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人魚の話   南方熊楠[やぶちゃん注:底本は1991年河出書房新社刊の中沢新一編「南方熊楠コレクション Ⅲ 浄のセクソロジー」(河出文庫)所収の「人魚の話」を用いた。末尾に、「(平凡社版『南方熊楠全集』第六巻305~311頁)」の親本提示がある。傍点「丶」は下線に代えた。幾つかの私の興味対象に対して、後注ほかを自在気儘に附した(底本の編者の校注補訂の一部を参考とした)。なお、本作によって熊楠は風俗壊乱の罪で告発され、裁判で罰金二十円の判決を受けている。これは当時の出版法「第十九条 安寧秩序ヲ妨害シ又ハ風俗ヲ壊乱スルモノト認ムル文書図画ヲ出版シタルトキハ内務大臣ニ於テ其ノ発売頒布ヲ禁シ其ノ刻版及印本ヲ差押フルコトヲ得」及び第二十七条の罰金規程によるものと思われるが、実際には文中に現れる、和歌山県の神社合祀を推進した複数の役人に対する痛罵への不当な報復と考えてよいであろう。本作については1993年刊の講談社現代新書「南方熊楠を知る事典」に原田健一の解説があり、「南方熊楠資料研究会」のここ(ページ上方から1/3程のところ)で読むことが出来る。【二〇二三年十月十八日追記】ブログで『南方熊楠「人魚の話」(正規表現版・オリジナル注附き)』を公開した。そちらを決定版とする。]

人魚の話   南方熊楠

 田辺へ「人魚(にんぎょ)の魚(うお)」売りが来たとかいうことじゃ。「頼光(らいこう)源(みなもと)の頼光(よりみつ)」の格で、叮嚀過ぎた言い振りだ。わが輩の家へ魚売りに来る江川の女が、柴庵[注1]のことをモーズ様(さん)と言う。吉人(きちじん)は辞(ことば)寡(すくな)しと言が、苗字の毛利坊主と、百舌(もず)のように弁(しゃ)べることと、三事を一語で言い悉(つく)せるところは、「人魚の魚」などよりはるかに面白い。さて、むかしの好人(すきびと)が罪なくて配所の月を見たいと言うたが、予は何の因果か、先日長々監獄で月を見た。[注2]

 昨今また月を賞するとて柴庵を訪うたところ、一体人魚とはあるものかと問われたが運の月、ずいぶん入監一件で世話も掛けおる返礼に、「人魚の話」を述べる。

 寺島氏の『和漢三才図会』に、『和名抄』に『兼名苑』を引いていわく、人魚、一名鯪魚(りょうぎょ)、魚身人面なるものなり、とある。[注3]この『兼名苑』という書は、今は亡びた支那の書だと聞くが、予『淵鑑類函』にこの書を引きたるを見出だしたれば、今も存するにや。普通に鯪というは、当町小学校にも蔵する鯪鯉(りょうり)また穿山甲(せんざんこう)とて、台湾、インド等に住み、蟻を食う獣じゃ。インド人は媚薬にするが、漢方では熱さましに使った。人面らしい物にあらず。たといそうあったところが、人面魚身とあるは、昨今有り振れた人面獣身よりも優(まし)じゃ。さて、『本草綱目』に、謝仲玉なる人、婦人が水中に出没するを見けるに、腰已下(いか)みな魚なりしとあり。定めて力を落としたことだろうが、そんなところに気が付く奴にろくな物はない。また査道は高麗に奉使し、海沙中に一婦人を見しに、肘後(ひじしり)に紅鬣(べにのひれ)あり、二つながらこれらは人魚なり、と言えり。『諸国里人談』にも、わが国で鰭のある女を撃ち殺し祟った、と載せたり。[注4]

 また寺島氏、「推古帝二十七年[注:619年。]、摂州堀江に物あり、網に入る。その形児(ちご)のごとく、魚にあらず人にあらず、名づくるところを知らず」[やぶちゃん注:「日本紀」の記載。]といえる文を人魚として載せたるが、これは山椒魚(さんしょううお)のことだろう。形はあまり似ぬが、啼声が赤子のようだから[注5]、前年京都で赤子の怪物(ばけもの)と間違えた例もあり。山師連がこれにシュロの毛を被せ、「へい、これは丹波の国で捕えました、河太郎(かわたろう)でござい」、「見ぬことは咄(はなし)にならぬ、こんな妙な物を一銭で見らるるもひとえに大師様の御引合せ、全く今の和尚様がえらいからだ」などと、高山寺などでやらかすなり。すでに山椒魚に近き鯢(げい)[注6]という物の一名を人魚と呼ぶ由、支那の書に見ゆ。

 さて寺島氏続けていわく、今も西海大洋中、間(まま)人魚あり。頭婦女に似、以下は魚の身、麁(あら)き鱗(うろこ)、浅黒くて鯉に似、尾に岐(また)あり、両の鰭(ひれ)に蹼(みずかき)あり、手のごとし、脚(あし)なし、暴風雨の前に見(あら)われ、漁父網に入れども奇(あや)しんで捕えず。またいわく。和蘭陀(オランダ)、人魚の骨を倍以之牟礼(へいしむれ)(ラテン語ペッセ・ムリエル、婦人魚の義なり)と名づけ、解毒薬となす。神効あり、その骨を器に作り、佩腰(ねつけ)とす。色、象牙に似て濃からず、と。いかさま二、三百年前、人魚の骨はずいぶん南蛮人に貴ばれ、したがってわが邦にも輸入珍重された物だった証拠は、大槻磐水[注7]の『六物新誌』[注8]にも図入りで列挙し居るが、今忘れ畢ったから、手近い原書より棚卸しせんに、一六六八年(寛文八年)マドリド板、コリン著『非列賓(フィリピン)島宣教志』八〇頁に、人魚の肉食うべく、その骨も歯も金創に神効あり、とあり。それより八年前出板のナヴァレッテの『支那志』に、ナンホアンの海に人魚あり、その骨を数珠と倣(な)し、邪気を避くるの功ありとて尊ぶことおびただし。その地の牧師フランシスコ・ロカより驚き入ったことを聞きしは、ある人、漁して人魚を得、その陰門婦女に異ならざるを見、就いてこれに婬し、はなはだ快かりしかば翌日また行き見るに、人魚その所を去らず。よってまた交接す。かくのごとくして七ヵ月間、一日も欠かさず相会せしが、ついに神の怒りを懼れ、懺悔してこのことを止めたり、とあり。

 マレー人が人魚を多く畜(やしな)い、毎度就いて婬し、またその肉を食うことしばしば聞き及べり。こんなことを書くと、読者の内には、心中「それは己(おれ)もしたい」と渇望しながら、外見を装い、さても野蛮な風など笑う奴があるが、得てしてそんな輩(やから)に限り、節穴でも辞退し兼ねぬ奴が多い。すでにわが国馬関辺では、鱝魚(あかえい)の大きなを漁して砂上に置くと、その肛門がふわふわと呼吸(いき)に連れて動くところへ、漁夫(りょうし)夢中になって抱き付き、これに婬し畢り、また、他の男を呼び歓(よろこび)を分かつは、一件上の社会主義とも言うべく、どうせ売って食ってしまうものゆえ、姦し殺したところが何の損にならず。情慾さえそれで済めば一同大満足で、別に仲間外の人に見せるでもなければ、何の猥褻罪を構成せず。反ってこの近処の郡長殿が、年にも恥じず、鮎川から来た下女に夜這いし、細君蝸牛(かたつむり)の角を怒らせ、下女は村へ帰りても、若衆連が相手にし呉れぬなどに比ぶれば、はるかに罪のない咄(はなし)なり。

[注:底本ではここは一行空き。]

 今日、学者が人魚の話の起源と認むるは、ジュゴン(儒艮)とて、インド、マレー半島、濠州等に産する海獣じゃ。琉球にも産し、『中山伝信録』にはこれを海馬(かいば)と書いておる。ただし、今日普通に海馬というは、水象牙を具する物で、北洋に産し、カムサッカ土人、その鳴き声によって固有の音楽を作り出したものだが、『正字通』にこれを落斯馬と書いておる。

 十余年前、オランダの大学者シュレッゲル、『通報』紙上に、これはウニコールのことだろうと言いしを、熊楠これを駁し、落斯馬はノルウェー語ロス・マー(海馬の義)を直訳したのだ。件(くだん)の『正字通』の文は、まるで『坤輿外紀』のを取ったのだと言いしに事起こり、大論議となりし末、シュレッゲルが、そのころノルウェー語が支那に知れるはずなし、故に件の文が欧州人の手に成った証拠あらば、熊公の説に服するが、支那人の作ではどうも樺太辺の語らしい、と言い来たる。ずいぶん無理な言い様じゃ。彼また自分がウニコール説を主張せしを忘れて、ひたすら語源のノルウェーに出でぬを主張すとて、落斯馬は、海馬は馬に似た物ゆえ「馬らしい」という日本語に出でしならんと、真に唐人の寝言(ねごと)を言うて来た。

 わが国では海外の学者を神聖のようにいうが、実は負け惜しみの強い、没道理の畜生ごとき根性の奴が多い。これは、わが邦人が国内でぶらぶら言い誇るのみで、外人と堂々と抗論する弁も筆も、ことには勇気がないからじゃ。しかし、熊公はなかなかそんなことに屈しはしない。返答していわく、日本の語法に「馬らしい」というような言辞は断じてない。しかし、「か」の字を一つ入れたら、お前のことで、すなわち「馬鹿らしい」ということになる。日本小といえども、すでに昨年支那に勝ったのを知らぬか。汝は世間に昧(くら)くて、ジャパンなる独立帝国と、汝の国の領地たるジャワとを混じておらぬか。書物読みの文盲(あきめくら)め。次に、人を困らそうとばかり考えると、ますます出る説がますます味噌を付ける。件の文の出ておる根本の『坤輿外紀』は、南懐仁著というと支那人と見えるが、これ康熙帝の寵遇を得たりし天主僧、イタリア人ヴァーべスチのことたるを知らずや。注文通りイタリア人の書いた本に、近国のノルウェーの語が出ておるに、何と参ったか。『和漢三才図会』に、和蘭(オランダ)人小便せる時、片足挙ぐること犬に似たりとあるが、汝は真に犬根性の犬学者だ、今に人の見る前で交合(つる)むだろうと、喜怒自在流の快文でやっつけしに、とうとう「わが名誉ある君よ」という発端で一書を寄せ、「予は君の説に心底から帰伏せり」(アイ・アム・コンヴィンスド、云々)という、なかなか東洋人が西洋人の口から聞くこと岐山の鳳鳴より希なる謙退(けんたい)言辞で降服し来たり、予これを持ちて二日ほどの間、何ごとも捨て置いて、諸所吹聴し廻り、折からロンドンにありし旧藩主侯の耳に達し、祝盃を賜わったことがある。

 三年ほど後に、恵美忍成という浄土宗の学生を、シュレッゲルが世話すべしとのことで、予に添書を呉れと恵美氏言うから、「先生は学議に募りてついつい失敬したが、全く真の知識を研くがためだから、悪しからず思え」という緒言で、一書を贈りしに、それ切り何の返事せず、恵美氏の世話もせざりしは、洋人の頑強固執、到底邦人の思いおよばざるところだ。とにかくそれほどバッとやらかした熊楠も、白竜魚服すれば予且(よしょ)の網に罹(かか)り、往年三条公の遇を忝なうして、天下に矯名を謡われたる金瓶楼(きんぺいろう)の今紫(いまむらさき)も、目下村上幸女とて旅芝居(たびやくしゃ)に雑(まじ)われば、一銭で穴のあくほど眺めらるる道理、相良無武(さがらないむ)とか楠見糞長(くすみふんちょう)[注9]とか、バチルス、トリパノソマ同前の極小人に陥れられて、十八日間も獄に繋(つな)がるるなど、思えば人の行く末ほど分からぬものはありやせん。しかし、昼夜丹誠を凝らし、大威徳大忿怒尊の法という奴を行ないおるから、朞年(きねん)を出でずして、彼輩腎虚して行き倒れること受合いなり。

 何と長い自慢、兼ヨマイ言じゃ。さて琉球ではまた、儒艮をザンノイオ[注10]とも言い、むかしは紀州の海鹿(あしか)同様、御留(おと)め魚(いお)にて、王の外これを捕え食うこと能わざりし由。魚(いお)という儒艮というものの、形が似たばかりで、実は乳で子を育て、陰門、陰茎歴然たれば、獣類に相違ない。以前は鯨類と一視されたが、解剖学が進むに従い、鯨類とは何の縁なく、目今のところ何等の獣類に近縁あるか一向知れぬから、特にシレン類[注11]とて一群を設立されおる。シレンは知れんという訳でなく、シレンスという怪獣は、儒艮(じゅごん)の類に基づいてできたんだろとて採用した名じゃ。ギリシアの古話に、シレンスは海神ポルシスの女で、二人とも三人ともいう。海島の花畠に住み、死人の朽骨の間におり、ことのほかの美声で、一度は気休め二度は嘘などと唄うを、助兵衛な舟人ら聴いて、どんな別嬪だろうと、そこへ牽かれ行くと最後、二度と妻子を見ることがならず。オージッセウス、その島辺を航せし時、伴侶(つれ)一同の耳を蠟で塞ぎ、自身のみは耳を塞がずに帆柱に緊(きび)しく括り付けさせ、美声を聞きながら魅(ばか)され行かなんだは、何と豪(えら)い勇士じゃ。

 予もそれから思い付いて、福路町(ふくろまち)を通る前に必ず泥を足底に塗って往く。これは栄枝(さかえ)得意の「むかし昵(なじ)みのはりわいサノサ」という格で、いくら呼んだって、女史は大奇麗好きだから、足が少しでも汚れおっては揚げて呉れる気遣いなく、「飛んで往きたやはりわいサノサ」と挨拶して、虎口を遁れ帰宅すると、北の方(かた)松枝御前(まつえごぜん)が、道理で昼寝の夢見が危かったと、胸撫で下ろす筋書じゃ。それはさて置き、南牟婁郡の潜婦(あま)の話に、海底に「竜宮の御花畑」とて、何とも言えぬ美しい海藻(も)[注:「海藻」二字で「も」と読ませている。]が五色燦爛と密生する所へ行くと、乙姫様(おとひめさま)が顕われ、ぐずぐずすると生命(いのち)を取らると言い伝う。シレンスが花畑におるとは、美しき海藻より出た譚(ものがたり)ならん。さて、シレンスは一人たりとも美声に魅(だま)されずに行き過ぎると、運の尽きで、すなわちオージッセウスが上述の奇策で難なく海を航したから、今はこれまでなりとみずから海に投じて底の岩に化せりとあるから、南方が行き過ぎると栄枝女史も二階から落ちて女久米仙(おんなくめせん)と言わるるかも知れぬ。

 このシレン類は、あまり種類多からず。儒艮属、マナチ属の二属しか現存せぬ。マナチは南米と西アフリカの江河に住む。二属ともあまり深い所に棲み得ず。夜間陸に這い上がり草を食い[注12]、一向武備なき柔弱な物ゆえ、前述の通り人に犯されても、ハアハア喘ぐのみ、好いのか悪いのかさっぱり分からず。さて人間は兇悪な者で、続けざまに幾日も姦した上、これを殺し食う。それゆえ、この類の全滅は遠からず。すでに他の一属海牛(シーカウ)というは、北氷洋の一島に住み、その島へ始めて上陸した難船の水夫どもを見て珍しげに集まり近づきたるを、得たり賢し天の与えと片端から殺し食い尽され、その遺骨のみ僅少の博物館に保存され、観る人の涙の種となりぬ。[注13]また好婬家は儒艮の例を推し、この方が大きいから抱き答(ごた)えがあるなどと言い、眼からも下の方からも涙潤い下るじゃ。この類は三属とも、肉味ははなはだ旨く柔らかな由。ただし、食う時のことで、幹(す)る時の味は別に書いてない。儒艮の頭ほぼ人に似、かつその牝が一鰭をもって児を胸に抱き付け、他の一鰭で游(およ)ぎ、母子倶(とも)に頭を水上に出す。さて驚く時は、たちまち水に躍り込んで魚状の尾を顕わす。また子を愛することはなはだし。これらのことから、古ギリシア人、またアラビア人などが儒艮を見て、人魚の話を生じただろうという。

 一五六〇年(永禄三年)、インドで男女の人魚七疋を捕え、ゴアに送り、医士ボスチこれを解剖せしに、内部機関全く人に異ならず、と記せり。また一七一四年ブロ島で捕えし女人魚は、長さ五尺、四日七時間活きしが、食事せずして死す、と。また一四〇四年(足利義満の時)、オランダの海より湖に追い込んで捕えし人魚は、紡績を習い行ない、天主教に帰依して死せり、と。一八世紀の初めに蘭(オランダ)人ヴァレンチン一書を著わし、世すでに海馬、海牛、海狗あり、また海樹、海花あり、また何ぞ海女あり海男あるを疑わんや、と論ぜり。

 岩倉公らの『欧米回覧日記』に、往時オランダへ日本より竜と人魚の乾物を渡せしに、解剖して後ようやくその人造たるを知り、人々大いに日本人の機巧に驚けり、と見ゆ。動物学の大家クヴェー、かつてロンドンで人魚の見世物大評判なりしことを記し、いわく、予も人魚なる物を見たるに、小児の体で口に鋭き歯ある魚の顎(あご)を嵌(は)め、四肢の代りに蜥蜴(とかげ)の胴を用いたり、ロンドンで見世物にせしは猴(さる)の体に魚の後部を付けしものなり、と。予も本邦また海外諸国でしばしば人魚の乾物を見しも、いずれも猿の前半身へ魚の後半身を巧みに添え付けたるものなり。支那の古史に小人(こびと)の乾腊(ひもの)ということ見ゆ。思うに猴の乾物もて偽り称せしが、後には流行(はやら)なくなり、ついに魚身を添えて人魚と称するに及びしか。『和漢三才図会』等に、若狭小浜の空印寺に八百比丘尼(びくに)の木像あり。この尼、むかし当寺に住み、八百歳なりしも、美貌十五、六歳ばかりなりし。これ人魚を食いしに因(よ)る、と。嘘八百とはこれよりや始まりつらん。思うに儒艮は暖地の産にて、若狭などにある物ならねど、海狗などの海獣、多少人に類せる物を人魚と呼び、その肉温補(おんぽ)の功あれば、長生の妙験ありなど言い伝えたるやらん。

 とにかく、人魚ということ本邦に古くより言い囃せし証拠は、「法隆寺の古記」なる『嘉元記』に、「人魚出現のこと。ある日記にいわく、天平勝宝八年(今より千百五十四年前)五月二日、出雲国ヤスイの浦へ着く。宝亀九年四月三日、能登国珠洲岬に出で、正応五年十一月七日、伊予国ハシオの海に出で、文治五年八月十四日、安芸国イエツの浦に出で、延慶三年四月十一日、若狭国小浜の津に引き上げて、国土目出度(めでた)かり。真仙と名づく(何のことか知れぬが、多少八百比丘尼に関係あるらし。)延文二年卯月三日、伊勢国二見の海に出で、長久なるべし。延命寿と名づく。以上六ヵ度出で、云々」とあり。また人魚を不吉とせし例は、『碧山日録』に、「長禄四年六月二十八日。ある人いわく、このごろ東海の某地に異獣を出だす。人面魚身にして鳥址(とりのあし)なり。京に入りて妖を作(な)さんとす。人みなあらかじめ祓事(はらいごと)を修め、殃(わざわい)を禳(はら)うという」とある。まだまだ書くことがあるが、監獄で気が張っていた奴が、出てから追い追い腰痛くなり、昨今はなはだ不健全ゆえ、ここで話を止める。

            (明治四十三年九月二十四日、二十七日『牟婁新報』)

●やぶちゃん注

1 毛利柴庵:(1871~1938)

 南方熊楠の盟友。高山寺住職、『牟婁新報』主筆兼主宰。この年、田辺町町議員となり、翌年、県会議員。後、紀州毎日新聞社主。熊楠よりも早く神社合祀運動への強い反対を表明していた。ちなみにこの『牟婁新報』には、荒畑寒村、大逆事件で処刑された管野スガがいた

2 先日長々監獄で月を見た:

 明治43(1910)年8月21日、熊楠は田辺中学校で開催された紀伊教育委員会主催の夏期講習会閉会式会場に、神社合祀推進の頭目である同教育委員会理事田村和夫に泥酔して面会を求め闖入(本人は書簡では会場内で大立ち回りを演じたとあるが、実際には警備員に体よく放り出された)、家宅侵入罪及び暴行罪で翌22日に警察に拘引された。当夜は留置、23日に未決監に移されて、9月7日釈放されるまで18日間、田辺監獄に拘留された。9月21日、裁判で「中酒症」(判決理由より)と認定され心神耗弱が認められて免訴となった。ちなみに、この拘留中にも、監獄の古柱の上に生えているムラサキホコリカビ Stemonitis の一片を採取し、当時の変形菌(=粘菌)分類学の権威であったG.リスターに標本を送付、新種と認定されている。さすが熊楠、ただ転ばない。

3 「和漢三才図会」人魚の項の図:

私の「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚」の「人魚」の項を見られたい。なお、文中で熊楠が散逸を疑っている「兼名苑」は唐の僧、釈遠年の撰になる名物詞研究書で十巻、現存している。「淵鑑類函」は類書で、康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した百科事典。

4 諸国里人談:

 寛保3年(1743)版行、菊岡沾凉著。以下に、同書「巻之一 一 神祇部」に所収する「人魚」の項の原文を引く(底本は日本随筆大成第二期24巻所収のものを用いたが、恣意的に正字にしてある)。

   *

若狹國大飯郡御淺嶽は魔所にて、山八分より上に登らず、御淺明神仕者は人魚なりといひつたへたり。寶永年中乙見村の獵師、漁に出けるに、岩のうへに臥したる體にて居るものを見れば、頭は人間にして襟に鷄冠のごとくひらひらと赤きものまとひ、それより下は魚なり。何心なく持たる櫂を以打ければ則死せり。海へ投入て歸りけるに、それより大風起つて海鳴事一七日止ず。三十日ばかり過て大地震し、御淺嶽の火元より海邊まで地裂て、乙見村一鄕墮入たり。是明神の祟といへり。

   *

熊楠の言う「女」は「赤きものまとひ」からの誤解か。按ずるに、「諸国里人談」のこの生物は、アザラシやアシカ等が頸部に褐藻類の葉体片を纏って、たまさか、岩場に上がっていたもののように私には思える。

5 声が赤子のようだから:

 お分かりの通り、熊楠が同定しているのは現在のオオサンショウウオであるが、オオサンショウウオは鳴かない。これは、熊楠も愛読した「山海經」の、その注釈である「山海經校注」の「海經新釋 卷七 山海經 第十二 海内北經」にある『廣志曰、「鯢魚聲如小兒啼、有四足、形如鯪鱧、可以治牛、出伊水也。」司馬遷謂之人魚。』の叙述や、北アメリカ東部に生息するホライモリ科の Necturus maculosus “Mudpuppy”(子犬のように鳴くとの伝承から)等からの謂いであろうと思われる。ちなみに、ジュゴンは立派に鳴く。

6 鯢:

「和漢三才図会」には「鯢」を「さんしやういを」と訓じ、その記載も現在のオオサンショウウオである。熊楠が「山椒魚に近き」と言っているのは、中国産の別種のオオサンショウウオを想定してのことであろう。

7 大槻磐水:

 蘭学者大槻玄沢、本名は大槻茂質(しげかた)。磐水は雅号。杉田玄白・前野良沢の弟子で、通称の「玄沢」は、その両師匠のそれぞれ一字をもらっている。蘭学入門書「蘭學階梯」で地位を築き、師の「解體新書」の改訂も行っている(「重訂解體新書」)。

8 六物新誌:

 二巻二冊。天明六(一七八六)年版行。①一角(ウニコール)=イッカクの角、②泊夫藍(サフラン)、③肉豆売(にくづく)=肉荳蒄=ナツメグ、④木乃伊(ミイラ)、⑤噴清里歌(エブリコ)=アガリクス、⑥人魚を、図入りで解説したもの。

9 相良無武・楠見糞長:

 神社合祀推進派の和歌山県県庁内務第一部長相良歩及び西牟婁郡郡長(兼神職取締所)楠見節。

10 ザンノイオ:

 南西諸島ではジュゴンは「ザンノイヲ」(犀魚。ザンヌイユ、ザン、ザノ、アカンガイユとも)と呼ばれ、常世ニライカナイからの漂着神を背に乗せ来るとする。

11 シレン類:

 Sirenia =海牛目(=ジュゴン目)。海牛目はジュゴン科とマナティ科からなる(目の和名の「海牛」は本来マナティを指す)。ジュゴン科Dugongidae は、現生種ではジュゴン Dugong Dugon 1種。マナティー科 Trichechidae は、アマゾンマナティ Trichechus inunguis 、アメリカマナティ Trichechus manatus 、 アフリカマナティ Trichechus senegalensis の3種」(リンク先は英文の「Animal Diversity Web)。

12 夜間陸に這い上がり草を食い:

 残念ながら、彼らは陸に上がることはない(この「陸」が浅瀬である「アマモ場」を指しているのならばよいが、そう解釈するのは苦しい)。但し、彼等の主食たるアマモ(正式和名リュウグウノオトヒメノモトユイノキリハズシ)(リンク先は当該ウィキ)は、海藻ではなく海草(顕花植物)であるから、「草を食い」は正しい。

13 海牛:

 実は、注11のジュゴン科には、寒冷地適応型の一種で、体長7~9m、最大体重9tに及ぶステラーダイカイギュウ Hydrodamalis gigas (リンク先は当該ウィキ)がベーリング海にいた。ロシアのベーリング率いる探検隊の遭難によって一七四一年に発見された彼らは、熊楠が述べる如く、その温和な性質や傷ついた仲間を守るため寄ってくるという習性から、瞬く間に食用に乱獲され、一七六八年を最後に発見報告が絶える。人間に知られて僅か二十七年の命であった。環境保護が叫ばれる今でこそ知られる彼らだが、明治四三(一九一〇)年の日本で、ステラダイカイギュウの悲惨な末路を知って、かくも彼らを追悼し得た人物が一体、何人いたであろうか? そうして、「地球にやさしい」僕たちは、欲望の赴くまま、容易に普段の「やさしさ」を放擲して、不敵な笑いを浮かべながら、第二のステラダイカイギュウの悲劇を他の生物にも向けるであろう点に於いて、何等の進歩も、していない。それは熊楠をして、バチルス、トリパノゾーマ以下と言わせるであろう。この頭骨の語りかけてくるものに僕たちは耳を傾けねばならない。