やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇
鬼火へ

芥川龍之介「河童」決定稿原稿(電子化本文版)
       藪野直史
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[やぶちゃん注:本ページは、私の「国立国会図書館デジタル化資料」にある国立国会図書館蔵の芥川龍之介「河童」自筆原稿(和装。末尾に永見徳太郎筆になる「河童原稿縁起記」一枚を貼付)を独自に視認した『芥川龍之介「河童」決定稿原稿の全電子化と評釈 藪野直史』から、一切の煩瑣な私の神経症的注や評釈を除去した通読閲覧用原稿準拠版(原稿電子化本文のみを総て連続させて示したもの)である。
 以下、凡例を示す(『芥川龍之介「河童」決定稿原稿の全電子化と評釈』の本文のみ関わるそれと全く同一である)。
一、底本とした画像と照応し易くするため、原稿に合わせて1行20字を原則とした。なお、芥川は鍵括弧や丸括弧及び促音表記を1マスとらない癖があったりするため、訂正のない箇所であっても単純に20字には一致しない。
二、漢字のうち、明らかに別字若しくは現在の新字と全く同様と判断したもののみ、新字で示した。少しでも迷ったものは総て正字で示しておいた(同一漢字でも必ずしもその統一は図っていない)。従ってそれだけでも現在知られている「河童」の正字版乃至は新字版の校訂本文とは異なる箇所がある。例えば芥川は、原稿では、
 「號」「氣」「國」「多」
等は概ね、
 「号」「気」(但し、最終画がない特殊なもの)「国」「夛」
と書いているのでそれに従い、
 「來」「爲」
等は「来」「為」に極めて近くても崩し字と判断して、
「來」「爲」
で示している(但し、明確に「来」としか見えない確信犯の字は「来」としてある)。これらは機械的統一を敢えてとってはおらず、私の判断がぶれている箇所もあろうかとは思われるが、生原稿の雰囲気を再現する一方途と考えた仕儀であるので悪しからず。また、芥川の書き癖による表記不能な異体字(概ね存在しない嘘字)は正字で示した。
三、〈 〉は抹消を示す。抹消が数行に続いてなされていると判断される場合は、その初めから最後までを〈 〉で括った。その下に改稿を示してあるので、そこでも見た目、20字にはならない箇所が当然、発生する。
二、〈 〉の抹消部の中でも、部分的に先立って推敲抹消された箇所は《 》で括った。因みに面白いことに、書き換えはあっても、この単純先行削除箇所は思ったよりも少ない。
三、〈 ⇒ 〉は、ある語句の明らかな書き換えが、ともに末梢されたことを示す。
四、ある語句を消去して書き換え、それが決定稿の生きている部分に繋がっている場合、その書き換えた生きている〈吹き出し等で加えられた推敲の新しいパート〉(若しくは削除部の代わりに書かれたと判断される続く本文パート)については、それがなるべく分かるように、その語句を「*」で挟んだ。それが入れ子構造になってしまう場合には、「**」のようにアスタリスクを増やしたもので対応させて挟んで区別した。これは、箇所によっては判断が難しかったので、その範囲について疑義があられる場合は、必ず原本画像を確認されるよう、お願いする。但し、判読不能の場合や、明らかにその削除内容が決定稿の続く成文とは続かない別表現(形容削除など)であったと思われる箇所については、敢えて「*」を附さずにおいた箇所もある(この判断は微妙であり、そう判断した私の中でも完全に統一のとれたルールによってアスタリスクを附さなかった訳ではないから、やはり必ず原本画像を確認されるよう、お願いする)。
五、〔 〕は、原則、本文原稿マスへ書かれた初筆に後から欄外に吹き出し挿入されたものを示すが、推敲過程で推敲訂正文に更に挿入している箇所についても同様に使用した箇所がある。やはり必ず原本画像を確認されるよう、お願いする。
六、判読不能の抹消字は「」で示した。識者の御教授を乞うものである。
七、私が判読に迷ったものには直後に半角(本文中の全角の「?」と区別するため)の疑問符「?」を附し、判読出来なかった字は抹消字でない場合(無論、活字となっている決定本文のみではなく、その他原稿用紙全面に存在している(していたと思われる)書き入れの判読を指している)は「□」で示した。これも切に識者の御教授を乞うものである。  なお、本頁は私のブログ490000アクセス突破記念として作成した。藪野直史【2013年8月16日】]



  
河  童
     どうか Kappa と發音して下さい。
           芥川龍之介
     序
 これは或精神病院の患者、―――㐧二十三号
が誰にでもしやべる話である。彼はもう三十
を越してゐるであらう。が、一見した所は如
〈何にも若々しい狂人である。《彼の⇒僕は》彼と向《ひ》かひ
合ったまま、愉快に《夏⇒夏⇒初冬》の半日を暮ら〔し〕た。  〉

何にも若々しい狂人である。彼の半生の經驗
は、―――いや、そんなことはどうでも〔善〕い。唯彼
〈僕〉*唯*ぢつと兩膝をかかへ、時々窓の外へ目を
やりながら、(鐵格子をはめた窓の外には枯れ
葉さへ見えない樫の木が一本、雪曇りの空に
枝を張つてゐた。)院長のS博士や僕を相手に
長々とこの話をしやべりつづけた。尤も身ぶ
りはしなかつた訣ではない。彼はたとへば「驚
いた」と*言*ふ時には急に顏をのけ反らせたりし
た。………
 僕はかう云ふ彼の話を可〈也■〉*なり*正確に寫した
つもりである。若し又誰か僕の筆記に飽き足
りない人があるとすれば、東京市外××村の
S精神病院を尋ねて見るが善い。年よりも若
い㐧二十三号はまづ丁寧に頭〈を〉*を*下げ、〈木製の〉*蒲團の*ない
椅子を指さすであらう。それから憂欝な微笑
を浮かべ、〈靜〉*靜*かにこの話を繰り返すで〈■〉あら
う。最後に、―――僕は〈最後に〉*この話*を終つた時の彼
の顏色を覺えてゐる。彼は最後に身を起すが
早いか、忽ち拳骨をふりまはしながら、誰〈に〉*に*
でもかう怒鳴りつけるで〈せ?〉*あ*らう。―――「出て行
け! この惡黨めが〔!〕。 貴樣も莫迦な、嫉妬深
い、猥褻な、圖々しい、うぬ惚れきった、〈險⇒隱險?〉*残*
〈險〉*酷*な、蟲の善い動物なんだらう。出て行
! この惡黨めが!」





      二
 二三年前の夏のことです。僕は人並みにリ
ユツク・サツクを背負ひ、あの上髙地かみかうちの温泉宿
から〈※〉*穗*高山ほたかやまへ登らうとしました。〈※〉*穗*高山へ登
るのには御承知の通り梓川を溯る外はありま
せん。僕は前に〈※〉*穗*高山は勿論、槍ケ岳にも登
つてゐましたから、〈案内者もつれずにたつた
一人、〉
**朝霧の下りた梓川の〈岸〉*谷*を案内**者もつれずに登つて行きました。朝霧の
下りた梓川の〈岸〉*谷*を―――しかし〈朝?〉*そ*の霧はいつ
までたつても晴れる〈景〉*気*色けしきは見えません。のみ
ならず反つて深くなるのです。僕は一時間ば
かり歩いた後、〈一そ⇒ちよつともう一度〉*一は*上髙地かみかうち〔の温泉宿〕へ引き返
すことにしようかと思ひました。〈しかし〉*けれど*もかみ
上髙地かうちへ引き返すにしても、兎に角霧の晴れる
のを待つた上にしなければなりません。と云
つて霧は一刻毎にずんずん深くなるばかりな
のです。〈僕は〉「ええ、一そ登つてしまへ。」―――
僕はかう考へましたから、梓川の〈岸〉*谷*を離れな
いやうに熊笹の中を分けて行きました。
 〈僕がせつせと歩んいてゐるのは毛生欅ぶなもみ
 しかし僕の目を遮るものはやはり深い霧ば
かりです。尤も時々霧の中から太い毛生欅ぶな
もみえだあをあをと〈枝〉*葉*を垂らしたのも見えなか
つた訣ではありません。それから又放牧ほうぼくの馬
や牛も突然僕の前へ顏を出しました。けれど
もそれは見えたと思ふと、忽ち又濛々とし
た霧のなかに隱れてしまふのです。そのうちに
〈足〉*足*もくたびれて來れば、はらもだんだんりは
じめる、―――おまけに霧にとほつた登山服
〈マント〉*毛布*なども並み大抵の重さではありませ
ん。僕はとうとうを折りましたから、岩に
せかれてゐる水の音を便りに梓川の谷へ下り
ることにしました。
 僕は水ぎはの岩に腰かけ、とりあへず食事
にとりかかりました。コオンド・ビイフの罐を
切つたり、枯れ枝を集めて火をつけたり、――
―そんなことをしてゐるうちに彼是十分はた
つたでせう。〈すると〉*そのあひだに*どこまでも意地の惡い霧
はいつかほのぼのと晴れかかりました。僕は
パンを嚙ぢりながら、ちよつと腕時計を覗い
て見ました。時刻はもう一時二十分過〈ぎ〉*ぎ*で
す。が、それよりも驚いたのは何か気味の惡
い顏が一つ、圓い腕時計の硝子の上へちらり
と影を落したことです。僕は驚いてふり返り
ました。すると、―――僕が河童と云ふものを
見たのは實にこの時が始めてだつた■■ので
す。僕の後ろにある〈崖〉*岩*の上には画にある通り
の河童が一匹、片手は白樺の幹をかかへ、片手
は目の上にかざした〈まま〉*なり*、珍らしさうに僕を
見おろしてゐました。
 僕は呆つ気にとられたまま、暫くは身動き
もしずにゐました。〈河⇒しかし河童〉*河童もやは*り驚いたと見
え、目の上の手さへ動かしません。そのうち
に僕は飛び立つが早いか、〈崖〉*岩*の上の河童へ躍
りかかりました。〈河童も〉*同時に*又〈河〉*河*童も逃げ出し
ました。いや、恐らくは逃げ出したの〈で〉*で*せ
う。実はひらりとかへしたと思ふと、忽ち
どこかへ消えてしまつたのです。僕は愈驚き
ながら、熊笹の中を見まはしました。すると
河童は〈二〉逃げ腰をしたなり、二〔三〕メエトル〈はかり〉*隔つた*
向うに僕を振り返つて見てゐるのです。それ
は不思議でも何でもありません。しかし僕に
意外だつたのは河童のからだの色のことです。〈河
童は〉
*岩の上*に僕を見てゐた河童は一面に灰色を帶び
てゐました。けれども今は体中からだぢうすつか〈り〉*り*みどり
ろに変つてゐるのです。僕は「畜生!」とおほ声
を挙げ、もう一度河童へ飛びかかりま〔し〕た。河
童が逃げ出したのは勿論です。〈■〉それから僕〈等〉
は三十分ばかり、熊笹を〈探して〉*突きぬ*け、〈毛生〉*岩を*飛び
越え、遮二無二河童を追ひつづけました。
 河童も亦足の早いことは決してさるなどに劣
りません。僕は〈何度も〉*夢中に*なつて追ひかけるあひだ
何度もその姿を見失はうとしました。のみな
らず足を辷らして轉がつたことも度た〈び〉*び*で
す。が、大きいとちの木が一本、ふとぶとと枝を
張つたしたへ來ると、幸ひにも放牧ほうぼくの牛〈か〉*が*一
匹、河童のさきへ立ち塞がりました。しか
〈も〉*も*それは角のふとい、目を血走らせた牛なの
です。河童はこの牡牛を見ると、何か悲鳴を
擧げながら、〈熊笹〉*一き*は髙い熊笹の中へもんどり
を打つやうに飛び〈こみ〉*こみ*ました。僕は、―――僕
も「しめた」と思ひましたから、いきなりそのあ
とへ追ひすがりました。するとそこには僕の
知らない穴でもあいてゐたので〈あ〉*せ*う。僕は滑
かな河童の背中にやつと指先がさはつたと思
ふと、忽ち深い闇の中へまつ逆さまに轉げ落
ちました。が、我々人間の心はかう云ふ〈急〉*危*機
一髮の際にも途方もないことを考へるもので
す。僕は「あつ」と思ふ拍子にあの上髙地かみかうちの温泉
宿のそばに「河童𣘺」と云ふ𣘺があるのを思ひ出し
た。それから、―――それからさきのことは覚え
てゐません。僕は唯目の前に稲妻に似たもの
を感じたぎり、いつ〈か〉*の*間にか正気を失つてゐ
ました。






       〈三〉*二*
 〈僕は〉*そのうちに*やつと気〈づいつ〉*がつい*て見ると、僕は仰向け
に倒れたまま、大勢の河童にとり圍まれてゐ
ました。のみならず〈目の大きな⇒目金をかけた〉*太い嘴の上に鼻眼金をかけた*〈河〉*河*童が一匹、
〈僕〉*僕*の側へ跪きながら、僕の胸へ聽信噐を当て
てゐました。その河童は僕が目をあいたのを
見ると、〈そ〉僕に「靜かに」と云ふ手眞似をし、それ
から誰か後ろにゐる河童へ 〈q〉* Q *uax quax と声を
かけました。するとどこからか河童が二匹、
擔架を持つて歩いて來ました。僕はこの擔架
にのせられたまま、大勢の河童の群がつた中
を靜かに何町か進んで行きました。僕の兩側
に並んでゐる町は少しも銀座通りと違ひあり
ません。やはり毛生欅ぶなの並み木のかげにいろ
いろの店が日除けを並べ、その又並み木に挾
まれた道を自動車が何台も走つてゐる〈で〉*で*
のです。
 やがて僕を載せた擔架は細い横町を曲つた
と思ふと、或家の中へ舁ぎこまれました。そ
れはのちに知つた所によれば、あの鼻眼金を〔かけ〕た
河童のうち、――チヤツクと云ふ医者の家だつ
たのです。チヤツクは僕を小綺麗なベツドの
上へ寐かせました。それから何か透明な水藥
を一杯飮ませました。僕はベツドの上に横た
はたつたなり、チヤツクのするままになつてゐ
ました。實際又僕の〈体〉*体*は碌に身動きも出〈來〉*來*な
いほど、節々ふしぶしが痛んでゐたのですから。
 チヤツクは一日に二三度は必ず僕を診察に
來ました。又三日に一度位は僕の最初に見か
けた河童、――バツグと云ふ漁師も尋ねて來
ました。河童は我々人間が河童のことを知つ
てゐるよりも遙かに人間のことを知つてゐま
す。それは我々人間が河童を捕〈獲〉*獲*することよ
りもずつと河童が人間を捕獲することが夛い
爲でせう。捕獲と云ふのは当らないまでも、
我々人間は僕の前にも度々河童の国へ來てゐ
るのです。のみならず一生河童の国に住んで
ゐたものも夛かつたのです。なぜと言つて御
覽なさい。僕等は唯河童ではない、人間であ
ると云ふ特権の爲に働かずに食〈ふことも出來〉*つてゐられる*
のです。現に〈河童の言葉⇒マツ〉*バツグの話*によれば、或若い道
路工夫などはやはり偶然この国へ來た〈ぎり〉*後*、
〈死ぬ⇒雌の〉*雌の*河童を妻に娵り、死ぬまで住んでゐたと
云ふことです。尤もその〔又〕雌の河童は〈大へんに⇒この国㐧一〉*この国第一の*
美人だつた〈と〉*上*、夫の道路工夫を〈瞞〉誤魔化すの
〈に妙を得てゐ〉*にも妙を極め*てゐた〈さうですが〉*と云ふこと*です。
 僕は一週間ばかりたつた後、この国の法律
の定める所により、「特別保護住民」としてチヤ
ツクの鄰に住むことになりました。僕の家は
小さい割に如何にも瀟洒と出來上つてゐまし
た。勿論この国の文明は我々人間の国の文明
―――少くとも日本の文明などと余り大差は
ありません。〈客間の隅には⇒絨氈を敷いた〉*往來に面した*客間の隅には小さ
いピアノが一台あり、〈壁にはエツチングだの
水彩画だのが⇒椽へ入れた河童〉
*それから又壁には〈小〉額椽へ入れたエツ*ティングなども懸つてゐまし
た。唯肝腎の家をはじめ、テエブルや椅子の
寸法も河童の身長に合はせてありますから、
子供の部屋に入れられたやうにそれだけは不
便に思ひました。
 僕はいつも日暮れがたになると、〈窓の側の〉*この部屋*
にチヤツクやバツグを迎へ、河童の言葉を習
ひました。いや、彼等ばかりではありませ
ん。特別保護住民だつた僕〈は〉*に*誰も皆好奇心
を持つてゐましたから、〈《毌》⇒*毎*日チヤツクに來て貰つては血壓を調べて貰つ〉*毎日血壓を調べて貰ひにわざわざチヤツクを*呼び寄せる、ゲエ
ルと云ふ硝子會社の社長などもやはりこの部
屋へ顏を出したものです。しかし最初の半月
ほどの間に一番僕と親しくしたのはやはりあ
のバツグと云ふ漁夫だつたのです。
 或生暖かい日の暮です。僕はこの部屋のテ
エブルを中に漁夫のバツグと向ひ合つてゐま
した。するとバツグはどう思ふ〈た〉*つ*たか、急に
默つてしまつた上、大きい目を一層大きくし
てぢつと僕を見つめました。〈のみならず〉*僕は勿論妙*に思
ひましたから、「Quax, Bag, 〈Q〉*q*uo 〈Q〉*q*uel 〈Q〉*q*uan ?」と言
ひました。これは〈我々〉*日本*語に飜訳すれば、〈「〉*「*お
い、バツグ、どうしたんだ?」と云ふこ〈と〉*と*で
す。が、バツグは返事をしません。のみなら
ずいきなり立ち上ると、べろりと舌を出した
〈まま〉*なり*、丁度蛙の刎ねるやうに〈僕〉飛びかかる気色けしき
さへ示しました。僕は〈た〉*愈*無気味になり、そつ
と椅子から立ち上ると、一足飛びに戸口へ飛
び出さうとしました。丁度そこへ顏を出した
のは幸ひにも医者のチヤツクです。
 「こら、バツグ、何をしてゐるのだ?」
 チヤツクは鼻眼金をかけたまま、かう云ふ
バツグを睨みつけました。〈バツクは〉*するとバ*ツグは〈驚〉*恐*
れ入つたと見え、何度も頭へ手をやり〈な〉*な*が
ら、かう言つてチヤツクにあやまるのです。
 「どうも〔まことに相〕すみません。実はこの旦那の気味悪
がるのが面白かつたものですから、つい調子
に乘つて悪戯をしたのです。どうか旦那も堪
忍して下さい。」







       三
 僕はこの先を話す前にちよつと河童と云ふ
ものを説明して置かなければなりません。河
童は未だに実在するかどうかも疑問になつて
ゐる動物です。が、それは僕自身が彼等の間
に住んでゐた以上、〔少しも〕疑ふ余地〈など〉はない筈で
す。では又どう云ふ動物かと云へば、〈大体は古來
画に描いてあ〉
**頭に短い毛のあるのは勿論、手足に水掻きの
〈ついてゐる〉*ついてゐる*ことも「水虎考畧」などに出てゐ**るのと〈大した〉*著しい*違ひはありま
せん。身長もざつと一メエトルを越えるか越えるか越
えぬ位で〈■〉せう。体重は医者のチヤツクによ
〈長椅子に坐り、悠々と巻煙草をふかせ⇒*し*な〔が〕ら、
往來の河童を眺めてゐました。河童は身長一メエトルを越えるか越えぬ位でせう。体《長》重は
チヤツクの話によ〉
れば、二十ポンドから三十
ポンドまで、―――稀には〈四〉*五*十何ポンド位の大
河童もゐると言つてゐました。それから頭の
まん中には楕円形のさらがあり、その又さらは年
齢により、だんだん固さを加へる〈■■〉やうで
す。現に年をとつたバツグの皿は若いチヤツ
クの皿などとは全然手ざはりも違ふ〈■■〉ので
〈《バツクの皿は若いバ》⇒*チ*ヤツクの皿などとは全然
手ざはりも違ふので〉
す。)しかし一番不思議な
〈ことは〉*のは河*童の皮膚の色のことで〈《す》⇒せう〉*せう*。河童は我々
人間のやうに一定の皮膚の色を持つてゐませ
ん。何でもその周囲の色と同じ色に変つてし
まふ、―――たとへば艸の中にゐる時には草の
やうに緑色みどりいろに変り、岩の上にゐる時には岩の
やうに灰色に変るのです。これは勿論河童に
限らず、カメレオンにもあることです。或は
河童は〈カメレオン〉*皮膚組織の*上に何かカメレオンに近い
所を持つてゐるのかも知れません。僕はこの
〈事実〉*事実*を発見した時、西国の河童は〈色〉*色*みどり〈いろ〉*いろ*であ
り、東北の河童は赤いと云ふ民俗〈学〉*学*上の記録
を思ひ出しました。のみならずバツグを追ひ
かける時〈に〉、突然どこへ行つたのか、見えな
くなつたことを思ひ出しました。しかも河童
は皮膚の下に餘程厚い〈■〉*脂*肪を持つてゐると見
え、この地下の国の温度〈の〉*は*比較的低いのにも
関らず、(平均華氏五十度前後です。)着物と云
ふものを知らずにゐるのです。勿論〈チヤツク〉*どの河童*
も目金をかけたり、卷煙草の箱を携へたり、
金入れを持つたりはしてゐるのでせう。しかし
河童はカンガルウのやうに腹に袋を持つてゐ
ますから、それ等のものをしまふ時にも格別
不便はしないのです。唯僕に可笑しかつたの
は腰のまはりさへ蔽はないことです。僕は或
時この習慣をなぜかとバツグに尋ねて見まし
た。するとバツグはのけぞつたまま、いつま
でもげらげら笑つてゐました。おまけに
「わたしは〔お前さんの隱してゐるのが〕可笑しい」と返事をしました。
       〈三〉*四*
 僕はだんだん河童の使ふ日常の言葉を覚え
〔て來〕ました。〈実は〉*從つ*て河童の風俗や習慣も〈会得〉*のみ*こめ
〈と〉*や*うになつて來ました。その中でも一番不
思議だつたのは〈何で〉*河童*は我々人間の眞面目に思
〈もの〉*こと*を可笑しがる、同時に我々人間の可笑
しがる〈もの〉*こと*を眞面目に思ふ―――かう云ふと
んちんかんな習慣です。たとえば我々人間は
正義とか人道とか云ふことを眞面目に思ふ、
しかし河童はそんなことを聞くと、腹をかか
へて笑ひ出すのです。つまり彼等の滑稽と云
ふ觀念は〈全然〉我々の滑稽と云ふ観念と全然標
準を異にしてゐるの〈せ〉*で*せう。僕は或時〈一匹の
河童と、―――《バツクと云ふ名の⇒僕の最初に會つた》バツクと云ふ
《やつと⇒河童と》〉
*醫者のチヤツクと〈孝行〉*産児制限*の話をしてゐました。すると〈バツ
ク〉
*チヤツク*は〈《びつくりするほど》⇒のけぞつたまま、〉*大口をあいて、〈大きい口をあいて〉*鼻眼金の落ちるほど、*笑
ひ出しました。僕は勿論腹が立ちました〈か〉*か*
ら、何が可笑しいかと詰問しました。何でも
〈バツク〉*チヤツク*の返答は大體かうだつたやうに〈記?〉*覺*えて
ゐます。〈何しろまだその頃は僕も河童の使ふ〉*尤も夛少細かい所は間違つてゐるか*
も知れません。何しろまだその頃は僕も河童
の使ふ言葉をすつかり理解してゐなかつた
のですから。
 「しかし〔兩〕親の都合ばかり考へてゐるのは可笑
しいですからね。〈」〉どう〈《考へ》⇒も滑稽〉*も餘り手前*勝手です〔から〕ね。」
 その代りに我々人間から見れば、實際又河
童のお産位、可笑しい〔もの〕はありません。現に僕
〈バツクの細〉暫くたつてから、バツグの細君のお産をす
る所を〈わざわざ見物に出かけ〉*バツグの小屋へ見物に行き*ました。河童も
〔お産をする時〔に〕は我々人間と〕〈お?〉*同*じことです。やはり医者や産婆などの助け
を借りてお産をするのです。けれどもお産を
するとなると、父親は電話でもかけるやうに
母親の生殖噐に口をつけ、「お前はこの世界へ
生れて來るかどうか、よく考へた上で返事
をしろ。」と大きな聲で尋ねるのです。バツグも
やはり膝をつきながら、何度も繰り返してか
う言ひました。それからテエブルの上にあつ
た消毒〈剤〉*用*の水藥で嗽ひをしました。すると
細君の腹の中の子は〈■〉夛少気兼〈をするやうに
かう言つ〉
*でもしてゐると見え、*かう小聲に返事をしました。
 「僕は生れたくはありません。〈元?〉*第*一僕のお
父さんの遺傳は〈黴毒〉*精神病*だけでも大へんです。そ
の上僕は河童的存在を惡いと信じてゐますか
ら。」
 バツグはこの返事を聞いた時、てれたやう
に頭を搔いてゐました。が、そこにゐ合せた
産婆は忽ち細君の生殖噐へ太い硝子の管を突
きこみ、何か液体を注射しました。すると〈忽
ち細君の原は水素瓦斯を拔いた風船のやうに
へたへたと縮んでしまひました。     〉

細君はほつとしたやうに太い息を洩らしまし
た。同時に又〈《細君》⇒盛り上つてゐ〉*今まで大きかつ*た腹は水素瓦斯を
拔いた風船のやうにへたへたと縮んでしまひ
ました。
 かう云ふ返事をする位ですから、〈勿論〉河童の子
供は生れるが早いか、勿論歩いたりしやべつたりするのです。何でも〈バツク〉*チヤツク*の話では出
産後二十六日目に神の有無に就いて講演をし
た子供もあ〈る〉*つ*たとか云ふことです。尤もその
〈供〉*供*は二月目には〈自殺し〉*死ん*で〔し〕まつたと云ふこと
ですが。
 お産の話をした次手ですから、僕がこの国
へ來た三月目に偶然或街のかどで見かけた、大
きいポスタアの話をしませう。その大きいポ
スタアの下には喇叭を吹いてゐる河童だの劍
を持つてゐる河童だのが十二三匹描いてあり
ました。それから又上には河童の使ふ、丁度
時計のゼンマイに似た螺旋文字が一面に並べ
てありました。この螺旋文字を飜訳すると、
大体かう云ふ意味になるのです。これ〈《は》⇒も〉*も*或は
細かい所は間違つてゐるかも
知れません。が、兎に角僕としては僕と一し
よに歩いてゐた、ラツプと云ふ河童の学生が
大聲おほごゑに読み上げてくれる〈の〉*言葉*を〈そのまま〉一々ノオトにと
つて置いたのです。

 遺傳的義勇隊を募る!!!


 健全なる男女の河童よ!!!


 悪遺傳を撲滅する爲に


 不健全なる男女の河童と結婚せよ!!!

 僕は勿論その時〔に〕もそんなことの行はれない
ことをラツプに話して聞かせました。〈ラツプ〉すると
ラツプばかりでは〈あ?〉ない、ポスタアの近所にゐ
た河童は悉くげらげら笑ひ出しました。
 「行はれない? だつてあなたの話ではあな
たがたもやはり我々のやうに行つてゐると思
ひますがね。あなたは令息が女中に惚〈れ〉*れ*た
り、令孃が運轉手に惚れた〈り〉*り*するのは何の爲
だと思つてゐるのです? あれは皆無意識的
に惡遺傳を撲滅してゐるのですよ。第一この
間あなたの話したあなたがた人間の義勇隊よ
りも、―――一本の鐵道を奪ふ爲に互に殺し合
ふ義勇隊ですね、―――ああ云ふ義勇隊に比べ
れば、ずつと〈髙〉僕たちの義勇隊は髙尚では
ないかと思ひますがね。」
 ラツプは眞面目にかう言ひながら、しかも
太い腹だけは可笑しさうに絶えず浪立たせて
ゐました。〈が、僕〉*が、僕*は笑ふどころか、慌
てて或河童を摑まへようとしました。それは
僕の油斷を見すまし、その河童〈が〉*が*僕の〈銀時計〉*萬年筆*
を盜んだことに気がついたからです。しかし
〈滑かな河童の皮膚に〉*皮膚の滑かな河童*は容易に我々には摑まり
ません。その河童もぬらりと辷り〈拔と〉*拔*けるが
早いか一散に逃げ出してしまひました。丁
度蚊のやうに瘦せた体を〈ちらり〉*倒れる*かと思ふ位の
めらせながら。
[やぶちゃん注:以下、6行空白。]






       〈四〉*五*
 僕はこのラツプと云ふ河童にバツグにも劣
らぬ世話になりました。が、その中でも忘れ
られないのはトツクと云ふ河童に紹介された
ことです。トツクは河童仲間の詩人です。詩
人が髮を長くしてゐることは我々人間と変り
ません。僕は時々トツクの家へ退屈凌ぎに遊
びに行きました。トツクはいつも狭い部屋に
髙山植物の鉢植ゑを並べ、〈■〉*詩*を書いたり煙草
をのんだり、如何にも、〈■〉*気*樂さうに暮らしてゐ
ました。その又部屋の隅には〈女〉*雌*の河童が一〈匹〉
*匹*、(トツクは自由〈■〉*戀*愛家ですから、細君と云
ふものは持たないのです。)編み物か何かをしてゐ
ました。トツクは僕の顏を見ると、いつも微
笑してかう言ふのです。(尤も河童の微笑する
のは餘り好いものではありません。少くとも
僕は最初のうちは寧ろ無気味に感じた〈■〉*も*ので
す。)
 「やあ、よく來たね。まあ、その椅子にかけ
給へ。」
 トツクはよく河童の生活だの河童の藝術だ
〈■〉*の*話をしました。〈我々人間の言葉を使う〔へ〕ば、〉*トツクの信ずる所によれ
〈ト〉ば、*当り前の河童の生活位、莫迦げてゐるも
のはありません。〈《殊に》⇒夫婦〉*親子*夫婦兄弟などと云ふの
は悉く互に苦しめ合ふことを唯一の樂しみに
して暮らしてゐるのです。殊に家族制度と云
ふもの〈ほど〉*は莫*迦げてゐる以上に〈恐しいもの〉*も莫迦げてゐ*るの
です。トツクは或時窓の外を指さし、「見給〈へ〉
*へ*。あの莫迦げさ加減を!」と吐き出すやうに
言ひま〈■〉した。窓の外の往来にはまだ年の若
い河童が一匹、両親らしい河童を始め、〈十三〉*七八*
匹の〈男女〉*雌雄*の河童を頸のまはりへぶら下〈け〉*げ*な
がら、息も絶え絶えに歩いてゐました。しか
し僕は〈その《若》⇒河〉*年の若い河*童の犠牲的精神に感心しました
から、反つてその健気けなげさを褒め立てました。
 「ふん、君は〈善良なる〉*この国でも*市民になる資格を持つ
てゐる。………時に君は〈〔民主的〕《社會》〉社會〈的民主〉主義者かね?」
 僕は勿論〈ク〉 qua(これは河童の使ふ言葉では
「然り」と云ふ意味を現すのです。)と荅へました。
 「では百人の〈《阿呆》⇒莫迦〉*凡人*の爲に甘んじて一人〈賢人〉
天才を犧牲にすることも顧みない筈だ。」
 「では君は何主義者だ? たれかトツク君の信
條は無政府主義だと言つてゐたが、………」
 「僕か? 僕は超人(直訳すれば〔超河童〕です。)だ。」
 トツクは昂然と言ひ放ちました。かう云ふ
トツクは藝術の上にも独特な考へを持つてゐ
ます。トツクの信ずる所によれば、藝術は何
〈とも〉*もの*の支配をも受けない、藝術の爲の藝術で
ある、從つて藝術家たるものは何よりも先に善悪を絶した超人でなければならぬと云ふの
す。尤もこれは必しもトツク一匹の意見では
ありません。トツクの仲間の詩人たちは大抵
同意〈見〉*見*を持つてゐるやうです。現に僕はトツ
クと一しよにたびたび超人倶樂部へ遊びに行き
ました。超人倶樂部に集まつて來るの〈は〉*は*詩
人、小説家、戯曲家、批評家、〔画家、音樂家、彫刻家、〕〈文藝〉*藝術*上の素人
とうです。しかしいづれも超人です。彼等は電
燈の明るいサロンにいつも快活に話し合つてゐま
した。のみならず時には得々と彼等の超人ぶ
りを示し合つてゐました。たとへば或〈《河童》⇒批評家〉*彫刻家*な
どは大きい鬼羊歯の鉢植ゑの間に年の若い河
童をつかまへながら、頻に男色を弄んでゐま
した。又或雌の小説家などはテエブルの上に
立ち上つた〈まま〉*なり*、アブサントを六十〈杯?〉*本*飮んで
見せました。尤もこれは六十本目にテエブル
の下へ轉げ落ちるが早いか、忽ち〈死んで〉*往生し*てし
まひましたが。
 僕は或月の好い晩、詩人のトツクと肘を組
〈みながら〉*んだまま*、超人倶樂部から歸つて來ま〔し〕た。ト
ツクはいつになく沈みこんで一ことも口を
利かずにゐました。そのうちに僕等は火かげ
のさした、小さい窓の前を通りかか〈〔り〕ま〉りまし
た。その又窓の向うには夫婦らしい雌雄めすをすの河
童が二匹、〈《小さ》⇒三匹の子供の河童と一しよに〉*三匹の子供の河童と一しよに*晩餐のテエブルに向つてゐるのです。するとトツ
クはため息をしながら、突然かう僕に話しか
けました。
 「僕は超人〔的戀愛家〕だと思つてゐるがね、ああ云ふ家
庭の容子を見ると、やはり〈羨し⇒羨ま〉*羨ま*しさを感
〈ず〉*じ*るんだよ。」
 「しかしそれはどう考へても、矛盾してゐる
とは思はないかね?」
 けれどもトツクは月明あか〈の〉*り*のしたにぢつと腕を
組んだまま、あの小さい窓の向うを、―――平
和な五匹の河童たちの晩餐のテエブルを見守
つてゐました。それから暫くしてかう荅へま
した。
 「あすこにある〈オムレツ〉*玉子燒*は何と言つても、〈超〉*恋*
〈《人》⇒愛〉*愛など*よりも〈現実〉*衛生*的だからね。」 〈《少なくと恋愛》⇒或〉


     〈《五》⇒《六》⇒七〉*六*
 實際又河童の〈■〉*恋*愛は我々人間の恋愛とは余
程趣を異にしてゐます。〈女〉*雌*の河童はこれぞと
云ふ〈男〉*雄*の河童を見つけるが早いか、〈男〉*雄*の河童
を捉へるのに如何なる手段も顧〈り■〉*みま*せん。一
番正直な〈女〉*雌*の河童は遮二無二〈《女》⇒男〉*雄*の河童を追ひ
かけ〈ま〉*るので*す。現に僕は気違ひのやうに〈男〉*雄*の河童
を追ひかけてゐる〈女〉*雌*の河童を見かけま〔し〕た。い
や、そればかりではありません。〈《女の河童 》⇒若い女の河〉*若い雌の女河*
童は勿論、その河童の〈《両》⇒女〉*兩*親や兄弟まで一しよ
になつて追ひかけるのです。〈男〉*雄*の河童こそ見
じめです。何しろさんざん逃げまはつ〈た〉*た*揚
句、運〈《よ》⇒好〉*好*くつかまらずにすんだとしても、二
三箇月はとこについてしまふのですから〈。〉。僕は
或時僕の〈部屋〉*家*にトツクの詩集を讀んでゐまし
た。するとそこへ駈けこんで來たのはあの〈《勢》⇒勢〉
〈《ツプと云ふ学生》⇒の好いラツプ〉*ツプと云ふ学生*です。ラツプは僕の〈部屋〉*家*へ〈は
ひる〉
*轉げこむ*と、床の上へ倒れたなり、息も切れ切れ
にかう言ふのです。
 「大変だ、! とうとう僕は〈つかまつ〉*抱きつかれ*てしまつ
た!」
 僕は〈早速戸口へ飛び出〉*咄嗟に詩集を投げ出*し、〈しつか〉*戸口の*錠を〈下〉*お*ろ
〔して〕しまひました。〈その時〉*しかし*鍵穴から覗い〈て〉*て*見る
と、硫黄の粉末を顏に塗つた、背の低い〈女〉*雌*の
河童が一匹、まだ〈《残念さうにうろつゐてゐました》⇒戸口に立つてゐます〉*戸口にうろついてゐるのです*。〈ト〉*ラ*ツプはその日から何週間か僕の床の
上に寐て〈■〉ゐました。のみならずいつか〈嘴が〉*ラツプの嘴は*す
つかり腐つて落ちてしまひました。
 〈しかし〉*尤も*又時には〈女〉*雌*の河童を一生懸命に追ひ
かける〈男〉*雄*の河童も〈ゐ〉ないわけではありません。し
かしそれ〈《は■》⇒《もと■》⇒も事実上〉*もほんたうの所は*追ひかけずにはゐられない
やうに〈女〉*雌*の河童が〈し?〉*仕*向けるのです。僕はやは
り気違ひのやうに〈女〉*雌*の河童を追ひかけてゐる
〈男〉*雄*の河童〈を見〉*も見*かけました。〈女〉*雌*の河童は逃げて
行くうちにも、時々わざと立ち止まつた見た
り、〈生殖噐を見せ〉*四つん這ひに*なつ〈《たり》⇒て見た〉*たりし*て見せ〔るので〕す。お
〈■〉*け*に丁度好い時分になると、さもがつかり
したやうに〈わざ〉*樂々*とつかまつてしまふの〔で〕す。僕
の見かけた〈男〉*雄*の河童は〈女〉*雌*の河童を抱いた〔〈■〉な〕り、
暫くそこに轉がつてゐました。が、やつと起
き上つたのを見ると、失望と云ふか、後悔と
云ふか、兎に角何とも形容出來ない、気の毒
な顏をしてゐました。しかしそれはまだ好い
のです。これも〈見かけ〉*僕の見か*けた中に小さい〈男〉*雄*の
河童が一匹、〈女〉*雌*の河童を追ひかけてゐ〈ま〉*ま*し
た。〈女〉*雌*の河童は例の通り、誘惑的遁走をして
ゐるのです。するとそ〈のうちに向う〉*こへ向うの街*から大き
〈男〉*雄*の河童が一匹、鼻息を鳴らせて歩いて來
ました。〈女〉*雌*の河童は何かの拍子にふとこの〈男〉*雄*
の河童を見ると、「大変です! 助けて〈下〉*下*さ
い! あの河童はわたしを殺さうとするので
す!」と金切り聲を出して叫びました。勿論大
きい〈男〉*雄*の河童は忽ち小さい河童をつかまへ、
往來のまん中へねぢ伏せました。小さい河童
は水搔きのある手に二三度空を摑んだなり、
とうとう死んでしまひました。けれどももう
その時には〈女〉*雌*の河童はにやにやしながら、大
きい河童の頸つ玉へしつかりしがみついてし
まつてゐ〈《■》⇒る〉*た*のです。
 僕の知つてゐた〈男〉*雄*の河童は誰も皆言ひ合は
せたやうに〈女〉*雌*の河童に追ひかけられま〔し〕た。勿
論妻子を持つてゐるバツグでもやはり追ひか
けられたのです。のみならず二三度〈つ〉*は*つかま
つたのです。唯マツグと云ふ〔哲〕学者だけは(これ
はあのトツクと云ふ詩人の鄰に〈住ん〉*ゐる*河童です。)
一度もつかまつたことはありません。これは
一つには〈トツ〉*マツグ*位、醜い河童も少ない爲でせ
う。しかし又一つにはマツグ〔だけ〕は餘り往來へ〔顏を〕出
〔さ〕ずにうちにばかりゐる爲です。僕はこのマツグ
の家へも時々〈話〉*話*しに出かけました。マツグは
〈《狭い家の中に》⇒いつも奥深い〉*いつも薄暗い*部屋に〈小さい〉*七色の*色硝子のランタア
ンをともし、脚の高い机に向ひながら、〈何か〉
厚い本〔ばかり〕を讀んでゐるのです。僕は或時かう云
ふマツグと河童の戀愛を論じ合ひました。
 〈《■》⇒僕?〉 「なぜ〈君?〉政府は〈女〉*雌*の河童が〈男〉*雄*の河童を追ひ
かけるのをもつと嚴重に取り締らない〈かね?〉*のです
?*」
 〈マツグ〉 「それは〈政府の役人に〉*一つには官吏*の中に〈女〉*雌*の河
童の少ない爲ですよ。〈女〉*雌*の河童〈も〉*は*〈男〉*雄*の河童よ
りも一層嫉妬心は強いものですからね。〈《もう》⇒女の〉*雌の*
河童の官吏さへ殖ゑれば、きつと今よりも〈男〉*雄*
の河童は追ひかけられずに〈すむ〉*暮らせるでせう。し
かしそ〈れも〉*の効*力も知れたものですね。なぜと言
つて御覽なさい。官吏〈で〉同志でも〈女〉*雌*の河童は〈男〉*雄*
の河童を追ひかけますからね。」
〈僕〉 「ぢやあなたのやうに暮ら〈す外には必ず
つかまつてしまふ訣です〉
*してゐるのは一番幸福な訣ですね。*」
 するとマツグは椅子を離れ、〈《二三度部屋の》⇒僕の肩へ手を
置い〉
*僕の兩手を握つ*たまま、ため息と一しよにかう言ひまし
た。
 「あなたは我々河童ではありませんから、お
わかりにならないのも尤もです。しかしわた
しもどうかすると、〈《追ひかけられたい気も》⇒あの恐しい女の河童に〉*あの恐ろしい雌の〈女〉河童に*追
ひかけられたい気も起るのですよ。」






     七
 僕は又詩人のトツク〈学生のトツ〉*と度たび音樂*会へも出
かけました。が、未だに忘れられないのは〈二〉*三*
度目に聽きに行つた音樂会のことです。〈会場の
容子は〉
*尤も會場の容*子などは余り日本と変つてゐま〈せ〉*せ*
ん。やはりだんだんせり上つた席に男女の河
童が三〈百匹〉*四百*匹、いづれもプログラムを手にし
ながら、〈熱心〉*一心*に耳を澄ませてゐるのです。僕
はこの三度目の音樂会の時には〈髮の毛の長い詩人〉*トツクやトツクの雌河童*の外にも〈哲学者のマツグ〉*哲学者のマツグ*と一しよ〈に〉*に*な
り、一番前の席に坐つてゐました。するとセ
ロの獨奏が終つた後、妙に目の細い河童が一
匹、無造作に譜本を抱へたまま、壇の上へ上
つて來ました。こ〈れは〉*の河*童はプログラム〈によれ
ば〉
*の教へる通り*、名高いクラバツクと云ふ作曲家です。プ
ログラムの教へる通り、――いや、プログラ
ムを見るまでもありません。クラバツクはト
ツクが〈属〉*属*してゐる超人倶樂部の會員〈中でも〉*ですから*、
〈《最も》⇒超人ぶりを発揮する上には最も大膽な河童な
のですから。              〉

僕も亦顏だけは知つてゐるのです。
 「Lied ――― Craback 」(この国の音樂会のプ
ログラムも大抵は獨逸語を並べてゐました。)
 クラバツクは盛んな拍手の中にちよつと我
々へ一礼した後、靜かにピアノの前へ歩み寄
りました。それからやはり無造作に自作のリ
イドを彈きはじめました。クラバツクはトツ
クの言葉によれば、この国の生んだ音樂〈家〉*家*
中、前後に比類のない天才ださうです。僕は
クラバツクの音樂は勿論、〈クラツ〉*その又*余の抒情
詩にも興味を持つてゐましたから、大きい弓
なりのピアノの音に熱心に耳を傾けてゐまし
た。〈トツクや〉*トツクや*マツグも恍惚としてゐたことは
或は僕よりも勝つてゐたでせう。が、あの
美しい(少くとも〈トツク〉*河童た*ちの話によれば)雌河童だ
けはしつかりプログラムを握つた〈まま〉*なり*、時々
さも苛ら立たしさうに長い舌をべろべろ出し
てゐました。これは〈■〉マツグの話によれば、〈《何》⇒前
《度か》⇒《でも、》《クラバツクを摑まへかかつ》た《ところ、》⇒前に一度クラバツクを摑まへるばかりになつたところ、生憎往來に落ちてゐた、     〉

何でも彼是十年前にクラバツクを摑まへそこ
なつたものですから、未だにこの音樂家を目
かたきにしてゐるのだとか云ふことです。
 クラバツクは全身に情熱をこめ、戰ふやう
にピアノを彈きつづけました。すると突然會
場の中に神鳴りのやうに〈鳴り〉*響き*渡つたのは「演奏
禁止」と云ふ声です。僕は〈前〉*こ*の声にびつくり
し、思はず後ろをふり返りました。声の主は
紛れもない、一番後ろの席にゐる〈、小肥りに〉*身の丈拔群*
の巡査です。巡査は僕がふり向いた時、〈もう〉*悠然*
と腰をおろしたまま、もう一度前よりもおほ
声に「演奏禁止」と怒鳴りました。それから、――

 それから先は大混亂です。「警官横暴!」「ク
ラバツク、彈け! 彈け!」「莫迦!」〈「〉*「*畜生
!」「ひつこめ!」「負けるな!」―――かう云
ふ聲の湧き上つた中に椅子は倒れる、プログ
ラムは飛ぶ、おまけに誰が投げるのか、サイ
ダアの空罎や〈馬胡瓜さへ〉*石ころや噛*ぢりかけの胡瓜さへ
〈飛〉*降*つて來るのです。僕は呆つ気にとられまし
〔たから、トツクにその理由を尋ねようとしました。が、トツクも〕
〔興奮し〕たと見え、椅子の上に突つ立ちながら、「クラ
バツク、彈け! 彈け!」と〈叫び〉*喚き*つづけてゐま
す。〈それから〉*のみなら*ずトツクの雌河童もいつ〈か〉*のに*敵意
を忘れた〈と見〉*のか*、「警官横暴」と叫んでゐることは
少しもトツクに変りません。僕はやむを得ず
マツグに向かひ、「どうしたのです?」と尋ねて
見ました。
 「これですか? これは〈よくあ〉この国ではよくある
ことですよ。 〈」〉〈■〉*元*來画だの文藝だのは………」
 〈《マツグはかう言》⇒*マツグは空き罎の*雨の下に時々に〉*マツグは何か飛んで來る度に*ちよつと
頸を縮め〔ながら〕、不相変靜かに説明しました。
 「元來画だの文藝だのは誰の目にも何を表は
してゐるかは兎に角ちやんとわか〈ります■〉*る筈です*か
ら、この国では决して發賣禁止や展覽禁止には
〈あはせ〉*行はれ*ません。その代りにあるのが演奏禁
止です。〈音樂だけは〉*何しろ音樂*と云ふものだけはどんな
に風俗〔を〕壞亂する〈もの〉*曲*でも、耳のない河童には
わかりませんからね。」
 「しかしあの巡査は〈音樂家〉*耳があ*るのですか?」
 「さあ、それは疑問ですね。多分〈あ〉*今*の旋律を
聞いてゐるうちに細君と一しよに寢てゐる時
の心臟の鼓動でも思ひ出したのでせう。」
 「〈その国〉*そんな*檢閲は亂暴〈すぎますね。」〉*ぢやありま*せんか?」
 「何、どの国の檢閲〈も大抵これと〉*よりも却つて*進歩してゐ
る位ですよ。〈」〉たとへば日本を御覽なさい。現
につひ一月ばかり前にも、………」
 〈マツグはかう言ひかけた途端、〉*丁度かう言ひかけた途端です。マツグは生憎*腦天に空罎が落ちたものですから、〈あつと云つて■〉*quack(これは唯*間
投詞です)と一こゑ叫んだぎり、とうとう気を失
つてしまひました。
[やぶちゃん注:
★以下に、ここに挿入される原稿にない初出及び現行「河童」に現われる段落を岩波旧全集から引用して示す。底本は総ルビであるが五月蠅いので私が振れないと判断する読みは排除してある。「いよいよ」の読みの後半は底本では踊り字「〱」である。

 かう云ふ間にも大騷ぎはいよいよ盛んになるばかりです。クラバツクはピアノに向つたまま、傲然と我々をふり返つてゐました。が、いくら傲然としてゐても、いろいろのものの飛んで來るのはよけないわけきません。從つてつまり二三秒置きに折角の態度も變つた訣です。しかし兎に角大體としては大音樂家の威嚴を保ちながら、細い目をすさまじくかがやかせてゐました。僕は――僕も勿論危險を避ける爲にトツクを小楯こだてにとつてゐたものです。が、やはり好奇心に驅られ、熱心にマツグと話しつづけました。
       〈七〉*八*
 僕は硝子會社の社長のゲエルに〈勿論反感〉*不思議にも好意*を
持つてゐました。ゲエルは資本家中の資本家
です。恐らくはこの国の河童の中でも、ゲエ
ルほど大きい腹をした河童は一匹もゐなかつ
たのに違ひありません。しかし茘枝に似た細
君や胡瓜に似た子供を〈ひきつれ〉*左右にし*ながら、〈にこ
にこ笑つて散歩し〉
*安樂椅子に坐つ*てゐる所は殆ど幸福そのも
のです。僕は時々〈■〉*裁*判官のペツプや〈医者のチヤツクにつれられて〉医者のチヤツクにつれられてゲエル〈の〉の晩餐へ出か
けました。又ゲエルの紹介状を持つてゲエル
やゲエルの友人たちが多少の関係を持つてゐ
るいろいろの工場〈を〉*も*見て歩きました。〈その〉
++++
そのいろいろの工場の中でも殊に僕に面白
かつたのは書籍製造会社の工場です
[やぶちゃん補注:以上の「」記号部分(目立つように便宜上ピンクとした)は行を繫げる「⤴」の校正指示があることを元の空マスの数分で示した私の記号である。]。僕は〈まだ年
の若い〉
*年の若い*河童の技師とこの工場の中へはいり、水力電
気を〈利用した〉*動力にし*た〈無数〉*、大きい*機械を眺めた時、今更
のやうに河童の国の機械工業の進歩に驚嘆し
ました。何でもそこでは一年間に七百萬部の
本を製造するさうです。が、僕を驚かしたの
は本の部数ではありません。それだけの本を
製造するのに少しも手数のかからないことで
す。何しろこの国では本を造るのに唯〈大きな〉
機械の〈中へ〉漏斗形の口へ紙とインクと灰色をした
粉末〔と〕を入れるだけなのですから。〈《機械はそ
れ》⇒無数の機械は〉
*それ等の原料*は機械の中へはいると、〈まだ〉*殆ど*五分とたたな
いうちに菊版、四六版、菊半截版〈等の〉*など*の無数
の本になつて出て來るのです。僕は〈《その無数
の本が》《中に》⇒《瀑の》やうに流れ落ちるの〉
*瀑のやうに流れ落ちるいろいろの本*を眺め〈て〉*な*が
ら、〈《ちよつとした》⇒僕を案内した〉*反り身になつた*河童の技師にその灰色の粉
末は何と云ふものかと尋ねて見ました。する
と技師は黒光りに光つた機械の前に佇んだま
ま、つまらなさうにかう返事をしました。
 「これですか? これは馿馬の腦髓で〔す〕よ。え
え、一度乾燥させてから、ざつと粉末にした
だけのものです。時價は一噸二三戔ですがね。」
 〈《僕は》⇒それはほんの一例です。〉*〈しかし〉**勿論**かう云ふ工業上*の奇蹟は〈製〉書籍製造会
社にばかり起つてゐる訣ではありません。繪
畫製造會社にも、音樂製造會社にも、同じや
うに起つてゐるのです。實際又〈■〉*ゲエルの話*によれば、こ
の国では平均一箇月に七八百種の機械が新案
され、何でもずんずん人手を待たずに大量生
産が行はれるさうです。從つて又職工の〈■〉*解*雇
されるのも四五萬匹を下らないさうです。〈僕〉
の癖まだこの国では〈罷業があつたと云ふこと
を聞きません〉
*毎朝新聞を讀んでゐても、一度も罷*業と云ふ字に出會ひません。僕
はこれを妙に思ひ〈■〉*ま*したから、或時又〈チ〉*ペ*ツプ
やチヤツクとゲエル〔家〕の晩餐に招かれた機会に
このことをなぜかと尋ねて見ました。
 「それはみんな食つてしまふのですよ。」
 〈ゲエルは〉食後の葉卷を啣へたゲエルは如何にも無造
作にかう言ひました。しかし「食つてしまふ」と
云ふのは何のことだかわかりません。すると
〈チヤツクは〉鼻眼鏡をかけたチヤツクは僕の不審を察した
と見え、横あひから説明を加へてくれました。
 「その職工を〈皆〉みんな殺してしまつてね、肉を
食料に〈する〉*使ふ*のです。 〈よ。〉〈今朝けさの〉*ここにある*新聞を御覽なさ
い。今月は〔丁度〕六萬四千七百六十九匹の職工が解
雇されましたから、それだけ肉の價段も下つ
た訣です〈。」〉よ。」〈そら、さつき我々の食べた燒き〉
 「職工は默つて殺されるのですか?」
 「それは騷いでも仕かたはありません。職工
屠殺法があるのですから。」
 これは山桃の鉢植ゑを後ろににがい顏をして
ゐたペツプの言葉です。僕は勿論不快を感じ
ました。しかし主人公のゲエルは勿論、ペツ
プやチヤツクもそんなことは當然と思つてゐ
るらしいのです。現にチヤツクは笑ひなが
ら、嘲るやうに僕に話しかけました。
 「つまり餓死したり自殺したりする手数〈は〉*を*国
家的に省略〈するので〉*してやる*のですね。ちよつと有毒
〈斯〉*斯*を嗅がせるだけですから、大した苦痛
はありませんよ。」
「けれどもその肉を食ふと云ふのは、………」
「常談を言つ〈ちや〉*ては*いけません。あのマツグに
聞かせたら、さぞ大笑ひに笑ふでせう。あな
たの国で㐧四階級の娘たちは賣笑婦になつ
てゐるではありませんか? 職工の肉を食ふ
ことなど〈を〉*に*憤慨〈するのは〉*したりす*るのは感傷主義です
よ。」
 かう云ふ問答を聞いてゐたゲエルは手近い
テエブルの上にあつたサンド・ウィツチの皿を
勸めながら、恬然と僕にかう言ひました。
 「どうです? 一つとりませんか? これも
職工の肉ですがね。」
 僕は勿論辟易しました。いや、そればかり
ではありません。〈ベ〉*ペ*ツプやチヤツクの笑ひ声
を後にゲエル家の客間を飛び出しました。そ
れは丁度家々の空に星明りも見えない荒れ模
樣の夜です。僕はその闇の中を僕の住居へ帰
りながら、〈《■》⇒苦?〉*の*べつ幕なしに嘔吐へどを吐〈き〉*き*まし
た。夜目にも白じらと流れる嘔吐を。








       九
 しかし硝子會社の社長のゲエルは人懷こい
河童だつたのに違ひありません。僕は度たび
ゲエルと一しよにゲエルの属してゐる倶樂部
へ行き、愉快に一ばんを暮らしました。それは
一つにはその倶樂部はトツクの属してゐる超
人倶樂部よりも遙かに居心いごころの善かつた爲〈で〉*で*
す。のみならず又ゲエルの話は哲学者のマツ
グの話のやうに深みを持つてゐなかつたにせ
よ、僕には全然新らしい世界を、―――廣い世
界を覗かせました。ゲエルは、いつもの純金じゆんきんの匙
珈琲カッフエ〈コツプ〉*茶碗*をかきまはしながら、快活に
いろいろの話をしたものです。〈僕は〉
 〈殊に〉*何でも*或霧の深いばん、僕は冬薔薇ふゆばらつたくわ
びんなかにゲエル〈と〉*の*話を聞いてゐました。それ
は確か〈《天井も壁も》⇒室〉*部屋全體は*勿論、椅子やテエブルも白
うへきん*細*い金のふちをとつたセセツシヨン風の
部屋だつたやうに覺えてゐます。ゲエルはふ
だんよりも得意さうに顏中かほじうに微笑を漲らせた
まま、〈《五六年前にこの国》⇒丁度その頃 Quorax 〉*丁度その頃天下を取つてゐた Quorax *黨内閣のことなどを
話しました。クォラツクス〈黨と〉*と云*ふ言葉は唯意味
のない〈奇〉間投詞かんたうしですから、「おや」とでも〈譯〉*譯*す外
はありません。が、兎に角〈自由主義を〉*何よりも先*に「河童
全体の利益」と云ふことを〈振〉標榜へうばうしてゐた政黨だ
つたのです。
 「クオラツクス黨〈か〉*を*支配してゐるものは〈あの〉
名高い〈ロツペ■〉政治家のロツペです。〈《ロツペは》⇒ビスマルクは〉*『正直は*最良の外交である』とはビスマルク〈■〉*の*言つた言〈葉〉*葉*でせ
う。しかしロツペは正直を内治の上にも及ぼし
てゐるのです。………」
 「けれどもロツペの演説は……」
 「まあ、わたしの言ふことをお聞きな〈■〉〔さ〕い。あ
の演説〈の譃〉は勿論悉く譃です。が、譃と云ふこと
〈を〉*は*誰でも知つてゐますから、畢竟正直と〈同?〉*変*ら
ないでせう。それを一概に譃と云ふのはあな
〈方〉*がた*だけの偏見へんけんですよ。我々河童かつぱはあなた
〈《がた》⇒方〉*がた*のやうに、………しかしそれはどうでもよ
ろしい。わたしの話したいのはロツペのこと
です。ロツペはクオラツクス黨を支配してゐ
る、その又ロツペを支配してゐるものは〈フ?■〉
Pou-Fou 新聞の(この『プウ・フウ』と云ふ言葉もやは
り意味のない間投詞です。〈或は〉*若し*強いてやくすとすれば、『ああ』とでも云ふ外はありません。)社長
のクイクイです。が、クイクイも彼自身の主
人と云ふ訣には行きません。クイクイを支配
してゐるものはあなたの前にゐるゲエルです。」
〈 「それは《―――どう失礼》⇒《僕には意外です。失礼      〉
 「けれども―――これは失禮かも知れ〈ま?〉ませ
ん。けれども〈『〉プウ・フウ新聞は勞動者の味かた
をする新聞でせう。その社長のクイクイも
あなたの支配を受けてゐると云ふのは、……」
 「プウ・フウ新聞の記者たちは勿論勞動者の味
かたです。しかし記者たちを支配するものは
クイクイの外はありますまい。しかもクイク
イはこのゲエルの後援を受けずにはゐられ
ないのです。」
 〈僕は〉*ゲエ*ルは〈不相変〉*不相変*微笑しながら、純金の匙を
おもちやにしてゐます。僕はかう云ふゲエル
を見ると、ゲエル自身を憎むよりも、プウフ
ウ新聞の記者たちに〈何か〉同情の起るのを感じまし
た。するとゲエルは僕の無言むごんに忽ちこの同情
を感じたと見え、〈前よりも快活に〉*大きいはらふくらませて*かう言ふの
です。
 「何、プウフウ新聞の記者たちも全部勞動者
の味かたではありませんよ。少くと〈も〉*も*我々河
童と云ふものは誰の味かたをするよりも先に
我々自身の味かたをしますからね。………しか
し更に厄介なことに〈も〉*は*このゲエル自身さへ
やはり他人の支配を受けてゐるのです。あな
たはそれを誰だと思ひますか? それはわた
しの妻ですよ。美しいゲエル夫人ですよ。」
 ゲエルはおほ声に笑ひました。
 「〈さう云ふ〉*それは寧*ろ仕合せで〈すね。」〉*せう。」*
 「〈《仕合》⇒《或は》仕合せかも知れません〉*兎に角わたしは滿足してゐます〈よ〉*。しかしこれも
あなたの前だけに、―――河童でないあなたの
前だけに手放しで吹聽出來るのです。」
 「するとつまりクォラ〈ク〉ツクス内閣はゲエル夫人
が支配〈のもとに〉*してゐる*のですね。」
 「さあ、さうも言はれますかね。………しかし
七年前の戰爭などは確かに或雌の河童の爲に
始まつたものに違ひありません。」
 「戰爭? この国にも戰爭はあつたのです〈か〉
*か*?」
 「ありましたとも。将來もいつあるかわかり
ません。何しろ鄰国のある限りは、………」
 〈《僕は》⇒鄰国と云ふ〉僕は実際この時始めて河童の国〈に〉*も*国家的〈に〉
立してゐないことを知りました。〈■〉ゲエルの説
明するところによれば、河童はいつもかはうそ〈と〉*を*假設
敵にしてゐると云ふことです。しかも獺は河
童に負けない軍備を具へてゐると云ふことで
す。僕はこの獺を相手に河童の戰爭した話に
少からず興味を感じました。(何しろ河童の強
敵にかはうそのゐるなどと云ふことは「〈考〉虎考畧すゐここうりやく」の著
者は勿論、「山島民譚志さんたうみんたんし」の著者柳田国男さんさ
へ知らずにゐたらしい新事実ですから。)
 「あの戰爭の起る前には勿論両国とも油断せ
ずに〈相手〉ぢつと相手を窺つてゐました。と云ふの
はどちらも同じやうに相手を恐怖してゐたか
らです。そこへ〈或雌の河童が一ぴき*この国にゐた獺が*一ぴき、或河
童の夫婦を訪問しました。その又〔雌の〕河童〈の雌〉
云ふのは亭主を殺すつもりでゐたのです。何
しろ亭主は道樂者でしたからね。おまけに生
命保險のついてゐたことも多少の誘惑になつ
たかも知れません。」
 「あなたはその夫婦を御存じですか?」
 「ええ、――いや、〈雄〉*雄*の河童だけは知つてゐ
ます。〈その〉わたしの妻などはこの河童〈を〉*を*惡人のや
うに言つてゐますがね。しかしわたしに言は
せれば、〈寧ろ〉悪人よりも寧ろ雌の河童に摑まるこ
とを恐れてゐる被害妄想の多い狂人です。……
…そこでその〈獺は〉雌の河童は亭主のココアの
茶碗の中へ靑化加里を入れて置いたの〈で〉です。そ
れを又どう間違へたか、客の獺に飮ませてし
まつたのです。獺は勿論死んでしまひま〈■〉
た。それから………」
 「〔それから〕戰爭になつたのですか?」
 「ええ、生憎その獺は勳章を持つてゐたもの
ですからね。」
 「戰爭はどちらの勝になつたのですか?」
 「勿論この国の勝になつたのです。三十六萬
九千五百匹の河童〔たち〕はその爲に健気にも戰死し
ました。しかし敵国に比べれば、その位の損
害は何ともありません。〈獺は〉*この*国にある毛皮〈の〉*と*
云ふ毛皮は大抵獺の毛皮です〈よ。〉。わたしも〈こ〉*あ*
の戰爭の時には硝子を製造する外にも〈《盛に《石》⇒消〉石炭殼
を戰地へ送りました。」
 「石炭殼を何にするのですか?」
 「勿論食糧にするのです。〈我々〉河童は腹さへ減れ
ば、何でも食ふにきまつてゐますからね。」
 「それは―――どうか怒らずに下さい。それ
は戰地にゐる河童〈には〉たちには………〈《第一醜》⇒この国では〉*我々の国*で
醜聞ですがね。」
 「この国でも醜聞には違ひありません。しか
しわたし自身かう言つてゐれば、誰も醜聞に
はしないものです。哲学者のマツグ〈が〉*も*言つて
ゐるでせう。『汝の悪は汝自ら言へ。悪はおの
づから消滅すべし。』………しかもわたしは利益
の外にも愛国心に燃え立つてゐたのですから
ね。」
 丁度そこへはひつて來たのはこの倶樂部の
給仕です。給仕はゲエルにお時宜をした後、
朗読でもするやうにかう言ひました。
 「お宅のお鄰に火事がございます。」
 「火―――火事!」
 〈マツグ〉*ゲエル*は驚いて立ち
上りました。僕も立ち上つたのは勿論です。が、給仕は落ち着き拂
つて次の言葉をつけ加へました。
 「しかしもう消〈え〉し止めました。」
 ゲエルは給仕を見送りながら、泣き笑ひに
近い表情をしました。僕は〈その顏〉*かう云*ふ顏を見る
と、いつかこの硝子會社の社長を憎んでゐた
ことに気づきました。が、〈今は   ゲエル〉*ゲエルはもう今で*
〈もう〉大資本家でも何でもない唯の河童にな
つて立つてゐるのです。僕は花瓶くわびんなかの〔ふゆ薔薇ばら
の花を拔き、ゲエルのへ渡しました。
 「しかし火事は消えたと云つても、奧さんは
さぞお驚きでせう。さあ、これを持つてお帰
りなさい。」
 「難有う。」
 ゲエルは僕の手をにぎりました。それから急〔に〕
にやりと笑ひ、小声こごゑにかう僕に話しかけまし
た。
 「となり〈僕の〉*わたしの*家作かさくですからね。〈保〉火災保險の
金だけはとれるのですよ。」
 〈僕はこの時のゲエルの腹の満月のやうに張〉
 僕は〈未だにこの時〉*この時のゲエル*の〈ゲエルの  〉*微笑を―――*輕蔑する
ことも出來なければ、憎惡〈を?〉*す*ることも出來な
いゲエルの微笑を未だにありありと覚えてゐます。

       十

 「どうしたね? けふは又妙にふさいでゐるぢ
やないか?」
 〈或〉*その*火事のあつた翌日よくじつです。僕は〈僕の家の長椅子に〉*卷煙草を
くはへなが*ら、僕のいへの〉客間きやくま〔の〈長〉椅子〕に〈尻〉こしおろおろした学生
のラツプにかう言ひました。實際又ラツプは
右の脚の上へ左の脚をのせたまま、腐つたくちばし
も見えないほど、〈ぢつと〉*ぼんやり*ゆかの上〈を〉*ばかり*見てゐたの
です。
〈 「どうしたと《云》⇒言ふのに。         〉
 「ラツプ君、どうしたねと言へば。」
 「いや、何、つまらないことな〈《んだよ》⇒のだよ〉*のですよ*。―――」
 ラツプはやつとあたまを擧げ、〈鼻〉かなしい鼻聲はなごゑを出
しました。
 「僕はけふ窓の外を見ながら、『おや虫取り
すみれが咲いた』と〔何気なにげなしに〕呟いたのです。すると僕の妹は
急に顏色かほいろを變へたと思ふと、『どうせわたしは
〈と〉*取*り菫よ』とあたり散らすぢやありま〈せ〉*せ*んか
? 〈《そこへ》⇒そこへ〉*おまけに*又僕のおふくろもだい妹贔屓いもうとびいき
すから、やはり僕に食つてかかるのです。」
 「虫取り菫が咲いたと云ふことはどうして妹
さんには不快なのだね?」
 「さあ、夛分雄の河童を〈追つかけ〉*摑まへ*ると云ふ意味
にでもとつた〈ん〉*の*でせう。そこへお〈く〉*ふ*くろ〈の〉*と*なか
悪い叔母おばも喧嘩の仲間入りをしたの〈で〉*で*すか
ら、愈大騷動になつてしまひました。〈それ〉*しか*も
年中ねんぢう醉つ〔拂つ〕てゐるおやぢはこの喧嘩を聞きつけ
ると、誰彼の差別なしに毆り出したので〈す。〉
*す。*それだけでも〈弱つてゐる〉*始末のつか*ないところへ僕の弟
はそのあひだにおふくろの〈財〉*財*布を盜む〈が〉*が*早い
か、キネマか何かを見に行つてしまひまし〈た。〉
た。僕は………ほんたうに僕はもう、………」
 ラツプは兩手れうてかほうづめ、何も言はずに泣
いてしまひました。僕の同情したのは勿論で
す。〈が、〉同時に又家族〈主義〉*制度*に對する詩人のトツク
の輕蔑〈を思ひ出〉したのも勿論です。僕はラツプの肩を
叩き、一生懸命に慰めました。
「そんなことはどこでもあり勝ちだよ。〈■〉
あ勇気を出し給へ。」
「しかし………しかし嘴でも腐つてゐなけれ
ば、……」
〈そんな〉*それは*あきらめる外はないさ。さあ、トツ
〈君〉の家へでも行かう。」
「トツクさんは僕を軽蔑してゐます。〈」〉僕はト
ツクさんのやうに〈奔放〉*大膽*に家族を捨てることが
出來ませんから。」
「ぢやクラバツク君の家へ行かう。」
 僕はあの音樂會以來、クラバツクとも友だ
ちになつてゐましたから、兎に角この大音樂
〈の〉*の*家へラツプをつれ出すことにしま〔し〕た。ク
ラバツクはトツクに比べ〈ると〉*れば*、〈常人に近い暮らしを〉*遙かに贅澤に暮ら*してゐます。〈僕〉と云ふのは〈《何も会社の》⇒硝子〉*資本家のゲ*エ
ルのやうに暮らしてゐると云ふ意味ではあり
ません。唯いろいろの骨董を、―――タナグラ
の人形やペルシアの陶噐〈や〉*を*部屋一ぱいに並べ
なかにトルコふうの長椅子を据ゑ、クラバツク
自身の肖像畫のしたにいつも子供たちと遊んで
ゐるのです。が、けふはどうしたのか両腕
を胸へ組んだまま、にがい顏をして坐つてゐま
した。のみならずその又足もとには紙屑が一
めんに散〈つて〉*らばつ*てゐました。ラツプ〈はクラバツクとは〉*も詩人のトツク*と一しよに度たびクラバツクには會つて
ゐる筈です。しかしこの容子に恐れた〈と〉*と*見
え、けふは丁寧にお時宜をしたなり、默つて
部屋の隅に腰をおろし〉*おろし*ました。
「どうしたね? クラバツク君。」
 僕は殆ど挨拶の代りにかう大音樂家へ問〈ひ〉
かけました〈。〉
「どうするものか? 批評家の阿呆め! 僕
の抒情詩はトツクの抒情詩と比べものになら
ないと言やがるんだ。」
「しかし君は音樂家だし、………」
「それだけならば我慢も出來る。僕〈のリイド
やシムフォニイは通俗〉
*はロツクに比べれば、〈音〉*音樂家の名に價しないと
言やがるぢやないか?」
 ロツクと云ふのはクラバツクと度たび比べ
られる音樂家です。が、生憎超人倶樂部の会
員に〈は〉なつてゐ〈ませんから〉*ない関係上*、僕〈と〉は一度〔も〕はな
たことはありません。〈も〉尤も〈反〉嘴の反り〈上〉*あが*つ
た、一癖あるらしい顏だけは度たび寫眞でも
見かけてゐました。
「ロツクも天才には違ひない。しかしロツク
の音樂〈は〉*は*君の〔音樂に溢れてゐる〕近代的情熱〈がない。」〉*を持つ*てゐない。」
「君はほんたうにさう思ふか?」
「さう思ふとも。」
 するとクラバツクは立ちあがるが早いか、タ
ナグラ〔の〕人形をひつ摑み、いきなりゆかうへたた
きつけました。ラツプは余程驚いたと見え、
何か声を擧げて〈立ち〉*逃げ*ようとしました。が、ク
ラバツクは〈僕〉ラツプや僕にちよつと「驚くな」と云
ふ手眞似をしたうへ、今度は冷かにかう言ふの
です。
 「それは君も亦俗人のやうに耳を持つてゐな
いからだ。僕はロツクを恐れてゐる。………」
 「君が? 〈それは空〉*謙遜家を*気どるのはやめ給へ。」
 「誰が謙遜家を気どるものか? 㐧一君たち
に気どつて見せ〈ても〉*る位ならば*、〈何の役にも立たないぢ
やないか?〉
*批評家たちのまへに気どつて見せて*ゐる。僕は―――クラバツクは天
才だ。〈ロツク〉その点ではロツク〈恐〉を恐れてゐない。」
 「では何を恐れてゐるのだ?」
 「何か正体の知れないものを、―――言はばロ
ツクを支配してゐるほしを。」
 「どうも僕にはに落ちないがね。」
 「ではかう言へばわかるだらう。ロツクは僕
の影響を受けない。が、僕はいつのにかロ
ツクの影響を受けてしまふのだ。」
 「それは君の感受性の………。」
 「まあ、聞き給へ。感受性などの問題ではな
い。ロツクはいつも安んじて〔あいつだけに出來る仕事をして〕ゐる。しかし僕
〈苛〉*々*々するのだ。それはロツクの目から
見れば、或は一歩の差かも知れない。けれど
も僕には十〈■〉イルも違ふのだ。」
 「〈そんな〉*しかし*先生の英雄曲えいゆうき〔よ〕くは………」
 クラバツクは〔ほそい目を一層細め、忌々しさうに〕ラツプを睨みつけました。
 「默り給へ。君などに何がわかる? 〈ロツク
は僕の〉
*僕はロツクを*知つてゐるのだ。ロツクに平身低頭へいしんていたう
いぬどもよりもロツクを知つてゐるのだ。」
 「まあ少し靜かにし給へ。」
 「若し靜かにしてゐられるならば、………僕は
いつもかう思つてゐる。―――僕等の知らない
何ものかは僕を、――クラバツクを嘲る爲に
ロツクを僕のまへに立たせたのだ。〈《マツグはか
う?》⇒不思議にも〉
*哲学者のマツグは*かう云ふことを何も彼も承知してゐ
る。いつもあの色硝子のランタアンのしたに古
ぼけた本ばかり讀んでゐる癖に。」
 「どうして?」
 「この〈マツグの〉近頃マツグの書いた『阿呆の言葉』と云ふ
本を見給へ。―――」
 クラバツクは僕に一册の本を渡す―――と
云ふよりも投げつけました。それから又腕を
組んだまま、つつけんどんにかう言ひ〔放ち〕ました。
 「ぢやけふは失敬しよう。」
 僕は〈やはり〉悄気返つたラツプと一しよにも
う一度往來へ出ることにしました。〈往來は不〉*人通りの*
夛い往來は不相變毛生欅ぶなの並み木のかげにい
ろいろの店を並べてゐます。僕等は何と云ふ
こともなしに默つて歩いて行きました。する
とそこへ通りかかつたのは髮の長い詩人のト
ツクです。トツクは僕等の顏を見ると、腹の
袋から手巾ハンケチを出し、何度もひたひぬぐひました。
 「やあ、暫〈く〉らく會はなかつたね。僕はけふは
〔久しぶりに〕クラバツクを尋ね〔よ〕うと思ふのだが、………」
 僕はこの藝術家たちを喧嘩させては悪いと
思ひ、クラバツクの如何にも不機嫌だつたこ
とを婉曲えんきよくにトツクに話しました。
 「さうか。ぢややめにしよう。何しろクラバ
ツクは神経衰弱だからね。………僕もこの二三
週間は眠られないのに弱つてゐるのだ。」
 「どうだね、〈僕等〉*僕等*と一しよに散歩をしては?」
 「いや、けふはやめにしよう。おや!」
 トツクはかう叫ぶが早いか、しつかり僕の
腕を〈つか〉*摑み*ました。しかもいつか体中からだぢうや汗
を流してゐるのです。〈僕は〉
 「どうしたのだ?」
 「どうしたのです?」
 「なに、あの毛生欅ぶなえだなかに〉*自動車の窓のなかか*らみどりいろのさる
一匹首を〈見〉*出*したやうに見えたのだよ。」
 僕は夛少心配になり、兎に角あの醫者のチ
ヤツクに〈トツク〉診察して貰ふやうに勸めました。し
かしトツクは何と言つても、承知する気色けしき
へ見せません。のみならず何か疑はしさうに
僕等の顏を見比べながら、こんなことさへ言
ひ出すのです。
 「僕は決して無政府主義者ではないよ。それ
だけは〔きつと〕忘れずにゐてくれ給へ。………ではさや
うなら。〈」〉チヤツクなどは眞平御免まつぴらごめんだ。」
 僕等は〈思はず〉*ぼんやり*佇んだまま、トツクの後ろ姿
を見送つてゐました。僕等は―――いや、「僕
等は」ではありません。学生のラツプはいつの
にか往來のまんなかあしをひろげ、〈股〉しつきり
〈自〉ない自動車や人通りを股目金まためがねに覗いてゐるの
です。僕は〈ラツプ〉*この河童*も發狂したかと思ひ、驚い
てラツプを引き〈立て〉*起し*ました。
 「〈何をしてゐる?〉*常談ぢやない。*何をしてゐる?」
 しかしラツプは〈意外にも〉目をこすりながら、意外いぐわい
も落ち着いて返事をしました。
 「いえ、余り憂欝ですから、〈股〉さかさまに世の中を
眺めて見たのです。〈しかし〉*けれど*もやはり同じこと
ですね。」

    十一
 これは哲学者のマツグの書いた「阿呆の言葉」
の中の〈数節〉*何章なんしやう*かです。――
     ×
 阿呆はいつも彼以外のものを阿呆であると信じてゐる。
     ×
 我々の〈天〉*自*然を愛するのは自然は我々を憎ん
だり嫉妬したりしない爲もないことはない。
     ×
 最も賢い生活は一時代の習慣を軽蔑しなが
ら、しかもその〔又〕習慣を〔少しも〕破らないやうに暮らす
ことである。
     ×
 我々の最も誇りたいものは我々の持つてゐ
ないものだけである。
     ×
 何びとも偶像を破壞することに異存いぞんを持つ
てゐるものはない。同時に又何びとも偶像に
なることに異存を持つてゐるものはない。し
偶像の台座のうへに安んじて〈ゐられ〉*坐つて*ゐられるも
のは最も神々に惠ま〈ま〉れたもの、―――阿呆か、
悪人か、英雄かである。(クラバツクはこの章
の上へつめあとをつけてゐました。)
     ×
 我々の生活に必要な思想は三千年前に盡き
たかも知れない。我々は唯古い〈《思想》⇒薪〉*たきぎ*に新らし
ほのほを加へるだけであ〈る。〉*らう。*
     ×
 我々の特色は我々自身の意識を超越するの
を常としてゐる。
     ×
 幸福は苦痛を伴ひ、平和は倦怠を伴ふとす
れば、―――?
     ×
 自己を弁護することは他人を弁護すること
よりも困難である。疑ふものは弁護士を見よ。
     ×
 矜誇ぎんこ、愛慾、疑惑―――あらゆる罪は三千
年來、この三者から発してゐる。同時に又〔恐らくは〕あ
らゆる德も。
     ×
 〈平和は〉物質的欲望を〈■〉*減*ずることは必しも平
和を齎さない。〔我々は〕平和を得る爲には精神的欲望
も減じなければならぬ。(クラバツクはこの章
の上にも爪の痕を殘してゐました。)
     ×
 我々は人間よりも不幸である。人間は〈我々〉*河童*
ほど進〈歩〉*化*してゐない。(僕はこの〈一〉章を讀んだ
時、〈笑〉*思*はず〈微〉*笑*つてしまひました。)
    ×
 成すことは成し得ることであ〈る。〉*り、*成し得る
ことは成すことである。〔畢竟〕我々の生活はかう云
〈盾〉*循*環論法を脱することは出來ない。―――
即ち不合理に終始してゐる。
     ×
 ボオドレエルは〈彼の人生観を〉*白痴になつた*後、彼の人生
観をたつた一語に、―――女陰の一語に表〈■〉*白*し
た。〈それは〉*しかし*彼自身を語るものは必しもかう言
つたことではない。寧ろ彼の天才に、―――彼
の生活を維〈持〉*持*するに足る詩的天才に信賴した爲
に胃袋の一語を忘れたことである。(この章に
もやはりクラバツクの爪の痕は残つてゐまし
た。)
     ×
 若し理性に終始するとすれば、我々は〔当然〕我々
〔自身〕の存在を否定しなければならぬ。〈ヴォ〉理性を神
にしたヴォルテェエルの幸福に一生を了つたのは
即ち人間の河童よりも進化してゐないことを
示すものである。
       〈《九》⇒十〉*十二*

 或割り合に寒い午後です。僕は〈《あ》⇒余り退屈で〉*「阿呆の言葉」も讀み*
〔飽きま〕したから、哲学者のマツグを尋ねに出かけま
した。すると或〔寂しい〕町の角に〈背〉蚊のやうに瘦せた河
童が一匹、ぼんやり壁によりかかつ〈て〉*て*ゐま
した。しかもそれは紛れもない、いつか僕の
〈銀時計〉*萬年筆*を盜んで行つた河童なのです。僕はし
めたと思ひましたから、〈早速〉*丁度*そこへ通りかか
つた、逞しい巡査を呼びとめました。
 「ちよつとあの河童を取り調べて下さい。あ
の河童は丁度一月ばかり前にわたしの〈銀時計〉*萬年筆*
を盜んだのですから。」
 巡査は右手の棒をあげ、(〈河童〉*この国*の巡査は劍
の代りに水松の棒を持つてゐるのです。)〈「〉*「*お
い、〈こら〉*君*」とその河童へ聲をかけました。〈その〉*僕は*
或はその河童〈が〉*は*逃げ出しはしないかと思つて
ゐました。が、存外落ち着き拂つて巡査の前
へ歩み寄りました。のみならず腕を組んだま
ま、〈《如何にも傲然》⇒巡査の顏や僕の〉*如何にも傲然と僕の顏や巡査の顏*をじろじろ見〈比べ〉てゐるのです。しかし巡査は怒りもせず、〈叮嚀に〉*腹の袋*
から手帳を出して〈叮〉早速尋問にとりかかりまし
た。
 「〈君〉*お前*の名は?」
 「グルツク?」
 「職業は?」
 「つひ二三日前までは郵便配達夫をしてゐま
した。」
 「よろしい。そこで〈■〉*こ*の人の申し立てによれ
ば、君はこの〈時〉*人*の〈銀時計〉*萬年筆*を盜んで行つたと
云ふことだがね。」
 「ええ、一月ばかり前に盜みました。」
 「何の爲に?」
 「子供の玩具にしようと思つたのです。」
 「その子供は?」
 巡査は始めて相手の河童へ鋭い目を注ぎま
した。
 「一週間前に死んでしまひました。」
 「死亡證明書を持つてゐるかね?」
 瘦せた河童は腹の袋から一枚の紙をとり出
しました。巡査はその紙へ目を通すと、急に
にやにや笑ひながら、相手の肩を叩きました。
 「よろしい。どうも御苦勞だつたね。」
 僕は呆気にとられたまま、巡査の顏を〈■〉*眺*め
てゐました。〔しかも〕そのうちに〈もう〉瘦せた河童は何
かぶつぶつ呟きながら、僕等〈を〉*を*後ろに〔して〕行つて
しまふのです。僕はやつと気をとり直し、か
う巡査に尋ねて見ました。
 「どうしてあの河童を摑まへない〈ん〉*の*です?」
 「あの河〈■〉*童*は無罪ですよ。」
 「しかし僕の〈銀時計〉*萬年筆*を盜んだのは………」
 「子供の玩具にする爲だつたのでせう。〔〈しかも〉*けれども*〕その
子供は〈もう〉死んでゐるのです。若し何か御不
審だつたら、刑法千二百八十五條をお調べな
さい。」
 巡査はかう言〈つ〉*ひ*すてたなり、さつさとどこ
かへ行つてしまひました。〈僕は〉*僕は*仕かたがあり
ませんから、「刑法千二百八十五條」を〈繰り返し〉口の中に
繰り返し、マツグの家へ急いできま〔し〕た。哲
学者のマツグは〈不相変古色の色硝子のランタ〉*客好きです。現にけふも薄暗*
い部屋には裁判官のペツプ〈だの〉*や*医者のチヤツク
や硝子会社の社〈会〉長のゲエルなどが集り、〈例
の〉
*七色の*色硝子のランタアンの下に煙草の煙を立
ち昇らせてゐました。〈僕は〉そこに裁判官のペツプ
が來〈た〉てゐたのは何よりも僕には好都合〔で〕す。僕
は椅子にかけるが早いか、〈早速にペツプに〉刑法㐧千二百八十
五條を檢べる代りに早速ペツプへ問ひかけま
した。
 「ペツプ君、甚だ失礼ですが〔ね〕、この国では罪
人を罰しないのですか?」
 ペツプは金口の煙草の煙を〈悠々〉まづ悠々と吹き
〔上〕げ〈た後〉*てから*、〈つ〉如何にもつまらなさうに返事をしま
した。
 「罰しますとも。死刑さへ〈あ〉*行はれ*る位ですからね。」
 「しかし僕は一月ばかり前に、………」
 僕は委細を話した後、〔例の〕刑法千二百八十五條
のことを尋ねて見ました。
 「ふむ、それはかう云ふのです。〈■〉 ―――『如何な
る〔犯〕罪を〈犯し〉*行ひ*たりと雖も、〈その〉*該犯*罪を〈《行せるに至り
し》⇒行ひたるに〉
*行はしめたる*〔相当の〕事情の消失したる後は該犯罪者を〈罰〉*處罰*す
ることを得ず』つまりあなたの場合〈で〉*で*言へ
ば、その河童は嘗〈て〉*て*は親だつたのですが、今
は〔もう〕親ではありませんから、犯罪も自然と消滅
するのです。」
 「それはどうも不合理ですね。」
 「常談を言つてはいけません。〈我々は刻々
変〉
親だつた河童も親である河童も同一に見るのこそ不合理で
す。さうさう、日本の法律では同一に見るこ
とになつてゐるのですね。それはどうも我々
には滑稽です。ふふふふふ〈」〉、ふふふふふ。」
 ペツプは卷煙草を抛り出しながら、気のな
い薄笑ひを洩らしてゐました。そこへ口を出
したのは法律には緣の遠い〈ヤ〉*チ*
ヤツクです。チヤツクはちよつと鼻眼〈鏡〉金を直し、〈「日本に〉*かう僕*に〈尋
ねました〉
*質問しました*。
 「日本にも死刑〔は〕ありますか?」
 「ありますとも。日本では絞罪です。」
 僕は〈如何〉冷然と構えこんだペツプに多少〈の〉反感
〈持つ〉*感じ*てゐましたから、この機會に〈早速〉皮肉を浴
せてやりました。
 「この国の死刑は日本よりも文明的に出來て
ゐるでせうね?」
 「それは勿論文明的です。」
 ペツプはやはり落ち着いてゐました。
 「この国では絞罪などは用ひません。〈大抵〉*稀に*は
電気を用ひ〈《ます》⇒てゐ〉ることもあります。しかし大抵は
電気も用ひません。唯その犯罪の名を言つて
聞かせるだけです。」
 「それ〔だけ〕で河童は死ぬのですか?」
 「死にますとも。我々河童の神經作用はあな
たがたのよりも微妙ですからね。」
 「〈さう〉*それ*は死刑ばかりではありません〈。〉よ。殺人
にもその手を使ふの〈です〉*があります*。―――」
 社長のゲエルは色硝子の光に顏中紫に染ま
りながら、人つこい笑顏ゑがほをして見せました。
 「わ〈し〉たしはこの〈間〉*間*も或社會主義者に『貴樣は
〈泥坊〉*盜人ぬすびと*だ』と言はれた爲に〈もう少しで息が〉*心臟痲痺を起し*かかつ
たものです。」
 「それは案外多いやうですね。わたしの知つ
てゐた或〈《画家》⇒小説家〉*辯護士*などは〈その男〉*やはり*その爲に死んで
しまつたのですからね。」
 僕はかう口を入れた河童、―――哲学者の〈ゲエル〉*マ
ツグ*をふりかへりました。マツグはやはりい
つものやうに皮肉な微笑を浮かべたまま、〈僕〉*誰*
の顏も見ずにしやべつてゐるのです。
 「その〈男は〉*河童は*誰かに蛙だと言はれ、―――勿論
あなたも御承知でせう、この国で蛙〈と〉だと言
〈《る位甚しい侮辱のないこと》⇒るのは人非人の意味と云ふこと〉*れるのは人非人と云ふ意味になること位*は。―――
〈■〉*己*は蛙かな? 蛙ではないかな?と毎日考へ
てゐるうちにとうとう死んでしまつたもので
す。」
 「それはつまり自殺ですね。」
 「〈ええ、つまり自殺〉*尤もその河童を蛙*だと言つたやつは殺すつ
もりで言つたのですがね。〈やはり〉あなたがたの〈国〉*目*か
ら見れば、やはり〈自殺〉それも自殺と云ふ………」
 丁度マツグがかう云つた時です。突然その
部屋の壁の向うに、―――確かに詩人のトツク
の家に鋭いピストルの音が一発、〈何?〉空気〈の〉*を*〈■〉*反*
ね返へすやうに響き渡りました。


     〈《六》⇒《九》⇒《八》⇒九〉*十三*
 僕等は〈ラツプ〉*トツク*の家へ駈〈つ?〉*け*つけました。〈ラツ
プ〉
*トツク*は右の手にピストルを握り、〈血だらけにな〉*頭のさらから血*
を出したまま、〈す?〉*髙*山植物の鉢植ゑの中に仰向
けになつて倒れてゐました。その又側には雌
の河童が一匹、〈ラツプ〉*トツク*の胸に顏を埋め、大声おほこゑ
を擧げて泣いてゐました。僕は雌の河童を抱
き起しながら、(一體僕は〈《皮》⇒河童の皮膚〉*ぬらぬらす*る河童の
皮膚に手を触れること〈は〉*を*余り好んではゐない
のですが。)「どうしたのです?」と尋ね〈ま〉*ま*した。
 「どうしたのだか、わかりません。〈唯〉*唯*何か書
いてゐたと思ふと、いきなりピストルで頭を
打つたのです。ああ、わたしはどうしま〈せ〉*せ*
う? qur-r-r-r-r qur-r-r-r-r」(これは河童の
泣き聲です。)
 「何しろトツク君は〈胃病〉*我儘*だつたからね。」
 〈医者のチヤツクは〉*硝子会社の社長の*ゲエルは〔悲しさうに〕あたまを振〈り〉*り*ながら、〈かう言ひました。〉*裁判官のペツプ*にかう言ひました。〈ペツ
プは〉
*しかしペ*ツプは何も言はずに金口の巻〈草〉煙草に火を
つけてゐました。すると今まで跪いて〈、〉トツ
クの創口などを調べてゐたチヤツクは如何に
も醫者らし〈く〉*い*態度をしたまま、僕等五人に宣
言しました。(實は一人と四匹とです。)
 「もう駄目です。トツク君は元來胃病でした
から、それだけでも憂欝になり易かつたので
す。」
 「何か書いてゐたと云ふことですが。」
 哲学者のマツグは弁解するやうにかう独り
語を洩らしながら、机の上の紙をとり上げま
した。僕等は皆頸をのばし、(尤も僕だけは例
外です。)幅の廣いマツグの肩越しに一枚の紙
を覗きこみました。
 「〈岩〉いざ、立ちて行かん。娑婆界を隔つる谷へ。
  岩むらはこごしく、やま水は淸く、
  やく〈草〉*さう*の花はにほへる谷へ。」
 マツグは僕等をふり返りながら、微苦笑と
一しよにかう言ひました。
 「これはゲエテの『ミニヨンの歌』の剽竊〈を〉です
よ。するとトツク君の自殺したのは詩人とし
ても疲れてゐたのですね。」
 〈そ〉*そ*こへ偶然ぐうぜん自動車を乗りつけたのはあの音
〈の〉家のクラバツクです。クラバツクはかう
云ふ光景くわいけいを見ると、暫く〈茫然と〉*戸口とぐちに*佇ん〈で〉*で*ゐま
した。が、〈マツグの〉*僕まへ*へ歩み寄ると、怒鳴りつ
けるやうにマツグに話しかけました。
 「それはトツク〈〔君〕〉の遺言状ですか?」
 「いや、最後に書いてゐた詩です。」
 「詩?」
 マツグは〔やはり騷がずに〕かみ逆立さかだてた〈マ〉クラバツクに〈一枚〉*トツク*の
〈紙〉*詩稿*を渡しました。クラバツクは〈トツク〉*あたり*には
もやらずに熱心にその詩〔稿〕を読み出し〈ま〉*ま*し〈た〉
*た*。しかもマツグの言葉には殆ど返事さへし
ないのです。
 「あなたはトツク君の死をどう思ひますか?」
 「いざ、立ちて、………僕も亦いつ死ぬかわか
りません。………娑婆界を隔つる谷へ。………」
 「しかしあなたはトツク君とは〈藝術上の〉*やはり*親友
〔の〈お〉一人ひとり〕だつたのでせう?」
 「親友? トツクはいつも〈孤〉*孤*独〔だつたの〕です。………娑
婆界を隔つる谷へ、………〈」〉唯トツクは不幸にも、
………岩むらはこごしく………」
 「不幸にも?」
 「やま水は〈水〉きよく、………あなたがたは幸福です。
………岩むらはこごしく。………」
 僕は未だに泣き声を絶たない雌の河童に同
情しましたから、そつとかたを抱へるやう〈にゆ〉*にし*、
部屋の隅の長椅子へつれて行きました。そこ
には二歳か三歳かの河童が一匹、何も知らず
に笑つてゐるのです。僕は雌の河童のかはりに
子供の河童をあやしてやりました。するとい
つか僕の目にも涙のたまるのを感じ〈まま〉まし
た。僕が河童の国に住んでゐるうちに涙と云
ふものをこぼしたのはまへにもあとにもこの時だ
けです。
 「しかしかう云ふ我侭な河童と一しよになつ
た家族は気の毒ですね。」
 「何しろあとのこと〈を〉*も*考へないのですから。」
 裁判官のペツプは不相変新しい〈葉〉巻〔煙草〕に火を
つけながら、資本家のゲエルに返事を〈《し》⇒しま〉*してゐ
〔ま〕した。すると〈僕〉僕等を驚かせたのは音樂家のク
ラバツクのおほ声です。クラバツクは詩稿を
握つたまま、誰にともなしに呼びかけました。
 「しめた! すばらしい葬送曲そうそうきよくが出來るぞ。」
 クラバツクは細いかが〈や〉やかせたまま、ち
よつとマツグの手を握ると、いきなり戸口へ
飛んで行きました。〈のみならずもう〉*勿論もうこの時*には鄰近
所の河童が大勢、トツクのうちの戸口に集〈ま〉*ま*
り、珍らしさうにうちの中を覗いてゐるの〈で〉*で*
す。しかしクラバツクは〈かう云〉*この河*童たちをしや
〈押〉左右へ押しのけるが早〈か〉いか、ひらりと自
動車へ飛び乗りました。〈と〉同時に又自動車は
爆音ばくおんを立てて忽ちどこかへ行つてしまひまし
た。
 「こら、こら、さう覗いてはいかん。」
 裁判官のペツプは巡査の代りに大勢の河童
を押し出したのち、トツクの家の戸をしめてし
まひました。部屋の中はそのせゐか急にひつ
そりなつたものです。僕〔等〕はかう云ふ靜かさの
なかに〔―――〕高山植物の花のに交つたトツクの
にほひ〈を感じました。が、〉*のなか後始末あとしまつのこ*となどを相談しま〔し〕た。し
かしあの哲学者のマツグだけはトツクの死骸
を眺めたまま、ぼんやり何か考へてゐ〈ま〉ます。僕
はマツグの肩を叩き、「何を考へてゐるのです
?」と尋ねました。
 「河童の生活と云ふものをね。」
 「河童の生活がどうなのです?」
 「我々河童は何と云つても、河童の生活を完
うする爲には、………」
 マツグは多少はづかしさうにかう小声こごゑでつけ加
へました。
 「兎に角我々河童以外の何ものかの力を信ず
ることですね。」








       十四
 僕に宗教と云ふものを思ひ出させたのはか
う云ふマツグの言葉です。僕は勿論物質主義
者ですから、〈宗教《的》⇒《にはさ?》⇒などと云ふこと〉*眞面目に宗教を考へ*たことは一
度もなかつたのに違ひありません。が、この
時はトツクの死に或感動を受けてゐた爲に一
体河童の宗教は何であるかと考へ出したので
す。僕は早速学生のラツプにこの問題を尋ね
て見ました。
 「〈基〉それは基督教、佛教、モハメツト教、拜火
教なども行はれてゐます。まづ一番勢〈■〉力のあ〈る〉*る*
のは何と言つても〈近〉*近*代教でせう。生活教と
も言ひますがね。」(「生活教」と云ふ訳語は当つて
ゐないかも知れません。〔この〕原語は Quemoocha で
す。cha は英吉利語の ism と云ふ意味に〈とれば
よろしい〉
*当るでせう*。quemoo 〈は「生きる」と《訳》⇒訳するもの〉*の原形げんけい quemal は單に「生きる」
と云ふよりも「飯を食つたり〔、〕酒を飮んだり、交合を行つたり」する意味です。)
 「ぢやこの国にも教会だの〈てら〉〔院〕だのは〈ない〉*ある*わけ〈ではない〉*な*のだね?」
 「常談を言つてはいけません。近代教のだい
院などはこの国㐧一の大建築で〈よ〉すよ。どうで
す、ちよつと見物に行つては?」
 或〈妙に〉生温なまあたたか曇天どんてんの午後、ラツプは得々と僕と
一しよにこの大寺院へ出かけました。成程そ
れは〈《その国でも》⇒■■〉*ニコライ堂*の十倍もあるだい〈健〉〔建〕築けんちくです。のみ
ならずあらゆる建築樣式を一つに組み上げた
大建築です。僕はこの大寺院の前に立ち、髙
い塔や円屋根まるやねを眺めた時、何か無気味にさへ
感じました。實際それてんに向つて伸びた
〈にさへ感じました。実際それは天に向つて
伸びた〉
無数むすう觸手しよくしゆのやうに見えたもの〔で〕す。僕
等は玄関の前に佇んだまま、(〈その又僕《は》⇒等〉*その又玄関*に比
べて見ても、どの位僕等は小さかつたでせう
!)暫らくこの〈健〉*建*築よりも寧ろ途方とはう)ない怪
物に近い稀代きだいの大寺院を見上げてゐました。
 大寺院のなか*内部*も亦廣大です。〈《美》⇒コ〉*そのコ*リント風の
円柱ゑんちうの立つたなかに〔は〕參詣人さんけいにんが何人も歩いてゐま
した。しかしそれ等は僕のやうに非常に小
さく見えたものです。〈《僕》⇒ラツプは〉*そのうち*に僕等はくちばしの〉*腰の*
*まが*つた一匹の河童に出合ひました。するとラ
ツプはこの〈前?〉河童にちよつとあたまげたうへ、丁
寧にかう話しかけ〈たのです。〉*ました。*
 「ちやう老、不相変御〈がま〉*達者*な〈い?〉のは何より〈も〉*も*で
す。」
 相手の河童〈は〉*も*お時宜をしたのち、やはり丁寧に
返事をしました。
 「これはラツプさんですか? あなたも不相
変、―――(と言ひかけ〈な〉*な*がら、ちよつと〈狼狽〉言葉を
つがなかつたのはラツプのくちばしの腐つてゐるの
にやつと気がついた爲だつたでせう。)――― 〈兎〉
あ、兎に角御丈夫〈と見〉らしいやうですね。が、け
ふはどうして又………」
 「けふはこのかた〈を案内〉*のお伴を*して來たのです。この
方は多分御承知の通り、――」
 〈ラツプ〉それからラツプは滔々とうとうと僕のことを話しま
した。どうも又それはこの大寺院へラツプが
〈「〉多に來ないこと〈を〉*の*弁解にもなつてゐたら
しいのです。
 「就いてはどうかこのかた〈に〉*の*御案内を願ひたい
〔と思ふ〕のですが。」
 長老は大樣おほやうに微笑しながら、まづ僕に〈挨〉*挨*拶
をし、靜かに〈大寺院の中を見まは〉*正面の祭壇を指さ*ししました。
 「御案内と申しても、何も御役に立つことは
出來ません。〈■■〉*我々*〈の〉信徒の例拝するのは〈■〉正面
の祭壇にある『生命の』です。『生命の樹』には御
覽の通り、きんみどりとのがなつてゐます。あ
きんを『善の』と云ひ、あの綠のを『惡の
果』と云ひます。………」
 僕はかう云ふ説明の〈中に〉*うち*にもう退屈を感じ
出しました。それは折角の長老の言葉も古い
〈喩〉*比喩ひゆ*のやうに聞えたからです。〈《僕はし》⇒しかし〉*僕は*〔勿論〕熱
心に聞いてゐる容子を裝つてゐました。が、
時々〈大〉大寺院だいじいんなか*内部*へそつと目をやるのを忘れ
ずにゐました。〈大寺院の内部は畧図りやくづに《す》*す*ると、大体下だいたいしもに掲げる通りです。―――〉



[やぶちゃん注:ここに以上のような教会内部の簡単な図が描かれている(若しくは描きかけた状態)が、前の抹消と同時に絵全体にも、ぐちゃぐちゃに抹消線が引かれている。無論、初出及び現行にはない(当該画像は底本としている国立図書館蔵の「国立国会図書館デジタル化資料」の自筆原稿より挿絵部分のみをトリミングしたものである。原稿153(154)及び154(155)の全体画像は後注に掲載する。なお、これらの画像転載については国立国会図書館から正式な使用許諾を受けている。転載許可書(PDFファイル)はこちら。]
 コリントふうの柱、ゴシクふう〈フ〉*穹窿きうりう*、〈セセツ
シヨン風の祈〉*アラビアじみた市松いちまつ*模樣のゆか、セセツシヨンまがひの
祈禱机きたうづくゑ、―――かう云ふものの作つてゐる調和
〈何か〉*妙に*野蛮やばんそなへてゐま〈す〉*した*。しかし僕の
目を惹いたのは何よりも両側のがん〈にある〉*の中に*ある
〈十〉大理石の半身像です。〈それ等は何か〉*僕は何かそれ*等の像を
見知つてゐるやうに思ひました。それも亦不
思議〔で〕はありません。あのくちばしの反〉*腰のまが*つた河童は「生
〈命〉せいめいの樹」の説明をおはると、今は僕やラツプ
と一しよに右側のがんの前へ歩み寄り、〈かう云〉そのがん
なかの半身像にかう云ふ説明を加へ出しまし
た。
[やぶちゃん補注:以下に底本としている国立図書館蔵の「国立国会図書館デジタル化資料」の自筆原稿より原稿153(154)及び154(155)の全体画像を掲げる(この画像転載については国立国会図書館から正式な使用許諾を受けている。転載許可書(PDFファイル)はこちら)。これによって、私が記号を附す基準や、私がどれだけ細かに原稿を再現し、注釈を加えているかということなども、国立国会図書館ホームページの底本画像を見ないでも比較出来るので、是非比較してご覧戴きたいと思う



 「これは我々の聖徒せいと一人ひとり、―――〔あらゆるものに反逆はんぎやくした〕聖徒ストリ
ントベリイです。この聖徒はさんざん苦しん
揚句あげく、スウェデンボルグの哲学の爲に〈哲〉救はれ
たやうに言はれてゐます。が、実は救はれな
かつたのです。この聖徒は唯我々のやうに生
〈宗〉*教*を信じてゐました。―――と云ふよりも信
じる外はなかつたので〈す。〉*せう。*〈《勿論たは》⇒かな〉*この聖徒の*我々
に殘した「傳説」と云ふ本を讀んで御覽な〔さ〕い。こ
の聖徒も自殺未遂者じさつみすゐしやだつたことは聖徒自身告
白してゐます。」
 僕はちよつと憂欝になり、次の龕へ目を〈■〉
りました。次のがんにある半身像は口髭のふと
独逸人です。
 「これはツァラトストラ〈を〉の詩人ニイチエです。そ
聖徒せいとは聖徒自身の造つた超人に救ひを求め
ました。が、やはり救はれずに気違ひになつ
てしまつたのです。若し気違ひにならなかつ
たとすれば、或は聖徒の数へはひることも出
來なかつたかも知れません。〈」〉………」
 長老はちよつと默つたのち、第三の龕〈へ移り
ました。〉
*の前へ案内し*ました。
 「三番目〈は〉*に*あるのはトルストイです。この聖
徒はたれよりも苦行をしました。それは元來貴
族だつた爲に〈苦しみを見せ〉*好奇心の多い公衆に苦しみを見
せ*ることを嫌つたからです。この聖徒は事実
上信ぜられない基督を信じようと努力しまし
た。〈が、とうとう最後には如何に〉*いや、信じてゐるやうにさへ*公言こうげんした〈の〉
〔ともあつたの〕です。しかしとうとう晩年には悲壯な譃つき
だつた〈こ?〉*こ*と〈が?〉*に*堪へられないやうになり〈ま?〉*ま*し
た。この聖徒も時々書斎のはりに恐怖を感じた
のは有名です。〈しかし〉*けれども*聖徒の數にははひつて
ゐるくらゐですから、勿論自殺したのではありま
せん。」
 〈僕は㐧四の龕を見ると、〉*第四の龕の中の半身像*は〈意外に《は》⇒も〉*我々日本人*の一人ひとり
です。僕はこの〈■?〉*日*本人の顏を見た時、〈意外の感に堪〉*さすがに懷し*さを感じました。
 「これは国木田独歩です。〈鐡道〉轢死する人足にんそくの心
もちをはつきり知つてゐた詩人です。しかし
〈あなたには〉*それ以上の*説明は〈勿論〉あなたには不必要〈でせ
ね。〉*に違ひあ〈■〉*り*ません。*では〈六番目〉*五番目*のがんの中を御覽下
さい。―――」
 「これはワ〈ア〉グネルではありませんか?」
 「さうです。国王の友だちだつた革命〈家〉*家*で
す。聖徒ワグネルは晩年には食前しよくぜん祈禱きたうさへ
してゐました。しかし勿論基督教〈〔徒〕〉よりも〈我々の
教徒〉
*生活教の信*徒の一人ひとりだつたのです。 〈」〉 〈その聖徒〉*ワグネル*の残
〈僕らはもうその〉*た手紙によれば、〈死は何度なんど*娑婆苦は*何度なんど〈死の〉*この*聖徒を
死のまへ〈へ立たせ〉*に驅りやつ*たかわかりません。」
 僕はもうその時には㐧六の龕の前に立つ
てゐました。
 「これは聖徒ストリントベリイの友だち〔で〕す。子
供の大勢ある細君さいくんかはりに十三四の〈黑人の女〉*タイテイの*
女をめと〈つ〉つた〈株屋〉*商賣人*上りの佛蘭西の画家です。こ
の聖徒は太い血管けつくわんなか水夫すゐふを流してゐ
ました。が、唇を御覽なさい。砒素ヒソか何かの
あとが殘つてゐます。〈」〉第七のがんなかにあるのは
………〈あとは〉もうあなたはお疲れでせう。ではどう
かこちらへおで下さい。」
 僕は實際疲れてゐましたから、〈ラツプと一〉*ラツプ〈の〉**と**一*
しよに長老に從ひ、香のにほひのする廊下傳ひに
或部屋へはひりました。〈それはヴェヌスの像の
前に〉
*その又小さい部屋の隅には*黒いヴェヌスの像の下に山葡萄やまぶだうが一ふさ〈■〉*獻*じてあるので〈す〉*す*。僕は何の裝飾もない僧房
を想像してゐただけにちよつと意外に感じま
した。すると長老は僕の容子にかう云ふ気も
ちを感じたと見え、僕に椅子を薦めるまへ
半ば気の毒さうに説明しました。
 「どうか我々の宗教の生活教であることを忘
〈れずに下さい。我            〉
れずに下さい。我々〈は〉*の*神、―――『生命の樹』の教
へは『旺盛わうせいに生きよ』と云ふのですから。〈」〉………ラ
ツプさん、あなたはこの〈方〉*かた*に我々の聖書をお
覽に入れましたか?」
 「いえ、………実はわたし自身も殆ど讀んだこ
とはないのです。」
 ラツプは〔かしらの〉あたまの〕さらを搔きながら、正直にかう返事
をしました。が、長老は不相変靜かに微笑し
て話しつづけました。
 「〈ではでは〉*それでは*おわかりなりますまい。我々の
神は一にちのうちにこの世界を造りました。(『生
命の樹』は樹と云ふものの、成し能はないこ
とはないのです。)のみならず〈《■》⇒■〉*めす*の河童かつぱを造り
ました。〈《雌の河童》⇒しかし〉*すると雌の*河童は退屈の余り、雄の
河童を求めました。我々の神は〈《雌の》⇒この願ひ〉*この歎き*を憐
み、雌の河童の腦髓を取り、雄の河童を造り
ました。我々〈《の》⇒は皆〉の神はこの二匹の河童に『〈生《■》き〉*へ*
よ、交〈尾〉*合*せよ、旺盛わうせいきよ』と云ふ祝福をあた
へました。…………」
 僕は〈かう云ふ言〉*長老の言葉*のうちに詩人のトツクを思
ひ出しました。詩人のトツクは不幸にも僕の
やうに無神論者です。僕は河童ではありませ
んから、生活教を知らなかつたのも無理はあ
りません。けれども〈トツクは河童でもあり、
生に〉
*河童の國に生まれたト*ツクは勿論「生命の樹」を知つてゐた筈です〈。〉*。*僕は
この教へに從はなかつたトツクの最後を憐み
ましたから、〈手短かにトツクの話をした上、〉*長老の言葉を遮るやうにト*ツ
クのことを話し出しました。
 「ああ、あの気の毒な詩人ですね。」
 長老は〈唯歎息〉僕の話を聞き、深い息を洩らしまし
 「〈《■》⇒トツクさん〉*我々の運命*を〈■〉定めるものは〔〈神意〉信仰と〕境遇と偶然と〈の〉
〈よる〉だけです。(尤もあなたがた*がた*はそのほかに遺傳
をお数へなさるでせう。)トツクさんは不幸に
も信仰をお持ちにならなかつたのです。」
 「トツク〔君〕はあなたを羨ん〈だ〉*でゐた*でせう。いや、僕
〈《も》⇒さへ〉*も*羨んでゐます。〈」〉ラツプ君などは年も若〈い〉*い*
し、………」
 「僕もくちばしさへちやんとしてゐれば或は樂天的
だつたかも知れません。」
 〈「〉長老は僕等にかう言はれると、もう一度深
いきらしました。しかもその目は涙ぐん
だまま、ぢつと〈《壁懸け》⇒燭台〉*黒いヴエヌス*を見〔つめ〕てゐるのです。
 「わたし〈は〉*も*実は、―――これはわたしの秘密で
すから、どうか誰にも仰有らずに下さい。―――
わたしも実は我々の神を信ずる訣に行かな
いのです。しかし〈今度〉*いつ*かわたしの祈禱は、〈――〉*―――
―*」
 丁度長老のかう言つた時です。突然部屋の
戸があいたと思ふと、大きい雌の河童〈か?〉*が*一
匹、いきなり長老へ飛びかかりました。〈《僕や》⇒ラツ
プや僕〉
*僕等*がこの〔雌の〕河童を〈《押》⇒*お*さへや〉*抱きとめよ*うとしたのは勿
論です。が、雌の河童は咄嗟のあひだ〈■〉*ゆか*のうへ
長老を投げ倒しました。
 「この爺め! 〔けふも〕又〈《けふも酒を》⇒わたしを欺して行つ
たな〉
*わたしの財布から一ぱいやるかねを*盜んで行つたな!」
 十分ばかりたつたのち、僕〈は〉*等*は〈殆ど〉*實際*逃げ出さ
ないばかりに〔長老夫婦をあとにのこし、〕大寺院の玄関を〈あと《に》⇒*に*し〉*りて行き*まし
た。
 「あれ〈は〉*で*はあの長老も『生命の樹』を信じない〈で〉*筈*
です〈。」〉ね。」
 暫く默つて歩いたのち、ラツプは僕にかう言
ひました。が、僕は返事をするよりも思はず
大寺院を振り返りました。大寺院はどんより
曇つたそらにやはり髙い塔や円屋根まるやねを無数のしよく
しゆのやうに伸ばしてゐます。〈建〉何か沙漠の空に
見える蜃気楼の無気味さを漂はせたまま。……



      〈九〉*十五*
 それから彼是一週間の後、僕はふと醫者の
チヤツクに珍らしい話を聞きました。と云ふ
のはあのトツクの家に幽靈の出ると云ふ話な
のです。その頃〔に〕はもう雌の河童〈も〉*は*ど〈■〉*こ*かほか
行つてしまひ、〈トツクの家は〉僕等の友だちの詩人の家も〈■〉
〔或〕寫眞〈屋〉*師*のステュディオに變つてゐました。何でも
チヤツクの話によれば、このステュディオでは寫
眞をとると、〈必ず〉トツクの姿もいつの間にか必ず
〔朦〕朧と〈寫?〉*客*の後ろに映つてゐると〔か〕云ふこと〔《〔で〕》⇒〈なの〉で〕です。尤
〈《チヤツク》⇒ゲエル〉*チヤツク*は物質主義者ですから、死後の生命
などを信じて〈は〉*ゐ*ません。現に〈《こ》⇒こ〉*そ*の話をした時
にも〈目にた〉*悪意の*ある微笑を浮べながら、「〈《「幽靈》⇒「靈魂〉やは
り靈魂と云ふものも物質的存在と見えます
ね」などと註釈めいたことをつけ加へてゐまし
た。僕も幽靈を信じないことはチヤツクと余
〈《り》⇒《しかしこの国の心靈学協会は》⇒僕も幽靈を信じないことは〉*り変りません。けれども詩人の*トツクには親しみを感じてゐましたから、早速本屋の店へ
〈か〉*駈*けつけ、〈新聞や雑誌掲げられた■〉*トツクの幽靈に関する記事*やトツ
クの幽靈の〈寫〉*寫*眞の出てゐる新聞や雑誌を買つ
て來ました。成程それ等の〈寫〉*寫*眞を〈見〉*見*ると、ど
こかトツクらしい河童が一匹、老若男女の河
童の後ろにぼんやりと姿を現してゐま〔し〕た。し
かし僕を驚かせたのは〈かう云ふ〉*トツクの*幽靈の寫眞よ
りもトツクの幽靈に關する記事、―――殊にト
ツクの幽靈に關する心靈学協会の報告〔で〕す。僕
は可也逐語的にその報告を訳して置きました
から、に大畧を掲げることにしませう。〈若し
この〉
*但し括弧*の中にあるのは僕自身の加へた註釈な
のです。――

   詩人トツク〔君〕の幽靈に關する報告。(心靈
学協会雑誌第八千二百七十〈五〉*四*号所載)
 わが心靈〈協〉學協会は先般自殺したる詩人トック
君の舊居にして〈《、》⇒■〉現在は××寫眞師のステュディ
オなる□□街第二百五十一号に臨時調査会を
開催せり。列席せる会員は下の如し。(氏名を畧す。)
 〈上記〉*我等*十七名の会員は〔心靈〔学〕協会々長ペツク氏と共に〕九月十七日午〈後十《二》⇒二
時〉
*前十時三十分*、〈同ステュディオに参集せり。〉*我等の最も信賴するメ*ディアム、ホツプ夫人
を同伴し、該ステュディオの一室に參集〔せ〕り。ホ

ツプ夫人は該ステュディオに入るや、既に心靈的
空気を感じ、全身に痙攣を催しつつ、嘔吐す
ること数囘に及べり。夫人の語る所〈に〉*に*よれ
ば、こは詩人トツク君の強烈なる煙草を愛し
たる結果、その心靈的空気も亦ニコティンを含
有する爲なりと云ふ。
 我等会員〈《は》⇒も〉*は*ホツプ夫人と共に圓卓を繞りて
〈《坐せることは定例》⇒言を費するを待たざる可し。〉*默坐したり。*夫人
は三分二十五秒の後、極めて急劇〈に〉*なる*夢遊状態
に陷り、且詩人トツク君の〈靈魂〉*心靈*の憑依する所
となれり。我等会員は年齡順に從ひ、夫人に
憑依せるトツク君の心靈と左の如き問答を開
始したり。
 問 君は何〈を〉故に幽靈に出づるか?
 荅 死後の名声を知らんが爲なり。
 問 〈死後■ 〉君――或は〈君等〉心靈〔諸君〕は死後も尚名声
を欲するや?
 荅 少くとも予は欲せざる能はず。然れど
も予の邂逅したる日本の〈或〉*一*詩人の如きは死後
の名声を輕蔑し居たり。
 問 〈その詩人の名は〉*君はその詩人の姓*名を知れりや?
 荅 〈彼《は》⇒の名は〉*予は不幸*にも忘れたり。唯彼の好んで
作れる十七字詩の一章を記憶〈す〉*す*るのみ。
 問 その詩は如何
 荅 「古池や蛙飛びこむ水の音」
 問 君はその詩を佳作〈とする〉*なりと做す*や?
 荅 〈《必しも悪作ならざるべし。》〉*予は必しも惡作なりと做さず。*唯「蛙」を「河童」
とせん乎、〈一層佳作〉*更に光彩*陸離たるべし。
 問 〈その理由は如何?〉*然らばその理由は*如何?
 荅 我等河童は〈蛙よりも河童〉*如何なる藝術*にも河童を求
むること痛切なればなり。
 〈座〉*會*長ペツク氏はこの〈当〉時に當り、我等十七名
の会員にこは心靈学協会の臨〈■〉*時*調査会にし
て合評会にあらざるを注意したり。
 問 〈《君等心靈》⇒諸君〉*〈唯〉心靈諸君*〈の如何に生活するか?〉*の生活は如何?*
 荅 〈無爲にして消光〉*諸君の生活と異*なること無し。
 〈荅〉*問* 然らば君は君自身の自殺せ〈る〉*し*を後悔す
るや?
 荅 必しも後悔せず。予は心靈的生活に倦
まば、更にピストルを取りて自活ヽヽすべし。
 問 自活ヽヽ〈は〉するは容易〈■〉なりや否や?
 トツク君の心靈はこの問に荅ふるに更に問
を以てしたり。こはトツク君を知れるものに
〈荅〉頗る自然なる應酬なるべし。
 荅 自殺するは容易なりや否や?
 問 〈君等〉*諸君*〈心靈〉の生命は永遠なりや?
 荅 我等〈心靈〉*の生命*に関しては諸説紛々として
〈解〉信ずべからず。幸ひに我等の間にも基督教、
佛教、モハメツド教、拜火教、等〈儒教、〉*の諸*宗あるこ
とを忘るる勿れ。
 問 君自身の信ずる所は如何?
 荅 予は常に懷〈義〉*疑*主義者なり。
 問 然れども君は少くとも心靈の存在を疑
はざるべし?
 荅 〈《諸君の》⇒余は不幸にも諸君の如く〉*諸君の如く確信する能は*ず。
 問 君の交友の多少は如何?
 荅 〔予の交友は〕古今東西に亘り、〈無慮〉三百人を下らざるべ
し。その著名なるものを挙ぐれば、クライス
ト、マインレンデル、ワイニンゲル、………
 〈荅〉*問* 君〈は自殺者〉*の交友は*自殺者のみなりや?
 荅 必しも然りとせず。自殺を弁護せるモ
ンテェ〈■〉*ニ*ユの如きは予が畏友の一人なり。唯予
〈自殺せざり〉*自殺せざり*し厭世主義者、―――シヨオペン
ハウエルの輩とは交際せず。
 問 シヨオペンハウエル〈の〉*は*健在なりや?
 荅 彼は〔目下〕心靈的厭世主義を〈講じ〉*樹立し*、自活ヽヽする
可否を論じつつあり。然れどもコレラも黴菌
病なりしを知り、頗る安堵せるものの如し。
 我等会員は相次いでナポレオン、孔子、ド
ストエフスキイ、ダアウィン、クレオパトラ、
釈迦、〈ダンテ、〉デモステネス、ダンテ、千の
利休等の心靈の消息を質問したり。然れどもト
ツク君は不幸にも詳細に荅ふることを〈做〉*做*さ
ず、反つてトツク君自身に關する種々の〈消〉*ゴシ
ツプ*を質問したり。
 問 予の死後の名声は如何?
 荅 〈群小詩人の一人〉或批評家〈曰?〉は「群小詩人の一人」と言へり。
 問 彼は予が詩集を贈らざりしに怨恨を含
める一人なるべし。予の全集は出版せられしや

 荅 君の全集は出版せられたれども、賣行
甚だ振はざるが如し。
 問 予の全集は三百年の後、―――即ち著作
權の失はれたる後、万人の購ふ所となるべ
し。予の同棲せる〈友〉女友だちは如何?
 荅 彼女は〈《目下弁護士のラツク君》⇒弁護士ラツク君の夫人と〉*書肆ラツク君の夫人と*なれり。
 問 彼女は〔未だ不幸にも〕ラツクの〈眼?〉義眼なるを知らざる
なるべし。予が子は如何?
 荅 國立孤兒院にありと聞けり。
 〈問〉トツク君は暫く沈默せる後、新たに質問を
開始したり。
 問 予が家は如何?
 荅 某寫眞〈《師》⇒家〉*師*のステュデイオとなれり。
 問 予の机は如何になれ〈りや?〉*るか?*
 荅 如何なれるかを知るものなし。
 問 予は予の机の抽斗に予の祕藏せる一束
の手紙を―――然れども〈こは〉*こは*幸ひにも多忙な
る諸君の関する所にあらず。今やわが心靈界
〈の空には万朶の《黒?墨?》雲⇒《黒》⇒の〉*は〈徐〉**おも**ろに薄暮に沈ま*んとす。予は諸君と訣別
すべし。さらば。諸君。さらば。わが善良な
る諸君。
 ホツプ夫人は最後の言葉と共に再び急劇に
覚醒したり。我等十七名の会員はこの問荅の
眞なりしことを上天の神に誓つて保證せんと
す。(尚又我等の〈賴〉信賴するホツプ夫人に對す
る報酬は嘗て夫人が女優たりし時の日当に從
ひて支弁したり。)



     十〈一〉*六*
 僕は〈トツクの自殺し〉*かう云ふ記事を讀ん*だ後、だんだんこの国
にゐることも憂欝になつて來ましたから、ど
うか我々人間の国へ歸ることにしたいと思ひ
ました。しかしいくら探して歩いても、僕の
落ちた穴は見つかりません。そのうちにあの
バツグと云ふ漁師の〈河〉*河*童の話には〔、〕何でもこの
国の街はづれに或年をとつた河童が一匹、本
を讀んだり、笛を吹いたり、〈靜〉*靜*かに暮らし
てゐると云ふことです。僕はこの河童に尋ね
〈童《河》⇒に尋ね〉て見れば、或はこの国を逃げ出す途
もわかりはしないかと思ひましたから、早速
街はづれへ出かけて行きました。しかしそこ
へ行つて見ると、如何にも小さい家の中に〈や〉
をとつた河童どころか、あたまの皿も固ま〈ら〉*ら*な
い、やつと十二三の河童が一匹、悠々と笛を
吹いてゐました。僕は〈最初は間〉*勿論間違*つた家へはひ
つたではないかと思ひました。が、念の爲に
〈前を尋ね〉*をきいて見*ると、やはりバツグの教へ〈れ〉てくれ
た年よりの河童に違ひないのです。
 「しかしあなたは子供のやうですが〈。〉………」
 「〈そ〉お前さんはまだ知らないのかい? わたし
はどう云ふ運命か、母〈親〉*親*の腹を出た時には〈■〉しら
髮頭があたまをしてゐたのだよ。それからだんだん年
が若くなり、〈■〉今ではこんな子供になつたのだ
よ。〈」〉けれども年を勘定すれば、生まれる前を
〈四〉*六*十〈年〉としても、彼是〈百〉*百*十五六にはなるかも
知れない。」
 僕は〈狭い〉部屋の中を見まはしました。そこ
には僕の気のせゐ〈や〉*か*、質素な椅子やテエブル
〈や〉*の*間に何か淸らかな幸福が漂つてゐるやうに
見えるのです。
 「あなたは〈《誰よりもの》⇒どうも外の〉*どうもほか*の河童よりも仕合せに
暮らしてゐるやうですね?」
 「さあ、それはさうかも知れない。わたしは
若い時は年〈と〉*よ*りだつたし、〈年をとつた時は〉*年をとつた時は*若
いものになつてゐる。從つて〈《■》⇒年〉*年*よりのやうに
慾にも渇かず、若いもののやうに色にも〈漁〉*溺*
れない。兎に角わたしの生涯は〔たとひ〕仕合せではな
〈までも、安らかだらう。〉*にもしろ、*安らかだつたのに〔は〕違
〈ないよ。」〉*あるまい。*」
 「成程それでは安らかでせう。」
 「いや、まだそれだけでは〈明〉*安*らか〈では〉*には*ならな
い。わたしは体も丈夫だつたし、一生食ふに
困らぬ位の財産を持つてゐたのだよ。〈」〉しかし
一番仕合せだつたのはやはり生まれて來た時
に年〈と〉*よ*りだつたことだと思つてゐる。」
 僕は暫くこの河童と自殺した〈ラツプ〉*トツク*の話だ
の毎日醫者に見て貰つてゐる〈《タツパ》⇒ドツク〉*ゲエル*の話だの
をしてゐました。が、なぜか年とつた河童は
余り僕の話などに興味のないやうな〈顏〉*顏*をし
てゐました。〈僕は〉
 「ではあなたは〈《ほかの河童》⇒タツ〉*ほかの河童*のやうに格別生き
てゐることに執着を持つてはゐないのですね
?」
 年とつた河童は僕の顏を見ながら、靜かに
かう返事をしました。
 「わたしもほかの河童のやうにこの国へ生ま
れて來るかどうか、一應父親に尋ねられてか
ら母〈親〉*親*の胎内を離れたのだよ。」
 「しかし僕はふとした拍子に、この国へ轉げ落
ちてしまつたのです。どうか僕にこの国から
出てかれる路を教へて下さい。」
 「出て行かれる路は一つしかない。」
 「と云ふのは?」
 「それはお前さんのここへ來た路だ。」
 僕はこの荅を聞いた時になぜか身の毛がよ
だちました。
 「その路が生憎見つからないのです。」
 年をとつた河童は水々しい目にぢつと僕の顏
を見つめました。それからやつと體を起し、
部屋の隅へ歩み寄ると、天井からそこに下
つてゐた一本の綱を引きました。すると今まで
気のつかなかつた天窓てんまどが一つ開きました。そ
の又円い天窓の外には松や檜が枝を張つた向
うに大空おほぞらが靑あをと晴れ渡つてゐます。〈■〉
や、大きいやじりに似た槍ヶ岳の峯も聳えてゐま
す。僕は飛行機を見た子供のやうに実際飛び
上つて㐂びました。
 「さあ、あすこから出て行くが好い。」
 年をとつた河童はかう言ひながら、さつき
の綱を指さしました。今まで僕の綱〈■〉*と*思つてゐ
たのは実は綱梯子に出來てゐたのです。
 「ではあすこから出さして貰ひます。」
 「唯わたしは前以て言ふが〈、〉〔ね〕。〈■〉出て行つて後悔
しないやうに。」
 「大丈夫です。〔僕は〕後悔などはしません。」
 僕はかう返事をするが早いか、もう綱梯子
を攀ぢ登つてゐました。年をとつた河童のあたま
さらを遙か下に眺めながら。

     十七
 僕は河童の国から帰つて來た後、〈《暫くは》⇒いつも〉*暫くは*我
々人間の皮膚の匀に閉口しました。我々人間
に比べれば、河童は実に淸潔なものです。の
みならず我々人間の頭は河童ばかり見てゐた
僕には如何にも気〈■〉*味*の悪いものに見えまし
た。これは或はあなたにはおわかりにならな
いかも知れません。しかし目や口は兎〈も〉*も*角
も、この鼻と云ふものは妙に恐しい気を起さ
せるものです。僕は勿論出來るだけ、誰にも
會はない算段をしました。が、〈いつか我〉*我々人間*にも
いつか次第に慣れ出したと見え、〈一年〉*半年はんとし*ばかり
たつうちにどこへでも出るやうになり〈ま〉*ま*〈し〉*し*
た。唯それでも困つたことは〈何〉*何*か話をしてゐ
るうちにうつかり河童の国の言葉を口に出し
てしまふことです。
 「君はあしたはうちにゐるかね?」
 「Qua」
 「何だつて?」
 「いや、ゐると云ふことだよ。」
 大體かう云ふ調子だつたものです。
 しかし河童の国から帰つて來た後、丁度一
年ほどたつた時、僕は或〈《負債》⇒事■〉*事業*の〔失敗した〕爲に………
(S博士は彼がかう言つた時、「その話はおよ
しなさい」と注意をした。何でもS博士の〈話に〉*話〈に〉*
よれば、彼はこの話をする度に看護人の手に
へない位、亂暴になるとか云ふことであ
る。)
 ではその話はやめませう。しかし或事業の
失敗した〈後〉爲に僕は又河童の国へ〈行き〉*帰り*たいと思ひ出
しました。さうです〈、〉*。*「行きたい」のではありま
せん。「歸りたい」と思ひ出したのです。河童の
国は当時の僕には故郷のやうに感ぜられまし
たから。
 僕はそつとうちを脱け出し、中央線の汽車へ
乘らうとしました。そこを生憎巡査に〈つ〉*つ*か
まり、とうとうこの病院へ入れられた〈の〉*の*で
す。僕はこの病院へはひつた当座も〈マツグやチヤツクのことを考〉*河童の国のことを〈考へ〉*思ひ*つづけました。医者のチヤツクはどうしてゐるでせう〈。〉? 哲学者のマツグ〈は〉*も*
不相変七色の色硝子のランタアンの下に何か
考へてゐるかも知れません。殊に僕の親友だ
つた、嘴の腐つた学生のラツプは、―――或
けふのやうに曇つた午後です。〈僕はこんなこと〉*こんな追憶に耽*
つてゐた僕は思はず声を挙げようとしま〈し〉*し*
た。それはいつのにはひつて來たか、バツ
グと云ふ漁師の河童が一匹、僕の前に佇みな
がら、何度なんどあたまげてゐたからです。僕は
心をとりなほしたのち、―――泣いたか笑つたかも
覚えてゐません。が、兎に角久しぶりに河童
の国の言葉を使ふこと〈を?〉*に*感動してゐたことは
確かです。
 「おい、バツグ、どうして來た?」
 「へい、お見舞ひに上つたのです。何でも御
病気だとか云ふことですから。」
 「どうしてそんなことを知つてゐる?」
 「ラディオのニウス〈を〉*で*知つたのです。」
 バツグは得意さうに笑つてゐ〈ました。〉*るのです。*
 「それにしてもよく來られたね?」
 「何、造作ざうさはありません。〔東京の〕〈河〉*川*や堀割りは河童
には往來も同樣ですから。」
 僕は河童も蛙のやうに水陸兩棲の動物だつ
たことに今更のやうに気がつきました。
 「しかしこのへんには川はないがね。」
 「いえ、こちらへ上つたのは水道の鐵管を拔
けて來たのです。〈」〉それからちよつと消火せん
あけて………」
 「消火栓をあけて?」
 「檀那はお忘れなすつたのですか? 河童〔に〕も
機械のゐると云ふことを。」
 それから僕は二三日毎にいろいろの河童〈か?〉*の*
訪問を受けました。僕のやまひはS博士によれば
早発性痴呆〔症〕と云ふことです。しかしあの医者
のチヤツクは(〈甚だ〉これは甚だあなたにも失礼に当
〈かも知れ〉*のに違ひあり*ません。)僕は早発性痴呆症〔患者〕ではない、
〈あなたがた〉早発性痴呆症患者はS博士を始め、あなたがた
だと言つてゐ〈るのです。〉*ました。*医者の〈ヤ〉チヤツクも來
る位ですから、〈硝子会社〉学生のラツプや哲学者のマツ
グの〈尋ねて〉*見舞ひに*來たことは勿論です。が、あの漁
師のバツグの外に晝間は誰も尋ねて來ませ
ん。〈二三〉殊に二三匹一しよに來るのはよる、―――そ
れも月のあるよるです。僕はゆうべも月明りの
なか〈硝子会社の〉*硝子会社の*社長のゲエルや哲学者のマツ
グと話をしました。のみならず音樂家のクラ
バツク〈《の》⇒は〉*にも*ヴァイオリンを一曲いて貰ひま〈し〉*し*
た。そ〈れは〉ら、向うの机の上に黒百合くろゆり花束はなたば
〈ある〉*のつてゐる*でせう? あれもゆうべクラバ
ツクが土産に持つて來てくれたものです。……

 (僕はうしろを振り返つて見た。が、勿論机の
うへ〈それ〉には花束はなたばも何ものつてゐなかつた。)
 それからこの本も哲学者のマツグがわざわ
ざ持つて來てくれたものです。ちよつと最初
の詩を讀んで〈■〉*御*覽なさい。いや、あなたは河
童の国の言葉を御存知になる筈はあ〈り〉*り*〈ま〉*ま*せ
ん。〈しか?〉*では*代りに讀んで見ませう。これは〈あの
悲しい詩人の〉
*近頃出版になつた*トツクの全集の一册です。―――
 (彼は古い電話帳をひろげ、かう云ふ詩をお
ほ声に読みはじめた。)
――― 〈熱帯〉*椰子*の花や竹の中に
  佛陀はとうに眠つてゐる。

  〈基督も〉路ばたに枯れた無花果と一しよに
  基督ももう死んだらしい。

  しかし我々は〈休〉*休*まなければならぬ、
  たとひ芝居の背景の前にも。

――(その又背景も裏を見れば、継ぎはぎだら
けのカンヴアスばかりだ。!)―――
 〈しかし〉*けれども*僕はこの詩人のやうに厭世的ではあ
りません。河童たち〈は〉*の*時々來てくれる限りは、
―――ああ、このことは忘れてゐました。あ
なたは僕の友だちだつた裁判官のペツプを覚
えてゐるでせう。あの〈■〉河童は職を失つたのち
ほんたうに発狂してしまひました。何でも今
は河童の国の精神病院にゐると云ふこ〈と〉*と*で
す。僕はS博士さへ承知してくれれば、見舞
ひに行つてやりたいのですがね………(昭和二・
二・十一)


芥川龍之介「河童」決定稿原稿(電子化本文版) 藪野直史 完