雪 芥川龍之介
[やぶちゃん注:大正十四(1925)年五月一日発行の雑誌『新小説』に『「雪」「詩集」「ピアノ」』の題で、他の二作品と共に掲載された。この三作は共に作品集『梅・馬・鶯』にそれぞれの題で所収された。底本は岩波版旧全集を用いた。]
雪
或冬曇りの午後、わたしは中央線の汽車の窓に一列の山脈を眺めてゐた。山脈は勿論まつ白だつた。が、それは雪と言ふよりも山脈の皮膚に近い色をしてゐた。わたしはかう言ふ山脈を見ながら、ふと或小事件を思ひ出した。――
もう四五年以前になつた、やはり或冬曇りの午後、わたしは或友だちのアトリエに、見すぼらしい鑄物のストオヴの前に彼やそのモデルと話してゐた。アトリエには彼自身の油畫の外に何も装飾になるものはなかつた。卷煙草を啣へた斷髮のモデルも、彼女は成程混血兒(あひのこ)じみた一種の美しさを具へてゐた。しかしどう言ふ量見か、天然自然に生えた睫毛を一本殘らず拔きとつてゐた。……
話はいつかその頃の寒氣の厳しさに移つてゐた。彼は如何に庭の土の季節を感ずるかと言ふことを話した。就中如何に庭の土の冬を感ずるかと言ふことを話した。
「つまり土も生きてゐると言ふ感じだね。」
彼はパイプに煙草をつめつめ、我我の顏を眺めまはした。わたしは何とも返事をしずに匂のない珈琲を啜つてゐた。けれどもそれは斷髮のモデルに何か感銘を與へたらしかつた。彼女は赤い瞼を擡げ、彼女の吐いた煙の輪にぢつと目を注いでゐた。それからやはり空中を見たまま、誰にともなしにこんなことを言つた。――
「それは肌も同じだわね。あたしもこの商賣を始めてから、すつかり肌を荒してしまつたもの。‥…」
或冬曇りの午後、わたしは中央線の汽車の窓に一列の山脈を眺めてゐた。山脈は勿論まつ白だつた。が、それは雪と言ふよりも人間の鮫肌に近い色をしてゐた。わたしはかう言ふ山脈を見ながら、ふとあのモデルを思ひ出した、あの一本も睫毛のない、混血兒じみた日本の娘さんを。