やぶちゃんの電子テクスト:小説・随筆篇へ
鬼火へ


二本のステッキ   田中純   佐藤泰治 畫

[やぶちゃん注:これは芥川龍之介を素材とした実名小説である。昭和三一(一九五六)年二月「小説新潮」に発表された。表記漢字は底本自体が正字現代的仮名遣(但し、ひらがなの拗音は拗音表記されていない)である。
 底本は、十年前、初出誌を神奈川県の公立図書館に正規に有料コピーを依頼して入手したものを使用した。
 小説家田中純(明治二三(一八九〇)年~昭和四一(一九六六)年)は広島県広島市生まれ。関西学院神学部及び早稲田大学英文科卒。春陽堂に入社して『新小説』の編集主任を勤めた。クロポトキンやツルゲーネフ、ドライサーの「アメリカの悲劇」などの翻訳を手掛けた。久米正雄・里見弴らの知遇を得、文芸評論・小説・戯曲などにも手を染め、大正八(一九一九)年に里見らと『人間』を創刊、翌年の「妻」が代表作である。彼の作品はパブリック・ドメインである。
 挿絵を担当した画家佐藤泰治(たいじ 大正四(一九一五)年~昭和三五(一九六〇)年) は洋画家。東京生まれ。川端画学校に学び、宮本三郎に師事した。新聞小説や雑誌などの挿絵を多く描き、代表作としては川端康成の「舞姫」の挿絵が知られる。彼の作品もパブリック・ドメインである。佐藤氏の挿絵は私が最も適切と判断した箇所に配した(冒頭の一葉は底本でも冒頭に配されてある)。
 私は既にこの実名小説の元となった実在する佐野花子(明治二八(一八九五)年~昭和三六(一九六一)年)の随筆「芥川龍之介の思い出」(昭和四八(一九七三)年短歌新聞社刊の佐野花子・山田芳子著「芥川龍之介の思い出」(「彩光叢書」第八篇)。これは田中純に提供されたものを後に改稿したものである)を電子化している本文のみのHTML版ブログ・カテゴリ「芥川龍之介」での同注釈附分割ブログ版・同一括ワード縦書版(私の「心朽窩旧館」からのダウンロード方式)の三種であるが、それ以外にも佐野花子の「芥川龍之介の思い出」についてはブログで複数の小攷を試みているので(前記テクスト冒頭にリンクさせてある)、そちらも参照されたい)。
 なお、佐野花子の「芥川龍之介の思い出」の中でも、実は本作への言及が、その末尾にある。未読の方は本作を読む前に佐野花子の「芥川龍之介の思い出」全篇をまず読まれんことを強く求めるものである。末尾のそこでは、この発表の翌月の同じ『小説新潮』三月号の「文壇クローズアップ」欄に十返肇が書いたとする「芥川への疑惑」という本小説への評をかなり長く引用している(但し、現物は私は未見)。それは佐野花子の引用意図とは別に、この田中の、実名小説という形式に対する、強い批判が含まれている。是非、そこもお読み戴きたい。
 因みに言っておくと、本作冒頭に出る、資料の原執筆者と措定される佐野花子に当たる人物を指して、『昨年の春、老いのために廢人同樣の身となつた』としているのは、田中の小説上の技巧であって事実に反する。廃人同様となった人間に本作公開の後、あのような緻密な改稿作業は不可能だからである。佐野花子(彼女の没年は既に示した通り、昭和三六(一九六一)年(八月)で本作発表から五年後のことである)の名誉のために言い添えておく。
 以下、老婆心乍ら、先に幾つかの注をしておく。それ以外については、恐らく、私の佐野花子「芥川龍之介の思い出」の方の詳細注で事足りるはずと心得る。
・「F博士」不詳。佐野花子の「芥川龍之介の思い出」には登場しない。
・「ストーム」は「
storm」(嵐)を語源とする、本邦の旧制高等学校・大学予科・旧制専門学校・新制大学などの学生寮などに於いて、学生たちがしばしば行ったバンカラ(蛮行)の一種で、高歌放声のどんちゃん騒ぎを考えればよい。
・「蠟勉」は「ろうべん」と読む。かつての一高寄宿舎では夜十二時で消灯が決まりで、それ以後に勉強したい者は蠟燭を買っておいて灯し、こっそりと勉強した。そのことを指す学生間の隠語である。
・「河童踊り」ネット情報によると、一高以来、主に水泳部(一高水泳部は明治二七(一八九四)年創部)を中心に行われた校内の学生間の準年中行事と思われる。本来は初冬の寒中水泳であったか。現在の東京大学水泳部には、この「部踊り」としての「河童節」が残り、時々、河童踊りも行われているようである。但し、「河童節」は大正一〇(一九二一)年誕生で、公式の初演は昭和五(一九三〇)年の紀念祭で(こちら(PDF)の東京大学水泳部の準公式と思われるデータに拠る)、芥川龍之介は大正二年一高卒・大正五年東京帝大卒であるから、ここにこの話が出るのはやや不審な気がする。佐野花子の「芥川龍之介の思い出」にも「ストーム」「蠟勉」と合わせて、出ない。
・「若宮堂」この場合は鎌倉の鶴岡八幡宮下宮、特にその舞殿を指す(但し、これは近代に設営されたものであって鎌倉時代に静が舞ったのは上宮の回廊部分である)。言い添えておくと、それ以下の由比が浜のシークエンスを含め、この建長寺から天園のロケーション部分は、田中の完全な創作(嘘っぱち)であって、実際の芥川龍之介の水泳の場面は横須賀の海岸での佐野花子の思い出のそれを操作捏造したものである。無論、小説であるからにはそれを咎め立てするには当たりはしない。続くところの本作の題名に関わる印象的場面を撮るには演出行為としては上手いと思わぬでも、ない。しかし、私はこの如何にもなそれを(原資料の佐野花子の芥川龍之介の水泳シーンはすこぶる映像的で印象的で美しい故にこそ)はなはだ生理的に不快極まりないものとして強く映ずるものであることは言い添えておきたい。
・「靜」のルビ「しずか」はママ。
・「村夫子」は「そんふうし」或いは「そんぷうし」と読む。「村で一目置かれる学者のような存在」「田舎暮らしの在野の先生」の謂いであるが、別に「見識の狭い学者」という卑称でもある。
・「淚線」はママ。
 最後に。本電子データは私の完全還暦記念として公開するものである。【2017年2月15日――満60歳の私の誕生日に――本作に対する複雑な愛憎を込めて――藪野直史】]





 
二本のステッキ

             
田中   純
             
佐藤 泰治畫

 この三四年間、私の親しく接して、來た作家たちの印象を筆にすることの多かつた私は、ずいぶん多くの未知の人々から手紙を貰つた。そうした手紙の中にははじめから喧嘩腰で、筆者の解釋の不當をなじつたり、誤謬を指摘して來たりしたのもあつたけれども、その多くは、こちらには勿髓ないほどの好意を示して、賛意を表したり、未知の事實を知らせてくれたりするものだつた。
 「芥川龍之介と女たち」を書いたときも、私は幾通かの善意に溢れた手紙を受け取つた。中には芥川君の親戚の人からの、懇切に私の疑問を解く手紙などもあつて、ともかくも私の文章が、甚だしく故人の德を傷つけていないらしいことを知つてほッとしたのであるが、そうした頃の或る日、私は一通の分厚い封書と一緒にハトロン紙包みの小さい小包郵便を受け取つたのである。
 差出人は橫須賀市の山口靖子とある。もちろん未知の人だ。私の文章を讀んだのでにわかに思い立つてこの手紙を書くという書き出しで、しつかりした字畫の若々しい文字で書いてあるところによると、彼女の父は若い頃、橫須賀の海軍機關學校の教官をしていたことがあり、同じ學校の教官であつた芥川龍之介と相當に親しく交わつたようである。殊にその頃お茶ノ水女高師の文科を卒業したばかりの母は、まだ文學に靜かな情熱を抱いている時代でもあり、芥川の美しい人柄や泉のような才筆にすつかり魅せられたようで、このような若い天才を家庭の友として持つていることに、この上もない喜びと誇りとを、父とともに感じていたようであつた。ところが、こうした親しい交りが二年も續いた後に、突然、芥川から、理由の判らない絶交を宣せられた形になつた。これは靜かで平凡な生涯を送つた父母にとつては、終生最大のショックであつたようである。殊にあれほどに芥川を信じ愛した母は、その理由が全く判らないだけに一層苦しんでいたようで、最近まで一人娘である彼女に、
「どうして芥川さんは私たちにあんなことをなすつたのだろうねえ。」
 と言つて嘆いていた。この母は、昨年の春、老いのために廢人同樣の身となつたし、父もまた十數年前に世を去つている。もちろん芥川も自ら生命を絶つた今日では、その理由を確かめるてだては全くなくなつているけれども、ただ一つ、母がその晩年に書き遺して置いたノートがあり、これには芥川と父母との交遊の樣子を相當にくわしく書いている。このノートを讀んでも、どうして芥川が父母に對してあんな仕打ちをしたのか、その理由が自分たちには判らないけれども、その頃の芥川と親しい交遊があり、且また文筆者の心理にも通じている筈の貴下は、このノートによつて何かの解釋を得られるかも知れない。もし何かの結論を得られたら、母の心の最後の平和のためにも、それを知らせてほしい。うした願いをこめて、右のノートや、その頃の父母の寫眞などを送るからよろしく賴む。
 手紙の文意は大體右のようなもので、更に最後に、自分たちは決して貴下の「芥川龍之介をめぐる女たち」に名乘りをあげるつもりでこんな手紙を差し上げるのではないし、芥川の非情を非難するつもりで貴下に訴えるわけでもない。父や母がその一生にわたつてどんなに芥川を愛し敬していたかはこのノートを見てくれれば判ることだから、その點誤解のないように願いたいという意味がつけ加えてあつた。
 手紙を讀み終ると、私はさつそく小包を開いて見た。二つの手記があつた。一つは原稿紙三十枚ばかりの「私」と題するもので、母なる人の生い立ちの記のようなものらしい。今一つのが大判の大學ノート一筋にぎつしりと書きこまれたもので、表紙には「芥川樣の思い出」と橫書きしてあり、その下に小さく佐原春子と署名してあつた。そして別に一封の西洋封筒が添えてあつて、その中に兩親の寫眞と、芥川の手紙と原稿の寫眞が一枚ずつ入れてあつた。
「綺麗な人じアないか。」
 私はそばにいる妻に寫眞を示した。
「ほんと。」
 と、妻も、もう少し黃色を帶びて來ている古い寫眞に見入つて、「とてもゆたかな感じの人じアないの。」
「クラシカルだけれども利巧そうだし、好い感じだね。」
「これが芥川さんの戀人?」
「さア、ノートを讀んでみなければ判らないが……」
 その日いちにちかかつて、私はこのノートを讀んだ。ノートの大部分は、彼らがまだ新婚時代に獨身者の芥川とかわした友情の記錄だつた。その追憶の甘さと、敍述のくだくだしさとははじめのうち多少私を退屈させたことは事實であるけれども、やがてこの記錄の持つ不思議に強い情熱に引きこまれて行つた。特にこの筆者の良人なる人の芥川に對する神のような寛容や善意には妙に心を打つものがあつた。むろん私は、どうして芥川がこうした友情にそむいたのか、その理由を讀みとろうと努めた。いろいろな想像が私の頭に浮んだけれども、遂に的確にこれだという理由は摑み得なかつた。結局、私は、彼ら母子の期待に添い得ないことを斷つて、このノートを送り返そうと思つたが、二三日机の上に置いて眺めているうちに、こうした記錄をこのまま娘の筐底に埋めてしまうことの惜しさを感じて來た。むろんこうした交遊は、芥川にとつてはまことに些々たる感傷期の戲れであつたかも知れないけれども、そのために少くとも二つの最も善良な魂が、戸惑つたり悶えたり嘆いたりしていることを考えると、私は何か義憤に近いものさえ感じないでいられなかつた。で、それから二三囘の文通の後に、私はこのノートを公表することの許しを得た。これから書くのがそのノートである。
 もつともこの手記は相當に長いものであるから、ここにその全文を示すわけには行かなかつた。私は思い切つて取捨したり書き改めたりしなければならなかつた。從つてこの一齊の文責は全部作者たる私にあることを斷つて置く。

 芥川さんの噂を良人からはじめて聞いたのは、私たちのまだ婚約中のことであつた。その頃私は、仲人である鎌倉の博士のお宅で家事見習いをしながら、ときどき良人と會つていた。信州の片田舍の女學校を卒業して、そのまま女高師の寄宿舍生活に入つていた私は、都會ぐらしの家事については全く何も知つていないのであつた。
「僕の學校の同僚に芥川龍之介という人がいるんですよ。」
 と、或る日、良人は、F博士邸の應接室で二人きりで話しているときに言つた。その頃芥川さんはすでに「羅生門」その他を書いて、若い天才を謳われている時代であつたから、私もよく彼の名を知つていた。
「まア、あんな方が同僚でいらつしやいますの。」
「僕よりも三四年の後輩だけれど、すばらしい秀才です。僕は理科、先生は文科だけれど、二人とも東京の下町生れなので、よく話が合うんです。あなたも文科だから、結婚したらいろいろのことを芥川君に教えていただくと好い。」
「ええ、是非。」
 こんなことを話してから間もなく、いよいよ近づいて來る結婚の準備のために私は信州の里に歸つたが、田舍の古い家の中で何かと忙しく働きながらも、やがて間もなく芥川さんのような方と親しくおつきあいすることになるのだと考えて、何か樂しいような不安なような氣持に陷ることもあるのだつた。
 その年の春、私たちは鎌倉の博士のお屋敷で、内輪ばかりの結婚式を擧げた。橫須賀の新居で新床の一夜を過ごした私たちは、翌日のお午すぎ、箱根、伊豆へかけての新婚旅行に出た。折からのお花見どき、それも土曜日のことなので、この小さい軍港の街路は水兵と工員の姿でいつぱいだつた。二臺の俥を連ねて停車場へ着いた私たちは、人ごみを避けて改札の始まるのを待つていたが、そのときいきなり、
「やア、おめでとう。」
 と聲をかけて、良人の前に立つた紺背廣をつけた瘦身の紳士があつた。私はとつさに、雜誌で見ている寫眞を思い出して、
「あッ、芥川さんだ。」と思つたが、果してその人は、良人の紹介も待たないで、
「僕芥川というものです。」
 と、氣輕い調子で挨拶をされた。實はそれまで、二三の作品を讀んだ印象から、芥川さんという人を非常に神脛質な氣むずかしい人だと想像し、こちらが田舍者だという引け目もあつて、何となく避けたい人のようにも感じていた私であるけれども、彼のこの初對面の氣輕さは、一瞬にして私の氣重さを吹き飛ばしてしまつた。
「どうぞよろしく。」
 生れつきの小心から、小さく口の中で言つたけれども、私の心には何か明るい喜びがあつたような氣がする。
 プラットフォームに出ると、芥川さんは、
「僕あちらですから。」
 と言つて、三等車の方へ行つた。しかし汽車が鎌倉驛に着くと、彼は私たちの窓の外に立つて、
「僕も四五日うちに京都に遊びに行くつもりです。」
 などと言つて、汽車が動き出すまで私たちを見送つてくれた。
「すばらしいだろう、芥川君は。」
「ええ、とても。」
 私たちはそう言つて、新婚最初のなごやかな笑いを笑みかわした。
   春寒や竹の中なる銀閣寺   龍
 こんな句を書いた京都の繪葉書がとどいたのは、こうして私たちが二週間の旅を終つて歸りついた翌日のことだつた。私は大切に自分の新しい文箱にしまい込んだ。



「今日は芥川君と一緒に、鎌倉の小町園で夕食を食べることにして來たから。」
 學校から戾るなり良人がそう言つたのは、いよいよ新學期が始まつて間のない或る土曜日の午後だつた。突然のことで私は面喰つたけれども、嬉しくないわけではなかつた。
「ほかならぬ芥川君に見て貰うんだから、今日は馬力をかけて綺麗になつて行つてくれ。」
 そう言つた良人が、自分で鏡臺を明るい緣がわに持ち出してくれるのに、私は思わず吹きだしてしまつた。長い學窓生活のために殆んどお白粉になじまない私であつたけれども、良人にそう言われては鏡の前に坐りこまないでいられなかつた。F博士夫人に教えられたことを思い出しながら、丹念に自分の顏を彩つているうちに、いつか若妻らしい思いも湧いて來るのであつた。
 良人に帶を選んで貰つたり、襦袢の襟をかけ換えたりしているうちに、いつか夕暮れが迫つて來た。良人にせき立てられて停車場に急ぎ、鎌倉驛に降りて小町園に行くと、芥川さんはもう奧の離れで、お園さんという美しい女中さんを相手にして、待つていられた。
「やア、おそい、おそい。」
 と言いながら、芥川さんの顏はひどく樂しそうだつた。
「なにしろ新婚最初の外出なので、奧さんのお化粧が手間取つちやつて。」
 良人がさつそく意地惡を言い出すと、
「いや、奧さんはお化粧なぞなさらない方が好いですよ。」
 と言つて、芥川さんはじッと私の顏を見られた。
 やがて膳が運ばれてお酒になつた。お二人とも餘り強いお酒とも見えず、しばらく飮んでいるうちにお話しがはずんで來た。お話しは學校のことやら文壇のことやら、ずいぶんいろいろ出ていたが、そのうちに芥川さんは私の方へ顏をむけて、
「中條百合子つて人、奧さんの生徒じアないんですか。」
 と言われた。
「生徒つてわけではありませんけれども、お茶ノ水の教生として教えたことはございます。」
「こないだ僕、あの人に會見したのですよ。會見することは前から判つていたのだが、初めての僕と會うというのに、あのお孃さん派手な友禪の前掛をかけているんですがね。これが私の趣味ですと説明してましたが、ちよつと變つたお孃さんだと思いましたね。」
「學校でもちよつと變つた生徒だと、いうことになつていたようです。なにしろ國語は滿點なのですけれど、數學となるといつでもゼロだというのですから。」
「ゼロはひどいな。」
 と、良人は笑つて、「しかし龍ちやんなどは、そういう向きの令孃と結婚した方が好いかも知れないな。」
「いや、僕の友人に久米正雄というのがいるんですがね、これが家庭の關係から中條百合子と幼ななじみでしてね、僕に彼女と結婚しろと言うのです。こないだの會見もそういう久米のおせつかいの結果なんですが、まア、問題にはなりませんね。こちらが四六時中、文學の問題で頭を惱ましているのに、細君にまで煽られるのではやり切れませんからね。」
「しかし全然文學に無理解な女でも困るでしよう。」
「まア、こちらの仕事の價値を十分に知つていて、しかも惡く刺戟しないような人があれば理想的ですがね。しかし僕の家庭は相當に複雜ですからね、あまり理想的なことばかりも言つていられないのです。」
 芥川さんはそう言つて、彼の實母が狂人であつたことや、彼が養子であることや、彼を育ててくれた叔母のいることなどを、しんみりした調子で話した。
 その晩、私たちは十時近くまでも話しこんで別れた。汽車に乘ると良人は好い氣持そうに居座りをはじめたが、私は先刻の芥川さんの淋しそうな顏を思い浮べ、あんなに華やかに世に出ている人にも惱みは深いのだ、などと考えていた。
 それから二三日して、私たち二人にあてて芥川さんから手紙が來た。文意は――先夜は御馳走になつた。今度は自分が御馳走したいから、次ぎの土曜日の夕方から小町園に來てほしいというのだつた。私たちにも異存はなかつた。先日は何となく晴れがましく、氣の重かつた私も、今は、はずむような氣持で、その日の來るのを待つた。
 八幡前の櫻はもうすつかり若葉に變つていた。玉砂利を踏む音ものどかに玄關に立つと、
「お待ちかねでいらつしやいますよ。」
 と、お園さんに迎えられた。
 先日と同じように離れ座敷に通ると、芥川さんはもうドテラに着換えていて、
「今日は僕が主人役ですからね、ここに泊ることにしました。あなたがたもお風呂にでもはいつて、終列車まで遊んで行つて下さい。」
 間もなくお園さんが良人のドテラを持つて來て、私たちに入浴をすすめる。大變なことになつたと思つたけれども、結局私も座を立たねばならなかつた。



 その晩も、良人たちは樂しそうだつた。
「僕の從弟に小島政二郎というのがいるんだけど、知つてますか。」
 良人が言うと、
「知つてますとも。とても勉強家でね、有望ですよ。」
「僕たちは同じ下谷生れで、彼の家は呉服屋、僕の家は紙屋なんです。」
 そんな話しから、ひとしきり東京の下町の思い出が續き、食べものの話から、一高の寮生活の話に移つて、ストームだの蠟勉だの河童踊りだのの話がはずんだ。
「ところで今夜は、かねての約束に從つて、君の春子觀を聞きたいんですが。」
 良人がそんなことを言い出したのは、もうだいぶお酒が𢌞つた頃だつた。
「そうだ。まだ大役が殘つてましたね。――實は、奧さん……」
 芥川さんと良人とがこもごも説明するところによると、私たちがまだ婚約中であつた頃、學校の教官室で、既婚の教官たちが良人にむかつて、いろいろと細君操縱術だの、夫婦喧嘩の法だの、細君を叱るコツだのを説いたものだそうである。それを聞いて良人が、
「弱つたなア。結婚生活つてそんなにむつかしいものかねえ。」
 と、困惑した樣子を見せたところ、あとで芥川さんが、
「なに大丈夫ですよ。あなたが結婚したら僕が奧さんを鑑定してあげますからね、あなたはそれに從つてよろしくやれは好いんです。」
 と言われたので、その約束が出來てるのだというのである。
「それで私を鑑定なさいますの。まア、こわい。」
「大丈夫ですよ、奧さん。」
 芥川さんはそう言つて、硯と紙とを女中に持つて來させた。そしてさらさらと何か書いて、良人の前に置き、
  悲しみは君がしめたるその宵の印度更沙の帶よりや來し
 と讀み上げてから、
「どうぞ。」
「簡單に言えば、心引かれるような方だ。そういう方を奧さんにされた佐原さんが羨ましい――そういう意味ですよ。だから佐原さんは、操縱術も指導法も何も考えないで、ただただ自然のままにしていられれば好い。そうすればおのずから温かい美しい家庭が出來る。それが僕には羨ましいというんです。」
「ほんとに君、そう思つてくれますか。」
「ほんとですとも。」
「僕は數學と物理との外には何も知らない男だけれども、文筆の大家の君がほんとにそう思つてくれるんだつたら、僕、とても嬉しいな。春子もそう思うだろう?」
 良人が目をきらきらさせて私の顏を見る。私もちよつと淚ぐんで來て、無言にうなずいたけれども、それは芥川さんに褒められた嬉しさというよりも、良人という人の無類に單純な人の好さが、じかヽヽに私の胸に解れて來た結果だつたような氣がする。
 しかしこの夜から、私はにわかに芥川さんに親しみを感じるようになり、何か珍しい食べものでも手に入れば必ず良人に芥川さんを誘つて來て貰つて、ささやかな食卓をともにするようになつた。殊に或る日、私の郷里から送つて來た山鳥を調理して、田舍風の鳥鍋を供した時には、特に彼は喜んだようであつた。
「奧さん、これから郷里に手紙を出されるときには、必ずこないだの山鳥はおいしかつたとお書きになるんですね。そうするとまた送つて來ますから、自然に僕も御馳走にありつけるという寸法になりますからね。」
 芥川さんはそんなことを言つてはしやいでいたが、あまりはしやぎすぎたためか、歸るときに玄關で、すつとんと尻餅をついてしまつた。
「山鳥の祟りらしいですね。」
 芥川さんがそう言つたので、私たちは氣の毒さも忘れて笑つてしまつた。
  うららかやげに鴛鴦の一つがひ
 そんな句を紙きれに書いて下さつたのもその夜だつたと思う。
 その頃の或る日、私たちの新婚寫眞が麗々と時事新聞に出たことがあつた。友だちからお祝いの手紙を貰つてはじめてそのことを知つた私たちは隨分驚いた。この寫眞は、ごく少數の親しい人に贈つただけだつたので、どうしてそれが新聞社なぞに𢌞つたのか、私にも良人にも見當がつかないのだつた。すると或る夕方、良人が芥川さんと一緒に歸つて來て、
「おい、重大犯人を連れて來たよ。」
 と言うのでぁる。すると芥川さんもにやにやと笑つて、
「僕今日は奧さんにお詫びに來ました。」
 と言う。
「まア、なんでございますの?」
 と聞くと、それが寫眞のことであつた。
 芥川さんが私たちの新婚寫眞を東京の家に持つて歸つて、机の前に立てかけているところへ、その頃時事新聞の記者をしていた菊池寛さんが訪ねて來て、是非これを新聞に載せさせろと言つたというのである。
「そこで僕、しばらく沈思默考しましたね。これは善行なりや惡事なりやという大問題なのです。結論として僕は、これは善行ではないまでも惡事にあらずと決斷したのです。少くともこれは、奧さんに非常に大きな損害を與える行爲ではない。しかもその結果として、僕は菊池に友情の一端を果すことが出來るし、一新聞社の事業を扶助することも出來る。よろしい、早速持つて歸つて、滿天下の紳士淑女を惱殺することにしたまえ。――まア、こういつた次第です。むろん、僕は最後まで何食わぬ顏で過ごすつもりだつたのですが、その後だんだん教官室の詮議がきびしくなりましてね、僕への嫌疑が濃厚になりそうな傾向が見えて來たので、自分から白狀したわけです。惡かつたらお許し下きい。」
 芥川さんはそう言つて、例の長い髮をばさッと落して、輕く頭をさげた。
「それはもちろん惡いですわ。」
 私は言つたけれども、すぐにみんなの樂しい笑いになつてしまつた。
 それからしばらくたつてからだつたと思う。いつものように私たちの家で三人で晩食をとつたあとで、芥川さんの結婚のことがまた話題になつたことがある。そのとき芥川さんは、自分の家系は餘りに東京人であり過ぎるから、細君にはむしろ田舍の人を貰つた方が好い。肉體的にも精神的にも健康で圓滿で明るい女性がほしい――その點でも佐原が羨ましいなどと言つていたが、突然、
「これは僕の結婚とは別問題ですが。」
 と前置きして、「橫須賀の女學校に汽車通學しているお孃さんに一人すばらしいのがいるんですがネ。僕、毎朝、好いなアと思つて見ているうちに、こないだ思わずそのお孃さんにお辭儀しちやつたんですよ。すぐにはッと思つたのだけど、もう取り返しがつきませんものね。きつと向うでは僕を不良紳士だと思つてるでしよう。」
「まア。」
 と言つた私の心は急にはずんで來た。と言うのは、その頃私は午前中だけの約束で、そ の女學校へ教えに行つていたからである。
「その人どこから汽車に乘りますの?」
「逗子からです。」
「どんなお孃さんでしよう。」
「背の高さは五尺ちよつとくらいですかね。實にすつきりした姿でしてね、あの野暮つたい木綿縞の制服を着ててさえすばらしいんですよ。足の美しさなんぞ、まア、鹿のようだとでも形容しますかね。」
「お顏は?」
「優しくつて、なかなか愛嬌があつて、眉と目とが特に綺麗なんです。鼻がちよつと上向いてますけども、それが却つて可愛らしいのです。」
 私には大體見當がついた。私の教えている實科二年の鈴木たか子だと思えた。それならば成績もよく、性質も好い生徒だつた。
「芥川さんにお辭儀して貰つて、きつと光榮に思つてますわよ。」
「そうだと好いんですがね。」
「ひとつ、どんな家の娘さんか、調べて見ろよ。」
 と、良人が言う。
「ええ、さつそく誰かに聞いて見ますわ。」
 芥川さんはその晩も機嫌よく醉つて歸つて行つたが、私たち二人きりになると、
「芥川君はあんなことを言つてるけれども、ひとり話のきまりそうな相手があるらしいんだよ。それはたしか日本海海戰で戰死した海軍大佐の遺兒でね、今はまだ跡見女學校か何かの生徒らしいんだが、以前から芥川の方から申し入れているらしいんだよ。」
「芥川さんが御自分でお話しになつたの?」
「いや、うちの木崎校長がその大佐と同期だつたとかでね、その未亡人から芥川君の人物をどう思うかつて尋ねて來たらしい。それで校長が二三の文官教師に意見を徴したという話があるんだ。」
「それならはすぐにお話がまとまるでしようのに。」
「ところがなかなか未亡人から返事が來ないらしいんだね。それで芥川君、このごろ少しやきもきしてるところもあるらしいんだ。」
「でも、芥川さんほどの人に、どうしてそんなに御返事がおくれるんでしよう。」
「君はそう思うだろう。僕もそう思うんだ。あれほどの才能のある人物だから、どこの親だつて二つ返事で娘をよこすだろうとね。ところが實際にはなかなかそうでもないんだね。これはここだけの話だけれども、いつか僕、芥川君と一緒に京都に出張したことがあるんだが、そのとき京都大學の或る教授に芥川君のことを話したのだ。そうしたら、自分の娘の婿としてどうだろうという話になつてね、まア見合いというようなことをさせたことがあるんだ。ところがあとからの先方の返事は、あれでは神經が纖細すぎて困ると言うんだよ。僕はよい加減に芥川君にはごまかして置いたけれども、そういう見かたをする人もあるんだね。」
 良人がいかにも不思議そうに言うので、
「その氣持は私にもよく判りますわ。私だつて、芥川さんはずいぶん面白い方だし、人柄も好いし、才氣渙發だし、とても引きつけられていますけれども、あの方を自分の良人として考える場合には、ちよつと考えさせられると思いますわ。全く神經が纖細なのですもの。こちらが姉のようになつて暖かく抱擁して上げられれば、あの方の才能もぐんぐんと伸びて行くし、幸福だろうと思いますけれども、そういうえらい女はめつたにありませんし、私なぞ勿論落第ですわ。」
「そう謙遜しなくとも好いよ。」
「いいえ、謙遜じやアありませんわ。かりにあなたと芥川さんと二人のうちどちらかを良人として選べと言われれば、私だつてあなたを選びますわ。あなたならば、何時でも安心して倚りかかつていられますけれど、芥川さんではちよつと怖い氣がいたしますもの。」
「君は思つたよりも辛辣なんだね。」
 良人はそう言つて、じつと私を抱きしめるのであつた。
 事實、芥川さんの神經の細かさには、私のような田舍育ちのものには想像もつかないようなものがあつて、私たちも芥川さんのために心配したものであつた。
 或るとき芥川さんが、げつそりと瘦せこけて、蒼い顏をして來られたことがあるので、
「どうなさいましたの。」
 と尋ねると、
「よせば好いのに、僕、この頃、谷崎潤一郎と大論爭をやりましてね、それでへトヘトに疲れちやつたのです。それに文壇には批評家なんて人種がいましてね、これが下らないことをブツブツ言いやがるし、まるで神經を搔きむしられる氣がするんです。」
「でも、谷崎さんとはずいぶんお仲が好いんじやアありませんの。」
「仲はよくつても文學上の論爭となれば眞劍勝負です。負ければ殺されるんですからね。」
 芥川さんはそう言つてから、珍しくゴロリと橫になり、
「しかし、谷崎という奴はえらい奴ですよ。僕をこんなに參らせるんですからね。」
「でも、谷崎さんは兎も角として、批評家の言い分なぞにそんなに神經をお使いになる必要はありませんわ。あなたはもつと高いところから、自信を持つて見おろしていらつしやれば好いのですわ。」
「そうだ、ほんとにそうですね。奧さんはやつぱりえらい。」
「あらア……」
 私があきれていると、芥川さんはにわかに元氣にはしやぎ出して、
「僕今晩は英詩の朗讀をやりましよう。何か詩の本はありませんか。」
 その頃私は、家事もだいぶ手につき、時間の餘裕も出來て來たので、學校時代の英語のおさらいなどしていたので、すぐに机の上にあつたロングフェローの「エヴァンゼリン」を持つて來た。
「ああ、エヴァンゼリン。奧さんのお好きらしい詩ですね。」
 彼はなつかしげにページを繰つていたが、やがて聲を擧げてその一節を朗誦し始めた。それは聞き惚れるほど美しい發音で、全文をすつかり理解しているものでなければ示されない深い感動のこもつたものであつた。私がぞくぞくするような思いで聞いているうちに、彼は一時間近くも讀み續けたであろうか。突然ばたりと本を閉じると、
「久しぶりに讀むと、こうしたロマンチックなものも好いですね。これからときどき、奧さんと一緒に、こういうものを讀むことにしましようか。」
「是非お講義お願いしますわ。」
「實はね。」
 と、良人が口を入れて、「僕たち婚約中にね、二人が結婚したら、僕が春子に英語を教えて上げようと約束したのですよ。それでこの頃少しずつやつてるんですがね、散文はともかくとして詩となると僕にはちんぷんかんぷんなのですね。これア駄目だつてわけで、目下授業を中止してるんだけれど、君がやつてくれれば鬼に金棒だ。僕も弟子入りするからやつてくれませんか。」
「いや、講義なんてことは駄目だけれども、ともかくこれから一緒に讀みましようよ。僕も自分ひとりでわざわざロングフェローを讀む氣にはなれないけれども、あなたがたと一緒ならばとても樂しく讀めそうな氣がするから。」
「そのついでに、これの短歌も少し直してやつてくれませんか。」
「短歌は僕、全然やつてないんだけれど、そうですね、そいつも僕勉強のつもりでやりましよう。」
「お願いいたしますわ。」
 と私も、はずむ思いで賴むのであつた。
 それからは、毎週いちにち、日をきめて芥川さんが來てくれることになつたが、勉強の約束はあまり實行されなかつた。夕食のあとの雜談で一夜をすごすことが多かつた。それでも短歌だけはときどき私の作つたのを見て貰つた上、芥川さんのを示されることもあつた。
「奧さんは、土曜の晩には白粉をつけていられるそうですね。」
 と冷やかすように言つて、
  秋立つや白粉うすし虢夫人
  白粉の水捨てしよりの芙蓉なる
              龍之介
     追加
  妻振りや襟白粉も夜は寒き
 と書いて下さつたのもそうした一夜であつた。
 これもその頃の一夜だつた。その日良人は出張のために不在だつたが、良人が、
「僕がいなくても例會はやつた方が好いよ」
 と言うので、芥川さんに來て貰つた。でも、その晩はお酒も出さず、二人で鮨を食べただけで、私の作り貯めていた歌を見て貰うことにした。歌は四十首もあつたであろうか、芥川さんはすつかり讀んでから、
「この中では僕、これが好きだな。」
 と言つて、
 針持ちて物縫ふ折の安らけさ靜けさに只いのち死なまし
 の一首をあげ、
「この心境は奧さんらしくつてすばらしいですよ。僕もときどきこんな心境を經驗することはあるんだけど、奧さんのように身についたものじやアない氣がするんです。奧さんは好いなア。」
 と、たいへん感心した樣子である。
「こんな氣持がそんなに珍しいのでしようか。」
「いや誰でもときどき經驗する氣持ではあるけれども、それが身についているかいないかが大問題なのです。奧さんなぞは……」
 言いかけてから、
「僕はもう奧さんの歌の添例などはよしますよ。奧さんなぞは、どう歌い出してもすばらしい歌の出來る人なんです。それよりもですね。」
 と、彼はしばらく考えこんでいてから、
「これは奧さん、全く假定の話ですけれども、もしもですよ、もしも妻子ある男が處女に戀するとか、あるいは靑年の身でよその夫人に戀するとか、そういうことになつた場合、われわれは一體どうしたら好いのでしよう。僕はそれを一度奧さんに聞いて見たいと思つていたのですが。」
 突然の質問に、私ははッと思つた。假定の上に立つた話ではあるけれども、ひどくわれわれの身に近い、危險な問題だと感じたのである。で、私はしばらく默つていてから、
「そんなむつかしい問題は私にはよく判りませんわ。それこそはあなたの專門の問題じやアございませんか?」
「僕たちの專門だから、專門でない奧さんの意見が聞きたいのです。文筆者の意見は、こういう場合、大抵きまつてますからね。」
「それはやはり、あきらめるしかないのじやアございませんか知ら。」
 私はそう答えるしかなかつた。
「なるほど、奧さんだつたらあきらめられるでしようね。しかしもし、あきらめられなかつたら、――それほどに深く戀してるのだつたら、――義理も名聲も生命も賭けるというような戀だつたら――それでも奧さんはあきらめろとおつしやるんですか。」
「はい」
 と、私はだんだん勇氣のようなものを感じて來て、「それは人にもよりましようけれども、もしもそれが芥川さん御自身の問題でしたら、あきらめて下さいと申し上げますわ。だつて、芥川さんの名譽やお生命いのちと懸け替えになるような女が、この世の中にいるとは思えませんもの。」
「そうですか。あきらめるんですか。」
 彼は自分に言い含めるように言つて、しばらく沈痛に默つていたが、
「いや、どうも、有難うございました。」
 と、立ち上りそうにした、私は何だか、このまま彼を歸らせては大變なことになるような氣がした。で、
「あら。まだお早いじやアありませんか。」
 と、彼を引きとめにかかつた。
「でも、變なことを言つて、奧さんを不愉快にしたような氣がしますから。」
「だつて、今夜のは、或る假定の上に立つて、私の意見をお聞きになつただけじやアありませんか。」
「そう。そうですね。」
 と、彼は漸く弱い笑いを頰のあたりに浮べて、「しかし、誤解を招くといけませんから、今夜のお話は二人の間に全くなかつたことにして、永久に抹殺して下さいませんか。」
「え、もちろん、こんなこと、誰にも話せることではございませんわ。」
 彼は再び腰をおろしたが、もうあまり話しこみもせず、間もなく悄然と歸つて行つた。その淋しそうな後姿を玄關に見送り、戸じまりをして、ただひとり自分の座に坐つたとき、でも、私の心は妖しく亂れていた。何かの危難をまぬかれたような安堵の思いとともに、何か貴重なものを取りにがしたような、妙にあとを引かれる氣持だつた。
 もちろん私は、その夜のことについては誰にも――良人にも、全く何も話さなかつた。
 こうしているうちに、私たち結婚後の二度目の夏が近づいて來た。はじめ私たちは、その夏を郷里の涼しい溫泉で過ごそうなどと言つていたのであるが、或る日芥川さんから、東大文學部の公開講演會のことを聞かされてにわかにそれに出席したくなり、良人も賛成してくれたので、芥川さんにその手續きをたのんだ。しかし開講の日に間のない頃、ふだん健康な私には珍しく、劇しい眩暈に惱まされる日が續いた。良人にすすめられて醫者に診て貰うと、
「なに、大丈夫です。おめでたでございます。」
 と言われた。そのために私は、折角の講演會の出席も取りやめて、橫須賀の家で寢たり起きたりの日々を送らねばならなかつたが、或る日、芥川さんから來た長い長い封書は、どんなに私の病床を慰めてくれたか知れなかつた。彼はその手紙で、講演會の樣子をこまごまと知らせてくれたのであつた。そして、この會には某々の名流夫人だの、中條百合子だのが出席していると書いたあとで、自分がこんなことを書くのもただ奧さんの向學心を嬉しく思うからですなどと書いてあつた。
 私は何度も繰返して讀んだあとで、こちらからも長い長い手紙を書いた。すると、彼からもまた長い手紙が來た。その中には「この頃やたらに癇癪が起きて家の者を困らせていたが、今日やつとその原因が、親知らず齒の養生にあることが判つた」などと書いてあつた。
 私たちは何度か長い手紙をやり取りした。かくべつの用件があるわけではなく、ただ日常の境瑣末なことを知らせ合うに過ぎなかつたけれども、私はどんなにその手紙を待つたことだろう。一日に二度も三度も門わきのポストに手を入れて見て、苦笑しながら、戀人の氣持つてこんなものなのか知らと思つたりした。
 その夏もやや終りに近い頃、良人と二人で鎌倉に行つた日のことも忘れられない。私たちは芥川さんを誘つて建長寺の方へ散步した。お寺の裏山に登ると、廣い靑い海が一眸のうちに見渡されて、右手にくつきりと富士の姿が浮んでいた。
「ここの富士は、僕、わりに好きなんです。變になまめかしくつてロマンチックじやありませんか。」
「そうかなア。文學者にはそう見えるのですかねえ。」
 と、良人が感心したように言う。
「でも私は、郷里の信州から見る富士が好きですわ。」
 と、オレンジ色の大氣の中に浮ぶ紫紺色の姿を私が説明すると、
「奧さんはお國自慢だなア」
 と芥川さんは笑つて、「しかし、田舍に郷里を持つてる人は羨ましいですよ。僕だつて壯大な山々にかこまれた自然の中に生れて、荒つぽく育つていれば、もつと線の太いどつしりした、人間になれたかも知れませんからね。」
「いや、しかし、龍ちやんが田舍に行けば退屈するばかりだよ。」
 良人はそう言つて、彼が學生の頃、大いに勉強するつもりで田舍に行つたけれども、淋しすぎて何も出來なかつたことを話し始めるのであつた。
 やがて私たちは山を降りて、八幡宮の方へ歩きだした。小袋坂まで來ると、向うから一匹の大きな黒い牛が、小山の樣な荷を積んだ鼻を引いて上つて來るのに行き遇つた。芥川さんは立ちどまつて、じつと見送つてから、
「僕はいつも、あの牛が鼻の間に鐡の輪を通されているのを見ると、とても悲慘で見ていられない氣がするんですが、考えれば人間だつて、みんな、鼻のさきに鐡の輪をはめられてるようなものですね。人間はそれを意識するだけに悲慘の度は強いとも言えますね。」
「しかし、牛に生れるよりも人間に生れた方が好いですよ。」
 無雜作に言う良人の聲をうしろに聞きながら、私は、單純で幸福な良人と複雜で傷つき易い芥川さんとを、何という遙かな違いであろうと、心にしみて考えるのであつた。
 しかし八幡宮の境内にはいると、芥川さんはまた快活な饒舌家になつていた。若宮堂の前まで來ると、
「おお、しずか、靜! 偉大なる情熱を包んだ貞節よ! けなげなる意志よ!」
 と劇詩でも朗誦するように叫んだり、石段わきの大銀杏のそばに立つと、別當公曉が金塊集の作者を刺すときの光景を、自分で見ていたように生き生きと描いて聞かせたりした。
 私たちはそれから由井ケ濱の方へ行つた。もう土用波の高い季節ではあつたけれども、それでも海邊は半裸の男女に埋まつていた。
「今日は奧さん、僕の妙技を御覽に入れましようか。」
 彼はそう言つてから、着物をぬいで、水の中に走りこんで行つた。少年の頃、隅田川の水練學校で鍛えたという彼は、なるほど水泳は達者なようだつた。速く沖の方まで泳ぎ出て、私たちの方へ兩手を振つて見せたり、長い間水の中にもぐつて私たちをひやひやさせたり、背泳ぎをして兩足のさきを水の上に出して見せたりしてから、やつと長い髮を搔上げながら私たちのそばに歸つて來た。
「なるほどあれなら妙技のうちにはいるでしよう。」
 良人がすなおに褒めると、
「奧さん、どうです、信州の選手權は取れませんかね。」
 と、彼は樂しそうに笑つた。
 その日、私たちは、彼の下宿している離れ座敷に寄つて日の暮れるの待ち、一緒に海濱ホテルに行つて晩餐をしたためた。日暮れを待つ間にも彼は机によつて立ちどころに今日の所見を十數句の俳句に作つて、私に書いてくれた。
「今日はとてもお元氣ですわね。」
「すばらしい日です。とても調子が好いです。」
 そしてその快活で健康そうな調子は、ホテルで食事をしている間も失われなかつた。その賑やかな食事の間に、良人と芥川さんとは洋行の話をはじめた。芥川さんが西洋よりもさしむき支那へ行きたいと言うのに對して、良人はしきりにドイツへ行きたいと言つた。
「僕が洋行したら、龍ちやんに何をお土産に持つて來るかな。」
 良人が少し醉つて來た調子で言うと、
「そうだな。あまり高いものを言つたのでは約束流れになるから、まア、ステッキとでも言つて置くかな、そうだ、スネークウッドのステッキを買つて來て下さい。」
「ステッキね。好いでしよう。二人お揃いのステッキを買つて來ましよう。」
「當てにしないで待つてますよ。」
「いや、それくらいのものならば大いに當てにして貰つて好いですよ。」
 三人は樂しそうに笑つた。そして、その夜ふけてから、私たちは疲れて橫須賀に歸つた。
 この一日の健康な新鮮な記憶は、その後ずいぶん久しく私の胸から離れなかつた。新學期に入つてしばらくすると、私は出産に備えて女學校の方をよすことにしたが、そうした日日、家にこもつて針仕事などしているとき、いつとはなく胸に浮んで來るのはあの日の芥川さんの靑年らしい姿であり、含蓄に富んだ彼の言葉のはしばしであつた。私はいつか針の手を止め、茫然と灰色の壁を見つめながら、あの幾らか薄い、でも引きしまつた唇や、長い睫の奧に輝く漆黑な瞳や、ときに惱ましげに、ときに剛情ッぱりに見えるあの尖つた頤を思い描いており、はッと氣づいて再び針を動かし出すのであつた。
 私は、自分が芥川さんを好きで好きでたまらないのだということを、今ではみとめないでいられなかつた。私は、自分がもしもつと激情家に生れついていたならば、いつかのあの告白を聞いたときに、彼の腕に身を投げかけていたに違いないと思つた。いや、あの告白をあの時でなく、いま、今日この頃聞いたとしたらどうだろう。あんなに冷たく靜かにしていられただろうか?――考えながら全身で悶えている自分に氣づくことがしばしばであつた。そのくせ、夕方になつて良人が歸つて來ると、晝の間の妄想なぞけろりと落ち去つて、これまた好きで好きでたまらない良人のために、いそいそと夕餉を供する自分になるのも事實であつた。
(私つて娼婦のようなところのある、いけない女なのか知ら。)
 私はときどきそんなことを考えることがあつた。が、それにはすぐ一つの答案が出て來た。
(だつて、良人だつて芥川さんを好きで好きでたまらないのだもの。良人が好きなものを、私が好きになつてはならないという理由があるか知ら。不貞つて屹度こんなものではないわ。)
 こんな思いを毎日のように胸の中に繰りひろげて、水の中にただようような日々を送つているうちに、思いがけなく、一つの救いが來た。その年の暮れに近づいた或る日、芥川さんが訪ねて來て、
「僕いよいよ結婚することにきめましたから。」
 と告げたからである。結婚の相手はやはり以前から噂のあつた海軍大佐のお孃さんであつた。
「まア、それはよろしゆうございました。心からお喜び申しますわ。」
 私は私自身の内心の窮地からのがれた氣がして、良人とともにお祝いを述べた。
「結婚したら、奧さんの歌の仲間にでも入れて、いろいろのことを仕込んでやつて下さい。」
 芥川さんはそんなことを言つて、嬉しそうに歸つて行つた。そして、年が明けると間もなく、東京で結婚式をあげた。
 新婚の芥川夫婦が私の家に挨拶に來られたとき、私はちようど男の子を生んだあとの産褥についていて親しく會うことが出來なかつた。接待に出た郷里の母が、あんな立派な御夫婦は信州なぞではとても見られないなどと、枕もとに來て話すのを、私は晴れ晴れとした思いで聞いた。これで私は母というものになつたし、芥川さんもやつと一家の主人になれたのだ。――そう思うと美しい苦しい芝居の一幕が終つたような殘り惜しさとともに、しみじみとした落ちつきが感じられるのであつた。
 芥川夫婦は鎌倉大町の或る別莊の離れ屋を借りて、そこで新婚生活を始めた。相變らず良人は毎日のように學校で芥川さんに會つていたけれども、私ほ殆んど會わないで過ごした。馴れない赤ん坊の養育にかかり切つている私は、以前のように氣輕にお招きすることも出來なくなつたし、訪ねることも出來なくなつた。それでも一二度、赤ん坊を連れて、良人と一緒に新居を訪れ、新夫人のもてなしを受けたこともあつたが、むずかる赤ん坊に心を奪われてゆつくり話すことも出來ず、心なくも良人を追い立てるようにして歸つて來るのが落ちだつた。そしてたしか翌年の春、機關學校の教官を辭した芥川さんが、いよいよ東京に引き上げるというときにも、私はとうとう見送りにさえ行けない始末であつた。
 しかし東京に移られた後にも、私たちの間の文通は續いていた。短いけれども旅さきからの絵葉書が來たり、新しい著書を送つて來たりした。
  橫顏賀には善友が揃つていましたけれど
  も東京には惡友が顏を揃えています。僕
  が御不沙汰がちなのは專らそれら惡友の
  ためだと思し召し下さい。
などと、葉書に書いてあることもあつた。そのうちに、たしか大正九年の春だつたと思うが、芥川さんに長男が生れたという噂を、良人が學校から聞いて來た。私たちは早速お祝いの品を贈つて、心からの祝意を表した。それに對して奧さんから懇篤な禮狀がとどいたけれども、それを最後に彼からは全く手紙が來なくなつた。むろん私たちからは、それから數囘、近狀を知りたいという手紙を出したが、彼からは遂に一片の葉書さえ來なくなつてしまつた。
「芥川さんは一體どうなすつたのでしようねえ。あんなにたびたび面白いお手紙を下すつたのに。」
 私と良人とはときどきそう話し合つた。
「きつと仕事が忙がしいんだよ。あの頃と違つて、今では天下の芥川だからね。」
 良人はいつもそう答えて、彼の名聲のいよいよ高まるのを喜ぶ風であつた。
「いくらお忙しいと言つたつて、お葉書くらい下さつてもよさそうなものだわ。」
 私が不滿をおさえかねているような頃の或る日、書店からとどけて來たS畫報を見ているうちに、偶然、芥川さんの短い文章に目を吸いつけられた。それ談話筆記ででもあるらしい文章で、表題は「僕の最も好きな女性」というのである。「僕はしんみりとして天眞爛漫な女性が好きだ」という書き出しで、
  私はかつて或る海岸の小さな町に住ん
 でいたことがありました。そう教養の高
 いというのでもなく、またそう美人とい
 うでもない一婦人と知り合いになつたこ
 とがありますが、この婦人と相對して坐
 つていると恰も滾々として盡きない愛の
 泉に浸つているような氣がして恍惚とな
 つて來ます。私はいつか全身に魅力を感
 じて、忘れようとしても今なお忘れられ
 ません。こういう女性が居ければ多いほ
 ど世界は明るく進步して、男子の天分は
 いやが上にも伸ばされて行くでしよう。
と結んである。讀んでいるうちに私の胸はときめいて來た。「或る海岸の小さい町」というのは、芥川さんが橫須賀のことを書くときにいつも使う言葉である。芥川さんが橫須賀で知り合つた女と言えば、この自分しかない筈だが。………それでは芥川さんは、今でも自分をこんな風に考えていてくれるのであろうか。………
 われにもなく私は、雜誌の上にぽたぽたと淚をこぼしてしまつた。それが昨日までも、彼の理由不明の沈默を恨んでいるやさきであつただけに、彼の眞情を聞いた喜びは深かつた。
 私は良人にも語らないで、この雜話をしまい込んだ。每日とり出しては、くり返して讀んだ。そして、こんなにも好いていてくれたのだつたらと、あの頃のあのこと、このことを思い浮べて、淚をこぼしたり、あらぬ空想に渇いたりするのであつた。そして餘りにも思い亂れる自分を見出して恥ずかしくなつた或る日、私はとうとうこの雜誌を庭に持ち出して燒き棄ててしまつた。
 ところが、それからしばらく經つた或る夕方である。いつも樂しげな良人が、いつになく浮かない顏をしで學校から歸つて來た。
「どうなさいましたの?」
 と聞くと、
「困つたことになつた。」
 と、深い息をついて、「芥川君が僕のことを妙な風に書いてるんだよ。」
「妙な風につて?」
「つまり、僕のことを融通のきかない、のろまな、變人の代表的人物として書いてる――それだけのことなんだけどね、教官室ではみんなぷんぷん言つて怒つているし、教頭も芥川の奴けしからんというわけでね、何かの處置を取ると言つてるんだよ。」
 私の甘い夢はむざんに破られた氣がしたが、それでもまだその文章を自分で讀んで見なければ何とも言えない氣がした。
「その文章はどこにございますの。」
「買つて來たよ。」
 と言つて、良人はカバンから新刊のS雜誌を引き出して、私の前に投げ出した。
 それは「Sさん」という彼の短い隨筆だつた。なるほど海軍機關學校教官のSさんとして明らかに良人だと判る人物が、いかに底ぬけの好人物で、愚直で、滑稽であるかを、彼一流の皮肉と機知と可笑しみのある筆で描いているのである。もちろん良人を極端に戲畫化しているものではあるが、モデルの問題を離れて一つの作品として見れば、必ずしも許せない文章ではない。私はそう思いながら讀み進んだのであるが、しかし最後に、
  この男が三十も過ぎてやつと婚約が出
  來、今や有頂天になつているのは笑止千
  萬である。果してこの男の妻にどんな賣
  れ殘りがやつて來ることだろう。
 といふ意味の文章にまで讀み進むと、私は思わずかあッとなつてしまつた。(私がここに原文のままを出し得ないのは、不愉快のために、その雜誌をすぐに燒き棄ててしまつたからである。)私は何という野卑な下等な文章だろうと思つた。良人ひとりが侮辱されるのは好いとしても、これでは人類全體が侮辱されているではないか。しかもこれが、一年前まではあれほどにもおたがいに尊敬し信賴し合つた筈の芥川さんの文章であろうとは!
 私は見る見るうちに、頭の血がさあッと音を立てて引いて行くのを感じた。續いてくらくらッと、はげしい目まいが襲つて來るのを感じた。私は抵抗もなく、前のめりに倒れてしまつた。烈しい急激な腦貧血が私の意識を失わせたのであつた。……
 二三日の靜養の後に、私は漸く良人と落ちついて話し合えるほどの靜かさを取りもどした。私たちは終日、芥川さんがどうしてこんな文章を書いたのかについて話し合つた。良人は相變らず寛大であつた。
「いや、ああ書かれて見れば、僕という男はああ言う男なのだろうよ。少なくとも芥川君にはそう見えるんだから仕方がないよ。僕自身だつてあれを讀みながら、なるほどねと思つて笑い出したくらいだもの。」
「でも、あの最後の文章は失禮じやアありませんか。」
「いや、あれはああ書かなければ筆の收まりがつかなかつたのだよ。芥川君は小説家だからね。」
「いくら小説家だつて、あんな惡意のある文章を書くことは許せないと思いますわ。」
「うむ。まア、それよりも僕は、あの文章を讀みながら、芥川君が神經衰弱になつてるという氣が強くしたのだがね。」
「神經衰弱ででもなければ、あんなものは書けませんわね。」
「もしそうだとすると、氣の毒だね。僕はどうも、芥川君と奧さんとの間が、うまく行つていないのじアないかと思うんだ。そしてそれには君というものがいて、かつて芥川君の心醉を買つたということも一部の原因をなしているのではないかと、この頃ちよつと考えたのだがね。」
「では、芥川さんの奧さんが私に嫉妬してらつしやるつてわけ?」
「さア、嫉妬と言えるほどはつきりしたものではないかも知れないけれども、結婚前の良人の女友達なんてものは、いずれにしても細君にとつては面白くないものじやアないのかね。」
 芥川さんには鈍物の代表にされる良人が、存外に女の心理の機微を知つているのに、私は妙に皮肉な微笑を感じた。
「でも、それならば、私の惡口でもお書きになれば好いのに、あなたの惡口をお書きになるなんて、全然意味ないじやアありませんか。」
「うむ、まア、今度のことの解釋にはならないがね。」
 幾ら話し合つて見ても、結局、これという理由は、私たちには摑めなかつたけれども、こうした良人の寛容な解釋に影響されたのか、私の怒りもいつか靜まつて行つた。ただ、これほどにも芥川さんを信じ愛している良人に、たとえ文筆上の必要にもせよ、こんな煮え湯を飮ませる芥川さんに對する恨めしさ、殘念さまでも消し去るには、まだその後の長い月日が必要であつた。
「今日學校芥川君に會つたよ。」
 良人がそう言つたのは、それから一カ月ばかりの後のことである。「學校から何か交渉したと見えてね、今日わざわざ謝罪に來たのだよ。」
「あなたにも謝罪なすつた?」
「うむ。ちよつと筆が辷つて、失禮したと言つたよ。」
「それであなたは?」
「僕はちつとも氣にかけていないから安心しろと言つたよ。そして、春子も會いたがつているから歸りに僕の家に寄らないかと言つて誘つたのだがね、今夜は東京で會合があるからとか言つて、歸つて行つたよ。君によろしくつて言つてたよ。」
「そう。」
「しかし、可哀そうだつたね。あの神經質で剛情ッ張りの芥川君が、教官たちの前で頭をさげたのだからね。僕が代つて謝罪してやりたいような氣がしたよ。」
「そうね。お可哀そうと言えばお可哀そうね。」
 と、私も彼の憂欝そうな目の色を思い描いた。
「だから僕たちも、今度のことについてはもう永久に忘れようじやアないか。芥川君も僕たちも、ちよいとした怪我をしただけのことなんだから。」
「そうですわね。私ももう何もなかつたことにして忘れますわ。」
 そう言いながら、良人も私も、いつか淚ぐんでいた。

 それから三四年の後、良人は多年の念願がかなつてヨーロッパに留學した。ドイツを中心にして、パリ、ロンドンを𢌞つて、二年の後に歸つて來た良人は、血色こそ少しよくなつていたけれども、以前に變らない村夫子のような風貌を殘していた。そのとき私はもう二人の子供の母親になつていたが、久しぶりの良人を家に迎えた喜びは、新婚時代とはまた違つたなごやかさだつた。私は、書物のほかにはあまり多くもなさそうな土産物の荷物を、子供のような期待で開いて行つた。すると、一つの大きいトランクの底から、細長い紙包みが出て來た。あけて見ると、何の飾りもない、平凡な二本のステッキである。銀座にでも出れば、これよりも上等なのが幾らでもありそうなステッキなのである。
「これもあちらでお買いになつたの?」
 判りきつたことだけれども、私は聞かないでいられなかつた。
「ロンドンだよ。それでもスネークウッドだからね。」
「同じものを二本もお買いになつたのね。」
「以前の約束を思い出してね。一本は芥川君に上げようと思つて。」
 私ははッとした思いで良人の顏を見てから、
「だつて芥川さんは……あちらにお手紙でも下さいましたの?」
「いや、手紙も何もくれないけれどもね。……僕は屹度、芥川君が、嬉んでこれを受けてくれる日があると思つてるのだよ。僕たちの一生は、これからまだ長いからね。」
 かくべつ感傷的でもなく、あたりまえのことのように言う良人であつたが、私はにわかにその座にいたたまれなくなつた。淚がこみ上げて來たのである。私は自分の淚線をさますためにしばらく月光に明るい緣がわあに立つていいたが、滿月に近い月を仰ぐと、思わず、
「芥川さんの意地惡!」
 と、小さく呼びかけないでいられなかつた。
 その翌年の春、私たちは轉住して、日本海沿いの或る港町に移つて行つた。なじみのない土地の樣子もだんだん判つて來、良人の新しい同僚との交遊も始まつて、私たちの新しい生活も漸く軌道に乘つたと感じられて來た頃の或る朝、私は配達された大阪の新聞によつて、芥川さんの死を知つた。芥川龍之介氏劇藥自殺を遂ぐとあるではないか。私は良人の寢室に飛びこんで行つて、彼を搖り起した。はじめ良人は、ちよつと信じないようであつたが、起き直つて新聞を讀んでは事實を認めないでいられないという風であつた。
 私たちはしばらく新聞を前に置いて茫然としていた。何も考えられなかつた。あらゆる思考、あらゆる感情を通りこして、ただ、嚴然たる事實に打ちのめされている自分たちがいるのを感じるだけだつた。
「やつぱり龍ちやんは神經衰弱だつたのだね。」
 やがて、一時間ばかりもたつてから、良人ははじめてそう言つた。
「そうね、みんな御病氣のせいだつたのね。」
 と、私も新聞に載つている彼の暗い肖像寫眞を見つめながら言つた。
「龍ちやんには嫌われても、僕たちは龍ちやんのそばから離れるんじやアなかつたよ。」
 良人はそう言つてから、靜かに泣きだした。一生にただ一度私に見せた良人の淚であつた。
 しかしその良人も、それから十二年の後に、まだ老いもしないのに世を去つた。そしてあとには、二人の子供の教育の義務を背負つた私が取り殘された。私は再び教壇に立たねばならなかつた。そのうちに戰爭が身近にせまつて來た。私は戰火と飢餓とに追われるままに日本海岸、信州、大平洋岸と、この國の脊梁山脈をこえて轉々としなければならなかつた。そしてやつと平和の日が來て、思い出の多いこの「海岸の小さな町」の古巣に舞い戾つて來たときには、以前の持ち物の殆んどすべてを失つていた。だが、そうした乏しい持ち物の中に、或る日、偶然に、あの二本のステッキを見出したときの驚きと喜びとは、私のほかには判らないであろう。私は塵を拂つて眺め入つた。一本はもう良人の手垢に油じんでいるけれども、一本はまだしらじらとした新しさを保つている。永久に歸つて來ない持ち主の手を待つかのように……。
 私はその日から、このノートを書きはじめた。
[やぶちゃん注:最終行の末には二字上げ下インデント(本篇初出は三段組み二十一字詰の組版)で『(了)』とある。]