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LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard

ぶどう畑のぶどう作り ジュウル・ルナアル 岸田国士訳

 

[やぶちゃん注:本篇は1894年に「にんじん」の出版に次いで、同名の題で「土地の便り」及び「エロアの控え帳」の二篇と合わせてメルキュール・ド・フランスから刊行された(300部限定。1901年に増補再版されている)。底本は、1973年岩波書店刊の岩波文庫「ぶどう畑のぶどう作り」(第10刷改版。初版は1938年刊)を用いた。傍点「ヽ」は下線に代え、私の注を一部に附したが、その際、原文はフランス版ウィキペディアの“Jules Renard”にリンクされたテクスト・サイト“Gallica”のPDFファイル版LE VIGNERON DANS SA VIGNEを、また「雄鶏」以降の「博物誌」の初稿ともいうべき複数項目については、私が既にテクスト化した「博物誌」及びその底本・引用原文を参考にした。]

 

 

 

     力持ち

 

 誰もその男の言うことを信じようとはしなかった。が、彼が、腰掛けを離れ、足を踏み鳴らし、昂然(こうぜん)と頭を上げて棒切れの積んであるところへ行く、その落ち着き払った様子で、強そうな男だとは、誰も見て取ったのである。

 彼は一本の長い、丸い薪を取り上げた。それは一番軽そうなのではなく、その中で、一番重いやつに違いなかった。その棒には、おまけに、節くれや、苔や、古い雄鶏(おんどり)のように蹴爪までついていた。

 まず、その男は、その棒ぎれを振り廻して、そしてどなった。

 「見たまえ、諸君、こいつは鉄の棒よりも堅い。ところが、吾輩(わがはい)は、かく申す吾輩は、それを膝で二つに折ってお目にかける。マッチ棒のように折ってお目にかける」

 この言葉に、男も女も、教会堂でのように、いっせいに伸び上った。新婚のパルジェ、半聾(つんぼ)のペロオ、それから嘘をつかせることのできないラミエなどが、そこにいた。そうそう、パブウもいた。カステルもいたようだ。これは本人に訊けばわかる。――平生、夜の集りなどで、めいめい力自慢の話をし合って、次から次へ人を驚かした評判の連中はことごとくそこにいた。

 その晩は、彼らは笑わなかった。それはたしかだ。彼らはすでに、身動きもせず、口を噤(つぐ)んだまま、その力持ちを感心して見ているのである。彼らのうしろでは、寝ている子供の鼾(いびき)が聞こえていた。

 その男は、彼らを全く威圧したと見て取った。ここぞとばかり、彼は傲然(ごうぜん)と身構えた。膝を曲げた。そして、ゆうゆうと薪を振り上げた。

 しばらくの間、それを、力瘤(ちからこぶ)を入れた両腕の先に振っていた――多くの眼が輝いていた。人々の口が息づまるように開いていた。――彼は薪を膝にあてた。えい! やッ! 掛け声もろとも、脚が折れた。

 

 

 

     七面鳥になった男

 

 七面鳥の飛ぶのを仕事のように見ていたジャック・フェイは、ある日、独りでこう言った。

 「おれだって飛べないわけはない。翼さえありゃなんでもない。なに、おれが頼めば、おれの七面鳥が、どれか翼を貸してくれるだろう」

 ところで、まず彼は、腕で空気をうつ練習をした。彼のまわりに、風と埃(ほこり)とが起こるほど早く、腕で空気をうつのである。

 足のほうはどうかというと、足はひとりでに歩いている。これも泳ぐ時のように使えばいいわけである。

 そこで彼は、死にかけていた一羽の七面鳥をつかまえて、その翼を引き抜いた。それから、それをしっかり臂(ひじ)にくくりつけて、いよいよ一大飛躍を試みようとした。

 彼は草原の中で、自分の七面鳥が逃げ狂う間を、走り廻り、跳ね上りした翼を抜かれた七面鳥は、血で真っ赤になって、渦を巻いていた。ときどき彼は尻餅をついた……試しにである。

 「これでよし」――彼は言った――「どれ、ひとつやってみるか」

 彼は川岸の一本の古柳を選んだ。幹の節くれを伝ってらくに登ることができる。枝を払った頭が、ちょうど自然の小さなプラットフォームになっていた。

 下には、濁った川が深い眠りを眠っているように見えた。そして、寄ってはすぐ消える軽い皺(しわ)は、夢を見て笑っているのかと思われた。

 「もしおれが、最初一回飛び損なっても」――ジャックは言った――「水浴びをするだけのことだ。痛かったところで知れたもの、上等な寝台(ベッド)の上に落ちるのと違いはない」

 準備ができた。

 七面鳥の群れは、ゴロゴロ啼(な)きながら、彼のほうに首を伸ばしていた。そして、翼を抜かれた七面鳥は、草叢(くさむら)の中で息を引き取ろうとしていた。

 「いイち!」と、ジャックは柳の木の上に立ち上って、臂(ひじ)を拡げ、踵(かかと)をそろえ、眼を、やがて舞い上ろうとする雲の彼方(かなた)に注いで言った。

 「にイッ!」と、また彼は、長く息を吸い込んで言った。

 「さん!」は言わないで、決然として空中にからだを投げ出した。空と水との間に飛び込んだ。七面鳥の番をしていたジャック・フェイの姿を、それから見たものはなかった。

 

 

 

     水甕(みずがめ)

 

 ジェロオムは八十になった。

 彼は食うだけの貯えはあるので、空気を吸うためにしか外へは出ない。日に一時間か二時間、病みついてなおらない脚(あし)を外に曳(ひ)きずって行くのである。彼が役に立つことといっては、裏庭の井の水が渇(か)れた時に、森の泉まで行くことだけであった。

 彼は水甕(みずがめ)を綱でくくって、それを手で提(さ)げて行く。サマリイの女のように肩に乗せることはしない。

 泉まで来ると、彼はまず自分の喉(のど)を潤す。彼は冷えたところをその日の分だけ飲む。水甕にいっぱいを、うちで待っているほかのものが飲めるように、そうするのである。彼は水甕を満たす。そして家に戻る。彼はゆっくり歩く。その歩き方の遅さは、杖を突いているからでもあるが、水甕の水が少しもこぼれないほどである。

 彼が、喉を渇かして待っているうちのものにそれを渡すとき、一滴もこぼさなかったと言って威張ることができるのである。

 ただ、その水甕の水は、泉がそれほど遠くないのに、道で少し微温(ぬる)くなっていた。

 

[やぶちゃん注:「サマリイの女」は「新約聖書」に現れる。サマリイは“Samaria”サマリアで、古代イスラエルの首都であったが、アッシリア王サルゴン2世の侵略によって紀元前721年に陥落の後、アッシリアから移民が入り込み、そこに残っていたイスラエル人との間に混血を生じ、その土地の人々はサマリア人と称せられた。彼らの宗教はアッシリアの土着信仰にユダヤ教が混淆したもので、ユダヤ人はイスラエルの血を穢した存在として忌避し迫害した。「ヨハネの福音書」によれば、ユダヤを去ってガリラヤへと戻ろうとしたイエスはこのサマリアの街シカルをよぎった。彼は疲れ、ヤコブの井と呼ばれた井戸の端に座っていた。その時、一人のサマリアの女が辛い水汲みのためにこの井戸へとやってきた。イエスは女に丁寧に「水を飲ませて下さい」と請うた。普段なら異教徒として蔑まれるはずの女は驚く。イエスは優しく諭した。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の中で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」 と。女はイエスが救世主であると知り、二日の滞在のうちに、シカルの多くのサマリア人たちがイエスに帰依したという。]

 

 

 

     青い木綿の雨傘(あまがさ)

 

 彼らは、路を離れるといきなり、原っぱをつっ切って、茂った木立ちのほうへ走って行こうとした。ところが、その木立ちは、あんまり遠すぎてなかなか行き着けそうにない。ポオリイヌとピエエルはもうこれ以上行くことはできない。恋心に頭がくらんで、草原のまんなかに、赤ちゃけた草と陽(ひ)に褪(あ)せた花の中へ、からだを投げ出した。ポオリイヌが大きく拡げた雨傘の蔭に二人はからだを投げ出した。

 路に人影が見えないと、青い木綿の雨傘は動かないでいる。

 ところで、誰かが一人やって來た。

 ポオリイヌは、いきなり指の先で傘の柄(え)をまわし出す。その間、ピエエルは何もせずにいる。

 雨傘は、風車のように、おとなしく、柄を水平に、骨の先だけがぐるぐる廻るのである。その廻り方は、いかにも相手を脅迫するように、何事かと眼を丸くしている旅行者の足取りに合わせて、それが遅ければ遅く、歩を早めれば早く廻るのである。

 傘は二人の恋人を匿(かく)し、保護し、その透(すか)し入りの影で二人を覆(おお)っている。というのは、太陽の白い針が、そこかしこ、穴を明けているのである。

 やがて、止まる。

 旅行者は、いっ時はっとしたが、気を取り直して道を急ぐ。焼けつくような熱さに、しらずしらず腰を屈めると、組み合わされた四つの足だけが、傘からはみ出していた。

 

 

 

     犬の散歩

 

 日曜日ごとに、昼食をすますと、バルジュは彼の妻に言った。

 「どれ、ひとまわりして来よう。お前は子供らを連れて、どこかへ行くがいい。おれは、おれのほうで、犬を連れて行くから」

 「だって」と、妻は言う。「なんなら、みんな一緒に行きましょうよ」

 「犬はむやみに走るからなあ」――バルジュは答える。「お前たちはとてもおれたちについて来れまい。まあ、しつかり遊んで来い。さあ、ピラム」

 ピラムが、外の空気が吸える嬉しさに、敷石の上で雀躍(こおどり)をしていると、バルジュは、

 「しっ! こら、こら、息が切れるぞ。時間は十分ある」

 まず彼は角の宿屋兼カフェエの店にはいる。そして、ピラムをテーブルの脚にしっかり結ひつける。それから、自分は、一人の老友の前に座を占める。ゲームを始めるために彼の来るのを待っていたのである。

 主人が骨牌(かるた)をやっている問、ピラムはじっとしている。脚を舐(な)める。人が通って、その脚を踏もうとすると引っ込める。虻(あぶ)を噛み殺す。嚏(くしゃみ)をする。そうして、誰も恨まずに、かまうものもなく眠ってしまう。

 時間がたつ。夕方の七時が鳴ろうとする。と、パルジェは熱に浮かされたように時計を見上げる。彼の妻と子供たちはもう帰っているだろう。夕食の膳ごしらえができているに違いない。

 「もうあと二度っきり」――彼は言う。

 それがすむと、

 「決戦、それで帰るとしよう」

 それがすむと、

 「弔合戦(とむらいがっせん)、これでやめ」

 それから、中腰になり、始める前から指に汗をかいて、彼はまた言う。

 「さ、早く、これでいよいよおしまい」

 今度はおしまいである。パルジェはピラムをほどいてやる。そして、少し汗をかくために、家まで飛んだり跳ねたりして行く。それが、犬を散歩させて帰って来たのである。

 

[やぶちゃん注:臨川書店1995年刊の「ジュール・ルナール全集」第4巻の「葡萄畑の葡萄作り」の「ピラーム」の注によれば(本作品の注はこれ一箇所のみ)、『ローマ神話で自分の婚約者がライオンに殺されたと早合点した青年の名からとった。十七世紀テオフィル・ド・ヴィオーの悲劇で知られるが、犬にはこうした神話の英雄の名がよくつけられる。』とある。ちなみに、「にんじん」でルピック氏の飼い犬の名もPyrmeである。]

 

 

 

     商売上手の女

 

 マリイ・マドレエヌは白木のテーブルの後(うしろ)で貧乏ゆすりをしている。そして、相手をそらさない笑顔を作りながら、熱心に手真似(てまね)身振りをしてしゃべり続ける。彼女は、人参、大根、葱(ねぎ)、トマトをすすめ、それから莢(さや)をむきたての豌豆(えんどう)をハンケチへ入れて見せ、それからまた、籠に入れた鳥類を見せる。

 値切るものがあると、彼女は、おとなしく、それで、しつこく頑張るのである。機敏に眼を働かして、品物を択(よ)る指の怪しげな働き方を監視し、いざとなれば、素早く、意地のきたない蠅(はえ)を追うように、その指を撥(は)ね退(の)けようと身構えている。

 すると、彼女の裳の中で、時には嗄(しゃが)れた叫び声、時にはまた激しい羽ばたきが聞こえる。マリイ・マドレエヌは一方の脚にからだの重みをかけるように、からだを屈めるのである。

 「あばれているんですよ」――彼女は言う。「まだ時間があります。ひどくしちゃいけませんからね、そうすると血が出てしまうんです。ですから、そっと踏んでいるんです。それで羽ばたきをしなくなったらやめるんです。あんまりはやく殺してしまっちゃいけませんからね。頭に傷をつけると、買手がないでしょう。だから、木靴を脱いでするんです。こら」

 マリイ・マドレエヌはちょっと裳をまくって見せる。そして、今、相手が買ったばかりの家鴨の嘴(くちばし)を見せる。両手は品物を売るために明けて置かなければならないので、彼女は足でそれを絞め殺しているのである。

 

 

 

     税金

 

 「条文がちゃんとあります」――収税官吏はノワルミエに言った。

 『一八八九年七月十七日付法令、第三条、第三項、嫡子タルト庶子タルトヲ問ハス、生存セル七子ヲ有スル父及母ハ人頭並ニ動産ニ対スル課税ヲ免セラルルモノトス』

 「いいか」――家に帰って、ノワルミエは妻に向かって言った。「われわれはもう六人子供がある。七人目をこしらえよう。税金を払わなくってもいい」

 確かなことが二人に勇気を与えた。すでに彼らは他の多くのものよりも不仕合せでないような気がした。ノワルミエはほとんど毎日働いた。彼は乞食もした。それだけではない、どうかすると肉や馬鈴薯を盗んで来た。それでも彼の律義者(りちぎもの)であることに変りはなかった。

 また膨れ出した彼の妻は、がらんどの家にいても、からだを休める暇がなかった。それで子供は一人も死ななかった。彼らの惨めな生活が、最も激しい状態に陥ったころ、七番目の子供が救いの手のようにやって来た。ノワルミエは、ほっとして、悠然とこう繰り返した。

 「まあいい、税を払わんのだから」

 ところが、翌年の課税として金九フラン五十サンチーム納入すべしという新しい白箋を受け取った。

 「条文がちゃんとあります」――また収税官吏は言った。

 『一八九〇年八月八日付法令、第三十一条。一八八九年七月十七日付大蔵省令、第三条。第三項ハ次ノ如ク改正ス。嫡子タルト庶子タルトヲ問ハス、生存セル丁年未満ノ七子ヲ有スル父及母ニシテ十フラン以下ノ人頭動産税ヲ課セラルルモノハ、此ノ課税ヲ免除セラルルモノトス』

 「そらね、なるほど、九フラン五十サンチームの税金を納めるので、つまり十フラン以下だ。それから、なるほどお前さんは、嫡子として生存せる七人の実父には違いないが、その七人はみんな丁年未満ではない。長男のシャルルは二十一歳になった、すなわち丁年に達したわけです。そういうわけだから、なんにもなりません」

 ノワルミエはこの言葉を、死んだ馬のように、どんよりした顔付きをして聞いていた。

 「な、おい」――彼は妻に言った。「おれはわかったよ。やつらの考えが変ったのさ。ただそれだけさ」

 どうして、彼女は、あんまりびっくりして、わかるどころの騒ぎではなかった。彼のほうも、収税官吏の言い分を妻に説明して聞かせるにつれて、だんだん、わかり方がぼんやりして来た。

 「なんだって」――妻は叫んだ。「七人いて、それが、こんだ六人と同じことだって。じや、毎年、死ぬまで九フラン五十サンチーム出すのかい。そんなことがあるものかね。第一、子供の年がふえたからって、あたしたちのせいじゃないじゃないか」

 長い間、ノワルミエは考え込んでいた。「どうだ、おい」――彼はやっと口を開いた。「おりゃいいことを考えた。勘定にはいらない子供の代りをこしらえたらどうだ。税金のほうじゃ丁年未満ってやつが要(い)るんだから、そいつをすぐ一人こしらえてやろうじゃないか」

 

[やぶちゃん注:最近は用いられないが「丁年」は満二十歳、成人のこと。「丁」の盛ん・強いという意から生じたものと思われるが、「丁」は唐代の制度では満二十歳から五十九歳までの労働可能な男子を言ったようである。]

 

 

 

     姉妹敵(きようだいがたき)

 

 彼女らは、牛乳入りの珈琲(コーヒー)を、ちびちびと、急がずに飲んでいた。その時、マリイはアンリエットに言った。

 「あんたは行儀よく飲むってことができないのね」

 アンリエットは、むっとして、下を向いた。と、顎(あご)がすぐに三重になる。それほど彼女はふとっていた。下を向くと、胴着の上に汚点がついている。なかなか言い返そうとしない。テーブルの上に空の茶椀を置いて、いっ時、庭の樹(き)を眺めている。凋落(ちょうらく)の兆(きざ)しを眺めている。

 「おっしゃいよ、意地わるね」――やがて彼女は言った。「あんたには、こんな粗相はできっこないのね。珈琲をこぼしても、みんな、じかに床の上に落ちてしまうから」

 「あたしの胸が平べったいって、ちゃんと言ったらどう」

 「そうじゃないのよ、マリイ、でも、あんたの胸は、あたしのみたいに邪魔にならないって言うの。あたしそう思うわ」

 アンリエットは、それを証明しなければならない。

 「マリイ、じや、較べて見ればわかるわ」

 そう言ったかと思うと、二人は、臂(ひじ)と臂とをすれすれに、くっついて並んだ。二人とも息を吸い込む。そして、横眼で、どちらがよけい張り出しているかを見てみるのである。

 「降参した?」――アンリエットが言いかける。

 「第一、あんたは踵(かかと)の高い靴をはいてるんですもの」――マリイが言う。「そうだ、いいことを考えた。そのお茶椀をもって、こっちへ来てごらんなさい」

 アンリエットは、言われるままに、マリイの後について行く。彼女らは二人の寝室にはいって、戸の閂(かんぬき)をおろす。

 着物に皺(しわ)の寄る音、ボタンが飛んで転がる音、紐(ひも)がこすれる音が聞こえる。長い間、彼女らは笑わないで、こそこそ話をしている。やがて、はっきりした声で、

 「そらね、あたしの、縁(ふち)までいっぱいよ」――マリイが言う。

 「じゃ、あたしのは、はいりもしない。お茶椀がはじけちゃうわ」

 鍵の穴に陽(ひ)が照っているかと思われるほど、くっきりと白い頸(くび)をあらわに剥(む)き出して、二人の姉妹敵は、たれはばからず、牛乳入り珈琲の茶碗で、乳の大きさを測っている。

 

 

 

     宝石

 

 フランシイヌは散歩をしている。何も考えていない。その時、突然、彼女の右足が左足を追い越すことを拒む。

 そこで彼女は、植えつけられたように、深く板をおろしたように、飾り窓の前を動かない。

 彼女は窓ガラスに姿を映したり、または、髪の毛を直したりするために止まったのではない。彼女の眼は一つの宝石に注がれているのである。彼女は執念深く、その宝石を見つめている。それで、もし、その宝石に翼が生えていたら、ひとりでに、蛇に見込まれた蛙のように、それが指環ならフランシイヌの指に、襟留(えりど)めなら胴着の胸に、またそれが耳飾りなら、彼女の耳たぶに、そっととびついて来るだろう。

 それがもっとよく見えるように、彼女は眼を半分つぶって見るのである。また、せめてそれが瞼(まぶた)の下にぶらさがるように、彼女は、眼をすっかりつぶるのである。彼女は眠っているように見える。

 しかるに、窓ガラスのうしろに、店の奥から来た一本の手が現われる。袖口から出ているその手は、白く、華奢(きゃしゃ)な手である。それほ、巧みに鳥籠の中にはいる手のように思われた。その手は慣れている。ダイヤモンドの焰に火傷(やけど)もせず、坐睡(いねむり)をしている様々な石が目を覚さないように、その間を抜けて通る。そして、胸をおどらせながらそれを見つめているフランシイヌに、あなたの好きな方(かた)をちょつと失礼しますと言わんはかりに、すばしこく指の先で件(くだん)の宝石を掻(か)っ浚(さら)って行く。

 

[やぶちゃん注:形式段落三段目の冒頭は、底本では『「彼女は、……』と鍵括弧で始まっているが、前後の文脈から鍵括弧にする必然性を感じない点と、後の文のどこにも閉じの鍵括弧が存在しないことから誤植と判断して削除した。また、「ダイヤモンドの焰に火傷もせず」の「焰」の字は底本では(つくり)が「稻」の(つくり)の部分になっているのであるが、該当字体がワープロになく、読解も不自由な字であるので、ここに限っては正字とした。]

 

 

 

     肥(ふと)った子供と瘠(や)せた子供

 

 公園の同じ並木道、鳩と鵜(つぐみ)が親しげに入りみだれている、その中に、二人の婦人が隣り合って腰をおろしていた。お互いに識(し)らない同士であった。が、二人とも、一人の子供を連れていた。

 薔薇色(ばらいろ)の着物を着た婦人は、肥(ふと)った子供を、黒い着物を着た婦人は瘠(や)せた子供を連れている。

 始めのうち、彼女らは、口を利かないで、互いに見合わせていた。そのうちに、それとなく双方から軽く話をもちかけた。

 「坊や、赤ちゃんにぶつかるよ」

 「坊や、赤ちゃんに砂掬(すなすくい)を貸しておあげ、お兄さんみたいに」

 突然、黒衣の婦人は、たえかねて、蕎薇色の婦人に声をかけた。

 「まあお立派な赤ちゃんですこと、奥さま」

 「ありがとうございます、奥さま。みなさんがよくそうおっしゃって下さいますんですよ。いくらそうおっしゃられても、こればかりは聞き倦(あ)きませんの。でも、母親の眼で見ますと、自分の子ですもの、どうしてもひいき目っていうものがございましてね」

 「そんな、あなた、いくら御自慢なすったってようございますわ。綺麗(きれい)でまぶしいようですもの。見ているだけでも好(い)い心持になりますわ。あのしっかり締った肉付き、生(なま)でたべてもようございますわね。どうでしょう、靨(えくぼ)がいっぱい、どこにもかしこにも。おてて、あんよ、おそろしいようですわ。百年は大丈夫ですわね。まあ、あのかんかんの総々(ふさふさ)して軽そうですこと。失礼ですけれど、なんじゃございませんか、やっぱり鏝(こて)をおかけになるんでしょうね、そうでしょう、奥さま」

 「いいえ、奥さま、そんな、わたくし、子供の頭にかけて誓いますわ、そんなもったいない、穢(けが)らわしい、鏝(こて)なんか、髪の毛に対して申しわけがあるものですか。生れたときから、あれなんでございますよ」

 「そうでしょうとも、奥様、ほんとにね、おしあわせですわね、お母さまが。心の底からお羨しく存じますわ」

 二人の婦人は互いに近づいて行った。そして、瘠せた子供が、かろうじて呼吸(いき)をしながら、地上に投げ出されている間、黒衣の婦人は肥った子供を抱き上げて、重さを測ったり、あやしたり、眺め入ったり、そして、眼を見張って「まあ、なんて重いんでしょう、ほんとに、なんてまあ重いんでしょう」を繰り返していた。

 「褒(ほ)めて頂いてよろこんでますわ」――薔薇色の婦人は言った。「でも、あなたの赤ちゃんはおとなしくっていらっしゃるようですわね」

 黒衣の婦人は、がっかりして、寂(さび)しく笑った。自分がこうまで一生懸命になっているのに、その報酬なら、もっとなんとかした挨拶が聞きたかった。真面目な平凡なお愛想より、気の利いた空世辞(からせじ)のほうがましだとさえ思った。もう諦めてはいるものの、彼女は、また何かを乞い求めるように見えた。

 薔薇色の婦人はそれと見てとった。機転の利かなかったことが恥かしく、それに心底はやさしい彼女は、瘠せた子供を膝の上に抱き取り、唇の先を押しあて、もったいらしくこう言った。

 「奥さま、こんなこと、あなたがお母さまだから申すんじゃございませんよ。でも、わたくし、あなたの赤ちゃんも、たいへんお立派だと思いますわ、こういうふうなたちの赤ちゃんとしてはね」

 

 

 

     留針(ピン)

 

 彼女の許婿(いいなずけ)が戦争に出掛ける時、ブランシュは、彼に留針(ピン)を一本贈った。彼はそれを大事に取っておくと誓った。

 「あなたが、これを僕に下さるのは、きっと、僕があなたを忘れないようにでしょう」と、ピエエルが言う。

 「いいえ」――彼は言う。「あなたがあたしを忘れないっていうことは、もうちゃんとわかってるんですもの」

 「それなら、この留針(ピン)を持っていると、僕に運が向くって言うんでしょう」

 「いいえ、あたし、そんな御幣(ごへい)かつぎじゃないの」

 「まあ、よござんす、それはどうでも」――ピエエルは言う。「これがあなたからの贈物であり、あなたが僕を愛して下さる、ただそれだけで僕は満足です」

 「あたし、あなたを愛しててよ」――ブランシュは言う。「でも、あたしの留針(ピン)は、何かあなたのお役に立つことがあるわ」

 それはそうと、戦場で、ピエエルは、左の腕に弾丸たまを受けて、その腕を切断しなければならなかった。

 「ブランシュはああいう女だから」――彼は言った。「きっと、気を利かして、早く結婚したいと言うだろう」

 彼は後送された。彼の最初の訪問は、ブランシュの家であった。彼は、生き残ったことに誇りを感じながら、いそいそと路の上を歩いていると、ふと、自分の空の袖に気がついた。彼はそれをじっと見つめていた。

 袖は平たくなってぶらりと下っている。でなければ、だらしなく右左へゆれている。そうかと思うと、獣の尻尾(しっぽ)のように跳ね返っている。

 「いくらかまわないと言っても、この扮装(なり)ではちょっと滑稽だ」――ピエエルは言った。

 残っているほうの手で、彼はその袖をつまみ上げ、二つに折って、きちんと肩のところへ留針(ピン)で留めた。

 

 

 

     雄鶏(おんどり)

 

       一

 毎朝、泊り木から飛び降りると、雄鶏(おんどり)は相手がやっぱりあそこにいるかどうかを見た――「もう一つの」はやっぱりそこにいる。

       二

 雄鶏は地上のあらゆる競争者を征服したいといって鼻をたかくしてもいい――が、「もう一つの」それは手の届かないところにいる、あれこそ勝ち難き競争者である。

       三

 雄鶏は叫びに叫ぶ。呼びかけ、挑(いど)みかけ、脅(おど)しつける――しかし「もう一つの」は、きまった時間にでなければ応(こた)えない。それも答えるのではない。

       四

 雄鶏はみえを切る。羽を膨(ふく)らす。その羽根は見苦しくない、あるものは青く、あるものは銀色――しかし、「もう一つの」は、蒼空(あおぞら)のただなかに、まばゆいばかりの金色。

       五

 雄鶏は自分の雌鶏(めんどり)をみんな呼び集める。そしてその先頭に立って歩く。見よ、彼女らは残らず彼のもの。どれもこれも彼を愛し、彼を畏(おそ)れている――が、「もう一つの」は燕(つばめ)どもがあこがれの主。

       六

 雄鶏はわが身知らずである。彼は、ところきらわず、恋の句点を打ちまわる。そして、金切声を張り上げて、ちょっとしたことに凱歌(がいか)を奏する――しかし「もう一つの」は、折りも折り、新妻を迎える。そして空高く、村の婚礼を告げ知らす。

       七

 雄鶏は妬(ねた)ましげに蹴爪(けづめ)の上に伸び上って、最後の決戦を試みようとする。その尾は、剣が刎(は)ね上げるマントの襞(ひだ)そのままである。彼は、鶏冠(とさか)に血を注いで戦いを挑む。空の雄鶏は残らず来いと身構える――しかし、嵐に面(おもて)を曝(さら)すことさえ恐れない「もう一つの」は、この時、微風に戯れながら相手にならない。

       八

 そこで、雄鶏は、日の暮れるまで躍起となる。彼の雌鶏は一羽一羽帰って行く。彼は独り、声を嗄(か)らし、へとへとになって、すでに暗くなった中庭に残っている――が、「もう一つの」は、太陽の最後の焰を浴びて輝き渡り、澄み切った声で、平和な夕(ゆうべ)のアンジェリュスを歌っている。

 

[やぶちゃん注:原文は段落番号はローマ数字。「博物誌」では原文でも通し番号はない。「博物誌」は「八」の「そこで、雄鶏は、日の暮れるまで躍起となる。」の冒頭一文が独立連となっているため、9連である。実は「博物誌」の原文は改行はあるが空行がない。更に第5連の冒頭部分“Le coq rassemble ses poules, et marche à leur tête.”(本訳詞の「雄鶏は自分の雌鶏(めんどり)をみんな呼び集める。そしてその先頭に立って歩く。」の部分)で改行されて独立しているために(私の「博物誌」テクストの原文を参照)、都合、全部10のパートからなっている。

 両訳文での大きな相違点はライバルの風見鶏を指す『「もう一つの」』で、これは「博物誌」では「相手」となる。『「もう一つの」』は如何にも特異的限定的な表記・表現で「相手」の方が自然で、正体の漸層的理解から言ってもより生き物的な「相手」の方が効果的と言える。

 「アンジェリュス」は“Angelus”アンジェラス。カトリックのお告げの祈り。天使(“Angelus”はラテン語で天使の意)によって聖母マリアに受胎告知がなされたことを祝す祈り(朝・正午・夕べの三度、鐘の音とともに行う)。また、この時を告げる鐘の音をも指す。名は、この祈文の初めにある「主の御使(みつかい)」(Angelus Domini)に由来する。

 さて、臨川書店1995年刊の「ジュール・ルナール全集」第4巻の「葡萄畑の葡萄作り」の末尾にはこの「雄鶏」以降については『『博物誌』(第5巻所収)にそのまま収録されているので、ここではタイトルだけあげておく。』とし、以下、21タイトルをのみ記す。その中には「博物誌」に存在しない「象」と「カミキリ虫」が含まれている。該当第5巻の『博物誌』にも、その注にも、また第5巻のその他にも「象」と「カミキリ虫」は所収していない。また、以下で見るように「囁き」などは原文自体が大きく異なっており(注で詳述)、摩訶不思議と言わざるを得ない。

 以下、「博物誌」に所収するものが殆んどではあるが、この岸田氏の訳文(昭和131938)年の初版を新字現代仮名遣に昭和481973)年に変更したもの)は昭和261951)年の新潮社版とかなり異なる。私の「博物誌」テクストを別ウィンドウで開いて対照してお読みになるのも一興と思われる。]

 

 

 

     牝牛(めうし)

 

 これがいい、あれがいいと、とうとう捜しあぐんで、彼女には名前をつけないでしまった。彼女のことはただ「牝牛」という。そして、それが一番彼女にふさわしい名前であった。

 それに、そんなことはどうでもいい、彼女は食うものだけのものは食うのだから――青草でござれ、乾草(ほしくさ)でござれ、野菜でござれ、穀物でござれ、パンや塩に至るまで、なんでも欲しいだけ食った。何に限らず、いつでも二度ずつ食った。吐き出してまた食うのだから。

 彼女がわたしを見つけると、軽い細やかな足取りで、割れた木靴をひっかけ、肌の皮を白靴下のように脚のあたりに張り切らせて走って来るのである。彼女の姿を見ていると、わたしは、そのたびごとに、「さ、おあがり」と言わないではおられない。

 しかし、彼女が呑(の)み込むものは、脂肪にはならないで、みんな乳になる。一定の時刻に、乳房がいっぱいになり、真四角になる。彼女は乳を永く溜めて置くということができない――永く溜めて置く牝牛もあるが――ゴムのような四つの乳首から、ちょっとおさえただけで、気前よくありったけの乳を出してしまう。彼女は足も動かさなければ、尻尾も振らない。が、その大きな柔らかな舌で、乳を搾(しぼ)る女の背中を舐(な)めて遊んでいる。

 独り暮しであるにもかかわらず、盛んな食慾が彼女の退屈を忘れさせる。最近に生み落した犢(こうし)のことをぼんやり思い出して、わが子恋しさに啼(な)くというようなことも稀(ま)れである。ただ、彼女は人の訪問を悦ぶ。額の上ににゅっと生えた角と、ひと筋の涎(よだれ)と一本の草とを垂らした甘ったれた唇とで、愛想よく迎えるのである。

 こわいものなしという男たちは、そのはち切れそうな腹を撫でる。と、女どもは、こんな大きな獣(けもの)がこんなにおとなしいのを見て意外に思う。それで、まだ用心をしなければならないのは、例の愛撫だけということになる。そして彼女らは幸福の夢を描くのである。

 

[やぶちゃん注:この最終段落は、日本語としてはややぎくしゃくしている。「博物誌」の訳の『男たちは、怖いものなしだから、そのはち切れそうな腹を撫(な)でる。女どもは、こんな大きな獣があんまりおとなしいので驚きながら、もう用心するのも、じゃれつかないように用心するだけで、思い思いに幸福の夢を描くのである。』の方が自然体ですんなりと意味が取れる。]

 

 

 

     豚と真珠

 

 草原に放すがいなや、豚は食いはじめる。その鼻は決して地べたを離れない。

 彼は柔らかい草を選ぶわけではない。一番近くにあるのにぶつかって行く。鋤鍬(すきぐわ)のように、または盲の土竜(もぐら)のように、行き当たりばったりに、その不撓不屈(ふとうふくつ)の鼻を前へ押し出す。

 それでなくても漬け物樽のような形をした腹を、もっと丸くすることより考えていない。天気がどうであろうと、そんなことはいっこうおかまいなしである。

 肌の生毛(うぶげ)が、正午の陽(ひ)ざしに燃えようとしたことも平気なら、今また、霰(あられ)を含んだあの重い雲が、草原の上に拡(ひろ)がりかぶさろうとしていても、そんなことには頓着しない。

 鵲(かささぎ)は、それでも、弾機(ばね)仕掛けのような飛び方をして逃げて行く。七面鳥は生垣(いけがき)のなかに隠れている。そして弱々(よわよわ)しい仔馬(こうま)は柏の木蔭に身を寄せている。

 しかし、豚は食いかけたもののある所を動かない。

 後は、一口も残すまいとする。

 彼はいくらか大儀になったらしく、尻尾(しっぽ)を振らない。

 雹(ひょう)がからだにパラパラと当ると、ようやく、それも不承不承唸る――

 「うるせえやつだな、また真珠をぶつけやがる」

 

 

 

     鶸(ひわ)の巣

 

 庭の桜の叉になった枝の上に、鶸(ひわ)の巣があった。見たところ、それは綺麗(きれい)なまん丸によくできた巣で、外側は一面に毛で固め、内側はまんべんなく生毛(うぶげ)で包んである。その中で、四つの雛(ひな)が、卵から出た。わたしは父にこう言った。

 「あれを捕って来て、自分で育てたいんだけれどなあ」

 わたしの父は、これまでたびたび、鳥を籠に入れて置くことは罪悪だと説いたことがある。が、今度は、たぶん同じことを繰り返すのがうるさかったのだろう、わたしの向かってひと口も返事をしなかった。数日後、私は彼に言った。

 「しようと思やわけないよ。はじめ、巣を籠の中に入れて置くの。その籠を桜の木にくくりつけて置くだろう。そうすると、親鳥が籠の目から食物をやるよ。そのうちに親鳥の必要がなくなるから」

 わたしの父は、この方法について、自分の考えを述べようとしなかった。

 そういうわけで、わたしは籠の中に巣を入れて、それを桜の木に取り付けた。わたしの想像ははずれなかった。年を取った鶸は、青虫を嘴(くちばし)にいっぱいくわえて来ては、わるびれる様子もなく、雛に食わせた。すると、わたしの父は、遠くの方から、わたしと同じように面白がって、彼らの華やかな往(ゆ)き来(き)、血のような赤い、また硫黄(いおう)のように黄色い色の飛び交う様を眺めていた。

 ある日の夕方、わたしは彼に言った。

 「雛はもうかなりしっかりして来たよ。放しといたら飛んで行ってしまうぜ。親子揃って過ごすのは今夜っきりだ。あしたは、家の中へ持って来よう。僕の窓へ吊るしとくよ。世の中に、これ以上大事にされる鶸はきっとないから、お父さん、そう思っていておくれ」

 わたしの父は、この言葉に逆おうとしなかった。

 翌日になって、わたしは、籠が空になっているのを発見した。わたしの父も、そこにいた。わたしのびっくりしたのを見て知っている。

 「もの好きで言うんじゃないが」――わたしはいった。「どこの馬鹿野郎が、この籠の戸を開(あ)けたのか、そいつが知りたいもんだ」

 

 

 

     蟻(あり)と鷓鴣(しゃこ)

 

 一匹の蟻(あり)が、雨上りの轍(わだち)の中に落ち込んで、溺れかけていた。その時、一羽の鷓鴣(しゃこ)の子が、ちょうど水を飲んでいた。それを見ると、嘴(くちばし)で拾い上げ、命を助けた。

 「この御恩はきっと返します」と蟻が言った。

 「わたしたちはもうラ・フォンテエヌの時代にいるのではありません」と、懐疑主義者の鷓鴣が言う。「もちろんあなたが恩知らずだと言うのではありません。が、わたしを撃ち殺そうとしてる猟師の踵(かかと)に、あなたはどうして食いつくことができます。いまどきの猟師は素足で歩きませんよ」

 蟻は、よけいな議論はしなかった。そして、急いで、仲間の群れに加わった。仲間は、一列に並べた黒い真珠のように、同じ道をぞろぞろ歩いていた。

 ところが、猟師は遠くにいなかった。一本の樹(き)の蔭に、横向きになって寝ていた。彼は、件(くだん)の鷓鴣(しゃこ)が、刈り立ての秣(まぐさ)の間で、ちょこちょこ、餌を拾っているのを見つけた。彼は立ち上って、撃とうとした。すると、右の腕が痺(しび)れて(蟻が這っているように)むずむずする。鉄砲を構えることができない。腕が、ぐったり垂れる。鷓鴣は猟師の痺れがなおるまで待っていない。

 

 

 

     象

 

 それは、若いダニエルが象の見まわりをする時刻である。

 いつもの見物が彼を待っていた――労働者、兵卒、娘、放浪者、それから外国人。

 「さ、ちんちんだ」――ダニエルは、指を挙げて言う。

 象は一度ではうまく行かなかった。重くるしいからだを、やっと起したかと思うと、前に倒れる。そして鼻を鳴らす。

 「もっと上手に」――ダニエルはつっけんどんに言う。すると、象は檻(おり)よりも高く立ち上る。そしておそろしく、どえらい、太古時代そのままの姿で、彼はひと声唸(うな)りを発する。あたりの空気は水晶のように罅(ひび)がはいる。

 「そうだ」――ダニエルが言う。象はもう四本の脚で立ってもいいのである。鼻を真直ぐに挙げて、口を開(あ)けてもいいのである。ダニエルは、その中に、遠くからパンのかけらを投げ入れる。狙いがうまいと、パンのへたが、黒い爛(ただ)れた口の奥で音を立てる。つぎに、手のひらへのせて、一つ一つ野菜の切り屑を与える。ざらざらした、しかし鋭敏

なその鼻が柵の間を行ったり来たりする。そして、ちょうど、象が、その中で息を吐いたり吸ったりしているように、曲ったり伸びたりする。

 糸で引っ張ってあるような薄い耳が、満足げに翻(ひるがえ)る。しかし、小さな眼は、相変らずどんよりしている。

 最後にダニエルは、紙で包んだ美味いものを口の中へ投げ込む。その紙包みは、納屋の抜け穴を猫が通るようにはいって行く。

 

 象はたったひとりになると、家の留守番をしている村のおいぼれ爺(じじい)のようなものである。彼は戸の前で、からだを曲げ、ぼんやり鼻をぶらさげて、靴をひきずっている。上の方へはきすぎた股引(ももひき)の中にほとんどからだが隠れ、そして、うしろから、紐(ひも)のはしがだらりと垂れている。

 

[やぶちゃん注:「博物誌」には、ない。臨川書店1995年刊の「ジュール・ルナール全集」第4巻の「葡萄畑の葡萄作り」の末尾には先の「雄鶏」以降については『『博物誌』(第5巻所収)にそのまま収録されているので、ここではタイトルだけあげておく。』とし、掲げたタイトルの中には「象」も含まれている。しかし、該当第5巻の『博物誌』にも、その注にも、また第5巻のその他にも「象」は所収していない。摩訶不思議と言わざるを得ない。]

 

 

 

     囁(ささや)き

 

鋤(すき)――サクサクサク……稼ぐに追いつく貧乏なし。

鶴嘴(つるはし)――お前はいつでもそう言うが、おれだってそれくらいのことは言ってる。

 

花――今日は日が照るかしら。

向日葵(ひまわり)――ええ、あたしさえその気になれば。

如露(じょうろ)――そうは行くめえ。おいらの料簡(りょうけん)ひとつで、雨が降るんだ。

 

薔薇(ばら)の木――まあ、なんてひどい風。

添え木――わしが付いている。

 

野苺――なぜ薔薇には棘(とげ)があるんだろう。薔薇の花なんて食べられやしないわ。

生簀(いけす)の鯉――うまいことを言うぞ。だからさ、俺も、人が食やがるから、骨を立ててやるんだ。

薊(あざみ)――そうねえ、だけど、それじゃもう遅すぎるわ。

 

薔薇の花――あんた、あたしを綺麗(きれい)だと思って?

黄蜂(くまばち)――下の方を見せなくっちゃ……。

薔薇の花――おはいりよ。

 

塀――なんだろう、背中がぞくぞくするのは?

蜥蜴――おれだい。

 

蜜蜂(みつばち)――さ、元気を出そう。あたしがよく働くって誰でも言ってくれる。今月の末には、売場の取締になれるといいけれどなあ。

 

菫(すみれ)――おや、あたしたちはみんなアカデミイの徽章(きしょう)をつけてるのね。

白い菫――だからさ、なおさら、控え目にしなくっちゃならないのよ、あんたたちは。

葱(ねぎ)――おれを見ろ、おれが威張ったりするか。

 

アスパラガス――あたしの小指は、あたしに何でもなんでも言うの。

 

菠薐草(ほうれんそう)――酸模(すかんぽ)っていうのはわたくしのことです。

酸模(すかんぽ)――うそよ、あたしが酸模よ。

 

馬鈴薯(ばれいしょ)――あたし、子供が生まれたようだわ。

 

林檎(りんご)の木(向い側の木に)――お前さんの梨(なし)さ、その梨、その梨、……お前さんのその梨だよ、わたしがこさえたいのは。

 

樫鳥(かしどり)――のべつ黒装束で、見苦しい奴だ、黒つぐみって。

黒つぐみ――知事閣下、わたしはこれしか着るものがないのです。

 

分葱(わけぎ)――くせえなあ!

韮(にら)――きっと、また石竹(せきちく)のやつだ。

 

鵲(かささぎ)――カカカカカ……。

蟇(ひきがえる)――何を言ってやがるんだ、あの女(あま)は。

鵲――歌を唱(うた)ってるのよ。

蟇――グワグワ。

 

三羽の鳩――おいで、ポッポ……おいで、ポッポ……おいで、ポッポ。

 

土竜(もぐら)――静かにしろ、やい、上のやつ。仕事をしているのが聞こえやしねえ。

 

蜘蛛(くも)――法律の名によって、封印を貼りつけます。

 

羊――メエ……メエ……メエ……。(訳者注。メエはmaisに通じ「しかし」の意)

牧犬――しかしも糞(くそ)もない。

 

[やぶちゃん注:底本では、台詞が二行以上に及ぶ場合は頭の一字空けがなされているが、ブラウザでの不具合を考えて行っていない。本作は「博物誌」の「庭のなか」と似るが、意味内容の相違を伴う有意な相違が随所に認められる。それは配置や訳のみではなく、原典自体の有意な相違の場合もあるのである。臨川書店1995年刊の「ジュール・ルナール全集」第4巻の「葡萄畑の葡萄作り」の末尾には先の「雄鶏」以降については『『博物誌』(第5巻所収)にそのまま収録されているので、ここではタイトルだけあげておく。』とし、この「囁き」を所収しないのであるが、以下に見るように、これだけ多くの有意な相違点が認められる以上、これを『そのまま収録』しているとは、逆立ちしても言えない。全集としてのテクスト校訂の観点から見ても私は極めて不適切な行為であると思う。

 例えば冒頭の〈鶴嘴〉の台詞は“MURMURES”の原文でも“Tu dis toujours ça,mais moi aussi.”となって捻りが入っており、明らかに「博物誌」の“AU JARDIN”の方の単純な“Moi aussi.”とは異なる。ちなみに、この冒頭の〈鋤〉の台詞の“Fac et spera.”はフランス語ではなくラテン語で、“Fac”は「作れ・実行せよ」“et”は「そして」、“spera”は「望め・期待せよ」の意である。岩波書店1998年刊の辻昶訳「博物誌」の「庭にて」の注によれば、これは『「なすべきことをなして、あとは天にまかせよ」という意味』で、『イギリスのプロテスタント殉教者アスキュー(一八二一~四六)の言った言葉。またフランスの著名な出版者アルフォンス・ルメールが編集した本の表紙に記したことわざ。』だそうである。

 逆にその次のグループの〈如露〉の台詞は“MURMURES”の原文では“Pardon, si je veux, il pleuvra.”でそっけなく終止しているのに対し、「博物誌」の“AU JARDIN”の方は“Pardon, si je veux, il pleuvra, j'ôte ma pomme, à torrents.”で一捻りの面白さが加味されている。

 〈蜘蛛〉の場合は、ここでは他の台詞と同じく“Au nom de la loi, j'appose mes, scellés.”と一人称の直接話法であるが、「博物誌」では三人称となって客観表現となり、“Toute la nuit, au nom de la lune, elle appose ses scellés.”「一晩じゅう、月の名によって、彼女は封印を貼(は)りつけている。」とイメージも異なる。

 また、著名な〈塀〉と〈蜥蜴〉の対話は「蜥蜴」の項に、〈樫鳥〉と〈黒つぐみ〉の対話は「くろ鶫(つぐみ)!」の項に、〈鵲〉と〈蟇〉の会話は独立している〈土竜〉を最後に結合させて「鵲」の項に、〈三羽の鳩〉は「鳩」の項に、〈蜘蛛〉は「蜘蛛」の項に、最後の〈羊〉と〈牧犬〉は「羊」の項にそれぞれ独立している。この「三羽の鳩」は「博物誌」の注で岸田氏自身が記しているように、鳩の鳴き声“mon grrros... ”(モン・グルルロ)は、恋人の男に女が呼びかける「モン・クロ」“mon cœur”に掛けているのであるが、この訳ではその感じが全く理解されない。

 〈蜜蜂〉の台詞に現われる「売場の取締」は原文では“chef de rayon”で、まず一義的には“rayon”は蜜蜂の蜂窩・蜜房(みつぶさ)を言う語である。但し、それが二義的に本棚の棚の板から百貨店等のディスプレイ、売り場の意となり、“chef de rayon”で売場主任の意で用いられるようになった経緯をもパロッているのである(これは岩波書店1998年刊の辻昶訳「博物誌」の「庭にて」の注を一部参考にした)。

 〈菫〉の“violette”には、非常に慎み深いことという意味もあり、更に〈葱〉を意味する“le poireau”には、俗語“le Poireau”で農業功労章の意味もある。原典では、これらの掛詞的重層が絶妙なのである。

 また、興味深いのは〈菫〉と〈白い菫〉と〈葱〉の会話の〈葱〉が、その台詞から、ここでは男性となっているのに対して、「庭のなか」では明白な女性となっており、逆に「馬鈴薯」はここでは女性となっているのに対して、「庭のなか」では明白な男性となっている点である。フランス語の性としては原文の見出しの定冠詞でも一目瞭然、葱は“le poireau”で男性名詞、馬鈴薯 la pomme de terre (「大地の林檎」の意)は女性名詞である(ちなみに“pomme”も“terre”もどちらも女性名詞である)。前者は前の二人〈菫〉〈白い菫〉が女性であるから、変化を持たせる上でも男性である方が面白いが、後者の場合は、その訳の諧謔性から言えば単語としての性を無視して「庭のなか」のように男性とした方が圧倒的に面白い訳となっている。但し、これはあくまで訳者の遊びの領域とは思われる。

 〈アスパラガス〉の台詞は両原文ともに“Mon petit doigt me dit tout.”と同文であるが、邦訳は解釈が異なるものとなっている。これは遥かに「庭のなか」の方がよい。

 〈菠薐草〉と〈酸模〉の会話は、両種の葉がよく似ていることに加えて、スイバ(スカンポ)の意の“oseille”という単語に、別に卑俗語として「銭・おぜぜ・お足」といった金の意味があることから、ホウレンソウは鉄分(金属)を多く含むことに加えて、更に自ら福を呼び込むために金のシンボルたる“oseille”を詐称したいというニュアンスが込められている(これは岩波書店1998年刊の辻昶訳「博物誌」の「庭にて」の注を一部参考にした)。

 〈林檎の木〉が頻りに言う「お前さんの梨」であるが、岩波書店1998年刊の辻昶訳「博物誌」の「庭にて」の注等によれば、フランス語の梨“poire”には卑俗語として「頭・脳天」「顔・面(つら)」といった意味があって、「梨」に「顔」を掛けているとするようである(実際に辻氏はここの訳で「梨」に「かお」というルビを振っている)。ただ、“poire”にはやはり卑俗語として「間抜け・頓馬」の意味もあり、そうした「阿呆面(づら)・馬鹿面」といった悪意も込められていないとは言えないようにも思われる。

 〈樫鳥〉が〈黒つぐみ〉“merle”のことを「見苦しい奴」と言うのであるが、ここの原文はずばり“villain merle”で、“villain”は百姓・平民という意味から、形容詞化して「卑しい・下賤な」の意となった語。“villain merle”はこれで「不愉快な男・醜い男」を意味する。

 〈土竜〉については、先に記したように「博物誌」では「鵲」と「蛙」(次を参照)のシチュエーションのなかに取り込まれてしまうのだが、ここでは舞台が先行する自然景観全体へと広がっており、上の木立の〈鵲〉と直上の〈蟇〉のそれぞれの声、それに対位法的にからまってくる別の木立の〈鳩〉の声を〈土竜〉が受ける構造となり、ポリフォニックな効果的配置となっていると言える。ちなみにこの“MURMURES”の原文では鵲は“Cacacacaca.....”と鳴き、「博物誌」の鵲は“Cacacacacaca.”と鳴いている。岸田氏の訳の「カ」の数はそれに、それぞれちゃんと対応している。

 すべてを掲げないが、他にも「韮」が「大蒜」に、「蟇」が「蛙」(これもここでの最後の「グワグワ。」よりも「庭のなか」の「ゲェッ!」の方が日本語としての美事な『落ち』となっていて好ましい。但し、ここは原文では“couac”で、「クワック!」という音で、これは通常、鴉の鳴き声を示す擬音語である。またこれには、音楽用語で調子外れの音の意味があるので、〈鵲〉の歌への皮肉とも言える。訳文では示し得ないウィットがあるのである)になっている等、その相違箇所は細部に亙る。

 〈土竜〉の「仕事をしているのが聞こえやしねえ。」という訳文(岸田訳「博物誌」もほぼ同じで「仕事をしているのが聞えやしねえ」)に以前から違和感を感じている。土竜自身が自分のしている仕事の中に、耳で聞き取らなければならない重要な何かがあって、それが聞こえないじゃないか! と怒っているという訳文であるが、その土竜が聞き分けねばならぬ何かというのが不分明である。臨川書店1995年刊「ジュール・ルナール全集」の佃裕文訳では『もう仕事も出来ねえじゃないか!』、岩波書店1998年刊の辻昶訳では『仕事の打ち合わせができないじゃないか!』と訳す。前者はうるさいこととの因果関係が示されない。後者が自然体でよいと思う。

 最後の〈羊〉と〈牧犬〉の絶妙な応酬は原文の提示が不可欠である。〈羊〉の台詞は“Mée... Mée... Mée...”で、答える〈牧犬〉(「まきいぬ」と読ませるか)はウィットに富んだ“Il n'y a pas de mais !”である。「庭のなか」は原文通り、エクスクラメンション・マークを用いて(「ぶどう畑のぶどう作り」の翻訳では岸田氏は「?」や「!」に極めて禁欲的である)「しかし(メエ)も糞(くそ)もねえ!」(「しかし」全体に「メエ」のルビ)とされており、こちらの方がベストである。

 なお、臨川書店1995年刊「ジュール・ルナール全集」第4巻の「博物誌」の「庭にて」の項の注によれば、この初出は1899年2月号の雑誌『ヴォーグ』で、題名は「博物誌、リュシアン・ギトリーに』であり(Lucien Germain Guitry18601925)は当時のフランス劇壇の名優。ルナールと親交があったか)、そこではドレフュス事件等の当時の政治状況を反映した、動植物達の対話で締め括られているとする。そこでは削除された台詞がすべて当該注では復元されて訳されているのであるが、翻訳権を侵害するので引用は控える。興味のある方は、同書361362pを参照されたい。]

 

 

 

     岩燕(いわつばめ)

 

 その日の夕方は、魚がいっこうかからなかった。しかしわたしは、近来まれな興奮をもって帰った。

 わたしが釣竿を垂れていると、一羽の岩燕(いわつばめ)その上に止まった。

 これくらい派手な鳥はない。

 それは、大きな青い花が長い茎の先に咲いているようだった。竿は重みでしなった。わたしは、岩燕に樹と間違えられた、それが大いに得意で、息を殺した。

 こわがって飛んで行ったのでないことはうけ合いである。一本の枝から別の枝に跳びうつるつもりでいたにちがいない。

 

[やぶちゃん注:岸田訳「博物誌」では表題本文共に「岩燕(いわつばめ)」は「かわせみ」に変更されている。「岩燕」はスズメ亜目ツバメ科ツバメ亜科Delichon属イワツバメDelichon dasypusで、ブッポウソウ目カワセミ科カワセミ亜科カワセミAlcedo atthisとは全く無縁。“Martin-pêcheur”は正しくカワセミAlcedo atthisである。ちなみにイワツバメDelichon dasypusはフランス語では“Hirondelle de Bonaparte”と言う。]

 

 

 

     猫

 

 わたしのは鼠を食わない。そんなものを食う気にはならないらしい。つかまえても、それを玩具(おもちゃ)にするだけである。

 遊び飽(あ)きると、命を助けてやる。それから、どこかへ行って、尻尾の輪の中にすわると、罪の無さそうな顔をして、空想に耽(ふけ)る。

 しかし、爪疵(つめきず)がもとで、鼠は死んでしまう。

 

 

 

     蛍(ほたる)

 

 いったい、なにごとがあるんだろう。もう夜の九時、それに、あそこのうちでは、まだ明りがついている。

 

 

 

     天牛虫(かみきりむし)

 

 この虫の触角はばかに長い。この本の中に挾んで置こうと思うと、それを胴のほうに曲げなければならない。

 

[やぶちゃん注:「博物誌」には、ない。臨川書店1995年刊の「ジュール・ルナール全集」第4巻の「葡萄畑の葡萄作り」の末尾には先の「雄鶏」以降については『『博物誌』(第5巻所収)にそのまま収録されているので、ここではタイトルだけあげておく。』とし、掲げたタイトルの中には「カミキリ虫」というのが含まれている。しかし、該当第5巻の『博物誌』にも、その注にも、また第5巻のその他にも「カミキリ虫」は所収していない。摩訶不思議と言わざるを得ない。]

 

 

 

     蜚虫(あぶらむし)

 

 鍵の穴のように、黒く、ぺしゃんこだ。

 

 

 

     蝸牛(かたつむり)

 

 精いっぱい歩きまわる。それでも、舌で歩くだけのことだ。

 

 

 

     ぶどう畑

 

 どの株も、添え木を杖に、武器携帯者。

 何をぐずぐずしているんだ。ぶどうの実は、今年はまだ生(な)らない。ぶどうの葉は、もう裸体画にしか使われない。

 

 

 

     鼬(いたち)

 

 貧乏な、しかしさっぱりした、品の好(よ)い鼬(いたち)先生。ちょこちょこと、道の上を往(い)ったり来たり、溝から溝へ、また穴から穴へ、時間ぎめの出張教授。

 

 

     魚

 

 さては、いよいよ、かからないな。おおかた、今日が漁の解禁日だということを御存じないと見える。

 

[やぶちゃん注:岸田訳「博物誌」では表題が「かわ沙鯊(はぜ)」となる。これは原文の変更で、本篇では“LE POISSON”(魚)であるが、「博物誌」では“LE GOUJON”である。後者はハゼ亜目 Gobioideiの淡水魚。ドンコ科 Odontobutidaeまで狭めてよいかどうかは、淡水産魚類に暗い私には判断しかねる。]

 

 

 

     雛(ひな)げし

 

 彼らは麦の中で、小さな兵士のように気取っている。しかし、もっともっと綺麗(きれい)な赤い色。それに、物騒(ぶっそう)でない。

 彼らの剣は芒(のげ)である。

 風が吹くと飛んで行く。そして、めいめいに、気が向けば、畝(うね)のへりで、同郷出身の女、矢車草の花と、つい話が長くなる。

 

 

 

     鶺鴒(せきれい)

 

 よく飛びもするが、よく走ることも走る。いつもわれわれの脚の間で、馴(な)れ馴れしくするかと思うと、なかなかつかまらいない。それも尻尾(しっぽ)を踏まれないように、小さな叫び声を立てて、合図をするのである。

 

 

 

     七面鳥

 

 道の上に、またも七面鳥学校の寄宿生たち。

 毎日、天気がどうであろうと、彼女らは散歩に出かける。

 彼女らは雨をおそれない。どんな女も七面鳥ほど上手に裾(すそ)はまくれまい。また、日光もおそれない。七面鳥は日傘(ひがさ)を持たずに出掛けるなんていうことはない。

 

 

 

     蛇

 

 ながすぎる。

 

 

 

     鷓鴣(しゃこ)

 

 鷓鴣(しゃこ)と農夫とは、一方は鋤車(すきぐるま)の後ろに、一方は近所の苜蓿(うまごやし)のなかに、お互いの邪魔にならないくらいの距離をへだてて、平和に暮らしている。鷓鴣は農夫の声を識(し)っている。どなったりわめいたりしてもこわがらない。

 鋤車が軋(きし)っても、牛が咳(せき)をしても、または驢馬(ろば)が啼(な)いても、それがなんでもないということを知っている。

 で、この平和は、私が行ってそれを乱すまで続くのである。

 ところが、私がそこへ行くと、鷓鴣は飛んでしまう。農夫も落ちつかぬ様子である。牛も驢馬もその通りである。私は発砲する。すると、この狼藉者(ろうぜきもの)の放った爆音によって、いっさいの自然は調子が狂う。

 これらの鷓鴣を、私はまず切株の間から追い立てる。次に苜蓿の中から追い立てる。それから、草原のなか、それから生籬(いけがき)に沿って追い立てる。ついでなお、林の出っ張りから追い立てる。それからあそこ、それからここ……。

 それで、とつぜん、汗をびっしょりかいて立ち止まる。そしてどなる。

 「ああ、畜生、可愛げのないやつだ、人をさんざん走らせやがる」

 

 遠くから、草原の真んなかの一本の樹(き)の根に、何か見えた。

 私は生籬に近づいて、その上からよく見てみる。

 どうも、樹の蔭に、鳥が頸(くび)を立てているように見える。すると、心臓の鼓動がはげしくなる。この草の中に鷓鴣がいなくって何がいよう。私の足音を聞きつけて、親鳥が、お互いに慣れた合図をで、子供たちを腹這いに寝させたのだ。自分もからだを低くしている。頭だけがまっすぐに立っている。それは見張りをしているのだ。が、わたしは躊躇(ちゅうちょ)した。なぜなら、その首が動かないのである。間違えて、木の根を撃ってもばかばかしい。

 あっちこっち、樹のまわりには、黄色い斑点が、鷓鴣のようでもあり、また土くれのようでもあり、わたしの眼はすっかり迷ってしまう。

 もし鷓鴣を追い立てたら、樹の枝が空中射撃の邪魔をするだろう。で、わたしは、地上にいるのを撃つ。つまり一人前の猟師のいわゆる「人殺し」をやったほうがいいと思った。

 ところが、鷓鴣の首だと思っているものが、いつまでたっても動かない。

 長い間、わたしは隙(すき)をねらっている。

 はたしてそれが鷓鴣であるとすれば、その動かないこと、警戒の周密なことは全く驚くべきものである。そして、ほかのが、どれもこれも、よく言うことを聴くといったらない。この親鳥にしてこの子ありである。一つとして動かない。

 わたしは、そこで駆け引きをしてみるのである。わたしは、からだぐるみ、生籬の後ろにかくれて、見て見ないふりをする。というのは、こっちで見ているうちは向こうでも見ているわけだからである。

 こうすると、お互いに見えない。死の沈黙が続く。

 やがて、わたしは顔を上げて見た。

 今度こそはたしかである。鷓鴣はわたしがいなくなったと思ったに違いない。首が以前より高くなっている。そして、それをまた低くする運動が、もう疑いの余地を与えない。

 わたしは、徐(おもむ)ろに銃尾を肩にあてる……。

 

 夕方、からだは疲れている。腹はふくれている。すると、わたしは、猟師にふさわしい深い眠りにつく前に、その日一日追いまわした鷓鴣のことを考える。そして、彼らがどんなにして今夜を過すだろうかということを想像して見る。

 彼らは気狂(きちがい)のようになって騒いでいるに違いない。

 どうしてみんな揃わないのだろう。呼んでも来ないのだろう。

 どうして、苦しんでいるもの、疵口(きずぐち)を嘴(くちばし)で押さえているもの、じっと立っておられないものなどがあるのだろう。

 どうして、あんなに、みんなをこわがらせるようなことをしでかすんだろう。

 やっと、休み場所に落ちついたと思うと、すぐもう見張り役の一羽が警報を伝える。また飛んで行かなければならない。草なり株なりを離れなければならない。

 彼らは逃げてばかりいるのである。聞き慣れた音にさえ愕(おどろ)くのである。

 彼らはもう遊んではおられない。食うものも食っておられない。眠ってもいおられない。

 彼らは何がなんだかわからない。

 

 傷ついた鷓鴣の羽が落ちて来て、ひとりでに、この自惚(うぬぼ)れの強い猟師の帽子にささったとしても、わたしは、それがあんまりだとは思わない。

 雨が降り過ぎたり、旱(ひでり)が続き過ぎたりして、犬の鼻が利かなくなり、私の銃先(つつさき)が狂うようになり、鷓鴣がそばへも寄りつけなくなると、わたしは正当防御の権利を与えられたように思う。

 鳥の中でも、鵲(かささぎ)とか、かけすとか、つぐみとか、まちょうとか、腕に覚えのある猟師なら相手にしない鳥がある。私は腕に覚えがある。

 わたしは、鷓鴣以外に好敵手を見出(みいだ)さない。

 彼らは実に小ざかしい。

 その小ざかしさは、遠くから逃げることである。しかし、人はそれをまた見つけ出し、今度は思い知らせるのである。

 それはまた猟師が行き過ぎるのを待っていることである。が、後(うしろ)から、ちっとばかり早く飛び出し過ぎて、後(うしろ)を振り返るのである。

 それは、深い苜蓿(うまごやし)の中に隠れることである。しかし、そこへまっすぐに行くのである。

 それは、飛ぶ時に、急に方向を変えることである。しかし、それがために間隔がつまるのである。

 それは、飛ぶかわりに走るのである。人間より早く走るのである。しかし、犬がいるのである。

 それは、人が中にはいって路をさえぎると、両方から呼び合うのである。それが猟師を呼ぶことになるのである。猟師に取って彼らの歌を聞くほど気持のいいものはない。

 その若い一組は、もう親鳥から離れて、別に新しい生活をし始めた。わたしは、夕方、畑のそばで、それを見つけたのである。彼らは、ぴったり寄り添って、いわば翼と翼とを重ね合って舞い上がった。そこで、一方を殺した弾丸(たま)が、結局、もう一方を引き放したわけだ。

 一方は何も見なかった。何も感じなかった。しかし、もう一方は、自分の連れ合いが死んでいるのを見、そのそばで自分も死ぬような気がした。それだけのひまがあった。

 この二羽の鷓鴣は、地上の同じ場所に、少しの愛と、少しの血と、それから、いくらかの羽とを残したのである。

 猟師よ、お前は一発で、見事に二羽を撃ち止めた。早くかえってうちのものにその話をしろ。

 あの年を取った去年の鳥、孵(かえ)したばかりの雛を殺された親鳥、彼らも若いのに劣らず愛し合っていた。わたしは、彼らがいつも一緒にいるのを見た。彼らは逃げることが上手だった。わたしは、強いてそのあとを追いかけようとはしなかった。その一方を殺したのも全く偶然であった。それで、それから、わたしは、もう一方を探した。かわいそうだから殺してやろうと思って探した。

 あるものは、折れた片脚をぶらさげて、ちょうどわたしが、糸でくくってつかまえてでもいるような形をしていた。

 あるものは、最初ほかのもののあとについて行くが、とうとう翼が利かなくなる。地上に落ちる。ちょこちょこ走りをする。犬に追われながら、身軽に、半ば畝(うね)を離れて、走れるだけ走るのである。

 あるものは、頭の中に鉛の弾丸(たま)を打ち込まれる。ほかのものから離れる。狂おしく、空のほうに舞い上る。樹よりも高く、鐘楼の雄鶏(おんどり)よりも高く、太陽を目がけて舞い上るのである。すると猟師は、気が気ではない。しまいにそれを見失ってしまう。そのうちに、鳥は重い頭の目方を支えることができなくなる。翼を閉じる。遥か向こうへ、嘴(くちばし)を地に向けて、矢のように落ちて来る。

 あるものは、犬を仕込むために、その口へ投げつける切れ屑のように、ぎゅっとも言わず落ちる。

 あるものは、弾丸があたると、小舟のようにぐらつく。そして、ひっくり返る。

 また、あるものは、どうして死んだのかわからないほど、疵(きず)が羽の中に、深くひそんでいる。

 あるものは、急いでポケットの中に押し込む。自分が見られるのがこわいように、自分を見るのがこわいように。

 あるものはなかなか死なない。そういうのは絞め殺す必要がある。私の指の間で、空(くう)をつかむ。嘴を開く、細い舌がぴりぴりっと動く。すると、その眼差(まなざ)しの中に、ホオマアのいわゆる、死の影が下りて来る。

 

 向こうで、百姓がわたしの鉄砲の音を聞きつけて、頭を上げる。そして、わたしのほうを見る。

 それは審判者である。……この働いている男は……。彼はわたしに話しかけるかもわからない。厳かな声で、私を恥じ入らせるかもわからない。

 ところが、そうでない、それは、時としては、わたしのように猟ができないので業をにやしている百姓である。時としては、わたしのやることを面白がって見ているばかりでなく、鷓鴣がどっちへ行ったかを教えてくれるお人好(ひとよ)しの百姓である。

 決して、それが義憤に燃えた自然の代弁者であったためしはない。

 

 わたしは、今朝、五時間も歩き回ったあげく、空のサックを提げ、頭をうなだれ、重い鉄砲をかついで帰って来た。嵐の暑さである。わたしの犬は、疲れきって、小走りにわたしの前を行く。生籬(いけがき)に添って行く。そして、何度となく、木蔭にすわって、わたしの追いつくのを待っている。

 すると、ちょうど、わたしが生き生きとした苜蓿の中を通っていると、とつぜん、彼は飛びついた。というよりは、止まると同時に腹這いになった。ぴったり止まった。そして、植物のように動かない。ただ、尻尾の端の先の毛だけがふるえている。わたしは、てっきり、彼の鼻先に、鷓鴣が何羽かいるなと思った。そこにいるのだ。互いにからだをすりつけて、風と陽(ひ)とを除(よ)けているのだ。犬を見る。わたしを見る。わたしをたぶん見識っているかも知れない。こわくって飛べない。

 麻痺(まひ)の状態からわれに返って、わたしは準備をした。そして、じっと機を待った。

 犬もわたしも、決して向こうよりもさきに動かない。

 と、にわかに、前後して、鷓鴣は飛び出した。どこまでも寄り添って、ひとかたまりになっている。わたしは、そのかたまりの中へ、拳骨でなぐるように、弾丸を撃ち込んだ。そのうちの一羽が、やられて、宙に舞う。犬が跳びつく。血だらけの襤褸(ぼろ)みたいなもの、半分になった鷓鴣を持って来る。拳骨が、残りの半分をふっ飛ばしてしまったのである。

 さあ、行こう。これでもう空手(からて)で帰ることにはならない。犬が雀躍(こおどり)する。わたしも、得々としてからだをゆすぶった。

 

 ああ、この尻(しり)っぺたに、一発、弾丸(たま)を打ち込んでやってもいい。

 

[やぶちゃん注:「まちょう」は不詳。原文は「博物誌」と同じで、“a pie, le geai, le merle, la grive”である。岸田氏訳「博物誌」では『鵲(かささぎ)とか、樫鳥(かけす)とか、くろ鶫(つぐみ)とか、鶫とか』に変わっている。臨川書店1995年刊「ジュール・ルナール全集」版「博物誌」の佃裕文氏の訳ではこの一連の4種の鳥名が『かささぎ、カケス、クロウタドリ、つぐみ』となっており、岩波書店1998年刊の「博物誌」辻昶氏の訳では『かささぎだとか、かけすだとか、つぐみ類だとか、つぐみだとか』となっている。鳥類の訳語は本邦に棲息しない類もあって、実に難しい。以上、並記するに留めおく。
 臨川書店1995年刊「ジュール・ルナール全集」第4巻の「博物誌」の本篇に相当する「山うずら」の注によれば、本篇の初出は
1899年1月2日発行の新聞『エコー・ド・パリ』であったが、之に先立つ1897年頃から、ルナールはその日記に狩猟に関わる嫌悪感を記し始めており、190510月を最後に日記での狩猟の記録は見当たらないとし、1909年8月30日の書簡で『私はもう狩猟はやらない』と記しているとする。こうして銃を捨てたイマージュの狩人は真の狩りの達人となったのであった。]