やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇
鬼火へ
一葉の墓 泉鏡花
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[やぶちゃん注:本作は明治三十三年十月二十五日附春陽堂発行の雑誌『新小説』(第五年第十三巻)に掲載された。底本は一九四二年刊岩波版「鏡花全集 巻廿八 雜記」を用いた。踊り字「〱」「〲」は正字に直した。本テクストは二〇〇七年九月七日の鏡花忌にブログにパラルビで公開したものを、再度校訂し、総ルビに変更し、更に縦書版を附して、HPコンテンツとしたものである。当時のブログに附記した私の附言の一部に手を加えて、以下に示す。
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鏡花忌である。
本文章は全集でも「雑記」の中に投げ込まれ、目立たぬ小品であるが、僕にとっては、鏡花の作品の内、一読忘れ難い佳品である。
一葉は明治二十九(一八九六)年十一月に享年二十五歳で亡くなっている。
彼女の墓は築地本願寺和田堀廟所にある。
四年後、鏡花二十七歳の二月には畢生の名作「高野聖」が世に出、前年には後の終生の伴侶伊藤すずと出逢ってもいる。
されど、いや、故に僕は、この「一葉の墓」は、鏡花自身の稀有の「弔詞」なのだと思う。
……ちょいと「次手あるよりよりに、詣」でただけ――しかしそれは實にたびたびの春夏秋冬の景……
……「別にいふべき言葉なし」――されど、その詞の乾ぬ間に「靑苔の下に靈なきにしもあらず」と語る彼……
……花屋の女房……墓地の小童――彼等の一人ひとりはまさに皆、一葉の小説の、その愛すべき登場人物その人その人……
……遠く灯った小さな提灯……「其薄暗かりしかなたに、蠟燭のまたゝく」そは何――一葉の魂か?……いや……それは鏡花の魂に違いない……
私はこの作品に鏡花の一葉への限りない恋情を感じずには居られない。
この作品は確かに「レクイエム」である。
しかし「一葉へのレクイエム」ではない。
それは――
「鏡花自身の――遂に逢はざりし人――一葉の面影への――その恋情のレクイエム」である。
闇にぽつと浮かぶ墓地の、遠くの小提灯の、蠟燭の火……人の恋とは、そのような儚いもの……
……少なくとも私には、「一葉の墓」はそのようなものとして感じられるのである――
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なお、本頁は私のブログ開始七周年記念として公開するものである。【二〇一二年七月六日 藪野直史】]
一葉の墓 明治三十三年十月
門前に燒團子賣る茶店も淋う、川の水も靜に、夏は葉柳の茂れる中に、俥、時としては馬車の差置かれたるも、此處ばかりは物寂びたり。樒線香など商ふ家なる、若き女房の姿美しきも、思なしかあはれなり。或時は藤の花盛なりき。或時は墓に淡雪かゝれり。然る折は汲み來る閼伽桶の手向の水も見る見る凍るかとぞ身に沁むなる。亡き樋口一葉が墓は築地本願寺にあり。彼處のあたりに、次手あるよりよりに、予行きて詣づることあり。
寺號多く、寺々に附屬の卵塔場少なからざれば、はじめて行きし時は、寺内なる直參堂といふにて聞きぬ。同一心にて、又異なる墓たづぬるも多しと覺しく、其の直參堂には、肩衣かけたる翁、頭も刷立のうら少き僧、白木の机に相對して帳面を控へ居り、訪ふ人には敎へくるゝ。
花屋もまた持場ありと見ゆ。直參堂附屬の墓に詣づるものの支度するは、裏門を出でゝ右手の方、墓地に赴く細道の角なる店なり。藤の棚庭にあり。
聲懸くれば女房立出でて、いかなるをと問ふ。桶にはさゝやかなると、稍葉の密かなると區別して並べ置く、なかんづく其の大なるをとて求むるも、あはれ、亡き人の爲には何かせむ。
線香をともに買ひ、此處にて口火を點じたり。兩の手に提げて出づれば、素跣足の小童、遠くより認めてちよこちよこと駈け來り、前に立ちて案内しつゝ、やがて淺き井戶の水を汲み來る。さて、小さき手して、かひがひしく碑を淸め、花立を洗ひ、臺石に注ぎ果つ。冬といはず春といはず、其も此も樒の葉殘らず乾びて、橫に倒れ、斜になり、仰向けにしをれて見る影もあらず、月夜に葛の葉の裏見る心地す。
目立たざる碑に、先祖代々と正面に記して、橫に、智相院釋妙葉信女と刻みたるが、亡き人の其の名なりとぞ。
唯視たるのみ、別にいふべき言葉もなし。さりながら靑苔の下に靈なきにしもあらずと覺ゆ。餘りはかなげなれば、ふり返る彼方の墓に、美しき小提灯の灯したるが供へありて、其の薄暗かりしかなたに、蠟燭のまたゝく見えて、見好げなれば、いざ然るものあらばとて、此の邊に賣る家ありやと、傍なる小童に尋ねしに、無し、あれなるは特に下町邊の者の何處よりか持て來りて、手向けて、今しがた歸りし、と謂ひぬ。去年の秋のはじめなりき。記すもよしなき事かな、漫步きのすさみなるを。