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鬼火へ

美少年サライノの首   村山槐多

[やぶちゃん注:底本は平成五(1993)年彌生書房刊の山本太郎編「村山槐多全集 増補版」を用いたが、本来の原文に近いものは正字体であるとの私のポリシーに基づき、多くの漢字を恣意的に正字に直した(なお、この全集は凡例が杜撰で、新字体表記とした旨の記載がない)。この全集には各作品の解題もなく、全集が底本としたものの記載もない。本作の著述年代も、明治四四(1911)年頃、京都府立第一中学校時代の『強盗』『銅貨』『アルカロイド』『青色癈園』『新生』などという自作の回覧雑誌に発表されているもの、という編者による底本の年譜の漠然とした記載があるばかりである。但し、本作は、書簡「錦田先生へ」の叙述によって、大正三(1914)年四月頃に京都の文学雑誌『トバノ』なるものに発表されたものと推測できる。]

 

美少年サライノの首   村山槐多

 

 暗い紫の酒と貴い黒い酒で空氣の代りに世界を蔽ふた樣な情濃き夜であつた。この恐ろしい夜に燈が輝いた。きらきらと綺羅めかしく白く赤くかなたこなたに。

 吾は遠方からも近くからもその燈の輝くのを見たのである。なつかしい燈なのでついその燈は古ギリシヤの繪にある女の眼を抉り出してかけつらねた樣に見えた。美しい明快なあのギリシヤの女の眼を決り出して。

 吾はうろついて居た。この小春の夜の京都をあてどもなくうろついて居たのだ。吾の肌はこの夜にしびれてしまつた。吾の肌は美しい夜空に染められた。紫に。吾の思ひはいづこをさまよつたのか。それは知らない。が吾の眼玉はあらゆる美しき物を見つゞけて來たのである。それは動畫めいて一秒毎に變る美しき景物を見た。川を見た。女の群を見た。燈の群を見た。陰影の集團の中を過ぎた。吾は橋を渡つた。大きな寺の門を拔けて星を見た。かくして遂に吾が眞に地と暗とのみの境に來た時はもはや眞夜中であつたのだ。そこは惡しき野の中央であつた。泥濘の中に吾は立つて居た。都は遠くに輝いて居る。吾はいつの間にか、都を去つてしまつたのである。吾はいままつたく暗中に立つて居るのである。その時深い夜は靜かであつた。猛烈に靜かであつた。吾の思ひは深い深い穴を下りて行く。ふとすこし寒くなつたと共に吾心はふさがつた。吾激しき戀はまた蘇生(よみがへ)つて來たからだ。この時吾は見た。サライノの首を。その幻を。吾崇拜せる人の愛人を。そして吾の戀人を。サライノの首を眼に見た。その首は銅製であつた。眞赤な銅の塊りであつた。頭には數千の蛇が痙攣した。美しき髮の毛が苦惱と歡喜と交々起る如く無暗に痙攣した。サライノの眼は、この蛇の霞の中にじつと輝いて居た。じつと吾を見て居た。どう見ても首だけであつた。その瞳の底ではその深なさけが十二單(ひとえ[やぶちゃん注:ママ。])を着かけて居た。一枚一枚とその美しい豐な裸形の上に重ねて行く。そして吾はじっとその情の盛裝をまつて居た。實にこの少年の瞳は美しかつた。その睫毛は、孔雀の尾の如く輝いた。吾は嬉しかつた。ああ嬉しかつた。この美少年は吾に敵意を有たないらしいのだ。その眼ははづかしさうに吾を見つめて居る。彼は無言で吾を愛して居る。唇は赤かつた。火の樣に。火の樣。『サライノ。』『サライノ。』と吾が呼んだ時、サライノは微笑んだ。その眼は燈の樣に輝いた。一箇のアダマント[やぶちゃん注*]が吾眼の前にある樣に。吾はまた呼んだ。『サライノ。』と。この聲は大きかつた。この夜半の暗に遠く遠く響きわたつた。こだまはかへして來た。サライノの首はあでやかに微笑した。其時忽ちレオナルドは、いかめしき天才はすつくと立現はれて美少年サライノの首は銅の首は、とんだ。暗の中に飛んだ。『おう吾が崇拜の人。』とかく叫んでレオナルドの顏を見守つた時わが全身は恐怖に戰慄した。『サライノの首は。サライノの首。』レオナルドはすでにサライノの首を中空近く投げうつてしまつた。美しき首は猛然と何れへか飛びさつた。わが胸は苦しかつた。わが眼にサライノの姿は消えた。その代りにかのレオナルドのいかめしき顏が浮び上つた。彼の眼は死んで居る。彼の全身は死んで居る。彼はメドウサに魅いられた人間の形相凄まじく石と化して居るではないか。しかもその眼は語る。その腕は動く。その口は語る。怒りに顫へて語る。彼は今敵に對して居る。彼は今要塞をきづくレオナルドである。一五〇二年のレオナルド・ダ・ヴヰンチであつた。『汝はサライノを戀するか。』『然り。』と吾は答へた。『サライノは俺の美少年だ。』とレオナルドは答へる。吾が思ひは苦しさにあへいで居る。暗は深い。眞に吾はサライノを戀する。かの美しきサライノを。レオナルドこそは吾戀の敵だ。『汝より吾サライノを奪はん。』と吾が答へた。その時レオナルドの怒りは暫時動かなかつたが、ぢきに彼の創めた[やぶちゃん注:「創めた」は「はじめた」と読む。]微笑は古モナリザの微笑に變じた。彼の死したる眼は彼の死したる唇は笑つた。『汝は吾が寵童を奪はむとするか。』『然り。』と吾は答へた。吾が思ひは其時火の塊であつた。血は噴水の如く全身にほとばしつた。レオナルドは云ふ。『汝よ。亞細亞の一人。村山槐多。汝は吾が美少年サライノを思ふか。吾が寵童を吾れより奪はんとするか。サライノと汝の戀は火の如く強きか。さらばいま汝よ。吾れ汝に與へん。美しきサライノを。かの蛇の如くおのゝける長髮を。かの汝東方(ひんがし)の黄子の爲に吾れを裏切れる好奇なるサライノを。わが愛すべき小敵よ。』と。其時レオナルドは雙手を上げて暗の空をさぐつた。そして電光と共に美しきサライノの首は再び吾が眼前に現はれた。レオナルドの不思議なる微笑は消えた。彼も消えた。かの少年の美しき微笑は代りに吾が前に現はれた。サライノの首は近づく。その髮は近づいた。吾が血は天に奔らんとしその出口を吾が唇に發見した時サライノの豐なる唇は熱したる銅の唇は吾が唇に觸れた。そのにほはしき長髮は吾が頰に觸れた。蛇の如く。不思議なる香料のにほひがその時吾が神經を恍惚の内に地獄の夢にさそつた。その香料はサライノの髮の毛であつた。滑かにそは吾に觸れた。『あゝ。美しき君子よ。すでに君はレオナルドの君にあらず。今宵よりは吾の君なり。』と吾が叫んだ聲はこの眞夜中の黒き酒の如き空高く響きわたつた。

 

*やぶちゃん注

アダマント:diamond ダイアモンド。ギリシャ語の「屈服しない、不屈なもの、不可侵のもの」という意味の“adamant”が語源。