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德川末期の文藝   芥川龍之介
[やぶちゃん注:初出未詳。作品集『梅・馬・鶯』に所収されており、そこでは「澄江堂雜記」の『三十一 德川末期の文藝』となっている。底本後記によると、大正十四(1925)年一月一日の「澄江堂雜記」(私が便宜上、(3)としたもの)「に合わせてここに配しておく」と記されており、続くのは、大正十四年一月一日の「俊寛」である。これらは各雑誌の発行日であり、それが厳密な日付とならないのは言うまでもないのであるが、それに加えて、以上の叙述から、この作品の執筆や発表が、大正十四年一月であるという根拠は、皆無であると思われる。とりあえず、底本の掲載順序に従って、コンテンツに配することとはする。底本は岩波版旧全集を用いた。]

 

德川末期の文藝

 

 德川末期の文垂は不眞面目であると言はれてゐる。成程不眞面目ではあるかも知れない。しかしそれ等の文藝の作者は果して人生を知らなかつたかどうか、それは僕には疑問である。彼等通人も肚の中では如何に人生の暗澹たるものかは心得てゐたのではないであらうか? しかもその事實を囘避する爲に(たとひ無意識的ではあつたにもせよ)洒落れのめしてゐたのではないであらうか? 彼等の一人、――たとへば宮武外骨氏の山東京傳を讀んで見るが好い。ああ云ふ生涯に住しながら、しかも人生の暗澹たることに氣づかなかつたと云ふのは不可解である。

 これは何も黄表紙だの洒落本だのの作者ばかりではない。僕は曲亭馬琴さへも彼の勸善懲惡主義を信じてゐなかつたと思つてゐる。馬琴は或は信じようと努力してはゐたかも知れない。が饗庭篁村氏の編した馬琴日記抄等によれば、馬琴自身の矛盾には馬琴も氣づかずにはゐなかつた筈であらう。森鷗外先生は確か馬琴日記抄の故に「馬琴よ、君ほ幸福だつた。君はまだ先王の道に信賴することが出來た」とか何とか書かれたやうに記憶してゐる。けれども僕は馬琴も亦先王の道などを信じてゐなかつたと思つてゐる。

 若し譃と云ふことから言へば、彼等の作品は譃ばかりである。彼等は彼等自身と共に世間を欺いてゐたと言つても好い。しかし善や美に對する欣求は彼等の作品に殘つてゐる。殊に彼等の生きてゐた時代は佛蘭西のロココ王朝と共に實生活の隈々にさへ美意識の行き渡つた時代だつた。從つて美しいと云ふことから言へば、彼等の作品に溢れた空氣は如何にも美しい(勿論多少頽癈した)ものであらう。

 僕は所謂江戸趣味に餘り尊敬を持つてゐない。同時に又彼等の作品にも頭の下らない一人である。しかし單に「淺薄」の名のもとに彼等の作品を一笑し去るのは彼等の爲に氣の毒であらう。若し彼等の「常談」としたものを「眞面目」と考へて見るとすれば、黄表紙や洒落本もその中には幾多の問題を含んでゐる。僕等は彼等の作品に隨喜する人々にも賛成出來ない。けれども亦彼等の作品を一笑してしまふ人々にもやほり輕々に賛成出來ない。