あくまでも強く、モジミに協力して子供等を(貴女の孫たちを)成長させて下さい。お願いします。



[やぶちゃん注:山本幡男遺書のその三。妻モジミ宛。]

妻よ! よくやった。實によくやった。夢にだに思はなかったくらゐ、君はこの十年間よく辛抱して鬪ひつづけて來た。これはもう決して過言ではなく、殊勳甲だ。超人的な仕事だ。失禮だが、とてもこんなにまではできまいと思ってゐた私が恥しくなって來た。四人の子供と母とを養って來ただけでなく、大學、高等學校、中學校、小學校とそれぞれ教育していったその辛苦。郷里から松江、松江から大宮へと、孟母の三遷の如く、お前はよくまあ轉々と生活再建のために、子供の教育のために運命を切り拓いてきたものだ!
 その君を幸福にしてやるために生れ代ったやうな立派な夫になるために、歸國の日をどれだけ私は待ち焦れてきたことか! 一目でいい、君に會って胸一ぱいの感謝の言葉をかけたかった! 萬葉の烈女にもまさる君の奮鬪を讚へたかった! ああ、しかし到頭君と死に別れてゆくべき日が來た。
 私は、だが、君の意志と力とに信賴して、死後の家庭のことは、さほどまでに心配してはゐない。今まで通り子供等をよく育てて呉れといふ一語に盡きる。子供等は私の身代りだ。子供等は親よりもどん/\偉くなってゆくだらう。
 君は不幸つづきだったが、之からは幸福な日も來るだらう。子供等を樂しみに、辛抱してはたらいて呉れ。知人、友人等は決して一家のことを見捨てないであらう。君と子供等の將來の幸福を思へば、私は滿足して死ねる。雄々しく生きて、生き拔いて、私の素志を生かしてくれ。
 二十二ヵ年にわたる夫婦生活ではあったが、私は君の愛情と刻苦奮鬪と意志のたくましさ、旺盛なる生活力に感激し、感謝し、信賴し、實によき妻をもったといふ喜びに溢れてゐる。さよなら。



[やぶちゃん注:山本幡男遺書のその四。子供宛。]

子供等へ。山本顯一 厚生 誠之 はるか 君たちに會へずに死ぬることが一番悲しい。成長した姿が、寫眞ではなく、實際に一目見たかった。お母さんよりも、モジミよりも、私の夢には君たちの姿が多く現れた。それも幼かった日の姿で……あゝ何といふ可愛い子供の時代!
 君たちを幸福にするために、一日も早く歸國したいと思ってゐたが、倒頭永久に別れねばならなくなったことは、何といっても殘念だ。第一、君たちに對してまことに濟まないと思ふ。
 さて、君たちは、これから人生の荒波と戰って生きてゆくのだが、君たちはどんな辛い日があらうとも光輝ある日本民族の一人として生まれたことを感謝することを忘れてはならぬ。日本民族こそは將來、東洋、西洋の文化を融合する唯一の媒介者、東洋のすぐれたる道義の文化――人道主義を以て世界文化再建に寄與し得る唯一の民族である。この歴史的使命を片時も忘れてはならぬ。
 また君達はどんなに辛い日があらうとも、人類の文化創造に參加し、人類の幸福を増進するといふ進歩的な思想を忘れてはならぬ。偏頗で矯激な思想に迷ってはならぬ。どこまでも眞面目な、人道に基く自由、博愛、幸福、正義の道を進んで呉れ。
 最後に勝つものは道義であり、誠であり、まごころである。友達と交際する場合にも、社會的に活動する場合にも、生活のあらゆる部面において、この言葉を忘れてはならぬぞ。
 人の世話にはつとめてならず、人に對する世話は進んでせよ。但し、無意味な虚榮はよせ。人間は結局自分ひとりの他に賴るべきものが無い――という覺悟で、強い能力のある人間になれ。自分を鍛えて行け! 精神も肉體も鍛へて、健康にすることだ。強くなれ。自覺ある立派な人間になれ。
 四人の子供達よ。
 お互いに團結し、協力せよ!
 特に顯一は、一番才能に惠まれているから、長男ではあるし、三人の弟妹をよく指導してくれよ。
 自分の才能にうぬぼれてはいけない。學と眞理の道においては、徹頭徹尾敬虔でなくてはならぬ。立身出世など、どうでもいい。自分で自分を偉くすれば、君らが博士や大臣を求めなくても、博士や大臣の方が君等の方へやってくることは必定だ。要は自己完成! しかし浮世の生活のためには、致方なしで或る程度打算や功利もやむを得ない。度を越してはいかぬぞ。最後に勝つものは道義だぞ。
 君らが立派に成長してゆくであらうことを思ひつつ、私は滿足して死んでゆく。どうか健康に幸福に生きてくれ。長生きしておくれ。
  最後の自作の戒名
  久遠院智光日慈信士

  一九五四年七月二日           山本幡男

[やぶちゃん補注:これらの遺書を受け取った佐藤健雄は翌日も幡男の病床を見舞ったが、そこで幡男は、
「私ノ戒名ヲ久遠院法光日眼信士ト訂正シテクダサイ」
と書いた紙を彼に渡している。
  久遠院法光日眼信士
戒名としては「法」(カルマ)は最上級の文字で、「日慈」より「日眼」の方が強靭に引きしまったいい戒名であると私は思う。]



[やぶちゃん注:遺書を書き上げた昭和二十九(一九五四)年七月二日から数日後、山本幡男は激しい眩暈と嘔吐に襲われる。急を聞いた新見此助が作業後に駆けつけた。その時、示された薬包紙に赤鉛筆で書かれた二句。これが現在、我々の知ることの出来る、山本幡男辞世の句である。]

日の恩や眞直ぐに玻璃の雪雫

藥瓶に柳絮舞ひ入る二度目かな


[やぶちゃん補注:「柳絮」は白い綿毛のついた柳の種のこと。また、それが春に飛び漂うことを言う。春の季語。それは幡男の心願の国、永遠の緑の――確かに心眼で見た祖国の春の到来であった――]



[やぶちゃん注:山本幡男の末期の走り書き。死の十日前、昭和二十九(一九五四)年八月十五日前後。見舞った新見此助に示したもの。赤鉛筆書き。私は、今年三月十九日に天に召された母が、筋萎縮性側索硬化症を宣告された直後、私に「自殺したくても自殺も出来ない」と呟いたのを思い出す。ここで私たちは山本幡男という一個の生が、かく最悪の状況下にあっても最後まで決して希望を捨てなかったという稀有の事実を肚に銘じねばならない。]

死ノウト思ツテモ死ネナイ スベテハ天命デス 遺書ハ萬一ノ場合ノコト 小生勿論生キントシテ鬪爭シテヰル 希ミハ有ルノデスカラ決シテ一〇〇%悲觀セズヤツテユキマセウ



[やぶちゃん注:死の前日、昭和二十九(一九五四)年八月二十四日。瀨崎清に筆談で示されたもの。我々が現在知り得る、山本幡男最期の言葉である。「佐藤先輩」は佐藤健雄のこと。]

必ズ遺書ヲ日本ニ屆ケテ欲シイ 詳シクハ佐藤先輩ト相談シテ下サイ


*   *   *


――そうして――
――確かに驚くべき誠心によって遺書は届けられた――
――昭和三十二(一九五七)年一月――
――祖国の新春に――
――妻子の元に――
――そして――
――僕らの耳に……


山本幡男遺稿抄――やぶちゃん編―― 完