心朽窩へ戻る
HP 鬼火へ
淵藪志異へ戻る

  沖繩の怪異

        (copyright 2006 Yabtyan)

[やぶちゃん注:本作は本来、2年前、僕が前任校で沖縄修学旅行を引率した際の文集に寄せたものである。最後の一文は私の正直な気持ちだった。僕と僕に繋がる子供達の忘れられない思い出のために、修正を加えずにここにアップする。]

 

 あなたは聞きたがっていたね、僕の怪談を。では僕の聴いた沖繩の怖い話を、まず、して上げよう。

    *

 僕は大学生の時、渋谷の代官山に下宿していた(セレブ? 関東大震災で倒れなかった! という化石のような三畳間をリッチとは言わないよ)。一階には、大家の従兄弟が住んでいたが、その二十代のお嫁さんは沖繩のひとだった。水色のジーンズ(僕だってそんな派手なのを履いていたことがあったさ)を買って、裾上げを頼んだら、すぐやってあげるさー、と言われて、縫ってくれるのを見ながら、沖繩の話に花が咲いた。

 ……彼女が小学校の二年生の時、風邪で学校を休んだ。治って、学校に行くと、同級生の女の子が、

「やしが(でも)うんじゅ(あなた)は、一昨日、何であんなとぅくる(所)に居ったん?」

「あんなとぅくるて?」

「森が傍ぬ、ガジュマルぬ上から、わん(私)ぬこと、見下ろして笑ってたさ。ずる休みいけないんだーって言うとぅーし(けれど)、けらけら笑ってるだけだったさ」

その日彼女は、勿論、まだ熱を出して家で臥せっており、家から出ることなど思いもよらぬことだった。それを言うと、友達はひどく気味悪がったそうだ。家に戻った彼女は、恐る恐るおばぁにその話をした。おばぁは、さっと顔色変えるなり、すぐに彼女を連れて、近所の年老いたユタの所へ連れて行った。

 

◇やぶちゃん割注

ユタ:沖繩本島を中心に南西諸島の民間の巫女(ふじょ/みこ)。カミダーリ(神がかり)に入って、予言や忠告をする。森の中の女性だけが入ることの出来るウタキ(御嶽)やグスク()などの神域・聖地を巡って修行をする。色々な占いや祈願を行うが、特に霊魂の統御に霊力を発揮し、身体から離脱したイキマブイ(生霊)を、もとの身体に戻すマブイグミによって病気を治したり、シニマブイ(死霊)のマブイワカシ(口寄せ)の巫術を施すなど、霊界と通信できる存在とされる。

 

 ユタは短刀を彼女の目の前に振りかざして、切りかかるような仕草を何度もした。彼女は殺されるのかと思ったそうだ(その他にも、ちょっと話せない恥ずかしいことをされたと彼女は言った)。

 そうしておもむろにオバアに言ったそうである。

「イキマブイはじ(だろう)、マブイグミさびら(しましょう)。」

彼女は、友達が言ったガジュマルの木の下に連れて行かれ、ユタは地面に土盛りを作って、何やら木の枝を刺して拝むと、件のガジュマルの木の幹を何度もなでて、最後に彼女の胸にその手を置いて、強くとんと押した。これでいいさー、とユタは言うと、それまでの恐ろしくきつい顔を緩め、初めてにっこり笑ったそうである……

(1960年代の話 1976年初夏、筆者19歳の折に採話)

 

これはユタが今も信じられている証を示す、すこぶる興味深い話である。なお、ガジュマルの木は、沖繩の悪戯っぽい妖怪キジムナーの棲み家とも言われるから、木の上の彼女はキジムナーの変化だったのかも知れないなとも僕は夢想する……

   *


 教員になった頃、僕は毎日のように大船で飲んだくれていた。その今はなき「PACO」(エスペラント語で「平和」という意味)という飲み屋で、三十がらみの仲宗根某という飲み仲間から聞いた話。

 ……小学生の時、首里郊外の借家に住んでいた。母は病死し、三人兄弟(私は末っ子)、道路工事の土方で遅い父親は、いつも玄関脇の四畳半で寝起きしていた。ところが、毎夜、一時を過ぎた頃になると、その部屋から、隣の私等の雑魚寝している六畳の居間に、「うー、うー」という父親のいかにも苦しそうな呻き声が聞こえてくるのだった。それは、小学生の低学年だった私でさえ、目を醒ますほどのおどろおどろしい響きだった。

 思い余ってある時、私は父親に聞いた。

「おとぅ、毎晩、でーじ(たいへん)苦しそう。」

すると、おとぅは、みんなに次のように語った。

 疲れてばったり眠る、けれど、そのうちに、赤ん坊の泣き声が遠くから聞こえてくる、うっすら眼を開けると、お前達の部屋との間の障子に空いた穴が見える、今度はそこから、小さな女が出てくる……と……

「ぐまさん、ぐまさんうふちゅぬいなぐさ、とーがうとぅるさん(小さな、小さな大人の女なんだ、それが恐ろしい)」……

 ……ある日、学校から帰った私は、近くのユタのおばぁが、家の前で、お払いに使う木の小枝を地面に刺して、あろうことか私の家の方を拝んでいるのに、出くわしてしまった。ユタのおばぁは、私に気づくとそそくさと去って行ったが、私は、その夜、そのことをおとぅに告げた。おとぅは翌日、ユタの元を訪ねて、懇ろに前日の昼の拝みの訳を尋ねた……

 ……沖繩戦で焼かれる前、そこは産婆の住まう家があった。その産婆はいらぬ子を子の欲しい家へ按配してくれるので、流行っていた。しかし、滅多にその子の消息を聞くものはないのが不思議でもあった。戦後、行方知れずになった産婆の家のその焼け跡を見ると、その家の中には、隠し井戸がこしらえてあったさ……

 ……家に帰ったおとぅは、自分の寝ている四畳半の板敷きを上げてみた。そこには、黴蒸した廃井戸が奈落へと口を開けていた。そのユタを呼んでお祭りをしてもらったことは言うまでもない。それ以降、そのおとぅがうなされることは、なくなった……

(1950年代の話 1980年年末、筆者23歳の折、採話)

この話は、漸層的に真実が明らかにされてゆく上質の怪奇談として、僕には忘れ難い。そうして実は、赤ん坊の声こそが、恐怖の眼目なのだ。なお、以上二話の沖繩方言の表現部分は、沖繩言語研究センターデータベースを参考にして僕が想像したものである。

   *

……さて、ガマが恐いと言った人。実はありそうなガマの怪談は、実は、全く言っていいほど、ない。何故だか、分かるかな? 沖繩戦の悲惨は、今も忘れてはならないものとして「現実」なのだ。怪談にする余裕も、不真面目さも、あの闇には、ない。


   *

……しかし、沖繩の怪異とは何か。

……有毒なソテツの実さえ食わねばならない台風の飢餓……
……薩摩藩は赤ん坊にまで人頭税(にんとうぜい)をかけた……
……皇民化政策の中で、学校では方言を使った者に罰札を与え、廊下に立たせた……
……あの詩人高村光太郎でさえ、沖繩こそ日本の橋頭堡とおぞましくも沖繩戦賛美の詩をものした……
……占領下の沖繩で小さな子をひき殺した米兵は、本国のフィアンセに土産をたんまりもって悠々と帰国した……
……本土復帰、しかし、今現在も沖繩が失業率全国一であることを本土のどれだけの人間が知っているだろう……
……
辺野古では米軍のヘリポート建設のために、ジュゴンのやってくる珊瑚の海が壊されそうになっていることを君は知っているか……
……あの不死身のはずのウルトラマンは、沖繩出身で、本土の架け橋になる夢を懐きながら、それを成しえない焦りと苦悩の中、アル中になり、滑って頭を打って惨めに死んだのだということを……知っているか……

それらこそが、本当に恐ろしい怪異として、僕等の眼前に立ち現れてくるではないか…………

   *

 七月に海洋生物の観察で右腕首を折った。かなりヘコんでいた。やんばるでカヌーに乗った。福本と爽快に漕いだ。誰より僕たちはぶっちぎりの一番だった。右腕の不自由を忘れていた。半年振りに、心から、僕は、笑った。