やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇へ
鬼火へ
北條九代記 目次頁 へ戻る


鎌倉 北條九代記  卷第二


      ○賴家卿御家督  宣下  吉書始
右近衞少將源賴家は右大將賴朝卿の嫡男、母は北條遠江守平時政の娘從二位政子、壽永元年八月十二日鎌倉比企谷にして誕生あり。御験者ごけんじやは專光房阿闍梨良暹りやうせん、大法師觀修鳴弦くわんしゆめいげん師岡もろおか兵衞尉重經、大庭平太景義なり。上總權介廣常蟇目ひきめの役々を勤む。その外、御産屋おんうぶやの儀式、かたの如く取行とりおこなはる。建久元年四月七日、下河邊莊司行平しもかうべのしやうじゆきひらを以て若君の御弓の師と爲さる。行平はこれ、數代將軍の後胤として、弓矢の道故實の達人なりとて賞せられ、御厩の馬を引き給はる。同八年二月に賴朝卿と同じく上洛あり。六月に参内ましまして御劍ぎよけんを賜り、同十二月に從五位上に叙せられ、右近衞少將に任ず。翌年正月に讃岐權介に任じ、同十一月正五位下に叙せられ給ふ。故右大將家、正治元年正月十三日薨去あり。賴家既に十八歳、御家督を嗣ぎ給ふ。天下の事何のあやぶみかおはしますべき。同二十日に左中將に轉ぜられ、外祖北條時政、執權たり。はじめ賴朝卿出張の時より輔翼ふよくとなりて威を振ひ、いよいよ是より權勢さかりにして肩を竝ぶる者なし。同二十六日、宣下のおもむき、前征夷將軍源朝臣の遺跡ゆゐせきを繼ぎ、御家人、郎従、元の如く諸國の守護を奉行せしむべしとなり。故賴朝卿薨じ給ひ、未だ二十日をも過ぎざるに、今日吉書始きつしよはじめあり。これ、宣下の嚴密なるを以て重々の御沙汰あり。内々の儀を以てまづ取り敢へず遂げ行はれけり。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」の巻十六の建久十(一一九九)年二月の条々、建久元(一一九〇)年四月七日の条などに基づく。
「壽永元年」西暦一一八二年。
「專光房阿闍梨良暹」巻第一の「鶴ヶ岡八幡宮修造遷宮」に既出。
「蟇目」射る対象を傷つけないように鏃を使わず、鏑に穴をあけたものを装着した矢のことであるが、ここでは前の鳴弦同様、邪気を払うため、音を発して中に放たれる魔除けの矢のこと。
「建久元年」西暦一一九〇年。
「行平は是數代將軍の後胤」既に多出する下河辺行平の出自である下河辺氏は藤原秀郷の子孫である下野小山氏の一門で、更に秀郷及びその子とされる千常(ちつね/ちづね)、秀郷曾孫の兼光など、代々鎮守府将軍に任ぜられた名門の家柄であることをいう。
「正治元年」建久十年。西暦一一九九年。四月二十七日改元。
「同二十六日宣下の趣」土御門天皇の宣旨。
「今日吉書始あり」「今日」は建久十年二月六日。「吉書」とは物事の改まった後に吉日を選んで奏聞する文書。吉書を奏覧する儀式を朝廷では吉書奏きっしょのそうといったが,武家でもこの儀に習って、将軍が吉書に花押を据える儀式を「吉書始」と称した。
「宣下の嚴密なるを以て重々の御沙汰あり」この当りは、「吾妻鏡」の建久十年二月六日の条の、
此事故將軍薨御之後。雖未經廿ケ日。綸旨嚴密之間。重々有其沙汰。以内々儀。先被遂行之云々
此くの事、故將軍薨御の後、未だ廿ケ日を經ずと雖も、綸旨嚴密の間、重ね重ね其の沙汰有り。内々の儀を以つて、先づ之を遂行せらると云々。
に拠る。但し、頼家の正式な征夷大将軍の宣下は建仁二(一二〇二)年七月二十二日のことである。この辺りの対応の遅さには、急な政権交代に対する朝廷側の不穏な動きが感じられるようにも思われる。そもそもこの「吾妻鏡」の部分は意識せずに読めば、単に、 前の故将軍頼朝様の御逝去から、未だ二十日をも経っていないとは言え、綸旨が下されたということはとても重く大事なことであるからして、幕府内に於いて何度もの議論の末、では、取り敢えず、内々に執り行うこととするがよかろうと決して、まず吉書始だけは執行なさったとのこと。
と読めるのだが、「北條九代記」の叙述も殆んど変わらないのに、例えば教育社版増淵勝一氏は、この部分を、この吉書始の儀を行ったのは、貝 『これは朝廷からの御通達がきわめて厳しく頼家の征夷大将軍就任のお許しがないので、種々検討なさった結果である。内々のことにして、まずとりあえず挙行されたのであった。』
と訳されておられるのである。私は先に示した私の凡庸な訳よりも、この増淵氏の訳にこそ、「吾妻鏡」の、そしてひいては「北條九代記」の行間が、美事に読み込まれているように思われるのである。]



      ○賴朝御中陰 
 後藤左衞門尉守護職を放たる
同三月二日は故賴朝卿四十九日なゝぬか御中陰のはての日なり。勝長壽院に於て御佛事行はる。導師は大學法眼行慈ぎやうじなり。高座に登り、結願けちがん諷誦ふじゆを讀み、説法の辯舌、滿慈まんじ懸河けんが文義もんぎ會通ゑつう鷲子じゆし智海ちかい、總て貴賤の耳をすゝぎ、歡喜の涙を流しけり。さこそ聖靈しやうりやう頓證菩提とんしようぼだいの花ひらけ、自性圓融じしやうゑんゆうの月あきらかに寂光常樂のさとりに入り給ふらんと有難かりける事共なり。御忌おんいみに籠りし人々も皆出でて歸りしかば、打潛うちひそまりる心地ぞする。同じき五日後、藤左衞門尉基淸、罪科あるによつて、讚岐の守護職を召放めしはなちて、近藤七國平くにひらせらる。故賴朝卿の御時に定め置れし事共を改めらるるのはじめなり。政理せいり今に亂れなん、誠に危き事なりと物の心をわきまへたる人々は彈指つまはじきをぞ致しける。

[やぶちゃん注:「同三月二日」建久十(一一九九)年三月二日(この年は四月二十七日に正治に改元される)。頼朝の四十九日の法要の様は完全に筆者の創作であるが(「吾妻鏡」はただ「二日甲午。故將軍四十九日御佛事也。導師大學法眼行慈云々。」としか記していない)、これ、見てきたようにリアルな筆者の独壇場である。
「中陰」中有ちゅうう。死者の死後四十九日の間を指す。死者があの世へ旅立つ期間で、この時、死者は生と死、陰と陽の狭間に居るとされることからの謂い。
「大學法眼行慈」「大學」は「題學」が正しい。引用元の「吾妻鏡」自体の誤り。
「説法の辯舌、滿慈の懸河」「懸河」底本頭注に『流るるごとき龍辯』とある。題学の誦経とその説法が、仏の大慈悲心を思わせる誠意に富み、頗る流暢でもあったことを言祝いでいる。
「文義の會通、鷲子が智海」増淵勝一氏は、また、『その説法のわかりやすいことは幼子さえ海のように理解できるほどで』と訳されておられる。
「聖靈」頼朝様の御魂。
「頓證菩提」速やかに悟りの境地に達すること。死者の追善供養のときなどに、極楽往生を祈る言葉として唱える言葉でもある。
「自性圓融」「自性」(物本来の真性を清澄な存)を明月に譬えた「自性の月」に、「圓融」は、それぞれの事物がその立場を保ちながら一体であり、互いにとけ合って障りのないことの意を添えて、迷いを解き放って仏法の心理に到達することを言っている。
「後藤左衞門尉基淸」「賴朝卿奥入付泰衡滅亡」〈頼朝奥州追伐進発〉に既出、注済み。所謂、頼朝急逝直後の正治元(一一九九)年二月に起った三左衞門事件(一条能保・高能父子の遺臣が権大納言・土御門通親の襲撃を企てたとして逮捕された事件)の首謀者とされる人物。以下、ウィキの「三左衞門事件」より「明月記」に基づく詳細な事件概要を引用しておく(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『正治元年(一一九九年)正月十一日の源頼朝の重病危急の報は、十八日には京都に伝わって世情は俄かに不穏な空気に包まれた。前年に外孫・土御門天皇を擁立して権勢を振るっていた土御門通親は、二十日に臨時除目を急遽行い、自らの右近衞大将就任と頼朝の嫡子・頼家の左中将昇進の手続きを取った。ところが直後の二十二日から、京都は「院中物忩、上の辺り兵革の疑いあり」「京中騒動」の巷説が駆け巡って緊迫した情勢となり、通親が「今、外に出ては殺されかねない」と院御所に立て籠もる事態となった。「院中警固軍陣の如し」と厳戒態勢が布かれる中、当初は騒動に誰が関与しているのか不明だったが、二月十一日になって左馬頭・源隆保が自邸に武士を集めて謀議していた事実が明らかとなった。十二日には関東から飛脚が到来して幕府が通親を支持する方針が伝えられたらしく、「右大将光を放つ。損亡すべき人々多し」という情報が流れている。そして十四日に、後藤基清・中原政経・小野義成の三名が源頼家の雑色に捕らえられ院御所に連行されたのを皮切りに、騒動に関連があると見られた者への追及が始まり、十七日に西園寺公経・持明院保家・源隆保が出仕を止められ、頼朝の帰依を受けていた僧・文覚が検非違使に身柄を引き渡された。二十六日に鎌倉から中原親能が上洛して騒動の処理を行い、京都は平静に帰した』。『三左衞門は鎌倉に護送されるが、幕府が身柄を受け取らなかったため京都に送還された。基清は讃岐守護職を解かれたが、他の二名の処分は不明である。公経と保家は籠居となり、隆保は土佐、文覚は佐渡へそれぞれ配流となった。なお「平家物語」によると文覚が保証人となることで一命を救われていた六代(平維盛の子)が、この時に処刑されたという。処罰の対象となったのは文覚を除くと、公経が能保の娘婿、保家が能保の従兄弟で猶子、隆保が能保の抜擢で左馬頭に登用された人物、基清らは能保の郎党であり、いずれも頼朝の妹婿・京都守護として幕府の京都における代弁者の役割を担っていたが、二年前に死去した一条能保の関係者である。「愚管抄」によれば能保・高能父子が相次いで没し、最大の後ろ盾だった頼朝を失ったことで主家が冷遇される危機感を抱いた一条家の家人が、形勢を挽回するために通親襲撃を企てたという』。『頼朝の死が引き金となったこの事件は政局の動揺を巻き起こしたが、頼朝から頼家への権力移行を円滑に進めたい幕府は大江広元が中心となって事態の沈静化を図り、通親は幕府の協力により不満分子をあぶり出して一掃することに成功した。なお、事件関係者の赦免は後鳥羽上皇の意向で早期に行われ、配流された隆保と文覚も通親死後に召還されている』。『逼塞状態に陥っていた一条家も能保の子・信能、高能の子・頼氏らが院近臣に取り立てられたことで息を吹き返し、坊門家・高倉家とともに後鳥羽院政の一翼を担うことにな』った、とある。ここで「吾妻鏡」にもある、「故賴朝卿の御時に定め置れし事共を改めらるるの始なり」(「吾妻鏡」では「幕下將軍御時被定置事被改之始也」)とは何を意味しているのであろう。謂わば、京都守護一条能保の侍でもあると同時に、頼朝によって在京御家人としても認められていた基清を、頼家が一方的に捕縛し、尚且つ鎌倉に護送されながら、頼家がその身柄を受け取らず、直接の吟味を行うことなく、守護職を解任したことを指すものか(但し、三左衞門事件の経緯を見ると、これは頼家の、というよりはこの事件を穏便且つ迅速に収束させたかった幕府の意向が別に働いたとしか読めないが)。しかし、これが「政理今に亂れ」ることとなる兆しであったことは、この基清が後に後鳥羽上皇との関係を深め、西面武士から検非違使となり(建保年間(一二一三年~一二一九年)には播磨国の守護職に返り咲いている)、遂には承久三(一二二一)年の承久の乱では後鳥羽上皇方に就いた事実からも正しい謂いであるとも言えるか(これは実際には「吾妻鏡」が共時的な記載でも何でもなく後に書かれたものである以上、やはり予言でも何でもない、事実結果を踏まえた上での後付けなのではあろうが)。なお、次話の「姫君病惱 付 死去」も参照のこと。
「近藤七國平」近藤国平(生没年不詳)は頼朝直参の御家人。この讃岐守護に補任以降の動静は未詳。]



      ○姫君病惱 
 死去
故賴朝卿の息女乙姫君は、去ぬる比淸水冠者討れしより以來、病惱、常に御身を犯し、快然たる日を知り給はず、なげきの物思に引籠りておはします。此比このごろは殊更に重らせ給ひ、漿水しやうすゐを斷ちて惱み給ふ。御母尼御臺、大に驚き給ひて、諸社の祈願諸寺の祈禱、その丹誠を盡し給ふ。又殿中には阿野少輔公あののすけのきみ大法師聖尊しやうそんを請じて、一字金輪こんりんの法をぞ行はれける。京都に飛脚を遣して、針博士しんはなせ丹波時長を召さるる所に、辭し申して仰に從はず。かさねて使をのぼせられ、此度、さはりを申さしめば子細を仙洞せんとうに奏達すべき旨を、在京の御家人等に仰付けらる。醫師時長、大にかしこまり、不日ふじつ下著げちやくせしかば、左近將監能直、相倶して、下向しける由、申入れければ、畠山次郎重忠が南の門の宅に召置めしおかれ、姫君の御所近く、御療治勤め參らせんが爲とかや。やがて御脉を伺ひ朱砂しゆしや丸を奉る。五月の中比には、姫君、驗氣けんきを得給ひいさゝか食事に御付有りとて、内外上下の人々悦び奉りける所に、六月なかばより又殊の外に惱み出で給ひて、剩天吊搐搦あまつさへてんてうちくできし給ふ。この事凶相のよし、時長、驚き申す。今に於ては浮世の賴みもこれなし力及ばすとて、御暇おんいとま給はり時長は歸上かへりのぼりけり。尼御臺所は手を握り、足を空になして、如何はせんと周章あはて給ふ。此上は人力じんりよくの叶ふべきにあらず、佛神の御力をひとへに賴み奉るとて、鶴ヶ岡を初て神社に使を立てられ、百とう神樂御湯かぐらみゆを參らせらるゝに、託宣のおもむきいづれもよろしからずと申す。鎌倉中の寺々には御祈禱仰付けられて、護摩をしゆすれば、燻りて燃上もえあがらず、閼伽の水乾きてうるほひなし。御符ごふう墨色すみいろ卷數かんじゆの文字、皆、不吉の相なりとて、片津かたづを呑んで私語さゝやきあひけるが、同二十日の午尅うまのこくに遂に事切れさせ給ひけり。御年未だ十四歳、つぼめる花のわづかほころび、萠出もえいづる若草の人の結びし跡絶えて、おもひをすまの夕煙ゆふけぶり伐焚こりたく柴のしばしばに、誰爲たがためにとて長生ながらふる、つらき命よなにせんと、朝夕なげき臥沈ふししづみ給ひしが、遂に空しくなり給へば、尼御臺所の御歎おんなげき、同じ道にとあこがれ給ひ、乳母めのとをつと掃部頭親能かもんのかみちかよしなげきの思に堪兼たへかね、宣豪せんがう法橋を戒師として出家をぞとげたる。姫君の空しき御尸おんからをば親能法師ちかよしほふし龜谷かめがやつの堂のかたはらに葬り奉る。江馬殿をはじめて、小田、三浦、結城、八田やた、足立、畠山、梶原、宇都宮、佐々木小三郎以下供奉して、孤憤一堆たいの主となし奉る。墳墓堂はかだうを作り、此所こゝにして中陰の御佛事を營まる。はての日は尼御臺所參詣あり。宰相阿闍梨尊曉導師として、御諷誦を讀み給ふ。文章うるはしくして、情を盡しければ、尼御臺所、數行すかうの涙にむせび給へば、御供の人々も皆、袂をぞ濡しける。あはれなりし事共なり。

[やぶちゃん注:頼朝次女で大姫や、頼家の妹で実朝の姉に当たる三幡(あざな)通称乙姫の死を描く。「吾妻鏡」巻十六の建久十(一一九五)年三月五日・三月十二日、五月七日・五月八日・五月二十九日、六月十四日・五月三十日及び七月六日の条に基づく。前話の元とも重なるが三月五日の条を引いておきたい。
〇原文
五日丁酉。雨降。後藤左衞門尉基淸依有罪科。被改讃岐守護職。被補近藤七國平。幕下將軍御時被定置事被改之始也云々。
又故將軍姫君。〔號乙姫君。字三幡。〕自去比御病惱。御温氣也。頗及危急。尼御臺所諸社有祈願。諸寺修誦經給。亦於御所。被修一字金輪法。大法師聖尊〔号阿野少輔公。〕奉仕之。
〇やぶちゃんの書き下し文
五日丁酉。雨降る。後藤左衞門尉基淸、罪科有るに依りて、譛岐守護職を改められ、近藤七國平に補せらる。幕下將軍の御時に定め置かるる事を、改めらるるの始也と云々。
又、故將軍の姫君〔乙姫君と號す。字は三幡。〕去ぬる比(ころ)より御病惱、御温氣なり。頗る危急に及ぶ。尼御臺所、諸社に祈願有り、諸寺に誦經を修し給ふ。亦、御所に於いて、一字金輪法を修せらる。大法師聖尊〔阿野少輔公と號す。〕、之を奉仕す。
この記述が意味するところを素直に読むと、乙姫の発病も、これ、頼家が『幕下將軍の御時に定め置かるる事を、改め』た結果であろう、と暗に「吾妻鏡」筆者が述べているのだということが分かる。
「去ぬる比淸水冠者討れしより以來病惱常に御身を犯し、快然たる日を知り給はず、歎の物思に引籠りておはします」の部分は長女大姫の事蹟と混同した叙述で全くの誤り(大姫の死は「吾妻鏡」の欠落部で、もしかすると筆者は確信犯でわざと大姫と乙姫をハイブリッド化したのだとも考えられる)。大姫は先立つ建久八(一一九七)年七月十四日に病死している。政子は実に建久六(一一九五)年の頼朝の死以来、二年おきに愛する近親を失っており、本話の後半部の嘆きは察するに余りある。なればこそ筆者は、この歴史的事実とは全く無縁な、殆ど記憶されることのない乙姫の死をわざわざここに配して、政子という女の悲哀と絶望を美事に描ききったのだろう。但し、読み進めると分かるが、後の男をさしおいた政子の政治進出に対しては極めて批判的であるから、その場面への対位法的伏線とも読めるようにも私には思われる。
「一字金輪法」「一字金輪」は一字頂輪王・金輪仏頂などとも呼ばれ、諸仏菩薩の功徳を代表する尊像を指す。真言密教では秘仏とされ、息災や長寿のためにこの仏を祈る一字金輪法は、古くは東寺長者以外は修することを禁じられた秘法であったと言われる(国立博物館の「e国寶」の「一字金輪像」の解説に拠る。リンク先に一字金輪像の画像あるが、そこでは「きんりん」と読んでいる)。
「丹波時長」(生没年不詳)は医師。典薬頭丹波長基の子。官位は従四位上・典薬頭。医者として名声を極めた人物で、この後、承久元(一二一九)年、第四代将軍九条頼経が後継将軍として鎌倉に下向した際には、子の長世とともに鎌倉に下向して将軍家権侍医として仕えたと伝える。
「仙洞」後鳥羽上皇。「吾妻鏡」の記載も本文の通りであるが、ウィキの「丹波時長」では、はっきりと、院宣が出たために下向した、との記載がある。公的な院宣であるかどうかは別として、これだけ固辞していたものが一転したのは、脅迫以外に非公式な院からの口添えがあったと考えた方が自然ではある。
「朱砂丸」硫化水銀を主成分とする漢方薬。鎮静・催眠を目的として、現在でも使用される。有機水銀や水に易溶な水銀化合物に比べて、辰砂のような水に難溶な化合物は毒性が低いと考えられている。代表的処方には「朱砂安神丸」等がある(ウィキの「辰砂」に拠る)。
天吊搐搦てんてうちくでき」「吾妻鏡」の建久十(一一九五)年六月十四日の条には、
十四日甲戌。晴。姫君猶令疲勞給。剩自去十二日御目上腫御。此事殊凶相之由。時長驚申之。於今者少其恃歟。凡匪人力之所覃也。
十四日甲戌。晴る。姫君、猶ほ疲勞せしめ給ふ。あまつさへ去ぬる十二日より御目の上、腫れたまふ。此の事、殊に凶相の由、時長、之を驚き申す。今に於いては其の恃み少なからんか。凡そ人力のおよぶ所にあらざるなり。
という叙述、増淵氏の訳、及び漢方叙述の中に顔面に発生する症状を示す語に「天吊てんちょう」の語があることから、上目蓋が腫れあがる(若しくは腫脹によって目が鬼面のように吊り上って見える)症状を言っていると考えられる。「搐搦」は通常は「ちくじゃく」と読み、ひきつけや痙攣を起すことを意味する。
「足を空に」足が地につかないほどに慌て急ぐさま。
「百味」神仏へのさまざまな供物。
「御湯」「湯立て」「湯立ち」のことであろう。神道のみそぎの一つで神前の大釜に湯を沸かし、巫女や神官が熱湯に笹の葉を浸して自分のからだや参詣人に降り掛けて邪気を払う儀式である。直後に「託宣の趣いづれもよろしからず」とあるから、所謂、「くがたち」盟神探湯に似たような儀式を指すとも考えられるが、この辺は筆者の創作部分である。
「片津」固唾。
「思をすまの夕煙」「思ひを爲」を「須磨」に掛ける。
「乳母の夫掃部頭親能」中原親能(康治二(一一四三)年~承元二(一二〇九)年)は文官御家人。文治二(一一八六)年に京都守護に任じられて上洛、建久二(一一九一)年には政所公事奉行に任ぜられ、十三人の合議制の一人となった。乙姫誕生により彼女の乳父となり、本文にある通り、六月二十五日に乙姫が危篤となるや、京から帰鎌、死去に伴い出家して寂忍と称した(ウィキの「中原親能」に拠る)。
「江馬殿」北条義時。]



      〇問注所を移し立てらる
四月二十七日、改元あり正治と號す。故賴朝卿の御時には問注所を營中に定めて、みづから立出給ひ、訴論を聞きて、是非を決せらる。諸人、群集鼓騷ぐんじゆこさうして、無禮を致す者ありといへども、只寛温大度ただくわんをんたいどにして、是を咎めず。又御寢所には諸國御家人の名字を書付けて壁に掛け、毎朝まいてう是を一覽し、會所にはざい鎌倉の大名、小名の名字を書きてかけられ、毎日是を一覽し、十日に及びて、登城とうじやうなき人をば或は使をつかはし、或はそのしたしきに向ひて無事を問ひまします故に、諸侍、是に勵まされて、毎日の出仕をく事なし。しかうして親み深く、まじはりあつくし、或時は酒宴、或時は歌の會、又は弓馬のあそび笠掛かさかけ犬追物いぬおふもの、その外數ヶ度のかりを催さる。總てその身のらくとし給はず。天下のさぶらひに親まんが爲なり。さればにや諸將諸、皆、むつまじく思ひ奉り、忠を致さんとのみ存じけり。しかのみならず無禮なるには法令を教へ、侮慢ぶまんなるをば警誡けいかいし給ひ、罰すべきをば法に委せ、忠ある者は賞し給ふ。この故にその政德になつく事、嬰兒の父母を思ふが如くなり。然るを賴家の御代になりて萬事只略義を存ぜられ、外祖北條時政に打任せ、御身は奥ふかく籠りて、遊興を以て事とし給ふ。是によつ政理せいりの御勤もむつかしく思召おぼしめされ、それとはなしに内々の評定ひやうぢやうには、論人ろんにんもし狼籍を出さば不覺ふかくたるべし。徃初そのかみ熊谷くまがへ久下くげ境目さかひめ相論さうろんあり。対決の日、直實なほざね道理に負けて、西侍にしさふらひにして荒涼のことば吐散はきちらし、もとゞりを切て退出しけるは、頗る非禮の所行にあらずや。今より問注所を郭外に立てられ、その御沙汰を致されて然るべしとて、大夫屬善信さくわんぜんしんを執事として、向後大小訴論の事北條父子、兵庫頭廣元、三浦義澄、八田やたの知家、和田義盛、比企能員、藤九郎入道蓮西れんさい、足立遠元、梶原景時談合を加へ、成敗せいばいはからひておこなふべしとぞ仰出おほせいだされける。是より訴訟、公事くじ決斷の事、假初かりそめにも日を重ね、月をわたりて、難義に及ぶ者、鎌倉中に營々えいえいとして、人みな、昔を慕ひけり。掃部頭藤原親能をば京都の奉行として、六波羅に置れたり。賴家近習きんじうの者とては小笠原彌太郎長經、比企三郎、和田三郎朝盛とももり、中野五郎能成よしなり細野ほそのゝ四郎、只五人を友として晝夜御前を立離たちはなれず、その外の輩は一人も參るべからず。この五人に於ては假令たとひ、鎌倉中にして狼籍の事ありとも、甲乙人かふおつにんあへて敵對致すべからずと、村里までもれられたり。是を聞く人老たるもわかきも、舌を鳴してそしり合ひけり。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十六の建久十(一一九五)年四月一日・十二日・二十日などに基づくが、寧ろ、記述内容自体には巻十二の建久三(一一九二)年十一月二十五日の条が、合議制の合理的必然性の核心部分として用られており、説得力を強化していると言える。要は頼家の武家頭領としての失格性を強調する段である。
「笠掛」は「笠懸」とも書き、疾走する馬上から的に鏑矢を放ち的を射る騎射。遠笠掛は最も一般的な笠懸で、的は直径一尺八寸(約五十五センチメートル)の円形で鞣なめし革で造られている。これをさぐり(馬の走路)から五杖から十杖(約一一・三五メートルから二二・七メートル。「杖」は弦を掛けない弓の長さで、競射の際の距離単位で七尺八寸≒二・三六メートルに相当する)離れたところに立てた木枠に紐で三点留めし、張り吊るす。的は一つ(流鏑馬では三つ)。矢は大蟇目おおひきめと呼ばれる大きめの蟇目鏑(鏑に穴をあけたもの)を付けた矢を用い、馬を疾走させながら射当てる。遠くの的を射る所から、「遠笠懸」ともいう。
「犬追物」牛追物から派生したとされる弓術作法の一つで、流鏑馬・笠懸と合わせて騎射三物に数えられる。競技場としては四〇間(約七三メートル弱)四方の平坦な馬場を用意し、そこに十二騎一組の三編成三十六騎の騎手と、二騎の「検見」と称する検分者・二騎の喚次よびつぎ(呼び出し役)に、百五十匹の犬を投げ入れ、所定時間内に騎手が何匹の犬を射たかで争った。矢は「犬射引目いぬうちひきめ」という特殊な鈍体の鏑矢を使用した。但し、単に犬に矢が当たればよい訳ではなく、その射方や命中した場所によって、幾つもの技が決められており、その判定のために検見や喚次が必要であった(以上はウィキの「犬追物」を参照した)。
「熊谷と久下と境目の相論あり」これはかなり知られた事件である。「吾妻鏡」の建久三(一一九二)年十一月二十五日の条を見よう。
〇原文
廿五日甲午。白雲飛散。午以後屬霽。早旦熊谷次郎直實與久下權守直光。於御前遂一决。是武藏國熊谷久下境相論事也。直實於武勇者。雖馳一人當千之名。至對决者。不足再往知十之才。頗依貽御不審。將軍家度々有令尋問給事。于時直實申云。此事。梶原平三景時引級直光之間。兼日申入道理之由歟。仍今直實頻預下問者也。御成敗之處。直光定可開眉。其上者。理運文書無要。稱不能左右。縡未終。卷調度文書等。投入御壺中起座。猶不堪忿怒。於西侍自取刀除髻。吐詞云。殿〔乃〕御侍〔倍〕。登〔利波天〕云々。則走出南門。不及歸私宅逐電。將軍家殊令驚給。或説。指西馳駕。若赴京都之方歟云々。則馳遣雜色等於相摸伊豆所々幷筥根走湯山等。遮直實前途。可止遁世之儀之由。被仰遣于御家人及衆徒等之中云々。直光者。直實姨母夫也。就其好。直實先年爲直光代官。令勤仕京都大番之時。武藏國傍輩等勤同役在洛。此間。各以人之代官。對直實現無禮。直實爲散其鬱憤。屬于新中納言。〔知盛卿。〕送多年畢。白地下向關東之折節。有石橋合戰。爲平家方人。雖射源家。其後又仕于源家。於度々戰場抽勳功云々。而弃直光。列新黄門家人之條。爲宿意之基。日來及境違乱云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿五日甲午。白雲飛び散り、午以後、霽にぞくす。早旦、熊谷次郎直實と久下權守直光、御前に於いて一决を遂ぐ。是れ、武藏國熊谷と久下との境相論の事なり。直實、武勇に於ては、一人當千の名を馳すと雖も、對决に至りては、再往知十の才に足らず、頗る御不審をのこすに依つて、將軍家、度々尋ね問はしめ給ふ事有り。時に直實、申して云はく、
「此の事、梶原平三景時、直光を引級いんきふするの間、兼日に道理の由を申し入るるか。仍つて今、直實、頻りに下問に預る者なり。御成敗の處、直光、定めて眉を開くべし。其の上は、理運の文書要無し。左右さうに能はず。」
と稱し、こと未だ終らざるに、調度文書等を卷き、御壺の中に投げ入れ座を起つ。猶ほ忿怒に堪へず、西侍にしざむらひに於いて、みづから刀を取り、もとどりはらひ、詞を吐きて云はく、
「殿の御侍へ登りはて。」
と云々。
則ち、南門を走り出で、私宅に歸るに及ず、逐電す。將軍家、殊に驚かしめ給ふ。或る説に、西を指して駕を馳す、しは京都の方へ赴くかと云々。
則ち、雜色等を相摸・伊豆の所々、幷びに筥根はこね・走湯山等へ馳せ遣はし、直實の前途をさいぎつて、遁世の儀を止むべしの由、御家人及び衆徒等の中に仰せ遣はさると云々。
直光は、直實の姨母をばが夫なり。其のよしみに就きて、直實、先年、直光の代官として、京都大番に勤仕せしむるの時、武藏國の傍輩等、同じ役を勤めて在洛す。此の間、各々人の代官を以つて、直實に對し、無禮を現はす。直實、其の鬱憤を散らさんが爲に、新中納言〔知盛卿。〕に屬し、多年を送り畢んぬ。白地あからさまに關東へ下向せるの折節、石橋合戰有り。平家の方人かたうどと爲り、源家を射ると雖も、其の後、又、源家に仕へ、度々戰場に於いて勳功をぬきんづと云々。
而うして直光をて、新黄門の家人に列するの條、宿意の基として、日來ひごろ、境の違乱に及ぶと云々。
・「熊谷次郎直實」(永治元(一一四一)年~承元二(一二〇八)年)は武蔵国大里郡熊谷郷(現在の熊谷市)領主直貞次男であったが二歳で父を失い、叔父の久下直光に養育された。本「吾妻鏡」の記載にもある通り、直光の代理で大番役に上洛した時、傍輩の侮辱を受けて憤慨、平知盛に仕えて都に留まることとなったが、その間に直光が直実の所領を押領したため、境相論が発生した。治承四(一一八〇)年四月の石橋山の戦では平家方として頼朝を攻めたが、間もなく頼朝配下となり、同年十一月の佐竹秀義攻撃で抜群の戦功を挙げて本領熊谷郷の地頭職に補任された。次いで、元暦元(一一八四)年の宇治川合戦、一の谷合戦などでも活躍、特に「平家物語」などで知られる一の谷での十六歳の平敦盛との一騎打ちが有名(これが後の出家する機縁となったとする伝承も知られたものである)。文治三(一一八七)年の鶴岡八幡宮の流鏑馬で的立役を拒否して頼朝の不興を買い、所領の一部を没収されている。更に、この叔父直光との境相論の席上、頼朝が直光を支持するような気配を見せたことに立腹して逐電、京に赴き、法然の弟子となって蓮生れんじょうと号した。「吾妻鏡」によれば、その直情径行な性格に相応しく、一心に上品上生の往生を立願して死期を予言、その予言通り、承元二年九月十四日、端座合掌して高声念仏しながら往生したという(以上は「朝日日本歴史人物事典」を主に参照した)。
・「久下權守直光」(生没年不詳)は武蔵七党の一つにも数えられる私市きさいち党の一族。本件の所領論争を中止に据えたウィキの「久下直光」によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『久下氏は武蔵国大里郡久下郷を領する武士で、熊谷直実の母の姉妹を妻にしていた関係から、孤児となった直実を育てて隣の熊谷郷の地を与えた。後に直光の代官として京に上った直実は直光の家人扱いに耐えられず、平知盛に仕えてしまう。熊谷を奪われた形となった直光と直実は以後激しい所領争いをした。更に治承・寿永の乱(源平合戦)において直実が源頼朝の傘下に加わったことにより、寿永元年(一一八二年)五月に直光は頼朝から熊谷郷の押領停止を命じられ、熊谷直実が頼朝の御家人として熊谷郷を領することとなった。勿論、直光はこれで収まらず、合戦後の建久三年(一一九二年)に熊谷・久下両郷の境相論の形で両者の争いが再び発生した。同年十一月、直光と直実は頼朝の御前で直接対決することになるが、口下手な直実は上手く答弁することが出来ず、梶原景時が直光に加担していると憤慨して出家してしまった(『吾妻鏡』)。もっとも、知盛・頼朝に仕える以前の直実は直光の郎党扱いを受け、直実が自分の娘を義理の伯父である直光に側室として進上している(世代的には祖父と孫の世代差の夫婦になる)こと、熊谷郷も元は直光から預けられていた土地と考えられており、直光に比べて直実の立場は不利なものであったと考えられて』おり、『以後も久下氏と熊谷氏の境相論は長く続く事になる』と記す。
・「引級」特に訴訟の際、弁護や支援をすること。肩をもつ、依怙贔屓をするといったニュアンスを含み、ここでは、それ。
・「道理の由を申し入るるか」裁断を下す頼朝に対して、実は事前に、直光の方が道理に叶った訴えであるといった事が、申し入れられているのではないか? という疑義である。
・「眉を開く」「眉を顰む」の反対語で、歓喜する、ここでは勝訴することをいう。
・「壺」建物の内部にある坪庭のこと。吉川本などは「簾」とする。
・「西侍」侍所の西側の詰所の謂いか。
・「「殿の御侍へ登りはて。」『佐殿(頼朝)の侍にまで出世したにぃッツ!』という痛烈な歯嚙みの捨て台詞である。

「藤九郎入道蓮西」安達盛長。
「安達遠元」(生没年未詳)は安達盛長甥であるが、安達の方が年下である。平治の乱で源義朝の陣に従い、源義平率いる十七騎の一人として戦い、頼朝挙兵の際には、彼が下総国から武蔵国に入った十月二日に参上、元暦元(一一八四)年には最初期の公文所知家事に補任されている。
「甲乙人」如何なる身分の人物(であって)も、の意。]



      ○新田開作
同四月二十七日、兵庫頭廣元朝臣、奉行として東國の地頭等に仰行はるゝ趣は、近年は兵亂打ひやうらんうち続きて庶民手足をくに所なし。これよつ農桑のうさういとなみに怠り、田畠、多く荒蕪くわうぶに及べり。今、既に天下軍安の時至り、百姓、既に安堵の地に栖宅せいたくす。今に於ては要求便宜びんぎの所、新田を開作すべし。およそ荒地不作の揚と稱して、年貢正税しやうぜいを減少せしむ。向後は許すべからず。つぶさに沙汰を遂べしとなり。それいにしへ國を建て、民をらしむるは、必ず土地をし、水勢の及ばざる所に於て家を造り、すみかを治む。大川の游波いうは寛緩くわんくわんとして迫らず、小河の細流、潺湲せんえんとして以て注ぐ。卑隰ひしうの地を田とし、高原のはたとし、つつみを作りて洪水に備へ、たみ、耕してこれに田作り、又くさぎりて畠を營み、久しく損害なければ、やや村里を築く。かの壽永、元曆の騷亂にあたつて、軍兵、横行わうぎやうして、居民きよみん追捕ついふす。是が爲に山野に逃亡し、農桑の時を失ひ、饑凍きとうなげきに沈み、溝瀆こうとくたふれて、死亡するもの數を知らず。然るをいま、世は適治たまたまおさまり、人は漸く歸住かへりすみて、東耕西收とうかうせいしゆつとめはげますといへども、地頭は貪りて、賦歛ふれんおもくし、守護ははげしくして、公役くやくしげくす。春、たがやしして風塵ふうぢんに侵され、夏、くさぎりて暑毒しよどくあたり、秋、陰雨いんうを凌ぎて刈り、冬、寒凍かんとうに堪へてうすつく。年中四に休む日なし。又私にみづから出て、わうを送り、らいを迎へ、やまひを問ひ死をとぶらひ、牛馬を養ひ、子をそだつる。それ猶、水旱すいかんさいに罹る時は、日比ひごろ勤苦ごんくに空しく、手をこまねきて取る物なし。あまつさへ暴虐の目代もくだい年貢をはたれば、あたひなかばにして雜具ざうぐを賣り、資財なき者は倍息ばいそく利銀りぎんを借り、或は田宅でんたくこぼち、子女をひさぎ、是を以て、相償あひつぐなふ。若辨もしわきまふる事なければ、妻子を捕へては裸にしていばらの中にさしめ、農夫をしばりてはすあしにして氷をましむ。或は牢屋に繋ぎて、水食すゐしよくとゞめ、或は井池せいちに浸して、寒風にをかさしむ。ても角てもあるなきも、定めしかぎり正税しやうぜいうけがはしむ。あはれなるかな、米穀多けれども、農民はくらふことあたはず、糟粕さうはくにだに飽く時なし。悲しきかな。絲帛しはくみつれども、機婦きふ衣事きることをえず、短褐たんかつをだにあたゝかならず、皆悉く官家くわんけに納む。官家は是を虐取はたりとりて、衣裳には文采ぶんさい飲食いんしよくには酒肉、其奢侈しやしに費すこと、金銀米錢、宛然沙さながらいさごを散すが如し。更に民の苦勞を思はず、あぶらを絞り血をしたてて、用ひて我が身のたのしみとす。されば天理のもとを尋ぬれば、彼も人なり、我も人なり、一うくる所そのひとしからざれば、上下のしなはありといふとも、君として世ををさめ、臣としてまつりごとたすくるに、仁慈じんじこそは行足ゆきたらずとも、荒不作あれふさくの所に年貢を立てて責取せめとり給はんは天道神明しんめい冥慮みやうりよも誠にはかり難しと、心ある輩は歎きかなしみ給ひけり。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十六の建久十(一一九九)年四月二十七日の条に基づく。「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」によれば、『荒不作の土地から新たに年貢を取ろうとする頼家の政策の非を説く』本話は、笹川祥生氏の「『北条九代記』の「今」」(「軍記物語の窓」第一集 平成九(一九九七)年和泉書院刊)よると、作者が執筆した延宝三(一六七五)年前の、江戸幕府『当代の悪政非道への批判が込められているとする』とある。実際、以下の通り、素材とされた「吾妻鏡」はたった六十字程の、如何にもあっさりした事実の提示のみなのである。
〇原文
廿七日戊子。仰東國分地頭等。可新開水便荒野之旨。今日有其沙汰。凡稱荒不作等。於乃貢減少之地者。向後不可許領掌之由。同被定云々。廣元奉行之云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿七日戊子。東國分の地頭等に仰せて、水便の荒野を新開すべきの旨、今日、其の沙汰有り。凡そ荒不作あれふさく等と稱し、乃貢なうぐ減少の地に於いては、向後、領掌りやうじやうを許すべからざるの由、同じく定めらると云々。
廣元、之を奉行すと云々。
この「乃貢」(「のうこう」とも読む)は田畑の耕作者が、その領主に対して貢納する租税。年貢(ねんぐ)に同じい。
「夫古國を建て……」以下、最後までが筆者の批判である。これ、かなりりきが入っている。
「寛緩」ゆったりとして穏やかなさま。
「潺湲」さらさらと水の流れるさま。
「卑隰」低地の湿った土地。
「壽永、元曆の騷亂」西暦一一八二年(養和二(一一八二)年五月二十七日に寿永に改元、寿永三(一一八四)年四月十六日に元暦に改元)から一一八五年(元暦二年八月十四日に文治に改元)で、源氏と平氏が相い争った治承・寿永の乱の時代。但し、源氏方では寿永を使用せず、以前の治承を引き続き使用していたが、源氏方と朝廷の政治交渉が本格化し、朝廷から寿永二年十月宣旨が与えられた寿永二(一一八三)年以降は京と同じ元号が鎌倉でも用いられるようになった。一方、平氏方では都落ちした後も、次の元暦とその次の文治の元号を使用せず、この寿永をその壇の浦での滅亡(文治元年三月二十四日)まで引き続き使用している(ウィキの「寿永」の記載等を参考にした)。
「農桑」農耕と養蚕。
「溝瀆」みぞやどぶ。
「東耕西收」日々の耕作と、その収穫の作業。
「賦歛」徴税。
「劇くして」横暴で。
「舂く」臼を搗く。穀類を杵や棒の先で強く打って押しつぶしたり、殻を除いたりする。
「又私に」この前までは賦役の苛斂誅求を謂い、ここからは農民の私的な日常を述べる。
「徃を送り、來を迎へ」親しい者が遠くへ去り行くのを心を込めて見送り、新たに巡り逢った者を優しく迎え。
「目代」代官。
「倍息」倍の利息。
「若辨ふる事なければ」万一、農民が既定の賦役をなすことが出来なければ。
「妻子を捕へては……」主語は目代。
「兎ても角ても有も無も、定めし限の正税を肯しむ」何はなくとも、有無を言わせず、定めただけのきっちりとした税額を受け入れさせて、しっかり支払わせる。
「糟粕にだに飽く時なし」穀類その他一切の農作物の、利用出来る部分を取り去った残りでさえも、満足に食い足ることさえ出来ぬ。
「絲帛」糸と布。
「機婦」はた織る婦人。
「短褐をだに暖ならず」粗末な衣服でさえも纏うこと儘ならず。
虐取はたりとりて」「はたる」は「徴る・債る」と書き、取り立てる、徴収するの意。櫂 「文采」豪華な織りで彩ること。
「血をしたてて」「したつ」はタ行下二段活用の動詞「滴つ」で、したたらせる、の意。櫂 「天理の本を尋ぬれば……」以下、「誠に計難し」までが「心ある輩」の「歎き悲」しむ内容。
「彼も人なり、我も人なり」かの権力者側とても人であり、我らも同じ人である。
「一氣の禀る所その侔らざれば」人という存在は生れついた際、確かにその在り方は等しくはないから。
「品」身分。
「仁慈」思いやり。
「冥慮」人智を超えている(とは言え)、そのみ心。]



      ○賴家安達彌九郎が妾を簒ふ 
 尼御臺政子諫言
同年七月十日、三河國より飛脚到來して申しけるは「室平むろひらの四郎重廣と云ふ者、數百人の盜賊を集め、國中に武威を振ひ、富家ふか押寄おしよせては財産を奪ひ、良家に込入こみいりて、妻妾を侵し、非道濫行らんぎやう宛然跖蹻さながらせきけふ行跡かうせきに過ぎにり。驛路えきろに出でては徃還の庶民をなやまし、謀略。既に國家を亂さんとす。早く治罸ぢばつを加へられずば、黨類はびこりて靜め難からん歟」とぞ言上しける。則ち評定を遂げられ、誰をか討手うつてに遣すべきとある所に、賴家のおほせとして、安達彌九郎景盛を使節とし、參州に進發せしめ、重廣が横惡を糺斬きうざんすべし」との上意なり。「多少の人の中に使節に仰付けらるゝ事、かつうは家の面目なり」とて、家人若黨殘らず相倶して參州に趣き、國中の勇士を集め、重廣を尋搜たづねさがし、誅戮を加へんとするに、逐電して、行方なし。彌九郎景盛がおもひものは去ぬる春の比、京都より招下まねきくだせし御所の女房なり。容顏、殊に優れたりければ、時の間も立去たちさり難く、比翼のかたらひ淺からざりしを、君の仰なれば、力なく國に留めて參州に赴きけり。賴家、内々この女房の事、聞召きこしめし及ばれ、如何にもしてあはばやと御心を空にあこがれ給ひ、是故にこの度も使節には遣されし、その留主るすを伺ひて、艷書をかよはし給ひて、陸奧みちのく希婦けふ細布胸合ほそぬのむねあはぬ事をうらみ佗び、錦木しにきゞ千束ちつかになれども、此女房更に靡かず。「現無うつゝなの君の御心や。守宮ゐもりしるしも恐しく小夜衣さよごろもの歌の心も恥しくこそ」とばかり申しけるを、中野五郎能成を以て是非なく御所に召入れ給ひて、御寵愛なゝめならず。北向きたむきの御所いしつぼすゑられ、「小笠原彌太郎、比企三郎、和田三郎、中野五郎。細野四郎五人の外は北向の御所に參るべからず」とぞ仰定められける。翌月十八日に安達彌九郎歸參かへりまゐる所に彼の女房は御所に取られ參らせたり。血の涙を流して戀悲こひかなしめども、影をだに見ること叶はねば、まして二たび逢ふ事は、猶かたいとの、よるとなく、畫とも分かぬ物思ものおもひ、遣る方もなき海士小舟あまをぶねこがるゝ胸の煙のすゑたちあがらで泣居なきゐたり。讒佞ざんねいの者有て、景盛、深く君を恨み、いきどほりを含みて、野心をさしはさむ由申しければ、賴家卿、さらば景盛をうたんとはかり給ふ。因幡前司廣元、申しけるは「これあながちに憚り給ふべき事にても候はず。先規せんきこれあり。鳥羽院は源仲宗がに美人のきこえ有しかば、仙洞せんとうに召され、仲宗をば隱岐國に流され、女房をば祇園のあたりに置れ、御寵愛かぎりなく、祇園女御と名付けて、御幸度々なりしが、後に此女御を平忠盛に給はりて、相國淸盛を生みたり。景盛をうたせられんに何か苦しかるべき」とぞ申しける。是に依て近習の輩一同して、小笠原彌太郎、旗を揚げて、藤九郎入道連西れんさいが甘繩の家に赴く。此時にいたつて俄に鎌倉中騷動し、軍兵爭集あらそひあつまる。御母尼御臺所、急ぎ盛長入道が家に渡らせ給ひ、工藤小太郎行光を御使として賴家卿へ仰せらるゝやう、「故賴朝卿薨じ給ひ、又いく程なく姫君失せ給ふ。そのうれへ諸人の上に及ぶ所に、俄にいくさを起し給ふは亂世の根源なり。然るに安達景盛は、そのよせ侍りて故殿殊更憐愍れんみんせしめ給ふ。彼が罪科何事ぞ。子細を聞遂げられずして、誅伐し給はば、さだめて後悔を招かしめ給はん歟。若猶追討せられば、我まづその矢に中るべし」とありしかば、賴家卿、澁りながらにとゞまり給ふ。鎌倉中、大に騷ぎ、諸人、驚きて上を下にぞ返しける。尼御臺所は盛長入道が家に逗留し給ひ、安達景盛を召されて、「昨日相計あひはからうて一旦賴家卿の張行ちやうぎやうやめたりといへども、後の宿意をおさへ難し、汝、野心やしんを存せざるのよし起請文を書きて、賴家卿に奉れ」とありしかば、景盛、かしこまりて、之をさゝぐ。尼御臺所、かの狀を賴家卿にまゐらせ、このついでを以て申さしめ給ふは、「昨日きのふ景盛を誅伐せられんとの御事は楚忽そこついたりと覺え候。およそ當時の有樣を見及び候に、海内かいだい守叶まもりかなひ難く、政道にうんじて民のうれへ知召しろしめさず、色に耽りたはぶれに長じて、人のそしりを顧み給はず、御前近侍きんじの輩、更に賢哲の道を知らず、多くは侫邪ねいじやたぐひなり。その上、源氏は將軍の御一族北條は我が親族なれば、故殿頻ことのしきり芳情はうぜいを施され、常に御座に招き寄せてたのしみを共にし給ひて候。只今はさせる優賞いうしやうはなくして、あまつさへ皆、實名じつみやうを呼ばしめ給ふの間、各々うらみを殘すよし、内々そのきこえの候、物毎ものごと用意せしめ給はば、末代と云ふとも、濫吹らんすゐの義あるべからず」と諷諫ふうかんの詞を盡されたり。御使佐々木三郎兵衞入道、このよし言上せしかば、賴家郷は何の御詞ことばをも出されず、白けて恥しくぞ見え給ふ。

[やぶちゃん注:標題は「おもひものうばふ」と訓じている。
「吾妻鏡」巻十六の建久十(一一九九)年七月六日・十日・十六日・二十日・二十六日、八月十八日・十九日・二十日などに基づく。
「室平四郎重廣」は旧渥美郡牟呂村(現在の愛知県豊橋市牟呂町)辺りを拠点としていた野武士で、野盗の首領のような者であったか。
「跖蹻」盗跖と荘蹻。魯と楚の大盗賊の名。
「安達彌九郎景盛」(?~宝治二(一二四八)年)は頼朝の直参安達盛長(保延元(一一三五)年~正治二(一二〇〇)年)の嫡男。以下、ウィキの「安達景盛」によれば、この事件を詳細に「吾妻鏡」が記録した背景には『頼家の横暴を浮き立たせると共に、頼朝・政子以来の北条氏と安達氏の結びつき、景盛の母の実家比企氏を後ろ盾とした頼家の勢力からの安達氏の離反を合理化する意図があるものと考えられる』とある(以下の引用ではアラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『建仁三年(一二〇三年)九月、比企能員の変で比企氏が滅ぼされると、頼家は将軍職を追われ、伊豆国の修禅寺に幽閉されたのち、翌年七月に北条氏の刺客によって暗殺された。景盛と同じ丹後内侍を母とする異父兄弟の島津忠久は、比企氏の縁戚として連座を受け、所領を没収されているが、景盛は連座せず、頼家に代わって擁立された千幡(源実朝)の元服式に名を連ねている。比企氏の縁戚でありながらそれを裏切った景盛に対する頼家の恨みは深く、幽閉直後の十一月に母政子へ送った書状には、景盛の身柄を引き渡して処罰させるよう訴えている』。『三代将軍・源実朝の代には実朝・政子の信頼厚い側近として仕え、元久二年(一二〇五年)の畠山重忠の乱では旧友であった重忠討伐の先陣を切って戦った。牧氏事件の後に新たに執権となった北条義時の邸で行われた平賀朝雅(景盛の母方従兄弟)誅殺、宇都宮朝綱謀反の疑いを評議する席に加わっている。建暦三年(一二一三年)の和田合戦など、幕府創設以来の有力者が次々と滅ぼされる中で景盛は幕府政治を動かす主要な御家人の一員となる。建保六年(一二一八年)三月に実朝が右近衞少将に任じられると、実朝はまず景盛を御前に召して秋田城介への任官を伝えている。景盛の秋田城介任官の背景には、景盛の姉妹が源範頼に嫁いでおり、範頼の養父が藤原範季でその娘が順徳天皇の母となっている事や、実朝夫人の兄弟である坊門忠信との繋がりがあったと考えられる。所領に関しては和田合戦で和田義盛の所領であった武蔵国長井荘を拝領し、平安末期から武蔵方面に縁族を有していた安達氏は、秋田城介任官の頃から武蔵・上野・出羽方面に強固な基盤を築いた』。『翌建保七年(一二一九年)正月、実朝が暗殺されると、景盛はその死を悼んで出家し、大蓮房覚智と号して高野山に入り、実朝の菩提を弔うために金剛三昧院を建立して高野入道と称された。出家後も高野山に居ながら幕政に参与し、承久三年(一二二一年)の承久の乱に際しては幕府首脳部一員として最高方針の決定に加わり、尼将軍・政子が御家人たちに頼朝以来の恩顧を訴え、京方を討伐するよう命じた演説文を景盛が代読した。北条泰時を大将とする東海道軍に参加し、乱後には摂津国の守護となる。嘉禄元年(一二二五年)の政子の死後は高野山に籠もった。承久の乱後に三代執権となった北条泰時とは緊密な関係にあり、泰時の嫡子・時氏に娘(松下禅尼)を嫁がせ、生まれた外孫の経時、時頼が続けて執権となった事から、景盛は外祖父として幕府での権勢を強めた』。『宝治元年(一二四七年)、五代執権・北条時頼と有力御家人三浦氏の対立が激化すると、業を煮やした景盛は老齢の身をおして高野山を出て鎌倉に下った。景盛は三浦打倒の強硬派であり、三浦氏の風下に甘んじる子の義景や孫の泰盛の不甲斐なさを厳しく叱責し、三浦氏との妥協に傾きがちだった時頼を説得して一族と共に三浦氏への挑発行動を取るなどあらゆる手段を尽くして宝治合戦に持ち込み、三浦一族五百余名を滅亡に追い込んだ。安達氏は頼朝以来源氏将軍の側近ではあったが、あくまで個人的な従者であって家格は低く、頼朝以前から源氏に仕えていた大豪族の三浦氏などから見れば格下として軽んじられていたという。また三浦泰村は北条泰時の女婿であり、執権北条氏の外戚の地位を巡って対立する関係にあった。景盛はこの期を逃せば安達氏が立場を失う事への焦りがあり、それは以前から緊張関係にあった三浦氏を排除したい北条氏の思惑と一致するものであった』。『この宝治合戦によって北条氏は幕府創設以来の最大勢力三浦氏を排除して他の豪族に対する優位を確立し、同時に同盟者としての安達氏の地位も定まった。幕府内における安達氏の地位を確かなものとした景盛は、宝治合戦の翌年宝治二年(一二四八年)五月十八日、高野山で没した』。彼については『醍醐寺所蔵の建保二年(一二一三年)前後の書状に景盛について「藤九郎左衞門尉は、当時のごとくんば、無沙汰たりといえども広博の人に候なり」とある。「広博」とは幅広い人脈を持ち、全体を承知しているという意味と見られ、政子の意志を代弁する人物として認識されていた。宝治合戦では首謀者とも目されており、高野山にあっても鎌倉の情報は掌握していたと見られる』。『剛腕政治家である一方、熱心な仏教徒であり、承久の乱後に泰時と共に高山寺の明恵と接触して深く帰依し、和歌の贈答などを行っている。醍醐寺の実賢について灌頂を授けられたという』。一方、当時から彼には頼朝落胤説『があり、これが後に孫の安達泰盛の代になり、霜月騒動で一族誅伐に至る遠因とな』ったと記す。……既出の頼長頼朝誤殺説といい、まあ、とんでもない親子ではある……。
「彼の陸奧の希婦けふの細布胸合ぬ事を恨佗び、錦木の千束になれども、此女房更に靡かず」底本頭注には『陸奧の希婦―陸奥の希婦の細布程狹み胸合ひがたき戀もするかな(袖中抄)』とある。「袖中抄」は文治二(一一八六)年から同三年頃に顕昭によって著され、仁和寺守覚法親王に奉られた和歌注釈書。また、「錦木」にも注して『一尺ばかりなる五色に彩りたる木、陸奥の俗男女に會はむとする時その門に立つ』とあるが、これは所謂、能の「錦木」などで知れるようになった奥州の錦木塚伝承を下敷きにした謂いと考えてよい。それは、
陸奥狭布けふの里(架空の歌枕)に、恋する男と恋される女がいた。当地の習慣に従って男は思う女の家の門に錦木を立てる(錦木が家内にとり込められれば求婚が容れられた証左となる)。男が三年も通って、立てた錦木の数は千本に及んだが、それは顧みられることなく、女は何時も家内にあってはたを織り続けるなかりであった。男は悲恋の果て、思い死してこの世を去るが、女も男の執心に祟られ、やがて世を去った。この世にて添うことの叶わなかった二人は同じ塚の下に千束の錦木と細布と一緒に葬られた。塚は錦塚と名づけられて哀れな恋の語り草となった。
というもので、これをベースとした謡曲「錦木」は、その女の霊の恋慕の執心が旅僧の回向によって救われるという複式夢幻能である。ウィキの「錦木」によれば、『昔東北地方で行われた求愛の習俗で、男が思う相手の家へ通い、その都度一束ひとつかの錦木を門前の地面に挿し立てたという。 女が愛を受け容れるまで男はこれを続けるので、ときには無数の錦木が立ち並ぶことになった。千束が上限であったともいう。いわゆる「錦木塚伝説」はこうした背景から生まれた伝説であり、秋田県鹿角市・古く錦木村と呼ばれた地域に今も塚が遺る』。『また、こうしたロマンチックな習俗については古くから都にも知られ、多くの歌人の詠むところともなった』。として、以下の和歌が示されてある。
 錦木はたてながらこそ朽にけれけふの細布胸あはじとや 能因法師
 思ひかね今日たてそむる錦木の千束ちづかも待たで逢ふよしもがな  大江匡房(「詞花和歌集」恋)
 立ちめてかへる心はにしきぎのちづかまつべきここちこそせね  西行(「山家集」中 恋)
「錦木」の梗概として私が参考にした、たんと氏のHP「tanto's room たんとの部屋」の謡曲「錦木」の解説頁などを参照されたい。
但し、前の「陸奧の希婦けふの細布胸合ぬ事を恨佗び」の部分は、それでも解し難い。ここは、恐らく、
――あの男女が遂に逢えなかった陸奥の狭布けふの里で女が織り続けたという、細い細いというその布では、細布故に胸元を合わせることが叶わない――合う(逢う)べき筈のものが合わない(逢えない)ことを深く悲しみ恨んで、 の謂いであろう。
守宮ゐもりしるし」古代中国で、男性が守宮ヤモリに朱(丹砂。水銀と硫黄の化合物)を食べさせて飼い、その血を採って既婚の婦人に塗っておくと、その婦人が不貞を働いた場合、そのしるしが消えるとされた。これが本邦に形状の似るイモリに取り違えられて伝わったものがこれである。この辺りのことは、私の電子テクストである南方熊楠の「守宮もて女の貞を試む」及び寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」の「蠑螈イモリ」及び「守宮ヤモリ」及び「避役」(インドシナウォータードラゴン)の部分等を参照されたい。
「小夜衣の歌」「新古今和歌集」巻二十の「釋教歌」にある(国歌大観番号一九六三)、    不邪婬戒
 さらぬだに重きが上の小夜衣さよごろもわがつまならぬつまな重ねそ
に基づく謂い。「つま」は「褄」に「妻」を掛けて、不倫を戒める。
「因幡前司廣元申しけるは……」以下は「吾妻鏡」正治元(一一九九)年八月十九日の条に拠るが、あたかも大江広元が頼家を焚きつけているかのように読めるのは、ここは原典の記述の前後が逆転しているからで、筆者の恣意的な作為である。以下に「吾妻鏡」を示す。
〇原文
十九日己卯。晴。有讒侫之族。依妾女事。景盛貽怨恨之由訴申之。仍召聚小笠原彌太郎。和田三郎。比企三郎。中野五郎。細野四郎已下軍士等於石御壺。可誅景盛之由有沙汰。及晩小笠原揚旗。赴藤九郎入道蓮西之甘繩宅。至此時。鎌倉中壯士等爭鉾竸集。依之尼御臺所俄以渡御于盛長宅。以行光爲御使。被申羽林云。幕下薨御之後。不歷幾程。姫君又早世。悲歎非一之處。今被好鬪戰。是亂世之源也。就中景盛有其寄。先人殊令憐愍給。令聞罪科給者。我早可尋成敗。不事問。被加誅戮者。定令招後悔給歟。若猶可被追罸者。我先可中其箭云々。然間。乍澁被止軍兵發向畢。凡鎌倉中騒動也。萬人莫不恐怖。廣元朝臣云。如此事非無先規。 鳥羽院御寵愛祗薗女御者。源仲宗妻也。而召仙洞之後。被配流仲宗隱岐國云々。
〇やぶちゃんの書き下し文 十九日己卯。晴。讒侫ざんねいの族有り。妾女せふじよの事に依つて、景盛、怨恨をのこすの由、之を訴へ申す。仍つて小笠原彌太郎・和田三郎・比企三郎・中野五郎・細野四郎已下の軍士等、石の御壺へ召し聚め、景盛を誅すべきの由、沙汰有り。晩に及びて、小笠原、旗を揚げ、藤九郎入道蓮西れんさいが甘繩の宅に赴く。此の時に至りて、鎌倉中の壯士等、鉾を爭ひてきそひ集まる。之に依つて尼御臺所には、俄かに以つて盛長の宅に渡御、行光を以つて御使と爲し、羽林に申されて云はく、
「幕下薨御の後、幾程もず、姫君、又、早世し、悲歎いつに非ざるの處、今、鬪戰を好まる。是れ、亂世の源なり。就中なかんづく、景盛は、其の寄せ有り。先人、殊に憐愍れんびんせしめ給ふ。罪科を聞かしめ給はば、我、早く尋ね成敗すべし。事、問ひもせず、誅戮を加へらるれば、定めし、後悔を招かしめ給はんか。若し猶ほ、追罸ついばつせらるべくば、我れ、先づ其のあたるべし。」と云々。
然る間、澁り乍ら、軍兵の發向を止められ畢んぬ。凡そ鎌倉中、騒動なり。萬人、恐怖せざる莫し。廣元朝臣云はく、「此の如き事は、先規、無きに非ず。 鳥羽院、御寵愛の祗薗ぎをんの女御は、源仲宗が妻なり。而るに仙洞に召すの後、仲宗を隱岐國へ配流せらる。」と云々。
・「讒佞」人を中傷し、上の者にへつらうこと。
・「小笠原彌太郎・和田三郎・比企三郎・中野五郎・細野四郎」頼家直々の指名になる悪名高き愚連隊、五名の近習である。順に小笠原長経・和田朝盛・比企宗員・中野能成・細野四郎(名不詳。木曾義仲遺児とも)。但し、五名には宗員の下の弟比企時員を数えるものもある。
・「藤九郎入道蓮西」影盛の父安達盛長の法号。当時、満六十四歳。
・「行光」二階堂行光(長寛二(一一六四)年~承久元(一二一九)年)は二階堂行政の子で政所執事。後は彼の家系がほぼ政所執事を世襲している。
・「羽林」頼家。近衞大将の唐名。
・「幕下」頼朝。
・「寄」人望・信頼の意とも、仔細(妻を奪ったという頼家側の問題点)の意とも、両方の意味で採れるが、続く文からは頼朝以来の信任という前者の謂いである。
・「鳥羽院」は白河院の誤り。
・「源仲宗」(?~治承四(一一八〇)年)は源三位頼政の子。父とともに以仁王の令旨に呼応して平家打倒の挙兵をしたが宇治平等院の戦いで平知盛・維盛率いる平家軍に敗れ、討ち死にした。白河院の寵愛を受けた祇園女御の元夫ともされる(私は年齢的な問題からこの説はハズレだと思っている)。
・「祗薗の女御」(生没年・姓氏共に不詳)は白河院の妃の一人で、別号を白河殿・東御方と言った。個人サイト「垂簾」の「白河天皇后妃」の記載によれば、寛治七(一〇九三)年頃に白河上皇に出仕したと推定されるが、正式に宣旨を受けた女御ではなく、藤原顕季(白河法皇の乳母子で院の近臣)の縁者で、三河守源惟清の妻かとも、また蔵人源仲宗の妻とも、祇園西大門の小家の水汲女とも伝えられており、当初は身分の低い官女であったものかとも記されてある。子女はもうけず、法皇の猶子であった藤原璋子を養育し、晩年は仁和寺内の威徳寺に暮したが、彼女は実は平清盛の母とも(祇園女御の妹が母という説もある)伝わるが、伝承の域をでない、とある。筆者はここで専ら清盛御落胤説を提示したかったものと思われる。また筆者は、それを歴史的事実として受け入れることで、この後に起こるところの実際の嫡流の断絶という事態を避けるためには、血を残しおくために女は機能しなくてはならない、女とはそういうものである、だからそのための如何なる破廉恥な行為も高度な政治的判断の中にあっては肯定されねばならない、といったことを暗に広元の言に絡めて述べているようにも思われる。筆者は承久の乱の記述で政子という女性の政治介入を厳しく批判している。但し、これは江戸時代に強まった婚家(源氏)が滅び、実家(北条氏)がこれにとって代ったことが婦人としての人倫に反するという政子への一般通説の批難に裏打ちされていることも事実ではあろう。

「尼御臺所は盛長入道が家に逗留し給ひ、安達景盛を召されて……」以下は、翌日、「吾妻鏡」正治元(一一九九)年八月二十日の条に拠る。
〇原文
廿日庚辰。陰。尼御臺所御逗留于盛長入道宅。召景盛。被仰云。昨日加計議。一旦雖止羽林之張行。我已老耄也。難抑後昆之宿意。汝不存野心之由。可献起請文於羽林。然者即任御旨捧之。尼御臺所還御。令献彼状於羽林給。以此次被申云。昨日擬被誅景盛。楚忽之至。不義甚也。凡奉見當時之形勢。敢難用海内之守。倦政道而不知民愁。娯倡樓而不顧人謗之故也。又所召仕。更非賢哲之輩。多爲邪侫之属。何况源氏等者幕下一族。北條者我親戚也。仍先人頻被施芳情。常令招座右給。而今於彼輩等無優賞。剩皆令喚實名給之間。各以貽恨之由有其聞。所詮於事令用意給者。雖末代。不可有濫吹儀之旨。被盡諷諫之御詞云々。佐々木三郎兵衞入道爲御使。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿日庚辰。陰り。尼御臺所、盛長入道の宅に御逗留。景盛を召し、仰せられて云はく、「昨日計議を加へ、一旦は羽林の張行ちやうぎやうを止むと雖も、我れ、已に老耄らうもうなり。後昆こうこんの宿意を抑へ難し。汝、野心を存ぜざるの由、起請文を羽林に献ずべし。」と。然らば、即ち御旨に任せて、之を捧ぐ。尼御臺所、還御し、彼の状を羽林に献ぜしめ給ふ。此のついでを以つて申されて云はく、「昨日、景盛を誅せられんと擬すは、楚忽の至り、甚だ不義なり。凡そ當時の形勢を見奉るに、敢へて海内の守りに用ゐ難し。政道にみて民の愁いを知らず、倡樓しやうろうに娯しみて人のそしりを顧みざるの故なり。又、召仕ふ所、更に賢哲の輩に非ず。多く邪侫じやねいの属たり。何をか况や、源氏等は幕下の一族、北條は我が親戚なり。仍つて先人、頻りに芳情を施され、常に座右に招かしめ給ふ。而るに今、彼の輩等に於いて優賞無く、あまつさへ皆、實名を喚ばしめ給ふの間、各々以て恨みをのこすの由、其の聞へ有り。所詮、事に於いて用意せしめ給はば、末代と雖も、濫吹らんすいの儀有るべからず。」の旨、諷諫ふうかんの御詞を盡さると云々。
佐々木三郎兵衞入道、御使たり。
・「老耄」北条政子(保元二(一一五七)年~嘉禄元(一二二五)年)は当時満四十二歳。であった。
・「海内」日本国。
・「剩皆實名を呼ばしめ給ふの間」北条を始めとする家臣団の連中を皆、官位や通称でなく、本名で呼び捨てになさるために、の意。本名を呼ぶのは甚だしく礼儀に反し、不吉でもある。ただ、ここは文脈上では「その上源氏は將軍の御一族北條は我が親族なれば」という前文に強く限定されているので、増淵氏の訳のように『他氏と同様に、(将軍家の縁戚でなく)単なる北条氏として呼ばせなさっているので』という、北条氏は家臣団とは別のグレードであるのに、という訳の方が説得力はあるように思われはする。
・「濫吹」狼藉。]



      ○諸將連署して梶原長時を訴ふ
同十月下旬の比、結城ゆふきの七郎朝光ともみつ、御殿の侍所に伺公しこうの折から、傍輩ぼうはいともがらに語りけるは、「いにしへよりかき傳へたる言葉にも忠臣は二君じぐんに仕へずと云へり。普く人口に膾炙して稚子嬰兒ちしえうにまでも知りたる事ぞかし。我。殊更に故賴朝卿の厚恩を蒙り、誠に有難き御憐愍ごれんみんの程身に餘りて忘るべからず。その上御近侍として、晝夜朝暮てうぼ、御前に伺公し、種々の御歎訓、種々しゆじゆの御教訓、樣々の仰事おほせごと、今に耳の底に殘り候なり。故殿御薨去の時節に御遺言おはしましけるあひだ、出家遁世せしめずして、後悔そのかぎりなし。この比の世間の有樣、高きもひくきも、只薄氷をむがごとし、危きかな」とて、懷舊のいたり涙を流しければ、當座の諸侍しよさふらひ皆共に、「さもこそ」と計りにて打みぬ。梶原景時、これ立聞たちききて、賴家卿の御前に參り、讒訴しけるやう、「結城七郎朝光こそ、先代をしたうて當時をそしり、忠臣は二君に仕へずとやらん申して、傍輩の人々にも、その心根をすすめ語る、是、我が君の御爲、内より亂す賊敵なり。かゝる者を宥置なだめおかれんは狼をやしなうてうれへを待つと申すべき歟。かたはらともがらこらしのため、早く罪科をことはり給ふべし」とぞ勸めける。賴家卿、聞給ひて「にくき朝光がことばかな。おのれ、出家遁世したればとて、國家に於て何の爲にか事をかくべき。身の程を自讃して當代を誹る不覺人ふかくにんは、なかなかにこれはしら蠹蟲とちう、稻をから蟊賊ほうぞくなり。石の壺にめし寄せ討て棄つべし」とぞおふせ付けられける。近習きんじゆともがらその用意に及ぶ所に、阿波局あはのつぼねとて女房のありけるが、結城には遁れざる一族なり、この事をきき付けて、ひそかに朝光にしらせたり。朝光つらつら是を思案しけれども、如何にとも爲方せんかたなし。さきの右兵衞尉義村は朝光と斷金だんきんの友なりければ、ゆき向ふて案内す。義村出合ひて、「さて何事か候」と云ふ。朝光「さればこそ火急の事候。われ、亡父政光法師が遺跡ゆいせき傳領でんりやうせずといへども、將軍家の恩賜としてヶ所の領主となる。その厚恩を思ふに山よりも高く海よりも深し。この故に徃事わうじを慕ひて、一言を傍輩の中にして嘆傷たんしやうせしに、梶原景時讒訴の便たよりを得て御前へ申し沈めしかば、たちまち逆心ぎやくしんに處せられ、誅戮ちうりくを蒙らんとす。只今この事を知らせ候。如何いかゞ思慮をも𢌞めぐらしてべ」と云ふ。義村聞きて、「こと既に重くはなはだ危急に迫れり。ことなる計略にあらずは、わざわひ誠に攘難はらひがたからん歟。凡そ文治より以來このかた、景時がざんに依て命をおとし、かどを滅せし人、あげかぞふべからず。その中に又今に見存ながらへてある輩も祖父親父しんぷ、子孫に及びてうれへを抱き、憤を含む事、はなはだ多し。景盛も去ぬる比、かれが讒をもつて既に誅せらるべきを不思議に遁れて候。その積惡必ず賴家卿にし奉らん事、うたがひなし。世のため君の爲彼を對治たいじせずはあるべからず。但し弓箭きうせんの勝負を決せば、邦國ほうこくの騷亂を招くに似たり。宿老とうに談合すべし」とて、和田左衞門尉、足立藤九郎入道を呼びてこの事を語る。兩人聞もあへず、早く同心連署れんじよの狀を以て將軍家に訴へ、若彼もしかの讒者を賞して御裁許なくば、直に死生ししやうを爭ふべきなりとて、前右京〔の〕進仲業なかなりは文筆のほまれありとてよび寄せて語る。是も景時に宿意ありければ、手をうつて喜び、やがて訴狀を書認かきしたゝめしに、千葉常胤、三浦羲澄、同義村、畠山重忠、小山朝政、同朝光、足立遠元、和田義盛、同常盛、比企能員、ところ右衞門尉朝光、民部丞行光、葛西淸重、小田知重、波多野忠綱、大井實久、澁谷高重、山内經俊、宇都宮賴綱、榛谷はんがへの重朝、安達盛長入道、佐々木盛綱人道、稻毛重成入道、藤九郊景盛、若狹兵衞尉忠季、岡崎義實入道、土屋義淸、とうの平太重胤、千葉胤正、土肥のせん次郎惟光、河野通信、曾我祐綱、二〔の〕宮四郎、長江四郎、もろの次郎、天野遠景入道、工藤行光、右京進仲業以下の御家人六十六人、鶴ヶ岡の𢌞廊に集會して、一味同意の連判をぞ致しける。その訴狀の中に「にはとりふ者はたぬはず、けものふ者はやまいぬやしなはず」と書きたり。義村この句を感ずとかや。小山五郎宗政は姓名しやうみやうを載せながら判形を加へず、舍弟朝光が事をおもんぱかる所なり。和田左衞門尉義盛、三浦兵衞尉義村之を持參して、因幡前司廣元に付けたり。廣元連署の訴狀を請取り、暫く思案しけるは、「景時佞奸ねいかんの讒に於ては右右陳謝するに所なし。さりながら、故將軍賴朝卿に眤近じつきんの奉公を勤む。今、忽に罪科せられんは如何あらん。ひそかに和平の義を𢌞さん」と猶いうよ未だ決せずして披露するに及ばず、和田左衞門尉、御所に參會して廣元にちか付きて申しけるは、「彼の狀定さだめて披露候か。御氣色如何候」と。廣元「いまだ申さず」と答ふ。義盛、居直り、目をいからして「貴殿は關東御政道の爪牙股肱さうげここう耳目じぼくの職にて、多年を經給へり。景時一人の權威に恐れて、諸將多輩たはい鬱胸うつきようさしおかるゝ條、寧憲法むしろけんはうおきてかなはんや」といひければ、廣元、うち笑ひて、「全く怖るゝ所なし。只かの滅亡をいたはり、同くは和平の義を調へんと思ふ故にて候」と申されしかば、義盛、愈怒いよいよいかりをなし、そば近く居寄ゐよつて、「おそれなくば、何ぞ數日を過し給ふぞ。披露せらるべきか否や、只今承り切るべし」と云ふ。廣元「この上は申し上くべし」とて座を立ちつゝ賴家卿に見せ奉れば、即ち景時に下されたり。景時、更に陳謝すべき道なくして、子息親類を相倶し、相州一宮に下向す。然れども三郎景茂は暫く鎌倉に留めらる。そのころ、賴家卿は比企六衞門尉能員がいへに渡御あり。南庭に於て御鞠おんまりあそばしける。北條五即時連ときつら、比企彌四郎、富部とべの五郎、細野四郎、大輔房源性げんしやう御詰おんつめに參らる。その後、御酒宴ごしゆえんに及びて、梶原三郎兵衞尉景茂御前にこうず。右京進仲業、銚子てうしを取りて座にあり。賴家卿、即ち景茂を召して、「近日、景時、權威を振ふのあまり、傍若無人の有樣なりとて、諸人一同に連判の訴狀を上げたり。仲業、その訴狀の執筆を致しけるぞ」と宣ふ。景茂、申しけるは「景時は故殿の寵臣として今はその芳躅はうしよくなき上はいづれついでに非義を行ふべき。仲業が翰墨かんぼくは、只諸人のいましめを記せるなるべし」と事もなげに申しければ、聞人、皆御返事の神妙しんべうなる事を感じける。賴家卿、斯程かほどまでおもんぱかりつたなくおはします故に、國主の器量はよりも薄く、政道の智惠は闕果かけはて給ひ、只常々は遊興を事とし、まりの友十餘人、歌の友十餘人、この外には近仕きんじする人、これなし。諸將、諸侍、次第に疎くなり、言語げんぎよ行跡かうせき非道なるを見聞き奉りて、上を輕しむる故によりて、かゝる珍事は起出おこりいでたる。猶是より行末は又いかゞあるべきと賴なくこそ覺えける。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十六の建久十(一一九九)年十月二十五日・二十七日・二十八日、十一月十日・十二日・十三日などの記事に基づく。前話に続いて源頼家の暗愚を徹底的に剔抉する。順に「吾妻鏡」を見よう(今回は「北條九代記」の筆者の効果的なシナリオ化を学んで会話文を改行し、直接話法の末の訓読を恣意的に変更してある)。
《発端》
〇原文
廿五日甲申。晴。結城七郎朝光於御所侍。稱有夢想告。奉爲幕下將軍。勸人別一萬反彌陀名號於傍輩等。各擧而奉唱之。此間。朝光談于列座之衆云。吾聞。忠臣不事二君云々。殊蒙幕下厚恩也。遷化之刻。有遺言之間。不令出家遁世之條。後悔非一。且今見世上。如踏薄氷云々。朝光。右大將軍御時無双近仕也。懷舊之至。遮而在人々推察。聞者拭悲涙云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿五日甲申。晴る。結城七郎朝光、御所のさむらひに於いて、夢想の告有りと稱し、幕下將軍の奉爲おんために、人別一萬反にんべついちまんべんの彌陀の名號を傍輩等に勸む。各々こぞつて之を唱へ奉る。此の間、朝光、列座の衆に談じて云はく、
「吾、聞く、忠臣は二君につかへず。と云々。殊に幕下の厚恩を蒙るなり。遷化のきざみ、遺言有るの間、出家遁世せめしざるの條、後悔、いつに非ず。且つは今、世上を見るに、薄氷を踏むがごとし。」
と云々。
 朝光、右大將軍の御時、無双の近仕きんじなり。懷舊の至り、さいぎつて人々の推察に在り、聞く者、悲涙をのごふと云々。
・「結城七郎朝光」「賴朝卿奥入付泰衡滅亡 パート2〈阿津樫山攻防戦Ⅰ〉」に既注済。当時は満三十一歳で、先に記したように、彼は建久元(一一九〇)年に奥州で起きた大河兼任の乱の鎮定に参加して以後は梶原景時(本事件当時は五十前後)と並ぶ故頼朝の側近中の側近として自他ともに認めた栄誉を担う人物であった。
・「人別一萬反」各人一人ひとりが一万遍、南無阿弥陀仏と念仏を唱えること。

《景時の讒訴》
〇原文
廿七日丙戌。晴。女房阿波局告結城七郎朝光云。依景時讒訴。汝已擬蒙誅戮。其故者。忠臣不事二君之由令述懷。謗申當時。是何非讐敵哉。爲懲肅傍輩。早可被断罪之由。具所申也。於今者。不可遁虎口之難歟者。朝光倩案之。周章斷膓。爰前右兵衞尉義村。与朝光者断金朋友也。則向于義村亭。有火急事之由示之。義村相逢。朝光云。予雖不傳領亡父政光法師遺跡。仕幕下之後。始爲數ケ所領主。思其恩。高於須彌頂上。慕其往事之餘。於傍輩之中。申忠臣不事二君由之處。景時得讒訴之便。已申沈之間。忽以被處逆惡。而欲蒙誅旨。只今有其告。謂二君者。不依必父子兄弟歟。 後朱雀院御惱危急之間。奉讓御位於東宮〔後冷泉〕御。以後三條院被奉立坊。于時召宇治殿。被仰置兩所御事。於今上御事者。承之由申給。至東宮御事者。不被申御返事云々。先規如此。今以一身之述懷。強難被處重科歟云々。義村云。縡已及重事也。無殊計略者。曾難攘其災歟。凡文治以降。依景時之讒。殞命失職之輩不可勝計。或于今見存。或累葉含愁憤多之。即景盛去比欲被誅。併起自彼讒。其積悪定可奉皈羽林。爲世爲君不可有不對治。然而决弓箭勝負者。又似招邦國之亂。須談合于宿老等者。詞訖。遣專使之處。和田左衞門尉。足立藤九郎入道等入來。義村對之。述此事之始中終。件兩人云。早勒同心連署狀。可訴申之。可被賞彼讒者一人歟。可被召仕諸御家人歟。先伺御氣色。無裁許者。直可諍死生。件狀可爲誰人筆削哉。義村云。仲業有文筆譽之上。於景時插宿意歟。仍招仲業。仲業奔來。聞此趣。抵掌云。仲業宿意欲達。雖不堪。盍勵筆作哉云々。群議事訖。義村勸盃酌。入夜。各退散云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿七日丙戌。晴。 女房阿波局あはのつぼね、結城七郎朝光に告げて云はく、
「景時の讒訴に依つて、汝、已に誅戮を蒙らんと擬す。其の故は、
『忠臣二君に事へざるの由述懷せしめ、當時をそしり申す。是れ、何ぞ讐敵しうてきに非ざらんや。傍輩を懲肅ちようしゆくせんが爲に、早く断罪にせらるべし。』
との由、具さに申す所なり。今に於ては、虎口の難を遁るべからざるか。」
てへれば、朝光、つらつら之を案じ、周章、はらわたを断つ。爰に前右兵衞尉義村、朝光とは斷金の朋友なり。則ち、義村が亭に向ひ、火急の事有るの由、之を示す。義村に相ひ逢ひ、朝光云はく、
「予は亡父政光法師の遺跡を傳領せずと雖も、幕下に仕ふるの後、始めて數ケ所の領主と爲る。其の恩を思へば、須彌しゆみの頂上よりも高し。其の往事を慕ふの餘り、傍輩の中に於いて、忠臣二君に事へざるの由を申すの處、景時、讒訴の便りを得、已に申し沈むるの間、忽ち以つて逆惡に處せられて、誅を蒙らんと欲すの旨、只今、其の告げ有り。二君と謂ふは、必ずしも父子兄弟に依らざるか。後朱雀院の御惱危急の間、御位を東宮〔後冷泉。〕に讓り奉りたまひ、後三條院を以つて立坊し奉らる。時に宇治殿を召され、兩所の御事を仰せ置かる。今上の御事に於いては、承るの由、申し給ふ。東宮の御事に至りては、御返事申されず、と云々。先規、此くの如し。今一身の述懷を以つて、あながちに重科に處せられ難からんか。」
と云々。
 義村云はく、
こと已に重事に及ぶなり。殊なる計略無くんば、曾て其の災をはらひ難からんか。凡そ文治以降、景時の讒に依つて、命をおとし職を失ふの輩、げてかぞふべからず。或ひは今に見存げんぞんし、或ひは累葉るいえふ、愁憤を含むは、之れ多し。即ち、景盛、去ねる比、誅せられんと欲す。あはせての讒より起る。其の積悪、定めて羽林にし奉るべし。世の爲、君の爲に對治せずんば有るべからず。然れども、弓箭きうせんの勝負を决せば、又邦國の亂を招くに似たり。須らく宿老等に談合すべし。」
てへれば、詞、訖りて、專使を遣はすの處、和田左衞門尉、足立藤九郎入道等、入り來る。義村、之に對し、此の事の始中終しちゆうじゆうを述ぶ。件の兩人云はく、
「早く同心の連署狀をろくし、之を訴へ申すべし。彼の讒者一人を賞せらるべきか。諸御家人を召仕はらるべきか。先づ御氣色を伺ひて、裁許無くんば、すぐ死生ししやうあらそふべし。件の狀、誰人たれひと筆削ひつさくたるべきや。」
と。義村云はく、
仲業なかなり、文筆の譽れ有るの上、景時に於いて宿意をさしはさむか。」
と。仍つて仲業を招く。仲業、奔り來つて、此の趣きを聞き、掌をつて云はく、
「仲業が宿意を達せんと欲す。不堪ふかんと雖も、なんぞ筆作を勵まざらんや。」
と云々。
 群議、事訖りて、義村、盃酌を勸め、夜に入り、 各々退散すと云々。
・「阿波局」北条政子の妹で源実朝の乳母、頼朝の異母弟阿野全成(後、頼家と対立した北条方に組みしたため、建仁三(一二〇三)年五月、頼家の命によって謀反人として捕縛殺害された)の妻。
・「懲肅」こらしめいましめること。
・「斷金の朋友」金をも断ち切るほど硬い友情。「易経」の「繋辞 上」の「二人心を同じうすれば、其のきこと、金を断つ」に基づく。 ・「予は亡父政光法師の遺跡を傳領せずと雖も、幕下に仕ふるの後、始めて數ケ所の領主と爲る」彼の父太田(小山)政光は下野国国府周辺の小山荘に住し、小山氏の祖となって広大な所領を有し、下野最大の武士団を率いていたが、その遺跡は兄朝政が継いでいる。朝光は既に見てきたように阿津賀志山の戦いで敵将金剛別当を討ち取るなどの活躍を見せ、その功によって奥州白河三郡が与えられている。因みに彼の後妻で三男であるこの朝光の母寒河尼は頼朝の乳母で、朝光は実は頼朝の落胤という俗説さえもある。
・「讒訴の便りを得、已に申し沈むるの間」景時は讒訴するに絶好の機会と心得、そのまま直ちに粛清するよう、頼家様に申し上げたがために。
・「後朱雀院の御惱危急の間、御位を東宮〔後冷泉。〕に讓り奉り御ひ、後三條院を以つて立坊し奉らる。時に宇治殿を召され、兩所の御事を仰せ置かる。今上の御事に於いては、承るの由、申し給ふ。東宮の御事に至りては、御返事申されず、と云々」「宇治殿」は藤原頼通(道長長男)で、後朱雀天皇・後冷泉天皇の二代に亙って関白を勤めたが(構造上は後朱雀の生前の「命」があったから。子後冷泉には連続した「一君の命」としての忠誠で仕えたが、三代目の予定の立太子である「二君」までは感知しなかったということで、「二君に仕えず」ということか)、晩年は失意のうちに失脚、彼とは対抗勢力にあった後三条天皇(後冷泉天皇異母弟)が即位し、宇多天皇以来一七〇年ぶりに藤原氏を外戚としない天皇となって藤原摂関家は衰退へと向かい、やがて院政と武士の台頭の時代へと移っていった(以上は主にウィキの「藤原頼通」に拠った)。
・「強ちに重科に處せられ難からんか」無理矢理、重い罰に処せられるというのは、これ、どうみても理不尽で、出来ない相談、有り得ぬ話ではないか。
・「累葉」子孫。
・「勒し」書き記す。
・「仲業」中原仲業(生没年不詳)は幕府吏僚。鎌倉幕府に参じた京下り官人。建久二(一一九一)年の前右大将家政所開設記事の公事奉行人の項に名が見える。中原親能の家人であり、前年の源頼朝上洛をきっかけに下向したのであろう。主に文筆をもって仕え、政所職員として政所発給文書の執筆や地方巡検の使節などを務めた。頼朝以降も政所に伺候し、頼家の政所始には吉書を清書、実朝の代には問注所寄人も兼ねた(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。彼が景時に遺恨を抱いていたとあるが、その具体な理由は不明。

蠹蟲とちう」木食い虫。鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目ゾウムシ上科キクイムシ科 Scolytidae に属するキクイムシ類などの、木材穿孔性の食害虫類(成虫や幼虫)を指す通称。
蟊賊ほうぞく」根切り虫。鱗翅(チョウ)目ヤガ(野蛾)科 Noctuidae に属するカブラヤガやタマナヤガなどの幼虫の総称としてあるが、ここでは広く、そうした農作物の根や茎の食害虫類(成虫や幼虫)を指す通称。
「石の壺」御所内の北にあった部屋の名。
「結城には遁れざる一族なり」結城朝光とは深い縁のある一族である、の謂いだが、具体的にどのような縁戚関係にあったのか、調べてみたものの私にはよく分からない。識者の御教授を乞うものであるが、寧ろ、これは梶原氏の勢力の排除を目論んでいたと思しい北条時政已下の幕府内の対抗勢力による、芝居仕立ての筋書きの臭いが、いや濃厚である。

《景時弾劾状六十六人連判》
〇原文
廿八日丁亥。晴。巳剋。千葉介常胤。三浦介義澄。千葉太郎胤正。三浦兵衞尉義村。畠山次郎重忠。小山左衞門尉朝政。同七郎朝光。足立左衞門尉遠元。和田左衞門尉義盛。同兵衞尉常盛。比企右衞門尉能員。所右衞門尉朝光。民部丞行光。葛西兵衞尉淸重。八田左衞門尉知重。波多野小次郎忠綱。大井次郎實久。若狹兵衞尉忠季。澁谷次郎高重。山内刑部丞經俊。宇都宮彌三郎賴綱。榛谷四郎重朝。安達藤九郎盛長入道。佐々木三郎兵衞尉盛綱入道。稻毛三郎重成入道。藤九郎景盛。岡崎四郎義實入道。土屋次郎義淸。東平太重胤。土肥先次郎惟光。河野四郎通信。曾我小太郎祐綱。二宮四郎。長江四郎明義。諸二郎季綱。天野民部丞遠景入道。工藤小次郎行光。右京進仲業已下御家人。群集于鶴岡廻廊。是向背于景時事一味條。不可改變之旨。敬白之故也。頃之。仲業持來訴状。於衆中。讀上之。養鷄者不畜狸。牧獸者不育豺之由載之。義村殊感此句云々。各加署判。其衆六十六人也。爰朝光兄小山五郎宗政雖載姓名。不加判形。是爲扶弟危。傍輩皆忘身。企此事之處。爲兄有異心之條如何。其後。付件狀於廣元朝臣。和田左衞門尉義盛。三浦兵衞尉義村等持向之。 〇やぶちゃんの書き下し文
廿八日丁亥。晴る。巳の剋。千葉介常胤・三浦介義澄・千葉太郎胤正・三浦兵衞尉義村・畠山次郎重忠・小山左衞門尉朝政・同七郎朝光・足立左衞門尉遠元・和田左衞門尉義盛・同兵衞尉常盛・比企右衞門尉能員・所右衞門尉朝光・民部丞行光・葛西兵衞尉淸重・八田左衞門尉知重・波多野小次郎忠綱・大井次郎實久・若狹兵衞尉忠季・澁谷次郎高重・山内刑部丞經俊・宇都宮彌三郎賴綱・榛谷四郎重朝・安達藤九郎盛長入道・佐々木三郎兵衞尉盛綱入道・稻毛三郎重成入道・藤九郎景盛・岡崎四郎義實入道・土屋次郎義淸・東平太重胤・土肥先次郎惟光・河野四郎通信・曾我小太郎祐綱・二宮四郎・長江四郎明義・諸二郎季綱・天野民部丞遠景入道・工藤小次郎行光・右京進仲業已下の御家人、鶴岡の廻廊に群集ぐんじゆす。是れ、景時に向背きやうはいする事一味するの條、改變すべからずの旨、啓白けいびやくするが故なり。頃之しばらくあつて、仲業、訴狀を持ち來り、衆の中に於いて、之を讀み上ぐる。
にはとりやしなふ者はたぬきはず。けものふ者はやまいぬやしなはず。」
の由、之を載す。義村、殊に此の句に感ずと云々。
 各々署判を加ふ。其の衆六十六人なり。爰に朝光の兄小山五郎宗政、姓名を載すと雖も、判形はんぎやうを加へず。是れ、弟の危きを扶けんが爲に、傍輩、皆、身を忘れ、此の事を企てるの處、兄として異心有るの條はこれ、如何いかん。其の後、件の狀を廣元朝臣に付す。和田左衞門尉義盛・三浦兵衞尉義村等、之を持ち向ふ。

[やぶちゃん注:六十六人としながら三十九名の名しか載らない。また、「北條九代記」では何故か千葉胤正の位置が、ずっと後の東平太重胤の後にある。人数も含めて、気になるといえば気になるのである。]

「小山五郎宗政は姓名を載せながら判形を加へず、舍弟朝光が事を慮る所なり」という叙述は、「吾妻鏡」とは正反対の叙述である。長沼宗政(姓は下野国長沼荘(現在の栃木県真岡市)を領したことに始まる)は結城朝光(姓は下総の結城したことに始まる)の実兄(ともに小山政光の子)であるが、「吾妻鏡」ではにも拘らず花押を押さなかったことを厳しく批判しているのに対し、ここではそれは逆に弟朝光のことを思いやってのこと、と述べているのである。しかし、何故、それが思いやりになるのか、やや分かり難い。親族だからこそ冷静な立場から、他の連中と違ってやや中立的立場を守って、いざ事態が逆転した際には小山の血脈を守ろうとしたといった謂いか? しかしだとすると、次の次の「勝木七郎生捕らる 付 畠山重忠廉讓」の最後で糞味噌に言われたままになっている(筆者もいいぱなしにしている)のはすこぶるおかしい気がするのである。私は筆者が「是れ、弟の危きを扶けんが爲に、傍輩、皆、身を忘れ、此の事を企てるの處、兄として異心有るの條はこれ、如何。」という批判を「弟」「兄」の叙述から誤読したのではあるまいかと秘かに疑っている。

《大江広元の連署状上達躊躇》
〇原文
十日戊戌。晴。兵庫頭廣元朝臣雖請取連署狀。〔訴申景時狀。〕心中獨周章。於景時讒侫者雖不能左右。右大將軍御時親致昵近奉公者也。忽以被罪科。尤以不便條。密可廻和平儀歟之由。猶豫之間。未披露之。而今日。和田左衞門尉與廣元朝臣。參會御所。義盛云。彼狀定披露歟。御氣色如何云々。答未申之由。義盛瞋眼云。貴客者爲關東之爪牙耳目。已歷多年也。怖景時一身之權威。閣諸人之鬱陶。寧叶憲法哉云々。廣元云。全非怖畏之儀。只痛彼損亡許也云々。義盛居寄件朝臣之座邊。不恐者爭可送數日乎。可被披露否。今可承切之云々。殆及呵責。廣元稱可申之由。起坐畢。
〇やぶちゃんの書き下し文
十日戊戌。晴る。兵庫頭廣元朝臣、連署狀〔景時を訴へ申すの狀。〕を請け取ると雖も、心中、獨り周章す。
『景時の讒侫ざんねいに於いては左右さうに能はずと雖も、右大將軍の御時、まのあたりに昵近ぢつきんの奉公致す者なり。忽ち以つて罪科にせられんこと、尤も以つて不便の條、密かに和平を廻らすべきか。』
の由、猶豫いうよの間、未だ之を披露せず。而るに今日、和田左衞門尉と廣元朝臣と、御所に參會す。義盛云はく、
「彼の狀、定めて披露するか。御氣色は如何いかん。」
と云々。
 答へ未だ申さずの由、義盛、眼をいからして云はく、
「貴客は關東の爪牙耳目さうがじもくとして、已に多年をるなり。景時一身の權威を怖れ、諸人の鬱陶うつたうさしおくは、いずくん憲法けんぱふに叶はんや。」
と云々。
 廣元云はく、
「全く怖畏ふい儀に非ず。只だの損亡を痛む許りなり。」
と云々。
義盛、件の朝臣の座邊に居寄ゐより、
「恐れずんば、いかで數日すじつを送るべきか。披露せらるべきや、否や、今、之を承り切るべし。」
と云々。
 殆んど呵責かしやくに及ぶ。廣元、申すべきの由を稱し、坐を起ち畢んぬ。

《連署状上達と景時への申し開きの下知》
〇原文
十二日庚子。晴。廣元朝臣持參件連署申狀。中將家覽之。即被下景時。可陳是非之由被仰云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
十二日庚子。晴る。廣元朝臣、件の連署申狀まうしじやうを持參す。中將家、之を、即ち景時に下され、是非を陳ずべきの由、仰せらると云々。
・「爪牙耳目」爪や牙となり耳や目となって身を輔弼けるところの臣。
・「憲法」掟。ここは「道理」でよいであろう。

《景時黙秘し、所領一宮へ下向》
〇原文
十三日辛丑。陰。梶原平三景時雖下給彼狀。〔訴狀〕不能陳謝。相卒子息親類等。下向于相摸國一宮。但於三郎兵衞尉景茂。暫留鎌倉云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
十三日辛丑。陰る。梶原平三景時、の狀〔訴狀。〕を下し給はると雖も、陳謝に能はず、子息親類等を相ひ卒いて、相摸國一宮に下向す。但し、三郎兵衞尉景茂に於いては、暫く鎌倉に留まると云々。

《頼家の蹴鞠の宴での出来事》
〇原文
十八日丙午。晴。中將家渡御比企右衞門尉能員宅。於南庭有御鞠。北條五郎時連。比企彌四郎。富部五郎。細野四郎。大輔房源性等候之。其後御酒宴之間。梶原三郎兵衞尉景茂候御前。又右京進仲業取銚子同候。羽林召景茂。仰云。近日景時振權威之餘。有傍若無人之形勢。仍上諸人一同訴狀。仲業即爲訴狀執筆也云々。景茂申云。景時。先君之寵愛。殆雖越傍人。於今無其芳躅之上者。以何次可行非儀乎。而愼仲業之翰墨。軼怖諸人之弓箭云々。列坐傍輩。景茂御返事趣神妙之由。密談云々。羽林今夜御逗留也。
〇やぶちゃんの書き下し文
十八日丙午。晴る。中將家、比企右衞門尉能員の宅へ渡御、南庭に於いて御鞠おんまり有り。北條五郎時連・比企彌四郎・富部五郎・細野四郎・大輔房源性等、之に候ず。其の後、御酒宴の間、梶原三郎兵衞尉景茂、御前に候ず。又、右京進仲業、銚子を取り同じく候ず。羽林、景茂を召し、仰せて云はく、
「近日、景時權威を振ふの餘り、傍若無人の形勢有り。仍て諸人一同、訴狀を上ぐ。仲業、即ち、訴狀の執筆しゆひつたるなり。」
と云々。
 景茂、申して云はく、
「景時、先君の寵愛、殆んど傍人を越ゆと雖も、今に於いては其の芳躅はうちよく無きの上は、何のついでを以つて非儀を行ふべけんや。而るに仲業の翰墨かんぼくつつしみ、たがひに諸人の弓箭きうせんを怖る。」
と云々。
 列坐の傍輩、景茂が御返事の趣き神妙の由、密談すと云々。
 羽林、今夜、御逗留なり
・「芳躅」先人の業績・行跡を讃えていう語。
・「非儀」非道な所行。
・「仲業の翰墨を愼み」連署状の仲業の文章は誠に謹み深く穏やかに書かれてあり、の謂いか。「養鷄者不畜狸。牧獸者不育豺之由載之。」をさえ、かく論ずれば、これはもう、私でさえその場にあれば「景茂が御返事の趣き神妙」と感嘆するであろう。]



      ○梶原平三景時滅亡
同十二月九日、梶原軍三景時、ひそかに鎌倉に歸りし所に、日比、連々れんれん御沙汰あり。和田義盛、三浦義村に奉行おほせ付けられ. 景時は鎌倉を追出されければ、力及ばず、相州一の宮に赴きけり。年來住としごろすみ慣れし家をば破却して、永福寺の僧坊に寄附せらる。年こゝに改りて、正治二年正月二十日、梶原景時、京都を心ざし、子息、郎從三十餘人、駿河國清見關きよみがせきに至る。近隣の甲乙人等、的矢まとや射ける歸るさに、景時はしたなく行合ゆきあひける所に笠をかたぶけ、忍びて乘打のりうちしけり。芦原あしはらの小次郎、工藤八郎、三澤小次郎、飯田五郎、しきりおひ掛けて、矢を射掛けたり。景時、狐崎きつねざきにして返合かへしあはせ「何者なれば、梶原景時に向うて矢をはなつぞ。緩怠くわんたい無禮の奴原やつばら、一々にかうべぬべし」といひければ、芦原申しけるは、「梶原にてもあれ、械原かいはらにてもあれ、この侍の中を割りて乘打し、而も忍びたる體裁ていたらくいかさま用ありと覺えたり。一人ものがすまじ」とて、たがひやいばを交へて、相戰ふ所に、飯田四郎討たれたり。その聞に芦原小太郎強く進んで、梶原六郎景國、同八郎景則が首を取る。吉高きつかうの小次郎、澁河しぶかはの次郎、船越三郎、矢部小次郎等、きゝ付けて、一族郎從殘らず引率してはせ付けれども、梶原方は爰を最後とくつばみをならべ、やじりを揃へて散々に防ぎ戰ふに、射伏せられ、切倒きりたふさるま者多かりければ、芦原、工藤ひらき靡きて、辟易す。されども當國の御家人きゝ傳へ聞傳へて競ひあつまりしかば、七郎景宗、九郎景連も工藤八郎に討うち取られ、家子いへのこ郎等或はうち取られ、或は深手負ひければ、景時、嫡子源太景季、二男平次へいじ景高三人連れて、うしろの山に引入て自害して、首級は郎等共木葉の下にうづみ置きしを、隈もなく捜出さがしいだし、主從三十三人が首を路頭にけて、ふだを立て、合戰の記録を鎌倉に注進す。その外餘黨多く、或は生捕いけどり或はうち取る。洛中にも同意の者多く、景時、九州に下り、平氏の餘類をかたらひ、天下を覆さんと計りし事、そのかくれこれなし。されども運命の極る所、一旦にほろび果てたり。世にある時は飛龍ひりやうの雲を起して、大虛に蟠屈ばんくつするが如く、諸人その咳唾がいだを拾うて、※1睞めんらいの恩を望みしかども、權勢盡きて、威光消えぬれば、窮鳥のつばさ※2そがれて、羅網らまう榮纏えいてんせらるゝに似たり。甲乙かの積惡を憎みて、宿意のうらみを報ぜんとす。此所ここに至つて門族滅亡し、かばね路徑ろけいに曝す事は自業じがふの招く恥とはいひながら、無慙むざんなりし事共なり。

[やぶちゃん注:「※1」=「耳」+「丐」。「※2」=「金」+「殺」。「吾妻鏡」巻十六の正治元(一一九九)年十二月九日・十八日、正治二年一月二十日・二十一日などに基づく。変の勃発から三日間を続けて見よう。
《景時上洛の噂/梶原一族、狐ヶ崎にて地元武士団と衝突》
〇原文
廿日丁未。晴。辰剋。原宗三郎進飛脚。申云。梶原平三郎景時。此間於當國一宮搆城郭。備防戰之儀。人以成恠之處。去夜丑剋。相伴子息等。倫遜出此所。是企謀反。有上洛聞云々。仍北條殿。兵庫頭。大夫属入道等參御所。有沙汰。爲追罸之。被遣三浦兵衞尉。比企兵衞尉。糟谷藤太兵衞尉。工藤小次郎已下軍兵也。亥剋。景時父子到駿河國淸見關。而其近隣甲乙人等爲射的群集。及退散之期。景時相逢途中。彼輩恠之。射懸箭。仍廬原小次郎。工藤八郎。三澤小次郎。飯田五郎追之。景時返合于狐崎。相戰之處。飯田四郎等二人被討取畢。又吉香小次郎。澁河次郎。船越三郎。矢部小次郎。馳加于廬原。吉香相逢于梶原三郎兵衞尉景茂。〔年卅四〕互令名謁攻戰。共以討死。其後。六郎景國。七郎景宗。八郎景則。九郎景連等並轡調鏃之間。挑戰難决勝負。然而漸當國御家人等竸集。遂誅彼兄弟四人。又景時幷嫡子源太左衞門尉景季。〔年卅九〕同弟平次左衞門尉景高。〔年卅六〕引後山相戰。而景時。景高。景則等雖貽死骸。不獲其首云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿日丁未。晴る。辰の剋、原宗三郎、飛脚を進じて、申して云はく、「梶原平三郎景時、此の間、當國一宮に於いて城郭を搆へ、防戰の儀に備ふ。人、以つてあやしみ成すの處、去ぬる夜、丑の剋、子息等を相ひ伴ひ、ひそかに此の所をのがれ出づ。是れ、謀反を企て、上洛の聞え有り。」と云々。
仍つて北條殿・兵庫頭・大夫属入道等、御所へ參り、沙汰有り。之を追罸せんが爲に、三浦兵衞尉、比企兵衞尉、糟谷藤太兵衞尉、工藤小次郎已下の軍兵を遣はさるるなり。亥の剋、景時父子、駿河國淸見關きよみがせきに到る。而るに其の近隣の甲乙人等、射的が爲、群集ぐんじゆす。退散のに及び、景時、途中に相ひ逢ふ。彼の輩、之を恠しみ、を射懸く。仍つて廬原小次郎・工藤八郎・三澤小次郎・飯田五郎、之を追ふ。景時、狐崎きつねがさきに返し合はせて、相ひ戰ふの處、飯田四郎等、二人討ち取られ畢んぬ。又、吉香きつかう小次郎・澁河次郎・船越三郎・矢部小次郎、廬原に馳せ加はり、吉香、梶原三郎兵衞尉景茂〔年卅四。〕に相ひ逢ふ。互ひに名謁なのらしめて攻戰す。共に以つて討死す。其の後、六郎景國・七郎景宗・八郎景則・九郎景連等、くつばみを並べやじり調そろふるの間、挑み戰ひ、勝負を决し難し。然れども、漸く當國の御家人等、きそひ集まり、遂に彼の兄弟四人を誅す。又、景時幷びに嫡子源太左衞門尉景季〔年卅九〕・同弟平次左衞門尉景高〔年卅六〕、後ろの山に引き相ひ戰ふ。而るに景時・景高・景則等。死骸をのこすと雖も、其の首をずと云々。
・「原宗三郎」原宗房。以下、順に示す。「北條殿」北条時政。「兵庫頭」大江広元。「大夫属入道」三善善信。「三浦兵衞尉」三浦義村。「比企右衞門尉」比企能員。「糟谷藤太兵衞尉」糟谷有季。「工藤小二郎」工藤行光。
・「淸見關」現在の静岡県静岡市清水区興津清見寺町。
・「飯田五郎」飯田家義。
・「狐崎」静岡県静岡市清水区に静岡鉄道「狐ケ崎駅」ある。JR清水駅の西南西約三キロメートル(断っておくが海岸線ではない)。
・「吉香小次郎」吉川友兼。
・「飯田四郎」別本では飯田次郎とする。

《景時以下、梶原係累家臣三十三名梟首》
〇原文
廿一日戊申。巳剋。於山中搜出景時幷子息二人之首。凡伴類三十三人。懸頸於路頭云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿一日戊申。巳の剋、山中に於いて景時并びに子息二人の首を搜し出だす。凡そ伴の類三十三人、頸を路頭に懸くと云々。

《三浦義澄》
〇原文
廿三日庚戌。相摸介平朝臣義澄卒。〔年七十四〕三浦大介義明男。
酉剋。駿河國住人幷發遣軍士等參着。各献合戰記録。廣元朝臣於御前讀申之。其記云。
 正治二年正月廿日於駿河國。追罸景時父子同家子郎等事
一 廬原小次郎最前追責之。討取梶原六郎。同八郎
一 飯田五郎〔手ニ〕   討取二人。〔景茂郎等〕
一 吉香小次郎      討取三郎兵衞尉景茂。〔手討〕
一 澁河次郎〔手ニ〕   討取梶原平三家子四人。
一 矢部平次〔手ニ〕   討取源太左衞門尉。平二左衞門尉。狩野兵衞尉。已上三人。
一 矢部小次郎      討取平三。
一 三澤小次郎      討取平三武者。
一 船越三郎       討取家子一人。
一 大内小次郎      討取郎等一人。
一 工藤八〔手ニ〕工藤六  討取梶原九郎。
    正月廿一日
人々云。景時兼日。駿河國内吉香小次郎。第一勇士也。密若欲上洛之時。於過彼男家前者。不可有怖畏之由發言云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿三日庚戌。相摸介平朝臣義澄卒す〔年七十四〕。三浦大介義明が男。
酉の剋、駿河國住人幷びに發遣の軍士等、參着す。各々合戰の記録を献ず。廣元朝臣、御前に於いて之を讀み申す。其の記に云はく、
 正治二年正月廿日、駿河國に於いて、景時父子、同家子いへのこ郎等を追罸する事。
一 廬原小次郎、最前に之を追ひ責め、梶原六郎・同八郎を討ち取る。
一 飯田五郎が〔手に〕、二人〔景茂が郎等。〕を討ち取る。
一 吉香小次郎、三郎兵衞尉景茂を討ち取る〔手討〕。
一 澁河次郎が〔手に〕、梶原平三が家子四人を討ち取る。
一 矢部平次が〔手に〕、源太左衞門尉・平二左衞門尉・狩野かのう兵衞尉、已上、三人を討ち取る。
一 矢部小次郎、平三を討ち取る。
一 三澤小次郎、平三が武者を討ち取る。
一 船越三郎、家子一人を討ち取る。
一 大内小次郎、郎等一人を討ち取る。
一 工藤八が〔手に〕工藤六、梶原九郎を討ち取る。
    正月廿一日
人々云はく、「景時兼日、駿河國内吉香小次郎は、第一の勇士なり。密かに若し、上洛を欲するの時、彼の男の家の前を過ぐるにおいては、怖畏ふい有るべからず。」の由、發言すと云々。
・「相摸介平朝臣義澄」三浦義澄。この日に病没した。梶原景時の変では景時の鎌倉追放を支持した。享年七十四歳。
・「梶原六郎・同八郎」景時息の梶原景国と梶原景則。
・「手討」白兵戦での刀剣によるもの。当時は馬上での弓矢による討ち取りが圧倒的に多かったことを意味している。
・「源太左衞門尉」景時長男梶原景季。
・「平次左衞門尉」景時次男梶原景高。
・「狩野兵衞尉」狩野太郎兵衛重宗か。稲毛重成の兄で梶原景時娘を妻とした稲毛重忠の子という。
・「工藤八が〔手に〕工藤六」というのは、工藤八郎の手によって〔それに工藤六郎が助太刀して〕、の意であろう。
・「梶原九郎」景時息の景連。

「械原」この「械」には、罪人の手足に嵌めて自由を奪う木製の刑具の意がある。挑発的な謂いであったか。
 景時の謀叛の企てが最後に記されているが、これは例えば「吾妻鏡」のその後の記事、同年正月二十八日の条で武田信光(=伊沢信光)から、景時は朝廷から九州諸国の総司令に任命されたと称して上洛、甲斐源氏の棟梁武田有義を将軍に奉じて反乱を目論んだというまことしやかな報告が載るが、信じ難い。土御門通親や徳大寺家といった京都政界と縁故を持っていた景時は、幕府に見限られた以上、公家附の武士として朝廷に仕えようとしたものと見られる。寧ろ、狐ヶ崎での突発的なトラブルの挑発方の方が怪しい。ウィキの「梶原景時の変」には、『景時一行が襲撃を受けた駿河国の守護は時政であり、景時糾弾の火を付けた女官の阿波局は時政の娘で、実朝の乳母であった。この事件では御家人達の影に隠れた形となっているが、景時追放はその後続く北条氏による有力御家人排除の嚆矢とされる』とある。
「大虛」大空。
「咳唾を拾う」「咳唾」は咳払い。「咳唾がいだたまを成す」の故事(本来は、何気なく口をついて出るちょっとした言葉でさえ珠玉の名言となるの意から、詩文の才能が極めて豊かであることを言う)に引っ掛け、景時の一言一句に御世辞を言うこと。
※1睞めんらい」「※1」=「耳」+「丐」。不詳。「眄」なら、流し目で見る、「睞」は横目で見る、であるから、ちょとでも目を懸けて貰う、の謂いか。
※2そがれて」「※2」=「金」+「殺」。「ぐ」と同意であろう。
「羅網に榮纏せらるゝ」カスミ網に絡め獲られる。]



      ○勝木七郎生捕らる 
 畠山重忠廉讓
同二年二月、賴家卿、御所さぶらひに出給ひ、波多野三郎盛通に仰せて、「勝木かつきの七郎則宗のりむねを生捕りて參らすべし。是は近仕の侍なりといへども、景時に同意の由、たしかに申すに依てなり」盛道、即ちうしろに𢌞りて、勝木を懷きて、押伏おしふせんとす。則宗は相撲すまふの達者なり。筋力人に越えたりければ、右の手をふり放ち、腰刀こしがたなを拔きて、盛通を刺さんとす。畠山重忠、折節そばにありて、居ながらかひな差延さしのべて、則宗がこぶしを刀と共に握加にぎりくはへ、その腕を折敷をりしきければ、左右なく捕られたり。和田義盛に預けて子細をとはせらる。勝木則宗申しけるは、「梶原景時鎭西を管領くわんりやうすべきの由、宣旨を請ひ申す、急ぎ京都に上洛すべしと九州の一族どもふれ遣す。それがし、契約のおもむきある故に、狀をしたゝめて九國の輩に送り候。この外には何の知りたる事も候はず」と申す。まづ義盛に仰せていましめ置かれ、波多野三郎盛通が則宗を生捕りたる勸賞けんじやうの沙汰あり。廣元、行光、是を奉行す。眞壁糺内まかべのきうないと云ふ者、盛通に宿意やありけん進み出でて、「勝木を生捕しは盛通が高名にあらず、畠山重忠の手柄なり」とぞ妨げ申しける。賴家卿、きこし召され、「然らば眞壁と畠山を石の壼に召して決判すべし」とて兩人をぞ召されける。重忠申されけるやう、「その事更に存知せず。盛通の手柄なりと承り及ぶ所なり」とて御前をまかり立ちて、侍所に歸り來り、眞壁に向ひて申されけるは、「斯様かやうさかしらは、人に付け世に付けて、尤も益なき事なり。凡弓箭およそきうせんに携はるならひいつはりなくわたくしを忘るを以て本意とす、若夫もしそれ勳功の賞につのらんと思はば、ぢきに則宗を生捕たる由を申さるべし。何ぞ重忠を指し申されんや。彼の盛通は譜代の勇士なり。敢て重忠が力を借り申されんや」と有りければ、眞壁、深く信伏しんぶくし、面目なくぞ覺えたる。重忠の廉譲れんじやう、誠に武士ものゝふの道を守る。是を仁義の侍とは名付けたりと、聞く人感じ思ひけり。小山をやまの左衞門尉が舎弟五郎宗政は、年來當家の武勇、ひとり宗政にあるの由、自讃荒涼の振舞を致しながら、此度、景時が権威に恐れて、諸將連署の判形を加へざる事は、武名を落して恥を忘れたり。向後、さだめて手柄の腕立うでだては一ごんを吐出すとも聞入る人もあるべからず。重忠の心ざしにははるかに替り侍ると各互おのおのたがひに沙汰しけり。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十六の正治二(一二〇〇)年二月二日及び六日に基づく。なお、直接話法を自然にするために、訓読を一般の読みとは変えてある。
〇原文
二日戊午。陰。南風烈。申剋甚雨。雷鳴二聲。今日出御々所侍。仰波多野三郎盛通。被生虜勝木七郎則宗。依爲景時餘黨也。是多年奉昵近羽林之侍也。相撲達者。筋力越人之壯士也。盛通進出則宗之後懷之。則宗振拔右手。拔腰刀。欲突盛通之處。畠山次郎重忠折節在傍。雖不動坐。捧左手。取加則宗之擧於刀腕不放之。其腕早折畢。仍魂惘然而輙被虜也。即給則宗於義盛。義盛於御厩侍問子細。則宗申云。景時可管領鎭西之由。有可賜 宣旨事。早可來會于京都之旨。可觸遣九州之一族云々。契約之趣不等閑之間。送狀於九國輩畢。但不知其實之由申之。義盛披露此趣之處。暫可預置之由。所被仰也。
〇やぶちゃんの書き下し文
二日戊午。陰る。南風烈し。申の剋、甚だ雨ふる。 雷鳴二聲。今日、御所の侍に出御。波多野三郎盛通に仰せて、勝木七郎則宗を生けらる。景時の餘黨たるに依つてなり。是て、多年、羽林に昵近じつきんし奉るの侍なり。相撲の達者、筋力、人に越ゆるの壯士なり。盛通、進み出で則宗の後から之をいだく。則宗、右手を振り拔き、腰刀を拔き、盛通を突かんと欲するの處、畠山次郎重忠、折節、傍らに在り、坐を動かずと雖も、左手を捧げ、則宗が擧刀にぎりがたなかひなに取りへ之を放たず、其の腕早くも折り畢んぬ。仍つて、魂、惘然ばうぜんとしてたやすいけどらるなり。即ち、則宗を義盛に給ふ。義盛、御厩侍おんうまやざむらひに於いて子細を問ふ。則宗、申して云はく、
「景時、鎭西を管領すべきの由、宣旨を賜はるべき事有り。早く京都に來會すべきの旨、九州の一族に觸れ遣はすべし。」と云々。
「契約の趣き、等閑なほざりならざるの間、九國の輩に狀を送り畢んぬ。但し、其の實を知らず。」
との由、之を申す。義盛、此の趣きを披露するの處、
「暫く預け置くべし。」
との由、仰せらるる所なり。
・「勝木七郎則宗」彼はここで許され、出身地であった筑前国御牧みまき郡(現在の遠賀郡)に帰国、後に鳥羽院の西面の侍となったが、承久の乱で京方に加わったために所領を没収、一族は離散した(角川書店「日本地名大辞典」に拠る)。
・「則宗、右手を振り拔き、腰刀を拔き、盛通を突かんと欲するの處、畠山次郎重忠、折節、傍らに在り、坐を動かずと雖も、左手を捧げ、則宗が擧刀を腕に取り加へ之を放たず、其の腕早くも折り畢んぬ」則宗は盛通が背後から抱えている状態から、自身の右手を上方へ力任せに引き抜くと矢庭に帯刀した小刀さすがを抜刀(恐らくは自身の左手から)、押さえつけている背後の盛通を刺そうとした。その時、畠山次郎重忠が丁度、則宗の右隣に着座していたが、彼は座ったそのままですっと左手を伸ばすと、則宗の刀を握った手をその左腕で巻き込んで離さず、しかも、間髪を入れず、則宗の右腕をへし折った、のである。臨場感のある描写と、「坂東武士の鑑」と讃えられた重忠の沈着と、かの鵯越えの逆落としで馬を背負った無双の腕力が味わえる名場面である。筆者の、ここを採用した思いが私には、よく分かる。

次は、なかなか絶妙に面白い各人の発言である。
〇原文
二月大六日壬戌。晴陰。雪飛風烈。今日。則宗罪名幷盛通賞事。有其沙汰。廣元朝臣。善信。宣衡。行光等奉行之。爰有眞壁紀内云者。於盛通成阿黨之思。生虜則宗事。更非盛通高名。重忠虜之由憤申之。仍於石御壺。被召决重忠与眞壁之處。重忠申云。不知其事。盛通一人所爲之由。承及許也云々。其後。重忠歸來于侍。對眞壁云。如此讒言。尤無益事也。携弓箭之習。以無横心爲本意。然而客爲懸意於勳功之賞。成阿黨於盛通者。直生虜則宗之由。可被申之歟。何差申重忠哉。且盛通爲譜第勇士。敢不可借重忠之力。已申黷譜第武名之條。不當至極也云々。内舎人頗赧面。不及出詞。聞之者感嘆重忠。其後。小山左衞門尉。和田左衞門尉。畠山次郎已下輩群集侍所。雜談移剋。澁谷次郎云。景時引近邊橋。暫可相支之處。無左右逐電。於途中逢誅戮。違兼日自稱云々。重忠云。縡起楚忽。不可有鑿樋引橋之計難治歟云々。安藤右馬大夫右宗〔生虜高雄文學者也。〕聞之云。畠山殿者。只大名許也。引橋搆城郭事。不被存知歟。壞懸近隣小屋於橋上。放火燒落。不可有子細云々。亦小山左衞門尉云。弟五郎宗政者。年來當家武勇。獨在宗政之由自讃。而怖今度景時之威權。不加判形於訴状。墜其名條。可耻之。向後莫發言云々。宗政雖爲荒言惡口之者。不能返答云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
六日壬戌。晴れ、陰る。雪、飛び、風、烈し。今日、則宗が罪名幷びに盛通が賞の事、其の沙汰有り。廣元朝臣・善信・宣衡・行光等、之を奉行す。爰に眞壁紀内まかべのきないと云ふ者有り。盛通に於いて阿黨の思ひを成し、
「則宗を生け虜る事、更に盛通の高名に非ず。重忠、虜る。」
の由、之を憤り申す。仍つて石の御壺に於いて、重忠と眞壁を召し、决せらるるの處、重忠、申して云はく、
「其の事を知らず。盛通一人の所爲の由、承り及ぶばかりなり。」
と云々。
其の後、重忠、侍に歸り來たり、眞壁に對して云はく、
「此くのごとき讒言、尤も無益の事なり。弓箭きうせんの習ひに携り、横心わうしん無きを以つて本意と爲す。然れども、客、こころを勳功の賞に懸けんが爲、阿黨を盛通に成せば、ぢきに則宗を生け虜るの由、之を申さるべきか。何ぞ重忠を差し申さんや。且つは盛通、譜第ふだいの勇士たり。敢へて重忠の力を借るべからず。已に譜第の武名を申しけがすの條、不當の至極なり。」
と云々。
内舎人うどねり、頗るおもてあからめ、詞を出すに及ばず。之を聞く者、重忠を感嘆す。其の後、小山左衞門尉・和田左衞門尉・畠山次郎已下の輩、侍所に群集ぐんじゆし、雜談、剋を移す。澁谷次郎云はく、
「景時、近邊の橋を引き、暫く相ひささふべきの處、左右さう無く逐電し、途中に於いて誅戮ちうりくに逢ふ。兼日の自稱に違へり。」と云々。
重忠云はく、
こと楚忽そこつに起こり、うがち、橋を引くのけい、有るべからず。難治か。」と云々。
安藤右馬大夫右宗みぎむね〔高雄の文學を生け虜る者なり。〕、之を聞きて云はく、
「畠山殿は、只だ大名許りなり。橋を引き、城郭を搆ふる事は、存知せられざるか。近隣の小屋を橋の上にこぼち懸け、火を放ち燒き落すこと、子細有るべからず。」
と云々。
亦、小山左衞門尉云はく、 「弟五郎宗政は、年來としころ、當家の武勇、獨り宗政に在るの由、自讃す。而るに今度このたび景時の威權を怖れ、判形はんぎやうを訴状に加へず、其の名をおとすの條、之を耻づべし。向後、發言すること莫かれ。」
と云々。
宗政、荒言惡口の者たりと雖も、返答に能はずと云々。
・「眞壁紀内」真壁秀幹。「内」は後に出る官職「内舎人うどねり」の略。 ・「阿黨の思ひ」個人的な怨恨や復讐の感情。
・「横心」邪まなる心。不当な意図。
・「然れども、客、意を勳功の賞に懸けんが爲、阿黨を盛通に成せば、直に則宗を生け虜るの由、之を申さるべきか。何ぞ重忠を差し申さんや。且つは盛通、譜第の勇士たり。敢へて重忠の力を借るべからず。已に譜第の武名を申しけがすの條、不當の至極なり。」いい台詞である。以下に訳す。
・「然しながら、貴殿は(真壁を指す)――勲功の褒賞ばかりが頭にあり――いや! 違う! 盛通をただ恨んでいるがためだけじゃ……そのためにかような下らぬ謂いを成したので御座ろうが。しかし、ここは、やはり、彼、盛通一人がじかに則宗を生け捕った、と申すが正しきことで御座ろう! どうして、この重忠をわざわざ申し出だす必要が、これ、御座ろうか! しかも盛通は先祖代々の勇士である! 敢えて、この老体の重忠なんどの力を借りる必要、これ、御座ろうや! かくも彼の、先祖代々の、その武名の誉れを、これ、ちゃちゃを入れて穢すの条、甚だ以って不当の極みである!
・「景時、近邊の橋を引き、暫く相ひ支ふべきの處、左右無く逐電し、途中に於いて誅戮に逢ふ。兼日の自稱に違へり。」……そもそもが景時、自身の館にて、近々の橋を皆、悉く引き落として立て籠り、暫くの間、持ち堪えるという戦術をとるがよいに、そうしたことを全くせず、京へ向けて遁走し、途中に於いてかくもむざむざと殺戮さるるに逢う。これは、いつものあの男の、石橋を叩いて渡るに若かずと自身が申しておった、かの用心深さとは大分、ちごうておりますのう。――
・「縡、楚忽に起こり、樋を鑿ち、橋を引くの計、有るべからず。難治か。」……いや、ことは急に勃発したによって、樋を掘って水を引いたり、橋を引いて進路を断つといった計略を致すいとまも、これ、無かったに違いない。」なかなかにそうしたことは、これ、急に成すは、難しいことではないか?――
・「安藤右馬大夫右宗」信濃国出身。謂いからは、地方での実戦経験が豊富なようである。 ・「畠山殿は、只だ大名許りなり。橋を引き、城郭を搆ふる事は、存知せられざるか。近隣の小屋を橋の上に壞ち懸け、火を放ち燒き落すこと、子細有るべからず。」……失礼ながら、平家に永く仕えておられた畠山殿は、その筋の大々名でおられる故、野戦の実戦に於いて周辺の橋を引き崩し、城砦の防備を構えるといった仕儀については、これ、御存知でないようで御座る、の。近隣の住民の家屋を壊し、橋の上に崩し掛け、火を放って一緒に焼き落とせば、これ、実に造作ないことにて、御座るて。――]



      ○和田義盛侍所の別當に還補す
同月五日に和田左衞門尉義盛、二度ふたたび侍所の別當に還補せらる。故賴朝卿、天下一統に歸して關東の最初、治承四年に三老一別當を定めらる。義盛この職に補せられしを、建久三年に梶原景時之を羨み、只一日その職をりはべらんと望みしかば、その折節、義盛、服暇ふくかついでを以て白地あからさまに之に補せられたり。景時、様々奸謀を𢌞めぐらし、つひにこの職を返さず。和田、いきどほり思ひけれども、城狐じやうこ權盛けんさかりなりければ、まげて多年を送りけり。既に景時、靑雲のいきほひ盡きて、運命たちまちに駿州狐崎きつねざきの路頭に極りければ、義盛、こゝに於て本職に還補せらる。景時は所司しよしの役職たり。それ、名とうつはものとはかさずとこそいふに、假初かりそめに景時、是を奪ひて、數年の間この職に居しほしいまゝに權威を振ふ。世の疎むところ、人のにくむところ、天道、暗からず。その亡ぶる事、正に遲しとかたの人は思ひ合へり。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」の正治二(一二〇〇)年二月の以下記事に基づく。
〇原文
五日辛酉。陰。和田左衞門尉還補侍所別當。義盛。治承四年關東最初補此職之處。至建久三年。景時一日可假其號之由。懇望之間。義盛以服暇之次。白地被補之。而景時廻姧謀。于今居此職也。景時元者爲所司云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
五日辛酉。陰る。和田左衞門尉、侍所別當に還補す。義盛、治承四年、關東で最初に此の職に補するの處、建久三年に至り、景時、一日いちじつ其のるべきの由、懇望の間、義盛、服暇ぶくかついでを以つて、白地あからさまに之を補せらる。而るに景時、姧謀かんぼうを𢌞らし、今に此の職に居るなり。景時、元は所司たりと云々。
・「服暇」近親者が死んだ際に一定期間喪に服して休暇を取り、家にひきこもること。忌服きぶく
・「白地に」一時的に。ほんの少しの間。
・「姧謀」「奸謀」に同じい。
・「所司」(侍所の)副官。

「三老」江戸時代の家老職に相当するものか。畠山重忠・和田義盛・北条時政の三名とされる。
「一別當」侍所の別当長官。和田はこの職への拘りが強く、確かに切に着任を望んでいのではあるが、もし、「三老」に選ばれていたとすれば、彼が更にこれを兼任というのはどうか? 侍所別当は幕府の生命線を握る最たる重職でもある。私は、この景時を別当とする人事は寧ろ、自然な頼朝自身の自律的な意志(加えて、近々の三浦や和田の勢力を抑止したい北条時政の意向)によるものであったのではなかったかと疑っている。和田の我儘を取り敢えず、満足させて、景時に工作させて、事実上、移譲させた。だからこそ頼朝はその後に義盛を還補させなかったし、頼家も何も言わなかった、と考えた方が理解し易い。
「還補」「補」は本書では一貫して「ふ」と読み、「ほ」とはルビを振らないからこれも「かんふ」若しくは「かんぷ」と読んでいるものと思われる。
・「城狐」城狐社鼠。「晋書」謝鯤伝に基づく故事成句。城にすむ狐とやしろにすむ鼠を除くためには、城や社を壊さなければならず、手を下し難いところから、主君の側に仕えている邪まなる家来、佞臣。また、それが除き難いことの譬えとしても使われる。]



    〇梶原叛逆同意の輩追捕
同二十四日梶原父子が所領及び美作國の守護職を沒收もつしゆし、駿州の住人芦原、工藤、飯田、吉高等きつかうら勸賞けんじやう行はる。京都の内に梶原が餘黨是ある由、安達源三親長ちかながに仰せて上洛せしめらる。爰に安房判官代隆重は、景時が朋友として斷金だんきんむつかたかりしかば、兼てよち一の宮のじやうくはゝり、今度、景時に相倶して、駿河に至り、合戰のきざみきずかうぶり、引退しりぞきて、松の梢に身を隱し忍びて、其夜を明しけるが、軍兵分散して後に近きあたりの村に出でて食を求め侍けるを、糟屋かすやの藤太有季ありすゑが郎從、これを見咎めて生捕いけどりたり。武田兵衞尉有義も景時に同意して、ひそかに上洛せんとす。伊澤五郎信光、聞付きゝつけて、甲州よはせ向ひければ、一家ことごとく逐電して行方ゆくかたなし。景時が一味同意の狀を取落し、帳臺ちやうだいにありけるを、拾取ひろいとりて賴家卿に奉る。梶原叛逆の事、愈々疑ふ所なしとて、一族餘類きびしく尋ね搜されけり。翌月二月二十日、安達あだちの源三京都より歸參して、播磨國の住人追捕使ついふし芝原太郎長保を召具めしぐして來れり。安達、言上しけるは、「京都の所司佐々木左衞門尉廣綱と相共に景時が五條坊門の家を追却つゐきやくし、郎從搦捕からめとり、その白狀によつて、江州富山莊とみやまのしやう馳向はせむかひ、長保を生捕まゐり候」と申す。小山左衞門尉朝政に仰せて、推問せらる。長保申けるは、「それがし播州ばんしうの追補使たり。景時は又守護職たるに依て、暫く奉公を致すしかども、叛逆の事に於ては露ばかりも存知せず」と申しければ、先づ朝政にぞ預けられける。

[やぶちゃん注:ここは時計が少し巻き戻っており、「吾妻鏡」巻十六の正治元(一二〇〇)年正月二十四日・二十五日・二十六日・二十八日に拠る。特に大きな相違点は認められない。 「帳台」寝殿造りの母屋内に設けられる調度の一つ。浜床はまゆかという正方形の台の上に畳を敷き、四隅に柱を立ててとばりを垂らしたもの。貴人の寝所又は座所とした。
「安房判官代隆重」佐々木高重(?~承久三(一二二一)年)。彼は後に許され、阿波国守護代職も失っていない(本文は「安房」であるが、これは我々の今言う「阿波」と思われる。これは誤りというよりも、表記の両有性があったことに由来するものと思われ、実際に千葉の「安房」は古くは「阿波」とも表記されている)。後、承久の乱で阿波国内の兵六百人を率いて上京、佐々木経高の率いていた淡路の官軍と合流した。しかし、圧倒的な鎌倉軍をの前に、上皇方は敗走、佐々木経高・高重父子は討死している。
「武田兵衞尉有義」(?~正治二(一二〇〇)年?)甲斐源氏の棟梁・武田信義の子。元は平重盛の家臣であったが、治承四(一一八〇)年、父に従って一族と共に反平家の兵を挙げ、源頼朝軍に合流してからは源範頼の下で西国を転戦する。弓馬の道に優れたが、文治四(一一八八)年の鶴岡八幡宮での大般若経供養の式の場で頼朝の御剣役を命ぜられ、これを渋ったため、頼朝にかつて彼が重盛の御剣役を務めていたことを面罵一喝され、満座の中で大いにその面目を失ってからは凋落、書かれているように本事件によって逐電、失踪した。参照したウィキの「武田有義」によれば、『この過程においては、有義を征夷大将軍に擁立するという趣旨の景時の密書がその居館から発見されたとの申し立てが、弟の伊沢信光によって行われた。この事件以降『吾妻鏡』においては有義の名は現れず、「伊沢」「武田」両姓が併記されていた信光の姓が「武田」に統一され、武田氏棟梁の地位は信光に移ることになったと考えられている』とある。
「伊澤五郎信光」(応保二(一一六二)年~宝治二(一二四八)年)は甲斐武田氏第五代当主。第四代当主武田信義五男。前注で示した通り、実は武田有義の弟である。
「芝原太郎長保」彼は後に無実として許されている。]



      ○壽福寺建立 
 榮西禪師の傳
閏二月十二日、尼御臺所の御願として一つの伽藍を建立し給ふ。昔、故下野國司源義朝の鎌倉龜谷かめがやつ御館みたちは、先祖八幡太郎義家、奥州合戰の時此所に居住し給ひ、忠戰ちうせんの大功をとげ給ひしかば、義朝に至るまで、世々相繼ぎて御館みたちとなりしを、中比より荒廢して、松栢、枝を交へ、梟の聲、すさまじく、荊棘けいきよくまとうて、きつねすみかさはがしかりけるを、右大將家、世を治め給ひけるより、岡崎軍四郎義實、既に一宇の草堂を造りて義朝の菩提をとぶらひけり。右大將家、御母儀の忌日を以てこの草堂にして佛事を執行とりおこなはる。その後、土屋次郎義淸が領地となる。誠にすて難き舊跡なりとて、民部丞行光大夫さくわん入道善信承り、件の地を巡檢して、即ちこの地を以て葉上房はがみばうの律師榮西やうさいに寄附せられ、淸浄結界しやうじやうけつかい勝境しようきやうとぞ定められける。不日ふじつに土木の功を遂げて、落慶供養ありけり。導師は即ち律師葉上房上人なり。本尊はこれ籠釋迦かごしやかと號す。籠の上を百重ももへ貼りて、金色こんじき相好さうがうみがく、烏瑟うしつひかり、雲に輝き、鵞王がわうよそほひ、地に映ず。脇士けうじの文殊普賢はこれ定惠ぢやうえ悲智ひちの二門をへうし、衆生済度の方便をあらはせり。そもそも葉上房律師榮西は備中國吉備津きびつ宮の人、其先は、薩摩守賀陽かやの貞政が曾孫なり。その母田氏たうじ、懐胎八月やつきにして誕生す。年初はじめて八歳にして倶舍頌ぐしやのじゆを讀む。十一歳にしてぐんの安養寺の靜心じやうしん法印を師として台教たいけうがくし、十四歳にして落髪し、十八歳にして千命せんみやう阿闍梨に虛空藏求問持こくうざうぐもんぢの法を受け、十九歳にして京師けいしに赴き、又伯州の大山に登り、基好法師に密教の奥蘊おううんを受け、仁安三年夏四月、入宋につそうして、四明丹丘めいたんきうの靈場を拜し、天台山に登り、新章疏しんしやうしよ三十餘部六十卷を得て、歸朝の後に之を明雲座主めいうんざすに奉る。平大納言賴盛卿、深く歸敬ききやうあり。平氏没落して、賴盛、又卒せらる。文治三年、榮西、又入宋し、是より西域に赴かんとするに、北狄ほくてき既に中國に背きて、通路ふさがり、跋渉叶難ばつせふかなひがたし。赤城せきじやうに至り向うて、虛菴敞きあんしやう禪師に萬年寺に謁す。師の曰く、「つたへ聞く、日本は密教、今、さかんなりと、我が禪法と趣き一なり」。榮西、是に參じて、大道をあきらむ。敞禪師、即ち僧伽梨衣そうがりえを付して曰く、「昔、釋迦老子、既に圓寂に臨みて、正法眼藏涅槃妙心實相無相しやうぼうげんぞうねはんめうしんじつさうむさうの法を以て、摩訶迦葉まかかせふに付屬し給ふ、二十八てんして達磨に至り、六傳して曹溪さうけいに至り、又、六傳して臨濟に至り、是より八傳して黄龍わうりうに至る。予は其八代の法孫なり。今この租印そいんを汝にさづく。日本に歸りて正法を開き、衆生を開示すべし。又菩薩戒はこれ、禪宗門中もんじうの一大事なり。汝、く之を受持せよ」とて、應器おうき、坐具、拄杖しゆじやう白拂はくはう以下ことごとく授けらる。建久二年に歸朝して、盛に禪教ぜんけうを興す。榮西身のたけ卑矮ひわいなり。人或はかろしめ嘲ける。榮西その聲に應じて曰く「虞舜ぐしゆん赤縣せきけんに王たり、晏嬰あんえい齊國せいこくしやうたり。皆未だたけ高き事を聞かず」と同學のともがら大に信伏す。されども實には其短を恥ぢて、求聞持ぐもんぢの法を以て一百日行はる。はじめ、入壇の時、堂前の柱に身のたけきざみ置かれしが百日滿じて、柱に較べられけるに、四寸餘延びられける。奇特きどくの事と感じ合へり。建久三年に香椎かしひ神宮のほとりに報恩寺を構へて、はじめて菩薩戒の布薩ふさつを行ひ、同じき六年に筑紫の博多に聖福寺しやうふじくじを草創あり。本朝に菩提樹のある事は榮西律師の渡されし所なり。凡、到る所皆佛法さかりひろまる事、佛神の冥慮みやうりよに叶へるが故なりと、諸宗の碩德せきとく許し給ふ。建仁二年の春、王城の東にあたつて、禪苑ぜんゑんを經營あり。即ち今の建仁寺、是なり。建保元年に僧正に任ぜられ紫衣を賜はつて、綱位かうゐの重職に預る。今此相州鎌倉の龜谷に壽福寺を營まれ、伽藍のかまへ、奇麗嚴淨なり。尼御臺所、京都にして十六羅漢の像を圖せしめ、金剛壽福寺に寄進あり。葉上房律師榮西、開眼供養行はれ、説法教化けうげありしかば、尼御臺所をはじめて聽聞の貴賤隨喜の涙、たもとをしぼる。寺院の繁昌、宗門の弘興ぐこう、この時に當てさかんなり。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十六の正治二(一二〇〇)年閏二月十二日・十三日を元にしつつ、湯浅佳子「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、栄西の経歴は「元亨釈書」巻二の「伝智」一之二「建仁寺栄西」に基づくとある。
「岡崎義実」(天永三(一一一二)年~正治二(一二〇〇)年)は頼朝挙兵以来の宿老として重用されたが、老年になって出家後は不遇であったようで、この壽福寺建立の直後の正治二年三月十四日に、政子を訪ね、家門の窮迫を訴え、政子は頼家に所領を義実へ与えるように取りなしている。彼は、この年の六月に八十九歳で長寿を全うした。
「土屋義淸」(?~建暦三(一二一三)年)岡崎義実の子であったが、叔父土屋宗遠の養子となっていた。当初は平家に仕えたが、後、頼朝に従って大学権助となった。後、和田の乱で和田義盛に組して流れ矢に当たって戦死する。
「右大將家御母儀の忌日を以てこの草堂にして佛事を執行はる」「右大將家御母」とは源義朝の正室で頼朝の母である熱田大宮司藤原季範の娘由良御前(ゆらごぜん ?~保元四(一一五九)年)。ウィキの「由良御前」によれば、『当時の熱田大宮司家は、男子は後に後白河院の北面武士となるものが多く、女子には後白河院母の待賢門院や姉の統子内親王(上西門院)に仕える女房がいるため待賢門院や後白河院・上西門院に近い立場にあったと思われる。由良御前自身も上西門院の女房であった可能性が示唆されている』。但し、この仏事由緒は「吾妻鏡」には載らない。しかも由良の祥月命日は三月一日である。本記載の原資料は私には不明。
「不日に」間もなく。
「葉上房の律師榮西」(永治元(一一四一)年(異説あり)~建保三(一二一五)年)は本邦の臨済宗開祖。「ようさい」とも。房号は「やうじやう(ようじょう)」と音読みするのが普通。京に建仁寺を創建して天台・真言・禅の三宗兼学の道場とし禅宗の拡大に努めた。また、茶を宋より移入し「喫茶養生記」を著したことでも有名。
「籠釋迦」は、実際には粘土の原型の上に布を貼って作られたものである。
「相好」仏身に備わる三十二の「相」とさらに細かい美点である八十種の「好」の特徴の総称。 「烏瑟」烏瑟膩沙うしつにしゃの略。肉髻にくけい(仏の三十二相の一つで頭頂部に一段高く碗形に隆起している部分)のこと。
・「鵞王」やはり三十二相の一つである縵綱相。一切衆生を漏らさず救い取るために仏には鵞鳥の水かきのように手の指と指の間に膜があることを指す。特にその「王」という意で釈迦の別名でもある。
・「定惠ぢやうえ」「ぢやうゑ」が正しい。禅定と智慧。鳥の両翼や車輪に譬えられ、互いに助けあって仏道を成就させるもの。
・「悲智」慈悲と智慧。衆生に対する、仏菩薩の慈しみ憐れむ深奥な心と広大無辺の知性を謂う。
・「備中國吉備津」栄西は現在の岡山県北区吉備津にある吉備津神社の権禰宜賀陽かやの貞遠の子として誕生。但し、ウィキの「栄西」には誕生地は賀陽町かようちょう(岡山県中央部に位置した旧町名。現在の岡山県加賀郡吉備中央町上竹)という説もあるとある。以下の栄西の事蹟の幾つかの注でもウィキを主に参考にした)。 ・「田氏」不詳。でん姓は坂上田村麻呂の子孫、田村氏が苗字を省略して田姓を称したものとされる。戦国時代より丹波国で見られ、現在も兵庫県丹波地方で見られる。参照した「ニコニコ大百科」には、『富山県高岡市には姓が見られる。地形姓か』とあり、懐かしい。私は中高生時代に高岡に住んでいたが、何人も「」さんがいた。
・「倶舍頌」インドの世親著になる仏教哲学の基本的問題を整理した「阿毘達磨倶舎論あびだつまくしゃろん」の頌(梵語やパーリ語の詩体の一つで、仏教では仏菩薩の功徳や思想などを述べたのことを言う)。本書は世親の六百余からなる「阿毘達磨倶舎論本頌」という本頌と、世親自らがそれに註釈を書き加えた「阿毘達磨倶舎釈論」からなり、一般に「倶舎論」という時は後者の「釈論」を指すが、ここではわざわざ「倶舍頌」として、八歳で注釈なしに「頌」を感得したというニュアンスを示す。
・「安養寺」現在の岡山県岡山市日近にある救世山安養寺。栄西自作栄西禅師木像(高さ一七センチメートルで、祖師堂にある高さ四〇センチメートルの木製頂相の静心像の胎内に納められており、栄西が師に懇望されて自らの姿を水面に映して彫ったという奇仏である)や栄西手植の菩提樹があるらしい(安養寺敏彦氏の「安養寺のページ」の「救世山安養寺」に拠る。この方、自分の姓と同じ安養寺について資料蒐集をされておられる)。
・「台教」天台宗学。
・「虛空藏求問持の法」智慧や知識・記憶を司るという虚空蔵像菩薩の修法で、一定の作法に則って真言を百日間かけて百万回唱える。これを修した行者はあらゆる経典を記憶し、理解して忘れる事がなくなるという(ウィキの「虚空蔵菩薩」に拠る)。
・「伯州」伯耆国。現在の鳥取県。
・「奥蘊」「蘊奥(うんおう・うんのう)」の方が一般的。学問技芸などの奥深いところ。奥義。極意。
・「仁安三年」西暦一一六八年。この前に、栄西は自分の坊号を冠した葉上流を興している。 ・「入宋」ウィキには『形骸化し貴族政争の具と堕落した日本天台宗を立て直すべく、平氏の庇護と期待を得て南宋に留学』した、とある。
・「四明」四明山。浙江省東部の寧波西方にある山。古くからの霊山で、名は「日月星辰に光を通じる山」の意。寺院が多く宋代初期に知礼がここで天台の教えを広めた。
・「丹丘」次の天台山を含む当時の天台州の広域地名。因みに古来、仙人が住む場所のことをも「丹丘」と言った。
・「天台山」中国浙江省東部の天台県の北方二キロメートルにある中国三大霊山の一つ。天台智顗ちぎが五七五年からこの天台山に登って天台教学を確立した。ウィキには『当時、南宋では禅宗が繁栄しており、日本仏教の精神の立て直しに活用すべく、禅を用いることを決意し学ぶこととなった』とある。
・「新章疏三十餘部六十卷」天台教学の経典類。
・「明雲座主に奉る。平大納言賴盛卿深く歸敬あり」「娘への遺言」(HP主のHN等不明だが厖大な考察量に脱帽)の「雑学の世界」のこちらに(アラビア数字を漢数字に代え、注記号を省略した)、『栄西が生まれた備中国を含む西国一帯は白河・鳥羽上皇の信任を得た平正盛・忠盛父子が代々国司を重任し、また、栄西の父・賀陽氏が神官をつとめる備中国一の有力神社の吉備津神社に平頼盛が大檀那として名を連ねていたとも伝えられている。』また、『平頼盛は忠盛と池禅尼の間に生まれ清盛の異腹の弟に当たるが、栄西が入宋を志して筑前の宗像神社の大宮司・宗像氏の下に身を寄せていた時は太宰大弐として現地に赴任して日宋貿易を仕切り、さらに、宗像社の領家職も務めていたから宗像氏とも強い絆を築いていた』。『その平頼盛が二十八歳の青年栄西の仏教界の現状を何とかしたいとの志を支援し、かつ、日宋間の人的交流の活発化も視野に入れて、仁安三年(一一六八)の栄西の初回の入宋に手厚い支援をした事は十分考えられる』。『さらに栄西が宋からの帰国に際して、天台の貴重な典籍「新章疏(しんしょうそ)」三十余部六十巻を天台座主(延暦寺のトップ)明雲に献上した事は、一度は延暦寺で学びながら失望して山を降りたとはいえ、栄西がこの実力者から目をかけられていたことを物語る』。『何しろ明雲といえば、天台座主として十年以上在位していたばかりか、平清盛の護持僧もつとめ、後白河院の寵臣・藤原成親(ふじわらのなりちか)を巡っては院との対立も恐れなかった権勢者でもある』。『清盛の護持僧たる平氏の威力を背景にした明雲が、栄西の入宋に関しては、単に将来性ある有望な弟子の為だけではなく、明雲自身にとっても貴重な天台の典籍入手の機会として、自ら資金援助をしただけでなく平頼盛に支援を強く働きかけたのではないかと私は推測する』。『つまり、平氏の時代、栄西は時の権勢者からの支援に恵まれていたのであった』とある。非常に鋭い考察である。
・「賴盛又卒せらる」頼朝を頼って生き永らえた頼盛の没年は文治二(一一八六)年。
・「文治三年榮西又入宋し是より西域に赴かんとするに、北狄既に中國に背きて、通路塞り、跋渉叶難し。赤城に至り向うて、虛菴敞きあんしやう禪師に萬年寺に謁す」「赤城」赤城峰で天台山の峰の一つ。ウィキには『仏法辿流のためインド渡航を願い出るが許可されず、天台山万年寺の虚庵懐敞に師事』とある。虚庵懐敞は、ものによって「きあんえじょう」とか「こあんえしょう」などの読みが振られている。 ・「僧伽梨衣」僧の着る三衣さんえの一つで僧の蔡正装衣。九条から二十五条の布片を縫い合わせた一枚の布からなる袈裟。大衣だいえ僧伽梨そうぎゃりとも呼び、これを受けること自体が一種の法嗣の証明でもある。
・「圓寂」示寂。涅槃。死去。
・「正法眼藏涅槃妙心實相無相」一切のものを明らかにしつつ、且つ総てを包み込んでいるところの正しい仏法を示す「正法眼藏」、煩悩から脱して悟りきった心のいいようのない穏やかな寂けさを示す「涅槃妙心」、総てのものの真実の姿は相対的な差別のあり方を離れたものであるということを示す「實相無相」という三つの教え。
・「二十八傳して」二十八代に渡って相伝して。
・「租印」祖師から伝法されてきた証の僧伽梨衣。これで法嗣の印可となる。
・「菩薩戒」大乗の菩薩(修行者)が受持する戒。悪をとどめ、善を修め、人々のために尽くすという三つの面を持ち、梵網ぼんもう経に説く十重禁戒・十八軽戒きょうかいなどがある。大乗戒。
・「應器」托鉢のための鉄鉢。
・「白拂」煩悩を打ち払うための柄の先に房を附けた法具。
・「建久二年」西暦一一九一年。
・「卑矮」ひどく小さいこと。
・「虞舜」中国の伝説上の聖天子有虞氏舜。「荀子」によれば帝舜は背が低かったとする。
・「赤縣」王城の地。中国では唐代に中央から近い県を赤といったことによる一般名詞を伝説上の舜の支配する国土に見立てて用いたものであろう。
・「晏嬰」春秋時代の斉の政治家。霊公・荘公光・景公の三代に仕えて憚ることなく諫言を行った名宰相として評価が高い。「史記 管晏列伝」には「六尺に満たず」とあって、周代の一尺は二二・五センチメートルであるから、身長一メートル四〇センチメートル足らずであった。
・「求聞持の法」先の「虛空藏求問持の法」。
・「四寸」約一二センチメートル。
・「香椎神宮」現在の福岡県福岡市東区香椎にある香椎宮。
・「報恩寺」現存。臨済宗妙心寺派。栄西が中国から持ち帰った菩提樹を植え、また茶種を蒔いた日本最初の地とも伝える。
・「布薩」布教。
・「同じき六年に筑紫の博多に聖福寺を草創あり」建久六(一一九五)年、博多に聖福寺(福岡市博多区御供所町にある臨済宗妙心寺派の寺院で、宋人が建立した博多の百堂の跡に建てた)を建立、日本最初の禅寺にして禅道場とした。ウィキには『同寺は後に後鳥羽天皇より「扶桑最初禅窟」の扁額を賜る』とあり、この後、建久九(一一九八)年には「興禅護国論」を執筆、禅が既存宗派を否定するものではなく、仏法復興に重要であることを説いたが、この頃、京都での布教に限界を感じて鎌倉に下向、幕府の庇護を得ようとした、とある。
・「諸宗の碩德許し給ふ」ウィキには『栄西は自身が真言宗の印信を受けるなど、既存勢力との調和、牽制を図った』とある。
・「建仁二年」西暦一二〇二年。建仁寺建立は将軍頼家の影響力が大きかった。
・「建保元年に僧正に任ぜられ」西暦一二一二年。正確には権僧正。ウィキにはこの前、建永元(一二〇六)年には『重源の後を受けて東大寺勧進職に就任』しており、順調な栄進に対し、政治権力に追従する者という『栄西に執拗な批判が向けられたのは、従来の利権を利かせたい者による。よって栄西が幕府を動かし、大師号猟号運動を行ったことは、生前授号の前例が無いことを理由に退けられる。天台座主慈円は『愚管抄』で栄西を「増上慢の権化」と罵っているが、栄西の言動は、むしろ政争や貴族の増上慢に苦しむ庶民の救済と幸福を追求したからに相違ないことは、他の記録から明白である』と、全面的に栄西を擁護している。
・「綱位」僧綱そうごうの位。古くは僧正・僧都・律師。後に法印・法眼・法橋が加えられた。栄西は建暦二(一二一二)年に法印に叙任されている。
・「今此相州鎌倉の龜谷に壽福寺を營まれ」先に見た通り、寿福寺建立は正治二(一二〇〇)年であるから、記述順序に前後の錯誤があるように見えるが、要は本話の話の纏めに時間を巻き戻した、即ち、ここからがコーダということである。
・「宗門の弘興」禅宗(臨済禅)の教えを広め盛んにすること。]



      ○念佛禁斷 
 伊勢稱念房奇特
將軍賴家公天下の政事ただしからず、萬のおほせつたなくおはしましければ、上下疎み參らせ、うらみを含む者はなはだ多し。其中に如何なる天魔の依托えたくしたりけん、道者、僧侶の念佛するをきらひ出で給ふ。同じき年五月にいたつて、念佛禁斷の由仰出され、誰にはよらず、念佛する僧法師をば是非なく捕へて、袈裟をはぎ取り、火に燒きて、捨つべしとなり、比企彌四郎承りて、政所の橋のあたりゆき向ひ、往来念佛の僧を捕へて、袈裟を剝取り、巷にして之を燒く事、日毎にそのかぎりなし。是を見る者、市の如し。皆口々にそしり參せ、彈指つまはじきしてくちびるを飜す。又此人をからめ取りて、牢舍にこめらるゝ者、數を知らず。民のうれへ世のわづらひ、是、只事とも思はれず。佛神三寳の冥慮みやうりよ、諸天龍神りうしん照見せうけんかたがた以てはかり難し。此所ここに伊勢國の修行者、稱念坊と聞えしは道心堅固の念佛者なり。比企彌四郎、之を捕へて、袈裟を剝取りつゝ、火に入てやき棄てんとす。稱念、申しけるやうは「白俗はくぞくの束帶と緇徒しとの袈裟と、其ことはり同じうして、天竺震旦てんじくしんたん、日域まで上古今來こんらいもちひ傳へたり、何ぞあらたに之を禁斷し給ふや。およそ當時の御政務の有樣、佛法世法せはふ共に以て非道を行ひ給ふこと、甚重疊はなはだぢうでうし給へり。すこぶる長久のはかりごとにあらず、ほとんど滅亡のもとゐたり。そもそもこの念佛は三世諸佛の大陀羅尼だいだらに、十方薩埵さつた勝解脱門しようげだつもんなり、出離生死しゆつりしやうじ神方しんはう、往生極樂の靈藥なり。釋尊一代の要法えうぼふにして、諸經所讃しよさんの佛號なり。普賢、文殊をはじめて大乘、實智じつちを根元として、三朝世々の祖師、いづれか是を捨て給へる。諸天擁護おうごまなじりを開き、善神守衞の手を施し給ふ。又この袈裟はこれ解脱幢げだつどう標識へうしなり。上福田ふくでんの妙相なり、諸佛影向やうがうの道場、梵釋歸敬ぼんしやくききやうの衣服とす。四王八りう、この德を仰ぎて、桑門僧侶、の功を貴む。今之をはぎむくり、火にくべ燒捨てられんは、おそらくは惡逆の結構、何事、是にまさらん。印度の弗沙蜜多ふしやみつた、日域の守屋大連もりやおほむらじ、或は震旦三の時も更に替るべからかずや。殊に稱念が袈裟衣けさころもは大道大信を以て顯せし所なれば、燒くとも、よも燒けじ。南無阿彌陀佛」と云ひければ、彌四郎、嘲笑あざわらひ、「其法師に物な云はせそ。早く燒捨てて追遣れ」とぞ下知しける。下部共集りて、袈裟を取て火にうち入れたりけるに、その火自濕おのづからしめり消えて、片端かたはしだにも燒かざりしかば、皆、奇特のおもひをなす。稱念、打笑ひ「それ見給へ、人々」とて本の如く著服ちやくぶくし、行方ゆくがた知らず失せにけり。是によつて、かの禁斷、不日ふじつに破れて世の笑草わらひぐさとぞ成りにける。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十六の正治二(一二〇〇)年五月十二日の条。筆者の頼家指弾の筆鋒は一向に緩まない。
〇原文
正治二年五月大十二日丙寅。羽林令禁斷念佛名僧等給。是令惡黑衣給之故云々。仍今日召聚件僧等十四人。應恩喚云々。然間。比企弥四郎奉仰相具之。行向政所橋邊。剥取袈裟被燒之。見者如堵。皆莫不彈指。僧之中有伊勢稱念者。進于御使之前。申云。俗之束帶。僧之黒衣。各爲同色。所用來也。何可令禁之給哉。凡當時案御釐務之體。佛法世法。共以可謂滅亡之期。於稱念衣者。更不可燒云々。而至彼分衣。其火自消不燒。則取之如元著。逐電云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
十二日丙寅。羽林、念佛名僧等、禁斷せしめ給ふ。是れ、黑衣をにくましめ給ふが故と云々。
仍りて今日、件の僧等十四人を召し聚むるに、恩喚に應ずと云々。
然る間、比企弥四郎、仰せをうけたまはりて之を相ひ具し、政所の橋の邊へ行き向ひ、袈裟を剥ぎ取りて、之を燒かる。見る者、のごとし。皆、彈指だんしせずといふこと莫し。僧の中に伊勢稱念といふ者有り。御使の前に進み、申して云はく、
「俗の束帶・僧の黒衣各々同色として用ゐ來る所なり。何ぞ之を禁じしめ給ふべきや。凡そ當時の御釐務りむていを案ずるに、佛法・世法せはう共に以つて滅亡のと謂ひつべし。稱念が衣に於いては、更に燒くべからず。」
と云々。
而しての分の衣に至り、其の火、おのづから消えて燒けず。則ち、之を取りて元のごとく著し、逐電すと云々。
・「黑衣を惡ましめ給ふ」「黑衣」は緇衣しえ。「こくえ」とも読む。頼家は当時十八歳で正治二年一月五日に従四位上に昇叙、左近衛中将如元(「羽林」はその唐名)となって禁色が許されていた。黒は古くは武官のみに着用が許されたが、出家した僧には慣習によって黒衣の着用が普通に許されていた。手の施しようがない頼家の愚昧さが「吾妻鏡」でも、庶民の指弾(無論、これは焼こうとする下役たちに向けられた批難である)で分かる。
・「比企弥四郎」比企時員。頼家近習。建仁三(一二〇三)年九月の父の比企能員の変で討死。
・「政所の橋」筋替橋。
・「堵」垣。垣根。
・「釐務」官職に伴う事務を治めること。「理務」「釐事」。ここは幕府の征夷大将軍としての実質上の国のまつりごとの意。櫂 ・「解脱幢」解脱幢相。解脱を求める印。袈裟のことを言う。
・「上福田」先の「三寶」(仏・法・僧)供養することによって得られるところの、田が実りを生じるような福徳を生じるもとになるもの、という仏教の常套的な譬え。
・「諸佛影向」あらゆる神仏が仮の姿を以って現れること。
・「梵釋歸敬」「梵釋」は梵王と帝釈天で教徒や修行者を守護する諸天善神の神々。「歸敬」は帰依敬礼きょうらいで、仏を心から信じて尊敬すること。
・「四王八龍」「四王」は四人の守護神たる四天王(東方の持国天・南方の増長天・西方の広目天・北方の多聞天)のこと。「八龍」八大竜王。天竜八部衆に所属する竜族の八王。法華経の序品に登場し、仏法を守護する。難陀なんだ跋難陀ばつなんだ娑伽羅しゃから和修吉わしゅきつ徳叉迦とくしゃか阿那婆達多あなばだった摩那斯まなし優鉢羅うはつら
「印度の弗沙蜜多」世に仏教を弘めたアショーカ王の孫に当たる人物という。彼は自らの名を後世に残すには如何にすれば良いかを群臣に問い、群臣の一人の、善悪両極端の二つの道があると言い、一つは先王アショーカの如く、仏教を擁護して八万四千の塔を造立するか、仏教を弾圧して堂塔を破壊し、僧尼を殺戮することであると進言、彼は、自分には先王ほどの器量はなく、善なる術をとることは出来ないとして仏教の弾圧を開始、堂塔を破壊、僧尼を殺戮したとされる(以上は真言宗泉涌寺派大本山法楽寺公式HPの「部派仏教について -大衆部所伝の僧伽分派説-」に拠った)。
「日域」本邦。
「守屋大連」物部守屋(?~用明天皇二(五八七)年)は敏達天皇の代に大連の職位にあって当時蔓延した疫病の原因を大臣蘇我馬子の仏教崇拝にあるとして塔・仏殿・仏像などを破却した。後、丁未ていびの乱で馬子によって一族郎党、滅ぼされた。
「震旦三武」三武一宗の法難のこと。中国で仏教を弾圧した事件の中で、規模も大きく、また後世への影響力も大きかった四度の廃仏事件を、四人の皇帝の廟号や諡号をとって、こう呼ぶ。「三武一宗の廃仏」とも。北魏の太武帝(在位は四二三年~四五二年)・北周の武帝(在位は五六〇年~五七八年)・唐の武宗(在位は八四〇年~八四六年)で、これを「三武」とする。因みに「一宗」は後周の世宗(在位は九五四年~九五九年)を指す(以上はウィキの「三武一宗の法難」から引いた)。]



      ○芝田次郎自害 
 工藤行光郎等兄弟働
奥州の住人芝田次郎は聞ゆる武勇の兵なり。今度、梶原景時が叛逆にくみして、要害を堅くし、壘を深くして、軍兵を招く由聞えければ、子細を尋問はれんが爲に、使節度々に及ぶといへども、かまひと稱して、めしに應ぜす。是に依て宮城四郎を討手うつての御使として、奥州に差遣さしつかはさる。八月二十一日、甘繩のいへ首途かどでして御所にまゐりしかば、鞍置馬くらおきうまを給はる。中野五郎能成、是を庭上に引きたてたり。兵庫頭廣元、上意のおもむき申し渡さる。宮城即ちつつしんで承はり、家子三人郎等十餘人を相倶して、御所よりすぐに奥州にそむかひける。九月十四日、かの地に下著げちやくし、近邊の武士三十餘人を召集めしあるめ、まづ使を以て云はせけるは、「將軍家内々御不審に思召ぼしめすことあり、使節を以て度々召さるれども、所勞と稱して、召に慮ぜす。いよいよ子細あるべきやうに思召さるゝ故に、宮城に仰せて、つぶさに子細を尋ね問ひ申すべし、との上意に依て罷向まかりむかひはべり。急ぎこれへ參られ、事の旨を宮城に申開かるべし。猶も擬議ぎぎせらるゝに於ては、それへ向うて承らん」とぞ云遣いひつかはしける。芝田、使に對面して、返答致しけるやうは、「それがし故殿の御時より一所懸命の地を賜り、今に領知致す所なり。何を恨み奉りてか當家に別義を存すべき。只讒人ざんにんの所爲として、芝田に野心ある由を聞召きこしめされ、度々使節を下さるゝと云へども、かつうは所勞を以て參覲さんきんに能はず。しひて鎌倉に上りて、もしは理非なく手ごめにほろぼし給はんには、白龍栖はくりうすみかを離れて、漁父ぎよほの網に罹り、洪魚こうぎよ水をしつて、螻蟻ろうぎの口に吸はるゝと申すものにて候。是へ引受け奉る事は子細なき旨言上し、その上にも御うたがひ是あらば、力及ばすたちに火を懸け、自害仕らんと存するばかりにて候」とぞ申返しける。宮城聞きて、「いやいや梶原景時が叛逆に同意して野心を起さるゝ條隱れなし。早く降人かうにんに成て出給へ。御前の事は如何にも申預まうしあづかり奉らん。然らずは只今向うて踏破ふみやぶり候べし」と重ねて申遣しければ、「此上は力及ばず。これへ御向ひ候へ、一戦を遂げて腹切申すべし。侍程の者が命をしければとて降人には出づまじく候」と誘ければ、宮城「さらば」とて、三十餘騎を先登せんとうとし、我が身は家子郎等を前後左右に進めて午尅計うまのこくばかりに芝田が館に押掛けたり。芝田も兼て思設おもひまうけしことなれば、一族郎從四十餘人、門の扉を差固さしかため、二階のまどを押開き、矢種やたねを惜まず散々に射る。寄手こめ矢前やさきに懸りて射伏せらるゝ者十七人、其外疵を蒙りて、村々むらむらに成て引退ひきしりぞく。此所ここに工藤小次郎行光が郎等に藤五、藤三郎、美源二みげんじとて兄弟三人打連れて奥州の所領より鎌倉に登る所に、白川の關のほとりにて、芝田追討の御使馳向ふと聞きて、直に加勢と成り、宮城が陣に來りつゝ、芝田が館のうしろに𢌞り、高き岡にあがつて館の内を見透みすかし、指詰引詰さしつめひきつめ思ふ儘に射たりければ、是に當りて城中に手負死人、多く出來たり。芝田が家子桐山中太と云ふものは大力のがうの者にて、桶側胴をけがはどう腹卷はらまきかぶとの緒を締め、一丈ばかりなる樫の木の棒に筋鐵すぢかねを入れ、所々にいぼを植ゑさせ、只一騎打て出でつゝ、寄手の村立むらだちたる所へ會釋もなく驅入て、人馬にんばをいはず打伏うちふ薙伏なぎふせける程に、寄手辟易して立足たつあしもなく見えける所に、宮城は強弓つよゆみ精兵せいしやうなりければ、大の矢をつがうてしづか狙寄ねらひよりて、ひようとはなつ。勇誇いさみほこりたる桐山が脇壺わきつぼぶくら責めて立ちければ、何かはたまるべき、あつと云ふ聲計して、いぬゐにどうと倒れたり。寄手是に氣を直し、鬨聲ときのこゑあげて、攻懸せめかかる。芝田は桐山をうたせて力を落し、扉を閉ぢて引籠らんとする所を、藤五兄弟、うしろより射ける矢に、城の大將芝田も手負ひしかば、殘る者共、今は是までなりとて、思ひ思ひに落ちて行く。芝田次郎は妻子を刺殺さしころし、腹切はらきつて伏したり。郎等小藤八、たちに火を懸け、雲煙くもけぶり燒上やきあげ、猛火みやうくわの中に飛入りたり。午刻うまのこくに芝田滅びぬ。かくて近郷の仕置を執靜とりしづめ、十月十四日宮城四郎は鎌倉に歸參して、いくさ樣躰やうだい言上せしめ、「此度殊に勳功のはたらきは工藤小次郎行光が郎從藤五兄勢三人にあり」と申しければ「神妙しんべうなり」と感ぜしめ給ふ。同二十一日賴家卿濱の御所に出で給ひ、北條義時盃酒を獻ず。和田、小山以下の御家人多く以て伺候あり。工藤小次郎行光は陪膳にまゐりける。賴家卿、仰せられけるは、「工藤が郎從去ぬる奥州芝田が軍に弓馬の働かひがひしく仕りけり」と言上するに就きてその名を尋ねらるゝ所に、日比、武勇ぶようきこえありと人皆、沙汰に及べり。「其者どものおもてを見給ふべし。急ぎ召出せ」との仰せなり。行光座を立て若宮大路の家に歸り、藤五、藤三朗美源二兄弟三人の郎等を喚びて紺の直垂ひたゝれに烏帽子をちやくせしめ、一樣に出たゝせ、騎馬をかいつくろうて倶して参る、路次ろじ聞觸きゝふれて見る者、の如し。御所の庭上に敷皮を竝べて坐せしめたり。賴家卿、御簾みすを卷上げさせて御覽ぜらる。色黑く頰骨あれ、眼逆まなこさかしらにさけて筋ふとくたくましきは、三人ながら相劣らず、勇士の相を備へたり。この内一人召上げて御家人に爲さるべきよし仰出おほせいだされけり。工藤行光申しけるは「平家追討の初より亡父景光戰場に赴き、萬死ばんしを出でて一生に逢ふ事總て十ヶ度、其間多くは彼等が爲に命を救はれて候。行光既に家業を繼ぎ候、御讎敵しうてきを對治せらるゝ折節も、將軍家に於ては天下の勇士ようし悉是ことごとくこれ御家人たり。行光はわづかに賴む所この三人にて候」と申しければ、賴家卿、仰せけるは、「行光が申す所、ことはり至極せり。言上の言葉辯舌あり」とて、直に御盃ぎよはいを下され、北條五郎、銚子をとる。行光、三盃をかたぶけて、郎等を召倶して、御前を退出しける有樣、雄々ゆゝしかりける事共なり。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十六の正治二(一二〇〇)年八月二十一日、十月十三日・二十一日の条に拠るが、原資料にはない戦闘シーンの描写が細かくリアルである。まず、八月二十一日の進発から見る。
〇原文
廿一日甲辰。宮城四郎爲御使節。下向奥州。是芝田次郎依有可被尋問事。度々雖遣召。稱病痾不參。仍爲被追討之也。午剋。宮城首途。出甘繩宅。參御所。相具家子三人。郎等十余人。候侍西南角。頃之。廣元朝臣出廊根妻戸。招御使。召仰事之由。其後退出之刻。給御馬。〔置鞍。〕中野五郎能成引立庭上。宮城給之退出。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿一日甲辰。宮城四郎、御使節として奥州へ下向す。是れ、芝田次郎、尋問せらるべき事有るに依つて、度々遣はし召すと雖も、病痾びやうあを稱し參らず。仍つて之を追討せられんが爲なり。午の剋、宮城首途かどでして、甘繩の宅を出で、御所に參ず。家子三人・郎等十余人を相ひ具し、侍の西南のすみに候ず。頃之しばらくあつて、廣元朝臣、廊根らうね妻戸つまどに出でて、御使を招き、事の由を召しおほす。其の後、退出の刻、御馬〔鞍を置く。〕を給はる。中野五郎能成、庭上に引き立つ。宮城、之を給はりて退出す。
・「宮城四郎」宮城家業いえなり。奥州総奉行井澤家景の弟で、陸奥国宮城郡宮城郷(現在の仙台市宮城野区苦竹と推定されている)の住人。
・「廊根」渡り廊下の下のきわ

続いて、総てが終わった後の十月の二日分を纏めて見る。
〇原文
十三日丙申。宮城四郎自奥州。歸參。去月十四日遂合戰。及晩。攻落芝田舘訖。爰有可被感事。工藤小次郎行光郎從藤五郎。藤三郎兄弟。自奥州所領參向鎌倉之處。於白河關邊。御使聞可被追討芝田之由。自其所馳歸。合戰之日。廻彼舘後面。射箭不知其員。中之死者十餘人。賊主退散。偏在件兩人忠節之由申之。
廿一日甲辰。霽。羽林入御濱御所。遠州獻盃酒。義盛。朝政。義村以下御家人多以候其座。工藤小次郎行光候陪膳。此間羽林被仰云。行光郎從等。去比於奥州。顯弓馬隱德。就之。尋其號。兼有勇敢之聞云々。未覽其面。早可召進云々。仍行光起座。歸若宮大路宅。召藤五郎。藤三郎。美源二。已上三人郎等。餝衣裝刷騎物。具參之間。此事路次成市。觀者如堵。漸入幕府門。跪庭上。各着紺直垂。相並候敷皮。羽林巻上御簾覽之。彼等皆備勇士之相。一人可被召加御家人之由被仰。行光申云。被追罸平家以降。亡父景光赴戰場。入萬死出一生十ケ度。其間多以。爲彼等被救命也。行光又繼家業也。而被對治御讎敵日。於上者我朝勇士。悉以爲御家人。行光者僅所恃此三輩也云々。羽林被仰云。行光所申。其理已至極也。匪達弓馬。言語又詳也。早可傾三坏者。即直被下御盃。北條五郎取銚子被勸。賜之具彼郎等退出。入夜羽林還御。
〇やぶちゃんの書き下し文
十三日丙申。宮城四郎、奥州より歸參す。去ぬる月十四日、合戰を遂げ、晩に及びて、芝田のたちを攻め落し訖んぬ。 爰に感ぜらるべき事有り。工藤小次郎行光が郎從、藤五郎・藤三郎兄弟、奥州の所領より鎌倉へ參向するの處、白河の關邊に於いて、御使、芝田を追討せらるべきの由を聞き、其の所より馳せ歸りて、合戰の日、彼の舘の後面に廻りて、を射ること、其のかずを知らず。之にあたりて死する者、十餘人、賊主の退散は、偏へに件の兩人の忠節に在るの由、之を申す。
廿一日甲辰。霽る。羽林、濱の御所に入御。遠州、盃酒を獻ず。義盛・朝政・義村以下の御家人、多く以つて其の座に候ず。工藤小次郎行光、陪膳に候ず。此の間、羽林、仰せられて云はく、「行光が郎從等、去ぬる比、奥州に於いて、弓馬の隱德を顯はす。之に就き、其のを尋ぬるに、兼て勇敢の聞え有り。」と云々。
「未だ其の面を覽ぜず。早く召し進ずべし。」と云々。
仍つて行光、座を起ち、若宮大路が宅へ歸り、藤五郎・藤三郎・美源二みげんじ、已上三人の郎等を召し、衣裝をかざり、騎物のりものかいつくろひて、具し參るの間、此の事、路次に市を成し、觀る者、のごとし。漸く幕府の門に入り、庭上にひざまづく。各々紺の直垂ひたたれを着て、相ひ並び敷皮に候ず。羽林、御簾を巻上げ、之をる。彼等、皆、勇士の相を備ふ。一人、御家人に召し加へらるべきの由仰せらる。行光申して云はく、「平家を追罸せられてより以降このかた、亡父景光、戰場へ赴き、萬死に入りて一生を出づること十ケ度、其の間、多く以つて彼等の爲に命を救はるるなり。行光、又、家業を繼ぐなり。而るに御讎敵を對治せらるる日、上に於いては我が朝の勇士、悉く以て御家人たり。行光は僅かにたのむ所、此の三輩なり。」と云々。
羽林仰せられて云はく、「行光が申す所、其のことはり、已に至極なり。弓馬に達するのみにあらず。言語も又、詳らかなり。早く三ぱいを傾くべし。」てへれば、即ちぢきに御盃を下さる。北條五郎、銚子を取りて勸めらる。之を賜はり、彼の郎等を具して退出す。夜に入りて羽林、還御す。
・「芝田の舘」現在の宮城県柴田郡柴田町船岡館山に船岡城址がある。

「白龍栖を離れて、漁父の網に罹り、洪魚水を失て、螻蟻の口に吸はるゝ」底本頭書に『貴人も微行すれば賤者の辱めを受くる意、説苑に見ゆ。洪漁云々は荘子に取る』とある。神力あらたかな白龍が身をやつして、棲家を離れたところが賤しい漁夫の網にかかったり、大魚が生きるべき水を失って、ちっぽけで下らない螻蛄や蟻の口に吸い尽くされてしまうような理不尽な災難に遭う、という意。直接的には宮城を「漁父」「螻蟻」に揶揄している。]



      ○太輔房源性異僧に遇ふ算術奇特 
 安倍晴明が奇特
將軍賴家卿、御行跡こうせき雅意がいに任せ、政道の事は露ばかりも御心に入れられず。只朝夕は近習の五六輩を友とし、色に※じ[やぶちゃん字注:「※」=「氵」+(「搖」-「扌」)。]、酒に長じ、或は逍遙漁獵せうえうぎよれうに日を送り、或は伎術薄藝ぎじゅつはくげいに夜を明し給ひければ、かみの好む所、下これにならひ、技能藝術の道をむ者、四方よりあつまり、鎌倉中に留つて、世をへつらひ人に媚び、恩賜を望み、輕薄を致す。此所こゝ大輔房たいふばう源性とて、もとは京師の間に住宅し、仙洞に伺候して、進士しんじ左衞門尉源整子まさこと號す。儒流の文を學し、翰墨の字を練り、高野大師五筆の祕奥を傳へたり。垂露偃波すいろえんはてん囘鸞翩鵲くわいらんへんじやくくわく蝌斗くわと龍書れうしよ慶雲けいうん鳳書ほうしよ、皆、以て骨法を得たりと傍若無人に自稱を吐散はきちらし、「蔡邕さいいうとんで白からず、羲之ぎしは白くしてとばず」なんど云ひわたり、後に入道して、太輔房源性と名付け、關東に下りて將軍家に召出だされ、近侍出頭、ほとんど時めきけり。然のみならず蹴鞠は殊に賴家卿好ませ給ふ。源性又この藝を得て、毎度御詰にぞ參りける、利口才學の致す所にや。算術の藝は當時無雙ふさうなり。況や田頭里坪でんとうりひやうつもり、高低長短の漢、段歩畦境たんほけいきやう其眼力そのがんりよくの及ぶところ分寸をも違へずと、世の人、これをもてはやす。漢の洛下閎らくかくわう、唐の一行、本朝曆算に妙を得たる安倍晴明と云ふとも、是より外には出づべからずと、慢相尤顯まんさうもつともあきらかなり。此比、奥州伊達郡だてのこほり境目さかいめの相論あり。其實檢の爲源性をぞ遣されける。幾程經ずして鎌倉に下向し、將軍家の御前に出でたりければ、奥州の事共、尋仰せらる。源性、物語申しけるは「今度奥州下向のついでに松島を見ばやと存じて、彼處かしこに赴き候處に、一人の老僧あつて草菴の内にあり、日暮ひくれ、里遠とほかりければ、案内して一夜の宿を借りけるに、主の僧心ありて、粟飯あはいひかしき、柏の葉に盛りて、旅のつかれたすけたり。夜もすがら種々の法門を談ずるに、皆その奥義を現す。翌朝よくてうこの僧云ふやう、我は天下第一の算師なり。樹頭じゆとうなつめを數へ、洞中とうちうの木を計る、是等はいとやすかりなん。たとひ龍猛大士りうみやうだいしの行ひ給ひし隱形おんぎやうの算と云ふともを盡し置き渡たさんに難らずと語る。源性、是を聞くに慢心起りて思ふ樣、かゝる荒涼の言葉は誠に蠡測井蛙いしよくせいあの心なり、流石、とほ田舍にすみ慣れて、土民百姓の耳を欺くくせなるべし。源性が算術をもとくべき人は世には覺えぬものを、と侮りける。其心根や色に出けん、彼の僧重て云ふやう、只今常座を改めず、すみやかしるしを見すべしとて、算木さんぎを取りて、源牲が座のめぐりに置き渡すに、源性、たちまちに心れ、たましひ暗みて、朦霧もうむの中にあるが如く、四方はなはだ暗く、草菴の内總て變じて大海となる。圓座は化して盤石ばんじやくとなり、飄風へうふうふき起り、怒浪どらうこえ急なり。忙然として、是非に惑ふ。既に死せりや、死せざるや、生死しやうじあいだわきまへ難し。時尅じこくを移して主の僧の聲として、慢心今は後悔ありやと、源性大に恐服おそれふくして、頗る後悔の由云ひければ、言葉の下に心神しんじん潔く夢のさめたるが如くにして、白日、窓に輝けり。あまり奇特きどくを感歎し、傳受ののぞみを致せしに、末世の下根に於てはさづけ難き神術なり、今は疾々とくとく出でて歸れと勸めける程に、三拜して別れたり」と申す。賴家卿、きき給ひ、「その僧をともなひ來らざるこそ越度をつどなれ。何條、狐にばかされたるらん」と、さして奇特の御感もなし。いにしへ、安倍晴明は天文の博士はかせとして、算術に妙を得たり。或時、禁中に參りける、庚申の夜なりければ、若殿上人多く參り集り給ひ、ぬ夜の御なぐさみ樣々なり。晴明を召して「何ぞ面白からん事仕出して見せよ」とおほせあり。「さらば今夜の興を催し、人々を笑はせ奉らん。かまへて悔み給ふまじきや」と申ければ、「算術にて人を笑せん事、いか樣にすともあるべきわざならず。つかまつり損じたらんには賭物かけものいだせ」と仰あり、「かしこまり候」とて算木を取出しつゝ、座の前にさらさらと置き渡したりければ、何となく目に見ゆる者もあらで、座中の人々可笑をかしくなりてしきりに笑ひ出で給ふ。止めんとすれども叶はず。そゞろわらはれておとがひを解き、腹をさゝげ、後には物をもえ云はず、腹筋はらすぢの切る計になりつゝ、ころびを打ちても、可笑さは愈優いやまさりなり。人々涙を流し手を合せてうなづき給ふ。「さてはわらひ飽きたまへり。急ぎとゞめ奉らん」とて算木を疊み侍りしかば、可笑さうち醒めて何の事もなかりけり。人々奇特を感じ給へりとかや。算法さんぱうの不思議はかゝる事共少からず、彼の源性がわづかに物のつもりを辨へ、田歩の廣狹くわうけうを知るを以て、慢心自稱を吐散らす、小智薄術を戒めて、かゝる奇特を現しけん。松島の僧と云ふは狐魅こみの所行か、天狗の所爲しよゐか、かさねて尋ねらるれども、僧の行方ゆくがたは知る人なし。

[やぶちゃん注:「※」=「氵」+(「搖」-「扌」)。「淫」の異体字。「いんじ」と読んでいるか(ルビはない)。本話は「吾妻鏡」巻十六の正治二(一二〇〇)年十二月三日に拠り、湯浅佳子「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」によれば、後半の安倍晴明のエピソードは寛文二(一六六二)年板行の浅井了意「安倍晴明物語」の巻三「庚申の夜殿上の人々をわらはせし事」に拠るとする。
「奇特」本文にあるように、仏教用語としては「きどく」と濁る。神仏の持っている、超人間的な力・霊験をいう。
「太輔房源性」は「たいふばうげんせい(たいふぼうげんせい)」と読む。人物詳細不詳。識者の御教授を乞う。
へつらひ」この「謟」には「へつらふ」という意はない。「うたがふ」又は「たがふ」であり、「へつらふ」ならば「諂」である。ここは文意からも「世間にへつらって」ではおかしい(増淵氏は「世間にへつらって人々に媚び」と訳しておられるが、意味が通らない。この「人」は頼家であろう)。筆者は「世にたがひ」と書いたものと私は判断している。
「雅意に任せ」「我意に任す」と同義で、自分の考え通りにする、我儘に振る舞う、の意。
「伎術薄藝」歌舞・音曲の芸能。
「大輔房源性」「進士左衞門尉源整子まさこと號す」「諸將連署して梶原長時を訴ふ」の注に引用した「吾妻鏡」に既出。そこでは「えんしやう(えんしょう)」と読んでいる。頼家側近で、比類なき算術者にして蹴鞠の名手という、ここに記された以上の事蹟は私は不詳。但し、「進士左衞門尉源整子と號す」という部分は、「吾妻鏡」の従来の読みでは「源進士左衞門尉整が子」であり、本書に基づいたと思われる後年の曲亭馬琴の「苅萱後傳玉櫛笥かるかやごでんたまくしげ」(文化四(一八〇七)年板行)の上之巻に載る「源性げんせうが算術繁光が射法巧拙によつておのおの賞罰を蒙る事」では『進士しんし左衞門尉源整子みなもとのまさたね』とある。なお、「進士」は中国の科挙を真似た律令制の官吏登用試験の科目の名称で、それに合格した文章生もんじょうしょうのことをいう。
「仙洞」後鳥羽上皇では、院政の開始が建久九(一一九八)年で短すぎるので、後白河法皇であろう。
「高野大師」書道の名人としても知られた弘法大師。
「五筆」両手・両足及び口に筆を銜えて文字を書く術。弘法大師が行ったとされる。
「垂露偃波の點」「垂露」は、上から下に引く直線の収筆を少し逆に戻して終るもの、「偃波」は形がさざなみに似ているところからいい、古くはみことのりを記した詔書に用いた。その独特の止めを言うか。
「囘鸞翩鵲の畫」「囘鸞」も「翩鵲」も筆法の一つという。
「蝌斗」「蝌蚪」に同じい。中国古代の字体の一つで、古体篆字のこと。へらに漆をつけて竹簡に書かれたが、その文字の線は初めが太く先細りとなり、オタマジャクシの形に似るところから、かく呼んだ。
「龍書」書体の一種。伏羲が龍を見てそれを基に文字を作ったとされることに由来するもので、管見したものでは、総てのかくがリアルな龍で出来ている絵文字であった。
「慶雲」「鳳書」いずれも書体の一種という。
「骨法」芸道などの急所となる心得。コツ。
「蔡邕」(さいよう 一三二年又は一三三年~一九二年)は後漢末期の政治家・儒者・書家。飛白体の創始者とされる。飛白体とは、刷毛筆を用いた、かすれが多く装飾的な書法。「飛」は筆勢の飛動を、「白」は点画のかすれを意味する。
「羲之」東晋の政治家で「書聖」と称された王羲之(三〇三年~三六一年)。行書の「蘭亭序」が最も知られるが、参照したウィキの「王羲之」によれば、王羲之は楷書・行書・草書・章草・飛白の五体を能くし、梁の武帝の撰になる「古今書人優劣評」には、「王羲之の書の筆勢は、一際、威勢がよく、竜が天門を跳ねるがごとく、虎が鳳闕に臥すがごとし」と形容されているとある。
「田頭里坪の積」本来、「田頭」は荘園に於いて荘田を耕作した農民を、「里坪」は「りつぼ」とも読んで、古代からの条里制における土地区画をいう。ここは、荘田の田畑の面積を見積もることを言っている。
「高低長短の漢、段歩畦境、其眼力の及ぶ所分寸をも違へず」「漢」は不詳。勘案の「勘」の誤りか。増淵氏は『思案』と訳しておられる。「段歩」は「反歩」とも書き、普通は「たんぶ」と読む。田畑の面積を「たん」を単位として数えるのに用いる語。ここは、その鋭い眼力の及ぶところの検地の――当該田地の高低や、ちょっとした距離の長短の勘案、田圃とその畦や境界等々――その目測に於いては、これ、一分一寸たりとも決して誤ったことがない、の謂いであろう。
「洛下閎」漢の武帝の時代(前一四〇年~前八七年)の方士で天文学者。太初暦(武帝の太初元(紀元前一〇四)年の改暦によって採用された太陰太陽暦の暦法の一種)の暦纂者で、初めて渾天儀を製作したとされる人物。
「此比奥州伊達郡に境目の相論あり。其實檢の爲源性をぞ遣されける……」以下、「吾妻鏡」を引く。
〇原文
三日乙酉。陰。有大輔房源性〔源進士左衞門尉整が子。〕者。無双算術者也。加之。見田頭里坪。於眼精之所覃。不違段歩云々。又伺高野大師跡。顯五筆之藝。而陸奥國伊達郡有境相論。爲其實檢。去八月下向。夜前歸著。今日參御所。是被賞右筆幷蹴鞠兩藝。日來所奉昵近。仍無左右被召御前。被尋仰奥州事等。源性申云。今度以下向之次。斗藪松嶋。於此所有獨住僧。一宿其庵之間。談法門奥旨。翌朝。僧云。吾爲天下第一算師也。雖隱形算。寧劣龍猛菩薩之術哉云々。而更不可勝源性之由。吐詞之處。彼僧云。不改當座。速可令見勝利云々。源性承諾之。仍取算。置源性座之廻。于時如霞霧之掩而四方太暗。方丈之内忽變大海。所著之圓座爲磐石。松風頻吹。波浪聲急。心惘然難辨存亡也。移剋之後。以亭主僧之聲云。自讚已有後悔哉云々。源性答後悔之由。彼僧重云。然者永可停算術慢心。源性答。早可停止。其後蒙霧漸散。白日已明。欽仰之餘。雖成傳受之望。於末世之機根。稱難授之由。不免之云々。仰云。不伴參其僧。甚越度也云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
三日乙酉。陰る。大輔房源性げんしやう〔源進士左衞門尉整が子。〕といふ者有り。算術の無双の者なり。加之しかのみならず田頭でんと里坪りひやうを見て、眼精のおよぶ所に於いては、段歩だんぶを違へずと云々。
又、高野大師の跡を伺ひ、五筆の藝を顯はす。而るに陸奥國伊達郡に境相論有り。其の實檢の爲に、去る八月、下向す。前夜歸著し、今日御所へ參る。是れ、右筆幷びに蹴鞠の兩藝を賞せられ、日來ひごろ昵近ぢつきん奉る所なり。仍つて左右さう無く御前に召され、奥州の事等を尋ね仰せらる。源性、申して云はく、
「今度、下向のついでを以つて、松嶋に斗藪とさうす。此の所に獨住の僧有り。其の庵に一宿するの間、法門の奥旨を談ず。翌朝、僧云はく、
『吾、天下第一の算師たるなり。隱形おんぎやうの算と雖も、寧んぞ龍猛りうみやう菩薩の術に劣らんや。』 と云々。
而れども、
『更に源性に勝るべからず。』
の由、詞を吐くの處、彼の僧云はく、
『當座を改めず、速かに勝利を見せしむべし。』
と云々。
源性、之を承諾す。仍つて算を取りて、源性が座の廻りに置く。時に霞霧のおほふがごとくして、四方、はなはだ暗く、方丈の内、忽ち大海に變じ、著する所の圓座、磐石と爲る。松風、頻りに吹き、波浪の聲、急にして、心、惘然ぼうぜんとし、存亡をわきまへ難きなり。ときを移すの後、亭の主の僧の聲を以つて云はく、
『自讚、已に後悔有るや。』
と云々。
源性、後悔の由を答ふ。彼の僧重ねて云はく、
『然らば、永く算術の慢心を停めるべし。』
と。源性、答ふらく、
『早く停止ちやうじすべし。』
と。其の後、蒙霧、漸く散じ、白日、已に明かし。欽仰の餘りに、傳受の望みを成すと雖も、
『末世の機根に於いて、授け難し。』
の由を稱し、之を免さず。」と云々。
仰せて云はく、
「其の僧を伴ひ參らざるは、甚だ越度をちどなり。」
と云々。
・「伊達郡」現在の福島県北部の伊達市・桑折町・国見町・川俣町・福島市の一部に相当する。律令制で道国郡制が整備されたとき、当初は現在の福島市とほぼ同じ地域と伊達郡・伊達市の地域を合わせて信夫郡しのぶぐんであった(古代には「信夫」は「忍」とも表記された)が、それが十世紀前半に信夫郡から伊達郡が分割された(これは当時、律令制の租庸調の課税を整備する必要性から各郡の人口をほぼ均一にするために、朝廷が郡の分割や住民の強制移動を全国的に行ったことによるもので、朝廷から見ると開拓地であった陸奥国にあってはこうした再編成が盛んに行われた)。この分割によって旧信夫郡の内、小倉郷・安岐(安芸)郷・岑越みねこし郷・曰理わたり郷が新信夫郡となり、伊達郷と靜戸しずりべ郷と鍬山郷の三郷が新たに伊達郡となった(以上はウィキの「伊達郡」に拠る)。
・「實檢」実地検地。
・「斗藪」梵語ドゥータの漢訳語で、衣食住に対する欲望を払いのけて身心を清浄にし、修行することを言う。
・「隱形の算」自分の姿を隠して見えなくする呪術。
・「龍猛菩薩」龍樹。二世紀中頃から三世紀中頃のインド大乗仏教中観ちゅうがん派の祖。南インドのバラモンの出身で、一切因縁和合・一切皆空を唱え、大乗経典の注釈書を多数著して宣揚した。
・「算」「北條九代記」に出る算木。易で、を表す四角の棒。長さ約九センチメートルで、六本一組。各々の四面の内、二面はこうの陽を表し、他の二面は陰を表す。
・「末世の機根に於いて、授け難し」「機根」は仏の教えを受けて発動する能力や資質をいう。本文でははっきりと教えを受けられるレベルが最低の「下根」と評している(但し、これは最低でも受けられるレベルではある)――世は最早、乱れに乱れ(暗に暗愚の君たる頼家を揶揄している)、救い難き末世となっており、そのような世の下級の機根しか持たぬそなたには授け難い――という謂いである。]



      ○柏原彌三郎逐電 
 田文の評定
近江國の住人柏原かしはばらの彌三郎は故右大將家の御時に西海に赴き、拔群のはたらきあるを以て、平氏滅亡の後、勳功の賞として、江州柏原の莊を賜り、京都警衞の人數に加へられ、仙洞にこうして、奉公を勤めけるところに、ほしいまゝ振舞ふるまひて、法令を破り、神社の木を伐り、佛寺の料を奪ひ、公卿殿上人に無禮緩怠くわんたいを致し、屢々帝命を背く事、重々の罪科あり。加之しかのみならず、己が領地に引込て、鹿狩川狩を事とし、百姓を凌礫する由、院宮、甚惡はなはだにくみ給ひ、頭辨公定とうのべんきんさだ朝臣、奉行として彌三郎追罸ついばつの宣下あり。佐々木左衞門尉定綱、飛脚をもつて鎌倉に告げ申す。同十一月四日、將軍家よりかしこまり申され、澁谷しぶやの次郎高重、土肥先とひのせん次郎惟光を使節として手の郎等を引率して上洛す。斯る所に、關東の左右をも待たず、京都伺公しこうの官軍四百餘騎、江州に押よせ、柏原の莊に至り、たちに向ひしに、三尾谷みをのやの十郎、夜にまぎれて、先登さきがけし、館のうしろ山間やまあひよりときの聲を發せしかば、彌三郎、おそれ惑ひ、妻子郎從諸共に館をにげて逐電す。其行方ゆくかたを尋ぬれども更に聞えず、關東の兩使はその詮なく、押返して下向あり。官も亦、よせかけたる甲斐なし。三尾谷が所行、更に軍事の法に非ず、柏原を取逃したり。さだめて關東の御気色、仙院の叡慮よろしかるべかと思はぬ人はなかりけり。されども別に仰せ出さるゝ旨もなければ、何となく靜まりぬ。將軍家には諸國の田文たぶみ召出めしいだされ、源性に仰せて勘定せしめ、治承養和より以來このかた、新恩の領地毎人五百町に限り、其餘田を召放ちて無足むそくの近習に下さるべき由御沙汰あり、廣元朝臣、之を聞て、ほとんど珍事の御評定、世のそしり、人のうれへ何事か是に優らんと、宿老達は皆共に汗を握りて周章せり。大夫さくわん入道善信、しきりに諷諫ふうかんを奉る。賴家卿、理服りふくし給ひ、先閣まづさしおかれける事は、せめて天下靜謐せいひつの運命、盡きざるところなり。これをきゝける大名小名、いよいよ賴家卿をうとみ參らせ、色には出さずといへども、心の底にはうらみをぞ含みける。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十六の正治二(一二〇〇)年十一月一日・四日、十二月二十七日・二十八日などに基づく。第二巻の掉尾に至って遂に、暗君と筆者が断ずる頼家が、まさに「裸の大様」化してゆく様子が見てとれる部分である。
「柏原彌三郎」柏原為永。村上源氏の末裔で、源頼光の弟頼平の系統を引く。近江国柏原庄(現在の滋賀県米原市)を領し、清滝(現在の米原市清滝)に居館を構えていた。
「仙洞に候して」の部分の彼が従ったのは後白河法皇。但し、「彌三郎追罸の宣下」を下したのは後鳥羽上皇。
「緩怠」いい加減に考えて、怠けること。他に、無礼無作法なことをも指す。
「凌礫」「陵轢」とも書き、車輪がものを轢き潰すことから、侮って踏みにじることをいう。
「頭辨公定」三条公定(きんさだ 長寛元(一一六三)年~?)は公卿。西園寺実宗長男。但し、当時は従四位上修理左宮城使で、彼が右大弁で蔵人頭を兼ねたのは、この翌年の正治三(一二〇一)年に正四位下になってからであり、引用元の「吾妻鏡」の記述のタイム・ラグによる誤りが露呈している。
「三尾谷十郎」三尾谷広徳(みおやひろなり 生没年不詳)。源頼朝の直臣。三保谷郷(現在の埼玉県比企郡川島町)出身。「吾妻鏡」の正治二年十二月二十七日の条では、三尾谷十郎何某が『襲件居所後面山之間。賊徒逐電畢。今兩使雖伺其行方。依無所據。歸參云々』(件の居所の後面の山を襲ふの間、賊徒、逐電し畢んぬ。今、兩使、其の行方を伺ふと雖も、據所よんどころ無き依つて、歸參すと云々)とだけあって、殊更に三尾谷広徳の早掛けを非難する表現はない。
「田文」一国の荘園・公領における田畑の面積や領有関係などを詳しく記した田籍簿。
「五百町」約五ヘクタール。
「無足の近習」地頭職に任ぜられていない頼家直属の寵愛の何でもアリの近習連。以上の部分は「吾妻鏡」でもはっきりと頼家批判は顕在化している部分なので、以下に示す。
〇原文
廿八日庚戌。金吾仰政所。被召出諸國田文等。令源性算勘之。治承養和以後新恩之地。毎人。於過五百町者。召放其餘剩。可賜無足近仕等之由。日來内々及御沙汰。昨日可令施行之旨被仰下廣元朝臣。已珍事也。人之愁。世之謗。何事如之哉之趣。彼朝臣以下宿老殊周章。今日如善信頻盡諷詞之間。憖以被閣之。明春可有御沙汰云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿八日庚戌。金吾、政所に仰せて、諸國の田文等を召出され、源性をして之を算勘せしむ。治承・養和以後の新恩の地、人ごとに、五百町を過ぐるに於いては、其の餘剩を召し放ち、無足の近仕等に賜ふべきの由、日來内々に御沙汰に及び、昨日、施行せしむべきの旨、廣元朝臣に仰せ下さる。已に珍事なり。人の愁ひ、世のそしり、何事か之にしかんやの趣き、の朝臣以下の宿老、殊に周章す。今日、善信のごときが、頻に諷詞ふうしを盡すの間、なまじひに以つて之をさしおかれ、明春、御沙汰有るべしと云々。
最後の部分は、善信以下の宿老から、陰に陽に示された諫言に、仕方なく取り敢えずは、その施行の留保をなさったが、それでも来年の春には執行命令を必ず出すであろう、と仰せられた、という謂いである。]


鎌倉 北條九代記  卷第二 完