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  家蔵版「富永太郎郞集」の「第三部」の「翻訳詩」の思潮社版「現代詩文庫 富永太郎詩集」との異同 (やぶちゃん版)




やぶちゃん注:以下の詩は、私のポリシーから、家蔵版「富永太郞詩集」の旧字を生かし、且つ、思潮社版「現代詩文庫 富永太郎詩集」(一九七五年刊)所載のそれらの、異同のある箇所を書き換えたものである(因みに完全相同の詩篇は一つもない)。異同部分を含む一文、又は、句・文節・単語・記号を赤字で示した。また、思潮社版通りの繰り返し記号(「ゝ」)に変えてもある。即ち、家蔵版の旧字表記を信頼した上での校訂テクストということになり、完全なオリジナルと同じであるかどうかは、疑問の余地はある。しかし、その校訂上のリスクは極めて低いと考えてよいであろう。同時に家蔵版のページを開いて、対比されたい。これによって、本詩篇群には、家蔵版が依拠した原稿とは異なるものがあるか、或いは、家蔵版が元にした原稿内に複数の書き入れがあり、それらが並存して生きていた可能性があることが判る。詩篇によっては、家蔵版と有意に異なるものがあるからである。なお、作家の表記は思潮社版では、「ボードレール」「ランボー」で題名の下インデントあるが、これは編者による勝手な変更と断じて異同とせず、家蔵版のままの表記の通り、題名の直下への丸括弧とした。【2022年9月10日追記】本ページは2005年10月9日に公開したが、杜撰な部分が多くあった。家蔵版を二日前にリニューアルしたのに合せて、全面的に書き変えた。






 或るまどんな﹅﹅﹅﹅(ボオドレエル)
       西班牙風の奉納物



 わたくしのつかへまつる聖母さま、おんみの爲に、わたくしの悲しみの奧深く、地下の神壇を建立こんりふしたい心願にござります。
 わたくしの心のいと黑い片隅に、俗世の願ひ、また嘲けりのの及ばぬあたり、おんみのおごそかな御像みすがたの立たせまするやう、紺と金との七寶の聖盒をしつらへたい心願にござります。
 懇ろに寶石の韻をちりばめた、純金屬の格子細工のやうに、みがきあげたわたくしのうたで、おんみの御頭おつもりの爲に、大寶冠を造るでござりませう。
 またわたくしの嫉妬の布地きれぢで、永遠とこしへならぬ聖母さま、おんみの爲に、外套まんとおつでござりませう。仕立ては品あしく、ぎごちなく、不恰好で、なほまた裏地は疑ひの心でありまする故、隱處かくれがのやうにおんみのあでやかさを包み隱すでござりませう。緣も眞珠ではござりませぬ、ありとあるわたくしの淚の玉でふちどりまする。
 おんみの聖衣みころもは打慄へて波をうつわたくしの欲望ねがひで造りまする。わたくしの欲望ねがひは高くまた低く、皺襞ひだの高みでは打ゆらぎ、谷あひでは鎭まりまするが、白と薔薇色のおんみの御體みからだを一樣に接吻くちづけおほひまする。
 わたくしは神々しいへりくだつたおん足の爲に、わたくしのうやまひの心で美しい繻子のおん靴を造りまする、善い鑄型がかたを守る如く、しつくりとおん足を抱き
つつみまするやう。
 丹精こめたかひもなく、しろがねの月をつて足の臺とすることがかなひませぬならば、わたくしのはらわたを齒むくちなはかかとの下に置くでござりませう、いとさはに罪を贖ひたまふ、榮光さかえある女王さま、憎惡と唾液とに脹れあがつたこの妖怪をおんみの踏み弄びまするやう。
 處女たちの女王きみのゐます、花飾りした神壇の前の大蠟燭のやうに、立ち列ぶわたくしのもろもろの想念が、星のやうに空色の天井に照り映えて、燃ゆる眼で飽かずおんみを凝視うちまもるをみそなはすでござりませう。
 わたくしの内なるものは、なべておんみを慈しみ、讚めたたへまする故、なべては安息香となり、沈香となり、乳香、沒藥となるでござりませう。
 また、暴風雨あらしのやうに立ち騷ぐわたくしの精靈は、霧となつて、まつしろな雪の峯なるおんみのかたへ、絕え間なくたち騰るでござりませう。

 さておんみが瑪利亞の役を完うし、かつはまた、おんみかぐろい快樂けらくよ、七戒を破る蠻氣をいとしさに混ぜ合はさうとて、悔恨に滿ちたわたくし死刑執行人は、七本のやいばを硏ぎすまし、いと深いおんみの愛をとつてつかとなし、ひくひくとつおんみの心の臟に、啜り泣くおんみの心の臟に、血を噴き上ぐるおんみの心の臟に、奇術師の無感覺もて七本ながら立ててしまふでござりませう。


やぶちゃん校訂注:繰り返し記号以外の異同はない。






 藝術家の告白祈禱コンフイテオール(ボオドレエル)


 秋の日の暮方は何と身に沁み入ることだ。苦しいまでに身に沁みる。何故と言つて、朧ろげではあるが强さには事缺かぬ。えも言はれぬ或る感覺があるものだから。また、「無窮」の刄くらゐ鋭い刄はないものだから。
 空と海との無限の中にわが眼を滴らせる味ひ! 孤獨、沈默、蒼空の類ない純潔! 
地平線上にぶるぶる顫へてゐる小さな白帆、また、波の單調な旋律、これらすべてのものは私に依つて思考してゐる。もしくは、私がそれらのものに依つて思考してゐる(といふのは、夢想の宏大さの中では、「われ」は速かに消失するからだ!)。かれらは思考する、と私は云ふ、それは音樂的に、繪畫的に、理屈拔きに、三段論法も、演繹法も無しにだ。
 これらの想念は、私から生ずるか、もしくは物象から逸出するや否や、必ず、あまりに强烈になる。快樂中に存するエネルギーが、一種の不快、一種の確實な苦惱を創り出す。あまりに張りきつた私の神經は、かん高い、苦しげな顫動をするのみだ。
 今や空の深さが私を自失せしめる。空の透明さが私をいら立たせる。海の無感覺、風景の不動が私を裏切る。ああ、いつまでも惱まなければならぬのか。いつまでも美から逃れなければならぬのか。自然よ、無情の魔女よ、
に勝ちほこつた敵よ、私を放してくれ! 私の願望と私の誇りとを唆かすのを止めてくれ! 美の硏究は一つの決鬪だ、そこに藝術家は、打ち敗かされる前に怖れの叫びを擧げてゐるのだ。

やぶちゃん校訂注:「朧ろげではあるが强さには事缺かぬえも言はれぬ或る感覺があるものだから。」は、家蔵版では、「朧ろげではあるが强さには事缺かぬえも言はれぬ或る感覺があるものだから。」であり、後者は「地平線上にぶるぶる顫へてゐる小さな白帆、その微小と孤獨とでもはや如何ともしがたい私の生活をかたどつてゐる白帆、また、波の單調な旋律、これらすべてのものは私に依つて思考してゐる。」で、大きくカットされている。また、新字体採用の思潮社版が、最後の「恒」を「」とした意図は、正直言って、私には不分明である。





 道化とヸナス(ボオドレエル)


 何といふすばらしい日だ! 廣大な公園は、愛神アムールの支配の下にある若者のやうに、太陽のぎらぎらしたまなこの下に悶絕してゐる。
 なべての物にあまねき此の有頂天を示す物音とてはない。河の水さへ眠つたやうである。ここには人の世の祭とは遙かに事かはつた、靜寂の大饗宴があるのだ。
 不斷に增しつゝある光はますます物象を輝かせてゐるやうだ。上氣した花は、其の色の勢力を、空の瑠璃色と競はうとする欲望に燃えてゐる。そして熱は、
かほりを目に見えるものにして、烟のやうに、かの天體の方へと立ち昇らせてゐる。
 とはいへ、私はこの萬有の快樂の中に、一つの悲しんでゐる存在のあるのを知つてゐる。
 巨大な
ナスの足許に、王達が「悔恨」や「倦怠」に惱まされるとき、彼等を笑はせるのを務めとする、かの人工の馬鹿、故意の道化の一人が、けばけばしい馬鹿げたころもを身にまとひ、鈴附きのつの形帽子を戴いて、臺石のもとにうづくまり、淚に滿ちたまなこで永遠の女神を見上げてゐる。
 かくて、彼のまなこは云ふ――「私は愛と友情とを奪はれた、人間の中で一ばん下等な、一ばん孤獨なものでございます。この點では、私は動物の中の最も不完全なものにも劣つて居ります。それでも――私でもやはり、永遠の美を味はつたり、感じたりするやうに造られて居るのです。ああ、女神かみさま! 私の悲しみと熱狂とを憐んで下さいまし。」
 しかし假借することを知らぬ
ナスは、その大理石の眼で、私にはどことも知れぬ遠いかたを眺めてゐる。



やぶちゃん校訂注:題名を除き、「ヸナス」の「ヸ」の字体は、家蔵版では二箇所とも「井」の字に濁点であるが、通常の字体「ヸ」が用いられてある。「かほり」の歴史的仮名遣の誤りが補正されている。





 午前一時に(ボオドレエル)


 やつと獨りになれた! 聞えるものはのろくさい疲れきつた辻馬車の響ばかり。暫くは靜寂が得られるのだ、安息とは行かないまでも。暴虐をほしいままにした人間の顔もとうとう消え失せた、俺を惱ますものはもう俺自身ばかりだ。
 やつと俺にも闇に浸つて疲を休めることが許されたのだ! まづ、扉の鍵を二度まはす。かうして鍵をまはすと、俺の孤獨が增すやうだ。現在この世から俺を隔ててゐる城壁が固くなるやうだ。
 怖ろしい生活だ! 怖ろしい都會だ! 今日一日にしたことを數へ上げてみようか。五六人の文士に會つた。その一人は俺に陸路を通つてロシアへ行けるだらうかと訊くんだ、(あの男はきつとロシアを島だと思つてゐたにちがひない)。或る新聞の主筆を手ひどくやつつけた。あいつはいひわけをするたんびに一々「何しろここは立派な人たちがやつてゐるのですから」と言つたつけ。ほかの新聞はみんなならずものがやつてゐるといふつもりなのだ。二十人ばかりの人にお辭儀をした。そのうち十五人は知らない人だ。同じくらゐの割合で萬遍なく握手をした。それも、手袋を買ふときほども身を入れないで。驟雨にはかあめのあひだひまつぶしに踊り子のところに上りこんでゐたら、ヹニユストルの衣裳圖案を描いてくれと賴まれた。劇場の支配人のところへ敬意を表しに行つたら、俺に暇を出すと言ひ渡してこんなことを言つた、「
Zのところへ行つてみたらいいでせう。あの男はここの作者のなかでも一ばんぐづ﹅﹅で、一ばん馬鹿で、一ばん評判がいいんだから、あすこへ行つたら何とかなるでせう。まあ行つてごらんなさい、そしてまた會ひませう。」俺はしたこともない悪事を自慢して話した。(なぜなんだらう?)。それでゐて、喜んでやつたほかのわるさは卑怯にも否定してしまつた。見え坊から出た咎だ、世間への氣兼ねから出た罪だ。或る友人に譯もない用事をしてやるのを拒んで、根つから下らない男に推薦狀を書いてやつた。ウフツ、それもすつかりおしまひかい?
 何人にも滿足のできない、自分にも滿足のできない俺は、夜の靜寂と孤獨の中ですつかり自分のからだになつて少しいい氣になりたいのだ。俺の愛した奴らの魂よ、俺の歌つたやつらの魂よ、俺を護つてくれ。俺を支へてくれ、いつはりと此の世の瘴氣とを俺から遠ざけてくれ。
それから、あなたは、あゝ主たる神樣! 私が一ばん劣等な人間でないことを、自分の輕蔑した人たちにも劣つたものでないことをあかしするために、數篇のよき詩を書くことを許させたまへ。



やぶちゃん校訂注:赤字全体が、有意に異なる。最初のパートは「ウフツ」は「あゝあゝ」、「おしまいかい?」は「おしまいか。」で、後者は「あゝ主たる神様!」は「あゝ神よ、」、最後の部分は家蔵版では、「私が一ばん劣等な人間でないことをあかしするために、私が自分の輕蔑した人たちにも劣つたものでないことをあかしするために、私に數篇のよき詩を書くことを許させたまへ。」である。





 計畫(ボオドレエル)


 彼は淋しい大きな公園を散步しながら獨言つた、「あの女が襞の一杯ついてゐる贅を盡した宮廷服を着て、美しい黃昏たそがれの中を、廣い芝生と泉水に向つた宮殿の大理石の石段を降りて來たらどんなに美しいだらう! なぜといつて、あの女は生れつき王女の風があるからな。」
 少し經つて或るまちを通りかかつたとき、彼は一軒の製版店の前に立止まつた。そして紙挾の中に熱帶地方の風景の版畫を見付けて獨言つた、「いや! 私があの女の尊い生命を自分のものにしたいところは宮殿の中などではない。そんなところでは落ち着いた氣持になれはしない。おまけに、あの金をちりばめた壁はあの女の肖像を懸ける場所ではない。あの業々しい畫廊にはしつくりした場所が一つもないのだ。たしかに、私が私の生命の夢を
育てようと思ふなら、住むべき處はあそこ﹅﹅﹅だ。」
 そして、その版畫の細部を仔細に檢べながら心の中でかう續けた、「海岸うみぎしには、何といふ名だか忘れてしまつたが、奇妙なつやつやした木に圍まれた、丸木造りのきれいな小屋……空中には、人を醉はすやうな何とも言へないかほり……小屋の中には、薔薇と麝香のさかんなにほひ、一寸離れて私たちの小さな屋敷の後ろには、波のうねりで搖れてゐるマストの端が見える……私たちのまはりには、窓掛を透してくる薔薇色の光に輝らされて、瀟洒しやれた花茣蓙と頭へ來るやうな香りの花で飾られた部屋――重い眞黑な材で造つた葡萄牙ロココ風の珍らしい長椅子がある(その上で彼女は、輕く阿片を混ぜた煙草を吸ひながら、靜かに、よく扇がれて坐るだらう!)。床材のむかうには、光に醉つた鳥のはばたき、小さな黑奴くろんぼ女のさざめき……夜になれば、私の夢の伴奏をしようとて、音樂的な木立どもが、憂鬱な木麻黃フイラオスが、物悲しい歌をうたふ! さうだ、たしかに、私の欲しい飾りはあそこ﹅﹅﹅にあるのだ。宮殿などは何で私にかかはりがあらう。」
 それから大きな並木道を步いて行くと、一軒の小奇麗な旅籠屋が眼についた。印度模樣の窓掛で飾つたそこの窓に二つの頭が笑ひながらよりかかつてゐる。忽ち彼は獨言つた、「こんな近くにあるものを、あんなに遠くまで探しに行くなんて、私の考へはよほどごろつきしやうにちがひない。歡樂と幸福は一番手近かな旅籠屋にあるのだ――選り好みするにはあたらない、こんなに快樂に富んだ旅籠屋にあるのだ。大きな爐、けばけばしい陶器、あまり上等でない夜食、澁い葡萄酒、少々ごはごははしてゐるがさつばりした敷布のかかつた馬鹿に大きな寢臺――それで澤山だ。」
 かくて、「智慧」の忠言がもはや外面の生活のざわめきに壓へつけられなくなつた頃、彼はただ獨り家に歸つて獨言つた、「私は今日けふ夢に、同じ樣な樂しみのある三つの棲處すみかを得たのだ。私の魂はこんなに輕々と旅をするのに、なぜ私の身體からだの居場所を變へなければならないのだらう! 計畫だけでも充分な快樂だのに、何でその計畫をやり遂げようとするのだらう?」




やぶちゃん校訂注:「育てやう」の歴史的仮名遣が補正されてある。





 醉へ!(ボオドレエル)


 常に醉つてゐなければならない。ほかのことはどうでもよい――ただそれだけが問題なのだ。君の肩をくじき、君のからだを地に壓し曲げる恐ろしい「時」の重荷を感じたくないなら、君は絕え間なく醉つてゐなければならない。
 しかし何で醉ふのだ? 酒でも、詩でも、道德でも、何でも君のすきなもので。が、とにかく醉ひたまへ。
 
もしどうかいふことで王宮の階段の上や、堀端の靑草の上や、君の室の陰慘な孤獨の中で、既に君の醉ひが覺めかゝるか、覺めきるかして、目が覺めるやうなことがあつたら、風にでも、波にでも、星にでも、鳥にでも、時計にでも、すべての飛び行くものにでも、すべての唸くものにでも、すべての廻轉するものにでも、すべての歌ふものにでも、すべての話すものにでも、今は何時だときいてみたまへ。風も、波も、星も、鳥も、時計も君に答へるだらう。「今は醉ふべき時です! 『時』に虐げられる奴隷になりたくないなら、絕え間なくお醉なさい! 酒でも、詩でも、道德でも、何でもおすきなもので。」



やぶちゃん校訂注:「君の肩をくじき」は家蔵版は「君の肩を疲らせ」である。後者は赤字段落全体が改行されており、「風にでも、」の直前にあった「そのときは」が削除、「時計も君に答へるだらう」の後が読点から句点に変わっている。





 (ボオドレエル)


 開いた窓の外からのぞき込む人は決して閉ざされた窓を眺める人ほど多くのものを見るものではない。蠟燭の火に照らされた窓にもまして深い、神祕的な、豐かな、陰鬱な、人の眼を奪ふやうなものがまたとあらうか。日光のもとで人が見ることの出來るものは、窓ガラスの内側で行はれることに比べれば常に興味の少ないものである。此の黑い、もしくは明るい空の中で、生命が生活し、生命が夢み、生命が惱むのである。
 波のやうに起伏した屋根の向ふに一人の女が見える。盛りをすぎて既に皺のよつた、貧しい女である。いつも何かに寄りかゝつてゐて、決して外へ出掛けることがない。私は此の女の顏から、衣物から、擧動ものごしから、いや殆んど何からといふことはなく、此の女の身の上話を――といふよりは、むしろ傳說を造り上げてしまつた、そして私は時々淚を流しながら、この話を自分に話して聞かせるのである。
 これが若し憐れな年とつた男であつたとしても、私は全く同じ位容易に彼の傳說を造りあげたであらう。
 それから私は他人の身になつて生活し、苦しんだことを誇りに思ひながら床に就くのである。
 諸君はかう云ふかも知れない、「その話しが事實だといふことは確か
ね?」私のそとにある眞實がどんなものであらうと何の關りがあるものか――若しそれが、私が生活する助けとなり、私が自分の存在してゐることと、自分が何であるかといふことを感ずる助けとなつたものならば。


やぶちゃん校訂注:繰り返し記号以外の異同はない。





 (ボオドレエル)


 港は人生の鬪に疲れた魂には快い住家すみかである。空の廣大無邊、雲の動搖する建築、海の變りやすい色彩、燈臺の煌き、これらのものは眼をば決して疲らせることなくして、樂しませるに恰好な不可思議な色眼鏡である。調子よく波に搖られてゐる索具つなぐの一杯ついた船の花車きやしやな姿は、魂の中にリズムと美とに對する鑑識を保つのに役立つものである。とりわけ、そこには、出發したり到着したりする人々や、欲望する力や、旅をしたり金持にならうとする願ひを未だ失はぬ人々のあらゆる運動を、望樓の上にねそべつたり、防波堤の上に頰杖ついたりしながら眺め、好奇心も野心もなくなつた人間にとつて、一種の神祕的な貴族的な快樂があるものである。



やぶちゃん校訂注:後半の「頰杖ついたりしながら眺め」に続いていた「やうとする」が、削除。





 射的場と墓地(ボオドレエル)


 墓地見晴し御休處やすみどころ――「妙な看板だな」――と我が散策者は獨言つた――「それにしても、あれを見ると實際喉が渇く樣に出來てゐる! きつとこゝの主人は、オラースや、エピキユールの弟子の詩人たちぐらゐは解つてゐるにちがひない。事によつたら、骸骨か、何か人生のはかなさを示すしるしがなくては宴會が出來なかつた、古代挨及人程ひどく凝り性なのかもしれない。」
 彼は入つて行つて、基地に向つて一杯のビールをのみ、それからゆつくりとシガーを一本吸つた。すると、幻想が彼を驅つて墓地の中へと降りて行かせた。そこの草は、そんなに丈が高く、そんなに人を誘ふやうだつたのだ、そこには、そんなに豐滿な太陽が權威を振つてゐたのだ。
 
實際光と熱とは其處を煮えくり返して居た。まるで陶醉した太陽が、破壞作用の爲に肥え太つた太陽が、すばらしい花の絨氈の上をのたうち廻つてゐるやうであつた。おびただしい生命の囁きが――限りなく微細なものの生命の囁きが空中を滿たしてゐた――ひそやかシンフオニーのざわめきの中に、丁度シヤンパンの栓が拔けるやうな音をたてて、隣りの射的場から響いて來る小銃の音が、一定の合ひ間ごとにそれを斷ち切つてゐた。
 
此の時、彼は彼の腦髓を燃え立たせてゐる太陽の下に、燒けつくやうな「死」の臭ひに滿ちてゐる大氣の中に、彼の坐つてゐる墓の下でさゝやく聲を聞いた。その聲は云つた、「お前達の標的まとも小銃も呪はれろ、地下のものと、其の神聖な休息とのことを少しも考へぬ、騷々しい生物いきものよ! お前達の野心も、計畫も呪はれろ、『死』の聖殿みやの側で、殺人の術を學ばうとする我慢のならぬ人間どもよ! 如何に報酬が得易いか、如何に目的が達し易いか、また『死』を除いては、すべてが如何に空しいものだかを知つたなら、お前達はそんなに疲れきつてはゐなからうに、勤勉な生物いきものよ、そしてずつと以前に『目的』を――厭ふべき人生の唯だ一つの眞實の目的を達してゐる人達の眠りをこんなに度々妨げることはなからうに!」



やぶちゃん校訂注:「御休處」の「お」のルビが、ない。「實際光と熱とは其處を煮えくり返して居た。」は「實際光と熱とは猛烈を極めたものであつた。」である。「シンフオニー」は「シンフォニー」、そして、最終段落は激しく異なり、家蔵版は、『忽ち、彼は彼の腦髓を燃え立たせてゐる太陽の下に、燒けつくやうな「死」の臭ひに滿ちてゐる大氣の中に、彼の坐つてゐる墓の下でさゝやく聲を聞いた。』とあって、次の「その聲は云つた、」に繋がっている。






 ANY WHERE OUT OF THE WORLD(ボオドレエル)


 人生は一つの病院である。そこに居る患者はみんな寢臺を換へようと夢中になつてゐる。或るものはどうせ苦しむにしても、せめて煖爐の側でと思つてゐる。また或るものは、窓際へ行けばきつとよくなると信じてゐる。
 私はどこか他の處へ行つたらいつも幸福でゐられさうな氣がする。この轉居の問題こそ、私が年中自分の魂と談し合つて居る問題の一つなのである。
「ねえ、私の魂さん、可哀さうな、かじかんだ魂さん、リスボンに住んだら何うだと思ふね? あそこはきつと暖かいから、お前は蜥蜴みたように元氣になるよ。あの町は海岸うみぎしで、家は大理石造りださうだ。それからあの町の人は植物が大嫌ひで、木はみんな引き拔いてしまふさうだ。あすこへ行けば、お前のお好みの景色があるよ、光と鑛物で出來上つた景色だ、それが映る水もあるしね。」
 私の魂は答へない。
「お前は活動してゐるものを見ながら靜かにしてゐるのが好きなんだから、オランダへ――あの幸福な國へ行つて住まうとは思はないかい。畫堂にある繪でよくほめてゐたあの國へ行つたら、きつと氣が晴々するよ。ロツテルダムはどうだね。何しろお前はマストの林と、家の際にもやつてある船が大好きなんだから。」
 私の魂はやつぱり默つてゐる。
「バタビヤの方が氣に入るかも知れない。その上あそこには熱帶の美と結婚したヨーロツパの美があるよ。」
 一ことも言はない。――私の魂は死んでゐるのだらうか?
「ぢあお前はわづらつてゐなければ面白くないやうな麻痺狀態になつてしましまつたのかい? そんなになつてゐるなら、「死」にそつくりな國へ逃げて行かう――萬事僕が呑み込んでゐるよ、可哀さうな魂さん! トルネオ行きの支度をしよう。いやもつと遠くへ――バルチク海のはてまで行かう。出來るなら人間の居ないところまで行かう。北極まで住まう。そこでは太陽の光はただ斜に地球をかすつて行くだけだ。晝と夜とののろい交替が變化を無くしてしまふ。そして單調を――虛無の此の半分を增すのだ。そこでは長いこと闇に浸つてゐられる。北極光は僕等を樂しませようと思つて、時々地獄の花火の反射のやうに薔薇色の花束を送つてくれるだらう。」
 
遂に、突然私の魂は口を切つた。そして賢くもかう叫んだ、「どこでもいゝわ! 此の世の外なら!」



やぶちゃん校訂注:「煖爐」は「暖爐」、最終行は、『遂に、突然私の魂は口を切つた、そして賢くもかう叫んだのである、「どこでもいいわ! 此の世の外なら!」』である。





 饑餓の饗宴(アルチウル・ランボオ)


 俺のうゑよ、アヌ、アヌ、
  驢馬に乘つて 逃げろ。

俺に食氣くひけが あるとしたら、
食ひたいものは、土と石。
ヂヌ、ヂヌ、ヂヌ、ヂヌ、空氣を食はう、

岩を、火を、鐵を。

俺のうゑよ、廻れ、去れ。
  おんの平原!
旋花ひるがほのはしやいだ
  毒を吸へ。

貧者の碎いた 礫を啖へ、
 敎會堂の 古びた石を、
 洪水の子なる 
の石を、
くすんだ谷に 臥てゐる麵麭パンを。

俺のは、黑い空氣のどんづまり、
 鳴り響く蒼空!
――俺を牽くのは 胃の腑ばかり、
  それが不幸だ。

地の上に 葉が現はれた。
饐えた果實の 肉へ行かう。
うねの胸で 俺が摘むのは、
野萵苣のぢしやに菫。

 俺の饑よ、アヌ、アヌ、
 驢馬に乘つて逃げろ。




やぶちゃん校訂注:第三連二行目の「磧」に「かはら」のルビがない。