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[やぶちやん注:明治三十九(1906)年八月発行の雑誌『新古文林』に掲載、後に『濤聲』に所収。底本は学習研究社昭和五十三(1978)年刊の「國木田獨歩全集」第三巻を用いた。底本は数字を除いて総ルビであるが、読みの振れるものに限つたパラルビとした。傍点「〇」は斜体下線に、傍点「丶」はただの下線とした。]

 

號外   國木田獨歩

 

 襤褸(ぼろ)洋服を着た男爵加藤が、今夜もホールに現はれて居る。彼は多少キじるしだとの評がホールの仲間にあるけれども、恐らくホールの御(ご)連中に的傾向を持て居ない方はあるまいと思はれる。かく言ふ自分も左樣、同類と信じて居るのである。

 此處に言ふホールとは、銀座何丁目の狹い、窮屈な路地に在る正宗(まさむね)ホールの事である。

 精一本(きいつぽん)の酒を飮むことの自由自在、孫悟空が雲に乘り霧を起こすが如き、通力(つうりき)を以て居玉(ゐたま)ふ「富豪」「成功の人」「カーネーギー」「なんとかフエラー」、「實業雜誌の食物(くひもの)」の諸君に在りては何でも無いでしよう、が、我々如きに在りては、でない、左樣でない。正宗ホールでなければ飮めません。

 感心に美味い酒を飮ませます。混成酒ばかり飮(のみ)ます、此(この)不愉快な東京に居なければならぬ不幸(ふしあはせ)な運命のおたがひに取(とり)ては、ホールほどうれしい所はないのである。

 男爵加藤が、何時も怒鳴る、何と言ふて怒鳴る「モー一本」といふて怒鳴る。

 彫刻家の中倉の翁(をう)が、なんと言ふて、その太い指を出す、「一本」

 悉く飮み仲間だ。悉く結構!

 今夜も「加ト男(かとだん)」がノツソリ御出張になりました。「加ト男」とは「加藤男爵」の略稱、御出張とは、特に男爵閣下に我れ/\平民乃至(ないし)、平(ひら)ザムライ共が申し上げ奉る、言葉である。けれどもが差向(さしむか)へば、些(さ)の尊敬をするわけでもない、自他平等、海藻(のり)のつくだ煮の品評に餘念もありません。

「戰爭(いくさ)が無いと生きて居る張り合ひがない、あゝツマラ無い、困つた事だ、何とか戰爭(いくさ)を初める工夫はない者か知ら。」

 加藤君が例の如くはじめました。「男(だん)」はこれが近頃の癖なのである。近頃とは、ポーツマウスの平和以後の冬の初の頃を指(ゆびさ)す。

 中倉先生は大の反對論者で、斯(か)くいふ奇拔な事を言つた事がある。

「モシ出來る事なら、大理石の塊(かたまり)のまん中に、半人半獸の二人が嚙合つて居る處を刻(ほ)つて見たい、塊の外面(そと)に其のからみ合つた手を現はして。といふ次第は、彼ら爭鬪を續けて居る限りは、其自由を得る時がない、則ち幽閉である。封じ且つ縛せられて居るのである。人類相爭ふ限り、彼等は未(ま)だ、其(その)眞の自由を得ていないといふ意味を示してみたいものである。」

「お示しなさいな。御(お)勝手に」「男(だん)」は冷やかに答へた事がある。

 其處で「加ト男」の癖が今夜もはじまつたけれど、中倉翁、もはや、強(しひ)て相手になりたくもない風であつた。

「大理石の塊で刻つて貰いたいものがある、何だと思はれます、我(わが)黨の老美術家」、加藤はまず當たりました。

「大砲だらう」と、中倉先生も仲々これで負けないのである。

「大違ひです。」

「それなら何だ、解つた/\、」

「何だ」と今度は「男(だん)」が問ふて居る。

 二人の問答を聞いて居るのも面白いが、見て居るのも妙だ、一人は三十前後の痩(やせ)がたの、背の高い、汚ならしい男、けれども何處かに野人ならざる風貌を備へて居る、しかし何と言ふ亂暴な衣裝(みなり)だらう、古ぼけた洋服、鼠色のカラー、櫛を入れない亂髮(らんぱつ)! 一人は四十幾歳頂邊(てつぺん)が禿て居る。比ぶれば幾干(いくら)か服裝(なり)は優つて居るが、似たり寄つたり、何故(なぜ)二人とも洋服を着て居るか、寧ろ安物でも可(よ)いから小ザツぱりした和服の方が可(よ)ささうに思はれるけれども、生憎と二人とも一度は洋行なるものをして、二人とも横文字が讀めて、一方はボルテーヤとか、ルーソーとか、一方はラフアエルとか何とか、若し新聞記者ならマコーレーをお題目としたことのある連中であるから、無理もない。斯く申す自分がカーライル! 隅の方ににやり/\笑ひながら、グビついて居るゾラも在り。

 綿貫(わたぬき)博士(はかせ)が傍(そば)で皮肉を言はない丈(だ)けが未(まだ)しも、先生が居ると問答が殊更に込み入る。

「解つたとも、大解りだ、」と楠公の祠(やしろ)に建られて、ポーツマウス一件の爲に神戸市中を曳ずられたといふ何侯爵(なんのこうしやく)の銅像を作つた名譽の彫刻家が、子兒(こども)のやうにわめいた。

「イヤとても解るものか、私が言ひましようか、」と加ト男。

「言ふて見なさい」と今度は又、彫刻家の方から聞く。

「僕が言ふて見せる」と遂に自分が口を入れてお仲間に入つた。

「何です」男(だん)が意味のない得意の聲を出だした。

「戰爭(いくさ)の神を彫つて呉ろと言ふのでしよう」

「大ちがひ!」

「すなわち男爵閣下の御肖像を彫(ほつ)て呉(くれ)ろと言ふのでしよう」

「ヒヤ/\、それだ/\、大(おほい)に僕の意を得たりだ、中倉さん、全く僕の像を彫て貰いたいのです、斯く申す『加ト男』其人の像を。思ふにこれは決して困難なる業(げふ)でない。この如く殆ど毎晩お目にかゝつて居るのだから、中倉君の眼底には、歴然と映刻せられて居るだらうと思ふ。」

「そして題して戰爭論者とするが可(よ)かろう。」と自分が言ふ。

「敗(ま)け戰(いくさ)の神と言ふほうが適當だらう?」と中倉先生は亦た、自分が言はんと欲して言ふ能はざる事を言ふ。

「題は僕自身がつける、敢て諸君の討論を煩はさんやだ、僕には僕の題がある。なにしろ御承諾を願ひたいものだ。」

「行(や)りましようとも。王侯貴人の像をイヂくるよりか、それは我黨の『加ト男』の爲めに、じやアない、爲にじやアない、「加ト男」をだ、……をだ/\、……。だから承知しましたよ。承知の助(すけ)だ。加ト公の半身像なんぞ、眼をつぶつても出來る。これは面黒(おもくろ)い。是非やつて見ましよう、だが。」先生、此時、チヨイと、眼を轉じて、メートルグラスの番人を見た、これはおかわりの合圖。

「だが、……コーツト、(老人は老人らしい、接續詞を用(つ)かう。)題はなんと致しましよう、男的(だんてき)閣下。題は、題は。」

「だから言ふじやアないか、題は乃公(おれ)が、乃公が考案(かんがへ)があるから可(エー[やぶちやん注:「可」に「エー」のルビである。])と言ふに。」

「エーと仰せられましても、エーで御座(ごは)せんだ。……面倒臭え、モーやめた。やめた、……加ト男の肖像をつくること、やめた! ねえ、さうじやアないか滿谷(みつたに)の大將」と中倉先生の氣炎少しくあがる。自分が滿谷である。

「今晩は」と柄にない聲を出して、同じく洋服の先生が入つて來て、も一ツの卓(たく)に着席(つい)いて、我等(われ/\)に默禮した。これは、すぐ近所の新聞社の二の面の(三の面の人は概して、飮みそうで飮まない)豪傑兼愛嬌者である。けれども連中、何人(だれ)も默禮すら返さない、これが常例である。

「そうですとも、考案(かんがへ)があるなら言つたが可(い)いじやアないか、加藤さん早く言ひ玉へ、中倉先生の御意(ぎよい)に叛(さか)らうては萬事休すだ。」と滿谷なる自分がオダテた。ケシかけた。

「號外といふ題だ。號外、號外! 號外に限る、僕の生命は號外にある。僕自身が號外である。然り而(しかう)して僕の生命が號外である。號外が出なくなつて、僕死せりだ。僕は、これから何をするんだ。」男(だん)の顏には例の慘痛の色が現はれた。

 げに然り、わが加藤男爵は何を今後に爲すべきや。彼は兎も角も、衣食に於て窮する所なし。彼には男爵中の最も貧しき財産ながらも、猶且つ財は是れ在り、狂的男爵の露命をつなぐ上に於て、何のコマルところは無いのであるが、彼は何事も爲(し)て居ない。

「露西亞(ろしや)征伐」において初て彼は生活の意味を得た。と言はんよりも寧ろ、國家の大難に當たりて、これを擧國一致で喜憂する事に於て其生活の題目を得た。ポーツマウス以後、それが無くなつた。

 彼れ男爵、たゞ酒を飮み、白眼にして世上を見てばかり居た加藤の御前(ごぜん)は、がつかりして了(しま)つた。世上の人は悉く、彼等自身の問題に走り、そが爲に喜憂すること、戰爭以前のそれの如くに立ち返つた。けれども、男(だん)は喜憂の目的物を失つた。即ち生活の對手(たいしゆ)、もしくはまと、或は生活の煽動者を失つた。

 がつかりしたのも無理はない。彼の戰爭論者たるも無理はない。

「號外」、成程加藤男の彫像に題するには何よりの題目だらう、……男爵は例の如く其ポケツトから幾多の新聞の號外を取り出して、

「號外と僕に題するに於て何かあらんだ。ねえ、中倉さん、是非、その題で僕を、一ツ作つて貰ひたい。……こんな風に讀んで居る處なら猶更にうれしい、」と朗讀をはじめる。

 第三報、四月二十八日午後三時五分發、同月同日午後九時二十五分着。敵は靉河(あいか)右岸に沿ひ九連城以北に工事を繼續しつゝあり廿八日も時々砲撃しつゝあり廿六日九里島(きうりとう)對岸に於て斃(たふ)れたる敵の馬匹(ばひつ)九十五頭外(ほか)に生馬六頭を得たり――

「どうです、鴨緑江(あふりよくこう)大捷(たいせふ)の前觸(まえぶれ)だ、うれしかつたねえ、彼(あ)の時分は。胸がどき/\したものだ」と更に他(た)の號外に移る。

 ――戰死者中福井丸(ちゆうふくゐまる)の廣瀨中佐および杉野兵曹長の最後は頗る壯烈にして、同船の投錨せんとするや杉野兵曹長は爆發藥を點火する爲め船艙に下(お)りし時敵の魚形水雷命中したるを以て遂に戰死せるものゝ如く廣瀨中佐は乘員を端艇(ボート)に乘移(のりうつ)らしめ杉野兵曹長の見當たらざる爲め自ら三たび船内を搜索したるも船體漸次に沈沒海水甲板に達せるを以て止むを得ず端艇(ボート)に下り本船を離れ敵彈の下(もと)を退却せる際一巨彈中佐の頭部を撃ち中佐の體(たい)は一片の肉塊を艇内に殘して海中に墜落したるものなり――

「どうです、聞いて居ますか」と加藤男爵は問へど、常時(いつも)のことゆゑ、聽て居る者もあり、相手にせぬ者もある。けれども御當人は例に依(よつ)て夢中である。

「どうです、一片の肉塊を艇内に殘して海中に墜落したるものなり――何といふ悲壯な最後だらう、僕は何度讀んでも涙がこぼれる」

 醉(ゑひ)が廻つて來たのか、それとも感慨に堪えぬのか、目を閉じてうつら/\として、體(たい)を搖動(ゆすぶ)つて居る。恐く此時が彼の最も樂い時で、又た生きて居る氣持ちのする時であらう。しかし間もなく目を開けて、

「けれども、だめだ、最早(もう)だめだ、最早戰爭(いくさ)は止んぢやつた、古い號外を讀むと、何だか急に年をとつて了つて、生涯がお終結(しまひ)になつたやうな氣がする、……」

「妙、妙、其處を彫るのだ、其處だ、成程號外の題は面白い、成程加藤君は號外だ、人間の號外だ、號外を讀む人間の號外だ」と中倉翁は感心した聲を出す。

「其處と言ふのは」加藤男が聞く。

「其處とは君が號外を前へ置て甚(ひど)くがつかりして居る處だ」

「それは不可ない、そんな氣のきかない處は御免を被むる、――」と彼(か)の暗記し居る公報の一つ、常に朗讀といふより朗吟する一つを初めた、「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直(ただち)に出動之を撃滅せんとす本日天候晴朗なれども波高し――此處を願ひます、僕は此號外を讀むと堪らなく嬉しくなるのだから――是非此處を行(や)つて下さいな。」

 中倉先生微笑を含んで暫時(しばし)默つて居たが、

「それぢやア、貴君(きみ)に限つた事はない。だれでも今の公報を讀めば愉快だ、それを讀で愉快な氣持ちになつて居(を)る所なら平凡な事で、別に此大先生を煩はすに及ぶまいハヽヽヽヽ」

「何故だ、これは可笑(おかし)い、何故です。」と加藤號外君、せきこんで詰問に及んだ。

「號外から縁がなくなつて、君ががつかりして居(を)る處が君の君たる處じやアないか。」

「大(おほい)に然りだ」と自分は贊成する。

「それじやア諸君は少しも落膽(がつかり)[やぶちゃん注:以下「落膽」はすべて「がつかり」。]しないのか」と加藤君大に不平なり。

「どうだらう? 滿谷君、」と中倉先生も少し此問には困つたらしい。自分も即答は爲兼(しかね)たが、加藤男爵の事に就て兼て多少(いくら)か考えて見た事のあるので、

「そうですねえ、全然(まるきり)落膽しないでもないだらうと思ふ、といふ理由(わけ)は戰爭(いくさ)最中はお互に何人(だれ)でも國家の大事だから、朝夕(てうせき)これを念頭に置て喜憂したのが、それがお止(やめ)になつたのだから、氣拔(きぬけ)の體(てい)に一寸(ちよつと)何人(だれ)もなつたに相違ない、それを落膽と言へば落膽でしよう。」

「そら見玉へ、僕ばかりじやアない、決してない、だから、喜んで居(い)るところを彫(ほる)のが平凡ならばだ、落膽して居る處だつて平凡だらう、どうですね、中倉の大先生、」と「加ト男」やゝ得意なり。

「だつて君のやうなのも無い、君は號外が出ないと生きて居る張り合いがないといふ次第じやアないか。」と中倉翁の答頗る可し。

「じやア僕ががつかりの總代といふのか」と加藤男亦た奇拔なことをいふ。

「だから君は我々の號外だ。」と中倉翁の言、更に妙。加藤君此時、椅子から飛び上つて、

「流石に中倉大先生樣だ、大に可かろう、落膽した處、大に可かろう、是非願います、題して號外、妙、妙、」と大滿足なり。

 それから一時間ばかり更に談じ且つ飮み、中倉翁は一足お先に、「加ト男」閣下はグウ/\卓(たく)にもたれて眠(ね)て了つたので、自分はホールを出た。

 銀座は銀座に違ないが、成程我が「號外」君も無理はない、市街まで落膽して居るやうにも見える。三十七年から八年の中頃までは、通りがゝりの赤の他人にさへ言葉をかけてみたいやうであつたのが、今では亦た以前(もと)の赤の他人同士の往來になつて了つた。

 其處で自分は戰爭(いくさ)でなく、外に何か、戰爭(いくさ)の時のやうな心持に萬人(みんな)がなつて暮す方法は無いものか知らんと考へた。考へながら歩るいた。