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鬼火へ

[やぶちゃん注:大正十五(1926)年五月発行の雑誌『驢馬』に掲載。定本は岩波版旧全集を用いた。]

 

横須賀小景  芥川龍之介

 

       カフエ

 

 僕は或カフエの隅に半熟の卵を食べてゐた。するとぼんやりした人が一人、僕のテエブルに腰をおろした。僕は驚いてその人をながめた。その人は妙にどろりとした、薄い生海苔の洋服を着てゐた。

 

       虹

 

 僕はいつも煤の降る工廠の裏を歩いてゐた。どんより曇つた工廠の空には虹が一すぢ消えかかつてゐた。僕は踵を擡げるやうにし、ちよつとその虹へ鼻をやつて見た。すると――かすかに石油の匂がした。

 

       五分間寫眞

 

 僕は或晩春の午後、或若い海軍中尉と五分間寫眞を映しに行つた。写真はすぐに出來上つた。しかし印畫に映つたのは大きいVIといふ羅馬數字だつた。

 

       小さい泥

 

 僕は或十二三のお嬢さんの後ろを歩いて行つた。お嬢さんは空色のフロツクの下に裸の脚を露してゐた。その又脚には小さい泥がたつた一つかすかに乾いてゐた。

 僕はこのお嬢さんの脚の上の泥を眺めて行つた。すると泥はいつの間にかアメリカ大陸に變つてゐた。山脈や湖や鐵道も一々はつきり盛り上つてゐた。

 僕はおやと思つてお嬢さんを探した。が、お嬢さんは見えなかつた。僕の前には横須賀軍港がひろがり、唯一面に三角の波が立つたり倒れたりしてゐるだけだつた。

                     ――舊稿より――