家蔵版「富永太郎郞集」の「第三部」の「翻訳詩」の思潮社版「現代詩文庫 富永太郎詩集」との異同 (やぶちゃん版)
或る
西班牙風の奉納物
わたくしのつかへまつる聖母さま、おんみの爲に、わたくしの悲しみの奧深く、地下の神壇を
わたくしの心のいと黑い片隅に、俗世の願ひ、また嘲けりの
懇ろに寶石の韻をちりばめた、純金屬の格子細工のやうに、
またわたくしの嫉妬の
おんみの
わたくしは神々しいへりくだつた
丹精こめた
處女たちの
わたくしの内なるものは、なべておんみを慈しみ、讚めたたへまする故、なべては安息香となり、沈香となり、乳香、沒藥となるでござりませう。
また、
さておんみが瑪利亞の役を完うし、かつはまた、おんみかぐろい
やぶちゃん校訂注:繰り返し記号以外の異同はない。
藝術家の
秋の日の暮方は何と身に沁み入ることだ。苦しいまでに身に沁みる。何故と言つて、朧ろげではあるが强さには事缺かぬ。えも言はれぬ或る感覺があるものだから。また、「無窮」の刄くらゐ鋭い刄はないものだから。
空と海との無限の中にわが眼を滴らせる味ひ! 孤獨、沈默、蒼空の類ない純潔! 地平線上にぶるぶる顫へてゐる小さな白帆、また、波の單調な旋律、これらすべてのものは私に依つて思考してゐる。もしくは、私がそれらのものに依つて思考してゐる(といふのは、夢想の宏大さの中では、「われ」は速かに消失するからだ!)。かれらは思考する、と私は云ふ、それは音樂的に、繪畫的に、理屈拔きに、三段論法も、演繹法も無しにだ。
これらの想念は、私から生ずるか、もしくは物象から逸出するや否や、必ず、あまりに强烈になる。快樂中に存するエネルギーが、一種の不快、一種の確實な苦惱を創り出す。あまりに張りきつた私の神經は、かん高い、苦しげな顫動をするのみだ。
今や空の深さが私を自失せしめる。空の透明さが私をいら立たせる。海の無感覺、風景の不動が私を裏切る。ああ、いつまでも惱まなければならぬのか。いつまでも美から逃れなければならぬのか。自然よ、無情の魔女よ、恆に勝ちほこつた敵よ、私を放してくれ! 私の願望と私の誇りとを唆かすのを止めてくれ! 美の硏究は一つの決鬪だ、そこに藝術家は、打ち敗かされる前に怖れの叫びを擧げてゐるのだ。
やぶちゃん校訂注:「朧ろげではあるが强さには事缺かぬえも言はれぬ或る感覺があるものだから。」は、家蔵版では、「朧ろげではあるが强さには事缺かぬえも言はれぬ或る感覺があるものだから。」であり、後者は「地平線上にぶるぶる顫へてゐる小さな白帆、その微小と孤獨とでもはや如何ともしがたい私の生活をかたどつてゐる白帆、また、波の單調な旋律、これらすべてのものは私に依つて思考してゐる。」で、大きくカットされている。また、新字体採用の思潮社版が、最後の「恒」を「恆」とした意図は、正直言って、私には不分明である。
道化とヸナス(ボオドレエル)
何といふすばらしい日だ! 廣大な公園は、
なべての物にあまねき此の有頂天を示す物音とてはない。河の水さへ眠つたやうである。ここには人の世の祭とは遙かに事かはつた、靜寂の大饗宴があるのだ。
不斷に增しつゝある光はますます物象を輝かせてゐるやうだ。上氣した花は、其の色の勢力を、空の瑠璃色と競はうとする欲望に燃えてゐる。そして熱は、
とはいへ、私はこの萬有の快樂の中に、一つの悲しんでゐる存在のあるのを知つてゐる。
巨大なヸナスの足許に、王達が「悔恨」や「倦怠」に惱まされるとき、彼等を笑はせるのを務めとする、かの人工の馬鹿、故意の道化の一人が、けばけばしい馬鹿げた
かくて、彼の
しかし假借することを知らぬヸナスは、その大理石の眼で、私にはどことも知れぬ遠い
やぶちゃん校訂注:題名を除き、「ヸナス」の「ヸ」の字体は、家蔵版では二箇所とも「井」の字に濁点であるが、通常の字体「ヸ」が用いられてある。「かほり」の歴史的仮名遣の誤りが補正されている。
午前一時に(ボオドレエル)
やつと獨りになれた! 聞えるものはのろくさい疲れきつた辻馬車の響ばかり。暫くは靜寂が得られるのだ、安息とは行かないまでも。暴虐をほしいままにした人間の顔もとうとう消え失せた、俺を惱ますものはもう俺自身ばかりだ。
やつと俺にも闇に浸つて疲を休めることが許されたのだ! まづ、扉の鍵を二度まはす。かうして鍵をまはすと、俺の孤獨が增すやうだ。現在この世から俺を隔ててゐる城壁が固くなるやうだ。
怖ろしい生活だ! 怖ろしい都會だ! 今日一日にしたことを數へ上げてみようか。五六人の文士に會つた。その一人は俺に陸路を通つてロシアへ行けるだらうかと訊くんだ、(あの男はきつとロシアを島だと思つてゐたにちがひない)。或る新聞の主筆を手ひどくやつつけた。あいつはいひわけをするたんびに一々「何しろここは立派な人たちがやつてゐるのですから」と言つたつけ。ほかの新聞はみんなならずものがやつてゐるといふつもりなのだ。二十人ばかりの人にお辭儀をした。そのうち十五人は知らない人だ。同じくらゐの割合で萬遍なく握手をした。それも、手袋を買ふときほども身を入れないで。
何人にも滿足のできない、自分にも滿足のできない俺は、夜の靜寂と孤獨の中ですつかり自分のからだになつて少しいい氣になりたいのだ。俺の愛した奴らの魂よ、俺の歌つたやつらの魂よ、俺を護つてくれ。俺を支へてくれ、いつはりと此の世の瘴氣とを俺から遠ざけてくれ。それから、あなたは、あゝ主たる神樣! 私が一ばん劣等な人間でないことを、自分の輕蔑した人たちにも劣つたものでないことを
やぶちゃん校訂注:赤字全体が、有意に異なる。最初のパートは「ウフツ」は「あゝあゝ」、「おしまいかい?」は「おしまいか。」で、後者は「あゝ主たる神様!」は「あゝ神よ、」、最後の部分は家蔵版では、「私が一ばん劣等な人間でないことを
計畫(ボオドレエル)
彼は淋しい大きな公園を散步しながら獨言つた、「あの女が襞の一杯ついてゐる贅を盡した宮廷服を着て、美しい
少し經つて或る
そして、その版畫の細部を仔細に檢べながら心の中でかう續けた、「
それから大きな並木道を步いて行くと、一軒の小奇麗な旅籠屋が眼についた。印度模樣の窓掛で飾つたそこの窓に二つの頭が笑ひながらよりかかつてゐる。忽ち彼は獨言つた、「こんな近くにあるものを、あんなに遠くまで探しに行くなんて、私の考へはよほどごろつき
かくて、「智慧」の忠言がもはや外面の生活のざわめきに壓へつけられなくなつた頃、彼はただ獨り家に歸つて獨言つた、「私は
やぶちゃん校訂注:「育てやう」の歴史的仮名遣が補正されてある。
醉へ!(ボオドレエル)
常に醉つてゐなければならない。ほかのことはどうでもよい――ただそれだけが問題なのだ。君の肩をくじき、君の
しかし何で醉ふのだ? 酒でも、詩でも、道德でも、何でも君のすきなもので。が、とにかく醉ひたまへ。
もしどうかいふことで王宮の階段の上や、堀端の靑草の上や、君の室の陰慘な孤獨の中で、既に君の醉ひが覺めかゝるか、覺めきるかして、目が覺めるやうなことがあつたら、風にでも、波にでも、星にでも、鳥にでも、時計にでも、すべての飛び行くものにでも、すべての唸くものにでも、すべての廻轉するものにでも、すべての歌ふものにでも、すべての話すものにでも、今は何時だときいてみたまへ。風も、波も、星も、鳥も、時計も君に答へるだらう。「今は醉ふべき時です! 『時』に虐げられる奴隷になりたくないなら、絕え間なくお醉なさい! 酒でも、詩でも、道德でも、何でもおすきなもので。」
やぶちゃん校訂注:「君の肩をくじき」は家蔵版は「君の肩を疲らせ」である。後者は赤字段落全体が改行されており、「風にでも、」の直前にあった「そのときは」が削除、「時計も君に答へるだらう」の後が読点から句点に変わっている。
窓(ボオドレエル)
開いた窓の外からのぞき込む人は決して閉ざされた窓を眺める人ほど多くのものを見るものではない。蠟燭の火に照らされた窓にもまして深い、神祕的な、豐かな、陰鬱な、人の眼を奪ふやうなものがまたとあらうか。日光の
波のやうに起伏した屋根の向ふに一人の女が見える。盛りをすぎて既に皺のよつた、貧しい女である。いつも何かに寄りかゝつてゐて、決して外へ出掛けることがない。私は此の女の顏から、衣物から、
これが若し憐れな年とつた男であつたとしても、私は全く同じ位容易に彼の傳說を造りあげたであらう。
それから私は他人の身になつて生活し、苦しんだことを誇りに思ひながら床に就くのである。
諸君はかう云ふかも知れない、「その話しが事實だといふことは確かゝね?」私の
やぶちゃん校訂注:繰り返し記号以外の異同はない。
港(ボオドレエル)
港は人生の鬪に疲れた魂には快い
やぶちゃん校訂注:後半の「頰杖ついたりしながら眺め」に続いていた「やうとする」が、削除。
射的場と墓地(ボオドレエル)
墓地見晴し御
彼は入つて行つて、基地に向つて一杯のビールをのみ、それからゆつくりとシガーを一本吸つた。すると、幻想が彼を驅つて墓地の中へと降りて行かせた。そこの草は、そんなに丈が高く、そんなに人を誘ふやうだつたのだ、そこには、そんなに豐滿な太陽が權威を振つてゐたのだ。
實際光と熱とは其處を煮えくり返して居た。まるで陶醉した太陽が、破壞作用の爲に肥え太つた太陽が、すばらしい花の絨氈の上をのたうち廻つてゐるやうであつた。おびただしい生命の囁きが――限りなく微細なものの生命の囁きが空中を滿たしてゐた――ひそやかシンフオニーのざわめきの中に、丁度シヤンパンの栓が拔けるやうな音をたてて、隣りの射的場から響いて來る小銃の音が、一定の合ひ間ごとにそれを斷ち切つてゐた。
此の時、彼は彼の腦髓を燃え立たせてゐる太陽の下に、燒けつくやうな「死」の臭ひに滿ちてゐる大氣の中に、彼の坐つてゐる墓の下でさゝやく聲を聞いた。その聲は云つた、「お前達の
やぶちゃん校訂注:「御休處」の「お」のルビが、ない。「實際光と熱とは其處を煮えくり返して居た。」は「實際光と熱とは猛烈を極めたものであつた。」である。「シンフオニー」は「シンフォニー」、そして、最終段落は激しく異なり、家蔵版は、『忽ち、彼は彼の腦髓を燃え立たせてゐる太陽の下に、燒けつくやうな「死」の臭ひに滿ちてゐる大氣の中に、彼の坐つてゐる墓の下でさゝやく聲を聞いた。』とあって、次の「その聲は云つた、」に繋がっている。
ANY WHERE OUT OF THE WORLD(ボオドレエル)
人生は一つの病院である。そこに居る患者はみんな寢臺を換へようと夢中になつてゐる。或るものはどうせ苦しむにしても、せめて煖爐の側でと思つてゐる。また或るものは、窓際へ行けばきつとよくなると信じてゐる。
私はどこか他の處へ行つたらいつも幸福でゐられさうな氣がする。この轉居の問題こそ、私が年中自分の魂と談し合つて居る問題の一つなのである。
「ねえ、私の魂さん、可哀さうな、かじかんだ魂さん、リスボンに住んだら何うだと思ふね? あそこはきつと暖かいから、お前は蜥蜴みたように元氣になるよ。あの町は
私の魂は答へない。
「お前は活動してゐるものを見ながら靜かにしてゐるのが好きなんだから、オランダへ――あの幸福な國へ行つて住まうとは思はないかい。畫堂にある繪でよくほめてゐたあの國へ行つたら、きつと氣が晴々するよ。ロツテルダムはどうだね。何しろお前は
私の魂はやつぱり默つてゐる。
「バタビヤの方が氣に入るかも知れない。その上あそこには熱帶の美と結婚したヨーロツパの美があるよ。」
一
「ぢあお前は
遂に、突然私の魂は口を切つた。そして賢くもかう叫んだ、「どこでもいゝわ! 此の世の外なら!」
やぶちゃん校訂注:「煖爐」は「暖爐」、最終行は、『遂に、突然私の魂は口を切つた、そして賢くもかう叫んだのである、「どこでもいいわ! 此の世の外なら!」』である。
饑餓の饗宴(アルチウル・ランボオ)
俺の
驢馬に乘つて 逃げろ。
俺に
食ひたいものは、土と石。
ヂヌ、ヂヌ、ヂヌ、ヂヌ、空氣を食はう、
岩を、火を、鐵を。
俺の
毒を吸へ。
貧者の碎いた 礫を啖へ、
敎會堂の 古びた石を、
洪水の子なる
くすんだ谷に 臥てゐる
俺のは、黑い空氣のどんづまり、
鳴り響く蒼空!
――俺を牽くのは 胃の腑ばかり、
それが不幸だ。
地の上に 葉が現はれた。
饐えた果實の 肉へ行かう。
俺の饑よ、アヌ、アヌ、
驢馬に乘つて逃げろ。
やぶちゃん校訂注:第三連二行目の「磧」に「かはら」のルビがない。