鬼火へ

落葉籠   藪野種雄遺稿

[やぶちゃん注:以下は、私の父方の祖父藪野種雄の遺稿集の全文を電子テクスト化したものである。遺稿集奥付によれば、村上正巳氏(父の無二の友人で、当時の住所は名古屋市東区柳原町三丁目四三番。「大正九年一月十九日」の日記の註から、村上氏は明治専門学校の後輩に当たることが分かる。大正九(一九二〇)年に二年生で、祖父は就職二年目の一月であるが、祖父は一年落第しているから、数えで五つ、学年で四つ下(明専は四年生であるから祖父の卒業と同時に村上氏は入学した)と思われる。それ以外の氏の詳細な履歴は残念なことに不明である。御存知の方は御教授願えれば幸いである)によって昭和十(一九三五)年七月二十五日に名古屋市東区千種町の印刷所三益社で印刷されており、村上氏の自宅を発行所としている。読み易さを考え、日記の日付の変わる箇所には行空けを施し、一部、脱字と思われる箇所には〔 〕で私が適字や句読点を補ったり、推定される正しい字を〔→(正字)〕で示したりした。一部読み難い箇所に字明けも施した。各年の頭に底本にはない「□」を附した。また、一部に私の注(村上氏の原注は「註」である)を附した。注の多くはウィキその他、ネット上の信頼出来ると思われる資料を参考にした。複数の資料を勘案して記載したため、引用元を必ずしも断わっていない箇所がある。誤りがあった場合は、御教授願えれば幸いである。なお、本作の原本資料はその多くが散逸しており、作中の「(省略)」を補うことは、現在出来ないことを私は心から残念に思う(新たに発見された場合は、別にテクスト化したいと考えている)。尚、祖父は日記の中で、しばしば自己を客体化して「彼」と三人称で呼称する癖があることを断わっておく。冒頭の画像は表紙で「落葉籠」「藪野種雄遺稿」とあり、その下に祖父の実弟で後に二紀会の重鎮となった洋画家藪野正雄の画が配されている。【二〇一一年九月四日】]

[見開き:藪野種雄写真に「故人小照」のテロップ。その下に以下の略歴が載る。]

畧歴 明治二十七年生
   東筑中學卒
   大正六年明専機械科卒
   仝年九軌ニ就職十一年辭職
   大正十一年明治鑛業赤池發電所建設
   次デ翌年淺野セメント東京本社嘱託
   大正十三年東邦電力名古屋發電所ニ
   就職、昭和七年退職
    九年八月十四日辭世

[やぶちゃん注:「明治二十七年」は西暦一八九四年。「昭和九年」は一九三四年であるから祖父は享年四十一歳であった。「東筑中學」は現在の福岡県立東筑高等学校(「とうちく」と読む。福岡県北九州市八幡西区東筑)で、明治三十一(一八九八)年に福岡県初の県立旧制中学校として設立、北九州地区においては創立百十三年と最も歴史があり、全国有数の進学校でもある。
「明専」は「めいせん」と読み、現在の国立九州工業大学(福岡県北九州市戸畑区仙水町)であるが、祖父が入った時は北九州の炭坑明治鉱業を手がけた安川敬一郎の安川財閥によって鉱山技術者養成専門学校として明治四十二(一九〇九)年に開校された私立明治専門学校であった。採鉱学科・冶金学科・機械(工学)科で構成されており、日本で初めての四年制専門学校でもあった。大正十(一九二一)年に官立に移管され、戦後の昭和二十四(一九四九)年に新制国立大学となった。現在でも通称として「明専」と呼称されることがある。
「九軌」は九州電気軌道(現在の西日本鉄道の前身)。福岡県門司市・小倉市・戸畑市・八幡市(合わせて現在の北九州市)において路面電車路線を建設・運営した鉄道事業者。明治四十一(一九〇八)年設立。祖父が就職した当時は、これらの都市の主要路線が全通した九軌が大躍進した時期である。
「赤池」福岡県北東部の田川郡に属していた筑豊炭田の有力な鉱山町で、祖父の建設した明治鉱業の三本煙突の赤池発電所は、文字通り、赤池繁栄のシンボルであった。近年、財政再建団体となって合併、福智町となって赤池町は消滅した(先のリンクは福智町公式ウェブサイトの「財政再建」のページで赤池発電所の写真がある)。
「淺野セメント」は現在の太平洋セメント(旧日本セメント)の前身。浅野総一郎を総裁とする浅野財閥の中核企業として発展した。以上この辺り、祖父は目まぐるしく会社を変わっているが、日記などから窺われることは、職工や同僚の苦しみを見逃せない現場技師として、しばしば上司や会社幹部と衝突、それが一因としてあるように感じられる。そこには祖父の独特の気骨が感じられるのである。
「東邦電力名古屋發電所」東邦電力は大正から昭和の戦前期に存在した電力会社。五大電力(東邦電力・東京電燈・日本電力・大同電力・宇治川電気)の一つ。大正十(一九二一)年に関西水力電気と名古屋電燈が合併、関西電気が設立、翌年、関西電気と九州電燈鉄道の合併に伴って九州北部・近畿・中部の一府十一県に及ぶ事業を行うようになって東邦電力と改称した。先の注で示した福澤桃介が専務取締役で、実質上の経営は福澤の盟友であった副社長(後に社長)松永安左エ門が当った。当時、水主火従であった電力業界にあって、松永は火力発電を重視、大正十四(一九二五)年には東京へ進出、東京電力を設立(現在の東京電力とは無縁)、昭和初期には日本有数のエネルギー企業へと成長した。後、昭和十七(一九四二)年、国家総動員法により再編解散した。その「東邦電力名古屋發電所」は松永の肝煎りで大正十五(一九二六)年十二月に名古屋市港区大江町に建設した、アメリカから輸入した単位容量三万五千kW発電機二台による出力七万kWの、最新鋭のこれまでの日本にはなかった最大容量火力発電所であった。ここに往時の外観を写真で見ることが出来る(リンク先は名古屋の情報発信ネットワーク「Network2010」の「開府400年」の「昭和初期1」)。惨憺たる経歴でありながら、東邦電力に転職し、それも最重要の新規プロジェクトを任せられたのは、推測ながら、祖父の技師としての手腕が業界で買われていたからこそではなかったろうか。
「九年八月十四日辭世」とあるが、如何なる錯誤があるかは分からないが、現在のところ、祖父の命日は八月十五日となっている。]

       
編 纂 者 の 言 葉

 余が畏友藪野氏の遺稿の出版を想ひ立つたのは昨年の夏、氏が他界の直後に於てゞあつた。未亡人からは直ちに材料の提供を受けたのであつたが、一つは余の公務上の多忙と、-つは遺稿と云つても日記とか書面とかゞ主體となつてゐて、學術論文とか隨想とか云つた形のもので無いので、その取捨選擇に手間取つた爲遂に今日迄延び延びになつたのである。で最初は氏の吊慰金の一部を割いて、有志の名で出版する考であつたが、後で述べる如く本書の内容が全く余の主觀を通した一つの體系となつたので、此の責任を他に轉嫁することの不當なるを慮つて、余一私人の此版物とする事にした。
 内容の選擇に當つては、余は一つの指導原理の許に立ち働らいた。其は氏の晩年に於ける人格が靑壯年期を通じて如何に培はれ來つたか、云はゞ發展的形態に於て摑んだ「藪野氏」と云つたものを作る事である。從つて是は所謂遺稿集でなく「遺稿をして語らしめた自叙傳」であり、しかも一つの履歴を梯子段式に並べた通俗のものでなく、「内面生活史」とも云ふべきものである。かゝるものは藪野氏に於て始めて意義のあるものであつて、内面生活の乏しいものにとつては、却つて沽券の低下ともなるであらう。
 此の書は氏が生前の知己に配布する計畫であるから、氏が如何なる人となりであつたかを茲に縷述する必要はあるまい。唯茲に一言贅言しておきたいのは、純情的な、多感な、科學的組織よりか直觀的な、そして常に反省しつゞけ、全生涯を通じて経濟的に壓迫され乍らイデアリズムの牙城を死守した氏の精神的苦鬪を十分に汲んで戴きたいことである。
 余がかく書き續ける間、余の眼前には、あの柔和の中に苦み走つた、低聲でニコニコし乍らもどこかに強さを藏つた生前の面影がチラついてゐる。余の筆は宛も此の笑顏によつて導かれつゝあるかの如く、何のこだわりもなく運ばれてゐる。余は嘗て覺えたたことのない快さを以て此の文を書きつゞる事を、諸賢の前に告白しておきたい。

村上正巳

       内 容 に つ い て
 表紙及びカットは令弟正雄氏(二科の常連)を煩はした。所々に散見する註とあるのは筆者の加へた註である。日記は大正二年より六年迄及び八九十十一年昭和に入つて四五年とあるが、後年のものはブランクに殘つてゐる場所が多い。用紙は最初の二年は落葉籠としてノート、後は常用日記類である。
 所々伏字があるのは勿論著者の意圖の許になされたものである。
[やぶちゃん注:「吊慰金」は「ちょういきん」と読む。「吊」は「弔」の俗字。「二科の常連」とあるが、二科展は昭和十九(一九四四)年に解散、戦後、旧二科会会員によって二紀会を創立、藪野正雄もそちらに移っている。]



   
〔一、〕學生時代

大正二年(二十才、一、二年生時代)

 〔
一月一日
 正月元旦、改元最初ノ新旦デアル。祝スベキ哉、サレド梅ケ香送ラルスベナキ此ノ市街ニハ、諸所ニモルル三味ノ音ナド無風流ノ極ミナリ。

  
二月二十四日 月
 又々……ニハ非レド春日和トナリケリダ 此地未ダ春風駘蕩デハナケレドモ、平和靜寂別天地ナリ。
 然ルニダ、然ルニ東都ニ於テハ山本内閣不信任案高シ 彼ハ薩州ノ産ナリ、政友會ハ彼ノ内閣ヲ樹立シ、且ツ自黨ヲ閣員タラシメタリ。云フ迄モナク硬派ナル行雄尾崎、岡崎氏等ハ極力反對セリ。然ルニ軟風、風ヲナシテ進ム能ハズ、
(中略)
 於此乎、岡崎、尾崎、福澤桃介等外三十名ハ、脱黨シタリ。
[やぶちゃん注:「山本内閣」第一次山本内閣。内閣総理大臣は第十六代海軍大将山本権兵衛。大正二(一九一三)年二月二十日から大正三(一九一四)年四月十六日までの短命内閣。政府と陸軍の対立によって第二次西園寺公望内閣が倒れ、混乱が陸軍にあったために海軍大将山本権兵衛に組閣が命ぜられ、ウィキの「第1次山本内閣」によると、『それまでの藩閥政治から、政友会の原敬を内務大臣とする政党内閣に近い体制が取られ』、先の『二つの内閣を潰した課題であった軍部大臣現役武官制を、長州閥の陸軍と出身の海軍の両方を抑えて改正』、『軍部が政治に関与することを防いだ』が、『後に贈賄疑惑であるシーメンス事件が起こり、混乱の責任を取り総辞職した』 とある。当時、古巣の政友会に復党していた憲政の神様尾崎行雄は山本権兵衛が組閣後、あからさまに自党利益を優先しようとする政友会に反発して政友会を離党した。「岡崎」は護憲運動と策士家で知られる政治家岡崎邦輔。尾崎とともに政友会を脱党して政友倶楽部を作った(但し、岡崎は年末に復党)。この時、政友会は議会過半数を失っている。「福澤桃介」は大同電力や、奇しくも祖父が後に勤めることになる東邦電力などを設立した日本の電力王で衆議院議員。福沢諭吉の婿養子。大正二年頃は木曽川の水利権を獲得、岐阜県加茂郡に八百津発電所建設したり、日本瓦斯会社を設立している。この時はやはり脱党して尾崎・岡崎と行動をともにして政友倶楽部に入った。]

  
三月七日 金
 諸君ヨ!片々タル小才子ハ既ニ既ニ社會ニ彌漫シテ居ル。一片ノ辞今〔→令〕ノタメニ心ヲ動ジ、一摑ノ金塊ノタメニハ我名譽ヲモ顧ミザル所謂利口者流ハ擧〔テ〕世風ヲナシテヰル。
 此中土猛烈ナル爆彈ヲ投ジ、彼等利口者流ヲ塵センハコレ、安川、山川健二郎氏ノ主義デアラネバナラヌ、ト同時ニ卒業生諸君ノ覺悟デアラネバナラヌ。
 卒業生諸君ヨ!諸君ハ今ココニ立タルヽニ當ツテ如何ナル未來ヲ想像スルヤ。
 或ハ再ビ此地ヲ踏ムノトキ、美シキ内室ヲ從ヘ、美髯ヲタクワヘ、而シテ我等ニ誇リトスルカ。
[やぶちゃん注:「山川健次郎」(嘉永七(一八五四)年~昭和六(一九三一)年)は東京帝国大学・京都帝国大学・九州帝国大学の総長を歴任した物理学者にして教育学者。明治四十一(一九〇七)年に先の注で示した安川財閥(安川敬一郎・松本健次郎親子)の資金拠出による私立明治専門学校設立に協力し、同専門学校総裁となった。但し、祖父が在校した当時は既に九州帝国大学の初代総長として転任している。参照したウィキの「山川健次郎」によれば少年期は白虎隊に属し、日露戦争時は東大総長でありながら、陸軍に一兵卒として従軍させろと押し掛けた強烈な熱血漢で、私が興味を持っている福来友吉の「千里眼事件」でも懐疑派として一番に登場する科学的合理主義者でもある。ここで「主義」と言うのは創立者安川と初代総裁山川によって打ち立てられた明専の校訓校是といったものを指しているものと思われる。]

  
三月二十三日
 夕ヨリ歸省ス、歸省中二週間、ソノ約前半一週日ハ我家ニテ徒ラニ暮シ、或ハ附近ノ坊主山ヲ飛ビ〔、〕或ハ内ニ居テ日ヲ費ス。
 後ノ一週間、四月一日ヨリ四月七日夜にカケテハ、正ニ留守居シテ得ル所大ナリ、或ハ靜坐默考ス、又讀書ヨク之ヲ通讀シタリ。
[やぶちゃん注:「坊主山」現在の福岡県田川郡福智町金田にある小山か。標高四十九・五メートル。]

  
五月五日
 月曜ヨリ木曜ニ到ル間ニ於テ、記スべキ事項ハ比較的大ナルモノガアッタ。(中略)
來ルボートレース後ニ於テ選手慰労ヲヤルト云フ、大イニ可ナリ、然ルニ何ゾ、上級ガナスガ故ニ、又場所見當ラザルガ故ニ小倉某々ノ料理店ニ開カント言フ。
 咄! 何者ノ痴漢ゾ
 川本、伊藤、森山、小林五名ハ立ツタ、而シテ出來得ル最善ヲ盡シタル考ナリ、兎ニ角一般ノ意向ガ傾キ居ルタメカ、校内ニテナスコトヽシテ一段落ツキヌ。(中略)
 養ヒ難キハ實ニ小人ナリケル哉。
 今後於ケル我等ノ覺悟ハ已ニ定マレリ、何ゾ怖レン百萬ノ敵、千億ノ敵アリトモ。
 五月二十七日ヨリ六月十六日ニ到ル間、吾輩日記ヲ記サナカツタ、此ノ怠惰ヲ以テ一般ヲ推スベシト云ハルヽモ一言ナキナリ。然リ我輩、滿足ナル勉強ヲヤラナカツタ。
咄々、愚情漢ヨ
 汝ハ徒ラニ言ヲ用ヒ之ヲ行ハザルヤ
 未ダ茫莫タル行路ニ漠然ト、シカモ氣ノミアリテユカズ、而カモ而カモ自ラ實アルガ如クニ見セカケ、唯々其ノ虚ヲ蓋ハントス。
 汝ノ心ハ浮片々々タリ、是其心著實ナラザレバナリ。學ニ専ラナラザルガタメナリ、學ニ志セルガ如クニシテ實ハシカラズ。(中略)
總テノ私念雜念ヲ除去シテ空々淸々タル天然ノ心ニ歸レヨ

  
六月二十八日
 圖書館ニテ書物ヲ拜借ス。
 一、戰爭と平和(トルストイ第二巻)
 二、空中飛行
 三、マジツク
 四、漫遊案内記
 五.ハンス、アンダースン物語
 六、我子ノ惡德
[やぶちゃん注:「戰爭と平和」は馬場孤蝶の日本語初訳は大正三年であるから、祖父が読んだのは英訳本と考えられる(後に祖父は前述したアメリカ製発電機の買い入れにも関係しており、英語が堪能であったと思われる)。それにしても英語であの大作に挑むとは、恐るべし!
「空中飛行」は不祥であるが、もしかするとこれは押川春浪の明治三十九年博文館刊の「空中大飛行艇」ではなかろうか? 「海底軍艦」のサイド・ストーリー的空想科学小説である。
「マジツク」はお手上げである。洋書の手品の実用書ともとれるし、民俗学的な魔術に関わる学術書とも、はたまた「魔術」の題名の小説という可能性もある。
「漫遊案内記」に似た書名では坪谷水哉(善四郎)の明治三十九年博文館刊「増訂日本漫遊案内」というのがある。これならば所謂、現在の旅行ガイドのようなものと思われる。
「ハンス、アンダースン物語」とはハンス・クリスティアン・アンダーセン(Hans Christian Andersen)のオランダ語発音表記で、童話の父アンデルセンのこと。誰のものであるかは不祥だが、アンデルセンの伝記である。やはり英文か。
「我子ノ惡德」これは同定出来る和書である。明治四十二年同文館刊の大村仁太郎著「教育寓話 我子ノ惡德」である。これはいろいろな悪徳を子供に養生する法を説く形で、反面教師としての道徳養生法を述べた変り種の道話集である。国立国会図書館の近代デジタル・ライブラリーで読むことが出来る。]

  
七月一日
 修身ノ時ニハ藤井先生ガ多少卜モ余ノ思ヒ居タルヲ語ラル〔。〕先生ハ其ノ判断力ト勇気卜ニ於テ此ノ二ケ年間ニ經過スル所ガ見タイト、我々タルモノ奮起セズシテ可ナランヤデアル。
 昨日日頃カラ少々氣分ガ惡シカツタ。之運動不足ニヨルモノダ。今日ハ早速柔道ヲヤリタルニ精神爽快言フベカラズ。

  
八月十五日
 △△氏ヨリハ學資供給ヲ中止シ、他ヨリ世話シヤルベシトノ事デアル。其何處迄モ心配シテ下サルニハ衷心ヨリ感謝ヲ表スモノデアル。何レノ地ニカ一識ノ見モナク、而モ不才ノ我が如キヲ助クル者カアル、別ケテモ自ラノ困窮ヲモ顧ミデ力ヲ與フル〔、〕如何デカ他ニ之ヲ求メ得ベケンヤ、其厚志ニハ萬腔ノ誠意ヲ持シテ感謝セザルべカラズ、サレド男子生レテ他人ノ助ヲ受クル〔、〕之ヨリ大ナル恥辱アランヤ。
僕ハ極力何等カノ方法ヲ以テシテ、自活ノ路ヲ立テント決心シタ。此心幸ニ藤井先生ノ御同情ニヨリテ多少ノ内職ヲ得ラレンカノ運ビニ到ツタノデアル。
 先生ノ一書ヲ寄セラレテ曰ク〔、〕△△氏ノ俠心感服ノ外ナシト〔。〕男子他人ノ世話ヲ受ケルハ快心事ニ非ズト雖モ之ヲシテ薄志弱行トハ言ハジ。之ヲ受ケザルコト却ツテ然ラント、先ヅ砕身奮勵ヲ志レソト。
 之モ亦一ツノ見解ナルベシ。
淸濁合セ飲ムノ概ヨリ言へバ或ハ然ルベシ〔、〕恩義ノ絆……之シモ廣義ノ強大ノ意志ヨリスレバ何スルモノゾ。唯ニ之ヲ呑ムベシ。然リ大イニ呑ムべシ。呑マルヽベカラズ。此ノ決心サヘアレバ何ゾ杞憂スルヲ要センヤ。
 サリトテ我心今△△氏二於テ離レンカ、何ゾ更ニ他ノ援助ヲ受クべキ。
 内職ノ費タトヘ少額ナリトスルモ、之ヲシテ何事ノ端ニ加フレバ、自活的努力ヲ得ルトヤ云フべキカ。
 (註)是より天地の悠久を諭じ、小事に汲々たる自己を咄ひ、悶々の状見るが如く叙述してあるが割愛する。
[やぶちゃん注:それまでの祖父の学資援助者が都合で援助出来なくなったことに対して、まずは旧援助者への感謝を述べ、その人物が別な援助者を紹介してくれることへの男子としての慙愧の念を述べる。それに対する明専の修身担当の藤井先生の心温まる忠告と、経済的自立の覚悟を述べる。藤井先生の「薄志弱行」という言葉、そして祖父のここまでの気概に満ちた日記を読むと、私はある人物が想起されて来るのである。そう――あの「こゝろ」のK――その人である。我々は、またこの後、Kと全く同様にあらゆる宗教の深奥に深く貫入してゆく私の祖父を見るであろう。最後の註であるが、こういった祖父のオリジナルな哲理の部分を正巳氏は恐らく字数の関係上から殆んどカットしている。それが私には非常に惜しまれるのである。]

  
八月十八日 月
 月ハ永へニ 淸キモノトハ 知リツヽモ 斯クトハ知ラジ 今日ノ夜ノ月
 皎々ノ月ハダークブルーノ夜ノ窓外ヲ輝シテ、今シ橙樹ノ上ニ淸キ銀光ヲ落シタ。
 南窓北窓ヲ打開ヒテ、主客三人ノ影ハ涼夜ノ階上ニ物語ツツアツタノデアル。
 主人ハ客ヲ見守リテ、語ルヤウ
「吾自ラ餘裕アリ卜言フニアラネド、君ガ資ニト今日ニ及ビヌ、(中略)。之ヲ水泡ニ歸スハ忍ビ得ザル所幸ニ友ヲ通ジテ、××氏ヨリ學資ヲ給シ得ルニ及べリ。……心安カニ學べヨ」ト。(中略)居タル靑年ハ唯共感ニ打タレ一言モ發シ得ザリキ。客ハ窓外ノ月ヲ仰ギ見テ強キインプレツシヨンニ打タレタ。僅ガニ口ヲ開イテ言フ樣「自ラノ如キ不才ノ者ヲシテ尚且ツ如斯キ迄ニ心ヲ砕カル、御厚情ニハ恥愧交々我ヲ責メ申スノデアリマス。生ハ此ノ言葉ヲ聞キシトキヨリシテ、何等カーツノ内職ナリト致シテ、學資ノ一助トナシ、今迄ノ御助力ヲ基礎ニ最後ノ目的ニ奮進セント」
 主人其ノ苦學ノ言フニ易クシテ行ヒ難キヲ語リ、若シ事成ルモ或ハ心身ヲイタメテ百年ノ功ヲ一朝ニテ徒費タラシム之才ヨリ甚シ國家ノ損失アラフンヤ。乞フ我意ニ任セヨト。
 客何ゾ涙無キヲ得ンヤ
 客何ゾ涙無キヲ得ンヤ
 話終リテ主客種々ノ物語リヲナシヌ。
 暇多ケレバ度々遊ビニ來レヨト。夫人ハ客ヲ送リクレヌ。三度顧ミテ靑年ハ涙ヲノミヌ。
[やぶちゃん注:旧学資援助者との対面の臨場感溢れる描写である。]

  
八月二十一日
 藤井學生監訪問。
 學生監ハ懇切ニモ生ガ行途ニ対シテ精細ニ見テ呉レタ。感謝ノ極ミダ。

  
八月三十日
 ××氏宅訪問。氏ハ英國型ノ紳士ナリ。靜カニ口ヲ開イテ曰ク。
「人生意氣ニ感ズト言フ一念ヲ以テ、ココニ君ヲ世話スル」ト。(中略)
[やぶちゃん注:新たな学資援助者との対面である。]

  
九月二十四日
 先生ハ懇々ト教訓ヲ與ヘテ下スツタ。古イ小學校時代ノ寫眞ナド出シテ見セテ下スツタ。(中略)君ハ本校ノ學生トシテ完全ナモノト成ラネバナリマセヌ。決シテ小サイコトニクヨクヨシテハナリマセヌ。
 感深シ
 我今日意氣消沈セントスルガ如キアルハ、己レ自身モ亦知ル所ナリ。サレドムシロ此ノ事實ハ我前途ヲ祝福スルモノナルヲ記スベキナリ。何トナレバ汝ハ静寂ニ近ヅキツヽアレバナリ。且ツ靜中動ニ向フヲ得べケレバナリ。
 毎晨毎夕、汝ハ靜座スべキヲ期セヨ、之ヲナシテ更ニ汝ガ心ノ落着キヲ強カラシメヨ。

  
十月一日
 急ニ室移動ヲ命ズ〔→ゼ〕ラル
 修養ノ道ハ蓋シ吾人ノ根本義ナリ、學ノ如キハ實ニ末ノ末ノミナリ。
 是正ニ一理アレドモ、學ノ末ナリテフヲ楯ニ不勉強ナルモノ程見苦シキモノハアラズ。彼等ハ己ノ不能ヲ告白シ居レバナリ。
 修學ニ誠意ヲ有スルモノ、又修養道ニ誠意アルべキ也、修道ニ志アルモノ、學ヲ勉メズシテ可ナランヤ。

  
十月九日 の午後十時半だ。
 秋の草露にすだく虫の音は、まこと心地すがすがしきものである。名譽を想はんや。利慾を望み願はんや。あゝ靜、あゝ靜哉。
 堂々の自然の運行を想へ、彼は永へに休止することを知らぬ。しかもこの大なる静寂を與へ、思索を與ふるではないか〔。〕偉哉。
 僕は今動搖の心にある。而も之を改めんために極力努力をしつゝあり〔→る〕や否や。
 默々たる天然の聲の如何に強きことよ。暗々たる天地のひゞきの如何に強きことよ。(中略)

  
十一月二十三日
隨感
 私の思想は今迄、今でもありまするが動搖の期にあると言ふことを自覺するのであります。私は嘗ては非常に固苦しい道德教に捕れたのであります。嘗ては自分と言ふものを買ひかぶつた事もありませう。すべてのものは今よりすれば意義なく誠につまちぬものゝ樣にも感ぜられます。だけれど其つまらない事も今日多少此等を考へ得るに到つた徑程又は過程かと思へば誠に感謝せずには居られませぬ。
 私は今〔、〕人の補助によつて學修して居るめであります。僅かに二年を經たに過ませぬが其補助者たる人々に對しては、誠に面目なき次第であります。
 私はすべての努力を以て學習に又は精神的に努力したのであります。が然し其は自我としての事で、第三者として見れば眞實に努力したので無いかも知れません。何故ならば私は根本的自己の思想上に缺陷を藏して居たからであります。
 其の缺陷とは工業の學校に在り乍ら、其學科よりも文學方面に趣味を向はしめたことである〔→あります〕。趣味はやがて其の職となす點に於て斷じて缺損するを許しませぬ。而も工業は曲りなりにも自我の志望したものであることを強ひて忘れんとしたのでありました。何故ならば工業其物が果して如何なるものであるかを、十分に知らなかつたからであります。文學的方面の者が工業的に向つたのは一つの無暴でありませう。
 されど是は必ずしも左樣でないだらうと云ふことも確かめられるのであります。文學てう一つの不生産的方向に入る者が茲に生産的方面の工業に入ることは、多分の社會的意義があるます。(中略)
 先づ私は、工業、自己の修むる工學が如何なる力と、如何なる社會的意味があるかを、多少想像し得る段階に進んだのであります。
[やぶちゃん注:藪野一族は祖父と同じく理工学や電気関係に進んだものが多い。他には本書の挿絵を描いている祖父の弟の正雄やその息子たち、私の父などが美術に向かった。純粋に文学というのは実は、一介の高校の国語教師ながら、私だけかも知れない。私は今回、祖父の日記を読みながら、文学は勿論、祖父同様に哲学・宗教への強い興味を持つ私の中に、強力な祖父の遺伝子を実感したことを、ここに告白しておきたい。]

  
十二月二十四日
 第二學期モ終了ス。
 過去七日間ハ全力ヲ注イデ出來ルダケノ努力ハシタ。チツトモ愧ズル所ハナイ。
 松本氏ヲ訪問シタ。氏ハナカナノ對話家ヂアル、其ノ一言トシテ徹底セザルハナイ。(中略)
 自己ノ前ニハ光明セル強固ノ希望ヲ存シテ置カネバナラヌ(中略)
 自分ノ理想ハ社會ノ共樂ニアル。
 自分ノ目的ハ工業發明ニアル。
 自分ノ責務ハ我日本ノ振興ニアル。
 自分ノ任務ハ父母ヲ養ヒ弟妹ヲ教フルニアル。
 自分ノ本分ハ學生ノ體面ヲ落サザルニアル。

  
十二月二十五、、六、七、八、三十月
 自分は何故に斯く意志が薄弱なのであるか。何故斯く迄決心を徹することが出來ぬか。
 汝には眞の努力が無い。
 ベストの盡し樣が足らない。
 一年は暮れて行く。
 年が徒らに過ぎたのではない。
 汝が徒らに貴重なる年の機會を逸したのである。
 何事も云ふな。
 何事も胸に語らへ。
 そして猛進せい。
 決して黄金の爲に自分の心を屈することはならぬ。せうとしてもならぬ。
 淸い生涯に入る。
 これが大正三年に入る汝への神の寸志である。
 噫々暮れ行く大正二年よさらば。
 (註)日記中に淨心會の事や、禪僧の話を聞かれた事が、散見するが氏の内省的な見方は此時代から大体東洋流、禪らしい流を見せてゐる。余は其を出すに意を用ひたのであるが、十分でないのは是はむしろ余の責任である。
[やぶちゃん注:「
二十五、、」の読点の二重打ちはママ。村上氏の註の「体」もママ。「淨心會」は後の「四月十六日」の日記に語られるところの明治専門学校内の仏教研究修養サークルであり、この頃にはその会に所属していたか、時に参加していたものと推測される(でなくては後の四月十六日の日記で同会の現状批判は出来ないであろう)。]

大正三年(二十一才)

  
一月一日
 徴兵適齡ニ達シタ自分ハ懷舊ト想到ニ感慨無量ナルモノガアル。

  
一月十日
 自分ハ未ダ確然タル大徹底ノ安定ニハ達シテ居ナイ。若手輩ガ生意氣カモ知レヌガ、少クトモ自分自身ニアリテハ之ヲ過怠トハイハヌガ第一ニ得べキモノトセナケレバナラヌ。何物ヲステヽモカマワヌ。名譽利權成功〔、〕夫等ハサルシ當リ僕ヲ安心セシムル大ナル力デナイコトヲ悲シム。
 小理屈ヲ言フナ。小理屈ヲ聞クナ。
 新ト舊トヲ選別スルナ、差別ナキヲ差別スルナ。

  
二月六月
 種雄ハ惰氣ノ滿々タルモノガアリハセヌカ〔。〕平靜ガ沈滯トナリハセヌカ。靑年ノ元氣ヲ失ヒツヽアリハセヌカ。
 更ニ更ニ猛烈ナル勇猛心ヲ勃發セヨ。

  
二月二十一日
 森本氏ヲ訪問ス。
 「森サン沖サンも言フテ居ラレタガ君ハヨク了解セヌラシイ。多クノ量ハイラヌカラ今日一日ノコトヲ、床ニ入ルトキニ思ヒ浮べラルヽ樣ニナサイ。(中略)」ト懇々卜指導セラレタ。
 彼ハ心二何トモ言へヌユツタリシタ愉快ヲ得タ。大奮發シヨウ。
 死ヲ決シテヤレ。死ストモ duty of student〔,〕duty of man, youth ダ! ヤル!
 彼ハ此ノ日ヲ記憶スルタメニ、特ニ赤インキヲ用ヒタ。

 (註)此の日記は赤インキで認めてある。

  
二月二十二日 日曜
 午前中京町(小倉)バプテスト教會ニテバイブルヲ井拜聽ニ出カケル。森山茂君卜同伴ナリ、スコブルヨロシ。

  
二月二十四日 火
 材料強弱ヲヤル。
 Fight to Death!
[やぶちゃん注:恐らく徹夜の工学的な資材強度実験であろう。]

  
三月五日 木
 家郷に在はす御兩親は如何。
 弟も妹も愉快に暮らして居るだらうか。
 音信とではせず、心ならぬながらしのばる。
 老ひ給へる父よ。我が不幸を許し給へ。
 風あたゝかに空澄めり。今日あたりは父上も海上にゆつたりとした氣分になつて居られるだらう。
 噫〔、〕神よ、我父上をして幸多からしめよ。
[やぶちゃん注:私の曽祖父(祖父の父)は昔は漁師であった。私の父の話では、この頃は連絡船の船長をしていたらしい。]

  
三月九日 試驗あり
 雨あがりの午後四時半――夕食も一時間を經たらうと思ふ頃に、自分は湯から上つた。かなり長くのびた爪を安川泰一君の鋏でかつた。氣がせいせいしてゐる。西の窓、忘私寮の窓にすがつて、今し太陽も西に傾いて、ほんのりと夕べの氣分をたゞよはせ、近くの小森が初春の夕靄を通して、すがすがしい色をしながら、田圃を遠卷きに取まいてゐる。
 自分は何事も忘れたかのやうに茫然としてゐる。妹や弟をこゝに連れて來て、あれ御覧あんな緑の色、空の色共に田の靑々した色〔、〕活々した松林が何と快い感を與へるではありませんか。ツネさん、豐さん、正雄さん。
 あゝもう日は暮れて行く。
 今遠くからでも夕鐘が響いて來たならば。私はめ入つてしまうかも知れぬ。
 今でさヘホロホロしてゐるんだもの。
 (註)此處に長い少年時代の樂しかりし想ひ出が長々と書かれてゐて「……どんなに土産が待ち遠しかつたか、おもちやの軍艦を買ふて貰つたこと。(またのち書かう)」と結である。
[やぶちゃん注:「忘私寮」は明治専門学校の寮の一つの寮名。現在もこの呼称が残る。この「長い少年時代の樂しかりし想ひ出が長々と書かれて」あるものを読みたかった。]

  
三月十日 火
 雨ふらば雨降る哉とて情もろく。
 風吹けばとて心かなしく
 寒くては心もあはれに
 彼の心はまことすさめるものよ。
 君知るや新哲ベルグリン〔→ベルグソン〕を
 流動の萬象と哲學の神と、これを得てう人と。我々は不斷の努力と奮鬪によりて、遂には流動哲學の其奧に眞理の鍵を持して天女待つ。
 君戀しからずや天の國。
 日は日に一日と進みて止まざる其の如く、天地一つとして流動せざるなからん。
 あゝ我進まば自我、我利我利となるべし。
 あゝ我退かば馬となるべし牛となるべし。
[やぶちゃん注:「ベルグリン〔→ベルグソン〕」これは植字の際の誤りであろう。フランスの哲学者アンリ・ベルクソンは、カントの観念論を批判、スペンサーの社会進化論を起点に「試論」で内的な意識の流れとしての持続を唱え、名著「物質と記憶」で「イマージュ」の概念を提示して生命の実在の考察へと突き進み、明治四十(一九〇七)年には「創造的進化」で意識の持続の問題を生命・宇宙全体にまで敷衍して「生の飛躍」を提唱していた。祖父は最もアップ・トゥ・デイトな最新の哲学理論を読んでいた。]

  
三月十六日 木
 十三日の牛後母上が僕を訪問されて今度何々講とかを作つて貰つて其により安心したと云ふ事や、自分から進んで辨當運びをして迄もツネノを學校にやる、孝である。今わざわざ問ひに來たと云はれる。噫〔、〕兩親をしてこの不自由を感ぜしむ、我罪哉、我罪哉。
 母者人は袂からネーブルを一つ二つ三つ五つ出されて其を食べよと言はれる。話に話を追ふて何時もの如く止めもあえぬ。かゝる所にてくどくどと語り合ふは何かと極り惡ければ、心ならずも早々と追ひ立て申す心の苦しさよ。彼はネーブルの一つを食べて同室の人々に別ちよろこんだ。胸の光に淸さと強さとを増した。
 あゝ我此の母を持つ。幸福ぞ、幸福ぞ、己の果報なるを考ふる毎に、其が母の心と父上の心より出づるものであると想到した時、如何に我と我が心を愉快ならしむるものぞ。
 妹をして己の故に先きに止むを得ずとて退校せしめたる心苦しさ、心恥づ。世の義理と云ふものに己〔→已〕でにからめられて妹――同胞とは云ひ乍ら其人を苦しむ。其罪や小ならぬなり〔。〕せめてもの事に全力をあげて己が成功を全うして、社會の爲に盡さずに居られよう。
 自分の爲にはすべての人、すべての場合が其の最も尊き機會を與へ賜ふに、我は何故にかくも不敏なりや。

  
三月二十一日
 記憶せよ。三月二十一日午前八時。
 彼は一生に當て經驗せざる此日を記せねばならぬ。かねて期待せしとは言ふものゝ、何だか矢張り不安の感が胸に迫るではないか。彼は落第の宣告を受けたのである。今受けたのである。つとめて己を制し、兼て覺悟せるを以て我乍ら氣強い心地であつた。森山君と古林君とは一體どうしたんだいと言ふ。分けても森山君は彼の爲に今日あるを祝して呉れた。心では苦しいであろうけれども。(中略)
 三人は己〔→已〕に白砂靑松の中を辿つてゐた。皆好園は一面、キリンビールの幕を引まわされてゐた。櫻の蕾も今は心待ち顏。
 ドンが聞えて十五分頃には彼等は學寮に歸つてゐた。(中略)
 彼は急ぎ先生(藤井先生)のもとに行つて迷惑をかけた事を謝した。先生は分かつてゐる。もういゝ、後から又話さう。さつき田邊君と搜したが君が見えない。族行でもしたのではなゅかと話した所だと語られる。
 彼は何と思つたかせき來る涙を感じ、廊下に押し拭ふ涙も感謝の聲。(中略)
 思ふともなく足は池上先生の宅に向つた。先生は盲腸癒えて問もなき事なるが、庭に鍬を執つて居られた。
 彼は招ぜらるゝまゝに座敷で暫し話に入つた。人の世話を受けてると。〔→ゐると、〕先方では何とも思はれないでも、此方にて兎や角ひがみて變な壓迫を感するものですと云へば、先生は實際さうですよ。僕の友人も左樣云つてましたよと云はれる(中略)先生が落膽せず御勉強なさいと言はるゝを後に學寮に歸り食堂に入る。(中略)
 彼は○○氏のサルーンに、默想してゐた。○○氏は失禮しました御得たせしましたと言つて出て來られた。彼は「今日は誠に申し許なき事件を齎してまゐりました」と努力の足らない爲に失敗しました。〔→、〕(更に斷乎たる處置を)と思ひたれど氏は恬然としで動ぜず。
 其しきの事は誰でもやりますよ。大した事ではない。四人ありますか、其ならば心寂しい事もない。悲觀せずに全力を盡してやればいゝ。(中略)君はどう言ふ目的ですかね。
 僕は卒業後今の處では四五年職工となりたい。兎に角技師となるよりも先づ善良なる職工になりたいと答ふ。(中略)
[やぶちゃん注:落第した祖父は恐らく学資援助者である「○○氏」に謝罪に赴いた。そこでの「○○氏」の気風の良さ、そして将来を彼に問われて祖父が「技師となるよりも先づ善良なる職工になりたい」と答えるシーンなど、祖父の実相が髣髴として来る。]

  
四月十六日 入學式
 (前略)明治專門各校の一部に淨心會なるものを設けり。佛教に趣味を有せる人の相互に修養せんと云ふが主旨なり。されど其の振はざる、其の徒らなる、言語に絶せり。修養は必ずしも佛教によるべきに非ず。吾人は修養てう大眼目の前に總ての佛教、總ての神教、總てのキリスト教、總ての宗派を問ふべきに非ず。哲學可なり、倫理可なり、吾々は如何なる科學の力によるも解くべからざる宇宙の力の前に立ちて、我々の凡惱中に伏在するあらゆる我、小我偏狂、小心を投げ捨て突進一跳、眞人の奧に突進せざるべからず。
 專門たる工業の外修養の爲に力と時とを要せずてう人は暫らく之を擱くとするも、吾々は極力心身の練磨に力を傾倒すべきに非ずや。
 此の故に淨心會なるもの壁頭第一に掲げられたる根本主旨をして更に普遍〔、〕更に強大ならしむべき要あるを信ず。即ち佛教靑年會たる名實を擴大して宗教なる意義に於て、其會の發展と力とを切望してやまず。
退きて考ふると共に一跳一歩を進めて努力的修養道に進むべきならずや。

  
五月九日
 如何に多くの時日と如何に大なる努力を遂ぐるとも、其處に眞面目なる終極信念がなくてはならぬ。
 如何に多くの良書を讀破するとも、如何なる大人格者の聲に耳と心を淸むるとも、興奮的なる行動は憐然とすべきものならずや。
 如何なる多くの犧牲を拂ふとも、其が深刻てうものに非ずば、見るべからざるものと知るべし。
 如何に多くの時間をしかも眞面目に努力したりとも、善良なる正馬力は必ずしも生ぜざるものなり。
 とは言へど神よ、我等が向ふべき最終の目的は果して何ぞや。神よ我をして聞かしめ給へ。

  
七月四日 土
 又例の試驗が來た。しかれども例の彼ではないと言ふことは斷言して憚らぬ。彼の上には自然を包み給ふ佛陀の手を受けてゐるのである。大なる力が彼には有せられるのだ。

  
九月二日
〇〇氏訪問。
 「君等の時代〔、〕靑年の時代が最も肝要な時です。寸刻を惜んで努力しなければならぬ。ね〔→ぬね。〕文學などに心を向けてはよくない。よく若い人は誤る事であるが、餘慾のないのに、強ひて左樣の弊に陷り易いのは、戒むべき事であらうと思はれる。」
 靑年は「はあ」「はあ」と口の内に應え乍ら色々樣々の想に馳せけり。實に專攻すべき學課の篤には全力を傾倒すべきは勿論乍ら、文學に親しむことの何が故に惡しきか。否とよ、否とよ、我果して誤れるなり。我果して誤れるなり。何とて我が文學を愛すると知り賜ふにや、恐らく△△氏より聞かれたるものなるべし。左なるべし。そは何れにするとも、我等が文學に入るとても、己が日々の課業を拔きにしてまでも勉めてなしたることならねど、左言はれたりとて致し方もなかるべし。實にも我其人の恩義にあるからには、其業をゆるがせにすべからざりしものよ。
[やぶちゃん注:三人称が、一人称に変異するこの日記は、祖父の哀しい内心、文学を思い切る断腸の思いが伝わってくるところである。まるで「舞姫」の太田豊太郎の日記を読むようである。]

大正四年(二十二才)
 (註)此の年に入ると、氏の日記は著しく明朗性を帶びて來て、大正二三年の暗い影が跡を斷つてゐる。が然し日記は七八月以後は所々に散見す〔る〕程度である。

  
一月一日
 何はなくとも親子六人、其貴い聲に引かれて昨夜家庭の兄となつて歸つた。
 今日は一月元旦、何と言ふ想ひ出もなく、例の樣に腹ふくるゝ迄樣々のものを食つた。今は諒闇中である。年始の禮も欠く所多けれど、忘るべからざる人々の内を訪れた。
 さる年も年も失敗の想ひ出たるに過ぎぬ。徹底せる感傷的な生を迭つて來たのである。全力を捧げて自己の務を盡した考であつた。然し事實は失敗の跡を印して居る。所謂誠の眞面目が乏しかつたものとせなければなるまい。人前を作る謙遜すぎる、思ふ存分に事をなさざる、すべて自己には尚多くの虚僞なる自己があつた。佛陀の御前に立ち得ざる自己である。此の新しい年を迎ふるに當つて、何も云ふまい。唯々自己をして眞に偏りなき自己、眞面目な者として此年の終、佛陀の前に勇ましく強く徹したる自己を捧げたい。
[やぶちゃん注:「諒闇」とは「りょうあん」若しくは「ろうあん」と読み、一般には天皇の父母の崩御に当っての天皇が喪に服する期間を言う。大正三(一九一四)年四月九日に亡くなった明治天皇皇后である昭憲皇太后のそれと思われる。但し、礼法では天皇の諒闇は十三日間。この日記の謂いは現在の忌中と同じ意味で用いているのであろう。]

  
一月五日
 (註)小野先生の助手として休み中なるに拘らず勞役中。
 先生今日は少々朝寢坊をして急ぎ給ひしにや又もエンテコなる飯をたかれたり。時に午前九時、終に午前十一時といふに、餠にて朝食と御座い、ひいて午後三時晝、午後八時に夕食なりき(夜食)何だか腹が變だわい。
寮への道、グラウンドから東方小松の山上を左に見れば、暗夜の雲間から朝日の樣な大きい黄味がゝつた月が出た。打眺めつゝ小便をとばしけり。
[やぶちゃん注:「エンテコ」不祥。恐らくどこかの方言と思われる。地図上では明専の東方には小松町というのがあり、その近くに戸ノ上山というのがある。ここか。]

  
一月七日
    死
 朝日新聞に出た記事がある。曰く某氏珍らしき病氣の爲に死す。大學開始以來最初の病氣。痛さはあまり感ぜす一年半位にして死するものと言ふ。是を讀みたる一刹那は我ながら心をのゝきぬ。其は外でもない、一年程か前に柔道にて打ち出したるらしきコブ、右坐骨上部にあるんだもの。此夜思ひに餘る一夜今からするもゾツとせざるを得ぬ。死!死!我が眼前に一年乃至半年の生のみなりと思ひたる刹那、我父母兄弟其時の心、今後家族の人々の如何になりゆくべきや、などと考へては考へ、生れて甫めて眞摯なる死をば考へしめた。
[やぶちゃん注:「甫めて」は「初めて」に同じい。この記事の學生の病気は、恐らく骨肉種かと思われる(祖父が気にしている自分の傷から見ても)。それにしても、後に四十一歳で結核で亡くなることになる祖父のことを考えると、この二十年前の素直な感懐が不思議に胸を打つ。]

  
一月十三日
 五時半………六時に飛び起きて見れば、一帶雪景色なり、オヽ、寒さや寒さ。寢床戀しきこと夥し。寒稽古をやつての歸るさ、足先は尚も石の如し、早速湯にとび込む。點呼は失敬した。

  
一月十七日
 今學期行ひたき事の一つとして虚心淡懷を誓ふ。見るがまま、思ふがまゝ、眞は眞のまゝ、發露しよう。
 (註)一月下旬の日記には山川先生滯在中の訓話や、藤村詩集の抜粋がのせてある。
[やぶちゃん注:祖父は殊に詩歌が好きだったようである。私が父から譲り受けた祖父の遺品の中には昭和七年紅玉堂書店刊の石川啄木歌集「一握の砂」もある。【二〇一一年十月十六日追記】「祖父藪野種雄選 啄木歌集」をブログに公開した。]

  
二月三日
 午後四時體格檢査。
 身長五尺四寸七分。
 體重十五貫百。
 蟲齒二、視力九度。
 肺活量四千五百。
 體格強健!
[やぶちゃん注:現在の単位に換算すると身長一六五・七センチメートル、体重五六・六キログラム。]

  
二月二十二日
 晴れた日。
 日本帝國は支那中華民國殿へ、なかなかに蟲の好い申出をやつた。其一に曰く、外債を起こし又は政府に顧問を搜す時は一應同意を得よ。山東鐵道の敷設權を與へよと。米國は案外平靜なるが如し。
 (註)三月、偉人と凡人との別を記し、即興詩人をひき、宗教書をあさられたものゝ樣である。
[やぶちゃん注:祖父が言うのは同年一月十八日、大隈重信内閣が袁世凱に要求した対華二十一カ条要求のこと。日本の権益を大幅に要求して、実質的な帝国主義日本による中国支配の端緒となった。これも最早、原本が失われて読めないとなれば、私には痛恨の極みである。編者の村上氏には誠に贅沢な言い分であるが、かえってこんな註を施して呉れなかった方が良かった。]

  
四月二日
 况後録
 伊東に死なず、龍の口に斬られず、不思議に存らへし命も此處佐渡が島を今は最後の地と覺ゆるぞ。あらうれしや、人々此程の喜をば笑へよかし。日蓮程の果報者。また世にあるべしや。
 頸は鋸にて引きも切られよ。胴は稜鋒もて貫かれもせよ。足には絆を打ちて錐捫みにもせよ。此の息の根の通はむ程は南無妙法蓮華經の聲をばよも絶たじ。
 末法付屬の未來記はまさしく日蓮が生涯に記されたり、刀杖瓦石もて身に流されたる日蓮が、血潮はやがて妙法勝利の願文に染められたり。
[やぶちゃん注:「况後録」は明治三十四(一九〇一)年十二月に執筆された高山樗牛の作品。但し、作品末の作者注記によれば複数の日蓮の文書の引用などをとした、樗牛の私見を含む日蓮称揚の文章である。これはその第一章から部分的に複数引用して、それを繋げたものである。題名は「況滅度後」(きょうめつどご)という法華経法師品の文に基づくもので、これは「如来現在猶多怨嫉、況滅度後」(如来現在、猶ほ怨嫉多かるがごとし、況んや滅度の後をや)を更に省略したものである。これは、仏陀在世中にあってさえ、なお怨敵は多くいた程であるから、ましてや仏の滅後、末法の世にあっては法華経を掲げんとする者への法難は激しいに決まっているという意である。原本では「存らへし」は「ながらへし」、「稜鋒」は「ひしほこ」、「錐捫み」は「きりもみ」と訓じている。国立国会図書館のデジタル・ライブラリーで閲覧出来る。]

  
四月七日
 昨夜雨なりしも晴れたり、陸續と歸寮者を見る。テニスをやりたれど、風強かりし。
 明日からは無念の一年間が語る第一日となつた。明日からが愈々自己を勇躍一番せむ時である。さあ今からじあ。
 萬身の勇を鼓して奮鬪すべき時が來た。あゝ何と愉快で〔は〕ないか。
 オヽ腕は鳴る。
 オヽ心は大海の如く。
 オヽ強き力動かざる信念。

  
四月三十日
 機械學會に於て諸兄へ。
 (註)是は何處か機械科教室の廊下にでも帖〔→貼〕られもの如く、ピンの跡が四隅に白く殘り、紙面全體が變色してゐる。
◎夫れは夫れは永い間………例へば祖曾父〔→曾祖父〕達が子々孫々の爲に高價な汗と高價な血を以て作りあげた澤山な、然し貴重な財寶が.昨日の野良仕事の折に掘り出された樣に、私等の眼前にも、もつと見事な、もつとスケールの大きい寶を見出すことが出來た。其は眞劍に復活することの出來た各學會であります。
◎篤くと皆樣の御存じの如く。所謂教室光學特にツメコマレ工學と言ふものが、何程迄に活用され、運用されるかは、頗る疑問であります。
 心の底から止めども沸き出する趣味の自分で讀み、趣味の自分で考へ、趣味の自分でやるもののすべては、最も效率の良い、最も強固な地盤の上に得る眞の山川流の技術者を作り、工學をなし、國家をなすものであります。
◎諸君、此の意味に於て眞劍に生きた學會の前途は、何れの學會を問はず、最も幸福であり、最も尊敬すべきものではありますまいか。
◎既に自覺があればまさに來るべきものは、實行であります〔。〕
◎御承知の如く責善會誌第五・六號に於て、我が機械學會長森教授は、「見える樣にせよ」「獨立の意義」を絶叫せられました。
 先生の其の心は、即ち吾々機械學會員一同の眞實な先行詞であります。又なければならぬのであります。
◎「堅實でなければならぬ。連續的でなければならぬ。學生自身の學會でなければならぬ。」とは實に最近に於ける先生の訓言でありました。
 學寮の諸兄よ。
 立つべき時が來た。
 林が盡きると、野に出る。
 今、只今が其時である。
 諸君の御一考を乞ふ。
[やぶちゃん注:「◎」の各文章は、底本では二行目以降は一字下げ。]

  
五  月
(註)五月に入ると日揮は所々に散見するばかりであつて其も簡單なもの。

  
六月二日
 此の四十日に爲したる所、顧みれば一つとしてあらず。
 此の學期も近く終結するが、どうかして素志を貫かねばならぬ。自分には大なる理想のあることを忘れてはならぬ。

  
六月二十二日
 近來氣分甚だよし。
 其の理源を察するに、過日三日(三日坊主と言ふべきなれど)朝食を断ち、後ミルクを用ひたるに案外なりき。元氣舊に倍し、充分なる睡眠も出來、今迄よくありし如き神經衰弱の兆候を見ず。午後十一時迄より以後起しことは稀なり。

  
六月二十六日
 今日午前九時、機械科の入口に近付いた時小野先生がオイと呼ばれる。何事ぞと思ひ近寄れば、是はしたり金をやるからとの事。一目散………電氣科に逃れぬ。其より二時間後製圖をやつてゐると單刀直入である。今は強ひて辭されもせず。其の御厚意に甘えて、有難くお受けした。金七圓なり。
 これは吾が最初の勞働の賜なり。何か記念すべきものを求めて永遠に傳へん。
 午後夕食後先生に御禮に參りぬ。
[やぶちゃん注:「一月七日」の村上氏の註にあるように、祖父は恐らくしばしばこの小野先生の研究の手伝いをしていたものと思われ、或いはその研究の成果が実際上の先生の利益に繋がったことによる謝金ということででもあろうか。]

  
七月十五日
 午前六時發幸袋に向ふ。午前九時半工作所に出ず〔→づ〕。森山二見君等重量見積中なり。余は直ちに工場も見ずに製圖をしぬ。トレースなり(ポンプデテイル)
 (註)是から夏季實習が始まる。
[やぶちゃん注:「幸袋」は「こうぶくろ」と読み、福岡県中央部にあった町。嘉穂郡に属していたが、後に合併して飯塚市となり消滅した。日鉄二瀬炭鉱高雄坑に代表される石炭産業が主幹産業であった。これは夏季工業実習で実際の炭鉱に赴き、採炭作業に必要なポンプの細部の製図作業に従事したことを意味するものと思われる。]

  
七月二十四日
 海原に出て角力をやつた。森山、中西と三人、曰く運動不足の補充なりと、夜あの橋上に立つて見ると工作所の獨身會員諸君が、二艘の川舟を以て、川上に赤い提灯ゆらゆらと歌ひ乍ら上つた。毎年の例とか。
    × × × ×
 波多野鳥〔→烏〕峰氏の逆境離脱策と言ふを讀む。
[やぶちゃん注:「逆境離脱策」は波多野烏峰著で実業之日本社が明四十二(一九〇九)年に刊行したもの。波多野烏峰は恐らく波多野養作(明治十五(一八八二)年~昭和十(一九三五)年)と同一人物と思われる。外務省嘱託として日露戦争末期に外務省の特命で中国西域を探査した探検家である。以下、フレッシュ・ペディアの「波多野養作」から引用する(アラビア数字を漢数字に変更した)。『福岡県若松市二島(現・北九州市若松区二島)に生まれる。福岡県中学修猷館を経て、一九〇五年三月、東亜同文書院を二期生として卒業する。修猷館在学中は柔道部に所属し、柔道部の三年上級であった後の首相広田弘毅とも交流があった』。『東亜同文書院を卒業後、外務省から、東亜同文書院院長根津一を通じて、他の数人の東亜同文書院二期生と共に、中国奥地の新疆省(現・新疆ウイグル自治区)の探査を行う特命を受ける。これは、日英同盟による情報協力に基づいて、イギリス政府から日本政府に、中央アジアにロシア軍の勢力がどこまで及んでいるのかを調査するよう要請があったためであった。一九〇五年七月三日、波多野は北京から単独で探査旅行に出発する。洛陽、西安、蘭州を経て、西域に入り、遠くウルムチ、イリまで探査を行った。その間、これらの地域の情報を詳細に記録し、北京の日本公使館に送っており、それらは現在、当時のシルクロードの状況を知る上で貴重な資料となっている。その一方で、烏蘇近郊で蒙古の杜爾伯特王と、哈密では哈密回王と会見し、青海省ではダライ・ラマに謁見している。一九〇七年六月六日、北京に帰還する。なお、この探査旅行を東亜同文書院の在校生が知ると、彼らも大旅行を行うことを強く懇願したため、東亜同文書院では五期生から、毎年卒業時に、学生自らが計画する三ヶ月から四ヶ月の大旅行を行うことが恒例となり、これは四十三期生まで続いている』。『帰還後、外務省の嘱託として北京の日本公使館で勤務する。その頃、長女の初子が誕生したが、その名前は、当時駐支公使であった山座円次郎が命名したという』。『その後、外務省を辞し、明治鉱業錦州炭鉱に勤務するため奉天(現・瀋陽)に移るが、数年後に体調不良のため郷里若松市に戻り静養する。病状が回復すると、外務省の紹介で中国湖北省にある大冶鉱山の製鉄所(漢冶萍公司)の顧問となるが、再び体調を崩し、一九三二年に辞職する』。『一九三五年七月、大量の睡眠薬を服用し自殺を遂げる。一九三一年に勃発した満州事変により、長年日本と中国の友好のために尽くしてきたことが無になったことに絶望した為といわれる』。偶然かも知れないが明治鉱業で祖父と接点がある。「逆境離脱策」は国立国会図書館デジタル・ライブラリーで閲覧出来る。]

  
七月二十五日
 終日見學的實習に疲れて一浴したる後、稻毛祖風の「若き教育者の自覺と告白」を讀みつゞく、得る所大なり。
 (註)此の後へ稻毛氏の煩悶と人生等の略述がしてあつて之が二十七日迄つゞき、最後に「兄さん人生は書き損じを許しませぬ。其自身が淸書です」という句に圏點を打つて結んである。
[やぶちゃん注:「稻毛祖風」は「近代日本哲学思想家辞典」等によれば、本名稲毛金七(きんしち 明治二十(一八八七)年~昭和二十一(一九四六)年)、教育学者。中学教育を受けずに明治三十九(一九〇六)年に早稲田大学哲学科入学、明治四十五(一九一二)年卒業。中央公論社の雑誌記者を経て「教育実験界」主筆となり、昭和二(一九二七)年教育雑誌「創造」を創刊主宰。創造教育論を唱えて当時の新しい教育運動に多くの影響を与えた人物である。大正十三(一九二四)年のドイツ留学後、昭和二(一九二七)年に早稲田大学講師、後に教授となった。『創造主義、理想主義への転化こそ当時の日本の思想界の情勢であるという時代認識をもち、人間を創造者であるとし、人格の創造を教育の直接目的とし、教育の方法は、創造性を最も有効に発動させることであるとした。すべての子どもの独自性を認め、人格的存在としてとり扱い、国民教育の水準を向上させようとする意図は重い意義をもつものとして迎えられた』(以上はネット上の図書館レファレンスを参照・引用した)。「若き教育者の自覺と告白」は内外教育評論社大正 元(一九一二)年刊で、稲毛の代表的著作。]

  
八月十二日
 滿二十九日間の實習を終れり。恥かしと申すべき哉、この實習の爲にとて庶務課より一ケ月の辨當代として六圓を渡すとの事なり余は直ちに辭しぬ。是、後の十日は見學なりたればなり。

  八月十三日
 正雄を伴ひ、植木、山縣の友達も連れて本年初めての水泳なり(門司では)
 午後八時、本町教會にて山室軍平氏の講演を聞きたり。
 (註)以下、講演の筆記がある。
[やぶちゃん注:山室軍平(明治五(一八七二)年~昭和一五(一九四〇)年)は牧師にして日本初の救世軍士官、初代救世軍日本国司令官。以下、ウィキの「山室軍平」より引用する(アラビア数字を漢数字に変更した)。『岡山県阿哲郡哲多町(現在の新見市)生まれ。石井十次、アリス・ペティ・アダムス、留岡幸助とともに「岡山四聖人」と呼ばれる』。『実家が貧しくて、少年時代に養子へ出される。十四歳で上京して、印刷工となり、伊藤為吉の下で修行するが、教会主催の英語学校に入学。そこでキリスト教に触れる。一八八九年(明治二十二年)、同志社大学神学部入学。赤貧の中で勉学に励むが、一八九四年(明治二十七年)に健康を害し、また当時広まりつつあった自由主義神学(リベラル)への反発もあり同志社大学を去る。その後暫くは石井らとともに高梁教会(旧メソヂスト)などで伝道活動を行なっていた』。『翌一八九五年(明治二十八年)より石井の勧めで救世軍に参加。パンフレット『鬨の声』(現在の救世軍日本軍国公報『ときのこえ』の前身)を刊行するなど大いに働き、日本最初の士官(伝道者)となる。後に東洋で最初の中将となり、日本軍国司令官となる。終生に渡り社会福祉事業、公娼廃止運動(廃娼運動)、純潔運動に身を捧げた。一九二四年(大正十三年)に勲六等瑞宝章を受章。一九三七年(昭和十二年)には救世軍より「創立者賞」を受ける』。『「平民の福音」を始め、分かりやすい言葉による著書や説教が親しまれた。妻の山室機恵子』も婦人運動家として知られた。]

  
八月十四日
 高等女學校にて文學博士白鳥庫吉氏の日本民族てふ講話を聞きぬ。
 (註)以下筆記がのに〔→つ〕てゐる。
[やぶちゃん注:白鳥庫吉(しらとりくらきち 元治二(一八六五)年~昭和十七(一九四二)年)は東洋史学者。東京帝国大学教授。東洋文庫理事長。以下、ウィキの「白鳥庫吉」より引用する(アラビア数字を漢数字に変更した)。『邪馬台国北九州説の提唱者として有名。師に那珂通世、弟子に津田左右吉など。外交官、政治家の白鳥敏夫は甥』。『日本や朝鮮に始まり、アジア全土の歴史、民俗、神話、伝説、言語、宗教、考古学など広範な分野の研究を行う。一九一〇年に「倭女王卑弥呼考」を著し、「邪馬台国北九州説」を主張。時を同じくして同時期の著名な東洋学者で「東の白鳥庫吉、西の内藤湖南」、「実証学派の内藤湖南、文献学派の白鳥庫吉」と並び称せられた京都帝国大学(現京都大学)の内藤湖南教授が「卑弥呼考」を著し畿内説を主張。後に東大派と京大派に別れ激しい論争(邪馬台国論争)を戦わせ』た。『一九〇七年、東洋協会学術調査部を設立し、『東洋学報』の創刊、『満鮮地理歴史研究報告』の刊行、一九二四年の東洋文庫の設立などに尽力した』。]

  
十一月二十日
 淨心會主催、午後七時半より講堂に石川先生成章氏の講演あり。後〔、〕今川先生宅へ。
 念佛三昧に入れば善悪貧富何人たるかを問はず、安穏の生活〔、〕永遠の安住を得るものなりと語らる。念佛三昧に入るには如何なる道をとるべきや、御尋ねす。
[やぶちゃん注:石川成章(せいしょう 明治五年(一八七二)~昭和二十(一九四五)年)は理学博士地質学者。浄心会が主催していることからお分かり頂けるものと思うが、実は石川成章は真宗大谷派の宗教人でもあった。但し、この後半部の語りと祖父の質問は、石川・今川、どちらとの間になされたものかが不分明である。但し、どうも文脈の印象からは、講演後に、恐らく明専の教諭である今川という人の自宅に石川氏を御礼に招き、そこで祖父が石川氏から聞き、尋ねたと読むのが自然か。]

大正四年終
 (註)此年は前年に目立って外部から何者かを得ようとする慾望が増してゐる。内面的に見れば反省し、思索するにつけて、自己の思想内容の貧弱な事が如実に感ぜられてならぬ時代の樣である。かゝる時は或る一階梯を進む度に前途が拓けて、外部へ働きかけたくなる時であり、其が氏に於いてよく見られる樣である。



□大正五年(二十三才)

 〔
一月一日
 大正五年となりぬ。人生其半に到り、父は五十七才母上は五十才にして妹は十八才、豊十五才、正雄は十歳なり。
 想へば任や重く務や大なり。悠々自適の時に非ざるなり。國家の爲に一片の義忠を盡し奉るべきは吾人の本務なり。この大任を果すには只自己の人格確立のみ。「寡言窮〔→躬〕行」是吾輩が此新年に於ける誓言となす。
 其の實行と否とは獨り種雄一個の浮沈たるのみならす〔→ず〕、實に是國家大損失の一たらずんばあらざるなり。
[やぶちゃん注:「寡言窮〔→躬〕行」の「窮行」は慣用的にこの誤字が用いられるケースがあるようであるが、やはり「躬行](読みは同じく「きゅうこう」)が正しい。「躬」(み)を以て行う、自ら実行することを意味する。但し、「寡言躬行」という四字熟語は初見。一般な使用例では「率先躬行」「躬行実践」。]

  
一月二日
 碧梧桐・努力して月並みへ。
[やぶちゃん注:「・」はママ。初めて俳人の名が示される。河東碧梧桐は明治末から新傾向俳句を提唱推進し、後には荻原井泉水主宰の非定型・無季語の自由律俳句の俳誌『層雲』に参加したり、同じ自由律系の『海紅』を主宰したりしている。しかし、祖父が批判的にこう書いた時期は極めて微妙な時期で前年の大正四(一九一五)年には井泉水と齟齬を生じ、層雲を去り、同年三月に始めた『海紅』も中塚一碧楼に譲ってしまう。祖父は河東碧梧桐の反動形成を敏感に予知している。因みに私は中学二年生で尾崎放哉に感銘し、中三で『層雲』に参加、二十代前半まで同誌友であった。]

  
一月三日
 念佛行者訓條(法然上人)

  
一月四日
 念佛行者訓條(法然上人)
[やぶちゃん注:以上は「一月三日」の後の村上氏の『(註)是が三日四日と續いて書いてある。』によって再現した。「念佛行者訓條」は法然の法語で、本来、古くは「七箇條の起請文」と呼ばれるものであるが、元久元年に書かれた一般に知られる「七箇條起請」、別名「七箇條制戒」とは全く別物で、起請文というには相応しくないとされ、浄土宗の宗学では「念仏行者訓条」と呼ばれているものである。これは念仏者に対する心得を説いたものであり、自力と他力の明快な区別、「一念は他力、多念は自力」という誤解を正し、三心具足の念仏を相続していくことを説いたものとされる。]

  
一月五日
 珠數〔→數珠〕を求めんとて町を歩きたれ共、空しく歸りぬ。然り我未だとてもとても念佛に入る能はざるものなりき。眞の信にも入らず、眞の念佛をも稱へ能はざるものなり。珠數〔→數珠〕體すべき時ならんや。余輩なるもの尚多大の艱苦と努力とを要せざるべからず。
 (註)是より新渡邊氏の北米論や、山川先生の射撃論が四五日に渡つてのせてある。
[やぶちゃん注:「新渡邊氏」は新渡戸稲造。彼のアメリカ観について、祖父がどのような点に関心を抱いたかは分からないが、青山学院大学公開講座「世界の中の日本――日本と世界を結んだ人たち ――」の「新渡戸稲造――太平洋の架け橋 ――」の講座紹介で、青山学院大学特別招聘教授・国際交流基金理事長小倉和夫氏は新渡戸のそれに関して以下のように述べておられるので、参考までに引用させて頂く。『新渡戸稲造のアメリカ観を考える際、新渡戸稲造という人間をいくつかの側面に分け、その各々の側面と新渡戸のアメリカ観との関連を考えることが適当であ』り、その『第一の側面は、新渡戸が「キリスト教徒」であったという点であり、この観点から見た新渡戸のアメリカ観を見ることとしたい。第二は、「異邦人」としての新渡戸である。アメリカで長く生活し、アメリカ人と結婚もしたが、アメリカに永住したわけでもアメリカ国籍を取ったわけでもなく、あくまで異国の人であった新渡戸が見たアメリカがどうであったかという観点である。第三の側面としては、当然のことながら、「日本人」としての新渡戸稲造が、アメリカという国及びアメリカ人をどのように見たかといった次元がある。第四には、しかしながら、新渡戸稲造は、当時の日本人としては珍しく国際的な人物であり、国際連盟をはじめ国際社会で活躍した、いわゆる「国際人」であった点に着目し、こうした国際人としての新渡戸が見たアメリカ像を考える必要がある』。
「山川先生の射撃論」は、日付から見て、大正五(一九一六)年一月十日『国民新聞』掲載の山川健次郎の記事「学生と射撃」に関わるものと考えてよい。]

  
一月十八日
 痔瘻(普通性危險なきもの)を小倉病院にて診て戴く、三月の休で治療すともよしと聞き嬉しく思ひぬ。伊藤誠君同伴しくれたる。感謝せざるべからず。藤井先生此の病気甚しからざるを喜び下さる。寒稽古は中止とす。體操はやる考なり〔。〕

  
一月二十八日
 吾〔、〕素直なる人とならん哉。
 人となるには試に誠に素直なれと云ふ一言に歸するやうだ〔。〕素直な人間、是程心地よく又前途多望なる人間があらう。素直な人間には何等頑な所がない。而も毅然としてゐる。孜々として勉む。然れどひ〔→も〕肩をこらせず。
 身を修めて恭謙に父母兄弟恩人に感謝し、一點の私心なし〔。〕友人と交はりては何等の隙なし。事をなすに頭を熱せざれ共眞面目なり。自然の運行に身を委す故自由なり。
[やぶちゃん注:「孜々」は飽くなき努力を重ねること。]

  
一月三十一日
 此の一月には何事もなさなかつた。
 此んな事では到底意養ある生活を完ふすることは出來ぬ。明二月からは元日の決心を握つて心持よき第三學年の第三學期を終へよう。

  
二月二十四日
 學校の製圖室から見ると、六連彦島の連峯が卷繪の樣に展開して居る。春も來るのであらう。ボイラーもゼネラルビュウを終つた。一瀉千里でデテイルを早く計算も早く出せとの達しありたり。
 四年級の製圖も本日全部出た樣子、森山君歸岡す。オーバーを着用して校門を出る者多し。卒業式迄本日より暫らく。
 小生は試驗準備開始。
[やぶちゃん注:「六連彦島」は下関市の彦島地区の地域名で、山口県下関市南端の関門海峡 に浮かぶ彦島と、響灘の六連島(むつれじま)及び彦島に近接して現在は橋で繋がる竹ノ子島・武蔵と小次郎の決闘で知られた巌流島(正式には船島という)を総称する。「ゼネラルビュウ」<general view>は機械工学技術(製図)用語で、一般図・全体図・基本設計図と訳される。]

  
三月十一日
 小林君來寮の由なるも見ざるは殘念なりき。夜七時松本氏宅を訪ひたるも不在なりし改正村氏を訪ふ。「もう一年じや」「一年遲れた代り立派に行つたらう」森氏、山縣氏を訪ふ皆健在なり。
 其より植木君を訪ひ、歸れば母喜び、妹喜び、弟も嬉びぬ〔。〕やゝあつて正雄と父上、湯より歸り又嬉び呉れたり。實にも家庭程安樂なる所あらじ。午後十一時半就床。
 (註)此の所から四月五日迄は白紙で殘つてゐる。此の中に小倉病院に入つて痔瘻の手術を受けられたのであるが、入院何日間なのかは分明でない。
[やぶちゃん注:村上氏様。本遺稿集を上梓して下さったことを、孫の私は心から感謝致します。――致しますが、ここで二行を費やして痔瘻の入院期間を気になさる位であったなら――他の多くの省略された祖父の文学や哲学や宗教の感懐部分をこそ残して戴きたかったというのが――いや、本音なのであります。]

  
四月六日
 午後三時に愈々小倉病院を退院せり。
 妹が迎へに來て呉れた。夕餐に一家團欒は欣ばしくも嬉しかつた。病める妹に幸多かれ。一日も早く其病平癒せんことを。母上の心盡しの御馳走。

  
四月七日
 天氣は良し、氣は晴れたり。
 午前五時起床、弟等と共に朝食をとる。
 午前七時半學寮の人となる。今日唯今より余にとりては最後の學生々活として意義多く深かるべき第四學年級の第一日なり。
 尊い哉、戰へ。
 森先生に挨拶。藤井先生の御同情ある御言葉忘るべからず〔。〕今日は又丁度學寮の室換へあり。植木、一瀨、杉原君等の御世話により幸に相濟みたり、多謝す。

  
四月九日
 主は知らず、聲のみ聞ゆ、高雲雀。
 のどかの春は遂に來た。萬目皆生氣に滿つ、野を見よ。山を見よ。靑々たる麥畑、共に連なる桑の葉。
 桃の花の紅、目覺むるばかりなり。
 ポカポカと温き日、ウツトリとする日なりき。

  
四月二十六日
 政友會総裁原敬及び床次竹二郎以下安川邸に二泊、四時十五分頃より講演。
 白頭澤々しき原敬氏謙遜な態度を以て、歐州旅行中、吾邦の花の王は菊なりと聞き感ずる所あり、菊花は第一位とし、櫻花は將に第二位にあるべきなりとて正義人道を説けり。片腹痛し。
 床次竹二郎氏の演説は何ぞ深刻なる。吾人は如何なる職につくも、必ずなくてならぬ人間となる覺悟必要なり(中畧)校長講演後に曰く是空前の大演説なりと。
[やぶちゃん注:「原敬」は大正五(一九一六)年当時は第三代立憲政友会総裁。この二年後の大正七(一九一八)年、日本初の本格的な政党内閣たる原内閣を首班して采配を振るったが、大正一〇(一九二一)年十一月四日、東京駅駅頭で暗殺された。「床次竹二郎」(とこなみたけじろう 慶応二(一八六七)年~昭和十(一九三五)年)は内務次官や鉄道院総裁などを経て、大正三(一九一四)年に政友会から衆議院議員となって原及び高橋両内閣の内相を務めた人物。面白いのは、祖父が二人の演説の軽薄を指弾している点である。]

  
五月十九日
 もう最終、小生にとつては最終の學生時代だ。此の年なり共〔、〕森先生に御滿足を與ふる丈けの努力を致さう。寢ても醒めても此の事忘却すまじき事なり。
 又今後は如何なる會合ありとも決して腹九合を食ふ事を止めよ。今度と言ふ今度はよくよく苦しかりしを、是亦寢ても醒ても忘るべからず。
 (註)六月に入つてからは日記はズゥと書かれてゐない。
[やぶちゃん注:「ズゥ」はママ。村上氏、結構、お茶目。]

  
六月三十日
 澤野さんの所にて午後六時半より八時迄、心の愉快なる物語りなり。心地よし。心地よし。お互に何事も忘れて一念に働らく時が信仰の時である。
 歎異鈔をお借りして歸へる。
 少しつゞ〔→づゝ〕讀んで行かうと思ふ。

  
八月三日
 福岡に實演中の◯◯君へ。
 その爲に淋しき友、其爲に愁ひつゝある親しの友に寄す。余は君がリーベの爲に淋しき心を打消さんとするを殘念に思ふ。なぜもつと大膽に、なぜもつと眞摯に其爲に戰はなかつたのか。若し君が致せし努力が勝利者の名を與へなかつたのであるならば、其は次の事實を語るものではあるまいか。即ち遊戯的な心から之を得んとした爲に、ラインリーベがラインな光を失つて。〔→、〕唯愁ひの一句を投げかけてゐるのではあるまいか。君は人間の死と共に最もラインなるべきリーべを弄んだのだ。其が爲に今君が之を失つて月並の戀と同樣に、意氣地を失つたのではあるまいか。君が心の奧底から湧き出づる純潔なリーベを求むるならば、必ず私の考ふるラインリーベが愛の手を出すことを信ずる。吾が友よ、ラインリーベは勝利者失敗者の何れの名をも與へざるものである。
[やぶちゃん注:「ラインリーベ」<Richte liebe>で純粋な愛、清純な愛の謂いか。極めて抽象的な叙述であるために、事態の具体性が摑めない恨みがあるが、祖父は「○○君」のある種の行為を(それが異性愛であるか同性愛であるかも判然としないのだが)、祖父の考える純なる唯一の愛の持つ宗教的倫理的至高性から批判している。初めて日記の中で「愛」が語られる点もここは特異点である。]

  八
月六日
 大門になつかしき濱口氏を訪ふ、午後八時半、是より約一時間半ばかり御話を承る。僕は大膽にも身の上話しを濱口氏に打ちあけた。濱口氏は心をきなき士と思ふ。松本氏とは幾分縁故の人なりと。
[やぶちゃん注:「大門」福岡県には飯塚市と糸島市に大門の地名があるが、前者の方が広域地名としては知られる。]

  
九月二十三日
 (註)此のあたり日記はまばらに書かれてある。
 今明日は庭球大會のある日、雨模樣。
 小生と原田との彦山行も止むなく中止し、來月十五日頃とし、足立山に登る。ビール一本肉罐詰一つ。權現樣で一寸やり、頂上で大いにビールをやる。十間先きは霧深うして見れども見えず。仙境に入るの心地す。下界は見えず、只俗界の物音のみ傳はれり。野球應援の聲あり。餘は母校よりの聲と言ふに、原田は師範なりと言ふ。否然らずと頑張る。下れば果して原田君の勝。今や小中と豐津中との試合最中なり。
[やぶちゃん注:「彦山」 福岡県糸島市に標高二三一メートルの同名の山があるが、これは恐らく英彦山であろう。英彦山はこれで「ひこさん」と読む。福岡県田川郡添田町及び大分県中津市山国町に跨った山で標高一二〇〇メートル、耶馬日田英彦山(やばひたひこさん)国定公園の一部。中腹に英彦山神宮奉幣殿、山頂に上宮を配し、古来、参拝者や俳句の吟行の地として知られる。またここは羽黒山・熊野大峰山と合わせて日本三大修験山の一つとされ、古くは山伏の修験道場であった。「足立山」は福岡県北九州市小倉北区にある山。標高五九七・八メートル。企救山地の一部及び北九州国定公園の一部。ウィキの「足立山」によれば、漫画「銀河鉄道999」の作者松本零士は『小倉在住であったが「銀河鉄道999が線路を上って宇宙へ旅立つシーンは、蒸気機関車が足立山を登っていく姿を思い浮かべた」ことによる』とある。「權現樣」とあるのは、山麓の妙見町にある妙見宮(妙見神社・御祖神社)のことか。「師範」は福岡県小倉師範学校。現在の北九州市小倉北区下富野三丁目福岡教育大学附属小倉小学校・中学校の所在地にあった。こちらの方が明専よりも足立山の麓に遙かに近い。「小中」は福岡県立小倉中学校で、現在の福岡県北九州市小倉北区愛宕二丁目にある県立小倉高等学校。「豊津中」は福岡県立豊津中学校で、現在の福岡県京都郡みやこ町豊津にある県立育徳館中・高等学校のこと。]

  
十月四日
 小林君を訪問の豫定なり。午後九時頃なりしか小林君を訪へどもあらず。隣の榊原君の下宿を訪へば皆あり。白く檜垣〔、〕三木、福澤等々々、所謂危險思想の鼓吹に少々あてられ氣味なり。皆歸寮の途につく頃獨り勇坊と一つ布團にもぐり入りて不平やら、奮鬪談、失敗談や社會觀、實力と地位等打明けて語る。いらぬと云ふに無理に十圓出して學資にせよと。感涙。
[やぶちゃん注:この「勇坊」とは何者であろう? ここは「隣りの榊原君の下宿」であるはずだから、この「勇坊」は榊原君の愛称としか思えないが、それにしても十円もぽんと出すこの男、一体、何者?]

  
十一月一日
 今度お互で「新緑」と申す新聞樣のものを發行せんが爲に日下計畫進渉〔→捗〕中であります。就ては兄等が胸中に横溢してあの大主張、あの大不平、ソノ理想煩悶、エトセトラエトセトラ、さらりと打ち開けようではありませんか。若し夫れ天我等に幸して、夫等の思想の閃が一つの文字、數行の文句となるならば、乞ふ、投稿せよ。
[やぶちゃん注:「就ては兄等が胸中に横溢してあの大主張」というところは、
就ては兄等が胸中に横溢せる、あの大主張
か、
就ては兄等が胸中に横溢してある、あの大主張
と記したつもりであろう。]

  
十一月五日
 武道大會。
 銃創術二度、柔道二度共に敗北なり。但し各々二本宛はとりたり。此日雨シトシトと降る。觀覧席寂莫たり。余は思ふ〔、〕昨日の射撃、或は今日の如き武道大會には尠くとも教授連の出席あつて然るべしと。

  
十一月十九日
 ヱマーソン論文集、カーライル佛國革命史と富ふ誠に面白い本が出るので買ひたくなつた。御金三圓送つて下さい、誠に相濟まぬけれ共御願ひ致します。妹の病氣は相變らずよくない。全く絶望だらう。可愛想です。意識は明瞭な故に殊更いぢらしい事を言つて困る。自分でも死を覺悟しながら。死ぬのは一寸とも恐く無いと口には言つて居るけれ共、心の内を、を察してやると血の涙が出る樣だ。嗚呼死と言ふものは何と言ふ痛ましい事であらう。然し斯の如く一難去り、又一難來るも貴い神の示さるゝ所だ。我を修練させるのだと心を引しめてゐる。安心して呉れ。其にしても父が愁歎されるのが何より困つた事だ。一人娘だもの父も苦しかろ。
[やぶちゃん注:「ヱマーソン論文集」は玄黄社から大正元(一九一一)年から二年にかけて刊行された戸川秋骨訳「エマーソン論文集」(上下二巻)、「カーライル佛國革命史」は国民文庫刊行会大正二(一九一七)年刊になる高橋五郎訳「カアライル佛國革命史」(全四巻)と見て間違いない。]

  
十二月五日
 妹危篤の報あり。午後一時歸門
 唯一人の妹は余の歸りたるを喜びぬ。又數時間ならざるに兄さん口が寒いよと言ひ、此の世を去つた。兩親に先立ち、兄弟に先立ち、余に取りては唯一人の愛らしき妹は去つたのである。あゝ死よ!何たる莊嚴!
 (註)是を以て學生時代の日記は終つてゐるのであるが、卒業の年〔、〕學窓より社會への第一歩と其の翌年、所謂人間の自由型が鑄物にされ易い時代の日記を缺いてゐるのは誠に殘念でならない。大事の契機を拔れて骨拔にされた感はあるが、大正八九十十一と四年間は 途切れ途切れ乍ら記されてゐるので、其の間の脈絡は諸賢に於てつけて戴きたい。學生時代を通覧ず〔→す〕るに、初めは靑年としての野望があらゆる分野に進展し、動じ易い心理が氏の感傷的な性格を通して鋭く動いてゐる。其の次第に線が太く力強くなり、内に苦しむ事より、外と〔→よ〕り助力を輸入する方向に轉じ、次第に宗教的な氣分と信念とに融合する立場に止揚されてゐる樣に見える。

    
二、社會人時代

  
九 軌 時 代

大正八年〔(二十六才)〕

  
一月一日
 み佛の力わが力、わが力み佛の力にてこそ敗殘よ來れ艱苦よ襲へ。歡樂よ來れ、成功よ來れ、伴に生きよ。されど吾が心は、み佛の光にぞ輝かむ哉。新玉の年は迎ふるも此の心は變らじ。唯此の心の光いやが上にも勵みて、み佛の力に沿はむ哉。わが心よ怠ること勿れ。

  
一月三日
 年賀廻り數ケ所を終り。午後一時年頃路惡しき中原畦に、ビスケツト嚙り乍ら、電車にて若松行、金子氏宅を訪れ、笠井氏に祝詞を述ぶ。父上。母上。光子。茂子樣直一直次氏と晩餐を受けぬ。
 片足を、去年に殘して年賀哉、直翁。
午後十一時、御別して辟りぬ。トランプを直一氏に習ひぬ。
茂子樣の元氣よくなれるを嬉びて。
 あかねさす其笑顏に永へにみ佛の力を加へませ。
 誰にか語らむ吾が胸よ、誰にか慰めてむ此の心。
[やぶちゃん注:「若松」北九州市の北西部に位置する都市。当時は若松市で、現在は若松区。「笠井氏」の「父上」は俳句の作者である私の曽祖父である笠井直(ちょく)。その娘である笠井茂子は私の父方の祖母、則ち後のこの祖父藪野種雄の夫人となる人物である。更にその長男である笠井直一(なおかず)なる人物は私の母方の祖父である。そう、私は、この笠井直一とその妻イヨの娘である笠井聖子と、藪野種雄とその妻茂子の息子、笠井聖子の従兄であるところの藪野豊昭の間に生まれた男である。従って、私にとってはこの笠井直という人物は、父方母方双方の唯一の曽祖父、通常なら二人いるはずの曽祖父が、私の場合は同一人物であるということになる。それは生物学的にこの笠井直なる人物の遺伝子が、私には強力に隔世遺伝しているということになるのである。その人物が登場するに彼の俳句が示される。私の専門は俳句(卒業論文は「尾崎放哉論」)である。唯至という俳号も持っている。奇縁と言う外、ない。なお、この笠井家と祖父藪野種雄の関係の動機は現在の私には不分明である。父の話では笠井直一の弟直次(なおつぐ)と祖父種雄がどこかで同級生で、友人であった由、聞いている。また、本記載の末尾でも、お分かりの通り、この後、日記は明らかにこの笠井茂子への恋情を綴っていくことになるのであるが、祖母茂子は生前、この藪野種雄以前に好意を寄せていた男性がおり、その人物は川で溺れて亡くなったということを私に話して呉れたのを思い出す。そして、その人物の名前を父は「豊」と言ったことを覚えていた(父の名は豊昭であるから特に印象に残ったのであろう)。因みに、先の日記で分かる通り、藪野種雄の弟の名は「豊」である。これ以上のことは今の私には分からない。なお、祖母の話を私が覚えているのは、そこに祖母の不思議な体験があったからである。――祖母はその日、外出して汽車に乗っていたそうである。夏の暑い日であった。その時、汽車に揺られながら、車窓から流れゆく景色を眺めつつ、祖母は『豊さんは泳ぎが好きだから今頃、きっと泳いでいなさるでしょう』とふと思ったという。帰宅して豊さんの溺死を知ったが、その死亡時刻は祖母が車中でそう思った時刻とぴったり一致していたのだそうである。――]

  
一月六日
 われに慰めと絶望との二つの戀ありて、二つの精の如く絶えず吾を動かすとは、さりなん吾を慰めてよと思へ共、其人やあらで絶望かの如き歎息のみで出づる。さびしきは今日の心哉。

  
一月九日
 思ひ出されてはやる瀨無き胸の千々に碎けて。今日は幾度も言ふ名を口につぶやきて思ひを加ふらむも、更にすべなし

  
一月十七日
 忙しき仕事ありて、之を滿足に果しつゝある時は不平も起らず。
 わが力、ゆつたりとして眺むる、吸水路、鐡筋の姿もゆかし。今日の煙れる。
 一足も千金の價あり今日の仕事。
 仕事閑なる時、又は元氣無き時には不平のみに襲はれて。
 これ程の 美しさ知らぬか たはけ者、
 燕雀は、何ぞ知るべう 此の雄圖
 いらいらし、なうなれそ此の 發電機。
 不平と言ひ不滿と言ふに二つあり、一つは俸給一つは仕事の上の不滿、されど根本を尋ぬればやはり己が手、己の力の又己が人格の足らざるなり。足らぬを外部から得て一寸と安心を得んとせるが世情哉。
[やぶちゃん注:言わずもがなであるが「なうなれそ」は「な唸れそ」で、禁止の句法である。]

  
一月二十三日
 今日新罐のセパレーターを檢査したら小石が入つて居た。之を見て恐縮した。濱口さんから皆が叱られた。責任は皆自分に在ると思ふと殘念でならぬ。殊に石が入つてゐたのを見て離職すべしと一時は思つたが、早く發見したので、深く自ら戒める。何事とても、責任を切實に感受して作業せねばならぬ自分は切實に仕事が足らぬのだ。申譯が無いが過ぎにしは及ばず。將來を自戒して進むのだ。
[やぶちゃん注:私は全くの門外漢なので当てずっぽうであるが、祖父が最初に就職したのが九軌(九州電気軌道)という電気鉄道会社で、後の「八月二十四日」の日記に「發電所、變電所」を持っていたことが示されており、祖父は後に深く関わるのが火力発電所発電機でもあることから、「新罐のセパレーター」の「新罐」は祖父が制作した新しい火力発電用ボイラーで(ボイラーは現在でもタービンと並んで火力発電所の主要設備である)、「セパレーター」というのはそのボイラーの蒸気の湿度を落として乾き度を高め、異物や給水処理に用いた薬物を除去するための分離濾過浄化装置のことではあるまいか。このセパレーターがどのようなシステムのものであるかは分からないが、遠心分離機のような高速回転や、特殊なフィルターを装備するものであれば、小石の混入によってボイラー自体が致命的な損壊を生ずる可能性があるのではなかろうか。だからこそ「皆しかられた」のであり、祖父も「離職すべしと一時は思つた」のであろう。但し、それがボイラー炊きの直前か起動直後の検査によって、異常が起こる前に「早く發見し」、未然に除去出来たので、問題が起こらなかったのではなかったか。]

  
一月二十九日
 朝日歌壇より(佐々木信綱選)
 今日も亦、悲しき想ひ 胸に祕めて
    事無しと書く いつはりの日記    蕉 子
 わかれては、後の心の さびしくも
    君戀ふる身を あはれとおぼせ    萍浪女
 老し梅花、四つ五つ咲ける下に
    ふと忍びけり 天平の女       選 者
 (註)茲數日、鼻、喉、耳の故障で市立病院へ行つてゐられる。體はあまり好調の樣子ではない〔。〕
[やぶちゃん注:最後の佐々木信綱の「天平の女」の「女」は「ひと」と読ませているのであろう。]

  
二月三日
 他人に對し、又自分自身に對し、絶えずとも云ふ程に不平や不滿がある。其がとても耐え得られぬことが多い。其して其等に合ふ毎に、自分が惡いので無くて他人の誰かが惡いせいの如くに思ふのだ。其の惡い者を攻め、よくさせたい樣なあさましい心持が起る。しかも淺間しいと言ふ心も起らぬ位に誰人のせいの如くに思ふことが多い。

  六月九日―十一日欠勤(病)

  
六月十日
 本日も病床だ。發熱は無いが不安だ。
 横川さんに診て貰つたが、もう宜しからうが健康をとの事である。
 終日床の上にあつて、彼女を憶ひ吾身のはかなさを思つて暗ひ想ひに沈む氣がした。何でこれしきの病氣にと思へど。やる瀨なき此の思ひ御身知るや知らずや。

  
六月十六日
 梅雨は神經的な時ではあるが、しつとりと物思ひに沈むにはよい時である。然ししつとりとした氣持が稍々もすればいらいらとして想ひは千々に碎かれる。
 午前中は愉快に働いたが、午後つい起るのが苦しくて休んだ。濱口さんに對して、近來の自分の態度はあまりにも吾儘である。病後とは云ひ乍ら、も少し本心に歸つて御恩に報ひ奉らねばならぬ。戀に苦しめる友を救ふも大切なれども、吾天職を盡すもより大切である。あゝされど、實は吾おのが戀に苦しき此心、誰か慰めくるゝものぞ。

  
六月二十五日
 かく迄に想ひ焦れて打ち沈むのは何故であるか、彼女が許されざるためか。
 然りとせば吾心も亦、あまりに小我的なるに非るか。若し眞實に試錬を受けたる者ならば、彼女……最も愛憐する彼女の爲に、唯一日も早く平癒して、幸福たる彼女の許されたる家庭の人として、正しく強く樂しく一生を送らんことを希ふべきなり。

  
六月二十六日
 疲弊甚し。
 明日市立病院にて診察を受けんとす。
 左肺に水音あるが如くに感じたり。夕食後なりし故胃の音かも知れぬ。神經大分過敏なり。
[やぶちゃん注:「水音」はラッセル音。肺結核だけでなく、気管支炎や喘息、急性肺炎・肋膜炎・肺水腫などの様々な呼吸器疾患の際に現れる。]

  
六月二十七日
 藤澤博士の診察を受けしに、肋膜炎起らんとして一時壓へ居る状態なるが故に、勤務して差支なけれども、寧ろ一週間休養して全快を待つ方佳ならんとの事たれば、然く決して診斷書と共に濱口さんに御願ひしたり。私の爲に休みての申し譯無けれど、眞に健全となつて思ひ切つたる活動をせずんばあるべからず。心ひそかに松本氏濱口氏に謝す。乞ふ此の不幸者を許し給へ。
[やぶちゃん注:「然く」は「しかく」と読み、このように、の意。祖父は肺結核でなくなるが、この時に既に罹患していたのかどうかは不明である。]

  
七月十二日
 初出勤だ。
 草刈氏が後から聲をかけられて、どうですか。皆が此の元氣を喜んで呉れた。嬉しかつた。

  
七月十四日
 岡崎の叔父死去せられし故、本日葬式の爲欠勤せんと思つたが、あまりに休みて申譯なく、午後四時迄會社に出た。
 會社で聞けば、友人の間で小生が賞與最高なりしとの事なるが、迷惑千萬。B氏よりも多かつたとは實際何と云つてよいか分らぬ。迷惑である。

  
七月十六日
 Y君から書留が來た。
 「何故早く言つて呉れぬか。用達は自分の如き者の當然の事だ。高利など借りて呉れるな。もつと足したいが、今後は何時にても遠慮なく言つて呉れ。其して返済は期限はいらぬ。君の苦痛の無くなつた時にでよい。又かゝる問題の爲に根本的に解決する時が、少くとも本年内に來るであらう。」
 此友の心を聞き言ふべき言葉がない。感激の外はない。

  
七月二十七日
 職工給料支拂ひを自ら爲せり、本社が、書記にては不信なる故、もつと他の人をとの事なり。
 技術者が支拂ふとは何事ぞ。腹は立ちたれども其爲に中止しては職工が迷惑ならんと、自ら忍びて東原君と二人で支拂たり。
 明日濱口氏に云はん。以後絶對に御免を蒙りたい。

  
八月二十四日
 發電所、變電所、職工一同、三割増歎願の件を盡力して呉れと云ふ。
 此際根本的の問題を解決せん爲には第一資本主の態度が眞に共に働らくの意を表して、魂在十二時間勤務を八時間(工事は十時間正味)とし現在の實收に加ふるに三割増、即ち五割増として之を本給とする事、而して可及的居殘り代勒を防止し、正味勤務を效率高く活用する事、日用品を實費給與の件、疾病、公傷に對する補助の件(古金物賣却金を基本金とす)以上に對し勞働者としての彼等は、誠心誠意に對する責任の輕からざるを自覚覺して會社の爲に力を盡すべきこと等を考ふ。是が實現せざる時は自ら處決すべし。
 (註)是より日記はブランクの場所の方が遙かに多い。
[やぶちゃん注:「是が實現せざる時は自ら處決すべし」は強烈な覚悟である。この祖父の労働者への思いは、倒産して幹部が夜逃げをしたアルミ会社で、社員の一人として残された機材を整理し、社員全員等分に退職金(雀の涙だったそうであるが)を配った私の父の気骨に通じるものがある(このことがアルミ会社の業界紙に載り、私の父は富山の別なアルミ会社から声がかかったのであった)。]

  
十月十四日
 午前中草刈氏と吾々代表と會見し
 「バランスは斷じて破る能はざる事をくり返し、しかも是は既に實行しつゝあつて、支配人も認め居らるゝもの故、所長の獨斷にて歩増しを附けたとて差支へはよもあるまじ〔。〕で無くとも正々堂々と支配人に對して我々が要求の如くバランスをとりて、來る十二月あてにもならぬ昇給をせぬがよい」
此の要求に對して草刈氏は大分動いた。午後は最高幹部の話が成立し、草刈氏が平謝りに謝られた。そして自ら支配人を説服すべく決心されたとのこと。

  
十月十五日
 午前十時頃、草刈氏は一同を招かれて、今日迄の事を謝され、一般昇給額の率以外にバランスの爲十二月の定時昇給迄歩増しを實行することゝなつたのである。

  
十月十六日
 大阪名古屋東京へ出張

  
十一月八日
 歸任
[やぶちゃん注:以上の二日は底本の「十月十五日」の後にある『(註)十月十六日大阪名古屋東京へ出張、十一月八日ニ歸任〔と〕日記は一二行位づゝ、十月以後は始どブランク〔。〕』とある註から復元した。]

  
十一月二十一日
 勞働者に向つて告げたい。吾々有識階級は、無自覺高慢なる資本家の敵となるに躊躇せぬのだ。
 同時に無自覺高慢なる勞働者の敵となるにも躊躇せぬのであるぞ。
 唯一つ正義にのみ味方するのだ。
    感  想  録
 大正八年は思ひも設けず事件の多い其して事件の可なりに大きい年であつた。苦しい事も隨分あつたが、其の苦しみはやがて此の拙い自分のためには強い試練であつたであらう。然し試練の後の現在の自分は依然として取るに足らざるものであるのは、何としてももどかしい極みである。
 我が倍する主張の爲に猛然と起つて主義の爲上長に面して成功した。にらまれてゐる。感謝を受けた。同時に敵を作つた。或は無闇にほめられ其の裏面には嘲笑されたのであらうと思ふ。友の爲に、友の戀の爲に戰つて其の家族の人、其友人、本人自分からも批難の的となつた。然し幸か不幸か、友の戀が許された。許された彼の眞の幸福の爲、自分が彼に對する務がまだ用意されてゐなければならぬ。其の三つ巴の如き戀のエピソードの中に、自分自身も危く捲き込まれて、人知らず苦しみ惱んだ。今も煩へてゐるが、自分の爲唯一人理解ある安川が、激励し忠告して呉れた。恩師の藤井さんも戒めて呉れた。或日だつた、友の捲きぞえを食つて期待もせぬ返事を同時に受けて自分の話を切られた。其の時の悲痛は何にたとえよう術もなかつた。無念であつた、然し怒るが愚かだ。彼女、彼女に対する寫眞は破棄した。其して斷然其争を、思ひ切つて起つた。安川も喜んで呉れた。一年越の申込状は藤井先生から井上氏に托されて今も尚井上氏の手許に保留されてゐるのである。此時友は、友の爲に破れんとする此の自分の爲、必ず話の成立を誓つて呉れた。彼女の心もたゞして呉れた。彼女が此の自分の如き者をも幾分理解して呉れてゐる事を知つて再び戀の芽は甦つた。どうすることも出来ぬ。
 安川は其れは當然だと言ふ。責任があると言ふ。安住はどうか知らぬが.兎も角三年越しの問題として明年は何とか之を解決しなければならぬ。
 今年の後年に於ては職工の給金、時間短縮を解決した。痛快だつた。然し苦しい經驗であつた。此んなことはあまりあつては困りものだ。然し最も止むに止まれぬ爲だ。致し方もない(中略)
[やぶちゃん注:資本家・労働者孰れに向かっても檄を飛ばす祖父は強いインテリゲンチアとしての階級意識を持っていたようである(だからこそ「七月二十七日」の条で給与配分役を命ぜられた際に屈辱的と考えたのである)。当時のコミンテルンなら「ヴ・ナロード!」と批判されるところだが――僕には、如何にもカッコいい、古武士のような種雄じっちゃんの名台詞なのである――。なお、この意味深長な「感想録」には、祖父と祖母の関係に友人の恋愛が関わっていることを深く疑わせる記載になっているが、祖父は巧妙に朧化させて書いており、隔靴掻痒の感が否めない。じっちゃん! もそっと、後の孫にも分かるように書いてほしかったな!]
 大正八年終

大正九年〔(二十七才)〕


[やぶちゃん注:上に示した祖父の年賀状は、先に述べた私が父から譲り受けた祖父の遺品の昭和七年紅玉堂書店刊の石川啄木歌集「一握の砂」の裏見返しに貼り付けられているもの。下部の鉛筆書きは父が記した備忘。参考までにここに掲げる。これによって当時の祖父の勤務先の正式名が「九州電氣鐵道株式會社發電所」であること、自宅住所が「小倉市堅町九一」であることが判明する。ここは現在の北九州市小倉北区堅町で、小倉駅直近の西北の位置にある町である。]

  
一月一日
 男が二十七才と言へば花だ、其花の盛りには力の限りを押し延ばし、美しい花にせねばならぬ時だ。よろしい。
 嵐に破れ散るか、見事に吹くか、どちらでも關はぬ。自分の力のあらん限りを奮つて大正九年を回顧する愉快な日を期するであらう。

  
一月三日
 本年の第一に爲すべき事は。
 専門に對するしつかりとした土臺を作り、實力を物にせねばならぬこと。第二には身體を十分健全にし、活動の原動力をよくすることだ。

  
一月十九日
 ワット百年祭。母校機械學會、牛後七時より十時迄、雨あり。(中略)卒業生六人の所感あり下級生の所感があつた。止むを得ず自分も出た。其して或る辯士が、何か湯呑を見てヨコンデンサーを考へたとの大發見?から思ひ出し。
 一、ワットの如き偉人の追慕に対する自分の態度(讃美でなく、自分を偉大ならしむこと)
 二、大雷の例を出し、我が機械工學界の未成品なること、資本家の横暴なこと、技術者の無力を示し、今後の労働問題の大なるを告げ、團體的に訓練無き彼等を善導する我々殊に諸君の中に團結心無きを甚だ遺憾とする由を告げた。最後に二年吉村君の語りし二等卒が戰死するとの話を引いて。
 三、自分達は等級によりて評價さるべきでなく、又明専ニズムが何だ、大學が何ぞと、つまらぬ小競合ひは止めて、パーソニズムの爲に一身を捧ぐべき事を絶叫し、つまらぬ寮の解放など罵倒してやつた。
 (註)此時著者は初めて藪野氏の風貌に接したのである。當時二年生で、クラスメイト吉村が、兵卒が萬歳をとなへて死ぬるのは虚僞だとか何とか云つたのを大分反駁されたやうに記憶してゐる。
[やぶちゃん注:ジェームズ・ワット<James Watt>は一七三六年一月十九日生、一八一九年八月二十五日没であるから、ワット生誕記念祭ならば百年ではなく、百八十四年祭であるが、没年からは百一年目に当たるから、日本風に言うなら百回遠忌(それも本邦では百回遠忌は没年から九十九年に行うので二年遅れで)を祥月命日ではなく、誕生日に行ったということになる。明専の工学学会開催に合わせたためであろう。]

  
一月二十二日
 欠勤届を出して、母校日隈君に會見す。
 九州製鋼に行くべく確定せる君に對して氣の毒なれば、公の爲に、我動力界の爲に、吾等と共に行動せられん事を祈る。僕も男である。かく決心する迄には十分熟慮したのである。一度君に対して世話を爲すからには、絶對の責任を喜んで受けるのである。男子意氣に感ず。乞ふ吾輩のこの希望を入れ給へと。

  
二月八日
 明治維新その折の人々の
 二十七年内外の靑年なりしを思へば
 わが身此年になりても尚さだかならぬ
 其日其時に捕はるゝを泣きたく思ふ。

  
三月一日
 静かに自ら反省して過ぎこし方を思ふと、此の頃の自分はあまりに輕薄な奴になつたと思ふ。恩人に對しても、殊に松本氏に對して自分の心は實に御目にかゝるも苦しい事である。御手紙を差し上げるは勿論、訪問すべきであつた。(中略)

  
三月二日
 ××さんと話してゐると○○と言ふ男の如何につまらぬ奴であるかと思ふや切である。折だにあらば、必ず天誅を加へてやらねばならぬ。
 紳士振つて、しかも内心利己の外何者も有せぬ。人の上におかれぬ輩である。

 ≪〔(註)〕五月より八月にかけては殆どブランク〔。〕≫
[やぶちゃん注:これは村上氏の註であるが、ここのみ表記の通り、「(註)」の表題がない。且つ、何故かここだけ〔 〕の二重括弧で括られている。私の補正括弧と混同するので、表記のような括弧を用いた。]

  
八月二十七日
 昨日より愈々出勤、之にて丁度一ケ月の欠勤なりき。

  
八月二十八日
 濱口氏より茲に新しく研究員を命ぜらる。主任補佐の大役を命ぜらる。自省して責任の大なるを思ふ。

大正十年〔(二十八才)〕

  
一月一日
 朗らかな、木の間漏る光や落葉影。
 午前一時といふと、もう大正十年の元旦だな、乃公は丁度發電所で第八號機ばかりにしておいての歸りがけだ。汽車の踏切の所で東の山の端、家並の彼方に無格好な圖體の半月がヌツと出てゐる。歌にもならぬ俗景だ。
 朝十時頃又會社へ出た。午後日隈君來訪。夕食を共にし夜を明かし乍ら純な巖君と唯二人、佛の慈悲にひたり入つたのであつた。
 今日は元旦からして思ひもかけぬ有難い感謝の機會を頂けた。此上の喜びは無い。が矢張り此の胸は切實である。
[やぶちゃん注:「乃公」は普通は「だいこう」又は「ないこう」と読み、一人称の人代名詞で、男性が目下の人に対し、または尊大に自分を指していう語。我が輩。祖父は恐らく「わし」「おれ」又は「わたし」と訓じていると思われる。「東の山の端」当時、九軌の本社は小倉市京町にあった(現在の小倉駅南口の近く)から、足立山から下る富野の辺りの尾根下がりの部分を指しているものと思われる。]

  
一月十日
 嚴君へ。
 何と言つたつて、誰がどう思つたつて、南無阿彌陀佛より外に、何が眞か、何が絶對ぞ。何が慈悲ぞ。何が愛ぞ。何が人の道ぞ。唯、々、々。
 南無阿彌陀佛のみぞ、まこと空事なき、天上天下唯一の事ぞ。ものぞ、心ぞ。我ぞ。人ぞ。いとし戀人ぞ。

  
七月九日
 午前七時東京着、康さんが迎えてくれる。午後二時半、谷中の兩忘菴を訪ふ、大峽先生不在、夜半十時迄上野の動物園松坂屋をぶらつく。足が痛い、ねむい。兩忘菴に寢る。
[やぶちゃん注:「兩忘菴」は、現在は千葉県茂原市本納にある臥龍山両忘禅庵という禅宗寺院の前身。今は御茶会の会場としてしばしば用いられる。利休庵保利氏の「臥龍山両忘禅庵」の解説頁によれば、『両忘会の発足は明治初年頃、山岡鉄舟、勝海舟、高橋泥舟、鳥尾得庵、ほか十数名の居士が、鎌倉円覚寺・初代管長今北洪川老師を拝請して東京・湯島の麟祥院に於いて宗派によらぬ参禅会を結成、これを両忘会と名付け参禅活動を行なった事が始まり』で、「両忘」とは『論語「能所両志 能見所見」より導いた言葉で、禅の思想「自と他、物と我、生と死、善と悪、苦と楽、前と後」などの両者の対立観念を忘れ、ひとつになる』という謂いで、『「主客一如」に成りきると』いう意味を持っているという。開庵の発案者は鎌倉円覚寺初代管長であった今北洪川老師である。彼は『幕末・明治の禅僧で、雲水のみならず、一般大衆に対する禅指導に力を注ぎ、山岡鉄舟や鳥尾得庵ら明治期の著名人が参禅、弟子では、後に円覚寺管長となる釈宗演や鈴木大拙が著名で共に渡米して禅の宣揚につとめ』た人物である。明治二十六(一九〇五)年、『円覚寺管長今北洪川老師が還化したのち法嗣であった釈宗演が円覚寺管長に就任、今北洪川老師の志を引き継』ぎ、明治三十五(一九〇二)年に釈宗演は、禅をより広めることを目的として当時の高弟であった釈宗活に、この事業を託す。『宗活は、宗演より表徳号「両忘庵」を授かりその命により、東京谷中に草庵を結んで両忘会を継承』した。宗活は明治三九(一九〇六)年、後藤瑞巌・佐々木指月ら門下生十八名とともに渡米、西海岸に四年間滞在して、『初めて欧米に本格的な禅の布教をする。一行の中、佐々木指月が残留し、ニューヨークに支部道場(現在の北米第一禅堂)を開』いてもいる(明治四十五(一九一二)年帰国)。因みに大正十四年には『東京谷中の両忘庵を本部会堂に、九州、中国、東海、東北、北海道、朝鮮、満州、米国に支部道場を設け、財団法人両忘協会の認可を得、衆望により釈宗活老師が総裁に就任』、昭和十(一九三五)年には『宗教法人両忘禅協会と改称し、千葉県市川市国分新山(現在の国府台)に本部道場を建設』、この時の入門会員は約三千人、坐禅会員は約三万と、在家禅道場の草分けとして躍進した。一時、戦後の昭和二十二(一九四七)年、『釈宗活老師は、敗戦後の混乱期に正法の将来を憂』えて両忘会を解散したが、昭和二十九(一九五四)年に釈宗活老師が千葉県八日市場市に於いて遷化すると、彼に参禅していた禅僧大木琢堂が宗活の意を継いで、『道場建設を発願、建設基金のため托鉢をしながら全国を行脚』、昭和四十九(一九七四)年に茂原市本納に座禅道場を「両忘会」を設立、昭和五十八(一九八三)年、八日市場市椿の宗活老師終焉の地に諸堂を移築建立、臥龍山両忘禅庵となる。現在の地に移転したのは昭和六十三(一九八八)年である。「大峽先生」は一夢庵大峽竹堂。当時、明治専門学校の倫理学の教師であったが、深く禅に帰依し、この後の大正十三(一九二四)年五月には九州に於ける禅道場の必要を痛感、最初の座禅会を行っている。また、ドイツ語版「禅」(副題は「日本における生ける仏教」)を出版、昭和八(一九三三)年には現在の福岡県北九州市小倉北区都に鎮西坐禅道場が建設、これは現在も続いている。この明専の恩師(と思われる)人物が、祖父とこの仕事を休んでの(としか思えない)上京、実に十一日間に及ぶ座禅会出席という出来事のキー・パーソンである。]

  
七月十日
 午前五時、大峽竹堂居士から起された。朝參の時正式(あやしい素振りであつたが)に釋宗活老師に禪に入門を許された。是からが始まりだ。公案を貰ひ、參禪の心得を懇ろに御示し下された。
 午後三時から法話會があり、苔巖居士の「布施は報なき布施」とて實例を示さる。竹堂居士は禪と實際的修養法とて有益な御話があつた。終つて茶話あり、學者或は畫家、多分新聞の文學家らしき詩人風の大きな人が話題の中心であつたのも面白く、ウイツトに富んだ物語りを實に面白く拜聽したものだ。
[やぶちゃん注:「苔巖居士」は不詳だが、後に「畫家」という語あることから、一人の同定候補はいる。画家藤田苔巖(たいがん 文久三(一八六三)年~昭和三(一九二八)年)である。本名は俊輔で、特に山水画を得意とした。孤高な画家であるが時間的には符合する。]

  
七月十一日
 午前五時に十分前だ。太鼓五つの音にとび起きた。終日參禪。
 朝參の見解見事に叱られた。そんな父母だの我だのを突破して「人類出來ざりし以前の本來の面目如何」自分は父母と言ふものから分析的に考へて、かく考へたのであつた。哲理を解く考であつたので、一喝を喰つたのである。
[やぶちゃん注:「人類出來ざりし以前の本來の面目如何」というのは「父母未生以前、本来の面目如何」という有名な公案の変形である。但し、実は「父母未生以前、本来の面目如何」自体が「不思善、不思悪、正與麼(しょうよも)の時、那箇(なこ)か是れ、明上座が本來の面目」を原型としたものであることは余り知られていない。これは「無門関」の第二十三則に現れる公案である。私の「無門関 全 淵藪野狐禅師訳注版」から引用する。

  二十三 不思善惡
六祖、因明上座、趁至大庾嶺。祖見明至、即擲衣鉢於石上云、此衣表信。 可力爭耶、任君將去。明遂擧之如山不動、踟蹰悚慄。 明白、我來 求法、非爲衣也。願行者開示。祖云、不思善、不思惡、正與麼時、那箇是明上座本來面目。明當下大悟、遍體汗流。泣涙作禮、問曰、上來密語密意外、還更有意旨否。祖曰、我今爲汝説者、即非密也。汝若返照自己面目、密却在汝邊。明云、某甲雖在黄梅隨衆、實未省自己面目。今蒙指授入處、如人飲水冷暖自知。今行者即是某甲師也。祖云、汝若如是則吾與汝同師黄梅。善自護持。
無問曰、六祖可謂、是事出急家老婆心切。譬如新茘支剥了殻去了核、送在你口裏、只要你嚥一嚥。
頌曰
描不成兮畫不就
贊不及兮休生受
本來面目没處藏
世界壞時渠不朽



淵藪野狐禪師書き下し文:
  二十三 善惡を思はず
 六祖、因みに明(みやう)上座、趁(お)ふて、大庾嶺(だいゆれい)に至る。
 祖、明の至るを見て、即ち衣鉢を石上に擲(な)げて云く、
「此の衣(え)は信を表す。力をもちて爭ふべけんや、君が將(も)ち去るに任す。」
と。
 明、遂に之れを擧ぐるに、山のごとくに動ぜず、踟蹰(ちちう)悚慄(しやうりつ)す。
 明曰く、
「我は來たりて法を求む、衣の爲にするに非ず。願はくは行者(あんじや)、開示したまへ。」
と。
 祖云く、
「不思善、不思惡、正與麼(しやうよも)の時、那箇(なこ)か是れ、明上座が本來の面目。」
と。
 明、當下(たうげ)に大悟、遍體、汗、流る。泣涙(きふるい)作禮(されい)し、問ふて曰く、
「上來(じやうらい)の密語密意の外、還りて更に意旨(いし)有りや。」
と。
 祖曰く、
「我れ今、汝が爲に説く者は、即ち密に非ず。汝、若し自己の面目を返照(はんせう)せば、密は却りて汝が邊(へん)に在らん。」
と。
 明云く、
「某-甲(それがし)、黄梅(わうばい)に在りて衆に隨ふと雖も、實に未だ自己の面目を省(せい)せず。今、入處(につしよ)を指授(しじゆ)することを蒙(かうむ)りて、人の水を飮みて冷暖自知するがごとし。今、行者は、即ち是れ、某甲の師なり。」
と。
 祖云く、
「汝、若し是くのごとくならば、則ち吾と汝と同じく黄梅を師とせん。善く自(おのづ)から護持せよ。」
と。
 無門曰く、
「六祖、謂ひつべし、是の事は急家(きふけ)より出でて老婆心切なり、と。譬へば、新しき茘支(れいし)の殼を剥ぎ了(をは)り、核を去り了りて、你(なんぢ)が口裏(くり)に送在して、只だ你(なんぢ)が嚥一嚥(えんいちえん)せんことを要するがごとし。」
と。
 頌して曰く、
描(ゑが)けども成らず 畫(ゑが)けども就(な)らず
贊するも及ばず 生受(さんじゆ)することを休(や)めよ
本來の面目 藏(かく)すに處(ところ)沒(な)し
世界の壞時(えじ) 渠(かれ) 朽ちず



淵藪野狐禪師訳:
  二十三 善惡を思わない
 六祖慧能が、慧能自身が五祖弘忍から嗣(つ)いだ法灯をそのままに、蒙山恵明(けいみょう)に嗣いだ時の話である。
 慧能は、ある日、ぷいと自分がそれまでいた寺を出てしまった。
 当時、未だその同じ寺で上座を勤めていた恵明は、機縁の中で、慧能の後を追いかけて行き、遂に大庾嶺(だいゆれい)の山中で追いついたのであった。
 慧能は、恵明の姿が見えるや、即座にその袈裟を脱ぎ、鉢(はつ)もろともに、傍にあった岩の上にぽんと投げて、
「この袈裟は、拙僧が五祖弘忍さまから真実(まこと)の伝法を受けた証しとして、受け嗣いだもの――臂力権力を以って、争い奪い去る如きものでは、ない――あなたが、勝手に持ってゆかれるがよろしいかろう。」
と言って、穏やかな表情で恵明に対した。
 恵明は、形ばかりの礼を示して、慧能の膝下に跪いていたが、その言葉を聞くや、かっと見開いた鋭い眼を上げると、慧能を凝っと見据えた。そうして、即座に躍り上がるや、慧能を見つめたまま、すぐ脇の石の上の衣鉢(いはつ)に手を伸ばして、荒々しくそれを取り挙げようした。
 ――動かない!?
恵明は恐懼(きょうく)して、黙ったまま、思わず衣鉢をきっと見つめるや、今度は両手でそれをぐいと摑むと、渾身の力を込めて持ち上げようとした。
 ――動かぬ!
薄くぼろぼろになった袈裟と粗末な鉢と――それが、如何にしても、山の如く微動だにせぬのであった。
 恵明は、諦めて手を離すと、再び、慧能の前に土下座し、余りの恥かしさから、とまどい、また、恐れ戦(おのの)き、へどもどしながらも弁解して言った。
「……私めが、ここまで行者(ぎょうじゃ)を追いかけて参りましたのは、その『法』そのものを求めんがため……袈裟のためにしたことでは、御座らぬ……どうか、行者! 私めのために、悟りの真実(まこと)を開示して下されい!……」
 すると慧能は、優しい声で問いかけた。
「遠く遙かに善悪の彼岸へ至り得た、まさにその時、何がこれ、明上座、そなたの本来の姿であるか?」
 ――その言葉を聴いた刹那、恵明は正に大悟していた。
 恵明の体じゅうから汗が噴き出したかと思うと、瀧のように下り、涙はとめどなく流れ落ちた――暫らくして、身を正した恵明は、慧能にうやうやしく礼拝すると、謹んで誠意を込めて訊ねた。
「只今、頂戴し、確かに私めのものとし得た密かな呪言、聖なる秘蹟以外に、もっと別の『何か深き秘儀』は御座いませぬか?」
 慧能は、ゆっくりと首を横に振りながら、穏やかに答えた。
「拙僧が今、あなたのために示し得たものは、総てが、秘儀でも、何でもない。あなたが、自分自身の本来の姿を正しく振り返って見たならば、きっとその『秘儀なるもの』は、かえって、あなたの中にこそ、あるであろう。」
 恵明は、莞爾として笑うと、
「拙者は、黄梅(おうばい)山にあって、かの五祖弘忍さまの下(もと)、多くの会衆とともにその教えに従い、修行に励んで参りました――しかし、実のところ、一度として、己(おのれ)の本来の姿を『知る』ということは、出来ませなんだ――ところが今、あなたさまから『ここぞ!』というお示しを頂戴し――丁度、人が生れて初めて水を飮んでみて、初めてその『冷たい!』ということ、また、『暖かい!』ということを、自(おの)ずから知ることが出来た――それと全く同じで御座いました――今、行者さま! あなたはまさしく、拙者の師で御座いまする。」
と言って、地に頭をすりつけた。
 すると慧能は、ゆっくりとしゃがんむと、その両手で、土に汚れた恵明の両手をとり、諭すように言った。
「あなたが、もし言われた通りであられるなら、則ち私とあなたと――この二人は、共に黄梅の五祖弘忍さまを師としようとする者――どうか心からその法灯を堅くお守りあられよ。」
 ――恵明には、その慧能の声が、あたかも大庾嶺の峨々たる峰々に木霊しながら、遠く遙かな彼岸から聞こえてくる鐘の音(ね)のようにも思われたのであった――
 無門、商量して言う。
「ヒップな六祖、言うならば、『やっちまたぜ! 老婆心! 有難迷惑! 至極千万! 小ずるい恵明に法灯を、渡してどないするんじゃい!』。喩えて言えば、新しい、茘支(ライチ)の殼を、剥(む)き剥きし、核(たね)までしっかり取り去って――『坊ちゃん、お口を、はい、ア~ン! 後は、自分でゴックン、ヨ♡』――」

 次いで囃して言う。
描(か)いても描いても成りませぬ 彩(いろど)ってみても落ち着きませぬ
当然 画讃も書けませぬ だから礼には及びませぬ
生れたマンマのスッポンポン
壊劫(えこう)にあっても朽ちませぬ

[淵藪野狐禪師注:
・「大庾嶺」は、現在の江西省贛州(かんしゅう)市大余県と広東省韶関(しょうかん)市南雄市区梅嶺にまたがる山。
・「壊劫」は、仏教で言う四劫(しこう)の第三期。四劫とは仏教での一つの世界の成立から存在の消失後までの時間を四期に分けたもので、その世界の成立とそこに生きる一切衆生(生きとし生ける総ての生物)が生成出現する第一期を成劫(じょうごう)、その世界の存続と人間が種を保存して生存している第二期を住劫、世界が崩壊へと向かい完全に潰滅するまでの第三期を壊劫、その後の空無の最終期を空劫(くうこう)と呼ぶ。この四劫全部の時間を合わせたものを一大劫(いちたいこう)と呼ぶ。
・「渠」について西村注は『第三人称の代名詞。「伊」(かれ)に同じ。禅者が真実の事故を指していう語。』とある。]

 さて、この日記はちょっと分かりにくいのだが、私は次のように解釈する。祖父はこの前日、宗活老師から「人類出來ざりし以前の本來の面目如何」(人類が誕生する以前のお前の本来の姿とは何か?)という公案をもらい、朝の参禅で、自分の「見解」である、
「かかる父母だの我だのを突破して、人類出来ざりし以前の本来の面目!」
答えた。すると宗活老師から、「一喝を喰」らって「見事に叱られた」のであった。何故、叱られたか? それは祖父自体がその原因をはっきりと示しているから面白い。祖父は「父母と言ふものから」極めて論理的「分析的に考へて」、どこまでも理詰めで「かく考へ」抜き、総体として如何にも学者然として「哲理を解く考で」公案に向かってしまったからであると言い切ってよい。禅の公案と問答は、祖父が自信を以て語っている論理的帰結やヘーゲルのアウフヘーベン(止揚)のような構造からは、実は無限遠の対極にあると、私は思うからである。]

  
七月十一日
 是ならばと提げて老師に面した。獲物は一喝である。實に有難い一喝である。「其はよくわかつた。然し其は實際上の問題である。實際上の問題は暫らく措いて、父母未生以前本來の面目如何」參禪亦參禪工夫、更に工夫流汗淋漓、午前に四時間、午後に二時間、本來の面目とは如何、本來の面目とは如何。
[やぶちゃん注:祖父が「かかる父母だの我だのを突破して」という答えを言ったことから、宗活は公案を人口に膾炙した例の「父母未生以前本來の面目如何」という公案にスライドさせている。ここには祖父が一括を食らったこの日の答えは示されていないが、その答え宗活が「其はよくわかつた。然し其は實際上の問題である。實際上の問題は暫らく措いて」考えなければ、いつまで経っても一喝だぞ! と批判していることからも、私が先の注で推測した通り、祖父の公案深考の方法が徹底した論理的思考であり、誤った公案への姿勢であることを証明している。]

  
七月十三日
 午前中獨參、本日休參
[やぶちゃん注:現実の論理的思考から抜け出せない祖父は答えが出ない。]

  
七月十四日
 大接心、六時朝參「色もなし相もなし」とやり出すと、此の名論を屁の樣に「ソンナ公案を外所にした批評はいらぬ」「公案三昧、公案三昧」本來の面目如何。第二回の朝參、「梢に渉る風」其んな木も風もない以前の事じあ。本來の面目如何、ウーンクソ。何と何と蹴られても、此の信念にゆるぎあるべき。彌陀に救はれし身には、唯念佛、唯念佛。ドレモコレモ皆本來の面目じや。
[やぶちゃん注:この日も面白い。祖父はこのツー・ラウンド、巧妙に作戦を変えている。
○第一回朝参の場面
宗活「作麼生(そもさん)! 父母未生以前本来の面目如何?」
祖父「色(しき)もなし相もなし!」
宗活(鈴を鳴らして)「ソンナ、公案を外所(よそ)にしたような批評は、イ、ラ、ヌ!」

○第二回朝参の場面
宗活「作麼生(そもさん)! 父母未生以前本来の面目如何?」
祖父「梢に渉る風!」
宗活(鈴を鳴らして)「虚け者ガ! そんな木も風も、ない、以前のことじゃ!!」

第一回は私でも吹き出してしまいそうだ。勿論、祖父は極めて真面目に考えてはいる。「色」(しき)は色法で仏教でいう「存在」の謂いである。修行禅定のみを実存として考える仏教では、色(存在)は総ての認識されるところの対象となる諸行無常の自身の肉体を含む物質的現象の総称である。具体的には感覚器(目・耳・鼻・舌・身・意)によって認識される対象である「境」の一つで、狭義には特に眼識の対象を言う。「相」(そう)は同様にあらゆる現象・対象の見た目の外形や姿形(すがたかたち)の謂いであろう。それにしても私が笑ってしまうのは、
「父母未生以前とかけて何と解く?」
「本来の面目如何と説く。」
「その心は?」
「色もなし相もなし。」(笑)
と、これではまるで落語の謎かけみたようなもんだ。
第二回の「梢に渉る風」はカンニングが見え見えだから、だめだと私も思う。これは容易に「雨月物語」の「青頭巾」の引用でも超有名な「禅林句集」の「証道歌」一節、
  江月照松風吹
  永夜淸宵何所爲
○書き下し文
  江月照らし 松風吹く
  永夜淸宵 何の所爲ぞ
○やぶちゃんの現代語訳
  ――月影は川面を美しく照らし――
  ――松風が爽やかに吹きぬける……
  ……この永き夜――
  ――淸らかな宵……これは一体、何のために、あるか?!
という公案を答えに安易にインスパイアしたものに過ぎないからである。この場に私がいたら、宗活の答えを聞いた瞬間、やっぱり吹き出してしまうだろう。――しかし、そうして当然の如く祖父の怒りを買って、夜、藪野種雄は私の寝床へやって来て、さんざん議論を吹きかけられ、睡眠不足になること、必定でもある。]

  
七月十五日
 どうしても愈々自分のものとして示す事が出來ぬ。布團上の公案が老師の面前屁一つ。殘念だ。無念だ。茶話會の時、何が故か俺には分らぬが老師の一言一句が乃公の心を打ち、生れて未だなき苦しさに耐え兼ね、衆人列座の中に聲をあげて涕泣す。
[やぶちゃん注:祖父の不思議な激情的資質を見る。祖父はともかくここまで徹底して超真面目に公案の答えを考えて続けて来たのである。ところが老師の、不真面目にしか見えない屁のような答えに対する、無意識の内的不満と抑え難い憤怒が頂点に達し、衆人列座の中にあって、図らずも涕泣してしまったのである。]

  
七月十六日
 不思議とて、かくも不思議のことがあるか。興奮してゐるのではない。見るもの聞くもの一つとして公案ならざるはない。此の浴場の水迄も、くだらぬ廣告迄も。しかも老師の一喝に會ふ。古劍居士戒めて曰く。玄境なり、今一息の所、大勇猛心を起し給へ。本來の面目如何。
[やぶちゃん注:「古劍居士」不詳。]

  
七月十七日
 大法を傷けし不屆者!彼禪宗活をしめ殺す宗活奴がと、其が目につきては殺しも殺せず。又無爲にして歸る。殘念無念〔。〕
[やぶちゃん注:そうだ! じっちゃん! それでいいよ! もう一歩だよ!]

  
七月十八日
 五感に感ずるもの一として我本來の面目に非るものなし。道行く人も人に非ず。空行く雲も雲に非ず。然るに何ぞや。卒然として惡夢より覺めし如く、宗活何者ぞ。我が此の絶大の信念を看破すること能はずして、徒らに宗旨を弄する者と思ひし瞬間、道は道、人は人、妙齡の美人は矢張り妙齡の美人だよ。元の木阿彌だ。何の爲の修業ぞ。何の爲の上京ぞ。將に危うし危うし。
[やぶちゃん注:祖父はここで確かに深化した。「妙齡の美人」は間違いなく祖母茂子である。快哉! 快哉!]

  
七月十九日
 本來の面目如何、座禪三昧布團上工夫し骨折つて取り去り取り來る。一劍頭に、宇宙乾坤を卒然擧止するの外なき胸裡の苦惱、しかも切實なる將に死に勝る苦惱である。南無阿彌陀佛の本願がほのかに分明した心地がする。
 午前十一時、見性成佛。
[やぶちゃん注:はっきり言おう。確かに――この時――祖父は「見性成佛」(自己の本性を透徹して、その円満具足なるを悟って仏となること)、悟達している!]

  
七月二十日
 午前二回、午後二時の參禪にて終り。
 (註)此の年の九月頃かと思へるが、草刈氏と意見衝突、十月五日最後の談合、辭職に決せられて森先生や藤井先生、笠井さん等に相談と云ふより寧ろ報告された樣子である。超えて大正十一年二月二十五日離職許可、是丈けの經濟的壓迫の中に敢然として主義の爲に辭職された事には滿腔の敬意を表せずには居られない。
[やぶちゃん注:祖父の辞職と、この一連の座禅体験は無縁ではないと私は思う。村上氏は確かにそうしたコンセプトでこの年の日記を抜粋していると言ってよい。私は、祖父の毅然たる鮮やかな態度に、心から素直に畏敬を覚えるのである。]

大正十一年〔(二十九才)〕

 (註)三月二十三日上京。
 再度の參禪〔。〕
 「如何か是堅固法身」より始め二十八日に終了、此の年は佐々木指月の霜花集から、何やかや取つて拔き書きされてゐる。後年筆者がよく談じ會ふようになつてからも、よく指月の話が出たものであるが、此の時始まつたらしい。
[やぶちゃん注:「如何か是堅固法身」は「碧巌録」の第八二則「大龍堅固法身」に基づく公案。以下、長い評唱を省略して示す(底本は岩波文庫版を用いたが、恣意的に旧字に直した)。

  第八二則 大龍堅固法身
垂示云、竿頭絲線、具眼方知、格外之機、作家方辨。且道、作麼生是竿頭絲線、格外之機。試擧看。
【本則】
擧。僧問大龍、色身敗壞、如何是堅固法身。龍云、山花開似錦、澗水湛如藍。

○やぶちゃんの書き下し文
  第八二則 大龍(だいりやう)の堅固法身
 垂示に云く、竿頭の絲線、具眼にして方に知る。格外の機は、作家にして方に辨ず。且道(さて)、作麼生(いか)なるか是れ、竿頭の絲線、格外の機。試みに擧(こ)し看ん。
【本則】
 擧す。僧、大龍に問ふ、「色身は敗壞す、如何なるか是れ堅固法身。」と。龍云く、「山花開きて錦に似、澗水湛へて藍のごとし。」と。

○淵藪野狐禪師訳
 垂示に云う、寺の旗の竿先にある紐は、それを普段から見ておれば、それが何であるかを確かに知っている。しかし、そんな常識を遙かに超越した禅機というものは、手だれの真(まこと)の悟達者にしか見抜けぬ。さても、如何なるか是れ! 竿先の紐、超絶の禅機?!
【本則】
 僧が大龍和尚に問うた。
「現象としての肉体がやがて衰え、腐敗し、完膚無きまでに壊れるものであることは真理であります。だのに、堅固な仏の法身というは、これ一体、如何なるものなのですか?」
 龍が答える。
「――山の花が咲き乱れている――それは錦を広げたのに似ている――渓谷は深く清き水を湛えている――それはまるで藍を流したようなじゃ……」

「佐々木指月」(明治十五(一八八二)年~昭和十九(一九四四)年)は先に示した通り、釈宗活の弟子。彫刻家(仏師)でもあり詩人でもあった。本名栄多。禅伝道のため長く在米した。太平洋戦争の際にはアメリカへの忠誠心を問う日章旗への発砲を拒否して監禁され、病いに冒されて死去している。文字通り、気骨ある古武士というべきか。]

    
手  紙

 僕ノ血ミドロナ全信仰ハ、兄モ御承知故、今更贅言ハ要ラヌコト、サリ乍ラ想フガ故筆ノマヽニ記シテン。
 生涯ノ忘ルべカラザル重大ノ岐路ニ立ツタ僕ニトツテ、此年十二月一日ハ實ニ容易ナラザル日デアツタ。茂子サンノ告白ヲ聽キシ其瞬間迄、寸時モ腦裡ヲ去ル能ハザリシ、シカモ夢想ダニ許サレザリシ身ニトツテ、此ノ血ヲ吐ク樣ナ告白ハ僕自身ニトツテハ實ニ晴天ノ霹靂デアツタ。幾度カ其ノ言葉ヲ繰り返へシ、繰り返へシ我卜我ガ耳ヲ疑ヒシカ、オ察シノ事デセウ。其歡驚ハ茂子サンニ對スル從前ノ熱愛ガ。イヤガ上ニ深刻ナ反省ニナツタノデス。僕ガ常時抱懷セル生活目標ガ那邊ニアルカハ略々御察シトハ存ジマスガ、參禪卜云ヒ辨道トイヒ、上京卜云フ、一トシテ僕ノ信念ノ發露ナラザルモノハアリマセン。信念卜申スハ外ニ非ズ金剛不動ノ南無阿彌陀佛ニ廻向サル、僕ノ信念ハ「茂子サンヲ本當眞實ニ受サズニ居ラレナイ、シカモ本當ニ愛スルコトノ出來ナイ僕自身ノコノ心、コノ血、此ノ私ノ淺間シクモカ弱キ、愛ノ足ラザル日々ノ日暮シ」是ガ僕ノ全人格的、全信仰生活ノ表現デアリマス。此信念以外二僕ノ何者モナイ。低級ナ信念卜嘲ハバ嘲ヘ、僕ニトツテ茂子サント云フ眞實ノ愛ノ外ニ何ノ人生ノ意義ガアラウ。ヨモヤ兄モ是ヲシモ單ナルホレタスペツタノ世迷ヒ語トハ云ツテハ下サラナイト信ジマス。顧レバ九軌ニ於ケル二三ノ私ノ意義探キ奮鬪ノ跡モ、母校問題ニ死力ヲ盡セシコトモ參禪辨道ノ向上ノ一路ハ云フモ野暮ノコト、今又上京素志貫徹ノ決意モ皆是ナラザルモノハアリマセン。今後如何ナル事情ノモトニ僕ト僕ノ茂子サントノ愛ノ具體化ガ否定サルヽノ悲運ニ會フトモ、其ハ僕ニトツテハ死ノ問題デアリマス。魂ヲ奪ハレタ僕ハ自殺ハセヌ然リ、生ケル屍トナツテ微動ダニセザル僕ノ信仰生活ハ即チ茂子サンノ愛ノ具體化ハ一層峻嚴味ヲ帶ブルノミ。(中略)希クハ茂子サント不二ノ第一義ノ生活ガ一日モ早ク惠マレ、眞ニ生キ、念佛ニ愛シ愛サル、念佛ノ世界ヲ創造シタイ云々(中略)
  
大正十一年十二月十四日
 (註)以下五六年と云ふものは記録なく、精神生活史は不明であるが、とも角其中に茂子さんと結婚され、二三職を變へられて大正十三年來名、東邦電力に入られたのであつた。
[やぶちゃん注:「スペツタノ世迷ヒ語」の「ペ」はママ。]

□〔
昭和三年(三十五才)〕

    
手  紙
 
昭和三年十月二日(奧さんあてのものらし)
 一昨日正坊は校長ドンより「今月より五圓昇給」辭令は出さぬが次に正式の訓導の辭令下附の時には、改めて更に幾らか増俸の事になつて居るからとの事、「五十圓ニナツタラチツターエ、ナア」と老父と話し居ると聞きたり。
 昨日(一日)第一號タービン、主要な羽根の組立を終了したので一寸とホツとした。其の終了の時。吉原氏來所、態々小生を招きて曰く「一度も御見舞にも來なかつたが、どうですか」少々痛み入る「心配せぬが好いですよ。氣を樂にしてやり給へ」との事。
 「ヘイ、ぼつぼつやらして貰つてゐます」と答ふ。「僕の親戚の者で少し非道いのがあつたから鬪病術を買つて送つてやつたよ」………「小生も讀んで元氣は出してゐますが」と答ふ。「僕の知つた人で、獨乙と英國と日本の體温計を持つて、どれがどの位違ふとやら云ふて手ばかり握つてゐるのがあるが、あれでい〔→は〕イケン」との事、小生は一度も測らん方で困つた男なんぢやが、内心びくびくして死ぬのを待つてるような死ぬのが恐い樣な、自分自身を一寸と内省して見た。
 一昨朝は自見夫人の御味噌汁、昨晩は同夫人がソツと臺所に來られて茶碗を洗つて下された。………老父と直亮は湯に行つたのだがと、寢轉んでゐなら音がする。………マア折角蔭德をして下さるのだから感謝しながら、歸られる時だけソロソロ出て障子の外から、誠に恐れ入ります。
 今朝は三輪夫人がおいしい味噌汁を作つて持つて來て下された。直亮が老父と一所について行つた留守に自見夫人が菜葉のお漬物を持つて來て下された。
 兎に角カヽアの留守ちうものを考察すると二つの得がある〔。〕
 一、他人の親切を味へることが深い。其してどうやら、よりうまいものが喰べられる樣である。(あんまり永くなると味が惡うなるかも知れぬが)ツマリカヽアは居らんでも生きて行かれるらしい事之也。然し爺さんがビクビクして「胸のシツプ、背中のシツプ、喉のシツプ」をして呉れるのは心苦しい樣だ。ぢやが今日あたりは少しは氣分は宜しいから、心配せんでもよろしい。
 第二の得は、第一の裏か表か知らんが兎に角幾分自分の事は自分でやらうと云ふ氣が少しは起る。つまり克己心が少しは増加して精神修養になるかも知れんと言ふ心配がある。
良い意味で解釋すればツマリカヽアは有難いと言ふ結論になるかも知れぬと思はれる節がある。
 兎に角今朝手紙が來ると………來るべきであるのに來ぬので少し低氣壓の傾がある。マア其の積りで手紙を讀むのもよからう。
  昭和三年十月二日
[やぶちゃん注:当時、一家は名古屋市東築地東邦電力火力発電所社宅一の三に居住していた(これは祖父の遺品の名刺の裏の祖父の手書きメモから判明した。現在の名古屋市港区東築地で堀川と山崎川に挟まれた河口部分。参考までに名刺の画像を下に掲げる。なお、私の父もここで生まれている)。日記に登場する人々はその社宅の隣人たちである。祖父は既に肺結核に罹患している。「正坊」は弟正雄(当時二十二歳)。訓導とあるから、この頃は尋常小学校の美術教師をしていたものか。「直亮」は祖父の長男(当時五歳)。私の父の兄である。「態々」は「わざわざ」と読む。一部に鍵括弧を補った。以下の名刺によれば当時の祖父の勤務先である東邦電力火力発電所の住所は「名古屋市南区大江町」で、ここは山崎川と大江川の河口で東築地から直ぐの位置にある。






昭和四年〔(三十六才)〕≪日記復活≫

  
一月一日
 見るばかりなり日記哉。
 今日は一月二十四日の夜、床の中よりペンを執る。お隣りの鐵雄君の泣き聲がする。さて思ひ出せば………と、
 元且や、長男連れて年始なり。
 元且や、寒うて年賀も橋の上
今年は幸福參れと、三社詣でとシヤレる。
[やぶちゃん注:「三社詣で」は三社参りとも言い、正月の初詣として三つの神社を詣でることを言う。西日本各地に広く伝わる風習で、必ずしも特別な神道への信仰心に基づくものではない。特に福岡県を中心として九州・中国地方に見られるから、これは福岡在住時の習慣に基づくもので、名古屋であるから三つの内には熱田神宮が含まれていると考えてよい。「日記復活」は〔 〕の二重括弧で括られている。私の補正括弧と混同するので、表記のような括弧を用いた。]

  
一月二日
 初雪や、樂しかりける祝哉
 酒くみて、壽ほぐ歌や、年新なり。

  
一月四日
 仕事始め。
 正月の氣分や仕事も、遠慮哉。
 遠慮なき、休みなりけり お正月

  
一月十七日
 彈き初めや、若奧樣の 指の音
 ピンコシヤン、半日鳴るなり お正月
 あいの手に、尺八の音もすなり、春のどか。
 赤ん坊、今日は泣き初めらるゝ お正月

□〔
昭和五年(三十七才)〕



  
昭和五年正月三日
 夜十時、ヘソの上に温灸をのせ仰臥して隣家のマージアンの音を聞きつゝ靜かに新春を想ふ。父七十一才、母六十四才、正雄二十四才、種雄三十七才、茂子二十九才、直亮七才、豐昭二才〔。〕何よりも親子兄弟打ち集ひ、今年も多難の年なるを覺悟して靜省したい。
 二月中は日記一度も書かず、三月も今日(十七日)に到り始めてである。
 三月六日朝、思ひ設けざりし胃潰瘍突發せり。其より正味二晝夜絶食、幸に輕度に過し得たり。福島先生に多謝せざるべからず。
 最後かと、死なれぬ心 妻の守れる。
 誰れ博士、何の用かや 病癒ゆ
 二日間絶食中の一夜實にもうれしきユートピアを夢みぬ。
(一)日本アルプス高原にの一家に放浪の身。
(二)其の峻峰アルプス連山の中にも人生爭鬪の一場面を見る。
   大男鑛山を失ひしとて狂氣。
(六)山上象牙の塔とも云ひたき純白に桃色の世界、此の所は
   遙か下にニユーヨークを見下し、透明の海たり、此所よ
   り子等を飛び込ませ、スマートな人々の集ひ。
 右は夢なれど眞のユートピアには純情の外何者も妨げず、自由自在なるを見て愉快極まれり。
 (註)是より五月十一日迄欠勤、十二日始めて出勤、暫くの後風邪の氣味にて就床、時々具合の好き日出勤として俸給は全額支給されたとか、〔→。〕信用の篤かつた事推して知るべしである。
[やぶちゃん注:この祖父の夢記述は面白い。夢分析を試みたい願望に駆られるが、祖父のユートピアを汚すまい。]

  
六月某日
 小生欠勤(六ケ月内を限り)全額支給の件、身にあまる御言葉なり、穴あらば入りたき次第なるが、永く御厚意を銘記せん爲に左に録しおくものなり。
    
具   陳
 藪野種雄技師ハ大正十三年八月名古屋火力建設所氣罐係主任トシテ來任シ、新鋭ナル箇所ノ汽罐工事ニ、更ニ二期増設工事二於テハ機械主任トシテ汽機増設ノ大工事ヲ一身ニ責任ヲ荷ヒ全力ヲ傾注シテ、驚異ニ値スルエ事ノ迅速正確ト、エ事上ノ低廉ナル竣成ヲ見クルハ君ノ粉骨碎身ノ努力ノ效大ナルモノアリ。且又爾來運轉ニ從事シテハ君ノ謹直ナル性格ヨク衆ヲ率ヒ衆望ヲ荷フテ責任者トシテ地位ヲ穢サズ、燦トシテ光彩ヲ放チ、火力界模範ノ良運轉成績ヲ擧ゲツヽアルハ實ニ氏ガ研鑚ノ效多キニ負フモノト信ジ疑ハザル者ニ候。然ルニ家庭ニハ老父母卜妻子三名及ビ實弟アリ、一昨年同氏ノ病臥シテ醫藥ニ親シメルニ引續キ長女ノ難病ニ、又病死ニ、常ニ醫藥ノ料ニ數々家計不如意ノ嘆聲ヲ漏ラスヲ漏レ聞クニ及ビ誠ニ同情ニ堪エズ。(中略)
 右は原稿なれ共辻野氏がかく迄に申し下されし御心中に對
 し感激無くしては居られぬ心地す。

  
七月十三日
 (註)一家を引あげて知多郡師崎に轉地療養、海岸通に借家して療養生活始まる。約二ケ月後六月三十一日歸名。後昭和七年退職されて河和町に轄地。更に病篤うして九年山田田村中病院に入らる。

  病中雜詠

 鱚釣りや、夜明けて獲物 少かり

  大震災追憶

 燒け跡に、西瓜ならべし 帝都かな

 子等の顏、覆ふて西瓜 喰ひ居り

 堀拔けの 井戸に西瓜の 浮べあり

 籤ひいて 西瓜買ひたる 女工かな

 西瓜積んで トラツク飛べる 暑さ哉

[やぶちゃん注:祖父は関東大震災当時、浅野セメント東京本社嘱託として東京にいた。]

□〔
昭和九年(四十一才)〕

    
病中日記の一節

  
昭和九年七月九日〔月 晴〕
 母校二十五周年記念號を讀み、恩師の慈言を拜し、學園を偲び、病床數星霜、只〔→唯〕何となく涙出ず。
[やぶちゃん注:父所蔵の原本(「第一生命保險相互會社」製昭和九年手帳)の記載は平仮名はカタカナである。一部に補正を示した。]

  
昭和九年八月十三日(死の前日)
  健康なりし日、眞面目な或る米國人と富士登山した折を追懷して。

 月光にひとしきなり 夜の蛙

 月光に大男の馬を選びけり

 樹間漏る月影あびて馬子の唄

 歌ひつゝ居眠る馬子や月夜哉

 己がじ〔し〕駄馬も憩へり月の茶屋




[やぶちゃん注:村上氏はこれを「昭和九年八月十三日(死の前日)」としているが、これらは父所蔵の原本(「第一生命保險相互會社」製昭和九年手帳)の記載では、八月十一日の後のメモ欄に記されており、八月十三日とする根拠は見当たらない。寧ろ、すぐ上の八月十一日の備忘録の筆致と左程変わらない筆圧であること、次のページの冒頭八月十二日の欄に短い自身の病状の備忘録が弱い筆圧で記されていることから見て、これは八月十一日か、その見開きページの週、七月二十九日から八月十一日の間に記されたものと考えるのが妥当である。村上氏はこれらの句群を辞世として捉える意図を以て、敢えて「昭和九年八月十三日(死の前日)」とクレジットされたのではないかと推察する。平仮名部分は多くがカタカナであり、一部表記に村上氏の記載と異なる部分があり(特に最後の句を村上氏は採っておられない)、更に祖父自身による推敲の跡もあるので、以下に原本の本部分を復元して示す。■は抹消字(抹消された字は不明)。

 眞面目ナアル米國人ト富士登山

 月光ニヒトシキナリ夜ノ蛙

 月光ニ大男ノ馬ヲ選ビケリ

 樹間漏ル月影アビテ馬子ノ歌

 歌ひつゝ居ねむる馬子や月夜哉

 己がじゝ■駄馬も憩へり月の茶屋

 六根淸淨ソノ声ヒヾキケリ月ノ森カゲ

眞面目ナアル米國人ト富士登山」の後に有意な行空け。最後の句の「声」はママ。この句、読み易く平仮名にして説明すると、初稿、

 六根淸淨その声ひゞく月の森かげ

としたものを、「ソノ」及び「ク」を取り消し線で抹消し、「キケリ」を下に吹き出しで示し、

 六根淸淨その声きけり月の森

と推敲、「カゲ」を抹消し忘れたものと思われる。
 先にも記したが、現在、祖父の祥月命日は八月十五日である。父の推測では、八月十四日深夜に誰にも看取られずに亡くなった祖父が、翌十五日の朝に看護婦の巡回で亡くなっているのが見つかったといった事実があったのではないか、とのことである。
 しかし、この辞世の句群は、月光射す富士の実景と臨場感溢れる蛙声や馬子の唄声を伝えて、あくまで清澄にして透明な絶唱である。村上氏がここにこれを配されたのは祖父の遺稿集の美事なる大団円を考えられてのことであろう。俳句を嗜む孫として心より感謝したい。]

     
編 輯 後 記

 病中日記の無いのは淋しいが、茲に一つ男子の面目躍如たる、一面を紹介して稿を結ばう。其は氏が九軌時代〔、〕天誅を加へんと迄激怒された草刈氏と、東邦電力に於て再會された時の事である。嘗ての仇敵である事とて、草刈氏も相當覺悟されてゐたものとの事であつたが、案に相違して藪野兄の下へもおかぬ歡待に、全く驚かれたさうである。兄は「若氣の到りで…」草刈氏も「イヤ當時仕色々…」二人は呵々大笑して手を握られた。後〔、〕藪野氏の紹介で一人九軌へ就職を依賴した人があつたが、草刈氏も藪野さんの紹介される人ならとて、無理にも採用されたとの事である。
 永遠の若さと、若さが特有するイデアリズムを貫徹された外柔内剛の氏の一斑にても、此の稿によつて傳達出來れば余の欣幸之に増すものはない。



[やぶちゃん注:上記の藪野正雄のカット右上の「する」という文字は、後に父が記した感想の一部が掛かったもの。以下、奥附。]

 【非賣品】

  昭和十年七月 二 十日 印  刷
  昭和十年七月二十五日 發  行

           名古屋市東區柳原町三丁目四三番地
    編集兼發行人        村 上 正 巳

           名古屋市東區千種町五反田五二番地
    印刷所        合資會社 三 益 社

           名古屋市東區柳原町三丁目四三番地
    發行所           村 上 正 巳



落葉籠   藪野種雄遺稿 完