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鐵の童子   村山槐多
[やぶちゃん注:底本は平成五(1993)年彌生書房刊の山本太郎編「村山槐多全集 増補版」を用いたが、本来の原文に近いものは正字体であるとの私のポリシーに基づき、多くの漢字を恣意的に正字に直した(なお、この全集は凡例が杜撰で、新字体表記とした旨の記載がない)。この全集には各作品の解題もなく、全集が底本としたものの記載もない。全集所収の「錦田先生へ」、全集年譜及び1996年春秋社刊の荒波力「火だるま槐多」の巻末年譜から推測すると、本作の執筆は、大正二(1913)年十一月から、翌年の中学校卒業後の間に断続的に為されたことが類推できる。なお、底本では三つの章題のポイントが大きい。]

 

鐵の童子   村山槐多 

   いその上(かみ)古屋莊士が太刀もがなくみの緒してて宮路通はむ。(催馬樂)

 

   山 嶽 歴 程

 

 自分は一公卿華族の二男に生れた。遲々の血をうけたと見えて少年時代から青年時にかけて酒と火災と赤い血とに浸つて生き永らへた末自分はつくづくこの人工の地獄が厭になつた。都が厭はしくなつた。そこで一切の惡鬼を振りすてて一つ是から山多く道けはしき日本全國を何のあてどもなく流れ廻つてやらうと決心した。たとへ是も放蕩の一つに過ぎないとした處で此方がはるかに美しく思へたのである。

 自分が流浪の第三年目である。自分はげにも不思議な豐麗で雄大な容貌と内實とを有つた山國に這入り込んだのである。この國は大きかつた。この國は眞に大の國山嶽の國であつた。國の北半に位する三つの盆地の外は殆んど總てが國であつた。その山々は約四五條の山脈から成立して居る。この四五條の山脈は各々皆同樣な根性を具へて居る者である。太陽の精力を有つた者である。亂暴者である。先天的の大惡人である。鬪士である。強壯な男性である。犯す可からざる崇高な野心を以て鋭く險しく豐な形相を以て腕力を以て堂々と自己の擴大を超越を企てて止まない者である。

 是等の山脈は各々決して相ゆづる事なく唯まつしぐらにならび走る。一のすきを見せないのである。すきあらば忽ち強き山脈がその山脈に侵入し領分を奪ひ去るのである。北より現はれた一山脈は疑ひもなく火山脈である。著しい異色を有ちそが爛々たる諸所に光る數箇の火の眼玉は千年を艷麗にも他をおどかしつけて居るのである。この火山脈が火を以てするが如く他も各々恐ろしい天然の武器を具へておどかし合つて居る。必然そこには山脈と山脈との身慄ひする樣な大戰鬪や紛擾が至る處に見られるのである。この國は永劫の龍虎の如く血と火との如く相撲つ者の修羅場である。

 又山脆と山脈との戀愛が見られるのである。あらゆる大なる者の間の交渉がこの山國の堂々たるが中に滿ち溢れて居るのである。そして天から殺到する雪が霞が雨が雲が美しくこの山月の放恣なる領國を飾るのである。自分がこの恐る可き山國に足を踏み入れた時の第一の感情は恰も豪族と豪族との暗鬪史或は宮廷の周圍なる多くの貴族が暗鬪史を讀み始めた時の樣であつた。實に、彼等は敵も味方もすべて世にも貴き血の集團である。古い立派な祖先と代々との畏敬すべき血の大海の王なのである。彼等の一つの眼一つの指一本の毛にも恐ろしく古く大なる豪奢の背景が宿つて居る。彼等が一擧一動にもこの背景が動く。彼等が一と一との爭鬪はひいて何千年何萬年の間續いた彼等が血統がすべてをあげての大戰となるのである。

 彼等が一人の戀一人の悲哀はとりも直さず過去の遠近にかくれた、數十人の戀數十人の悲哀なのである。眞にこの山國には新らしい物は無い。一切は過去の大塔の頂上である。九輪である。この山國には現在と云ふ趣は何處を搜しても見えないのである。その代りには時の絶對と云ふ事實が實にそのまゝ露出して居るのである。千年前も今も千年後もすべてが唯一つとなつて山々に宿つて居る。

 そして自分は其れを眼で見た『今の此國は何であらう』『それは永劫の此國である』と胸の底に聲がした。この永劫の國に這入つた時まつたく自分は茫然とした。果して此大きな境を人間が歩むさへも出來るかどうか。恰も千尺立方の鐵の臺を座蒲團として前へ出されたと等しい事だ。自分は戸まどつた。が一度頭をもたげて雲間を是等の大山脈が突貫し猛進し爛々と輝やきつつ其永劫の偉大に向つて永劫に達しつつある勇壯な光景を見るや是等は忽ち自分の心に數嚢の濃い血を注いだのである。自分は旅枕をふりかざして躍り上つた『俺も貴樣等には敗けないぞ』かく叫んだのである。そして自分はましぐらにこの山國の恐ろしい山の渦卷の中に身を沒し去つたのである。

 自分は以來狂氣の樣に歩きまはつた。炎につつまれた聖者の如く毎日/\紫と群青との山々をよぢ登り渡り歩いた。山脈は實に濃き數代の遺傳、空氣に觸れず千年を流れる血の河である。その山脈に屬する多くの山々は代々である。子孫である。自分は一族の歴史系圖を調査するが如く神祕な心で、山々を經巡つた。山の系圖は實に罪惡をもしばしば藏して居た。中には人知らぬ混血の山々があつた。また純なる山々も多かつた。時は丁度春から夏にかけてであつたからして、山々は皆重々しき澄明を帶びて居る。曇つて居る。そして多くは抛物線状の極端な曲線から成り立つて居る高き低き山々の姿は紫や普魯西青や緑に輝いて居る。ある山は武官の盛裝した樣に金モールの飾りに輝いて居、或る山は眞赤に染まつて居る。が最も高貴な山々はすでに四季をも超越して居るのである。其等は皆白雪と親しんで居た。五箇月の間まつたく山の中で暮した。人をも餘り見た事がなかつた。見る人とては山の麓山の麓の小さな邑々に住む少數の質朴な民のみに過ぎなかつた。山に驚ろく自分はまた彼等を發見して驚ろきに打たれた。かくも狹くかくも重量ある人間がこの隆起した崇高な世界に生きて居るのだと云ふ事は自分が是までゆめにも思はぬ事であつた。行程の始めは東の國境を歩いた。其一部は火山脈をつたつたのである。自分は鮮血で染められた道を歩く思ひがした。一火山は猛烈に火を噴いて居た。入日が赤く赤く其中腹に照るのを見た。共時太陽は恰も裸體の奴隸が暴らけきその主人の衣に刺繍するが如くに見えたのである。自分は東から北にうつつた。その方面では一萬尺の雪峰の上で五日五晩迷つた事があつた。共時自分はまつたく地球を地文學的に相對して見る事が出來た。その冐險の後いよいよ至險な西境の山々をつたつた。西の山々は實に高峻であつた。雪と岩との境であつた。大山高山では必ず神を見た。が其神はきつと山に庄伏されて居た。神は山の小道具の一つに過ぎないのであつた。神はむしろ山であつた。山が神その物に見ゆる事の方が多かつた。高山の麓や頂上の石の神岡にぬかづいて神と共に山を拜する時山は實に奇怪に見えた。惡神の相が現はれた。自分は或時つむじ風に依つてそびえ立つた樣な險山を登つた。

 そしてその中腹で雪を冠つた神殿を覗き見た。その神は裸體であつた。そして手に一疋の長蛇を握つて居る。其蛇は自分を戰慄さした。そして再び上り始めた時自分の心は恐怖で一杯になつてしまつた。もはやその山は蛇と化して居た。自分は遂に蛇の體を頂上まで登つたのである。自分はまた山の沈默を見たのである。異常なる沈默であつた。沈默は大な海をなしてあらゆる谷間を洗つて居た。この恐る可き沈默の中から山の眞の姿を洞察しようとも試みた。けれども自分は遂にこの海に呑まれてしまつた。沈默の山こそはげに恐るべき物であると共にまたこの山國の大を致す所以であつた。自分は五箇月の大部この沈默に呑まれて居た。そして沈默の内から沈默を眺めつくしたのである。夜も晝も山は默つて居る。天然のあらゆる現象は氣まゝに振舞ふ。美しい趣はこの山の沈默から大樣(おほやう)から傳はつて來るのであつた。自分は炎天の山を愛した。その時山は實に明に輝きその神經その血管その骨は外から幻燈を以てうつすが如くその外面に現はれるのである。

 がこの山國の暗きが如きまでの不思議な大沈默は眞は一つの前兆であつた。この前兆が暴風と化し涕泣と化せざる前にもはや自分は山月の歴程を終らなければならないと覺つた。其れは五箇月日の事であつた。八月中旬自分は長き峽(たに)を越し又無人無路の山を横ぎつた後一盆地に下りた。そして天より來し人の如くひそかにこの盆地の氣分を覗つて見た。そこには湖水があつたが人間はすべて餘りに長く住み過ぎて居た。自分はこの平地が餘りに平凡なのにあきれてしまつた。そこでそこを去つて又西境の山地へ行つた。そして一高山を征服した後いま一つの盆地に下りた。その道に於て自分は一山を越さねばならなかつた。自分は其山に於て奇體な事を見た。その山の山頂に一岩が立つて居る。その岩の端の破け目に小さい古鐘が一つ掛かつて居るのである。そして其鐘には浮彫が施されて居るが、其れが確に印度の式である事である。確に交りつけのない印度の鐘だ。印度の小鐘が日本の奧のかかる山國の一山頂で絶えまなく沈んだ音律をもらして居ると云ふ事に自分は異常な感じに打たれた。そして旅杖でその鐘をなぐりつけた。

 と鋭い明確な音響は世にも味氣なく宙に冴え渡つた。その昔は恰も青銅をこの國にもたらす樣に古雅であつた。また恐ろしい不吉を宣言する陰陽師の聲の樣に嚴格であつた。自分が鐘の吊られたる岩に凭れてふと下界を眺めるとそこには盆地の青い狹い野が見えた。そして其中ばに銀紫に霞んで一つの小市が顫へつつわが眼に入つた『あすこへ行かう』と自分は思つた。すると何だか不吉な呪はれた思ひが俄に幽靈の樣に増して來るではないか。も一つ鐘をたたいた。この鐘の音は一層明確に陰氣に響き渡つた。『だんな其鐘を餘り鳴らしては不可けない。その鐘に手でも觸るときつと其奴は死ぬと言ふ言ひつたへが昔から御座りまするで』自分の老案内者はさも恐ろしげな眼つきをして自分を止めた。『ふうん』自分はかくてこの山を下つたのである。山頂の鐘は風雨にさらされて一體いつ頃から掛り始めたのであらうか。寺院でもあつたのか知らん。この小さな青銅の古鐘が妙に頭に殘つた。その日の夜は麓で宿つた。翌朝眼覺めたる自分は是までに打つてかはつた感じがした。さうだ、もう俺は山の歴程をすつかり終へてしまつたと云ふ完成圓滿な感じであつた。實に言ひ難い愉快な氣持でその朝平地に向つて出發した。案内者はすでに前晩やとひを解いた。

 地獄の悦樂から人間の悦樂に歸つた樣な氣がした。自分は長く歩かんでもよかつた。粗大な馬車に乘つた。馬車は走つた。がた/\と石を突きつぶして電の樣に平原を走る。自分はともすれば振落されさうな車窓から首をつき出してすでにわが山々がすべて遠景となつてしまつたのを見て狂人の樣に笑つたのである。

わが四邊に見ゆる遠景の美しさ。しかも其れは皆自分が嘗て過し來し山々の遠景であるのだ。それはげに眞實なる遠景であるのだ。自分は是からしばらくこの盆地で寢ころんで暮すだらう。だがこの遠景はついに未だわが眼を離れ得ない。自分は嬉しさの餘りにかく言つたのである『いつまで俺は谷を彷徨うて居るのだらう』けれどももはやわが馬車は大河を右にし汽車にならんで走る樣になつたのである。晝近くであつた、自分の車は町に着いたのである。多くの人々が居るのを見た。此人人の如く是からこの町で暮すのだ。この町には黄金の温泉が涌いて居るのである。自分はその泉で殆んど麻痺したわが足をいやすのである。町の入口で馬車を下りた。半日の車になれた足が再び地に着いた時心には美しい安息が滿ち溢れた。眼を上ぐれば自分は薄紫の小市の入口にすでに立つて居るのである。そして四方には或は遠く或は近く薄く濃く奇異なる山脈が見えるのである。殊にかの鐘を見た山は一番近くにある。が要するに總ての山は遠景となつてしまつたのだ。空は晴れやかに美しく見える。自分はまた大笑した。宿屋に着くとぢきに寢た。實にわが流浪中かくばかり快き眠りには未だ會はなかつた。

 

   壁  の  町

 

 翌日の九時半頃起きてこの小市の大體を見る爲に宿を出た。數歩歩むともう此町が著しく古びた頽廢した物である事がわかつた。家々は皆實に古趣を帶び薄暗い埃に染まり茫然と一種のだだつぴろい沈默を守つて居るのである。そして薄紫と土色との混じた色の壁が至る處で非常に強い現象をなして居る。そしてその厚

い壁と薄い瓦との建築で何だか全體壁で出來た樣に見える家ばかり列んで居るのである。『壁の町』と自分は呟いた。家々は皆低い狹い入口を有つて居るだけで、窓もない樣な外觀である。盲目の家々である。そしてその感じは實に冷酷を極めて居た。自分は又人間を見て甚しく驚ろいた。そして容易ならぬ不思議な思ひに滿たされたのである。全體此町の人間は金屬で出來て居るのではないか。もしくは土偶か。かう云ふ考へが臆面もなく自分に來たのである。それは事實であつた。實に路で會ふ人會ふ人がすべて思考して居るのである。或者は口を飽くまで結び或者はうなだれ或者は狼の如く無情な眼を輝かして居る。そして一として話したり笑つたりして居る者はないのである。自分は二人の男が路上でばつたり行き止つたのを見た。あゝ話が始まるなと思つた。が兩人は立ちどまつたのみであつた。依然として何等の表情をも示さずに恰も雙方から相恐れるが如くにまた離れてしまつた。『沈默の町』と自分は怒つて呟いた。凡人の沈默程世に愚な事があらうか。自分はいくら行つても、この町の默り込んで居るのを見て何とも言ひ知れぬ悲哀に打たれたのである。かくもこの平地へ下り來つたのは何の爲であつたらうか。そこにてかくまでも山嶽の感化を受けて殆んど仙人染みた自分とにぎやかな派手ななつかしい人間の生活との對照を樂しむ積りであつたのだ。それに何と云ふこの町の光景だ。この町はげに病毒に侵されて居る。麻痺して居る。げにこの町の人間の第一の特徴は彫刻的であると云ふ事である。金屬的であると云ふ事である。自分は一人の職工が半裸體で居るのを見た。彼は大音響を發する大槌を上下して居た。恰も其時惡神に會つたよりも甚だしき驚嘆に打たれたと共に致し方もなき孤獨の感じに囚はれてしまつた。其身體の色澤の金屬的なる事よ。

 自分はしばらく立すくんで其赤き異常に發達せる筋肉を睨んで居た。しかも其男は博物館の立像の樣にこつちを向かなかつた。自分はそれからしばらく歩く内にこの町の人間の特徴を知り得可き二つの事を見た。第一に見たのは一豪家の前である。一人の老乞食の實に哀れなるが其處に坐して居た。彼は病み衰へて今にも死にさうである。彼は旅をしつゝあるのである。自分は此乞食の餘りに衰弱して居るのに眼をひかされて思はず立止つた。すると同時に一人の立派な男が門内から出て來た。そして其冷やかな表情なき顏は一言を吐いた『おい/\困るぢやないか』乞食は驚ろいてその顏を見上げた。そしてどうぞもう二三時間待つてゝ呉れ、そして日がすこし薄れたら歩いて行くからと賴んだ。もつともである。此炎天にかゝる衰へた老人がどうして歩けようか。しかしこの男は無情にも強ひて乞食を追ひ立てゝしまつた。自分は實に拳を握つた。そしてその男を睨みつけた。共時あの哀れな乞食のあとに一嚢の金が殘つた。彼はあわてゝ其れを落したのだ。するとこの卑劣な奴は微笑した。そして其れをそつと拾ひとつてすぐ門内に入らんとした。自分の怒りは破裂した。自分はいきなりその男の首すぢを摑んだ。そしてその頭をなぐり付けた。そして財嚢を奪ひかへして乞食の手へ持つて行つてやつた。かの男は自分の與へた鐵拳でさぞ怒つたらうと思つて顧みた。其時自分の涙をさそつた事は彼がにや/と微笑してそのまま門内にかくれてしまつた事であつた。自分は涙を眼に溜めて二三丁走つてしまつた。漸く腹立たしさを押へた時、自分はふと一神社の前に居る事に氣がついた。何だか由緒あり氣であつたから折よく其處に通り掛かつた一人の青年に尋ねた『この御社は何て言ふのですか』自分の痛くも屈辱を感じたる事はこの青年がしばらく立止つて自分の顏を見て居ながら一言の答もなく行つてしまつた事である。これが第二である。自分の憤怒は極點に達した。何と云ふ愚劣な町だ。自分は叫んだ。『馬鹿野郎』だが炎天中の『壁の町』は冷笑をも見せないのであつた。自分は殆ど狂ほしくなつた。そして無暗に下駄を鳴らしてこの灰紫の路上を歩いて行つた。二三丁來ると川がこの町を貫通して居る處に出た。そして非常に嬉しくなつた。かゝる妖怪な領界の中にもかくばかり懷かしい川があつたのかと感じたのである。その川の幅は約六七間ばかりである。そして豐な透んだ水がたぶたぶとゆるやかに流れて居るのである。自分は橋を渡つた。そして暫らくその上に立つた。今日の太陽は既に極盛に近づき、薄紫と朱との日光をもて燥狂の精力をもて赤く赤く下界に照り付けて居るのである。暑氣は實にむごく妖怪な鋭き沈思を萬物に強ひて居る。自分の體にはすでにさつきから汗がだくだく流れて居るのである。河水は冷やかで涼しいが岸の薄暗き柳樹は五六本如何にも苦しさうに銅色に光りあへいで居る。そして山々の遠景は此處から最もよく綺麗に見える。眞晝の美麗なる群青を其奇なる形の上にべたべたに娼婦の如く塗りつぶして居る。そして其中から氣高い深い山界の氣品がほのかに現はれて居るのである。自分は懷かしくなつて、じつと山々を見つめた。其形は此小市から百里も遠方にあるかの樣に遠く空に浮んで居るかの樣に高く見えるのである。この懷かしき山々は恰も自分に『おお。お前はもはやそんな處に居るのか』と言つて居る樣であつた。自分は勇氣を囘復した。今までに受けた惡感情は消えてしまつて、心は晴れかけた。わが裸の頭は燒け爛れ眩暈しさうになるまで、自分はこの遠き山々との無言の對話を交換した。恰も國事探偵が外國から本國に通信する樣に。そして再び歩き出した。二時間ばかりにして自分は宿へ歸つた。そしてこの町の無言と冷酷と強壯とは實に苦しく頭に殘つたのである。

 だが自分はこの思ふままに振舞へる炎天に照らされたる『壁の町』にしばらくはどうしても住まねばならないと云ふ決心をした。よし自分はこの町と鬪つてやらう。彼等劣等なる民に彼等が近く居ながら尚それと氣づき得ない高貴なる山の感情を教へて遣るんだ。いざ俺はこの金屬の人々と遊ばんかな。自分は手を拍つて立上つた。そして夜黄金の酒の如きよき温泉にうつとり浸り耽つた。この温泉こそは自分の空想に一寸の差をも見せない實に喜ばしい物であつた。そして第二夜を傀儡の如くにして臥したのである。

 

   裸 童 の 群

 

 翌日の午後である。暑氣は人喰ひたる獅子の吐く息よりも猛烈であつた。この暑氣にわが宿の人々はすべて苦しめられた。數名の同宿者もいつの間にか外へのがれてしまつた。自分も外出した。山の反射の爲にこの地方の午前及び夜はさうでもないが午後の四時五時時分までは日は著しく殘酷である。いささかの嘆きもいささかの涼しき思ひをも許さない。宇宙は石油の如くに薄紫となり點火し易くなる。其危險な中に眞赤な太陽は舞ひ上る。

 暴君が王座に上る樣に上る。そして崇嚴な恰も神宮の中にあるが樣な沈思の上に太陽と云はんより天全體の火の暴政が下る。あらゆる物は焦げねばならない。かゝる時『壁の町』の沈默はます/\其の度を加へた。地は紫金色にぎら/\と光つた。日の光る處銅板と變じ陰影の場所緑青と化する。火は絶え間も無くこの感じ易き金屬の上を訪れる。瓦は赤色を帶びて一樣に光る。壁も光る。金屬の如き人も光る。是等光る物は混とんとして見るからに華麗な派手な妖怪な焦熱地獄を作り上げる。そしてわい/\と天に向つて苦しみうめくのである。處々の家々に見える胡桃の木は點月と美しい金と紫とに大空の永劫の狂亂にへばりついて見えた。あらゆる緑の植物はこの町から天に捧げる賄賂の樣に見えた。そして無殘にも天は太陽はこの貴き捧物に唾液(つば)を吐き掛けて突き戻して居るのである。その唾液はそして眞赤だ。自分は自分の皮膚が焦げる音を聞きつゝ杖をひきずつて歩き出した。前日と同じ道を眞直に行つた。それはあの川に達せんが爲であつた。やがて自分は汗の甲冑をいつの間にか負はせられて橋上に來た。

 そして欄干に梵れて、じつと水面に見入つた。あゝ此處へ來ると蘇生する。水面は實に冷たく透明である。自分はじつと見入つた。水はすこし急であるが如何にも悠然と流れるのである。この狂はしき虐殺めいた白晝の中も知らず顏で堂々と流れて居るのである。丁度膽汁質の人が大酒を呑む樣を眺めて居る樣な感じである。自分は見とれて居た。さうしてうつとりとなつた。涼しさは身に加はつた。自分の心にはあらゆる物に對する興味が沛然と大雨の樣に降つて來た。實に耐へ難く嬉しい。面白い。自分は口笛を吹いた。そして不動明王の樣に日光を浴びてぼんやりと橋の上に居た。熱い。眼を上げるとこの川の兩側には材木小屋が幾つもある。鉛色の大きな倉庫も左側に列んで居る。兩岸とも河岸に成つて居て材木が一杯に積んである。そして老柳樹がずうつと河岸に植わつて居るのである。その柳樹は綿羊の毛の樣にしつこく油色にどんよりと輝き、其陰では處々に人夫が械械的に働いて居る。そして河岸は眞に美しい眞晝に似ずさびた元の繪畫の樣なまた豪放な趣のある調子を形成して居るのである。自分は俄に其河岸をずつと行つて見たくなつた。それで橋の袂から其河岸に下りた。そして歩いて行つた。この時天の猛火にはすこし影が差して川の上も河岸もやゝ暗くなつた。物みなは紫の硝子を通じて見る樣に怪しき相貌を帶び來り諸々の線條はぼんやりと曇つた。河岸の情調は著しく彫畫的になつて來た。自分は數團の勞働者の横を過ぎた。彼等は皆實に金屬的である。そして憎む可くもこの地方特殊の表情なき情なき感心あり氣な容貌でもつて狼の如く疑ひ深く自分を見るのである。自分は一種の恐怖を抱きつゝむしろこの群が古代的異國的な感じを呉れるのを喜んだ。彼等は默つて仕事して居る。寒國の事であるから彼等はこの夏の盛りにでも南國人の樣に肌を餘り見せないで皆汚れた着物で全身をかくして居るのである。

 彼等は有り餘るばかりの血液に富みその面は眞赤である。そして多くは多鬚である。或一群は柳樹の下に集まつて各々大なる氷塊を口にして居た。或一人はまるで劇場で見る樣に派手にぴかぴかした大まさかりをとつて木を割つて居た。その有樣は全然人間とは思へなかつた程機械染みて居た。自分はまた柳と柳との間に現はれる美しい川上を見つゝ進んだ。その青色は自分を盡くる時なく絶えまなく嬉しがらせた。自分はかくて約一丁ばかり此河岸を進んだ。そして一の大石油倉庫の角を曲つた時この沈思した風景の連續は忽ち破壞された。ばつと異常に明るくなつた。そこには希有なる朱色の藝術が現出したのである。そこには第二の橋が掛かつて居る。そしてその橋の袂に一群の裸體の童子が喜戲して居るのであつた。自分はあまりの鮮やかさにぱつと顏にほてりを覺えた、胸はわなないた。そして立どまつて思はず言つた『俺はこの町をひがみ過ぎて居た』と。げに今自分の前に現はれた物は何であらう。喜びである。情の原索である。蜜蜂の飴色の巣である。自分はこの山國に這入つてから五箇月の問と云ふ物恐ろしい『力』に沒頭して居た。山から出づる『力』の發掘に從事した。そして幾分の夫を得た。が自分は人間のそれをも得んと希つた。そして平地にかくも下りて來たのである。そしてこの町でその由もなき有樣に落膽したのだ。遂には自分は人間の強さ美しさを永劫に見失つたのかと悲しんだ。けれども、自分は幸福であつた。今こそは人間の『力』が見えた。自分は思はず一聲のうめきを發したのである。そして一瞬にして自分の全感覺は精巧なる鏡と化した。千箇にして一箇なる眼玉を取りよそほつたのである。あゝ自分の鏡前では今人間の其の姿が舞踏して居る。眞赤な童子の一群が美しい眞晝の水面に喜戲して居るのである。透明な薄紫の水は美しい層をなして刻一刻流れて居る。恰も無邪氣な亂暴者の生涯の樣に。其上には河岸の風物が薄紅に銀に紫に樣々な色に映つて居る。

 そして輝ける沈滯の薄明りの中を過ぎる唯一道の快活なる光輝の中に、眞赤な童子が喜戲して居るのである。自分は希臘の夢を見て居るのかと疑つた。この童子の數は約二十人ばかりもあらうか。總ては丈夫な子であるのだ。一樣に太い豐麗なぴつたと胴體に接着(くつゝ)いたる粘着強き二手と二足とを自由自在に、恰も埃及の浮彫の樣に運動させるのである。その赤い皮膚は輝いて水に濡れその上に日の色を受けて實に美しい。肉感は全群に滯ち渡つて居る。そして空氣を貫通する肉彈はぴく/\と互に間斷なく交錯するのである。今二人は橋の欄干に上つて居る。そして一人は身を躍らして水面に飛び込んだ。續いて一人も眞逆樣にそれにならつた。大きな水烟りの間から頭はやがてぶくりぶくりと現出し、其顏は花の樣に笑つて居る。きちつと日がそれに輝く事の美しさ。更に數人は水に潛る事を爭つて居る。どつぼんと大きな音がする。水の中を行くのが自分からほのかに透かし見られる。青い水は燐光の如く五體にからみついて行く。そして皆々は可成りの長き時間水中にあつて、それから勢よく顏を出す。或者は三間ばかりも行き或者は恰も水中の暗黒を嫌ふ樣にいちはやく顏を出した。そして笑つた。その安堵に滿ち切つた顏は更に他の遊戲に移る。多くの者は唯あちこちと無暗に泳ぎまはつて居る。一方では石を水底に沈めてその取りつくらをやり始める。四五人が勢よく一時に潛り込んだ時その臀部はかつと光つた。そして一人の子はいちはやくも手に赤い岩石を捧げて浮び上つた。多くの泳ぐ子の無邪氣な肉と美しい水波との常に變化する關係は實に自分を動かした。自分はそこに太古の面影を見た。極めて神話的に見ない譯には行かなかつた。自分は岸に這ひ上つて濡れた甲羅を乾して居る五六の子の傍に歩みよつた。彼等はふと一時に自分を見た。自分は見かへした。そしてその刹那彼等は矢張り『壁の町』の地方色に缺けて居ない事を感じた。豐滿な頰や倨傲な唇や沈んだ底光りのする眼やは自分をおびやかした。が自分の嬉しくなつた事は彼等が絶對に大人でない事であつた。そして彼等が人間である事であつた。決して金屬では無い事であつた。實に是等の子供はぴち/\として生きて居る。勿論是等は皆この町の憎む可き無氣力な人間共の子であらう。その血で出來た者であらう。が未だ是等は父に汚されては居ないのである。純潔な人間の子である。何にでも作り上げる事の出來る無垢の材料である。彼等はすでに人間の『力』を有つて居る。實に暴風の子等である。相戰ふに耐ふる勇ましき子等である。彼等がこの川上の美しき喜戲も實は戰の用意である。練兵なのではないか。しかし此練兵は何の功績をもあげ得ずして恐らく年が經てば彼等もやはりこの『壁の町』の沈默せる憎む可き守兵の仲間入りをするに過ぎないのではなからうか。自分は不安になつてしまつた。ふくよかな彼等の數は段々と岸に多くなつて來た。そは太陽が一雲の間に入つていくらせかつても出て來ないからである。空氣がすこし寒くなつたのであつた。彼等は殆んど全部岸に上つた。そしてずらりと列んだ。自分には一寶庫の蟲干を見る樣に感ぜられた。彼等はわが前に集まつて口々に短き言葉で言ひ合つて居る。そして彼等は形式的にがた/\と顫へて居る。年齡は多く七八歳から十三四位までである。すべて強壯で無邪氣である。美しい血紅色の皮膚は連日の太陽で爛れた末猛獸のそれの如く厚くなつて居る。そして濡れて水々しく香ふ。あゝ是は彼等の武裝である。自分は彼等がかくもわが周圍に安心して休んで居る樣を見てその昔の神武天皇を思ひ出さざるを得なかつた。かの偉大なる天皇は勇ましくも極く少數の部下をひきゐるのみで天地を蔽ふばかりの低惡獰猛な敵人の中へ這入られたのである。

 そして戰つて遂に勝つてしまはれた。自分の國を遂にこの日本全土にまで擴げてしまはれた。恰も今自分は神武天皇ではなからうか。そして是等の童子はそのかみ、高千穗峰下出立以來從ひまゐらせた小數の貴き臣下に此ぶ可きである。まつたく是等はわが臣下である。そして自分は今やこの『壁の町』の中央に我と我身をもつて躍り込んだのである。自分はこの町を征服せんと考へる者なるか『かゝる野心ありや』と、一聲叫んだ。自分はこの時是等の童子の赤き垣のすきまをむしろ破壞し終らねば止まない。そしてわが是等の童子こそは、わが爲に働く可き勇ましき者共なのだ。自分の胸に熱き血潮はみなぎつたのである。げにわが臣下は喜戲に贈る是等美しき童子である。此赤き皮膚や無心の情熱がこの市の大人となり金屬と變形せざる以前に自分は是等を用ゐねばなるまい。自分の武器としなければならない。そして俺は今からこの町に對する戰を始めてやらう。この『沈默の町』の惡しき傲慢を根本から轉覆させて見せる。地雷火を以てくつがへして見せる。彼等の沈んだ憎む可き眼を驚ろきと恐れに吊り上らせて見せる。さうだ。この町に對する戰役は今を以て始まるのだ。大風は共時自分の心に吹き起つた。血液はこの大風に乘じて體中を走りふためき滴たり溢れた。すべての神經はこの童子の如く赤裸々となつた。そしてむくくと踊り上つた。自分の眼が餘りに異樣に輝いたかして約二十の童子は一時にわが顏を見た。自分はすべての子の顏を一時に見てとつた。一樣なる形一樣なる容貌。その酒に於ける酒精の如き一樣なる統一が自分の心を打つた。あゝわが兵士よ、汝等の喜戲が大戰に變ず可き時は來たのである。自分は暗に彼等に向つて叫んだ『裏切りをせよ。汝の貴き裏切りを』と。

 彼の心中は、忽ち輕蔑で一杯になつた。而して盛んに、聞くに堪へぬ言語で罵り始めた。  (未完結)