やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇
鬼火へ

破られし約束
小泉八雲原作
藪野直史現代語訳
縦書版へ
原文へ


[やぶちゃん注:翻訳のための原文は、“K.Inadomi”氏の英文 LAFCADIO HEARN サイト“K.Inadomi's Private Library”“Of a Promise Broken by Lafcadio Hearn”の本文部分を用いた(その私の原文ページはこちら)。私は都合、五種の異なった訳者の邦訳を所持するが、自分のオリジナル訳をまず行い、ワン・フレーズごとにそれらの先陣の訳と比較、正しい訳の参考になる部分は参考にさせて戴きながらも、あくまで私の訳であろうとすることを心懸けた。文脈やシークエンスの自然さを生み出すために、自在に改行を行い、心内語を『 』で出したり、意訳翻案した部分も多々あることを最初にお断りしておく。
 例えば、新妻が三日続けて先妻の亡霊に遭うためには、その三日とも城中の宿直に当たっている必要があるが、そのようなこまごました描写を八雲は省略している。しかし、一度目の霊との遭遇の翌日の昼のシーンで早くも新妻は、

“The memory of the warning still weighed upon her so heavily that she did not dare to speak of the vision, either to her husband or to any one else;”
であったと述べている以上、いない夫には喋ること自体が不可能で、表現自体が無効であるから、これはある一定期間に亙って宿直をする役職にあるものと解さねば意味が通らない。そしてその宿直は昼間は自邸に下がるのであり、その宿直役の期間は作中の経過時間から最低連続して三日以上でなくてはならないのである。そのような意味を通す部分を私の訳では付加してある。こうした辻褄を合わせを五月蠅く感じられる向きもあろうかと存ずるが、私は怪談という超常的シークエンスの中の、大切なリアリズムとして、これは欠かせぬものと思っているのである。
 なお、先行邦訳に対し、全く異なった訳をしたものに、亡くなった女の戒名がある。原文は、

"Great Elder Sister, Luminous-Shadow-of-the-Plum-Flower-Chamber, dwelling in the Mansion of the Great Sea of Compassion."
であるが、過去の殆どの訳は、
 慈海院梅花明影大姉
とし、昭和三一(一九五六)年角川文庫刊の田代三千稔氏では、
 慈海院梅花照影大姉
とする。しかし、私はこれを、
 慈海院梅花庵照光大姉
と訳した。過去の邦訳には二箇所の問題点がある。一つは
“Plum-Flower-Chamber”“Chamber”が訳されていない点と、更に、戒名である“Luminous-Shadow”を果たして『明影』と漢訳することが正当かどうかという点である。私はいずれの問題も従来の訳では納得出来ない。院殿居士の「殿」は江戸時代の武士階級の妻の戒名ではあり得ない。とすれば「庵」ではないかという判断である。更に、従来の『影』という文字が戒名としては私には如何にもぴんとこないのである。更に“Luminous-Shadow”を凝っと見つめていると、ハーンは「影」という字を一辺倒に「物の影」「陰影」と解釈してしまい、古語としての「影」=「光」の意をここでは失念していたのではないか、と思ったのである。そこから私は「影を照らす」ではなく、「遍く仏光が照らし尽くす」というイメージを連想し(田中氏の訳の影響ではなく、全くの私の生理的印象である)、「照光」の訳を導き出したものである。「明光」でも悪くないが、全くの私の趣味からは「照光」のほうがピンとくるのである。私の漢訳戒名が致命的に誤りである(戒名としてはあり得ない)とされる方は、その証左をお示し戴いた上で、御教授願えると幸いである。
 また、臨場感を出すために、最後のクライマックスでは原文が過去時制であるのを一部、現在時制にして訳してみた。
 最後に付け加えたいのは、最後の作者の附言部分である。その、

"Men think so," he made answer. "But that is not the way that a woman feels. . . ."
という友人の台詞と、八雲の、
He was right.
という掉尾の一文は、本当は前者を、
 彼は、答えた。
「そうだね……『男という人種』は……何処でも誰でも……そう考える。……しかし、ね……『日本の女というもの』は……そうは……考えない。」
とし、後者を、
 成程……こうして日本に馴染んだ今……私には……彼の言ったことは――正しかった――と……分かったのである。――
としたかったことを告白しておく。私は小学校六年生の時、角川文庫の田代三千稔訳「怪談・奇談」をさる大人の知人に送られて愛読して以来、四十数年間ずっと、ここを「そのような意味」で感じ続けてきたからである。しかし、それは翻訳とは余りにかけ離れた、一つの私の解釈を付与するものである故に――涙を呑んで止めた。――だからこそ、それをここには記しておきたいのである。――
 本テクストはまた、ブログ・アクセス三九〇〇〇〇突破記念として公開したものでもある。【二〇一二年八月十二日】]

   破られし約束

   一

「……わらわは、死ぬること、恐れてはおりませぬ。……」
 その夜遅く、死の床にあった妻は、こう言うと、続けて語り始めた――
「……ただ一つ……一つだけ、この今の妾に、気懸かりなことが御座います。……それは……この家の、妾のあと……どなたが後添のちぞえとして来らるるか……それを、知りとう存じまする……」
「……我が妻よ……」
と悲嘆に暮れた夫は答えて、
「……たれも……誰も、この屋敷の、そなたの跡に後添えとする者など、ぬ。……拙者はもう、二度と再び、夫婦めおとの契りなど、致さぬ。……」
 この時、彼は心の底から、そう思って語ったのであった。――何故、かく言えるか?――それはまさにこの時、この女を――久遠とわに失はんとしつつあった彼は――心底、愛していたから――。
 すると女は、口元に弱々しい笑みを浮かべながら、
「……武士として――誓って、で御座いますね?……」
と訊ねた。
「……武士として――誓って、じゃ。」
と男は答えると――女の、青ざめた、すっかり瘦せ細ったおもを優しく撫ぜた。
「……そう。……さすれば……あなた、……」
と女は言った。
「……妾を……そこな、お庭へ、葬って下さいませぬか?――いけませぬか?――あの向こうの、お庭の隅……二人して植えた、あの、幾たりかの梅の木のかたわらへ……だめで御座いましょうか?……妾はずうっとせんから、このことをお願いしとう御座いました……なれど……あなたさまが、もし、後添えをお貰いになられるとならば……妾の墓が……そんなあなたさまの、お近くにあるは……あなたさまが、きっとおいやであろうと、思うたので御座います。――でも――あなたさまは今――約束なさいました。――妾の後には――決して別の女人を迎えぬ――と。……されば、妾は、こうして妾の最後の望みを、躊躇ためろうことのう、申し上げることが出来たので御座います。……ああっ! どんなにか、ここなお庭に葬られることを、妾は望んでおりましたことでしょう!……妾は……これからもずっと、この庭に居て……折に触れて、近くにあなたさまの声を聴き……そうして、春の花を愛でることも、これ、出来ましょうほどに……」
 男は、それに、
「……そなたの願いじゃ、叶えて進ぜよう。……なれど、今は埋葬とむらいのことなんど、口に出してはならぬ。我ら、望みを棄つるほどには、未だそなたの病い、これ、重うは、ない。」
と答えたが、
「……いいえ、もう分かっております……」
と女が答える。
「……妾は、もう……この今朝あしたにも旅立ちまする……でも……後生で御座います……きっと妾をお庭に葬って下さいましね?」
「……相い分った。……」
と男は答え、
「……我らが二人して植えた、あの梅の木々の木蔭のもとへ……そなたの望む美しい墓を、これ、必ず立てて遣わそうぞ。……」
と言い添えた。
 すると、女も言い添えた。
「……序でに……妾に、小さなりんを……戴きとう存じまする……」
りん……とな?」
「……はい……どうか、小さな鈴を一つ、柩のうちに収めて下さいませ。……あの巡礼の者たちが携えておりますような……ほんに小ちゃな鈴でよろしゅう御座います。……お願い出来ましょうや?」
「……相い分かった。小さな鈴でよいのじゃな、確かにこれ、忘れずに入れ置こうぞ。……時にさても、他に望みのもの、これ、何ぞ御座らぬか?」
「……もう何も、望むものは……これ……御座いませぬ……」
と女は言うと、
「……さすれば……あなた、……あなたさまはいつでも……妾に優しゅうして下さいました。……これで……妾は泰らかに往生出来まする……」
……そうして女は、おのが両のひとみを閉ざし――そうして、息を引き取った。――まるで頑是無い、遊び疲れたこおが、すやすやと、眠りに落ちるように、安らかに。――女の死に顔はとても美しかった。そのおもには微笑ほほえみさえ浮かんでいた。

 彼女は望み通り、夫の屋敷の庭内へと葬られた――生前、彼女の愛した木々の木蔭のもとへ。――そうして、望み通り、小さな鈴も彼女に添えて。墓の上には、男の家の家紋を配した瀟洒な石塔が据えられ、『慈海院梅花庵照光大姉』という戒名が刻まれた。

 しかし、妻が亡くなって一年も経たぬうちに、彼の身内や朋輩ほうばいらは、彼に再婚を慫慂しょうようし始めた。
「そなたは未だ若い。……」
彼らの言い分は何時もこう始まった。
「……しかも一人息子である上に、子も御座らぬ。嫁を持つは、これ、家名を守る武士たる者の勤め。……そもそも、子のなきままに、そなたに万一のことが御座ったとならば、一体、何処の誰が、そなたの御先祖様を忘るることなく、懇ろに供養致し呉れると、申すのじゃ?!」
 かくも五月蠅く責め立てらるるうち、彼は遂に、説き伏せられて再婚することと相い成った。このたびの嫁ごは、やっと十七になったばかりであったが、彼はこの新しい若き妻を、心より愛し得るという実感を、確かに、持ち得てもいたのであった。……庭の……かの墓からの……無言の呵責を……何処かに感じながらも……。

   二

 新妻の幸福を掻き乱すような出来事は何も起こらなかった――婚礼の後、七日目までは。――その七日目の――夫はこの度、新たに城中宿直とのい役を仰せ付かったのだった……。そうして初めて、妻女をたった一人――しかも数日に亙って――一人寝させざるを得なくなったのであった。
 その晩のこと、彼女は曰く言い難い不安を覚えた――何故なにゆえかとも分らぬ、謂わば――心底からの「もの恐ろしさ」といったものを――感じたのであった。床にってからも、そのために寝就かれぬ。辺りに、何やらん、奇体な重苦しい気配が満ち満ちておる――それは、しばしば嵐の前に見られる如き――名状し難い――「気の圧」――とでも申そうものであった。
……
リン……
……
リン……
……リン……
……それは丑の刻の頃合いであった……
……彼女は聴いた……
……戸外の闇の静寂しじまの中に……
……りんを振り……鳴らす音……であった……
――それは巡礼の振るりんであった――
彼女はいぶかしんだ。
『……それにしても……おかしいわ……こんな夜更けに、この武家の屋敷町を抜けて、巡礼が通るというのは……』
……チリン……
……チリン……
……暫く、間があった後、鈴の音が遙かに近くで聴こえた。それは間違いなく、この屋敷へと巡礼が近づいて来つつあることを意味していた。
『……でも……不思議だわ……あの鈴は……裏手から聞こえる……あっちに……道はないのに?!……』
と――そう思うた丁度その瞬間、
――!
――!!!
――!!
……辺りにいたらしい何匹もの犬が、およそ聴いたこともないようなけたたましさで吠え出し、遠吠えを始めた……
――彼女を悪夢のような恐怖が襲った……
「……!……」
……チリン!……
……チリン!……
……その鈴の音は……
――確かに!
――正に!
――庭の中で鳴り響いている!……
……彼女は下男を呼ぼうとした。が、彼女に出来たことは……起き上がることも――いや、身体からだを動かすことも――そうして、人を呼ぶことも出来ぬ自分を……見出すことだけであった。……
……チリン!!……
……チリン!!……
……そうして……ますます……
……ゆっくりと……着実に……
……鈴の音が……
……近づいてくる――
――!!!
――!!!
――!!!
『ああっ! 何という、あの、犬どもの吠えよう!』
――と――そう、彼女が思った、その時……
……滑り込む影の如く、あっと言う間に……
……閨房ねやへ入って来たのは……
……一人の女であった――
――総ての雨戸という雨戸は固く閉ざされ、
――あらゆる部屋の襖は微動だにしなかったにも拘わらず、
――その女は――そこに――居た……
――経帷子きょうかたびらを着て
――手に巡礼の鈴を持った女である。
……しかし……
――女には
――目が
――なかった。
――この女は死んで余程の時間が経っていると見えて、その眼球は腐り溶け落ちてしまっていた。
……そして……
――その、眼窩の虚ろとなった、その顔には……ざんばらとなった、おどろおどろしい髪が、ぞろりと、垂れ掛っている。
……そして……
――その目玉のない目で、新妻を睨みつけ、
――その舌のない舌で、彼女にものを言った――

「ならぬ! この家内いえうちに居っては――そなたは――このに居っては――ならぬ! このの女房は――未だ――妾――じゃて……そなたは去らねばならぬ……但し……里へ戻る理由わけは決して口にしてはならぬ。もし……そなたが『あの人』に……それを告ぐることあらば……妾は……そなたを……八つ裂きにして呉れりょうぞ!」

かく語ったかと思うと、その亡霊は既に姿を消していた。同時に、新妻はあまりの恐ろしさにに失神した。夜の明くるまで、彼女は、気を失ったままであった。

 かくも恐ろしき思いをしたものの、日が昇って、真昼間の清々すがすがしい光に包まれてみると、彼女は、彼女が昨晩見聞きしたことが、これ、まことのことであったかどうか、甚だ疑わしくなってくるのであった。ただ、あの脅迫を含んだ、あの言葉の記憶だけは、彼女の心にあまりに重くし掛かっていたがため、かの幻視の一件については、昼、一時戻っていた夫にはもとより、他の誰にも話すことはなかった――いや、彼女はひたすら、ただ悪い夢を見たに過ぎぬと、自らに信じ込ませようとしていた、というのが正確であろう。
 しかし――その日の夜(その夜も夫は城中の宿直とのいに当たって不在であった)は――彼女は最早、幻として疑うすべを――なくしまった。
……再び
……丑の刻限――
――!
――!!!
――!!
……またしても犬どもが激しく吠え、遠吠えを始め――
……そして……再び……
……
リン……
……
リン……
……リン……
……あのりんの音が鳴り始め――
……リン……
……チリン……
……チリン!……
……と……あのりんの音が……ゆっくりと……庭から……近づいて来る――
――そうして……昨夜と同じように彼女は起き上がって人を呼ぼうとした……が……やはり徒労であった……彼女は再び金縛りに陥っていた――
――そうして……昨夜と同じように……死人しびとが……閨房ねやへ……入って来た……
……そして怒りを含んだ声で、

「去りゃれと言うたに! そうして……そなたはその去る理由わけたれにも言うてはならぬ! もし……そなたが『あの人』に……それを告ぐることあらば……妾は……そなたを……八つ裂きにして呉れりょうぞ!」

 この時――亡霊は彼女のしとねのすぐ近くまでにじり寄って屈み込むと――眼のない眼で、凝っと彼女を覗き込みながら――舌のない舌で、かくぶつぶつと呟き――そうして――世にも恐ろしい形相をした……

 翌朝、御城から夫が下がってくるや、年若き新妻は、彼の前にひれ伏し、嘆願した。
「……お願いで御座りまする……」
と、彼女は涙をながらに訴えた。
「……お畏れながら、かくなるわたくしのもの言い、恩知らずにして、無礼千万なるは、重々承知の上で……どうか、どうかお許し下さいませ……なれど……なれど、私……私は……実家さとへ戻りとう存じます!……どうか、どうか黙って……実家へお帰し下さいまするように!……」
「……何ぞ当家に不都合でも、これ、御座ったのか?……」
夫は正直、寝耳に水、驚いて問い返した。
「……拙者の留守中、誰ぞ家の者が、そなたに辛い仕打ちでも致いたのか?」
「……そのようなことにては……御座いませぬ……」
彼女はすすり泣きながら答えた。
「……ここにてはたれもが私に良くして下さいます。……でも……でも! 私、私はあなたさまの妻であり続けることは……これ、相い叶わぬことにて、御座います……私めは、ここを、出でてゆかねば、ならぬので御座いまする……」
「よいか、そなたが……」
と彼はあまりのことに、少し気色ばんで、
「……そなたが当家の内にて、何か、不都合なる趣きを抱えておるというは、これ、拙者も大いに心が痛む。じゃが、そなたが何故に実家さとへ戻りたいと申すか、これ、拙者には如何とも想像し難きこと――加えて、誰一人としてそなたにつろう当たった者がある訳でもないと言う……どうも、本心より離縁を望んでおるようには、これ、見えぬのじゃが……如何いかが?」
新妻は涙と震えの中で、こう答えた。
「……離縁して下さらねば……私は……死んでしまいまする!……」
 夫は暫くの間、無言でいた。――どうして、彼女がかくも驚くべき告白を致いたものか、考えて見た。――しかし、考えては見たものの、思い当たる節は、これ、全く、ない。――夫は、ともすれば昂ぶらんとする心をぐっとこらえ、静かに、かく応じた。
「……そなたには何の不都合も御座らぬに、そなたを実家さとへ戻いたとならば、これは理不尽なる行い、と世間でも見よう。されば、そなたの懇請の、正当なる理由わけを、これ、拙者に話して貰えたならば――それが、拙者の方でも、十全に申し開きの立つような理由わけあったならば――三行半みくだりはんしたためて進ぜよう。しかし……そなたが、しかと理由を――しかも納得の出来る理由を――述べぬとならば……拙者は、離縁致す所存は、これ、ない。――何としても、当家の名誉は、心ない世間の嘲りから、守らねばならぬからじゃ。――」
 かくまで諭され、新妻も、最早――話さねばならぬ――と感じた。……
……そして、一部始終を夫に語って聞かせた。――
……最後に、激しい恐怖に身を苛まれつつ、かく、付け加えた。
「……もう……あなたさまにお話ししてしまい……かくもあなたさまに知られてしまったからには、……私は、……私は、あの女に殺されます――私は、あの女に殺されます!……」
 武勇の士にして、霊の存在など、これっぱかりも信じていなかった男も、流石にこの話には驚かされた。が、一連の妻が体験したという出来事に対して、簡潔にして自然な解釈が直きに、彼の念頭に浮かんできた。
「何、そなたは……」
と彼は、優しく新妻に語りかけた。
「……そなたは今、大層、怯えておるが、どこぞの誰かに、馬鹿げた話を聞かされでも致したので御座ろう。当家にて、たかが――とんだ悪い夢を見たからというだけのことで――三行半を渡そう訳には参らぬ。……しかし、拙者の留守中にそなたがかくも苦しんでおったということは、ほんに気の毒なことで御座った。……今宵、またしても、拙者は登城せねばならぬが……何、今宵はそなたを一人にはしておかぬ。家臣の者二人に命じて、そなたの閨房ねやを見張らせように――さすればそなたも高枕して眠れることであろう。両人とも、至ってもの堅いおのこなれば、有らん限りの気配りを致すこと、これ、間違いない。」
 かくも夫が、深い思いやりと情愛とを込めて諭して呉れた故、新妻も、自分の、ひどく怯えたことが、すっかり恥ずかしくなって参り、このに留まることを決して御座った。

   三

 若き新妻の警護を命ぜられた二人の家臣は大兵たいひょう肥満の豪勇で、武辺一徹ながらも――女子供の護衛にかけては実に経験豊富な男たちであった。さればこそ、彼らは新妻の鬱々とした気を引きたてるような、愉快で剽軽ひょうきんな話をして聞かせた。彼女はその日、日もすがら、彼らと長いこと、話に興じ、彼らの面白可笑しい滑稽譚の数々に笑い興じたお蔭で、彼女の内から、かの恐怖はその殆どが忘れ去られていた。
 夜となり、新妻が就寝のために閨房ねや臥所ふしどに入った頃には、やおら武具に身を固めた二人が、その閨房ねやの片隅に陣取り、廻らした屏風の蔭で、静かに碁を打ち始めた。――彼らは何かよんどころなく会話を交わす折りにも、彼女の安らかな眠りを妨げぬようにと、囁き声で話した。彼女は赤子のようにすやすやと眠りに落ちていった。
 ところが――丑の刻ともなると――またしても彼女は――恐怖にうなされて――目を覚ました。――
……
リン……
……リン……
……チリン……
「……また、あのりんが――聴こえる!……」
……チリン……
……チリン……
……チリン!――
今日の鈴の音は――
瞬く間に近づいてくる!――
もう、すぐそこまで――いや、もっともっと速やかに――恐るべき速さで――こっちへ近づいてくる!
彼女はがばと跳ね起きると、
「……!……!……!!」
あらん限りの、意味にならぬ悲鳴を上げた。
……今までと違う……体も動く……声も出せる……しかし……
……しかし……
……だだった廣い閨房ねやの内には……
……彼女以外に……
……何ものの動く気配も……
……これ、ない……
――ただ
――死の沈黙のみが
――むくむくと増殖し
――限りなく濃く玄々くろぐろとなって
――閨房ねやの闇を支配しているのであった……
彼女は武具に身を包んだ二人の武士のもとへと走り寄った。……
――二人は
――二人は碁盤を挟んで
――互いに向き合っている
――微動だにせず
――互いに互いの
――その眸を
――ただ凝っと見つめ合ったまま
――ただ
――ただ凝っと――している――
「……!!……!!……!!!……」
彼女は狂ったような金切り声を彼らに向けて発するや、彼らの体を交互に激しく搖り動かした。……
……しかし……
――彼らの体は凍りついたかのようにぎょうとして動かなかった………………

……ずっとのちのこと、その二人の家来の証言に拠れば、彼らは二人とも確かにりんを聴いたとのことであった。――しかのみならず、新妻の悲鳴も聴いた――彼女が自分らを起さんと、懸命に搖さ振ったことさえ、はっきりと感じたと申した――にも拘らず、それでも、身体からだを動かすことも、言葉を発することも出来なかったと言うのである。そうして、暫くするうち、何時いつともなく、……耳も聴こえずなり、眼も見えずなって……そうして……漆黒の睡魔が、彼らを二人を同時に……襲ったと……。

   *

 夜明け方、妻のことが気にかかっていた夫は、一散に屋敷へ戻ると、新妻の閨房ねやへと入った――
――その彼が見たものは……
――消えかかった燈台のもと……
――その光に浮かんだのは……
――新妻の……
――首のない死体が……
――血の海の中に横たわっている姿であった……。

――二人の家来は、と言えば……
――未だ、指し掛けたままの碁盤を前に……
――眠りこけていた。

「……うぬ等はッ! 何とし居ったかッ!!……」
主人の吼えるような怒号とともに、彼らは跳ね上がるように目を覚ましたが……そのゆかにぶちまけられた血と肉塊の地獄絵を……ただただ、呆然と見つめているばかりであった……

 新妻の首は何処にも見当たらない。
――そして――その見るも恐ろしい無慙な傷痕は、一見して――切られたものではなく――捩じ切られたもの、であることを示している。
 点々と滴った血の跡が、閨房ねやから外回りの廊下の隅まで続いて――そこで雨戸が、ばらばらに打ち破られていた。
……主従三人は、その血糊の跡を辿って庭に出た。
――芝生を越え、
――砂場を渡って、
――池畔に菖蒲の花をあしらった水際を回り込んで、
――杉と竹が、小暗おぐらき蔭を落としているところを抜け、
そして――その小径こみちを曲がった――
――と――
その瞬間――
彼らは見た!
真正面に!!
蝙蝠の如くまがまがしい声を発している――見るもおぞましい魔物を!
久しい以前に葬られたはずの女――
それが――
墓の前に――
すっくと立ちはだかっているのを。――
――片手にりん
――もう一方の手には
――血のしたたる生首をぶら下げながら……
……三人は思わず息を呑み、麻痺したように、そこに立ち竦んだ。
――しかし、その時――
――一人の家来が念仏を唱えつつ――刀を引き抜くや――その亡霊を一刀のもとに――裁ち斬った。……
――その途端――
――「それ」は
――地に雪崩なだれれ落ちた。
――虚ろな経帷子きょうかたびら
――数多の骨
――そして髪が……。
――そして……
――その――くずおれた「もの」の中から……
――りん
が、一つ
……チリン……
と音を立てて、転がり出るのを彼らは見た。
……しかし……
――皮肉が落ちて骨ばかりとなった右の掌は
――手首から外れて離れてながら
――しかもなお
――くねくねと、のたくり
――その骨の指には
――血まみれの生首が
――しっかりと
――握られていた。
――そうして
――その骨の指は
――なおも
――生首を
――引き裂き
――ずたずたに――した。……
……あたかも――おぞましい黄色な蟹の鋏が――落ちた大きな木の実を一つ――執拗しゅうねく摑んで離さぬかのように…………。

*   *   *

……「これはまた、何とも、ひどい話じゃないか。」
と、私は、この話を物語って呉れた友人に言った。
「その死者の復讐だけど――それをもし、やるにしたって――それは、夫に対してなされるべきだろうに。」
 彼は、答えた。
「そうだね……『男たち』は……そう考える。……しかし、ね……『女というもの』は……そうは……考えない。……」

 成程、……彼の言ったことは、正しかった。――

破られし約束 小泉八雲原作 藪野直史現代語訳 完