やぶちゃん版村山槐多散文詩集
[やぶちゃん注:底本は平成五(1993)年彌生書房刊の山本太郎編「村山槐多全集 増補版」を用いたが、本来の原文に近いものは正字体であるとの私のポリシーに基づき、多くの漢字を恣意的に正字に直した(なお、この全集は凡例が杜撰で、新字体表記とした旨の記載がない)。この全集には各作品の詳細な解題がない。この「散文詩」についても、編集後記で『一、「詩、散文詩、短歌、小説、戯曲、童話、感想、日記、書簡」という配列は編者の意図によるものである。ことに旧版『槐多の歌へる』において、「日記、感想」と混在していた作品の一部を、その内容により「散文詩」の項に組入れた。』とあるのみである。私は、ここで、これらの諸作を「散文詩」として一つにくくる在り方については、若干の疑問を持たないわけではない(『五つの夢』に「童話」と冠しているのに、何故、童話や小説に分類しないのかという素朴な疑問や、実際に複数の研究者が、この『五つの夢』や「金色と紫色との循環せる眼」「電氣燈の感覺」等を小説として評している点において、私だけの違和感ではあるまいと思う)。しかし、ここでは私の電子テクスト「心朽窩」の分類上、『詩と判断される纏まったもの』として、全集編者の意図を無批判に受け入れることとした。
各詩の間に「*」を挿入し、濁点の踊り字「/\」は正字に、傍点「丶」は下線に、傍点「○」は下線斜体に代えた。なお、冒頭の「吾詩篇」については、数字を打った節に分かれているが、底本では作品名と詩篇の引用部、各章題以外、完全にベタで連続している。大変読みにくいので、恣意的に全節を改行し、さらに「第一」から「第四」までの各章の章題の前後に空行を入れた。底本の雰囲気に戻したい場合は、以下の逆の作業を行って頂きたい。]
吾 詩 篇
フライムの子らは武具ととのへ弓をたづさへしに戰の日にうしろをそむけたり (詩篇第七十八第九)
第一、喇叭にあはせてうたひたる村山槐多の歌
一、もろもろの民は愚なるかな。彼等は豚と童子との雜種兒なり、
二、彼等はその心のうちに『人間』を幽閉す。彼等は『人間』のバスチエーユを負ふ。その牢獄を破れよ。
三、汝は汝の神なり。汝よ。汝その牢獄を破り『人間』をして豚と童子とに代らしめよ、
四、すべての民を赤裸にせよ。彼等の皮膚を青蛙にするが如くむきすてよ。
五、汝はトルコの女子に贊美せられんよりむしろ亞弗利加の黒奴に卑しめられん事を希ふ。
六、裸形こそは『人間』。神の友。汝の戀人なれ。
七、裸形の民を生命の奔流に躍らしめよ。
八、汝彼等をひきゐて地球の如く大なる眼のまたたきの刹那刹那に生きよ。
九、汝は眞に賞むべきかな。ソロモンの富も汝の微塵なり。
十、汝は富む。汝は太陽をも領す。汝は萬物萬事の主なり。
十一、汝生きよ。人間の上に生きよ。裸形の上に生きよ。
十二、もろもろの民は愚なれば彼等は自らの腦髓を、肝臟を、胃を、一たびも見る事なくして生を通過す。
十三、彼等は哀れむべきかな。彼等は知らざる者の恩惠を受くるなり。偶然の善き玩具なり。
十四、されど萬軍の主たる汝よ。吾よ。希はくは吾をして吾腦髓を、生きたる大腦を見さしめよ。
十五、吾は萬軍の主なり。汝をそむく者も嘲ける者も怒る者も赦する者も悦ぶ者もすべて汝の臣下汝の所領なり。
十六、汝よ『人間』を牢獄より出さしのよ。豚と童子とを殺戮せよ。
十七、もろもろの民のもろもろの生きたる大腦を抉りて彼等の眼にねぢ込めよ。
十八、われ切に汝に希ふ。ああ汝よ。美しく豐麗なる汝よ。
第二、紫野にありし時村山槐多の歌
一、わが靈は汝の今日の美しさに消え入るばかりに恍惚たり。汝は美しきかな。
二、汝は今日半徑の相等しき球體の如し。
三、汝の球體は發育す。球より球へ發育す。
四、汝は圓滿なり天地の如し。
五、汝はいかに美しきかな。汝はいささかの缺所なし。宇宙の如く時の如し。
六、火よ。山よ。星よ。地よ。もろもろの動物よ。人間よ植物よ。吾をほめたたへよ。
七、汝等がかく現存するは吾の賜物なり。
八、汝等がかくも美しく強く豐なるは萬物の主たる吾健康の圓きが故なり。
九、汝等われを讚へよ。あらん限りの聲を上げてわれを讚へよ。
十、吾は是一人の客。天地は是俳優なり。演舞者なり。
第三、村山槐多嘗ておのが首を刎ねんとしてうたへる歌
一、ああ天地よ。汝等の號泣の聲はわが心を微笑せしむ。何故に汝等はかく悲しむや。
二、汝等は哀れむべきかな。汝等は末期にせまれり。
三、汝等は今血を被らんとす。
四、ああ汝等の哀泣の可笑しきかな。汝等泣くを止めよ。涙は不吉ならずや。
五、われ汝等のうちにわれを憎む者嘲ける者その他一切を棲息せしめたり。これわが愚なる汝等に對する悦びなりき。
六、ああされど今汝等泣くは何故ぞ。汝等は泣く。われはされどこの不吉の世界を微笑す。
七、ああわれ汝等の涙を大なる雲の如き海綿をもて拭きとらん。われは餘りに大なり。汝等は遂にわれを裏ぎらず。
八、われもまた微笑して汝等に主たらん。われいまだ汝等を去るを止めん。
第四、太鼓にあはせてうたへる村山槐多の歌
一、切にわが希ふは血。かの赤きいのちの液體。血をこそ滿たせ萬民を汝が生命の器に。
二、血の他に幸なし。血の他に美なし。
三、人よ血に富め汝が肉を血の洪水に投げ入れよ。大和の強く美しき民族よ。汝等血をこそ求め。
四、天平のわれらは嘗て亞米利加印度人の如く赤色なりき。しかもいま痛ましくもわれら頽廢したるかな。
五、われら健康の藝術を切に欲す。
六、われらが歌に血を注そぎたくましき肉を具へよ。
七、われらが歌を太陽の如く天空に投げんかな。
八、われらが歌に獅子の如く虎の如かれ。
九、われらかの歌磨の女子を炎天にさらし猿の血をその面に注射せん。
十、われら寫樂の惡しき眼に輝やきを入る。
十一、われら運動と共に筋肉と共に藝術を立つ。
十二、これわれらが祖先のとりし道。
十三、健康の藝術をもて大和を飾れ。強健なる大和を立てよ。
十四、汝等の祖先は血に溢れよく走りよく歌ひたり。
十五、天平以後の病める世紀を平安朝を江戸を驅遂せよ。
十六、切にわが希ふは健康の藝術。血液の大海より騰上する喜怒哀樂。
十七、血の他に幸なし血の他に美なし。
十八、野に出でよ炎天に出でよ人月。汝等の記號は日輪ならずや。
十九、勇ましく雄々しき大和民族。汝等の眞にかへれ。日輪の眞紅にかへれ。
二十、野獸の如く汝が戀人を遂へ。哀れむべき病的世紀の戀愛を破れ。
二十一、白き女を殺戮せよ血のただ中に。肉を食へ血を滿たせ大和の人々。
〔大正三年作〕
*
ある美少年に贈る書
君よかくの如く
また君に書を贈る者を君はよく知つて居るだらう
彼は惡鬼だ。無力を裝ふに豪惡のマスクを以てし肉を裝ふに靈を以てし絶えず劣惡な繪畫を描いて居る怪物だ。彼がもう二三年來君をつけ覗つて居ることは君がよく承認する處だらうと思ふ
君はそれに對して如何なる感じを持つて居るか恐らく君の心には或る一種不可思議なる恐喝を感じて居るに相違ない。事實恐喝が續いた
西の都にありし日の事の囘想がこの怪物をして醜惡なる微笑に耽らせるに足る
中學校の教室から君に手渡されたラブレター
あの時君は恐ろしく赤くなつた君の昂奮が「恐れ」に關連して居た事を察するに難くない。それから夜毎に乞食の樣ななりをした(いつでもさうだ)かの怪物が君の家のまはりをうろつき始めた彼は近衞坂と呼ぶ君の家の横の坂を上つたり下つたりした
君は確かにその姿を二三度見つけたに相違ない
それから二三度續いたラブレター、怪物が京都を去つて災害が漸やく去つたと思ふと再びラブレターの連續
遂に君は返事を書いたね
怪物が泣いて嬉しがつたのを知つて居るか
ああ其後一年は過ぎた。無難にそして君は東京へやつて來た五月の或る美しい夜君は再び怪物の襲來を受けた始めて二人が打解けて話をしたのだ
君はこの怪物が柄になく美しいナイーブな思を有つて居ることを發見した事と思ふすくなくとも或安堵を得たことと思ふさうありたいと怪物は村山槐多は願つて居るのだ、彼の戀は未だ連續して居るから。彼は君の實に死ぬまで執着してゐる
彼はすつぽんだブルドツグだ君から彼を離すには君は彼に君の「美」を與へるの他はない
君はこの怪物に君を飽きるまで眺めさせなければならない彼が君を口説いたらう
「肖像畫をかゝして呉れ」と
それがとりも直さず彼の戀の言葉なのだ
ああ世にも不運なる君よ
君は恐るべき怪物につかれた彼は君にとりついたが最後君から彼は美を吸ひとらずには居ぬ
彼は「美を吸う惡魔」だ
永遠に生命の限り彼は君につきまとひ君が空になるまで君の美を追求せずには居ぬのであらう
君がそれを憎みそれを厭う事はこの怪物にとつて何等の痛みでもない
この怪物は無神經だ
センチメンタルなき意志のみで出來た人間だから以上の不貞腐れを君に贈る
一九一五年五月
怪物より
〔大正四年作〕
[やぶちゃん注:「それから二三度續いたラブレター、怪物が京都を去つて災害が漸やく去つたと思ふと再びラブレターの連續/遂に君は返事を書いたね」の部分は、底本では「連續」で一行字数がちょうどになっている。文脈から判断して「遂に」以下を改行とした。全集底本の「槐多の歌へる」を所持していないので確認できないが、連続している可能性がないとは言えない。]
*
わが靈は汚がされ終りぬ
わが靈は汚がされ終りぬ、青銅の磨かれし面を見る如き活き輝やき強く重みありしその靈は、いま女陰を蔽ふ布の如し。
餘りにわれ群集と交はることを好み、平俗の生活と接し、貴とき孤獨を忘れし事の報ひなり。
汚れし靈を元の姿に倍したる榮耀にかへせ、群集になれ親しみたる平安と薄笑とを、寒く、淋しく恐ろしき孤獨にかへせ。
恐ろしきダアクチエンヂをわれは構想す。恐ろしき新生をわれは思ふ、めざめ動き、立ち躍れ、わが破壞の本能よ。こはせ、突きやぶれ、すべてのわが世を。
わが情熱の冷えわが慾念の消えぬ間に、ただ獨りわれ歩まん事を欲す。
狂人の如く仙人の如く。
わが靈を救はん道は足れなり。
土より光にかへらん道は是なり。
+
自分は要するに夢想家であつた且またある事をつくづくと悟る、自分は常に自分の姿を觀みてその時の自分が過去の自分より衰へ退いて居る事を感じるそして常に自らを激せしめ反省せしめる爲には「元の自分にかへれ」と言ふ言葉を使つた。だが一體元の自らの姿とは何であらう。その正體は結局自分の弱き精神につらなり生じたる夢想でありのがれ場所であつたに過ぎぬ。この事はこの頃になつて可成りはつきりと解つて來た、つまり自分が段々と獨りぽつちにはふり出されて來たのである。
自分は勇氣を要する。不完全極まる自己、卑しき醜くき自己の他に過去にも現在にも自分の所有物はないと云ふことを承認し得る勇氣だ。一切の虚榮と一切の傳説とを去つてただ一箇の立ちん坊として生れかへる勇氣だ。
過去の痛ましく醜くき行爲の連續は自分を可成り愚にした。是も前述の意味で感じるのだが自分は今自分の姿を省察し得るわづかの透明さをも心に失ひかけて居る。自分は街頭の行人とその歩を共にし然も恥づることなくなり掛けて居る。むしろなつて居る。
そして聰明であり強大であらうとする欲求を考へる事すらものうい樣な弱々しさ怠惰さを覺える。
自分はとりもなほさず輝やきあるこの世を失ひかけて居るのだ。
裸になつて自らを整理し新らしくやり出すべき時はこの時だ。自分はやらう。眞實にやらう。
自分は一切過去に逃げまい、現在の一つにかじり付かう。眞の評價僞らざる價格を以て自からを買はう。
自分の實感に強く正直である事、嬰兒の如くであらねばならぬ、このことは現世に於て實に難い事だ、しかしその難きことをやることは生命を眞に用ひ現世を味はう事だ。
自分はよほど今愚である、自分は今如上の決意をしつつも、いづくに、如何なるスタートに、自分の足を付くべきかを知る事が出來ない、しかし愚なれば愚でよし。
自分は眼をつぶつて現在の自分そのまゝから出立するであらう。淋しく暗き思ひは自分を打つ自分はこの淋しく暗く影薄き所から歩み始めるのだ一切を考へず唯自分の實感にたよりそのなすがままに行かう。
自分の仕事が自然を征服すると云ふ大きな仕事であると云ふことを恐れさへしなければ、自分は必ず如何なる場合にも幸であらう。
自分より愚であり醜である人間中に居る時は自分は不快なだけにむしろ幸福である。
自分の山頂はその高さを増すばかりであるから。
物は明確でなくてはならぬが自分の欲する處は陰の點綴された明確さである。皮肉さではない情熱のこもつた「わかつて居て知らぬ」と云ふ所である。その「ばかさ」に自分は自分の藝術のねらひをつける。
+
われは大なる過ちに落ちたり。そが中に貴きタイムを費したり。われは卑しき女を戀しその低き階級を愛し自らを低く卑しくせん爲に力をつくしたり。
おろかにも笑ふべき過ちなりしかな。さればわれわが靈の汚れゆく悦びて高まる事を嫌ひたり。
心を暗くし愚にする爲に酒くらひたれど心を清く輝やかす爲に書を讀まざりき。かくしてわれは汚らはしく哀れなものとなりさびしさと自棄とに追はれそめたり。われは今悟る。この過ちを逃がれ出でむと思ふ。
われは總て高きを慕ひ低きを卑しみ高きへ高きへと上るべし。われは興突哄笑を卑しみ沈默を愛すべし。
われはすぐれたものとなりすぐれたる女を戀せん。
[やぶちゃん注:「われは總て高きを慕ひ低きを卑しみ高きへ高きへと上るべし。われは興突哄笑を卑しみ沈默を愛すべし。」は、底本では前文の「この過ちを逃がれ出でむと思ふ。」で一行字数がちょうどになっている。文脈から判断できないが、恣意的に「われは總て」以下を改行とした。全集底本の「槐多の歌へる」を所持していないので確認できないが、連続している可能性がある。]
*
童話『五つの夢』
天 の 尿
或時私が歩いて居りました。
空の青くうつくしく輝やいた晝間でした。
その日は奇體にも空が一段と高く見えました。私は明けはなれた野を歩いて居る癖にどうも深い谷底か井戸の底に居る樣に思へてなりませんでした。
丁度小便がしたくなりました。
私はこらへこらへて歩いて行きました。だれかが見て居ては恥かしいと思つて。
私の膀胱が輕球のやうにふくらんでしまひました。しまひに私の腹一ぱいにふくらみました。
「ああもう辛抱が出來ない」と私は泣き出しました。
そして一はねはねて高い空へ飛び上りました。
私は五千尺も上へ上りました。
そして青い空をとび乍ら一思ひに小便をいたしました。
私の股ぐらから小便で出來たまつすぐな長い金の杖がきらきらと下界をさして落ちて行くのを見て私は涙の出る程よろこんで居ました。
しかし次に眞赤になつてしまひました。
下では五千人程の大勢の人が上を見て皆一せいに笑つて居るのが見えましたので、私は顏をかくして寢がへりをいたしました。
それからまた下へ降りたか、もつと飛んで居たかはおぼえて居りません。
女 の 眼
或る時やつぱり私が歩いて居りました。
すると向ふからすばらしいうつくしい御婦人が歩いてこられました。
ばつたり私と出會はすとその方は立ちどまられました。そして私の顏をつくづぐと御覽になりました。私は「何て綺麗なんだらう」と思つてやつぱりじつと、その方の薔薇色の顏に見入つて居りました。するとその方が兩眼をふつと閉ぢておしまひなさいました。すると空がすつかり暮れてしまつて美しい月夜になりました。
暫くすると右の眼がかすかに明きました。その中から青味を帶びた金色の魚が一尾泳ぎ出ました。續いて一尾、二尾、三尾と五尾ばかり泳ぎ出しました。
次に左の限がかすかにひらいて美麗なダイヤモンドが幾つもいくつもころころ飛び出して北の空へとんで行きました。
すると月がかくれて眞暗になつたので、女の顏が見えなくなつてしまひました。
それからその女の人がさよならを言つたか一緒に行つたかはよくおぼえておりません。
しやつちよこ立の踊り
それは恐ろしい戰爭で御座いました。
私の頭の上を赤い帽子をかぶつた兵隊の生首が絶え間なくいくつもいくつも跳ねとんで行きました。私はいやに、おちついて、居たものですから一々その首を見ましたが皆泣きつらをして居りました。
私の頭へどうどうと血がかゝりました。
そのうちに「逃げろ逃げろ」と大きな聲がきこえるので私はあわてゝ逃げ出しました。
逃げながらうしろを操り向くとドイツの兵隊が鐵製の機械のやうにガチヤガチヤと追つて參りました。
私と一所に千人ばかりの兵隊が逃げてゆきましたがある締麗な邸の中へかけこんでぴしやり扉をしめました。
「さあこれで安心だ」と私達は奧の客室へ這入りました。このお邸は歐州で有名な踊りの旨い夫人のうちでした。
うんと御馳走が出ました。
客間には金色の舞臺がしつらへて御座いました。
「皆さんに踊つて見せませう」と美しいその夫人が出て來られました。
夫人は素裸なのです。そしてその弟子の踊り子が十一人一所に出て來ました。
皆素裸なのです。音樂が起つて踊りが始まりました。
この踊りは奇體な踊りで皆しやつちよこ立ちに爲つてくるくると舞臺を廻るのです。そしてその足をばたばたやるのです。是には皆立派な寶石や瑠璃のクツをはいて居りますからぴかぴかと二十二本の足が輝やき動いて、それは美しう御座いました。
私はうつとりと見て居りますと、後ろで仲間が「やあ踊り子の首がないぢやないか」と申します。よく見るとなる程首がみなどこかへ飛んでつてしまつて足のお化がひよこひよこ踊つて居ります。「大變だ」と又外飛び出しました。
外は相かはらず血みどろの戰でした。
[やぶちゃん注:「この踊りは奇體な踊りで皆しやつちよこ立ちに爲つてくるくると舞臺を廻るのです。」は、底本では一行字数がちょうどになっている。次の文の冒頭の接続詞「そして」等から判断して、恣意的に「そしてその足をばたばたやるのです。」以下に、改行せずにつなげた。全集底本の「槐多の歌へる」を所持していないので確認できないが、改行している可能性がある。]
]
女の頰ペた
Kさんと云ふ美しい娘さんは私のお友達です。
その人の頰ペたはそれは美しい頰ペたです。
或る日二人で手を握り合つて坐つて居りました。
私は「どうしてこの女の頰ペたはこんなに美しいのだらう」と息つてじつとKさんの頰ペたを見つめました。
美しいも道理Kさんの頰ペたにはよくよく見ると細かい繪が描いてあるのです。
それは素晴らしい廣い薔薇畑の景色です。眞赤な薔薇が花盛りです。日がかつと照つて數千の薔薇はみんな美しい孔雀色の陰影をふくんで居ります。
その畑の眞中の一本の木の下に猿が坐つて泣いて居るところが描いてあります。
何故泣いて居るんだらうと思つても繪の事だからきくわけにも參りません。私はむしめがねを出してよくよく見るとなる程、猿は手の平に小さな薔薇の刺が一つさゝつてゐたのでした。
きやつきやつきやつと猿は泣いて居りました。
Kさんがその時ふと立ち上つたので私はもうよく見る事が出來ませんでした。
ダイヤモンドのしらみ
私は理髮師をやつて居りました。
或る時私の店へ金色の洋服をつけた紳士がやつて來ました。
「もしもし理髮屋さん、私は王樣のお使です、王樣が『散髮』をなさるさうだから御店へおはさみとかみそりとを持つて來て下さい」と申しました。私はそこで身なりをとゝのへて、祕藏のはさみとかみそりと上等のシヤボンを持つて出掛けました。
王樣は美しい若い人で御殿のお庭に居られました、どこの王樣か、何んでもスペインらしう御座いました。
御あいさつ申上げて早速仕事にかゝりました。王樣の髮の毛は實に豐な美しい毛でした。
頚のてつぺんの毛の間に一つダイヤモンドの樣な輝やくものがくつゝいて居りました。私はそれをとつて
「陛下、陛下、これは何んで御座います」とうかがひますと王樣は顏を赤らめて
「何それはしらみぢやらう」との仰せでした。それで私はそれをつぶさうとしましたがコチコチしてつぶれません。やつぱりダイヤモンドだらうと思つて、それをポケツトに入れて置きました。
さて仕事がすんで店へかへつて來ると丁度そこへ銀座の玉賞堂の主人が散髮に參りました。
「さうさう、王樣の頭にこんなしらみが居た」と私がポケツトからさつきの光物を出して見せますと玉賞堂はたじたじとなつて「一つ二萬圓出しますからゆづつて下さい」と申しました。そして大忙ぎで小切手帳を出して一筆やるとその玉をつかんで宙を飛んで行つてしまひました。
それでそのしらみは手元にありません。(完)
[やぶちゃん注:「御あいさつ申上げて早速仕事にかゝりました。王樣の髮の毛は實に豐な美しい毛でした。」は、底本では前文の「何んでもスペインらしう御座いました。」で一行字数がちょうどになっている。文脈から判断して、恣意的に「御あいさつ申上げて」以下を改行とした。全集底本の「槐多の歌へる」を所持していないので確認できないが、連続している可能性がある。]
〔大正六年作〕
*
金色と紫色との循環せる眼
吾が眼球は一日、異樣に美しき色の循環をうつし、吾が視神經は、しばらく鳴りどよむばかり恍惚にとられた。この事を記す。
それは、佛國畫工グユスタフ・モロが畫面の怪しき光輝に比すべきばかり古き年代を經た、一ツの赤き、五重の塔が重たく建つた下に、吾が經驗した事である。
此塔は巧なる建築であつた。優雅な歡樂の絶えず行はれる町の中のある坂の上に立つてゐた。其美しさは印度の奇異な動物の相を具してゐたある非常な聖者が惰落した爲に變じた動物の形を具へて居た。仰ぎ見る者は誰人も、其の遊惰なる嚴格に戰慄せぬはなかつたのである。そして其の塔の眼には溢るゝばかりの慈愛があつた。そして塔の最下の室には、黄金の皮膚を有つた佛像が坐して居た。其の像は、扉の外から見えた。そして其の光は、覗き見る者の頭を下げさせる。
ある春の薄暮であつた。吾が塔の下にまたも立つて居たのは。吾は何の爲めに立つてゐたのかわからなかつた。だがこの塔を、はつきりと眼に滿たして、じつと立つて居る自らの嬉しさは、たとへる物もないのであつた。天地がこの、赤き、なつかしき五重の塔と吾とを、永劫の世の中からいづこかへかくしてしまう[やぶちゃん注:ママ。]樣に感じた程であつた。
其時一人の痴愚なる坊主が美しい薄ら明りの中を、吾に近附いた。そして吾が耳に口をつけて言つた。
「これ八坂の塔え」
「あゝ」
吾は少しおどろいたが、其の美しい音聲に恍惚となつた。
「この上に以前住んではつた」
誰だらう。
「誰が住んではつた」
坊主は眼を見張つたが、微かに呟いた。
「其れは人や」
この意味なき言葉が、其の時、水蒸氣の樣に、香水の香の樣に、消えて行く、たそがれの霧の中に、この坊主も又消え入つてしまつたのである。で後には塔と吾とが、梵鐘に伏せられた樣な物凄さで殘つてゐた。何とも云はれぬ美しい魂をうける春のたそがれの薄ら明りの中に。
はでやかに、遙か下に見える都は燈火を飾り出した。その上の空の青さ。薄明るさに寶玉の星は輝きそめる。塔は全く暗く、影の重量の増すと共に重たくなつた。赤い塔は黒紫色のあでやかな塔となつた。吾が眼には餘りに、重たく、高く、大きくなつてしまつた。だが吾は塔を離れなかつた。其下をふら/\と廻つてゐた。この塔の圍を八囘廻つた時、吾は一人の美しき女が來てゐるのを發見した。吾は八囘とも無人であつたのに引き此べて大に驚ろいて、じつと注視した。其時である、吾が視神經が破壞せむとしたのは。
吾は一と目ですでに、此の女が色情狂であることを知つた、其肌は怪しき紅色を呈し、其の細帶一本で押へられた派手な衣裳は見るのも猥らがましく、其の殆んど露出した肉體に引きかづかれてゐるのである。一種の強い電光めいて光る其の白い左足を、股迄露はし乍ら平然として此の女は上を仰いでゐる。女は塔を打ち見守つてゐる。吾は共時思はず塔の上に飛び上つてぴつたと塔へ身を押しつけて、じつと、女を注視したのである。其の女の眼を、塔を寫せる眼を注視したのである。
美しき女であつた。
其の面は孔雀石の如く音色を帶びてゐたが、その唇は眞紅に輝いた。而してたそがれの濃い空氣で、其の東洋的な容貌は著しく神祕になつてゐた、殊に其の女は狂氣であつた故に。
其の女は、じつと、じつと、まるで石像の樣にじつと立つてゐる。不思議さうに見つめるは唯塔、この美しく物凄き塔のみなのである。
それで、吾も、じつと、其の女を見守つた。
自分の、うづくまれる處と女との距離が二間ばかり有るが、光の具合で、仰むいてゐる女の腰は、氣味惡るい程明確に吾が眼球に寫るのである。女の顏は丸くて豐麗である。吾は思はず、何處かで見た、博士スタインの發掘せるトルキスタンの佛像の寫眞を念頭に浮べた。其面はげに砂漠的であつた。埋れたる豪奢であつた。唇は斷え間なく薄明りの中で戰慄してゐるのが見える、そして其の眼を吾がじつと、じつと見下した時であつた、その上方に向ける仇めかしく好色に大なる眼に美しき色が環してゐるのが見えた。自分はびつくりした。
この狂女の眼の中に、無數の金色の微粒子がきらきらきら/\してゐる。而して此の金のきら/\は、次第に紫色の微粒子にうつり行く。また其の微粒子は金に化する、かくて絶えまなく一の圓い軌道を作つて、金色と紫色とのきら/\が、この女の眼の中で循環してゐるのである。おゝ、其の美麗さに、吾は實に氣も遠くなつた。氣も狂ほしくなつた、恰もスピサリスコープを覗く樣なこの美しさ、あでやかさ、不思議さは、わが理性を打ち亡ぼした。吾にはも早やこの狂女は佛であつた。偉大な美の聖者となつて、千萬の燭に照らされて、吾が前に現れたのである。吾は泣いた。泣いて戰慄した。忽ち金色と紫色との循環は急速になつた。そして、その色の循環は、この狂女の眼から全世界に廣ろがつた。此の赤き五重の塔も、美しき春のたそがれも、燈かざり初めし美しの都もすべて金色と紫色とに循環し出した。吾はうめいた。一聲高くうめいた。眞赤な血が全身に沸騰した。
吾はいきなり、この色情狂の女に飛びかゝつた。そして、其の眼球に指を突込んでえぐり出した。
美しく鋭き悲鳴が、この春の薄明りに傳はり、不思議な塔に反響した。だが吾が手には眞赤な血に染まつた、寶玉の樣な眼球がある。吾は嬉しさに叫んで、そしていきなり走り出した。この塔の下の町を、まつしぐらに京都の町へ走り下つた。金色と紫色とのきらきらを絶えまなく身に浴び乍ら、眞紅の眼球を右手の掌に載せて、まつしぐらに京都の美しい燈火の中に馳け入つたのである。
*
電氣燈の感覺
(徴けき夢の中より)
自分は、或る古い日の晝、唆しき山嶽を攀じ其の頂に立つた。
そはもはや消え渡る冬の名殘の懷かしさを、中央に都を有せる國と、中央に湖を有せる國との、一つは快活なる、一つは靜寂なる兩風景の上にのぞみ見む爲めであつた。
自分は輝ける淋しき雲の上に立つた。
何たる事ぞ、曇つた雨雲が天を閉して殆んど天の中心に近きこの山頂では、下界を見る事が出來ないのである。
自分は痛く失望した。而して冷めたい感覺を底の底まで眼の當り見た。而して顫へた。
忽然、自分は眼球が或角度をなした兩線の間を突進するが如く、漸々と壓迫を受けて來た事を感じた。忽ち眼前に出現したのは一人の女であつた。
其の女の美しきことよ。
この女はギリシヤの星座圖に記るされたる神の名の一つを有して居る者と思はれる位に神聖であつた。其の眼は薄暮の如く青かつた。
其の鼻は痩せて方解石の如くとがつてゐた。
而して其の面は全く灰白であつた。月光の如き胴と、星光の如き四肢とは、身慄ひもしなかつた。大聲で、ラッパの如く叫んだ時、自分は戰懷した。
「少年よ我が後に從ひ來れ」
忽ち一條の銀色に輝いた金屬の線が、魔者の如く自分にからみついた。其れと共に自分の四肢は、痛烈なる痙攣を始めた。
自分は其の時、自己の腦にない事を呟やいた。
次の刹那には驚く可し。自分は丈高きこの怪女の後に從ひて、この山嶽の壁上の如き背を眞しぐらに走り下りつゝあつた。
自分は爽快に耐へなかつた。この走り下る速力の中に自分の心にはこの女の心が、ありありとうつり行くのである。
第一に自分の心に現れたのは、刄先の如く危なく、寶石の如く透明なる緑青であつた。この透明なる緑青は實に美しい立派な色であつた。この色は秋の大空の如く上から下へ薄くなつてゐた。そして、微細なる局部の運動が靈の如く、宏大なる全體をぱち/\ときらめかしく輝かして見せた。
そのばち/\と輝く緑青の中に、自分が第二に、千二百十一人の痩せた、若人が、ヱヂプト浮彫の或箇所の如く、一齊に北から南へ向けて走つた其の一刹那の偉觀を見た時、再び千二百十一人の若人が氷の如く冷めたき、眼を光らせて一齊に南から北へ向けて走らんとするのを見た、其時自分はすでに、此の山嶽を下り終りて、尚麓から眞しぐらに、都のある國の中央へとかけてゐたのである。
女の心は忽ち私の心に現れた。
「一層速く、速く、速く」
私の胸は再び空中より落下する空中飛行家の神經の如く、恐怖の絶對に快きまで戰慄した。實に爽快である。
自分の眼は前を行く女が、永久に一秒毎に微塵を破碎し行くが如く輝く白衣を見つめるのみであつた。
而して一寸空が眼に入つた。
怪しき哉そは、晴れし日の薄暮の色をなして、星がぱち/\輝やいてゐた。
自分は一秒と八分毎に大なる痙攣にどきついた。かくて投槍に靈をひそめたる次の刹那女は立ちどまつた。自分の身に纏つた金屬線が悲壯な落下の音響を地面に發した時、自分の耳は悦びの地震を起した。
恐る可し。女の消えたことに氣が附いた。
更に驚く可し。自分の前に、擴大鏡で見たるダイヤモンドの如き一個の電燈がともつてゐたのである。
美しい/\電燈が銀と青色との永劫の疊を、ぱち/\と、玻璃の牢屋より自分に見せてゐた。
自分は、ふと、がつかりした眼でじつと其れを見つめた其時冬の夜は身を暗中に折る樣に悲壯にこの低き都に下つてゐた。
そして街は、北から南、西から東へかけて更に神祕なる銀白色に、きらびやかに輝いてゐた、而して北の方を見れば黒き山嶽の陰は自然の夜の冷笑を天の中心に近く落ち着けてこつちを向いてゐた。
*
太古の舞姫
或時自分はふと考へた。自分が此邑に住居を定めてから、何年經つた事になるだらう。自分は知らなかつた。
そこで村民に尋ねて見た。高麗人の如く又銅像の如き一種神聖な、ぼんやりした容貌を有つた此村の民の一人に尋ねて見た。恰度この村民は奇怪な形をした農具を以て粗い田んぼをたがやして居る處であつた。
「お前は俺が何年此村にゐるのだか覺えてゐるか」
其農夫は自分の顏を見て禮をなして大聲に答へた。
「へえ、だんな、曇つた日では御座りませぬか」
自分は驚いて其顏を見つめた。此農夫は俺を馬鹿にしたな。そこで自分はじつとその男を睨みつけた。
その男は非常に驚いて自分を見つめて居た。その口は、恐怖に痙攣し、その眼はまたゝきもせず日輪の如く圓く大きかつた。自分は長い間この哀れな男を見つめて居た。成程曇つた日であつた。
美しい、かなしい、晝の靄がすつかり四方にかゝつて北の方に見える村の屋根は青く輝きそのかなたには眞黒な金鋼石の樣な山がそびえて居た。かくて二人の化石した睨み合ひは私の突然の發聲にさまされた。
「はつはつは。お前は耳が遠かつた」
此時この男は自分の口の動きを見てとつて叫んだ。
「だんな冷たい日では御座いませんか」
「さうぢや」
私は大きく叫んだ。そして其男の石のわれ目の如く冷たく黒き耳穴に口を近づけて叫んだ。
「お前俺は何年此村に住んで居るのだ」
男は甚だしく驚いた樣であつた。
彼は遠い遠いまるで山麓の洞穴の奧で山頂の山犬のうなりを聞く樣な、又水中で打鳴らす樣な美しいさびた聲で叫んだ。
「だんなは、二千五百八十年此村に住んで御座る」
男は此言葉を言ひ終ると一所にべたつと伏した。
自分はおやと思つたが、此心配は空しかつた。男はもはや田の耕作を繼續して居た。狂氣の如く眼赤き牛は、濘猛[やぶちゃん注:「獰猛」の誤字。]なるうなりを上げ、土塊は、はね上つて居る。自分は其男の肩が、駱駝の如く背むしであるのに氣がついた。しかし、何より自分は此男の此返答に戰慄した。
そして激しい悲哀を感じつゝ自分の家にたどり着いた。
自分の家の床は地を離るゝ事四尺である。自分が段々を上つて戸を開けた時中は暗黒であつた。そして中央の爐の中に、眞赤の火焰が一溜りゆらいで居た。
自分はその火焰に手をかざして坐した。
そして沈思した時に狂的な念が自分の頭の中で靜かに淋しく、何の音響をも立てず、それて居て石斧で切るが如き苦悶の叫びを上げるのを感じた。
そして無窮の苦痛が一千年間の後ふと蘇生して更に一千年間の後に新らしからんが如くに感じた。「三千五百八十年」自分はつぶやいた。
火焰熱帶の惡神の舌の如くに奇異なる形をなして暗の中に一の薄明りをもたらした。自分はその薄明りをじつと眺めてゐた。然しその薄明りは悲哀の極であつた。心なき貧者が一千年間海岸の岩石の下に埋まつて居た。小舟を掘り出して燃す時の明に神祕なる煙りであらうと思はるゝ樣な此血色をした薄明りは全く永劫の悲哀であつた。
「この火焰は地軸から上つて居る」
私は然しその淋しい小さい火焰と薄明りとを、じつと見つめて居た。
私の眼には涙がみなぎつて居た。その涙は一千年前に死火山の腹から轉がり落ちた、重たいとび色の石を一千年間濕らし續けるに全たく充分であつた。
更にその岩は今も尚落ちて居るであらう。その岩の落ちてある處に黒い薄い衣をまとうた女が痩せこけて海の方を眺めてゐる。その女は風が吹くと骨も肉もない唯衣ばかりになつてひらひらとほの黒く舞ひ遊ぶ。その女の眼に寫る海の沖合の水の如き涙であつた。その海には一千年間雨と雪と、あられと、雹とが降らなかつた。水量が一厘も増さず一度も減らなかつた。かかる類の古い涙が自分の眼に上り自分の眼はその涙に耽つた。
自分は苦痛に耐へられなかつた。身體は冷めたく冷えた癖に腦は常世國の如く、熱帶性の蒸氣に閉されて居た。
しかも外には日はかくれて居るのだらう。
自分はまた、火焰を見つめて居た。この火は不思議な事には絶ゆる時がなかつた。永遠の火、永遠の薄明りであつた。
自分はこの空氣の如き火を見つめて居て何年經つたらう。一千年も見つめて居たがまだ自分は倦む事を知らなかつた。火も絶ゆる時がなかつた。
この火は全然悲哀の極みであつた。此火の前で此火のもたらす古びし薄明の助けに依りおぼろげながら、自分は、二千五百八十年の凡なる自分の行蹟をたどり行つた。
之は此村の生活であつた。此美くしい、悲しい歴史の火は自分の長々しい沈思愛玩中常に永久に變らなかつた。
其後自分は立上つた。その時自分の心には苦痛が洪水の如く増大して肉は痛み傷ついて歩行にも困難であつた。自分の眼は眞珠の如く深海の美を藏し、自分の皮膚は、鰐魚の皮の如く怖ろしかつた。
自分は歩いた、歩いて外へ出た、自分の家の床は大地より四尺高かつた。故に自分は段々を下りた。かくて自分は村を通つた。其時は最早日沒、自分の悲慘なる追憶は、二千五百年間を逆か上つて、二千五百八十年目にまで達して居たのであつた。
此追憶を私は語る事は出來ぬ、それは伊布夜坂[やぶちゃん注:いふやさか。『 出雲国風土記 』に表われる黄泉の国と現世との境の坂。『古事記』では「伊賦夜坂(いぶやさか)」として表われ、『黄泉比良坂』と同義とする。]の如く世界と靈魂との境であるから。自分はしかしこの日沒後遂に、二千五百八十年の最古の追憶に於て最も親しむ可き者の現存する場所を發見した。自分はそれでその場所を目的として歩いたのである。
自分が此村を過ぎた時、村民が九十九人出て來て自分に禮をした。おうそれが此村の全人數だつた。その中にはさきの、かの耳遠き男も居た。そして是等の九十九人の者共の中九十八人の眼玉は星の如くきらびやかに輝やいた。
自分は是等の星の銀光の中を通過した時、こゝは天だなと思つた、それで一番あとに殘つた村長に訊いて見た。
然し此の自分の出發した村は天の本體ではなかつた。
天の如く超空氣の形を備へたものではなかつた。然し自分が、これからの道程は殆んど天であつた。其處には、N(窒素)及びO(酸素)の四容積及び一容積を以て組成されたる空氣は全然なかつた。自分は殆んどO(酸素)のみの中を突進したのである。
古のギリシアの哲人が考へた如く、もし人間の體中が火焰を以て滿たされてあるのであつたならば、自分は殆んど爆發したのである。
ああ、然し自分が村を離れた時、不思議にも曇れる田んぼの果てには一箇の月輪が上つたのである。
此月は、不思議にも美なる、泣澤女命[やぶちゃん注:なきさはめのみこと。水神とする。「泣き女」のルーツとされ、村山槐多の「二月」という詩にも現われる。]の眼の如き月であつた。
此月が與ふる光は鋭く細かに、方解石の大塊の如く、困りに青銀の怪しき、月しろを有つて居た。
この月は少しく缺けて居た。自分はその月の方角に向つて進んだ。自分は冷たき潮流に、逆する大船の如く壯大なる考へが木綿を突破して風の走るが如く、苦しみ、悲しみを浸飾する樣な感じを、眼と腦との連絡に有つた。そして震へた。
銀の織推は顫勤した。此顫動のうちに自分は八十里來た。時に、自分はいつしか峨々たる山嶽を上つて行った。自分は月の姿を逸した。
自分はかくてその山頂に立つた。此山には草木が一本も無かつた。誰が泣き枯したのであらう。それは或は、素盞雄命[やぶちゃん注:すさのをのみこと。]では無からうか。
自分はまづ、自分の來し方を顧りみていた[やぶちゃん注:ママ。]。恐るべき哉、月はかくれて暗黒何物をも辨ぜぬ。自分は暗黒を拔く事、果して何尺の位置にあるであらう。
山は實に暗黒に見えた、そしてその中に電光の如く灰白の岩石が明滅した。
自分は再び前方を見下さねばならぬ。
自分は、ゴルゴンの首を睨む想ひを以て冷めたき下界に對した。
ああ、自分の前方には自分の場所があつた。
此山の頂き即ち、自分の立脚點は、はかりざりき、大世界、有數の大絶壁の、頂きをなして居るのであつた。自分は恐怖に打たれた。見下した、はるかの下界に、暗夜にも拘らず、明に大なる圓形の湖水が見えた。その湖水は、幽靈族の神器の一たる神鏡の如く圓かつた。そして、そが有する透明は、神の荒魂を寫す樣な透明であつた。
實に人間と、精靈界との區別をつける『恐怖』が象徴化された樣な透明を以て、それは實に靜に九万九千九百立方尺以上の暗黒を透して輝いた湖水であつた。
この湖水は此湖に急轉直下せる大絶壁を以て圍まれた物であつた。東西南北よりぶつかつた大山系の精の飮料水を貯へた物である。即ち大井戸の底をなして居るのである。此外輪をなして居る大絶壁山はすべて火山性の彫刻的外觀を持つた山であつた。恐怖と暗影多き山であつた。
月は存在すれど、曇つたために見えざる、怪しき假面の夜の暗黒は冷めたく大きく此外輪山にこもつて、其の最深處をアイヌの藝術の如くに點々と作つて居た。自分は月世界の寒風に立つた形であつた。自分の面には鉛色の産毛が凄然と一定の方向に向つて直立した。
而して、全身は冷たかつた。自分は心臟の鼓動の如く戰慄した。而かし苦痛は心の底に引とつて愉快なる哀歌が心底をくつがへして起つた。自分は何時迄も大井戸の一のふちに立つて千丈の底なる、輝く湖水を見つめて居ようと考へた。
が自分の大なる疑ひを何うするのだ。二千五百八十年の追憶は再び、コンドルの如く、嶮しき凝視を續けて居る。
自分はこの暗黒の大絶壁を是よりかの深處の水に下らねばなるまい。
自分は凍つた手と足とをこの丑寅の奇蹟に掛けて下つて行つた。自分は足場/\を求めて下つて行つた。
外氣は追々と神祕になつて行く。向ふ側の大絶壁の高さは異常に増して行く事がわかる。自分は殆んど、一千尺も下つた時、恐る可き機會は自分の足を踏み外さしめた。
「ああ」此叫びは烈風の如くに自分を獰猛なる速度で以て湖上へ投げ込んだ。
自分は斧と共に、パーシユースの靴に乘つた如く感じた。如何なる音響が水けむりに伴つたか、自分は槍の如く眞逆樣に水中に突入した。
自分は大なる、うなり、と共に眼をみはつた時すでに自分は浮き上り行くのであつた。
非常なる水の冷たさ、更に自分を驚嘆せしめる事は水中は天の如く暗黒ではないのだ。
幾千個のプリズム、レンズ、或は有史時代、幾万年の努力が到達するであらう處の永劫の白晝は實に大なる層をなしたる透明に輝き、實に冷たく自分を呑んで居る。冷たさは非常だ。
自分が浮き上るに要した時間は、此湖水の透明にして深き事は、身の毛もよだつものであつた。此湖水はどこを測つても、マンモス象の牙の沒するはおろか月をも沒するであらうと思はるゝ。しかも自分は泳ぎながら顏を水面につけたならば、夜に拘らず底の光景を明かに看取し得るのである。そして黒く長く滑らかなる石造の魚がかなしげに游泳する處が見えるのである。此魚の動くのを見た時自分は惡魚を恐れはじめた。
而して、その恐怖は「陸-陸-」[やぶちゃん注:ママ。ダッシュは一マス分。]と自分に向つて絶叫した。
自分は無暗にこの燐光の水の中を進んだ。自分の體には何時の間にか氷が張り氷柱が自分の脇に垂れて居る。此つらら、は鐵或は惡しき運命の如く重く自分を引いた。
而かも程なく自分は唯一の上り得可き箇所を見つけた。そして這ひ上つた。
「ああ、俺の知覺神經は、大きくなつたぞ、ああ、胸は、二千五百八十年の俺の原始に返つた。」
自分は氷をはがし氷柱を脇からはなした。どうも神祕な氷である。涙は心から傳つた。自分は神を念じた。其神は今雲間に居るのである。自分は不可思議なる、靈的運命の爲めに此不幸、或は幽幻なる湖岸にはるかに小さく慄へて居るのである。(未完成)