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[やぶちゃん注:底本には1966年岩波書店刊「三木清全集」第一巻を用いた。但し、傍点「丶」は下線に代えた。]

 

    旅について   三木 清

 

 ひとはさまざまの理由から旅に上るであらう。或る者は商用のために、他の者は視察のために、更に他の者は休養のために、また或る一人は親戚の不幸を見舞ふために、そして他の一人は友人の結婚を祝ふために、といふやうに。人生がさまざまであるやうに、旅もさまざまである。しかしながら、どのやうな理由から旅に出るにしても、すべての旅には旅としての共通の感情がある。一泊の旅に出る者にも、一年の旅に出る者にも、旅には相似た感懷がある。恰も、人生はさまざまであるにしても、短い一生の者にも、長い一生の者にも、すべての人生には人生としての共通の感情があるやうに。

 旅に出ることは日常の生活環境を脫けることであり、平生の習慣的な關係から逃れることである。旅の嬉しさはかやうに解放されることの嬉しさである。ことさら解放を求めてする旅でなくても、旅においては誰も何等か解放された氣持になるものである。或る者は實に人生から脫出する目的をもつてさへ旅に上るのである。ことさら脫出を欲してする旅でなくても、旅においては誰も何等か脫出に類する氣持になるものである。旅の對象としてひとの好んで選ぶものが多くの場合自然であり、人間の生活であつても原始的な、自然的な生活であるといふのも、これに關係すると考へることができるであらう。旅におけるかやうな解放乃至脫出の感情にはつねに或る他の感情が伴つてゐる。卽ち旅はすべての人に多かれ少かれ漂泊の感情を抱かせるのである。解放も漂泊であり、脫出も漂泊である。そこに旅の感傷がある。

 漂泊の感情は或る運動の感情であつて、旅は移動であることから生ずるといはれるであらう。それは確かに或る運動の感情である。けれども我々が旅の漂泊であることを身にしみて感じるのは、單に乘つて動いてゐる時ではなく、むしろ宿に落着いた時である。漂泊の感情は單なる運動の感情ではない。旅に出ることは日常の習慣的な、從つて安定した關係を脫することであり、そのために生ずる不安から漂泊の感情が湧いてくるのである。旅は何となく不安なものである。しかるにまた漂泊の感情は遠さの感情なしには考へられないであらう。そして旅は、どのやうな旅も、遠さを感じさせるものである。この遠さは何キロと計られるやうな距離に關係してゐない。每日遠方から汽車で事務所へ通勤してゐる者であつても、彼はこの種の遠さを感じないであらう。ところがたとひそれよりも短い距離であつても、一日彼が旅に出るとなると、彼はその遠さを味ふのである。旅の心は遙かであり、この遙けさが旅を旅にするのである。それだから旅において我々はつねに多かれ少かれ浪漫的になる。浪漫的心情といふのは遠さの感情にほかならない。旅の面白さの半ばはかやうにして想像力の作り出すものである。旅は人生のユートピアであるとさへいふことができるであらう。しかしながら旅は單に遙かなものではない。旅はあわただしいものである。鞄一つで出掛ける簡單な旅であつても、旅には旅のあわただしさがある。汽車に乘る旅にも、徒步で行く旅にも、旅のあわただしさがあるであらう。旅はつねに遠くてしかも、つねにあわただしいものである。それだからそこに漂泊の感情が湧いてくる。漂泊の感情は單に遠さの感情ではない。遠くて、しかもあわただしいところから、我々は漂泊を感じるのである。遠いと定まつてゐるものなら、何故にあわただしくする必要があるであらうか。それは遠いものでなくて近いものであるかも知れない。いな、旅はつねに遠くて同時につねに近いものである。そしてこれは旅が過程であるといふことを意味するであらう。旅は過程である故に漂泊である。出發點が旅であるのではない、到着點が旅であるのでもない、旅は絕えず過程である。ただ目的地に着くことをのみ問題にして、途中を味ふことができない者は、旅の眞の面白さを知らぬものといはれるのである。日常の生活において我々はつねに主として到達點を、結果をのみ問題にしてゐる、これが行動とか實踐とかいふものの本性である。しかるに旅は本質的に觀想的である。旅において我々はつねに見る人である。平生の實踐的生活から脫け出して純粹に觀想的になり得るといふことが旅の特色である。旅が人生に對して有する意義もそこから考へることができるであらう。

 何故に旅は遠いものであるか。未知のものに向つてゆくことである故に。日常の經驗においても、知らない道を初めて步く時には實際よりも遠く感じるものである。假にすべてのことが全くよく知られてゐるとしたなら、日常の通勤のやうなものはあつても本質的に旅といふべきものはないであらう。旅は未知のものに引かれてゆくことである。それだから旅には漂泊の感情が伴つてくる。旅においてはあらゆるものが既知であるといふことはあり得ないであらう。なぜなら、そこでは單に到着點或ひは結果が問題であるのでなく、むしろ過程が主要なのであるから。途中に注意してゐる者は必ず何か新しいこと、思ひ設けぬことに出會ふものである。旅は習慣的になつた生活形式から脫け出ることであり、かやうにして我々は多かれ少かれ新しくなつた眼をもつて物を見ることができるやうになつてをり、そのためにまた我々は物において多かれ少かれ新しいものを發見することができるやうになつてゐる。平生見慣れたものも旅においては目新しく感じられるのがつねである。旅の利益は單に全く見たことのない物を初めて見ることにあるのでなく、――全く新しいといひ得るものが世の中にあるであらうか――むしろ平素自明のもの、既知のもののやうに考へてゐたものに驚異を感じ、新たに見直すところにある。我々の日常の生活は行動的であつて到着點或ひは結果にのみ關心し、その他のもの、途中のもの、過程は、既知のものの如く前提されてゐる。每日習慣的に通勤してゐる者は、その日家を出て事務所に來るまでの間に、彼が何を爲し、何に會つたかを恐らく想ひ起すことができないであらう。しかるに旅においては我々は純粹に觀想的になることができる。旅する者は爲す者でなくて見る人である。かやうに純粹に觀想的になることによつて、平生既知のもの、自明のものと前提してゐたものに對して我々は新たに驚異を覺え、或ひは好奇心を感じる。旅が經驗であり、教育であるのも、これに依るのである。

 人生は旅、とはよくいはれることである。芭蕉の奧の細道の有名な句を引くまでもなく、これは誰にも一再ならず迫つてくる實感であらう。人生について我々が抱く感情は、我々が旅において持つ感情と相通ずるものがある。それは何故であらうか。

 何處から何處へ、といふことは、人生の根本問題である。我々は何處から來たのであるか、そして何處へ行くのであるか。これがつねに人生の根本的な謎である。さうである限り、人生が旅の如く感じられることは我々の人生感情として變ることがないであらう。いつたい人生において、我々は何處へ行くのであるか。我々はそれを知らない。人生は未知のものへの漂泊である。我々の行き着く處は死であるといはれるであらう。それにしても死が何であるかは、誰も明瞭に答へることのできぬものである。何處へ行くかといふ問は、飜つて、何處から來たかと問はせるであらう。過去に對する配慮は未來に對する配慮から生じるのである。漂泊の旅にはつねにさだかに捉へ難いノスタルヂヤが伴つてゐる。人生は遠い、しかも人生はあわただしい。人生の行路は遠くて、しかも近い。死は刻々に我々の足もとにあるのであるから。しかもかくの如き人生において人間は夢みることをやめないであらう。我々は我々の想像に從つて人生を生きてゐる。人は誰でも多かれ少かれユートピアンである。旅は人生の姿である。旅において我々は日常的なものから離れ、そして純粹に觀想的になることによつて、平生は何か自明のもの、既知のものの如く前提されてゐた人生に對して新たな感情を持つのである。旅は我々に人生を味はさせる。あの遠さの感情も、あの近さの感情も、あの運動の感情も、私はそれらが客觀的な遠さや近さや運動に關係するものでないことを述べてきた。旅において出會ふのはつねに自己自身である。自然の中を行く旅においても、我々は絕えず自己自身に出會ふのである。旅は人生のほかにあるのでなく、むしろ人生そのものの姿である。

 既にいつたやうに、ひとはしばしば解放されることを求めて旅に出る。旅は確かに彼を解放してくれるであらう。けれどもそれによつて彼が眞に自由になることができると考へるなら、間違ひである。解放といふのは或る物からの自由であり、このやうな自由は消極的な自由に過ぎない。旅に出ると、誰でも出來心になり易いものであり、氣紛れになりがちである。人の出來心を利用しようとする者には、その人を旅に連れ出すのが手近かな方法である。旅は人を多かれ少かれ冒險的にする、しかしこの冒險と雖も出來心であり、氣紛れであるであらう。旅における漂泊の感情がそのやうな出來心の根柢にある。しかしながら氣紛れは眞の自由ではない。氣紛れや出來心に從つてのみ行動する者は、旅において眞に經驗することができぬ。旅は我々の好奇心を活潑にする。けれども好奇心は眞の研究心、眞の知識欲とは違つてゐる。好奇心は氣紛れであり、一つの所に停まつて見ようとはしないで、次から次へ絕えず移つてゆく。一つの所に停まり、一つの物の中に深く入つてゆくことなしに、如何にして眞に物を知ることができるであらうか。好奇心の根柢にあるものも定めなき漂泊の感情である。また旅は人間を感傷的にするものである。しかしながらただ感傷に浸つてゐては、何一つ深く認識しないで、何一つ獨自の感情を持たないでしまはねばならぬであらう。眞の自由は物においての自由である。それは單に動くことでなく、動きながら止まることであり、止まりながら動くことである。動卽靜、靜卽動といふものである。人間到る處に青山あり、といふ。この言葉はやや感傷的な嫌ひはあるが、その意義に徹した者であつて眞に旅を味ふことができるであらう。眞に旅を味ひ得る人は眞に自由な人である。涙することによつて、賢い者はますます賢くなり、愚かな者はますます愚かになる。日常交際してゐる者が如何なる人間であるかは、一緒に旅してみるとよく分るものである。人はその人それぞれの旅をする。旅において眞に自由な人は人生において眞に自由な人である。人生そのものが實に旅なのである。