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「月曜」第一卷第一號 編輯後記   尾形亀之助

 

[やぶちゃん注:底本は友人がコピーして贈ってくれた仙台文学館蔵の「月曜」第一卷第一號の「編輯後記」部分を用いた。歴史的仮名遣の誤りなどもそのままとし(ママ表記は入れていない)、脱字と思われる一箇所は私が推測した『〔と〕』及び『〔も〕』で補った。本テクストは現在刊行されている思潮社版「尾形亀之助全集」には所収しておらず、多くの方は初めて目にするものであるはずである(同全集の『「月曜」目次目録』には4月号までの詳細目録が載り、それぞれの号の最後には「編集後記 尾形亀之助」とある。これらが全集に所収されていない経緯は不明である)。雑誌『月曜』は尾形亀之助によって主宰された月刊文芸雑誌で、大正151926)年1月の創刊から第6号まで続いた(とされる)雑誌である。創刊号だけを見ても島崎藤村・室生犀星・山村暮鳥・宮沢賢治・岡本一平・神原泰・佐藤春夫・サトウハチロー・稲垣足穂・武井武雄他、錚々たる執筆陣である(第二号以降では上司小剣・池谷信三郎・堀口大学・今東光・春山行夫・高橋新吉そして盟友草野心平らの名が目を惹く)。尾形亀之助自身はこの創刊号には「白い晝の狐」を掲載している(「尾形亀之助作品集『短編集』(未公刊作品集推定復元版 全22篇) 附やぶちゃん注」冒頭詩)。本誌初出として有名なものでは宮沢賢治の数少ない生前発表作である「オツベルと象」(創刊号)・「ざしき童子のはなし」(2月号)・「猫の事務所」(3月号)が挙げられる。実際の表紙(コピー時のミスにより上部標題の一部が切れている)及び編集後記の2ページ目(下部に奥付)のコピー画像をテクストの後に掲げておく。なお、本テクストはブログの230000アクセス記念として公開した。【2010年6月16日】]

 

    

 

 ある日私は何かの用で惠風館を訪ねて、そして、ある種の雜誌を出すといふことを極くぼんやりと話しあつたのです。それは是非やりませうと云つた程度のことで、何時からというふやうなことは更に話し合はなかつた。それから二三度會つたが何のこともなかつたほどであつた。それが十月の中旬であつた。

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 それから、十一月になつて次のやうな刷ものが出來た。

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 ひろい意味での童話なのです。

 わたし達がいろいろとわづらはしい生活の間に、ホツと氣を拔くのにいゝ讀み物だと思ひます。また退屈な日でも椅子の上で開いてゐてても、決して無駄にはならないと思ひます。またさうして風なことで、輕い意味でのいゝ手料理です。

 かう云つたやうな口上で、この他のもつと多くの人々に御執筆をわづらはし、御後援をおねがひ致す次第であります。

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 と、そして五十人ほどの人名が列べられてあつた。未だ雜誌の名もなかつた。

 その次に何か、はがきで刷つたものが出來て、初めて銀座で會合したのでした。そのときに私は何をしやべつたかわすれてしまひましたが、わかりにくいことがらをわかりにくい言葉でもつて何度もくりかへして、子供の讀み物に童話といふものがあるがそれにあてはまる大人の讀みもの、といふやうなことを話した、と覺えてゐる。

 そして、その日は初めて「散歩馬車」といふ名が雜誌につけられた。

 散歩馬車――散歩馬車…………あまりよい名ではないがさうわるくもない。と思つてゐると、四五日して散歩馬車は同人雜誌みたいだから「風車」といふのはどうかといふハガキを受け〔と〕つて私はちよつと不機嫌になつてしまつたのです。あゝして集まつてつけたのに…………。しかし、それもすぐ直つて、それではといふので「月曜」といふことにしたのです。これには何の意味もないので「月曜」よからうと云つたぐはひにきめてしまつたのです。

 十二月になつて又次のやうな刷りものが出來ました。

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 ひろい意味での「メールヘン」です。わたし達がイロイロとわづらはしい生活の間にホツと氣をぬくのにイヽ讀み物です。

 曾て、――今までの雜誌では見ること 出來なかつた違つた素晴らしい内容(漬けすぎの鱈の粕漬ではありません)をもつて。便所の中などにゐるときの心やすさで獨りでに出る何かしらわけのわからぬハナ唄を。うつかりポストなどを通りすぎてしまつた明るい小春日の美しさを。雨の日の蛙のうた聲を。

 停車場や、街や、劇場に集まつてゐる人々に。仕事に疲れてる人々に。可愛ひ子供を寢かしつけるにお困りの方々に。わけて〔も〕今までの雜誌にあきてしまつた人々に是非おすすめしたいのです。

 童話、童謠、詩、繪、音樂、戯曲、小説、讀物、隨筆すべてやさしい形のもので、手離してはもの足りない春のステツキです。

 皆樣方に御吹聽の上御購讀のほどお願ひ致したうございます。

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 と、あつてそして執筆を願ふ方々として實に百六十人ばかりの人名が刷り込まれてあつたのです。百六十人――私は眼をまるくしたのです。

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 全部を三段で組みました。是非二段欄を半分か三分の一位いはほしいと思つたのですが調子のあふまではちよつと手がつけられないのです。皆樣もさぞ不滿のことゝ思ひますが此の次の號かすくなくとも三月號からは實行出來ると思ひます。

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 この雜誌は子供を客とする雜誌ではないのです。

「やさしい形のもの…………」とは子供にわかるといふやうな意味ではないのです。ですから、童話、童謠、詩、繪、音樂、戯曲、小説、讀物、隨筆と列んでゐても、童話童謠は毎月ほんのわづかでよいので、しかもありきたりの型からぬけてゐてほしいと思ふのです。

 で、最初とはたいへん話が違ふと思ふ方もあると思ひますが、私は最初からかう――と思つてゐたのですし、又、ひととほり原稿に眼をとほして更にその感を深くしたのです。

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 立派さと同時に他の雜誌とは違つた内容をもちたい。本號にもこれならと思ふやうな作品が澤山あつて大變力づけられました。

 それから、稿料のことですが、賣上の半分をその月の執筆者に頭割で――と思つてゐるのですが、このことは最近の會合で是非話にのせて御相談したいのです。

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 原稿は毎月二十日頃に締切りにしたいのです。どうかそのつもりになつていただきたい。

 本號で、須藤鐘一氏、大木雄三氏、大西しづえ氏、能勢夢草氏、須崎邦武氏、水谷まさる氏、岩井信實氏の――

「二人の子供と其の母親達」「澄ちやん」「Aちやん蝶々とCちやん蝶々の話」「小鳥と涅槃像」「おみやげの靴」「咳とインク壷」「淳ちやんと猿まわし」等を掲載できなかつたことをおわびいたします。

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 いよいよ編輯が終つてみると頭ががーんとしました。妻が郷里に歸つてゐるので、火をおこさないやうな日が久しくつゞいたのですが、これで私も郷里に歸つて子供と一緒に越年が出來るのです。

 喜びの會合は來春になることゝ思ひます。

(尾形生)

表紙

編集後記2ページ目