澄江堂雜記 芥川龍之介
[やぶちゃん注:大正十二(1923)年十一月発行の雑誌『随筆』創刊号及び、翌十三年三月発行の同誌第二巻第二号に掲載された(掲載時は「雜筆」の総題)。後に『百艸』『梅・馬・鶯』に「澄江堂雜記」として所収された。『百艸』では「十三 漢字と假名と」から「二十三 家」までの通し番号を付して所収されたが、『梅・馬・鶯』では「猫」及び「家」が削除されて「二十三 「とても」となり、私が便宜上「澄江堂雜記(3)」と称したものの二本が挿入、「二十六 版數」となっている。底本は岩波版旧全集を用いた。保存する際の判別の便宜を考えて、ページタイトルを「澄江堂雑記2」とした。末尾に、岩波版新全集第二十一巻に所収する本作の草稿(「あそび」の草稿)を併載した。複数ある全く同題の「澄江堂雜記」の読み方については、私のこちらのブログ記事を参照されたい。]
澄江堂雜記 芥川龍之介
漢字と假名と
漢字なるものの特徴はその漢字の意味以外に漢字そのものの形にも美醜を感じさせることださうである。假名は勿論使用上、音標文字の一種たるに過ぎない。しかし「か」は「加」と云ふやうに、祖先はいづれも漢字である。のみならず、いつも漢字と共に使用される關係上、自然と漢字と同じやうに假名そのものの形にも美醜の感じを含み易い。たとへば「い」は落ち着いてゐる、「り」は如何にも鋭いなどと感ぜられるやうになり易いのである。
これは一つの可能性である。しかし事實はどうであらう?
僕は實は平假名には時時形にこだはることがある。たとへば「て」の字は出來るだけ避けたい。殊に「何何して何何」と次に續けるのは禁物である。その癖「何何してゐる。」と切れる時には苦にならない。「て」の字の次は「く」の字である。これも丁度折れ釘のやうに、上の文章の重量をちやんと受けとめる力に乏しい。片假名は平假名に比べると、「ク」の字も「テ」の字も落ち着いてゐる。或は片假名は平假名よりも進歩した音標文字なのかも知れない。或は又平假名に慣れてゐる僕も片假名には感じが鈍いのかも知れない。
希臘末期の人
この頃エジプトの砂の中から、ヘラクレニウムの熔岩の中から、希臘人の書いたものが發見される。時代は 350 B.C. から 150 B.C. 位のものらしい。つまりアテネ時代からロオマ時代へ移らうとする中間の時代のものである。種類は論文、詩、喜劇、演説の草稿、手紙まだ外にもあるかも知れない。作者は從來書いたものの少しは知られてゐた人もある。名前だけやつと傳はつてゐた人もある。勿論全然名前さへ傳はつてゐなかつた人もある。
しかしそれは兔も角も、さういふ斷簡零墨を近代詩に譯したものを見ると、どれもこれも我我にはお馴染みの思想ばかりである。たとへば Polystratus と云ふエピクロス派の哲學者は「あらゆる虚僞と心勞とを脱し、人生を自由ならしむる爲には萬物生成の大法を知らなければならぬ」と論じてゐる。さうかと思へば Cercida と云ふ所謂犬儒派の哲學者は「蕩兒と守錢奴とは黄白に富み、予ばかり貧乏するのは不都合である!……正義は土豚のやうに盲目なのか? Themis (正義の女神)の明は蔽はれてゐるのか?」と大いに憤慨を洩らした後、「遮莫我徒は病弱を救ひ、貧窶を惠むことを任にしたい」と勇ましい信念を披露してゐる。更に又彼に先立つこと三十年餘と傳へられる Colophon の Phoenix は「何びとも金持ちには友だちである。金さへあれば神神さへ必ず君を愛するであらう。が、萬一貧しければ母親すら君を恨むであらう」と諷刺に滿ちた詩を作つてゐる。最後に Œnoande の Diogenes は「予の所見に從へば、人類は百般の無用の事に百般の苦楚を味つてゐる。……予は既に老人である。生命の太陽も沈まうとしてゐる。予は唯予の道を教へるだけである。……天下の人は悉く互に虚僞を移し合つてゐる。丁度一群の病羊のやうに」と救拔の道を教へてゐる。
かう云ふ思想はいつの時代、どこの國にもあつたものと見える。どうやら人類の進歩などと云ふのは蛞蝓の歩みに似てゐるらしい。
比 喩
メタフォアとかシミリイとかに文章を作る人の苦勞するのは遠い西洋のことである。我我は皆せち辛い現代の日本に育つてゐる。さう云ふことに苦勞するのは勿論、兔に角意味を正確に傳へる文章を作る餘裕さへない。しかしふと目に止まつた西洋人の比喩の美しさを愛する心だけは殘つてゐる。
「ツインガレラの顏は脂粉に荒らされてゐる。しかしその皮膚の下には薄氷の下の水のやうに何かがまだかすかに仄めいてゐる。」
これは Wassermann の書いた賣笑婦ツインガレラの肖像である。僕の譯文は拙いのに違ひない。けれどもむかし Guys の描いた、優しい賣笑婦の面影はありありと原文に見えるやうである。
告 白
「もつと己れの生活を書け、もつと大胆に告白しろ」とは屢、諸君の勸める言葉である。僕も告白をせぬ譯ではない。僕の小説は多少にもせよ、僕の經驗の告白である。けれども諸君は承知しない。諸君の僕に勸めるのは僕自身を主人公にし、僕の身の上に起つた事件を臆面もなしに書けと云ふのである。おまけに卷末の一覽表には主人公たる僕は勿論、作中の人物の本名假名をずらりと竝べろと云ふのである。それだけは御免を蒙らざるを得ない。
第一に僕はもの見高い諸君に僕の暮しの奧底をお目にかけるのは不快である。第二にさう云ふ告白を種に必要以上の金と名とを着服するのも不快である。たとへば僕も一茶のやうに交合記録を書いたとする。それを又中央公論か何かの新年號に載せたとする。讀者は皆面白がる。批評家は一轉機を來したなどと褒める。友だちは愈裸になつたなどと、――考へただけでも鳥肌になる。
ストリンドベルクも金さへあれば、「痴人の告白」は出さなかつたのである。又出さなければならなかつた時にも、自國語の本にする氣はなかつたのである。僕も愈、食はれぬとなれば、どう云ふ活計を始めるかも知れぬ。その時はおのづからその時である。しかし今は貧乏なりに兔に角露命を繋いでゐる。且又體は多病にもせよ、精神状態はまづノルマアルである。マゾヒスムスなどの徴候は見えない。誰が御苦勞にも恥ぢ入りたいことを告白小説などに作るものか。
チャプリン
社會主義者と名のついたものはボルシェヴィツキたると然らざるとを問はず、悉く危險視されるやうである。殊にこの間の大地震の時にはいろいろその爲に崇られたらしい。しかし社會主義者と云へば、あのチャアリイ・チャプリンもやほり社會主義者の一人である。もし社會主義者を迫害するとすれば、チャプリンも亦迫害しなければなるまい。試みに某憲兵大尉の爲にチャプリンが殺されたことを想像して見給へ。家鴨歩きをしてゐるうちに突き殺されたことを想像して見給へ。苟くも一たびフイルムの上に彼の姿を眺めたものは義憤を發せずにはゐられないであらう。この義憤を現實に移しさへすれば、――兔に角諸君もブラック・リストの一人になることだけは確かである。
あ そ び
これはサンデイ毎日所載、福田雅之助君の「最近の米國産球界」の一節である。
「ティルデンは指を切つてから、却つて素晴らしい當りを見せる樣になつた。なぜ指を切つてからの方が、以前よりうまくなつたかと云ふに、一つは彼の氣が緊張してゐるからだ。彼は非常に芝居氣があつて、勝てるマッチにもたやすく勝たうとはせず、或程度まで相手をあしらつて行くらしかつたが、今年度は「指」と云ふハンディキャツプの爲に、ケエムの始めから緊張してかかるから、尚更強いのである…………」
ラケットを握る指を切斷した後、一層腕を上げたティルデンはまことに偉大なる選手である。が、指の滿足だつた彼も、同時に又相手を飜弄する「あそび」の精神に富んでゐた彼も必しも偉大でないことはない。いや、僕はティルデン自身も時時はちよつと心の底に、「あそび」の精神に富んでゐた昔をなつかしがつてゐはしないかと思つてゐる。
塵 勞
僕も大抵の賣文業者のやうに匆忙たる暮しを營んでゐる。勉強も中中思ふやうに出來ない。二三年前に讀みたいと思つた本も未だに讀まずにゐる始末である。僕は又かう云ふ煩ひは日本にばかりあることと思つてゐた。が、この頃ふとレミ・ド・グルモンのことを書いたものを讀んだら、グルモンはその晩年にさへ、毎日ラ・フランスに論文を一篇、二週間目にメルキュウルに對話を一篇書いてゐたらしい。すると藝術を尊重する佛蘭西に生れた文學者も甚だ清閑には乏しい譯である。日本に生れた僕などの不平を云ふのは間違ひかも知れない。
イバネス
イバネス氏も日本へ來たさうである。滯在日數も短かかつたし、まあ通り一ぺんの見物をすませただけであらう。イバネス氏の評傳にはCamille Pitollet の V. Blasco-Ibáňez,
Ses romans et le roman de sa vie などと云ふ本も流行してゐる。と云つても讀んでゐる次第ではない。唯二三年前の横文字の雜誌に紹介してあるのを讀んだだけである。
「わたしの小説を作るのは作らずにはゐられない結果である。……わたしは青年時代を監獄に暮した。少くとも三十度は入獄したであらう。わたしは囚人だつたこともある。度たび野蠻な決鬪の爲に重傷を蒙つたこともある。わたしは又人間の堪へ得る限りの肉體的苦痛を嘗めてゐる。貧乏のどん底に落ちたこともある。が、一方には代議士に選擧されたこともある。土耳古のサルタンの友だちだつたこともある。宮殿に住んでゐたこともある。それからずつと鉅萬の金を扱ふ實業家にもなつてゐた。亞米利加では村を一つ建設した。かう云ふことを話すのはわたしは小説を生活の上に實現出來ることを示す爲である。紙とインクとに書き上げるよりも更に數等巧妙に實現出來ることを示す爲である。」
これはピトオレエの本の中にあるイバネス氏自身の言葉ださうである。しかし僕はこれを讀んでも、文豪イバネス氏の云ふやうに、格別小説を生活の上に實現してゐると云ふ氣はしない。するのは唯小説の廣告を實現してゐると云ふ氣だけである。
船 長
僕は上海へ渡る途中、筑後丸の船長と話をした。政友會の横暴とか、ロイド・ジョオジの「正義」とかそんなことばかり話したのである。その内に船長は僕の名刺を見ながら、感心したやうに小首を傾けた。
「アクタ川と云ふのは珍らしいですね。ははあ、大阪毎日新聞社、――やはり御專門は政治經濟ですか?」
僕は好い加減に返事をした。
僕等は又少時の後、ボルシェヴィズムか何かの話をし出した。僕は丁度その月の中央公論に載つてゐた誰かの論文を引用した。が、生恰船長は中央公論の讀者ではなかつた。
「どうも中央公論も好いですが、――」
船長は苦にがしさうに話しつづけた。
「小説餘り載せるものですから、つい買ひ澁つてしまふのです。あれだけはやめる譯に行かないものでせうか?」
僕は出來るだけ情けない顏をした。
「さうです。小説には困りますね。あれさへなければと思ふのですが。」
爾來僕は船長に格別の信用を博したやうである。
相 撲
「負けまじき相撲を寢ものがたりかな」とは名高い蕪村の相撲の句である。この「負けまじき」の解釋には思ひの外異説もあるらしい。「蕪村句集講義」によれば虚子、碧梧桐兩氏、近頃は叉木村架空氏も「負けまじき」を未來の意味としてゐる。「明日の相撲は負けてはならぬ。その負けてはならぬ相撲を寢ものがたりに話してゐる。」――と云ふやうに解釋するのである。僕はずつと以前から過去の意味にばかり解繹してゐた。今もやはり過去の意味に解釋してゐる。「今日は負けてはならぬ相撲を負けた。それをしみじみ寢ものがたりにしてゐる。」と云ふやうに解釋するものである。もし將來の意味だつたとすれば、蕪村は必ず「負けまじき」と調子を張つた上五の下へ「寢ものがたりかな」と調子の延びた止めを持つて來はしなかつたであらう。これは文法の問題ではない。唯「負けまじき」をどう感ずるかと云ふ藝術的觸角の問題である。尤も「蕪村句集講義」の中でも、子規居士と内藤鳴雪氏とはやはり過去の意味に解釋してゐる。
「とても」
「とても安い」とか「とても寒い」とか云ふ「とても」の東京の言葉になり出したのは數年以前のことである。勿論「とても」と云ふ言葉は東京にも全然なかつた譯ではない。が、從來の用法は「とてもかなはない」とか「とても纏まらない」とか云ふやうに必ず否定を伴つてゐる。
肯定に伴ふ新流行の「とても」は三河の國あたりの方言であらう。現に三河の國の人のこの「とても」を用ゐた例は元禄四年に上梓された「猿蓑」の中に殘つてゐる。
秋風やとても芒はうごくはず 三河、子尹
すると「とても」は三河の國から江戸へ移住する間に二百年餘りかかつた訣である。「とても」手間どつたと云ふ外はない。
猫
これは「言海」の猫の説明である。
「ねこ、(中略)人家二畜フ小サキ獸。人ノ知ル所ナリ。温柔ニシテ馴レ易ク、又能ク鼠ヲ捕フレバ畜フ。然レドモ竊盗ノ性アリ。形虎二似テ二尺ニ足ラズ。(下略)」
成程猫は膳の上の刺身を盜んだりするのに違ひはない。が、これをしも「竊盜ノ性アリ」と云ふならば、犬は風俗壞亂の性あり、燕は家宅侵入の性あり、蛇は脅迫の性あり、蝶は浮浪の性あり、鮫は殺人の性ありと云つても差支へない道理であらう。按ずるに「言海」の著者大槻文彦先生は少くとも鳥獸魚貝に對する誹毀の性を具へた老學者である。
版 數
日本の版數は出たらめである。僕の聞いた風説によれば、或相當の出版業者などは内務省への獻本二冊を一版に數へてゐるらしい。たとひそれは譃としても、今日のやうに出たらめでは、五十版百版と云ふ廣告を目安に本を買つてゐる天下の讀者は愚弄されてゐるのも同じことである。
尤も佛蘭西の版數さへ甚だ當てにならぬものださうである。例へばゾラの晩年の小説などは二百部を一版と號してゐたらしい。しかしこれは惡習である。何も香水やオペラ・バッグのやうに輸入する必要はないに違ひない。且又メルキュルは出版した本に一一何冊目と記したこともある。メルキュルを學ぶことは困難にしろ、一版を何部と定めた上、版數も僞らずに廣告することは當然日本の出版業組合も厲行して然るべき企てであらう。いや、かう云ふ見易いことは賢明なる出版業組合の諸君のとうに氣づいてゐる筈である。するとそれを實行しないのは「もし佳書を得んと欲せば版數の少きを選べ」と云ふ教訓を垂れてゐるのかも知れない。
家
早川孝太郎氏は「三州横山話」の卷末にまじなひの歌をいくつも掲げてゐる。
盜賊の用心に唱へる歌、――「ねるぞ、ねだ、たのむぞ、たる木、夢の間に何ごとあらば起せ、桁梁」
火の用心の歌、――「霜柱、氷の梁に雪の桁、雨のたる木に露の葺き草」
いづれも「家」に生命を感じた古へびとの面目を見るやうである。かう云ふ感情は我我の中にもとうの昔に死んでしまつた。我我よりも後に生れるものは是等の歌を讀んだにしろ、何の感銘も受けないかも知れない。或は又鐵筋コンクリイトの借家住まひをするやうになつても、是等の歌は幻のやうに山かげに散在する茅葺屋根を思ひ出させてくれるかも知れない。
なほ次手に廣告すれば、早川氏の「三州横山話」は柳田國男氏の「遠野物語」以來、最も興味のある傳説集であらう。發行所は小石川區茗荷谷町五十二番地郷土研究社、定價は僅かに七十錢である。但し僕は早川氏も知らず、勿論廣告も賴まれた譯ではない。
附記 なほ四五十年前の東京にはかう云ふ歌もあつたさうである。「ねるぞ、ねだ、たのむぞ、たる木、梁も聽け、明けの六つにほ起せ大びき」
*
[やぶちゃん注:以下は岩波版新全集第二十一巻に所収する『「澄江堂雜記」草稿』である。但し、底本の新字体は私のコンセプトに反するので、恣意的に正字体に直してある。なお、底本では、編者による原稿ナンバーである「Ⅰ」が最初の行頭に示され、草稿全体が一字下げとなっている。なお、冒頭の表題風の〔 〕は新全集篇者によって補われたものと思われる。]
「澄江堂雜記」草稿
〔澄江堂雜記〕
〔あそび〕
Ⅰ
ティルデルはアメリカの庭球の名手である。まづ今日の所では彼ほどのプレエヤアはゐないらしい。僕はこの頃彼に關する福田雅之助君の通信を讀んだ。福田君の報ずる所によれば、ティルデンは病氣か何かの爲に右手の指を切斷した。公衆は皆彼の爲に技の下ることを心配した。が、指を失つた彼は一たびコオトに立つたとなると、相不變、――いや、以前よりも素破らしい當りを見せはじめた。これは抑どうしたのであるか? ティルデンは指を切らない前には「あそび」の心に住し勝ちだつた。勝敗に終始するよりもゲエムの興味を弄し勝ちだつた。しかし「指」と云ふハンディキヤツプは「あそび」の心を一掃した。彼は嵎を負うた虎のやうに全力を勝敗に集中した。つまりティルデンの強みを加へたのは全然新らたに加はつた弱みのおかげに外ならなかつたのである。――
僕は指を切斷した後、一層腕を擧げたティルデンに羨望の念を禁じ得なかつた。彼は運命の寵兒である。もし指を失はなかつたとすれば、「あそび」の心はこの名手に今日の光榮を與へなかつたかも知れない。少くと碁敵手たるジヨンストンに幾たびか一籌を輸した筈である。しかし僕は羨望の念を持ちつづけることも困難だつた。成程百戰百勝することはティルデンの名を重からしむたであらう。しかしティルデン自身の身になれば、いつも必死に構へてゐるよりは、時時は失敗を演ずるにもしろ、「あそび」の心に住し得た昔をなつかしがることもありさうである。