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鬼火へ

英米の文學上に現はれた怪異   芥川龍之介
[やぶちゃん注:大正十一(1922)年一月発行の雑誌『秀才文壇』に掲載された。底本は岩波版旧全集の後記に所載しているものを用いた。これは、底本では本文に採用されておらず、「近頃の幽靈」の後記の中に収められている。その経緯について、編者は本作の初出を述べた上で、以下のように述べている。『しかし「近頃の幽靈」と重複する所が多く、文中錯簡も見受けられるところから本文には採らなかった。いま参考として『秀才文壇』の原文のままを掲げておく。』果たして、この判断が正しいものであるかどうか(新全集は未見)、私なら、発表されたものであり、その年次も異なり、さらに明らかに「近頃の幽靈」に述べていない作品への言及が多々ある以上、異稿とさえ考えないものである(後記で先行する「近頃の幽霊」との類似箇所は指摘する)。底本編者の言う「錯簡」も、私には大きな瑕疵には見えず、本文採用されるべき作品であると考えるが、お読みになったあなたに委ねたい。なお、傍点「丶」は下線に代えた。文中のルイズ(
Matthew Gregory Lewis 現在の呼称はルイスが一般的)の“The Monk”を「文句」とするのは、誤植ではなく、文脈上の確信犯か。]

 

英米の文學上に現はれた怪異

 

 英米の文學を通稱していふと、近代ではイギリスではスコツトに幽靈の話が多い。そして『ホンラダルブ』のやうな短篇小説があるが、スコツトあたりの幽靈になるとそんなに怖くもない。丁度、小説の中にでるやうな騎士だとかいふものは、活きた人間といふよりは怪談に近いし、また幽靈も本もの幽靈といふよりは何か作りものらしい感じがする。

 それからスコツトと同時代では、所謂イギリスのロマンチシズムが熾んであつた時分、盛んにいろいろな人が怪談めいた小説を書いた。たとへばルイズの『文句』といふ小説などは非常に賣れた爲め、作者は文句ルイズといふ綽名を附けられたほど、細かい活字で詰つた本が、さういふ話で詰つてゐるといつて差支へがない。その他、マーチユリンの小説『ナルモス』といふものはバルダクに影響を與へたといふ位名高いものだ。

 とにかくイギリスのロマンチストの代表者スコツトの作品に現れる化物は、この時代の化物の長短を合せ有してゐるやうに思はれる。

 それから下つてギアスクル夫人が、樣々書いてゐるが玆で云ふほどのものではない。[やぶちゃん注:「玆」は(ここ)と読む。以下同じ。]

 更に下つてデツケンスが書いてゐる。デツケンスの書いてゐる化物談は、今日の眼から見ると大部分怖いといふよりも失敗に終つてゐるものと云ふべきものだ。唯一つ『ピイツクぺーパ』の中に椅子が爺さんに化ける話がある。これは化物の話であると同時に、ヒウモラスな、そして人情のこもつた話で、イギリスのあゝ云ふ短篇の中では私の愛讀してゐるものだ。

 それから飜つてアメリカを見ると、まづ誰でも云ふ通りポオの作品の中には純粹に、妖怪を取扱つたものは稀れで、然しその感じの氣味の惡いことからいふと、今いつたやうなイギリスの作家連中の妖怪談をいづれも一首する概がある。ポオは飜譯で紹介されて居るから玆で詳しく云はない。

 又、ポオと竝び稱されたホーソンの作品は獨逸の浪漫派の作品に、例へばテイークだとか、バウプノマンだとか云ふやうなものに似通つてる點が多い。さういふ點でポオの作品よりどこか甘いところがある爲に、一般の人には愛さるるやうだけれど、その化物の話としての藝術的効果を論ずれば、どうもポオなどとよりも遙かに劣つてゐると考へられる。そして英米二つの近代の場合を考へると、イギリスではステイームソンが少し書いてゐるやうだ。それからキツプリングが書いてゐる。殊にキツプリングの『まぼろしの力車』とか『彼等』の如きは妖怪談といふ中にも別趣な一味があつて惡い作品ではない。

 それからウエルスが澤山書いてゐる。この人はいろいろな化學[やぶちゃん注:ママ。]上の發見を盛んに小説の中に取り入れた人で、例へば『タイム、マシン(時機)』といふ小説では、飛行機が空間を飛ぶやうに時間を飛行する機械の話を書き、『ドクターモローの島』といふやうな小説では生體解剖の結果人間とも、獸物ともつかぬ獸物を作り出す話を書いてゐるやうに在來の怪談から所謂心靈學上の發見を基礎にした小説の方へ進んでいつた。例へば第四の空間の如き問題も、小説の中にとり入れたのはウヱルス[やぶちゃん注:「ヱ」はママ。]が一番初めであらう。

 今その、心靈學上の發見を材料にした小説といつたが、この方面ではブラツク、ウツドといふ人が長篇短篇小説を澤山書いて、この人は彼自身、セオソフイスト ――實際さういふことを信じてゐる。だからその小説は悉く化物の小説ばかりである。よくまあ、化物にばかり興味が持てるものだと思はれるほど、化物ばかり書いてある。

 普通、化物屋敷とか幽靈とかいふのを書いてゐるのは勿論『セントオル』といふ小説では今でも、かのギリシャ時代の半人半馬人がコーカスの山の中にさ迷つてゐて、その群れに現代の人間が仲間に這入ることが書いてあり、また『柳』といふ短篇では、これも現代の人間、然も學生の二人が、ダニユーブ河の通りに露營して柳の精靈(エレメンタル)に苦しめられるところが書かれてある。

 アメリカではビアスといふ人が盛んに化物の話を書いた『新しい(ニユ)ポオ』[やぶちゃん注:「新しい」に(ニユ)のルビ。]といふ名前はブラツク、ウツドにも興へられる名前であるが、ビアスに與へる方が遙かに適當であらう。ビアスポオの非常な心醉家で、昔てアメリカの最大(グレーテスト)偉人[やぶちゃん注:ルビは「最大」の横にのみ振られている。]はリンカーンか、ウオシントンかといふ問題が議せられたときに、(いやどちらでもない、アメリカの最大の人物はポオだ)と評論を發表した位な人である。

 文章もブラツク、ウッドに較べると簡潔で技巧も遙かに秀れてゐる。例へば『閉された窓(クロスウインドオ)』といふ短篇(彼は短篇の他書かなかつた)の中に、その森林の中の開墾の小屋の主人が、病氣の爲妻を失ひ、その死骸をベツトに寢かして召使に葬式の道具を買はせにやつてゐる。夕方で部屋が眞暗になりすると妻のベットで異樣な物音がした。[やぶちゃん注:「なりすると」はママ。]それは豹が窓から忍び込んで妻の死骸を食つてゐるのであつた。主人が驚いて鐵砲でその豹を打ち殺してから、妻の死骸をみると衣物は裂け、身體にも爪の跡が生々しく、今更驚くべきことには死骸が豹の耳を食ひ切つてゐた。それ以來主人は、その豹の忍び込んだ窓を閉したなり開けたことがないといふすじである。

 短い中に、いかにも氣味な感じが力強く表現されてゐる。

 ビアスの作の中にも、こういふ秀れた作品はせいぜい五六篇しかないと思ふが、とにかくそれらの作品はポオ以來の妖怪の話の中では一番後世、世準に達してゐると思ふ。