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鬼火へ

魔猿傳   村山槐多

[やぶちゃん注:底本は平成五(1993)年彌生書房刊の山本太郎編「村山槐多全集 増補版」を用いたが、本来の原文に近いものは正字体であるとの私のポリシーに基づき、多くの漢字を恣意的に正字に直した(なお、この全集は凡例が杜撰で、新字体表記とした旨の記載がない)。この全集には各作品の解題もなく、全集が底本としたものの記載もない。本作は、1996年春秋社刊の荒波力「火だるま槐多」の巻末年譜によると、大正四(1915)年十月二十一日、同月十四日から滞在していた山本鼎の両親の家(長野県上田市大屋)から雑誌「武侠世界」に、本原稿を送ったとある。なお、底本では各章の章番号は太字である。なお、この作については「人の世界」及び「錦田先生」の中に言及がある。]

 

魔猿傳   村山槐多

 

   一 千里ケ谷の獵

 

 今から約十年以前の事である、僕は其時分帝大法科の學生であつたが、或年腦を惡くして一年ばかり休學した。その間僕は殆んど都門を離れて唯彼處此處の美しい山水を友として暮した。丁度その夏は信州輕井澤に居たが滯在中偶然に一人の友人を得た。それは繪島元麿と呼ぶ男爵で、早稻田を出てからぶら/\遊んでゐる青年紳士であつた。繪島君は眉目秀麗性質寛大で實に圓滿な人である。僕は相知ると共に直に無二の親友となつてしまつた。

 二人は一箇月ばかり共に暮して居たが、九月の末となりもはや輕井澤の空氣も肌寒くなつた。或日彼は僕に斯んな事を提議した。『君は獵は嫌ひかい。』『嫌ひとも好きとも未だやつた事がないよ。』『僕は是でもその道では天狗なのだ。どうだ僕と一緒に行つて見ないか。』『どこへ行くんだい。』『實は僕の別莊が木曾の山中にあるんだ。そこへ行つて鳥を撃たうぢやないか。君是非ついて來い。』『行つてもいゝな。』そこで二人は直に木曾に向つた。

 別莊と云ふのは隨分奧に建つて居て薄氣味惡い樣な場所だ。その後方に土俗が『千里ケ谷』と呼ぶ非常に廣い三角形をした谷がある。そこには千古の大木が森々として生ひ茂り晝なほ夜の如くである。僕は繪島君がこの谷を狩るんだと告げた時何となく恐ろしい氣持がした。が着いて二日ばかり休んだ三日目の朝いよいよ二人はそこへ出掛けた。繪島君は愛用のブローニングと稱する自動銃を持ち、僕にはグリーナー二連銃を貸して呉れた。獵犬にはコマと云ふ名のゴルデンセツター程の犬をつれた。『さあ千里ケ谷へ出掛けよう。』と繪島君は杉林の中の細道をどん/\と進んでゆく。僕もあとについて行つた。『この邊からもう谷だ。』成程道は段々と下り始めた。見上げると樹木の梢を通して四方にそゝり立つ山々が壁の樣に見える。空氣は段々濕つぼくなり時々ギヤアギヤアと鳴く怪鳥がある。僕は思はずぶるぶると慄へた。

 

   二 金 色 の 猿

 

 繪島君は間もなく發砲した。轟然たる銃聲は谺[やぶちゃん注:ママ。(こだま)では続かず、(たに)と読ませているか。]に響いた。が鳥は逃げてしまつた。『お自慢の手賴も怪しい物ではないか。』と僕が戲へば、彼は躍起になつて撃つが、一羽も捕れない。コマは手持無沙汰にその邊の落葉の間を驅け廻るばかりであつた。かくして飯時(めしどき)になつても我等の獵嚢は空である、それでまづ一休みして晝飯を食ふことにした。

 繪島君は苦笑を浮べながら水筒のウイスキーをぐつと呷つた。『晩までにはきつととれるよ。』辨當を食ひ終るや否やまた方々を驅け廻つた。が何一つもとれない。そして『千里ケ谷』の廣い中も大方歩き盡してしまつた。我々が疲れ果てゝ丁度その谷の一方から高まつて居る斜谷の下に釆た時であつた。繪島君はすこし自棄氣味に言つた。『さあこゝを一ぺん上つて見よう。』『おい、もう日が暮れるぜ。今日はもう是で切り上げようぢやないか。』『いやこの山を一皮見なくては氣がすまない。』突然右手の高い岩の上に一羽の雉子が止まつた。すぐ覗ひ[やぶちゃん注:「ねらひ」と読ませている。]を定めて繪島君はズドンと發砲した。その途端二人は思はず立すくんで耳を立てた。何とも知れぬ不可思議な動物の悲鳴が岩のかなたから激しくきこえ出したからである。『ヒヒヒヒヒ……。』と絶えまなく續く。まるで狂女の叫びの樣に物凄い聲。『何だらう。何だらう。』コマはきりつと耳を立てた、たちまち彈機(ばね)の樣に躍り上つたが、猛然と岩の方へ驅け上つたかと思ふと姿が見えなくなつた。

 僕も繪島君もそれに續いたが約三十間も上ると岩頂に達した。見るとその岩の彼方に深い凹みがある。その中で、何だか金色に光り輝いた怪物とコマとが猛烈に格鬪して居る。岩頂からその所まで點々と鮮血が滴たり續いたので見ると、怪物は確かに今打つた彈丸で傷ついたのだ。二人は近寄つた。『猿だよ、猿だよ。』喜びの聲で繪島君が叫んだ。成程猿だ。全身には強い金光が發する毛が一面に生えて、まるで太陽の樣に輝く、その顏はしかも眞青だ。形は可成り大きくて七つ八つの子供位ある。よく見ると、足に彈丸を受けたと見えて眞赤に染まつて居る。逃げようとする所をコマに喰ひ付かれたのだ。コマは背中にしつかりと食ひ付いて居る。猿は必死の力でそれを振り離さうとするのだ。『大變な物を撃つちやつたではないか。』『どうだい。大手柄だらう。さあ君はそこいらから蔦つるか何かを見つけて來給へ。こいつを生捕りにするのだ。』種々苦心してやつとこの猿をぐるぐる卷きにした。コマが中々離れないので困つた。

 僕は頰ペたに猿の唾液を三度も引つ掛けられ繪島君は洋服の腕の所を爪でずた/\に引き裂かれてしまつた。棒に足を吊るして二人は猿を擔いだ。そしてもはや全く夜となつた森の中を通つて、別莊へかへり着いた。

 我藝獲物を見た啞の別莊守の老人は見るなり形相を變へて主人の手にすがり付き手眞似で何か知らさうとした。がこの獲物で得意の絶頂に達して居る繪島君はそんな事は氣も止めなかつた。が僕には何となく、この老人が『是は魔物です。早く逃がしておやりなさい。』と言つてる樣に思はれた。そして恐ろしい氣がした。

 

  三 奇異なる特徴

 

 その夜はそのまゝ猿を納屋にたたき込んで寢たが、翌朝早く起きて猿の縛を解き大きな急ごしらへの檻の中へ入れた、昨夜中逃げようとあせつたと見えてその顏は物凄い疲勞の色を帶びて居た。が檻の中へ入れられると何もせず唯足の傷をベラ/\となめた。『この猿は殺さずに飼つて置かう。ずい分珍らしい猿だから。』と繪島君は惚れ/\と此猿に見入つて居る。猿は食物を喰べ身體も休まり段々と狂悶の状態から脱して來た。そして靜にうづくまつて默考しながら僕等の顏を眺めて居る。全身の金毛が時々ぶる/\と覿へる。その美しさは譬へんに物もない。その眼がそれに不思議に美しい。猛惡な分子のすこしもない聖者の眼である。たゞ人の心にある恐怖を起させる事はその顏色がまるで青銅で作つた樣に青い事である。その青さは尋常でない。『何と云ふ奇態な猿だらう。』と僕は思はず叫んだ。友も同じ樣に感じたかこの猿に『道士』と云ふ名を付けた。

 二人は以後十日ばかりこの猿に夢中になつた。そして長く見て居るに從つて段月と多くの奇異なる特徴を見つけた。この猿の智力は素晴らしい物である。我々の言語を明かにきゝ分ける。如何なる場合にも怒らない。また食物を欲しがらない。常に默坐して居る所は半可な道士そこのけである。

 或日我月はまた彼の背中に不思議な赤色を帶びた正三角形がぴたと金毛を透かして現はれて居るのを見た。それは一時は人工かと疑はれるばかり正確な三角形である。その内に『道士』の爲に大きな檻が出來上つた。その檻は眺望よき庭園の隅に据ゑられた。猿は廣くなつたので滿足さうにびつこ引き/\檻の中を歩 き廻つた。足の創は癒つたが遂にびつこになつてしまつたのだ。その内に僕は急用で俄に繪島君を殘して別莊を去らなければならなくなつた。僕が立つ時この青面道士に戲れに『さよなら』と云ふと、何と思つたか猿はすつくと立上つてじつと僕の顏を見つめた。その時僕はその眼の中を見かへして、妙な事を發見した。それはこの猿の右の眼玉は緑色であるのに左眼は美しい黄金色を帶びて居る事であつた。

 

   四 雷電一下、金猿消失す

 

 その後僕は暫らく繪島君と何の便りもしなかつた。あの山莊を去つてから約一ケ月目の或日、本郷の或洋食店内でふと繪島男爵の相變らず壯健なる風姿に會した。『やあ暫らく。』『やあ君か。暫らくだつた。吾輩は昨日木曾から歸つたばかりだ。便りをしようと思つてつい御無沙汰しちやつた。君が歸つたあとで大變なことがあつたのさ。』と彼は僕の盃に滿々とボルドワインを注いだ。『それはあの猿のことさ、あの猿は君魔物だよ、僕は實に氣味が惡くなつたね。君が歸つてから僕は毎日あの猿を見て居た。彼奴(きやつ)は始終默つて何事かを考へて居る。さうだ僕がつけた『道士』と云ふ名はほんたうだ。僕は初めは唯妙な猿だと思つて居つたがその内に何だかあの猿が無暗に怖くなつたね。動物の樣な感じがしないんだ。おまけに別莊番の爺め僕に手眞似でしきりに逃がしてしまへと勸めるのだ。またある日その眼玉が片眼が金で片眼が緑なのを見た時益々氣味惡くなつたね。』『それは僕も見たよ。』『さうかい。あれは實に凄いよ。夜になるとあの金眼の方が素晴らしく光り出すのだ。夜庭を見てそれが星の樣に檻の中で光るのを見るとぞつと身慄ひする。そんな事で僕はもうこの猿を放してしまはうと思つた。そう思つてる内に、さうだ今から十日ばかり前の或日の事なのだ。僕は庭に面した座敷の縁側に呆然頰杖をついて庭の猿の檻を見て居た。檻の中は相變らず金衣青面の道士がじつと考へ込んで居る。僕もじつと考へながらその猿を見て居た。』『すると急に空に當つて遠雷の音がし始めた、僕は雷はむしろ好きな方であるからそのまゝ動かず失張猿を見て居た。するとね、あれほど平常落着いて居る猿がきつと天の方を見上げたかと思ふと、不思議や急に立ち上つて檻の中をあちこちと歩き始めた。是は面白いと思つて見て居る内に雷は非常に激しくなつて來た。そしてそれにつれて猿はいよ/\急に檻の中を歩き廻つたが遂には走り始めた。そして其の運動が極度に達して來て僕の眼に殆んど金の獨樂がぐるく廻る樣に見えて來た刹那である。忽ち猛烈な大音響が僕の鼓膜を貫いた。雷が庭へ落ちたのである。』

『僕は一時全然氣を失つてそこへ突つ伏してしまつたがその時間はほんの五六秒だと思ふ。そして眼を上げると何よりびつくりした事は檻の据ゑてあつたすぐそばの松の大木が眞二つに打裂かれて居る事であつた。「猿は。」と思つて何ともなつて居ない檻の中を見ると僕は氣絶し掛けたな。猿の姿が見えないのだ。するとその途端忽まち空中に當つて鋭い叫びが聞こえるのだ。見上げると、空をはるかにあの金猿の姿が千里ケ谷の方角さして飛び去るのが見えた。』

 僕はそれを聞いては何と解釋して善いか一寸見當が着かなくなつた。そして二人は唯默然として互に杯を滿たし合ふばかりであつた。

 

  五 怪殺人者の出現

 

 二人は以上の奇異なる事に遭遇してから十年の月日は瞬く間に經つてしまつた。男爵は可成り移り氣の人で多くの事に手を出すが何一つ成就しない。この二三年はまた法醫學に熱中し始めた。それに彼の居間はまるで犯罪博物館の樣に多くの恐ろしい物品や書物で埋まつた。

 それは八月末の或夜であつた。僕は一箇月許り北國へ旅行して居たので歸つた事を知らせに繪島君を訪問した。彼の居間へ這入つて行くと彼はロンブロゾー博士の犯罪人に關する著書に讀み耽つて居つたが、『やあ歸つたね。旅行はどうだつた。』僕は彼に二三旅中の插話を聞かした。『東京には何か變つた事でもあつたかい。』と問ふと彼は『さうだな。』と首を傾げたが直に大聲で叫んだ。『あつた所ではない、恐ろしい事が方々に起つて居る。』彼は大きな書架から切抜帖(スクラツプブツク)を取り下ろした。そして或頁を開いて僕の前へ差出した。『此處から讀んで見給へ。』見るとそこには三四程の新聞記事の切拔が貼り付けてある。其れは奇怪なる殺人と云ふ項であつた。

[やぶちゃん注:底本では、以下の「(八月二十日朝刊)」迄の新聞記事はすべてポイントが落ち、全文が一字空けとなっている。最初の記事のみ、冒頭一字空けでない。]

 

昨夜午後十二時頃吾妻橋東寄り左側にて突然凄まじき悲鳴を聞きたり。通行者數名は直にその聲の方に行きたるに戰慄すべき光景を發見せり。一人の年配五十前後の男胴體と首と離れて血の海の中に横はり居たり。直に督官は非常線を張りたるが犯人を得ず檢屍したるに驚く可き事には首は切斷されたるには非ずして奇怪にも想像し難き強力を以て引きちぎりたる物なり。此に奇怪なるは悲鳴を聞くと共に走り集まりし通行者は東端より三名西より二名ありしが一も犯人らしき物を見ざりし事なり。橋の各部は搜索されしが何の異常なくその他何等の手掛かりなし、死體も尚檢査したるに此の男は淺草にて有名なる高利貸黒井權造と判明。直に出頭したる家人の談に依れば當夜彼は金五百圓入の鞄を携へ居りたる由にて犯人は其を奪ひ去りたる者なり。(八月四日夕刊)

 

   ▲又月首取事件

 

 十三日夜高輪緑町一二〇番地官吏村田貞吉は二階八疊に獨り眠りたるが翌朝に及び首をちぎられ居る事發見されたり。同人は獨身にて一人の老婆の飯たきと二人暮しなり。殺害の模樣は先日の吾妻橋上にありしと同一なれど何の叫びをも聞かざりしと云ふ。不思議なるは外部より人の入りし形跡皆無なる事にして家内の戸は内部より固めあり犯人がいづれより出入せしか全然疑問なり。しかし卓上金庫紛失し居たり。何の手掛かりもなし。老婆の飯たきとくは高輪署へ引致されたり。(八月十五日朝刊)

 

   ▲首拔惡魔白晝現る

 

 昨日牛後一時半女優大原春子孃は自動車に運轉手長島九次郎と同車して赤坂を上らんとせる時突然飛び込みたる曲者の爲に一瞬に首をちぎられたり。達轉手は直にブレーキを掛けたるが、其と共に頭部を打たれて人事不省に陷りたり。曲者は例の如く電光の如く消え去れり。場所柄とて大騷ぎとなり運轉手は直に蘇生せしめたり。運轉手の談に依れば『黒服の非常に青い鋭い顏をした男が突然躍り込みました。ふり向くと、さつと血が飛んだので無意識にストツプをしました。その後は何事も知りません。』と。目撃者無數ありしが最も近くより見たる一學生曰く『一人のせむしの樣な氣味の惡い男が突然櫻の木蔭から自動車へ躍り上つたか思ふと女の首が二三尺上へ飛び上つた。あつと思つた刹那もうその男は見えずなつた。』と。尚孃のオペラバツグは奪ひ去られたり。白晝かゝる惡魔の横行するに至つては吾等市民は實に戰慄の外なし。すでに三囘に及んで何等爲す所なき警視廳に對して吾人は一刻も早く惡魔を捕へん事を望む。(八月二十日朝刊)

 

 その他各新聞の大月的文字が澤山拔いてある。僕も是を讀み終ると身の毛のよだつのを覺えた。何と云ふ殘酷なそして不思議な兇漢であらう。『何者だらう。』と僕が云ふと男爵も深く考へながら言つた。

『君は何だと思ふ。僕は種々考へるが分明(わか)らない。今の所殺人狂の仕業と思ふが、しかし一體人間の首を一瞬にして引きちぎるなぞと云ふ事が人間の力で出來得可き事ではないからね。』

 

   六 怪 人 追 跡

 

 それから三日ばかり後である。僕と繪島君とは上野で夜更かしをして十時半頃目黒の邸へ歸る可く山の手電車に乘つた。美しい夜であつた。薄紫の寶玉の樣な薄明りが空にさして星が點々ときらめいた。その中を我々の電車は走つた。丁度巣鴨に着いた時である。どや/\と四五人の客が這入つて來て今まで空いて居た僕等の周圍はそれらの人月に依つて滿たされた。すると僕の注意を強くひいた人物があつた。夫は二人の前に腰を下ろした男である。背丈が非常に短かくせむしである。年齡は見當が付かない。十九位にも思へればまた七十位の老人にも見える、顏色が眞青で唇が濃赤色に光つて居る。そして鋭い殘忍な奇妙な眼が窪んだ眉下で閃々する。

 僕は見ぬ振りして絶えず男を見て居たが突然『十年前のあの猿に似て居る。』僕は不思議な戰慄を感じた。そして急いでその男の眼を見た。片方の眼は燦爛たる金色に輝いて居る。僕は益々恐怖を感じた。すると突然、隣の繪島君がフランス語で僕の耳に私語やいた。

『昔木曾で捕まへた猿とそつくりだね。前の男は。』その刹那前の怪人はかたんと何かを下へ取り落した。そして手を伸ばし身を屈(かが)めてそれを拾ひ上げた。浴衣を寛(ゆるやか)に着て居るので首筋から背中の一部を我々の前に露出した。僕の恐怖はその時極度に達した。思はず繪島君の手を握り締めた。見よ。そこにはあの猿に見たと同じ三角形の斑點が明かに現はれて居るではないか。『確かにあの猿が人間に化けたのだ。』とまた繪島君はフランス語で私語やいた。男は我々に少しも氣付かぬらしい。そして電車が新宿へ着くと共に立ち上つた。『後を尾(つ)けるんだ。』と繪島君は言つてその後に續いた。男はプラツトホームを歩いてゆく。見るとびつこを引いて居る。『あの猿だ。確かにさうだ。』僕は夢の樣な氣がした。怪人はステーシヨンを出た。そしてどこへ行くかと見るとステーシヨン横の線路を跨ぐ高い陸橋の上へする/\とかけ上つた。

 

  七 橋 上 の 慘 劇

 

 怪人は橋上に上つたが欄干に身を凭せるとぴたと止まつてしまつた。『この邊に隱れて樣子を見るんだ。』と二人は線路の傍に積まれた材木の中へ這入つた。繪島はまるで死んだ樣に默り込んで居る。そして興奮した眼で絶えず橋上を見つめて居る、怪人の姿ははつきりと黒畫(シルエツト)ととなつて橋上に見える。一體何をして居るのであらう。

 やがてぶら/\と橋上を行つたり來たりし始めた。その侏儒(せむし)の姿があちらへ行きこちらへ行きする所は昔あの木曾の檻の中で見たのと一寸も違はない。『實に不思議だね。』僕が思はず聲を出すと繪島はしツと言つた。一人のフロックコートを着た紳士が陸橋の下まで來た。怪人はまたぴつたり欄干にくつついてしまつた、紳士はコツ/\と陸橋へ上る階段を上り終へた。そして橋の中ば怪人の前を過ぎようとした一利刹那、突然怪人が紳士に飛び掛つた。そして相重なつて橋上へ倒れた。

 繪島君はポケツトからピストルを引出し、隱れ箇所を躍り出した。そして直に陸橋の上へ驅け上つた。その時怪人は紳士を踏みつけてすつくと立上つてこつちを睨んだ。その右手には恐るべし紳士の首を引摑んでその血はたら/\と滴るのだ。そして我々の姿を見るや直に向つて來た。電の樣に先に進んだ繪島君へ飛びかゝらうとした瞬間ピストルの音と共にばたりと怪人は倒れた。心臟を射拔いたのだ。銃聲を聞いて多くの人が集まつて來た。首拔き惡魔の正體を見て皆な戰慄した。怪人の顏は死すると共に全然恐ろしい猿の相好を現はしてしまつたのである。繪島君が翌日の新聞でこの猿人に關する始末を發表した時、全都はこの世に稀なる殺人者の死んだ事を心から祝したのである。