[やぶちゃん注:大正十(1921)年一月発行の雑誌『新家庭』に掲載された。底本は岩波版旧全集を用いたが、底本の総ルビは、誤読の虞れのあるもののみのパラルビとした。なお、芥川龍之介「英米の文学上に現はれた怪異」も参照のこと。]
近頃の幽靈 芥川龍之介
西洋の幽靈――と云つても英米だけだが、その英米の小説に出て來る、近頃の幽靈の話でも少ししませう。少し古い所から勘定すると、英吉利には名高い「オトラントの城」を書いたウオルポオル、ラドクリツフ夫人、マテユリン(この人の「メルモス」は、バルザツクやゲエテにも影響を與へたので有名だが)、「僧(モンク」を書いて僧(モンク)ルイズの渾名をとつたルイズ、スコツト、リツトン、ホツグなどがあるし、亞米利加にはポオやホウソオンがあるが、幽靈――或は一般に妖怪を書いた作品は今でも存外少くない。殊に歐洲の戰役以來、宗教的な感情が瀰蔓(びまん)すると同時に、いろいろ戰爭に關係した幽靈の話も出て來たやうです。戰爭文學に怪談が多いなどは、面白い現象に違ひないでせう。何しろ悌蘭西のやうな國でさへ、丁度昔のジアン・ダアクのやうに、クレエル・フエルシヨオと云ふ女が出て、基督や天使を目のあたりに見る。ポアンカレエやクレマンソオがその女を接見する。フオツシユ將軍が信者になる。――と云ふやうな次第だから、小説の方へも超自然の出來事が盛にはひつて來たのは當然です。この種の小説を讀んで見ると、中々奇拔な怪談がある。これは亞米利加が歐洲の戰役へ參加した後に出來た話ですが、ワシントンの幽靈が亞米利加獨立軍の幽靈と一しょに大西洋を横斷して祖國の出征軍に一臂(ぴ)の勞を貸しに行くと云ふ小説がある。(Harrison Rhodes: Extra Men.)ワシントンの幽靈は振つてゐませう。さうかと思ふと佛蘭西の女の兵隊と獨乙の兵隊とが對峙してゐる、獨乙の兵隊は虜にした幼兒を楯にして控へてゐる。その時戰死した佛蘭西の男の兵隊が、――女の兵隊の御亭主たちの幽靈が、霧のやうに殺到して獨乙の兵隊を逐ひ散らしてしまふ、と云つた筋の話もある。(Frances Gilchrist Wood: The White Battalion.)兔に角種類の上から云ふと、近頃の幽靈を書いた小説の中では、既にこの方面專門の小説家さへ出てゐる位、(Arthur Machen など)戰爭物が目立つてゐるやうです。
種類の上の話はこの位にするが、一般に近頃の小説では、幽靈或は妖怪の書き方が、餘程科學的になつてゐる。決してゴシツク式の怪談のやうに、無暗に血だらけな幽靈が出たり骸骨が踊りを踊つたりしない。殊に輓近(ばんきん)の心靈學の進歩は、小説の中の幽靈に驚くべき欒化を與へたやうです。キツプリング、ブラツクウツド、ビイアスと數へて來るとどうも皆其机の抽斗(ひきだし)には心靈學會の研究報告がはひつてゐさうな心もちがする。殊にブラツクウツドなどは(Algernon Black-wood)御當人が既にセオソフイストだから、どの小説も悉く心靈學的に出來上つてゐる。この人の小説に「ジヨン・サイレンス」と云ふのがあるがそのサイレンス先生なるものは、云はば心靈學のシヤアロツク・ホオムス氏で、化物屋敷へ探檢に行つたり惡靈(あくれい)に憑かれたのを癒(なほ)してやつたりする。それを一々書き並べたのが一篇の結構になつてゐる訣です。それから又「双子」と云ふ小説がある。これは極短い物ですが、双子が一人になつてしまふ。――と云つたのでは通じないでせう、双子が體は二つあつても、魂は一つになつてしまふ。一人に二人分の性格が出來ると同時に、他の一人は白痴になつてしまふ。その徑路を書いたものですが、外界には何も起らずに、内界に不思議な變化の起る所が、頗る巧妙に書いてある。これなどはルイズやマテユリンには、到底見られない離れ業です。序にもう一つ例を擧げると、ウエルスが始めて書いたとか云ふ第四の空間の話がいろいろある。つまり普通の空間の外に、もう一つ別な空間があつて、何かの拍子に其處へはひると、當人はちやんと生きてゐても、この世界の人間には姿が見えない。云はば日本の神隱しに、新解繹を加へたやうなものです。これはその後(ご)ビイアスが、第四の空間へはひる刹那までも、簡勁(かんけい)に二三書いてゐる。殊に或少年が行く方知れずになる。尤も或所までは雪の中に、はつきり足跡が殘つてゐる。が、それぎりどうしたか、後にも先にも行つた容子がない。唯、母親が其處へ行くと、聲だけ聞えたと云ふなどは、一二枚の小品だがあはれな氣がする。ビイアスは無氣味な物を書くと、少くとも英米の文壇では、ポオ以後第一人の觀のある男ですが、(Ambrrose Bierce)御當人も第四の空間へでも飛びこんだのか、メキシコか何處(どこ)かへ行く途中、杳として行く方を失つた儘、わからずしまひになつてゐるさうです。
幽靈――或は妖怪の書き方が變つて來ると同時に、その幽靈――或は妖怪にも、いろいろ變り種が殖えて來る。一例を擧げるとブラツクウツドなどには、エレメンタルスと云ふやつが、時々小説の中へ飛び出して來る。これは火とか水とか土とか云ふ、古い意味の元素の靈です。エレメンタルスの名は元よりあつたでせうが、その活動が小説に現れ出したのは、近頃の事に違ひありますまい。ブラツクウツドの「柳」と云ふ小説を讀むと、ダニウブ河へボオト旅行に出かけた二人の青年が、河の中の洲に茂つてゐる柳のエレメンタルスに惱まされる。――エレメンタルスの描寫は兎も角も、夜營の所は器用に書いてあります。この柳の靈なるものは、かすかな銅鑼(どら)のやうな聲を立てる所までは好(い)いが、三十三間堂のお柳(りう)などとは違つて、人間を殺しに來るのださうだから、中々油斷はなりません。その外にまだ何とも得體の知れない妙な物の出て來る小説がある。妙な物と云ふのは、聲も姿もない、その癖觸覺には觸れると云ふ、要するにまあ妙な物です。これはド・モウパツサンのオオラあたりが粉本かも知れないが、私の思ひ出す限りでは、英米の小説中、この種の怪物の出て來るのが、まづ二つばかりある。一つはビイアスの小説だが、この怪物が通る事は、唯(ただ)草が動くので知れる、尤も動物には見えると見えて、犬が吠えたり、鳥が逃げたりする、しまひに人間が絞め殺される。その時ゐ合せた男が見ると、その怪物と組み合つた人間は、怪物の體に隱れた所だけ、全然形が滑えたやうに見えた、――と云つたやうな具合です。(The Damned Thing.)もう一つはこれも月の光に見ると、顏は皺くちやの敷布(シイト)か何かだつたと云ふのだから、新工夫には違ひありません。
この位で御免を蒙りますが、西洋の幽靈は一體に、骸骨でなければ着物を着てゐる。裸の幽靈と云ふのは、近頃になつても一つも類がないやうです。尤も怪物には裸も少なくない。今のオオブリエンの怪物も、確(たしか)毛むくじやらな裸でした。その點では幽靈は、人間より餘程行儀が好い。だから誰か今の内に裸の幽靈の小説を書いたら、少くともこの意味では前人未發の新天地を打開した事になる筈です。