やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇
鬼火へ
鎌倉攬勝考 敍 凡例 引用書目
[やぶちゃん注:以下は「鎌倉攬勝考」全十一巻本文の全テクスト化終了を受けて、手付かずにしていた同書の敍及び凡例と引用書目一覧をテクスト化、簡単な注釈を施したものである。同書の梗概は「鎌倉攬勝考卷之一」の私の冒頭注を参照されたい。底本は昭和四(一九二九)年雄山閣刊「大日本地誌大系 新編鎌倉志・鎌倉攬勝考」を用いた。【二〇一二年一〇月六日】]
敍
欝※而崔嵬、巍然而壁立、吐納風雲、隔離陰陽、仰叩帝閽、俯指鳥影、拍天而雪嶽崩、映日而金龍躍、孤帆一片、鵬飛千里、此登高凌波之勝槩、而足以暢遐情騁壯懷焉、如夫荒驛鶯啼、飛絮相送、古渡月冷、蘆花滿衣、亦旅程之小風流也、而獨奈通邑大都、閭閻撲地、士女駢闐聯袂成帷者、滄田碧海、物換星移、禾黍離々、而狐兎跳梁矣、於爰平一望凄然、昔日悦目賞心考者、感今憶古、俯仰之間、感慨係焉、蓋相之鎌倉、雖地必不廣廓、其山秀而其水淸、天造形勢、龍蟠虎踞、源將軍創霸業開幕府也、因地利控八州、執長策馭宇内、鎌倉繁榮、舊記可徴。亦一時盛運也、而至北條氏執國命、終招天誅、山内龜谷自相屠剪、時王網漸解紐、覇主遂失鹿、海内鼎沸糜爛、鎌倉亦爲戰爭之區矣、
東照宮睿文神武、振列世之餘烈、蕩平海内、拯民塗炭、爾來至今二百有餘歳、黎庶富厚、高枕有餘、而鎌倉距東都纔二日程而近矣、且其地名區勝景、靈場寄迹、可以賞心而悦目者、不可勝數、故墨客騷人、異緇素羽流來徃賞遊、四時不絶、彼憑欄而凝目、覔句而深思者、古之運籌帷幄、决勝千里也、管絃競起、淸音悦耳者、古之發號傳令、砲聲震山嶽也、都人士女、靚粧炫服、照曜人目者、古之赤羽如日、白羽如月、金碧其鞍、朱紫其甲也、陳盤貪芳鮮、飛觴爭手令者、古之搴旗斬將、視死如歸者也、古如彼而今如此者、是非太平餘澤乎、况鎌倉租宗發跡之地、園陵儼然、香花不絶、比之周家之於岐山、趙宋之於應天、豈金陵花鳥、六朝如夢、秦淮風月、徃事傷心之比乎哉、故遊歷者有賞心悦目之樂、而無復俯仰感慨之嘆矣、頃植君孟縉、介原君杏所、見示其著述鎌倉攬勝記、而需之序、予閲其書、一山一水、必究其源奧、古祠舊寺必探其祕藏、事實引據、鑿々有證、畫圖分明、細部毫毛、前之所謂山秀水淸、悦目賞心者、悉在一覽之中、可不偉哉、憶
先君義公、嘗遣使四方購天下奇書、且識其所經山川險易、道路阨塞、以供史筆採擇、鎌倉之有志、特其緒餘耳、故所記止擧大綱、今也孟縉之書、精細微密、無所遺漏。蓋足補其目焉、雖國字記之、體雜雅俗、事歸確實、爲非必俗間名所圖繪、瑣話浮談、以供兒女子玩而己之比矣、予又聞之杏所言曰、孟縉君八王子戊兵校長也、然則職在武事、而翺翔文苑、把弄弱翰、亦昇平之餘澤也、予之猶壯也、將攀名山跋大澤、以暢遐情、以騁壯懷、嗚呼今老矣、
無能爲、史務之暇、但戸著書、足不履闤闐者數年、何况山水乎、今因此書、不圖而得臥遊、稍償生平宿志、此亦昇平之樂事、而孟縉氏之賜、亦不爲不多、所以悦而序焉、
文政十二己丑秌八月 彰考館總裁川口長孺撰
[やぶちゃん注:「※」=「山」+「聿」。字義不詳。
筆者川口
さて、この漢文の訓読、私の独力ではとても無理なので、後日、原本を見る機会(そこに訓点があることを期待してのことであるが)に期したいと思う。ただ、安藤勇氏のHP中の植田孟縉著の「武蔵名勝図会」紹介ページ中に、本敍についての言及があり、そこ(「注2」の中)で安藤氏はこの「鎌倉攬勝考」の「敍」(底本は私と同じもの)を漢文に詳しい二名の方に解読を依頼されたものの、解読不能という返事であった、と書かれてあり、これは如何にも前途多難という気がしている。安藤氏は更に、この「敍」について『写し取る段階か、または活字化の段階で原文とは違った物になってしまっている可能性があるように思え』るとも記されており、更に続く「補足1」では、本文の、
「頃植君孟縉、介原君杏所、見示其著述鎌倉攬勝記、而需之序、予閲其書」
の箇所を引用され、この「頃」の字は「頂」の誤植ではないかという推論を示され、『この「頂」という文字には「うけつぐ、引きつぐ、(不法に)かわりおする、代用する、代替する」など、「代」や「替」と同じ意味があ』り、『「植君孟縉」、「原君杏所」が現代流に言うなら「植田孟縉君」、「立原杏所君」のことだと仮定』すれば、ここは、
『植田孟縉君に代わり、立原杏所君が仲に入って、(植田孟縉が)著した鎌倉攬勝記を見せ示しそして、これの序文を書いてくれるよう求めた。私が、其の書物を見てみると』
と訳せるように思う、ともある(因みに安藤氏は『「植君孟縉」、「原君杏所」が「植田孟縉」、「立原杏所」のことだとすると、苗字部分が一字づつ足りないことになりますが、「植田」「立原」ような二文字の苗字を一文字にして表すことが江戸時代行われていたようです。このような書き方をすることが、江戸時代の本に書いてあります。この書き方は、自分の姓名および人の姓名両方に使われること、姓名だけでなく字にも使われることも書かれています。』と痒いところに手が届くような「補注3」まで用意されておられ、誠に頭の下がる思いである)。これらを突破口に何時の日か、読解不能を力技で読破してみたいという野心も湧いてくるではないか。
……という訳で、細かな語注を施しているととても先に進めないことが分かったので、以下、私が注可能な目ぼしいところだけに限って、語注を附す。悪しからず。
「原君杏所」
「義公」徳川光圀の諡号。
「八王子戊兵校」この兵学校、幾ら調べても、正式な名が分からぬ。あたかも幕府による国営兵学校のように見えるが、どうもそうではないようだ。場所からすると、これは所謂、八王子千人同心(江戸幕府の職制の一つで甲州口の警備と治安を目的として、家康入府の慶長五(一六〇〇)年に武蔵国多摩郡八王子に配置された郷士身分の幕臣集団)が幕末期に洋式化されて、かく呼ばれたものか? 識者の御教授を乞うものである。
「文政十二己丑」西暦一八二九年。例によって底本は「巳丑」となっているが訂した。
「秌」秋。]
鎌倉攬勝考凡例
[やぶちゃん注:底本では各項「一」の次の二行目以降は一字下げである。]
一 神社寺院の來由は、大槩【鎌倉志】の搜索精しければ、其作例に傚ふ。されど志もまた他の遺漏なきにしもあらねば、其餘悉く據を繹得てこれを編せり。
[やぶちゃん注:「大槩」は「大概」(おおむね)。「繹」は「たづね(たずね)」と訓じているものと思われる。]
一 村里・山川・地名・物産等を初に出すことは、その地理を擇て神社・佛寺を剏建するものゆへ、仍て地理をもて先とせしなり。
[やぶちゃん注:「擇て」は「えらびて」。「剏建」は「さうけん(そうけん)」で「創建」に同じ。]
一 【東鑑】等の古書は載るところの文章、悉く原文に從ひ、其文中に國字を雜へ、反覆轉倒なく、童蒙にも是を讀やすからしめんが爲なり。
一 古への四境は【東鑑】に粗見え、總説にも辯ぜり。南・東・西・乃經界は今猶をなし。北は山の内とあつて、往古は吉田・本郷邊迄山の内にて、今も山の内の莊と號す。中古以來巨福呂谷村を境とすれど、古名山の内にて、粟船・今泉等は鎌倉の事跡あれば、其邊までを出す。今土人の語るに鎌倉といふ地は、所々切通のうちをさして鎌倉の其の地と呼けりといふ。
[やぶちゃん注:植田が四界を特に問題にするのは、記載範囲の限定や拡充以外にも、彼が戍兵学校校長であったことにも拠ろう。軍政地理学上、四界の初期設定は必須であるからである。]
一 山川・邑里・地名・古蹟・物産等の名は土人用ひ來れる字をもちひ、里老相呼て文字なきものは、作るべき字あれば漢字をもて是に塡め、傍に伊呂波字を註し、又文字考ざるものは伊呂波字をもて書せり。
一 道路の遠近をしるすは、坂東路六町を一里とする故、七里ケ濱と唱ふ例あれど、是に傚ず、普く通用の三十六町を一里としるし、六十間を一丁とし、又六尺を一歩と記せり。
[やぶちゃん注:「坂東路六町一里」は「坂東道」「田舎道」の里程で、奈良時代に中国から伝来した唐尺に基づく坂東限定の特殊な路程単位。安土桃山時代の太閤検地から現在まで、通常の一里は知られるように三・九二七キロメートルであるが、坂東里では、一里が六町、六五四メートルでしかなかった。]
一 神社佛寺は安ずる肖像・木佛・什物等、其神司又は主僧の傳への儘をしるす。器物等の銘或は鐘銘も寛永以來の新製は銘文をあげず。
一 治承以來諸家鎌倉に第をかまへ、營中祗候せしこと【東鑑】に見えねれども、其居亭いづかたとも知がたきもの多し。たまたま盛長・泰村或は佐竹屋敷等、又土佐房・文覺が屋鋪などいふも、土人口碑に唱ふ。されど大家の第跡さへ知ざれば、文覺・土佐房が第跡の知たるも訝しけれ。玆に數十家の第跡を標出せしは、【東鑑】を初め其餘の古書を熟覽し、軍事の門出或は燒亡の條又は將軍家遊宴の御出御、方違等の渡御など探り求て、據あるを拾ひけれど、燒亡の條等も地名方位の洩れるもあり、加藤次景廉の車大路の宅とあれど、其地名今いづちなるや、是等の類を洩せるものあり。
[やぶちゃん注:「祗候」「しこう」で「伺候」に同じ。]
一 足利家の世となりし事跡【鎌倉志】に載ること至て疎なり。此編には、基氏朝臣關東の主に定り給ふよりの大概を摘み、成氏朝臣古河へ遁れ給ひ、夫より晴氏・義氏朝臣までの凡をしるし、是に附するに、執事管領上杉憲藤より憲政に至るまでの大略を顯す。
一 稻村より江島に至るまでは、鎌倉の場外なれど、腰越・固瀨邊に鎌倉の事に係る所多ければ、稻村よりを別卷に附録し、是に江島を加へ、其條の首に總説を附せり。
一 六浦莊金澤は武藏國久良岐郡なれど、佳景の勝地にて西湖の八景を摸し、昔は金澤實時・顯時・貞顯にいたるまでの舊跡もあれば、遊覽するもの必ず鎌倉より其地を逕れるゆゑ、卷末に附録し、是も其卷首に總説をしるせり。
[やぶちゃん注:「逕れる」の「逕」は元来、「いたる」(至る)「すぎる」(過ぎる)と訓ずるが、どうも読みとしてしっくりこない。「めぐれる」と当て読みしているように私には思われる。]
鎌倉攬勝考凡例終
鎌倉攬勝考引用書目
[やぶちゃん注:底本は上下に別れ、それぞれが二段組の計四段表示であるが、一段表記とし、均等割付も無視した。注は私の(あくまで私にとって、である)聴き慣れない書名や他書と紛らわしいもののみ限定した。]
續日本紀
日本月令
豐蘆原卜定記
[やぶちゃん注:不詳。南北朝に天台僧慈遍の書いた「豊葦原神風和記」のことか。]
神明鏡
神社考
帝王編年記
東鑑
神皇正統記
鎌倉九代記
將軍執權次第
北條九代記
鎌倉大草紙
關東治亂記
[やぶちゃん注:不詳。配された位置からすると「平家物語」の異本「源平闘諍録」か?]
源平盛衰記
保元平治物語
奥羽軍記
平家物語
元亨釋書
曾我物語
法然上人行狀傳
高僧傳
鶴岡學頭次第
[やぶちゃん注:「學頭」は一宗の学問の統轄者を言う。]
鶴岡社務職次第
同執殿司職次第
[やぶちゃん注:「殿司」
大平記
鎌倉大日記
異本太平記
問注所家譜
[やぶちゃん注:これは職名の「問注所」ではなく、氏姓の「
評定出坐次第
[やぶちゃん注:室町幕府の公記録「御評定定着座次第」。]
夫木集
萬葉集
新拾遺和歌集
續古今和歌集
新御撰和歌集
懷中鈔
[やぶちゃん注:配された位置から見ると、文永年間(一二六四~一二七五)に成立したと推定される古今和歌集の注釈書「古今集素伝懐中抄」か。]
歌枕名寄
[やぶちゃん注:
順德院御集
堀川百首
後堀川百首
人丸歌集
山家集
藤原公任家集
藤原定家卿家集
金玉和歌集
瓊玉和歌集
[やぶちゃん注:鎌倉幕府第六代将軍宗尊親王の歌集。]
藤原實方歌集
藤原爲相卿家集
慈鎭和尚歌集
[やぶちゃん注:「愚管抄」の作者慈円の私家集。]
鴨長明家集
夢窓國師集
兼好家集
更級日記
十六夜日記
海道記
東關紀行
東國紀行
北國紀行
廻國雜記
都のつと
東路のつと
東國陣道記
[やぶちゃん注:細川幽斎の紀行文。]
北条氏康武野紀行
藤原系圖
足利系圖
上杉系圖
北條系圖
長尾系圖
常樂系圖
本草綱目
梅花無盡藏
和爾雅
[やぶちゃん注:貝原好古の手になる元禄七(一六九四)年刊辞書。中国の「爾雅」に倣って日本で用いられる漢語を意義によって二十四門に分類、音訓を示して漢文で注解を施したもの。]
和名類聚鈔
徒然草
發心集
沙石集
鎌倉物語
[やぶちゃん注:医師で貞門の俳諧師にして仮名草子作家であった中河喜雲(寛永十三(一六三六)年?~宝永二(一七〇五)年?)が万治二(一六五九)年に菱川師宣画で出した仮名草子。通俗鎌倉名所記。]
西行物語
詞林采葉抄
夢窓國師語錄
保暦間記
梅松論
增鏡
本國寺文書
[やぶちゃん注:正式な寺名は本圀寺。現在の京都府京都市山科区にある日蓮宗大本山、六条門流祖山。この寺は寺伝によれば建長五(一二五三)年に日蓮が鎌倉松葉ヶ谷に建立した法華堂を起源とし、日蓮が伊豆配流から戻った後の弘長三(一二六三)年に法華堂が再興、その際、本国土妙寺と改称された。貞和元(一三四五)年に第四世日静が光明天皇より寺地を賜って京都六条堀川に移転した(ウィキの「本圀寺」に拠る)。]
小田原軍記
小田原北條分限帳
鎌倉志〔鎌倉志餘考〕
編年集成
[やぶちゃん注:木村高敦「武徳編年集成」のことであろう。徳川家康一代の伝記を編年体で記した歴史書。将軍吉宗の命により献じられた寛保元(一七四一)年に近い年に完成されたと考えられている。天文一一(一五四二)年から元和二(一六一六)年まで家康の生誕から没年に至る事蹟の他、最終巻九十三には家康死後の慶安三(一六五〇)年までの記事を載せる。古文書も多く収載され、広く史料に当たっている点で家康研究の先駆的史書として評価される(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。]
相模國村高村名寄帳
[やぶちゃん注:これは一見、相模国の「村高村」という固有名詞のように見えるが、恐らくは『相模国の村高を記した各村の名寄帳(なよせちょう)』の意である。「村高」は検地によって定められた一村の総石高を言い、名寄帳は村の個々人ごとに所持地を一括して記した、個々の村内で年貢の割り当てなどの事務上の必要から村役人が独自に作成した不動産一覧表を言う。一筆一棟ごとの「固定資産課税台帳」を所有者ごとに纏めたもので、現在もこう呼称する(「名寄帳」の部分はウィキの「名寄帳」に拠る)。]
連歌大發句帳
[やぶちゃん注:恐らく、国際日本文化研究センターの「連歌データベース」に「大発句帳/陽明文庫本」(成立年代不詳)とあるものであろう。]
鎌倉攬勝考引用書目終